ウィアード・ガールズ 暖かい雨雲のすきまから、月がほんの少しだけ照る、とある春の闇の中。 一人のショート・カットにセーラー服姿の天女が、建設中の摩天楼の最上階の足場の上に舞い降りた。 シュッと衣擦れの音を立てて、臙脂色のスカーフを抜き取り、上着も、マリンブルーの縁取りのあるスカートも、純白のブラもショーツも電光石火に脱ぎ捨てて、冷たい鉄骨の梁の上でくるくるくると側転し、微笑みを浮かべて喝采に応える。 遠くの高架を走る夜行列車や車のヘッドライト、街の灯りがちらちらとまたたく。 「ここはこの街で一番空に近い場所…」 「だれも見上げてなんかいないはず」 ひとしきり、プリマドンナだけのダンスを踊ったあと、 白く長い指先をぴんと伸ばして、 片足を高く上げるバレエのポーズで空を仰ぐと、一瞬雲が払われ、満天の銀河の緞帳が下りてくる。 戯れに、幻の剣を持ち、フェンシングの「突き」の格好を構えると、小さなさくらんぼもツンと上を向く。 甘い汗がほんの少し赤みのさした肌からはらはらとこぼれて輝く。 と、いったん止んでいた雨が、またぽつりぽつりと落ちてきた。 月が再び雲に隠れると、少女は突然羞恥心を取り戻したみたいに衣服を抱え、大きな梁の下に雨宿りをしようと身を寄せた。 高層ビルの合間に稲妻が走り、雷鳴が轟いて、下着を身に着けようとしていた彼女は、思わず目を閉じ、耳をふさいだ。 再び瞳を開いた時、すぐ目の前に同じ年頃の、厳しい目をした少女が立っていた。 「見つけ…」 折から激しさを増した雨に、相手の少女のブラウスはぴったりと肌に張りつき、ミニ・スカートもすらっとした太腿にまとわりついている。 「あなたが月の光を浴びていたのはたかだか五分。 いっぽう、この雨はすぐには止みそうにない。 この勝負、あったわね!」 二番目の少女はびしょ濡れのセシル・カットを掻き上げる… 「待ってレイニィ。これには訳が…」 「問答無用!」 レイニィと呼ばれた少女が両手を天に差し上げると、雨風はますます荒れ狂い、稲光りが真上で踊り狂った。 「逃げる場所を誤ったわね、ダイアナ! あたしが恐ろしかったら砂漠にでも潜めばよかったのよ!」 風雨はますます強くなる… すでに手にしていた衣服は全て飛ばされ、ダイアナは全裸のままかろうじて両手で鉄骨にしがみついている、という状態だった。 「ふふふ、いまのあなたは生身の人間。このままここから落ちればさぞかし無様で恥ずかしい骸になるでしょうね!」 レイニィが、ワインレッドのルージュを引いた薄い唇を少し歪めると、一陣の突風が渦巻いて、ダイアナを地上数十階の虚空に放り出した。 と、その途端に、彼女は一枚のポスターくらいの紙切れに姿を変えた。 「なにっ!」 意表をつかれたレイニィは思わず歯ぎしりした。 「まぁいい。もはや元に戻る力はないはず。あの姿のまま雨に打たれ、靴やタイヤに踏みつけられてバラバラになるがいい!」 そう言い捨てると、つむじ風となって姿を消した。 同じ頃、一人の青年がめくれ返った傘を元に戻そうと腰をかがめた拍子に偶然下を見て、美しい少女のヌードのポスターが落ちているを見つけた。 彼、コウイチは傘を直すのもそのままに、しばらくじっとそのポスターを眺めていたが、しばらくしてぽつりとつぶやいた。 「結構うまい…」 彼はポスターの端を持って水気を落とすと、くるくると筒に巻いて脇の下に挟んだ。 さて、とある建設中のビルのま下の道でヌードの美少女の描かれたポスターを自分の下宿に拾ってきたコーイチは、もともと自分の部屋に貼って飾るつもりはなかったので、もう一度蛍光灯の下で見てみてから、押し入れの中にでもしまっておこうと思って、巻いてあったものをちょっとだけ広げてみた。 と、その途端、光がきらめいたか、目の中にゴミが入ったような感じがして、左右の袖口で代わる代わる両目を拭った。 改めてポスターを眺めようとすると、なぜかまったくの白紙で、代わりにミニ・キッチンの隅に、ポスターに描かれていたハズの裸の美少女が、両手で胸を隠して、正座しているではないか… (これは夢だ…) 意外にも彼はすぐに事態を納得してしまった。 高校は仏教系、大学はキリスト教系の私立で勉強をしたと言う割には全くの 無宗教で、非科学的なことなんかは絶対に信じない論理的なコーイチは、とてもこんな現実があるとは理解できなかったのだ。 (じゃあ起きようかな…) そう考えたものの、少女が胸が小さく、いわゆる小さなグラマーで、さらさらの素直なショート・ヘア、顔つきも化粧っ気がなくてボーイッシュと言う好みのタイプだったから、も少し楽しめるものなら夢の世界を楽しむことにした。 「あのぅ、ぼくので良かったら服ありますけど」 と、おずおずと話しかけた。コーイチの服のサイズはMAである。 大学の近くに下宿していた頃から、近くのスーパーで服の安売りを見つけてはしっかりと買いだめしておく癖をつけていたのが役に立った。 「どれでもいいですから、とりあえず何か着て下さい」 新品の肌着やシャツなんかを後ろ向きに畳を滑らせるように放ると、彼は行きたくもないトイレに入った。 そう、紳士であるコーイチは、何と夢の中でも一応ジェントルなのだった… コーイチがトイレから出てきてみると、女の子は男ものの服とズボンを着て前と同じ姿勢で座っていた。 彼がとっさに広げたポスターのほうを見ると、白紙になっている。 (ということは、これは夢ではなくて…) 時計に目をやると、深夜の0時を少し回ったところ。テレビをつけると、いつもの局でいつもの深夜アニメの続きを放送していた。 「あの、あなたは一体誰ですか?」 かすれた声で尋ねる。 「すみません。すぐに帰ります」 「帰る、って、もう電車はありませんよ。タクシーで?」 「ええ、まぁ」 と、その時、下の道路で聞き慣れた車のエンジン音がした。 コーイチの友人で、ゲーム・センターでアルバイトしている山之内君だ。仕事を深夜番の人に交代して、いつものように帰宅する途中で寄ったらしい。 (そうか、今日はプレステの人気ゲームの発売日だったんだ… オープニングを見せてくれるつもりで…) 山之内君が気を使って静かに静かに階段を上がってくる音がした。 そしていつもの小さなノック。 (仕方がない。山之内君に相談して、彼の車でこの子を送ってもらおう…) コーイチはあっさり決断して鍵を開けた。 連載BBS小説 ウィアード・ガールズ(第5回)第4回はこのいくつか下だよ! 「やあ」 山之内君は、いつもと変わらない様子で、お構いなしにコーイチの部屋に 入ってきた。手にご贔屓のゲーム・ソフト屋さんの小さな袋を下げている。 「こんばんわ。あの、それが…」 「何か、どうかしたか?」 コーイチが振り返るとさっきまでいた少女の姿はどこにもなく、彼女が 着ていた服が部屋の隅にひとかたまりになって置いてあった。 (やはり夢だったのだろうか?) 眼鏡をはずしてみても、同じだった。ただ、例のポスターが、脱いだ服のかたわらに巻かれて立てかけられている。 山之内君は、何気なく手にとって広げて見た。 基本的には道に落ちているものなんか拾わないコーイチが、一目で気に入った一糸まとわぬ少女の姿が描かれている。驚いたことに、拾った時に比べると構図もポーズも変わっているみたいだ。 「これ、いいね。どこかで貰ったの?」 「さっき銭湯の帰りで拾ったんだ。なかなかうまいだろう」 「よかったらこれ、くれないかな?」 「う〜ん」 コーイチは悩み、ポスターの少女を改めて覗き込んだ。 気のせいか彼女は恐れ怯え慄いている表情をしているのが凄く気にかかる。 「どうしょうかな…」 「なんなら買わせてもらってもいい。いくらなら譲ってくれる?」 山之内君が見慣れた財布を取り出した。 やっぱりそれは、なにか上等のポスターみたいだから、明日朝一番に 拾い物として交番へ届けておくよ」 コーイチはボーヨーとした口調で言った。 「交番に? ポスターを? しかもこんな絵柄のを?」 山之内君は眉をしかめる。「絶対何か言われるぞ」 「それより早くゲームで遊ぼう」 二人は山之内君が買ってきた格闘ゲームで遊んだ。 夜はどんどんと更ける。 「山之内君、帰らなくてもいいの?」 あくびを噛みころし、目をこするコーイチ。 「明日は非番なんだ」 山之内君はゲーム・パッドから手を離さない。 「すまないけど、ぼくはちょっと眠らせてもらうよ。 済んだら勝手に帰って」 コーイチはパッパッと布団を敷いて横になり、三分もしないうちに寝息を立て始めた。 山之内はゲームをつけっぱなしのままにして静かに立ち上がると、例のポスターを取り上げ、部屋から出て行こうとした。 と、その途端にコーイチは目を覚まして跳ね起きた。 「自分、本物の山之内と違うだろう?」 「な、なぜ?」 「画面を見て。今日買ってきたばかりの格闘ゲームがもうエンディングのアニメーションをやっているでしょう? 山之内君がエンディングのアニメの途中で帰るなんて…」 相手はしばらく黙っていたが、やがて唇を歪めて嘲笑った。 「それだけ冴えていたら、黙って見て見ぬふりをしていたほうが怪我をしないことも分かるだろうに?」 「本物の山之内君をどこにやった?」 「本物の山之内君とやらなら、下の路地のはずれに止めた車の中で眠っている。 私が用があるのは、このポスターだけなのだ。 …この下宿、ちょっと暴れたらバラバラになってしまいそうじゃないか。 山之内に化けることが出来るほどの力を持つ謎の存在に、ただの人間が喧嘩を売るのは、決して利口ではないと思うが、どうだ?」 相手はがらりと打って変わった低い女の声で凄んだ。 普通の、特に格闘技なんかの心得のない青年なら、 「はい、どうぞお持ち帰り下さい。今夜のことはきれいに忘れることにします。 全部なかったことにして下さい」と、 調子を合わせて布団を頭からかぶり直すところだろうが、コーイチは違った。 彼は以前から下宿に訪ねてきた怪しい霊感商法のセールスマンたちや、インチキ宗教の手先なんかを、逆に目を醒ますように説得を試みるほどの正義漢なのだ。 「そのポスター、広げてみて」 コーイチは不敵な微笑を浮かべる。 相手が手にしたポスターを広げると、ずっと昔のゲームのおまけのポスターだ。 本物はいつの間にかコーイチの手に握られている。 「おのれ、きさま!」 山之内に化けていた者は、自らを光学スキャンするようにして正体を現した。 どこかの独裁国家の軍服のようなコスチュームに身を包んだ、セシル・カットの眼差しのきつい美少女だ。 「もう一度だけ言う。それをおとなしく渡せば、冷蔵庫の中にある昼のいなり寿司の残りを山之内とゲームをやりながら食うことができるのだ」 「断るとどうなるの?」 「どうなっても知らない…」 これまでのあらすじ…一人で下宿に住んでいる青年コーイチが、銭湯の帰り、 美しい少女のヌードの絵のポスターを拾って持ち帰ったところ、少女は絵から 抜け出して、また絵の中に戻った。その直後、コーイチの友人に変装した 謎の目のきつい少女がポスターを盗み出しに来る… 「もしもできるのだったら、建物の外から超能力を使ってポスターだけ盗んだはず。 それができない、と言うことは、そんな物凄い力はないんだ。たぶんこの下宿を吹き飛ばしたり、バラバラにしたりすることも無理なはず…」 コーイチは相手を見つめて言った。 さっきから降り続いていた雨は止み、いつしかまた雲の合間から月が出ている。 「おのれ!」 軍服姿の少女が瞳を閉じ、何かを念じる仕草をすると、また雲が湧き起こりかけたものの、ちぎれてなくなった。 代わりに、コーイチが少しだけ広げたポスターからは、細かい霧のようなものが広がって、白い肌をさらした少女が復活した。 コーイチが銭湯に持っていっていたバスタオルを投げると、彼女は手早く身体に巻きつけた。 「ありがとう」 少女はコーイチのほうを一瞥して言った。 …レイニィ。この世界も六十億人もの人間が住んでいる。諦めましょう」 「何を言うダイアナ! あたしはイヤだ! 一生を、絵の中と、現実とを、途切れ途切れに生きるなんて。 誰が何と言おうと『この世界が移住に適している』と報告する」 「議論の余地はないと思ってよ。わたしたちが大挙して引っ越せば、とんでもない大混乱が起きるだけよ」 ダイアナと呼ばれたやさしい顔立ちの少女は、いままで自分が入っていた白紙のポスターをレイニィに向けて静かに広げた。 「よせ、止めろ! こちらの世界へやってきたのはあたしたちだけじゃあない。 しかも、移住派が圧倒的多数を占めている。 ダイアナ、おまえがしようとしていることは反逆行為だ」 「あなたたちが焦っているのは、この紙の寿命が残りわずかだからでしょう?」 ダイアナはそれまで自分の姿がプリントされていたポスター大の紙を仲間に向かって、端から端までピンと張るようにして広げた。 コーイチは、とっさに身をかわそうとしたレイニィのくるぶしを両手でつかんだ。 「な、なにをする!」 すると、不思議なことに、レイニィの身体から、塗料の粒、または着色した砂みたいな粒子がさっーと紙に吸い取られ始めた。 「何をする! こんなことをしてただで済むと思っているのか?」 レイニィは叫び、必死で抗いながらも、ついにはダイアナの広げた紙の中に吸い込まれていって、ただの絵の中の存在になってしまった。 「ご迷惑をおかけしてすみません。月が出ているうちに帰ることにします」 「あ、あの、服、着ていってもらっていいですよ」 コーイチは唖然としつつ、落ち付いている。 「そうですか。ではお言葉に甘えて… もう二度と会うこともないでしょうがお借りしたものはちゃんと洗濯して宅配便ででも返します」 コーイチとポスターを手にして彼の服を着たダイアナは、下宿を出て下の路地を探した。 山之内がいつも止める場所に車が止めてあり、運転席で当人が眠っていた。 「おい、山之内、起きろ!」 「う、う〜ん」 山之内は寝ぼけ眼をこすりつつ背伸びした。 「いけねぇ。つい寝てしまった」 「ここに着いてから、誰か声を掛けられなかったか?」 「そう言えば… 目はちょっときついけれども、きれいな女の子に道を尋ねられて… それからのことはよく覚えていない。でもおかしいな。夢の中でコーイチ、おまえや、下宿のことを聞かれたような気がする」 「で、夢の中でどんなことを答えた?」 「あいつはキャッチ・セールスとか、怪しい勧誘には毅然としてるよ、とか…」 コーイチとダイアナは思わず目を合わせた。 「それでだ… …時に山之内、その女の子はこんなんじゃあなかった? ダイアナがポスターを広げた。 「おお、こいつだ! 一体何者なんだ?」 「それじゃあ、コーイチさんでしたっけ。失礼します」 拾った時はポスターの中の絵だった少女は微笑みながら、まるで「不思議の国のアリス」のチェシャ猫みたいに、闇の中にフェード・アウトして消えようとした。 「待って!」 コーイチは彼女の影を追うように手を伸ばした。彼の右手の先が「向こう側」の世界に消える。 「おい、コーイチ!」 山之内が思わず車から降りて、少女とともに見えないドアをくぐろうとする彼の左手をつかんだものの、すべって放してしまった。 コーイチと少女は見えなくなった。 「そんなことして、帰ってこれるという保証があるのかよ! アニメの中には、ついに帰ってこれなかったものものあること、知ってるだろ?」 山之内のつぶやきが空しく響く… 目が醒めると、コーイチは、記憶にはない場所に来ていた。 はぐれてしまったのか、別々の地点に降り立ったのか、ポスターとともにダイアナの姿はあたりにはない。 街の様子は東京に似ている。テレビでよく見る東京ドームだとか、武道館だとか、国技館にそっくりだが少し違う建物がそこここに建っていて、ビルや街路樹、公園なんかも特に変わったところはなかった。 道を行き交う人々の姿も、現代の日本と何ら変わりない。 しばらくダイアナの姿を探してみたものの徒労に終った。 (やっぱり、無理やりついて来たから、嫌われちゃったのかな?) 丘の上の公園から見降ろすと、ドーム、武道館、国技館にずらりと人が取り巻いている。服装が印象派の絵みたいにカラフルなモザイクに見えるからみんな若い連中だろう。 (人気アーティストのコンサート? スポーツの優勝戦?) ポケットの中には財布がある。パーツを買うつもりの一万円札もそのままだ。 とりあえずそこに行ってみることにした。 東京ドームもどきを十重二十重と取り巻いた若者たちは手に手に筆記用具らしきものを持っていた。友達と明るく振舞っている者もいたが、多くは深刻な表情で白紙のノートに、人の顔や全身や、動物や、りんごやみかんなどの静物をデッサンしている。 その絵と言うのが、コンビニの店員やらパチプロやらをしながらイラストレーターを目指している彼から見ても大変にうまい。 美大生…いや、それ以上の実力だ。 「あの、すみません。これは何の列ですか?」 おずおずと尋ねるコーイチを、受験生の少年少女たちはうさん臭そうに眺めた。 「キミ、からかっているのかい?」 「とんでもない、本当に知らないんです」 すると彼らはますますコーイチのことを穴のあくほど見た。 「専門は何?」 「(専門)って?」 「だから、人物だとか、メカだとか、怪物だとか…」 正直、ホッとした。(やっぱり美大の試験か何かなんだ) 「えー、一応人物を…」 「(マイ・キャラ)だね。で、晴れて合格の暁の、そいつの希望の(活動日)は?」 「活動日、って何ですか?」 「だから、晴れた日とか、月のある夜とか、雨の日とか…」 相手が詳しく答えようとしてくれたその時、長い長い列がぞろぞろと動き始めた。 コーイチは(関係ないから)どこうとしたが、思うにまかせず、人波ごと館内に入ってしまった。 ドームもどきの中は、グラウンドまで一面に小さな試験用の机が敷き詰められていた。優に五万人くらいが一度に受験できる試験場だ。 各机と机の間の間仕切りはまるでないので、これでは簡単に隣の受験生の答案をカンニングできる。 さらに客席が本来の目的に合わせて階段状になっているから、上の者は下を覗き込むこともできる。 (と言うことは、間違いなく各々得意なものを描く試験だ) それぞれ机には、15インチくらいのコーイチが見たこともない精巧なタブレットと液晶画面が合体した入力機器がはめ込んである。使いやすそうなライトペンもある。 これが人数分あるのなら、大した設備だ。 やがて五万人の若者がそれぞれの席に着いた。友人同士は並んで座り、受験票も受験番号もないところから、どうやら主催者はこの入力機器に描かれた何かからだけで合否を判定するようだ… スコア・ボード下のジャンボ・ヴィジョンが点灯した途端、ざわついていた 会場は急にシーンと静まり返った。 画面には、背広姿の気の良さそうな中年の男が映っている。 「…みなさん。たくさんのご応募・ご参加、まことにありがとうございます。 とても残念なことに、ご希望に添えるのは、このうちのほんの一握りの方々だけとなると思いますが、審査はこれまで通り厳正かつ公平に行いますので何卒ご了承下さい。 晴れて一次審査をパスされた方は、液晶画面に利き手の手のひらをかざして下さい。液晶はスキャナを兼ねておりますので、失礼ながら指紋の登録をさせて頂きます。…もちろん合格者で、ただちに(白紙)を請求される方のみです。(活動日)は整理の都合上、いますぐインプットして下さい」 五万人の顔が一斉にうつむいた。もちろんコーイチも。 画面には「晴天」「曇天」「雨天」「月夜」「強風」などの自然の要因がずらりと並んでいる。 「えー、改めて申し上げるまでもなく、(ポスター)に描かれた(もの)は、自然からのエネルギーを吸収して実体化します。我々の科学力をもってすればオールマイティに絵の中のものを実体化させることも可能なのですが、それではもしも、例えば悪意に満ちたクリーチャーなどが描かれた場合とんでもないことになりますので、わざと活動できる自然界の属性を狭く限定している訳であります」 コーイチは、ダイアナと出会った時のことを思い出して、なんとなく「月夜」のチェックボックスにチェックを入れた。 「…えー、まことに遺憾なことを申し上げねばなりません …最近、実体化した(マイ・キャラ)の中に、原作者や我々の世界に嫌気がさして、他の世界へ逃走しようと試みるものが頻繁に出現するようになりました。原因は皆さん方の努力が実って合格者が大勢出るようになったせいです。(マイ・キャラ)の数は増大し、キャラクター同士が結託して(なにかを考える)ようになったのです」 会場がどよめきに包まれる。 「…ご心配なく、合格者の数を絞ろうなどとは考えておりません。 そこで今回の試験の問題ですが…」 5万人の受験生が固唾を飲んだ。 「…(追跡者)。情け容赦のないトレーサーです。人型、獣型、化け物、何でも構いません。制御不能な不埒なキャラをハンティングするものをお願いします」 試験開始の電子音が鳴って、液晶の隅の時計がカウント・ダウンを始めた。 会場を埋め尽くした五万人の手が動き出したが、中には宙を仰ぎ、ライトペンの端を口にくわえたままの者もいる。どの世界も同じだ。 「楽勝だよな」 「予備校の予想とドンビシャリ…」 「これだったら考えてきた」 そこここで私語が囁かれる。暢気と言えばのんきな試験だ。 コーイチは液晶を兼ねたタブレットに筆を走らせ、ダイアナを描き始めた。 全てをリセットするボタンがあるのは確認済みだ。 かねがね(最低の奴ってたくさんいるけれど、中でも友達を売るような奴は「最低の最低」だ)というのが信念だったから、そんなものは絶対に描くつもりはなかった。ただ、両隣数人が一所懸命描いているのを察して、ぼーっと何もしないのも迷惑だろうと思って、適当に、手を動かしていた。 ダイアナは、すでに試験に合格して(白紙)をゲットした誰かがそこに描いたヒロインだ。だから、それをそっくり真似して描いたら、間違いなく失格するはずだ。これだけの文明を持った世界なら、合格者とその作品は全て登録されていて、「予備校ネット」などで配布されているに違いない… 他の受験生のように目を血走らせることもなく、つらつらと気楽に作業していると、不思議なことに自分でも大満足の出来映えとなった。 もともと彼は、絵でも何でもじっくりと腰を据えて考えなければ手をつけられないたちで、試験のように「あーしろ、こーしろ、早くしろ」とせきたてられるのは苦手で、実力を発揮しにくいタイプなのだ。ところが… ハードウェアもソフトウェアも実に快適で、始めての彼にでもすらすらと扱えた。 (これならガンダムだって、動かせるかも…) 仕上げの色を塗りながら、コーイチは一人でにやにやしていた。 逆算時計が次第に0分に近づいてきた。 (お名残惜しいけれど、それじゃあそろそろ、おいとましようか) 短時間の割りには傑作となったイラストを、反転させてデッサンの狂いをチェックしていたコーイチが「オールクリア」の「リセット・ボタン」に手を掛けようとした。 「待って下さい」 後ろで声がしたので振り返ると、制服に身を固めたいかついガードマンが二人、いつの間にか彼の席のすぐ後ろに立っていた。 「…ちょっと別室に来て頂けませんか?」 「何ですか?」 コーイチは構わずリセット・ボタンを押したけれど、消えるはずの絵は消えなかった。二度、三度押しつづけても同じだった。 「どうか、一緒に来て下さい」 と、その時、終了を知らせる電子音が鳴った。 コーイチはおとなしい性格で、原チャリに乗っていて検問にひっかかったりしても必ず止まるのだけれど、この時ばかりはおとなしくついて行くふりをしていきなり駆け出した。 「待てこらっー!」 ガードマンのうちの一人は追いかけてき、もう一人はウォーキートーキーに向かって何かを叫んでいる。 「…受験生の皆様、大変お疲れ様でした。早速結果を発表させて頂きます…」 ジャンボ・ヴィジョンと、机に備えられた液晶の全部にあの男が現れてニコニコ顔で喋り出した。 「…本日の合格者はお一人です…」 会場を埋め尽くし五5万人の若者たちから一斉に溜息とも嘆息ともとれない声が漏れた。その後はもちろんかまびすかしい私語の渦… 「…順序よく、押し合わないように退出して下さい…」 案内の声は女性のそれに変わっていた。 大多数の受験生が一斉に席を立ち、通路へと向かいかけた。彼はその人ごみにまぎれ、押しのけ、かき分けて走った。 前のほうに別のガードマンが見えると、素早く脇の通路に逃れた。 コーイチは土地勘がいい。一度でも通った道は、路地でも劇場の通路でもほとんど覚えている。対するガードマンたちはこの試験場の警備のためだけに臨時に雇われた者ばかりだったようで、右往左往している。 「出口を封鎖してチェックしろ!」 命令が行き渡った頃には、この世界のイラストレーターの卵の一群と、堂々とゲートの一つから外に出ていた。 (あー、ヤバかった。…でも何を咎められかけたんだろう? 絵を描いているあいだにも指紋とかがスキャンされていたかなにかでぼくがここの人間でないことがバレたんだろうか? それとも…) 彼はハッとした。 (そうか… そうかも知れない… きっとそうだ。なんてうかつだったんだ!) 逃げ出した後は無我夢中だった。 顔を覚えられたかもしれないので、なるべく一人にはならず、無理に 試験場から出てきた一団とくっつくようにして、満員電車に乗り、乗り換えか 何かで大勢が降りたところで、一緒にくっついて降りた。 「…武道館で行われた音楽の試験では、三人も合格者が出たらしいよ」 「小説と、シナリオと構成は、百人以上がパスしたってさ」 携帯電話片手に、そんな噂話に花を咲かせている。 「活字の連中は、あちこちの大学の校舎を貸し切りにしても入りきらないくらい…百万人以上の応募者がいたそうだからなぁ…」 「話なんか、その気になったら、誰でも作れるから…」 紙幣もコインも、コーイチが生まれ育った現代日本と全く一緒で助かった。 だが、どこか何かが変だ。 まず電車の吊り広告や駅の広告。コミック雑誌の広告ばかりだ。 描いている作家は、もちろんコーイチが聞いたこともない先生ばかり… 出版社の名前も、ありそうでなさそうなもののオンパレード… ただ、作品のテーマは、サラリーマンものとか、スポーツものとか、アブない少年少女が暴れるものとか、とりたてて珍しいものはなかった。 自動販売機の飲料も、ファースト・フードの店も、同じで、違う… 秋葉原に似た電気の街で売られているパソコンを見て驚いた。 CPUは2000メガヘルツ、メモリーは1ギガが標準。ハードディスクは100ギガ前後、 タブレットやスキャナを兼ねた液晶が付いたものが20万円前後で売られている。 最新のホログラム・モニターを装備したものは100万円前後。 宣伝をしているのは、本物そっくりの美女のホログラムたちだ。 試しに手を伸ばしてみると、胴体の中に突き抜ける… 質問をするとちゃんと答えることは答えるのだが、明らかに映像と分かる。 ダイアナやレイニィたちとは違う、少々安っぽいものだ。 OSは… 「ウィンドウズ2020!」「マックOSX」 いろんな画面が瞬間的に切り替わる… (しめた!)コーイチはすかさずデモ機でニュースの項目をクリックした。 「日本のアニメ、コミック、CG、音楽などを含めた全ヴィジュアル・ソフトの輸出額、 ついに自動車やパソコンなど、ハードの輸出額を上回る…」 「日本の番組プログラムの世界席巻率、かつてのハリウッド映画以上となる」 「アメリカ、日本製アミューズメントの輸出超過に課徴金」 「中国、ヴィデオ・プログラムに100パーセントの関税」 「首相、(日本ソフト立国)宣言…」 「各メディア・プロバイダー間の競争熾烈」 「(アーティスト認定試験)に全国で合計二百万人が受験」 「政府、(立体ホログラム広告)のうち、(キャラクター・ホログラム)による広告の規制の検討を始める」 (…………)どうも、彼がやって来たのは、ローマ帝国もまっさおの、 スポーツなどを含めた究極の「娯楽社会」らしい… (すると、各アーティストは言わば古代の「剣闘士」? さっきの試験はイラストの「戦士」を選抜するイベント?) 彼はこういうパソコン・ショップではよくねばるほうで、何かに夢中になると、夜の閉店時間近くになっていることも常だった。 ふと気がつくと、彼は数人の警官隊に取り囲まれていた。 警官たちは、液晶のモニターの付いた電話で本部と連絡を取り合っている。 「こいつだ。間違いない…」