プロヴィデンスに星墮ちて

                1

  僕はこのごろ、よく夢を見るようになった。
  それも、怖く恐ろしい夢ばかりだ。ヴェルヌの火星人、ギリシア神話のサイクロプスやテュポーンやミノタウロスといった怪物たち。神曲の差し絵の中のゲリュオン。ポーの赤死病の仮面、「エジプト発掘記」の挿画、「アフリカ自然誌」のそれ、中でも「海棲生物図鑑」に原色で描かれた蛸や烏賊、磯巾着や海牛や悍ましい深海の者共は、夢の中で本からその忌わしい触手や触腕で伸ばして、僕の身体を捕まえようとする。僕は深淵の闇の中を懸命に逃げるのだが、ついに追いつかれて、黯黒星の彼方に連れ去られる…
  渺茫とした氷原の中心には、緑柱石の石柱に囲まれ、玻璃でできた光り輝く瑰麗な都があり、住人である蜥蝪に似た匍蔔生物が…
──いや、もうやめよう。
  母は「本の読み過ぎよ」と言うけれど、母も父の死以後、夢にうなされているみたいだ。僕の夢以上の悪夢に。
  窓から外を見ると、破風のついたコロニアル様式、もしくはジョージアン様式の家が軒を並べている。何の変哲もない、平和でのどかな町並が続いている。巷の人々はマッキンリー大統領が暗殺された話とか、ドイツで建造されたツエッペリン号の話をしているが、僕はそんなことには興味はない。問題なのはニューイングランドに二等移民がどんどん流れ込んでいることだ。このあいだも街で黒人を見つけた。しかも道のまん中を堂々と歩いていた。祖母の若い頃には考えられなかった光景だろう。
  祖母と言えば、僕が夢に追われるようになったのは、祖母の死、からだ。
  うんと幼い頃から祖母は、全てに於て僕を庇ってくれた。曰く
「フィリップは悪くないのよ」「フィリップはまだ小さいから…」「フィリップは身体が弱いのだから…」
  エインジェル通りの前の屋敷の書庫を開いてくれたのも祖母だった。遥か遠き日のアラビアン・ナイトやグリム童話は、戸外で遊ぶことの少なかった僕に、どれほど世界を広げてくれたことか…
  だけども、脳漿じゅうに満ち満ちた物語は、ついには溢れ出すようになった。窮屈なスーツを着て椅子に座りオートミールを食べている時も、古代ローマの寛衣に身を包み、寝椅子食堂(トリクリニウム)で飽食を続ける幻影が現実の放逐を試みるのだ。
  地震など、本の中でしか体験したことがないのに、時折他人には決して感じることがない大小の揺れを感じる…  それが東洋の小さな島国で数年先に起きる地震なのか、南太平洋ポナペ島の沖合で発生する島嶼の爆発崩壊なのか分からない。
  でもこれだけは言える。
  過去か、未来に出来事は必ずあったんだ。僕は心の中か夢でそれを見、聞いた。蒼天に喨喨と鳴り響くアトランティスのオリハルコン製の鐘(カリオン)の音のように…

                2

  昨晩、僕はプロヴィデンス東側の丘陵地帯、カレッジ・ヒルのまだ向こうに星が堕ちるのを見た。
  夜、起きていて、中庭に向かった窓越し、ピルグリム・ファーザースが建てた尖塔や、ブラウン大学の赤煉瓦の建物越しに、赤、金、紫、濃緑、神秘的な菫色に変光しながらまっすぐに堕ちる星を。誠の隕石だったのか、それともまた夢の中での出来事だったのか定かではないが、いつかどこかで見たことのある色──冬の黙示録的な夕陽に染められて反射するわが街の屋根や円蓋や塔の色──に似ていたところからすると、やはり夢だったのかも知れない…
  隕石は確かにマサチューセッツ州のダニッチと呼ばれる古い小さな廃村のあたりに落ちた。角度や目印になる街の建物もはっきりと覚えている。こんなに明晰な夢は、僕にも珍しい。
  ダニッチ村については、祖母が声を潜めながらもよく語ってくれた。
「フィリップや、大きくなって友達から冒険に誘われても、あの山、あのダニッチ村にだけは行ってはいけないよ」
「何故?」と聞き返すと、祖母はしばらく言葉に迷った末にこう答えた。
「あそこにはその昔、怖い魔女とその下僕たちが巣喰っていたのだよ。偉大な牧師コットン・マザー様が退治されたけれども、暗黒の力はいまも残っていて、近付く者を地獄に引きずり込むんだ」
  魔女もコットン・マザーも、地獄も恐らく嘘だ、と思った。祖母は僕の年齢を考えて一番良く分かるように説明しただけだったのだ。「そこ」には多分彼等以上に忌わしい者共がいたのだ。──いや、きっといまもいるのだろう。
  ダニッチ村、呪われた人々の村インスマス、時空のはざまの街アーカム──なにしろ、そこにあるニスカトミック大学の図書館には、狂えるアラビア人アブドゥル・アルハザードが著した『死霊秘法』があるのだから、それだけでも忌まわしいと言わねばならない。ここプロヴィデンス周辺は、バビロンやテーベやカルナクやオフルやメロエなどに十分匹敵する、異なる世界との接点と言える。
  僕は姿見を見た。
  鏡の中にいるのは、痩せた、色の白い、神経症的な少年だ。少年は祖母が生きていた頃に買ってくれた金ボタンのついた青いブレザー、赤い蝶ネクタイに黒のズボン吊りといった姿で、まるで別人のようによそよそしくこちらを見つめている。
  姿見の向こうは、母方の父や祖父の使っていた書斎で、ドレの挿画のついた「神曲」などが並べられたそのさらに奥には、ダレット伯爵の「屍喰教典儀」や「ナコト写本」「ルルイエ写本」の写しが無造作に保管されている。さらにその向こうの壁の漆喰には、無数の鼠たちが巣喰い、屋敷とそこに棲む者の魂を蚕食している。そしてさらにその向こうは、プロヴィデンスの鉛色の空、さらにさらに向こうは果てしない別世界へと続いている…
  プロヴィデンスの山の彼方に墮ちた星は、独楽のように激しく回転しながら七色に輝きながら、周りの景色をありふれたニューイングランドの鬱蒼とした森から、貴橄欖石をちりばめた別世界に変えていた。
「行くんだフィリップ!  行かずしてどうする?」
  鏡の中の少年が言った。
「君が行かないのなら僕が行くぞ。僕が行ってしまったら、君はどうなると思う?」
「僕も行く」
  僕は答えた。
「僕が行けば、君も行くことになる。そうだろう?」
  鏡の中の僕は薄靄の中で飛び跳ねた。
「それならいい!  そうこなくっちゃあ!」
  僕は踵を返し、朽ち果てかけた樫の床をきしませながら歩き始めた。
  またぐらぐらと視界が揺れる。また僕だけが感じる地震なのだろうか?
  世界のどこかで津波が起こり、南の島の環礁を洗っている…  原住民は海底の神を畏れ慄き、火山の火口に次々と生贄を投げ入れている…
  海溝から湧き上がった瘴気が気流に乗って、怪電波は電離層で反射して、世界の隅々に広がる。ここプロヴィデンスにも…
(急がなければ…)
  あいつらの復活は近い。行ってどうなるものでもないことは分かっている。人の分際ではどうしたところでとても奴等に太刀打ちできない。しかし行って見届けたい。
  色褪せたいやに重たい扉の、緑青の吹いた真鍮のノヴに掛けた手は、いつもの冷たい感触ではなく、煮えたぎる生命の熱きたぎりを感じた。
  ノヴには鍵が掛かっていた。そう、いつも母の腰にぶら下がっている美しい銀の秘鑰。「フィリップ、あなたは身体が弱いから、きつい太陽の光に当ってはだめですよ」
「フィリップ、お友達と遊ぶのは少しにしておきなさいよ」
「フィリップ、夜中にお庭やお屋敷の外に出てはいけません」
  フィリップ、フィリップ、フィリップ!
  本当に鍵が必要なのは、お母さんのほうなのに…
  瞳をきつく閉じ、頭を激しく振った。再び目を開くと、ピカピカに輝く小さな銀の鍵が球状のぼんやりとした霞に包まれて、手を伸ばせば届くところに浮かんでいた。
  そうさ、銀の鍵はお母さんが持っていたんじゃない。始めからずっとここにあったんだ。僕の心の中に!
  だから手に取る必要も、まして鍵穴に差し込んで回す必要もありゃしない。
  僕は無限の窖に向かう勇者のように、階段を降りた。壁の中の鼠が一斉に騒ぎ立てるがそんなことはめじゃない。
  拱門(アーチ)型の玄関のホールに出ると、なぜか篝火がパチパチと燃え上がっていた。炎は弓隆天井を照らし出し、白亜は陰が揺らめいていた。
  マホガニーのテーブルには、火の点った角灯が置かれてあり、手に取ると鯨油の臭いがした。
  玄関の扉は立つだけで音を立てて開き、一歩外へと歩み出すと、さらに一層大きな音を立てて閉じた。
  振り返ると、蔓に覆われた蒼古とした屋敷が、もともと勾配の急な尖り屋根をさらに一層不気味にそびやかしながら、黄金色の月光に映えていた。
  と、隣家とを隔てる化粧煉瓦の塀の上に、黒いしなやかな生物が蠢いた。
(サミュエル・パーキンスだ!)
  僕は心の中で快采を叫んだ。
  無明の深遠より来たりし使者。優雅な闇色の天鵞絨を纏いし魔族の末裔。九つの魂を持ち此岸彼岸を越える獣。狼よりも優雅で孤独で、虎や獅子よりも賢くしなやかな生き物…
  サミュエル・パーキンスは、まるで今宵この街の近くに星が墮ち、世界全体がさんざめいていることを喜んでいるかのように琥珀色の瞳を輝かせ、身体を伸ばしながら「にゃおーん」と長く哭いた。
(そうか、おまえも嬉しいんだね。一緒に来るかい?)
  心の中でそう声を掛けると、黒い小さい獣は人の顔の形の斑紋のある満月草の花壇に飛び込んで消えた。
  誇り高いサミュエルは、他の同類と同じように人間に擦り寄って媚を売ったりはしない。しかしその眼は常に宇宙の星星の果て、時空の彼方を見つめている。なぜなら、そここそが彼の真の故郷であり封地であり、世界だからだ。
(行こう一緒に、サミュエル!)
  僕には分かっている。サミュエルもまた隕石の落ちた場所に向かうことを。いや、僕やサミュエルだけじゃない。化け物鼠ブラウン・ジェンキンも、プロヴィデンスはもちろん、アーカムやミスカトニックやインスマスじゅうの闇の使徒たちが、墮ちた星目指して歩き走り飛び、空間をねじ曲げ出したことを。
  振り返るとそこには、巨大なドーリア式に似た彫刻を施した象牙の門があった。これまで何度も見た時空を隔てる門だ。装飾はイオニア式であったりコリント式であったり、古代ペルシア風であったり、どの美術史の本にも載っていないまがまがしい海底の生物を描いたものであったりする。
  今夜は、トロイア戦争から凱旋したアガメムノン王を迎えるためにシラクサに建てられたそれのような、白く美しく、円柱のまっすぐな直線が大きな黄金色の月に向かって伸びるものだった。
(やはり今夜は特別の夜なのだ)
  僕の胸はカルカッソンヌの寺院(テンプル)の早鐘となって立ち込め始めた墨色の霧を波立たせた。
  一歩大通りに出ると、そこはもうプロヴィデンスではなく、ミスカトニック川の流れる街アーカムだった。
  真夜中だというのに、通りには大勢の影が出て、ゆらゆらとゆらめいている。人の形をしたものもあれば、天の狼やサミュエル・パーキンスの仲間も、あるいは、ぐにゃぐにゃとしていてまるで形を持たない物もいる…
  チンチンとベルの音を鳴り響かせて、靄の中から路面電車がやってきた。アーク灯が点っているところからすると、どうやらここは停留所らしい。
「セント・メアリ病院前」
  錆びた標識には古風な書体でそう書かれている。
  気が付くと回りには数人の乗客が三三五五集まってきていた。顔の半分が美女で半分が骸骨の女。白い頭巾の合間から魚臭い臭を漂わせ、鱗がべったりと張りついた頬を垣間見せている者、死体と思える灰褐色の顔をした臨月の妊婦…
  路面電車がやってきた。行き先が書かれた札には「キングスポート〜アーカム経由〜インスマス」とある。
  僕は共に待っていた連中に混じって電車に乗り込んだ。
  電車には乗客は誰も乗ってはいなかった。
  さっき一緒に乗り込んだはずの者たちもどこかへ消えてしまっていた。
  明滅する濁った黄色の白熱灯に照らし出されているのは、擦り切れたコーデュロイのクッションと饐えた空気だけだった。
(星の墮ちたところに行きたいんだ)
  僕は願った。
  でも、星の墮ちたところ──ダニッチ村のあたりへは、こんな電車なんかでは行けやしない。
  星は山に堕ちた。路面電車は山なんかには行かない。
  ガタンゴトンと車輪がレールに触れる音がするところから、電車は確かに動いているのだろう。
(できるだけ近いところで降りなくちゃ)
  運転席へ歩いていくと、そこにはちゃんと制服を着た運転手がいた。筋の入ったズボンも、ネクタイも見慣れたものだったが、ただ顔だけがゼリー状でノッペリしていて、頭頂部からは同じ物質の触手が伸びていた。

                3

  気が付くと丘陵地帯の山裾のぬかるんだ道を歩いていた。遠く仰ぎ見る山の中腹あたりには、墮ちた星が様々な色に変光し、グラデイションしながら、文字通り五芒星形に輝き、その周りの木木は焼け落ちたのか消滅したのか、こころもち禿げていた。上空には、巨大な蝙蝠とも翼竜ともつかぬ者たちが弧を描いて舞っていた。
(行かなくちゃ!  一刻も早く行かなくちゃ!)
  水たまりに足を取られ、けつまづいて転んで、服もズボンも顔も泥だらけになった。
(しまったなぁ…  これからだ、って言う時に…)
  瞳を上げると、古ぼけた民家があった。
二○○年前に清教徒たちが建てて打ち捨てられた木造の、破風と切妻のある農家だ。
  扉の蝶番がギイーッときしんだかと思うと、一人の恐ろしく腰の曲がった皺だらけの老婆が現れた。その姿は昨年召天した僕の祖母に驚くほどよく似ていた。
「おばあちゃん…」
「おやおや、慌てるからだよ。走る時は足元をよく見なければ」
  優しく決して叱らずなじらない口調も、祖母にそっくりだった。
「でも──」
「おまえの気持はよく分かるよ。星が墮ちたんだね。全く星が墮ちるなんて、何百年ぶりのことだろう!  きっとナヴァホやイロクォイ族の占星術師も気が付いただろうね。
  もちろん他の魔導士も魔物たちも、欣喜雀躍してこちらに向かっていることだろうね。
  でも安心をおし。肝心の儀式は、司祭様が来ぬ限り始まらぬのだよ」
「おばあちゃん、生きていたんだね!」
  僕は祖母と再会できた嬉しさに、星のことはしばし忘れていた。
「あたしはおまえのおばあちゃんなんかじゃないよ。あたしはアーカムの大魔女、メーソン・キザイア様さ!」
「僕を覚えていない?」
「ところが覚えているんじゃよ、これが。
  今夜のように凶星が連なったとある夜に開かれた魔女たちの集まりに、確かにおまえさんは来ておった。ただし今みたいに小さな子供の姿ではなく、蒼白い顔で背丈のひょろ長い青年の姿をしておった。記憶が定かではないが『ランドルフ・カーター』とか名乗っておったな。そやつ、どこかの幻の都の玉座に着いておったはずじゃが…」
  僕も彼女のことを懸命に思い出そうとした。
  なるほど、奥の台所でぐつぐつと煮立っている大釡から漂ってくる臭いは、マンドラゴラや人を始め様々な動物の屍体や、硫黄などの鉱物を混ぜ合わせた異様なものだ。おそらくホムンクルスでも造るつもりなのだろう。
  ランドルフ・カーターの名にも懐かしさを感じる。間違いなくいつかどこかで何度も聞いた名前だ。
(ランドルフ・カーター、ランドルフ・カーター、ラランドルフ・カーター…)
  心の中で反芻しているうちに、魔女キザイアが言う通り自分の名に思えてきた。と同時に、キザイアにも別の名前があることを悟った。僕の祖母の名以外に。
「早く汚れた服をお脱ぎ。おばあちゃんが洗ってあげよう」
  言われるままに裸になり、子供がいる気配などまるでないのに朽ち掛けたテーブルの上に用意されていた服を着た。
  何かこの世界のものならぬまがまがしい色柄の腰布と冐り物とビーズの胸飾り…
  エジプトの少年王子の衣装に似ていなくもないが、より古い。多分同じく太陽を崇拝するムーかアトランティスの高官の正装だ。
「…星のかけら、トラペゾヘドロン。ダゴンの鱗…」
  キザイア、おばあちゃんは当惑している僕など見向きもせずに煮立ち吹きこぼれる釡を龍の大腿骨でかき混ぜていた。
「おばあちゃん──もといキザイアさん、それは一体何?」
「御馳走じゃよ」
「何の?」
「もちろん星が墮ちたお祝いさ」
「誰が食べるの?  あちこちから集まって来た奴等?」
「いや、とんでもない!  残念ながらこいつは有曾生無曾生に振る舞うほどの量はないのでね。『星のお方』にだけじゃが、これでも足りてご満足頂けるかどうか…」
「ということは、僕は食べなくていいんだね?」
「無論おまえは食べなくてもいいんだよ、ランドルフ・カーター──いや、フィリップ。第一おまえはこの料理の最後の材料なのだから」
  僕が悲鳴を上げるのと、キザイアが長く伸びた鉤爪を振りかざして迫ってきたのはほぼ同時だった。
  腐り落ちた漆喰の壁に沿って逃げようとしたものの、とても老婆とは思えない速さで迫ってきたキザイアに、たちまち両肩を掴まれてしまった。
  太古の王子の衣装越しに、生暖かい血が流れるのを感じた。
  魔女は莫迦みたいに力が強かった。
(きっとこの姿は仮の姿なんだ。本当はおばあさんなんかじゃなくて、何かとてつもなく恐ろしい怪物なんだ)
  薄れぼやけて行く目で狭くみすぼらしい小屋のたった一つの木戸を見たけれど、たとえ幸運にもあそこまでたどり着いても、きっと魔法の鍵がかかっているのに違いなかった。
  おばあちゃんの姿をした「もの」は、片手で僕の首を締め、そのまま煮えたぎった釡の真上まで持って行った。
  湯気でかすんだその手は、もはや皺だらけの骨ばった手ではなく、太い木の枝ほどもある先の尖った鱗に覆われた逞しい腕だった。
  釡の臭気はますます凄まじく、あと一息吸い込めば死ぬと思った。
「仕上げは生きたままの『夢の司祭』じゃ」
  この土壇場で、相手がまだ何故人間の言葉を喋っているのか奇異に感じ、もう一度だけ目をカッと開いてみた。
  すると腕や身体は爬虫類や両生類を思わせる鱗やブヨブヨの固まりになっているのに、顔はまだ、祖母の面影を残す人のものだった。「おばあちゃん、やめて!」
  声にならない声を振り絞った。
  するとどうだろう、醜い姿の化け物は、
ショールに毛糸の膝掛けを纏った、典型的なニューイングランドの優しい老婆の姿になった。
「フィリップ…」
  いつしか皺と染みだらけの人の手に戻っていた腕が緩んだ。
  僕は魔女の手を必死で振り払い、彼女の曲がった背中に回り込み、段々になった脊椎を掴んで釜の中に放り投げた。
  自分でもどうしてこんな力が出たのかよく分からない。その瞬間魔女の身体はがらんどうのように軽く思えたのと、とても信じてもらえないだろうけれど手品師たちの言う念力が使えた気がする。
  キザイアはごぼんという鈍い音を立てて、釜の中の汚物の中に沈んだきり、手も足も頭も浮かんでこなかった。「料理」と表したものの上には彼女の脂と思われる緑色のギラギラとした被膜が次第に広がった。
  ホッとして、ゆっくりと後じさりながら台所から出た。小さな小屋だったので、ただ一つの出入口である木戸は、もうすぐ背中にあるはずだった。
  不思議なことに、着せられた奇妙な衣装はいつの間にか元のスーツとズボンと蝶ネクタイに戻っていた。
  小屋と竃と釜以外は全て夢だったようなそんな気がした時、肩を後ろから掴まれた。
  脳天に痺れが走り、腰が抜けた。
  覚悟を決めてゆっくりと振り返ると、そこには予想通りのものがいた。
  皮膚が溶け去り、筋肉と内臓が剥き出しになった物体…  ただしそれは明らかに人間とは違っていた。ところどころに寄生虫のような大小様々な形の触手が生え、ところどころに固まってある透明な繭玉のようなものの中では、始源の昆虫の幼虫がもぞもぞと蠢いていた。
  そいつは「ゴボゴボ」と声ならぬ声を立てた。「フィリップ…」と聞こえる。
  見たくないはずなのに、大きく目を見開いて、その名状し難いものをまじまじと見詰めた。
  小柄で曲がった背中。そして愛情、どう考えてもおばあちゃん=キザイアだった。
  どこからどんな風にしてあの煮えたぎった釜から出てきたのか分からない。第一、僕は釜を見ながら後じさってきたのだから、何かが這い上がってくれば見たはずだった。
  なのに「これ」はいきなり僕の後ろにいる。
  何かの魔法であることは疑いない。
  僕は原生動物の群体に似たその腕を再び振り払った。今度はたやすく逃げることができた。どうやら奴は奴なりに打撃は受けているらしい。しかし回復は時間の問題だろう。見ている前でぬめった皮膚がじょじょに再生して呪われたはらわたを覆っていく…
(早く倒さなければ…)
  エンジェル通りの屋敷の書庫にあった「魔女の倒し方」を懸命に思い出した。
  方法はいくらかあるが、最も代表的で簡単なものが、「本名を語る」ことだ。
  魔女は皆魔王と契約する時に、人間の名前ではなく、魔界での名前を貰う。その名前は絶対に秘密で、たとえ仲間の魔女にも語ってはいけないとされる。なぜならその名を告げられれば、全ての時空の世界から自分の存在が完全に消滅するからだ。逆に言うと、魔王はこうして、元人間の下僕の魂を掌握する。
  僕はキザイアの本名を考えた──というより思い出そうと試みた。ロードアイランド州プロヴィデンスとマサチューセッツ州アーカム、おばあちゃんと魔女キザイア、そして僕ハワード・フィリップス・ラヴクラフトとランドルフ・カーターとか言う夢の世界の放浪者。これらは全て次元の隔壁をはさんで隣り合い、向かい合い、交錯しているらしい。
  どちらが真でどちらが夢の世界なのか確かめるべくもないけれど、とにかく目の前のこいつだけは倒さなければならない。
  そうさ、僕は墮ちた星を見に行くんだ。こんな廃家でこんな訳の分からぬ下っ端魔女と関わりあっている暇などないはずだ。僕はもっと凄い、全宇宙、全次元の支配者たる者たちに会わなくてはならないのだ。
  そう考えると、身体じゅうから不思議な力がみなぎってきた。
  ローマ時代、勇敢な百人隊長として荒涼たるブリタニアに赴任していた僕、ムーやアトランティスの大魔導士や書記として栄華を極めた諸都市を大陸ごと沈め、太古の人類が到達した最高の叡知を「エイボンの書」に編纂した僕、地球の創世紀に龍人であった僕、煮えたぎる海を漂うゼリー状の腔腸生物であった頃の僕の記憶が甦ってきた。
  奴の再生の速度が早くなった。
  膜を破って成長する触手は強靭かつ一本一本が残忍な意思を持っている様子だ。羽化寸前の怪虫たちの口には、早くもずらりと並んだ鋭い牙が生え出していた。
(早く、早く思い出さなければ…  奴等が自由になると、宿主を倒しても何の意味もなくなる…)
  記憶はあった。ランドルフ・カーターと呼ばれる人格と意識の中に。
  煌煌と輝く満月がストーン・ヘンジを渡る夜。イングランドの魔宴(サバト)。
  箒にまたがって押し寄せた魔女たちの中に僕の姿はあった。
  魔女たちに僕の姿は見えないのか、それとも栄えある賓客扱いなのか、誰もが頓着しない。
  長い呪文の連祷が続いた後、やがて宴は新入り魔女の命名式になった。
  いつの間にか月から降り立った痩せて髪の黒い中背の男が、一人一人直々に宇宙に通用する名前を授ける。
  僕は抑え難い気持で列に並んだ。
  後ろをチラリと振り返ると、見覚えのある魔女がいた。どうやら彼女についてここにきたらしい。
  順番が来た。間近で見る魔王は、オリーヴ色の膚をし、並み外れて広い額を持った整った顔立ちの男だった。髭は剃り上げられていたが、顎の生えはじめは青味がかっていた。髪は漆黒で、ありとあらゆる知性の結晶のような瞳を持っている。
  まさしく永久に仕え学ぶに相応しい者だ。
  それは僕にハワード・フィリップス・ラヴクラフトでも、ランドルフ・カーターでもない、全く新しい名前をくれた。その名は掟に従ってここでは言うまい。
  一礼して下がり掛けた僕の耳に、僕の後ろの魔女の新しい名前が何故か聞こえた。
  どうやら奴に忠誠を誓ったお陰で新しい能力を授かったらしい。いつかどこかで必要になるであろう知識、普段は決して使われることのない脳髓の眠れる部分、その奥の奥にしっかりと格納されてあった名前が、鮮やかなラテン語の文字と、音になって甦った。
(「ナハブ」そう、「ナハブ」だ!)
  僕は瘴気が立ち込めているにも関わらず大きな深呼吸をすると、穏やかに、しかしはっきりと、目の前の変態を続けるものに告げた。「おまえの名はナハブだ」
  キーッとガラスを爪で引っ掻くような嫌な音がして、そいつは一瞬のうちに溶け始めた。
  触手も怪虫も逃れることはできない。
  本体が急速に腐り崩れるのに巻き込まれてそいつらも汚物に変わった。まだ逃れて飛び出せそうな様子のものがいたので、無意識に身構えていたが、杞憂に終わった。
  扉がバアーンと大きな音を立てて開き、壁のあちこちが外の世界のほうに向かって崩れ倒れた。
  魔女キザイアだった汚物は本来の棲み家である地の底目がけて吸い込まれて消え去り、後には二○○年の風雪を経た廃屋だけが残った。
  胸の動悸と吐き気と服に付いた泥を除けば悪夢のようだった。
(星は…?)
  山の中腹には、墮ちた隕石が明滅しながら独楽のように回転し、色とりどりの光の粉を撒き散らしている。より集まった者共の数も増えているようだ。
(急がなくちゃあ)
  確かに登っているはずなのに、明らかな下り坂や波打つ曲線を描いた道が続き、目的地にはなかなか近付けない…

                4

  またふと立ち止まると、そこは荒れ果てた墓地に面した農家の離れだった。建てられた頃は人が棲んでいたようで、錆びた水道管からは茶色く濁った水が滴っており、電灯やガス式のコンロもあった。プロヴィデンスやアーカムのような都会ならいざ知らず、こんな山奥にまで電線やガス管が引かれている訳もなく、何かの特別な設備のようだった。
  墓場はと言うと、ちゃんとした石造りの墓石などは一つとしてなく、木製の十字架が立てられているのはまだいいほうで、簡単に土を盛ったものだけのものが一番多かった。
  長年の風雪のせいで、白や褐色、黄褐色の棒のようなものが露出しており、中には未練がましく腐りかけた肉をまとっているものもあった。
  離れの割れた電灯がぼんやりと黄色く点った。中からはガチャガチャと金属や琺瑯の道具や皿を片付ける音がする。
(急がなくちゃあ…  僕は早く星の墮ちたところに行かなくちゃあ…)
  心とは裏腹に、手はペンキの剥げた戸を押していた。
  建物こそみすぼらしいが、中は素晴らしい実験室に改造してあった。
  鈍い銀色に光るアルミニウムのシンクを
持った流し台の上には、フラスコやビーカーや蒸留管やアルコール・ランプが並び、薬戸棚には色とりどりの薬品がびっしりと並び、そこここに実験中の試験管を差した試験管立てが転がっている。
  解剖台のような陶製の大きな机が間隔を置いて二三並び、ホルマリンの臭いが充満しているところからすると、医学の実験室のようだ。
  天井には国道沿いでしかお目にかからない高圧電線がかなりの弛みをとって蜘蛛の巣のように張り巡らされてあり、先端は机に降りてきて奇妙な形の放電管や真空管につながっている。
「あの…  どなたかいらっしゃいませんか?」
  恐る恐る呼びかけたのは、ここの主が科学者ならば、墮ちた星について何か教えてもらえるかも知れないと考えたからだ。
  カーテンで仕切られた部屋の向こうで影が揺れた。影は作業机に覆いかぶさって何かを一所懸命に切り刻んでいる。同じ動作を繰り返しているところからすると、とても精密な作業のようだ。
  一心不乱に立ち回っているので、星のことなど眼中にない様子だ。
「すみません」
  もう一度声を掛けると、影は作業を止め、カーテン越しにくるりと振り返った。
  血に似た赤い液体が跳ね、しぶきがカーテンに染みを造った。
「誰だ?」
  神経質そうな男の声がした。
「道に迷ったのです。星が墮ちた方向に行きたいのですが…」
「星だと?  おまえにもあの星が見えたのか」
  血だらけの手袋をはめた手がカーテンの端を掴み、一気に引き開いた。
  赤や鉄色や褐色や灰色の汚点で斑になった白衣が目の前に現れた。顔のほとんどを覆ったマスクも手術帽も、同じように汚れている。唯一露出している茶色の目は、狂気を孕みギラギラと輝いている。
「僕、ハワード・フィリップス・ラヴクラフトと言います。ああ、もしかしたらランドルフ・カーターかも知れません」
「どちらも知らぬ」
  背の高い白衣の男は傲然と言い放った。声からするとかなり若い。二○そこそこといったところだろうか。ただ口調も瞳も銀河の彼方ヒアデス星団の氷原のように冷たい。
「プロヴィデンス──いや、アーカムから来たんです」
「なに、アーカムだと?」
  男は灰色のマスクの下で唇を歪めた。
「アーカムはよく知っていますよ。住んでいたと言っても過言じゃありません。ミスカトニック大学も、インスマスもダンウィッチも…」
「私はニスカトミック大学医学部で学んだ。いまは偏狭な教授や学友たちによって追放され、こんな辺鄙なところに実験室を構えているがね」
  白衣の男は後手にカーテンを閉じ、陶器の流し台に投げ入れられていた拑子や外科用の縫針を洗い始めた。
  咄嗟に銀のケースに彫り込まれていた名前は「ハーバート・ウェスト」とあった。
  どこかで聞いたことがあるような、ないような…
  この男が医者か医者の卵だとすると、まだまだ勉強中のはずで、職業上の実績などまだあるはずがない。
「失礼ですが、合衆国の医師免許はもうお持ちなのでしょうか?」
  ハーバートは片眼をしかめた。
「いいや。しかし奴等は出さざるを得ない。卒業証書も、医師免許もだ。俺はミスカトミック大学医学部で他人に首席を譲ったことがない。
  成績も実習も、全て満点だ。公募されている全ての奨学金を手に入れた。開学以来誰もやったことがないことだ」
「重ねて無礼を承知でお訊ねしますが、そんなに優秀な貴方が、どうして学内の施設ではなく、こんな人里離れたところで、しかもたった一人で実験をやっておられるのでしょうか?」
  洗い清められたメスや手術鋏が、手際良くカゼイン石鹸の溶液をくぐり、決まり通りに並べ納められていく。
「奴等が莫迦で愚かだからだ。優れた才能をやれ倫理だの道徳だの、宗教だのの枷や鎖で縛りつけ、身動き一つできなくしてしまう。
  暗黒中世では解剖一つ許されてなかったそうだが、俺に言わせれば一九一○年の現代でも状態は少しも変わっていない」
  ウェスト医学生は道具を片付け終わると、休む間も無く角灯やつるはしやらシャベルを持って外に出た。僕も引力に惹かれるかのように彼の後に続いた。
「みんながダメだと言う、その研究は一体何ですか?」
「俺は馬なしで走る車を造っている奴と変わらないことをしているだけなのに、奴等は認めぬのだ」
  いつしか小糠雨が降り出していた。
  ウェスト医師は、湿った土饅頭の上につるはしを突き刺すと、何者かに取り憑かれたように掘り返し始めた。
「──自動車や他の機械はいくつかの部品から成り立っていて、一つの部品が壊れてもその部品を交換することで修理し再び使うことができる。人間もまた、疾病し、正常に機能しなくなった臓器や手足を良いものと交換することによって、元通り健康な身体になれるということがなぜ分からない?」
  先端がザクッと嫌な音を立てると、ウエスト医学生はつるはしをシャベルに持ち替えてそこの土を捨てた。
  僕は父の葬儀の時を思い出した。
(あの時も何も思わなかった。まだずっと小さな子供だったせいもあるだろうけれど、少し大きくなった今でも。別に何とも思わない。
  怖くもないし恐ろしいこともない。神の怒りも、この中にある物体も、それを掘り出そうとしているウエストも)
「…俺は証明してやる!  然るべき才能と、設備と、実験材料さえあれば、死人すら甦らせることを!」
  雨は次第に激しくなり、幾条もの黄金色の稲妻が走った。もう空を見ても星は一つとして見えず、地上の視界も遮られた。
  目の前には灰色の怪鳥シャンタクのように濡れてまとわりつく白衣を降り払いながら墓荒らしを続ける狂った天才の姿だけがあった。「…戦争が始まればいいのにな」
  ウエストはシャベルを投げ捨てて担架を広げた。
「…戦争が始まれば、こんな苦労をしなくてもいいのにな。新鮮な死体がいくらでも手に入る。大抵の死者たちは、墓守もいれば参拝者も訪れる墓地に眠っていて、なかなかこちらの思うようには行かない…
  もしアメリカ以外でも大きな戦争が起きれば、俺は直ちに軍医に志願してそこへ行ってやる」
  ウエストは穴の底に飛び込んで、死体を背中に担ぎ、再び這い上がってきた。その姿は「屍食教典儀」の差し絵の屍食鬼や、エドワード・ピックマンの作品のそれにそっくりそのままだった。
「ハワード君、そちら側を持ちたまえ」
  死体を担架に仰向けに乗せると、ウエストは逆らい難い口調で命令した。
  仕方なく後ろを持った。角灯の明かりで照らし出されたそれは、土と泥にまみれた土偶そっくりだった。
  持ち上げた拍子に右足と左手がポロリと落ちて、まるで行くのを嫌がっているみたいに元の穴に転がり落ちた。
「構わん、今のところは用がない。とりあえず頭と胴体があれば十分だ」
  ウエストはそう呟くと、疲れを知らぬ足取りで建物に戻った。
「いつもは、助手というか、手伝いの方はどうしておられるのですか?」
  尋ねてすぐに後悔した。無論尋ねないほうがいいことだったからだ。
「ああ、別に困っていないよ。手伝いはその都度都合できるからね」
  白衣の背中しか見えなかったが、嘲笑っているのは明らかだった。
「じゃあ僕は家の入口まででおいとまさせて頂きます」
「そうはいかないな」
  ウエストはマスクでくぐもった声をさらにくぐもらせて言った。
「──残念ながら僕の助手たちに星が見える奴はいないんだよ。特に目が悪いという訳ではないのだがね。普通の人間はいくら身体のましな部分を継ぎ合わせても、星は見えないということだ」
  家の中に入ったウエストは奥の実験室へ通じるカーテンをまくり上げて、さらに続いて来るように促した。ホルマリンやアルコールやカゼインや血の臭いが一層たち込めて、目と喉が痛く、気が遠くなりそうだった。
  陶器の解剖台が三つ四つ並んでいて、手前の一つを除いて剥き出しの肉の塊が載っていた。僕は慌てて目を細く閉じて何とか直視しなくてもいいようにして床を見た。床は目地のところが赤錆色に染まったタイル張りだった。
「でも貴方は星が見えるのだから、不便はないはずでは」
  隙を見て逃げようとゆっくりと後じさった。「そう、俺自身に不便はない。ただ星が見える助手がいれば便利かな、と思ってね」
「僕はまだ子供だし、身体も弱いので、とても貴方の助手などは…」
「ああ、君の貧弱でみすぼらしい身体などには用はなから安心したまえ、フィリップ君。
  用があるとすれば、君の眼球と感受性を司る前頭葉のとある部分だけだ。巨額の金や金では買うことのできないものとの交換で譲ってくれ、と申し込んできている者も大勢いることだしな」
  駆け出そうとた僕は何かにぶつかった。
  仕方なく目を少しだけ開くと、小学校の理科室の人体模型を大きくしたものが立ち塞がっていた。模型と違うところは、チューブを束ねた血管がドクドクと脈打ち、継ぎ目や製造不良によって生じる針穴から各種の液体が噴水のように浮き上がっていることだ。
「おや、もう帰るのかねフィリップ君。これからが面白いところなのに…  蛙や鼠の解剖しかしたことのない友達を羨ましがらせることだってできるのに」
「ぼ、僕、もういいです。早く星の墮ちたところへ行きたいので。ウエストさんも星を見るつもりなら早く行ったほうがいいですよ」「本当はね、フィリップ君。俺は星などには興味はないんだ。俺にとって大切なのは、あくまでも医学さ。星から来た強大な力を持った連中にしたって、細胞の寄せ集めから出来ているんだ。原理や仕組みさえ分かったら、ドリアを造るみたいに造ることだって簡単なはずさ。だからわざわざ見に行くなんて暇人のすることさ」
  ウエストが指をパチリと鳴らすと、僕を取り囲んでいた奴等は一段と輪をせばめた。
  いるいる、うじゃうじゃといる。こいつらは全部ウエストさんの助手だろうが、細かい手術はもちろん、包帯の張り替えすらできそうにない。こいつらにできることと言えば、せいぜい墓場から新しい材料をせしめてくることぐらいだろう。つまるところウエストさんだってまだまだなのだ。
  しかし僕はそのまだまだの連中に捕らえられ仲間にされようとしている。
「フィリップ君、何をむづかっているんだ?
  このハーバート・ウエストに執刀して貰えるのだから、もう少し感激してもよさそうなものなのに」
  ウエストは手術に必要な器具や薬品を並べ終わった。
  僕はブヨブヨの肉塊たちに捕まって裸にされ、空いている解剖台に縛りつけられた。
  麻酔もないままに、磨き上げられたメスの先が下腹に当った。かすかに生暖かいものが流れる感触を感じる…
「あの、頭の手術なのに、髪の毛を剃らなくてもいいんですか?」
  時間を稼ぐためにさらに尋ねた。
  別段根拠がある訳じゃなかったけれど、誰か何かが助けにきてくれる、そんな気がした。人間の分際で僕に危害を加える者はただでは済まないはずだ。
「君の人間としてのつまらぬ命などどうでもいいだろう?
  ということは、頭の皮など髪の毛ごと月遅れのポスターを引き剥がすように剥いて捨てればいいことだ」
  ウエストは大きなメスとドリルを代わる代わる持ち替えつつうそぶいた。
「麻酔をしないと暴れてやりにくいんじゃあ」「俺は麻酔に代わる神経線の切断法を会得している。患者の命が不問である場合は、こいつが一番だ。麻酔をかけると、各種の臓器の鮮度が著しく落ちるのでね」
  不思議に恐怖は感じなかった。
  僕は滅多に同じ年頃の友達と話をしない。したところで話が合わないからだ。みんなの話すことと言えば、ディズニーのコミック・ブックや自転車や魚釣りや女の子の話ばかり…
  僕はそんなものにからきし興味はない。
  だけど彼らの言うことを聞いていると、えてして恐い目に会ったり、夢でそうゆう物事に出会ったりした直後に、お漏らしをするらしい。溺れそうになったり、下町で野良犬に追いかけられたり、コミック・ブックの怪物に襲われる夢を見たりした時などにだ。
  僕は物心ついてからはそんな恥ずかしいことをしたことはない。
  恐怖は友人、戦慄は親友だ。
  仮にそんな目に会ったり、夢を見たところで、まるで映画の画面のように楽しむことができる。
  僕は僕であって僕ではない。プロヴィデンス、エンジェル通りに住むハワード・フィリップス・ラヴクラフトという存在はあくまで仮の姿であることをよく知っているからだ。
  死はもちろん、痛みすらも宇宙の広大さから比べれば、小さな虫けらが偶然靴の底で踏み潰されたくらいの出来事に過ぎない。
  客観的に見れば、ごくごく些細なことを、ことさら大げさに痛がったり悲しんだりすることの方がよほどナンセンスだろう。
  尋常ではない医学生が、子供を捕まえて切り刻む。まぁそういうことだ。一行にも満たない。
「おまえ、なぜ恐がらない?」
  ウエストのほうがかえって変に思って尋ねた。
  僕は目を閉じて遥か宇宙の星星のことを思い描いていた。
「分かった。多分俺と同じだな。人の死など取るに足らないことと解釈しているのだろう」(正解ですよ)  僕は心の中で呟いた。
(貴方ほどの天才ならば、そういうことは当り前の常識でしょうがね)
「そういうことだったら、バラバラにするのが惜しくなってきたなぁ…」
  勝手に興味が冷めたらしいウエストは、メスを元に戻し、僕のいましめを解いた。
「もっと早く気付くべきだったのだが、俺とおまえは同類だ。特別の必要もないのに、通り掛かったというだけで仲間を実験材料にすることもないろう」
  狂える切り裂き医学生に「同類」呼ばわりされて不愉快極まりなかっが、こちらからわざわざ頼んでバラバラにして貰うこともないと考えて、服を着た。
  今夜はこれで続けて二回も裸にされた。他人に見せて立派な身体にはほど遠いので、もう勘弁して欲しい。もっともそんなことも宇宙に比べれば、虫がべん毛を二三本抜かれたぐらいのことなのだろうが…
  ウエストのゴーレムと言うか、フランケンシュタインというか、肉の塊りは、まだ丸く僕とウエストを取り囲んでいた。二本足で立っているものもいれば、四本〜六本の足のものも、芋虫のように体をくねらせてしか動けないものも、最初から移動できないものもいて、見慣れると結構楽しい。
  インドの毒蛇使いや、見世物小屋の親方もさぞかしこんな気持だろう。
「おい、おまえたち、フィリップ坊やをお通しして上げないか?」
  ウエストは苛立っている様子で叫んだ。
  化け物たちはさらに輪を縮めた。
「せっかく黄泉の国から甦らせてやったというのに、俺の言うことが聞けないのか?  俺がいなければ、おまえたちは墓場の冷たい土の中で、土に皈って行くだけのものだったのだぞ!」
  化け物たちはさらにさらに輪を縮め、僕たちは彼らと解剖台の間にはさまれて潰されそうになった。
「俺はもうすぐ合衆国の医師免許を取って戦争に行く。おまえが見たプロヴィデンスに落ちた星の色や形から察すると、近く人類は未曾有の愚かで大規模な戦争に突入することだろう。昔プロヴィデンスのフェデラルの丘の荒れ果てた教会の中にあったとりとめのない予言書にもそんなことが書いてあった。
  大戦争が起これば、俺はすぐそこへ飛んで行って──」
「お言葉を遮るようですがウエストさん、いまはそれどころでは…」
  僕はそう言うと、化け物たちがまずウエストに襲いかかった隙に、足元を潜って一目散に逃げた。
  長く、身の毛もよだつ悲鳴とともに建物は火に包まれたが、僕は大して心配しなかった。(あのウエストさんなら、そう簡単に地獄に落ちてしまうこともないだろう)と。


   (承前)

                1

  星の墮ちたところまではもうすぐのようだった。
  見慣れた退屈なニューイングランドの森の景色が少しずつ変貌を始めている。
  下生えの茸が俄かに増えだした。それも
毒毒しい色や、けばけばしい斑の入った毒茸ばかり…
  生暖かい微雨と、ひんやりとした露を受けた浮根から、白い綿飴状の菌糸が霧が垂れ込めるように異様な速さで見ているうちに育ち、大小の傘を開いていく…
  さらに進むと、人の背丈まで大きくなったそれがブヨブヨと揺れ蠢いていた。
  もうまともな草木は一本もない。
  たまに見かける草は海百合そのままに、空中をふわふわと漂っている。よく見ると触手や眼球や口腔が開き始めているものもいる。
  口元に並んだ牙は、植物だとはとても思えないほど金属質でできていて、グロテスクなまでに不規則に並んでいた。
  足元に目をやると、いくつかの短い足がある海牛や、頭が海老で胴体が鰻のようなものや、薄く平ら引き伸ばした蛭や、頭に五つの発達した眼があり、顎からは象の鼻のような器官を備えたザリガニや、マント型の背甲と三つの尾鰭を持つやつや、のっぺらぼうだが二本の角を持ったなまこや、頭や鎧の部分から節足が生えている不気味な海老たちが、水のような、ある種の光や気体の沈殿物の海を泳いでいた。
  僕はこの異世界のものたちの記憶があった。
  太古の夢の中と言いたいが、カナディアン・ロッキーのバージェス山の山中で、土地のインディアンたちがウエンディンゴやイタカの使いと崇めている怪生物たちの化石のそれだったのだ。
  十年後の一九一九年にカンブリア紀と名付けられたその時代には始源の、種種数々の名状し難い不気味な生命体が目白押ししていた。
  慌て者の進化論学者たちは、「これらこそ生命の起源である」と鬼の首を取ったようにはしゃいだが、愚論もここに極まれり、だ。
  スープを例え何億年揺すってみたところで、ミジンコ一つ生まれることはない。
  彼等は、星に乗ってやってきたのだ。
  自明の理だ。
  彗星か、あるいは隕石に乗って彼等は遥か玄遠の世界からやって来た。
  新しい世界を求める自らの意思の果てなのか、偶然の所業なのかは分からないが、とにかくこの光と闇を合わせ持つ青い命の星に棲みついた。
  彼等が斥候であり先遣隊なのか、それとも最初に首魁が来て、分解した首魁の体から独立した命を得たものか、それも分からない。
  重要なのは、その首魁たちこそ、この星この世界の最初の支配者であり、神であったということだ。
  霊体に似た光の霧の濃度が濃くなり、生き物たちの不気味さもさらに増した。
  体長3インチ以上もあるボウフラやミジンコ、ヒドラ、二又の尖った頭以外は体毛に被われたナマコ、鞭毛のある丸虫。団子虫を巨大にしてひっくり返し、蟹の目玉と剣状の尾を付けたもの、瘤で覆われた背甲を持つ節足動物、U字形の磯巾着(明らかに中に何かいる)、亀の甲羅だけに対を成すへら状の刺が生えたもの、数インチもあるダニやシラミ
(に似た奴)、圧巻は背中にニョロニョロとした触手があり、いくつもの刺で歩く眼のないヒドラのようなもの。
  僕はその奇怪な生き物が、あるところでは刺を交互に踏み出し、あるところではひっくり返って触手のほうで歩いているのを目撃した。
  これらは大きさといい、能力といい、言っては悪いが雑魚だ。
  僕が会いたい見たいと切望しているのは、彼等の乗ってきた星であり、首魁たる「神」だ。
  周囲の風景がまた変わり、鱗木やシダや石炭木が茂り出したが、あの生き物たちを見た後ではエンジェル通りの家に帰ってしまったような気がした。
  霊気の光は蜂の巣状に、鱗状にいくつものスペクトルに分かれた。
(この邪悪なステンド・グラスの中に、この星の最初の神──後の「人類の守護者たる真の神」によって追放、放逐、封印された神神がいるんだ!)
  僕の心は踊り、すぐにでも次元の隙間、夢の帷の向う側に飛び込もうと身を翻らせかけた。
『待って!』
  時声とともに、おい茂った古代棕梠の陰から、黒く小さくしなやかな獣状のものが現れた。猫──この世界の地上で最も優美な獣||に似ているが、それ以上のもの、闇の使徒の筆頭。かつてウルサルで大切にされ、古代エジプトでは豊饒と多産の神バストとして崇められた存在のものだ。
「サミュエル・パーキンス!」
  それはエンジェル通りに棲む黒く小さな友人だった。
『気を付けたほうがいいよ、ハワード。ここは三十年ほど前にも隕石が墮ちて、異様な変貌を遂げたネイハム・ガードナーの屋敷の跡なんだ』
  サムは長く太い尻尾をくねらせて言った。
  なるほど、茶色く錆びて朽ち果てた郵便受けには、かすかに、そのガードナーの呪われた名が見える。
  魔女のお婆さんや常軌を逸した医学生ウエストと違って、サムは信用できる心の友だ。普段は「ニャー」としか言えないが、隕石の力がもたらす異次元空間に入ったことによって精神感能で話せるようになったらしい。
「でもせっかくここまで来たんだ。とても引き返すことなんてできないよ!
  どうやら僕たちが一番乗りらしいけれど、そのうちマーシュを始めとするインスマスの連中や、ウエイトリーが率いるダンウッチの者たちが押しかけてきた日には、どんな魔宴狂祭になるか…」
『彼等は来ないよ、ハワード。連中は一見ここに来る資格のある者に思えるけれど、本当はもっと格下の、お目通りはもちろん封印場所への登殿も叶わない下っ端なんだ』
  サミュエルは先端に風切りのあるピンと
立った耳をピクピクと動かしながら言った。「でも僕はこうしてここに来ている。僕が来ているのだから、彼等や他の呪われた契約者たちも…」
『チエッチエッ!』
  サムは舌打ちするついでにピンクのざらざらした舌で黒い鼻先を舐めた。
『ハワード、君は自分を過小評価し過ぎている。キミはマーシュの一族や、ウエイトリイの眷族などとは比べ者にならないほど偉いんだよ。だいたい、下僕のダゴンたちとつるんだり、ヨグ・ソトースへの贄に自分の娘を差し出すことぐらいしか思いつかない田舎の召喚爺さんがいくらのものと言うんだい?
  君は偉い。知ろうと願いさえすれば、あいつらが一部しか知り得なかったことがらのほぼ全貌を知ることだってできるんだ!
  でもハワード、それは決して君個人の幸福にはつながらないかもしれないよ。人間には知らないほうが幸せなことがらだって沢山あるんだ。
  神には神の、古き神や旧い支配者には彼等自身の、下僕には下僕たちの、そして人間には人間の生活があって、確たる必要が無い限りお互い侵すべきものではないんだ。
──と言うのは建前で。やはり知りたいよね。
  まして世界じゅうの何億人から選ばれた君ならば、その権利は十分にある。
  無茶なことはしないと約束してくれたら、おいらが案内するよ』
  いつしかサムは先に立ち、右の前足を上げて招いていた。
「もちろん約束する。
  行こう、サミュエル!  そういうことなら、是非とも僕らだけで、宇宙の秘密を掴んでやろう!」
  黒い鞠のように跳ねるサミュエルは、さながら暗黒の宇宙にある黒い穴のようだった。
  追いかける僕は、濃い二酸化炭素の霧の中で、体長三フィートほどもある巨大な蜻蛉に何度もぶつかりそうになった。
  未知の疫病と時空の歪みがもたらす崩壊に侵され、全滅したガードナー家の屋敷の中は、期待に違わぬ邪悪な気配に満ち満ちていた。
  外の霧とはまた違う黄色や赤味がかった帯状の瘴気が三十年前そのままに立ち込め、それ自体も生き物であるかのようにゆらゆらと漂っていた。もしもサムがきれいな空気を生成するシャボン玉に似た膜で包んでくれなければ、皮膚はたちどころに染みやかさぶただらけになり、肺はドロドロに溶け、眼球は
腐り落ちて、そこらあたりに生えている菌子の苗床になってしまっていたことだろう。
  置き捨てられた新聞の束の日付は一八七X年で、異世界の昆虫たちでも棲みついたのだろうか、食器棚に積まれた皿は吐瀉物のようなもので塗り固められ、メキシコの蟻塚の様を呈している。天井を振り仰ぐと、巨大なクラゲに似た菌状生物が、地獄の傘屋のように色とりどりのおぞましい傘を広げていた。
  かつては明るい団欒が行われていたテーブルも菌の霞がかかり、燭台の回りでは異次元の色彩の花火の残り火がまだチカチカと瞬いている。
  テーブルの中央には、金色に輝くアラビアのランプが置かれていた。
『あいつのランプだ!』
  サム・パーキンスが素頓狂な声で言った。『あいつも時空を越えてここにやって来たことがあるんだ!』
「『あいつ』って?」
「知っているだろう?  アラビアの大魔導士アブドゥル・アルハザードさ』
  その名前には聞き覚えがあった。ムーのサントゥーやアッシリアのズトゥルタンと同じく、地球の旧い支配者に魂を売り渡すことによって並み外れた強大な魔力を手に入れた者だ。その代価代償は旧き神神によって追放または封印された旧い支配者を甦らせる努力をする、ことだったはずだ。
  僕はランプをそっと手に取り、少しずつ擦ってみた。サミュエルが何も言わないところを見ると、僕にはアルハザードのランプに触れる資格もあるらしい。
  しばらく擦っていると、ランプの火口から灰色の濃い煙が出てきて宙空に大きめの本を横に寝かせたぐらいの幕を作った。
  やがて、ランプがボウッと光ったかと思うと、幕に何かが写り始めた。
(これがルミエール兄弟やエジソン技師の映画というものか…)
『そう、電球の明かりと魔法の明かりの違いはあるけどね』
  いつの間にかサムもテーブルの上に乗ってランプの作り出す映像を眺めていた。
  最初に映ったのはインスマスの風景だった。
  行き交う人の服装も背広やドレスといった普通のものだったが、顔はどことなく魚に似ており、歩き方はぎこちなく、誰かが港の水面に向かって振って挨拶した手の指の間には水掻きがあった。
  挨拶した相手は、半鰐半人の水棲生物だった。招きに応じて水面が湧き立ち、うじゃうじゃと現れた。全身堅い鱗とナイフ状の背鰭で守られていて、恐ろしく頑丈そうだ。
  彼等が水際でバシャバシャと飛んだり跳ねたりするのに応えて、さらに沖合に魚の頭に人に近い体を持った一○フィートほどのものが現れた。
  これにも見覚えがあった。ダビデが戦った海洋民族ペリシテ人の神ダゴンだ。
  ダゴンは水面に立ち上がり、ぎこちなく振り返って表情のない眼でさらに沖合を眺めた。
  沖合が大規模なダイナマイト漁のようにゴボボッと泡が沸き上がった中から蛸に似た巨大な生物が現れた。
  それはいくつもの触手や翼のようなもので遊弋中の船を次々に叩き沈めた。小さな漁船はもちろん、かなり大きい大西洋航路の貨物船や商船も、一撃のもとに真っ二つにされた。『やー、いいものを手に入れたね、フィリップ。これは奴等の作った「想定侵冦図」だよ』
  サミュエルは屈託なく言ったが、こんなものを見てはまた夜激しくうなされそうだった。
  彼等は邪神の封印が解かれることによってもう用のなくなったインスマスやキングスポートの街の建物を完腑なきまでに破壊し、蹂躙し、逃げまどう人々を引き裂き、貪り喰った。
  その頃には彼等を支持する人々の街になっていたルルイエに継ぐ新たな祝福の都であるアーカムやプロヴィデンスは災厄を免れ、美しいいくつもの尖塔や破風や切妻屋根の建物を残したまま、夢見る住民とともに永遠に栄えるのだった…
  場面が変わると、激しい炎の風によって煽られ、黒焦げにされ、ドミノ倒しのように倒れるニューヨークの摩天楼が映った。
  炎の源は、良く分からない不定形のぐにゃぐにゃとした固まりと、顔らしきものと獣に見えないこともない形の巨大な炎の渦が、なぜか仲良く、小賢しい人間共が築き誇っていた文明を廃墟に変えていた。
  ここでも人間は先を争って逃げようとする蟻の群れだった。
  ただ、サミュエル・パーキンスの仲間である小さな獣たちだけが難を逃れて、空中の泡に浮かんでいる。
  僕はまだニューヨークに行ったことはなかったけれど、この凄惨な光景を目の当たりにしてもいささかの憐憫の情も抱かなかった。
  地球全体の歴史からすると、ごく僅かな人類の歴史の中で最も呪われた都市バビロンですら、旧約聖書で「金の盃」に例えられ「神」によって干られるべきもの」とされている。
  ハンムラビ大王以来数千年の栄華を誇り、一時は「ついに天に届き神を脅かす」塔さえ建てたバビロンの末路は、皆のほうがよく知っているだろう。
  ましてインディアンをビーズ玉を騙して取り上げた土地に建てた、褐色砂岩の下品なビル群など、いくらの値打のものだろうか。
  さらに増して、週ごとに支給される僅かな給金によって縛られ、夢を見ることを止め、魂すらなくしてしまった屍食鬼以下の下等奴隷たちにとっては、むしろ惨めな境遇から解放されて幸せとすら思えた。
  シカゴをはじめとする中西部では、イタカが幾百幾千もの竜巻を作って大勢の人間を大空高く巻き上げ、ロサンゼルスなどの西海岸では、ガタノトーアが経済活動に呆けた働き蜂たちを次々と石柱に変えていた。
  東洋では小さな象の形をした  チャウナグル・ファウグンが、無数のラッパ状の鼻を振り回して逃げ惑う人々の血を吸い尽くし、
オーストラリアではツトゥグアが大地広大なそのものを呑み尽くし、南北の両極地では、アザトースとウボ・サトゥラが地球の回転軸を滅茶苦茶にして、時空の彼方に飛ばそうとしていた。
  旧支配者たちの絶大な力の前に、ついに地球は何十億年続けてきた右回りを止め、いったん制止したかと思うと、ゆっくりと逆方向に回りながら、本来の軌道から外れ、金星側に寄ったり、火星側に傾いたり、でたらめなコースを波打って進むようになった。
  月はとっくの昔にどこかへ飛び去り、変わりに見たことない不気味な斑点のある遊星やまがまがしい彗星や暗黒物質が回りを取り囲んで、瘤のある連星や伴星に変造していた。
  やがて、緑の美しかった星は、万色に輝く球体の集まりになり果てた。これがどうやらヨグ・ソトースのようだった。
  クライマックスはその無数の輝く球体が火星を飲み込み、金星、水星、木星、土星、果ては太陽をも飲み込んで膨張し、閃光とともに大爆発する光景だった。
  光の中から、封印を解き、完全に復活したもろもろの旧き支配者たちが、全宇宙に向
かって咆哮し、檄を飛ばし、全宇宙、全次元の支配者たることを宣言していた。
  彼等をかつては討伐、掃討した旧き神神は永年の月日の末に、ついに神をも越える存在として復活した邪悪の群れを見て懼れ慄き、本拠地ヒアデス星団すら未練もなく引き払い、先を争って、自分たちがかつて敗軍の将たちを情け容赦なく封印した場所──ルルイエや南極や、宇宙の彼方カルコサやフォマルハルトや、果ては無明の混沌や、時空の間──
に逃げ込んで、内側から封印してしまった。
  こうして、全ての世界、宇宙は、力のみが正義の、法や掟などまるでない邪悪と混乱が支配するところとなった…
  僕は見ていて恐怖に気が遠くなりそうになりながらも、ある種のすがすがしさと爽快感を感じたことを否めなかった。
  あらゆる偽善と偽りの愛、おためごかしの理性を廃した純粋悪の世界と宇宙は、それはそれで調和と均整がとれているように思えた。「どうじゃ、楽しかったかな、坊主?」
  霧の映写幕が晴れるのと同時に、目の前のテーブルの上に、一人の背の高い老人が現れた。
  老人はアラビアン・ナイトの絵本に出てくる。例えるならアラジンを騙してランプを取ってこさせるあの悪の魔法使いそっくりの衣装に身を包み、手には分厚い書物を抱えていた。
  サミュエルは驚いて黒い尻尾を膨らませ、身体じゅうの毛を逆立て、真っ赤な口を開いて「フーッ」と息を吹いた。
「──ほう、ナイアーラトテップの眷族を従えておるのか…  ますます気に入ったぞ」
  魔導士アブドゥル・アルハザードが両手を派手に動かして奇妙な印を切ると、廃家の屋根はタンポポの綿毛のように疾風に乗って飛び去り、壁という壁は倒れて塵と化した。
「フィリップ、油断するな!  こいつはさも分かったようなフリ、知ったかぶりを装っているが、実はノストラダムスも裸足で逃げ出すインチキ魔導士、出鱈目召喚士さ!」
「猫の癖に人語を解する。ははぁ、さては大将に教わったな?  今の儂の術を見ただろう?
  あの程度は序の口も序の口、ほんの挨拶程度だったつもりだが、インチキ呼ばわりはひどいじゃないか?」
「あの程度の術なら、ウルサルやアタゴオルなら、ほんの仔猫でも使えるさ!」
「まあまあ…」
  僕は一人と一匹の間に入って宥めた。
「──仲間割れはいけないよ」
「フィリップ、邪神同士でもとてつもなく仲の悪い連中がいるんだ。──そうだろう、アルハザード?」
「そんなこと儂の知ったことか!」
  アラビアの魔導士は口角泡を飛ばし、目を血走らせて怒鳴った。
「そうそう、それがあんたの欠点だ。頭は決して悪い訳じゃあないのに、思い込みが激し過ぎて、時々雨の日に傘を差すことを忘れ、嵐に外出してしまう。油壷を抱いて炎に飛び込み、塩とともに氷の海に浸かる。いつもあと一歩のところで失敗してしまうのは、仲間を頼まないのもさることながら、たった一人でも見事に盛り上がってしまう下手くそな幇間のような性格が災いしているんだよ。
  貴方に我が主人の冷静さの万分の一でもあったなら、もう少しいい線行くのに、と思うよ」
「何じゃと!」
  アルハザードは褐色の顔を朱に染めた。
「みんな星を見に来たんでしょう?」
  僕はサミュエルを抱いて下がった。
「──肝心の星はどこにあるのですか?」
「星は…」  アルハザードはもったいぶった空咳を一つして続けた。「外の井戸に落ちた。三十年前の『色彩』のかけらを追ってな」
「井戸、ですか?」
「ただの井戸ではない!  『色彩』のかけらのために底無しになり、中は無限に広くなり、いくつかの燧道は辺り一帯の貯水池などに繋っておる。アーカムやプロヴィデンス周辺の住民の中で。闇の潜在能力に目覚める者が少なくないのも、実はそのせいじゃ」
  サム・パーキンスが「そんなことおまえに教えて貰わなくても分かっているよ」と言いたげに、肩をすくめ、前足で顔を洗い始めた。「ではその井戸に行きましょう」

                2

  外は相変わらずカンブリア紀の奇怪な生物たちがふわふわと飛び交っていた。
  問題の井戸はなかなか見つからなかった。
  それもそのはず、井戸は異世界からの侵略者にすっかり形を変えられてしまい、今では見上げるばかりの巨大な三角垂の石筍に変化していた。
  出入口とおぼしきものはまるでなく、無数に開いている小さな穴からは龍のそれのように尖った骨に膜を張った羽根と、鉤爪を持つ無数の足と、剥き出しの脳髄を持つ蜂に似た亜昆虫が出入りしていた。
「壊すと怒る奴が出てくるでしょうね」
  僕は石筍の回りを一周して言った。
「こしゃくなミ・ゴウども!  この儂をなめるのか?」
  眼から稲妻を迸らせながら新たに印を切り、呪文を唱え始めたアルハザードにサミュエルが飛びかかり、鋭い爪でステーキに切れ込みを入れるように引っ掻いた。
「く、くそ!  何をする!」
「大事な家を壊したら、どんな復讐を受けるか分かったもんじゃないですよ」
  サミュエルは立てたままの爪で石筍の表面に五芒星形の印を薄く書いて、呪文を唱えた。
  意味は全くだが、ところどころに  「ナイアーラトテップ」だとか「ミ・ゴウ」とか、「アザトース」と言った言葉が聞き取れた。「貴方は魔導士だから、意味は分かりますよね。一体何と言っているのですか?」
  傍らでアンモナイトやオウム貝の形をした蓄音機に呪文を録音しているアルハザードに尋ねた。
「シッ、静かに!  …もちろん分かるとも!
  分からいでか!」
  やがて石筍の真ん中あたりに小さな丸い穴が広がったかと思うと、たちまち大人一人が潜れるぐらいの大きさになった。
「お先に失礼!」
  サミュエルは鞠のように跳ねて中に飛び込んだ。僕も彼に遅れまいと、頭から突っ込んだ。確かに体育の科目はからきしだめだけど、屋根裏部屋の物置への登り降りで、そこそこには鍛えているんだ。
  アルハザードは最初瞬間移動か身体を縮めることで中に入ろうとしたけれど、迷ったあげく黒い魔導士の服をもぞもぞとたくし上げて無細工に潜った。
  内部は、「これがあの石筍の中か!」と驚くほど広かった。おそらく空間が折り曲げられてどこか別の広いところへと繋っているのだろう。
  銀色のピカピカした床が幾筋にも縦横に走り、楕円形の金属の扉が等間隔にいくつも並んでいる。
  床は鏡のように完璧に磨き上げられ、塵や足跡の類は一つもない。生き物はもちろん、機械が動いている気配もまるでない。静寂と死の臭いが漂っている。
「どっちだ?」
  顔を堅くこわばらせたアルハザードは、早くも慌てた様子だったが、サミュエルは沈着そのものだった。
「こっちですね」
  彼は尻尾で指差した。
  アルハザードはずらりと並んだ扉を片端から開けてみたい気持を押さえられないのか、そこここで様々な開扉の呪文を唱えていた。
  たまたま一つが合致したのか、扉は音もなく消え去った。──そう、僕の目にはそれまでそこに映っていたシネマがフェード・アウトして、奥が見えるようになったように写った。
  中にいたのは、ところどころに毛の生えた赤やピンクの肉の固まりだった。
  肉塊は膨らんで扉の外に出てきた。アルハザードは泡を喰らって扉を閉め直す試みもせず、飛びのいて逃げた。
  肉はのっそりと磨かれた床に落ち、ゆっくりと歩き始めた。
  僕とサムは物音に気付いて振り返った。
「困り者ですね」
  サムはどっと冷や汗が吹き出した僕を置いて、すばしこく肉のところまで戻った。言葉がアルハザードに向かって発せられたものか、流出物に対して言ったことなのかは分からなかった。
「わ、儂のせいじゃないぞ。何かの弾みで勝手に出てきたんじゃ!」
  アラビアの魔導士は擦り足で後じさりしながらも、問題の肉のかけらを黄金のピンセットでガラス瓶に入れることは忘れなかった。「別に片付ける義理もないようですが…」
  サミュエルはクロークに入るように、何のためらいもなく肉塊の中心に飛び込んだ。
  肉塊はもぞもぞと齟嚼する仕草をした。
「サミュエル!」
  僕は叫んだが、情け無いことに後を追って助けにいく勇気はなかった。
  肉は噛むのを止めた。何か都合でもあるのか、もうそれ以上溢れ出てくることはなく、じっとしている。
  五分たち、十分たった。サミュエルが出てくる気配はない。
「アハハ…」
  アルハザードは狂ったように笑った。
「−−様を見ろ、化け猫め!  大きな顔をしていた癖にいい気味だ!  さてと、もうこれで厄介な奴はいない。ゆっくりと異次元の色のかけらを持ち帰ってやろうと思うが、その前に…」
  魔導士は紫色の瞳で僕をじっと睨んだ。
「餌を多い目にやれば、あいつだって大人しくなるじゃろうて」
  曲がった長い爪がそろそろと迫ってきた。
  と、どこかから声がした。
「ふうん、そうか。餌をやれば大人しくなるのか…」
「サミュエル!」
  跳び上がって声のするほうを探すと、動かなくなった肉塊の中央に、ちょこんと黒い猫の頭だけが金色の瞳をクルクルと動かしていた。
「そうですね、でももうここには適当な餌はありませんね、ねぇ坊ちゃん?」
  アルハザードはあからさまな作り笑いを浮かべて先端の黒ずんだ黄褐色の鉤爪で僕の頭を撫でた。
「そう…  そういうことにしておこうか」
  サムが気を集中させると、大きな肉の固まりは穴を開けられた飛行船のように萎み、後にはサミュエルだけが残った。
  どうやら奴はサムを取り込もうとして逆に取り込まれたらしかった。
  からっぽになった部屋をアルハザードと共に恐る恐る覗くと、ここもまた次元がねじ曲がっているのか、外の部屋よりも広い空間が延々と果てるとなく続いていた。
  サミュエルが長くピンと張ったヒゲをぴくぴくと動かすと、扉はキラリと輝いて音もなく閉じた。
「ここは『種の間』だよ。『鏡の間』を探さなくちゃあ」
  一度動きだしたヒゲは、くるくると回りながら霊気霊体の気配を探っている。
  同じ扉を持つ同じ部屋が無限に続く回廊を僕たちは長い時間歩いた。僕とアルハザードの靴音だけがコツコツと響く。魔導士は独特の生気を感じるらしく、扉という扉の前で少しの間立ち止まり、鉤爪をくねくねと動かし、いかにも次々に開け放ってみたそうだった。「気持はわかるけれどやらないほうが身のためだよ、アブドゥル」
  大きな十字路で一息ついたサムは、あくびしながら伸びをし、前足で顔を洗った。
  僕には彼が肩をすくめたように見えた。
「まだまだ遠いのかの?」
  アルハザードはしゃがれた声で訊ねた。
「遠いと言えば遠い。が、近い、もうすぐだと言えば近い」
「それってどういう意味?」
「実はもう着いているんだけれど、不用不急のものがなくならないと、ここは鏡の間にはならないんだ」
「でも待つと言っても…」
  プロヴィデンスのエンジェル通りで僕の帰りを待っているお母さんや伯母さんのことを思い出した。いま何時ころだろうか?  もう夜が明けてみんな心配しているんじゃあないだろうか?
「儂は待つぞ、いつまでも!  たとえ何千年何万年でも!  ここの扉を少しずつ開いていくならば、金輪際退屈などするものか!」
「だからそれはやらないほうがいいと言っているでしょう?」
  サミュエルは直し忘れて口から覗かせていた赤い舌先で黒い鼻の頭を舐め、溜息を一つついた。
「そんなには待てないよ」
  僕は途切れ途切れに言った。
「──みんな心配しているし、ずっと待っていたとしても、必ず見られるものとは限らないんだろう?」
「急にいろんなことを言われても」
  サムはヒゲを垂らして困った顔をした。
「ごめんよ、サム。君のせいじゃあないもんな。夢に導かれてと言っても、勝手にこんなところまでのこのこやってくるのが悪いんだ」「その通りじゃ小僧。餓鬼の分際で生意気なんじゃよ」
  アルハザードはかさにかかってわめいた。
  なるほど、魔導士でも何でもないのに、こんな場所にいるのは不相応かも知れない。
  と、うなだれてしょげていると、アラビア人の老魔導士は一転して声を猫撫で声に変えて呟いた。
「とは言っても、我々にしたところで、できれば今すぐ見たいのは無理からぬこと。どうじゃなサミュエル・パーキンス、おぬしもナイアーラトテップの下僕にして闇の末裔ならば、術の力で何とかしてみるというのは?」「賛成しかねる。この次元を無理やりどうにかしたら、それこそどうなるものか分かったものじゃない!」
  サムは後足で蚤を掻き落とした。
「そんなこと言わずに。サミュエル、おぬしも相当の術者なんじゃろう?」
  喉を撫でてやろうとしたアルハザードの黄色く萎びた指先が、こっぴどく引っ掻かれた。「これは失敬。僕は自由な存在なんで、突然撫でられたりなんかしたら無意識に引っ掻いちゃうんだよ」
  サムは舌を長く伸ばして触られたところをしつこいぐらいにきれいに舐めた。
  アルハザードは傷口を押さえつつ、ビーズ玉の瞳に炎を燃え上がらせた。
「よし分かった。ならば儂一人でもやる。おまえたちもアラビア王や教主たちと同じように、儂ごときには旧い支配者たちを操り切れぬと思っておるのじゃろうが、後で吠え面かくなよ!」
「誰も思ったりしていませんよ」
  疲れがどっと出た僕は、鏡の床に座り掛けた。お年寄りの相手は本当に疲れる…
「どうぞ。何でも好きにやって下さい」
  ひんやりしていて気持良かったのだろうか、サムも鏡の床に寝そべった。
「ようし、やる!  やって見せるぞ!」
  魔導士は己の影の中から一冊の本を取り出すと、ところどころ栞をはさんである箇所を大声で朗唱し始めた。
  ラテン語でもギリシア語でも、ヘブライ語でも、それよりもっと古い太古の時代の言葉でもない、呻きと咆吼。おそらくは人間の言葉でないのだろう、雄叫びと呪咀…
  余りのいきみながらの喚きに、サミュエルは耳を折って遮蔽した。たぶん耳栓の呪文でもかけたのだ。
  後で聞いたところによると、この呪文をかけたはいいが、耳が折れたまま元に戻らなくなった魔導士猫もいるらしい。間抜けなのかその格好が気に入ったものかはよく分からない。
『僕にもかけてくれ』
  身振り手振りで頼むと、たちどころに静寂の世界が返ってきた。
  音のない世界で間断なく派手に手足を動かし、天を仰ぎ地に伏して呪文を唱え続ける老人を見ていると、欧州で流行っているジョゼフィン・ベーカーばりの前衛舞踊のようで、相当に滑稽なものだった。
  僕はサムを腕の中に抱いて眠った。
  時間は場所が場所だけに、どれくらい眠っていたのかは分からない。
  ただ、こちらの時間に直すと二時間以上
たっていたのは確かだ。
  目を覚ますと、少し離れたところでターバンがほどけかけ、汗みずくになったアルハ
ザードが息も絶え絶えにに、まだ口を動かしていた。
「莫迦みたい…」
  サムがそう言いながら耳をピンと立てると、僕の耳も聞こえるようになった。
  おそらく旧い支配者たちも僕たちと同じようにしていたことだろう。もっとも彼等がここから狂える魔導士のたわごとが届く場所にいたとして、の話だけれど。
「かわいそうだから、ほんのちょっとだけ試みてみますか」
  口の端から血と泡の混じったものを吐きながら白眼を剥き昏倒したアルハザードを見て、サムは片目をつむった。
  僕はかすかに、しかし力強く頷いた。
「『色彩のかけら』、でしたね?」
  僕はもう一度頷く。
  サムはきらきらと輝いている穹窿天井を振り仰いで、全く何気無い調子で短い呪文を唱えた。それは僕にも分かるごく簡単なラテン語だった。
「来たりたまえ。
  顕したまえ。
  示したまえ」
  ただ、言葉以外に、サムの思念が空間じゅうを飛び交って満ち満ちた。
  決して強い、命令調のものではなく、あくまでさらりとした、それでいて確固かつ強固な願望を秘めた単純な言葉が壁という壁に谺し、何度もはね返った。
  やがて部屋全体が小刻みに振動し始めた。
  永遠の眠りに就いていた強大な力を持った何者かが突如として目覚めたような不気味さと戦慄を伴う悪寒が電流となって背筋を走った。
  何者かが立てる気配と妖気の波に、失神していたアルハザードまでがむっくりと起き上がり、紅玉の眼でカッと彼方を刮目した。
「来る!  儂の呪文に応えて!  ──どうじゃ見たか?  儂の力を!」
  途端に磨き上げられた床の一方がゆっくりと持ち上がり、僕たちは小部屋の壁だったところに転がり落ちた。
「ここも危ないな。ハワード、僕の後足につかまって!」
  サミュエルの言葉にせかされて、僕は言われた通り両手で彼の小さな足を掴んだ。
  サムが跳躍するのと、無数の小部屋がガラガラと大音響を立てて奈落の底に落ちて行くのとはほぼ同時だった。
  普通の猫は後足で地面を蹴って飛ぶので、そこを拿まれていたら飛べないはずだったが、サムはまるで特別だった。
  後足で地面を蹴ることも、その前に身を屈めることもなく、自分の何倍もある僕を伴って、遠い星からやってきた未知の生物を彷彿させるように軽々と飛んだ。
  と、足首を引っ掻かかれる痛さを感じて振り返ると、アルハザードが僕の足首につかまって続いていた。
「このアブドゥルをお見捨てとは冷たい、フィリップ坊ちゃん」
「何とか振り落とせませんか?」
  サムが振り返って尋ねた。
「ちょっと無理みたいだよ。彼はとてつもなく執念深いから」
  落ちて行く小部屋を見やりながら、僕らは上へ上へと飛んだ。
  いつの間にか、鏡のように輝く果てしなく丸い筒を上昇していた。
  正確に言うと「筒」ではない八角形や一六角形、二四角形よりも細かく分割されている。
  無数の細い並行した筋で仕切られた鏡には細長くなって飛ぶ僕らの姿が無限に写し出されている。
「この辺でいいかな」
  サムはそう言って飛ぶことを止め、宙空に静止した。
  数え切れぬほどの小部屋は落下を続けているが、速度は早くない。まるで濃いコロイドかゲルの中を沈むように、ゆっくりとゆらめきながら沈んで行く感じだ。
  落ちながら部屋の扉が開いて、中の物質が少しずつにじみ出し始めた。
  先ほどの肉質のもの、色とりどりの鉱物のかけら、各種の触手、肉手、辨毛、大小硬軟取り混ぜた鱗、何千何万種類もの透き通ったプランクトン…
  それらは周りの鏡に反射して、幾つもの無限の図形を造形し、顕微鏡で覗いた細胞のような、幾年もの歳月をかけて織り上げられたペルシアの緞通のような、神秘的な模様と
なった。
「おお…  おお…  これじゃ!  これじゃ!儂が長年探し求めてきたのは!  自らの思い通りの生命生物を作り出す創命の万華鏡…」
  感きわまったアルハザードは、僕の足を掴んでいた手を放しかけた。
  足を振れば、狂えるアラビア人もまっさかさまに落ちていくと思ったが、僕はやらなかった。
  奴のことだ、あっちこっちで名状し難い細胞と融合し、とんでもない化け物となって復活してくるに違いない…
  そうこうするうちに、まるで見えない巨人が円筒を回したかのように、筒全体がゆっくりと回転した。
  つられて筒の下部の細胞の模様も変化した。細胞膜が網が引っ張られたように歪み、核の形も変わり、原形質がぐにゃぐにゃと揺れた。
  千変万化ぶりは全く万華鏡だった。
「星からやってきて、ガードナー家の井戸に飛び込んだ色彩のかけらというのは、あの一部のことなんだ」
  サムがぽつりと呟いた。自分の何倍もある僕やアルハザードをぶら下げているのに、びくともしていない。
  なるほど、端ばしに目を凝らすと、玩具の万花鏡に入っている色板を細かくちぎったものが無数に寄せ集まっている。
「神神の創世の道具さ。下僕と呼ばれるものも、外に溢れていた不気味な連中も、完全な失敗作も、みんなここから生まれたんだ。宇宙にはこれと同じものや、同じ機能だけど形は違うものが無数にあるんだよ。
  魔女がいろんな材料を混ぜ合わせて魔法の薬を作り、死体蘇生者がいろんな死体の部分から一人を甦らせるように…
「貴様自身もこいつからわいて出たのだろう、この化け猫野郎?」
  アルハザードがわめく。
  愚かな魔導士がいつまでもぶら下がっているせいで、足が痺れてきた。
「じゃあもういいね?  余り長くいると、前と同じ空間と時間に戻れなくなってしまうんだ」
  サムがヒゲをピクピクと動かすと、真上に僕らがやっと通れるぐらいの次元の歪みが現れ、波紋を描いて揺れた。
「わ、儂は帰らんぞ!  ここに留まって、クトゥルーやハスターやツトゥグアを造り出し儂はその頂点に立つのじゃ!」
「無理だね。これから思いの通りの生命体を造り出すには、神──外なる神もしくは善き神以上の存在でないと。
  いかに優れていても、人類には不可能だ」
  一人と一匹が言い争いをしている間にも、下では着々と新たな創造が行われていた。
  見えざる手が種の元となる原形質を捏ね合わせ、パン生地のようによく練って、気紛れな形を作っていた。
  三日月形のひとで、腹側にも背中側にも足の付いている頭足類。触手の一本一本が違った形をしている磯巾着…
  記憶の封印を引き剥がして現れた始源の生命たちが次々と生まれ出て、次元の隙間から外へと出ていた。
「──帰りたければおまえたちがけで帰るがいい!  儂はここに残らせて貰うぞ、と言いたいが、儂一人では下界との行き来がままならぬ。
  おまえらも残って貰おうか」
  アルハザードは瞬間的に稲妻を放電した。
  サミュエルはびくともしなかったが、仰天した僕は魔導士とともにまっさかさまに下へと落ちた。
「ハワード!」
  直ちに急降下して助けにきてくれたサムに向かって愚かな魔導士はありったけの炎球や衝撃球を放って振り切ろうとした。
  もちろん、これぐらいのことでやられるサムではなかったけれど、余りの執拗さに透明の幕を張っている間に間隔は開いてしまった。
  サムにとってはアラビアの老魔導士如きは一撃で撃墜できたはずだが、僕が人質に取られている形なので躊躇したのだろう。

  暫くして僕らは万華鏡の底の部分に軟着地した。
  足下は色も質量も様々のゼリー状の物質でまともに立っていることもおぼつかなかった。
  その床から、脂に汚れた皿が洗い桶の中に漬けているうちに脂汚れが離れていくように、色も形も鱗も出鱈目な原生生物が次々と剥離して何処かへ去っていった。
「さてと、やるぞ!  愈々儂の積年の夢が叶うのじゃ!」
  感きわまったアルハザードは無意識のうちに離れて去ろうとした小さな化け物を踏み潰し、はたき落とし、握り潰した。
  言う間にもサムは不埒な魔導士が築いた弾幕を蹴散らして見る見るうちに降りて来る。「待っていろよ!  あれを作ってしまえば、あんな奴など一揉みなのじゃ」
  宣う割には、魔導士の息は切れ、魔力は素人の端目にも使い尽くして僅かさえ残っていない様子だった。
「…まず頭じゃ  …それから触手  …それから鱗木のような足  …つ、翼もつけて…」
  出来上がったそれはランプで観た「クトゥルー」と言う旧き支配者の一のつもりらしかったが、大きさが手のひらに乗る程度で、おまけに生気霊気がまるでなかった。
  こんな玩具は、子供でも恐しがったりしないだろう。
  アルハザードが酸素不足の金魚のように、口をすぼめてパクパクと呪文らしきものを唱えると、小さかったクトゥルーは突如辺りの空気を吸って膨張し、天を突き、筒全体を塞ぐくらいに膨らんだ。
  なるほど、これくらい大きくなると少しは恐ろしいが、中身はからっぽらしく、そよ吹く風にさえゆらゆらと揺れ、足元すら定まらず、はなはだ間抜けなものだった。
  弾幕を全て掌に吸収したサムが降りてきた。
  全身の毛を逆立てて、四肢の爪を剥き出しにしている。
「行け、我が造りしクトゥルーよ!  あんな使い魔など八つ裂きにしてしまえ!」
  魔導士の命を受けたおぞましき生物は触手を伸ばした。ただそれは見るからに元気のない、売れない歌手に向かって身内が投げた紙テープのようにへなへなとしていた。
  勝負は一瞬にしてついた。
  サミュエルの片方の前足の爪を一閃させると、アルハザードが造りだしたものは、破れた風船となって何処へともなく飛び去った。「おのれ、よくも!」
  魔導士は性懲りもなく杖をかざした。
「このうつけ者が!」
  サムが今までとはまるで違う口調で一喝した。小さな獣だったその姿は長く伸びてコートを纒った人の姿になった。
  人の姿になれる外なる神と言えば、キリスト教やユダヤ教の言うサタン、ベリアル即ち蝿の王、拝火教の言うアーリマン、ありとあらゆる悪の化身にして無数の有名無名の使徒を従える混沌の主をおいて他にない。
  僕は全身に鳥膚がたった。今までも結構戦慄する光景を見てきたけれど、こんなことはなかった。
  この世の一切合切を破滅に導く魔王は、見かけはどこも恐ろしくはない、ごく普通の人間の格好をしていた。
「貴神はひょっとして…」
  誇大妄想癖のあるだけの二流の魔導士も、ようやくにして悟ったようだった。
「──貴神の本当の姿を見た者は、例外なく正気と生命を奪われるそうですが…」
  旧き神、ナイアーラトテップは答えない。「…儂は特別でしょうな?  これだけ旧き神神やその下僕、その支配する世界について研究研鑽を重ね、著書を著し、魔導士仲間に広め、封印を解くことに微力を尽くしてきた儂を…」
  アルハザードは慌てて杖を投げだし、土下座して神の靴に接吻しようとした。
「──小僧、おまえからも頼んでくれ  儂はここに星が墮ちるのを見にきただけなんだ」「どうする、フィリップ?」
  やがては人類を滅ぼす定めにあるという古き神──正確には古き蛇は、瓢軽なサミュエルの口調に戻って尋ねた。
「彼も貴神の使徒の端くれですから…」
  喉がカラカラに渇いて、声がかすれた。とにかく圧倒的な殺気だった。
「こ、小僧の言う通りです。今までの失敗、不義理、不始末の数々は、近々必ず、一気に名誉挽回しますので」
  アルハザードは顔をブヨブヨの床にめり込ませて慈悲を乞うた。
「──とりあえずルルイエ環礁に赴き…」
「もういい!」
  古き神の審判は下った。
「──そこの、何と言ったかな?」
  古き神はアルハザードの名を忘れていた。魔導士にとっては少なからずの衝撃だったことだろうが、大大大邪神にとっては、人間の一魔導士の名前など、どうでもいいことだろう。
「あ、アブドゥル…」
  蚊の鳴くような声だ。
「消えろ!」
  原形質の床から何本かの触手が伸びたかと思うと、土下座しているアルハザードの頭にからみつき、ズボッと中に引きずり込んだ。「さてと…」
  古き神の一人は、また黒い小さな獣の姿に戻った。
  僕はもう二度と彼を正視することができなかった。

  気が付くと、僕はロードアイランド州プロヴィデンス、エンジェル通りの家の自分の寝室の寝台で、寝間着を着て眠っていた。
  開かれたままの窓からは、紺青色の夜空と白く輝く銀河が見えた。
(何だ、みんな夢だったのか…)
  それにしても変な夢だった。やはりお母さんの言う通り、物語の本の読み過ぎなのかもしれない…
  壁に据え付けられたマホガニーの本棚では千一夜物語の表紙に描かれたアラビア人の魔導士がニヤリと笑い、白衣姿のフランケンシュタイン博士がメスを光らせ、グリム童話の魔法使いのお婆さんが手招きをしている。
  窓から外を見ると、黒猫のサミュエル・
パーキンスが屋根の上を散歩していた。
  と、白く鮮やかな一条の糸を曳いて、流星が墮ちた。
  ブラウン大学の裏の山手のほうだ。
  星が落ちたあたりはにぶい銀色に輝いている。
  これは絶対に行かなくっちゃあ…





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