ソロモンの封印 昼間だというのに懐中電灯の明かりが必要なくらいに暗い。時折きらめく稲妻が古ぼけたエドワード様式の樫のドアの真鍮のノヴと鍵穴を白く照らし出す。 アーカムの街をメーターが一周したガタガタのレンタカーで出発してからというもの、ここに来るまでただの一台の車にも、もちろんバイク、自転車、歩行者にも出会わなかったのはもっけの幸いだった。最新式の警報設備が設置されていないか不安だったが、そんなものがある気配はなく、ハッタリの警告の看板すら貼ってはいなかった。 掌の中で針金やらクリップやらを曲げては鍵穴に差し込みガチャガチャやっていると、ガチャリと鈍い音がして鍵は外れた。 手袋をした手をノヴにかけてゆっくりと回すと、ドアはギイッという嫌なきしみをたてて開いた。わたしは泥棒ではない。つい五分前まではいかなる犯罪行為とも係わりはなかった。それがストラザーンの自宅兼アトリエに不法侵入しようとしているのには訳がある。ストラザーンは度外れた売れっ子になりいまや合衆国におけるクリーチャー造形の仕事をギーガーともども独占している。お陰でこちらは商売が上がったりだ。何もメジャー映画のモンスター・デザインをやらせろ、などと身の程知らずなことは言ってはいない。ただ細々と続けてきた、年に一冊出るか出ないかの、新たに書き継がれたクトゥルー神話のペイパーバックの表紙の仕事まで攫って行くことはないじゃないか? おまけにストラザーンは金に困ってはいない。それどころか大統領がフセインに向かってミサイルを発射するのを財政的に支援している。ロサンゼルスにはもうじき彼の名を冠したクリーチャーの造形美術館が建つ。写真集は一○○万部を越えた。怪獣のデザインの依頼は日本からも来ている。マスコミのインタヴューを受けない日はない… ストラザーンの、ここマサチューセッツの片田舎の隠れアトリエを捜し出すのには苦労した。彼の表向きのアトリエはビバリー・ヒルズのど真ん中にあって、打合せや取材やパーティなどはほぼ一○○パーセントそちらで行われていた。燦燦としたカリフォルニアの太陽に輝く白亜の豪邸−−彼の案になる有名モンスターたちは、広間でスポットライトを浴びながらガラスのケースに収まっている。 しかしわたしは長年の努力の結果、ストラザーンがそこでは実質の仕事をしていないと悟った。 四八時間以上のまとまった空き時間ができると、彼は豪邸の抜け道から脱出し、秘密の出口から郊外の空港へと目立たない車を走らせる。そこからは小さな、別の人間の名義になっている自家用ジェットで(ストラザーンは飛行機の免許も持っている)一人で東部の鄙びた空港に向かうのだ。 後はやはり目立たないホンダの車で何マイルかのドライヴ。それが「ここ」だ。 思えば彼が出世の梯子を着実に登っていくのをただ黙って指をくわえて見ているだけの月日だった。もう我慢も堪忍も限界だ。どうせ税金に納めてしまう金ならば、少しぐらい恵んでくれてもよかろう? 何も金を寄越せなどと不粋なことは言っていない。その泉のように湧き出るアイディアと、イメージのほとばしりのヒントをどこから得ているか、ほんのちょっぴり教えてもらうだけでいいのだ。 それを知った上で、とてもわたし如きが真似できるものでなければ、男らしく潔く黙って引き下がろう。もしも簡単に瓢切できるものならば、ほんの少しだけ頂こうじゃないか。それが平等というものじゃないか? そのためにこちらも多少の金をかけてきた。 自慢じゃないが、そこらへんの新聞や週刊雑誌の特種記者が及びもつかない方法−−タロットやダウジングや、透視術や、その他古より伝わる数多の占いを駆使して、やっとここを突き止めたのだ。 正直言ってサンフランシスコの中国人街で顔じゅう白鬚の筮竹占い師から、 「あんたの商売仇は、ここより東に遠く離れたこの国一、二の古い町のはずれの小さな町に、命の本体を置いている」 と言われた時には耳を疑った。だがしかし、占いを信じてボストン周辺の小さな空港を虱つぶしに調べ、そこでロサンゼルス近辺から定期的に行き来している人間をピックアップし、偽名であることを考慮して一人づつ、文字通り一人づつ、飛行機から降り立つところを我と我が双眼鏡で確かめたのが功を奏した。 自らの莫迦げた行動に辟易しかけていたある日、量産型のパイパーから降りてきたサングラスにアポロキャップ、髯の男はとてもマルコム・ストラザーンその人とはいいがたかったが、どことなく顔の骨格が似ていたのと、磨き抜いた勘で一目で怪しいと睨んだ。 望遠レンズで隠し撮りした写真を自宅に持ち帰り、コンピュータで処理してみると、シリコンのパテで顔の肉を盛り上げた奴そのものだった。 後はストラザーンが再び同じ空港に現れるのを待ち受け、彼がボストンの友人の名義で購入していた中古のホンダに鈴虫の形の発振機ををセットしておくのはごく簡単だった。 かくしてわたしはここにいる。彼の秘密のアトリエ・ガレージに。 ドアは嫌な音をたてて開き、いるはずのない近所の人間に見咎められないように中を改めるよりも先に、身体を背中から館の中に滑り込ませた。 ギィイ、ガシャン… と、ドアは開いた時にも増して断末魔のきしみをたてて閉った。内側からは簡単に開くのか気になったわたしはすぐにノヴに手をかけて回してみたが、ビクとも動かなかった。 (外から開ける時も、内側から開ける時も鍵のいるドアなのか? ままよ! そのことについて悩むのは帰る時でいい。ストラザーンは当分ここには帰らないのだ。なにしろ彼はいま栄えあるアカデミー特殊視覚効果賞の発表授賞式のため、ロサンゼルスのチャイニーズシアターにいるのだ) 開き直り、マグライトの光量を最大にして奥に向かって振り返ったわたしは思わず「アッ!」と声を上げ、手にした電灯をとり落としそうになった。 そこは洞窟だった−−いいや、いくら世の中が進んだと言っても家の中に本物の洞窟などある訳がない。発泡スチロールや粘土、各種の樹脂や天然の砂や岩をタイル状に削った造形用素材を駆使して作ったまがいものの洞窟だった。 茸や菌の類も、レジンやソフトビニールで作ってある。ヒカリタケには光ファイバーや発光ダイオードを使用していた。 (楽しませてくれるじゃないか、ストラザーン君。家の中にダンジョン、とはね) 自分自身や、普通に招待されて来た客のために、まともな電灯のスイッチもあるのだろうが、巧みに隠蔽されていて分からない。 もっともいまはアーカム一円、この嵐で変電所に大規模な落雷があって停電中。たとえスイッチの在処を知っていたとしても点灯することはできない… 奇怪な岩肌もでこぼこした床も、慣れればテーマパークの子供向けの冒険セットみたいなものだった。曰く「リトル・インディ・ジョーンズ」の洞窟、「海賊の宝」の洞窟のようなものだった。ただしそこはさすがに著名な造形師の手になるもの、節足類や地虫たちはいかなる仕掛けによるものか(電気仕掛けでないことは確かだ)甲皮をぬめぬめとてからせながら、あちらで動き、こちらを横切りしていた。 そここから生え出している水晶や長石の鉱石の結晶がライトの明かりを浴びてキラキラと鈍く輝いている。いままさに茸の一つが網状の傘をふわりと開かせた。白い粉に似た胞子を飛ばしているものもある。−−同業者ながら全く敬服するディティール・アップだ。 しかもこのような、マスコミ報道陣に見せれば小躍りして喜ぶに違いない私邸を、ストラザーンはまるで恥ずかしいものでもあるかのように極秘にしている。女性と相引きしている訳でもなく、脱税して貯めた金品を隠している訳でもない、のにだ。 それにしてもこれほどロマンティックなデートにふさわしくない場所も珍しい。やはりここは彼の秘密のイメージ工場なのだ。 少し進んだところにある、鍾乳洞の広間には、すべすべとした半径二○フィートほどの大きな円形の乳石のテーブルがあった。その上にはわたしも使っている粘土や、針金や、竹ひごや、ペンチやニッパーやへらなどの工具や、各種の樹脂を入れた缶や、エナメル塗料や筆などが雑然と散らかしてあった。 天然の丸テーブルの中央にはドーナツ状の穴があり、そこが主人の座るべき場所と見てとれた。 不思議なのは、どうやってその穴まで行くのかが分からない、ということだ。テーブルの上を歩いて行くにしては、足の踏み場もないぐらいにものが置かれている。地下から行くにしては落とし戸が見当らない… もしも仮にそこに座ったとして、どう考えても人間の腕の長さでは届かない遠い位置に重要な道具が置いてある。あれらはマジック・ハンドでもなければおいそれとは取れないだろうが、そんなものはもちろんどこにもありはしない… わたしは粘土と樹脂のことが気になった。ストラザーンが造るクリーチャーが飛び抜けてリアルなのは、材料に秘密があると睨んでいた。だがテーブルの上のそれらはプロの多くが使っている普通のもので、正直言ってがっかりとした。苦労して隠れ家を突き止め、不法侵入までした甲斐はなかったと言っていい。 樹脂と粘土は… 容器の缶やビニール袋はごくありふれた種類のものだった。ところが念のため中身を改めて見ると、それはラヴェルの通りのメーカー品ではなかった。色も艶も重さも密度も全体の感触もどこか一味違う。わたしもプロの端くれ−−ストラザーンが忽然と彗星のように現れるまではハウツー本を書いていた者だから、断言できる。 奴は我々が見たこともない特殊な種類の粘土や樹脂を、市販品の容器に移し替えて使っていた。 そうと分かると、中身を作業台に出してみたくなった。未知の食材を手に入れた料理人、知らない機械に触れた技術者、いい女と出会った女たらし、試してみたくなる気持は誰にだってある。いわゆる好奇心というやつだ。 造ったあとはまた崩して元に戻しておけば泥棒にはならない。 わたしはまずビニール袋から粘土を取り出してこねてみることにした。色は灰色に近い乳白色。少し触ってみると、粘り、滑らかさ、伸び、ヘラのなじみ、盛り足しのどれをとっても市販のどの品物よりも極上の粘土だった。 無意識に触っているいるうちに、心の中に不思議な感情が沸き上がってきた。 (ストラザーンが優れているのは、彼の技術が勝れているせいだけではなく、この吟味された材料のせいではないだろうか? ならばこれらの材料を拝借して、模型を造れば、わたしにも彼と同じくらいのスーパー・リアルな水準の造形作品を作れるのではないか?) 一旦取り憑いた考えは、いくら振り払っても消えなかった。 (これを使ってもよい作品ができなければ、その時は潔くストラザーンの奴に脱帽すればよいではないか。そうだ、やって見る価値は大いにある!) 辺りを見渡すと、捨てるものらしいビニールの袋や缶が無造作に打ち捨ててあった。 そのうちのいくつかを拝借し、粘土と樹脂を拝借した。 罪の意識はあまり芽生えなかった。 (こんなに沢山あるんだ。少しぐらい減っていても疑ったりはしないだろう。 未知の素晴らしい材料を一人占めにして、仲間やファン、マニアたちに情報公開をしない奴のほうが心が狭く、悪いのだ!) 盗品を胸にかき抱いて立ち去ろうとしたわたしの目に、それまで入れてあったビニールや缶に、細いマジック・インクで何やら書いてあるのに気がついた。 (何か注意書きだろうか? 「乾燥は自然乾燥で十分時間を取ること」とか「紙やすりでの水研ぎは不可」といったことだろうか?) ストラザーンはアメリカ生まれではない。 確かベルリンの壁が崩壊する以前に旧ソ連か東欧の聞いたことのない小国から身体一つで亡命してきたはずだ。従って彼の個人的なメモは話す者は数万人もいないその国の言葉だったし、彼の話す英語はいまだにヴォイス・チェンジャーを通らせたようなくぐもっていて聞き取りにくい嫌な発音だった。 とにかく大切な「使用上の注意」だったら困ってしまう。わたしは慌ててその呪符じみた文句をメモに写し取った。 文字列の最後は、旧ソ連や東欧のアルファベットでも見たことがない奇妙な記号で締めくくられていた。 魔祓い映画によく出てくる魔法陣、五芒星と六芒星をいくつも複雑に組み合わせた聖なるシンボル−−ソロモンの封印−−に似ていないこともない。 (この造形材料を製作しているところの商標だろうか? ならば写しておくことも無駄にはなるまい) わたしは丁寧に記号を写し、他に目ぼしいものはないかもう一度調べてから逃げ出した。 空は相変わらず暗黒で、稲妻は網の目に走り、雷鳴が轟いていた。 それからどこをどうやって帰ったのか、自分でもまるで覚えてはいない。 気が付くと、アーカムのさびれたモーテルの部屋のベッドに倒れていて、目の前には盗んできた粘土と樹脂があった。 アカデミー賞の特殊視覚技術賞はやはりストラザーンが取った。インタヴュアーから差し出されるマイクの束に向かって、彼はいつものくぐもった声で「これで一応のきりがついたので、次の新しい仕事を始める前に、バハマかバミューダで一カ月ぐらい休みたい」と答えていた。そりゃあ向こう十年先までメジャーでの仕事が決まっていたら、一カ月ぐらい休んだところでビクともしないだろう。 その夜のうちに飛行機でロサンゼルスへと戻ったが、空港で粘土と樹脂がプラスティック爆弾と間違われないようにトラック便の別便として送ることにした。 羽振りが良かった頃に買った一戸建てはローンと維持費が払い続けられなくなり、いまやダウンタウンの小さなアパートの一室しかない我が家(それすら中国人の大家に対して半年も家賃をためている)に戻ってから、別便の荷物が着くのを一日千秋の思いで、どこにも外出せずに待ち続けていた。 魚っぽい顔をしたアーカムのモーテルのおかみは「なにしろ大陸を横断するので、三、四日はかかる」と言っていた。 わたしはその間に例の注意書きを翻訳しながら待つことにした。 ところが、ロシア語や東欧諸国語はもとより、インターネット・ディクショナリで調べた世界中のどの辞書にも、このような文字は載っていなかった。範囲をギリシア語、ラテン語、古代ルーン文字やメソポタミアの楔形文字にまで広げて調べてみても同じことだった。 (一体、どの時代のどの国の言葉なんだ? それとも言葉ではなく、何か装飾模様のようなものなのだろうか?) 業を煮やしたわたしは、クリーチャー製作の時に知り合った、まだ若いのに雑学知識の固まりのような小説家に教示を求める旨の手紙を出した。 そうこうしているうちに四日がたち、五日がたった。宅配便の会社に問い合わせの電話をかけようと伝票を捜していた時、電話のベルがけたたましく鳴った。受話機の向こうでは宅配会社の営業部員がやや元気のない声で「毎度弊社を御引立て頂き−−」といった決まり文句を言った。 「誠に申し訳ありません。貴方様がマサチューセッツ州アーカムの町からこちらの住所宛に発送されたサイズM、中身造形の材料(粘土と樹脂)となっていた小荷物ですが、中継地点のミズーリ州セントルイス郊外のインターステート・ハイウェイで、積載していた十一トントラックが事故を起こして炎上したために…」 「何だって?」 「当社規定の範囲内で弁償させていただきます。発送にあたって任意保険をかけておられないので、最高五○ドル、ということになりますが…」 分別のある大人としてのわたしが、半ば無意識に「それでいいです」と答えるのを、別のわたしが茫然自失の状態で聞いていた。 「一体どのような事故だったのですか?」 「私は未着輸送品の処理をする係で、あいにく詳しいことは聞いておりません」 夢うつつのうちに、羽振りがよかった頃のフラノの上着を羽織って外に出て、私立の図書館を目指した。 そこにはアメリカ五○州のおおかたの地方新聞が一、二日遅れで届けられる。 わたしはミズーリ州の何紙かを集めて人けのないテーブルに向かった。 『一五日、セントルイスより南西三三マイル地点のインターステート・ハイウェイで、xx社の貨物運送トラックが暴走、側壁を破って落下し、炎上した。 この事故で運転手の−−氏は即死、幸い落下したフリーウェイには車はおらず、巻き込まれ事故は起きなかった。 警察ではスピードの出し過ぎと見ている』 別の興味本位が売りものの新聞はわたしならずともゾッとするような記事が書かれていた。 『一六日、セントルイスより南西約四○マイルから四二マイルの地点で、不思議な生物が一○人以上の複数のドライヴァーによって目撃された。 目撃者の話を総合すると、その生物は、狐か狸か小型犬ぐらいの大きさをした白もしくは黄色がかったナメクジ状の軟体動物で、見かけによらない素早い速さ(時速二○マイルぐらい)で移動していた。 こちらが興味を持って車ごと近付こうとすると、道路の舗装、または側壁に溶け込むようにして消え失せた、と言う。 専門家に問い合わせてみたところ、「現在地球上にそのような生物はおらず、やはり何かの獣と見間違えたのではないか?」という返答が返ってきた。 だが目撃者たちはみんな一様に「あれは獣なんかじゃない! 本当に身体は大きなナメクジそっくりで、ぬめぬめとした粘液を引いていた」と証言。 早速わが社の特種記者がセントルイス市警察鑑識OBとともに現場を検証したところ、確かにそのような痕跡が認められた。 痕跡は現在分析中だが、何らかの樹脂である可能性が高いと思われる。 この痕跡はきのうのxx運送会社のトラック事故現場から始まっていた。奇怪な生物とこのトラック事故とは何らかの因果関係があるのだろうか? この仮説が正しく、謎の生物がトラックで運ばれていたのなら、運送会社の伝票のコピーを虱つぶしにあたることで何かわかるかもしれない。 なお、追跡者の気配に気がついたのか、怪生物の痕跡はオクラホマ州との州境付近でふっつりと消えていた』 わたしの背筋にゾッとするものが走った。(あいつ、生き物だったのか? いや、そんなことはない。少々失敬した時は確かに粘土と樹脂にしか見えなかった。それにそんな生き物、この地球上にいる訳がない!) その夜はストラザーンの奇妙な屋敷に侵入した日と同じぐらい激しい吹き降りとなった。 いつもは夜遅くまで安物の油の臭いをもうもう床の穴からたち上らせている階下の中華料理店も、その晩は早じまいをしたのか静かだった。 わたしは藁のはみ出た堅いベッドに転がって、 (思い過ごしだ。あれはただの交通事故で、現場近くで目撃された奇妙な生物も近所の悪童がヘアカラーで染めた何かなのだ)と自分に言い聞かせていた。 と、その時、トントンと叩く音がした。 (雨粒だ) 毛布をかぶり、寝返りを打った。 トントン。 無視するつもりがいつか毛布を脱いで跳ね起きていた。暗くて分からないが何か影が蠢めいている。 背筋にまたしても悪寒が走った。 電灯のスイッチをひねる。 わたしの上げた悲鳴は、幸い近所に落ちた雷鳴にかき消された。 ひびの入ったガラスの向こうにはべちゃっと形の崩れた、樹脂を纏った粘土の固まりがあった。 「莫迦な…」 独り言をつぶやきつつ窓辺に寄ってガラス越しに「それ」をゆっくり観察した。 ピクリとも動かない、見ようによっては反吐か汚物のような不定形の物体だ。 五分−−いや十分以上はじっと見つめ続けていただろうか、ヤツがピクリとも動かないのを確かめてから窓をほんの少し開けた。 案の定何の反応もない。 (これをずっとこのままにしておく訳にもいかないな。第一、上の階の窓から見下ろせばそれこそ何か汚いもののようじゃないか) わたしは粘土の入れ物から大振りのヘラを持ってきて、「それ」を開いている缶の中にすくい取ろうとした。 最後の一匙をすくい終えるまで何も起きなかった。 (ほら見ろ、何でもないじゃないか!) 缶にきつく蓋をして、燃えないゴミを入れてある段ボールに入れた。 (明日、車で捨ててこよう) とその時、電話のベルがけたたましく鳴り、また何インチか跳び上がるハメになった。 (謎の文字の解読を頼んだ友達からか?) そう思って受話機を取ったが違っていた。 相手は、昔よく一緒に仕事をしたものの、現在はすっかりストラザーンにご執心の特撮のプロデューサーだった。丸五年ぶり−−といったところか。 「やあキミ、元気かね?」 「お久しぶりです」 (過去に一緒に組んで作ったB級モンスター映画がレンタル・ヴィデオになることになったのかもしれないな) 「忙しい?」 「ええまあ、何とか」 (そんな訳ないだろう) 「ミズーリとカンザスとオクラホマの州境のハイウェイに出た変な生き物のことを知っているか?」 喉から心臓が飛び出し掛けたが、やっとのことで飲み込んだ。 「いいえ。何ですそれは?」 プロデューサーは饒舌に「それ」を説明してから、こう付け加えた。 「そいつの映画を作ろう、って話が急に持ち上がってね」 (そりゃあそうだろう。怪物のニュースがマスコミにのったのは、まだきのうおとといのことなのだから) 「こんなものは一分でも先に作ったものの勝ちなんだ。−−どうだろう、『オクラホマじゅうを恐怖の戦慄に陥れたオクラホマ・スライム』なんて話は?」 (どうして「ミズーリ・スライム」や「カンザス・ジェリー」ではいけないのか?) 気になったけれど、もちろんそんなことはおくびにも出さない。 「いいですね」 「いいだろう? こんなものはブワーッと撮って、ブワーッと公開しなくちゃ意味がない」 「分かりますとも!」 「できることなら明日じゅうにコンテをファックスしてくれ。クリーチャーのダミーモデルはあさってじゅうだ。できるかね?」 選択の余地はない。 「やってみます」 「そうこなくっちゃ!」 本当はストラザーンに頼みたかっただろうが、彼はいまやアカデミー特撮賞に輝くビッグ・ネームで当然ギャラも跳ね上がっているし、第一バハマかバミューダで休暇中だ。 「クリーチャーに襲われて、ドロドロのグチョグチョのゲチョゲチョにされる俳優を捜し始めるから、それはそちらに任せたよ」「ご期待に添えるものを作ってみせます」 「場合によればCGや特殊操演の予算も引き出してみせる。そのためには金を出す連中を納得させられる怪物の見本が必要なんだ。 −−脚本なんかは撮りながら何とでも変更できるからね」 「承知しました」 電話はいつの間にか切れていた。わたしに言わせれば、全宇宙のどんなに醜くおぞましく貧欲なクリーチャーよりも、ずっとえげつない連中がいる。平和で静かに暮らしている連中を叩き起こし、首に縄をつけて連れてきて、または記憶の深淵から引きずり出してきて見せ物にしようとする「人間」そのものだ。 だが、わたしや、ストラザーンや、他のクリーチャー造形作家は違う。我々は怪物や怪獣、怪人、邪悪な存在を愛している。そう、愛しているのだ。 親が子供を愛するように、動物を好きな人が動物を愛するように、そしておそらく神が人間を愛しているように。我々が怪物を創作するのは決して金のためだけではない。 だから、一旦引き受けた以上は、依頼人の思惑を越えてでも、素晴らしいクリーチャーを造る。時には予算に納まらず、シナリオからかけ離れたものであってもお構いなしのこともある。なにしろ「それ」は「我が子」なのだから。 我が子に金をケチる親は少ない。人生のシナリオを押しつける親も稀だろう。いつの場合でも親は子供が最高であることを願うだけだ。 コンテはものの一時間もしないうちに数ポーズを描き終えた。なにしろついいましがた窓枠の外にへばりついているのをこの目で見たばかりだ。あれこれ考えるよりも本物に過ぐるものはないだろう。ハイウェイで「オクラホマ・スライム」を目撃した人々も、同じものを車窓から見たはずだ。 単純にしてゾッとさせる始源の存在。動かないようで素早く、無害のようで邪悪、意思などないようで人間以上の知恵を持つ存在。 紙の上では「それ」が若干の脚色も加えて生贄を求めて伸び上がった姿勢が描かれている。 (ちょっと待て) わたしは小首をかしげた。 (こんなポーズは書いた覚えがない…) ケント紙を繰り直すと、他にも記憶にない構図のものが何点かあった。わたしは酒を飲まない。普段夢中になって創作し、知らない間に作品が完成しているということもない。 自分の作品は割合冷静かつ第三者の目で見られるほうだ。そのわたしの画帳にまるで他人が描いたかのように未知のコンテがある。 ペンタッチは間違いなくわたし自身のものだ。 (まあいい、続け様にあんな体験をしたばかりだから、無意識のうちに仕事していたんだろう) 嵐は朝になっても納まらなかった。 朝食はコーヒーだけですませ、コンテはファクシミリで送って、早速コンテの通りのオクラホマ・スライムの模型を造ることにした。 最初はいつも使っている粘土や樹脂を使うつもりだった。そのほうが使い慣れているし、材料もたくさん買い置きがあった。万一失敗した場合でもすぐに造り直せる… だが粘土をこね、だいたいの形を整えてディティールを考えているうちに、自分がいつも使っている材料ではあの独特のぬめーっとした感じやおぞましさが表現できないのではないか? と思えてきた。 「オクラホマ・スライム」はあくまでも「オクラホマ・スライム」でなければならない。 作業を進めつつも「あいつ」を閉じ込めた缶に目をやることが多くなってきた。 そして、自分の創作物を製陶用の乾燥機に入れる段になって、そいつはオリジナルからは比較にならないほど劣るガラクタであることを悟った。 震える手が缶の蓋を開けていた。中にはぎとぎととした樹脂に照り輝く「あいつ」がいた。もちろん弱ってなんかいない。早々と自分の出番が巡ってきたので傍目にも興奮している様子だ。 作業台に打ちあけると、まるで生きのいい魚のようにビシャッと跳ね、勢いで愚作を床に落とし、元の粘土の固まりに戻してしまった。 もう後戻りはできない… 出来上がったクリーチャーにOKが出て、ポスターやスティールに使われたとしよう。 それを旅から帰ってきたストラザーンが見て、「あれは私のところから盗まれたオリジナルの粘土と樹脂を使ったものだ」と言い張ったたとしよう。成分検査をすればストラザーンのものと、わたしの今回のものが同じ材料で成り立っていることは明らかだから、嘘はつき通せない。その時は潔く、ストラザーンの秘密のアトリエに忍び込んだことを認めた上でこう言おう。 「こんな素晴らしい材料を一人で使っているとは、いささかずるい。特許を取った上でいいからぜひ製法を公開して、他の造形作家も使えるようにして欲しい」 なあに、わたしは善良な市民で前科も全くない。同業者の隠れ家に忍び込み、材料をほんの少々失敬したぐらいでは、例え告訴されても執行猶予がつくだろう。なにしろ金目のものには一切手をつけてないのだ。 −−いや、うまくいけば示談ですむかもしれない。ストラザーンも今や有名人。なるべくなら裁判沙汰は起こしたくないだろう。 粘土と樹脂の缶それぞれ一つづつを黙って拝借した「友」を訴えれば「心の狭い奴」というレッテルを貼られてかえってイメージ・ダウンは免れられない… 作業台の上の「オクラホマ・スライム」はまるで加工する必要がなかった。 いかなる仕組みでエネルギーを拡大しているのか、わたしの息の一吹きにもゆらゆらと揺れ、雷の音にピクンと反応した。 電池も、コードも、もちろんピアノ線にもよらないでこれだけダイナミックに動くクリーチャーは初めてだった。ひょっとすると電灯の光や、空気中の静電気を集めて動く夢の新素材かもしれない。だとしたら用途は無限大だ。 奴がのたうち、蠢くのを感心と憧れの眼差しでぼんやりと見つめていると、電話のベルがけたたましく鳴った。 昨日のプロデューサーだ。 「だいたいいいだろう。だけど問題はあくまでも模型だぞ。うちの監督は結構うるさいからな。動きやカメラ写りがイマイチだと、ボツにするからな。−−本当に明日で大丈夫なのか?」 わたしは目の前の当の実物を眺めながら、「大丈夫です」と乾いた声で答えた。 いつもなら緊張のあまりしゃちこばった言葉使いになり、ぎくしゃくしてしまう仕事の話も、まるで夢うつつの会話みたいに、相手の言うことをよく聞き、理想的な応答をすることができた。 他でもない、「オクラホマ・スライム」がわたしの心の念ずる通り、右と思えば右に頭部(らしきもの)を傾け、左と思えば左に、まっすぐ進むように念ずると、そのように動くことが分かったからだ。 「−−じゃあ明日の正午。監督や助監督、映画投資家やその代理人たちも招いておくから忘れずに模型を持ってきてくれたまえよ」 電話はいつの間にか切れ、「ツーツー」という発信音だけになっていた。 (大丈夫。大丈夫ですよ、プロデューサー。いまの模型操演の技術で、CGを除けばこれほどまでにこちらの思いの通りに動かせるモノなんて、まずありませんよ…) 心の中でそうつぶやきながら受話機を元に戻した。 その夜も一晩じゅうヤツにいろんな動きを仕込んでいた。 空中へのジャンプ、分裂と再構成、身体の一部を鞭のようにして触手として使うこと。 カメレオンよろしく周囲にある同じ大きさの他の物体への変態。極め付きは壁のすり抜け。−−ヤツは作業台のテーブルを通り抜けて床に落ちることも出来た。 結局二晩続けての徹夜になってしまったがわたしの頭は冴え渡っていた。 コーヒーで喉だけ湿らせると、電話でハイヤーを呼んだ。 「一体どういう風の吹き回しだ。そんな金があるなら、たまっている家賃を払ってくれ」 家主である中華料理店の店主は油煙で黒くなった顔で叫んでいた。 そう心配するな。もうじき耳を揃えて払ってやる。ついでにここも出て行ってやる。 ストラザーンがほんの僅かの間に名声を築き、財を成したのにはやはり訳があったのだ。 人間、お互いそんなに才能に差がある訳じゃない。ストラザーンがヒットさせたクリーチャーたちには、部分部分にこの秘密の素材を使っていたのだ。だからこその存在感、リアルな動き、真の恐怖をフィルムに焼き付けることができた。つまり、これがなければ−−この素材を見つけ、あるいは発明したのが才能だ、と言うのならその才能は認めるが−−彼もただの怪物マニアにしかすぎない。そういうことだ。 わたしは自作を運搬する時、絶対に他人には任せない。それが原型−−オリジナルならニューヨークだろうが、カナダだろうが、小さいものなら必ず自分の膝に乗せて行く。まかりまちがっても助手席に置いてシートベルトや補助紐で固定し、自分で運転したりはしない。自作を他人の目にさらす瞬間のことを想像すると、気が散って事故を起こしそうだし、いくら硬質のレジンでできていて、梱包には細心の注意を払っているとはいえ、シートよりは膝のほうがより安心だ。いざと言う時は身を挺して守るつもりだったが、本当を言えば、高価な美術品なみに前後と両脇に護衛の車をつけた装甲トラックをチャーターしたいぐらいだった。 それも、ひょっとすると手が届きかけているかも知れない… ロサンゼルスの高層ビルの一室に着いたときは一番乗りだったが、ほどなくプロデューサーがやってきた。 「その箱の中がそうなんだね? −−いや、実は監督の奴がコンテを見て反対してね。 『目撃者の証言に沿ったものか何か知らないが、余りにのっぺらぼうでメリハリがない』と言うんだよ。『ここは噂をうんとふくらませて鱗か甲羅で覆われているとか、あっちこっち斑点状に光るとか、派手にしなければ九○分もたないよ』とも言っていたな」 監督はどこにでもいる奴−−自分では何一つ思いつかない癖に、他人の意見にはすぐケチをつけ、または力関係が弱いと見るや徹底的にけなす種類の男だった。こういうヤツは決まって有名な作家の作品は手のひらを返したように有難がり、褒めちぎる。 しかし今日のわたしは自信があった。静止画でアッピールするところが少なくても、その動きを見ればきっと納得してもらえると確信していた。 他のメンバーが参々伍々集まり、件の監督が時間より少し遅れてやってきた。 「キミ、あのままじゃあダメだよ。ただの粘土と樹脂の固まりで、全然芸というものがないじゃないか」 「そんなこと言わずに、とにかくゆっくり見てやれよ。この場で操演してくれるそうだから」 プロデューサーが助け舟を出してくれた。 わたしはゆっくりと慎重に箱を開け、詰め物をとりだした。 みんなが固唾を飲む音が聞こえる。「彼」はきっと期待に応えてくれるだろう。 最後の不透明保護シートを外したわたしは思わず「アッ!」と声を上げた。 彼は姿を変えていた。ところどころに青銀色に輝く鱗と、茶褐色の甲羅があり、身体全体はサイケデリックな色で色どられていた。 一同から長い感嘆の溜め息が漏れた。 「すごい!」 「素晴らしい!」 「コンテと違うね」 「まるでストラザーンが造った原型のようだ」 最後の感想は実に鋭いと言えた。 「動かしてみせます」 「可動するのか?」 「ぜひ早く見せてくれたまえ」 深く突っ込まれないうちに、わたしは素早く両手を「オクラホマ・スライム」−−いまやただのスライムとは言えないぐらいにデコレートされてしまったが−−の上にかざした。 密生したピンク色の触手の先端がもぞもぞと動き出すと、スタッフからは「おお」という驚嘆の声が漏れた。ただ一人、懐疑派の監督だけは「ふん、どうせ静電気か何かを使ったトリックだ」と吐き捨てるように言った。 わたしが目を半眼に閉じてさらに精神を集中すると、模型のクリーチャーはゆっくりと会議室のテーブルの上を粘液の跡を引きながら動き始めた。もちろん触手や胴体のあちこちを膨らませたりへこませたりしたままだ。「凄い! 中に動力と電池が仕込んであるのか?」 「どういう操演方法をとっているのだ?」 驚きのどよめきは極地に達した。わたし自身の興奮も押さえられなかった。ただ一人監督だけがテーブルの下を覗き込んだり、模型そのものに触ろうとしていた。 「きっと磁石かモルモットとかの小動物を 使っているんだ」 「お手を触れないで下さい」 忠告したけれども間に合わなかった。監督がクリーチャーを鷲掴みにして持ち上げようと手をさらに伸ばしたとき、ゴムのように伸びた何本かの触手がしなってしばいた。 「痛ッ!」 引っ込められた監督の手の甲には何本もの赤いみみず腫れが走り、赤黒い皮膚が露出して血がポタポタとこぼれた。 「何て危険なんだ! いくらよくできているか知らんが、こんな危険なものを使う訳にはいかんぞ。−−皆さんもご覧になったでしょう?」 監督はハンケチを手に巻きつけながら鬼の首を取ったように吠え立てた。 おそらく、いつものように自分が使いたい別のクリーチャー作家がいるのだろう。 「監督が不用意に手を伸ばされたからです。 わたしだけに操演を任せて下さって、撮影中は指示に従い、企業秘密を守って下さるのなら、何の危険もリスクもありません」 「嫌だ! 第一これは私が当初考えていた『オクラホマ・スライム』のイメージとは違う!」 監督は言い張ったが、プロデューサーを始めスタッフの目はみんなわたしのほうに向いていた。 「では数日後にまた製作会議を持つ、ということで」 プロデューサーのとりなしでプレゼンテーションはお開きとなった。 「私は操演の仕組みが明らかでないクリーチャーなど金輪際使わないからな」 「彼」をしまいかけているわたしに向かって監督は唾を飛ばして言った。 「でもストラザーンとは組んで仕事をなさったじゃないですか?」 「ストラザーンは特別だ。おまえまさかストラザーンと自分を一緒にするつもりじゃなかろうな?」 「模型の企業秘密を守りたい気持は同じです」「そういう科白は観客を一千万人動員して、アカデミー賞視覚効果賞を取ってからにして欲しいんだが」 「君、早く手当をしないと黴菌が入るかもしれないよ」 プロデューサーに促された監督はドアを叩き付けるように閉めて会議室から出ていった。「すまないね。彼は親会社のメジャーから出向して来ている男で、使わざるを得ないのだよ。本人もこんなところでいささか意にそわぬ仕事ばかりさせられて機嫌が悪いんだろう」 どうせそんなことだろうと思った。 ともあれ、プロデューサーを始めスタッフ一同の感触がいいのは何よりだった。要するにあの監督さえどうにかなれば、話はとんとん拍子に進みそうだった。 わたしは来た時と同じように「オクラホマ・スライム」を膝に乗せてタクシーで帰った。−−箱の中身は数時間前とは似ても似つかぬものになっていたけれど。 話が本決まりになれば、毎日映画会社の運転手付きの車で送迎してもらえるはずだった。 契約金の前渡し分も期待できる。そうすればあの油臭い中華料理店ともおさらばだ。 ビバリーヒルズやベルエアまでとは行かないまでも、そこそこのところに借家を借りれるだろう… 部屋に戻ると留守番電話が一件入っていた。 映画の件と思ってすぐに再生したが違っていた。相手は数日前に、ストラザーンの材料の箱に書かれていた記号と文字の解読を頼んだ作家の友人だった。 「−−やあ、ぼくだ。あの記号と文字はどこに書いてあったんだい? あれはマイナーな古代文字だ。アラビア半島の南端、現在のイエメンのマリブにあるダムの碑文の文字ににている。その文字は現在専門家がスーパー・コンピュータを駆使して解析中だが、まだ解読されていない。 その学者さんの助けになれば、と思って勝手で悪いとは思ったが、研究所のほうにコピーを送っておいた。運がよければ返事をくれるだろう。役に立てなくてすまん。 ただ、ぼくの勘ではあれは…」 安物の留守番電話だったので、伝言は途中で途切れていた。相手は録音されているつもりで最後まで喋っていただろうが。 すぐに掛け直すつもりが、二日間の徹夜の疲れがドッと襲ってきて、上着を脱いだだけでボロ・ベッドに倒れ込んだ。 麻婆豆腐の鼻をつく臭いで目が覚めた。 今度の前線はしつこいのか、窓の外はまだどんよりと曇ってる。 何気なくテーブルのほうに目をやって、 「アッ!」と声を上げた。 箱の中の「彼」が忽然といなくなっている。 空気を入れて少しでもいい状態にしておこうと思って開けておいた蓋の下はカラッポだった。 (盗まれたんだ!) とっさに考えが頭の中を駆け巡った。 (−−きのうは大勢の人々に「彼」を見せた。特にあの監督が怪しい… みんなが認めてくれたのにあんなにけなしたと言うのは、本当は欲しかったせいじゃないか?) わたしは頭を掻きむしった。 小きれいな借家が、多機能の留守番電話が、ストラザーンを見返す作品が、ガラガラと音を立てて崩れた。 部屋のドアを見にいく。安物の鍵だがきちんと掛かっている。ドア・チェーンもだ。ここのドア・チェーンは、見知らぬ来客があってもその顔を確かめることはほとんど不可能なぐらい幅がない。合鍵による侵入者を防止する効果だけが売り物のものだ。おまけに鎖には鈴も付いている。いくら熟睡していても目覚めるくらい大きな音がする鈴だ。泥棒がドアから侵入することは不可能だ。 わたしは小走りに窓に向かった。たった一つの窓にもちゃんと掛け金がかかっており、ガラスの向こうのくすんだ町はまた雨に濡れていた。 (密室じゃないか。「彼」を盗んだ奴はどこから来て、どうやって帰ったんだ?) 狐につままれた気分とはこのことだ。 もう一度よく観察すると、窓の桟に「ヤツ」が動いた跡らしいま新しいぬめりがあった。(ヤツが、わたしのところに戻ってきたのと同じように、去って行ってしまったのか? 建て付けの悪い窓の僅かな隙間をくぐり抜けて…) 盗難に会ったのでないと分かって嬉しかったけれど、「彼」が姿を消したという事実は動かず、ほどなくより深い切望と落胆に襲われた。 (もう疑いない。「あれ」は特殊な生き物だ。あいつは運転手を襲ってトラックから脱出し、臭いか何かの記憶で全米二億四千万人の中からわたしの棲み家を捜し出してここへ来たんだ。 そしてわたしの望む通りに姿を変え、動き回ってくれたものの、自分が金儲けに利用されそうなのが嫌になって逃げ出してしまったんだ…) 悔しさと哀しみをこらえている時、電話が鳴った。たとえ仕事の進行に関する電話だったとしても、わたしはもう「オクラホマ・スライム」を造ることはできない。あんなに素晴らしいクリーチャーは二度と。 到底取る気はしなかったが、もしかすると近所の人間−−中華料理店の親父−−あたりが脱走した「あいつ」を見かけたのではないかと思い、勇気を出して受話機を取った。 それは意外にも昨日わたしの造形をけなしいじめた監督の声だった。 「もしもし、すぐ来てくれ!」 声は切羽詰まっていた。身体に何か異常が起きているような、苦しげな息遣いだった。「急病ですか? ご病気ならば医者か救急車をお呼びになられたほうが…」 いびられた記憶が新しかったから、わたしは冷たく言い放った。 「違う! 病気じゃない。とにかく来てくれれば分かる! キミでないと解決しないことなのだ。来ないで大損をしても知らないぞ」 わたしは家出した「ヤツ」のことを考えた。(まさかわたしの代わりに復讐に出かけたのでは…) 「すぐにお伺いします」 監督の仕事場へは何度か行ったことがあり覚えていた。町の反対側の高級マンションの一室だ。 大通りでタクシーを拾い、小一時間ほどで着いた。 ドアマンには話が通っていた。恐る恐るノックすると、監督本人が出た。 やや顔色が悪いものの、電話を掛けてきた時の発作は収まっている様子だった。 「やあ、キミか。朝早く一体何の用だい? 電話じゃいけなかったのかい?」 「『何の用』って、監督、貴方がわたしを呼び出したんじゃないですか」 不気味な沈黙が流れた。監督は血走った目でしばしわたしを睨みつけたあと、ぎこちない、人形めいた笑みを浮かべながら椅子を勧めた。 「そうだ。実は昨日のことを謝ろうと思ってね。『オクラホマ・スライム』のクリーチャー、あれはやっぱりあれでいいよ。一晩ゆっくり考えたのだが、みんなが言う通り、イメージにピッタリだ」 礼を言おうにも肝心の「彼」は家出中だ。 それよりもわたしは監督のシャツの中の胸が妙に波打つのが気になった。まるで腹の中で何かが巣喰っているようだ。 (もしや…)と思わないほうが不思議だろう。「『キミ』か?」 ゴクリと生唾を飲み込んで尋ねた。 「仕事が欲しいんだろう? 好きなことをやって大金を儲けたいんだろう? 作品をヒットさせてストラザーンを見返したいんだろう?」 相手は認めも否定もせずに言った。 「そうです。しかし−−」 「もう後戻りはできない。『封印』を解いた時から後戻りはできなくなっているのだ。君のために、わたしが新しい住居を借りて、荷物も運ばせておいた。今夜はそちらに帰りたまえ」 相手は地獄の底から響いてくるような低い声で呟いた。 ソロモンの封印(承前) 帰りは、また、どこをどんなふうに通ったのか分からない。 それまで不遇の時を過ごしていた場末の中華料理店の前に立って、はじめて間違えたことに気が付いた。 (莫迦だなあ… 監督に新しい家を借りたばかりじゃないか。もとの恵まれた生活に戻れる第一歩として) 情け無くなる反面、 (いやいや、監督はああ言ってくれたが、肝心の「ヤツ」が消えてしまった以上、ここに戻ったほうが正しいのかもしれない…) と覚悟を決めた。 それにしても監督の豹変ぶりには驚かされた。言葉も態度も昨日とは全く正反対。誰かに説得されたというよりは、何者かに洗脳されたような様子だった。 「おやあんた、何か忘れ物かい?」 もうもうとした油煙の中から、油にテカった皺だらけの顔を覗かせる店主の見慣れた姿にわたしは思わず我に返った。 「ええ。すみません」 狭くて急な階段を上ったわたしの前に、ガランとした埃だらけの小さな部屋が広がっていた。 開いたままのドアの先には、ひびをテープで修理したガラス窓があり、さらにその向こうには呪いの呪文のように見える謎めいた漢字の看板の海が見えた。 (ここだってそんなに悪い所ではなかったな) かすかに残る樹脂や塗料やシンナーの臭いを嗅ぎつつ一歩踏み出したわたしは、「アッ」と声を上げた。 壊れて放置された安物の椅子の上に「ヤツ」がいたのだ。 走って駆け寄り、まるで数日ぶりに帰ってきた猫を抱きしめて撫でるように、手で持って触れてみた。 気のせいか、大きさ、目方ともに少しばかり減ったようだが、間違いなく「ヤツ」だった。 「よかった…」 涙こそ流さなかったものの、安堵の様子は他人が見ていたら滑稽なぐらいだっただろう。 例えそれがどんなに特別な粘土、特別な樹脂で造ったこの世に二つとないクリーチャーでも、だ。 部屋の隅に積んだままの、映画会社と契約している運送会社のま新しい段ボールの箱に「ヤツ」を入れ、一歩一歩、慎重に足元を確かめながら階段を降りた。 「どうだい、見つかったかね?」 「ええ、ありました」 「もしもうまく行かなかったら、またここに戻ってきな」 店主の言葉は嬉しかったが、もうわたしには絶対にそんな気はなかった。 (今度の今度こそ、成功させてやる) 取り立てて大きな障害が消滅したいま、しぼみかけていた野心は日本の怪獣映画なみに巨大化し、こちらは二度としぼむことはなかった。 スピード企画によるやっつけ撮影が始まった。天幕状に広がった「オクラホマ・スライム」が牧場主や保安官に扮した犠牲者役の俳優に覆いかぶさり貪り喰うシーンなどはCGとなったが、それがのそのそと田舎の道を這い進んだり、農家の家の中を生贄を求めて徘徊するシーンは「ヤツ」−−わたしの造った模型を使っての操演で行うことになった。 普通、このような不定形クリーチャー模型の操演は、クレイ(粘土)や可動樹脂模型を用いて一コマづつ撮影する。文字通り気の遠くなる作業だ。 しかし、今までストラザーンだけが行うことができた「両手の静電気を利用した」「全く独自の」「セルロイドなみの強い帯電物質を混合した」特殊樹脂模型を、このわたしが操って、撮影は遊園地での「Xメン・ショー」なみのスピードではかどった。 牛か豚の生レバーなみにベチョッとした「オクラホマ・スライム」が、尾にあたる部分を跳ね上げ、犠牲者を求め農家の階段を登るシーンは、最初三分を予定していたのに、「ヤツ」はまるで皮を剥がれた飛魚のように僅か一分で上りきった。 保安官の発射する拳銃の弾丸を素早い身のこなしでかわすシーンも、面倒な画面合成なしでやってのけた。「ヤツ」は一流の西部劇俳優さながら、火薬の粒が埋め込まれている場所を完全に暗記して、慣れたスタントマンなみに、それぞれ間一髪の間隔でかわしてみせた。 もちろん「ヤツ」は拳銃はおろかバズーカ砲を喰らってバラバラになっても、一瞬のうちに身体を再生できるから、弾丸をかわすのはただの余興だったけれど… 監督は前作までとうって変わって無口になった。「ヤツ」の演技−−操演しているわたしにはまるでNGが出なかった。 その代わり、犠牲者役の俳優たちへの注文は厳しかった。 「おまえさんたち、一度本物の『ヤツ』に襲われてみるか?」 画面合成前の余りに陳腐なもがき苦しみ方を見た監督は地獄から響いてくる魔王に似た低くくぐもった声で怒鳴った。 「『本物の』とはどういう意味ですか? 監督まさか貴方は本物のヤツが実在すると信じていらっしゃるんじゃあないでしょうね。 −−『Xファイル』じゃあるまいし、ナンセンスだ」 合成用の青く大きな幕をバックに下手な俳優の一人が鼻にかけて嘲笑った。 「−−そりゃあ確かにこのクリーチャーの模型は凄い。マジで生きているみたいだ。製作費も操演ギャラもきっと我々の出演料より高いに違いない。もしもこの映画がヒットして商標登録物件としてプラモデルや雑誌の表紙になったらメジャーにもなるんだろう。 だけどそれがどうした。所詮はただの樹脂の固まり、そこにいる造形作家が頭の中で考えたものに過ぎないんじゃないか? オレだってこの気色の悪いヤツを盛り上げてやるために、オレなりに一所懸命やっているんだ」 次の瞬間、とんでもないことが起きた。 次のシーン、カットのために待機していたヤツは、わたしが何も命じていないのに空高く飛び上がり、深海にいる巨大なくらげのように広がったかと思うと、その俳優に覆いかぶさったのだ。 「グワーッ!」 俳優の動きはとても「大きなビニール袋をかぶせられて窒息しかけている人」のそれ、と言ったものではなかった。 全身の皮膚が強烈な酸を浴びて焼け焦げ、痛感神経の一本一本が丁寧にも一斉にひっこ抜かれる…そんな感じだった。 「凄い演技ですね」 「彼もやればできるじゃないですか」 「カメラ、回しましょうか?」 回りの連中は息を飲み感心したが、カメラはすでに回っていた。他でもない監督自身が回していたのだ。 わたしはわたしの動作なしに「ヤツ」が動いていることに茫然としていた。 試しに「止めるように」と「引け」の動作をしたけれど、ヤツは言うことを聞かなかった。 ヤツが気の毒の俳優から離れた時、俳優は焼け焦げた骸骨になってしまっていた。 女優や女性スタッフの悲鳴が響いた。 「わめくな。名作はスタッフの血と魂を捧げて初めて名作たり得るのだ!」 監督は白い煙がたち登っている茶色い骸骨に向けてレンズを寄せながら叫んだ。 (「ヤツ」はわたしの言うことを聞いていた訳じゃなかったんだ) そう分かったわたしも、頭の中で何か大事なものがガラガラと音を立てて崩れていくのを感じた。 俳優は「撮影中の事故」で死亡したことになり、保険金も下りた。 幸い、「トワイライト・ゾーン」の撮影中のヘリコプター事故のように「業務上過失致死」で告発されることもなかった。 死亡した俳優がビック・モローのように大物ではなかったからだ。 薬品で焼け焦げた骸骨の死体は異様ではあったものの、「誤って薬品槽に落ちた」と説明されれば、当局も信用せざるを得なかった。監督のそれまでのフィルモグラフィーが「芸術志向」の作品ばかりだったせいもあった。 事故を目撃した端役の女優や裏方のメンバーが数人降りた以外は、撮影を継続するための支障は特になかった。そういうものは簡単に補充が利くからだ。 残った演技陣には気合いが入った。 合成用の青いスクリーンの前で、実際には影も形もないモンスターに襲われるシーンを撮影する時、まるで「そいつ」が実際にそこにいないことを神に深く感謝している様子で必死でもがき、苦しんで見せた。 裏方たちも同じだった。全員がまるで一刻も早く撮影を終わらせ、呪縛から逃れたがっているみたいにキビキビと働き、手を抜く者はいなかった。 噂もいくつも耳に挟み、そのうちのいくつかはゴシップ新聞・雑誌に流れて行った。内容はもちろん、 「撮影中のホラー映画『オクラホマ・スライム』のモデル・クリーチャーは実は本物」 「戦慄! あの俳優の死は…」 という感じだった。 人の口に戸は立てられない。 だが、幸いだったのはこれらの噂が我々に幸いなほうに影響したことだった。 二流のマスコミはこの事件を面白おかしく取り上げ、映画の前評判は嫌が上にも増した。 親会社のメジャーは予算の追加と宣伝広告費のアップを申し出てくれた。 お陰でクライマックスで炎上する屋敷のセットはより豪華なものになり、破壊する車の数は増え、警察と軍隊は協力してくれ、ホラー映画では撮影が難しいとされている場所での許可も降りた。 最初は全米一○○○館ぐらいのささやかな上映を予定していたのが、クランク・アップの頃には一万館と一○倍に増え、配給を希望する映画館はさらにとどまるところを知らなかった。 こうなったら我々は完全にメジャーだった。 親会社はさらに完成後予算を追加した。 その金でCG仕上げをエレクトリック・ライト・マジックに依頼することができた。 まだ試写も始まっていないのに、わたしには次の仕事の依頼が殺到した。みんな「映画がヒットしてからではギャラが上がり多忙にもなり、引き受けてもらえない」と踏んでの「先乗り組」だ。 そのうちの一つ、電話ではなく、配達証明付きの手紙できたものを読んだわたしは、危うく気を失いそうになった。 「拝啓−−決まり文句がしばらく続いたあと−−私の長年暖めてきた企画を作品化するためには、貴殿の模型と操演が不可欠であり、是非とも… ギャラのほうはそちらの言い値で結構。いくらでも… スケジュールも貴殿の御都合に合わせ… ストーリーや演出、マネージメントなど、作品自体にも大幅に参加していただければ…」 最大級の賛辞と、依頼の文章の後には、メジャー映画会社の重役プロデューサーの名前とともに、合衆国一の−−いや、特撮映画を撮らせてはいまや世界一の大・大監督の署名があった。 わたしは胸が熱くなった。 この日、この時をどれだけ待ったことだろう。田舎の実家の狭く薄暗い屋根裏で、段 ボールの箱を組み合わせただけのR2D2やすぐに手足が欠ける粘土のエイリアンを作り初めて以来十数年、夢に見続けていた人からの誘いだった。 「やるんだろう、やれよ」 前は意地悪だったけれど「あの日」以来すっかりわたしの腹心となった監督が手紙を覗き込みながら耳元に囁いた。 「しかし…」 ネックは二つあった。 一つはあのストラザーンが長期のバハマ・バミューダ旅行から帰ってくるかもしれないこと。彼が「『オクラホマ・スライム』で使用されているクリーチャーの模型の材料は、私の隠しアトリエから盗まれたものだ」と告訴したらどうなるか? 幸いなことにストラザーンは帰ってはこなかった。 一ヵ月の予定が二ヵ月たち、三ヵ月目に入っても帰国した形跡はなかった。 仕事の関係者はもちろん、芸能記者たちも必死になって探索したものの、ストラザーンはある荒天の夜、ナッソーの砂浜からたった一人小さなディンギーに乗って沖へ乗り出したまま行方不明になっていた 死体は上がってはいない… 状況から推察すると、本物の海難事故か、ある程度有名になってマスコミや世間がうるさくなり始めていた彼の雲隠れ戦術のどちらかだった。 どちらにしてもわたしには非常にラッキーな展開だ。 ストラザーンが死んだのなら、粘土と樹脂をそれぞれ少量づつ窃盗したことは永久にバレはしない。 わたしがストラザーンと同じ種も仕掛けもない魔法のようなクリーチャーの操演をしても、文句をつける者はいない。 「見た目は彼とよく似た、しかしトリック的にはまるでノウハウの違う操演方法を思いついたのだ」と言い張れば済むことだ。 ストラザーンが一人占めしようとしていた造形や操演の仕事は分散して若手に任されるだろう。中でも後継者の一番手は無論このわたしだ。 二つ目のネックは「窃盗を重ねねばならないかも知れない」ということ。 同じ操演方法で自在に動くクリーチャーを新たに製作するためには、専用の材料が新たに−−おそらく今度は大量にいる。 ということは、もう一度あのマサチューセッツ州アーカムの町外れにあるあの気味の悪い家に盗みに入らねばならない成り行きになる。 再実行は大いに危険だ。 いままでバレなかったことは、多分今後発覚する心配はないだろう。だがしかし… どんな巧妙な犯罪者も二度三度と犯行を重ねれば必ずドジを踏む、と言うではないか。 目撃者、慣れから来る油断。小さな証拠も積み重ねれば動かぬものになる… 「是非ともやりたまえ。まさかキミは、私ごとき特撮が専門もでもない二流の監督と、チンケな『恐怖のオクラホマ・スライム2』『3』を撮りながら造形作家人生を終わるつもりはないのだろう? あのユダヤ人の監督と組めば、ストラザーンやギーガーを越える作品だって撮れるだろう。それも楽々と」 監督はまたわたしの肩を冷たい臘のような手で抱いて囁いた。 もはや断ることは不可能だった。 落ちぶれていた時は二年間も電話をくれなかったわたしの代理人がいつの間にか、影に逃げられた男の影よろしく戻ってきて付きまとい、先方にOKの返事をしてしまった。 契約成立の噂がアッという間にハリウッドじゅうに流れてから、製作開始発表の記者会見まで、自分が自分でないような、まるで何かに操られ押し流されるような時間が流れた。 公開された「戦慄のオクラホマ・スライム」は前評判と予想の通りの大入り満員が続いた。封切り6週間の興行成績は「エイリアン」や「プレデター」の記録を抜き、「スター・ウォーズ」に迫った。 「クリーチャーがまるでオクラホマに出没した本物のようだ」 (プレイボーイ) 「正体不明の怪物の不気味さがよく出ている」(ニューズ・ウィーク) 「田舎の平和な町を、名状し難い恐怖がじわじわと襲う様子は、ラヴクラフトや英国古典怪談と同じ、上質のホラーと言える」 (スクリーン) 「率直に言って無名の俳優たちが、真に恐怖に歪んだ演技をしているのは、おそらく模型とはいえクリーチャーが圧倒的な存在感を備えているせいだろう」 (サタデー・イヴニング・ポスト) 新聞や雑誌、TVやラジオなどマスコミも絶賛の嵐だった。 わたしのもとにも連日昼夜を問わずに記者たちがインタヴューのため押しかけてきた。「−−いままでのあなたのクリーチャーとは一味違った感じになっていますが?」 「良いところは伸ばし、悪かったところは改善する。日々これ改良の成果ですよ。世の中のもの全てが目指していることを、わたしも目指しているだけのことですよ」 「−−失礼ですが、ギーガー氏やストラザーン氏に影響を受けられましたか?」 「もちろん。貴方だって毎朝ライヴァルの新聞に目を通すでしょう?」 「−−オクラホマ・スライムの動きはストラザーン氏のクリーチャーの動きに似ていますが?」 「彼がもし特許を取っていたら、喜んで特許料を払いますよ(笑)。でも寡聞にしてそこまでは知らないな」 「−−ご安心下さい。ストラザーン氏はこれまでいかなる特許も実用新案もとってはいません」 「そりゃあよかった」(笑) 「−−今度、あの大監督の作品に参加されるそうですが、どのような作品ですか?」 「企業秘密と言いたいけれど…」 「−−そこを何とか!」 「『ジョーズ』以来の、恐怖と戦慄に満ちたやつです。こいつに比べれば『エイリアン』や『プレデター』なんか文字通り作り物の ヌイグルミに見えることでしょう。ああ、それにもちろんドライアイスのスモークをもうもうと炊いてレールやピアノ線や画面合成の継ぎ目を誤魔かすなどといった姑息なトリックは使いません」 「−−すると、従来のクリーチャーを越えた本物そっくりの怪物がスクリーン一杯に暴れ回る、という訳ですね?」 (「本物そっくり」少し違うな。「本物そのもの」が跳梁跋扈するのだ) 口に出しかけた言葉を慌てて飲み込まねばならないことが多々あった。 わたしは幸せの絶頂だった。「来年のアカデミー賞視覚効果賞はわたしでほぼ確実」という噂も飛び交っていた。 「戦慄のオクラホマ・スライム」におけるクリーチャーの動きはそれほどリアルだったということだ。 数々の嬉しいスケジュールをこなして、久しぶりに家に帰ってみると、留守番電話にもうすっかり忘れていた用件が入っていた。 「−−やあ。ぼくだよ。映画見たよ。大入りおめでとう。頼まれていた文字と記号の解読だけれど、CIAの暗号局の友人に頼んでおいたものの回答がきた。セム語系統とハム語系統のまざりあった古代アラビア語に似た言葉で『連続使役厳禁』だ。そっけないものだな。 じゃあな、次作も頑張ってくれたまえよ」 何度聞き直してみても同じに聞こえた。 「連続使役厳禁」つまり「続けさまにコキ使うな」 同じ言葉(もちろん英語)がわたしの頭の中をぐるぐると駆け回った。 「連続」とはどのくらいの期間を指すのだろう。一ヵ月か、半年か、一年か、それとも三年、五年、十年? 「あいつ」はもう二ヵ月は続けて働かせている。 わたしは映画年表を取り出して、ストラザーンが飛びきりリアルなクリーチャーを引っ提げて映画にデヴューした正確な年月を調べてみた。 (おおよそ二年半前。ということはクリーチャー製作に入ったのは三年ほど前ということだ。 ヤツがバハマかバミューダでなし崩し的に長期休暇に入ったということは「この材料」の連続使用の有効期限が切れかけている、ということなのか?) あれこれ心配したところで仕方がない。 もう次の大きな仕事は引き受けてしまったし、そいつをやり遂げるためには、アーカムの町外れにあるストラザーンの隠しアトリエにある残りの粘土と樹脂が絶対に必要だった。「なあおまえ。おまえたちは一働きするたびに休息が必要なのか? 一体どれくらいの働きにどれくらいの休みが要るんだ?」 わたしはアクリルのケースに入った「オクラホマ・スライム」の原形に話しかけた。 すると、まるで操演したかのようにバッと頭部の不定形の部分が触手となって張り出し記号に似た形状を示した。 わたしは素早くスケッチし、先ほどの友人にファックスしておいた。 『すまないが、もう一度CIAの方にお願いしてもらえないだろうか。幸い売れっ子になったので、礼のほうは後で必ずさせてもらう』 翌日、マネージャーの名前でボストン行きの飛行機の往復切符を買った。 次回作の製作が始まれば、もう遠出は不可能な様子だったからだ。 クリーチャーの製作も、打合せや会議も、もちろん撮影自体も、あの大監督が所有する広大な敷地を有するプロダクション内で進行する。そこは言わば、映画村のようになっていて、アイデアなどが外に漏れぬように、スタッフや役者は半ば缶詰め状態で寝起きを共にするのだ。 その晩、闇に紛れて空港に向かおうと車を走らせていたわたしは、バックミラーに後をつけてくる車の姿を見た。 芸能記者か、熱烈なファンか、どちらか分からないが迷惑な話だ。放っておけばボストン、アーカムまでついてくるだろう。 (どうしよう?) 途方に暮れたわたしは、ふと「オクラホマ・スライム」の一シーンを思い出した。 化け物をやっつける方法を調べるために、大学の研究所に向かっていた新聞記者の車が突然正体不明のぬめりにハンドルを取られ、クルクルと猛烈にスピンを繰り返しながら側壁にぶつかり、紅蓮の炎に包まれて大爆発するシーンだ。 するとどういうことだろう。後を尾けていた車は映画のそのシーンそっくりにガッと急ハンドルを切ったかと思うと独楽のように車体を回転させ、隣やそのまた隣の車線の車を巻き込みつつ、ついには対向車線に飛び出し、ガソリン運搬車と正面衝突した。 爆弾が落ちたみたいな火柱が立ち、さらに何台かの車が避け切れずにそこへ突っ込んでまた爆発を起こした。 わたしたちが撮した映画のシーンを越える悲惨で残酷な光景だった。 わたしは背筋にゾッとするものを感じた。 確かに撮影中に俳優の一人が事故で死んだ時も身体じゅうの体温が飛び散ってしまったような感覚にとらわれたが、今度はもろもろのものが二度と戻ってはこない気がした。 (事故だ。よくあるただの) 繰り返す言い訳は車の中に空虚に谺し、恐怖が渦巻いた。 (素晴らしい映画を造れば、世界中で何億人という人々が喜んで観るのだ。ヒットすれば次作の企画を含めてまた何万人という雇用の機会が生まれる。その中には不景気で首を吊りかけていた人も何十人かはいるだろう。だから−−だから多少の犠牲ぐらいはやむを得ないんだ」 ボストンへの行きは旅客機を利用した。 なるべくなら大勢の人間に紛れていたほうが発見されにくい、と思ったからだ。 財布にはファースト・クラスを楽々とリザーブできるくらいの金があったが、エコノミーにした。クレジット・カードの残高もこれまでの人生で最高の額に達していたが、さすがにこいつを使う訳にはいかない。 帰りは他人には見せられない特別な荷物を背負い込む予定になっていたから、監督の名義で小型のジェット機を予約しておいた。 今日の夜には、わたしは残りの粘土と樹脂を手に入れて、「ア○ブ○ン映画会社」が用意してくれた至れり尽くせりのアトリエで、望むがままに製作に励んでいることだろう。 777型機がちょうど中西部上空に差しかかり、軽食のサンドイッチを食べ終わって、一眠りしようと週刊誌で顔を隠しかけた時、おずおずと声を掛けてきた若者がいた。 「あの、失礼します。造形アーティストの…さんじゃあ…」 ヒット中の映画「戦慄のオクラホマ・スライム」にもわたしの顔写真は載ってはいない。 それ以前に仕事をしたマニアックな雑誌にもそうそう載ったことなどなかったはずだ。(「オクラホマ・スライム」の下っ端のスタッフだろうか? それとも次回作の?) どっちみちあまり望まざる展開であることに変わりはないものの、嘘をついてしらばっくれるには危険が大きかった。 「そうです。失礼ですがどちらのご関係の方でしょうか?」 「あの、ぼく、あなたの大ファンなんです」(しまった。ただのファンなら「他人の空似。人違いです」と押し通したほうがよかった)「『戦慄のオクラホマ・スライム』は五回も観ました。ヴィデオが出たらぜひ買いたいと思っています」 「そりゃあどうもありがとう」 エコノミーにしたのはどうやら間違いだった。やはりファースト・クラスにするべき だった。 「ぼくも少し造形をやるんですよ」 生憎(本当に生憎なことに)わたしの隣の席はキャンセルで空いていた。普通の状態ではラッキーなのだが… 「あの、少しの間だけ座ってもよろしいですか? ご多忙でお疲れなのは分かっていますから…」 「どうぞ」 「次回作、とても楽しみにしています。予算も一挙に五十倍増で−−」 「金さえかければいい作品が作れる訳じゃあない」 「そりゃあ分かっていますよ」 「クリーチャーのファン、ということはストラザーン氏のファンでもある?」 こうなったらやけくそで、わたしのほうから質問してやった。 「ええ。氏の作品も全部観ています」 「感想は?」 「ストラザーン氏のクリーチャーは、他のものと違って、どこかの星、時空の隙間、太古の地球などに実際に存在していた感じが物凄くするんです。既視感と言うか、作り物という気がしないんです」 若者は窓の外を流れる雲を目で追いながら言った。 「それはストラザーン氏がカンブリア紀の生物や、いろんなものを深く研究しているからだ」 「違うんです。本棚をひっくり返して調べ勉強したのではなくて、何かこう、実際に見てきたというか…」 「氏はタイム・マシンかタイム・スコープを持っている、とでも言うのかい?」 「ええ。 怪奇作家のラヴクラフトによると、人類の誕生よりずっと以前、恐竜たちが覇権を握っていた時代よりもなお以前に、宇宙から飛来してきた生物が地球を棲み家にしていたそうです。彼らはぼくたちが牛や馬を使役するように、下僕の生物を使役していた」 『使役』という言葉にわたしはギクリとした。 友人が留守番電話に入れていた言葉と同じだ。 「『思い過ごしだ』『空想だ』と一笑に付されても、ぼくにはストラザーン氏のクリーチャーにはその頃の失われた記憶が込められているような気がして仕方ないんです」 「じゃあ『オクラホマ・スライム』は?」 わたしは乾きかすれた声で尋ねた。 「だから凄いんです。ストラザーン氏だけが可能だと思っていたことを、形状はもちろんそのハートまでも同じというか、より始源的に再現して…」 「唐突で失礼だが、きみは何のためにボストンに?」 「ぼくはミスカトニック大学の学生です。休暇が終わって実家から下宿に戻るところで」 とっさにいいアイデアが閃いた。 「どうだろう。時間に余裕があればアーカムに設けたわたしの秘密のアトリエを覗いてみないか? −−もちろん、そこを見学したということは、当分誰にも喋らないという条件で」 若者の顔が紅潮した。 「えっ、本当に? いいんですか?」 (いいんだよ。いわゆる「冥土の土産」というやつだ。いまのわたしには、わたしを排斥しようとする全ての人間を排除してくれる素晴らしい味方がついているのだ。あそこまで連れて行けば、喜んで闇の深淵の中に吸い込んでくれるに違いない。 また、万一そうでなければ−−「見学」が終わっても彼がピンピンしていれば、いままでのことはわたしが見た幻覚で、実際は何も起こっていない、と言うことだ。 例によってレンタカーを借り、寒々としたニューイングランドの道を走り抜けた。 (ひょっとしたら、あの家、あの異世界から現れたようなアトリエは、忽然と消滅しているのではないか?) ハンドルを握る手にべっとりと汗をにじませながら、ふとそんなことを考えた。 (あれは果てしない時と空間をさまよう禁断のアトリエで、ストラザーンやわたしはたまたまちらりと覗いただけのことなのかも…)「どうかしましたか? お疲れだったら運転を代わりましょうか?」 助手席からの声でハッと我に返った。 (もしもなくなっている場合はどうやって言い訳しよう? 「すまない。あそこにはこれから使用する製作途中のクリーチャーが沢山置きっ放しにしていたのを思い出した。ディナーでもおごるから、やはり勘弁してくれないか?−−とでも言おうか) 「いや、いい。−−どうも道を間違えたかもしれない。こちらにはあまり来ないものでね」「御活躍の中心から離れたところに隠しアトリエをお持ちなのですね。人けのない静かな隠れ家向きの土地なら、西部にもごまんとあるでしょうに」 若者は自分の運命も知らずに、屈託のない調子で言った。 「何と言うか、ここへ来ると霊感を得るんだよ。何しろポーやラヴクラフトが多くの作品の舞台に選んだところだからね。きっと言葉では説明できない何かがあるのだろう」 消失していることを期待しつつ、一時間ほどゆっくりと車を走らせると、前回よりも早く「ストラザーンの」アトリエ−−外見はやや陰欝なものの普通の民家−−に到着した。「ちょっと待ってくれたまえ」 わたしは彼を車に待たせたまま扉に向かった。車寄せに他の車はない。ストラザーンはバハマ・バミューダからこちらのほうに帰ってはいない… 前に使った針金を元にして自作した合鍵を試してみる。 ピーンと音がして鍵が開いた。 「どうぞ」 わたしはうやうやしく手招きして若者を招いた。 「こりゃあ、凄い!」 若者の口から出るのは感嘆詞ばかりだった。「こんな田舎にこんな… もったいないなあ。博物館にすれば大勢の人が訪れるのに−−失礼しました。仕事場なんでしたね」 一人の人間が使うにしては異様に広くて大きい作業机(コックピット)も、材料を収めた缶なども、みんな元のままだった。 「…それにしてもストラザーン調のものが多いですね」 彼はそのへんに散らばっている製作途中で投げ出したものや失敗作品を見渡して言った。「わざと真似をしてみたんだよ。なにしろストラザーンはいま一番売れている造形作家だからね」 巨大な昆虫や深海生物、太古の生き物はいつ見てもわくわくするなあ…」 わたしは作業机近くに置いてあった粘土と樹脂の缶を開けてみた。あれから新たに使用した形跡はなく、そのままになっていた。 「奥も見てきたまえ」 素材を持参した大振りの容器に移し替えながら、若者に勧めた。 「本当にいいんですか?」 (無事に帰って来れたらお慰みさ!) 洞窟を模した樹液がしたたる通路を奥に向かって進む不安げな足取りが聞こえた。 「電灯はないんですか?」 かなり奥から尋ねる声がした。わたしも大いに興味があるがとても進む勇気はない。 彼に行ってもらおう。彼だけに… 「ここはこういう趣向になっているんだ。ぜひ光苔や光茸のぼんやりした明かりを楽しんでもらいたいな」 「こんなの住みにくいでしょうに」 「住むための場所ではないんだ。少なくとも人間はね」 粘土と樹脂のほぼ全部を持参した容器に移し終えたわたしは、まだ在庫はないものかと辺りを見渡した。すると厚手のビロードの カーテンで仕切られたストック・ルームらしき小部屋が目についた。 (もういちいちこんなところを訪れるのは面倒臭い。活用できるものが他にあるのなら、この際持ちきれる限り頂いて帰ろう) 塗料で汚れたカーテンをそっと、ほんの少し開けたわたしは、「ウワーッ!」と大声で悲鳴を上げた。 バハマ・バミューダに旅行に行っていたとばかり思っていたストラザーンが、ヌッと立っていたからだ。 「悪く思わないでくれ! 盗むつもりなど金輪際なかったんだ。買ったものなら使用した分の金は払うつもりだったし、この素材を使って大成功を収めたら、何割かは礼をするつもりだったんだ!」 一所懸命言い訳をしても、相手は何の反応もない。目は開かず物を言わず、ピクリとも動かない。そのうちにわたしもおかしいと気付いた。 ストラザーンに見えたのは、彼そっくりの等身大の人形だった。しかも中はガランドウで、ちょっと触っただけでグラグラと揺れた。(何だ、おどかしやがって!) ネクタイを引っ張ると、瞳のない顔の部分がドサリと落ちて、足元に転がった。 「どうかしたんですか?」 館の奥から例の若者の声がした。 「いいや、別に」 わたしは怒鳴り返した。 「ここってどうなってるんですか。まるで本当のクリーチャーの巣みたいに、壁や天井から粘液や唾液に似たものがしたたってるけれど、これもみんな作り物なんですか?」 若者が言い終わるか終わらないうちに、語尾が悲鳴に変わった。 「ギャーッ! 助けて!」 その後ひとしきり、汁気の多い肉塊を叩き付け、泥の深みの中を歩くような音が響いてきたが、すぐに元の静けさに戻った。 わたしは助けには行かなかった。代わりに盗品を抱えて出口に向かって全力で疾走した。(これでストラザーンが帰国しても、泥棒はあの若者、ということになる。鍵を開けて不法進入したのも彼なら、企業秘密の素材を盗もうとしたのも彼なのだ。 ついでにこのわたしがマサチューセッツくんだりまでうろつきにきたことを知っている唯一の目撃者も消滅した…) 作業机の前を立ち去る前に、もう一度これらの粘土や樹脂を納めてあった容器の表面に書かれた五芒星六芒星を組み合わせた記号と短い文字の列に目をやった。 「『連続使役厳禁』か…」 友人が知らせてきてくれたことは気にはなったけれど、もはや後戻りはできなかった。 ボストンからの帰りはユニヴァーサル映画の重役連が移動に利用する小型のジェット機をチャーターした。 操縦士と副操縦士は空軍OBの口の堅い男たちだ。偉いさんが乗り込む時には美貌のキャビン・アテンダントが乗り込んでサーヴィスに勤めるのだが、今日の客室はわたし一人にしてくれるように頼んでおいた。 飛行機が順調に離陸すると、普通の椅子から豪華な応接間に移った。本革張りのソファに腰を沈め、大き目のバケツにして数個分にもなる、借用してきた粘土と樹脂のケースの蓋を開けてみた。 量的には等身大の人の形と同じくらいのものを造形できる。これだけのストックがあればあの大監督の依頼にも充分添えそうだった。 肩の荷を降ろし、ホッと溜め息をついてからもう一度容器の中身に目をやったわたしは愕然とした。 何と、粘土も樹脂も暖め始めたホットケーキのとぎ汁みたいにプツプツと細かく泡立っているではないか! (さては、この高度が悪いのか!) 大切な素材がダメになっては泣いても泣ききれないと思ったわたしはインターコムに向かって叫んだ。 「おい、高度を下げろ!」 『ご気分でもお悪いのですか?』 本当の理由を話せないところが辛いところだ。 「いや、そうじゃない」 『飛行規則があって、簡単には高度を変更できません』 「できる限り高度を下げてくれ」 『理由をおっしゃって下されば、最寄りの飛行場に緊急着陸を申し出ますが』 そんなやりとりをしている間に粘土と樹脂は日本の餅みたいに小さな不定形のクリーチャーの形に膨張し、盛り上がって迫ってきた。 「おい、待て! おまえの出番はまだだ。まだ早いんだよ!」 オクラホマ・スライムはわたしの命令をよく聞いて、ちゃんと「演技」をしてくれた。 これだって同じ容器に入っていた材料なのだから、人の言葉や意思を聞き分けないはずはないと考えて、懸命に説得した。 「後で嫌でも大暴れしてもらうからな。それまで辛抱してくれ!」 だが、「ヤツ」は我慢してくれなかった。 粘土のほうは勝手に地獄のベビー・デーモンか小さな竜に似た姿を取ると、一気に容器から飛び出した。 続いて樹脂も吹き出して、「ヤツ」の身体に纏わり付いた。 「おい、主はこのわたしだぞ。主人の命令を聞けないのか!」 「ヤツ」は鋼鉄と化した鉤爪でソファやマットをずたずたに切り裂き、サイドボードの蓋を壊して、中のグラスや酒の瓶を粉々に打ち砕いた。 オクラホマ・スライムとは違い、「ヤツ」はまるでわたしの命令に従わなかった。 人間の子供に例えると、優等生と落ちこぼれのガキ大将ぐらいの差があった。 もう一度閉じ込めようと容器を手にして振り回すわたしの手の下や上をかいくぐっていたヤツは、ついに窓の一つにしがみつき、硬化させた腕と頭のような部分でガツガツと叩き割り始めた。 「おい、やめろ! この高度で窓なんか割ったら墜落してしまうぞ!」 ガシャーンという音がしたかと思うと、竜巻のような風が機内に入り込んできた。 書類や容器や固定していないものが次々に機外に放り出され、雲の彼方に消えて行った。 もちろんヤツも… わたしはとっさに荷物台を兼ねていた握り棒を握ってこらえたが、アラームを聞きつけ操縦席からやってきた副操縦士は、たちまちのうちに割れた窓から雲の海に消えた。 ジェット飛行機は墜落するように急降下した。耳がキーンと鳴り、超高層ビルの高速エレヴェーターで降りた時のような浮遊感を感じる… 「緊急! 緊急!」 と繰り返し叫ぶ操縦士の切羽詰まった声だけが頭にガンガンと響いた。 結局、飛行機は何とか無事に最寄りの飛行場に緊急着陸をし、わたしと操縦士は命拾いをした。 地元の警察がやってきて、どうして割れるはずのない窓が割れたのか調べたけれど、結局何ひとつ解明できなかった。 調度品や機内に残された掻き傷は、何か先の尖った道具で付けられたものらしい、ということになった。 もちろんわたしにはそんな趣味はないし、プロレスラーでもあるまいし、たとえ道具を用いても、短い時間で鋼鉄や強化合金製の金属にあんな傷を付けられる訳がない… やがて気の毒な副操縦士の遺体がロッキー山脈の山中から発見されるに至って、さらに潔白が証明された。 副操縦士の遺体は、骨と皮だけを残して血と肉は完全に喰い尽くされていた。ロッキーの狼のせいにしては随分几帳面な食べ方だった。 小型ジェット機の客室内には血の跡はまるでなかったので、わたしの疑いは晴れた。 「事故」は、−−使いたくない言葉だが−−「原因不明」として処理された。 TVドラマならここでFBIの特殊捜査班が登場するところだが、映画会社が金をばらまいてもみ消したのか、妹をUFOにさらわれた捜査官も、医者の資格を持つ女性捜査官も現れはしなかった。 (せっかく残りの材料も手に入れたというのに、あんな形で失っては辞退するしかないだろう… それにきっと、容疑は晴れたとは言え、こんな怪しい事件に遭遇した造形作家をメジャーは敬遠するだろう…) 骨折り損のくたびれ儲けでクタクタになったわたしがハリウッドの借家に戻ってくると、さらなるショックが待ち受けていた。 また、あの放浪癖のある「オクラホマ・スライム」が家出をしていたのだ。 (クソッ、もうあんなヤツ知るものか!) ふてくされてベッドに大の字になり、天井の明かりを眺めているうちにフッと考えが閃いた。 (−−まさかあいつ、またあの中華料理店の二階に戻ったんじゃあ…) 大いにあり得ることだった。それに… (オクラホマ・スライムはオクラホマからあの中華料理店まで、おそらくはわたしの臭いだけを手がかりに、驚くべき速さで辿り着いた。ここの借家はわたしにとっては引っ越ししてまだ日が浅い。ひょっとしたら飛行機の窓から飛び出したアイツも、そこへ帰っているのではあるまいか?) (こんなことなら引っ越さなければよかった!) そんなことを考えながら、タクシーを急がせる。 ところがダウンタウンに入ったところから妙に道が混み始めた。普段でもクラクションが前衛音楽もどきに鳴り続け、喧騒のたえない場所だったが、今日に限ってそれがひどかった。 使い込んだ大衆車やトラックがずらっと列をなし、一インチ刻みにしか動かなくなった。「お客さん、こいつあどうやら事故ですね」 年とった黒人の運転手が運転席の窓から顔を覗かせながら言った。 そう言えば、先ほどからパトカーやら救急車のサイレンが、そう遠くないところから聞こえてくる。 わたしは到着すれば払ったであろう運賃の全額を払ってタクシーを降りた。そして小走りに走ること十数分で下宿していた中華料理店に着いた。 店の前には合わせて五、六台のパトカーと消防車と救急車が回転灯を回しながら駐まっていた。店は柱と梁だけを残してすっかり焼け落ちてしまっている。 まだ煙が立ち上っているところからすると、ようやく消し止めたばかりのところらしい… 遺体袋に入れられ、ストレッチャーに乗せられた死体が目の前を通り過ぎた。あの愛想の良かった店主だろうか。 「いやあ全く、妙な火事だったなあ」 近所の人々や消防士が口々に話していた。「火が出てから燃え落ちるまで一分もなかったんじゃないか」 「それでいて爆発はなし。あの店は古いとはいえれっきとしたコンクリートだったのに」 わたしは「立入禁止」の螢光テープをかいくぐって近づいて見ようとした。 「危険ですから下がって下さい」 『ここの二階にちょっと以前まで住んでいた者です」などと言って名乗るのはまずそうだったので、警告に従って下がった。 (ヤツらの仕業? −−で、どこへ行ったんだ? まさか一緒に焼け死んだりはしていないよな?) わたしは現場を離れて近所を一周してみた。 高架地下鉄のガード下には、いつもホームレスの老人が寝転がっていたのを思い出して彼に聞いてみようと足を向けた。 老人はいつもの、雨は当らないものの陽当りも悪い場所に、いつものうずくまった姿勢で座っていた。 「あの、ちょっとすいません」 小銭を手にして、初めて彼に話しかけた。 警戒中の警官がゆっくりと走るパトカーの窓からジロリとこちらに目をくれた。 「この辺で何か変な−−と言うか、変わったものを見ませんでしたか?」 老人は答えない。息をしている様子もない。 恐る恐る脇に回り込んで見ると、後頭部がスプーンで食べるために頭の部分を切り取られた半熟卵のようにきれいに割られていた。 中は半分がた喰われている。 わたしは込み上げてくる吐き気を懸命らこらえつつ後じさった。 (『連続使役厳禁』−−ヤツらはストラザーンとわたしに続け様にこき使われたせいで、大幅なギャラのアップを要求しているのかも知れない…) そう思うとゾッとしなかった。 おそらくは何でも食い、下水溝だろうがゴミ集積場だろうがどこででも暮らしていけるあいつにとって、ロサンゼルスという大都会はカンブリア紀の海のように気に入るのは明らかだった。 (どうしよう? 黙っていようか。もしも本当のことを言ったところで誰も信じてはくれないだろう。下手をすれば措置入院させられてしまうかもしれない…) わたしは黙んまりを決め込むことにした。(なあに、誰にも分かるものか。あいつには口はないし、喋ることができない。だからもし軍隊の特殊部隊に捕まったとしても、「あの人が封印を解いて自由にしてくれたのです」などとチクられることはない。 次作を諦めなければならないのは痛かったが、「オクラホマ・スライム」はロングランとなって、当分暮らしていけるだけの金は引き続き入ってくるだろう。今度のこの怪事件だって追い風になるはずだ) 駅までの道をテクテク歩き、電車を乗り継いで新しい屋敷へと戻った。 「仕方ない、ス○ルバ○グにはキャンセルの電話を入れておこう」 すぐにア○ブ○ンの重役が出たが、彼はとんでもないことを言った。 「やあきみか。けさ正式の企画書と脚本とコンテを送ったばかりなのに、もうクリーチャーが到着していたよ。これは一週間で撮り上げるようなC級ホラー映画じゃあないんだから、もう少しゆっくり腰を据えて考えて欲しいんだが−−と言いたいところだけれど、あれは素晴らしい! スティーヴンも仰天していたよ。『神技だ』と叫んでね」 何が何やらさっぱり分からないまま夕方出向くことを約束し、受話機を置くや否や、メッセンジャーが分厚い重要書類の束を配達してきた。 中は映画の企画書と脚本第一稿だった。登場する怪物のコンテは白紙で赤の大文字で「未定」とだけ書かれている。 「ソロモンの封印 あらすじ」 とある落ち目の造形作家が、成功した友人から材料を奪って評判を取る。 ところがその素材は、神が様々な生き物を創造し、最後にアダムを創造した「あらゆる生き物の元の唯一の残り滓」だった。 旧約聖書のソロモン王の時代の神殿建設の礎石を埋める際に、地の底深くより発掘されたもの。それが恐るべきものであると察知したソロモン王は、堅く封印し、さらに深い地底へと隠したが、噂は野心を持った自国他国の神官や魔導士たちに広がってしまい、王の死後、ユダヤ王国の崩壊とバビロン王ネブカドネザルによる最初の神殿破壊のどさくさで、あの有名な、神との契約を刻んだ『聖櫃(アーク)』とともに行方不明になってしまった。 造形作家が手に入れたものは、この禁断の材料だったのだ。 彼はそれを巧みに使って出世して行くが、彼の魂が利己主義であったために、造られた『もの』もその心を写し取って次第に邪悪さを増し、邪魔する者の命を一人、また一人と奪い取って行く。 そしてついに、栄光を掴んだかに見えたその時、作家自身が衆人の目前で自らが創造した怪物に貪り喰われる…」 わたしの頭の中で二つの考えが浮かんでは消えた。 一つはありったけの金と金目のものを持ってメキシコへ逃げる。仕事も地位も名誉も失い、おまけに命だけは大丈夫という保証もない。なにしろ「あいつ」は「神」の直接の所有物であり道具なのだ。いくつかの枷(かせ)をはめられ、規制を与えられるまでは、不死身で、傷をつけられることすらなく、何億年も生き続ける始源の生命体なのだ。 もう一つは、これからすぐにスタジオへと赴いて、わたしが造形し、送り付けたという怪物と対面し、ついでにそいつを監督をはじめスタッフ一同に売り込むことだった。 (例え逃げても、ヤツなら地球の涯て、宇宙の彼方でも追いかけてくるに違いない。それならいっそのこと堂々と対決して、わたしがおまえの永遠の主であることを言ってやったほうがいい!) …どのようにしてそのスタジオに着いたのかはよく覚えていない。いつもなら、途中まで電車でとか、タクシーでとか、記憶にあるものなのだが。「オクラホマ・スライム」で得て若干余裕のある金のせいではない。近頃何かこう… 若年性のアルツハイマーのように思考の空白が生じる。 スタジオにはタキシードやイヴニング・ドレスで着飾った紳士や淑女で溢れていた。 わたしはふと、ポーが原作の映画の一場面を思い出した。 大勢の賓客、お仕着せ姿の給仕や女中たち、グラスの鳴る音。中で揺れる様々な色をした酒。客たちもいままでのセコいパーティや打ち上げとは違って、みんな銀幕で見たことのある顔ばかりだ。 スーツとネクタイ姿というのはわたしだけのようだった。 「スター・ウォーズ」の惑星のセットのような会場をあてもなくうろうろしているうちに銀縁の眼鏡を掛けた今回の依頼者である有名監督に出会った。 「やあきみ、実に凄いのを造ってくれたね。私は何事にしろ滅多に一回ではOKしないのだが、今回ばかりはOKせざるを得ないね」 相手の機嫌はこの上もなくよかったので、もはや余計なことを言う必要はないと判断して、黙って低く会釈してから下がった。 (もう充分だ。これで未来のさらなる栄光は約束されたのだ) 酒を一口も飲んでいないのに、頭がボーッとして酔った気分になった。 気がつくと、わたし以外にも正装していない人もいた。 「オクラホマ・スライム」を撮ってくれた嫌味な−−いまはこの上もなく気の合う監督は撮影用のジャンパー姿だった。 「メジャーになってもまた一緒に仕事をしてくれよ」 「ええ、こちらこそ、ぜひ」 油にまみれた白衣をきているのは、火事で焼け死んだはずの中華料理店の店主だった。「やあ、おまえさんのコネのお陰でわしもこんな晴れがましいところで仕事ができて嬉しいよ」 「いいえ、どういたしまして。あなたには借りがありますから」 ボストン行きの飛行機で知り合った若者は皿の上に料理を山盛りに盛ってぱくついていた。 「このあいだはいいものを見せて頂いて…」「いいや、お粗末なものですよ」 「あの…」 若者はちょっと口ごもってから続けた。 「もしよかったら、貴方の助手になりたいんです。−−いいえ、給料は当分いりません」「何をおっしゃるやら。あなたが来てくれるのなら、こっちも願ったりかなったりですよ」 ステージに近い上座の、特に有名人たちが固まっているところには、ストラザーンもいた。どうやらカリブ海周遊の旅から無事に帰ってきたらしい。 わたしが会釈すると、彼も軽く会釈を返した。どうやら材料を黙って借りたことは目をつぶっていてくれる様子だ。 ステージの上には、神のようにスモークを纏い光を背にして光り輝く「もの」がいた。どうやらあれがわたしの考えた次回作のクリーチャーらしい。 (これだ。わたしが長く心の中で思っていて造ろうと思っていたやつは) 一目見た瞬間そう思った。 (そうだ。これはわたしのスタジオ、わたしのためのパーティなんだ) この上もなく甘美な気分だった。 宴は当分終わりそうになかった。 KIJISUKE@aol.com