アルハザードの復活 1 「兄貴、もう引き返そうぜ、こんな旅を続けていたら、本当にくたばっちまう」 時はキリスト生誕から数えて八八三年、灼熱のリビア砂漠を行く二つの影があった。 「水も食料も底を尽くし、駱駝は流砂に飲まれちまうし、いますぐ引き返したとしても、最寄りのオアシスまで命が持つかどうかも自信がないですよ」 弱音を吐くのは、石炭より黒い肌の色をしたスーダンの男。形ばかりに巻いたターバンがはずれて砂嵐になびいているところから、根っからの回教徒(ムスリム)でないことが分かる 「しっかりしろ、ザンジュ。目的地はもうすぐだ」 相棒を励ますのは浅黒い肌のアラビア人でこちらのターバンは吹きすさぶ砂にもビクともせず、筋金でも入っているかのように地平線を睥睨していた。 それもそのはず、このアラビア人、アリー・ブンは、つい先月まで東アフリカから連れてこられた黒人奴隷(ザンジュ)たちを率い、自らが築いたバスラ対岸の都ムフターラに立てこもって、アッバース朝の教主(カリフ)猊下に盾ついていた男である。 一四年にも及ぶ反乱は、都の一つバスラを陥落させた。教主の弟ムワファク将軍に鎮圧されるまで、奴隷たちは盟主アリー・ブンの冴え渡る知略策謀のお陰でいくばくかの自由を手にすることができ、アリー・ブンは彼等の並みはずれた勇猛果敢さと体力のお陰で、教主の血筋につながるはずの彼をないがしろにしたマッサラーのアッバース家に一泡も二泡も吹かせることができた。 あわよくばこのまま帝国の一角を掠め取り、黒い勇者たちの上に君臨できるところだったが、野望はいま一歩のところで叶わなかった。「『もうすぐ』って、一四○○年もの間、誰も見つけられなかったものが、そんなに簡単に見つかるんですか?」 付き従う副官も、いまはこのザンジュ一人だけだ。アリー・ブンが「ザンジュたちは? ザンジュは?」 と話しかけるので、いつしか「ザンジュ」という名になってしまった。 けれども本人はむしろ奴隷であったことの屈辱を忘れぬため、またそこから救い出してくれた「兄貴」アリー・ブンの恩を忘れぬためにも、こう呼ばれることもやぶさかでなかった。 「何としてでも見つけ出さなければ… 戦死した同志戦友に申し訳が立たないし、俺の身代わりになって討たれた影武者たちにも天国で顔向けができぬわ」 アリー・ブンは砂のこびりついた唇を堅く横一文字に結んだ。 壮絶を極めた最後の鎮圧戦でアリー・ブンは死んだことになっており、手配書が回っている訳でもなく、名と顔を変え、どこか辺境の地で暮らそうと思えば暮らせないこともなかった。 「例え、例えですよ−−」 対してザンジュのほうはいままでの戦いよりも、この旅に勇気も気力も蝕まれているといった呈だった。ザンジュの場合、目の前に剣を振りかざした兵士や、鎧を纏い、棹立ちしていななく馬には決して背中を見せることはないのだが、無限に続く砂と焼けつく太陽にはほとほと音を上げていた。 眼(まなこ)を焼く太陽に、さすがのアリー・ブンも目を閉じた。閉じてなお白く輝く瞼の裏側に、バスラの裏町で出会った怪しい老人の、病に侵された醜い姿が甦った。 「お若いの、どうやら戦い利あらず、といった様子じゃのぅ」 老人は、栄光溢れるアラーに帰依することなく、いまだに拝火教やマニ教の神神に祈りを上げ、魔神(ジン)や古しえの者共に呼びかけを続けている不埒者のようだった。 血走った真紅の目は、昔は学問も地位も名誉もあった様子で、不敵で驕慢な光に満ちていた。平時ならばこのような異教徒は神聖なる神の土地に踏み入れることなど値わぬのだが、長引く内乱による荒廃に乗じてしゃしゃり出てきたのだろう。 「邪教の使徒の言うことなど、聞く耳持たぬわ!」 アリー・ブンは目を会わせずにその場を通り過ぎようとした。 「おっと、そう言うおぬしのために命掛けで戦っている黒い肌の兵士たちは、つい先日まで生贄を捧げ、人形を礼拝し、仮面を被り、呪いをかけていた者共ではありませぬか?」 アリー・ブンに従っていたザンジュたちに怯えが走る。 「何を言うか! 彼等はいまでは立派な回教徒だ。故に、誰に隷属することもない!」 同じ回教徒同士なら、奴隷になることも、奴隷にすることも堅く禁じられている。だから、わざわざアフリカから異教徒を買って、ティグリス・ユーフラテス下流の干拓や開墾などの重労働に従事させてきたのだ。 回教に改宗した以上、肌の色、言葉に関係なく、皆同じ至高の神の下僕である。 「分かりました。分かりましたとも!」 老魔導士は黄色い歯を見せた。 「だがその兄弟たちの命運も、いまや風前の灯火、そうではありませぬか?」 アリー・ブンは愛用の偃月刀の鯉口を切った。 「お待ちなさい… 儂はぬしの味方じゃよ」 魔導士は一枚のまるめた羊革紙をアリー・ブンに渡して言った。アリー・ブンが広げると、それは砂漠の地図で、ところどころに地名が彼には読めない古代ペルシア文字で記されていた。 「そこには、一四○○年前にエジプトを征服し、さらにシヴァ・オアシス、アンモン人の国をも我がものにしようとしたペルシア王カンビュセスが派遣した五万の精鋭軍が無傷で命令を待っている」 「莫迦な! 俺をたぶらかすつもりなら、もっと上手に嘘をつけ! 生身の兵士たちがどうして一四○○年もの時を越えられようか。 とうの昔に木乃伊となり、その剣や槍や鎧は錆びて朽ち果てているさ」 とは言うものの、古地図を持つ手は小刻みに震える。 「信じる、信じぬはおぬしの勝手じゃ。儂もマッサラーにはちと恨みがあってな。ぬしのような傑物を禿鷹の餌になるところを見るのは忍びないと思ったまで…」 魔導士の赤い目はくるりとひっくり返って卵の白身のような白目になった。 「そこまで言うのなら、なぜに貴様自身がその五万の兵士達を率いて戦わぬのだ?」 「偉大な回教修行僧(ダルウィッシュ)が結界を張り巡らせておってな。我等如きは近寄れんのだ。ぬしは立派な回教徒の上、虐げられておる黒き肌の者たちを救うというぬしなりの聖戦を挑んでおる故、結界も越えられるやも知れぬ。とにかく試してみることじゃな」 「ふざけるな!」 アリー・ブンは抜く手も見せずに偃月刀を魔導士めがけて振り降ろした。まっぷたつになって倒れた相手をよく見れば、腐った衣を羽織った白骨だった。 従卒のザンジュたちは震え上がり、思わず小刀で小指を切り、したたる血で空中に陣を描き、口々にブードゥーの魔除けの呪文を唱えた。不思議なことに血は落ちずにしばし蜘蛛の巣の如く空中に留まって、ドクッドクッと脈打った。 すると白骨も衣も、塵埃となって消え去った。 アリー・ブンが持っていた羊革紙の古地図も、風に溶けて消え去ろうとしていた。 この時、アリー・ブンが目を落としてその地図をもう一度見さえしなければ、全ては平安のうちに過ぎただろう。 アッバース家を悩ませたザンジュの反乱はムフターラの陥落と首謀者アリー・ブン・モハメッドの壮烈な戦死をもって終結したはずだった… だが、彼は見てしまった。 古代のカンビュセス王の五万の精鋭が新たな命令を下す主をじっと待ち続けているという砂漠のその場所を。 ムフターラの城塞に帰った後、アリー・ブンは図書館に通ってカンビュセス王のことを調べてみた。 ペルシア王カンビュセスことカンビュセス2世は、紀元前五二五年、当時のペルシアとエジプト国境ナイル・デルタのペルシウムで、戦い、エジプト王プサンメティエス3世を捕虜にして、エジプト第二七王朝の王を兼ねることとなった。 宿敵に勝利したことに気をよくしたカンビュセスは、次にカルタゴに遠征しようとするが、自国の海軍主力をなしていたフェニキア人に反対されて挫折した。カルタゴは、もともとお家争いからフェニキアを脱出した王女とその家臣たちが築いた国だったからだ。 そこでカンビュセスは遠征先をエチオピアに変更し、密偵を送り内通者を募って布石も十分に行った。ところがいかなる失態か、それとも何処かの国の謀略か、遠征途中の自軍の食料が尽き、味方同士人肉を食うという凄惨な事態に陥って自ら壊滅してしまった。 そして三度目がリビアの砂漠を越えてのアンモン人のオアシスへの遠征だった。史書には五万の精鋭が謎の砂嵐に迷って忽然と消滅した、とある。 こういった相次ぐ不運と失態に、自国ペルシアではついに王弟による内乱が起き、カンビュセスはその絶頂から三年を経ずして、亡命先のシリアで発狂の末、自殺した。 心ある人々は、王と王の軍隊がエジプトに進駐した際に、そこの神神の神殿を打ち壊し、聖なる牛アピスを殺し、破壊と暴虐の限りを尽くしたことの祟りだ、と噂し合った。 ところが… 事件が落着した時、この王弟も殺されていることが分かった。内乱を起こしたのは、実は大祭司ガウマータで、この怪しげな大祭司が王弟の名をかたって蜂起したらしいのだ。 すると前出のエチオピア遠征の失敗も、五万の親衛軍が砂漠で消滅したのも、この大祭司の陰謀である可能性が濃い。 ちなみに、その後の王があの有名なダリウス1世である。ダリウスがガウマータを後ろで操っていたのか、それとも政権を怪僧から正しいアケメネス朝の血筋に戻した優れた王なのか、そこは闇の中である… 調べれば調べるほど、アリー・ブンは、砂漠に埋もれた五万の兵士たちの虜となった。 古代ペルシアの王の親衛兵は「不死隊」と呼ばれていた。学者たちは常に予備役の補充兵がいて、その兵力が欠けることがなかったからと説明するが、同国の魔導士(マギ)たちはそうは言わない。 「不死隊」とは文字通り、魔法の力で不死身の肉体を得た人間を越える兵士たちである。 であるからこそ、砂漠の一族長に過ぎなかったアケメネスは、ペルシア最初の王朝の開祖となることができ、カンビュセスはエジプトに勝ち、ダリウスは帝国の皇帝となることができたのだ… 「ゾロアスター(ツアラストゥラ)はかく語りき!」 アリー・ブンは封印されたはずの太古の邪教の予言者の名を叫ぶと、禁断の軍団を捜しに行く旅に出る決心をした。 腹心のザンジュたちも賛成した。 戦いはすでに敗勢を否めない。己の野心から反乱を起こしたとはいえ、アリー・ブンは恩人である。その首がマッサラーに送られて嘲笑れるよりは、生き延びて、教主一族や、その取り巻きのトルコ人傭兵たちの心胆を寒からしめ続けるほうがよほど快い… 「待つのだ! 俺が人外魔境の砂漠の果てから五万の友軍を率き連れて舞い戻るまでは」 アリー・ブンは立ち上がった。 アフリカ人の部下も、アラビア人の配下も誰も反対する者はいない。 「御供仕ります。例え全能の神の力すら及ばぬ地獄の底の底までも」 腹心の部下たちも次々に立ち上がった。 ムフターラは何人かの影武者および決死隊を残して事実上放棄された。 バスラ近郊に網の目のように張り巡らされた地下用水路(カナート)を伝って、何とか反乱の拠点を脱出した。 マッサラーの教主の弟ムワファク将軍は追っ手を放ち、立ち回りそうな要所のオアシスに待ち伏せ部隊を置いた。 だが、すでに勝利に浮かれていた教主軍は血路を切り開かんとするザンジュたちの死に物狂いの奮戦にあってことごとく粉砕された。 それでも、最後の船を用意していた港町の用水路では、数千の追撃隊に包囲され、さすがのアリー・ブンも「もはやこれまで」と、身体じゅうに巻き付けていた筒火薬の導火線に火を付けた。 その時、ザンジュは袋の中から何やら取り出すと、アフリカの生まれ故郷の言葉で何事か呪文を唱えた。 それらは顔と身体じゅうに渦巻き状の幾何模様の刺青のある怪しげな人形だった。小さかった沢山の人形は用水路の水を吸って、たちまち常人の倍はある大男となって、追っ手を蹴散らし始めた。 「ザンジュ、おまえ!」 アリー・ブンの目は見開きっ放し、開いた口はふさがらなかった。 こんなすごい術が使えるのなら、わざわざ遥か遠い砂漠の兵士たちを求めに行く必要はないかも知れない−− 「兄貴、感心していないで早く逃げて下さい!こんなものはほんの子供だましだし、敵の将軍に通用する代物じゃあねぇです」 ザンジュの言う通り、ムワファクがいくつかの聖なる文句を組み合わせた呪文を唱え返すと、人形の兵士たちはアッという間にもとの泥と染料に戻って崩れ落ちた。 とにかく何とか難を逃れ、船で紅海を渡ってザンジュたちの故郷ヌビア(現スーダン)に到着したアリー・ブンは、目の前に広がる果てしない砂漠を前にして、部下たちを集めてこう言った。 「ここからは俺一人で行く。おまえたちはこの辺りで力を貯え、俺が伝説の五万の兵士を連れて戻るまで待っていてくれ」 「大将、そんなに慌てて出発することもないでしょう。いくら何でもここまではマッサラーの追っ手もやってこないでしょうし、もう少し身体を休め、情報を集められては?」 部下たちは驚き、反対した。 「五万の兵士」の伝説を信じている者は実際には誰もいなかったのだ。 「あれはアリー・ブンの大将がいったん尻をまくるための与太話」と思っていたのだ。 だが、当のアリー・ブンは、まったく真面目だった。 「俺はあの地図を寸分の間違いもなく覚えている。一刻も早くあの場所へと赴いて兵士たちを甦らせ、マッサラーに攻め上るのだ」 まさか、とは思ったが、ものに取り憑かれた目といい、敗北に打ちひしがれた姿とはほど遠い活気といい、どうやらアリー・ブンの大将はまるで本気のようだった。 しかし、原住民や冒険商人たちですら通らぬリビア砂漠の、正規の隊商路とはまったく外れたど真ん中を横断しようというのは、それだけで狂気の沙汰だった。 「一四○○年前、カンビュセス王の不死隊は敵アンモン族のオアシスに痛烈なる奇襲をかけようと、その道を進んでいたのだ。彼の軍にできて俺にできぬはずがない…」 アリー・ブンは吠えた。 「そして道に迷い、砂の底に埋もれた… 二の舞になりますよ」 部下たちはこぞって反対し、アリー・ブンはここまで付き従ってきた家来たちの数人から暗殺されそうにさえなった。 「俺は行くよ。一人で行くと言ったら一人で行くつもりだったんだ」 駱駝の引き綱を携えて村の入口に佇むアリー・ブンを見送ったのは、副官だったザンジュ一人だけだった。 出発にて半日もたたないうちにアリー・ブンは一寸先も見えない砂嵐に巻き込まれた。 アラビアに生まれ育った彼ですら、めったにお目にかかったことのない、砂の大津波が次から次へと叩き付け、目も口も開けることができない。ターバンを下げて堅く防御したはずの鼻にすら塵のような砂が押し寄せて詰まり、息もできなくなった。 水と食料を背負った駱駝が突然現れた擦り鉢の渦の底に吸い込まれて消えた。 膝が、腰が、胸が、頭が、アッという間に砂に埋もれ、這い出そうともがくとますます砂の中に飲み込まれて行く… やがて、右手の人差し指だけを地上に残して、アリー・ブンの全身が砂に埋もれた。 彼は異境の蟻地獄に吸い込まれながら、全知全能のアラーに、自らの魂の平安を祈って最期の祈りを捧げた。 とその時、人差し指をハッシと掴んだ者がいる。 その者は魔神の怪力でアリー・ブンを地上に引っ張り上げた。 砂にまみれた目をこすりつつ見ると、ザンジュが目の前にいた。 「兄貴、俺はどうしても兄貴を見捨てることができなかった。−−でもこれから兄貴が行こうとしているのは、俺たちの信仰でも決して近寄ってはならないところなんだ。位の高い呪術師も、滅多にその名を口にしない」 「そうか、それで今まで付き従いながらも、村では俺の命を…」 アリー・ブンが回りを見渡すと、砂嵐は彼らの回りだけを避けて吹きすさんでいる。 足元は砂ではなく、黒く堅い甲羅のようなものだ。 次第に目が慣れてきた彼はアッと声を上げた。 ま上にはぽっかりとした青空が見える。その青空に向かって、急な傾斜で砂がぐるくると渦を巻いている。 二人が乗っているのは、エイほどの大きさのあるアリジゴクで、擦り鉢の底で獲物が落ちてくるのを待っている最中だった。 よく見るとアリジゴクの甲羅の上には、先に渦に巻き込まれた駱駝の鞍の残骸などが散らばっていた。 「おっと、気を付けて下さいよ。この広い砂漠で安全なのは、こいつの背中だけなんですから」 ザンジュが手にした葦の茎を組み合わせて作った古い小さな虫笛を吹くと、アリジゴクは自らが作った巧みな罠の流れに逆らって、砂漠の表面に出た。 そこでは相変わらず砂嵐が吹き荒れていたが、二人のいる背中は、まるで硝子の金魚鉢でもかぶせたように何ともない。 「本当にカンビュセス王の不死隊を捜すつもりなんで?」 アリー・ブンにはザンジュの声など耳に入らない。 「凄い! ザンジュよ、こんな凄い化け物を自由に操れるのなら、どうしてマッサラーとの戦に出してくれなかったのだ?」 「生憎、こいつはここの砂漠の生き物で、この砂漠から出ては生きられません」 「そうか… それはやむを得ぬな。しかし、バスラで魔導士にからまれた時も、地下水路で追っ手に阻まれた時も、おまえは見たこともない術で、味方の危機を救ってくれたではないか。あの術を皆に教えてくれれば、教主軍を相手にもっと派手に暴れることもできたのに−−」 「兄貴の疑問ももっともですが」 ザンジュの大きな瞳が伏せられた。 「あれらの術を使うには、天賦の才もさることながら、相当なる修練をも必要とします」「これほどの術を使える者が、易々と奴隷商人に捕まってしまったことも腑に落ちぬが」「私は、泥に浮かんだ塩を取り去る重労働の果てに朽ち果てるよりも、自分の術が安易に広がり、聖地を混乱に陥らせることを恐れます」 「何と! 華々しく戦うよりも、奴隷暮らしのほうがましだと?」 アリー・ブンが足を滑らせて転がり落ちそうになるのを、ザンジュが黒く太い腕でハッシと引き戻した。 「万物の父なるアラーに帰依するならば、奴隷の身分から解放する。そう約束し、旗印に掲げて戦ってくれたのは兄貴です。それならまやかしの術など使わずに、正々堂々と戦ったほうがいい。そのほうが多少分が悪くても世間の同情も得られるし、後世の評価もいいものとなりましょう。 反乱の大義名分がいくら立派なものでも、一度(ひとたび)魔法を使えば、マッサラーの教主たちは、我らを『それ見たことか』の未開の蛮人扱いするでしょう。 そして、「反乱鎮圧」の名のもとに、慈悲深きアラーの許しを得、より強力な太古の魔法の封印を解き、完全討伐に乗り出すに違いないです。 始源なる黒き密林の魔法対、伝統あるペルシア/アラビアの魔法… こうなれば戦死者の数もうなぎ登りでしょうし、街自体がただではすみますまい… 互いに天をつく巨人や異世界の化け物、無限に増殖し続ける怪物を召喚し、繰り出しての最終戦争となりましょう… そうなっては人間は誰一人生き残れますまい。少なくとも我らの知る豊饒の世界は地獄と化し−−」 「分かった。貴様の言わんとしていることは」 アリー・ブンは静かに胡座した。 「だから皆も、俺が五万人のカンビュセス王の不死隊を捜しに行く、と言った時、暗殺してまで止めさせようとしたのだな」 「例えその軍団を見つけ出し、彼らが無傷の状態で、なおかつ眠りを覚ますことができたとしても、甚だ危険な存在です。 まず、不死隊が兄貴の命令を聞くかどうか疑わしい。カンビュセス王か、大祭司ガウマータか、はたまた一四○○年前のこの一件で最後に笑った魔導士皇帝ダリウスの命しか聞かないかも知れない… 連中は魔法で造られた正真正銘の不死身の兵士たちです。ひょっとすると眠りから醒めた途端、最後に命令されて中断されたままになっていた、想像もつかないとんでもない指示を思い出して暴れ出すやも知れない… そうなったら、我々も、マッサラーも、誰にも止められない…」 ザンジュのぼやきごとを聞きながらも、驚くべき速さで砂漠の中心に向かって進んでいた、象ほどもあるアリジゴクがピタリと止まった。 アリー・ブンとザンジュが行く手を見ると、何もない砂漠の真っ只中、何条もの聖なる文句の列が柵をなして、ゆらゆらと、鳥脅しの紐のように揺らめいていた。 「封印の土地だ! とうとう辿り着いたんだ!」 アリー・ブンはアリジゴクの背中から砂漠へと飛び降りた。 不思議な橙色をした砂がザッとばかりに跳ね上がる−− その砂は、ペルシアやアラビアでは全く見かけない、異世界の砂のようだった。 「−−これを見ろ、ザンジュ、アラビア語の聖なる文句だ。『正しき志のある者、正しき神の名を唱えよ』とある」 アリー・ブンは大地に平伏して、ありとあらゆる世界で、ただ一つの正しい神の名を唱えた。磁石は失い、太陽は何処にあるか分からず、聖地がどちらの方角かは分からなかったけれども、時間も空間もまるで歪んでいて、ビザンティンのステンドグラスそっくりに継ぎ剥ぎだらけとなった空を見上げれば、それは気にしなくていいことのように思われた。 不気味な地鳴りが響き、空には七色の稲妻が網の目に走った。 その途端、宙に浮かんで結界を造っていた聖句の列はバラバラにちぎれて消滅した。 アリー・ブンはついに一四○○年封印されていた砂漠に足を踏み入れた。 「何をしているんだ、早く来い!」 ザンジュは立ち尽くしたまま、ためらい続けている。 「回教徒の聖約を立て、慎んでいるとはとはいえ、俺はまだブードゥーやサンタリアの呪術を使ったりもしている。のこのこと兄貴の後をついて中に入って、雷撃に打たれて黒焦げになるのはまっぴらだぜ」 「大丈夫だ。そんなことはない、って」 黒い肌の大男が恐る恐る足を踏み入れる姿はいささか滑稽であった。 「ほら、何ともないだろう? おまえのみたいな忠誠心と博愛心の持ち主には、厳格なるアラーも多少のご高慮を下さるさ」 2 それからがまだ長かった。 アリー・ブンもザンジュも、結界の封印の中に入れば、伝説の不死隊はすぐそこ、とまではいかないまでも、近くにいる、と思い込んでいた。 ところが、そこから半日以上歩いても、それらしい影も形も全く現れなかった。 「兄貴、ひょっとして連中、膨大な砂に埋もれちまってるんじゃないですか?」 ザンジュが身に付けていた竹筒の水筒の水を分け合って飲む二人は、さすがに焦り出していた。 「そうなったらお手上げだな。あの化け物アリジゴクはこちらには来てもらえんのだろう?」 それに封印の外の「彼らの」世界と違って、こちら側には恵みの夜も、救いなる夕暮れもなかった。ただ白く黄色い太陽がカッとばかりに永久(とこしえ)に輝いている。 「無理と思いますが、呼んでみましょう」 ザンジュが口の中でブツブツと呪文を唱えると、風に吹かれてかすかになりつつある二人の足跡が点々と伸びている先に、黒い鎌をもった虫の影が見えた。 だがそれは、封印のあった場所に差しかかると、いきなり白い閃光に包まれ、橙色の火花を散らして爆発した。 その爆風が生暖かい風となってアリー・ブンたちの頬を撫でた。 「可愛そうなことをした…」 強気のアリー・ブンにもついに弱気と絶望が襲った。 「いや、奴に乗ったまま試さなくてよかったですよ」 「おまえの召喚獣だろう? よくもそんな冷たいことが言えるな」 魔法の力を借りずにこの広大な次元の砂漠を捜すのは不可能だろう。 「あれは私の思念で造り上げた奴でね。どのみち私が死ねば、奴の命もありません」 「『造り上げた』だと? それじゃあいま、ここでもう一度造ってみたらどうだ? さっきの奴は残っていた封印に引っ掛かってやられたのかも知れん」 「いいでしょう。どっちみち何か手を打たないと二人とも御陀仏でしょうから」 ザンジュは立ち上がって目を閉じ、先ほどよりも遥かに複雑な呪文を唱えた。 すると、どこからともなく、黒い砂粒が空中を一直線に飛んできて空中の一点に集った。 それらが集い固まってできた物体は次第に大きくなり、やがてアリジゴクの化け物の体型を整え始めた。 「いいぞ、これでうまく行けば、我々も助かる!」 ものの十分もしないうちに、それはすっかり復活した。 だが、それにザンジュがかりそめの魂らしきものを吹き込み、巨大なアリジゴクが鋏を振り上げて威勢を示した瞬間、天の一角から強烈な力を持つ光が降り注いで、それは木端微塵に砕かれた。 それだけではない、たまたまアリジゴクの足元にいたザンジュも大きく跳ね飛ばされて、砂漠に叩き付けられた。 「ザンジュ!」 アリー・ブンが抱き起こすと、ザンジュは全身をズタズタに裂かれていた。 「ザンジュ、すまなかった… 俺が突拍子もない考えに取り憑かれたせいで」 「兄貴、謝ることはないさ。俺は兄貴の部下なんだ」 「カンビュセス王の五万人の不死身の兵士なんて、やはり幻だった! ただの伝説だったんだ!」 アリー・ブンはターバンを掻きむしり、頭を砂に叩きつけた。 「そうじゃないですよ… ちゃんと封印もあったし、こうして結界も働いているじゃありませんか。俺たちは確かに、近くまでは辿り着いているんですよ…」 ザンジュは息も絶え絶えながらもアリー・ブンの手をとり返し、彼の目を仰ぎ見た。 「本当に求めるものならば、最後の最後の瞬間まで諦めないことです。砂漠、それも特に悪魔の砂漠では」 「俺を置いていかないでくれ! 一人ぼっちにしないでくれ!」 「一人ではないですよ。五万人もの不死身の兵士たちが兄貴の部下に−−」 ザンジュの言葉が途切れた。アリー・ブンが狂ったように呼び起こしても、二度と答えなかった。 アリー・ブンはザンジュの遺体を埋めようと、両手で砂を掬ってかけた。だが、それよりもずっと早い速さで、風に運ばれる砂が、その姿を完全に隠し去ってしまった。 「そんな… 砂は一刻もしないうちにザンジュを覆い隠した。いわんや一四○○年前の兵士たちは−−」 涙とも汗ともつかぬものがポタポタとその上に落ちた。 と、いきなり偃月刀をすらりと抜いたアりー・ブンは、突喊の奇声を上げると、姿の見えぬ敵に向かって突撃した。 「出てこい! 此の地に封じられしカンビュセス狂王配下の五万人の不死身の親衛隊よ! 我はアラビアはムフターラ在住の回教徒の戦士アリー・ブン・モハメッドなり! いざ、尋常に出合え!」 失意と絶望の果てに、アリー・ブンはついに幻を見た。 聖なる予言者が唯一なる神の御名のもとに、時空の彼方に追いやった邪神、魔神とその使徒たちが鱗粉色にきらめくおどろおどろしい空一面にひしめいて、彼に迫ってくるのを… それらは蛸やイカのような海洋生物に似ているものもあれば、黒くヌメヌメした形のないものもあり、さらには螻(オケラ)か爬虫類のようないかにも下等な感じの生き物もいた。 アリー・ブンは偃月刀を振り回して、奴等の触手や複眼、鱗の逆立った体めがけて斬りつけた。 刀は最初の一振りで弾き落とされ、アリー・ブンはみじめにも這いつくばらされ、異形の者共に押し潰されそうになった。 「無念だ!」 彼は最後に、一握の砂を握りしめた。 その時、手が何かに触れた。 それは何か、杖の先のようなものだった。 先端に象牙の双胴の毒蛇が乗っているところから、どうやら魔導士のそれのようだ。 「この砂漠に埋もれている魔導士といえば」 アリー・ブンは古い書物で調べ上げたことを必死で思い出した。 「まんまとカンビュセスの後釜に座った王、ダリウス配下の大魔導士ガウマータだ!」 アリー・ブン自身は、魔法はまるで知らなかったが、口に出してこう唱えた。 「主君ダリウスの卑劣かつ姑息な罠に落ち、砂漠に封じられしペルシアの大祭司(マギ)ガウマータよ! アラビアの回教徒の戦士にして謀反人のアリー・ブンが命じる! 速やかに目を醒せ!」 象牙の蛇がピクリと動いたかと思うと、砂の中から、真紅の炎の刺繍のあるゾロアスター教の祭司長の式服に包んだ長身の男が現れた。 「おのれダリウス! よくも計りおったな」 男はうめいた。 「何でもいいから、この化け物どもを何とかしてくれ!」 男が杖を一振りすると、空間にひしめいていたおぞましき姿の者共は嘘のようにかき消えた。 「視覚を司る脳髄および網膜に太古の思念が焼きついて見る幻影である。もう大丈夫だ。目を開けられよ」 アリー・ブンがそっと目を開くと、あれだけひしめいていた者共の姿はなく、空も砂漠もまともな色に戻っていた。 「貴方は誰ですか? やはり大祭司ガウマータで?」 「その通り、主君にして盟主のダリウスに計られて、かような仕儀となっておった」 式服にまとわり付いた砂を払い落とす男の手には、回教では禁止されている不気味な火龍や、長い尾をなびかせた火の鳥の模様の刺青が走っていた。 「拙僧が苦労して策を巡らせ、カンビュセス王の五万人の不死身の親衛隊を眠らせたというのに、ダリウスめ、目的を遂げると拙僧まで罠にはめおった!」 「気の毒だが、カンビュセスもダリウスも、もうこの世にはいない。貴方が眠らされてから一四○○年の月日が流れてしまったんだ」 アリー・ブンは一四○○年間の歴史を簡単に物語った。 アケメネスが起こした王朝はダリウスから数代、ダリウス3世の時にマケドニアの英雄アレクサンダーによって滅ぼされたこと、ペルシア及びアラビア人は、聖なる予言者が告げたただ一つの至高の神を信じるようになったこと、その予言者の血脈アッバースの子孫が教主という王になっていること、を… 「アウラ・マズダもアーリマンも、もはや敬われ、畏れられてはいぬのだな…」 ガウマータはかすれた声で呟いた。どうやらこの魔導士、もとの時代に戻る術(すべ)は持っていないらしい。 「ところで、貴導士がダリウスのために砂に埋め去った五万人の不死身の兵士たちは?」「おお、奴等か、連中ならまだこの近くに埋もれているはずだ。あの術は、かけた術者−−即ちこの儂にしか解けぬもの故…」 「その術を解いて、五万人の兵士を自由にしてはくれぬか?」 アリー・ブンは低く鋭く言った、 「何と! それはたやすいが、甦らせた後、それだけの数の兵士どもを一体どうするつもりじゃ? エチオピア遠征の時に懲りて、食料と水は余計めに持っておるとは思うが… それから後は食わさねばならぬし、戦わせぬなら、時おり訓練もせねばならぬ。もしもおぬしが王でないなら、養い続けるのは容易ではないぞ。 それに、彼らはカンビュセス王以外の者の命令は聞かぬやも知れぬ」 言いつつガウマータは杖の先で砂の上に魔法陣を描いた。するといきなり大理石のサイド・テーブルが持ち上がった。その上には氷を浮かべた色とりどりの酒がつがれた水晶のグラスが並んでいる。魔導士はその中から、ナツメヤシの香りのするものをつかんで一気に飲み干した。 「一四○○年目の美酒か…」 「済まないが、ただの水か鉱水を出してもらえないだろうか? 我々の教えでは飲酒は禁じられているので」 「何と! それは驚きだな! すると甦らせた五万の兵士たちも全て異教徒となる訳だな」 ガウマータが砂漠に別の魔法陣を描くと、テーブルもグラスもなく、いきなり美しい清水がこんこんと湧き出した。アリー・ブンは膝まずきその水をむさぼり飲んだ。 「おまえはおまえの時代の正しき唯一の神を信じる者だ。その者が何故、久しく砂漠に封じられていた、この時代には許されざる異教徒の魔導士及び兵士の我々を甦らそうと試みたのか?」 「ひたすら、マッサラーの敵を討つため」 「その敵を討った後はどうする? 我らは異教徒。そなたの目的を遂げた後には、国の一つでもくれるのか?」 一四○○年間燠(おき)だった祭司長の野心の炎が燃え上がる。 「聖地はやる訳にはいかん」 アリー・ブンはきっぱりと言った。 「スサが欲しい」 「スサも、その他も、ただ一つの神の御名が唱えられている土地はすべてだめだ」 「ではヌビアやエチオピアはどうだ?」 「その二つともだめだ。エチオピアも、いまでは同じアブラハムの子孫であるナザレの予言者をただ一人の神としている。 ヌビアは、今だに多くの神神を信じているが、俺は彼らに恩義がある」 「ではどこをくれるというのだ?」 ガウマータは苛立ちはじめた。 「インドと、大唐国と、その東の小さな島国はどうだ? これらの国には、多くの神や仏と称するものがひしめいている。おまえたちが潜り込んでも生き延びられるだろう」 とんでもない条件だったが、ガウマータはこれを飲んだ。 「よかろう。おぬしが来なければ儂も時の果てるまでここに埋もれたままだった。魔導士の不文律として、おぬしの三つの願いを叶えた後、その土地へと向かおう。 −−先ほど、真水が飲みたいと願ったのが一つ、これより五万の不死身の兵士を甦らせることで二つ、残りは一つ、ということでよいか?」 アリー・ブンはかすかに肩をすくめた。 ガウマータは日輪に向かって大きく両手を広げ、杖の先を輝きにかざし、短い呪文を唱えた。 五万人もの兵士たちが、一四○○年間もの間、この僅か数句の呪文が唱えられることのなかったせいで眠り続けていたというのは、哀れな気がした。 ゴゴゴゴ… と地の底から響き渡る地鳴りがして、砂丘全体が大きく盛り上がった。 その頂上部分の砂がザザーッと流れ落ちると、きらめく金銀の鎧冑をまとって、装甲駱駝にまたがり、研ぎ澄まされた剣槍をかざしたカンビュセス王の遠征軍がその姿を現した… アリー・ブンは伝説の軍団である彼らの様子をよく見ようと近ずき、思わずアッと声を上げた。 彼らはもはや人間の姿を留めてはいなかった。兜の下の顔はシャレコウベであり、鎧と骸骨を通して、向う側の風景が見えた。駱駝もまた、その骨の上に荷を担いでいた。 文字通りの地獄の軍団だった。 軍隊は古代ペルシアの瑞兆である人面有翼獅子の旗印を持った旗手を先頭に、砂漠の果てのアンモン人のオアシスめがけて、一四○○年越しの行進を始めた。 「どうすれば、こいつらは俺の言うことを聞くんだ?」 長い長い兵士たちの列がアリー・ブンの目の前を通り過ぎて行く。すでに骸骨の姿でありながら、余りに過酷な進軍に、背骨と膝頭はかすかに曲がり、力なく武器などを引きずっている者も多かった。 「不死隊はそれぞれの王の専属の親衛隊で、王が代がわりすると、全員殉死して王の陵墓に葬られる。従って、カンビュセス王しか、彼らに命令を下せる者はない」 すっかり落ち着いたガウマータは、砂漠の真ん中に獅子足のテーブルと、湯気のたった子豚の丸焼きや海老の料理を出現させ、飽食していた。 「何? じゃあ俺が彼らの大将になるためには−−」 「カンビュセス王の代理たる証がいるであろうな」 「そんなもの、もっているはずがないだろう!一四○○年も前の王なんだぞ」 アリー・ブンはまたしても慌てた。 「では予定通り、アンモン人のオアシスを滅ぼして、それからスサへ凱旋の帰路につくだろうな」 「アンモン人など、とうの昔に別の民族によって滅ぼされている!」 「そんなこと儂が知るものか! ならアンモン人を見つけるまで、この砂漠の周辺の民族を殺戮しつづけるだろう…」 ガウマータは子豚の骨をしゃぶりながら答えた。兵士たちの行進はまだ延々と続いている。 「無茶苦茶な! では大将になることは諦めるから、彼らもう一度、今度は永久に、眠らせてくれ!」 「それはできぬ」 拝火教の魔導士は黄色い歯をニッと剥いた。「この術は月回り、星回りに大きく左右されるのだ。加えて魔力の消費も大きい。悪いが儂も、これから暫くこの世界で暮らして行かねばならぬのでな」 「そんな!」 アリー・ブンは無口なことこの上ない、骸骨軍団の一人の隊長の鎧の裾を引っ張って立ち止まらせた。 「カンビュセス王も、アンモン人も、もういない。おまえたちを甦らせたのはこの俺だ。 だから俺の言うことを聞け!」 すると、骸骨隊長は、がらんどうの眼窩の奥の、闇なる闇にアリー・ブンの姿をしげしげと写し、ケタケタと歯を鳴らしてこう言った。 「汝カンビュセス王の名代である証を見せよ。さらば我等、汝の命に従わん」 相手は五万の大軍団、こちらはたったの一人。これ以上どうすることもできなかった。 兵士の最後の兵士が通り過ぎる頃、魔導士ガウマータは砂漠に埋もれていた駱駝や、象や、大昔の龍たちの骨を念力で掘り出し、まるで適当に繋ぎ合わせて、骨だけの獣を造っていた。 「さてと、亡霊軍団の戦ぶりを観戦するとするかな。アリー・ブンとやら、おぬしも一緒に参らぬか?」 どう考えても断れる状況ではない。 アリー・ブンは骨獣の背骨の太いところをえらんで腰掛けた。 するとガウマータは、自分の分も含めて、鞍や敷物を出してくれた。 「こんにちの世界の状況と、おぬし自身の詳しい話が聞きたい」 アリー・ブンにはこの祭司長が世間でよく言われるような邪悪で極悪非道な魔導士には見えなかった。抜け目のない術者なら、いかに相手がダリウスとはいえ、一四○○年も砂漠に封じ込められるような不覚は取らなかったはずだ。 「バスラで、おぬしに五万の不死隊のことを教えた魔導士、おそらくそやつこそが本件の黒幕であろうな」 骨獣の背の上、骨だけの余り効果のない天蓋の下、ガウマータの酒盃をあおる速さが増す。 「儂など、とてもではないが歯が立たぬだろう…」 「どうして? 奴は俺の部下だったザンジュがやっつけた」 「やられたフリをしただけだ」 「会ってもいないのに何故分かる?」 「その者の妖気がおぬしの身体に染み付いておる。おそらく、どこへ行っても分かるように付けたものであろう」 「何?」 アリー・ブンは身に纏っているマントや衣服に鼻を当てて臭いを嗅いでみたが、馴染みの汗と砂塵の臭いしかしない。 「俺には感じられない」 「知らぬが仏だ」 「俺は確かめたい。証拠を見せてくれたら、あなたの論を信じよう」 「やれやれ、しょうがない奴だ。ではこの目薬を右の目に塗ってみろ」 懐手にごそごそさせていたガウマータが、小さな貝殻に入った目軟膏を取り出した。 「これは?」 アリー・ブンは蓋を開けると、何の変哲もない油薬が入っている。 「世界中の隠れた宝を見るための目薬だよ。それを守護する化け物も見ることができるようになる。 −−おっと気を付けろ! 左の目に塗ると両目を失明して、一生光を見ることができなくなるぞ」 「右の目に塗るのだな」 言われた通りに、その薬を右の瞼に塗ってみた。 その途端、アリー・ブンは歴戦の勇士とは思えない悲鳴を上げた。 それもそのはず、自分が纏っているマントも衣服も、赤黒い小さな氈虫がビッシリと付いてもぞもぞと蠢いていたからだ。 余りの気色悪さに、払い落とすこともできず、アリー・ブンはそれらの衣服を脱ぎ捨てて褌一つの裸となった。ところがあろうことか、その褌までにもその虫どもがわんさかと入り込んでいるではないか。 褌を脱ぎ捨てて、やっと人ごこちが付いた。 何気無く臍のあたりに目をやると、こともあろうに臍の中に先ほどの虫の頭がちらりと見えたかと思うと、サッと腹の中に消えた。 アリー・ブンは絶叫した。 「だから余り勧めなかったのだ。その虫を駆除するには、一二○年間は薬草を飲み続けなければならない。普通の人間なら一生飼っておくしかない代物だ」 「この目薬の効果を消す方法は?」 「ないな」 ガウマータはそっけなく言った。 「術者を倒せば、虫は消滅するか?」 「いいや。残念だがそれは関係ない」 「じゃあどうすれば?」 「慣れるしかないんだよ、アリー・ブン。 前に回って私を見てごらん」 裸のアリー・ブンが身を乗り出して骨獣のたずなを引いている祭司長の顔や衣服を見ると、そこには、先ほどまではなかった種種の腺虫や寄生虫、芋虫や蝶の蛹のような虫が びっしりと張り付いていた。 「−−これでも帝国ではちょっとした顔でね。当然ほうぼうから恨みも買っている」 アリー・ブンはたまらなくなって目をつむった。ところが、目をつむっても虫の姿は目から消えない。むしろギラギラと毒毒しく輝いて、より鮮やかになり、這い回る気配もハッキリと感じられるようになった。 「無駄だ、無駄だ。その目薬は盲目の者にも効くんだ。つまり、盲目でも世界じゅうに隠された宝と、それを守護する化け物が見えるようになる…」 アリー・ブンは腹をくくって諦めた。 「そうか… やむを得まい。そうと決まったらこの陽の光、暑くてたまらん。捨てた服を拾いたいが」 「そう言うと思って拾っておいた」 ガウマータが後手に渡すアリー・ブンの服は皮肉なことにきれいに洗濯されていて、石鹸の香りさえ漂っていた。 「−−奴らの行き先は分かっている。先回りしよう」 二人は不死隊の隊列を尾けるのをやめ、砂漠をぐるっと迂回した。 それから数日、定められた隊商道を進んでいた隊商のいくつかが、陽炎に揺れる砂漠を行く骸骨兵士の軍団を目撃した。 「カンビュセス王の遠征軍だ!」 「呪われた軍隊が甦った!」 商人たちは砂に額を擦り付けて、善き魂を守り賜うアラーに祈りを捧げた。 3 大祭司ガウマータが、古代拝火教の魔法で造り上げた骨獣は、砂煙を上げて一昼夜走り続けた。 今までの疲れがどっと出たアリー・ブンは鞍の上でぐっすり眠り込んでしまった。 「おい、起きるんだ、着いたぞ」 大祭司のくぐもった声に起こされたアリー・ブンがうっすらと目を開くと、トルコ石色の空と、煉瓦粉のような砂漠との間に、小さな町ならそっくり頂けるぐらいの岩盤がそびえているのを目にした。 「アンモン人のオアシス−−というか、彼らのオアシスがあった場所だ、と言ったほうがいいか…」 ガウマータは骨獣の前足を屈ませて、砂漠に飛び降りた。 彼の言う通り、そこはとても人間の住むところとは思えない、魔界の化け物の棲み家 だった。 まず、その土台の岩盤からして完全に腐敗しており、染み出た腐汁が固まってブヨブヨと寒天状になり、通りがかりの動物の目や触手を取り込んで、不揃いでグロテスクなそれらがゆらゆらと蠢いている。 上には、元からあったらしい土壁作りの家家や長(おさ)の家、神殿らしき建物が、これまた取り込まれ、再構築されて、尖ったり丸まったり、この世ならざる風景を形造っている。 さらに、現在のそこの住人は、泥から生まれ出た、目も鼻も口も、ぽっかりと丸い穴が開いているだけの動く土人間だった。 連中は特に何の仕事もないのか、狂える街をうろうろとさまよっては、建物をでたらめに継ぎ足したり、また破壊したり、仲間を壊したり、造りだしたり、永遠に果てることのない愚行を繰り返していた。 「我々の世界にまだ、これほど神を冒涜する場所があったとは…」 アリー・ブンも骨獣から降りた。 ガウマータはふたたび呪文を唱えて、いままで乗ってきたそれをバラバラにして、中のルビー色に光る、手に乗るぐらいの脳髄だけを大切そうに懐に入れた。 「目薬だよ。目薬をさした者にしかこの街は見えない…」 そう言えば、その街を見てからガウマータや自分の顔の虫どもを見ても、もう気味悪いとは思わなかった。それほどその街は始源の汚濁と混沌に満ちていた。 「儂らの時分−−カンビュセス王やダリウス王の時代−−には、ここはまだ美しく、緑がおい茂り、清水の湧き出るオアシスであったはずだ。アンモン人と呼ばれる男は逞しく、女は美しい人々が住んでおったはずだ… 少なくともカンビュセスは、異世界の化け物退治にはるばると親衛隊を派遣するほど、暇でも酔狂でもなかった…」 「では、どうして?」 アリー・ブンは途方に暮れた。 「おそらく、一四○○年の時がここをこのように変えてしまったのだ。おぬしが出会ったバスラの魔導士は、五万の不死隊をもってして、ここの現在の主と一戦交えるつもりであろう」 「冗談じゃない! 化け物と骸骨兵団の戦いなんかに巻き込まれるなんてまっぴらだ!」「もう手遅れじゃ」 大祭司が指さす方向を見ると、砂嵐が巻き起こっていて、見る見るうちに近ずいてきた。 ガチャガチャと鳴る錆び着いた武器や鎧の音に聞き覚えがある。冥界をさまよう兵士たちのザックザックという軍靴の響きも耳に響いてきた。 それはもちろん、骨獣に乗って追い越したはずの五万の不死隊だった。 「おい、もう一度あの骨の獣の乗り物を組み立てろ!」 「それは簡単だが、どちらへ逃げる?」 ガウマータの言う通り、カンビュセス王の不死隊は、元アンモン人のオアシスのあった場所をぐるりと円陣を組んで取り囲み、次第に輪を縮めるようにして迫ってくる。 「空はとべないのか?」 「それもできるが、やはりちょっと手遅れじゃったようじゃのぅ」 不死隊が迫った途端、空には複眼と鮫の牙を持つ、巨大なこうもりのような龍が何匹も現れて警戒を始めた。 「この分だとたとえ地面に潜っても、同じことであろうな」 「そんな呑気な!」 「ここで世紀の合戦を観戦する他になかろうよ」 大祭司がペシャンコのずんどう袋を触ると、カンビュセス王の頃のペルシア軍の槍や剣、鎧、兜が現れた。 「−−いちおう旗色をハッキリさせとかんとな。両方から叩かれるぞ。化け物のなりをするのは嫌じゃろう?」 どうしようもない愚問を聞き流す間もあらばこそ、アリー・ブンはその鎧兜をまとった。 五万の兵団は、その日の昼までかかって、全体を十の正方形の重装歩兵大隊(ファランクス)に分け、先鋒に一、中央に二、左右両翼に三づつ、後詰めに一という鶴翼の陣で、砦塞正面に対峙した。 これは「裏口は攻めぬ。逃げ落ちのびたい者は追わぬゆえ、好きに逃げるがよい」 という通常正攻法の攻城戦である。 カンビュセス王の不死隊が悠々と陣立てをしている間、アンモン人のオアシス−−いまは異形のものどもの巣と化している岩盤でも、ゆっくりとではありながらも、やはりそれなりの戦闘の準備が行われている様子だった。 土人間がのしのしと、彼らにしてみればせわしなく動き回り、触手の蠕動も早くなり、時折り空を引き裂く鋭い鳴聲や、土嚢ならぬ不定形の物質を積み上げる湿った音が聞こえてくる。 「数からすれば、やはり不死隊に乗り、だな」 アリー・ブンは兜を目深にかぶり直して魔導士を見た。 五万の軍団の後詰めのほうは、砂漠の彼方にけし粒のように霞んでいる。 「当然、攻めるほうは勝算があって遠征してきているのだから、これは激戦になろうぞ」 大祭司ガウマータも珍しく急いで、魔法に使う様々な小道具−−骨や、皮膚や鱗を乾かしたもの、各種鉱石や薬草、針、小さな人形、宝石、呪文を書いた紙などを取り出して点検した。どうやら自らもあの不気味この上ない砦塞に乗り込むつもりらしい… やがて太陽が西に傾き、月と星が鮮やかに光り出す頃、一陣の閧の声とともに、五千の先鋒が進撃を開始した。 闇の軍団の戦いは、原則として夜だったのだ。 進む兵士たちからは、砂埃とは違う、青い炎が舞い上がる−− あるところまで接近した時、城壁の触手は一斉に素早く伸びて、最前列の兵士たちを絡め取り、その骨を鎧兜ごと粉々に砕いた。 骸骨の兵士たちはひるまず、青い炎の火矢を放った。 それが触手に命中すると、炎はたちまちのうちに広がって、城壁じゅうに広がった。 その炎の中を長い梯子をかけて、不死隊が次々とよじ登ってくる。 触手の中でも、炎に強いものは、逆に橙色や黄色の炎を吹き返す。 地獄の火炎の火力に、骨は粒になって風に流され、鎧兜は飴のように溶けて梯子をつ たった。そして梯子もドロドロになって溶けていく… それでも不死隊は後から後から攻め登る。 その剣は呪われた青き炎でも燃えない触手を薙ぎ払い、その本体を微塵斬りにした。 アリー・ブンはついに不死隊の一人が砦塞の頂上に白い骨の手を掛けるのを見た。 ところが、そこで待ち受けていた土人形の兵士に強烈な酸のような、毒液を吹きかけられ、燃え滓となって飛び散った。 巨大なコウモリに似た飛龍も現れて、必死の防戦となった。 「さあて、そろそろ行こうかの」 「行くって、どこへ?」 これまで幾多の血潮の中をかいくぐってきたものの、この世のものならぬ、余りに凄絶な戦いに言葉を失い、茫然と眺めていたアリー・ブンは、ガウマータの何気無いつぶやきにハッと我に帰った。 「決まってるじゃないか。あの上じゃよ。一体何があるのか、あいつらが何を守っているのか、知りたいじゃろ?」 「いま行くんですか?」 「いま行かずにどうする? 不死隊とそれを操っている奴に先を越されては何もならんじゃろう?」 アリー・ブンは何者かに憑かれたように、梯子を登りはじめた。彼のすぐ先を登っていた骸骨兵士が、生き残っていた触手に捕まり、土人形の兵士に毒液を浴びせられて形を失い落下した。 アリー・ブンはすかさずその触手を斬り払い、土人形の兵士に向かって槍を投げ付けた。 槍は相手の目に命中し、土人形の兵士は逆流した毒液をあたり構わず吐き散らし、敵も味方も巻き込んで汚物の海に沈んでいった。「よし、一番乗りするぞ!」 得意の魔法で、次々に襲い掛かる雑魚を蹴散らしながら援護していた大祭司は、アリー・ブンの背中を踏み台にして、砦塞の中に進んだ。 すでに想像していた通り、城壁の中、アンモン人の街は、そこがとてもかつて人間が住んでいたとは思えないほど、変わり果てていた。 動物の肉や骨を齟嚼して吐きもどしたような漆喰−−いかなる巨大な化け物が行ったのだろうか、各種の骨や筋肉がそのまま模様となって残り、かすかな腐臭すら残している。 蜂の巣そっくりの窓や出入口とおぼしき穴がある他は、特に門や扉らしきものはない。 街−−それがまだ街といえるものなら−−は結構広く、曲がりくねった窿道やトンネルが無秩序にどこまでも続いている。 「おい、お宝と、それを隠してあるところはどこだ?」 アリー・ブンは、一四○○年ぶりに甦ったとは思えない速さで。張り切って駆けるガウマータの後を遅れないようについていくのに必死だった。どうも魔導士の修行をした者にとってはそれらしきものの在処は、そこはかとなく直感で臭うらしい。そのあたりは泥棒や墓荒らしと似ている。 おそらく五万の兵士を操って攻めている謎の魔導士も、とうに承知のことなのだろう。 街のほぼ中央、一際高い塔の回りには、破壊された泥人形や、より強力な毒でしおれ、溶けた触手や軟体動物の山が築かれている。「おかしい、ここまではまだ彼らカンビュセス王の不死隊は攻め込んでいないはずなのに」「シッ! 気を付けられよ」 ガウマータはやはり化け物どもの守備部隊が殲滅させられている穴を潜りながら言った。 その穴自体、一面に鋭い牙の生えた土管状の生命体だったらしいが、木乃伊のように干乾び自慢の牙もパラパラに抜け落ちて枯死している。 遠くから次々と不死隊の勝閧の声が聞こえてくる。 どうやら化け物たちは武運拙く、敗北の道を辿っているらしい。おそらく一○○○年近くは誇ったであろう栄華も、今日をもって幕をその閉じるに違いない… ヨナの紛れ込んだ鯨の腹の中以上の、色とりどりの血管が走り、それ自体が一つ一つ独立した生命体であった筋肉の団塊に囲まれた内臓−−そのいくつかを通り過ぎた後、二人はついに、真紅に輝く高い天井を持つ神殿ふうの広間に着いた。 その壁は、どくどくと脈打ち、脈打った部分は分裂し、分裂した細胞は専用の穴からころころと転がり出していく。 どうやらここは、兵士兵器工場にあたるところらしい… 広間の奥、幾枚もの半透膜に被われた内陣の中に、一つの人影が見えた。 アリー・ブンはその影に見覚えがあった。 バスラで出会い、アリー・ブンに砂漠に眠るカンビュセス王の不死隊のことを教え、その場でザンジュに殺された、小柄で猫背で身体じゅうから邪悪な気を立ちのぼらせている、あの魔導士だった。 「貴様!」 偃月刀で斬り裂きながら進もうと思いきや、それらの膜は刀や顔にまとわりついて離れない… 顔には焼きごてを押しつけられたような激痛が走り、偃月刀は気泡を上げて溶け出した。 ガウマータが懐から魔法の粘土の固まりを取り出して押し当ててくれなければ、顔から全身はたちまち溶け去って消滅してしまったことだろう。 しかし、すでに欠損した部分は粘土の顔となった 「おう、おまえか、魔導士でもないのにまだ生きていたのか…」 魔導士は相変わらず、自らがいまにも崩れ去りそうだった。 「それからそっちは不死隊と一緒に一四○○年も眠っていた間抜け魔導士か…」 「そういう貴様は誰だ?」 ガウマータは油断なく杖を構える。 「ほう、さすがに間抜けとはいえ、カンビュセス、ダリウスの二代の王に使えたペルシア帝国の祭司長(マギ)、そこそこそれなりにはやるらしいのう… 儂はサナアのアルハザード、偉大なるアブドゥル・アルハザードじゃ」 アリー・ブンはその名にかすかに覚えがあった。 アルハザードといえば、まだダマスカスに都があった頃、ウマイア家のスライマーンとヒシャームの両猊下が教主の座に座られていた頃に、古き世界の旧き支配者の復活と召喚をもくろみ、失敗して都の大通りで衆人監視のうちに、目に見えぬ怪物に手足をもぎ取られ、貪り喰われた魔導士のはずだった。 「アルハザード、何が目的だ? ここに何があると言うのだ?」 ガウマータがおごそかに尋ねる。 「それは教えられんな、とは言っても、おまえほどの者だ。とうに儂の心は読んでおるのだろう。−−別に知られても何の支障もないがな」 アルハザードがもごもごとくぐもった声で人の言葉ではない呪文を唱えると、爪や鱗や原細胞、微生物、クラゲなどが凍り固まってできていた有機質の床が次第に熱を持って暖まり、もぞもぞ動き始めたかと思うと、平面化していた触手や蠕足が首をもたげだした。 ガウマータもすかさず両手で印を結ぶと、アリー・ブンの首根っ子を持って、天井あたりまで浮かび上がった。 甦り、放電しているいくつもの触手がビュンビュンと空しく空を切る… 「ガウマータ、奴を殺さなければ… 奴が本当にサナアのアルハザードなら、太古の邪悪な神神を召喚して、全世界を真の神の手の届かぬところにするつもりだ!」 「分かっておる!」 二人の焦りを嘲笑うかのように、今度は天井の下僕たちがブクブクと発泡して具現化し始めた。 暗黒色の巨大な蟹の脚や蠍蝎の尾、蛭や蚓蚯が襲い掛かる… アリー・ブンが自慢の鍛えた偃月刀を力一杯振り回しても、切断はおろか、傷一つつけることができない。 せいぜい薄い鱗がはらはらと落ちるぐらいが関の山である。 「くそう、何とかならないか?」 それを聞いたガウマータは、思い出したみたいに彼の偃月刀に古代ペルシア語で呪文を掛けた。 途端に剣は切れ味を増し、堅い鱗や甲羅で被われた手足も何とか斬りつけることができきた。 青、緑、赤紫色の猛毒の血が雨となって飛び散る。 「いま、おぬしの寿命を剣の切れ味に変換しておる」 アリー・ブンが驚いてピカピカ光る剣の腹に己の顔を写すと、漆黒だった黒髪の半分が灰色と白のまじったまだらになっている。 「−−つまり寿命を削って力に変えておる訳だが、ここで死んでは元も子もないからの」 ガウマータも掌の中で火球を作ると、次々と迫り来る有機体に向かって投げつけた。 浄火の炎が効いて、燃えて塵屑となるものもあれば、炎を胎内に取り込んで力となし、ますます勢いを得て、多数に分裂しながら迫り来るものもある。 たぶん氷で攻撃しても、雷撃を放っても、煮えたぎる溶岩でも全てを溶かし去る酸でも同じだろう。 「埒があかない! アルハザードの命を奪おう!」 怨念の魔導士の姿を捜していたアリー・ブンは驚いた。何と、老若男女、アラビアや、ペルシアや、エジプトやシリアや、ヌビアやトルコや、サマルカンドの民族衣装に身を包んだ、数十名もの魔導士が、様々な種類の膜や気の鎧に包まれて、いつの間にか広間の空間に浮かんでいた。 「そうはさせん!」 「誰もアルハザード様の邪魔はさせんぞ」 「アルハザード様こそ、傲り高ぶる人間どもに、真の宇宙の支配者を啓きお示しになられる方…」 ありとあらゆる種類の言葉が飛び交う。 「な、何だこいつら…」 「アリー・ブン、おまえに一つ訊くが、極悪非道の魔導士アルハザードは、著書−−即ち本を書き記しておらなんだか?」 「書いていた! 俺は当然そんなものを見る機会もなければ、読もうともおもわなかったが、確かに『死霊秘法』とかいう本を著していた。もとはアラビア語で記されていたけれど、ギリシア語やラテン語に翻訳されて、いまや世界の魔を志す者たちの垂涎の的になっておるとか…」 「それじゃ! それを読んだ力足らずの愚か者の多くが、アルハザードめが本に込めた邪心に心を奪われ、夢うつつの虜となって、奴のために力を貸しておるのじゃ。−−おそらく、先ほどアルハザード本人と名乗ったバスラの魔導士も、操られておる分身の一人に過ぎぬのであろう。何しろ本人は、ダマスカスの往来で目に見えぬ化け物に手足を引きちぎられて貪り喰われておるのじゃから…」 「そんな… 本を読んだだけで、字が読めておまけに魔法に通じた賢者たちが、こうも簡単に虜となるなんて… コーランのような聖なる書物を読んで良いほうに感化されるならともかくも…」 「聖なる書物に人間の良き心を目覚めさせる力があるように、憎悪に満ち満ちた字句は、読む者の心を意外とたやすく奪い、魔神の使徒としてしまう…」 呑気に議論している暇などさらさらなかった。 寄せ集まった多くの国々の魔導士たちは、それぞれ口々に違った呪文を唱えた。 すると、沸き立つ白い煙、黒い煙、灰色や黄色の煙の中から、半人半魚の鱗に覆われた人間や、先端に目玉のついた触手を持つ黒い不定形の物体や、槍イカの頭に鱗木の胴体を持つ化け物−−大きいものは天井にぶつかり小さいものは人間の手足ほどのもの−−たちがどっとばかり現れた。 「だめだ! 余りに多勢に無勢だ!」 「もはやこれまでか!」 アリー・ブンもガウマータも諦めて目を閉じようとした時に、予想外のことが起きた。 召喚された古の神神とその下僕は、何を思ったか次々に召喚した魔導士たちに襲い掛かり、彼らの手足頭を引きちぎって貪り喰い、あるいは丸飲みに飲み込んだ。 広間はたちまちのうちに阿鼻叫喚に包まれた。 「しめた! 何たる僥倖! 奴ら、私淑していたアルハザードと同じ運命を辿りおるぞ」 祭司長ガウマータは、金縛りにあったように彼らの末路を凝視していたアリー・ブンの袖を引きながら言った。 「すると、魔力の未熟なものが『あれ』を召喚すると…」 「未熟も何も、あの者共を召喚するなど、いかなる人間、いかなる予言者といえども許されざることじゃ」 4 不思議なことに、神殿は奥に進むにつれて化け物たちによる浸食が軽くなり、アンモン人たちが最初に築いた頃の面影をそのまま残していた。 六角形の水晶のタイルを張り合わせたテラスからは、砂漠が一望にできる。 この砂漠だけに産する鏡水晶は、一刻おきに磨かれているかのように、一点の曇りもなく、銀色に輝いている。 「アンモン人の王の間だ」 ガウマータは溜め息まじりにつぶやいた。「それにしては玉座がないが…」 「そんなものは必要ないのだ」 「なぜ?」 「ここは本来、肉体を備えた者のための部屋ではない。魂魄の部屋だ」 「すると、一種のピラミッドか?」 アリー・ブンが辺りを見渡すと、なるほど水晶の鏡の一枚一枚に、世界中の違った土地の景色が写し出されている。彼が「バスラ」を捜すと、鏡の全てを使ってバスラやマッサラーやムフタラーの街角が写し出された。 それに夜と、彼が指揮したザンジュたちの反乱は、いまではすっかり鎮圧されて、戦火で破壊された街の復興も著しかった。 「さよう。伝説の通りだとすると、アンモン人の王たちは肉体の死後、ここで歴史のうつろいを目にしながら復活の時を待ったのじゃ」「で、復活の方法は?」 「それはここにはない。この街自体がそこへの入口となっている『復活の砂漠』に『心臓石』を持っていかないことには…」 「『心臓石』?」 「これのことじゃよ」 祭司長は二人が乗ってきた骨獣の心臓部分に輝いていた赤く輝く石を出して示した。 「しかし、俺は戦場で幾多の敵の兵士の心臓をえぐり出してきたが、こんな石を持っている奴など一人もいなかった」 「そりゃあそうじゃろう。儂ですら造ろうなどとは一度も思ったことがないぐらいじゃから。−−この石はな、己の醜い欲望のために千万以上の一般の人間の魂、もしくはそれに準ずる崇高な魂をを吸い上げないと造れぬものじゃ」 「千万人… それはいくら何でも」 アリー・ブンは呆れ返った。 「ま、やってやれんことはないがのう… 例え作り方と復活の仕方を知っていたとしても、実際現実にに実行できた王たちは一人もいなかったはずじゃ。だから、ここは永遠に主なき玉座の間、ということになるな」 ガウマータが手のひらでサッと床を撫でる仕草をすると、鏡から世界の映像が消え、落とし戸が開いて下へ降りる階段が現れた。 「アルハザードは? 奴はここに封印されているからこそ、部下を−−五万の不死隊と、有象無象の魔導士たちを呼び寄せたのでは?」 祭司長を追って階段を降りかけたアリー・ブンは、ぼんやりと青銀色に輝くその壁を見てのけぞった。 そこには氷山に囲まれた凍れる湖や、鋭い牙を持ったほとんどが顔だけの深き海の魚たちの棲む世界の深みや、白い不定形の細胞が弾むだけの異世界が延々と写し出されていた。「我々の世界からは数億光年離れた世界の様子じゃ。気にするな」 いつ果てるか知れない底なしの長い長い螺旋階段が続いた。 降りていくうちに二人は、時間の観念も、空腹感も疲れさえも、分からなくなっていた。 ここはもう、かつて砂漠のオアシスだったところにあった神殿の地下ではなくて、次元も時間を超越した、どこか遥かに遠い世界のようだった。 暗黒の大広間を、光苔の案内線に沿って進と、天井の上にも、床の下にも、星晨の固まりが輝く空間のまん中に、黒く泥のような不定形の物質がゆらゆらと漂っていた。 それはまるで暗黒の王のように、時おり、細く短い触手を伸ばしては、赤や青や、白い空気の渦の入ったのや、帽子のような環のついた星星を取り込んでいる。 「こ、こいつも幻影か?」 アリー・ブンは血走った目で叫んだ。 すると、その眼球を星と間違えて、一本の触手が迫ってきた。 「幻影じゃない!」 大祭司ガウマータは彼を突き飛ばし、すばやく小袋の中から干した目の球を掴ませた。 干乾びた、数千年前の何かの眼玉は、たちまちのうちに湿り気を取り戻して、涙を浮かべ、黒目をキョロキョロと動かし始めた。 だがそれは一瞬だった。 触手はそれにくるくると巻き着き、力を込めて締めた。目玉は上部と下部がプクッと膨らんだかと思うと、プチッと音を立てて破裂した。 すると不定形はたちまちじょうごの形になって、飛び散った液や滓をこぼさずに取り込んだ。 「ナイアラトテップ−− 儂も古き禁書でチラッと読んだことがあるだけじゃ。こんなところに封じられていたとは…」 ガウマータは無意識のうちに目を手のひらで覆ってなるべく相手を見ないように心がけていた。 が、二人が進んできたと思われる暗黒の道はすでに後形もなくなくなっており、永遠の虚無と虚空が広がっているだけだった。 アリー・ブンはナイアラトテップ本体の中央部に、ぽっかりと壁龕に似た空間があり、その真ん中に、骨獣の心臓石そっくりの赤い石がギラギラと赤い霊気を上げながら輝いているのに気がついた。 「あれは一体何だ?」 「おしえて進ぜよう」 虚無の中に点が現れ、それが次第に大きくなって開いて、その向う側からアリー・ブンがバスラであった魔導士が現れた。 「貴様は!」 「あれは古今東西、人間の魔導士の中では、最も優れた力を持つ、サナアのアブドゥル・アルハザードの心臓石じゃ。 あれがないと、いかに腐肉を組み合わせ、脳髄を継ぎ剥ぎして 肉体を復活させても、深遠かつ究極の呪文は、使うことができない」 魔導士は指先で衣の心臓の部分を割り裂いて、肋骨を二、三本取り外して見せた。 左肺の下は、ポッカリとした空間があるだけだった。 「貴様、アルハザードだな?」 「気が付くのが余りに遅い。その頭で反乱を企てるのはちと土台無理というものじゃ」 「やかましい!」 アリー・ブンは偃月刀を抜いた。 「おっと、儂はおぬしには感謝しておるの じゃよ。なにしろ、幾重もの結界に阻まれたカンビュセス王の五万の不死隊を見つけてくれたんじゃからのぅ」 「ガウマータ、ガウマータ、俺は奴を斬るぞ。斬らずにはおくものか…」 「誰に話しておるのかな?」 「決まっている!」 アリー・ブンはま横を振り向いた。 ところがつい先ほどまでそこで彼を庇ってくれていたはずの祭司長の姿はなかった。 慌てて捜すと、ガウマータはいた。 黒い不定形のものの間に、手足や頭をもがれて、プカプカと浮かんでいた。 その顔が、その眼が、チラッとアリー・ブンのほうを睨んだ。まるで「仇を討ってくれ」と言いたげな、悲しみを浮かべて… ペルシア帝国の大祭司長も、アルハザードとその邪悪無比な召喚物の手にかかれば、鎧袖一触だった。 「で、何をするつもりだったのかな?」 「貴様を斬るつもりだ」 アリー・ブンはきっぱりと言った。 「どうぞ。おまえさんには借りがある」 アルハザードは皮肉っぽく唇を引き吊らせながら、彼の前にゆらりと立ちはだかった。 アリー・ブンは烈帛の気合いとともに、偃月刀を斬り降ろした。息つく暇もなく、右に左に、何十回となく薙いで、膾斬りにした。 黒い血、黒い肉、茶褐色の皮膚の固まりが飛び散る… 息を荒げたアリー・ブンが、ようやく斬るのを止めた時、魔導士の身体は、鼻が曲がる異臭を放つドロドロの汚物の固まりになり果てていた。 だが、それはプクプクと泡だって盛り上がった。アリー・ブンは底なしの恐怖と殺気を感じて一歩下がる。 物体は急に大きく跳ね上がり、アリー・ブンは尻餅をついて倒れた。 次の瞬間、それはおおまかに人の形を整えて、やがて元の姿に戻った。 「儂のこの姿は、あくまで仮の姿じゃ。のうお若いの、儂はまだまだこの世界でやりたいことが山ほどあるので、そう簡単に死んだり消滅はせん。歴代教主、ヒシャームやスライマーンが、思い余って、儂の心臓石をこの世界の果てとも言えるこの地下神殿に封印するだけで諦めたことから考えても分かるであろう?」 アルハザードはその先が二叉に分かれた 真っ黒な舌で藍色の唇を舐めた。 「貴様がやりたいこととは、この世界を破壊し尽くし、生き物を蹂躙し、暴虐の限りを尽くすことだろう?」 アリー・ブンはすぐに立ち上がり、もう一度剣を構えた。 ナイアラトテップは大きく波打ち、ざわざわとざわめき、くねくねとのたうち回った。 その合間に、それが果てしなき時の間に呑み干し続けたいろいろな世界の街−−古代ギリシア・ローマ風の街や、蟻塚や蜂の巣に似た街、それに動物の内臓そっくりの生体都市、逆三角形の氷のつららが突き刺さったような超次元の都市−−のミニチュアが現れては消えた。 「どうじゃ、若いの、おぬしも余計な感情や同情心のない無敵かつ冷酷なる存在に変身し、殺戮と破壊を業(なりわい)としてみぬか? 安っぽい人間の道徳や理性はもちろん、時間も次元も、宇宙の絶対性すらはるかに超越した存在となって、暗黒の力の優越性を謳歌してはみぬか?」 アリー・ブンの回りには、いつしか彼が甦らせた五万人の不死隊が取り巻いていた。 あの激しい戦闘を潜り抜けてきた五万の兵士たちは一人も欠けてはいなかった。アリー・ブンはいつしか気配だけで五万の血に飢えた魂を数えることができるようになっていた。 もしかしたら、彼らは本当に、倒されても永久に甦る呪われた存在なのかも知れない。「−−方法はごく簡単じゃぞ。この鱗、この肉片をほんの少し、おぬしの肉の間に埋め込むだけで、それはアッという間に広がり、身も心も圧倒的な力を手にいれることができるのじゃ」 「断る! 俺は差し違えてでも貴様を倒す」 アリー・ブンはガウマータが持っていた小袋を取り上げると、中にまだ使えそうな魔法の道具が残っていないか、手探りで捜した。 何に効くのかさっぱり分からない薬草の包みと、瓶に入った水薬が数個、それに大祭司が常に手に持っていた杖−−いまは主を亡くして小さくなっている−−それと、彼らがここまで乗ってきた骨獣の心臓石と、呪文が書かれているらしい羊皮紙の束だけが、手の先で確かめることができた。 「そうか。おぬしの如き下郎など、儂が直接どうこうする必要もなかろう…」 アルハザードがパチンと指を鳴らすと、骸骨の兵士のうち先頭にいた、斬り込み部隊の雑兵とおぼしきものが一体、ゆらりとゆらめいて進み出た。 その剣の構えはアリー・ブンが見たことも聞いたこともない、変幻自在の不気味なものだった。 「自らが甦らせた黄泉の者どもに殺られて果てるがよいわ! 儂は、儂の心臓石を取り返させてもらう。星回りもあることだしな…」 その言葉にアリー・ブンの心の中で何かが光った。 (星回り… そう言えばガウマータも全く同じことを言っていた。 『カンビュセス王の不死隊を再び封印するには、次の星回りを待たねばならない』と。 それはたぶん、長い長い時なのだろうが、ここと、外の世界では時の流れかたが違う気がする。 でなければ、いかにアルハザードとはいえ、そう簡単に『時が巡ってきた』などとは言えないはずだ。永劫の混沌、究極の邪悪が、そうたやすく人間などに門を開くはずはないから…) 骸骨兵士がくねくねと身を踊らせながら、アリー・ブンに向かって斬り込んできた。 アリー・ブンは偃月刀を横に寝かせて最初の一撃を受け止めようとした。 ところが、てっきり上からくると思っていた太刀筋が上下左右いくつもの方向からやってきて、刀は弾き上げられ、手首には痛烈な疼痛を感じた。 その痛みは最初手頚だけだったのが、次第に二の腕から肘へと上がり、ついには肩か首筋のあたりまでしびれはじめた。 「おや、一人目で降参かね? まだまだ四千九百九十九人もいるのじゃよ。これからずっと儂の親衛隊、闇の衛兵としてずっとつっ立っているだけになるのはかわいそうじゃないか?」 アリー・ブンはのた打ち回りながら小袋の中の薬瓶をまさぐった。 骸骨兵士たちも、アルハザードも、彼が苦しむ様を、さも楽しそうに眺めている。 どうやらこの者たち、人が悶え苦しむ様を見ると、我を忘れて眺め入る性癖があるらしい… 薬瓶はいくつもあり、瓶の表面には古代ペルシア語で薬の名前が刻んである。アリー・ブンは無論、古代ペルシア語など読めない。(どうせくたばるなら−−) アリー・ブンは薬瓶の中から、白いさらさらとした粉の入ったもののコルク栓を開けた。「おっと、それはティグリスやユーフラテスほどの大河でも、たちどころに猛毒の川にしてしまう毒薬だぞ。古代ペルシア帝国の大祭司長が最終的な武器として代々密かに受け継いできたものじゃ。 そんなものを飲んでどうする? 『地獄の剣』のしびれをとるのは、そこに転がっている緑の液体のほうじゃ」 アルハザードは片方の眉を蛇みたいにぐにゃりと曲げる。 アリー・ブンはまだ痛みの広がっていないほうの手で、緑の液体の入った瓶をつかんだ。「嘘だ!」 彼はその瓶を骸骨兵士に投げ付け、自分は白い粉を素早く飲んだ。 緑の液体の入った瓶は見事に骸骨兵士の剥き出しの歯の中に入って砕けた。 その途端、何条もの緑の炎が四方八方に発射され、延長線上にいた兵士たちはその炎に触れただけで燃え上がり、緑の塵となって消滅した。 五万の不死隊のうちの半数はこの炎によって焼き尽され、残りの半数も生き物のように追跡しながら伸び続ける炎に右往左往を繰り返していた。 かたや、白い粉を飲んだアリー・ブンの身体からは痛みやしびれが潮が引くように消えた上、疲れは取れ、たっぷりと熟睡したあとの活力が戻ってきた。 炎はアッという間にアリー・ブン自身やアルハザードにも迫った。 アルハザードは短い呪文を唱えて二人の目の前に黒く分厚い鋼の壁を設けた。 ところが何と、そのまん中がチョロチョロと溶け出したかと思うと、緑の炎の蛇の舌がまっすぐにアルハザードに向かって迫った。 魔導士は顔を引き吊らせながら背けた。 ところが、その後ろに控えていた黒い不定形がいくつもの触手を伸ばして炎の前に水棲生物の瞬膜に似た膜を作ると、炎の先端は見事に弾き返されて消え去った。 アリー・ブンはすかさず偃月刀を拾って構え直した。 「ちょこざいな! 心臓石さえ取り戻していれば、かようなもの如きにうろたえたりはせぬのだが…」 アルハザードは黒い膜を盾に、ゆっくりと時間をかけて起き上がろうと試みる。 アリー・ブンが辺りをもう一度見渡すと、緑の炎は残り二万五千余りの骸骨兵士たちの一人一人をはなはだ執念深く、次元の果てまで追いかけ回しては虫を潰すように覆いかぶさって倒していた。 どうやら、こちらが全ペルシア、アラビアを全滅させるほどの劇薬だったらしい。 アリー・ブンは残りの薬瓶も次々に膜とその向こうにいる魔導士投げ付けた。 ある瓶からは光る金属の殻を持つ拳ほどの毒蜘蛛がわらわらと湧いて出た。 触手はその先端をたちまち百、千に分け、一つ一つ丁寧に巻き取っては次々に本体の口の中に放り込んだ。 バリッボリッと硬いものが砕ける音が続き、瞬く間に蜘蛛の姿は一匹もなくなった。 またある瓶は、蓋を開いた途端に、中に小さな渦ができ、その渦は骸骨兵士たちが捨てて逃げた剣や槍や鎧や、また兵士自身を片っ端から吸い込み始めた。 (そんな大きなものを−−) と思うのだが、どんな大きなもの−−その広間を支えている大岩すら、先端がすーっと瓶の口の大きさに尖ったかと思うと、瓶の中に吸い込まれるのだった。 そしてついに、瓶と、不定形の口は吸い込み合いを始めた。台風竜巻の風の渦がごうごうと巻きあがる。 アリー・ブンもアルハザードもそれぞれの渦の後ろに立ち、守られている。 二つの渦は引き合いをしていたが、やがて瓶のほうがジリッジリッと不定形の口に引き寄せられ、ついにドッと呑み込まれた。 不定形の口は舌らしきものを出し、ゆっくりと舌舐ずりを繰り返した。 「携帯用の魔法の瓶が、何億光年の旅の果てに、何十億年前からこの世界に棲んでおるものに勝てる訳がなかろう?」 アルハザードはついにその触手の一つの上に立って、頂上付近に輝いているいくつもの心臓石を目指していた。 その表情には心なしか焦りの色が伺える。(そうだ。やはり星宿によって定められた時があるのだ。それで俺を殺すのを後回しにして、先に心臓石を取り返そうとしているのだ) もっと邪魔をしてやりたい、と思っても、もう武器になりそうなものはない… (いや、待て−−) アリー・ブンの手にはまだ、乗り物であるところの骨獣の心臓石と、呪文書が残っていた。骨獣の材料であるところの骨は、まだまだあちこちに引っ掛かって落ちている。 彼は骨獣の心臓石を呪文書の上に置いて叫び、祈った。 「俺はペルシアの大祭司長でも、アラビアの魔導士でも何でもない! 呪文なんて、何一つ知らない。だけども、もしもおまえたちに心があるならば、呪文なしで命を得、形を成して欲しい! おまえたちの主、大祭司長・ガウマータのためにも!」 すると、呪文書の束は、白い煙を上げて独りでに燃え上がり、紅の炎に包まれた。 その炎に照らし出された心臓石は、たちまち鼓動を再開し、近くに散らばっていた小さな骨の破片を集めて形を復元し始めた。 すでにアルハザードは己の心臓石のあるところにたどり着いていたが、こちらのほうも気になるらしく、しきりに調べる作業を中断しては、鋭い目で見詰めていた。 「違う! これは古代ムー帝国の大魔導士にして同帝国を滅亡消滅に導いたサントゥーのものじゃ… 儂は彼のような間抜けではない!」 アルハザードはそう言って、不気味な紫色に輝く心臓石を下へ投げ捨てた。 魔導士は「違う、違う…」と譫言とも妄言ともつかぬ言葉を呟きながら、どれも嫌らしい色をしている心臓石を次々と投げ捨て続けた。 その間に、骨獣の心臓石は、まるで鉄屑を寄せ集める強力な磁石のように、その空間に残っていた骨の全てを合体させて、象十頭分ほどもある巨大な骨獣に再生していた。 「これは、ひょっとして−−」 しかもこれを構成する骨は、砂漠に迷い込んで不慮無念の死を遂げた卑しい獣や、ひ弱な人間の骨ではない。人間の中でも最も屈強として知られた、カンビュセス王の五万の不死隊の骨なのだ。 アリー・ブンは一縷の希望を抱いて、骨獣の背にまたがった。 「ないぞ、ないぞ! 何故ないのだ? それともここにはないのか? 教主の奴、ここと見せかけてどこか他に隠したのか?」 アルハザードは、ナイアラトテップの不定形の体の壁龕に収められていた全ての心臓石を投げ捨ててわめいた。 巨大な骨獣は骨の翼をきしませて、暗黒の根源の上空に舞い上がった。 (ここから体当りすれば−−) アリー・ブンの期待も空しく、虫の居所が悪くなっていた魔導士が、邪神を刻んだ大振りの杖から発射した黒い稲妻によって、さんざんに焼かれ、傷付けられた。 「まだそんなところをうろうろしておったのか! こちらの用が済んだら百万年かけて一寸刻みに殺してやる!」 魔導士の杖は勝手にぐるぐる回転し、墜落しつつある骨獣に、あらゆるものを溶かし去る酸や毒液を浴びせ続けた。 身体じゅう激痛を伴う醜い痣や汚点だらけになりながら必死で半壊状態の骨獣にしがみついていたアリー・ブンがふと目を開けた時、ナイアラトテップ体の、彼やアルハザードから見て裏側に、小さな凹みがあり、その中で一個の小さなどす黒い石がプスプスと瘴気を放ちながら蠢いているのが見えた。 アリー・ブンは最後の力をふり絞って失速する骨獣を御した。 骨獣も彼の意思に応えて、崩れ掛けている巨体をその位置に近付けた。 アリー・ブンは光を失おうとしている骨獣の心臓石を手に取った。 心臓石を取り外した骨獣は、ギシギシと断末魔の音を立てて十数えるうちに崩壊するだろう。 (急がねばならない…) 彼はもう片方の素手でアルハザードの心臓石に手を掛けた。 それは焼け石だった。 怨念と憎悪と、妬みと復讐心と、野心と敵愾心とに凝り固まり、発酵腐敗し、さらにカチカチに固まった… それでもアリー・ブンは必死で、ガウマータの小袋にその石を収納した。魔法の道具を入れておく袋は、この種の極めて呪いの力を放ち放射しているものでも、何とか収めておくことができるはずだった。 アルハザードの心臓石を素手でつかんだほうの手は紫色に焼け焦げ、その膿の中から蛆に似た白い触手がもぞもぞとわき出していた。 ほとんど形をなくしていた骨獣ごと、 アリー・ブンは床に叩き付けられた。 グシャリと自分の首の骨が折れる、鈍く嫌な音がして眼球はあらぬほうを向いた。 自分の体のようだったが、見慣れた胸や腹ではなく、背中だった。 「ご苦労、ご苦労、儂も見つけるのに苦労していたものを見つけてくれるとは、何と礼を述べてよいかわからぬわい!」 アルハザードはことのほか上機嫌で、アリー・ブンの近くにスーッと降りてきた。(なぜだ? アルハザードはなぜ俺が奴の心臓石を手にいれたことがわかるんだ?) その疑問はすぐに解けた。 ガウマータの魔法の小袋が黒紫色の嫌な臭いの煙を上げながら燃えていた。 (ペルシアの大祭司の袋でも納めておけないなんて、全く何という−−) アルハザードはアリー・ブンの見ている前で、袋の中に、鶏の脚のような節だけの手を突っ込んで、己の心臓石を取り出した。 「やったぞ! ついにやったぞ! 古のものどもによってほじくり返され、教主たちに よってどうしようもない場所に固く固く封印されていたものを! おまえ、見せてやるぞ、宇宙開闢以来、最大最強の大魔導士、アブドゥル・アルハザードさまが完全に大復活するさまを!」 魔導士はそれまで細い条虫蟯虫が密生して支えていた心臓の空間に、シュウシュウと盛んに瘴気を上げている心臓石を嵌め込んだ。(だめか…) 敗北を覚悟したアリー・ブンが、ゆっくりと目を閉じようとした瞬間、異変が起こった。 アルハザードがいきなり心臓を掻きむしって苦しみ始めたのだ。 「なぜだ? どうしてだ? これは儂の心臓石ではないのか?」 魔導士はもう一度、節じゅうに目があり、細い紐状の寄生生物の隙間をこじ開けた。 そこにあったのは、赤く燃える骨獣の心臓石だった。 「やれやれ、儂としたことが、慌てる余りに間違えてしまった。…大事ない、すぐ取り替えれば済むことじゃ」 アルハザードがそれを取り外そうとしても容易には外れない。 「ほんの下等なものの癖に、このアルハザード様の胸に棲み着こうとは…」 魔導士は己の胸をひっ掻き回し、こね続ける。 やっと目に見えるところに現れた心臓石の表面には、ガウマータの顔が浮かんでいた。「貴様!」 (勝負は最後の最後まで分からぬものだよ、アラビアの−−) ガウマータははっきりとした思念でそう伝えてきた。 「莫迦な!」 アルハザードの身体が次第に角質化し、内臓も、皮膚も、何もかもが樹脂で固めたような骨となった。 それまで背後で様子を見ていた不定形は、命令していたものが固まりきってしまったのを確かめると、触手を伸ばして落ちて散らばっていた心臓石を一つ一つ丁寧に拾って、元の場所に戻した。 中でもアルハザードのものは特別に丁重にしまい込んだ。 アリー・ブンはそれを見届けて、やっと瞳を閉じる気になった。 KIJISUKE@aol.com