伴天連の妖術

                1

  凄まじい雷雨の夜のことである。
  赤い南蛮傘をさした一人の異国の少女が、九州の、とある辺鄙な土地の一軒家を訪れた。
  少女が傘を畳むと、傘は爪楊枝ほどの大きさに小さくなった。それを銀色の長い髪に差すと、靴のまま部屋に上がった。
  奥の間の畳の上では、白い着物を着た、同じ年頃の黒い髪の若い娘が、布団を敷いて横になっていた。
「どちら様でしょう?  こんな格好でご無礼申し上げます」
  娘は南蛮人の少女の、首の回りに丸く大きく広がったエリザベス・カラーや、腰が膨らんだスカート・ドレスを見ても別に驚かなかった。
「もしや、兄上のご信仰の朋友でいらっしゃいますか?  兄の消息をご存じではないですか?」
  娘は力を振り絞って起き上がろうとしたが、身体はわずかに持ち上がっただけだった。
「違う」
  少女は眉一つ動かさずに答えた。
「おまえの兄は死んだ。おまえたちが唐天竺と呼んでいる遠国よりも、さらに遠くのアラビアの地で」
  少女の目から大粒の涙がこぼれた。
  覚悟はしていたらしく、それ以上に取り乱す様子はなかった。
「そうですか…」
  異国人の少女は、問わず語りに、彼の兄が不治の病を治す薬を捜すために必死の努力をしていたこと、そのために遠い異国の、魔物がうようよしている峻険な土地も恐れなかったこと、カタナを振りかざし、多くの凶暴な魔物を退治したこと、そしてついに、とある魔物の頭領に八ツ裂きにされて無念の最期を遂げたことなどを語った。
  その話を。娘は身じろぎもせず黙って聞いていた。
「そのことをわざわざ伝えに?  かたじけなく存じます」
「死の間際、そなたの兄上は相手の魔物に一つのことを頼まれた。
  頼みというのは−−
『ここで果てるのは拙者の不覚であるから、未練はない。だが、自分がはるばるかような異国の幽境の地にまで足を伸ばさざるを得なかったのは、一重に、母国にいる妹の病を治さんがためである。
  魔物よ、そなたに情けがあるなら、日本に行って、妹の生死を確かめ、もし生きて我の帰還を待ちわびていたら、済まぬが命を奪ってもらえぬだろうか?  魔物ならば、千里の道を一瞬のうちに飛び、また異界を通じて、ありとあらゆる場所にいともたやすく移動できるというではないか?』
  −−というものだ」
  娘は今度こそゆっくりと起き上がり、正座して目を閉じ、両手を合わせ、念仏を唱えた。「おまえは伴天連ではないのか?」
  異国の少女は氷のように冷たく光り輝く長いカタナを抜きつつ、娘の後ろに立った。
  それは間違いなく、抜けば珠が散ってあたりに深い霧を巻き起こす名刀だった。
「兄の伴天連は、異国を旅するための便宜的なものだったと思います」
「旅に出てから何年か?」
「三年半です」
「たったの三年半か。それにしてはいくつもの魔法を習得していたな。我等にとっても強敵であったぞ」
  異国の少女はそのカタナで、娘の白いうなじを狙おうとして、娘の頭に白く堅そうな角が二本、生えているのに気が付いた。娘の病とはおそらくこのことだったのだ。
(−−いや、ひょっとすると、あの強さは、兄のほうにもこんな角が生えていたのかも知れぬ)
「最後に一つだけお尋ね申し上げます」
「何だ?」
「兄を倒した魔物の頭領とは、貴女様のことにござりますか?」
「そうだ」
「兄を倒した時も、そのようなお美しいお姿でいらっしゃったのですか?」
「そうだ。何が訊きたい?」
「もしや、兄はだまし討ちにかかったのではありますまいか?」
「何をどのようにして倒そうが、我等の勝手だ。そなたの兄は、我等の秘密の棲み家、宝や大切なものを貯え置いている場所にづかづかとやってきたのだから」
  異国の少女はカタナを振り上げた。
「卑怯ではございませぬか」
  振り降ろした先に娘はもういなかった。
「卑怯ではございませぬか」
  板張りの天井の一角から、もう一度今度は思念の声がした。
  この東洋の果ての小さな国には、ニンジャという神出鬼没の諜報戦闘集団がいるらしいが、彼らでもこの声のあるところを見つけるのは難しいだろう。
「−−おおかた、魔物に捕らわれている姫を装って、兄が油断しているところをやったのでしょう?」
「だからそれがどうした、と言っている。そんなに動き回ったら、腹が減って、また人間を喰いたくなっても知らないぞ」
  異国人の少女は、オランダ商館のカピタンの娘のような華やかな衣装から、もっと動きやすい、遠く遥かな遊牧民族の娘の衣装に変わった。
「そんな冷酷な魔物の頭領が、ただの情けからわざわざ病気で苦しんでいる遠国の者の命を奪いに来る、とは思えない。何か思惑があるのでしょう?」
「どうやら兄ほど莫迦ではなさそうだな。しかし、それを知ったところでどうする?  我らと戦うには、おまえは腹を減らし過ぎている」
「何の、ごちそうが目の前にありますわ」
  布団を払って立ち上がった娘の着物が、白寝間着から、膝丈までの小袖に変わった。
  黒く長い髪の束が解けて波打ち、細く白い指で招くと、異国人の少女の手にあったカタナが白く輝いた。
  それは「魔物の頭領」には耐え難い光だったらしく、思わず手放したところ、カタナはまっすぐに娘の手に戻った。
「そのつもりだったら、お手並み拝見、といこう。日本には仇打ちという、肉親の復讐を遂げるためには、幾つもの山、川、海を越えるのも厭わない習慣があるそうだが、やれるものならやってみよ!」
  異国人の少女が、短い伴天連のラテン語の呪文を唱えると、黒いギヤマンの扉が炉(いろり)の上に浮かび上がった。
「近頃続けて起こった奇怪な事件は、みな貴女の仕業なのね?」
「それも確かめるがいい。−−おまえにできたら、の話だが」
  角のある娘が手のひらの表裏を二三度ひっくり返すと、そこには、カタナと同じく白い霊気に輝くヒトデ形の奇妙な小さな武器がいくつも現れた。抜き身のカタナを口にくわえ、娘はその武器を左右の手で投げた。
  ヒトデ形の小さな武器は目にも止まらぬ速さで、それぞれ違ったパターンの弧を描きながら異国人の少女に迫った。
「ほう、そんなに元気が残っておったか、危ない、危ない…」
  異国人の少女は素早くギヤマンの扉を開けて逃げた。ヒトデ形の小さな武器は、素早く閉じられた扉に次々と突き刺さった。
  扉は明国(みんこく)渡りの花火のように赤や青の火花を散らして消え去った。

                2

  島原の乱以来、ショーグンは切支丹の取締にやっきになっていた。
  この地方もその例に漏れず、踏み絵や密告によって狩り出された切支丹たちは老若男女に関わらず、莚でぐるぐるまきにされて転がされ、信仰を捨てなければ磔のうえ火焙りの刑に処された。
  ところがそれが一段落した頃、一帯に奇妙な疫病が蔓延して、弾圧の中心になっていた領主一統が相次いで病死してしまった。
  疫病で苦しみ続けている人々は、密かに
「伴天連の秘法じゃ」「磔にされて殺された切支丹たちの呪いじゃ」と震え上がった。
  噂の打ち消しにやっきになった幕府は、鬼倉という、呂宋で南蛮の医術を修めたというサムライを代官として抜擢し、当地に派遣した。
  鬼倉が調合した薬はじょじょに効果を発揮し、やがて命を失う者は減った。

  同じ頃、関ヶ原の戦いで主君を失った西軍のサムライやニンジャたちのうち、もはや大阪城での決戦は無益と考えた者たちは、郷里に帰って百姓や商人となった。
  霞とその兄も、そんな落人だった。
  帰郷してすぐ、霞が疫病にかかり、床に伏せった。ところが霞の病状は他の村人とは大きく違っていた。発熱や衰弱は同じだったが、頭に小さな角が生え始めたのだ。
  驚いた霞の兄はとりあえず人里離れたところに家を借りて移り住んだ。
  やがて鬼倉が赴任してきて、村人たちはその薬で治った。疫病に苦しむ村人たちに薬を無料で配った鬼倉は、「立派なお代官様じゃ」という評判が広まった。
  ところがその鬼倉の有り難い薬も、霞には一向に効かなかった。
  村人たちは疫病に罹ったと言っても角まで生えてきた訳ではなかったので、別の病ではないか、という見当がついた。しかも特異な病状ゆえに、片っ端から医者を変えるもはばかられた。
  彼女の兄はニンジャであった縁を使って密かに明国の天津に渡り、名医と薬石を求めてそこからさらに呂宋やシャム、さらに天竺からペルシア、アラビアまで足を伸ばした。
  そうまでしたのには実は理由があった。
  忍者であった頃の彼の任務は、隠れ切支丹の発見と摘発だった。妹の霞もまた、ときどき兄を手伝って、信者になったふりをして、頭から薄い絹のヴェールをかぶり、デウスの社(やしろ)に潜入したりしていた。
  だが、二人が最後に探索した社は、尋常なデウスの社ではなかった。
  それは小魚さえあまり漁れない、寒々とした漁村にあった。
  二人は先輩の信者に導かれ、男たちは先になり、女たちは後になって、しずしずと海岸べりの崖の下を進んだ。満潮の時には波の下に没して、歩けなくなる場所だ。
  藻や貝や海老や蟹などがいてもよさそうなところなのに、まるで毒でも撒いたかのように、不気味なくらいに生き物がいない。潮の香りすら何か異なった感じで臭ってくる…
  二人はとある大きな洞窟に案内された。
  そこもまた普段は海の底に没する場所だった。霞は
(ここはデウスの社などではない!)
  と直感した。
  彼女の兄も気付いたらしく、しきりに目配せをくれる。
  デウスの社にはデウス様が懸られて殺された十字架の印がそこここにある。社の正面には、十字架に懸られているデウス様が祭られている。よい匂いのする香がたかれ、沢山の蝋燭が揺れている。脇には、デウスの母マリアの像があり、幼い子を抱いている。このマリアは乙女のままデウスを身ごもったとされており、汚れ多き女人の救い主である…
  だがこの洞窟の社には、十字の印もなければ、十字架に懸けられたデウスの像も、マリアの像もまるで見当らなかった。彼らの回りを飛び交っている翼のある幼子も、従っている弟子たちの絵もなかった。香どころか、人を荼毘に付す時の煙りと、腐った魚の臭いが混じったような、吐き気を催す異臭がした。
  蝋燭の代わりに、青や黄色の不気味な光が人魂のように通路の端を行き交っていた。
(伴天連の妖術…)
  そんな言葉が脳裏を横切った。
(真の伴天連や切支丹ならば、まだ惧るるに足りない。彼らは現世での幸福は望まず、救い主に習って迫害に会い、十字架に磔にされて火刑に処されることを至福としている。
  妖術を使う破戒伴天連、また術を使ったがために破門された錬金術師ならば、こちらも身の丈百尺の巨大な蟇を出すぐらいの術を持っていないとやられる…)
  洞窟の奥、祭壇に祭られている像を見た時、連中の正体がはっきりとした。
  イカとも、蛸ともつかぬ、しかも足は数え切れないほどあり、吸盤の他に動かせる鱗を持った化け物がもぞもぞと蠢いている。
  跪き、伏して崇め拝む格好も、切支丹というよりは、話に聞いた明国の拝火教徒や白蓮教徒のそれに近い。
  こっそりと信者たちの様子を伺うと、顔や腕や足には次第に鱗が生え、姿形もぐにゃりと変形して、魚のそれに近くなった。
  これだけわかればもう十分、後は寺社奉行様に報告して、百戦練磨のニンジャ軍団−−大凧に乗って空を飛び、天を衝く大蟇や大猩猩、大魔神を操る者共が叩けばいい…
  邪宗門の使徒たちは、ポコポコと泡立っている黒い酒と、油色にギラギラと輝く鱗を持って二人の新参者に迫ってきた。
  霞と兄は逃げようとしたが、周囲を魚人と化した村人に隙間なく囲まれて身動きが取れない。
  霞が悲鳴を上げた。
  化け物たちは嫌がる霞の口を無理やりこじ開けて、怪かしの酒を飲ませ、着物の胸をはだけ、小刀で切り裂いて鱗を埋め込んだ。鱗は傷口に薄っすらと浮かんだ血に染まるなり、生き物のようにするすると自ら体内に潜り込んで消えた。
  そして魔の手が彼にも迫った時、洞窟の表で煙玉が破裂して、仲間たちが助けにやってきた。
  もちろん、外では大蟇が、一口吸い込んだだけでも胸をかきむしって死ぬ瘴気をもくもくと吐きながら待機している。
  彼は懐から、かねて薬液に浸してあった忍頭巾を頭に巻き、妹にも巻いてやってから一目散に逃げた。
  その日の討伐戦は壮絶を極め、味方のニンジャも大勢やられた。それまで無敵を誇った大蟇ですら、件の祭られていた化け物と相打ちになって、組んずほぐれつしながら海の底に沈んで、二度と浮かび上がってはこなかった。
  霞が倒れたのは、それからほどなくだった。
  百姓は田畑で、商人は店の軒先で、道行く人々は往来で急にばたばたと倒れ、当時の領主も家来から惨状の報告を受けている最中に倒れた。
  患者の中には七日ぐらいで死んだ者もあれば、一月を過ぎてもなお苦しみながら生き続ける者もあった。医者の中にも罹患した者も多く、とにもかくにも見立てを受けて薬をもらえた者はまだしも幸せだった。ただし、従来の薬は全くと言っていいほど効かなかったけれども。
  そこでやって来たのが代官の鬼倉だった。(前の領主は子だくさんだったが、皆この疫病にかかって家系は絶え、この地方はすでに幕府の天領となっていた)
  鬼倉が南蛮人に習ったという薬を調合して人々に与えると、魔訶不思議、あれだけ苦しがっていた重体の病人も二三日して快方に
向かった。
  領民は鬼倉を敬い、幕閣の中でも彼の株は上がった。典医として江戸城に呼び戻せ、という声すら聞かれた。
  霞の兄も、一領民として、薬を無料でもらえるという列に並んだ。何を原料にしているのか、薬は大量にあった。
  人々は役人から半紙に包んだ薬を受け取ると、ある者は馬に飛び乗り、ある者は尻はしよりで走って、己の村に飛んで帰った。霞の兄もそうした。
  ところが、皆に効いているはずの鬼倉の特効薬が霞に対してはまるで効かなかった。
(きっと別の病なのだ。あの時、破戒伴天連に飲まされた怪しい薬が原因かもしれない)
  見当をつけたところで誰にも相談する者はない。あの任務は滅びたトヨトミの息のかかった武将の命令で、任務も遠国での出来事だった。トクガワの代官に「お恐れながら」と訴えることはできない。仮に彼がトクガワ側のお庭番かオンミツであっても、申し出できる立場ではなかった。ニンジャの身分は低いのだ。
(こうなったら、鬼倉が南蛮の医術を身につけたという呂宋に、俺も行って、学ぶしかない!)
  そう決心した霞の兄は、勘合貿易を行う商人に変装して、病床の霞の前に立った。
「霞、俺はいまから、おまえの病に効く薬を求めて各地を遍歴してくる。必要とあらば、倭冦にでもなって、持っている奴から奪い取ることも辞さないつもりだ。
一刻も早く帰ってくるから、必ず生きるのだぞ」
  霞はハラハラと涙を流した。
「兄上、わたくしの病は、他の村人の病とは違って。あの時飲まされた怪しい薬が原因です。そう簡単に治るものとはとても思えませぬ」
「諦めてはいけない。現にあれだけの惨禍に見舞われていたご城下も、元通りの平和になったではないか」
「わたくしには元通りになったとはとても思えませぬ。風がご城下から吹くときは決まって人の肉が腐り朽ち果てて行く合戦の後の臭いが致します」
「莫迦なことを申すな。ここ数年、ご城下で合戦など行われてはおらぬ。鉄砲の音や鬨の声も聞こえぬであろう?」
「ご城下はお代官様一同、物の怪に乗っ取られたのではありますまいか?」
「そんなことを思うのは、そなたの病のせいじゃ。俺は旅立つが、気を確かに持って待っておるのだぞ」
  兄は戸口のところで振り返り、慈愛のこ
もった眼差しで霞を見つめた。

  兄が出立してしまうと、霞は矢も盾もたまらぬ衝動に押されて床から立ち、家の外に出た。
  白い寝巻きを普段着の小袖に着替えたいと思うと、立ちどころにして変わった。
  無我夢中で駆け出した霞は、村の墓地へと行って、そこに埋葬されている、疫病で亡くなった村人たちの遺体を貪り喰った。疫病ゆえに必ず火葬せよというのがお上からお達しだったが、余りの死者の多さに命令の通りにすることができず、大きな穴にたくさん放り込まれていたのだ。
  と脇を見ると、人影が彼女と同じことをしていた。人影は一つではなく、大勢いた。それは、鬼倉の薬で命を取りとめ、完治したはずの領民だった。
  霞は恐ろしくなって家に戻った。自分がやったことも恐ろしかったが、葬られた遺体が喰い尽くされてなくなった時のことを考えるとさらに恐ろしかった。
  満腹感があるうちは、全身に力と気迫がみなぎっていた。
(もう薬など必要ない!  さっそく兄上を呼び戻さなければ…)
  本気でそう考えた霞は、心の中で兄のいる場所を捜した。
  不思議、としか言い様がないのだが、たちまちにして、遠い異国の、赤い満月に照らされた広大な砂漠を、背中に瘤のある馬に乗って進む兄の姿が浮かんだ。
(よし、あそこか!  すぐに移動する!)
  常識では考えられない途方もない意思が湧き上がった。船も馬もまるで必要ではない、その時の彼女には、それがごく自然な思考となっていた。
  ところが心の奥底で何者かの声がした。
(呪文がないから手に入れろ。いまのおまえだったら簡単に手に入るはずだ)
  他人の声ではない。おそらく心の中に棲む普段はひっそりと隠れているもう一人の自分だったのだろう。
「どこで?」
  霞が目を閉じて自問自答すると、もう一人の霞がまぶたの裏にその者の姿を写して答えた。
  若く颯爽とした鬼倉が、代官屋敷でたった一人、いくつもの乳鉢を前にして薬を調合しているところが鮮やかに見えた。
「鬼倉だな?」
  霞は木から木へと飛び移り、林を駆け森を抜けて、アッという間に町の代官屋敷に忍び込んだ。
  その速さたるや、本人も驚くほどのもの
だった。猿飛や霧隠といった、天下に名を馳せた一流のニンジャでも、こんな容易には行かないだろう。「くの一」としてはお世辞にも有能とは言えず、いつも兄や仲間たちの足を引っ張ってばかりいた霞は、たまらなく気分が爽快だった。
  なにしろこの代官屋敷、トヨトミの報復や伴天連の妖術を警戒して、警備は厳重。お庭番の進言も入れて、ニンジャへの備えも万全だったからだ。以前の霞だったら侵入した途端に見つかり捕まってしまっていただろう。
  ところがいまは、真夜中にも関わらず鳴子と糸は光って見えるし、牙を剥いて唸っていた犬どもは「眠れ」と念じただけで、ばたりと倒れ寝息をたて始めた。
  伴天連、切支丹に対しては、彼らが決して踏むことができないデウスやマリア像を描いた石板が、かなり長い距離に渡って延々と敷き詰められていたが、彼女はもともと切支丹ではないので結界の役には立たない。また仮に切支丹であったとしても、いまの彼女ならムササビのように一飛びに飛んで渡ってしまっただろう。
  宿直(とのい)や見回りのサムライもいるにはいるが、誰も床の下や縁の下を進む彼女の気配に気付かない。
  とうとう彼女は、鬼倉本人がいる奥の間の近くまできた。
  鬼倉は薬を調合していた手を休めたかと思うと、瞬間に長押の下に移動し、槍を手に取っていた。
(あの術は何?  立ち上がる動作なしで、どうしてあそこまで行ける訳?)
  ところが同時に、同じ術が霞の頭に蓄積された。
(術は学んだ。これでもう、遠い異国にも、星の彼方にも、あるいは時を進むことも溯ることもできる)
  もう一人の自分が囁く。
(だったら帰りましょうか。兄上を捜して「霞はもう大丈夫です」と申し上げねばなりませぬものね)
  いったん彼女は村はずれの家を思い描いたけれど、槍を元の長押に戻して、またしても歩かずに席に戻った鬼倉が混ぜ合わせている薬を見て仰天した。
  おそらくは龍の頭と思われる、鋭い牙がずらりと並んだ巨大な骨、花に顔があってしきりに異国の言葉をペチャペチャと喋り続ける鉢植えの植物、真紅の双胴の蛇、絶えなる音楽を奏でる瓶詰めの砂、何に使うのか見当もつかない奇妙きてれつな機械などが、二十畳はあろうかという奥座敷いっぱいにところ狭しと並んでいた。
  霞は手前のほうにあった、おそらくは龍の骨が入っていたと思われる空の櫃に素早く隠れた。
  鬼倉のほうはやはり気になるのか、龍の骨を削る作業を休めて、今度は歩いて縁側に出、警備のサムライを呼んだ。
「どうも曲者の気配を感じるのだが…」
「お気のせいでございましょう、鬼倉さま。犬はまったく吠えませんし、鳴子も…」
「そうか…  儂の思い過ごしか…」
  櫃のあたりを行ったりきたりしていた鬼倉は、いったんは納得してまた席に戻った。
  霞のほうは気が気ではない。折しも櫃の中に澱んでいた白い粉の煙を吸い込んで危うく咳込みそうになった。
  ところが何という僥倖、鬼倉もまた部屋
じゅうに舞い上がっている薬石にむせて、懐紙を口と鼻にあてがい、脇脚にもたれた。
(こんな不気味なものを調合するからよ!)
  すでに瞬間移動の術を盗んでいる霞は、長居は無用とばかりに退散することにした。
  その間際、櫃の蓋をほんの少しだけ持ち上げて、発作に苦しんでいる鬼倉をちらりと見た。鬼倉はこちらに背中を向けて、かねて用意しておいたらしい薬湯を飲んでいる。それが効いたのか、少し落ち着いた鬼倉は横顔をこちらに向けた。
  霞は思わず「アッ!」と声をあげそうになった。鬼倉の顔はかつて破戒伴天連の洞窟に祭ってあった邪神そっくりに、堅い刃のような鱗に覆われ、顎鬚に似た触手がもぞもぞと蠢いていた。
  代官が人ではないことも、その薬が人助けのための薬ではないことも、もはや明明白白だった。
  そこへ先ほどのサムライがやってきた。サムライは障子に写った異様な影を見ても、まるで驚かなかった。
「殿。例の薬が領民全員に行き渡った模様です」
「大儀であった。効き目を確かめた上で、順次近隣の国に広げるのだ」
  鬼倉は人の姿であった時よりかなり聞き取りにくくなってしまった声で命じた。
「御意。…ところで、人によるのか、それとも薬自体の均質性にムラがあるのか、ごく稀に効果の現れぬ者がおりますが」
「やむを得ぬ。なにしろ材料も道具も、からきし揃ってはおらぬのだ。だが揃うのを待っていては埒があかぬ。効果の出ぬものは、出たものに次第に淘汰されるであろう。余り案じていてもしょうがあるまい」
「いよいよ、にございますな」
「いよいよ、だ」
  サムライは下がり、鬼倉は作業に戻ったが、化け物の姿をしていながら、手つきには疲労が伺えた。

  霞は覚えたばかりの術を使って、村の寺まで戻った。そこでは、鬼倉の薬で命長らえた村人たちが、喰い尽くして残り少なくなった遺体を、奪い合って喰っていた。
  すでに新しい死体は白い経かたびらだけを残して骨まで砕き喰われ、一同は、ぼろをまとい、ぼろぼろの骨だけとなった昔の死体にまで手をつけていた。
「おまえら、何という恐ろしいことをするだ。これではまるで地獄絵の飢鬼じゃあないか」
  諌める村人も牙と化した歯を剥き、口の端からはだくだくと黄色い涎を垂している。
  黙々と屍肉を貪っていた他の村人は、口をもぐもぐと動かしたまま、その男に襲いかかり、たちまちのうちに喰ってしまった。
(これがどうやら鬼倉の言っていた「淘汰」なのね)
  妙な納得をしつつ、霞も、現在の己の力は彼らと同じ振舞をし、なおかつ過去と現在に渡って飲まされた怪しげな薬のせいとわかっているから、瘧のような震えが止まらなかった。その震えは、実はとめどない空腹から生じていたのだけれど−−

  鬼倉の罠に気付いた霞は、村人の輪に加わらずに、まっすぐに村はずれの家に戻った。
  兄が借りてくれたこの家は、目立たぬところにあり、狂った亡者たちが押しかけてくる心配はまずない。
(こんなところに来るぐらいだったら、疫病を広め、それからあの薬をばらまいたほうがずっと手っ取り早いはずよ)
  安心した途端に、我慢のできない眠気に襲われた。それは空腹をこらえた者に対する罰に違いなかった。
  永遠の眠り…
(兄上を捜しに行かなければ…)
  気持ちははやるが、力を得るにはおぞましい行為に及ばねばならない…
(まっぴらよ!)
  霞は自ら己の思いを断ち切った。
  異国人の魔導士の少女が訪ねてきたのは、それから数か月を経た嵐の夜のことだった。

  力はまるで残っていないはずだったが、命を脅かされたことに対して薬に侵された身体がいいように働き、死力とも言うべき力がみなぎって、何とか退散させた。
(彼女がまたやってきたら、同じようには行かぬだろう。−−それにしてもわたしが眠っていた間に、鬼倉は企みをさらに進めているのだろうか?)
  甦った霞に、またあの忌まわしい空腹感がじわりじわりと襲ってきた。
「その通りさ。頭は悪くなさそうだな」
  背中のすぐ後ろで声がした。振り返ると、兄の仇で、さらに兄に頼まれて自分の命を奪いにきた、あの異国人の少女が腕組みをして立っていた。
「おのれ!」
  霞は飛びのいて逃げようとしたが、さすがに力が足りず、蹴つまずいて転んだ。
「まぁ待て、角は治せぬ。角を治す薬石−−というか、解毒剤は鬼倉が持っている。この国はもちろん、すでに回りの国国の人々も己の手下にしてすこぶる機嫌がいい、あの破戒伴天連がな」
「すると兄上は、はるばる唐天竺まで行かずとも、日本国内で薬を手に入れられたのか?」
  霞の心にまたしても無念さがこみ上げてきた。
「まあそういうことだな。しかし鬼倉を倒しても薬を持っているとは限らない。何とか奴を欺いて、専用の薬を作らせなければ…
  そのためには力がいる。いまや相当な術者である鬼倉を欺けるぐらいの力が、だ。
  力を得るためには死人を貪らねばならぬ。
  屍肉を喰うのは嫌だ−−
  ならば己が死ぬしかあるまい!」
  異国人の少女は意地悪い笑みを浮かべつつ、虚空から宝石が散りばめられた光る短剣を取り出して、逆手に構えた。
「何とか死者を喰わずに力を得る方法がないのでしょうか?」
  霞は、ギラギラと赤く不気味に輝く少女の瞳を見つめながら訊ねた。
「術者−−鬼倉を殺すことだ。そうすれば、おまえも、この国や回りの国の人々の術も解けて、普通に戻るだろうな。ただし、術が肉体を深く蝕んでいるとか、病や何かの理由ですでに死んでいる者は、術が解けると土に返る。当り前と言えば当り前だが…」
  少女は自信たっぷりに答えた。
「貴女のお名前は?」
「聞いてどうする」
「天竺よりも遠くの異国から、一瞬にして、この東方の島国に来られる。さぞや名のある方と思い、せめてお名前を」
「砂漠の国、サナアのアルテアだ」
  少女は短剣を振り上げた。
「アルテア様、私の命など取るに足らぬものですが、もしも貴女が三国一の術使いでいらしたら、どうかなにとぞ、鬼倉を殺して下さい」
「何故あたしがそんなことをせねばならぬ?」「姑息な手段で日本を我がものにした後、鬼倉はさらに力をつけて、いかに天竺の遥か彼方の遠国とは言え、貴女がたの脅威になるやも知れません」
「鬼倉が?  …たわけたことを言うな!」
  アルテアは口を歪めて小さな牙を剥き、
笑ったような怒ったような顔をした。
「しかし先ほど、貴女の口から『鬼倉は相当な術者だ』と」
「言葉の綾だ。黄色猿にしては、そこそこ頑張っているほうだ、と思っただけだ」
「すると、もし倒そうと思えば、簡単に倒せる訳ですか?」
「当り前だ!」
「すみませんが、本当ですか?」
  アルテアは爪を伸ばした掌でくるくると持て遊んでいた短剣を鞘にしまった。
「そこまで言うか?」
  膝まで伸ばした灰色の髪が天を突いて逆
立たせた。
  眩い光が霞を包んだかと思うと、霞の身体は小さなギヤマンの瓶に詰め込まれて、アルテアの手に握られていた。
「いいだろう。鬼倉…あのケチな、破戒伴天連を八つ裂きにするところを見せてやろう。
  そこで黙って座って見ておれば、余計な力はいらぬ。敵の攻撃も届かぬ。
  その後で、納得して死んでもらう!」
  霞の入った瓶を抱いたアルテアは、ただちに鬼倉の代官屋敷の内部に移動した。

                3

  着いた先は地下だった。
  ひんやりとした空気と、潮の香りと、魚が腐る時の臭いがするところから、海に通じている洞窟に違いなかった。
  逆さにした十字架といい、見るからに面妖かつ不気味な邪神の像といい、霞が兄を手
伝って潜入し、薬を飲まされた破戒伴天連の社によく似ていた。
  幸い−−いや、不幸にして鬼倉は不在で、蝋燭だけが青い炎を揺らめかせていた。
「チッ、留守か…  捜し出して殺してもいいが、何かと面倒臭いので帰ってきたところを殺るぞ」
  壁龕には、妖術使いの鳴子とおぼしき翼と鬣があって胴体は鱗に覆われ、尾は蛇の獣の像が眉を動かし、口を開けて吠えかけた。
  アルテアはいかにも  獰猛そうな獣の頭と喉を撫でた。するとそれは、たちまち猫のようにおとなしくなり、ごろごろと喉を鳴らし始めた。
  社には小部屋が二つ三つあった。鍵穴が錆びついていて把手には埃が積もった、いかにも物置に通じている、といった扉もあれば、鍵穴も把手もぴかぴかなものもあった。
  アルテアは扉の正面に向かって短い呪文を唱えると、扉はギギッと嫌な音を立てて開いた。
「薬が、薬があるかも…」
  霞は瓶の内側を叩いて叫んだ。
「とり立てて大切なものはないと思うぞ。鍵は魔法の鍵がかかっていたが、割合簡単なものだ。…それに怒鳴らなくても聞こえている。その瓶とあたしは思念でつながっているからな」
「『魔法の鍵』?」
「いきなり開けると魑魅魍魎が飛び出して喰らいつく、平凡な型のヤツだ」
  部屋の中は、南蛮風にまとめられていた。
  壁際には黒檀の机と椅子、銀の三枝燭台には社と同じ青い炎の蝋燭が燃え、脇には牛や羊の皮で装丁された伴天連の書物がぎっしりと詰まっている。
  机の上には、色のついたギヤマンの酒瓶や高盃、羽根のついた筆、ギヤマンの墨壷、覚書とおぼしき白いページを開いたままの書物などが無造作に置かれていて、天秤の付いた置時計がカッチンコッチンと時を刻んでいた。
  机の面した壁には星晨図が張られてあり、辞書とおぼしき使い込まれてボロボロになった書物が燭台の高さに積み上げられている。「悪人ながら、なかなかの勉学家のようですね」
  ニンジャで、商人や良家の者に身を変じることもあって、一応の読み書き算盤ができる霞も、舌を巻いた。
  もっとも、普通のサムライでも、儒学などの教養は必須なのだが、鬼倉の読書は度を越していた。
「あたしは…」  アルテアは小さな声で、しかしキッパリと言った。
「−−勉学は嫌いだ。勉学を好む者はもっと嫌いだ。例え同じ妖術の道を研鑽している者であってもだ」
「では、アルテアはどの様にして術を学ばれたのですか?」
「決まっている。戦いだ。鬼倉が歳月をかけて身につけた術を、僅かな時間で奪えるのかと思うと、いまからうづうづしているさ」
  饒舌に語りながら、机の上の有翼の獅子を形取った本立てからとある一冊の書物を抜いたアルテアは、指をパチリと鳴らした。
「鍵を掛けている。書物にだ。笑わせてくれるじゃないか。しかも扉の鍵より上等のやつをだ。いまこの国でこの鍵を外せる者は、おそらく天草の若武者ぐらいだろうな」
  アルテアがもう一度指をパチリと鳴らすと、本は指の上に乗るぐらいに小さく縮んだ。小さな本は空中をふわふわと漂って、瓶の口をくぐり抜け、霞の手に渡った。
「奴が帰ってくるまで、退屈だったら読むがいい」
  アルテアは瓶を机に置くと、自らは椅子に掛けて、他人の−−敵に回そうとしている者の飲み物−−おそらくは魔酒をギヤマンのグラスに注いで一口すすった。
  半分ほどになったグラスからは炎が立ち上り、七色の火花が飛んだ。それがグラスに映えて、華燭となって輝いた。
  その明かりで、霞は鬼倉の覚書を読んだ。
  幸い、それは几帳面な楷書の邦文で書かれていた…

  わたしは、デウスを呪う。
  伴天連の言う通り、デウスが世を救うために来た者ならば、戦乱や貧困、病苦やその他数多の不条理を放っておくのか?
  わたしはデウスを信じていた。いや、いまでも多少は信じているところがなきにしも非ず。
  デウスの国はこの地上にはなく、天上にあるという。伴天連は、デウスの極楽が来るように祈るのが切支丹の勤めだと説く。
  いいだろう。してそれは何時来るのだ?
  若き日、わたしは医術を志していた。立派な医者になって、病に苦しむ人々を一人でも多く助けたかった。切支丹に惹かれたのも、最初は彼らの、漢方でも本草学でもない、医学に興味を持ったからだ。従来の医術で治せぬ労咳や虎呂刺を治したかった。
  家族や愛しい人を悪疫で亡くした者でなければ、この居ても立ってもたまらぬ情熱は、いくら言を尽くしてもわかってもらえぬだろう…
  苦労して呂宋に渡ったのも、人の手で手に入れられる究極の医学を、この手で掴むためだった。
  しかるに、呂宋で会った南蛮人の医者たちは、わたしを大いに失望させた。わたしは、切支丹の医者というものは皆デウス会と関係しており、デウスの教えの通り、富める者も、貧しき者も、皆平等に診察するものと信じていた。だがさにあらず、比国にも我が国の長崎の出島に似た外国人ばかりの租界があるが、そこにいる、トレドやマドリードの学問所を出た一流の医者は、富裕な者しか診ない。
  南蛮人でも、故国を追われ、吹き寄せられてきたような貧しい者は、デウス会の療養所で施療を受けている。セビリアに端を発するデウス会の僧たちは頑張っているが、なにしろ噂を聞きつけて日々押しかけてくる患者−−彼らは周辺の島島から小舟を操りやってくる。舟すら持てぬ貧しい患者は、親族友人のうちで水練の達者な者に「せめて薬だけでも」と頼み、頼まれた者は泳いで本島にやって来る。この辺は嵐がよく起こり、途中で遭難する者も数知れない−−の余りの多さに、本国から送られてくるデウスの薬は間に合わず、人手も足りない。
  当然のことながら療養所にたどり着いても、そこで力尽きて落命する者も多い。
  では、南蛮人相手の医者たちは、デウス会に手を貸すか、と言えば決してそうではない。彼らもまた同じ切支丹で、中にはデウス会に寄付寄進を続けている者も多いのに、だ。
  特に他人にうつる病について、ほとんどの者が嫌がることは、我が国と同じである。
  故にデウス会は偉大である。偉大ではあるが、彼らの力にも限界があることがよくわかった。
  デウスは自らの使徒にすら、過酷な運命を課している。また彼らはそれをデウスと共にある幸福として受け入れている。
  わたしは失望した。わたしが期待していたデウスの術は、全ての患者の痛みを取り除き、癒し、死者を甦らせ、墓穴から這い出させるものだった。
  夢破れたわたしが、長崎へ行くオランダの商船を待ちつつ、マニラ港の酒場の安酒に溺れていた、とある夜のことだ。
  外は蒸し暑い風にあおられた横殴りの雨が降っていた。
  世界の果てから連れてこられた黒い肌の奴隷たちが、部屋の隅で
「ジャンビ…  ジャンビ…」
  と繰り返した。
  ジャンビ(ゾンビ)とは、彼らの国の言葉で、呪術師によって甦らされた死者のことを言うらしい。ジャンビは、生前と変わらぬように動いたりすることができるのだが、見かけも気味の悪い死人で意思もなく、終生、術者の下僕として仕えさせられる、いわば安価な奴隷である。
  と、戸口に気配がした。
  ちなみに、わたしは武芸にも自信がある。
  この時、外の露台に立った者は恐ろしいまでの殺気を発していた。
  黒い肌の奴隷たちの怯えは頂点に達し、遠い異国の言葉で彼らの神に祈っていた。
  酒場の亭主や他の飲み客も、卓の下に隠れた。
  わたしはただ一人、カタナを抜いて相手を待った。
  扉が開いた。
  そいつは南蛮人のような飾り襟に、先すぼまりの袴を着ていたが、明らかに人ではなかった。ランタンの灯火に浮かんだその顔は、一部が鱗に覆われていた。
「拙者に何か用か?」
  わたしはカタナを構えたまま訊いたが、もしも打ちかかっても、到底かなわないことはとうの昔に悟っていた。
(こいつは、その気になればこの港ごと焼き払うことができるほどの術者だ)
  不覚にもきっ先が小刻みに震えた。
「蘇生の術を求めているのはそなたか?」
  化け物は言葉は喋らず、直接わたしの心に問いかけてきた。
「しかし、ジャンビの術なら御免だぞ。
  わたしが求めているのは、そんな幼拙な術ではない。言葉と意思を持ち、健康な人肌が持てるまでの、完璧な蘇生術を学びたいのだ。
  学んで、デウスの極楽が来る前に、この世界を少しでも極楽に近づけたいのだ」
  そんな術などないことは、とうの昔に悟っていた。あってもデウスは決して、使徒を含めて人には教えないだろう。生楽病死の人の定めを、根底から覆すからだ。
  不死なる人は人ではない。それは、文字通りデウスだ。
  ところが化け物は、口の中にずらりと並んだ牙をちらりと見せて笑いながら言った。
「ジャンビの術、などではない。
  俺はおまえを失望はさせない」
  信じるつもりはさらさらなかったが、ついて行くしかなかった。
  風雨はますます激しさを増していた。
  化け物の回りには、目には見えない傘ができ、雨粒が当って跳ね返った。
(魚人の癖に、多少の雨が何だと言うのだ)
  思った瞬間、奴は動きのない眼でずぶ濡れのわたしをギロリと睨みつけた。
  奴が間に膜があり、長い爪のついた爪でわたしの頭上に印を描くと、風雨は当らなくなった。
  奴はのろのろとした足取りで浜辺へと連れていった。
  波は荒れ狂い、波打ち際にずらりと繋いだ艀すら一気に連れ去ろうとしていた。
  岸壁では、何人かの人が集まって、遭難漂流していた男を介抱していた。格好からして男は近在の漁師らしく、駆けつけた家族らしい女と子供たちが、泣きながら男の身体をさすっていた。
  わたしは自分の名と医者であることを告げながら近寄って、男の脈と心の臓の鼓動、それに瞳孔を確かめた。
  男は溺れ死んでから久しい時間がたっていた。溺れてすぐならば水を吐かせ、胸を押さえさすって刺激を与えれば蘇生することもあるが、この男については全く手遅れで、ふやけた膨らんだ青紫色の身体は、すでに腐敗の兆候すら見られた。まったく鮫や他の魚の餌にならなかったのが不思議なくらいだった。
  わたしはすがる家族を振り切り、伴天連さまを呼んで秘蹟を行ってもらうように勧めると、化け物の傍に戻って肩をすくめた。
  途端に、化け物は、叡知に満ちた青い瞳の伴天連に化けた。近くに伴天連がいることに気付いた男の家族は、涙を拭って歩いてきた。
  伴天連に化けた化け物は、総髪の金髪が揺れてなびく蒼白い顔を歪めて言った。
「あの家族に必要なのは、一文の値打ちもない祈りか、それともこの薬か?」
  ところどころ鱗の残る奴の手には、中に赤紫色をした、まったりとした液体が入っている小瓶が握られていた。
「それは何だ?  死者を甦らせる薬か?」
「試してみたらどうだ?」
  わたしは瓶を引ったくってコルクの栓を抜き、匂いを嗅いだ。天上の美酒もかなわぬような、甘く、香しいよい匂いがした。
  学問的には、匂いを嗅いだだけでは何もわかるはずはない。しかし、わたしは確信してしまった。
「これがそうだ!  永年捜し続けてきた、蘇生の薬だ」と。
  早速、死者の口をひらいて飲ませて見た。
  わたしも、男の家族も固唾を飲んで待ったが、様子はまるで変わらない。
(騙されたのか?)
  わたしは魚人が化けた伴天連のほうを振り返った。奴は逃げてはいなかった。第一、金も何も取っていないのに逃げる必要などない…
  そうこうするうちに、死者の身体から斑点が消え、少しずつ赤みがさしてきた。
  家族は懸命に男の名を呼びながら身体をさすり続けた。だが、そんな余計なことをする必要はさらさらなかったのだ。
  無意識のうちに、ほとんど健康な肌色を取り戻した男の手頚を取ると、かすかなものの脈が戻っていた。
  心の臓の鼓動と呼吸は、ほぼ同時に戻った。
  やがて薄く目を開けた男は、回りにいる家族やわたしを見て驚いた。
「オレは一体どうしたってぇんだ?  …そうか、漁へ出て、嵐に会って、舟が転覆しちまって…
  仲間は?」
  男の仲間は見つかってはいなかった。おそらく、海の底か、波間を漂っているのだろう。
  完全に生き返った男は、家族との再会を喜んだ。一段落すると、彼らはわたしに向かって土下座して礼を述べ、こうつけ加えた。
「日の本の国のお医者の先生。お金はいつか必ずお支払しますので、どうかお待ち下さい」「金はいらない」
  わたしが言うと、彼らはキョトンとした。「もしかして、貴方は日の本の国の、伴天連さまのお医者さまですか?」
  喜びに満ちた彼らの顔が、さらに一層輝いた。
  わたしは少し離れたところに立っていた伴天連に化けた魚人の顔を伺った。化け物は凍てついた表情で首をかすかに横に振った。
「違う」
  輝いていた顔が急に曇った。
「しかし金はいらんのだ」
「伴天連さまでないのに、どうして金を取らぬのですか?」
  いらいらとしたわたしは、ついに怒鳴った。「そんなに金を取って欲しかったら取ってやる」
  わたしは酒代くらいの金額を述べたが、男や家族の顔は、二度と輝きはしなかった。




    伴天連の妖術  (承前)

                1

  …わたしは、魚人にもらった薬を使って、多くの瀕死の患者を救い、あるいはすでに死んでいる者を甦らせた。
  ちなみに、薬は病人にしか効かず、大怪我をした者や、死者でも古すぎて痛みの激しい者には効かなかった。
  噂を聞きつけ、列を成して駆けつけた患者の肉親の頼みを聞いて、すでに骸骨となった遺骸に試したことも、実は一度ならずある。
  生者なら十人分くらいの薬液をシャレコウベの口から流し込むと、薬は背骨やろっ骨を伝って全身の隅々の骨に行き渡った。黄ばんだぼろぼろの骨を紫色のしっかりしたものに変えて、だ。
  どうやら、この薬には木や金属に対する膠のように、残っている部分を強固にする性質があるらしい。それに欠落した組織を強引に再生する力も…
  わたしが眺めていると、骨の薬がいち早く染み込んだ部分から、髪の毛のように細い、肌色の鞭毛が生え出した。それらはたちまちもじゃもじゃの物体になったかと思うと、肉によく似たものへと変化した。
  目のあったところには目のようなものが、脳髄のあったところには脳髄のようなものがたちまちのうちに再生した。頭髪のあった部分には、ちゃんと髪の毛が生え伸びた。
(さぁ、後は皮膚だけだ)
  わたしは、隣室で「治療の成功」を待っている家族や友人たちのことを思い出しながら待った。
  冬の朝、池に次第に薄い氷が張り巡るように、剥き出しの醜い肉の固まりに、浅黒い皮膚(患者は呂宋の近くの者だった)が張り始めた。
  わたし自身、息を飲む光景だった。
  骸骨を生前と同様の甦らせることができるのだから、死んで間のない者を蘇生することぐらい訳ないことだった。
  わたしは、
(こんなに凄い薬なのに、どうして部分だけの遺体−−たとえばシャレコウベだけや、足の骨一本だけ−−から再生はできないのか)
  と、贅沢なことすら考えた。
  後でわかったことだが、この魔法の薬は、生き物の骨に作用する薬だった。だから、患部の骨が残っていなければ蘇生再生は効かず、手足の切断、頭蓋骨の陥没といった大怪我をした者は治すことができないのだった。
  この時、蘇生したのはたまたま若く美しい女性だった。
  つんと張った乳首と、ふくよかな腰の回りが再生すると、わたしは嬉しくなって思わずまだ形の定まっていない彼女に抱きついた。
  目覚めた彼女は、元通りになったばかりの目を大きく見開いて、わたしを押し戻そうとした。
  無理もない。彼女の最後の記憶は、重病で深い眠りに落ちるところで途切れていたはずだ。いきなり見知らぬ異国人の男に抱きしめられていたら、驚かないほうが不思議だ。
  腐った骨が折れる、ポキリという乾いた音がした。おそらく、薬が染み込んでいたとはいえまだしっかりと固まっていなかったのだろう。
  途端に、彼女のふくよかな胸が見る見るうちに腐敗し、崩れ去った。折れたのは、彼女の肋骨の部分だったのだ。
  彼女は一丁四方に響く長く大きな悲鳴を上げた。
  控え室にいた家族は、てっきり彼女が復活したと思って、手を取り合って喜んでいたと言う。
  ところが、仰天した彼女は診察用の寝台から落ちて、さらに数本の骨を折った。
  死んで間もなくだったのなら、有り得ない事故だったが、あいにく元はぼろぼろの遺体だった。脚の骨も折れて、よろめいて壁にぶつかり、さらに傷を大きくしてしまった。
  薬による再生は中止され、折れたりヒビの入った骨の周辺が泥の壁、土の人形のように崩れ始め、もう二度と再生しなかった。
  がしかし、それでも彼女はまだ生きていた。口も喉は無事らったらしく、家族やデウス、マリアの名を呼んで泣き叫んだ。
  その声を聞いて、家族たちが診察室の扉を壊して入ってこようとした。
  扉には魔法−−いや、妖術の鍵がかけてある。この術もまた、件の魚人に習った術だった。
  力ずくで開いた途端、彼らは砂となって崩れ去った。
  それを見た彼女はさらにわめいた。
  慌てたわたしは、カタナ掛けのカタナを抜いて、彼女の首をはねた。
  身体の中で最も重要な骨がなくなると、
彼女の胴体はピシッピシッとヒビが入る音を立てながら、無数の小さな骨と泥の固まりとなって崩れた。
  部屋の隅、手術の道具が並んだ木棚の影から、ビシャビシャと湿った拍手とともに魚人が現れた。
「上等、上等…  薬は術の範囲内でかなりよく効くのだが、万一失敗した場合は、本人はもちろん、家族や親戚、縁者、友人も抹殺してしまえばいいのだ。おまえの評判はいささかも傷つくことなく、完璧だ」
「あれは事故だ。家族が魔法の鍵のかかった扉をこじ開けて…」
  わたしは、まだ生命の余韻が残っているかのようにぷくぷくと小さな泡を立てている泥や塵の固まりに目を落として言った。
「つまらぬ言い訳など不用だ。たとえ十のうち九失敗しても、依頼者は引きも切らないだろう。
  なにしろ、患者のほとんどはすでに死んでいるか、瀕死の状態なのだからな」
  魚人はぬめる手をわたしの肩に置き、生臭い息を吐きかけて囁いた。

  魚人の言葉の通り、患者は日増しに増えた。
  診察を待つ患者の列は、とうの昔にデウス会のそれを上回っていた。それどころか、何人ものまともな医者にかかることができる金持ちすら、わたしのところに来た。
  わたしは、とりあえずは死んで間もない者と、本当の重病人以外は断ることにした。
  その時分には、薬の力で甦らせた人々のうち、かなりの人間が手伝いに来てくれるようになっていたので、雑用は全部彼らにさせていた。
  そんなある日、デウス会の若い神父の修道士が、三人連れ立ってわたしのところに来た。「苦労して発見した蘇生薬だ。あなた方には教えられませんね」
  得意の絶頂のわたしに向かって、三人はいっせいに十字を切りながら言った。
「鬼倉さま、貴方の蘇生薬には目をつむれぬ問題があります。貴方の薬で甦った者たちが夜更けになると墓地に踏み入り、屍肉を貪っているのをご存じか?」
「知らん」
  当時のわたしは本当に知らなかった。第一、死者の腐った肉など喰っても絶対に旨いはずなどないではないか?
「では、今夜真夜中、墓地のはずれの一本椰子のところでお待ちください。我らも御供申し上げます」
  わたしは本気にしなかった。
(どうせ、蘇生ぶりを見たデウス会の連中の妬みから生じた悪戯に違いない…)
  ところが、夜半頃、医学ならぬ魔法の書物を読み耽っていると、昼間の三人が手に手に蝋燭の燃えている燭台やらカンテラを持って訪ねてきた。
「本当なのか?  冗談ではないのか?」
  顔をこわばらせたわたしに向かって、三人は黒い頭巾で隠した顔をかすかに頷かせた。
  わたしは薄手のマントをひったくると、彼らの後に続いた。
  一本椰子の幹に身を潜めて待っていると、やがて何人かの村人が三三五五やってきた。
  月はなく、星もまばらだったが、体格や顔の形から八割がたの人間に見覚えがあった。
  みんなわたしが魚人からもらった蘇生薬を使って蘇生させた者ばかりだった。
  連中は明かりも道具もないままに、十字架の下を素手で掘り始めた。人間離れした驚くべき速さと腕力で。
  わずかな時間で棺を埋めてあるところまで到達した彼らは、化け物じみた力で棺の蓋をこじ開け、中の遺体を引きちぎって喰い始めた。
  正真正銘の地獄絵図だった。
「莫迦な…」
「真実です。貴方の蘇生薬は、効き目は強力だが、生を維持するために死者の肉が必要なのだ」
「…つまり、死者が死者を喰っている。言わば共食いです」
「ご覧ください。あれだけ堅い土を掘ったというのに、傷一つ負っていないし、息も荒げていない」
「…彼らはもはや人間ではないのです」
  三人は口々につぶやいた。
「−−墓場の遺体を喰い尽くしたら果たしてどうなるのか、心配です」
「そんなはずは…」
  わたしは昼間、診療所に手伝いに来てくれている死からの生還者たちの、明るく屈託のない笑顔を思い出して目をつむった。
「残念ながら、疑いの余地はありません」
「最初の頃、我々があなたの神のような蘇生術を見て、羨ましく−−いや妬ましく思ったことも事実です。だが、こういうことが行われている以上、もはや黙って見過ごす訳には行かない…」
「しかし、甦った彼らをいまさらどうせよ、と言うのです?  軍隊でも出して皆殺しにするとでも?  いまはともかく、昼間は一度も死んでいない人間と見分けがつかないんだぞ」「貴方のあの薬の作り方は一体だれに習ったものですか?  その者に聞けば、薬の効き目を閉ざす方法も知っているはず」
  修道士の口調には有無を言わさぬものがあった。
「知らない。白状すると、わたしは奴が届けてくれる薬を、指示通りに処方しているだけなのだ。薬の中身が分かって、材料が揃えられて、自分で無限に調合できれば、どんなにいいかと思っている」
  わたしの言葉に嘘はなかった。修道士たちはある程度こちらの心が読めるのか、互いに顔を見合わせあって頷いた。
「では、今度そいつが現れた時に、与えた薬を無効にする薬を乞うて貰うのだ。そしてそれを甦らせた全員に、『蘇生の効果を継続する薬だ』と偽って、一時に全員に飲ませるのだ。−−祭り(カルナバル)の時がいいだろう。
  我等はそれまで監視させて貰う」

  翌日は魚人と会う日だった。
  奴と会う日は、いつも朝から土砂降りの雨か嵐になるので忘れることはない。
  わたしはいつものように「休診」の木札を掲げて外出しようとした。
  ちょうどその時、一人の若い娘が担架に乗せられて運ばれてきた。付き添いの親族の話によると、出産の際の出血がひどくて、母子ともども死亡したのだという。
  なるほど、母親の遺体の脇には、白布でくるまれた小さなものがあった。
  魚人との約束は、走ることにすれば十五分ほどの余裕があった。
  わたしはとりあえず皆に療養所の中に入るように勧めた。それだけで一同には安堵の色が広まり、感謝の声があふれた。
  まるでわたしが、必ずこの母子を甦らせると信じ切っているみたいだった。
  屍肉を喰うようになる呪われた蘇生薬も余裕があった。魚人はいつも、使い切れないほどの量の薬を気前よくくれるのだ。担ぎ込まれる死体を全員復活させてもなお余りある量を、だ。
  わたしは薬棚に向かうと、見慣れた茶色のギヤマンの瓶に手を伸ばした。することと言えば、これを銀の匙に一口移して、死人の口の中へいれるだけだった。水薬はまだ瓶の半分以上残っていた。
  ところがふと、隣の酒精の入った透明の瓶を見たわたしは驚いた。昨日会った修道士の一人の顔がくっきりと写っているではないか。『ならぬ!』
  顔ははっきりとそう言っていた。
『よいではないか』  わたしは目を反らせて言った。『カルナバルの日、までぐらいであれば』
『してその後はどうなる?  遺族は二度同じ悲しみを受けることになるのだぞ。生も死も主の思し召しだ。何人も変えることはできぬ』
  夫を始めとする遺族は、縋る目でわたしを見ている。瓶に手を伸ばしたまま、しばらくぼんやりしたままだったわたしの姿は、さぞかし奇異に写ったことだろう。
『その娘と、生まれたばかりのいたいけな赤ん坊が真夜中に墓場で死者の肉を貪っている光景を想像してみよ。哀れだとは思わぬか?』
「うるさい!」
  叫んだわたしは、思わず修道士の顔が写っている瓶を掴んで、床に叩きつけた。
  ギヤマンの瓶は粉々に砕け、破片とともに中の酒精が床に広がった。
「先生!」
  遺族の顔色が変わった。
「大事ない。これはありふれた酒精で、蘇生の薬とは何も関係ない」
  彼らはホッと肩をなで降ろした。わたしは禁断の薬の入った瓶を掴んで、患者のところに戻った。
  残りの瓶の全てに分身して宿った修道士は眉を吊り上げた。
『裏切るのか!  信じておったのに!』
  そんな奴も、肝腎の蘇生薬の瓶までは乗り移ってこない。…できないらしい。
『約束は守る。これからすぐに行って効果を消す薬を貰ってくる。カルナバルの日に、必ず使う』
  心の声でそう答えながら、わたしは母親に続いて赤ん坊にも匙に掬った薬を含ませた。
  灰色だった母親の顔に赤味が差し、赤ん坊は元気な声で泣き始めた。
  家族も土下座し、涙を流して喜んだ。
  いくつもの十字が切られ、神や聖母の名が唱えられた。これを成したのは悪魔(サタン)の呪われた術であることも知らずに…
  赤ん坊が早速、母親の乳房にしがみついて乳を吸い始める光景を見たわたしは(昨夜のことは全て夢−−デウス会の修道士どもがわたしを妬んだあげく、幻術で見せた夢なのだ)
  と思うに至った。
  ともかく、その日が魚人から薬を貰う日であったことには変わりなかったので、わたしは嵐をついて村の外れの岬の突端に出かけた。
  岬には、おそらくこの島に初めて上陸したと思われる粗末な石造りの灯台があった。
−−いや、灯台と言うよりも「番小屋」と言ったほうが正しいかも知れない。半ば朽ち果てた木造の二階が、わたしたちがいつも会うことに決めている場所だった。
  鯨油の燭台に火を点すと、吹き荒さぶ風雨の音を聞きながら待つこと数刻、奴はビシャビシャと水を滴らせながら、少し遅れてやってきた。
「薬は不完全だ。蘇生した人々は夜中になると、墓場で死人の肉を喰っている」
  わたしはカタナの柄に手を掛けて訊ねた。
  ところが魚人は落ち着いたものだった。まるでいつか尋ねられることを予期していたような感じで、落ち着いていた。
「どんなものでも、完璧というのは難しい。それぐらい、目をつぶれない瑕疵ではなかろう」
「もし、連中が墓場の遺体を全部喰い尽くしてしまったら、そのあとはどうなるのだ?」
  たたみかけるように尋ねると、今度は少し口ごもった。
「そうはならぬ」
「どうして言い切れる?  どこかで大きな戦でも始まるのか?
…あんな凄い薬を持っていたんだ。彼らを、元の安らかな死体に戻す薬もあるだろう。それをよこせ!」
「デウス会の修道士に吹き込まれたのか。
だったら心配は無用ぞ」
  不思議なことに、魚人はその日に限って新たな蘇生薬は持っていなかった。
「上告書が上に送られ、軍隊に乗り出された時には、甦った人々が辛く悲しい思いをする」
「報告がなされることはない」
「寞迦な!  デウス会は大きな組織だ。印度では、彼らと結託した軍隊によって、いくつもの王国が滅ぼされた(インカ帝国やアステカ帝国のこと)と聞くいているぞ」
「ここは奴らも手を出せぬ」
  魚人は釘で頑丈に打ち付けてあった木窓を力まかせに開いた。たちまち横殴りの雨が吹き込んで、ところどころへこんだ床を濡らした。
  窓の向こうには岬が見えた。
  岬は断崖絶壁に囲まれて、船はつけることができない。だから南蛮人はここに灯台を築こうとしたのだが、それでも座礁や難破する船が絶えず、とうとうこの近くを航行すること自体を諦めてしまった。
  地元の民もここを「悪魔の岬」と呼んで、晴れた日の昼間も近寄りはしない…
  そんな岬の突端を、長い行列が進んでいた。
  雨の中、朧ろな輪郭しか見えないが、確かにわたしが甦らせた村人たちだった。
  彼らのうち、見慣れた屈強の男たち数人が一団となって、頭上に別の人影を担いでいた。どの顔にも見覚えがある。みんなわたしが蘇生させた者ばかりだ。
  担がれているのは黒い粗末な衣からして、わたしに警告しにやってきた修道士に違いなかった。三人は三人とも村人たちの虜になってもがいている。
「やめるんだ!」
  わたしは叫びながら灯台を飛び出して、突端へと急いだ。
  だが、彼らの歩む速度は早く、なかなか追いつけなかった。
(どこへ行くつもりだ?  あの先は崖だぞ)
  わたしの心に不吉な考えがよぎった。
(まさか…)
  そのまさか、だった。
  崖っ縁にたどり着いた一行は、修道士を担いだまま、荒れ狂う海に飛び込んだ。
  男たちに続いて女たちが、子供の手を引いて後を追った。
  その中には、つい数刻前に蘇生させたばかりの母子の姿もあった。
「待て!  どこへ行くんだ?」
  制止を振り切って、母子も波間へと飛び込んだ。
「墓場の死体を喰い尽くす前に、みんな消えてよかったな」
  いつの間にか傍らに立っていた魚人が、牙が剥き出た薄い唇に薄笑いを浮かべて言った。
「貴様、彼らに何をした?」
  わたしはカタナを抜いて魚人に突きつけた。
「生き返ったのさ。決まっているだろう。ただし、人としてではなく、我らの下僕としてだ」
「『下僕』だと?」
「下僕のどこが悪い?  永遠の生命が得られるのだ。余り贅沢を言ってもらっては困る」
  奴はそう言い捨てて、悠々と立ち去ろうとした。わたしはカタナを大上段に振りかぶると、奴の首筋めがけて斬り降ろした。
  手頚に鈍い疼痛を感じたかと思うと、二三歩後ろによろめいた。魚人はこれっぽっちも傷ついてはいない。奴の鱗は深い海の底に棲む怪魚のそれだった。
  魚人はゆっくりと振り返った。情け無いことにわたしは尻餅をついたまま動くことができなかった。カタナを通して、奴の鱗が発している邪悪なエレキを受けたかのように痺れて動くことができなかった。
「いままでの功績に免じて、無礼は見逃してやる」
  奴は白目を剥いてそう言うと、嵐の中へと歩み去った。

「待て、貴様は何者だ?  何のためにわたしにこんなことをさせたのだ?」
  カタナを杖代わりに何とか立ち上がり、よろよろと後を追おうと外へ出た。
「それを知ったら、おまえも無事では済まなくなるぞ。知らないことを有り難いと思え」
  魚人は飛魚のような羽根を羽ばたかせて断崖から海へと飛び込んだ。
  わたしは村へと戻る道を何度も転びながら駆けていた。
  岬を下ったところにある浜には、嵐を避けて何艘もの小さな漁船が引き上げられていた。
  その中の一隻の舳綱を解くと、全体重をかけて荒れ狂う海へと押し出した。
  あの断崖の下の海に行けば、身を躍らせた村人たちのうちの何人かでも救えると思ったからだ。
  ところが櫓も楷も操るどころではない。木の葉のように弄ばれる船にしがみついているのがやっとというあり様だった。
  案の定、十も数えないうちに漁船は転覆し、海に投げ出された。
  口から鼻から、生臭く塩辛い海水が雪崩込んできた。
(ああだめだ。わたしは己が犯した罪業の罰として、溺れて死ぬのだ)
  そう観念すると、不思議と気が楽になり、波に身を任せることができた。

  どれくらい時間が過ぎたことだろう…
  ふと気が付くと、燦燦と輝く太陽が真上にあった。
  わたしは転覆したはずの小舟に横たわっており、足元の床には見慣れたギヤマンの空瓶が転がっていた。
  そう、邪悪な魚人に貰い、村人たちの蘇生に使ったものが…
  最初は幻影だと思った。確かに薬は残っていたが、魚人との談判に持っては行かなかった。記憶に間違いがなければ、いまだに村の診療所の戸棚の奥にあるはずのものだった。
  手に取ってみた。
  形といい、大きさといい、間違いなくその瓶だ。
(それがどうしてこんなところに?)
  周囲は真っ青な南国の凪の海で、島陰はまるで見えなかった。大小数多くの島の多い国なのに。
  と、平らな海面に、ぽかんと小さなあぶくが弾け、人の顔が見えた。
  浅黒く長い髪の顔に私は見覚えがあった。(あの母親だ)
  そう、それは最後に生き返らせた若い母親の顔だった。
  乳のところに小さな頭らしいものも見えたので
(ああ、あの赤ん坊だな)と、ぼんやりした頭で喜びを感じた。
(すると、この空瓶は?)
  ゆっくりと考えがまとまって行く…
(そうか、わたしは死んだのだ。そこであの親子が診療所に薬を取りに戻り、舟を元通りにしてから飲ませてくれたのだ。
  しかし待てよ…  この薬は命を維持するために、屍肉を喰わねばならないのでは?)
  自分が素手で墓場を掘り返している光景が浮かぶとともに、言い知れぬ恐怖とおぞましさが込み上げてきた。
  慌てて母子を振り返ると、二人とも−−一人は生まれたばかりの赤ん坊であるにも関わらず−−燃えるような赤い瞳でわたしを睨みつけていた。
(復讐のつもりなのだ)
  わたしは慄然とした。
  あのまま波に呑まれ、死んで鮫の餌にでもなっておれば、天上にあるデウスの国で安らかに暮らせたものを…
(良かれと思ってしたことなのだ)
  心の中でしきりに詫びても、怒りは解けない様子だった。
  波の上に跳ね上がった二人は肩から下が鱗に覆われ、二本の足は尾鰭に変っていた。

  過酷な漂流が何日も続いた。
  喉が渇き、空腹感が襲ってきた。
  わたしはやけになって、海の水をガブガブと飲んだ。不思議なことに塩辛さは感じなかった。薬の効き目で、身体の構造がすっかり変化してしまっていたのだ。
  わたしは海に潜ってみて、その辺を泳いでいる魚を手掴みで取って、食してみた。生なのに非常に美味に感じた。おまけに水中で水ごと喰うこともできた。
  両手を頚筋に当てて見ると、  いつの間にか腮ができている。指と指の間は水掻きも
張っていた。
(もう人前にでることはできない…)
  絶望して舟の上に戻ると、それらの兆候は短時間で消えて、元の人間に戻っていた。
(しかし、ほどなく屍肉を喰らいたくなるのだろう)
  そう思うと炎天が照りつけているにも関わらず心は暗かった。
  七日、一か月、はたまた一年以上だったのか、どれくらい漂流を続けたことだろうか、もうすっかり分からなくほど時が過ぎた頃に水平線上に点−−船影が現れた。
  救助を拒否して海に飛び込もうとしたけれど、結局できなかった。
  陸に上がれば忌まわしい墓荒らし、屍食鬼に変貌すると分かっていても、もう一度陸地を踏みたいという気持のほうが勝ったのだ。

  わたしを助けたのは、偶然にもわが国の勘合貿易船で、長崎に戻る途中だった。
  わたしは自分の身上について「呂宋で南蛮の医術を修行した蘭方醫である」と、鬼倉の本名とともに正直に告げた。
  船内には、各種の重病に侵された病人が三人いた。随行の役人、富裕な商人、船長(ふなおさ)と、いずれも身分、年齢、病名は違っていたが、全員その日の午後にも布に包まれて水葬に処されるほどの重体だった。「まことの医者なら、全員とは言わないが、このうちの一人でも命を救ってくれ」
  彼らの部下たちは、まるで失敗したらわたしをもう一度海に放り込まんばかりの剣幕で言った。
  しかしながら船には十分な薬も器具もない。対馬の港への入港は五日先だった。
  袂を探ると、例の小瓶がまだあった。漂流中、嵐にも津波にも会ったのに、小船の船底に転がったままあったものを、半ば無意識のうちに拾ってきたものだった。
  底のほうに中身の薬液がごく僅か残っている。これまでの死人や重病人には匙に一杯づつ与えてきた。それから比べると、残量はかなり少ない。
  さらに効果があったとしても、屍肉を食するようになる。
  気が付いた時には、箸の先を使って病人に薬を与えていた。
  量のせいだろう、息を吹き返すには少々時間がかかったが、とにかく三人が三人とも見事に回復して、わたしに謝辞を述べた。
  鎖国の令以降、尋常、一度南蛮国に出た邦人は、二度と日本の土を踏むことはできないのだが、何とか便宜を計って入国を許可してもらえるよう、取り計らってくれた。
  主に明国で漢方の修行をしてきたように、書類を偽造してくれたのだ。
  長崎出島の居留地での審査の期間、わたしはまだ僅か、瓶の底に残っていた蘇生薬の成分の分析に励んでいた。
  幸い、フラスコやビイカア、試薬など、蘭方の実験道具は、命を救った役人たちが揃えてくれた。さらに幸いなことに、わたし自身の屍食は目覚めていない。もっとも何時、居留地の外国人墓地に駆け出してしまわないか、と思うと気が気ではなかったが…
  陸に上がったままだと、醜く変身する兆しも押さえられる。薬のいい方の影響か、頭脳は明晰になり、在来の試薬を組み合わせ、ついに呪われた魚人どもの蘇生薬の成分を解析することに成功した。
  内容については別紙に記録することにした。
  材料については、特に揃えるのが難しいものはなかった。もちろん、非常に高価なものや、貴重希少なものも多かったが、「蘇生」という効力からすると、乗り越えられないものではなかった。当り前だが、いくら金を積んでも欲しいという者がいくらでもいるからだ。

  それから後の出来事は皆が知っている通りだ。
  江戸へ出向いて幕府の要人や家族を何人も治療、蘇生させるうちに、わたしの地位は鰻上りに上がってった。頼みもしない官職をくれ、忠誠を誓ってくれる家来もできた。
  南蛮の怪異たる魚人に騙され、地上に死人の王国を造りかけた愚かな医者が、一天領の代官まで昇り詰めたのだ。
  その間にも屍肉を貪る副作用を除けないものか、不眠不休で実験に次ぐ実験を続けた。
  しかし、こればかりはいかに明晰化した頭でも、どうしても克服できなかった。
  解析した材料の薬品を一部でも省略したりより無害で非力なものに変更したりすると、蘇生薬はたちまち効き目を失い、たとえ甦っても二、三歩も歩かぬうちに腐肉の固まりとなって崩れ落ちたりした。
  この問題が解決しない限り、わたしは、医者の志を立てさしめた家族−−いまも菩提寺の墓地に眠っている−−を復活させる気はなかった。
  だが…  だが…  どうしても断れない依頼や、持ち前の中途半端な憐憫の情から蘇生させた死人どもが墓荒らしを始めた。
  もはや一刻の猶予もない。早急にわたしの家族を蘇生させなければ、連中の餌になってしまうだろう。
  いや、最も恐ろしいのは、屍食鬼と化したわたし自身が、安らかに眠っている一族の死体を喰うことだ…
  自分が蒔いた種とはいえ、因果もここに極まれり、である。
  わたしは決断した。これ以上悩むまい、苦しむまい…
  蘇生薬を大量生産する計画は軌道に乗りつつある。
  家族を甦らせた暁には、死者の国の領主として、幸せに、面白おかしく暮らすのだ。
  もしも幕府や事情に気付いた者たちが責め寄せ来たならば、堂々と一戦を交えるのみ。
  なにしろこちらの兵士は死んでもすぐさま甦るのだ。さぞかし見物の合戦になるであろう。
  日本も朝鮮も、明国もシャムも天竺も、呂宋をはじめとする島々も、南蛮も、みんな死人の国になれば良いのだ…

  日記は唐突に終わっていた。
  読み終わった霞は、複雑な思いだった。
  中でも(自分の兄も一歩間違えれれば鬼倉と同じ運命をたどっていたかもしれない)という気持が一番強かった。
(鬼倉は極悪非道な者ではない…  いや、それどころか勇気と義侠心に富み、優しさと人情を持った立派な侍ではないか…)
  どこでどう間違えたのか、今や自らが二目と見られぬ化け物であり、日本−−いやこの世の全てを地獄に塗りつぶそうとしている…
  上のほうで物音がしたので、アルテアが術をかけ、近くの鏡に地上の風景を写した。
  代官所では豊年の祭りの宴が行われていた。
  荷車で次々に運び込まれる俵米。受け取る裃姿の役人たちも、受け渡す紋付き羽織姿の村名主たちも皆にこにこと微笑んでいた。
  皮肉なことに彼らはあれら米を決して食することはない。すでにほとんどの人間が死体の肉しか美味く感じない存在になり果てている。
  鏡を屋敷のほうへ転ずると、鬼倉の一統は楽を奏でていた。
  蘇生薬で甦らせたと思う家族が、手に手に鼓や琵琶や笛を奏し、謡をうたっていた。
  鬼倉自身は、白扇を開いて、静かに舞を舞っている。
  遠くの村からの祭囃しと刈り入れ歌と重なって、平和そのもののだった。
  事情を知らない者が見たら、誰がここを死者の国だと思うだろうか?
  子供たちは毬を追いかけ、金色の稲穂は爽やかな秋の風に揺れていた。

  舞を一差し舞い終わった鬼倉は、秘密の落とし戸から地下への階段を降りてきた。
「いよいよ、だな」
  アルテアは両手の指先から白い光を放つと長短二刀の輝く洋刀を作り出した。
「待って、鬼倉を倒せば、死者たちは術が解けて、みんな安らかな眠りに就くことができるの?」
  霞は瓶の中から訊ねた。
「そのはずさ。−−なぜ魚人は自分で死体を蘇生させて奴隷にしなかったのか、薬はすでにできていたのに、だ。
  問題の蘇生薬を起動させる『人間』が必要なのだ。−−つまり、薬自体が生きていて、術者の人間に操られているのだ。そしてそれを飲んだ死者は、薬を触媒としてさらに操られる。−−だからもしも鬼倉が好戦的な君主だったら、彼に甦らされた者は盡く戦の好きな人間となって甦ったことだろう。
  そうならなかったのは、たまたま奴が穏やかで平和を好む人間だったからだ」
  アルテアは二本の剣を後ろ手に隠した。
「立派な術者が操っているのなら、もうしばらく様子を見る訳にはいかないの?」
「莫迦を言うな!  奴自身も書き記していたではないか。『このままではわたし自身が、墓の中で安らかに眠っている一族の遺体を貪ってしまう』と。
  どの道、奴らは命がないのに生きている。異界の異形を宿らせて生きているのだ。そのための触媒があの蘇生薬なのだ。薬は時空を越えて人の心に古の邪悪な生き物を棲みつかせて、見せかけだけの不死を得ているのだ。
  生き物は栄養として大量の屍肉を必要とする。ついでに宿主の心も身体も喰い尽くし、時が満ちれば、殻を打ち破って次々に正体を剥き出しにするだろう…
  そうなってしまえば、この世界はもう、奴らのものだ」
  長い影が扉の手前で立ち止まった。
  どうやら鍵が破られていることに気付いたらしい。
「すみません。貴女に戦わせて」
  瓶の中の霞は謝った。
「なぁに、いずれは戦わなければならぬ相手だ。気にすることはないさ。
  この世界を掌中に収めるのは、他でもないこのアルテア・アルハザードなのだから」
  アルテアは事もなげに言った。
「何ですって?」
  霞は自分の耳を疑った。
「おまえも訳の分からぬ化け物の下僕になるよりは、魔導士のあたしに支配されたほうがよほどいいでしょう?」
  鬼倉は手を触れずに扉を開けた。−−いや、「消滅させた」と言ったほうがいいかもしれない…
「もう少しで薬は完璧なものになるはずなのだ。だから、いま暫しの猶予を賜りたい」
  鬼倉は剣を構えたアルテアの姿を見ても、まるで驚かなかった。まるで彼女が誰で、どこから何をしに来たのか、何から何まで知っている、といった様子だった。
「薬は未来永劫に完璧なものにはならない。なぜならそれは、不死を願う人間の心につけ込んだ邪神がつくったものだからだ」
  アルテアは長剣のきっ先を突きつけた。
「重々承知している。だがわたしは、彼らを出し抜けると思っている。そうすれば人は、開闢以来の悲願である不老不死を手に入れて、この世を真の極楽浄土、桃源境にすることができるのだ」
  鬼倉はカタナに手を掛けもせず、温顔で言った。
「愚か者め!  たかが人の分際で、クトゥルーやヨグ・ソトース、ナイアラトテップの裏をかけるとでも思っているのか!」
「確かにいままではそうだった。禁断の蘇生薬を手に入れた者は、誰一人例外なく、甦らせた死人を己の下僕、兵士として世界を我がものにしようとした。
  しかし、わたしは違う。わたしは薬で甦らせた者共を下僕として使い、世界を自分のものにしようなどとは、露ほども思ったことはない。
  いまですら、その気になれば隣国を責め滅ぼすくらいの−−いや、幕府軍を相手にしても勝てるぐらいの兵力を擁しながら、畳一畳も侵略していない。
  醜怪な屍食のことなども、もうじき解決するのだ。−−だから、だから待ってくれい」
  鬼倉は代官でありながら、南蛮人の少女アルテアに土下座した。
「そんな格好に騙されはせぬぞ。屍食の癖を取り去ることなどできぬ!
  貴様らは全員もうじき化け物と化して、共食いを始めるのだ」
  アルテアは冷ややかに言った。
  瓶の中の霞は声の限りに叫んだ。
『鬼倉さま!  この毛唐の娘こそ、暗黒の力を召喚して、この世を地獄にするつもりなのです。ですから、存分にお戦い下さい!』
  しかしいかなる魔法か、声も思念もまるで届かなかった。
「では何をすれば信じて頂けるのか?  条件をお出し頂けぬというもの…」
「それもそうだな…」
  アルテアは赤い舌で、鮮血色の口紅を引いた唇をチロリと舐めた。
「−−ではこうしよう。実は鬼倉、貴様と同じように難病り治療法を捜し求めつつも、異国の異境で果てたサムライがおるのだ。
  その者を、貴様自慢の蘇生薬で甦らせて、意見を聞いてみる、というのはどうだ」
『兄上のことだ!』
  霞は胸をときめかせ、瓶を内側から叩くのを止めた。
「異議はないが、そこまで行くのはどうするのだ?」
  アルテアはひとしきりかん高い声で笑ったのち、瞳を僅かに吊り上げて言った。
「おや、不死の薬を操る術者が、瞬間移動の術もご存じない?」
「そういうものがあるということだけは知っておるが、実際に唐天竺以上の遠い場所に移動したことなどない」
  アルテアが指をパチリと鳴らすと、回りの景色は一瞬にして変わった。
  果てしなく続く黄色い砂漠、ところどころに聳え立つ不気味な岩山、人はもちろん、動いているものは何もなく、草も木も一本もなかった。
  霞や、明国や呂宋に行っていた鬼倉は初めて見る荒寥とした光景だった。
(兄上はこんな異国の果てまで…)
  砂埃が舞い上がり、霞は睚を拭った。
  いくら伝説の薬を捜すためとはいえ、隊商路から遠く外れた  このようなところを通りがかるのは、鬼神魔神魑魅魍魎くらいのものだろう。
「さてと、一体どのあたりだったかな」
  アルテアは髑髏の形をした大岩の下あたりを、人ごとのように歩き回った。
「兄上!  兄上!」
  霞はたまらなくなって駆け出した。顔や目、鼻腔や唇を焼く熱波が絶え間なく吹き付ける。
  霞は砂漠の風のいたずらでところどころにできる土饅肉に似た盛り上がりを見つけると次々と手で掘り出してみた。
  けれど、遺体を先に見つけたのは鬼倉だった。
「ふん、どうやら死体の臭いは誰よりも早く嗅ぎ分けられるみたいだな」
  腕組みしたアルテアの嘲りは無視して、駆け寄った霞とともに一心不乱に砂を掻き出した。
  一尺ほど掘ると、干乾び、血の気を失った男の腕がみつかった。
「兄上!」
  霞はその腕に特徴のある刀傷を認めて泣き崩れた。
「頭部と、その他の身体の部分も見つけるのだ。そうでないと生き返らせても辛いものになる」
  鬼倉と霞は作業を続けた。
  頑張った甲斐があって、残る隻腕と胴体、それに足は見つかった。そのどれもが、車裂きの刑で裂かれたかのように、傷口は無残にねじれて引きちぎられていた。
  もしこうされた時、まだ命があったら、その痛みは言語に絶しただろう。
「頭だ。頭を見つけないと、蘇生させることは不可能だ」
  二人が慌て始めているところに、アルテアがやってきて、またしても指をパチリと鳴らすと、丸く小さい物体が砂の奥底がズボッと現れて空中に浮かんだ。
  髷を結ったその首は、生前の半分くらいに縮み、皺だらけなっていて人相まではよくわからなくなっていたものの、霞は間違いなく兄の首だと悟った。
「返してください!」
  さしものアルテアも霞の勢いに圧倒されて肩をすくめた。同時に首は砂漠にどさりと落ちた。
「やれやれ、死者の王国を築こうとしている化け物鬼倉を倒すんじゃあなかったのか?」
  鬼倉は袂から蘇生薬の入った小瓶を取り出し、コルク栓を抜いて灰色の紙細工のようになった首の唇に垂らした。
  するとどうだろう、唇はたちまち肌色を取り戻し、顔の皺はまたたく間に伸び切って、焼魚の目のように固くこわばっていた瞳は潤いを取り戻してかすかに動きさえした。
「兄上!」
  霞がいま一度呼びかけると、首は長い溜め息を一つついた。すると、別の所に置いてあった腕や足や胴体が勝手に動いて、それぞれが元の位置にくっついた。
  傷口からは膠のようなものがにじみ出してくっついた。霞が見慣れた懐かしい陣羽織すら繊維がからみ合ってまっさらのようになった。
「禁断の呪法を用いて、拙者を甦らせるのは誰か?」
「わたくしです、兄上!」
  その胸に飛び込んで抱きつこうとする妹を兄は乱暴に払いのけた。
「このたわけ者、うつけ者が!」
  霞の兄は背中に背負った忍びカタナを抜いて、鬼倉と妹に向かった。
「神仏が許さぬ方法で蘇生してもらった拙者が喜ぶとでも思ったのか?
  おおかたそこのサムライは、日本に呪われた死者の国を造り、そこの国主気取りで君臨していることなのだろう?」
「そうよ、でも鬼倉さんは戦の嫌いな立派な侍なの。だから、帰って幸せに暮らしましょう!」
「みんなで屍肉を喰らって、楽しく暮らすのか?」
  霞の兄はカタナを振り上げた。
「忌まわしい習慣は、もうじき消しされる」
  鬼倉は刀の柄にすら手を掛けず、懸命に言った。
「嘘だ!  魔物一流のたぶらかしだ」
「証拠は?」
  霞の兄は、懐の中から小さな瓶に入った薬を取り出した。
「その蘇生薬なら拙者も同じものを持っている。ここまでたどり着くまでに、何度も何度も世話になった。だがこいつは使う度に人の心を失わせ、化け物にしてしまう恐ろしい薬だ。
  この岩山で、そこにいる南蛮人の女魔導士に計られて殺された時、もはや前もって服用はしていなかったのだ」
「『前もって』ですって!」
  霞は仰天した。
「前もって服用しておくと、それから先一回の死を免れる。決死の冒険には欠かせぬ大変便利なものだ。−−ただし、死後の服用に比べて格段に、副作用はより大きくきつく現れる」
  霞の兄は頬を歪め、唇を引き吊らせつつうめくように言った。
「−−霞、遠い昔、おまえがあの怪かしの洞窟で飲まされたものだ」
「するとわたしは…」
「そこの鬼倉が死人を大勢作るためにばらまいた病の素を受けても死ななかったのは、鬼倉や拙者が飲んだり飲まされたりしている禁断の薬を、前もって飲んでいたからだ」
「すると、この角は…」
  霞は頭に手をやった。
「限度量や回数、を越えたり、服用から一定時間がたつと、甦った死者は皆、次々に化け者になる。何が『平和な国』だ。やってくるのは化け物と化した人間どうしで共喰いを繰り返す地獄だ!」
  霞の兄は妹を突き飛ばして、鬼倉に斬りつけた。
  裃とともに皮膚が一直線に破れたが、赤い血は一滴も流れなかった。
  鬼倉は面倒臭さそうに衣服とともにベロリと垂れ下がった油紙の皮膚をべりべりと自分で剥がした。
  その下からは固い灰緑色の鱗に覆われたずん胴の体が現れた。
  足もまた太い鱗木のようであり、かぶりものを取るように人の顔を装っていたものをむしり取ると、蛸そっくりのぐにゃぐにゃとした頭部が出現した。
  蛸と違うのは、複眼とおぼしき眼がいたるところに付いているのと、腕が細く分かれてできた触手は、数百本以上あった。
  霞は悲鳴を上げた。
  兄もまた、同様の変身を遂げようとしているのを見て、さらに衝撃を受けた。
「霞、こいつは俺が倒す。国に帰って死者たちが安らぎを得たか確かめるのだ!
  早く!」
  二匹の化け物は互いの触手を相手の体に蒔き付かせて鱗をバリバリ剥がしたり、禿げた箇所に尖った触手を深々と突き刺し合ったりしていた。
  化け物たちはともにまだ完全な体にはなっていないらしく、それぞれの触手の一撃が決まる度に、汚水のような濁った体液がしぶきとなって飛んで砂漠に吸い込まれるなど、互いの攻撃が相当の打撃となっているようだった。
『逃げるんだ!  早く!』
  元は鬼倉だった者の触手の一本が迫るのを見た霞の兄が、これ以上はないという強い思念で語り掛けてきた。
  触手の先端のぬめっとした部分が触れた瞬間、霞は無我夢中で故郷日本の緑の山河や、百姓家を思い浮かべていた。
  無意識のうちに強力な術が発動され、次に恐る恐る目を開くと、懐かしいあばら家の前の、街道が見渡せる高台に立っていた。
  と、田や畑や集落のそこここから獣が吠えるような凄まじい悲鳴が聞こえた。
  目を凝らすと、田畑で仕事をしていた者や水汲みをしていた者、道を歩いていた者など老若男女を問わず体が泥となって溶け出したかと思うと、一山の汚穢となり果てた。
(兄さんが鬼倉を倒したんだわ!  鬼倉が邪悪な意思で甦らせた死人がみんな朽ち果てた)
  霞はもう一度術を使って遥か彼方の砂漠の髑髏岩に飛ぼうと試みたが、互いに無数の触手で体を刺し貫きあって、日干しにされた水母のようにはらはらと風化している二つの化け物がちらりと見えただけだった。
「さてと、残りはあんただけだ。どうする?」
  アルテアは剣のきっ先を霞の喉元に突きつけて言った。
(逃げろ!  逃げろ!  逃げて性懲りもなく悪の種子をまたぞろ世界中に撒き散らすがいい!)
  女魔導士の誘いとは裏腹に、霞はそのまま白い喉を剣に押しつけた。
「何ッ!」
  アルテアは驚いたが、手遅れだった。
  彼女の血は、まだ赤かった。





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