アイゼナッハの梟  2001/5/22

         一

 むせかえるような新緑の森の中、チュニックにキュロット姿の少女が、主だった木に付けられたかすかな記号を頼りに進んでいた。
 朝、夜明けとともに出発したと言うのに、すでに太陽は西に傾きつつある。
 やがて目の前に、澄んだ水を満面にたたえた湖が現れた。
 少女は背中に背負った袋を投げだし、手早く来ていたものを全部脱ぎ捨てると、静かに波打つ湖面にひらりと身を躍らせた。
(ああ、気持ちいい! 公女さまも誘ってあげれば良かったかも)
 しばし豪快に抜き手を切って泳いだかと思うと、プカリと浮かんだまま片足づつ突き上げた。
 右の太股の内側には、深紅の薔薇の刺青がある。
(本当にお城にばかりいると、気が滅入ってしまうわ!)
 少女はそう呟くと、身体を乾かすのもそこそこに衣服を身につけ、袋の中からパンとチーズを取りだして、木のコップに湖の水を汲み、むしゃむしゃと食べ始めた。
 小鳥たちの囀りの中、仕掛けた釣り竿がピクピクと揺れる。
 と、湖面の先、水面に枝を伸ばして生い茂った樹木の向うから、一艘のボートがゆっくりと進んできた。
 ボートには、異国の服を着た東洋人ふうの少年一人が乗っている。
 少年の右足には一本のロープが結びつけてあり、その先端には一抱えはある岩が…
「ちょっとあなた!」
 岩をかき抱いた少年が水面にザブンと飛び込むのと同時に、 少女は今度は衣服を着たまま、ナイフを口にくわえてさっと湖に飛び込んだ。
 水の中、少年は岩に引っ張られてどんどんと沈んで行く。
 少女は抜き手を切ってぐんぐんと追いつき、ナイフでロープを切り、金槌らしくずいぶんと水を飲んでいる少年を抱いて、岸を目指した。

 数分後、二人は少女のお気に入りの岸辺で、びしょ濡れのまま焚き火を囲んでいた。
「わたしはルナ。あなたは?」
「リュウだ」
 少年はパチパチと勢いよくはぜる炎の先を眺めてポツリと答えた。
「…実はわたしも、この湖の底は見たことがないの。ずいぶんと深くて、とても息が続かないから… もちろん、男の人でも底まで潜った人は誰もいないわ」
「底には、何があるんだ?」
「さぁ、むかし滅ぼされた民族が沈めた金銀財宝か、それとも髑髏の山か…」
 ルナは少年に焼き上がったばかりの魚を勧めた。
「謝々」
 二人はそれを黙々と食べた。
 やがて、森があかね色に染まり、鳥たちが巣に戻り始めた。
「わたし、そろそろ帰らないと、公女さまやみんなが心配するから…」
「ぼくも帰るよ」
 ルナが印を頼りに木こりが通る道まで送ると、少年は何度もお辞儀をしながら、一枚のサーカスのチラシのようなものを渡して立ち去った。

 ルナがいつもの部屋に戻ると、 若干十六歳になったばかりのワルトブルグ公女は、眼下の漆黒の闇に閉ざされた深い森を見下ろしながら波打つ金髪を掻き上げ、城内にまたたく無数の松明をぼんやりと眺めていた。
「ルナさま、ただいまそちらにお戻りになられました!」
 家臣の声が聞こえたような気がして弾かれたように立ち上がる。
 鏡の中、汗と土埃で顔を真っ黒にしているものの、公女にそっくりの背格好と顔立ちの少女が走り寄ってきた。
「公女さま、ただいま帰りました」
「心配しましたよ。従者も付けずに一体どこに行っていたといたのですか?」
 公女が再び口を開こうとする前に、ルナは素早くその耳に囁いた。
「近頃公女さまがいたくお塞ぎのご様子なので、アイゼナッハの森にご神託を頂きに行っていたのです」
「なんと! 狼に襲われたらどうするつもりです! それに、そんなことがもしもアイゼナッハ公の耳にでも入ったら、我らがまだ野蛮な宗教を信じていると疑われ、領民たちはさらなる免罪符の購入を求められるやも知れません」
「そのアイゼナッハ公から、大きな贈り物が着いてから、ではありませんか? 公女さまが沈み込んでおられるのは?」
「まさかそれはご神託の一部なのですか?」
 顔色青白く、はかなげな表情の公女は眉根を寄せる。
 片や、鏡に写った日焼けした少女はコックリと頷く。
「公女さま、もう何のご心配もなさいませぬように。かくなる上は、わたしが頂いてきたご神託の通りになさいませ。…その前に、どうしてそのように悩んでおられるのか、お打ち明けくださいませ」

 その夜更け、人払いをしたワルトブルグ公女は、自分が着ているものと寸分違わぬドレスに着替えた少女を従えて城の宝物庫に案内した。
 いくつもの頑丈な南京錠を開くために華奢な手に握った鍵と鍵束がかすかに震える。
「アイゼナッハ公殿下から拝領した宝物が奪われたのでございますか?」
「いや、そうではありません」
 ギイッと重々しい音を響かせて鋼鉄の扉がゆっくりと開く。ルナが手にした燭台の明りが、部屋一面に積み上げてある金貨銀貨の入った箱や、宝石箱や、鎧兜、宝冠などを照らし出した。
 部屋の隅には、ちょうど大人の棺桶くらいの大きさの不吉な感じのする木箱が立てかけてある。十日ほど前、公差し回しの馬車と使いの者たちによって届けられ、この部屋へと運び上げられた届け物だ。
「もちろん中身はご覧になったのでしょう?」
「いいえ、まだ見てはおりません」
「なぜ? どうしてですか? せっかくのいただき物なのに?」
「ルナ、その木箱を少し振ってみてください」
 彼女は言われたとおり、杉の板で出来た箱を軽々と両手に抱えて振ってみた。
 すると、カチャカチャ…と、底のほうで木片のようなものの破片が触れ合う音がした。
「壊れておりますね」
「あなたもそう思いますか?」
「はい」
「しかし、この荷物が城に到着した時も、階段をそろそろと登ってこの部屋まで運んだ時も、こんな音は少しもしませんでした。宝物庫の鍵をすべて持っているのは城主である私だけです。この木箱の中身を壁に向かって投げつけるなどして、中身を粉々にできるのは私しかできませんでした。しかし…信じてくれると思いますが、私は絶対にそんなことはしていません」
 そう言い終わるとワルトブルグ公女は、ふらふらと宝物の上に座り込み、頭を抱えた。
「そんなこと、やろうと思ったってできる公女様じゃあないわ」
「…アイゼナッハ公は冷酷なおかたです。この不始末を不信心の証として責められるかも知れません」
「公女さま、落ち着いてください。殿下は、この贈り物を贈るに当って、何か書状を付けられませんでしたか?」
 自分も宝物の上に座ったルナは、蒼ざめきった主の顔を見上げた。
「いいえ。何もありません。ただし、この箱の中にはあるかもしれません。荷物を届けてきたのは、確かに殿下の家中のいずれも見覚えのある者たちでしたが」
「すると殿下ご自身からは、まだ何も言われていないのですね? …だったら、殿下から何かおっしゃって来るまで、絶対にこの箱を開けてはなりませんよ」
「それが、ご神託ですか?」
 ルナはこっくりと頷いた。
「ご家来にも、誰にも語ってはなりません。もしもどなたかに聞かれたら『恐れ多くてまだ封を開けておりません』と正直に答えておくのです」
「もしも殿下が、何かおっしゃってきたらどうしましょう? ルナ、おまえも知っているでしょう? 殿下が行啓された際に、毒味役がたまたま腹痛を起した城の主がどうなったか…
 石畳でけつまづかれた城の主がどんな責めを負ったか?」
「大丈夫です」
 彼女はジッと宝石をちりばめた鏡に写った公女を見つめた。

 果して、それから数日後、ワルトブルグ城に、アイゼナッハの公から一通の親書が届いた。
 十字架に鷲が止った紋章の封蝋と、流れるが如き花文字のペンマンシップもいかめしい…
「どうしましょうルナ?」
 手紙を書斎の机の上に置いたワルトブルグ公女は、レター・オープナーを手にしたままに尋ねた。
「どうしようもこうしようも、開けてみないことには… 手紙の宛名は公女様なのですから」
「そうですね…」
 公女は手紙を机の上に敷かれたフェルトの上に置き、ゆっくりと細身のナイフを走らせた。
 中からは一枚の、三つ折りにされた羊皮紙が現れた。
 広げられたその紙には、裏にも表にも何も書かれていなかった。
「もしや、あぶり出しでは?」
 ルナは卓上の燭台の炎で紙を念入りにあぶってみたが、やはりどんな文字も記号も現れなかった。
「やはり殿下は、わたしが女であることを理由に我がワルトブルグ領を没収しておしまいになるお気持ちなのです。だから、このような不可解な贈り物や手紙を次々に… こんなことなら、早く適当な貴族と結婚してしまうべきでした」
 公女の声は震えていた。
「…それから、『改革派の神学者』とか言う学僧たちに何日か寝食を与えたのがまずかったのかも知れません。彼らは『信仰は神のみ聖書のみ』とか申して、多かれ少なかれ教皇庁に不平不満を持つ者ばかりでした。私は、彼らの言うことも一理あるように思って… あのことがきっと、密偵を通して殿下の耳に入り…」
「愛なき結婚などおやめください。それとご自身が正しいと信じておられることをお曲げになられませぬように」
 ルナはいま一度きっぱりと言った。
「仮にそうであったとしても、こちらにはいまのところ何の落ち度もないのです。正しく対処していれば、殿下と言えどもお咎めはできないはず」
「では、いまとりあえずはどうすれば良いでしょう?」
「もちろん返事を認めるのです」
「一体どんな返事を書けばよいのです? 中身が壊れた荷物の箱は開けておらず、手紙には何も書かれていなかったのですよ!」
 公女珍しくは声を荒げて立ち上がり、グラスにつがれたシェリーを飲み干した。
「なあに、相手が訳の分からぬものを送りつけてくる以上、こちらも似たような返事を送り返してやれば良いのです」
「そんなことをしたら殿下は、『愚弄された』と思って、ケルン公やバイエルン公に出兵を命じられるのでは? 彼らもまたわたしにしつこく求婚している上、我がワルトブルグの美しい森にしたたかご執心の様子だったから、喜び勇んで…」
「返事はわたしが書きましょう。下書きを書きますので、公女様が清書して厳封の上、至急に信頼できる家来に持たせて届けさせるのですよ」
 ルナは秘書用の小さな机に座り、鵞ペンを持ってゆっくりと返事を書き始めた。

「謹啓、アイゼナッハ公殿下。

 殿下ますますご祝福の光の下にあられることと拝察し、祝着至極に存じます。
 このたびは、わがワルトブルグ領内に神のご威光が重ねて知らしめされるようにと、貴城の大切な財産を裂いて聖人の木像をお贈りくださり、誠に有難き幸せに存じます…」

「な、な、何を書くのです!」
 ルナが書く手紙を覗き込んで読んでいた公女は、悲鳴に近い声を上げた。
「箱の中身は、おそらく粉々に砕けた木片なのですよ! 殿下はおそらくそれを『時がたてば効力を失うにかわ』か何かで貼り付けて送りつけてこられたのです。宝物庫に安置してすぐ、それはバラバラになって…」

「本当のこと…贈り物の荷物が木片だったこと、手紙が白紙だったことを書くと、ケルン公やバイエルン公の軍勢が押し寄せて、公女様もわたしも、ご家来衆も、全員命がございませんことよ!」
 ルナは凛とした声が響いた。
「…それこそ向うの、最も思う壷にございましょう」
「しかし、わたしは『聖人像』など貰ってはいません。それを『貰った』などと…」
「しかしとりあえずこう書いておきましょう」
 ルナはそう言って、下書きを書いていた手を置いた。

         二

 アイゼナッハ公から問題の荷物が着いたのはワルトブルグの春祭りの日だった。
 農民たちは、その日一日、小麦や葡萄、野菜や果物作りの農作業を休み、大工や鍛冶屋の職人たちも仕事を一日先へと延ばした。
 パン屋や酒屋や衣料品を扱う商人たちは、いつもの品を値下げして、浮かれ気分の見物人たちをしきりに呼び込んでいた。
 広場には、ジプシーたちのサーカスの天幕が張られていた。
 ルナもまた、非番の女たちや城の騎士たちの娘らにまじって見物に出かけていた。
 象の玉乗り、ライオンの火の輪くぐり、猿回しにおどけた道化師たち…
 拍手と歓声の渦の中、夕方前に出し物は終った。
「楽しかったね」
「また収穫祭に来るわよ」
 娘たちはお喋りを交しながら、ちょうど臨時に見せ物小屋が出ている通りに差し掛かった。
 お金を賭けた腕相撲、手品などにまじって、
「指一本触れることなく、大の男を吹っ飛ばす」
 と書かれた絵入りの看板が目に止った。
「ねえねえ、みんな、これ観て行かない?」
「ルナったら、男まさりなんだから。どうせインチキ、お金がもったいないだけよ!」
「わたし観たい。先に帰っていて」
 ルナは木戸銭の銅貨を払い、その小屋の中へと入った。
 案の定、中は無骨な騎士やその従者、普段は木こりだが、戦が始まったら傭兵に早変わりするような男たちばかりで、汗臭かった。
 舞台の真ん中には、痩せたの東洋人の少年が一人、何の武器も持たずに立っていた。
 森の湖に岩を抱いて飛び込もうとしていたあのリュウと言う少年だ。
「どなたか、ぼくのお相手をしていただけるかたはございませんか?」
 リュウはたどたどしいドイツ語で言った。
 男たちの何人かが手を挙げた。
「どうぞ、順番に何人かづつ、舞台にお上がりください」
 彼の言葉に促され、屈強の男たち三人が対面した。
「いいですか?」
 リュウは腰を少しかがめ、身を少し引いた。
 男たちも拳を構えて身構えた。
「きえええーッ!」
 リュウが気合いをかけたかと思うと、男たちは三人が三人とも、まるで殴られたか蹴られたかしたかのように後方に吹っ飛んだ。
「おおーっ!」
 観客からはどよめきが起った。
 吹き飛ばされた男たちに変って、また新たな男たちが同じように彼の気合いと対峙したものの、結果は同じ、何度やっても派手に吹っ飛ばされた。
 そして、もう誰も挑戦しなくなると、少年は客席に一礼してこう挨拶を始めた。
「ワルトブルグの皆さん、わたしは遙か東方の明という国からやって来たリュウというものです。国にいた時は皇帝の子息をお守りする役目を仰せつかっていましたが、つまらぬ失敗から国にいられぬようになり、ここまで流れてまいりました。あなたがたはそれぞれ剣や槍の腕に秀でた勇敢な武人だと思います。
 新たに、わたしのこの術を身につけたければ、ぜひあなたがたの国の言葉でわたしの技を解説し、修行法を記したこの本を買っていただきたい!」
 何人かの男たちが、リュウの取りだした薄っぺらい指南書を買い求めた。
 ルナはポケットに手を突っ込んで所持金を数えた。
 かろうじて、買える。
「これが最後の一冊です。もうありませんか?」
 ルナは舞台に走り寄ってお金を差し出した。
「下さい」
 男たちは目を丸くしたが、誰よりも驚いたのはリュウだった。
「あなたは!」
「…その術は、練習すれば女にも使えるようになるのでしょうか?」
「お嬢さん、もちろんですとも! この術はむしろ、老人や女性と言った力の弱い者のための護身術なのです。身につけるには大変な努力と訓練が必要ですが、不可能ではありません」
 彼女はその本を、ドレスの胸元に隠して城に持って帰った。

 それよりも数刻前、ワルトブルグの城内でも宴のたけなわだった。
 若くして病死した父のザクセン選帝公に代って城主になったワルトブルグ公女は、騎士たちや農民たちの挨拶を受けながら、好きでない酒に桜色の唇をひたしていた。
 農民たちからの陳情は、ただ一つ、
「公女さま、どうかこれ以上教会と、アイゼナッハ公が押しつけてくる『免罪符』を買わずに済むようにしてください」というものだった。
 ワルトブルグは比較的豊かな土地で、年貢も安いのだが、それを買わなければ神から罪の許しが得られないという「免罪符」の割当ての枚数と額が莫大だった。
「割当ての額を払ったら、食って行くのは難しくなります。なんとかせめて半額にでも負けていただけるよう、教会とアイゼナッハ公に交渉して頂けませんでしょうか?」
 農民たちはすがるような目で公女を見上げた。
「ルナはどこへ行ったか知りませんか?」
「はて? ルナとは一体誰のことですか?」
 家臣や農民たちは首をかしげた。
「ああ、すいません。いまのは一人ごとです。
…ルナ、こういう時にこそ代役を果たして欲しいと思っているのに…」
 荷物が運ばれてきたのは、ちょうどそんな時だった。
「公女様、アイゼナッハ公殿下から、贈り物が届けられました」
「大儀でした」
 毎年春祭りの日に、隣国のアイゼナッハ公から着色した聖人の木像が届けられるのは吉例になっていた。
「宝物庫に運んでおいてください。わたしもが付いて行きます」
 幾人もの挨拶を受けてうんざりとしていた公女はもっけの幸いとばかりに席を外し、わざわざ荷物に付いて階段を上がった。
 担ぎ上げるのは公の用人四人、みんな顔に覚えのある者ばかりだ。
「今年はどの聖人なのでしょう?」
 公女は声をかけた。
「さあ、私どもも存じません」
「しかしこれは教皇庁への揺るぎない信仰の証、ぜひとも大切にして頂きたい、との殿下からのお言葉です」
 階段の踊り場を曲がるたびに、木箱の中で布に包まれているらしい像はゴトゴトと音を立てた。
 公女は自ら宝物庫の鍵を開け、運搬人たちはきらびやかな部屋の一角を選んで木箱を置いた。
「お役目ご苦労でした。いまは祭りの最中でみな酒が入っているので、後でゆっくり拝見することに致しましょう。そなたたちもゆっくり遊んでいってください」
 使いの者たちに金貨の入った小袋を渡し、宝物庫に鍵を掛けた。
 窓の外では、軽業師たちが高いポールの上によじ登り、ロープにぶら下がって振り子のようにくるくると回転している。
 公女は宴の席には戻らずに、女たちの輪にまぎれて城の外へ出た。

 ルナは日没までに城に帰った。
 農民たちや騎士たち客人たちへの挨拶もそこそこに、自分の部屋に戻って、買ってきた本を読み出した。
 それによると…
 リュウの使った術は、中国に古くから伝わる「気功」というもので、簡単に言えば体中の気を一点に集めて放出する、というものだった。彼の言った通り、修行の方法は大変そうだったものの、ルナは大いに興味を惹かれた。
 試しにちょっとだけ挿絵にあるポーズを数分ほどしてみたところ、かなり頭の中がスッキリしたような気になった。

 アイゼナッハの森に闇の帳が降り、客人が三々五々帰った後のこと。
 ワルトブルグ公女は、荷物を解くべく釘抜きと布切り鋏を持って宝物庫に入った。
 ところが、一分とたたないうちに部屋から出てきた。顔を真っ青にして。
「公女さま、どうかなさったのですか? 殿下から頂いた聖人像、家来たちに開けさせましょうか?」
 鏡の向うからルナが尋ねる。
「いや、それは後でいい。後でいいです!」
 いつもは温厚な公女が、半ば叫ぶように言った。
(アイゼナッハ公は、このあたりでも相当のやり手として知られている。公女さまはご病弱の上、父君であられるザクセン選帝公に早世されてからは、殿下にやいのやいのと求婚されている。そしてこれまで殿下の妻になった者は、公女様の姉君を含めて三人が三人とも、鍵の掛かった塔の部屋の窓から飛び降りるという不審な死を遂げている。これでは公女様が余りにもお気の毒と言うものよ!)
 鏡の中のルナは一人憤慨しながら星空を見上げた。

         三

 アイゼナッハ公からの返事は、驚くほど早く着いた。それには、
「喜んで頂けて当方としても祝着。ぜひ、貴城内にお贈り申し上げた聖人像が祀られているところを拝礼したく思う。たまたま明日鷹狩りに貴領の森をお借りしようと思うので、その帰りにでも」
 とあった。
「どうしましょう、ルナ? 時間があればあの木箱を開け、口が固くて腕が確かな職人たちを集めて元通りに直させるか、ソックリ同じものを作らせようと考えていましたが、いまとなってはそれはとても間に合いません。こんなことなら、すぐにあの箱を開けて修理に取りかかるべきでした」
 公女は、痛々しいほどに肩を落としていた。
「いいえ、公女様、あの箱は開けなくて正しいのです。人の口に戸は立てられません。いかに信用のある職人でも、誰かが口を滑らせたらおしまいで、すべての苦労は水の泡になります」
「それでは…」
「わたしには、殿下がどのようにして、宝物庫に入れるまではちゃんとしていて、入れてから数刻でバラバラにできたか、心当たりがあります」
「ですからそれは、『時間がたったら剥がれるにかわ』か何かを使ったのでしょう」
「それを言うためには、アイゼナッハ公がこちらに来るまで、あの木箱の封印を剥がさずに置いておき、殿下の目の前で開けてやるのです。仕掛けの入ったにかわの付着したかけらを突きつければ、公もグウの音も出ないことでしょう」
 ルナは片目をつむって見せた。

 その日の午後、ルナはお気に入りのチュニックとキュロットに着替えて、公女様の厩舎から馬を一頭引き出し、鞍をのせてひらりとまたがると、バシッと鞭を当て、疾風のように走り去った。
 馬上のルナは土煙を巻き上げて隣のアイゼナッハ領に入った。アイゼナッハ領では、今日が春祭りの日に当っていた。
 広場には、数日前にワルトブルグ領内から出発して行ったジプシーたちのサーカスの天幕がしつらえられていた。
 楽しそうに行き交う人々、屋台の物売りに見せ物小屋なども、ワルトブルグと余り代らない風景だった。
 彼女はそのうちの一つ、
「指一本触れることなく、大の男を吹っ飛ばす」
 というのを見つけて入った。
 中では、リュウがワルトブルグの時と同じように、「気功」でアイゼナッハの男たちを吹っ飛ばしては、薄っぺらい本を売っていた。
「もう、挑戦されるかたはいらっしゃいませんか?」
 ルナは静かに手を挙げながら舞台へと上がった。
「おい、あいつ女だぞ」
「大の男でもかなわないのに、莫迦じゃあないか?」
 客席のざわめく中、ルナはリュウにニッコリと微笑んで見せた。
「おや、お嬢さん、もう奥義を修得できたのですか?」
「少しは練習してきたから、一手御指南頂くわ。…でも。あなたは達人、わたしは初心者なのでハンデをつけて」
「いいですよ」
 ルナは、盾置きで支えた大振りの四角い鋼の盾を、自分とリュウのあいだに置いた。
「わたしが盾を持ったら、たぶん盾ごと吹き飛ばされると思うから、ここに置かせてもらうわ」
「結構ですよ」
 少年は、神秘的な微笑みを浮かべて少しも動じない。
 ルナはゆっくりと深く息を吸い込み、腰を溜めながら両手を前に差し出した。
 自分だけ盾から飛び出して気を放ち、リュウが放ち返せば素早く盾の影に隠れよう、という作戦だ。
「あのハンデがあれば、案外太刀打ちできるかもしれないぞ」
 見物人の男たちは、角杯に入った酒を口にしながら思わず身を乗り出してきた。
 ところが彼らの後ろには、一団の怪しげな人影が、それぞれ剣の鯉口を切って集まり始めた。
 十分に気を溜めたルナは、野ウサギのように素早く、盾の陰から身を躍らせて術を放った。
 それは見事に相手の肩先をかすめ、リュウは二三歩後ろによろめいた。
「おおっ、やるじゃないかあの小娘!」
 踏みとどまったリュウは、ルナが隠れた盾に狙いをつけた。
「おい、あの東洋人の少年、盾を吹っ飛ばすつもりだぞ」
「あんな重たい盾を飛ばしたらあの娘、ケガをしてしまうかもしれないぞ」
 一同固唾を呑んで見守る中、リュウは「たあっ!」という掛け声とともに気を放った。
 盾は微動だにしなかったのに、その真後ろに隠れていたルナは宙に飛ばされたが、これまたひらりと回転し、スタッと見事に着地した。
 盾で弾かれた分の念は、回りの天幕を暴風のようにはためかせ、そのうちの何枚かを吹き飛ばした。
「あなた、盾の向う側のものも飛ばせるのね? すると、箱の中にあるものを箱を壊さずに壊すこともできるわけ?」
「できますとも。しかし、それはありとあらゆる術の中でも、最も高度なものなので、誰でも極められるものではありません」
「その本にも載っていない難しい術を誰かに教えたことがある?」
 ちょうどその時、見物人たちの後ろに隠れていた十人あまりの屈強な男たちが、顔に覆面を付け、剣をスラリと抜きながら、バラバラと舞台の両袖から躍り上がってきた。
「何よ、あなたたち?」
「問答無用、やれ!」
 襲撃者のうちの首領らしき長身の男が命令した。
 見物人たちが蜘蛛の子を散らすように逃げるなか、リュウは最初に飛びかかった男の腕をねじり上げ、簡単にそいつの剣を奪って構えた。 ルナも舞台の上にあった盾を振り回して襲撃者の剣を払い落として、ちゃっかり自分のものにした。
「よせ! こいつは餓鬼とはいえおまえたちの手に負える奴ではない…」
 長身の男が命じると、手下たちはすごすごとリュウを取り囲んでいた囲みを解いた。
 彼らに代って、一歩二歩と踏み出した男は、ヒリヒリするような殺気をみなぎらせていた。
「お嬢さん、早くお逃げなさい!」
「しかし… あなたは?」
「早く! あなたは希望に輝いているのだから!」
 リュウの声には有無を言わさぬ凄みがあった。
「いやよ!」
 ルナは手にした剣に捨てられていた鞘をかぶせると、手下たちに向かって正眼に構えた。「ええい、あの東洋人の餓鬼はともかく、こんな小娘一人に何をビビっているんだ! 一斉にかかれ!」
 手下どもの白刃の軌跡が幾重にも舞った。
 数拍後、それぞれ残心の構えのルナと、襲撃者たちが、ゆっくりと相手の顔を見上げた。
 ルナはキュロットが切り裂かれて、透けるように白い太股があらわになっていた。
 彼女はゆっくりと振り返った。赤い薔薇の刺青が、嫌でも一同の目に入る…
「あなたたち、この赤い薔薇を見たら、もう後戻りはできないわよ!」
 最初の一人が大上段に振り下ろしてきた。ルナはそれを横薙に払うと、強烈な肘鉄をそいつの鳩尾にお見舞いした。
「くはっ…」
 天幕に寄りかかりつつ倒れる。
 次は二人が左右から挟むような格好で袈裟斬りに切り下ろしてきた。
 ルナは身をかがめてそいつらの太刀先を剣の鍔ではじき返しつつ、つま先で相手の股ぐらを蹴り上げた。
「ええい、何をもたもたしている!」
 手下の一人が叫ぶ。
「あら、あとはどうしたのかしら?」
 また一人かかってきたが、ルナは自らの剣で相手の剣をからめ取り、天幕の天井高く舞い上げた。
 剣はくるくると回転しながら落下し、リュウと襲撃者の首領の真ん中にぐさりと突き刺さった。
「何をやっている! そんなならず者たちに構うな!」
 リュウがルナの戦いぶりに気をとられているあいだに、首領はリュウとの間合いをじりじりと詰めた。
 さらに一人、また一人とかかってくるのを、ルナは巧みな剣捌きと足蹴りで地面に沈めた。
 彼女の太刀筋を慎重に見極めていた最後の一人が満を持して踏み込んできた。
 ルナは大きく足を広げて踏ん張った瞬間、薔薇の刺青の奥がちらと見え、ほんの一瞬だがそこに気をとられた相手は、彼女の剣の柄でしたたか殴られて床に転がった。
 彼女が剣をカチリと鞘に納める頃には、手下たちは全員バタバタと折り重なって倒れていた。
「愚か者めらが… だから止めておけ、と言ったのに」
 長身の男は倒された部下たちを蔑みの目で見下ろした。
「何をぐすぐすしている! この男は雑魚たちとは違う! 早く逃げろというのが分からないのか!」
 リュウが叫ぶ。
「小娘待っていろ。この東洋人を始末したら、ゆっくりとおまえを片づけてやる」
「…確かに凄いヤツだけど」
 ルナは息を荒げて言った。
「二人でかかれば倒せるわよ!」
 長身の男はゆっくりと手にした剣に気を溜め始めた。かなり精力を込めているにもかかわらず、目から下を覆った覆面は少しも揺れない。
「では、行かせてもらうぞ」
 男が剣を一閃させると、もの凄いつむじ風が巻き起こった。
 目を開けていられないのはもちろん、相手がどこにいるのか、気配すら察せられない。

         三

 ふと目を覚ますと、ルナはアイゼナッハの森の、小川のそばに倒れていた。
 リュウは近くの巨木の根本に寄りかかるようにして座っていた。
 その木には、ルナが乗ってきた本来は公女のものである馬も繋がれていた。
「気が付きましたか? さあ早く、ワルトブルグの城まで逃げなさい!」
「リュウ、あなたは?」
(彼が着ていたシャツは、あんな赤い色だったかしら?)
 ふとそう思ったとたん、リュウは目を静かに閉じて、静かに前のめりに倒れた。
 ルナはリュウを抱えて馬の背に乗せた。
「この傷では、もう助かりません… 逃げるのは、あなた一人で良いのです」
「どうして、そんなふうに決めつけるの! わたしには無理でも、ワルトブルグの公女さまなら十分に可能だわ!」
「誰か! 早くこの少年の手当をするのです!」
 ワルトブルグの公女は瀕死の重傷を負った少年を長椅子に横たわらせて命令した。
 家臣たちがうろたえる中、戦乱の絶えない地域のこと、刀傷が専門の医者がすぐに飛んできた。
「こいつはかなりの深手じゃ。助けるのはちょっと無理かもしれんぞ」
「そんなこと言わないで! 彼が、リュウが助からないことには、この国が戦に巻き込まれるかもしれないのです。ひとたび戦乱が起きれば、何の罪もないみんなが、命の危機にさらされるのよ!」
「それでは、あのアラビアから伝わった医学書に基づく手術道具や薬などを使ってもよろしいので?」
「アラビアでも、何でもいいから使って! 足りない薬草や薬石があったら、わたしがアイゼナッハの森で揃えて来るから」
 医者たちはお互いに目を見合わせた。
 彼らの多くは、疫病などの研究をするため、刑死した罪人の解剖や、外国の優れた医学書の翻訳に目を通すことを望んでいたけれども、教会がそういうことを固く禁じていたのだ。
 公女直々の命令とあらば、医者たちもやらざるを得ない。
 さっそく手術が開始された。
「よかったわね、ルナ」
 久しぶりに自らの意思で家臣たちに命令を下した公女は、鏡の向うのルナに向かってホッとした表情をみせた。
「有難うございます、公女さま」
 鏡の中のルナは、勝鬨を上げる仕草をした。
「…明日はお互いに頑張って、ぜひともアイゼナッハ公の鼻を明かしてやりましょう!」

         四

 翌日、狩りの帰りのアイゼナッハ公がワルトブルグ城に立ち寄り、ワルトブルグの公女に面会を求めた。
 長身のアイゼナッハ公やその家臣たちの両手には、火縄銃とともにきょう狩ったばかりの兎や山鳥が握られていて、それらの流す血がポタポタと城の廊下の上にこぼれた。
(ひどい… ワルトブルグの森の動物たちをあんなに…)
 そんな公の一行を、物陰に隠れて見ていたルナは唇を噛んだ。
「狩りは、上首尾のようだったようですね」 出迎えた公女は、抑揚のない声で言った。
「あなたが狩りをしないせいで…」 アイゼナッハ公は、鷹のように鋭い視線を公女に向けた。「…森には動物たちがあふれていますよ」
「せっかく上機嫌のところ申し訳ないですが…」ワルトブルグ公女のほうも負けてはいない。「あの森で狩りをするのは、今日を最後にして頂きたいのですが」
「いいでしょう。…もっともあの森が、ずっと貴女のものであり続けたら、の話ですがね」 狩りのお供たちが具足を解いているあいだ、二人はそれっきり一言も言葉を交さなかった。「…さてと、それでは私も晩餐はわが城で供したい故、聖人像を拝見して帰ろうか」
「実はあの頂いた聖人像は、まだ宝物庫の中にあり、まだ開けてはおりません」
「ほぅ、それはまたどうしてですか?」
「荷物が到着してすぐ、何者かによって壊されてしまったからです」
「ほほぅ… さてはこのワルトブルグ城には、例の『ただ聖書と神だけを信じて、教会をないがしろにする不逞の僧侶や神学者ども』が潜んでおる模様ですな…
 ちょうど良い! きょうはたまたま鷹狩りの帰りゆえ、こうして完全武装の兵を連れております。たったいまから、このワルトブルグ城は、わたしが率いるアイゼナッハの将兵が治安保持を承ることにしよう」
「なんだと!」
 ワルトブルグの城兵たちの顔から血の気が引いた。
「いますぐ、私が贈った聖人像の犯人どもを引き渡さなければ、貴女がた全員が教会への反逆を起したと見なして、この場で成敗させて頂くが如何に?」
 アイゼナッハの将兵たちも狩りの獲物を放り投げて、剣の柄を握った。
「お待ちください。もったいなくも聖人像を壊した者には心当たりがあります」
 両軍のあいだに割って入った公女の声が響いた。
「…ほぅ、それは祝着。さっさと引き渡して頂こう。拷問にかけて仲間の名前を聞き出した上、全員火あぶりか車裂きの刑に処してくれる!」
「その前に、壊された聖人像を確認することにしましょう」
「もちろんだ。わたしも見たい。それぞれ護衛を三名づつ付けて、置いてある場所に行こう」
 アイゼナッハ公は、自ら屈強の側近を三人選んだ。
「わたしは一人でいい」
 公女の言葉に、ワルトブルグの兵士たちはいきり立った。
「公女さまがお一人になられたら、こいつら狼のように襲いかかるのに決まっています!」
「黙りなさい! アイゼナッハ公は貴族であり紳士です」
 公女は家来たちをしかりつけた。
「その通りだ、この無礼者どもが!」
「何をッ!」
 一触即発の空気を公女が鎮める。
「護衛が必要なのは、わたくしではなくて、アイゼナッハ公のほうだからです」
「何を莫迦な! 我らがアイゼナッハ公は、ヨーロッパじゅうにその名の知れ渡った武芸の達人でいらっしゃるのだぞ」
 公の兵士たちのあいだから嘲笑が漏れ、公本人も失笑した。
「たとえ城の隠し扉から、武装した異端の信者たちが百人飛び出してきても遅れを取るような私ではないが、鉄砲で狙われるということもあるかもしれないだろうから、ここはお言葉に甘えて三名従えさせよう」
 ワルトブルグの公女と、アイゼナッハ公、それに公の三名の部下が城の宝物庫に通じる長い螺旋階段を登った。
 その途中、窓から広がる深い緑に包まれた森、キラキラと輝く湖を見たアイゼナッハ公は、密かにぜひともこのワルトブルグも自分の領地にしてしまおうと誓った。
 やがて一行は宝物庫の前までたどりついた。
 公の護衛たちは油断無く辺りに気を配っているが、怪しい者が潜んでいるような気配は特にない。
 公女が手にした鍵束の鍵を差し込んで開けると、眼前にまばゆく輝く金銀財宝の山が広がった。アイゼナッハ公はそれを見て、これらの宝も全部我が物にしたくなった。
 そしてもちろん、問題の木箱が部屋の隅に立てかけてある。
(ああ、ルナ、早く出てきて!)
 公女は心の中でそう叫んだ。
「あれは確かに私がお贈りした木箱。封印もそのままだ。箱ごと床に投げつけて中身を叩き壊した不届き者がいる、ということですな」 公は木箱のそばに行って、まだ破られていない封紙を確かめた。
「いいえ。それは不可能です。中身が無事なまま到着した箱は、すぐにこの宝物庫に運ばれました。階段の下はごらんになった通り衛兵が詰めておりますし、すべての鍵を持っているのはわたしだけです」
「ほぅ、ならば箱を投げて中身を壊したのは貴女しかいない、ということになりますな」 長身の公は箱を抱えて振った。
 カチャカチャと、木片が触れ合う音がする…
「いいえ。他にも可能性があります。例えば、箱の中の聖人像は、この城に到着する前にすでに壊れていて、時間が来れば効果がなくなるにかわで張り合わせてあったとか、です」
「ほほう…」 アイゼナッハ公は眉を寄せた。「では、貴女は、他でもないこの私が、予め壊れている聖人像を。にかわか何かで張り合わせてから、貴女のところに送りつけた、とおっしゃるのですな?」
 公女は黙ってうつむくだけだ。
「──なるほど、それだったら大変失礼な話だ。しかし、もしそうではなかったら、貴女がアイゼナッハに無礼な疑いをかけたことになるのですぞ!
 いまここでこの木箱を開けて、もしも貴女がおっしゃるようなにかわが破片にくつついていたなら、わたしは二度とこのワルトブルグに足を踏み入れないことを誓おう。だが、そんなものがなかった場合、貴女はどうしてくれるのか?」
「このワルトブルグの城と土地の管理を、あなたにお任せします」
 公女は小刻みに震える声で言った。
 アイゼナッハ公は黙って腰の短剣を鞘から抜いて、封紙を破り去り、木箱の蓋を開けた。
 木箱の底には、いくつもの鋭い破片に割れた木造のかけらがたまっていた。公はそのうちの一つを手にとって、公女の目の前に示した。
「どれでも、いくらでもとくとご覧あれ。この破片のどこに、にかわや他の接着剤が塗ってある?」
 無論、そんなもののあとはどこにもなかった。
「さてと、約束をお忘れではないでしょうな…」
 ようやく騒ぎを聞きつけた公のほかの部下たちと、公女の家臣たちがどやどやと階段を上がってきた。彼らの先頭に立っていた上半身に包帯を巻いた上に上着を羽織った東洋人の少年が一同を制して立ちふさがった。
 きのう、瀕死の重傷を負ったところをルナによって担ぎ込まれたリュウだ。
「待て!」
「なんだ貴様は?」
 公の三人の従者は、スラリと剣を抜いて身構える。「箱を床に投げなくても、鍵のかかった部屋の外からでも、中身が壊れやすいものならば壊すことができる!」
「ほぅ、それはどうやって?」
「気功術だ。扉の外から強力な気を送ってやれば、扉も箱も突き抜けて中の木造だけを壊すことができる」
 まだフラフラと足下がおぼつかないリュウを公女が駆け寄って支えた。
「そんな凄い術があるのなら、たったいまここで見せてくれ。いますぐやって見せられなければ、貴様を虚言の罪で斬る!」
 アイゼナッハ公は、宝物庫の中に転がっていた大き目の壷を木箱に入れて、元通り蓋をした。
 リュウは荒い息を懸命に整え、両手を静かに回転させて型を組み、気を放った。
 箱の中で、ガシャンと壷が割れる音がした。
「なるほど… そういうこともあるらしいな。しかしこんな技は誰にでもできるという訳ではない。この東洋人の少年が、聖人像を破壊した犯人だ!」
 アイゼナッハ公はリュウを指さして叫んだ。
「それは、ありえません」
 公女は静かに言った。
「なぜ? どうして?」
「箱が届いた祭りの日の午後には、彼はずっと見せ物小屋で自分の技を披露していたからです」
 さしもの公も喉が詰まった。
「これで分かって頂けたでしょう? 像を壊したのはリュウではない。ましてや城に潜んでいる異端の信徒でもない。あなたはたったいまおっしゃいましたわね。『こんな技は誰にでもできるという訳ではない』と。
…ところで、アイゼナッハ公、ヨーロッパじゅうに武芸の鳴り響いているあなたこそ、本さえ読んで稽古練習に励めば何でもおできになるのでは?
 あなたならば、城の中庭で芸を披露していた軽業師に金を渡して紛れ込み、わたしたちが去った後、窓の桟に飛び移って術を放つことができたのでは?」
 公はすぐには言葉を継げなかった。
 それから「コホン」と小さな咳払いをしてから続けた。
「一体何のことを申されているのか、さっぱり分かりませんな、公女さま。強いて解釈すると、わたしがその気功とかいう術を修行して、扉の向う側の木箱に入っている木製の聖人像を壊して、公女さまに言いがかりをつけた…ように聞こえますが、まさかそんな突拍子もないことを言い出したりはされませんでしょうな?」
「ぼくは確かに貴方に本を売った記憶があります」リュウは静かに言った。「…あれは三年前の春のことだ。二年前と去年の春、アイゼナッハで天幕を張らせて貰った時は、見せ物がハネた後、質問にも訪れた。その時の質問もかなり高度なもので、もしかしたら奥義を究めた者にしかできない事柄に関してだった。ところが、貴方の目は邪悪な欲望の光を放っていた。ぼくは後悔した。(これ以上自分の技を見せ物にすることを続けると、貴方のような邪な者の手助けをすることになりはしないかと… そして自分のことが嫌になり…」
「小僧、下賤の分際で、いい加減なことを申すな! 本は祭りがあるたびに何冊も売っている。質問する奴だって、大勢いるだろう!」
 アイゼナッハ公は、公女のほうを向き直ると、途端に穏やかになって続けた。
「公女さま、まさかこんな異国からの流れ者の言うことをお信じにはなりませんでしょうな?」
「おちょくるのもいい加減にして!」
 公女はガラッと口調を変えた。そしてそのへんに転がっていた木箱に右足を乗せ、右手でスカートをたくし上げて白磁のような太股の内側に彫られた深紅の薔薇を見せた。
「──わたしは見てなくたって、この真っ赤な薔薇が、見せ物小屋にいたリュウを、あなたたちが襲って大怪我させたことを見ているんだ!」
 アイゼナッハ公の両目は、これ以上は無理というくらいに見開かれた。
「まさか…あの時の小娘が公女さま…」
「そうだよ! ワルトブルグ城の末娘ルナは、じゃじゃ馬のお転婆公女なのさ! …まだ何か言いたいことがある?」
 静寂の中、公の歯ぎしりが響いた。
「もはや…これまで!」
 公と部下たちは一斉に剣を抜いて、公女とその家臣たちに斬りかかった。
 ルナとアイゼナッハ公が火花を散らし会って打合うこと数合、塔のてっぺんにあるバルコニーまでやってきた。
「おまえは、同じ方法でわたしの姉上を自殺に見せかけて殺した、そうだろう?」
「ふん、こうなったら教えてやる。その通りだよ。武芸万能のオレは、あのリュウとか言う餓鬼の本を読んで独習で奥義まで辿り着いたのさ。あの餓鬼さえ殺してしまえば、奥義を使えるのはヨーロッパじゅうでオレだけになったはずだった」
 ルナは腰までしかない低い壁際に追い詰められた。下を覗くと目もくらむ高さ。眼下には城の敷地のアイゼナッハの森が広がっている。
「あなたには決して狭くない領地と、少なくない財産があるというのに、どうしてあの可哀想な外国人の少年の命を狙うの?」
 ルナは公が乾坤一擲の勢いで振り下ろしてきた太刀をかろうじて受け止めた。
「わたしは苦労して技を身につけた。だからこれ以上この『気功』とか言う術を知る奴が増えては欲しくないんだよ」
「たったそれだけの理由で?」
 ルナの頬が朱に染まった。
「あの時奴を仕留めておけば…」 公は目にも止まらぬ早さで突きを繰り出しつつ言った。「ワルトブルグが手に入った、そうだろう?」
 公はまっすぐ、鋭く踏み込んで剣を突き下ろした。
 間一髪、ルナはそれをかわしよけて、右手一本で壁にぶら下がった。
 勢い余ったアイゼナッハ公は、踏みとどまることができず、長い悲鳴を残して真っ逆さまに落ちて行った。
「やりましたね! 公女さま!」
「みんなあいつらが悪いんだ!」
 主君を失って尻尾を巻いて逃げ散るアイゼナッハの家来たちを見て、ワルトブルグの家臣たちは勝鬨を上げた。

 そしてまた、アイゼナッハの森に夜の帳が降りた。
「早急にわがワルトブルグの領地を立ち去ってくれるとのこと、まことにすまなく思います」
 公女は、リュウの手を握り締めて言った。
 リュウがその手を振りほどいた途端、公女の頬が赤く染まった。
「せめて怪我を治してから行けばいいのに…」
 見せ物小屋のほうに戻ろうとするリュウを見送りに出たルナは、口ごもりつつ言った。
「いえ、仲間は今夜、アイゼナッハの街を出発して次の巡業地へと向かうのです。今夜じゅうに合流しないと見捨てて行かれてしまいます」
「ではせめて馬を…」
 ルナが再び声をかけた時、駆けだした東洋人の少年はもう木立の中へと消えていた。
(あの少年…リュウも、東洋の小さな国の王子だったのかもしれない…)
 そんなことを考えながら満天の星を見上げると、アイゼナッハの森の梟がホーホーと鳴いた。





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