オリハルコン・ビースト

  新バビロニア帝国ネブカドネザル二世の治世の頃、都バビロンから少し離れたポルシッパと言う片田舎で他の娘達と共に羊の群れの世話をしていた少女エアは、鎧兜の上からすっぽりと黒い衣を羽織った謎の兵士達に投網で一網打尽にされ、窓のない馬車に詰め込まれて、どこか見当もつかない砦か出城の広間に連れて来られた。
  その際、エアはその兵士達に咬みついて、何人かの肉を喰いちぎったのだが、これは暫く関係者達の間で大概な噂として広まった。
  その砦には、隣の村や、隣の隣の村や、ずっと遠くの村から攫ってこられた一四、五歳の少女ばかり数百名が捕らえられており、熱気と啜り泣く声で、それは異様な光景だった。
  エアが、不安と心配の余り泣き濡れている友達を励ましていると、件の黒衣の兵士達が現れ、少女達一人一人の顔を値踏みしてから二つの集団に分けていた。
  エアは自分が入れられた方の集団には、ずば抜けた特徴の共通項があるのに気付いていた。それは、全員が百姓の娘であるにも関わらず、貴族の娘のように整った目鼻立ちで、物越しがどことなく上品で、色白で背が高く髪は縮れのない茶がかった金髪、瞳は菫色のメディア(現在のイラン)風の容姿をしているということだった。
  入念な調べの末、当該者以外は詫び料のつもりか、袋一杯の種麦を貰って、来た時と同様の窓のない馬車でさっさと帰されていった。
  後にはエアの他五、六人の良く似た少女が残された。彼女達は別室で奴隷女達によって一人一人風呂に入れられ、髪を梳かれ、衣服を身分の高い女性のそれに改められ、簪や指輪腕輪、足輪を与えられ、さらに入念に化粧を施されて、目隠しをされた上、再び馬車に乗せられ、何処かへ運ばれて行った。
  この間ずっと、彼女達は互いに話をすることを禁じられていた。
  下の道が瀝青で舗装されているせいか、馬車がまるで雲の上の道を走っているかのように揺れなかったので、エアは自分達が今バビロンの都、それも身分の高い人々の住んでいる区画に進んでいることを知った。
  途中イシュタール門とおぼしき大きな門のところで衛兵達の検問があった。その後も馬車は何度も止まったが、その度に直ちに発車したので、エアはますます『これは相当偉い人の指図に違いない』  と確信した。
  エアの予想は見事に当った。
  馬車を降りるように命令され、そのまま小さな小部屋のようなところに押し込められると、彼女達はその小部屋が丸ごと上昇して行くのを感じた。別の所で屈強の奴隷達が綱を引っ張り、小部屋ごと高く持ち上げているのだ。
  少女の一人が小さな悲鳴を上げると、黒衣の兵士の隊長が「案ずるな。上に上がっているだけだ。階段を上がると丸半日かかるのでな」  と呟いた。
  上に到着したところで、ようやく少女達は目隠しを取ることを許された。
  目を開いたエアは「アッ」と驚きの声を上げた。
  そこは緑豊かな、エア達が見たこともないような花々の咲き乱れる広大な庭園だった。庭園はゆるやかな階段状になっており、松、糸杉、ビスタチオ、杉などの他に柘榴(ザクロ)、花梨(カリン)、杏(あんず)無花果(イチジク)、檸檬(レモン)などの果樹が植えられ、噴水があり、水が流れ、草が茂り、小鳥や栗鼠が飛び回っていた。
  目の前には湿地の国で生まれ育ったエア達には、話でしか聞いたことのない、乾いた茶色の土の、遥か遠国の風景が広がっていた。
  しかし、その庭園の遥か下、箱庭のように見えるのは、都バビロンの建て込んだ町並みと、二本の大きな目抜き通りと、二十四本の大通りが直角に交差する市街地を蟻のように行き交う人々や荷車だった。
「話し掛けられる迄話掛けてはならぬ。おまえ達の方から質問してはならぬ。問われたことだけに答えるのだ」
  黒衣の男が覆面を取ると、耳も鼻も少々掛けている刀傷だらけの顔が現れた。
  エア達が平伏の姿勢で待っていると、絹擦れの音と共に一人の男が現れて、庭園の四阿の籐椅子に腰を降ろした。
  と、エアはいきなり顔を上げ相手の顔を睨んで言った。
「どこのどなたか存じませんが、盗賊でも人攫いでもなく、ご身分のある方にしては余りに御無体…」
「こら、恐れ多くもネブカドネザル今上陛下に対して無礼であろう」
  傷の男が佩刀をスラリと抜いて、目にも止まらぬ速さでエアのうなじにピタリと当てた。「止めろガリ、剣を鞘に収めろ」
  鋭くそう命じる王の目は、エアの顔に吸い寄せられたままだった。
「見事だ、よくぞ捜して来た。もう他の娘は下がらせて良いぞ。この娘に決めた」
「御意」
  将軍ガリは怯え震える他の少女を率いて来た道を戻って行った。
  その一瞬、エアは少女達の伏せがちな顔をチラリと見て驚いた。みんな自分にそっくりな顔をしていた。
『私は誰かの身代わり、替え玉なんだ』
  そう理解してもう一度相手の顔を見る。
  長身で鬚だらけの顔には、ガリと同じく向こう傷があったが、ガリよりは優しく気品のある眼をしていた。
「気の強いところまでアミテスにそっくりだ」
  男は黄金の酒盃になみなみと注がれた麦酒を一気に飲み干し、鬚に付いた泡を拭った。「私はエア、ポルシッパの族長の娘。貴方は誰ですか」
「余はカルデア人にして初代新バビロニア王ナボポラッサルの正統の嫡子、現新バビロニア帝国の王ネブカドネザルだ。ポルシッパの村長(むらおさ)にはたった今使者を立てた」「王様、私もポルシッパに帰して下さい」
  エアはお仕着せの紅玉の指輪や細密な象眼の施された金銀の腕輪や足輪を自ら抜いて、王の卓に置いた。
「エアよ。頼む。愛しいアミテスがジュエル・ビースト(宝石獣)に狙われておるのだ。戦うのは勿論我が近衛の最精鋭が戦うから、力を貸して欲しい」
  王は立ち上がり、自らエアの手を取って懇願した。
「何ですか、その『ジュエル・ビースト』と言うのは?  宝石を狙う化け物ならば、宮殿の宝物庫に山のようにある宝石を食べさせてあげればいいでしょう」
  エアは両手で籐の卓を叩いた。黄金の酒盃も、返した指輪も跳ねて地面に落ちた。
「『ジュエル・ビースト』と言うのは…」
  王は落ちたものには目もくれずに言った。「伝説によると、その国で一番の美女を貪り食うことだけを楽しみに、何千年このかた生きている魔獣だ」
★
  とその時、空中庭園の最上階付近から絹を引き裂くような悲鳴が聞こえた。
  王とエアは先を争うようにして階段を駆け上がった。
  途中の衛兵の詰所では、乳房を鏝で焼き、男物の鎧兜に身を固めた、雲を突くようなアマゾネスの女戦士が一撃で喉を喰いちぎられ、折り重なるようにして絶命している。
  鍛え上げた屈強の身体も空しく、剣や槍を鞘から抜く間もなかったようだ。
「アミテス!」
  王は自ら剣を抜き、開け放たれたままの黄金の扉の向こうに飛び込んだ。
  エアも倒されたアマゾネスの武器の中から比較的小振りの懐剣を奪うと、腰帯に差しながら王に続いて建物の中に入った。
  王は天蓋の付いた紫檀の寝台の上の、白絹の海に倒れている少女を助け起こしていた。「アミテス、アミテスしっかりしろ!」
  エアに瓜二つの美しい少女アミテスの繻子の寝間着には、点々と、血痕が付いていた。
  寄木細工の木の出窓は外に向かって開かれ、エアが懐剣を構えつつ油断なく左右上下を
伺ってから外を覗くと、真下の花畑に大きな獣が着地し、逃げ去った痕跡があった。
「でも相手はどうやってここまでやって来ることが出来たのでしょう。要所要所の警備は厳しいし、いくら素早い化け物でも、部下の手練れの方々には気配を感じられるでしょうに…」
「言い忘れていた。ジュエル・ビーストには独特の術がある」
「『術』?」
「そうだ。奴はこの世のありとあらゆる宝石、上は鳩の卵くらいの宝玉から、下は硝子切りに使うような小さな金剛石に迄、自由自在に変身できる。だから、アマゾネスの衛兵共には、ここにいる間は決して宝石を身に付けぬように申し伝えてある」
  エアが『もしや』と思って、衛兵の詰所に戻り、最初にやられたらしいアマゾネスの鎧を脱がした。
  すると、思った通り、鎧の外側にはまるで傷がないのに、鎧の中の頑丈な肌には、爪で深く引っ掻いたような傷跡があった。
  エアはこの女戦士が見回りの途中、怪しい宝石を見つけて、後で届けるか、それとも
黙って自分のものにしてしまったか、一旦懐にしまう姿を想像した。
  ジュエル・ビーストは得意の宝石に変身し、この女衛兵に拾われ、ここまで戻って警備に着いた時に正体を現し突如『鎧の中から』彼女の喉を食い破ったのだ。
『例え「何も拾うな、怪しい宝石は直ちに届けろ」と厳命されていても、この人達が一生真面目に働いても貯えられないだけの価値のある宝石に変装していたら…』
  エアが瞑黙し首を垂れていると、近衛隊長のガリが剣を振りかざしつつ、二三人の側近を連れて走ってきた。
「こ、これは!  またしても!」
  ガリは遺体を一蔑しただけで中に入った。『防ぎ切れない…  人間に欲がある限り、
他人にジュエル・ビーストから守ってもらうことは不可能だわ』
  エアはお仕着せのヴェールを引き裂き、それで懐剣を足の脛に縛りつけると、部屋に
戻った。
  幸いネブカドネザル王の幼い妃アミテスは命に別状はなく、夫の逞しい胸の中で啜り泣いていた。
「ご安心下さい、アミテス様。また、このようにお妃様そっくりの頑丈な身代わりを連れて参りました」
「私は…  私はもうこれ以上私自身が惨い方法で殺されているのを見るのは嫌でございます」
「アミテスよ、気をしっかりと持つのだ。バビロニアの王としても威信に賭けても、いや、例え王でなくても、一人の戦士、夫として、そなたは余が守り抜いて見せる」
「では、ジュエル・ビーストを倒し葬るまで私のそばにいて下さい」
  甘えるアミテスの白い肌はほんのりと朱に染まり、薄く潤んだ黒い瞳はどんな宝石よりも美しかった。
「余もそうしていたいのは山々なのだが、決済しなければならぬ国事も山積しておる。これ迄通り、如何なる金銀宝石にも目の眩まぬ忠誠無比の近衛兵、アマゾネス兵士を付けるので、奴を倒す方法が見つかる迄もう暫くこらえて欲しい。既に事実は十分にアマゾネス兵士達にも広まったことと思う故、このようなことはこれが最後と…」
  やがて女官達が着替えを持ってやってきて男達とエアは外に放り出された。
「陛下、では我々は早急に新たな方策を」
  ガリ達は王と仲良く並んで歩くエアを目尻を震わせつつ眺めながら下がった。
  王と妃アミテスそっくりの扮装をしたエアは、庭園を散策した。
「アミテスはそれでなくとも遥か遠いメディアから輿入れしたばかりで、不安で寂しい思いをしている。余はそんな彼女の慰めになればと、緑豊かな彼の地の森に似せて、この空中庭園を造営させた。床は鉛と瀝青で固め、奴隷達によって昼夜の別なく河の水を汲み上げて流れるようにし、その上に肥沃な土をふんだんに客土し、人に害のない木や草を植え、害のない小さな動物を放してある」
  バビロニアの他の土地でも滅多に見られない数多の年輪を数えた広葉樹から漏れる木漏れ日が、度重なる憂いの為か急速に年老いたように見える王の顔を照らした。今は小鳥達の囀りも、噴水の水音も、まるで慰めには
ならない様子だった。
「ジュエル・ビーストは、本当にお妃様が国一番の美しいお方だから狙っているのでしょうか。ジュエル・ビーストに本当に一番美しい女性を見定める能力があるのなら、いくら似ているとはいえ身代わりの影武者などには惑わされないはずです」
  エアは花園の中から一輪の百合の花を手折って言った。
「実は余もそれは深く疑念に思っておる。これ迄にりディアから付き従ってきた者を含め、二十余名もの替え玉が奴の餌食になっておるのだが…」
「二十人もですか」
「それも皆、全員、盡く下腹を鋭い爪で裂かれ、臓腑をひきずり出されていた」
  エアは大きく開いた口を思わず手のひらで押さえた。
「ジュエル・ビーストは、実際には最も美しい女を見る目などないのやも知れぬ。だからこそ何度も偽物にたやすく騙された。奴は本当は、単にわが新バビロニアとりディアの友好関係にひびを入れ、妨害するよう、アミテスを暗殺するように敵国の魔導士に命じられた化け物なのかも知れぬ」
  王は処所たなびく雲に隠れながら、眼下に広がる宮殿、大神殿のある塔(ジグラト)、迎賓館、閲兵を行う広場を眺めて溜め息をついた。
「だが、奴は全てを悟っていて、意地悪く我々が仕立てる替え玉を片っ端から殺しているようにも思える。全ての策を打破したのち、すっかり打ちのめされた余の前で、妃を殺すことを楽しみにしているのやも知れん。もしそうであれば、まるでお手上げだ…」
「私は絶対に殺されません。殺されてたまるものですか!」
  エアは叫び、戦士か魔導士のように片膝をついて臣下の礼を取り、うやうやしく一礼した。
「すると、アミテスの身代わりを演じてくれるのか」
  王は思わず口元を綻ばせた。
「勿論。訳をお聞きしたからにはお断りできません」
「かたじけない。無事大役を勤め上げた暁には褒美は思いのままぞ」
「僭越ですが、褒美が目当てではとてもこんなお役目は出来ません」
「そうだな。では何故」
「私の父は、引退する前はとても勇敢な戦士だったと聞いております。御家臣のガリよりも大きな沢山の傷が顔にあります。背中には一つもございません。父は陛下の父君ナボポラッサル王と幾多の戦場を駆け巡って得たものです」
  エアが誇らしげに答えた瞬間、近くの茂みから突如として豹ぐらいの七色に光り輝く獣の形をした影が飛び出したかと思うと、矢のようにエア目がけて襲い掛かった。
「エア!」
  王は目にも止まらぬ早業で剣を抜き、駆け寄ったが、獣の速さはそれを上回り、エアにかぶさりかけた。エアは脛に隠していた懐剣を抜き、獣の口目がけて突き上げた。
  だが、懐剣は獣の長くずらりと並んだ半透明の牙に当ってポキリと折れた。
  王は大きな剣で獣の腹に斬り付けたが、これもまた払い退けただけで傷を負わせることはできなかった。
  王とエアがまじまじと化け物の姿を見ると、それは全身宝石の帷子を着ているかのように各種無数の宝石がキラキラと輝いていた。
  中でもその瞳は、右が燃えるような紅玉で左は氷のように澄んだ碧玉だった。
「奴がジュエル・ビーストか。鋼の刀も刃が立たぬではないか」
  王もまた自らの欠けた剣を気にしながら、エアをかばうように化け物ににじり寄った。
  エアは羊達を呼び集める時の鋭い指笛を吹く。庭園のそこここを守備していた近衛の兵士やアマゾネスの衛兵達がおっ取り刀で飛んできた。
  ジュエル・ビーストは一対多数の立ち回りをする気はないのか、そのままひらりと身を翻して逃げた。
「逃がすか!」
  エアは王の腰から懐剣を奪うと、獣の後を追いかけた。
「よすんだエア、例え追い付き追い詰めたところで、奴をどうやって倒すのだ?」
  王の回りにはたちまち警備兵が十重二十重の盾のように取り囲み、彼等一同身動きできなくなってしまった。
  エアは風のような身のこなしで、暫くは花園や森や林の間に見え隠れするキラキラ光る派手な獣を追っていた。
  少し見失っても、柔らかく常に水分を補給されている肥沃な盛り土の上には点々と足跡が残っている。
  だが、その水を送り出している人工の川、泉のところ迄来ると、それらの足跡もふっつりと途絶えていた。
『案外頭のいい奴ね。川伝いに逃げれば足跡は残らない。加えて、宝石の姿で川床のさざれ石にでも変じていれば、いくらでも休息することが出来る…』
  エアがふと上層階を見上げると、そこには先ほど四阿に隠れているところを狙われたばかりのアミテス王妃が、東の方角メディアの空を眺めながら彼女の国の調べを口ずさんでいた。
「アミテス王妃、一体どうなさったのです?
  警備のアマゾネス共は?  こんなところに一人でおられて万一のことがあったらどうなされるおつもりですか」
  エアはアミテスに駆け寄り、油断なく回りに目を配った。
「そなたか。私の新しい替え玉として連れてこられた娘というのは」
  アミテスは消え入りそうな声で言った。
「エアと申します。ネブカドネザル陛下の新バビロニアがメディア及び他国と永久の友好を保ち、無益な戦によって民の泣くことの無きよう、お守り申し上げます」
  エアは改めてアミテスの顔や身体つきをまじまじと見た。自分とそっくりの人間と同じ場所にいる、というのはやはり奇妙な感じだった。
『もっとも、身分のあるお方というのは、そういうことにも慣れっ子になっているのかも』「アミテスでよい。私はあのアマゾネス共は嫌いなのです。百戦練磨の戦士かも知れませんが、見るからに暑苦しい」
  エアですら目のやり場に困るような紗の衣をふわりと羽織っただけのアミテス…  肌の色はエア達と同じく抜けるような雪花石膏色。瞳は菫色で、その身体は小鳥のように華奢で、大地の女神のように豊かだった。
「エア、そなた命は惜しくないのか。それとも男どもに夢のような褒美を約束してもらったのか?」
  アミテスは空中庭園最上階を吹き抜けるティグリスとユーフラテス、両河の爽やかな風に、異国の紫がかった黒髪をなびかせ、バベルの塔イシュタールの神殿から飛来した
まっ白な鳩達と戯れていた。
「正直に申しますと、私は王様や貴族の方達が余り好きではありません。年貢は厳しいし神々のお告げで戦を勝手に始められた日には、迷惑するのは私達下々の者です」
  エアはうつむき、ユーフラテス河を染める夕陽と、行き交う船を眺めた。
「私も嫌いです。もしもメディア王キャクサレスの娘などに生まれなければ、こんな地の果ての遠い国に嫁がずとも良かったのです」「何をおっしゃいます。メディアのキャクサレス陛下と新バビロニアのナボポラッサル、ネブカドネザルの両陛下は、共に力を合わせて、アッシリア帝国を倒した盟友ではありませんか。
  王様達が滅ぼして下さったアッシリアは、逆らう者は皆煮えたぎるアスファルトに沈め、生きたまま生皮を剥いだり、串刺しにしたりとにかく恐ろしい国でございました」
「それを言うのなら、我が良人ネブカドネザルも、北方のユダ王国や埃及の同盟都市テュロスに対して大いに野心を燃やしています。私を妻に迎えたのも、メディアとの友誼の為ではなく、よその国を攻める前に後顧の憂いを無くしておく為です。ユダ王国やテュロスを征服すれば、その次にはその牙は我が祖国メディアに向けられることでしょう。
  王妃としての私がいくらお願いしても聞き届けてはくれないのです。人間とはかくも弱者をいたぶりたいものなのでしょうか。ならば私も同じように振る舞うのみです」
  アミテスは空中庭園の高楼に陰を作っている棗ヤシの花を手折って髪に差した。
「そんな…」
「良人ネブカドネザルは貴方にジュエル・ビーストの正体について話ましたか?」
「いえ」
「でしょうね。ジュエル・ビーストの正体は、王がニネヴェ陥落の際に略奪したと言われる謎の宝石です。それは多分今も王の宝物庫のどこかに保管されているはずです」
「そこまで分かっているのなら、どうして砕くか封印してしまわないのですか」
  エアは大きく目を見開いて、自分そっくりの王妃の目を見つめた。
「その宝石『ジュエル・ビースト』は持ち主の野望を叶えるという伝説があるのです。
  その伝説があるばかりに、良人はその怪かしの宝石を処分し切れずにいるのです。例え妃がしつこく狙われていると分かっていても…」
  エアは思わず眉を引き締めた。
  如何なる化け物よりも、獣よりもおぞましい権力者の思惑…
「エア、決して悪いことは言いません。私や国のことを思ってくれる気持ちはかたじけないのですが、一刻も早く替え玉などは辞退して、早々にこの宮殿を立ち去りなさい!」
★
  その夜、エアは宮殿後宮のアミテスの正式の部屋で、王腹心の女官長と宦官長から即席の王妃としての礼儀作法と読み書きを習った。女官長は、エアがほどなく先の二十余名の替え玉と同じ運命を辿る運命と信じて同情し泣いてくれたが、宦官長は『三日生きればいい方だ』と言った顔で、指導もいい加減だった。
  窓なき煉瓦の壁の果てに満天に銀河が冴え渡る頃、彼等はしずしずと下がり、扉には鍵が掛けられた。鍵は王と彼等しか持っていない。万一の時には宮殿じゅうに響くような大きな硝子のベルを鳴らす手筈になっている。
  エアは黄金の燭台の上で煌々と燃える臘燭に照らし出された部屋にふと故郷の家の事を思った。床は希臘から取り寄せた大理石、煉瓦の上に雪花石膏(アラバスター)を塗り、天上の生き物を浮き彫りにした壁、家具は黒檀か紫檀、観音開きの箪笥の中の衣装は東方の最高級の絹。中国から取り寄せた青磁の香炉からほのかに香ってくる没薬は夢見心地にした。
『そう言えば先ほどの夕食も、見たこともないおいしい魚や、印度の高価な香料をふんだんに効かせた肉だった…』
  生まれながら王の娘で、このような生活には慣れているだろうアミテスと違って、エアは興奮の余りに寝疲れず、全ての扉や抽斗を開けて回った。
  霞か霧のような薄いヴェール、愛妾に負けず王の寵愛を得るための媚薬の入った色とりどりの香水の瓶、刺繍入りの手巾や下帯などの輿入れの小物の奥に、ちょっと見たところは分からない隠し場所があり、そこには手のひらに乗るぐらいの小さな、螺鈿に象眼細工を施した宝石箱があった。
『宝石箱…』
  エアはそれを取り出し、臘燭の明かりの下でまじまじと見つめると。象眼細工の模様は北方のグリフィンや希臘のミノタウロス、地中海のメデューサや、このバビロンのイシュタール門にも飾られている騏麟や獅子などで、今にも箱から逃げ出しそうなぐらいに生き生きと描かれていた。
『王妃様の宝石箱にしては奇妙な装飾…』
  エアは開けて見ようとしたが、箱には鍵がかかっていた。
『やっぱり他人のものをあれこれ詮索するのは良くないわ』
  そう思って箱を元に戻そうとすると、箱の中から囁くような声がした。
『助けて…』
  エアは驚き、思わず箱を落としそうになった。
「誰?」
  しかしいくら耳を澄ましても、もう声は聞こえなかった。
『空耳だったのかしら。でも…』
  エアは髪止めを一本外すとその先で宝石箱を開けようとした。しかし、手先の器用な彼女が夜更けまでかかっても、その小さな鍵は開けることができなかった。
  部屋の隅の漏刻が真夜中を告げた頃、王が部屋の戸を叩いた。
「エアよ。眠っているのかね。何も変わったことはないかね」
  エアは慌てて宝石箱を懐に隠し、寛衣をまとった。
『このことはアミテス様に直接伺わなければ』
  その時、またしても懐の宝石箱から消え入るような声がした。
『騙されないで…』
  再びその声を聞いてから、アミテスは背筋に冷たいものを感じた。
『そう言えば女官長や宦官長は私が三日も持てばいいような悲しい、突き放したような顔をしていた。ジュエル・ビーストがアミテス様の替え玉を片っ端から殺すことを楽しみにしているのなら、今夜すぐに襲ってきても不思議じゃない』
  エアは大急ぎで箪笥の中からアミテスの衣装を一抱え取り出し、それを人の形に丸めて寝台に乗せ、布団をかぶらせた。それからいくつもの香水を全部硝子の水差しにまとめて入れて片手に持った。
  さらに火の付いた臘燭を箪笥の中に入れ、ほんの少しだけ明かりが漏れるように戸を緩く閉め、自分は寝台の下に隠れた。
  その間際、エアは扉の隙間から床の大理石を伝って一筋の血が部屋に流れ込んでくるのに気が付いた。
  カチャカチャと本当の鍵でないような鍵の回る音がし、しばらくすると扉がスッと音もなく開いた。
  入ってきたのはネブカドネザル王だった。『鍵が本物だとすると、王様…  偽物の合鍵だとすると、王様も偽物…』
  エアは寝台の下で息を潜める。
「エア、ぐっすり眠っているらしいね。大した度胸だよ。今までの他の替え玉はみんな起きていて震えていたと言うのに」
  王は寝台に近付き、傍に立った。
「お陰でやりやすいよ。こんなことならわざわざ王の姿になることもなかった」
  布団の上に両手をかざした王の爪が突如長く伸びたかと思うと、布団をかぶった人形を串刺しにした。錐のように尖った爪の先端は綿菓子ほどの厚みのある寝台の敷き布団を突き抜けて、エアの隠れている隙間まで到達し、エアは素早くそれをよけた。
  手応えのないのに驚き、布団を剥がした魔物は、まんまと騙されたことを悟り、慌てて爪を引っ込めた。
「どこだ?  部屋からは出ていないはずなのに…」
  辺りを見回した魔物は、箪笥の戸の隙間からほんのりと灯りの漏れているのを見つけた。「馬鹿め!」
  王の姿の魔物は箪笥の前に進むと、観音開きの戸を一気に開いて中に入った。
  エアはすかさず寝台の下から飛び出すと、戸を閉め、懐剣を閂のように、頑丈な取っ手に差し込んだ。
「小娘、計ったな!」
  中は囮の灯り、退路を断たれた魔物は力ずくで戸を壊そうと暴れた。その力は凄ざまじく、今にも閂代わりの懐剣を折り、或は取っ手ごと弾き飛ばしてしまいそうだった。
  エアは片手で香水を入れた水差しを持ち、片手で力一杯ベルを鳴らした。
  直ちにガチャガチャという軍靴の音が近付き、「全ての扉と窓を閉鎖しろ」と怒鳴るガリと兵士達の声が聞こえた。
「今夜という今夜こそ、絶対に奴を仕留めて手柄とするのだ!」
『ガリと衛兵達は私の命など心配してくれてなどいない。彼等の目的はジュエル・ビーストを倒すことで、私はその為の餌なんだ』
  次の瞬間、全身宝石の帷子に覆われた獣が戸を破って飛び出した。
  エアは香水に臘燭の火を付け燃え上がらせると、突進してくる獣目がけて投げ付けた。水差しはジュエル・ビーストの額に命中して燃え上がった。宝石が腐った魚の鱗のようにボロボロと剥が落ちる…
  そこへ本物のネブカドネザル王とガリ、衛兵達が到着した。
「エア、良くやった!  でかしたぞ」
  王は自ら陣頭に立ち、剛弓をキリキリと引き絞った。
「王様、炎です。奴は無傷の状態では剣も弓矢も受け付けませんが、普通の獣と同じように炎にはひるむようです」
「よし、分かった」
  王と兵士達は一旦構えた弓矢を下げ、手早く火矢にし、もがく魔物に雨あられと射掛けた。
  火矢は獣の宝石が剥がれた箇所には突き刺さり、さらに燃え上がった。
  やがて、さしものジュエル・ビーストも、ついに獣の形でいることを諦め、魂の本体である鈍い七色に不気味に輝く心臓石を残して、残りの宝石を蓬盞花のように四方八方に飛ばした。
  王やエア、それに兵士達が腕で目を守っている間に、鈍い七色の心臓石はさながら玉虫のように部屋中を跳ね回り、兵士達の足元をかい潜って扉から外へ出ようとした。
  エアは弾け飛んだ宝石で目を潰されてうずくまっている兵士から弓矢を借りると、その宝石目がけてヒョウとばかりに射た。
  宝石は、その生命力が弱っていたのか、何か柔らかい結晶のように見事に真ん中を射抜かれて動かなくなった。
「今です、王様!  今なら松明の中に投げ込んでも、或は靴底で踏み潰しても、奴の命を奪えることでしょう!」
  近衛隊長のガリは、自分が代わって成敗したそうに射止められた宝石に向かって剣を突き降ろそうとした。
「お待ち下さい!  その宝石は人の形にもなれ、言葉も解決します。厳重に閉じ込めて、何故王妃様とその替え玉を狙ったのか、他に人に命令されてのことなのか、他に仲間がいるのか取り調べることが肝要かと」
  エアはガリの剣の柄をハッシと掴んで王の顔を見た。
「陛下、何卒私の意見を…  取り調べと申しましても、奴が好き好んで人間の形にならない限り永久に出来ません」
  王はツカツカと二人のそばに歩み寄ると、意外にも腰を屈め、矢を引き抜き、心臓石を拾い上げ、それをいとおしむように指の腹で撫でた。
「この度はエアの意見を採る。取り調べもさることながら、この心臓石は宝石庫などに入れておくと、まるで帝王の如く回りの宝石を従え、獣や人の形になれるいとも珍奇な宝石だ。破壊してしまうのは惜しい。保管をさらに厳重に行えば他国の王達も羨む至宝となるであろう」
  王はそれをガリが差し出した鉛の箱に入れた。王が戯れにその箱を振ると、中の宝石はまるでそれに命があって人々を殺し傷付け苦しめていたことが嘘であるかのように、カラカラと乾いた音を立てた。
  エアはアミテスの言っていたことを思い出した。
[その宝石『ジュエル・ビースト』は持ち主の野望を叶えるという伝説があるのです。
  その伝説があるばかりに、良人はその怪かしの宝石を処分し切れずにいるのです。例え妃がしつこく狙われていると分かっていても…]
「幸い、戦いの女神イシュタルの御加護に恵まれ、無事にアミテス様の身代わりをお勤めし、化け物を封じることも出来ました。出来れば明日にの朝にでもポルシッパの村へ帰りたいと思います」
「まぁ待て、そう急ぐなエア。おまえは我が近衛の兵士達をさんざん手こずらせたジュエル・ビーストを一夜にして封じるという大手柄を立てたのだ」
「手柄だなどとそんな…  陛下やガリ様の迅速な応援がなければ、どうなっていたことか」
  エアは顔を仮面のようにこわばらせているガリや近衛衛兵の方にちらりと目をやって大きな声で言った。
「明日は祝宴を催そう。それにこれからもアミテスが身代わりを必要とする機会が多々あるだろう。そんな時には、エア、おまえが勤めてくれると心強い」
★
  翌日、ネブカドネザル王は約束通りの宴を開いた。竪琴弾きを始めとする楽士や裸の踊り子、それに火吹きや剣飲み、手品師などの大道芸人達が次々と特技を披露する中、水甕ほどもある巨大な黄金の酒盃が回され、奴隷女が三人掛りで注ぐ泡立つ麦酒が一気飲みされた。
  ネブカドネザル王とアミテス王妃も笑顔で出席した。恩赦と放鳥が行われ、バビロンの町の人々は、『また王の派遣軍が、どこか聞いたこともないような辺境の城をまた一つ落したのだ』と思った。
  エアは、バベルの塔/ジグラトの筆頭の巫女で、女性ながら国一番の魔導士シリルの側仕えの一人として、かなり上座で出席した。シリルは二百歳近い高齢の上、後継者と目されていた巫女達は皆シリルの後釜を狙い、互いに派閥を作って互いに暗殺と謀殺を繰り返し、有力な術者、魔導士は誰一人としていなくなってしまっていた。
  ジグラトの巫女の純白の衣は踵まであり、ヴェールは顔を殆ど隠すものだったので、アミテス王妃に似た女が出席しているものなど誰一人としていなかった。
  ジュエル・ビーストを捕らえても、エアの心は安らかではない。騒ぎのもとになった怪宝石は未だに破壊も封印もされず、王の宝石庫のどこかにあるのだし、アミテスの寝室から持ち出し、今も懐に隠し持っている宝石箱のことも気掛かりだった。
『この宝石箱のことについては、多分魔導士にしか分からないに違いない…。  でも念のため、町へ出て優秀な鍵屋さんに開箱を試してもらおう』
  そのことを調べたくて、宴など早く終わればいい、とうずうずしていると、余りの年寄りの為、四人の巫女が担ぐ輿に乗って出席し、それまで殆ど喋らずにいた老巫女のシリルが、腐った魚のような眼をエアに向けた。
「あんたかね、ジュエル・ビーストを捕まえたとか言う娘は?  儂ももう五十年若かったらね…」
  エアが恐縮してうつむいたままでいると、老巫女はさらに続けた。
「それは是非、マルドゥク神にお礼の祈りを捧げなくてはいけないね…」
「いえ、私はこれからもアミテス王妃様をお守りするようにとの…」
  何とか上手く断ろうとしたものの、麦酒で上機嫌となった王が玉座から命令した。
「構わん、行ってまいれ。王妃は当分大丈夫だ」
  こうなると勅命、エアは宴の半ばで老巫女一行と中座し、神殿に向かった。
  この王ネブカドネザル(二世)が、彼より一二○○年前の賢帝ハムラビ王の都を真似て再建したネオ・バビロンは、当時全世界で最も美しい都だった。
  現在の長さにして全長一八キロにも及ぶ二重の城壁。この城壁はその上を二台の戦車
(チャリオット)がすれ違って通れる幅があり、さらに一定の間隔を置いて数十の塔がそびえ、深い堀の水面にその姿を映していた。
  この堀、及び大小の運河は、この都の重要な交通網で、戦略上の理由から市民は、もっぱら小舟か船橋(小舟を沢山連結して作った臨時の橋)で他の区画に行き来していた。
  ネブカドネザル王の時代になると、街は
ユーフラテス河の左岸にも拡大、先代のナボポラッサル王がこの発展を見込んで造っておいた右岸と左岸を結ぶ固定橋の橋脚は、縦
二○メートル、横九メートルの長方形の巨大な一枚岩を七個をまっすぐ飛び石に並べた豪快なものだった。橋は跳ね橋で、夜は治安の為に上げられていた。
  通りにはマルドゥク、エンリル、アダド、シャマシュと言ったバビロンの神々の名前が付けられ、平均三階高いところで五階建てまである民家の、防湿の為窓のない壁が整然と並んでいた。
★
  そんな街並みや、広場のあちこちで開かれている市場の賑わいを眺めながら、エアは大巫女の輿の後について「バベルの塔」=マルドゥク大神殿付属の尼僧院に向かった。
  大巫女と担ぎ手達は『逃げたければ逃げても構わないんだよ』と言いたげに、エアのほうを振り向きもしない…
  凡そバビロンに来て「バベルの塔はどこですか」などと訊く者はいない。街は勿論、遥か湿地や砂漠の彼方からでも見える塔がいよいよ目の前に大きく立ち塞がると、エアは一層胸を張った。
  この塔、すでにエア達より一二○○前に建設された由緒あるもので、広場の真ん中にピラミッド状に聳えており、いくつかある階段を登って頂上に行くことが出来た。
  頂上には至聖所があり、毎夜マルドゥク神に指名された巫女一人がこの至聖所の黄金の寝台の上で神に身を任せるしきたりになっていた。この至聖所、この日替わりの巫女以外には、正副神官長しか立入りが許されず、下級の神官および一般参拝者は二階にある神々の聖堂までしか行けなかった。
  そこにはいくつもの黄金の神の聖像が祭られており、供物として山海の珍味が供えられた時は幕が占められた。神の食事の邪魔をしない為である。神々はその目で食事をすると信じられていた。
  エアもとりあえずそこで勝利と感謝の祈りを捧げて去ろうとすると、輿に担がれた大巫女が出口を塞ぎ、歯の全くない口をもごもごさせて言った。
「大丈夫。儂が一番上まで登れるようにして進ぜよう」
「いえ、私のような信仰浅き者はここで十分でございます」
  平伏し、辞退しようとしたエアの目に、ガチガチと震える何本ものか細い足がみえた。
  地方から食い禄減らしに神殿に預けられたまだ幼い巫女の見習いだった。その怯えた目は、『あなた様がお断りになると、私達のうちの誰かが、今宵の生贄として行かねばならぬのです』と語っていた。
  どうやら、エアの武勇伝は早くもここへも伝わったらしく、全員が彼女の方を縋るような目で見た。
「…分かりました。ではせっかくの身に余る名誉な機会ですので、私の処女はマルドゥクの神様に捧げることに致しましょう」
  老巫女は「ウム」と頷き、幼い巫女達は
ホッと胸を撫で降ろした。中にはエアに下がりものの花や菓子をそっとくれる者もいた。
  エアは、今度は逆に輿に押されるようにして最上階への階段を登った。
  エアが至聖所に入ったところで輿は止まった。
「ここから先は選ばれた巫女と、正副の神官長しか立ち入れぬ。がしかし、おまえのような美しく勇敢な娘は、きっとマルドゥクの神もお喜びになり、骨の髄まで召し上がられることであろう。
  またしても黄金の扉がきつく閉められ、今度は外側から閂を降ろす音と、老婆の猛禽のような叫びとも笑いともつかない声が聞こえた。
  臘燭の灯りで部屋を眺めると、部屋は思ったよりも小さく、民家の一部屋ぐらいの広さしかなかった。寝台の他には黄金の卓があるだけで、他には何もない。
  その寝台には、獣が爪で付けたような鋭い引っ掻き傷がいくつもあり、床と共に血糊を洗った跡もあった。
  ハッカや他の香しい香料の匂いが立ち込めていたが、その中にはかすかに血の匂いが混じっていた。
  閂は頑丈でピクリとも動かず、昨夜のアミテスの寝室のようにいろんな道具がある訳でもなく、エアは途方に暮れた。
『ジュエル・ビースト、『宝石』が潜れるような穴はあるのかしら。もしそうなら、それを塞いでおくしかないけれど、また扉から
堂々と押し入ってこられたらおしまいだわ』
  彼女は卓を脚立代わりにして天井を調べた。
  想像した通り、若干の空気抜けの穴が開いているが、手が届かず、如何ともしようがない。
  エアは仕方なく、寝台と卓を扉の前に障害物として置くと、天井の空気穴を眺めながら朝を待った。
『来る!』
  夜明け近く、安心も手伝って眠気が差し始めた頃、懐の宝石箱がまたしても囁いた。
  エアが慌てて天井を見上げると、そこには水晶のように輝く小さな宝石が見えたかと思うと、コトンと床に落ちた。
  それはやはり親指くらいの水晶で、巫女たちの魂を食って妖力をたっぷりと温存しているらしく、黒い邪悪な気が渦巻いていた。
『そうね、神様が閂を開けて現れたのではおかしいわね』
  エアは卓を持ち上げて、その水晶目がけて投げ付けようとした。
[待て、悪あがきはよせ。そう死に急ぐこともないだろう]
  水晶は思念で語り掛けてきた。
[我が半身、ジュエル・ビーストを封じた娘と言うのは貴様か?]
「だったらどうだと言うの」
[我は宝石獣クリスタル・ビーストだ。
 まあ奴は我が半身ながら力任せの阿呆だからな。何千年に一度ぐらいはそれぐらいの不覚もやるかも知れん…]
「あいつがネブカドネザル王の野心を叶えるように、あなたはあの化け物みたいな老巫女に飼われているの?」
  エアは卓を下げたものの、盾のように構えたまま尋ねた。
[そんなことはどうでもいいだろう。とにかく奴は俺と別れ、切れたがっているのだ。俺の方はそうはいかん。奴をここへ連れて来い。一日だけ待ってやる]
  水晶石はそう言い残し、キラリと輝いたかと思うと姿を消した。
「とんでもない、お断りするわ」
[断って逃げてもいいが、ここにいる孤児の少女達を皆食わしてもらうぞ]
  虚空から思念が届く。
「そんな…  卑怯者!」
  エアは叫んだが、谺が空しく返るだけだった。
  翌朝黎明を待たずに、階段を登ってくる足音が聞こえ、閂を外す音がした。扉は最初ギッと音を立てて一寸だけ開けられ、違う男の二つの目が覗いた。
  エアがその扉を内側から勢いよく開けると、目を義眼のように丸く虚ろに見開いて立ち尽くしていた。それは作業服を着ているものの、帯の階級を現す刺繍から察するとこの神殿の正副の神官長で、一人の手には掃除の道具と大きな桶一杯の水、それに臭いを消す為の
ハッカの揮発油の入った壷を、もう一人は小さな棺桶を持っていた。
「マルドゥク神からネブカドネザル王にお告げがありました。大至急お取り次ぎ頂きますよう…」
  エアは目を半眼に閉じ、入神状態を装って言った。
★
  再び宮殿へと戻った時、王は幕僚達とともに、エルサレム及びテュロス攻略の計画について会議の真っ最中だったが、その大切な筈の席を放り出して現れた。
「さてはお婆に何か吹き込まれてきたな!」
  王はエアを見るなり一喝した。
「至聖所から無事に戻ったのが何よりの証拠だ」
『すると王様、あなたは危険を承知で大巫女に従わせたのですか』
  エアは眉を吊り上げ掛けてじっと堪えた。「王よ、そなたはジュエル・ビーストと同じような心臓石が他にあるのをご存じか?」
「知っている。それは全部で三つあり、三つで一つの石として、強力な魔法石であったらしい。だがその三つはもともと仲が悪く、折りがあれば散り散りになりたがっていた。
  それ迄はアッシュールバニパル配下の辣腕の魔導士によって嫌々一つにされていたが、ニネヴェ落城のどさくさで後の二つは行方不明となった。その三つとは、ジュエル・ビースト、クリスタル・ビースト、オリハルコン・ビーストで、三匹は三竦みになっている為に互いに思うように手が出せない。即ちジュエルはオリハルコンに弱く、クリスタルより強い。クリスタルはジュエルに勝てないがオリハルコンより強い。オリハルコンはクリスタルと仲が良いがジュエルを嫌っているという噂だ」
  王は歯囓りしながら呟いた。
「三つ合体させれば、強力な化け物となって我が野望の達成も容易になるというのに…」
『賢いようで愚かな王。一匹でも手こずったというのに…  三匹合体したものを、どう
やって御すると言うの?』
  エアは激しく動悸を打つ胸を静めようとしながら厳かに言った。
「王よ、マルドゥク神のお告げによると、早急に捕らえたジュエル・ビーストの尋問をしなければ、未曾有の国難がそちとそちの国を襲うであろう、と言うことだ」

  王はエアのことを疑いながらも、ジュエル・ビーストの尋問をする決断をした。
  その為に特別に、窓も隙間も通風口もない部屋が選ばれると、王とエア、それに精鋭の衛兵十余名が見守る中、鎧兜に身を固めたガザが鉛の小箱の鍵を回し、蓋を開けた。
  中には、餌代わりに研摩粉の混じったクズ宝石を与えられた、傷のある宝石がおとなしく入っていた。
  不思議なことに、エアが見たところ、宝石の傷は。それを付けた時よりも塞がっているように見えた。
[同じ屑宝石でも、もうちょっとましなものをくれないか。ルビーか、サファイアか、ダイヤだったら申し分ないのだが…]
  宝石はまだ人や獣の形になる力を回復していないのか、そのまま思念で語り掛けてきた。「うるさい、貴様は囚人なのだぞ。食事に文句を付けるなどとはもっての他だ。その食事も、普通の囚人の十年分くらいのものを与えているのに」
  ガリは、宝石細工師が使う刃に屑ダイヤを使った彫刻刀を宝石の傷の部分にあてがった。[分かった。これでいいよ。上等の食事だ。有り難いと思っているよ]
  宝石は自ら転がって、屑宝石の粉を自分の身体にまぶしたかと思うと、白い研摩粉だけを残して、後はみんな吸収した。
「それでは尋問を始めるが、貴様は何故王妃アミテス様を狙ったのだ」
  ガザは卓の上の酒精のランプに臘燭の灯りを移して尋ねた。
「正直に白状しなければ火焙りにするぞ」
[正直も何も、アミテス様が余りにお美しかったからだ]
「嘘を付け!  何度も替え玉に騙されるような奴に、どうして王国一の美女が分かる!」
  ガリは宝石を火箸でつまんでランプの炎の上に近付けた。宝石の内部で、色の着いた水のようなものがぐるぐると回るのが見えた。[分かった、言う。言うから助けてくれ]
  ちょうどその時、表の扉の所で凄まじい悲鳴と衛兵が倒れる音がした。
  中の兵士が慌てて扉を開けると、二人の衛兵が喉を切り裂かれて倒れていた。
「まだ近くにいるぞ。追え!」
  笛が吹かれ、兵士達は廊下に点々と続く血の付いた獣の足跡を追った。
「愚か者、すぐに扉を閉めろ!  奴の仲間が助けに来たことが分からんのか」
  王が叫んだ瞬間、それまでガザに火箸でつままれていた宝石は、突如身を翻らせて卓の上を転がった。そして扉が閉められようとした瞬間、僅かな隙間をかい潜るようにして廊下へと逃げた。
  すぐにエアが、ガリが、王が後を追ったが、宝石は絨緞の上を転げ、跳ねて必死で逃げた。
  ガリと王はじきに遅れてしまったが、エアはどこまでも諦めなかった。広い宮殿の廊下、女官達は勝手に跳ねて逃げる宝石に悲鳴を上げてよけ、宦官は手にした粘土板の書類を落として粉々にした。
  そのうちに宝石の転がる速さが落ち、エアはついにその手に掴み、拳の中に握り締めた。
  息を整えるのも束の間、彼女はガリや新手の兵士達が迫らぬ前に宮殿を出た。
★
  小一時間後、まだ昼間だというのに、バベルの塔=ジグラトの最上階、至聖所への階段を登る巫女の姿が見られた。無論宝石を手にしたエアである。
  ネブカドネザル王は直ちに早馬、鳩、狼煙でエアを捕らえるように神殿警備の兵士達に命令を出したが、如何に王と言えどもその権力は神域までは及ばない。いや、それどころか、王ですら神殿に参拝する際は、冠や笏と言った身分を表すものを身に付けることを許されず、入口のところで頭を叩かれ、耳を
引っ張られして辱めを受け、そして勿論神像の前では平伏さなくてはならなかった。
  もとい、バビロン市民は、王から逮捕投獄罰金を受けない権利と、その権利を奪われない権利を持っていた。犯罪者を捕らえ刑を課すのは神殿の神官達とその直属の兵士達である。
  エアが至聖所に登って行く姿と、王の兵士が神殿の入口で遮られる姿を、輿の上から眺めながら、大巫女シリルは皺だらけの顔をさらに皺だらけにしてほくそ笑んでいた。
  至聖所の扉を開けると、水晶が妖しい光を湛えながら待ち構えていた。
「持って来たわよ。これでいいのでしょう。二度とマルドゥクの神の名を語って巫女の命を貪らない、と約束するなら渡すわ」
  彼女は拳を突き出して言った。
[いいだろう  早くよこせ]
  だが、その時、それまでおとなしくしていた拳の中の宝石も思念で喋った。
[冗談じゃない。誰が二度と貴様などと組むものか。何をやるにしても計画を立て、命令を下すのは貴様じゃないか。俺は面白くない。貴様と組んでいた…いや、魔導士の力で組まされていた数千年の間、俺には楽しいと思った日は一日たりともなかった。ニネヴェ陥落のどさくさで、やっと自由になれたのだ。オリハルコンだってそうだ。もう放っといてくれ]
[うるさい。うまいことを言ってオリハルコンと一緒になりたがっているのは誰だ?  まさか二体とも人間の姿になって愛し合おうなどという了見ではあるまいな]
[やむを得ない。いつもの俺だったら、貴様など一ひねりなのだが、深手を負った今はそうはいかん。出直させてもらうぞ]
  エアは宝石を掴んでいる方の手に熱いものを感じて思わず手を開くと、宝石が彼女の手のひらに剃刀で切ったぐらいの細い傷を付け、その中から脈動する血管と、不随意に小さく痙攣を繰り返す腱と筋肉の間をかい潜り、腕の中に侵入した。
  流石のエアも悲鳴を上げたが、宝石は廊下を跳ね走った時と同じぐらいの速さでエアの身体を駆け巡ると、彼女の身体の最も深い場所に腰を据えた。
[そんなことをしても無駄だぞ。この娘を八つ裂きにしてでもおまえを手に入れてやる]
  水晶白い煙に包まれたかと思うと、真っ白な虎に変身した。瞳も白ければ牙も爪も雪の固まりのように白く、狭い部屋じゅうに吹雪のような雪つぶてが竜巻のように舞った。
[お嬢さん。こうなれば死ぬも生きるも一身同体だ。頼むから戦おうぜ]
  今や宝石はエアの神経を全て統括し、呼吸や鼓動も管理していた。
「分かった。でもその代わり勝ったらすぐに出ていって頂戴!」
  徒手空拳で身構えたはずの彼女の褐色の肌の汗腺から、薄く色の付いた汗のような、脂肪のようなものが一斉に泌み出たかと思うと、たちまちのうちに全身を濡らした。
[それは約束する]
[ほざくな!  何の約束だ]
  水晶の虎、クリスタル・ビーストは大きく跳ね飛んだかと思うと、牙も爪も剥き出しにしてエアに襲い掛かった。
  間一髪、最初の一撃を身を翻らせてかわしたエアは、巫女の衣の下の自分の肌を見て仰天した。汗腺皮脂腺から沁み出したものは、空気に触れるなり固まって痂のようになって行く…  それは見る見る、まるで紅玉碧玉翡翆琥珀の破片を貼り合わせたかのような即席の鎖帷子に成長した。
  顔もまた同じで、七色に輝く宝石の仮面が出現した。
[おのれ、こしゃくな。そんな魔法も使えたのか。合体していた時は、一言も喋らなかった癖に…]
  水晶の虎は再びエアに喰いついたが、宝石の鎖帷子のせいで牙も爪も歯が立たなかった。反対にエアが光り輝く鉄棒のようになったその腕で殴ると、水晶の虎は吹っ飛んで壁に叩き付けられた。
「奴は尼僧院にいる孤児の少女達を人質にしているの。必ず倒しましょう!」
  エアは自ら扉を閉め、通気孔の真下に立った。
[何を言う、今おまえの身体に棲みついている奴も、アミテス王妃の替え玉を二十名も殺しているではないか]
[それは訳あってのことだ。何があってもアミテスとその替え玉達は倒さねばならぬのだ]  宝石は思念を振り絞って叫んだ。
  水晶の虎は身に纏っていた吹雪をエア目がけて吹き付けた。
  身体の回りがどんどんと凍り、大きな氷柱と化したが、エアは冷たいとも寒いとも感じなかった。
[おのれ、やはり炎の呪文がなければだめか]
  水晶の虎は攻撃を諦め、見る見る元の水晶に戻った。
  だが、その状態でもエアが通風孔の下に居座っているので動きが取れなかった。
[かくなる上は、どうあっても合体を遂げてやる!]
  ちょうどその時、正面の扉が開いて輿に
乗った老巫女シリルが現れた。
「わがクリスタルは苦戦しているようだね…」
  主人兼救いの主の出現に水晶は飛んで跳ねてシリルの輿に上がり、皺だらけの首筋から懐の中に入った。
[奴も同じことをするつもりだ…]
  水晶を身体に組み込んだシリルの皮膚は次第に艶を帯び、皺が滑らかになったかと思うと、背筋も、手足も真っ直に伸びて、美しく若返った。しかしその顔は氷の仮面のように冷たく、表情がなかった。
「なるほど、王様にお目通りする時は大巫女に相応しく年をとっていたけれど、普段はその姿でいた訳ね。そしてその為に可愛そうな見習い巫女の命と魂を奪っていた…」
  エアはシリルを指弾した。
「何とでも言え。我々は絶対におまえ達を吸収してやるぞ…」
  シリルが軽ろやかな身のこなしでひらりと輿から飛び降りると、それを担いでいた巫女達は崩れ倒れ、手も足も首もちぎれて転がった。彼女達はその中身、血も肉も食い尽くされ、吸い尽くされて剥製にされ、魔法で動く繰り人形だった。
  地に降り立ったシリルの肌からは、魚や大蜥蝪の背鰭のように、尖った硝子の破片が
ニョキニョキと生えた。
  シリルが硝子の破片だらけの両手を高く差し上げると、それらの生えていた破片は回転しながら、或は短刀のようにまっすぐにエア目がけて飛んできた。
  第一波を辛うじてかわしたエアは、それらの破片が、雪花石膏を塗った粘土の煉瓦で出来た神殿の壁に、まるでバターに突き刺さったバター・ナイフのように深々と突き刺さっているのを見た。
  シリルは意地になって第二波、第三波の硝子の破片を投げ付けた。
  そのうちのいくつかが遂にエアの身体に命中した。激痛と共に宝石の帷子がポロポロと剥がれ、人間の皮膚がべろりと垂れて血が流れ、肉が剥き出しになった。
  エアが思わず膝を着いた時、第四波の破片が迫って来た。彼女は間一髪、卓を盾代わりに立てて防いだ。破片が命中した瞬間、卓は粉々に消し飛び、貫通した破片が更に彼女を傷付けた。
「二○○年生きている妾が、小便臭い小娘に遅れを取ると思うのか、このたわけ!」
『このままではやられる。何とかならないの』
  エアはジュエル・ビーストに言った。
[まかせろ。しかし、一瞬無防備になるから奴の攻撃に気を付けろ]
  心臓石がそう告げたと思うと、エアの身体じゅうを覆っていた宝石達が、まるで鎧兜を脱ぎ捨てるように、自分の意思で剥がれかと思うと、粒ごとにバラバラになり、渦巻くつぶてとなってシリルを目指した。
  シリルはまた新手にニョキニョキと生え出した硝子の破片を迫り来る宝石に向かって迎撃したが、つぶての方が堅く、破片は途中の宙空で粉々に砕かれた。
[なるほど、ではこれではどうだ!]
  シリルはさらにありったけの生え出た破片を宝石の粒達に向かわせると、自らは最後の一枚の破片を短剣のようにきらめかせて、エアに迫った。
  裸のシリルが裸のエアに斬り掛かった。
  エアはそれをかわしながら扉の外へ出たところで、ついにつまづいて仰向けに転んだ。
  そして、シリルは破片を振りかざして覆いかぶさってくるところを両脚で巴投げに投げた。
  シリルはバベルの塔の最上階から真っ逆さまに下の広場へと落ち、地面に叩き付けられた。その死体は遠目にも若い女のそれではなく、まるで木乃伊のような、萎び、曲がった老婆のそれになっていた。
  人々や神殿の兵士達、それに王の兵士達が集まってきて死体を調べ、エアの方を見上げている。
  それと同時に、宝石と対決していた硝子の破片も、光の粒になって崩壊すると、宝石達に吸収された。
  宝石達は飛びながらラメの寛衣の形になり、エアの身体に纒わり付いた。
[俺も、いま吸収した奴も、若い女の血と肉しか食わない。
  従ってこれからは大きな術を使えば、その補給が必要だ…]
「じゃあ二度と術を使わずに戦いましょう」
  エアは立ち上がって傷口を押さえ、痛みに頬を歪めた。
[術を使えば、こんな傷などたちどころに治せるのだが]
「だめ。絶対に使ってはだめ!」
  エアはよろめきながら長い階段を降りた。
  途中で正副神官長が迎え、肩を貸してくれた。その後ろには高級神官や神官頭(シェ
シュガルウ)、占い師(バルウ)や聖歌隊隊員(バルウ)、呪術師(マシュマシュウ)、下級神官、悪魔払い師(アシプウ)達が続いて、皆一様に感謝の礼をしている。
「エアよ、大巫女シリルは本当に魔物だったのか」
  エアはかすかに頷いた。
「彼女と、彼女に取り入っていた魔物が巫女を殺して食べていたのです。慈悲深いマルドドゥク神がそんなことをする筈がないでしょう」
「それはどうも有難うございました。私どももシリルには疑いを持っていたのですが、恐ろしいのと、騒ぎを起こすと王の権力が横槍を入れて来ることを恐れて、何も出来なかったのです」
  地上まで降りたエアは、尼僧院に連れて行かれてそこで傷の手当を受けた。各地から連れて来られた身寄りのない見習い巫女達が涙ながらに喜んだことは言う迄もない…
★
  ところが、最後の包帯(バビロンには包帯があった)に鋏で切り離した途端、神殿の広場や中庭から人々の悲鳴と絶叫が上がった。
  自分で包帯の先を結びながら外へ飛び出したエアは、人々が指さす方向を見て思わず立ち止まり、息を飲んだ。
  バビロンの宮殿と、その上層にある空中庭園の壁面全体に不気味な蔦が密生し、その先端はにうねうねとうごめき、さらに新たな寄生先を狙っているのか、バビロンの市街目がけて成長していた。
「約束よ出て行って!」
  エアは身体の中のジュエル・ビーストに向かって命令した。
[オリハルコン・ビーストがついに動きだして、宮殿を自分のいいように変え出したんだ。
  エア、奴は元・俺達のお頭で、その力はとても俺達の比ではない。つまり、生身のおまえでは、いくら頑張っても勝ち目はない]
  「でも宮殿には王様や、アミテス様や、御家来衆が…」
  エアは人々が何も持たずに、或は身の回りの品だけ持って、さらに或は荷車に道具を一式積んで我勝ちに避難するバビロン市民の人波に逆らって、唯一人宮殿の門に近寄った。
  いつもは錦の鎧に身を包み、いかめしい顔で立っている四人の衛兵は、全員蔦で首を締められ、皮膚を紫色にして絶命していた。
「何をぐずくずしているの。早く私の身体から出ていって、と言ったでしょう?」
[悪いが合体と魔法なしでは、とてもじゃないが進めない、と思うがな]
「約束を破るの?」
  ジュエル・ビーストはなじられて仕方なく、宝石獣の姿でエアでエアの身体を離れた。その胴体から頭にかけて、吸収合体したクリスタル・ビーストの水晶の縞模様が走っていた。
  エアは懐剣で密生する蔦を一本づつ切り離しながら、宮殿内奥へ向かって進もうとした。[そんな悠長なことをしていたら、ユダヤ人達の言う審判の日までかかってしまうぞ]
  ジュエル・ビーストの言うことは至極最もだった。蔦は切り離す後から後から伸びてきて埒が開かなかった。
「でも、術を使うと人を食べなければならないのでしょう?」
  ジュエル・ビーストは白い燐光を放ちながら肩をすくめた。
「何人も食べなければならないの?」
[いや、一人でいい。奴も最近ガツガツと掻き込んで満腹のはずだ]
「分かったわ。じゃあ首尾良くオリハルコン・ビーストを倒し封じた暁には、私を食べさせて上げます」
  エアはその瞳に、ジュエル・ビーストの姿全体を映して言った。
  ジュエル・ビーストは直ちに硝子の回転刃のような形に姿を変え、物凄い速さで回りながら蔦を丸くくり抜いて進んだ。
  その後には小柄な人間一人がやっと通れるような隧道が出来た。
[早く!  でないと塞がってしまうぞ]
  エアは慌ててその後を這った。
  しばらく進むと、宮殿の広場に出た。
『どうやら、あの蔦は外側を新たな城壁のように覆っているだけで、中は無事みたい…』
  顔を上げたエアは「アッ」と声を上げた。
  宮殿の庭も、そこに植っていた植物も、
すっかり様代わりしている。
  遠い楽園の広葉樹や針葉樹に変わって、鱗木や石炭木のような、朱櫚の化け物のような不気味な太古の植物が密生し、花々の咲き乱れていた地上にはシダや茸や苔がビッシリと覆っていた。
[俺やクリスタル・ビーストはこの辺りの産だが、オリハルコン・ビーストは違う。奴は遥か遠く、ムーやアトランティスの時代から生きてきた存在だ。
  さらにもっともっと以前、この世界が全て海で、人間ではない、もっと別な生き物が神殿を造り、王国を築いて支配を行っていた頃からいた、という噂もある。
  永劫とも思える長い時間を生きてきた奴が己の宮殿を築くとしたら、ありとあらゆる時代の混じった滅茶苦茶なものになるかも知れない…]
  エアが油断なくシダの茂みを見回すと、そこには鷲の羽根が生え、尻尾が蛇である北方のグリフィンや、頭が牛の人間、希臘のミノタウロスや、後ろ足で立って走る小さな龍、バシリスク達や、これまた尻尾で立って飛び跳ねる龍の落とし子のような、口の尖った珍奇な生き物達が動めいていた。
  と、その時、エアがずっと懐に持っていてそれ迄すっかり忘れていた小さな宝石の小箱がまたしても囁いた。
『国王陛下!』
  エアは怪物共の気を立たせないように、もう一度回りを見渡した。
「ネブカドネザル陛下、どこにいらっしゃるのです。お助けに上がりました」
  と、近くの鱗木にふと目を止めたエアは、木の幹の模様に、かすかに王の顔の面影を認めた。
「陛下!」
  エアは間違いなくこの木が今朝まで王だったことを確信して、幹に耳を当てて、思念の声を聞こうとした。
『不覚だった。アミテスが…』
「アミテス様がどうなすったのですか?」
『宮殿の公文書館に…  アミテスに関する封印文書が…』
  王の心の声はそれきり聞こえなくなった。
  エアは公文書館を目指して、別世界と化した中庭を駆けた。途中、石炭木の林の中から驥麟がガサッと姿を現して肝を冷やした。
  公文書館には、壁一面、天井まで粘土板の書類がうず高く積み上げられ、その間々に、羊皮紙やパピルスの書類の束が収納されていた。
『アミテス王妃の母国メディアには、物事を粘土板に記録する習慣はない。パピルスは埃及の特産品で高価だ。すると羊皮紙?』
  エアが羊皮紙の書類をひっくり返していると、波斯語で書かれたものが現れた。
「読んでやろうか」
  ジュエル・ビーストが人間の書記の姿に変身して言った。
「私、読めます、母は波斯人で…」
「…………」
  その文書の封印の封臘はまだ新しく、表紙にはメディア王キャクサレスの印と花押と、受け取りを表すネブカドネザル王の勇壮な獅子狩りの円筒印章の捺印があった。
〈メディア王キャクサレスより、新バビロニア王ネブカドネザル陛下への親展文書。
  アミテスについて重大なる問題が起きない限り、何者も開封を厳禁する〉
  エアは厳重な封臘を剥がした。
〈前略、信義に厚い貴王がこれを開封し読むということは、我が家より嫁ぎしアミテスについて、すでに、やんごとない事件が起きているものと判断する。

  単刀直入に言おう。アミテスは余の実の娘ではない。
  余の忠実なる魔導士の娘だ。いや、それも大いに疑わしい。その魔導士が泥を捏ねて造った命やも知れぬ。
  いずれにしろ、その魔導士は、完全な娘、少女を造ることに全生涯を賭けていた。
  雌獅子の勇気、雌豹の凛々しさ、鷲の速さ、鷹の賢さ、そして囀る鳥の優しさを持つ人間の女だ。
{そんなことが出来るのか?}と問い返されると、余も答えようがない。とにかく、薬草、薬石、その他魔導の薬種や道具を駆使して、奴は薬を造り、それを密かに一○○余人の美しく気立てのよい処女達にただの滋養剤と
偽って与えた。さらにニネヴエ陥落の際に
こっそりと略奪したオリハルコンとか言う宝石を細かく砕いて子宮の中に入れたらしい。
  その半数は言語を絶する苦痛と苦悶のうちに亡くなった。奴はその死体から宝石の破片を取り戻すことに余念がなかったそうだ。
  生き残った半数は処女のまま妊娠した。そのうち、さらに半数はうち続く激痛のうちに臨月を迎えたが、生まれたのは二目を見られぬおぞましい化け物だった。
  そいつらは皆母親の腹を食い破って生まれてきて、宮殿の中を飛び回り這い回ったが、国じゅうの優秀な魔導士を総動員して何とか葬り去ることに成功した。わが軍団も被害甚大だった…  この計画の推進者だったその魔導士も、文字通り自ら蒔いた種を必死で刈り取ろうとして壮絶な戦死を遂げた。
  我等は彼の生前の行為に習って、化け物達の死体から宝石オリハルコンの破片を取り戻し、前からの分と合わせて怪獣模様の小さな宝石箱に入れて厳重に保管していたが、ある日忽然と紛失してしまった。余はこれをアミテスの仕業と睨んでおる…〉
  エアは懐に隠し持っている宝石箱を思わず確かめた。
〈残り二十余名は普通の美しい娘が生まれた。余はそれらの赤ん坊を殺すに忍びず、夜、闇に紛れて隣国・新バビロニアのあちこちに捨ててくるように腹心の部下達に命じた。
  自分の国に捨てなかったのは、長じて仇を成さないか恐れた為である。友よ許せ。
  だが、後にアミテスとなる赤ん坊だけは、とりわけ聡明、とりわけ美しかったので、手元に置いて育てて見ることにした。
  期待にたがわず、アミテスは女として全ての長所を備えた娘に成長した。あっちこっちの王や王子達の眼にも止まるようになり、ネブカドネザル、貴王が求婚してくれたので潮時と思い、くれてやることにした…〉
『アミテスは本当の人間の娘ではなかったのか…  アミテスが宝石獣の最後の一匹、オリハルコン・ビースト…』
  書類を持つエアの手が震えた。
『ということは、この私も…』
「キャクサレス王が部下に命じて隣国に捨てさせたアミテスの姉妹に間違いないね」
  書記の姿のジュエル・ビーストはアーチ形の扉に柱に凭れかかりながら、まるで他人事のようにあっさりと言った。
「その勇気、宮殿に来てからの活躍、とても普通の娘のそれではない。自分でも分かるだろう?」
「そんな…  私は只の…」
「そうさ、唯の化け物の娘だ。もうじき千の触手と複眼を持つ暗黒の固まりに変身するかも知れない」
「嫌っ!」
  エアは悲鳴に近い叫びを上げ、書類に顔を埋めた。
「しかしな、遂に正体を現したアミテスと互角に渡り合えそうなのは、率直に言って彼女の母違いの姉妹であるおまえしかいないような気もする…」
「ジュエル・ビースト、あなたはアミテスとその姉妹達が恐ろしくて、替え玉として宮殿に参代したアミテスそっくりな少女達を片っ端から殺していたのね?」
  書類から顔を上げたエアは、瞳にきらめくものを潤ませながら、書記をキッと睨んだ。「その通り、メディアの娘達は皆その胎内に、命ある金属オリハルコンの脈動する薄片を植え付けられて子を孕んだ。男の子は全て異形の姿で生まれ、生まれ落ちるなり宮殿の中を暴れ回った。女の赤ん坊は皆人間の姿で生まれてきた。
  だが彼等も皆いつ何時その正体を現すかも知れない。何しろあの凶暴なオリハルコン・ビーストの姉妹ということになるんだからな」「でも三匹目の宝石獣は、火焙り付きの尋問をされそうになった貴方を助けているじゃない?」
「おおかた俺の口から秘密が漏れるのを恐れたんだろう。バラバラに別れる前、オリハルコン・ビーストの奴は、『機会があれはお姫様になりすましてみたい』と言っていた。何か行動を起こす前に、もうちょっとお姫様ごっこをしたかったんじゃあないか」
「それにしても、姉妹二十余名を殺した貴方を助ける?」
「俺はそんなにやっちゃあいない。半分以上はアミテス自身が俺の仕業に見せかけて…
  信じてくれ!」
  エアはジュエル・ビーストを無視して封印文書の続きを読んだ。
〈もしもアミテスが途方もないことをしでかしたら、それはおそらくその生い立ちに起因するものだ。くどいが、この手紙を開封して読むということは、既に只ならぬ事態に陥っているのだろう。
  かつての戦友として、友好関係にある隣国の王として忠告する。
  もしもアミテスに異変ないし謀反の兆しあらば、即刻貴国の優秀な魔導士共を総動員して抹殺することだ。決して躊躇してはならぬ〉
  キャクサレス王の封印文書はそこで終わっていた。
  エアは懐に書類をねじ込むと、かつてアミテスを見掛けたことのある空中庭園の四阿目指して、長く険しい階段を登った。
「よせよ。おまえたちがオリハルコンの薄片を母親の子宮に宿して生まれたのに比べて、アミテスの正体はその元の元、小指の先ほどもあるオリハルコンの宝石から生まれた『オリハルコン・ビースト』だ。勝ち目はないぜ」
  小さな怪鳥キマイラの姿でエアの後を尾けてきたジュエル・ビーストは、彼女の前に立ち塞がって諌めた。
「話してみる…」
  エアはキマイラを払い退け、息を切らせつつ続けて階段を登った。
「だから無駄だって。その気があるのなら、最初に会った時に打ち明けているさ。
 まあいい、万一の場合もクリスタル・ビーストと合体した俺が助太刀すればいい勝負になるかも…」
★
  庭園は人間の眼が付いた花、口のある草、手の茂る低木、長い髪の毛を伸ばす寄生植物、さらに巨大なウツボカズラや蝿取り草の繁茂する不気味なものに変わっていたが、その中でアミテスだけは、前と変わらぬ美しい少女の姿で立っていた。
「アミテス!」
  獣の形のジュエル・ビーストを従えたエアは、顔の汗を拭いながら、彼女の前に立ちはだかった。
「貴方は私の妹達の中でもなかなか優秀な方のようですね、エア」
  アミテスはその白魚のような手の甲の上に、その手と同じくらいの大きさのある黄色と黒の斑の毒蜘蛛を侍らせながら言った。
「姉上、もし貴方様が本当に私の姉上ならば、この様なことは即刻お止め下さい。
  例え一時バビロンの宮殿と空中庭園を治めることが出来ても、いずれは国じゅうの軍隊と魔導士らが制圧に乗り出して参ります。
  それどころか、メディアなどの同盟諸国も黙ってはいません。アミテス様、いや、オリハルコン・ビーストの魔力が如何に恐ろしいものであっても、やがては倒されてしまうでしょう。
  そうなる前に、私と一緒にポルシッパに帰って静かに暮らしましょう…」
  エアは片膝をつき、両手を胸元で組んで嘆願した。
「エア、私も普通の人間メディアから輿入れした王妃アミテスとして暮らすように努力はしたのですよ」
  アミテスは瞼を軽く閉じて、噴水のベンチに座った。獅子の水口からは、水に変わって七色の糸のような得体の知れない液体が流れ出ていた。彼女がそれを掬うと、七色の水は色ごとに別々に分かれた。
「アトランティスの水は、このように七色で、分かれ分かれになっていて、それぞれの色の水には独自の効能があるのです」
「ここは、アトランティスではありません。いいえ、ムーでも、レムリアでもないのです!」
「どうやらそのようですね。でも人々の欲は深く、強者は弱者を虐げ、国々は細かく分かれ、その国の中でも権謀術数が渦巻いているのは、どこも同じ…」
[アミテス、悪いことは言わない。元の宝石に戻って]
  ジュエル・ビーストは宝石に覆われた獣に戻ってアミテスに近寄ろうとした。
  アミテスが指の先から閃光を放つと、獣は鞭撃たれた獣のように弾き飛ばされ、同時に覆っていた宝石が数十個、バラバラと剥がれ落ちてこぼれた。
「元の宝石に戻ってどうするの?  いつも暗くて狭い宝石箱の中に閉じ込められ、強欲な国王や魔導士の命ずるままに街を焼き、罪もない人々を襲って暮らすのですか?」
  ジュエル・ビーストは起き上がろうとして再び倒れ、さらにいくつかの宝石をぶちまけた。
  口のある植物は一斉にケタケタと笑い、林は拍手するように手の形の葉を擦り合わせた。眼のある花もその目尻を下げたように見えた。「何と言うことを…  気が合わなかったとは言えかつての仲間を…」
  エアは傷付いたジュエル・ビーストに駆け寄って、その焼けた岩のような膚に剥がれた宝石をひっつけようとしたが、宝石は空しくこぼれ落ちるだけだった。
「愚か者が!  ジュエル・ビースト及びクリスタル・ビーストは、私より遥か後世の魔導士が私を真似て造ったもの。材料も造り方も私に比べれば相当と安っぽい存在よ。一時行動を共にした、いいえ、させられたとはいえ友情など感じているとでも思ったの?  まして太刀打ち出来るなんて考えないことね」
  アミテスは受け止めたジュエル・ビーストの宝石を手の中で粉々に砕いた。
「さあ、エア、あなたは私の部屋をこそ泥みたいに荒らして、怪獣模様の小さな宝石箱を盗んだでしょう。それにはキャクサレスから私が取り戻した、愚かな魔導士によって砕かれた私の半身が入っています。それにジュエル・ビースト、おまえも私の姉妹を殺して得た破片をいくつか持っているでしょう。
  おとなしく返せば命だけは助け、下僕として使ってあげましょう。さあ、早く!」
  アミテスは両手を大きく広げて差し出しながら、エアとジュエル・ビーストの方に近付いた。
[絶対に渡すなよ。ますます手が付けられなくなるぞ]
  ジュエル・ビーストはよろめきながら立ち上がった。
「エア、貴方は私の妹、能力も優れているはずです。早く私と一体となって、より完全な身体に戻れるようにしましょう」
「破片を一つ残らず集め、元の一個の宝石に戻ったらどうするつもりなの?」
  エアは後じさりしながら腿に隠した懐剣をスラリと抜き放った。
「そんなこと、一かけらの貴方などには関係ない。心臓石の私に従えばよいのだ!」
  アミテスの身体から白銀色の光が沸き上がった。
「いやよ!  私はいまのエアという女の子がとても気に入っているの。そんな風に威張るアミテスなんか大嫌いよ」
「おのれ、盗人!  では貴方のような、合体しても宝石の傷にしかならないような破片はいらないから、宝石箱だけ返しなさい!」
[返すなよ]
  ジュエル・ビーストが再び立ち上がり、身体に気迫を込めると、全身の宝石が色とりどりの眩い光を出した。
  エアは懐から小さな宝石箱を取り出して、まるで小さな命でもあるかのように見詰めて尋ねた。
「アミテスのところに帰って一つの宝石に戻りたい?」
『嫌です…』
  宝石箱からは蚊の鳴くようなか細い思念が返ってきた。
「何故だ?  命になり得ずして破片のままなのが、或は身体を得ても、醜い化け物や、
弱々しい人間のどこが良いのだ?  一個の完全な宝石として存在すれば、永遠の命と、素晴らしい力が得られるのに…」
  アミテスも宝石箱を問い詰めた。
『エアのような…  人間が良い…』
「という訳です、アミテス」
  エアは宝石箱をハッシと握り直すと、改めて身構えた。
「やむを得ません。かつて同じ身体、同じ魂だった者と戦いたくはなかったのですが」
  強い光の中でアミテスは白銀色の狼に変身し、エアに襲い掛かった。
  エアは懐剣を振りかざし、オリハルコン・ビーストの喉に狙いを付けて駆け出した。
  だが、乾坤一擲の鋼の突きも、懐剣が相手の身体に触れる前に飴のように溶けて飛び
散った。
  片や、オリハルコン・ビーストの一撃は、エアの褐色の胸を深々と破った。白い寛衣が見る見る真っ赤に染まり、だらんと垂れ下
がった。
[見ろ、やはり無理だ。俺がやってみる]
  ジュエル・ビーストは身体じゅうの宝石の中から、合体吸収したクリスタル・ビーストの水晶の粒だけを逆立てると、そこから凍る吹雪をオリハルコン・ビーストに向かって吹き付けた。
  怪奇な植物は雪や冷気が当ると見る見る萎み、腐り、枯れ倒れた。
  だがオリハルコン・ビーストは素早い動きで巧みに冷気の直撃を避けていた。
[全ての破片を取り戻していないとは言え、私の方が遥かに力は上よ]
  白銀色の狼は冷たい金属のような鋭い牙を剥記輝かせてせせら笑った。
  ジュエル・ビーストは次第にかつての頭領オリハルコン・ビーストに追い詰められた。こちらの蹴りやはたきはかすりもせず、逆に敵のそれは殆ど無駄打ちがなく、的確に命中し、その度に身体を守っている宝石が弾けて散った。枯れは今までよりもずっと大きくて深い傷を負い、その傷口からは紅い、或は青い、さらには黄色や乳白色の体液が血のように流れ出ていた。
『あれが空気に触れると固まって七色の宝石になるんだわ』
  エアも自分の深手の激痛に耐え、時々遠のきそうになる意識と闘志を奮い立たせるように髪を激しく振りながら両者の戦いをじっと見詰めていた。
  しかし宝石獣の劣勢は否みようがなく、既に身体中の半分以上の宝石を剥がされ、まるで疥癬病みの老いた野良犬のように醜い斑の獣がよろよろとよろめいているように見えた。[思い知ったか!  この身の程知らずめ。二度とその姿を我が前に現せぬよう、完全に消滅させてやる!]
  オリハルコン・ビーストは宝石獣をいたぶりながら、不気味な植物園の中にあって一際奇怪な草花が群生する一角に追い込んだ。
  そこは、人間の大人一人をそのまま飲み込めるほどの巨大なウツボカズラや、蝿取り草が密生していた。
  ジュエル・ビーストは白銀色の狼によってじわじわと追い詰められていた。蝿取り草はその蓋のような葉の先端の刺に触れるだけで、蓋どうしがアッという間に閉じ合わされて、もし挟まれたら逃れられないようになっている。
  だが、傷付き弱った宝石獣はついうっかりその刺に触れ、両端から迫る蓋に囲まれてしまった。すぐに正面に飛び出そうとしたところ、オリハルコン・ビーストの鋭い爪ではたかれて、蓋の閉じ合わせの部分に叩きつけられた。そして今一度逃れようとした時には、刺が牢獄の鉄格子の如くがっしりと閉じ合わされた後だった。
  エアは最後の必死の力を振り絞り、オリハルコン・ビーストの脇をすり抜け、味方の飲み込まれた蝿取り草に近寄ると、二本目の懐剣を抜いて、その葉を切り裂こうとした。
[愚か者めが。手間が省けて助かるわ]
  白銀の狼は悠然とその様子を眺めている。
  ムー、もしくはアトランティスの産になるものは草に至るまで巨大かつ堅く、エアがいくら懐剣を叩きつけるように刺そうとしても、裂け目どころか小さな穴すら開かなかった。
  葉と葉の中ではジュエル・ビーストがしきりに暴れ、のたうち回っている。
「しっかり!」
[もう俺に構わず逃げろ!  早く!]
「でも!」
[宝石箱の破片と、おまえが体内に持っている破片を取り戻すと、奴は奴の言う完全な姿に戻る!]
  とその時、依然として蟹の甲羅のような蝿取り草の葉と格闘していたエアの両手両足を触手のような細い蔦が掴んだかと思うと、
アッという間に宙空高く持ち上げられて、
八ツ裂きにされかけた。
[待て、そやつの人間の肉体はいくらでもくれてやるが、中のオリハルコンの破片と宝石箱とは私のものだからな]
  白銀色の狼が叫ぶと、蔦達はエアを裂くのをピタリと止めた。
  蔦の中の最も細いものがエアのズタズタの寛衣の内側をまさぐり、宝石箱を見つけて掲げた。
『嫌です!  邪悪な心臓石の元に戻るくらいなら、エアのような心優しい周辺石の元に戻りたい!』
  宝石箱は主アミテスに向かって叫んだ。
[やかましい!  おまえ達の主はエアなどではない。私だ!]
  そんなことをしている間に、ジュエル・ビーストを挟んで膨らんでいた蝿取り草は、元のように平たくなり、葉を再び開いた。
  その内側は、七色の鱗色に光る液体でびっしょりと濡れていた。
  そして葉の先端の刺の間から、七色に小さく輝く宝石と、水晶がそれぞれ一個ずつぽろりと転がり落ちた。
  オリハルコン・ビーストは人間の姿、裸のアミテスに戻ると、それらの心臓石を拾い上げ、お手玉のように弄んだ。
「さて、どうしようか。握り潰して塵にしてしまおうか。それともこの酸の中に入れて溶かしてしまおうか」
  アミテスは樽ほどもあるウツボカズラの花筒に心臓石を弾き入れる仕草をした。
「やめて、助けて上げて!  私はともかく、ジュエル・ビースト達は昔の仲間なのでしょう?」
  エアは虚空に捕らわれながらも嘆願した。[それはそう。でも逆らう者を味方にするのは無理だわ…]
[ちょっと待ってくれ。俺はいままで通りあんたに協力するぜ]
  水晶が言った。
「そう、それはお利口ね。ジュエル・ビースト、あなたはどうなの?」
[俺はおまえを封じたら、もう人間に係わり合わないで、自由に、のんびりゆっくり暮らすんだ。なあ、オリハルコン・ビースト、悪いことは言わない。おまえもそうしたらどうだ?]
「うるさい!  私は魔を操る女王アミテスとして、愚かな人間共を総べるのだ。おまえなど一思いに殺してやりたいのは山々だが、おまえの集めた我が破片の隠し場所を話せば命だけは助けてやる」
[断る!]
  心臓石はそう叫ぶと、七色の閃光を上げて急速に回転を始め、アミテスの手から逃れた。「おのれ、もうどうでもいい、消滅させてやる!」
  人間の姿のアミテスは両手の間で灼熱の光球を作ると、ジュエル・ビーストの心臓石目がけて叩き付けた。
[エア、受け取れ!  これはおまえのものだ!]
  その瞬間、心臓石から一筋の白銀色の光が宙吊りのエアに伸び、ジュエル・ビーストによって集められたオリハルコンの破片がエアの胎内に返された。
「やはり持ち歩いていたか。こんなことならもっとよく調べておけば良かった…」
  アミテスは悔やんだが最早後の祭りだった。
  光球を受けたジュエル・ビーストの心臓石は、眩しい閃光とともに、粉々に砕け散った。その際の光はアミテスでさえ目を覆うぐらいだったから、蝿取り草は葉を閉じたり開いたりを滅茶苦茶に繰り返し、ウツボカズラは花筒の中の酸を沸騰させ、蔦は衝撃の余り捕らえていた獲物を思わず取り落とした。
「気の毒ね、アミテス。ジュエル・ビーストは持つ者の野心を叶える石。その心臓石を破壊した貴方にもはや野望の達成はないわ!」
  自由になったエアは紫の長い髪をなびかせ、しなやかな獣のように宙空で身体を二三回回転させると、ひらりと柔らかな土の上に着地した。そしてウツボカズラの花筒からこぼれ落ちて、地面をプスプスと溶かしている酸に宝石箱の鍵の部分を浸した。
  頑丈だった鍵はすぐに溶けたものの、それでも相変わらず箱は開かなかった。
「それは何をしても開かない。真の主である私が如何なる魔法を駆使しても開かなかったのだ」
  ようやく目が元に戻ったアミテスは、再び獣、オリハルコン・ビーストの姿になりながら言った。
『何故開かなかったのか教えましょうか』
  箱の中から今までにない強烈な思念が届いた。
[それは、私たちが全ての力を使って必死で内側から鍵を掛けていたからよ。でも、もうその必要もないわ]
  エアが何もしていないのに、宝石箱は一人でに開いた。
  そこからさらに刺し燃える光が、エアを避け、オリハルコン・ビーストの方にだけ向かった。流石のオリハルコン・ビーストもたじろぎ、エアに迫ることが出来ない…
  中には白銀色に光り輝く、金属でも硝子でも宝石でもない物質の破片が五十以上、真紅のビロードに包まれて入っていた。
  その不思議な物質、オリハルコンは限りなく優しい思いの波でエアに囁いた。
『あなたと一緒になっていい?』
「ええ、いいわ」
  オリハルコンは光の流れになると、エアの身体の中に入った。見る間に傷が塞がり治って行く…
  それと同時に、エアは背は縮み、爪と牙は伸び、全身はグラス・ウールのような毛に包まれて、アミテスと同じ白銀色の狼に変身した。
[そんな…]
  アミテスは狼狽したが、すぐに牙を剥いてエアに迫って来た。
[ジュエル・ビーストはね]
  エアは王妃の攻撃を巧みに避けながら反撃に転じた。
[アミテス、貴方が好きだったみたいよ]
  アミテスがハッとした隙に、エアは相手の喉笛を深々と喰い破った。
[そんな…]
  アミテスは銀色の血を滴らせながら、よろめき逃げようとした。そんなアミテスの身体から残りのオリハルコンの破片が抜け出て、エアの元に戻った。
  殆どの破片を失ったアミテスは元の王妃の姿に戻った。
  怪かしの庭と化していた空中庭園も一夜茸が朝日を受けて溶け去るように元の美しい庭園に戻った。跳梁跋扈していた獣達もまるでそれまでが幻であったかのように消え去った。
  王も家来衆も次々に元に戻った。

「エア、勝手だが一つだけ願いがある…」
  エアの腕に抱かれたアミテスは、息も絶え絶えに言った。
「何、姉さん…」
  エアは瞳を潤ませながら。妹が姉を抱くようにアミテスの身体を優しく抱き締めた。
「これからはおまえがアミテスを勤めて欲しい…」
「分かったわ…」
「アミテスは懐郷病になったり、人間嫌いになったりせぬ立派な王妃です…」
「私もそう思うわ…」
  エアが答えると、オリハルコン・ビーストは眠りに落ちるように目を閉じ、塵となって消滅した。その後には、くすみ、錆び付いたオリハルコンのやや大きめの破片が一つ残されたが、それもやがて塵に帰った。

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