ニムルドの遺産

  今を遡ること二五○○年余り前、中東両河地方では新バビロニア帝国が世界の覇権を握っており、そこにはネブカドネザル二世という僭王が君臨していた。抬頭してきた隣国の新興国家メディアより美しく凛々しい妃アミテスを迎え、その懐郷病を慰める為に莫大な国家予算を投じて、都バビロンの宮殿内に壮大な空中庭園を築かせた王である。
  余り人には知られていないが、このネブカドネザル王には目の上のたんこぶの敵、ユダ王国のジェリコやエルサレム、埃及王国のテュロスなどの各城砦都市を落とす事以外に生涯を賭けた夢があった。
  それは国の北辺、自らがメディア王と連合軍を作って滅ぼしたアッシリアの首都ニネヴェのやや南、古代都市ニムルドに眠り続けている莫大な遺産の発掘である。
  その昔、「ノアの箱舟」のノアの長男ハムの孫ニムロデは、伝説による人類最初の権力者、即ち「王」、「主の前に力ある狩猟者」となった。
  ニムロデは始めバビロニア、即ち両河(メソポタミア)地方南部を支配していたが、後に北方のアッシリア諸都市を建設した。そのうちの一つにカラーという名のアクロポリスがあり、この都市をとりわけ気に入った彼は自らの名を与えて「ニムルド」とした本格的な都市の建設は、今より三二○○年前、中期アッシリアの王シャルマナセルの時代から始まった、と言われる。そして二八○○年前に新アッシリアのアッシュール・ナンシパル二世によって再興され、エサルハドン王に至るまで、代々のアッシリア王の玉座があった由緒正しい都だった。
  宮殿、神殿は言うに及ばず、巨大な記念碑、石像、黒大理石の奉献石柱(オベリスク)がひしめき、十万人の人々が住んでいた。
  ニネヴェが陥落した際にこの美しい街も火が掛けられ略奪にあったのだが、それでもまだ、密かにに眠っていると言われる金銀財宝の量は莫大なものと推測された。
  だが、ネブカドネザル王が真に欲しがったのは、そんなものではない。金、銀、宝石などだったら、都バビロンの百の宝石倉に溢れ、入り切れない分は庭の敷石に、池の玉石代わりに使われた程である。宮殿の官舎では、貴顯達の子女が石蹴り遊びの石代わりに宝玉を使っており、その辺りでは何の変哲もない普通の石ころの方が却って珍重された、というのも決して誇張ではない。
  ネブカドネザル王が欲したのは、「水の中でも暮らせる不思議な珠」や「異なる世界を次々と写し出す『黒の鏡』と呼ばれる鏡」
だった。
  このうち「水中云々〜」については謎めいた言われがある。
  ノアが箱舟を建設し、動物を一番ずつ乗せているのを見た、とある邪悪な魔導士もまた遅らばせながら神の怒りによる大洪水を察知した。しかし、今からでは船を作ることは間に合わなかったので、魔神を拝み倒して、水の中で魚に変身する呪法を教えてもらった。
  伝説ではその魔導士の名を「ダムキナ」と言い、女性であったと伝えられている。
  さて、愈々大雨が降り出し、大洪水が起きた。ノア達の箱舟は浮かび上がり、女魔導士達はここぞとばかりに魚に変身した。ところが安全な箱舟の中に比べて、氾濫した水の中はそうは行かなかった。大洪水はそれまで堅く封印されていた人類以前の支配者、龍やさらに恐ろしい存在を大海溝の裂け目から、或は深海底の神殿から解き放ち、あざとい方法で審判を逃れようとしたダムキナ達に襲い掛かった。驚いた魔導士一党は必死で箱舟の扉を叩いたが、覗き穴から覗いたノアの目には彼等自体が怪物に写ったので、船には入れてもらえなかった。
  ところが、ノアの長男ハムは、その中の一匹に、かつて共に魔法を学んだ仲間の面影を見た。化け物の姿になってはいても、かつての美貌の女魔導士ダムキナには気が付いた。
  伝説はその理由迄伝えてはいないが、おそらく衆人の憶測する通りであろう。
  ダムキナは、男女の交わりによらず、また出産に依ること無く生命を誕生させる、ことを考えていた神をも懼れぬ研究の使徒の長だった。
  ハムにはダムキナとその一統を箱舟に乗せることは神の御意思に反することだと判っていた。しかし、かと言ってどうしてもそのまま見捨てることも出来なかった彼は銛一本を手にして、邪神や怪物同士が戦う嵐の海に飛び込んで行った。
  ハムの獅子奮迅の活躍も空しく、半分魚半分人間のダムキナも深手を負った。ハムに醜い姿の身体を抱きかかえられながら、瀕死の女は感謝の気持ちを身振り手振りで示した後、(このような予期せぬ敵の出現さえなければ)水の中でも、いくらでも生き続けられる方法を教え、アクアマリンの蜻蛉珠を渡した。
  これは、これを口に含んでさえいれば、水中でも空気を得ることが出来る、という優れ物だった。但しその代償として、長く使えば使うほど、身体は水棲に相応しい変形に至る…

  やがて鳩がオリーブの葉をくわえて戻り、ノア達の箱舟がアララット山の頂上に到着してからも、ハムはこの珠を捨て去ることが出来ずに取っておいた。
  時は移り、彼の息子や孫達の手によって大地は緑に甦り、耕された畑には再び黄金色の麦の穂が波打つようになった頃、アクアマリンの珠はハムの孫ニムロデに継承されていた。
  ニムロデもまた、来るべき人類の大洋探検と、水中からの侵冦者に備えて珠を捨て去ることはせず、大洪水の際に紛失を免れた他の宝物ともども、自らの都の神殿の奥深く隠したと伝えられる。
  これがいわゆる「ニムルドの遺産」であって、後世数多の名君暴君を輩出し、時に善政を敷き、時に暴虐を極めたアッシリアの時代に貯えられた財宝の類を指して言う「遺産」ではない…
  探検到査の成果によると、ネブカドネザルより一○○年ほど前の新アッシリアの王、サルゴン二世が居城としていた宮殿の隣に、古代において「エジダ」と呼ばれるバビロニアに起源する神殿がある。ここは何故か、地理的にはかなり南に離れたバビロニアの守護神マルドゥクとその妻タシュメトゥム、その息子ナブを祭る神殿である。
  ここで最も重要とされるのは、主祭神マルドゥクの神殿ではなく、息子ナブ神とタシュメトゥム女神の聖所とされている部分だ。
  そこの壁も他所より厚く、回廊に囲まれていて独立した建物と言っても良いくらいである。
  この神殿には、他と同じく中庭や玉座の間、燔祭の間、粘土板の書庫などがあるが、ここだけにしかないものが一つだけある。
  それは北の門にある砂岩で作られた一対の半魚人の像…わだつみと魔術の神の姿を借りたハムの像と、その妻ダムキナ…で、比較的建築も改修も新しいにも関わらず、伝説に依る「ニムルドの遺産」は、この「魚の門」から入る神殿のどこかで眠り続けているらしい…
  ノアの時代のハムとダムキナ。この初恋同士の二人は石の像となって、初めて契りを交わすことが出来たと言う…
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  新(ネオ)・バビロニア王国第二代の王、ネブカドネザル二世が、メディアの姫アミテスと形だけの結婚して間もない頃、まだ幼さの残る正妃アミテスの心を慰める為、彼女を伴い、国じゅうを行幸した。
  それは、新バビロニアとアミテスの母国メディアの友好を、結婚式に入り切れなかった地方の高官達や民草に見せる為でもあり、帰京の時に、現在バビロンの都で改修工事が進められている空中庭園をアミテスに見せて、「アッと驚かせる」趣向になっていた。
  新・空中庭園は、従来からの滝、硝子の橋や渡り廊下、吹き抜けに加えて、星を間近に見れるように、巨大望遠鏡で捕らえた宇宙銀河の様子を、大きな白絹の幕に写せるはずだった…
  花鎧に花槍に身を固めた数千人の親衛隊に守られたネブカドネザル王と、芳紀一四歳のアミテス正王妃を乗せた三十二頭立ての黄金の馬車が古都ニムルドの本陣に着いた時のことである…
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  盛大な祝典の儀式の後、王が閲兵をしている間、アミテスは時間があったので、ハムやニムルドが建てさせたと言う施療院を慰問に訪れた。そこは不治の病や伝染病に倒れた
人々、それに重傷の傷病兵らが安らかな死を待つ家で、それまでの王妃は誰一人出かけたことのない場所だった。
  アミテスの訪問に献身的に働いている神官や修行僧達は喜び、患者たちの中には感激の余り泣き出す者さえいた。
  夜はいつものように、総督主催の豪華な晩餐会が催され、その地方の高官達、村長や族長、大商人達との会食と謁見が終わると、ネブカドネザル王はアミテスにお休みのキスをして別室に赴いた。
  そこには彼女より三つ四つは年上の、豊満な妾妃達がいて、王が来るのを待っていた。その女達は、総督が気を利かせて選りすぐりの美女を用意していることもあれば、わざわざバビロンから随行した妾妃のこともあった。
  アミテスには何故結婚以来王が自分に寵愛を示してくれないのか、良く分かっていた。
  その理由は二つある。一つは彼女が敵国メディアのキャクサレスの娘であったこと。新バビロニア、メディア、リディア、埃及王国、ユダ王国の勢力の均衡は常に微妙で、「昨日の敵は今日の友」ということもあれば、その逆の事態も往々にしてあった。
  ネブカドネザルは心の底からアミテスを愛し、自分に出来ることは全て彼女に与えたぐらいだから、時々極秘に「メディア奇襲」を献言してくる戦争好きの…王自身もかなりの野心家であることに間違いなかったのだが…反メディア派の有力将軍連中に、痛くもない腹を探られない為、彼等の猛反対を押し切って結婚したアミテスその人には、まるで興味がなかったふりを懸命に装っていた。
  それは相手国メディアでも同じで、この婚約が提案された時に「成り上がり者の息子のネブカドネザルなどに姫をやるな」という意見が国じゅうにごうごうと渦巻いたのだが、父王キャクサレスの鶴の一声で決定してしまったのだった。
  結局、ネブカドネザルもキャクサレスも、互いに一触即発の戦争を避けるには、この見えすぎるほど見え透いた泥縄の政略結婚しかないことが良く分かっていたので、アミテスの哀しみもまた良く理解し、彼女の大抵の無理は聞き届けたと言う。
  もう一つは、アミテスが生まれながらに持っていた優れた不思議な能力だった。ネブカドネザル王は彼女に、今のところは妻としてよりも、一騎当千の女魔導士としての活躍を期待していた…
★
  夜空に湧き上がった雲が月を隠し、星も疎らにした頃、アミテスは起き上がって白い寛衣…魔法を修行する者の平服を小さな荷物としてまとめると、褐色の裸身を吹きつける湿った風に晒して、白銀色の狼に変身した。
  彼女は無敵のオリハルコン・ビースト、好きな時にこの偽りのない本当の姿になることが出来る。だが、もし正体を見られたら、速やかに宮殿を去らねばならないだろう…
  荷物をくわえた彼女は、高い窓から身を躍らせ、ニムルド総督の客舎の中庭に飛び降りた。
  常夜の篝火、松明を囲んで衛兵達が居眠りをしている脇をそっとすり抜け、高い煉瓦の塀をひらりと跳び越えて、かつての十万都市、現在でもその半分から三分の一の人が住むニムルドの街に出た。
  ネブカドネザル王が今宵彼女に頼んだ仕事は、いとも不思議な出来事の真相究明だった。
  事の起こりは半年ほど前に遡る…

  ネブカドネザル王が歴代バビロニア、アッシリアの王達に負けず劣らず、国じゅうに眠る至宝や遺跡の発掘と調査、修復に熱心であることはつとに有名である。
  王はまだアミテスを妻に迎える前、メディア王キャクサレスと連合軍を組織し、アッシリア王シンシャルイシュクンを難攻不落とされたニネヴェの城塞に攻め、見事に滅ぼした直後から、この古い都に十分信頼出来る博士を派遣して、前述の仕事に当らせていた。
  メルヒオールという名のその博士は、ネブカドネザルの父ナボポラッサルや、その君主アッシリア王アッシュール・バニパルにも仕えた老博士だった。
  元々アッシュール・バニパル王の先代、エサルハドン王にその碩学を見出されたメルヒオールは、その誠実さと実直さを高く評価されていた。アッシュール・バニパルによってナボポラッサルが新バビロンの城主総督として任命された際に、ナボポラッサルが就任の条件としてメルヒオールを譲ってもらうことを唯一の条件にしたことは、今も澣琳院の長老達の語り草になっているほどである。
「そんな地位も名誉も極めた齢二○○歳近いメルヒオールを、調査の責任者にする、ということは、このニムルドの土地のどこかには、今尚とてつもないものが眠っているのだ」
と言った噂がそこここで囁かれ、ならず者の墓荒らし達を再び呼び寄せてしまう結果にもなった。
  だが当のメルヒオールはそんな些事には一向に頓着せず、若い弟子達に交じって、その身体をすっぽりと覆う黒く長い寛衣を泥水に浸し、炎熱の太陽を目深い頭巾で遮って、黙々と王より命じられた仕事に勤しんでいた。
  そんなメルヒオールが数日前一○数名の弟子もろとも、…いや、まだそれだけならいざ知らず、下働きの人夫百余名もろとも忽然と姿を消したのだから、これは大事件だった。
  周章狼狽する総督に、ネブカドネザル王は勤めて平静を装い、予定通りの行事を取り行うように命令した。
  とは言っても、ニムルドを訪れた王に対する最大の行事は、そこでの発掘作業の天覧と、出土品を前にしての大博士メルヒオールの進講のはずだったので、関係者一同が大慌てに慌てるのも無理からぬことだった。
  結局公的には「メルヒオール一同は伝染性の風邪に罹患し、隔離療養所にて回復中」ということにして世間の納得を得たものの、この真相は既に巷間一般にも知れ渡ってしまっていた。
  一刻も早くメルヒオール博士一行を発見しなければ、王の権威に小さくない瑕疵が付くのは必至だった。
  無論ニムルド総督も、憲兵隊に聞き込みに当らせ、土地勘のある密偵を動員して全力で捜査し、王は首都バビロンから霊力溢れる占師を呼び寄せて協力させたが、いずれも一向に埒があかなかった、
  メルヒオール大博士と十余名の直弟子、それに百余名の人夫は、タシュメトム女神とナブ神の神殿の北門、半人半魚のハムとダムキナの夫婦の神の神像が向き合って立つ入口近くの中庭で、いつものように縄を方眼に張り巡らせ、あくまで学問的系統的に真面目に発掘作業に当っている最中、一瞬のうちに全員が煙のように消え去ったのだった。
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  白銀色の雌狼の姿で、問題のその現場、
「魚の門」に到着したアミテスは、柱の陰で少女の姿に戻り、持参した白の寛衣をふわりと羽織った。
  中庭は、慌てふためいたニムルド総督と兵士達によって数尋の深さまで掘り下げられていた。総督の推理では「消失した人々は決して神殿の外へは出ておらず(そのすぐ外では十分信頼するに足る別の班が、やはり発掘作業をしていた)秘密の通路か何かを経由して地底に攫われた」はずだったが、現在までのところ、神殿の地下にはこれだけの人数をこれほどの長時間閉じ込めておくような広い空間は発見されていない。
  さらに奇々怪々なことに、メルヒオール大博士が公式に記録していた粘土板による発掘記録のうち、失踪二、三日前の分から紛失していた。発掘の機密を守る為に、弟子達は私的に日記を付けることは厳重に禁止されていたので、この記録の欠落は意味深長だった。
  つまり、博士たちを誘拐した敵がいると仮定して、彼等は字が読める、とか、博士自身が自分で記録した日誌を事件の直前自ら破棄した、とか、弟子達の中に裏切り者がいる、とか、いろんなことが憶測された。
  アミテスは松明を灯し、しばらくの間百数十名消失の現場を調べて見たが、地面が掘り返されているだけで、何等不審なところはなかった。
  仕方なく、ハム、ダムキナの半人半魚の夫婦の神像の台座にひらりと跳び上がって、叩いて音を聞いたり、あっちこっちを押してみたりした。神像は砂岩を削って造った普通のものであるが、眼に嵌め込まれていたと思われる宝石は、とうの昔に盗人の手に掛かって消失し、その代わりに、メルヒオール率いる王立発掘隊の有志がつい最近、仮修復した安物の硝子玉が嵌め込まれていた。
  無論、調査発掘を始めるに当っては神官や呪術師が呼ばれて、盛大に清めと祓いの儀式が行われたことは言うまでもない…
『昔はこの眼に素晴らしい宝石が嵌まっていて、爛々と輝いていたに違いないわ。でも何もないよりはこの方がよほどましね』
  アミテスはダムキナの像と向き合いながら、その眼に嵌った硝子玉に精神を集中し、ゆっくりと話しかけた。
『私はオリハルコンの精と人間の子アミテス、硝子玉、もし心あらば答えなさい。ここにいた大博士メルヒオールと一○○人の人間を知りませんか?』
  硝子玉は、人間とのハーフとは言え、身分の高い宝石からの質問に戸惑っていたが、やがてその眼に別の神格が宿り、支配し始めた。[オリハルコン?  ならば地の精であるな。妾はわだつみの女神ダムキナ。…いいや、それよりも大洪水の際に、生き延びる方法を求めてあのノアの爺さんを張り合った魔導士ダムキナと言った方がよいかも知れぬ。例え何を見て知っていようと、そちに告げなければならぬ義務はないわ]
  言うが早いかダムキナ像は見る見る湿気を帯び、乾いてすべすべだった表面はぬめって勤続のようにささくれだった。そして胸鰭でアミテスの身体をハッシと捕らえると、鯖折りに締めつけた。
『生きていたのか、ダムキナ!』
  虚を突かれたアミテスは罠から抜け出せずにもがいた。
[いままで両目を奪われて不自由していたが、奴等が安物ではあるが戻してくれたお陰で、数千年ぶりに見ることができた。遠からず、今度こそ、我等一統をまんまと騙したメルヒオールと名の付く子孫末裔の全てに復讐し、ノアの子孫…即ち善良ぶった人間を皆殺しにして、我等の世となることでしょう]
  砂岩の像だったダムキナは今や全身堅い鱗に覆われ、海水と海草のぬめりを滴らせ、ずらりと鋭い牙の並んだ大きな口をパックリと開けた怪物として甦った。
『何ですって!』
  アミテスは再び白銀色の狼に変身して、すり抜けようとしたが、彼女の正体をすでに目撃しているダムキナは、その腕をがっちりと掴んで離さなかった。
[あの時、初代メルヒオールにまんまと一杯喰わせられさえしなければ、世界は我等のものになっていたのです。二度目は誰にも邪魔させないわ]
  ダムキナがこれほど暴れているというのに、何故か彼女の夫神の方は微動だにしなかった。
  それもそのはず、ハムの肖像を真似たわだつみの男神像は、首のところで切断され再び漆喰でつなげた跡があった。
『あなたの幻のご主人は、その事業には余り乗り気ではないようね』
[…あの人は、丸め込まれたのです。私達の息子のマルドゥクが人間の守護者として、またバビロンの主神として崇められているのに満足して、色鮮やかなかつての夢を捨て、ただ陸地を這い回るだけの人間という存在に妥協満足してしまったのです!]
  ダムキナがアミテスの背骨を折ろうとした瞬間、アミテスは一個の宝石…オリハルコンに変身してすり抜け、地面に落ちる直前にまた少女の姿に戻り、あっけに取られるダムキナから寛衣をひったくって取り戻して、羽織った。
[なるほど、結構いろいろ出来るのだな。それだけの力がありながら、どうして人間の顔色を伺って暮らしているのだ?]
  ダムキナは海水を滴らせながら、台座の上からドシリと飛び降りてきた。
『いくら先祖に恨みがあるからと言って、子孫は関係ないでしょう。メルヒオール博士と百余名の人間を返しなさい!』
[メルヒオールやおまえにはやってもらわねばならぬことがある。残りの人間は人質だ]
  アミテスに一旦逃げられたダムキナは、素早さでは彼女にかなわず、近くの川へ向かってゆっくり後じさった。
[とりあえず、失われた我が目を二つとも持ってこい。でないと、連中の命の保証はせんぞ]
『そんな、大昔に盗まれたものが今どこにあるか…』
[おまえの正体は宝石ではなかったのか、アミテス?  ならば名誉に賭けてでも捜し出して持って来るのだ!]
  ダムキナはそう言い残すと、ティグリスの一支流目がけてざんぶとばかりに身を踊らせた。
  アミテスが追跡しようと岸辺に寄った時には、一丁先に大魚が泳ぎ去るような波光と波しぶきが見えた。
★
  事態の進展をネブカドネザル王に報告すべきか、それとも探索を続けるべきか、しばし迷った末に、アミテスは再び獣の姿に変身して、まっすぐにニムルドの南東、早馬でも二三日はかかるバビロンの宮殿を目指した。
『メルヒオール以外の人々が殺される、と言っても、それぐらいでは夫は重い腰を上げはしない。…なにしろ一旦戦が始まれば、何万という人が死ぬのだ。ネブカドネザルだけに限らず、王という者は、そんな無名の死者達には気持ちが動かぬように出来ている。
  しかし、そんな無名の者にも、妻や子や、家族や親戚縁者や、友人がいるのだ。彼等は失踪した一人一人のことを真剣に心配し、一刻も早く無事に帰還することを待ち望んでいる…』
  宮殿に着いたアミテスは、オリハルコンの宝石に変身して獅子の毛で編んだ絨緞を敷き詰めた長い廊下を転がり、途中人とすれ違いそうになると、女官の姿に戻って宝石庫担当の宦官の詰所に侵入した。
  ここからは衛兵の警備はさらに厳重だったが、細工師の工房から返されてきた宝石箱の宝飾品の中に紛れ込んだ貴石になど、誰一人注意を払う者などない…
  宝石箱は十にも及ぶ扉を潜り抜け、宦官の手によって、まるで砂利か何かのように無造作にうず高く積まれた宝石の固まりの中にぶちまけられた。宦官はまるでそれらがゴミか何かでもあるように一蔑もせずに手をはたきながら出ていった。幅一尋もの黄金の扉が閉じられ中はまた静かになった。
  アミテスは遠ざかる足音を確かめながら人間の姿に戻ると、山のような金銀宝石達に向かって尋ねた。
『私はオリハルコンの精アミテス。貴方がたの中で、古代ニムルドのタシュメトムとナブの母子の神殿、「魚の門」に立っているダムキナの像の両目に嵌っていた宝玉の行方を知っている者はありませんか』
  彼女の思念に、それまで只の美しい石ころとして眠っていた宝石達は一斉に目を醒まし、ダムキナの目について話を交わし始めた。
  無論、神殿と神像の建設以降に深い土の中から掘り出され、日の目を見た宝石は、それらの故事を知る由もない。
  しかし、それより前に、超古代の王や王子、王妃や姫達の身体を飾り、神像の神体の一部となっていた宝玉達の中には、建像当初のダムキナ像を見た者もあれば、その噂を聞いていた者もあり、代わるがわる答え始めた。
『太古、曾祖父ノアが神の啓示を受けて建造した箱舟によって、無事に地上に命を得たニムロデは、始めそのことを深く神に感謝し、両河地方の王になったぐらいだが、後にその事をきれいさっぱりと忘れ、より広大な土地を支配したい、と思った。
  その為には、深い河を渡り、怒涛逆巻く海を越えて軍隊を派遣しなければならない。しかし、昔も今も川や海は…実のところは陸もそうなのだが…人間の完全に御せる所ではない。
  ニムロデ王がより汎き土地の支配者にならんとして派遣した軍隊は、地中海で、紅海で、亜拉毘亜湾で次々と難破し、野望は成らなかった。
  業を煮やしたニムロデ王は、神が曾祖父に示した教訓を忘れ、神によって処断された人々が箱舟の代わりに縋ろうとした魔法の珠の存在を思い出した。箱船で漂流していた際に、祖父のハムが波間で怪物に襲われているかつての恋人を助けようとして謝礼に貰ったアクアマリンの蜻蛉珠のことを…
  試しにその蜻蛉珠を乗せて派遣した軍船は、一隻も嵐に会うことなく敵地に上陸することが出来、彼の地を征服することができた。
  次にニムロデ王が考えたことは、この珠をいくつも造り出し、それを海軍の全ての部隊に持たせることだった。珠が一つしかなければ、海外は一度に一箇所しか安全に攻めることが出来ない。またそれを誰に持たせるかで将軍同士の要らざる妬みも生じる…
  王は国じゅうの学者や魔導士を総動員して、それとそっくりなものを造ろうとした。珪石石英の鉱山があちこちで掘られ、それ専門の細工師が育成された。
  だが、いくら外見が全く同じものを造っても、それらに嵐の海を乗り切る力もなければ川の濁流を押さえる力もなかった。
  ちなみに、両河地方に硝子細工の技術が発展したのは、このことがきっかけだったと伝えられる…
  悶々としているニムロデ王のところに、ある大嵐の夜、一人の訪問者が現れた。
  その者はびしょ濡れで、絶えず蝸牛か、なめくじのようなぬめりを引きずり、厳重な警備兵の目をどうかいくぐったのか、突如王の寝所に現れ、くぐもった声でこう言った。
「その珠を造ろうといくら努力してもまるで無駄なことだ。その珠は人間が造ったものでもなければ、神が造ったものですらない。
  もっとも、珠がもっと数欲しいのなら、集め方を教えてやらぬでもない」
  大変興味のある申し出に、王は衛兵を呼ぶのを止めて、その者の話に聴き入った。
  蜻蜻蛉珠を集める方法を教えること代償は、例の大洪水で亡くなり、或は辛うじて生き延びたものの二度と陸に姿を現すことの出来なくなった「神の怒りを受けた者達」を慰めることだった。
  ニムロデ王が取引に応じた瞬間、取り分け大きな稲妻が走った。その電光で相手の両手には水掻きが、顔は腮がある半人半魚の女の姿であるのが分かった。ハムの腕の中で死んだと思われていたタムキナは、死に切れず、魚人の上、半死の化け物となってずっと世界を彷徨していたのだ。
  王はその者との約束通り、ニムルドの丘の、現在はタシュメトムとナブの神殿になっている処の辺りに「失われし者達の神殿」を建てた…
  その北側の門に建てられたのが、後世ダムキナの名で呼ばれる魚人の像である。王はその中にボロボロだったダムキナの身体と心を閉じ込めて祭り、慰めた。
  ニムロデ王は、教えられた方法で集めた蜻蛉珠の力を借りて、世界の様々な大陸を片っ端から略奪、征服した。当然このことがまた神の怒りを招いたことは、皆がよく知っている通りである。
  さて、王は集めた宝珠の中で、祖父のハムから遺産継承した一際大きく立派なものをダムキナ像の片目に嵌め込んだ。それは、「水の中でも人間の姿のまま息が出来る」と言う目も醒めるほど鮮やかな水色をしたアクアマリンの蜻蛉珠である。
  像のもう片方の目には「陸の上でも魚の姿のまま息が出来る」という紫真珠を嵌め込んだ。王は魚人の長と取引し、陸の国土の半分を彼等に割譲することを密約していて、言うまでもなくこの紫真珠はその約束達成の際には絶対に必要欠くべからざるものだった。
  それ以前に、魚人達の間でも内紛もあり、「今となっては再び陸に戻ることも辛きことばかり故、固辞する」という意見を述べた一統は、ダムキナによって過酷な制裁を受けた。一人残らず斬首されたのだ。
  神殿に於てダムキナと向き合っている彼女の架空の夫も、その時粛正され、像もまた同じ処遇を受け、遂に宝石も嵌め込まれないままになった…』
「そのアクアマリンと紫真珠はいま何処に?」
  王妃としてのアミテスが鋭く尋ねると、宝石達は一瞬肩をすくめるように、暗闇の中で一瞬明滅した。
「…ネブカドネザル王の正妻、新バビロンの王妃アミテスとして命令する。知っている者は答えよ」
  宝石達は夜のしじまの中でなかなか再び輝こうとはしなかった。と、宝石の中でも比較的身分の低い小さな猫目石が恐る恐る語った。『ソドムとゴモラが神の雷によって焼かれた際に、アクアマリンはそれがなくては、とても陸の生き物は行けないような深い海の底に、紫真珠は海より最も遠い天空のどこかに封印された、と伝説は伝えております』
「それだけ聞けば十分だ」
  アミテスは一旦宝玉に戻り、そこからさらにオリハルコンの砂となって、扉の僅かな隙間から宮殿の外へ出ると、夜の空に舞い上がった。
  そして海の上に出ると、一粒一粒が蜆蝶のようなごく小さな小さな箔片となって飛び続けた。星明かりに照らされて輝くそれらを、もしも不寝番の船乗りが見たならば、さながら楽園を求めて海を渡る蝶の群れに写ったかも知れない。
『「最も深い海」…  我が故郷ムー、アトランティスの水没跡に出来た大海溝に違いない。太平洋、大西洋、果たしてどちらの海だ?』
  少し迷った末に、まず太平洋上、かつてムー大陸の都ヒラニブラのあった辺りの海面上空に到着した蝶達は、そこでためらいなくみんな一斉に一つの蜜に集まるかの如く心臓石に集まり、元の一個の宝石に戻った。
  オリハルコンは海の中では陸にある以上に一段と輝いた。
『この海の底に、この世界で最も深い海の底ルルイエ大海溝があるはず…』
  アミテスは群れ遊ぶ魚群の中を、雪のように降り積もるマリン・スノーの中をゆっくりと沈んで行った。
  やがて、魚は魚屋の店先で見られるようなごくありふれたものから、口だけが異様に大きい海蛇のような、或は全身を甲冑のような堅い甲羅に覆われた、また或はグロテスクな顔の先に発光体をぶらさげたものに変わった。
  ゆらゆらと揺れていた海草も珊瑚も姿を消し、代わりにカツオノエボシのような、いろんな下等な生物が集まって一つの大きな生物を形造っている群体や、やたら足の長い海老や蟹、それにクラゲなどが目につくようになってきた。
『うっかり人間や獣の姿に戻ったら、たちまち押し潰されてしまう…』
  宝石の姿のアミテスはねそう自分にいい聞かせながら、なおも奥深い海底を目指した。
  ずいぶんと長い間、自然の落下に身を任せただろうか、ふと気が付くと、回りにはまるでイソギンチャクの触手の部分をバラバラにしたような原生生物や、一瞬ごとにその形を変え得るクラゲが泳いでいた。透明なシラスによく似た細長い生物には、白の他に黒や赤、毒茸のような斑な模様のものもいた。
  そのうちに、アミテスのま下に幾棟もの希臘風の神殿の屋根が見えてきた。ノアよりさらに昔、果てしなき戦争の末、遂に禁断の最終兵器…魔法によるいくつもの人工大地震…をもて遊んで遂に一夜にして水没したムー帝国の首都ヒラニブラの街並みである…
  それらの建物は屋根こと僅かに人間の家だった面影があるものの、壁面や内部は牛糞のような青緑色の石筍のような物質で塗り固められていて、今は明らかに他の生き物の棲み家になっている様子だった。
  オリハルコンはそのかつての入口の一つに辿り着くと、そこからは球のように転がってさらに奥を目指した…
  例のおぞましい壁には、さらにその上に、膨大な量の、啖のような、卵白のような粘液が塗り重ねられていて、ここが地上だったら蜘蛛の巣に見えたかも知れないかのように、あちこち掛け渡されていた。
  かつては磨き抜かれた大理石だったはずの地面にも、それが吐瀉してあったので、アミテスはそれに引っ掛かからないように水中を漂ってさらに先に進んだ
  その先には宝石庫があり、ムーの人々を飾った数多の宝石が、バビロンの宝石庫と同じ位無造作に積み上げられたままになっている。
  彼女はそこの宝石達にも尋ねた。
『永劫の闇に沈みしムーの宝石達よ。創世記の頃、ノアに無念の敗北を喫した女魔導士・わだつみの女神ダムキナにニムルドの王ニムロデが捧しアクアマリンの蜻蛉珠の行方を知らぬか?』
[その声は、かつてムー皇帝ラムウの秘宝中の秘宝の宝石として珍重されたオリハルコンだな?]
  宝石達からさんざめくように返事があった。『然り、私はそのオリハルコンで、いまいる世界ではアミテスと呼ばれている』
[懐かしい…  人間共は今なお、馬鹿げた争いや殺し合いを繰り返しているのか?]
『その通り。繰り返している』
[…そうか、では我々はさらにこのままでいることにしよう。また地上に顔を出せば、また我々を巡って起きなくてもよい争いや殺し合いが起きるだけだ]
『アクアマリンの蜻蛉珠は何処に?』
[それはアクアマリンと呼ばれてはいるが、この星、この世界の石ではない。ノアの洪水の時に紫真珠と共に何処からともなく出現した謎の石で、おまえや我々の仲間でもない]『神に愛された男ロトの手によって、この世界の最も深き深淵であるこの場所に投棄されたはずだ』
[そう言えば少し前…とは言っても数千年前だろうか、上の海に髪の毛と鬚が焦げた男が操る小さな帆船でやってきて、何かとてつもなくまがまがしいものを捨てて行ったな]
『それだ。それは今何処に?』
[奴だ。奴が持って行った。普段我々には見向きもしないのに、あれだけは持って行ったのだ]
『奴、とは誰?』
  尋ねるアミテスの後ろ、ここがかつて神殿だった頃は着飾った王候貴族や高級神官達の花道だったアーチ形の出入口のところに、人間の半分位の大きさの異形が、立っているのか横に成っているのか分からない態勢で数匹が蠹めいていた。
  それは、魚のような、人間のような奇妙な生き物だったが、ダムキナの神像のように美しく整ったものではなく、鱗はいたるところ剥げ、鰭は欠け落ち、目は愚鈍に濁り、いましも滅びようとする種族のそれだった。
『何者だ?』
  アミテスが鋭い思念を送って尋ねると、相手は既に長い時間の間の忘却と退化と果てに知性を無くしていたのか、ただしゃにむにオリハルコン…アミテスを掴み捕まえようとして襲い掛かってきた。
  アミテスは彼等に捕まるまいとして必死に逃げた。彼等の動作や泳ぎはとても長く棲み着いている者とは思えないほど遅かった。
  試しにアミテスが止まり、軽く光り輝いて見せると、それらは水中でのけぞり、転び、半数以上はさらに鱗や鰭や目玉やさらに身体の部分を腐り落として、あたふたと逃げ去った。完璧に死んで、ぷかりと不健康に膨らんだ下腹を上にして天井に浮かび上がった者も何匹かあった。
  中に一匹、死ぬでなく、逃げるでなく、泥の中で静止しているものが一匹いたので、アミテスはそれに近寄って尋ねた。
『ムーの生き残りか?』
  相手は鱗が殆ど禿げ落ちて、剥き出しに
なった魚頭をかすかに頷かせ、息も絶え絶えに言った。
  アミテスがそっと鰓の辺りに回り込んで見ると、そこもまた腐敗し、組織全体が剥落しかけていた。
[我等は貴方と同じ、ムーの末裔…  御承知の通り、栄華を極めた我等の国は、度重なる戦と内乱の末に、海底深く没した。
  だが、その魔神の兵器を使用するに際して「例え大陸全体が水没しても大丈夫だ。我等選ばれし者は海中にこれまでと同じ大帝国を築くであろう」と豪語していた者があったのをご存じか?]
『いいえ、存じません』
[それがムーの大魔導士メルヒオールじゃ]『メルヒオール!』
[如何なる方策があったのか、メルヒオールは最終決戦の迫ったある日、我等腹心数百名に蜻蛉珠を一つずつ配った。…総帥である彼自身はアクアマリンを持ち、部下や従う者には、一見ただの硝子のように見えるがそれでも底知れぬ霊力を秘めた蜻蛉珠を配った。
  それは、人類が神の手によって造られる以前、龍たちが濶歩していた頃よりもさらにさらに以前、別の世界の支配者達…信心深い人々が言うところの魔物達が…道具として伝えたものらしい。
  ラムウ陛下の魔導士長で、主に超古代遺跡の発掘を担当していたメルヒオールは、密かに神聖とされ、帝国開闢以来立入禁止になっていたルルイエ遺溝を密かに訪れて、数々の品々を盗み出していたのだ。
  やがて耳をつんざく地鳴りと共に、全てを破壊し滅ぼした地震が始まった。建物は根こそぎ倒れ、人々はその下敷きになり、地割れに飲み込まれた。阿鼻叫喚の中、広大なる帝国…いや大陸は燃え盛る巨大な炎の固まりとなりながら泥舟のようにズブズブと沈む。小さな舟で逃げようとした者は渦に巻き込まれ、後にノアが神の許しを得て造り、生き延びることに成功したような箱舟に頼ろうとした者は、怒り狂い、死にもの狂いで相打ちを狙ってきた敵の集中砲火を浴びて一隻残らず撃沈された。
  だが、都で一番頑丈な神殿に立て篭もったメルヒオールは、炎が迫っても、津波がどんどんと迫っても眉一つ動かさず、まるでそこが安全無比な城塞の地下壕ででもあるように落ち着き払っていた。
  やがてそこも、本物の地下室となって水没を始めた。当然破壊された場所からは湯のような海水が浸水してくる。肝っ玉の小さい者の中には泣き叫び狂う者も続出する…
  メルヒオールはそんな連中を片っ端から斬り殺した後で、残りの者にルルイエの遺跡から発掘した謎の珠を飲み込むように指示した。すると、不思議なことに、水の中でも息が出来るようになったのだ。
  こうして都ヒラニブラがこの大海溝に完全に沈んだ後も、我々は生き延びることが出来た。但し、泳ぐのに不便だという理由で衣服は捨て、食べる物も海のもの一辺倒になった。
  水没直後から「こんな廃墟の海にぐずくずしていないで、早く陸の新天地を捜して旅立とう」とする者達も多くいた。
  彼等は休息もそこそこに再び海面へ出て、太陽の光を浴び、口や鼻から空気を吸おうとしたが、恐ろしいことに、そこに辿り着くまでに身体のほうが恐ろしい変容を遂げていた。
  分かるだろう?  今のような姿に変わっていたのだ。毛根からは鱗を造る脂がにじみ出したかと思うと、たちまち固まり、あちこちの鰭が生え、代わりに毛髪は抜け落ち、代わりに体じゅうの骨や筋肉は、魚として泳ぎ易いようにがたがたと音を立てて変形した。
  やっとのことで水面に泳ぎ着いた頃には、もう永久に口や鼻では空気を吸うことが出来ない身体になってしまっていた。それよりも何よりも、お互いに人前に出ることの出来ない身体になってしまっていたのだ。
  ある者達は絶望して、鰭になりかけていた手に短刀を持って自決した。だが、その傷口から流れた血ももはや赤くはなく、緑青色の血だった。
  それでもなお、一部の者は諦め切れずに、再び陸に戻ろうとし、もはや海底では何の役にも立たなくなった宝石を携えて、地中海沿岸やその他の土地を指して落ち延びて行った。
  フェニキア人やペリシテ人が「ダゴン」として崇めていた半人半魚の神は、実は我々のかつての仲間だ。
  だが、最初は宝石を交換で陸の食べ物や懐かしい品々を手に入れていた彼等も、次第にそう言ったものに興味がなくなってきた。かつてムーの高官であったことを忘れ、戦によりその土地をおぞましい経緯で失ったことも、さらには人間であったことすら忘れて、よその土地の人々を襲い、脅し、別に食べる訳でもないのに殺した。まるでそうすることに
よって、さながら屍食鬼のように殺した人間が自分達の仲間になってくれるとでも思い込んだみたいに…
  それだけ我々は焦っていたのだ。こうして魔法の力を借りて魚の姿になると、生殖もままならぬようだったし、第一連れてきた女の数も少なかった。彼女達を巡ってまた争いが起き、多数の同志が殺された。
  我々は陸で犯した過ちを無垢の海の中でも繰り返し、憎悪と怨念はいつ果てるとも知れなかった。
  仲間の何人かは魔導士メルヒオールを恨み殺そうとした。メルヒオールもそれに対抗して自らの親衛隊を作って対抗し、ここにまた殺し合いになった。この戦はメルヒオールが勝利を収めて、次のような演説をぶちあげた。「君達はまだこの海の暮らしの方が、陸の暮らしより素敵で快適であることに気付かないのか?  人間の姿よりも、この姿の方が見慣れれば美しいものだ。あくせく働く必要もなく、腹が減ればその辺の魚を食べてしのぐことが出来る。衣装も要らない。住むところも洞穴とか一杯ある。鮫は確かに恐ろしいが、陸にも恐ろしい獣はいる…」
  そこで我等生き残りは気を取り直して、この神殿の廃墟を中心に暮らすことにした。
  いろんなものを全て失った代償に、寿命だけは伸びたかして、もうかれこれ一万年以上生きている。
  その間に、大勢の人々を乗せた葦舟が、滅びし我等の大陸のま上にある大洋を渡り、また冬は、大陸と大陸の間に出来た氷の階(きざはし)を、毛皮にくるった人々が越えて
行った…
  そして時は過ぎ、地上はノアとその仲間の栄える世の中となった。
  正直者ノアが、巨大な箱舟を造り、それに動物を一番ずつと植物などを積み込んでいるのを見た大勢の連中は、「奴は正気じゃない」と笑い飛ばした。が、極く一部の人々の中には「本当に大洪水がやってくる」と信じる者もいたのだ。
  だが彼等のうちの一人、女魔導士ダムキナは、決してノアの真似をして自分達の箱舟を造ろうとはしなかった。もしも訪れる大洪水が真に神の怒りならば、箱舟の複製を造っても無駄であることは伝説の我等ムーの終焉が伝えていた。
  もっともそれでも、もう一つの箱舟は実際に造られたのだ。ノアの仲間でもダムキナの仲間でもない連中、日頃は憎しみ合い殺し合いばかりしていた罪深い連中も、この時とばかりは互いに力を合わせてノアの負けぬぐらい立派で大きい箱舟を作って、神の命令でノア達が見捨てた動物…大小の龍や、麒麟や、グリフィンや、ラオコーン…と植物…食人植物や魔法に用いる、目とか鼻とか口とか手とか、人間の器官を備えたもの…を満載して、時が来るのを待った。
  やがて雨が沛然として降り始めた。箱舟を造っていた連中が正しかったことを知ったその他大勢の人々は、大慌てで箱舟を目指したが、時既に遅く、どちらかの箱舟に辿り着く前に濁流に飲まれ、溺れてしまった。
  さて、箱舟は造らず、他の知恵に頼ろうとしたしたダムキナは、大雨の降り出しに先だって別の快速船を仕立て、ムーの末裔である我等が長メルヒオールのところへとやってきた。
  無論、用件は、造ってもどうせ生き永らえることは出来ないであろう偽箱舟に頼ることなく、大洪水を乗り切る方法、即ち我等のような半人半魚になる方法だった。
  我等の中には、二度と元の人間に戻れず、陸に上がることも不可能になったことを悔やんで、ダムキナ等に思い留まらせるように意見したい者も少なからずいた。しかし長メルヒオールは絶えて久しくなかった新たな仲間の加入に執心で、いざその場になると、彼に逆らいまともな意見をする者など誰もいなかった。
  そして大洪水が始まった。
  ノアと、彼を真似た人々はそれぞれの箱舟に乗り込んだ。大嵐で荒れ狂う海の中、二隻の箱舟の中の乗員はそれぞれ相手の箱舟はどこか遠くへ行ってしまったと思っていた。
  実際には、二隻は一寸先も見えない豪雨の中を何度もぶつかりそうになりながら、すれ違っていたのだ。
  さて、残るダムキナ一派はメルヒオールから貰った蜻蛉珠を使って、我等と同じ魚人となった。メルヒオールはまるで上機嫌で、新たな仲間になった記念に、それまではずっと隠し持っていて我々にも見せてくれたことのなかった問題の取り分け大きなアクアマリンの蜻蛉珠をダムキナにくれてやる気前よさだった。
  やがて、アッという間に全ての陸という陸が水没し、華麗を極めた宮殿も、暄騒を極めた美しい街並みも水面の下となった…
  それでもなお、嵐は一向に収まらず、ついに箱舟のうちの一隻が、以前は雪を頂いていた高い山の頂上にぶつかって座礁し転覆し、粉微塵に砕けて乗っていた者たちともども海の藻屑と消えた。どちらの箱舟だったかは語るまでもないだろう。
  さて、我々と新たに魚人になったダムキナ一派の者たちは、深い海の底でひたすら神の怒りが鎮まるのを待った。何もせず、じっと荒れ続ける海面を眺めていると、かつての王やら将軍やら貴族やら神官やら大商人やら、権勢を欲しいままにした連中にまじって、一見何の罪もなさそうな子をしっかりと抱いた母などの溺死体がさながら船幽霊のようにゆらゆらと漂ってきてそれは哀れなものだった…
  魚人を選んだダムキナ等はメルヒオールから貰ったアクアマリンを水中に掲げ、水掻きのある手を叩いて喜び、自分達の選択が正しかったことを自慢した。ところが、これがまるでぬか喜びだったのだ。
  新たな地鳴りと共に、それまで神によって海底の地中深く封じられていた太古のまがまがしい生き物…千の触手と複眼を持つ蛸とも烏賊ともつかぬ巨大な化け物が突如として現れたかと思うと、誇らしげにアクアマリンを掲げている新参者達を次々にその触手で捕まえては牙の林立する口で丸飲みにした。
 そう、メルヒオールは親切心からアクアマリンを贈ったのではない。神の怒りによって怪物が復活することと、復活した怪物が海に逃れた人間、即ちアクアマリンの所持者を狙うことをきっちり計算に入れていたのだ。
  新しく魚人になった人々はそんなメルヒオールの奸計にまんまとひっかかり、本来本当に神の罰を受けるべきメルヒオールと我々に代わって皆殺しにされた。彼等は皆メルヒオールを恨みに恨んで死んでいった…
  この時、ノアの長男ハムが勇敢にも銛一本で化け物と戦い、彼の腕の中で死んで行ったダムキナから、その礼としてこの呪われたアクアマリンを貰ったのだ。
  アクアマリンはそれからハムの孫ニムロデに伝えられ、一時ダムキナ像の片目となっていたが、余りの呪術力の強大さを恐れた心ある人々の手によって、このルルイエ海溝に捨てられた。結局奇しき因縁で、この宝石は数百年の時を経て、再び魚人の長メルヒオールの手に戻ってきたのだ…]
  そこまで語ると、魚人の長老は話を切った。『ダムキナの魂魄は生きています。ハムの腕の中でこと切れたと思われているのは間違いで、今も虎視耽々と自分達を騙したメルヒオールやあなた方への復讐の機会を狙っています』
[おお、もう終わりだ…]
  老いた魚人は弱々しく最後の泡を吹いた。『メルヒオールは今どこに?』
[ここにはいない。いや、海のどこを捜してもいないだろう]
『と言うと?』
[メルヒオールは、我等腹心すら裏切った。只一アクアマリンを紫真珠に変える術を完成させ、人間に生まれ変わったのだ。今では何食わぬ顔で、どこかの国の宮殿に魔導士として勤めておる。
  その紫真珠は、我等魚人を人間に戻す本物の紫真珠ではなくて、真珠核にアクアマリンをそのまま使っている…
  アクアマリンを奪回したダムキナが攻めてくれば、我々は皆殺しだ!]
『「人間に戻る為り紫真珠を合成した」?
まさか、そんなことをどうやって?』
  アミテスのこの問いに対する答えが、老いた魚人の最後の思念となった。
[この奥に秘密がある…  我等も真似をして紫真珠を合成しようとしたがだめだった…
  秘密を知りたければ見ればよい。ただし、如何にオリハルコンの精とはいえ、もし見つかったら、どうなっても知らんぞ…]
  魚人はこと切れ、ぷかりと腹を上にして神殿の天井に浮かび上がった。
  アミテスはさらに奥を目指して転がった。
  牛糞のような排泄物による壁の痂はますますぶ厚くなる。
  と、深海底の潮の流れがかすかに変わり出したかと思うと、蛸と烏賊を合わせたような小さな原生生物の大群がその潮の流れに乗って神殿の中に入り込んで来た。彼等は視界が無くなるほど大量にいて、壁にへばりついたものは、そのままの態勢で何かを分泌していた。
『どうやら彼等が人間の神殿を彼等の神殿に改築していたみたいね』
  アミテスは彼等の群れの中に紛れて、さらにもっと奥へと進んだ。
  神殿の内陣、この建物が人間のものであった時、主神の像が祭られていた場所には、蔦のような密生した触手を持ち、天井一杯まで届くほどの、この生物の親がいて、増え過ぎた子供を牙の林立した口で海水ごと吸い込んでは食べていた。
  いくつもある複眼のほとんどは何者かによって潰されている。潰された目には何かが刺さっていた痕跡があった。
  ムー大陸沈没の折りに魚人となった魔導士メルヒオールは、この怪物を封印していた封印石アクアマリンを核として怪物の目に埋め込み、その涙で魚人を人間に戻す紫真珠に造り変えていたのだ…

  アミテスは文字通り神殿から転がって出ると、宝石の身体を薄い箔のようにし、エイのような姿になって水流に乗り、無事海面に浮かび上がった。途中、本物のエイが彼女に興味を示して近寄ってきたので、強力な放電で追い払った。
  海面からは、また無数の蝶の姿になって、バビロニア、ニムルドの客舎に飛んで戻った。『あの老博士メルヒオールがムーのメルヒオールと同一人物だったとは!
  ダムキナはせいぜい子孫末裔ぐらいにしか思っていないようだったが、もし当人だと気付いたらどうなるか…』
  人の姿、少女の姿に戻り、沐浴をして身体にこびり着いた潮を落とし、新しい寛衣を羽織ったアミテスは、思わず月を仰ぎ拳で壁を叩いた。
『もしもダムキナが『黒の鏡』の中に捕らえたメルヒオールが、一万年前のムーの末裔、ノアの時代にダムキナとその仲間を欺き殺した末裔などではなく、その本人そのものだと言うことを知ったら、一体どうなる?  魔導を用いた戦争?  果てしない報復?  それに何の罪もないニムルドの人々が巻き込まれる?
  そうなったらもう、私にも、誰の手にも負えない。…やはり策略に長けた夫ネブカドネザルに相談するべきだろうか…』
  アミテスは獣の姿になって、タシュメトムとナブの神殿「魚の門」の処に戻った。
[アミテス、我が目の二つの宝石を持ってきただろうな。持ってこないうちはメルヒオールも、百余名の人質も返さぬぞ]
  少女の姿に戻ったアミテスは唇の端を少し歪めただけで答えない…
[…まあいい、在処と言うか、見当ぐらいは付けて来たのだろうな。でなければ今度はさらにこのニムルドの街ごと、もっとおぞましい化け物がうようよいる異世界へ飛ばしてしまうぞ]
  ダムキナは元の石像の姿に戻って元の場所に立った。やはり、魚人の姿のまま長い間陸の上にいることは出来ない様子だった。
「在処は分かったわ。でもそこへはあなたの操る『黒の鏡』を使わなければ行くことが出来ない」
  アミテスは戦士のように両手を組んでダムキナを睨んだ。
『…まあよかろう。そういうことも大いに有り得るだろう』
  ダムキナ像が湿気を帯びて魚人の姿になると、宮殿の壁面に向かって水掻きのある両手を掲げた。すると、壁からやや黒味を帯びた液体が流れ出したかと思うと、その向う側に三つの色の違う月を頂いた荒寥とした岩山が見え、その裾野の洞穴近くに蠢めくの蝙蝠の化け物の影と、その下の岩陰で怯える百余名の人質の人々の姿が見えた。
[知っているとは思うが、これが『黒の鏡』の実物だ。蜻蛉珠、アクアマリン、紫真珠と同じように、人間が造ったものでも、神が造ったものでもない。異世界を写し、自由に行き来が出来る。閉じ込めておくことは勿論、異世界より異形を召喚して暴れさせることも出来るし、鏡自体の大きさも変えることも出来る。
  つい半年ほど前、何も知らない発掘の人夫がその端っこを見つけ出し、そのままにしておいたのを妾が魔力が溜るのを待って一気に掘り起こしたのだ。途中までかなり深く掘り下げてくれた連中様々よ…
  私はこれを覗いて自分で自分の目の宝石の在処を捜そうとしたけれど、そんな小さな物は無理だった…  この鏡は景色や様子は分かっても鏡の向こうの相手の喋っていることや思念を聞くにはこちらも相当莫大な力を消費する。だから、飛び飛びになったり聞き取りにくかったり、そういう点では決して完璧じゃあない。
  でも、ニムルドの遺産はこれに留めを指すわ]
  鏡の中に閉じ込められている人々の真上には、鉤爪と尖った尻尾のある巨大な蝙蝠のような怪物が群れをなして飛び回り、人質の人々を狙っていた。
[さあ、さっさと我が目の宝石の在処を教えろ。あれが無いと、陸上ではおまえにはかなわないのだ]
  ダムキナは水掻きのある手を小刻みに震わせながら差しのべた。
  アミテスはそんな彼女をわざとじらせるかのように目を鏡の方にそらせた。
「『黒の鏡』を使えばこちらの世界とあちらの世界が自由に行き来出来る、と言ったな?
  それなのに何故、彼等はこちらに帰って来ることが出来ない?」
[それは、現在は妾が魔法で、こちらから向こうへの一方通行にしているからだ。アクアマリンと紫真珠の在処を教えれば、両方通行にしてやる]
「教えろ。とは水臭い。私が取ってきて上げるわ」
  アミテスは小旅行の計画を教えてもらった少女のように微笑むと、黒い液体の流れている鏡の表面に向かってひらりと身を躍らせた。[何のつもりだ!]
  ダムキナはその硝子のうつろな魚眼を見開いて罵ったが、後の祭りだった。
★
  三つの違う色の月のある異世界に飛び込んだアミテスを見て、捕らえられていた人々はてっきり救助の軍隊が来たものと思い、喜んで走り寄ってきた。
「私はネブカドネザル陛下のバビロンの魔導士アミテスです。皆さん落ち着いて下さい」「アミテス、早く僕らを元に戻して下さい。発掘している最中、黒い液体の鏡を見つけた途端にこんなところに飛ばされてしまって…」「家族や友達が心配しています…」
「ここはやたらと気味が悪くて…」
  助手や人夫達は口々に言った。
「大博士メルヒオールはどこですか」
  アミテスは群集を見渡し、博士の姿が見当らないのを確かめて尋ねた。
「先生は『何とか別の出口を見つける』と
言って出かけたままそれっきりで…」
「我々の一部も随行します、と申し上げたのですが固辞されて…」
「とにかく先生はご高齢なので、こっそり後をつけようとしたのですが、不覚にも見失ってしまったのです」
  弟子達は口々に申し立てた。
『一万年以上生き、ムー沈没以来百戦練磨のメルヒオールにこんな者達をまくことぐらい実に簡単だろう』
  アミテスは人々にじっとその場を動かずにいることを約束させて、自らはメルヒオール捜索に出た。何しろ彼と彼の所持する二種類の宝石を何とかして取り返さない限り、元の世界には戻れないのだ…
  岩山を少し歩くと、大理石の切り出し場のようにきれいな方形をした巨大な銀色の結晶がごろごろしている鉱山のようなところに出た。赤や青や黄色の鈍い色の鉱脈が剥き出しのまま縦横に走り、鉱石が転がっている。
  上空の例の巨大な蝙蝠は次第にその数を増し、より低空を飛んでいて、いつ急降下で襲い掛かってきても不思議でないぐらい殺気をみなぎらせていた。
『メルヒオールはアクアマリンを核として海神の眼に埋め込み、その流す涙で人間に戻る為の紫真珠をさながら錬金術のように造り出した魔導士だ。おまけにご丁寧なことに、ダムキナが牢獄代わりにしたこの世界は、そんな材料の宝庫。これは一筋縄では行かないわ』
  鉱山の至るところに、さながら蟻の巣のように縦穴横穴が無数に掘られていた。この掘削をしていた生物は滅び去ったのか、それとも上空で監視している巨大な蝙蝠の化け物に食われたのか、定かではなかった。
『メルヒオールを見なかった?』
  アミテスは心を静めてその辺りに投げ捨てられた鉱石の屑達に尋ねた。
[あんたの言うのがとてつもない錬金術師の老人のことなら、奴はあの穴の奥にいる]
  鉱石達は思念で返事してきた。
『ありがとう。ところで、この穴を掘っていた者達はどうなったの?』
[錬金術をもて遊んだあげく、滅びた。連中は「黒の鏡」を数え切れぬほど沢山作り、そこから異世界の怪物を次から次へと召喚し、戦わせて戦争を行った。結果は相打ち、皆殺しの全滅。莫迦な連中だった。ちなみにいま上を舞っているのがその時呼び出された残党だ。まだ他にも思いもかけない所にいるかもしれないから気を付けろ]
『人間は襲わない?』
[奴等は敵味方の区別がつかないぐらい下等で獰猛だ。三つの月が重なって特別の光を放つと、一斉に攻撃してくるぞ。奴等の食事の時間なんだ]
  アミテスが反射的に振り返ると、三つの月のうち二つはすでに重なっていて、残る一つも急速にその二つに近付きつつ昇っていた。
  アミテスは急いで教えられた洞窟に入った。燐光と光茸の放つ薄ぼんやりとした光が、黴の生えた岩壁を照らしている…
  奥の方からは、化学か何かの実験をしているような異様な臭気が漂ってきている。
「メルヒオール!」
  彼女は声に出して叫んだ。
「…いい加減に自分だけ助かろうなどという浅ましい考えは捨てなさい。ムーの沈没から数えてもう一万年以上も生きたのでしょう?さらにこれ以上生きて、一体何をしたいと言うの?」
  次の瞬間、天井に幾つもの亀裂がパリパリと走ったかと思うと落盤し、大量の土砂が落ちてきた。アミテスは素早くオリハルコンの宝石に戻ったが、逃げる暇はなく、生き埋めになってしまった。
  その後、ゆったりとした暗黒の寛衣に身体を隠し、頭巾を目深にかぶったメルヒオールが現れた。
「ネブカドネザル陛下の王妃であられるアミテス様が宝石の精だったとは、流石の儂も気付かなかったわい」
  メルヒオールは杖の先で埋まった土砂を堀り、アミテスがこの下数尺に深く埋まっていることを確かめると、悠々と元の研究室に戻った。
  そこには亜拉毘亜人の発明になる大小のフラスコやビーカー、試験管が林立しており、それぞれの中には鉱物や薬品を溶かした色とりどりの毒々しい液体がプクプクと発泡していた。
  メルヒオールはその中で最も大きな、老人の彼が両手でやっと抱えられるほどのフラスコを持ち上げると、等身大の肖像画が入るぐらいの真っ黒な方形の鉱石の結晶体の上方から振り掛けた。鉱石はシュウシュウと音を立てて表面が溶け落ちた。空耳かもしれなかったが、その時鉱石は結晶の中心点の辺りから細く鋭い悲鳴のようなものを上げ、その表面はさながら大火傷を負った人間の皮膚のように、ケロイド状に火ぶくれしてめくれ上がった。
「いかん。また失敗じゃ。我が魔理論ではこれで『黒の鏡』と同じものが出来るはずなのじゃが…」
  メルヒオールは一万年の時を経て、人間、魚人、人間と目まぐるしく変身した片鱗をかすかに伺わせる鱗混じりの深い皺だらけの顔をしかめ、立ち上る異臭を僅かに水掻きの残る手で払う仕草をした。
「一体何が足らんと言うのじゃ…」
  暫く隣の結晶岩の上に腰を降ろして思案していた老魔導士は、やがてはたと水掻きのある手を打って叫んだ。
「そうじゃ、さっきの宝石の精アミテスを使ってみよう。命ある宝石ならば念願の『黒の鏡』も完成するかも知れぬし。それにオリハルコンは理屈では高熱の熱線で溶かしでもせぬ限り永遠の命を持っているのだから、儂の終生の研究も遂に完成するやも知れぬ」
  メルヒオールは、先ほどとは逆に、手の中に隠れてしまうほどの小さなフラスコを手にすると、一万歳とは思えない素早さでアミテスを生き埋めにした土砂の頂上に駆け登って中身の液体を一滴振り掛けた。
  ただの一滴のはずなのに、その液体は見る見る土砂を全て完全に溶かして消滅させた。
  メルヒオールはオリハルコンの宝石の形で残っていたアミテスを素早く捕まえると、別の液体の入ったビーカーの中に沈めた。その中では、純金より完璧な金属であるはずのオリハルコンも激しく発泡して、薬液を銀色に濁らせた。
「よしよし、これで人間に戻ることも、獣に変身することも叶わぬはずじゃ」
  その間、山のような土砂を溶かした液体はさらに地下に向かって浸食を続け、巨大な穴を掘り続けていた。
「いかん。如何に仮住まいの世界とは言え、このままでは反対側に突き抜けてしまう」
  メルヒオールは慌ててさらにまた別の薬品の入った試験管を穴に向かって傾け、一滴垂らすと、たちまちよく振った発泡酒のように土砂がむくむくと盛り上がってきて、見事に穴を塞ぎ、ちょうど地上の辺りで止まった
『そんなに素晴らしい魔法を持っていながら、どうして己の保身ばかりに使うのだ?』
  フラスコの薬液の中、痛みからようやく目を覚ましたオリハルコン…アミテスは弱々しい思念で訊ねた。
「気が付いたかね、アミテス妃殿下。
…いや、オリハルコン・ビーストと言ったほうがいいかな」
  メルヒオールはわざとうやうやしく臣下の礼をとって言った。
「御下問にお答えしよう。ムーとアトランティスが海底に沈んだ一万年前には、両河地方も埃及も、希臘も印度も、未開の土地だった。彼等は今でこそ己らの土地のことを文明発祥の地などと威張ってはおるが、我等がヒラニブラの土地に宮殿を建て、空飛ぶ船を操り、高邁な科学と芸術を語っていた時、彼等はまだ毛深い猿同然の姿で、石を砕き、かろうじて狩りと、幼稚な農耕を始めたばかりだったのだ。我等はそんな彼等を歯牙にもかけず見下していた。
  どうしてそんな連中と同化しなければならぬ?
  それは確かにいま儂メルヒオールはバビロンの王ネブカドネザルに仕えておる。しかしそれはあくまで世を欺く仮の姿じゃ。
  すでに水の中で不死身となるアクアマリンを所持し、そこから陸で不死身となる紫真珠を造り出し一万年の時を経て唯一人おぞましき深海からの脱出に成功した。この後さらに『黒の鏡』を造り出し、そこから異世界の邪悪な生き物達を召喚すれば、世界は直に我が物になり、ムー帝国の再興も叶うであろう」
  メルヒオールは魚の牙のような小さく尖った歯をカチカチケタケタと鳴らして笑った。『伝説によると、ムーは度重なる戦の末、遂に最終兵器を使用するに及んで滅んだと聞く。
  そんな愚かな者達が、果たして他の人間を笑うことが出来るのだろうか』
「ごたくを言っていられるのも今のうちだ、アミテス!」
  老魔導士は洞窟の中に作った錬金術の実験場の、幾百もの薬品を並べた棚や作業台の間を飛び回り、そのうちの幾つかの薬品を集めて戻ってきた。
「黄金ですら、硫酸と硝酸を混合して沸騰させた王水には溶ける。が、オリハルコンはその王水にさえ溶けはしない。しかし、この儂の造る特別製の薬液に会えば、さながら湯に投じた氷の如く跡形もなく溶け去るのだ…」
  メルヒオールは、アメーバのように瓶の中で蠢いている液体や、ヘドロのように沈殿と浮上を繰り返している液体や、さらには何かの形になりたがっている液体を少しずつ混ぜ合わせ、煮立たせて、真紅の薬液に調合した。「さてとアミテス、おとなしく儂の言いなりの道具になってもらおうじゃないか」
  老魔導士は黄金のピンセットで酸の中のオリハルコンをつまむと、それを素早く真紅の薬液の中に放り込んだ。その際、ピンセットの先が液に触れ、アッという間に溶解した。しかもそれだけに留まらず、薬液は命ある如くピンセットの上の方まで駆け登った。メルヒオールはその直前に慌ててそれを手放したが、全体が完璧に溶け去ったことは言うまでもない。
  その恐ろしい真紅の薬液の中で、オリハルコンの表面はじょじょに剥離し、剥がれた破片は次々に泡を立てて溶け去った。まるで強烈な酸に投じた鉄か銅のような安物の金属のように、次第に小さくなり、消滅した。
  最初は鮮やかな緋色だった液は、銀色を帯びて鈍く濁っていた。
  メルヒオールはすかさずそれを、先ほどは失敗した大きな方形の結晶岩の上に、タールのようにかけた。オリハルコンの溶けた液は黒い岩の表面をブスブスと溶かしながらも、全てを蒸発させることはなく、半分近くを溶かしたところで岩の成分と反応して固まり、表面に赤黒く光る鍍金か箔のようなものを形成した。
  その表面では水に垂らした油のように、しばらく幾つもの構成成分が渦を巻き、争っていたが、やがて冷えて固まるにつれて、透明な煮こごりの中のごった煮料理のような、半分斑半分透明の鏡の表面となった。
「しまった。またしくじったかな?」
  メルヒオールは大きな舌打ちを一つして、まだ凝固しきっていない透明の部分を指先で叩こうとした。
  すると、透明の部分がぐるぐると渦巻いたかと思うと、結晶岩の表面全体に何かしら風景のようなものが写し出された。
  そこには、溶岩の吹き上げるまだ出来立ての炎の世界もあれば、氷に閉ざされた中に昆虫のような、海棲生物のような生き物の住む世界もあり、全くの暗黒の中に不定形の邪悪なものが蠢いているだけの世界もあった。
  それら、いくつもの世界がさながら万華鏡のようにせめぎ合いながら、やがてその表面は斑がすっかりと消え失せて、一点の濁りも曇りもない真っ黒に光り輝く鏡へと収斂して安定した。
「やったぞ。儂は遂に『黒の鏡』を我と我が手で造り上げたのじゃ。これで元の世界にも戻れる。ダムキナそのものは元より儂の敵ではない。さらにはこの鏡に写る何億里と離れた別世界より、或は次元の隙間の閉ざされた空間より、異形の怪物を次々と召喚してバビロニアなどは勿論、全世界を従えることも出来る…
  もう、大洪水も大噴火も、恐いものなど一つとしてない。神とすら互角に対抗できる。…いや、儂はついに神になったのかも知れん。まったくオリハルコン様々じゃ!」
  メルヒオールは小躍りして喜び、早速思念を集中させて、ダムキナによって追われたニムルドの煉瓦造りの街並みを写し出して見せた。そこでは、アミテスの夫、新バビロニアの王ネブカドネザルが、部下に命じ、さらには自らも行方不明の王妃アミテスを捜している姿が写し出されていた。
「王よ、それは無駄というものだぞ。おまえの可愛い王妃は、余計なことに首を突っ込んだばかりに、鏡に変えられてしまったのだ。
  それに儂自身も長い間臣下としておまえの気紛れな学問に付き合ってきたが、生憎もうそれを続ける気持ちもない。次に合い謁る時は、儂が王で、おまえが臣だからそのつもりでな」
  メルヒオールはそう叫ぶと、「黒の鏡」を両手で囲む仕草をした。大人の数倍もあるような巨大な結晶岩は、賽ころのように小さくなって老魔導士の手の中に収まった。
「もうこんな狭苦しい実験場もいらぬ。儂は望む事の殆どを手に入れたのじゃ。そして、まもなく全てを手に入れる!」
  彼がもう片方の手で何かを払いのける仕草をすると、長い石製の作業机の上に置かれた色とりどりの液の入ったフラスコやビーカーは雪崩を打って床へ落ち、瘴気を発生させた。
  それらの液体がかかった地面の石や鉱石の屑は、まるで命あるもののようにのたうち回って苦しみ、跳ね豆のように飛び跳ねて砕けた。
★
  メルヒオールは小さく縮めた結晶を持って洞窟の外へ出た。
  天を仰ぐと、三つの月はちょうど見事に重なっており、巨大な蝙蝠のような化け物達が一斉に急降下で百余名の弟子や人夫達に襲い掛かってくる瞬間だった。
「先生、助けて下さい!」
「やつらが…」
  メルヒオールに騙され続けてきた人々が、未だに彼を頼って手を差しのべて逃げてきた。その後方では逃げ遅れた人々が、化け物の鉤爪に次々と捕まって、宙空に攫われ、そこでバリバリと骨ごとむさぼり喰われていた。
「おまえ達、急げ!  『黒の鏡』が完成した。ニムルドへ戻れるぞ」
  老魔導士は結晶を再び元の岩に戻して大きくすると、そこに懐かしい町の姿を写し出して見せた。
「有難うございます!」
「流石先生だ。先生ならきっと我々を元の世界に戻して下さると信じていました!」
  人々は転けつまろびつ、黒い鏡の中に写し出されているニムルドの街に逃げた。
『いいぞ。おまえたちが餌となって先に逃げてくれれば、あの大きな蝙蝠の化け物もおまえ達を追って行く…  ニムルドは大混乱となり、王も軍隊も肝を潰すだろう。しかもそれはまだ序の口なのだ!』
  メルヒオールが再び両手で黒の鏡を囲うような仕草をすると、鏡はさらに二倍にも三倍にも膨張して、人々目指して突っ込んでくる化け物をも転送出来るほどの大きなものになった。
  人々は黒い鏡に飛び込んで逃げた。転んだりして逃げ遅れた者も少なからずいたが、化け物は鏡に写ったより多くの人間と、壊し甲斐のありそうな街並みに気を取られて、そのまま勢いをつけてまっすぐに飛び込んで来た。
  元から鏡の中に写っていたニムルドの人々の表情が恐怖に引き吊った。
「やれ、やってしまえ!」
  メルヒオールは白く濁った魚の目玉を赤青く血走らせて、居丈高に命令した。
  だが、次の瞬間、信じられないことが起きた。巨大な蝙蝠の化け物は、人々に続いて鏡の向こうに抜けるどころか、その鏡に鼻から激しくぶつかって次々に墜落し、鏡の前で死体の山を築いた。
「何故だ?  何故彼等は通り抜けられないんだ?」
  メルヒオールの顔は次第にさらなる狂気と焦慮により、あらぬところが盛り上がったり陥没したり、元々醜いものがさらに一層凄まじく歪んだ。
  彼は自ら鏡の中のニムルドの街路樹である棗椰子の木に触れてみようと手を伸ばした。しかしそれが触れたのは、只の冷たくツルツルした鏡の表面で、それ以上は一寸たりとも先には進まなかった。そんな彼の目前で、逃げ遅れた人が墜落死した化け物の死体を踏み越えて逃げた。
「先生、有難うございます。我々の為に楯になって下すって!」
  生存者の最後の一人が逃げ終わった後になってもまだ、メルヒオールは彼等に続いてニムルドの街へ戻ることが出来ずにいた。蝙蝠のような化け物達は仲間の半数を失い、赤く光る目をさらに一層ギラつかせて上空を旋回しながら、何事かを相談している様子だった。
「どうしてだ?  何故だ?」
  メルヒオールはとうとう尖った爪の先で黒い鏡の表面を引っ掻き始めた。勿論その程度のことで傷が付くとは、老魔導士自身も
思ってはいない、と言うのにだ。
「答えましょうか」
  捕らわれていた人々とその家族が涙を流し、抱き合って再会の喜びを分かちあっている場面を写す鏡の中から涼しい声がした。
「それは私が意思を持っているからよ。全ての『黒の鏡』はどうか知らないけれど、私は私が助けたい者しかこの鏡は通さない!」
「アミテス!」
  メルヒオールは怒り狂い、手近にある薬品を鏡の表面に向かって叩き付けようとした。
  しかし、そんな薬はもはやもうどこにもない。つい先ほど自らの手で全て処分した後だった。
  慌てに慌てるメルヒオールを尻目に、鏡の中に浮かび上がったアミテスは、再び銀色の微粒子に戻り、粒子が粒子の中に消え去るように、消えた。それと同時に、鏡からも風景は消え、その後如何にこすっても撫でても、何の景色も写らなかった。
「待ってくれ。儂を置いて行かないでくれ。無事に元の世界に返してくれたら、アクアマリンも、紫真珠もくれてやる。だから…」
「そんなもの。もう要らないわ」
  結晶岩の中のアミテスの声が少しずつ遠ざかった。
「…どうしても帰りたければ、空を飛んでいる生き物を飼い慣らして、それに乗って宇宙を飛んで帰ればいいでしょう」
  ムーの沈没からもノアの大洪水からも生き残り、再び陸の上にも立ったメルヒオールだったが、悲嘆に暮れている暇はなかった。
  約束の食事を反故にされた化け物達が、一斉にその大きくて不気味な翼を下に向けて、彼に襲い掛かってきたからだ。
  それは素人目に見ても、飼い慣らすことはおろか追い払うことも難しいほどの殺気だった…
  彼等は両手を高く上げてこの上さらに何かを求め掴み取ろうとする仕草の老魔導士を引き裂き、貪り食った。
  その様子を鏡の中からじっと眺めていたアミテスは、頃合いを見計らって鏡の表面から人の手…白魚のように美しい少女の手を出して、メルヒオールの遺体の残骸から、問題のアクアマリンと、彼がその天才によって造り上げた紫真珠を奪回した。
★
  アミテスがニムルドのタシュメトムとナブの神殿「魚の門」に戻ると、石像のダムキナは元々張り出した目をさらに一層飛び出させて驚いた。
[何と言うこと!  私の攫ったメルヒオールが、あのメルヒオールだったとは!  しかも脱出の為の『黒の鏡』まで造ろうとしていたとは!」
「ダムキナ、あなた方の仇は取ってあげたわ。自慢の鏡でとくと納得が行くまで見たでしょう。だから、そのまま石の像として、審判の日まで、その姿のままでいなさい!」
[嫌だ!]
  ダムキナは水の滴る魚人の姿になり、『黒の鏡』の前に立ち塞がった。
「約束の通り、アクアマリンと紫真珠をよこせ。さもなければ、『黒の鏡』から、ありとあらゆる暗黒世界、しじまの次元から邪神怪物化け物魑魅魍魎を召還し、この世界に解き放ってやるぞ」
  ダムキナは時の果てるような長い間復讐の機会を伺っていたメルヒオールを、かなり危なかったとは言え倒してしまったアミテスを深く警戒し、慌てていた。
『ダムキナは本当にやるかもしれない…』
  そう思ったアミテスはやむを得ず寛衣の懐からアクアマリンと紫真珠を出し、一つづつ両手のひらに置いて差し出して言った。
「『黒の鏡』と交換で、どう?」
「いいだろう。まずそのうちの一つをよこせ。そうしたら鏡を渡す。それから残り一つをもらう」
「いいでしょう」
  アミテスは少し迷った末に、魚人を人間に戻す紫真珠をダムキナに投げて返した。
  だが、それをハッシと受け取ったが、硝子玉に替えてそれを自分の左目に嵌め込んだダムキナは、ガラリとその態度を変えた。
「これでやっと制限なく地上で生きることが出来る。ノアの大洪水以来、一体何年ぶりのことだろう…」
「約束よ、黒の鏡をよこしなさい」
  歩み寄るアミテスの目の前で、ダムキナの身体は確実に変化していた。
  全身を覆っていた鱗が薄い金属で出来た造花の花弁のようにはらはらと地面に落ちた。落ちた後の皮膚は美しい女の白い肌だった。
  ダムキナの左眼は爛々と輝き、その腕は、無意識のうちに腹や背中や足などに鱗の残った部分をこすり落としていた。腕とその部分との摩擦でさらに落剥した。それと同時に、骨格や腱、筋肉が激しく隆起と陥没を繰り返して、より人間の女らしい姿となった、黒い髪の毛も見る見ると伸びた。
  今やアミテスの目の前には、石像のでもなく、それが具現化した化け物でもなく、ノアの時代の妖しくも美しいノアの時代の女魔導士が立っていた。
「残るアクアマリン、腕づくでも戴く」
  ダムキナは頬と唇を歪めて叫び、一旦は手のひらに乗るほどに縮めた『黒の鏡』を等身大に広げた。
「約束が違うわ」
「アミテス、あなたはノアの子孫ではない。妾に従うのなら助けるが、どうだ?」
『黒の鏡』の中からは、早くも触手や爬虫類の舌や、魚の卵のようなうねうねとしたものが姿を現し、暗黒を統べる主の命令を待っていた。
「断るわ!」
  アミテスは白銀色の狼…獣の姿に姿を変えて身構え、唸った。
「そうか、ならば仕方ない」
  黒い鏡の中からは、それらの異形のものの先端が矢のようにオリハルコン・ビーストに迫るとその硝子の毛の手足にからまり、動きを封じた。獣は何とかそのいましめを解こうと身体をよじり、牙で触手を咬み切ったが、後から後から迫るそれらに、ついにがんじがらめにされてしまった。
「往生際が悪いわね。早くアクアマリンをよこしなさい!」
  全裸のダムキナは腕の中で光り輝く長剣を造ってアミテスの喉元に当てた。
「…まあいい、その身体、その態勢では出せと言われても無理であろう。八つ裂きにして取り出すことにしよう…」
  剣を振り降ろそうとしたダムキナが、ふと自分の手頚を見ると、そこには剥がれ残った小さな鱗が一枚付着していた。彼女は剣を途中でピタリと止めて下げ、その鱗を払い落とそうとした。だが、それはいくら払ってもこすっても落ちなかった。
  その鱗が落ちずに残っているものであることを悟ったダムキナは、同じようなものが他にないか、身体中を捜してみた、すると、足の腿や脛の裏側や脇腹、手の届く範囲の背中、顔にすらほんの僅かではあるものの点々と残っているのに気付いた。
  ダムキナはそれらの鱗を必死で剥がそうとした。先ほど美しく甦った時のように簡単にはらはらと落ちるものもあれば、いくらめ
くってもしっかりと肉に喰い込んだままで決して剥がれないものもあった。無理やり剥がすと、そこからは一筋、赤い人間の血が流れた。彼女がそういったしつこい鱗を全て力づくで切り離し、終いにはアミテスを殺す為に出した剣のきっ先まで使った。
  作業を完了し、白い素肌を真っ赤な血の格子で染めたダムキナは、ハアハアと激しく息を弾ませ、片膝さえ着くほど疲弊していた。
  だが、そんな彼女がどくどくと血の吹き出す己の身体に恐る恐る目をやると、パックリとざくろの如く開いたその傷口からは、雨の後の森の木株の陰に湧く茸のように新たな鱗が生え出し、鈍青い銀色となって表面を覆いつつあった。
  ノアの洪水の際は、自ら魚人になることを何の躊躇もなく選んだダムキナも、今度ばかりは天を揺るがす慟哭の悲鳴を上げた。
「何故だ?  どうして!」
  その瞬間にアミテスを縛っていた、『黒の鏡』から伸びていた触手は一斉にするすると元の鏡の中に引き上げ、鏡の表面は黒光りだけを残して何の風景も写さなくなった。
  獣の姿だったアミテスは元の姿に戻り、骨格も腱も筋肉も、元の魚人に傾き戻るダムキナを見下ろした。
「言い忘れていたけれど、その紫真珠は本物じゃあないの」
「そんな莫迦な。一旦はちゃんと人間の姿に戻ったのに…」
  ダムキナは不本意な再変身の苦痛に、今では地面をのた打ち回っていた。
  アミテスは素早く小さくなった鏡を拾いつつ訳を話した。
  アクアマリンを奪回したのは本当だが、紫真珠の方はそのアクアマリンを核としてメルヒオールが深海底の怪物の複眼で造り上げた複製品であること。その複製品を使っていたメルヒオール自身も、完全に人間の姿には戻り切れずに、常に頭巾を目深にかぶり、ゆったりとした寛衣で身体を隠していたこと、を。「その死後も、メルヒオールの造りし物に計られるとは、何たる不覚…」
  呻くダムキナの声は、つい先ほどの鈴を振るような声ではなく、老婆のそれになっていた。
「でも半分は人間に戻れたのだし、石像のままよりはましでしょう。悪さをしないで静かに暮らせば、誰も貴方をこれ以上追い詰めたりしないわ」
  ダムキナはよろめきながら川に飛び込もうとして止めた。中途半端に人間に戻ってしまった彼女には、もう川の中も安住の地では無くなっていた。
  アミテスはそんな彼女をいつまでも見送りながら、手の中に残ったアクアマリンと黒い鏡を握り締めていた。
★
  ニムルドの客舎に走って帰ったアミテスは休む間もなく王であり愛する夫であるネブカドネザルに報告するべく、朝の執務室に当てられている部屋に急いだ。窓から差し込む朝日が眩しい。長いようでも、たった一晩の冒険だった…
「あなた…」
  部屋に入ると、夫の王は机に座って顔をこちらに向けており、黒い寛衣を着て背中を向けている男と何事かを熱心に話をしていた。「おおアミテス」
  いつもは山積する内政と外交の諸問題に追われ続けて、苦虫を囓み潰したような顔をしているネブカドネザルは珍しく上機嫌だった。「…メルヒオールの一件が落着した。彼の弟子達や百余名の人夫の殆ど無事に帰ってきたのだ。もう聞いておるか?」
「はい。そのことで…」
  その時黒い寛衣の男がおもむろに振り返った。
  その顔その姿を見て、流石歴戦のアミテスも思わず息が止まり、顔からはサッと血の気が引いた。
  そこには、異世界で蝙蝠の化け物に婪り喰われたはずのメルヒオールの魚面が、目深な頭巾の中で蠢いていた。
「お早うございますアミテス王妃様。今日もまた獣のようにしなやかで、宝石のようにお美しくお見受け申し上げます…」
「メルヒオール!  貴方は確か…」
「御心配下さって有難うございます。アミテス王妃様。しかしやられたように見えたのは私の残像で、きわどいところで皆と一緒に帰ってくることが出来ました。長年生きておりますと、そう簡単にはくたばらぬものでございます」
  メルヒオールは盛り上がった魚眼を上目使いにしてアミテスを見た。
「王様!」
  アミテスは美しい眉を一杯にしかめて王を見た。
「王は預かる。バビロンの空中庭園で待つ。手に入れたものを持ってこい…」
  そう言い終わるなり、メルヒオールは王と共に黒い霧に包まれて消えた。
  アミテスは『黒の鏡』を取り出し、自らはバビロンの宮殿の上にある空中庭園に思いを集中して覗いて見た。
  王を虜にしたメルヒオールが何事か呪文を唱えると、花が咲き乱れ、果物が実っていた美しい庭園に、一瞬にして一杯の水が満ちた。その水は、普通の水ではなく、半分が水で、半分は空気のような不思議なものだった。アクアマリンも紫真珠も奪われた老魔導士には、もはやこの魔法の空間でしか生きられなく
なっていた。花も木の実もこの気液体の中でゆらゆらと揺れた。捕らわれの王の冠も脱げ落ちゆっくりと床に落ちた。
『あの世界で戦う為には、アクアマリンと紫真珠が要る…』
  アミテスは心をさらに研ぎ澄ませて深い海の色をしたアクアマリンに尋ねた。
『「それがなくては行くことが出来ない」と言う、魚人になった人を完璧に元の人間に戻すと言う、紫真珠はどこにある?』
[ニムルドの遺産…  ニムロデの祖父ハムより伝えられし、人の物でも神の物でもない品物。我アクアマリン…  生まれは銀河の果て、全て海なる星の最も深き大海溝。その主海の淵の支配者と共に、この世界、ルルイエ海底に来る。ムーの大魔導士メルヒオール海淵に永劫の眠りを得ていた我を掘り出して魚人に代わり、ムーの水没をも生き残る。
  その後、ノアの洪水の際に、神の審判を恐れしメルヒオールの手から女魔導士ダムキナの手に渡り、再度図らずも神の子ロトの手によってメルヒオールの手に戻る…
『黒き鏡』そは次元の峡(はざま)もろもろの邪悪なる存在、邪神怪物の生まれる産床。闇の子宮を切り取りしもの…  いつ誰がどのようにしてこの世界にもたらせた物か不明。太古より暗黒の魔導士達が皆目の色を変えて捜し求めしもの…  アクアマリンと紫真珠の集うところ、一万年後に召喚される。ニムロデが祖父ハムの初恋の女性ダムキナを祭り、その両目にアクアマリン紫真珠を捧げて一万年後、その場所に召還された。
  紫真珠。いかなる化け物に変身した人間でも、たちどころに元の姿に戻すこと能う。遥か別世界よりアクアマリンを共に、この世界にもたらされた。
  お互いに海と陸に別れ別れになったハムがダムキナの為に、万難を排して捜し出したものの、その孫ニムルドの代まで見つからなかった。ダムキナはハム亡き世界で人間に戻ることを拒否。真珠はアクアマリンとともに彼女の石像に飾られた…
  その後、良き人ロトによって「それがなければ決してそこへ行くことができない、天に最も近い高い場所」に封じられる。今まで数多の魔導士野心家がその場所を尋ね歩いた。アララット山、シナイ山、その他ありとあらゆる高い山  されどその消息は一向に不明…』
  アクアマリンはそこまで語る、後は蠣のように堅く口を閉じた。
『「それがなければ行くことが出来ない、地上で最も高い場所」…』
  アミテスはアクアマリンが語ったことを反芻し、やがてハッと気がついた。
『もしやそこは「物理的に高い場所」ではなくて、「精神的に高い場所」のことではないだろうか』
  そして、このニムルドの街に着いた時、最初に訪問した施療院のことを思い出した。
『あの施療院はハムのニムロデの頃に建てられたものではないか…』
  彼女は王妃である自分の持ち馬を厩舎から引っ張り出すと、それにまたがって鞭を当てた。
「王妃様、また何でございますか。昨夜の寝台もお休みになられた跡がございませんでしたが…」
  止める宦官達や女官達を蹴散らしてアミテスは客舎の塀をひらりと越えた。
「説明している暇はない。陛下が、夫が危ないのだ。昨夜戻ったメルヒオールめの反逆だ」
  ポカンと見送る家臣達を残して、アミテスを乗せた馬は流星のように施療院を目指した。
  到着するなり、ここでも慌てて後を追う
人々を尻目に、彼女はまっすぐに、最も病重く、身体も痩せ衰え、病斑等の為に醜くなった苦しんでいる人々の収容されている建物に急いだ。
  昨日の慰問の際にも立ち寄らなかったところだ。
  奥の壊れ掛けた寝台の上に、知った者が破れ毛布にくるまれて寝かされていた。
  ダムキナだった…
「来てくれたのかアミテス…  と言うことはメルヒオールはいきていたのだな?」
  途切れ途切れのダムキナの問いに、アミテスは大きく頷いた。
「妾もやっと、本物の紫真珠の隠し場所に気が付いた。しかし、ようやく気が付いた時には、もう手遅れだった…」
  アミテスが辺りを見渡すまでもなく、各寝台の下に敷かれた清めの丸い玉砂利が全て紫色をしていた。
「…ここにこんなに沢山ある…  こんなにだ…」
「しっかりして、ダムキナ!  メルヒオールは必ず私が倒すから…」
  アミテスはダムキナの干乾びた怪物の手にアクアマリンと紫の石を握らせた。すると、ダムキナは今度こそ鱗の一つもない、美しく若い女魔導士の姿を取り戻してこと切れた。『アクアマリンと紫真珠、これは二つとも貴女のものよ、ダムキナ。二つともハムから貴女への贈り物だったのよ』
  アミテスがそう念じると、二つの宝石はダムキナと共に霧となって消えた。それと同時に床の石の色も、全て紫から黒へと変わった。
★
  メルヒオールは改装された空中庭園の中で待ち続けていた。
  留守番の家臣達や衛兵達は、陸でも水中でもない不思議な物質の中にたたずむ王と大博士の姿に戸惑っていたが、誰一人その中に入って歩み進める者はいなかった。
「アミテス様、大変なのです!  王様が…」
  黒の鏡を使って立ちどころに現れたアミテスに、人々は庭園の奥にぼんやりと見え霞む二人を指さした。
「分かりました。あなた方の手に負える敵ではありません。任せてください」
  家来達を下がらせたアミテスは、ただ一人半分水、半分空気に満たされた空間の中に入って行った。
[待っていたぞアミテス。早く『ニムルドの遺産』全部渡してもらおうか]
  メルヒオールは不思議な物質の中で、王の首を持って揺すりながら言った。
『アクアマリンと紫真珠はダムキナが持って行った。ここにはもう黒の鏡しかないわ』
[ほう、ならばそれだけでも良い。こんな世界、あの鏡だけでも十分支配出来る…]
『ダムキナは人間に戻り、人間の寿命を完うして死んだわ。…メルヒオール、貴方はちょっと生き過ぎたようね』
  アミテスは手鏡ぐらいの方形の「黒の鏡」を投げた。鏡はゆっくりと水のような空気のような物質の中を漂ってメルヒオールの手に落ちた。老魔導士はネブカドネザル王の手を離し、突き返した。
『あなた、しっかりして!』
  アミテスが見つめる中、王はかすかに目を見開いた。
『妃よ、あんな奴に鏡を渡して大丈夫なのか。あれを手に入れる為に、実に長い長い間隠忍自重してきた男だぞ』
  幾万の敵の軍隊を前にしても勇敢さを失わない王の目はそう言いたいかのように怯えていた。
『大丈夫。私が必ず倒します。ここバビロンが奴の終焉の地となるのです』
[生意気な!  それはこちらの台詞だ、アミテス!]
  メルヒオールが術を使い、何事か、人間の言葉ではない太古の呪文を唱え始めると、黒の鏡は半透明の物質の中でぼんやりと輝き始め、そこにメルヒオール達が長く暮らしていた、暮らさざるを得なかったルルイエ海溝のムーの水没遺跡、ヒラニブラの都の廃墟が写し出された。
[我等永劫の怨念、今こそ知るがよい!]
  鏡の表面にはやがて巨大な蛸か烏賊のような、無数の触手と複眼を持つ、アクアマリンと紫真珠を引き連れてきた怪物が現れた。
  それと同時に鏡は庭園の柱よりも高く、壁よりも大きく広がって、そこから触手が、殺到する敵の剣槍のように一斉に伸びてきた。
  それを遠くで見ていた家臣達は、王と王妃を見捨てて我勝ちに逃げ出した。
  アミテスは落ち着いて脇にあった大望遠鏡を捜査して銀の幕に宇宙の様子を写し出した。それは、王がアミテスの無聊を慰める為に、旅行中を見計らって空中庭園に付けさせたものだった。
  遥かな自らの故郷を見て、触手の勢いは止まった。
『早く鏡の中に戻らないと、アクアマリンと紫真珠が消滅した以上、鏡も消えるわよ』
  アミテスは念じた。
  しかし、それを聞く怪物ではない。ゆっくりとそのおぞましい姿の胴体をずしりと庭に歩み出して来た。
  と、その時、鏡の端にビシリと小さなひび割れが走ったかと思うと、全体に蜘蛛の巣のように広がった。
  怪物も『これはまずい』と本能的に思ったのか、こちら側に掛けかけていた重心を鏡の中に戻し、引っ込む支度を始めた。
[何をしている!  早く鏡から出て暴れないか!]
  叫び怒るメルヒオールに怒ったのか、触手の一本が彼を捕まえ、鏡の中に連れて入った。[止めてくれ!  もう暗く冷たい場所は懲り懲りなんだ。明るく、陽の当る場所で、世界の王として君臨したいのだ…]
  次の瞬間、鏡は粉々に砕け散って、庭園を満たしていた物質を吸い込み始めた。
  アミテスは気を失っている王をしっかりと抱きながら、柱にしがみついて頑張った。
  やがて鏡は、砕け散った己自身の破片をもきれいに吸い込み終わると、忽然と消滅した。



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