魔導士ネイ 1 基督生誕後七一二年の秋、二八歳のゴート人の青年剣士テヤは、漂泊の果てに北アフリカの港町マラケシに流れ着いていた。 彼の部族が建てた西ゴート王国はこの前年イタリア奪回を国家の第一方針に変更したビザンティン帝国によってヴェスヴィオ山麓グアルト・タディーノで全滅させられている。 このテヤこそは最後の戦の際に宦官長ナルセス率いる東ローマの雲霞の如き大軍を迎え撃ったヴェローナの司令官であり、偉大だった王トティラの死後、推戴されたゴート最後の王だった。 一般にはテヤは、針鼠さながらに槍の刺さった盾を新たなものに交換しようとした隙に、さらに雨霰と降り注ぐ槍に刺し貫かれて壮絶な戦死を遂げたことになっているが、このテヤは実は彼の才能を惜しみ、王国の再興を賭けた人々によって仕立てられた身代わりの影武者だった。勝った側の将軍ナルセスは老人で目も悪かったので、まんまとこの策にひっかかり、偽の死体をテヤと確認して、その血染めの屍衣とゴート王の玉爾をコンスタンティノーブルに送って戦争の集結を宣言したのだった。 もっとも、生き延びたからと言ってテヤに再起を誓う意欲と、ビザンティン帝国に対する復讐心が残っていたかと言うとそうでもない。一族や部下の者達はほとんどが生死も分からぬ行方不明となり、北イタリアの名もない港から小舟を拝借して地中海に漕ぎ出した時から一人の従者もなかった。 いくら穏やかな内海とはいえ、故郷スカンディナビア半島を離れて以来、長く海を知らなかったゴートの王子にとっては、数日の漂流は気持を完膚無きまでに打ちのめし、絶望させるに十分だった。加えてビザンチン帝国は、ウマイア朝イスラム帝国、東の果てなる大唐帝国と並ぶ世界の三大帝国の一つで、再び決起して倒そうと試みるには余りの強敵だった。 通り掛かりのダマスカス船藉のイスラムの交易船に救われた時、テヤの身体は骨と皮ばかりとなっており、輝くようだった金髪は、アルプス頂上の雪のように白く変じていた。 アラビア人達は異教徒(ゴート人はアリウス派のキリスト教徒)の彼を親切に介抱した。そして一命を取り留めたテヤをこの港で降ろすと数泊の後、繰り返し礼を述べる彼を残して何処へともなく船出して行った。 その直前、テヤは彼等のうちで親しくなった者の袖を捕まえて、 「この高恩に報いるにはどうすればよいか」 と片言のアラビア語で縋った。 テヤの見るところ、アラビア人達は明らかにその衣装が示すところの何の変哲もない商人とは、その風貌も雰囲気も一線を画していた。 アラビア人達は互いに顔を見合わせ、目配せを交わしたかと思うと、やがてその長らしき年配の男が一枚の羊皮に描かれた似顔絵を取り出すと、鬚を震わせ強い口調で、 「実は我々は人を捜して七つの海を航海しておる。そなたを助けたのも失礼乍ら、そなたが一見して敗軍落魄の身であることが見てとれたからだ。そなたに帰る故郷がないのと同じく。我等もこの者を捜し出さぬ限り永遠に休息安寧はない。もしもこの者とそっくりの者を見かけたならば、直ちにダマスカスの交易庁まで知らせて欲しい」と言い、それから数瞬の躊躇のあとこう付け加えた。 「−−それがもし正しければ褒美は望みのままぞ」 テヤが恐る恐る覗き込むと、そこには一五、六歳の美しいアーリア系ヨーロッパ人の美少女の顔が描かれ、その下に「ネイ」とアラビア語とラテン語で名が書かれていた。 「かどわかされた、どこかの国のお姫様ですか?」 「それはそなたには関係のないことだ」 「ちなみに万一見つけてもそなたが連れてこなくてもよい。知らせるだけでよいのだ」 部下の一人がつい口を滑らせたのを、長は厳しく睨み付けた。 「分かりました。貴方がたにも至高のアラーの神の御加護がありますように」 似顔絵の顔を脳裏に刻み付けてそう答えると、アラビア人達はほんの一瞬かすかに唇を歪めてから船に乗り込んだ。 2 その夜、テヤはマラケシの安宿の寝台で不思議な夢を見た。 それまで毎晩のように見ていた親族や戦友を次々と失う、長く辛く苦しい夢は姿を消し、珍しく代わりのものが現れた。と言ってもそれは命の恩人であるアラビア人達でもなく、彼等に見せられた似顔絵の美少女でもなかった。 それは精製していない瀝青のような、黒い不定形の軟体動物で、龍や麒麟といったテヤも絵などでは見たことのある怪物の姿にもなれば、どう説明していいか分からない、深海の原生生物らしい名状し難い形にも変形した。 何度も巨人や不死身の骸骨の姿をしたビザンティン兵士に追いかけられ、膾にされているテヤも、尋常でないうなされ方をした末に、脂汗にまみれて目が覚めた。 (あれは一体何だったんだ?) テヤは薄気味悪かった。 人は辛い目や恐ろしい目にあっても、より辛く恐ろしい目に会えば前の分を忘れるらしいが、その夜からのテヤがまさしくそうだった。 「ゴート再興、決起の際の足しに」と思って衣類の重ね合わせの部分に隠し持っていた金貨や小さいけれども値打ものの宝玉は売らないままに、膚髪の色の異なる男達に混じって港の荷上げで働き、日銭を稼ぎ、ぐったりと疲れ切って眠る度に「それ」は現れた。 (何物だ、貴様は! 俺は自慢ではないが、部族の伝説の英雄達のように、化け物や魍魎とは戦ったことがない。従って仇を成される覚えもない! 何を伝えたいのか知らぬが、まるで身に覚えのない俺には迷惑千万だ。 こちらになくともそちらにある、と言うのなら、それを言ってくれ!) 夢の中でそう叫ぶと、ぐにゃぐにゃと無数の黒い触手を持つとてつもなく巨大な磯巾着の姿をしていた「それ」は次第に縮み、ついには小柄な人の姿になった。 長い髪に隠された顔を上げると、「それ」はやはり去り際のアラビア人に見せられた、「尋ね人」の姫だった。 (やはり貴女か! 「ネイ」か? しかしどうしてかように奇っ怪な物の怪を従えておるのか) ホッと一息つきながらも、テヤは少女に 向かって詰問した。 (−−追われているのか? もしそうならば故国は滅亡し、もはや目的も守るべきものも皆無の身。微力乍ら助太刀申し上げるが…) 夢とはいえ、実際に見る彼女は似顔絵とは比べ物にならぬ、神神しいほどの美しさだった。 (これならば、かのアラビア人達が世界の果てまで捜し回っているのも無理はない) テヤの瞳も彼女の顔(かんばせ)に吸い寄せられたまま動かなかった。 (貴女を必死で尋ね回っている者達がいましたよ) 何を言っても少女は答えてはくれなかった。 ただ、今にも泣き出さんばかりの深い憂いを帯びた眼差しは、常人には計り知れない深遠なるいきさつがあることを無言のうちに語りかけていた。 (あのアラビア人達は捜し切れなかったが、もしかすると、彼女、ネイはこのマラケシの街に捕らわれているのではないだろうか?) そんな考えがふと頭のすみを横切った。 その途端、天使のような少女は長く優雅な睫を閉じ、ほんのかすかに頷いて消えた。 テヤの眼前には、汗と垢にまみれた人足宿の蚕棚が広がっており、耳から聞こえるのは凄まじい鼾と野卑た寝言ばかりだった。 3 翌日、テヤは金貨の一枚を崩してヴァイキングの衣服を買った。ヴァイキングたちは アルバ(イギリス)〜フランク(フランス)〜イベリア半島回りと、ヴォルガ川回りペルシア(ササン朝は有名無実の形骸と化して滅亡し、ウマイア朝イスラム帝国となっているが)との交易で盛んに金儲けにいそしんでおり、「彼等の一派は近近イングランドに侵冦を開始するのではないか」という噂も囁かれている程だった。 そのヴァイキング達と故郷を同じくするテヤが彼等の鱗状の鉄の鎖かたびらを身に纏い、牛の角を取りつけた兜をかぶっても何ら違和感はなかった。不都合があるとすれば、操船を命じられた時と、本物のヴァイキングに話しかけられた時だ。 黄色い埃の立ち込め、饐えた臭いの空気の漂う、やたらと猫が目につく街マラケシ。猫が多いのは五○年程前、この街に黒死病が蔓延した際に、偉大なる預言者マホメットが死病を媒介する砂鼠を撲滅する為に猫たちの力を借りるようにとの神智を得た故事によるらしい。 魔窟の歓楽街に赤灯青篭の軒を連ねる娼家。 白粉に紅、眉墨、香油でおぞましきまでに化粧した薄物を羽織っただけの娼姫達が身をくねらせながら媚を売りさし招く… 気が付くとテヤはそのうちの一軒の前に立ち尽くしていた。 その軒先の細い鉄格子のはまった飾り窓の窓縁には、砂漠のどこかの小さな村から連れられてきたばかりの一人の少女がもたれて、空ろな瞳で黄色い砂の道を眺めていた。 テヤは彼女に戦の中で生き別れとなった最愛の妹の面影を見た。 その少女がネイに似ていた訳でもなく、その娼家も他の店とどこも変わるところのない寂しさと悲しさをたたえた世界への入口だった。なのに彼はその角口で立ち止まると、まるで何かに吸い付けられるように、迷宮の奥へと進んだ。 内儀の老婆のキーキー声や、黄色い嬌声とともに差しのべられる何本もの腕を振り払って行き着いたところは、黒く塗られた壁だった。 「お客さん。そこで行き止まりだよ。うちの娘っ子はこれで全部さ。気に入った娘がいないなら、回れ右して帰っておくれ」 老婆はいつの間にか呼び寄せた天井に突く用心棒の大男に、黒い壁の前に立ちはだかるように指図しながら叫んだ。 テヤは魔導士ではなく、普段も勘がいい方ではなかったが、この時はあがらい難い不思議な力で、黒い壁の先に、何かとてつもないものが隠されていることを悟った。彼は自分でも驚くほどゆっくりとした動作で、買ったばかりのヴァイキングの両刃の剣をゆっくりと抜き放つと、大男の喉元にピタリと突き付けた。 娼姫達の悲鳴が店じゅうに谺する。大男も内儀も目をカッと見開き、黄色い歯をケタケタと咬み合わせ、自らジリッと歩み寄った。「おのれ! それほど死にたいか!」 テヤが相手の喉笛を横薙に払うと、傷口からは真黒い血が吹き出して、怪かしの樹上から降り襲い掛かる蛭の如く彼に飛び掛かった。 化け物と戦うのはこれが初めてのテヤも、そこは流石に歴戦の勇士、サッと退き、蛭共を全て両断にした。 ところが二つに切られた蛭共は命を失わず、そのまま倍の数となって再び今度は彼の足目がけて飛び跳ねた。 大男の方は次第に人間の姿を崩して、象そっくりの弛んだ皮膚を持つ、実に嫌な眼つきの化け物に姿を変じた。 「やれやれ、魔導士と言う肩書きすら片腹痛いアラビア人共を簡単に追い払ったばかりで少しばかり油断した、と思ったけれど、あんたも大したことはないね」 そう言う老婆も人ではなさそうだった。 黒い蛭は一斉にテヤの足のあちこちを刺す。 するとその傷口の肉はたちまちのうちに腐り落ち、骨は石化して石筍のようにその場で固まって動かなくなった。 象の形の化け物は化け物の言葉で何事かを唸った。どうやら (あっさり殺すのはつまらぬから、ゆっくりとなぶり殺しにしましょう!)と言っているらしい… 対するテヤは一度死んだ身、いまの自分よりひどい深手を負いながらも、果敢に戦い続けた戦友も数多く見てきている。だから痛みは我慢できる。 「この奥! この奥だ!」 しばし化け物達の嘲笑う声をただ聞いていたテヤはカッと目を見開くと、握り締めていた剣に渾身の力を込め、黒い壁目がけて投げ付けた。 すると、どうしたことだろう。黒い壁は相当,−−普通の壁の何倍もの分厚い漆喰だったにも関わらず、内部で火薬が爆発でもしたかのように粉々に砕け散った。その破片の中には、テヤが見たこともない堅い甲殻や鱗に覆われた幾種類もの不気味な虫が巣喰っていた。蠍蝎は見たことがあったが、それらの虫共からすれば蠍蝎すら可愛く見える程だった。「何としたことじゃ!」 老婆は長い亡霊の髪と屍食鬼の爪を降りかざして叫んだ。 と、象の化け物が遠くコルドバまで響く長い強烈な悲鳴を上げた。 見ると、漆喰から飛び出した邪悪な虫共が驚くほどの速さで魔物の肉を貪り食っていた。象魔人は見る見るうちに骨の髄まで吸い尽くされ、残滓一滴残さなかった。 老婆はすかさず禁呪を唱えて自分の回りに黒い力の膜を作った。虫共もこの膜を越えられないところを見ると、彼女は象魔人より上手らしい。しかしその狼狽ぶりは明らかだった。 「おのれネイ! 完璧に封印されていても、これ程までの力を持つか!」 歯軋りする内儀の歯がたちまちとてつもなく尖った牙に変じる。 (『ネイ』? やはりここで間違っていなかったのだ) 不思議なくらいの安堵感に包まれたテヤが、そのまま安らかな「人の死」に陥ちようとした時、壊れた壁の向う側で輝き始めた金色の光に包まれた。 すると何という不思議だろう。蛭にしゃぶり尽くされ、石化した足は空気中の良き成分を凝縮させて、元の通りの逞しい足になった。全ては幻影ではなかった証拠に、靴までは復元しなかった。 その光を浴びた内儀の老婆も著しい変貌を遂げた。皮膚は堅く凝固して鱗状になり、目は飛び出して魚のそれになり、口は裂けて牙はさらに細かく分かれた。手の指の間には水掻きができ、身体じゅうから粘液を滴らせ始めた。 その姿は中東寄りの地中海沿岸に伝わる古代の海洋民族の海神ダゴンに似ていた。 自由を取り戻し、早速剣を拾おうと黒い壁の内側に駆け入ったテヤは、その隠し部屋の中に、一見石碑に見違える長方形の棺ような黒い櫃が立て掛けられてあるのを見つけた。(この中にネイが? しかしこんな中に閉じ込められていては呼吸や食事ができるはずがない。もうすでに死んでいるのでは?) 櫃は黒金剛石のつやつやと輝く岩で出来ている。中身は透けて見えそうで見えない。さらにどこを捜しても合わせ目らしきものが見当らない。石碑にしては文字がどこにも刻まれていない。 「開けるにはどうすれば良い?」 テヤは化け物の正体を現した老婆に尋ねた。 相手は蛙そっくりのポコンと膨らんだ下腹を揺りながら嫌な歯軋り音を立てた。仮にテヤが彼等の言葉が分かったとしても、ただの罵り声であることは明白だった。 面倒臭くなったテヤが大上段に振りかぶった剣を叩き付けると、ダゴンは青い膿汁を迸らせて真っ二つになり左右に倒れた。その遺骸は、象魔人よりもひどい悪臭を上げつつたちまち腐敗し始めた。 テヤは黒い石の櫃に戻って恐る恐る手で触れた。冷たくも暖かくもない、その点はごく普通の貴石だ。 彼はその石櫃を憎きビザンティン帝国の将軍にして宦官ナルセスに見立て、もう一度激しく剣を降り降ろした。 剣は真二つに折れて、刃は弾け飛び、両腕には長く鈍い痛みが残った。 「ネイ。君がこの俺を呼んだから、俺はやってきた。本当にこの中に閉じ込められているのなら、何とかして開けて逃してやりたいと思う。方法を教えてくれ」 その時、後方で次々と女の悲鳴がしたので振り返ると、漂流中のテヤを助けてくれた件のアラビア人達が、哀れな娼婦達を片っ端から斬り殺しているところだった。 「何をする!」 根本だけとなった剣を握り怒り狂って止めさせようと取って返したテヤの前にアラビア人の長が立ちはだかった。 「ご苦労。やはりお前は我々が見込んだ通りの男だった。広い海の真っ只中でも『生き伸びたい』という強烈な思念を発していたからな。−−しかし、もう良い。後は全て我等に任せるのだ」 アラビア人達はアッという間に殺戮を完了した。その腕前、手際の良さはテヤですら (まともに戦ってはひとたまりもない) と思ったほどだった。 「冗談ではない! 俺も危険に晒されたのだ。それに何故罪無く哀れな女達を殺した? 事情によっては只では済まぬぞ」 アラビア人の長は、助け出した時白髪と化していたテヤの髪が輝くばかりの金色を取り戻していることに気付いて一歩後に下がった。「その石櫃−−ネイは、ダマスカスの教主(カリフ)庁よりお前が斬り捨てた邪悪なる者共達によって盗み出されたものなのだ。これで黙って引き下がってくれれば嬉しいのだが…」 長は虚空から手品の如く拳ほどの白絹の袋を取り出し、黄金の紐を解き中身を自らの掌の上に示した。 それはゴート最後の王にしてローマ市高官であったテヤですら見たことのない、鳩の卵ほどの色とりどりの金剛石だった。 「−−これだけあれば、どこかの土地を買い取って失われたお前達の国を再興することも出来よう…」 『故国再興』 テヤの心は激しく揺れた。だがその中にかすかに全く違う考えが芽吹いたかと思うと、燎原の炎の如く瞬く間に広がった。 (彼等がこれ程までの代償を払っても取り戻したがっている石櫃だ。ひょっとすると、王国の一つや二つ以上に価値のあるものかも知れない…) 「断る。確たる釈明もなく、いきなり買収を試みる手合いを俺は信用しない」 まるで別人が芝居の台詞を言わせたように出た返答だった。 「何を言うか! 我等はお前の命の恩人。その一点からだけでも謝して余りある条件だと思うが」 アラビア人達は目を剥き、その剣幕にテヤも思い直しかけた。 「−−恩を仇で返すのか?」 「まあ待て。テヤの言うことも道理と言えば道理だ。勇敢なるゴートの貴族よ、事情を説明すれば、取引に応じてもらえるか?」 「真実を語ってくれれば…」 テヤの瞳が久しぶりに輝く。 部下達は明らかに長の態度に不満らしく、あからさまな殺気を漲らせながらにじり寄った。 アラビア人の長は節くれだった大きな手を広げて彼等を制すると、黒瑪瑙のビーズ玉の眼でテヤを射るように見た。 「察する通り、その黒い石の櫃の中には魔物が封じ込められている」 「俺が貴方達から見せて貰った似顔絵は、ネイという美しい少女だった。俺は彼女の印象を求めてうろうろしているうちにここを突き止めたのだ」 「だから、美しい少女の姿をしたとんでもない魔物なのだ。少なくとも最後にその姿を見た者はそうであったと語っておる」 部下が長の手を押しのけて話を続けた。 「我等に思念を送ると、至高の御名によりさらに厳重に封印されてしまうので、わざと関わり無きお前を呼び寄せたのだ。 −−これで納得したか?」 アラビア人の長は、金剛石が一握り入った小袋をテヤに放り投げてよこした。テヤはそれをハッシと受け取った。 「最後にもう一つだけ尋ねる。その魔物−−ネイはどの様な魔物なのか?」 アラビア人達が一瞬たじろいだのをテヤは見逃さなかった。 「恐ろしい魔物だ。人を喰い、疫病を流行らせ、街を滅ぼし、国を傾かせる。いったん力を貯え出したら、我等魔導士が束になってかかっても再び封印するのは容易でない。 −−さあ、もうよかろう…」 アラビア人達は瞬時にテヤの脇をすり抜けると、黒い石の櫃を丸く取り囲んだ。 テヤは(彼等の言うことに嘘はない)と感じた。しかしまだ腑に落ちないところも多い。全てが語られていないという疑惑が渦巻いた。「ネイとは、それ程迄に極悪非道な魔物なのか?」 「くどい!」 アラビア人達は瞬間移動の術で、おそらくは彼等の本拠地ダマスカスに戻るべく、白い閃光を巻き上げ始めた。 とその時、テヤの心にまたしても声が響いた。 『我は悪を成す魔物に非ず。悪と戦い、悪を滅ぼす為に、汝らの言う天空−−次元の彼方より飛来せし者なり』 (ならば、何故あのアラビア人達は、貴霊を固く封印し直そうとしているのだ? 貴霊が良き魔物ならば、そんなことをする必要はさらさらないはず…) 『それは愚問。ウマイア朝は天啓を得た預言者マホメットより四代の教主達が互いに血で血を洗う抗争の末に誕生した王朝。すでに預言者が目指した理想郷とはかけ離れた奢侈と驕慢に埋め尽くされ、イスラム本来の厚き信仰心とは無縁の者達が国の中枢を占め、己の醜い欲望を満たすだけの無益な戦に明け暮れ、神の名の下に人民を瞞き搾取している。 神の僕の速やかなる裁きを最も恐れ遠ざけるのは、彼等の他にない』 言い終わるなり、櫃の中の魔物は強烈な思念を八方に発射した。 まさにダマスカス目指して転移しようとしていたアラビア人達は、自らの身体を塵の如くバラバラにした途端にその「力」の放射を受けて春雪のように解け去った。 テヤは鉄甲を嵌めた両腕でその凄まじい光を受け止めた。 手練れの魔導士数名を一気に消滅させた術が、その程度の防御で防げるはずはなかったが、放射は見事なまでにテヤだけを避けて通った。 (ネイ、どうすれば形を備えた貴霊に会える?) 興奮したテヤは我を忘れて叫んだ。 『悪だ! この世に二つとない質と量を備えた悪の力を吸収すれば、私は本来の姿形を得る。この様な安物の封印の櫃など、紙の牢獄ようなもので、出ようと思えば何時でも出れるのだが、一旦出た以上は「力」を吸収し続けなければならぬ。迂闊に出て飢えると、さしもの私も死を迎える』 (ネイ、貴霊はたった今、ダマスカスには悪が満ち満ちていると言った。それでもし足りなければコンスタンティノーブルにも負けないぐらいのおぞましい連中が蠢いている。それでも足りなければ、世界中の権力者を喰ってやればいい。俺は助力を惜しまない!」 『そうか。それほど迄言うならば!』 言い終わるか終わらないうちに、黒い石の櫃に無数の細かいヒビが走ったかと思うと、その間から眩い黄金の光の帯が漏れた。 その輝かしさと、聖なる雰囲気は、「魔物」と言うよりは「神」の出現を彷彿させた。 やがて櫃はこれまた塵より細かな粒となって雲散霧消した。 鉄砲水のような霊気の洪水が娼家の家じゅうを押し流して行く… 気が付いた時、テヤの目の前には、この店の軒先で見た寂しそうな少女が立っていた。(アラビア人魔導士達は一切の証拠を消し去る為に、哀れな娘達を皆殺しにしたはずなのに、彼女は難を逃れたのだろうか?) テヤの疑問に少女=ネイはたちどころに心の中に答えてきた。 『察する通り、私は今この娘の亡骸に宿って魂の入れ物としている。何ならもっと貴方の妹に顔立ちを似せようか?』 「止めてくれ! それだけは止めてくれ!」 テヤは思わず絶叫した。 (分かった。このままの姿でいよう。−−但し、姿を維持するだけの「力」が得られぬ場合、如何なる姿になろうとも責任は持てぬ故、覚悟されよ) 「分かった。…なあに、そんな心配は杞憂に終わるさ。貴霊が何時からあの櫃の中に閉じこもっていたのか知らないが、西ローマ帝国がゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされて以降、欧州は戦乱の絶える間がない。『悪の力』に飢えることなどまずもってないさ。それに…」 「−−人の言葉で喋れば良いのですね」 ネイはこれ以上はないくらいの可憐で優しい声で言った。 度重なる爆発の異変に尻込みしていたマラケシの街の警備兵達が槍を構えてゆっくりと進んでくる気配がする。 「この街には大した『悪』はありませんわ。貴方のおっしゃっていたダマスカスに行ってみましょうか?」 ネイはテヤの手を取って微笑んだ。 「そうしよう。−−それと、これ以上関係のない人を殺すなよ」 「私、満腹の時に無益な殺生をしたことなどございませんわ」 兵士達が突入してくる寸前、二人は金色の聖なる光に包まれて消えた。 4 テヤとネイが再び姿を現した所は、大小金銀のモスクの光塔(ミナレット)が覇を争って林立しているダマスカスの都だった。 「私、この街にとてつもない邪悪が潜んでいる気配を感じますわ」 ネイは用心深く控え目な仕草で周囲を見渡す。 テヤの目には石造りの家々と、ターバンを巻いたり、黒い布ですっぽりと顔を覆った通行人しか写らない。 「それはどっちだ? どの方向にいる? あっちか?」 テヤは港に望む小高い丘の上にあるウマイア王朝教主の宮殿を指差した。 「きっちりとした方向を確定できない… とても巧みに隠されているわ。でも、人類以前の、太古の邪悪な神神の召喚を企んでいる者がいる…」 ネイは両手の掌でこめかみを押さえた。 「−−それに比べれば、教主の宮殿に巣喰っている悪などは、全部合わせても爪の垢ほどもないわ」 「ネイ、『太古の邪悪』と言ったが、君はそいつらを知っているのか?」 「知っている。それらの殆どは善なる神によってあるものはこれ以上はないくらいに厳重に封印され、またあるものは時空の果てに追放されたけれど、まさか人間の魔導士が彼(か)の者共を…」 語るうちにネイの顔色が悪くなり、蒼白い死者のそれに近付いた。 「どうしたんだネイ! しっかりしろ!」 「『力』を… 悪の力を吸収しないと」 抱き起こそうとするテヤを制したものの、胸を押さえたネイは非常に苦しそうだった。 「早くその『とてつもない邪悪』とやらをやっつけに行こう!」 「分からない… 相手も人間ながら相当の術者。捜し出すのには相当の手間と時間が要るわ」 「ならばとりあえず、教主宮殿に殴り込みを掛けよう。ひょっとしたら、宮殿の誰かがその魔導士について心当りがあるかも知れない。−−いや、それほどの術者、この辺の魔導士仲間なら、きっと噂くらい耳にしたことがあるはずだ!」 二人は光と共に教主宮殿の、紅玉碧玉を敷き詰めた中庭に現れた。 至る所に本当の小鳥のように様々な声で囀る金銀細工の小鳥をあしらったオリーブの樹には、噴水の清水が間断なく降り注ぎ、巷間よりは一段涼しく、爽やかな空気に満ちている。 だが、その清浄さとは逆に、ここに侍う武官文官の心中は、陰謀と互いに対する猜疑で泥沼さながらに澱んでいた。 と言うのも、現在の教主ワリードの数代前、ウマイア朝の開祖ムアーウィアは、偉大なる預言者マホメットの娘婿であり従兄弟であり、第四代の、即ち最後の正統教主であるアリーを、刺客を送るという卑怯卑劣な手段で暗殺し、強引に権力を手に入れた男だった。 ワリードの代になってもまだまだアリーの血統に忠誠を誓い、ウマイアを認めない者も少なくなかった。歴代のウマイア朝の教主達はその疑いのある者に容赦なく弾圧を加えた。裏切者も烙印は、単なる権力闘争や痴話喧嘩にまで徹底的に利用され、心ある臣下や家来は一人、また一人と粛正されていた。 後に残ったのは、権謀術数にだけ長けた奸臣侫吏ばかりであった。 中庭に忽如として現れたテヤとネイを見て、雲を突くような大男の衛兵達が偃月刀を振りかざしつつ駆け寄って来た。この者達は皆、夜が更けると覆面と黒装束に身を包んで、反対派及びその親派の家屋敷を襲撃するという教主の親衛隊だった。 「貴様ら、何者だ?」 隊長が鞭をしならせながら尋ねた。 「いきなり闖入したことは平に詫びる。実は火急の用で、ここダマスカスの魔導士長にお会いしたいのだ」 テヤはかつての、短い間だったとは言え、ゴート王だった頃の威厳を取り戻して訊ねた。「何、『魔導士』とな? 至高の神アラーの下、魔とつくものは全て姿を消したわ」 衛兵たちの偃月刀が一斉にきらめき、鞭がしなった。 「それは分かっている。俺の言っているのは密かに非合法の大魔導を復活させ、教主猊下に仇を成そうとしている者のことだ」 「アルハザードのことか? 彼の者はとうの昔にアラビア王によって広漠の炎熱砂漠に追放された。あの砂漠に放り出されて生きていた者は未だかつて誰一人ない」 「『アルハザード』?」 その名はテヤの頭に焼きつけられた。 その時、衛兵の一人が隊長の耳に何事かを囁いた。 「退魔封印の任務の為、北アフリカのマラケシに赴いた我が同僚達が、金髪白肌の男に邪魔立てされて全滅したという報告が入っている−−」 テヤは全身の血が引くのを感じた。 とその時−− 「もう我慢出来ません!」 ネイが叫んだ。 その切羽詰まった口調に思わず彼女のほうを振り向いて見たテヤと衛兵達は腰を抜かさんばかりに驚いた。 何と、それまでの美しい少女の姿は無残に崩れて、黒く形のない泥澱のような生物がその半身を覆っていた。 「化け物だ!」 衛兵達はテヤを無視して、『ネイだったもの』に一斉に斬り掛かった。鞭を振るっていた隊長も、『これでは歯が立たぬ』と判断したのか、一際大振りの偃月刀を抜き様に振り降ろした。 ところがそれよりも早く、不定型の生物は幾十もの細く鋭い触手に分かれて、まるでその一つ一つが意思あるものの如く、相手の武器をかい潜り、脳天目がけて直撃した。 触手が脳髄にめり込む瞬間を目撃したテヤは、その先端に眼か、鋭い回転刃に見えるものがあるのを見た。 頭の中心部まで差し込まれた触手は、直ちに飲み物のコップに刺された麦殻のように、アッという間にその中身を吸い切った。 脳味噌を吸い尽くされた頭は、干し葡萄となって凋む。 偶然その光景を目撃した女官や宦官達が、実際に命を奪われた者よりも壮絶な悲鳴を上げる。 しかし彼等も全員すぐに、無限に伸びる鞭に襲われて静かになった。 「止めるんだ、ネイ! 無益な殺生はしない約束じゃないか?」 テヤは彼女のまだ人間の肌を残している部分を掴んで叫んだ。 「足りないわ! まるで足りないわ! このままでは一日として美しい人間の姿を保つこともなく消滅して、無の世界に帰さなければならないわ!」 そう言いながらも、当座の「力」は補充したのか、ネイは醜い触手を全て染み一つない雪花石膏の皮膚の底に納めて、元の美しい姿に戻った。 「−−何としてでも、そのアルハザードとか言う魔導士を見つけて、その『悪の力』を喰わねば、とても持ちそうにありませんわ」 「分かった。それにそんな奴は喰ってしまった方が人々の為だろう。さっきの話ではアラビアの砂漠に追放されたらしいじゃないか。早速探し出してやっつけてしまおう!」 テヤはネイのか細い腕を引いて促した。 「ちょっと待って。いきなりそんなところに瞬間移動したら、貴方は勿論、人間の肉を纏っている私も、たちどころに干上がってしまうわ。もっと準備をして、詳しい情報も集めなければ…」 阿鼻叫喚の中庭から忽然と消えた二人は、教主宮殿の正門のすぐ近くの隊商宿の片隅に現れた。 そこは一つの隊が数百人と同じくらいの数の駱駝から成る大規模な交易団の隊長達や、資金だけを出して自らは都に留まる隊主達が教主猊下やその側近に、貿易の勅許や細々とした許可証を求める為、或は無事にインドや遠く大唐との貿易を果たし帰った隊の代表が高価で珍奇な献上品を山の如く携えて滞在していた。 彼等のお目当ては無論、新たな許可証と、ある特定の品物について取扱の独占を保証する特許状などだった。 次から次へと運ばれてくる財宝はまるで後を断たず、倉と言う倉に溢れ、廊下や道に落ちている宝石などは、誰も目もくれない有り様だった。 当然外国人も大勢屯ろしている。それぞれの民族衣装に身を包んだ黒い肌、黄色い肌、白い肌の商人達が、アラビア語や自国の言葉で「砂金何百貫」「金剛石何十カラット」の単位で口角泡を飛ばしつつ商談を交わしている。 ここではテヤもネイも全く目立つ心配はない。兵士達が弓矢や投げ槍を無頓着に置くように、そここに置かれている予備の天幕や食料のうち、使い勝手の良さそうなものを手当り次第に頂戴した。ネイが呪文を唱えると、かなり大きな天幕ですら、手の平に乗るぐらいに小さくなってしまった。後で改めて確認の為に荷箱の上に並べて見ると、人間と駱駝の姿だけがない玩具の隊商が出来上がった。 後はアルハザードに関する情報だけだった。 隊商達は教主の軍務長官や親衛隊よりも多くのことを知っていた。何故なら彼等の知る情報は殆どが隊商達が各オアシスや回教寺院にもたらし、そこの狼煙台から発せられた狼煙によってここダマスカスに伝えられたものだからだ。 もっとも、それが帝国の重大機密事項で公に語ることが憚かられるものであるなら、 「魔導士アルハザードについて何かご存じではないですか?」と聞いて回る訳にも行かなかった。 「心を読みます。しかしそれにも『力』を使うので要領よくやらないと…」 ネイの頼みを受けて、テヤはアラビア砂漠の中心部、これ迄幾多の腕に覚えのある魔導士、冒険家、探検隊商団が、伝説の太古の都市アイレム、無名都市を目指して旅立ったものの、誰一人戻ることのなかった禁断の地域の近くを通り過ぎた商人を探した。 そしてようやく、皴だらけの水番(回教では大抵の主だった公共の建物には礼拝所が設けられており、そこに上がるにはどのような貴人であっても水ないし砂で手や口を清めなくてはならない)に少なくない賄賂を渡して噂らしきものを聞き出した。 「そりぁ貴方、そんな恐ろしい場所に行ったり、見たりした者は、多かれ少なかれ心に病を得ている者が多いですだ。だから、み恵み深きアラーの、施療院を当ってみなされ」 テヤとネイは早速ダマスカスで最大の施療院を訪れ、受付の若い回教僧侶にいくばくかの喜捨をしてこう尋ねた。 「友人で、砂漠の彼方で道に迷い、行ってはならぬとされている処をかいま見、その余りの恐ろしさに、永遠に正気を失ってしまった者が、こちらのお世話になっていると聞いて参った者だが…」 「その種類の病人は時々担ぎ込まれますよ。しかしそんな患者は一月、いや一週間も生きていることは稀です。多分慈悲深いアラーが安らかな死を賜われるのでしょう」 回教僧は入院患者の名簿を繰った。 「−−三日前に運ばれてきた患者が、そのような症状を示していた、と書かれていますが、『例え親戚縁者であっても絶対に面会謝絶』ということになっています」 「それは無体な! 彼こそ私たちの友人かも知れない」 テヤは眉を吊り上げつつ、その手は財布ごとの金貨を相手の目の前に置いた。 これもまたネイの魔力を使って、多少減っていても気が付かないくらい沢山あるところから失敬したものだから、痛くも痒くもない。「この施療院は、敬虔な僧侶の方々と、都の市民の篤志によって成り立っている、と聞いた。別人と分かれば扉の所で失礼する。 −−別人であって欲しい」 「そうですか… それでは拙僧が案内したと言うことはくれぐれも秘密、ということで」 若い修行僧は中身をチラりと見た。しかしすぐ近くに備えてある強力(ごうりき)が、げんのう(大きな槌)で叩き割らねば中身を取り出すことの出来ない篤志箱の中に放り込むことはせず、自らの懐の中にねじ込んだ。「無論だとも! 明日は我々がこちらの世話になるはめになるやも知れぬ」 三人は夜更けに人目に付かないところで会うことを約束して一旦別れた。 5 その夜、ダマスカスの都は、珍しく嵐が吹き荒れた。西からの海の風、東からの砂漠の風がぶつかり、怪しい黒雲が遠くバビロンやエルサレム、キプロス島まで覆い、百年に一度の大きな稲妻群が街のそこここに落ち、炎が上がった。 「何か尋常じゃないな」 テヤは、熱病患者そっくりに蒼醒めた顔でわなわなと震えるネイに、自らのマントを着せ掛けながら約束の場所−−遺体の安置所へと急いだ。ネイは昼間教主の宮殿で虐殺した人々の「力」を早くも使い果たしかけている。 叩きつけるような大粒の雨が降り出した。「−−一体何をしているんだ? 早く来い!」 テヤは人の姿を維持し続けることが次第に難しくなりつつある彼女の身体をしっかりと抱き締めた。 こんな晩故に死去した病人がいるのだろうか、身寄りや同室の者、世話をしていた者啜り泣く声が風に乗って散る。 「ネイ、万一分別を失い掛けた時は、この俺を喰ってしのぐんだ。−−俺の「悪の力」も案外食べごたえがあるかも知れない。−−ここにいる人々や働いている人々はみんないい人々だ。だからとりあえず俺を喰って、その極悪非道の魔導士アルハザードのところへ向かうんだ」 ネイは彼の胸に埋めた顔を激しく横に振った。 (まさかあいつ、この天候に怯えて気が変わったのでは?) 何度目かそう思った時、滝のような雨の中にか細いランプの灯りが近寄ってくるのが見えた。 「ここで待つ」という約束をしていなければ、相手の姿はてっきり亡霊に見えたことだろう。「済みません。全ての鍵を手に入れるのに時間がかかったものですから」 そう言う声もまた震えていた。 「『全ての鍵』?」 「ええ、その患者のいる病棟に行くには三本の鍵が必要です。建物の鍵、地下室へ降りる扉の鍵、それから病室の鍵です。 最後の鍵は熟練の看護人一人が持っていますが、この男は生まれつき目も耳もかすかにしか利きません。…その男が眠りに就くのを待っておりまして…」 若い修道僧はそう言いながら、その先に道があるとは思えない、施療院の奥に広がる森に続く植込みに分け入って行く。 テヤもネイの手を引きながら、見失うまいと続く。 すると、植込みの中、森の中、立垂の余地のないところを、細身の者だけが辛うじて通れる道が続いていた。 降りしきる雨風も木立が遮り、幾分ましに感じられる。 と、僅か数歩先の高い糸杉に落雷があり、その木は真二つに裂けつつ炎を上げて燃え上がった。 その輝きの中、古びた土蔵そっくりの、窓を全て塗り込めた僧房が、森の中に隠れるように建っているのが浮かび上がった。 「ここから先は貴方達だけで行って下さい。鍵を元通りに掛けることを忘れずに。−−正気で帰ってこられたら、の話ですが…」 若い修道僧は早くも目を堅く閉じ、炎に浮かび上がる建物から目を逸らせて、まるで汚物でもあるかのように、緑青で膨れ上がった鍵を渡した。 「有難う。我等の身寄りか確かめたら、出来るだけすぐにもどる」 「あの… 患者の顔や姿は見ない方がいいですよ」 相手は顔を伏せ続けたまま呻いた。 「何故?」 「見なくても話はできるでしょう?」 テヤとネイは、それ以上問い詰めることはしなかった。 漆喰が剥がれ落ちたままになっている扉の前に立つと、人の頭ほどもある大きな南京錠に、最初の鍵を差し込んだ。 雨に打たれ、痂の赤錆が飛び散って鍵が外れた。 二人が潜み足で中に入ると、そこは饐えた異臭と黴の臭いが充満する、密室の病室がずらりと並んでいた。それぞれの部屋の重い石の扉からは、覗き窓を含めて窓らしきものがまるでないにも関わらず、思わず耳を塞ぎたくなるような呻き声や訳の分からぬ叫び声、けたたましい嗤い声が漏れ聞こえてきた。 テヤはこれ迄どんなに凄惨な戦場、恐ろしい敵からも、逃げ出したいと思ったことなどただの一度もなかったが、この建物には三分と居たくないと感じた。 それでも勇を振るって、教えられた通りに地下へ降りる扉を探して、そこの鍵も開けた。 螺旋階段には埃が分厚く積もり、蜘蛛の巣が張っていた。僧の話によると、この下で治療を続けている者の世話をする者がいる、との話だったものの、その者がもしいるとしてもここ一年は訪れていない様子だった。 「でもそれで人間が−−まして病人が生きられるだろうか?」 チラチラと今にも消え入りそうなランプの灯りの下、テヤは独り言を呟いた。 「食料と水が十分にあれば、生きていると思うけれど…」 ネイは自分自身が人の姿を維持し続けるのに精一杯で、もはや周囲が何であろうと構っていられぬ様子だった。 そんなネイの苦しみ様に、テヤは蛮勇を振るってさらに下へと進んだ。 地下の病棟は一階のそれに比べて、森閑と静まり返っていた。まるで誰もいないか、いたとしても死に絶えてしまったような虚無が空間を支配していた。 「一番奥の部屋だ。−−もうすぐだ。もうすぐ君を楽にする大魔導士アルハザードについての情報が手に入るんだ」 目を血走らせたテヤは、土色になり、定かな形を失いかけているネイの手を引き、問題の最後の扉の前に立った。 「生きていてくれよ! 『恐ろしきものの目撃者』とやら!」 さんざん苦労して引っ掻き回した末に、完全に錆び付いていた鍵が外れた。 ギイッとこの上なく不気味な音を立てて、異常に重い鋼鉄の扉が開いた。 仄かな灯りが照らす先には、小さな椅子と書きもの机があり、机の上にはコーランをはじめとする何冊かの書籍と、安物の羊皮紙を綴じたノートやインク、羽ペンなどがあった。 どれもこれもここの施療院が患者の心の平安を祈って差し入れたものらしい。部屋の隅にはさらに奥へと続く木の扉があり、寝台などはそちらに置かれているらしかった。 テヤはさらに進む前に、(何か記されてはいないだろうか?)とそのノートを覗いた。 しかし茶色に変色したそれには何も書かれておらず、インク壷のインクも飴のように凝固していた。頁を繰って見ると、何か書こうとした形跡はあるのだが、思い留まったか、特別な事情で出来なかったような、文字ならぬ文字のかすれた条痕がいたるところ のたくっていた。 寝室への扉のノヴに手を掛けたテヤは、その先から今までのものとは違う奇妙な臭いが漂ってきていることに気付いた。 海辺の漁師町の臭いのような、海産物−−とりわけヴァイキングの好物である海老や蟹が立てる生臭い臭いがした。 そのまま扉を押し開けようとしたテヤだったが、心のどこかに虫の知らせを感じて、まるで無意味と思われていたノックをしてみた。 二度、三度、渇いた音が谺する。 (莫迦な! 俺は一体何をやっているんだ?) テヤが少し唇を歪めかけた時、中から干乾び、疲れ切った男の声がした。 「入らないでくれ。そうしなくて済むのなら入らないでくれ」 テヤとネイは互いに顔を見合わせた。 「俺達は貴方の見舞いに来ただけだ」 「見舞いなど無意味だ。さっさと返ってくれ!」 しばしの間があった。 「では率直に申し上げよう。我等は大悪魔導士アブドゥル・アルハザードを退治するべくこれよりアラビアの深砂漠に赴く者だ。貴方もアルハザードにその様にされた恨みがあるのなら、是非とも我等に御助力賜りたい。 −−「助力」と言っても簡単だ。我等に、貴方がアルハザードと会った場所を教えて頂くだけでいい。後は全て我等がやる」 長い沈黙の末、痺れを切らせたテヤが進もうとしたその時、ようやく返事があった。 「良かろう。貴方がたは本物らしい…」 6 「お前達は砂漠の果ての果て、カラ・シェール、無名都市、アイレムと、そこの住人に納まっていたサナアの魔導士について聞きにきたのであろう?」 相手は渇き、くぐもった声で扉越しに言った。 「−−お前達も多少は腕に覚えのある戦士、魔導士で、カラ・シェールに遺された禁断の数々を我が物にし、併せてアラビア王より追放された魔導士を倒して、その力を奪うつもりなのだろうが、それは不可能と言うものだ」 「しかし、貴方はそこへ行って帰ってきた。失礼だが一介の隊商商人である貴方に出来て我等に出来ぬはずはないと思う」 テヤは扉の外で囁くように言った。扉を開けて押し入らなかったのは、そうしなくても相手が話す気になっていることを悟ったからだった。 (自分達の目的は、この患者をどうこうすることではなくて、あくまでアルハザードのことについて聞き出すことだ) テヤは椅子を二つ運んで来ると、埃をはたき、扉のすぐ前に座った。ネイにも勧めたが、彼女は両手で震え続ける自分の身体を抱えたまま、決して座ろうとしなかった。 「人も駱駝も、天幕ごと巻き上げてしまう物凄い砂嵐が続け様に三つ四つ、それから渦を巻く流砂… 私の隊は散り散りばらばらに なってしまった… おそらく、私以外の全員が、安らかにアラーの庭で憩い就いていることだろう… −−私もそうなった方が良かったのだ…」 「そんなことはない。アラビア王と教主猊下は情けを賜られたおつもりでも、アルハザードは命ある限り必ず偉大なるアラーの栄光を汚し、祝福された帝国の人々に仇を成すことは必定。 幸い我等にはそれぞれ腕に覚えもあり、カラ・シェールが如何に辿り着くに困難を極める場所にあっても、アルハザードが如何に凶悪無比な魔導士であっても、勝算がある」 この頃になるとテヤは、とても扉の向う側には聞こえないような声でも囁いても、相手にははっきりと届いていることに気付いていた。 「やれやれ、みんなそう言うのだ。だが、肝心の勝利の報告をしに来た者は一人としてない。都に華々しく凱旋した、と言う噂もとんと聞かぬ。 皆が皆、砂漠とその魔導士をみくびり、語るも哀れな結末を迎えたのに違いない」 「我等は違う!」 思わず叫ぶテヤの眼(まなこ)に、奇妙なものが写った。 古びて処処ひびの走った壁。その亀裂の間から、青黒いかもしくは漆黒のゼリー状態の物体が泌み出したかと思うと、糸となりゆっくり床を目指して瀝り始めた。 それは何かなめくじか蝸牛の出す粘液か、イカの墨に似ていた。壁自体もまるで生き物のようにかすかに膨張と収縮を繰り返す。 異変にはネイも気付いた。 『早く要点を聞いたほうがよろしいですわ』 彼女は眼で合図した。 ネイはこの奥の部屋の中にいる患者を遥かに上回る力があるので、こちらの真の目論見が露見する心配はない。 ただ、相手は寂しさと持って行く場のない怨念の為に、重要なことをすぐに話すつもりはさらさらないらしかった。 「『あれ』を喰わなければ… −−いや、その前に『あんなもの』をがぶ飲みさえしなければ! −−いや、『あれ』を飲み食いしなければ、とても生き長らえなかったのだ。 …やむを得ない。−−いや、それにしても何という高い代償だろう! いっそ『あれ』に即死する毒が含まれていたら、今頃はアラーの楽園で寛いでおれたのに…」 「『あれ』とは一体何だ?」 テヤは相手の切りも果てしもない繰り言に口を挟んだ。ネイの瞳は色とりどりの黴が生えている天井のさらに上の階上のさらに上の屋根の上を見通している。 『早く! 何か来る!』 『そんなことを言われても、喋らないものはどうしようもない。ネイはこの中の化け物の心が読めないのか?』 『読んで読めないことはないけれど、迫り来ているものと戦うには、できるだけ『力』を貯めておきたいの』 「死ぬほど喉が渇いていたら、貴方でも−−いや、誰でもどんなものでも飲んだだろう。それが液体に見えさえすれば…」 「水じゃなかったんだな?」 「水じゃない! 水だったら、例えどんなに汚れていても、こんな様にはならなかっただろう」 「じゃあ何だ?」 「太古の物質だ。黒い油(石油のこと)よりもさらにもっともっと古い… この世界が聖なるアラーによって作られたとき、アラーはその遍く慈悲によりて、汚れた物質や生き物を完璧に消滅させ賜うたはずだった… しかし奴等は神をも欺く狡猾さを持って、禁断の砂漠の奥地に身を潜めたのだ…」 「水そっくりの、しかし違うものだな?」 「そうだ。しかし、息の絶え絶えの私にとってそれは深い泉から湧き出る清水に見えたのだ。貪り飲んで一心地着いた後でよく見るとゼラチン質の不気味な物体だった。ねばねばとし、中にミジンコに似た、それでいて決してミジンコではない小さなクラゲか、釣りをしている時に時々釣れる深海魚をうんと小さくしたものがまるで氷菓子の具のように入っている… それからしばらくすると、私は身体じゅうに元気が甦ってくるのを感じた。健康な空腹感すら覚えた。 そこで初めて落ち着いて回りの風景を眺め渡すことが出来た。砂漠の中に列柱が整然と建ち並んでいる。ギリシアのそれよりもずっと古い、絵でしか見たことのないフェニキア人かペリシテ人の神殿のもののようだ。おおかた壊れた屋根が付いているものもあれば、殆ど瓦解しているものもある。 人間がいる気配はまるでない。しかし、 「何か」が棲んでいる気配がひしひしと迫ってくる… 砂漠を旅する者の習いとして、崩れ落ち掛けた神殿の屋根越しに暮れなずみの空を見上げ。思わず「アッ」と声を上げた。 何と、星宸星宿の位置が、いつも見慣れたものからは想像もつかないものになっているではないか! 北極星もなければ北斗七星もない。 咄嗟に(これは知らず知らずのうちに、インド洋に浮かぶ南の島か、ヌビアのさらに南に来てしまったのでは?)と考え、懸命に記憶を辿って南十字星を捜す私の目に、赤く輝く満月が見えた。 (はて、遭難してからそんなに日にちが経ってしまったのだろうか?) 幾分衝撃を覚えつつ、目を右に向けると、何とそこには黄金に輝く半月が、左に向けると蒼くぼんやりとした三日月が浮かんでいるではないか! さらに闇の帷が降りると、幾条もの銀河が縦横無人に走っているがはっきりとし始めた。 月以外の星のいくつかも、まるで手を伸ばせば届くくらいにすぐ近くに見えた。それぞれの星を飾る縞模様や、尖った鱗をぐるりと浮かべた環は、どう考えても私の知る世界のものではなかった。 (迷い込んでしまった! 御恵み深きアラーが封印し賜うた太古の邪悪な世界に迷い込んでしまったんだ!) 無知蒙眛な私でも、本能で悟った。 脱出して元の世界に戻ることなど及びもつかない… 広大な都市の残骸の向こうには、果てしない砂漠が広がっている… 砂漠の砂の色は、辰砂のように赤い… 最初夕陽の光の加減と思っていたものが、一粒一粒の中心からキラキラと輝いている。 喉の渇きが納まり、一息着いた私は次第に空腹感に襲われた。 と言っても食料などはどこにもない。 絶望の淵に追い詰められるに従って、感覚は鋭敏になって、先ほどからカサカサと音を立てては砂や廃墟の中から現れて、また素早く消える存在をよりはっきりと認めるようになった。最初はまるで見えなかったものが、一瞬−−やがては完全に目撃するに至った。「それ」にはいくつもの種類があった。海老に似た甲殻類、蟹に似たそれ、拳の大きさほどのオウム貝。どれもこれも、化石でしか見たことのない大昔のものだった。 しかし私にはそいつらは大した御馳走に 写った。狙いすまして片っ端から鷲掴みにすると、殻のあるものは真ん中から真っ二つにして、甲羅のものは尖った石のかけらでこじ開けて、貝の類は中身を刳り出して貪り食った。喉が渇いたりむせそうになると、また先ほどの奇怪な水で喉を潤した。 それらのもの共の味は、ダマスカスやサナアやコンスタンティノーブルなどの都市(まち)で食う豪華な海産物の料理と何等変わるところはなかった。 少なくともその時はそう思って、餓死せずに済んだ自らの幸運に感謝した。−−後いこの様な贖い切れない付けが返ってくると分 かっていれば、躊躇なく餓死か、着衣で紐を作って自殺の道を選んだだろう…」 「しかし貴方は無事にこちらの世界に帰って来ている。どの様にして帰還出来たのか?」 テヤは相手が息を継いだのを潮に、鋭く訊ねた。 「帰って来たのではない。帰してもらったのだ」 答える声に怯えの影がかかった。続ける言葉が一際大きな雷鳴と、豪雨による増水がこの地下にまで押し寄せてきたのだろうか、 ザアザアと水の流れる音に掻き消される。 「−−お前達が尋ね当てて倒し、手柄にしようとしているアブドゥル・アルハザードという魔導士にな」 「会ったのだな? アルハザードに?」 テヤは色めきたち、ネイは失いかけていた人の姿を気力で取り戻した。 「喉の渇きが納まり、腹も膨らんだ私は、その廃都に人間かそれに準ずる者がいないか、そこに棲む、ないしは気紛れにそこを尋ねた魔導士がいないか、目標を立てて東西南北を順次探検を始めた。 確かに、この街から見上げる月や星星は奇妙きてれつではあったが、じっくりと観測するうちに、自分なりに方位方角を仮に定めて歩き回るうちに、頭の中に独自の地図を思い描くことも出来るようになった。 その際に特に参考になったのはユゴスだ。 夜空に瞬く満天の月星の中にあって、その星だけは回りの闇よりも黒く、邪悪を象徴するかのように渦を巻きながら輝いていた。 私はその星に「ユゴス」という名を与えた。 私がかつて住んでいた世界のユゴスとは、位置も大きさも輝きもまるで違っていたが、間違っていたとしても咎める者は誰一人としてない。 それにそう言えば、元の世界で続けて砂嵐に巻き込まれる前に、この不吉な星が一際大きく眼前に迫って毒毒しく光っていた。 とにかくそんな風にして、街の探検を続けた。喉が渇けば例の変な水を飲み、腹が減れば件の海のものに似たものを食した。 そんな毎日が数十年間続き、列柱の傾き具合の僅かな違いや、私などには到底解読できない文字を刻んだ石板を区別何とか区別することで、この都市の隅から隅までを熟知するに至った。 そんなある朝(その日は珍しく五つの太陽が昇る日だった)私はある気配を感じた。 それまで永劫とも思えるぐらい永い間、ついぞ感じたことのない気配。どうしようもない懐かしさと同時に、戸惑いと戦慄を覚えさせる気配−−人間の気配だった! 何百丁、何十里先のものであるかどうかは定かではない。余りの時の流れの果てに私の耳は、足音とも言えないほんの幽かな砂の揺らめきすらも、この砂漠の都市に棲むいかなる生き物の蠕動と違うと、聞き分けることが出来た。 私は砂を蹴立てて走った。走るのもまた何十年かぶりだった。転けつまろびつするのも無理からぬこと… 「おーい!」と大声で叫ぼうとしても声すら出ない… それ迄語りたくとも誰とも語ることがなかったからだ。口は完全に錆び付いていた。 それでも半日ほど駆けているうちに、極光の揺らめきのような陽炎の中、大きくも小さくもない黯くぼやけた人影がゆらゆらと動きながら近付いて来るのが見えた。 私には確信があった。誰であれ、次にこの街にやって来るのは、私のような道に迷った者ではなくて、叡智を極めた魔導士であることを… ここがもし普通当り前の世界ならば、やって来るのは至高の神であり、神の御言葉を伝える偉大なる預言者であっただろう。だがここは本来人間が住み行き交う場所ではない世界だ。地獄に似ていて地獄でもない。 地獄ならばどんなに良かったことだろう! そこならきっと大勢の仲間もいるし、(死んでいるのだから)決して元の世界に戻ることもないと諦められたに違いない。 「そこにいるのは誰か?」 魔導士は影のまま言った。その声は意外に若く溌刺としていた。私は『魔導の奥義を極めた齢数千歳の魔導士で、術を使って永遠に若い姿でいるのかも知れない』と思ったが、この考えは相手に読まれてしまったようだ。 私は正直に自分の身の上話をした。 隊商の旅の途中で幾つもの砂嵐に巻き込まれたこと… 仲間を全て失ったこと… ここへ来て何十年もの月日が流れたこと。元の世界とは大きな隔たりのある奇怪な水と此地の生き物を飲み喰いしてきたこと… 一通り聞き終えると、相手はぶっきらぼうにこう訊ねた。 「−−で、どうして欲しい?」 「勿論、元の世界に帰して欲しいです。家族や友人達と再会したい」 「それにしては、この土地のものを沢山飲み喰いし過ぎている」 影が次第に輪郭を現した。想像した通りの聡明かつ邪悪この上ない瞳の青年魔導士だった。 「そんな! ここへ来てから十数年の間、ここの生き物を食しているが、この通り身体は元気そのもので、病気一つしていない」 私は、幾分肋骨が浮き上がっているものの、旅立ったその日ほぼそのままの逞しい腕や足を襤褸となった寛衣の裾や袖からめくり上げた。 「ここは時の峡(はざま)。お前は気も遠くなるぐらい待ったつもりだろうが、実際は砂嵐で遭難した日から一日−−いや、一時間、十分を経ってはおるまい」 後で知ったことだが、この青年魔導士アブドゥル・アルハザードもまた、アラビア王やダマスカスの教主ワリード猊下の逆鱗に触れて、本人の意思でなくこの地獄よりも恐ろしい砂漠の廃墟に追放されたのだと言う… しかしこの時はそんなことなど露ほども思わなかった。 魔導士の全身から漲る不遜な迄の自信と、口元にかすかに浮かんだ不敵な微笑は、 『ここでも、何処でも、自分の行き来を妨げるものなど何もない』と語っていた。 脱獄の達者な大泥棒に牢獄など意味がないように、アルハザードにとっては、普通なら死刑よりも残酷なはずの追放刑も、まるで使い走りの刑くらいにしかこたえていなかった。「『十分』? まさか!」 驚くと同時に、希望が湧き上がってきた。 もし魔導士の言うことが本当なら、戻ってすっかり諦めていた人生を十分にやり直せる…「ここで食したものの影響は、ここにいる限りは出ないのだ。だが、元の世界に戻った途端、奴等は活動を開始する。言わばそれが奴等のつけ目なのだから」 魔導士は気の毒そうに瞳を伏せる。 私にはどうしてもアルハザードが狂気の魔導士とは思えない。あの時の同情は紛れもなく本物だった。 「『活動』?」 重ねて尋ねたものの、魔導士はそれ以上は語らなかった。 「何でもいいから、どうしても帰してくれ」 黒い蛾の羽根を集めて織った寛衣の裾に縋り、泛沱の涙を流して土下座すると、魔導士もどうしたものか迷っている様子が感じられた。 より情け深い、善意の魔導士を待つつもりなどさらさらない私は、砂の中に顔を擦りつけて頼み続けた。 どのぐらいの時間がたっただろうか、ふと気が付くと魔導士の気配は消えていた。 私はおずおずと砂にまみれた顔を上げて周囲を見回した。 列柱の並んだ遺跡の光景は少しも変わっていない。 (願いを聞き届けて貰えなかったんだ!) 私は悲嘆と絶望の真っ只中に転がり落ちた。 つい先ほどまで拝み倒していたあの魔導士を呪い、恨みに恨んだ。 涙に濡れた目をふと上げると、月と星星がにじみ輝いている。月の数は一つだ。 (月が一つ?) 私は思わず肘で両眼を拭ってもう一度夜空を見上げた。黄金色の満月。天の頂きには北極星、記憶の彼方に去り掛けていた星座の 数々が一気に思い出された。 戻ったのだ。遭難した場所の近くの砂漠に… 隊商の順路からは少し逸れていたものの、夜が明けるまで飛ぶように走ると、まだ風紋が消し去る前の、大勢の商人と駱駝達の足跡に追い付くことが出来、昼前にはこの一団に救ってもらえた。 ところが何ということだろう、器になみなみと注がれた澄んだ飲み水を見ても、全く飲む気が起こらない。パンや干し肉を供されても吐き気を催すばかり… 皮肉なことに、私の衰弱は助け出された時から始まった。 その頃には私にはまだ家族も友人もおり、名医と呼ばれる医者は大体訪ねたものの、薬石一向に効果がない。 医者や家族や友人にとって、私が行方不明だった期間はほんの数日だから、この症状に心当りなどある訳がない。私も敢えて詳しい事情は話さなかった。誠意を込めて話しても別の種類の療養所に回されるのが関の山だと思ったからだ。 ダマスカスのこの施療院に収容される頃には、骨と皮だけの瀕死の重病人になっていた。 とうとう私の症状が、他の奇病のそれと共に高札の一角に記され、医学校の玄関に掲げられるに至った。 ところがある時、通り掛かりの魔導士風の青年が、治療方法を羊皮にさらさらと書きつけてそのまま去っていった。 匙を投げて久しかった担当の医者は、半信半疑のまま、試して見ることにした。 その方法とは、水は昆布や寒天や他の海草を沢山解かして殆どゼリー状にして、食べ物は海老とか蟹のような甲羅のあるものに、海牛やなまこを加えて食べる、というものだった。 その薬膳が出された途端、私は盆ごとひっくり返したいと思った。ところが両の手は私の意思に反して、それらを鷲掴みにして貪っていた。 その様子は、ちょうど砂漠に迷って、あの忌まわしい都市に辿りついたばかりとそっくりだった。 回復は早く、その食べっぷりもまた日を追って量を増し、体重体格がちょうど元に戻った頃には、退院の許可が下りた。 家族や友人達が喜んでくれた。だが、その特殊な食餌とその費用のことを考えると、先行きは完全に明るいものではなかった。 果たして自宅に戻った頃から、身体じゅうの皮膚のあちこちが斑点状に堅くかさかさになり始めた。患部は最初白く、やがて赤味を帯びた。−−ちょうど私があの廃都で、それからダマスカスに戻ってから貪った茹でた海老や蟹の外殻の色のように… それと同時にむくみが始まり、固くなった部分と辛うじてまだ柔らかいままの部分は互いに引き吊り合って、さながら一寸刻みの八つ裂きの刑を受けているようだった。 私は即座にこの施療院に戻された。最初は表に並んだ病棟にいたが、やがてこちらに回された。 斑点とむくみは加速度的に広がる。試しに例の食餌を止めて見ると、狂乱と破壊衝動が大波となって襲った。 こうなったらもう見舞いに来る客もない。家族は私個人の全資産をここを運営している回教寺院に喜捨して、どこかの地方の街に 引っ越していった…」 そこまで語ると、部屋の中の「もの」は得心したように深く生臭い息を吐いた。 「危ない! 何か来るわ!」 ネイは黒い粘液の姿になってアッと言う間にテヤの体を包んだ。二人が黒い石英の粉になって次元の隙間から屋外に脱出した。 次の瞬間、小さな街一つを消し去れる雷がその建物を直撃した。黒い光の半球が膨れ上がり、閃光と衝撃が夜空を走った。 ネイの力で人の姿に戻して貰ったテヤと、自らはまだ戻りかねているネイは、とある光塔の頂きから、飛び散る残骸と、後に残った摺鉢状に刳れた地表を見詰めた。 「口封じか? それともあの男の変容が限界に達したので、抹殺されるべくしてされたのか?」 かつてはごく普通の隊商人で、異界の生き物を喰ってからはおぞましい変形と遂げ、ダマスカスの施療院の離れの一室に閉じ込められていた「もの」はバラバラになっても、ナマコか海牛に見える一片一片がもぞもぞと蠢いていた。 テヤが滝のような雨が降り続く夜空を眺めると、ネイの実体そっくりの黒くねばねばした不定形のものが、ダマスカスの街全体を覆う傘になったり、或は大きい目の雲くらいの大きさになって、悠々と浮かんでいる。自らの意思でやって来たのか、それとも誰かに操られているのか、とにかく邪悪この上ないものであることは疑いなかった。 「ネイ、奴を喰え! 当分人の姿でいられるぞ!」 「『あれ』はほんの使い走りにしか過ぎません! 『あれ』を倒してしまうと、カラ・シェール、アイレム、無名都市−−アルハザードの棲家が分からなくなります。『あれ』の後を尾けて行くと、奴の今いるところに辿り付けるはず…」 「『あれ』も大した『力』があるみたいだ。この際アルハザードでなくても、あいつで『力』を補給すればいいではないか?」 ネイは何故かテヤの言うことには耳を貸さず、彼を再び黒い石英の粉にすると自らの流れ動く体の中にくるみ、天界に向かって総反撃の挙に出た魔王さながら、空に駆け上った。 7 黒い光の粒となったテヤは意識の中で、幾つもの次元が流れ過ぎて行くのを感じた。 その中にはシダや鱗木がおい茂り、様々な形の龍が徘徊し、三葉虫や大きな目玉を突出させた貝達が覇権を持っている世界や、それより以前のクラゲ類や不気味な甲冑魚、脚が付いていて移動の出来る磯巾着のような軟体生物の数々で海が埋め尽くされた世界もあった。 (この世界には、我々人間が神よりこの地上を統べ治めるように命じられる前に、君臨していたものがいたのか…) 普通なら、目の前でこれほど驚くべき世界が次々と展開すると、精神の破綻をきたしても不思議ではなかった。しかしネイの「力」に守られているせいもあって、「戦士」のテヤは凄腕の魔導士がその生涯を費やしてもなかなか見ることのできないパノラマを見ることが出来た。 そのうちに教主猊下とアラビア王によって追放された魔導士アルハザードの野望も薄々見当がついた。 これらの異界の存在とそこに棲む者共、さらにそこを統べる神神を、栄光あるアラー以上に遍く人々の上に知らしめること、そしてそれから… ふと気が付くと黒い不定形を追っているのは彼等だけではなかった。 バラバラに砕かれ、ナマコか海牛大の肉片になっていた隊商人の遺体の部分がおそらくは一つ残らず集められて群れを成しながら、先頭を切る黒い不定形に牽引されているように従っていた。 ネイはわざと速度を落とし、それらの肉片と並んで時空を移動してみた。 貝殻をなくした、貝の中身だけのように見えるものもあれば、磯巾着のように無数の触手を持つものもある。これらの生き物はそれぞれ単体としても生きられ、またそれぞれが「群体」即ち巨大な生命体の部分品として生きられそうに感じた。 『砂漠で遭難した隊商人が、カラ・シェールの無名都市で食べた生き物達よ』 そう呟くと、ネイはさらに速度を落としてその群体の末尾に尾けた。 『食べられて消化される前に、それらは彼の躯に無数の卵を産み付けた… 卵はカラ・シェールの無名都市にいる限り孵化しない。 それらは宿主がそこを逃れて元いた世界、ないし別の世界に行かない限り孵らない。 それまでは宿主の内臓を喰い尽くし、その血を飲み尽くして準備を完了するものの、脳だけは残しておき、さらに人間ならば人間の身体を維持するのに必要な力は間断なく供給して、異状に気付かせないように配慮している。 だけどもひと度、宿主が元の世界に戻るか別の世界に移動するのを感知するや否や、たちまち成長と生殖を開始し、その躰を際限なく膨張させる。連中の中には成体にならなくとも卵を生み、幼体を作り出すことも出来るものが多数いる… 元の世界に戻った宿主が醜い変形や変身を遂げても、それの棲む世界が慈悲ある神の統べる心優しき人々の世界であれば、患者を焼き殺したり、煮えたぎる溶岩が溢れる噴火口に突き落としたりはできない… −−もっともそいつらが、それぐらいで死滅するとはとても思えないけれど』 『だったら何故、そいつらは我々の世界に、ダマスカスに居据わって暴れなかったのだろう?』 問い返すテヤにネイは砂状の先頭の部分をくねらせた。 『分からない… もしこれらを操っている者がいるとすれば、その者が命を下したのかも知れない』 『アルハザードか?』 『その可能性もある』 『アルハザードならば、教主猊下とアラビア王に復讐したがっていたはずだ』 『だからこそ、引き上げた。その日現れてその日のうちに皆殺しにし、街を焼き尽くしてしまっては面白くも何ともないと考えた、というのはどうですか? 恐怖というものは小出しにするほど増すものです』 『まさか、僕ならば、もし仇を打つ力を貯え切ったならば、その日のうちにけりをつける』 テヤは一族を滅ぼしたビザンティン帝国の兵士達を思い出していた。 そのうちに周囲の次元の風景が回り灯篭のようにくるくると回ったかと思うと、一瞬全ての風景が砂漠に揃って止まった。 ダマスカスを襲った巨大な黒い不定形の物体は、無数の群体の部分を率き連れつつ、その砂漠の世界に飛び込んだ。 ネイとテヤもすかさず続く。 いくつもの月が浮かび、星宸の並びはテヤ達の世界とまるで違う砂漠に到着した不定形が一番にしたことは、ダマスカスから連れてきた件の奇怪な生き物達を元の場所に返すことだった。 蒼黒い光がきらめいたかと思うと、それを合図に連中は洛陽の夜空を焦がす特大の花火さながらに傘を広げて飛び散った。やがて砂漠の真只中の列柱の建ち並ぶ廃墟にボトボトと着地した生き物達は、早速、或るものは砂地にもぞもぞと穴を掘って戻り、或るものは折れ倒れた円柱の下にこそこそと隠れた。 『みんな元の場所に戻ったみたいだわ。暫くあの哀れな隊商人の臓腑の中にいたものの、懐郷病にでも罹って帰ってきたのかも知れない』 砂漠に降り立ったネイは、まずテヤを人の姿に戻した。彼女自身は油断なく、上空に ゆっくりと漂っている黒い不定形を眺めている。 「アルハザードはどこだ?」 テヤは剣をすらりと抜いて地上を見渡した。 ネイも苦労して人の姿に戻った。肩や腰からは黒い霊気が漏れたなびいている。 「ここは異界、もうじきアルハザードを喰い、当分揺るぎない人の姿を手に入れるのだから、いま無理に人の姿を保ち続ける必要はないのでは?」 ネイは彼の言葉を聞き流して、綻びた贋の人の皮膚を粘土でも叩くように軽く叩いて修復した。 「あら、世紀の大魔導士に初体面申し上げると言うのに、最初から化け物の姿では気が引けますわ」 準備万端整えたネイの姿は、どこから見てもこの世界にはそぐわない可憐な乙女だった。(彼女はずっとこの姿でいれるようになるかも… いや、古いケルトの伝説のように、本当の人間として暮らせるようになるかも…) テヤの心は高鳴り、剣を握った手は久しぶりに汗ばんできた。 「で、アルハザードは何処に?」 「大丈夫。向こうのほうから凄まじい呪咀怨念が感じられますわ」 ネイが白く透き通る指で指す方向には、一際大きな廃神殿がいくつもの色の月に照らされ、同じ数の影を従えて浮かび上がってる。「よし、急ごう!」 8 テヤとネイはほどなくその神殿の入口に 立った。なるほど中からは強烈な殺気が感じられる。 念のためチラリと後ろを振り返って建物の位置を確認して見ると、それはちょうど無名都市アイレムの中心−−おそらくは真紅の砂漠カラ・シェールの中心の小高い陵の上に聳え建っていた。 「真ん中だ。これでは間違えるはずはないな」 独り言を呟くテヤは、相変わらず抜き身の捲を携えているが、出来るだけ気配を殺し静かに進んだ。 「うまく行けば、アルハザードめの寝首を掻けるかも知れない…」 神殿内部は、先ほどここに戻ってきた奇怪な生物達の浮彫りで飾られていた。ところどころにある壁龕には彼等の群体と思われる化け物が鎮座している。 内陣に続く部屋の扉の前で、二人はハッとして立ち止まった。 半開きの大理石の扉の向こう、長髪のアラビア人の青年が立ち上がり、ゆっくりとこちらに歩いてくる。 「出迎えもせずに失礼した。−−もっとも私は隊商宿の呼び込みではない故、別に招待もしていない客に礼を欠いてもどうということはないのだが」 魔導士の渇いた傲慢な声が部屋じゅうに谺した。 「アブドゥル・アルハザードか?」 テヤは剣を下段に構え、切っ先を魔導士に向けて訊ねた。 内陣からは、魔導士のアラビア王や教主猊下に対する恨みつらみ、引いてはウマイア朝アラビア帝国全体、さらには人類全てに対するそれが渦巻く瘴気となって吹きすさんでいる。 その奥には彼が神と崇める邪悪の像があるようだったが、こちらは必要がない限り敢えて見ないほうが賢明なようだった。 「別に答える義務などないと思うが−−」 魔導士は片方の眼を心もち吊り上げた。 「−−答えてやろう。いかにも私はサナアの魔導士、アブドゥル・アルハザードで、いまはアラビア王や教主スライマーンの一族、眷族が身内同士で血で血を洗う抗争粛正を繰り返すよう呪いを掛けていたところだ」 最後まで聞き終わることなく、テヤは剣を大上段に振りかぶって魔導士に襲い掛かった。 さしものアルハザードも真っ二つになって左右に倒れた、と思いきや、その色と形はじょじょに薄く朧ろになって消えた。 『さてさて、見るところに依ると、後ろにいるのは化け物のようだが、おまえはどうしてあんなものの言うことを信じて、二度とは帰られぬこんなところまで来たのかね?』 床からでも天井からでもない、虚空からわんわんと、冷たく嘲る声が響き渡った。 「ネイは化け物なんかじゃない!」 テヤはそれに負けずとも劣らない大音上に怒鳴った。 「ほう… 『極悪非道』とは言え、生身の人間を喰って、己の姿形を維持しようとするものが化け物でなくて何だ?」 「アルハザード、貴様はもう生身の人間ではないだろう。邪悪な神神と契約し、人とその世界を滅ぼす存在だ。そうでなければ、こんなところでそんな涼しい顔をしていられる訳がない!」 「私は人間だよ。人の肉体に人の意識を留めたまま『彼等』と友誼を暖めることに成功した初めてのな」 魔導士は再びテヤ達の前に姿を現した。 息使いといい、存在感といい、とても幻には見えない。 「ネイ、今だ! 喰え! 喰ってしまえ!」 うかつに斬りつけてまた逃すことを懸念したテヤは、振り返らないまま叫んだ。 「おや、この女がお前に何と言ったか知らぬが、『これ』が私を喰ったりしたら、大変なことになるよ」 アルハザードが自らの頭上に指先で弧を描くと、神殿の天井がそこだけぽっかりと穴が開いて夜空を横切って漂う.例の黒い不定形の生命体が見えた。 「ナイアーラトテップ−−『忍び寄る混沌』、『無貌の神』、『大いなる使者』だ。高度な知性を持ち、人間の姿をとることも出来、人間と交わることも出来る。もっとも私が苦労して召喚したものは不完全で、複雑大層なことはこれから教えるところなのだが」 「すると…」 テヤはチラリと後ろを振り返り見た。 ネイの顔は冷たい仮面のそれとなって、魔導士をキッと睨み付けている。 「−−殺すことも、従わせることも能わない。お前は勿論、私の力をもってしてもだ。彼女との関係を大切にしたいのなら、姿形にこだわらず、なおかつ呪文の一つも覚えることだな」 アルハザードはそう言い捨てると、大理石の扉を閉じようとした。 テヤは扉が閉じ切ってしまう直前に剣を閂代わりに突っ込んだ。 「ネイ! 早く! 俺はこんな奴より君を信じる!」 「愚かな! 膨大な魔力を吸収すると益々人の姿とはかけ離れたものになって、お前の住むちっぽけな世界など一瞬にして滅ぼしてしまうぞ! 私はその前に上にいる奴と合体させるがそれでもいいか?」 ネイは身体のあちこちから黒い墨のような不定形を漏れ漂わせながら、上空で待機している本来は仲間であったところのアルハザードの召喚生物と、魔導士とを代わるがわる見詰めている。 テヤが見たところ、思念による交信を試みているように見えた。 「無理だな。不完全とは言え、ナイアーラトテップ直系の末裔が、唾棄すべき人間との合の子と話すとは思えない」 魔導士は小さく肩をすくめる。 「−−それらのことはこのお嬢さんの方がよく知っていることだ」 ネイの顔が苦痛とも憎悪ともつかず歪み始める。 「ネイ! ここまで来たんだ。予定の通りにやろう! もしも失敗しても、俺は君と運命を共にして悔いない!」 テヤの脳裏には、ビザンチン帝国との最後の決戦の光景と、彼等によって殆ど皆殺しにされた家族や仲間の断末魔の悲鳴、剣戟と馬の嘶きが映り響き渡っていた。 ネイもついに決心したのか、上空にいるものとは少しだけ違うやや砂状の不定形となって青年魔導士に襲い掛かった。 「これだけ忠告したのだから、例えどうなっても責任はお前達の側にある!」 アルハザードは風を喰らって奥へと逃げ、天井からは「真の末裔」が雪崩落ちてきた。 ネイの黒と末裔の黒は神殿の空間で衝突し、黒い光が飛び散った。すると、壁や壁龕の像達のうち目らしきものがあるものはその目を赤、黄、蒼色に輝かせた。 灰色の漆喰ないしは大理石に次々とひびが走り、やがてそれは命無きはずの像にも及んだ。 像に走ったひびの間からは、赤や桃色の肉のようなものが見えた。中にはその隙間から触手らしきものを伸ばし始めているものすらあった。 目を見開き、固唾を飲んでいたテヤは、気を取り直して逃げたアルハザードの後を追った。 次の間は前の間とは違った、巨大な異界の生物がさながらオリンポスの十二神の如く、それぞれが台座の上に置かれて並んでいた。 中央には一見蛸かイカに見えるそれ。 −−今にも動き出しそうな無数の触手に守られ、背中には薄い膜に包まれた羽根らしいものが見える。その羽根と何本あるのか分からない足には鱗がびっしりと生えており、足は鱗木の森のようだ。 その隣には球体や肉の塊を寄せ集めた、未知の動物の臓腑に見えるもの。 さらにその隣にはどろどろに溶けた溶岩に見える池の中から、蚯蚓やナメクジや、蜊蜥や回虫を生み出そうとしているもの。 さらにその隣には渦巻く混沌そのものの状態の… 『見てはいけないわ!』 前の部屋から依然アルハザードに操られている仲間と戦っているネイの思念が響く。 テヤが見たところ、それらは確かにひどく薄気味悪い、或は名状し難い「もの」であったけれども、真に恐るべき邪悪な怪物として畏れ、戦慄するには何かが欠けていた。 陶器で出来た玩具の兵士、錫で造った動物達、臘細工の仮面のように、「死んでいて」動かなかった。 もしこれらの邪神が「本物」で、命や思念をたたえ、蠢いていれば、警告の通り正気を失っていただろう。 (アルハザードが祈り、召喚する為に造った模造に違いない) そう考えると無暗やたらに怖れるのも莫迦らしかったが、自らは魔導士の修行をした訳ではない故、ここはネイの忠告に従って下がった。 振り返ると、ネイ−−砂状の不定形は、 敵である泥か雲状の不定形を次第に包み込み、咀嚼していた。やがて彼女の勝利はほぼ完全なものになったのか、稲妻を従えた少女の姿に戻った。 「君があんなことを言うから逃してしまったじゃないか!」 「大丈夫。彼の術と魔力では今のところこのカラ・シェールから逃れることは出来ないわ。その意味ではアラビア王も教主スライマーンも悪くない選択をした…」 瞳や髪の端端から小さな蒼い稲妻を走らせたネイは、最初に櫃の中から救い出した頃とはうって変わった「力」と「信念」を漲らせている。 「なあ、ネイ、あのダマスカスの施療院の離れを始め、いろんな建物を自在に破壊出来るほどの化け物を喰ったんだ。アルハザードはまた今度に残しておいても、当分人の姿でいられるのではないか? 余裕をもって元の世界−−ダマスカスに帰り、幸せな生活を送れるのではないか?」 言いながら優しくネイの肩を後ろから抱き締めようとしたテヤに、とてつもない「力」が放電した。 それは身体じゅうの血が沸騰し、逆流し、眼球が飛び出し、全ての内臓が溢れて出るような衝撃だった。 「テヤ! 大丈夫! テヤ!」 ネイが必死に呼びかけなければ、そのまま黄泉の国に向けて最後の旅に旅立っていたことだろう。だが気が付いて最初に感じたネイの体温は暖かくもひんやりとした以前のそれではなく、まるでその中で地獄の業火が燃え盛っているようだった。 「ネイ… くどいようだがアルハザードは止めておこう… また今度にしよう… 今の君にはこれぐらいの『力』で十分だ」 テヤは喉にからんだ血を吐き捨てながら 言った。 「せっかくここまで来て、それはありませんわ。それは今のままでもビザンティン帝国を滅ぼして、ゴート族の仇を取り、その後に新たに築いた王国に貴方と共に君臨するぐらいは簡単でしょうけれど…」 ネイは真っ赤な魔物の舌で、口紅も塗らないのに真紅に染まった唇を舐める。 「ネイ… 一体どうしたと言うのだ? つい先ほどまでの君は、心優しく、少しだけ魔力に通じていることを除けば普通の娘と何ら変わるところはなかった。それなのに、ちょっと力を吸収した途端、それまで口の端にも出さなかった恐ろしいことを平気ですらすらと言う。 僕には君の気持ちが分からない…」 ネイに助け起こされる、テヤの頬に涙が流れた。 「あら、力を回復すれば、それだけの望みを願うのは当然ですわ。 −−それに一族を皆殺しにしたビザンティン帝国を滅ぼし、その上に新たなるゴート王国を建てるのが貴方の宿願のはず… 何処に逡巡する必要などありましょうか?」 「確かにそれは夢だった。だけども人間らしい君を捨ててまで、叶えたいとは決して思わない」 「あら、人間を捨てて魔人にならなければ、広大な帝国など築けないことは、貴方もとっくにご承知では… −−そうでしょう、アルハザード?」 彼女の問いかけに応じて、アラビアの青年魔導士は時空の隙間から姿を現した。 「それが常識でなくて、何が一体常識だ?」 サテンの寛衣の裾を正し、腰帯に差した偃月短剣(ジャンビア)の傾きを直す仕草からすると、どうやら逃るのは諦めたらしい。 それまであった神殿は幻のように消え、三人は渦巻き流れる真紅の砂漠の、点々と取り残された岩の上に立っていた。 「野望の完遂に必要なものはただ『力』あるのみ! あとのものは皆不要だ! −−さてさて、我が召還したる不完全なナイアーラトテップは見事に敗れたようであるし、他の邪神を召還したところで同じ轍を辿るであろう。下手をすれば、合の子であるネイに心を惹かれ、ネイの味方をし、我の敵に回るやも知れない。今のネイにはそれだけの魔力がある。 こうなったら『人』の魔導士として、持てる秘術を尽くし戦うしかあるまい…」 アルハザードは懐から小さな赤銅のランプを取り出して構えた。 ネイは人の姿のまま、ゆっくりと魔導士との間を詰める。 「止めろ、ネイ! 仮に奴を倒したところで、いま以上に変わった君を、俺は愛することが出来ない!」 テヤは衝撃を承知で再び後ろからネイの肩を抱き、細い腕を掴んだ。 案の定、前回を上回る衝撃が彼を襲い、衣服も金色の髪の毛も黒く逆毛立ち、捨てられた針子用の人体人形さながら泥の中にうつ伏せに倒れた。 ネイは今度はアルハザードと対峙しているせいか、それとも心の中で占めていたはずの彼の割合が急速に減り縮小しているせいか、殺気溢れる目は魔導士を見据えたまま、微動だにしない。 「テヤとやら、どうやらネイは人間を捨てて完全なる魔物になるつもりらしいぞ。−−ふふ、大いに結構なことじゃないか。私はそういう浅はかで、貪欲で、目立ちたいものが大好きだ。たとえこれから戦う敵でもな」 アルハザードはランプを両手に持ち、その燈芯口をネイに向けて、およそ人間のものとは思えない一連の呪文を唱え始めた。 「ネイ、止めろ! これが最後の機会だ! ダマスカスに戻って、骨董店でもやって静かに暮らそう…」 テヤは砂泥の中から焼け爛れ、赤い砂にまみれた顔をやっと少しだけ上げて言ったが、それはもうとてもネイの耳には届かなかった。辰砂に似ているものの、辰砂よりも数百倍、数千倍の毒素を含むカラ・シェールの砂は、たちまちのうちに彼の傷口を焼き、溶かし、骨だけにしつつあった。それでなくても砂は彼の履物越しに侵していたのだが… 「どうやら… どうやら私が勝てば、この時空の底無し沼であるカラ・シェールやアイレムから脱出し、さらには行き来するだけの魔力が得られそうだ。−−テヤとやら、その暁には私がお前に変わって、アラビア王や教主、ビザンチン帝国、さらには全世界の人間及び生き物に、とっくりと復讐してやるから安心して無に帰するがよい! −−おっと、お前はアラビア王や教主スライマーンに特に恨みはなかったのだったな…」 魔導士は苦笑いすら浮かべる余裕を見せながらランプをネイに向かって突き出した。 途端にネイは身体じゅうから黒い不定形の物体がたなびき、たなびいた部分は次々にランプに吸い取られた。 ネイもそれはある程度覚悟していたと見えて、人の姿を捨て、ナイアーラトテップとなると、ランプごとアルハザードを包み込んだ。 不気味な黒い繭ができ、その中で魔導士の血走った二個の目や、切り離された指、内臓がぐるぐると回る… 『勝った! もともとアルハザードなど私の敵ではありませんわ。それに彼は人類にとっての癌以外の何者でもないし。それを完全に殺し、消滅させた私は、感謝されこそすれ、惧れられる覚えなどありませんわ』 ネイは高らかに勝利宣言をすると、早速にも人間の、美しい少女の姿に戻った。 しかし顔形は以前のままの−−いや、以前よりもより美しい面で飾ったネイだったが、無残な骸骨と化したテヤを悲しみ、まして詫びる気持ちなどは一片すら残っていなかった。「すぐ元に戻して差し上げますわ。 ラムセス、ネブカドネザル、シーザー、ネロ、アッティラ… −−貴方の世界にこれまで君臨したどの僭王よりも冷酷で、残忍かつ無慈悲な帝王として…」 その時、不思議なことが起こった。 何の力もない、魔導士のそれでも何でもない、ただの無力な人の屍であるはずのテヤの骸骨の両手が彼女の衣の裾をしっかりと掴んだかと思うと、自らも沈み行く流砂の中に引きずり込もうとしたのだ。 「おや、聞き分けのないこと… 私の力を見たでしょう? そんなに嫌なら貴方だけ消滅しなさい!」 ネイはまたしても黒い不定形に戻ろうと顔を歪めたが、どういう訳か変身出来なかった。「おのれ!」 不測の事態を察したネイは、衣の端をちぎり取って逃れようとした。ただの木綿の布がどうしても引き裂くことが出来ない。 「では」 とばかり、衣装を脱ぎ捨てる前に、足が膝まで砂に埋もれ、次の瞬間には胸元まで沈んでいた。 「莫迦な… 私は…」 必死でもがくネイであった。やがて顔の全てが沈んだ。最後に美しい細い指が赤い砂の間を見え隠れしていたが、やがてその指も見えなくなった。 そして、その次元は閉じた。閉じられた時間は、宇宙の尺度から言うと一瞬だったが、人間の歴史の時間からすると、永遠と述べても差し支えなかった。 ネイは、二度と人の世界、次元には姿を現さなかった。ただ、少しでも魔法に長けた者や、感覚の鋭い者たちは、どこかの世界、どこかの時間で、悪…すなわち負の精神力を貪り喰っては、美しい少女の姿を取り戻し、維持しようと試みる魔物の喘ぎを聞くことが出来た。 彼女の近くには、寄り添うようにして、取り押さえ、封じ込めておこうとする何者かの魂があることも。 人の世界では、時おり砂漠で迷った旅人が、腰からゴートふうの大きな剣を吊した、美しい少女と、逞しい青年の二人組の賞金稼ぎの幻を見た。 彼らは旅人を見つけると決まって「砂漠の奥深くに追放されて久しい極悪非道のサナアの魔導師を知らないか?」と訊ねた。 旅人が「知らない」と答えると、悲しそうな表情で立ち去り、少しでも語る者には、いつまでもその話に耳を傾けるのだった。 二人の狩りは、終りそうになかった。 時の果てるまで… KIJISUKE@aol.com