天空(メテオラ)の死

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  いまからおよそ三○○○年ほど昔のこと。
  即位間もないソロモン王の君臨するユダヤ王国の東に果てしなく広がる「荒地」
  スリア(現シリア)との国境の、山というよりは幾重もの崖の重なる山脈地帯のはずれに建てられた、ユダヤ教のやや異端にあたる修道院の分厚い岩の扉を叩く一人の青年がいた。
「開けてくれ!  俺はエルサレムの建築家でアスモデと言う。外国に勉強に行く旅の途中だったが、山賊に襲われて、ほとんどが殺され、あとは散り散りばらばらになった!」
  外は昼とも夜とも分からぬ、目も開けておれぬほどのひどい砂嵐で、叫び続けるアスモデの踝あたりまですでに赤砂に埋まっていた。
  おまけに彼は身体のあちこちに刀傷を負っていた。命に関わる深手ではなかったが、ただちに然るべき手当をしなければならぬ傷だった。
  呼べど叫べど答はない。まして岩戸の開く気配はまるでない。口の中にたまった砂塵を吐き出したアスモデは一か八かの博打に出た。「俺はな、今度エルサレムに築かれる予定の、十戒を収めた聖櫃を祠る神殿を設計を任されたソロモン王お気に入りの建築家だ。いまは確かに生きて麓の村にたどり着けるかどうか分からぬ身だが、もしも神の思し召しで命長らえた暁には、おまえたちのこの仕打、必ずや陛下のお耳に入れるからな!」
  アスモデはまだ神殿の設計を任された訳ではなかった。それどころかその才能を疏んじた年上の建築家たちによって、遠い外国にどうでもよい使者として赴くところだった。もちろんまだソロモン王の龍顔を拝したことなど一度もない…
  エホバの慈悲かはたまた気紛れか、ゴロゴロとコロがきしむ音がして、目の前の扉が人やっと一人が通れるくらい開いた。
「すいません。てっきり外敵と思ったものですから」
  茶色の頭巾をかぶった見習いの修道僧らしい少年が彼を中に招き入れた。
  アスモデは少年が差し出した水龜の水を一気に飲み干すと、改めてあたりを見渡した。
  修道院の中は、外界とは打って変わって静かだった。岩壁のそこここには朱鷺色の松明が掲げられ、大勢の修道僧が岩をくり抜いて造った通路を蟻のように行き来していた。
「原則としてよそ者は入れない掟になっております。この場より動かず、嵐がやんだらただちに出立して頂きたい」
  渉外責任者らしい痩せた四○がらみの修道僧がそっけなく言った。
「でもナイアス様、この人  けがをしていますよ」
  確かにアスモデの駱駝の毛のマントはところどころ赤褐色に染まり、鈍色の岩の床にはぽたぽたと鮮血が落ちている。
「しょうがない。テミエ、手当をしてあげなさい」
  ナイアス修道士は眉をひそめてそう言い捨てると、岩の迷路のうちの一本に去って行った。
  小さなテミエは決して小柄ではないアスモデに肩を貸し、別の通路を進んだ。途中何人かの修道士とすれ違ったが、誰も二人のことなど眼中にないが如く、ある者は書物の束を持ち、またある者は奇妙な、機械の部品のようなものを持って駆け抜けて行く。
「助けて貰ってこんなことを言うのは何だが、ここは少し変な雰囲気だな」
「無理もありませんよ。他でもない院長のメテオラ様が重大な祈祷の最中なのですから」「『重大な祈祷』?」
「ええ、何でもここより異なる世界に至る扉を開く、とか」
「テミエ!」
  厳しい叱責の声が飛んだ。振り返ると先ほどのナイアス修道士が肩を怒らせつつ二人のほうをじっと見つめていた。
  以来しばらく、アスモデとテミエはじっとおし黙ったままだった。
  砂漠とは思えぬほど多種多様な薬草を集めた施薬所に着いても、再び語り出すきっかけはつかめなかったが、傷口を洗い、薬を塗って包帯を巻いてもらったアスモデがやがてゆっくりと口を開いた。
「テミエ、きみはやはり実家が律法学者か何かで、こんな辺鄙なところで修行を?」
「いいえ。ぼくはやはり山賊を襲われて置き去りにされていたところをメテオラ様に救われたんだそうです。−−まだ赤ん坊の頃で覚えていませんが」
「すると、ここ以外の世界は知らない?  エルサレムの街の賑わいも、海も森も見たことはないのか?」
「ええ、本で読んだり、貴方のような旅人の話で聞いたことしかありません。メテオラ様は『いずれ旅の供に連れて行ってやる』とおっしゃってくれていますが」
  治療が済むと、テミエはアスモデを空いている僧房に案内した。砂嵐は収まり、金貨のような月が渓谷を照らしている。
  地上一階及び地下とおぼしき区域の他に、切り立った崖の壁面に点々と窓もしくは出入口と思しき穴が開いている。
「あれは?」
「『修行場』ですよ。修道僧が一月とか二月とか、または何年もの長いあいだ誰にも会わず話もせず、ただひたすら神に祈りを捧げるための部屋です。廊下や通路は原則としてなく、出入りや食料日用品の搬入、ご不浄の搬出などは崖の上から吊された特別製の籠で行われます」
「なるほど。しかし市井の過酷な労働のこと思えば気楽やも知れぬな」
  アスモデは都市の建設現場で働く人夫たちのことを思い出してつぶやいた。

  後世、キリスト教の修道士たちが高い山の崖っぷちに横穴を堀り、まるで原始人さながらの住居を構えた例としては、十世紀前後、南イタリア・ローマ郊外アッピア街道沿いの「メテオラ」が有名である。
  それから一○○年から二○○年後、ビザンティン帝国の力が衰え、代わってオスマン・トルコやアラブ諸国が力を持つようになると、小アジアにいたキリスト教徒たちはカッパドキアに林立する無数の尖った岩山の壁面や地下をくり抜いて、一○万人が居住できる空間を造り上げた。ちょうど十字軍が盛んになりかける頃である。だが不思議なことに、この遺跡からは、食器や他の生活用品が何一つ出土していない…
  カトリックや東方教会、コプト教などでは修道院はしばしば俗世間と隔絶した辺境の地に建てられた。
  ギリシアのアトス山のように高い山の上などは言うに及ばず、アイルランドの修道院の多くは孤島や断崖絶壁の端に、エジプトやエチオピアに残るコプト教(ユダヤ教の色が濃いキリスト教)のそれは砂漠の真っただ中に、果ては現在では全く伝説の地となってしまったところにさえ、求道者たちは真の神と心の平安を欲して庵を構えた。
  また一説によると、イエス・キリストの頃のローマ領ユダヤの荒地には、エッセネ派と呼ばれる、共同生活を営んだ独特のコミュニティーがあって、イエスも若年の一時そこにいたと言う仮説も唱えられている…

「しかし貴方がお考えになられるほど安穏なものではないのですよ。長期の穴籠りに挑んだ者の中には、自分と向き合うことに耐え切れなくなって、身を投げたり手頚を切ったりして自ら命を断つ者もいます」
(古代に於て首吊りは、斬首などと並んで罪人の処刑の方法だったので、あまり自殺の方法としては選ばれなかった)
  小部屋にたちこめる薬草香草の匂いが、アスモデの心をさらに幻妙の世界に誘う。
「−−それは、ここに来る前に、戦争やら犯罪やらで悪事を働いた者だろう。顧みて心に何もやましいことがない者がそうそう簡単に自殺などするはずがない」
「ところがそうは一概に言えないのです。例えばザイラス修道士などは、戦では女子供、見誤った味方まで見境なく大勢殺した猛者らしいのですが、ここでは困難な難行をいくつもやり遂げています。反対に書物による勉強だけで、いわゆる『地上の天国』や『理想境』に憧れてやってきた者の多くは、早々に去って行くことが多いようです。さらに、病気や事故などで志半ばで天に召された者たちも少なくありません」
  テミエは月と満天の星に照らし出された崖の切れ目にある地上の一角を指さした。そこには無数の黄褐色の土まんじゅうが東の方向を向くように盛られていた。ユダヤ教徒は、救世主=メサイアは東の方向からやってくると信じている。よってエルサレムでも墓地は街の東側に設けられ、聖地を占領したイスラム教徒たちが一番最初にやったことは、街の東門である「黄金の門」の、大量の溶かした鉛による厳重な封印だったと言う…
「−−幸い傷は浅いようです。追い立てるようですが、朝祷(普通午前二時頃)後、夜明け前には出発して下さい。弁当と麓の村までの地図と、当座のお金と、驢馬を一匹差し上げます。太陽が高く昇る前には人里に到着できるはずです」
「ご親切、まことにかたじけない。この礼は必ず…」
「いいえ結構です」
  テミエは奇妙なくらいにきっぱりと言った。「全ては神の思し召し。律法にも『困っている者があれば助けよ』と繰り返し書かれています。お貸しした金品はまた、貴方が困っている者に遭遇した時に、その者にお与え頂ければよいのです」
  アスモデは戸惑った。生死の境目を彷徨って、今夜ぐらいはぐっすりと眠りたいと思ったからだ。
「確かに荒地や砂漠の暑さは過酷。夜明け前の出立は常識。山賊に有り金を奪われたわたしは、気持はあっても一銭の浄財も払えない。
  しかし同じ国、同じ神を奉ずる者どうしでありながら、一日の逗留も罷りならぬ、と言うのはいささか無体であろう。それともこの修道院には、旅人の滞在を許さぬ掟でもあるのか?  辺境の地にあっても、道に迷った巡礼者たちや、わたしのように剣難にさらされた者が訪れることがあるだろうに」
  彼は声を潜めて尋ねた。
「アスモデ様。ぼくは貴方のためを思って最善の方策を申し上げているのです。ですからご不満はあってもこれ以上は何もおっしゃらずに、ぼくのお勧めする手順に沿って街までお戻り下さい」
  テミエは旅人に何事カを語り訴えたくて仕方がないと言わんばかりに、黒茶色の双眸を潤ませながら囁いた。
「やはり語れぬ理由があるんだな?」
  建築家としてのアスモデは、扉や窓や階段や納戸や四阿や壁龕など、どうしてそれがそこに設けられたのかを見抜く天才だった。優れた建築物の設計や配置は、みな先人たちや実際にデザインした建築家の叡知の結集である。太陽の向き、年間の気候の変化、その土地土地の風土と住民の習慣、美的なセンス、いろんなものが調和し融和して出来たものなのだ。
  だからもし「秘密の扉」のようなものがあるならば、何としてでもどうしてそれがそこに設けられたのか究明せずにはおられない、もし許されるなら蹴破るのも辞さない探求欲の持ち主だった。彼が都の先輩たちから煙たがられて追放同然の身になったのも、実はその辺の性格が災いした経緯があった。
「なにとぞ御賢察下さい。−−それに大変お疲れのことでしょう。ぼくの僧房にご案内申し上げますから、そこでしばしの間だけでも横になって下さい」
  テミエは獣油がチロチロと燃えるカンテラを片手に、まるで怪物のはらわたの中のように入り組んだ細いトンネルや螺旋階段、登り坂や下り坂を進んで行く。上ったかと思えば降り。降りたかと思えば次は上りで、いま自分がどのあたりにいるのかは、さっぱり分からない…
  アスモデはこの奇妙きわまりない堀抜き工法や、でたらめで混沌としているとしか思えない間取りに大いに興味を覚えた。
  やがてくり抜き窓があったのでチラリと覗くと、下は目もくらむ断崖絶壁だった。
「気を付けて下さいよ。時々落ちる者があるのです。特にまだ慣れていない者や、風で明かりが消えた時には」
  先導の少年が低い声で囁いた。
  やがて粗末な木の扉がいくつも並んだ回廊に到着すると、テミエはそのうちの一つを開いて招き入れた。
  そこは三畳ほどの小部屋で、使い古した垢まみれの毛布をかぶせた粗末な藁葺きの寝台と、書物を写すための小さな机だけが置かれていた。あとはいくらかの陶の食器が、小さな窓辺に並べられている。
「どうぞ、刻限が来たらお知らせに上がります」
「テミエ君、きみは眠らなくてもいいのかね」
「ぼくは今夜は夜番なのです。お気遣いなく」
  風雪に晒され、ぼろぼろになった木戸がきしみながら閉じられると、小さな足音が次第に遠ざかって行った。
  勧められるままに横になったアスモデだが、昼間の襲撃と、目の前で殺された旅の仲間のことを思い出してなかなか寝就くことができなかった。加えて名状し難い胸騒ぎを覚え、目は閉じたものの意識はますます冴え渡り、五感は一段と鋭さを増した。
  そんな彼の耳に、朝祷の声明でも律法の聖典を朗読する声でもない、何処の国の言葉とも分からぬ不気味な声が響いてきた。
  加えて、ユダヤ教の儀式で使われる乳香や没薬などではない、何とも淫縻な嫌な臭いのする香がかすかではあるが漂ってきた。
  それらはどうやら無数にある部屋のうちのどこかからか漏れ出てきているものらしい…
  立ち上がり、何気無く対面の岩壁を見やったアスモデの目に、この世のものではない恐ろしい光景が映った。
  その穴−−と言うか出入口は、他の穴や窓とは明らかに隔絶していた。少年が言っていた「特別な修行のための」僧房だろう、穴の近くに人一人がやっと乗れるような籐の篭が吊されていた。
  そこに居る者はまだ起きていたのだろう、明かりが点され、穴の周囲は薄ぼんやりとした黄色い光に照らし出されている。
  細くかすかな悲鳴のような音が聞こえた気がしたが、それは無数の風穴(ふうけつ)を吹き抜ける風鳴りかもしれなかった。なぜなら向かい側の僧房に立ち現れたがっしりした軍人ふうの人影には首がなかったからだ。
  その影がすぐに倒れれば、アスモデも特に驚きはしなかっただろう。荒法師たちの喧嘩−−一人がもう一人の首をはねたか、もしくは掟を破って誅殺されたか、とりあえずはそんなところと思って、見てみぬふりを決め込んだに違いない。
  だが、その首のない影は、まるでどこかに首を置き忘れたかの如く、多少慌てていたものの、平然と動き回って、やがて洞窟の奥へと戻って行った。

  もうとても寝つくどころではなくなった。
  傷の痛みも忘れた。ただ心臓の鼓動だけがしじまに谺した。
(何としてもあちらのあの洞窟に行ってみたい…)
  押さえがたい欲求がアスモデの脳裏に沸き上がってきた。
  山賊との戦いでは一度も抜かなかった剣を抜いて月光にかざしてみた。
(どうせあの場くなっていたかもしれない命…)
  この不気味千万な修道院の秘密を暴くことは神の命じた使命とさえ思えてきた。
  アスモデは扉を細く開け、誰もいないのを確かめてから廊下に出た。そのまま逃げ出せるように、また見咎められたら「いまから出発するところだ」と言い訳できるように、手荷物は残らず背中に背負った。
  悪魔の設計の如き複雑な構造の建物だったけれど、彼は来た時の道順を完璧に諳んじていた。そして幸い誰にも出会わなかった。
  下りが主だったせいもあって、数分で地上に出た。
  動物の白骨のころがる谷を横切って、首なし男の影が見えた横穴のま下に着いた。綜絽の繊維や獣毛を據り合わせた太い麻のロープをたぐると、大人が一人乗れるくらいの籐の篭が降りてきた。
  残念ながら、誰かに引き上げてもらわなければ上に行くことはできない。
  とそこへ、小さな影が走ってきた。
  隠れようを思ってちらりと目をやると、テミエだった。
「アスモデさん!」
  少年は建築家の衣の裾を掴むと、脇にある吊り上げる物資を寄せておく小穴に引っ張っていった。
「一体どうやってここまで来たんです?」
「案内してもらった時、道順を覚えていたのだ」
「信じられない!  ぼくでも覚えるのに半年はかかった、と言うのに…」
  テミエは思いきり目を大きく見開いて低く叫んだ。
「『王様から神殿造りを任された』というのもはったりじゃあなかったんだ!
−−でもどうしてここへ?  まさか…」
  もともとあまり血色のよいほうではなかった少年の顔から、一層血の気が引いた。
「わたしは見たのだ」
「忘れて下さい」
  テミエは即座に言った。
「あなたは何も見なかった、もしくは見たとしてもそれは傷の痛みが招いた悪夢だったのです。さあ、エホバのお慈悲で、月は明るく砂嵐もやんでいます。荷物も持っておられる様子ですし、今すぐ里に降りて下さい」
「わたしも王に仕える端くれ。領土内で起きた尋常ならざる出来事は確かめ報告する義務がある」
  アスモデはまっすぐ少年の眼を見据えた。「窓と谷の空間越しに、このま上の洞窟で首のない人間が普通に歩き回っているのが見えた。我等の神の摂理では有り得ないことだ。
  夢幻であったか否か、一目確かめぬうちは立ち去る訳にはいかぬ。地の果てとはいえソロモン王陛下の国土に、バアル(隣国で敵国のペリシテ人の神)を崇める邪教の崇拝者などがいれば、是非とも軍隊を派遣して滅ぼしてもらわねばならない」
「この上の横穴には、ザイラス修道士が籠って修行しておられます」
「その男は肩幅の広い大男か?」
  テミエは横を向いていたが、ややあって仕方なさそうにうなづいた。
「そうです。首がないように見えたのは、光の加減による錯覚でしょう」
「頼むから俺をその穴まで引き上げてくれ。もし見間違いだったら、その時は直ちに山を降りる。ものの半時もあればできることじゃないか?」
「何をおっしゃっているのです。『人断ち』の修行中なのですよ」
「何者かがそれにかこつけて神を冒涜するようなことを企んでいるのかも知れない」
「人目があります。決められた時間以外に篭を上げ下げすれば、たちまち他の者に見つ
かって止められるでしょう」
  押し問答をしているところへ、サンダルで砂を蹴たてて二三人の足音が近付いてきた。「しまった、見つかったか?」
「そうとは限りません。夜、風に当りながら瞑想する先輩も多いのです。さ、とにかく早く隠れて」
  促されるまま、アスモデはザイラス修道士の荷物を上げ下げする篭の中に隠れ、テミエはその上から埃よけの生成りの布をふわりとかぶせた。
  彼はその布の合わせ目を少しずらせて、外の様子を覗き見できるようにした。
  やってきたのはナイアス修道士だった。二人の付け人の肩の上に、ちょうど人の首が入るくらいの陶器の壷を乗せさせている。ちょうどエジプトのパロ(ファラオ)や貴族たちが木乃伊になる際に、脳や内臓を大切に保管しておくカノプス容器に似ていて、厳重に蓋がしてある。
「おおテミエ。夜番ご苦労だな。何も変わったことはないか?」
「はい。ナイアス様」
「あの男−−アスモデとか言った−−はおとなしくしておるか?」
「は、はい。薬が思いの他効いた様子でございます」
  小さくうなづいたナイアスは、二人の部下に壷を篭の中に入れるように言った。
  アスモデの全身から脂汗がにじみ出た。掛け布をめくられればそれまでだ。
「ぼくがやります。詰め方を誤るとせっかくの壷にひびが入ってしまいます。この間もご不浄を降ろす時に割れて、下にいた者は大変な目に会ったではありませんか」
  壷をひったくったテミエは、小さな背中でナイアスたちの視線を隠しつつ、壷を篭の中に入れた。
「よし、引っ張り上げろ」
  ナイアスは語気鋭く言った。
「えっ、いまは刻限ではありませんが」
  テミエの顔がさっと蒼ざめた。
  篭にはアスモデが隠れている。無論壷二つの重量よりも相当に重い。
「メテオラ院長さまのご命令なのだ。『ザイラスがこれらのものを必要としておる』とのな」
  ナイアスは面倒臭そうに、火屋(ほや)のところに赤い硝子を当てたランプを大きく左右に振った。どうやら決められた時間以外に篭を動かす許可を得ている印らしい。
「メ、メテオラ様の千里眼には、いつものことながら本当に敬服しますね」
「全くだ。さあテミエ、邪魔だから早くそこをどけ。篭の昇降はおまえの仕事ではないから、手伝う必要はない」
  布の下で息を潜めていたアスモデは短剣の柄に手をかけて身構えた。
  飛び出す前にもう一度、ナイアスの部下たちを観察した。
  二人ともまるで目に生気がない。まるで催眠術か幻術を掛けられているかのようだ。
  テミエとの会話にもまるで口をはさまない。(これは打って出て戦うよりも、じっとしていたほうが良いかも…)
  そう判断して、テミエにも目配せした。
  二人の僧侶が揃ってロープの端に手をかけて引っ張り上げ始めた。案の定大人一人分重いことには何の異論もはさまない。
  それに彼らの動きはまるで自動人形のようにぎこちないものだった。

  篭は滑車をきしませながらずるずると崖を昇って行く…
  ホッとしたのも束の間、アスモデは大変なことに気が付いた。
(上の横穴の入口では、あの首なしの大男が荷物〈たぶん余分の首〉を受け取ろうと待ち兼ねているのではないか?)
  彼はそっと下界を覗いた。
  篭はすでに目をもくらむ高さに吊り上げられていて、ナイアスにテミエ、二人の僧侶は蟻より小さく見えた。
(やはり到着するまで乗っていてはヤバい)
  そう考えて、篭が別の横穴の入口を通過する機会を伺った。
  崖の頂上近くのザイラスの穴が迫った時、幸いそのすぐ下の穴の前を、篭はゆっくりとせり上がった。てっぺんが近いので速度を落としていたのだ。
(あの距離からではとてもよく見えまい)
  それにテミエがナイアスに懸命に話しかけて気を引いてくれているようにも伺えた。
  アスモデは掛け布を丁寧に掛け直してからその横穴に飛び移った。
  例によって篭が急に軽くなったことについて、二人の僧侶たちは何も不審に思わなかった様子だった。

                2

  横穴には明かりはなく、月の光が届くところを過ぎると何も見えない。
  幸い、予想通り、何物の寝息も聞こえない。
  そのまま朝まで待つつもりはさらさらな
かったので、手さぐりで壁伝いに進んでみると、いくつかの櫃が重ねて、水や油を入れた甕が並べて置かれてあり、壁をくりぬいた壁龕のような棚にはジャムやビスケットなどの入った壷が並べられていた。
(ただの物置なのか、それとも奥に道があるのか…)
  櫃を開けて手さぐりすると、燈芯と燧石があったので、灯皿に油を入れ、燈芯を浸して燭龕に置いた。
  さすがに燧石を擦る時には勇気がいったものの、ままよとばかりに火を付けた。
  そこは、大人一人が暮らすには十分に広い岩に囲まれた横穴だった。
  木の寝台の上には毛布がきちんとたたまれてあり、机、椅子、物入れなどの家具も少し掃除をすれば使える様子だった。
  しかし不思議なことに、エホバの神に祈りを捧げる場にしては律法の書物などがまるでなく(旧約聖書ができたのは後の世のバビロン捕囚以降)祈りのための七枝燭台(重要な儀式の際には、当時は非常に高価なものだった蝋燭を七本、七枝の燭台に灯した)もどこにも見当らない。
  その代わり、生贄でも捧げたのかかすかに血の臭いがこもっている。燔祭は原則として天の神の目が届く神殿の広間や、広場や原っぱや丘の上でやることを考えると奇妙だった。
  アスモデはもう一度もとの物置に戻って、何か使えるものはないか探ってみた。
  ロープ、ランプ、呼び笛などにまじってしまわれていた修道服があったので、それに着替えた。
  頭巾のひさしを下げると、ちょっとすれ違っただけでは誰なのか全く分からない…
  下の櫃には南京鍵がかけられていたが、手先の起用な彼が自分の矢立の中の道具を使って少々いじると簡単に外れた。
  中身はやはり修道士の衣だった。
(なあんだ)と思ってすぐに蓋をしようとした時、奇妙なことに気が付いた。
  首を通す穴が二つある…
  いや、それどころか、袖が四つついていたり、背中に羽根を通す穴が開いていたりした。(人間の着る服じゃあない…)
  アスモデの背筋に震えが走ってとまらなくなった。
  さらにその不気味な衣装の下には、太い腕に直接つける刃や、いくつもの枝に分かれた異常に太く重い武器や、拷問の道具としか思えない異様な道具がぎっしりとしまわれていた。
(冗談だろう?)
  アスモデは慌てて櫃に蓋をし、鍵を掛け直した。
  少し進むと横穴は行き止まりだった。
(出入口はあの篭しかないわけか…)
  普通の人間ならそう思って諦めただろう。
  だが、アスモデが優秀な建築家だったことが幸いした。
  朽ちかけた木でしつらえた押し入れ・納戸の扉を開くと、カラッポで蜘蛛の巣が張っている内部は、外見より一回り小さい。
  そこで蜘蛛の巣を取り払って中の木のはめ板をいじると、カタンと音を立てて外れ、大人一人がやっと這って通れるくらいの抜け穴が現れた。
  穴はジメジメとしていて銅貨ほどもある大きな丸虫どもの棲み家になっていた。数尺ほど匍い進むと、またはめ板に遮られていたので、耳を澄まし、特に誰の気配もしないのを確かめてから押したり引いたりしてみた。
  幸い、今度もうまく持ち上がって、難無く向う側に出ることができた。
  そこはところどころに獣脂の灯明を掲げた人一人がやっと立って歩けるくらいの細い通路だった。明かりのところに壁龕のようなくぼみがあってすれ違うようにできている。
  岩を掘ったあとはつるつると滑らかになっているところからすると、この道と今よりもずっと古い時代に掘られたものらしかった。
  道は途中でいくつもの十字路に分かれている。アスモデは精神を集中して、その全てを記憶した。途中、小部屋もかなりあったが、全て空き部屋か物置きだった。
  断崖に面して横穴を掘って作った部屋は「修行場」という建前があるので、内部のトンネルでは連絡されていないか、もしくは一見そう見えるような造りになっているらしい。
  と、アスモデがテミエの部屋から聞いたうめき声が聞こえた。何層もの岩壁越しなので少しくぐもってはいるが、大きくはっきりと。
  頭の中で地図を描くと、ザイラス修道士が籠っているという横穴の近くのはずだった。
  少し近寄ったものの、迷路状の壁に阻まれて部屋に入ることはできない。もっとも入れたところでいきなり「御免下さい」と飛び込むほどの勇気は、さすがのアスモデも持ち合わせていなかった。
「約束が違うじゃないか!」
  野太い声。たぶん元・戦士だったザイラス修道士だ。
「何を言う。わしがいなければおまえなどとうの昔に死んでおったところなのだぞ」
  勘に触る尖った声。メテオラ修道院長なのかもしれない。
「死んだほうがマシだった!」
「どうして?  彼方の星星を見、星からの声を聞き、その星まで行くことのできる身体になったのだから、大いに喜んでもらいたいところなのに」
「命令された通りの星に行って、そのまま戻ってこない連中は一人や二人ではないそうじゃないか。彼らは一体どうなったんだ?
  ずっと水晶球を眺めていたのなら、よく承知しているはずだ。みんなを捨て石、捨て駒にして何を企んでいるんだ?」
「わしは少しでも宇宙の神秘に近付き、神を知る手立てを…」
「お題目はもう沢山だ。自分もできる癖にやらないで、他人にやらせてばかりいるのは、危険だと承知しているからだろう?」
「誤解してもらっては困る。自分でやりたいのは山々だが、おまえさんの言う通り、わしに万一のことがあれば跡を引き継ぐ者がおらぬからな。優秀な後継者が育ち次第、わしも旅立つつもりじゃ」
  やや間があった。どうやらザイラスは院長に丸め込まれたらしい。一介の戦士が、海千山千の魔導士に屁理屈でかなうはずがない。「…分かった。次はどこへ行けばいい?」
  メテオラ院長が聞いたことのない、さらにはいかなる人間の言語でもなさそうな星の名と道順を言った。
  ヒューッと大きな鳥が空気を切るような音がして、ザイラス修道士の気配が消えた。
  幸い、岩壁をくり抜いた窓があったので顔を出して覗くと、蝓蝠の羽根に昆虫の胴体を持った頭のない奇妙な物体が急速に上昇し、ある一定の高さにまで上がったところで流れ星に似た細い光の筋となって、星空の果てへと向かって飛び去った。
(なるほど。崖に面した横穴で、長い間たった一人で孤独の行に耐えていると思いきや、院長の手先となって宇宙の彼方を飛んでいたとは…)
  アスモデは呆れたのと同時に、部下たちにそんなことをさせている院長の目的を質さなければ、と思った。−−どう考えてもまともな思惑とは思えなかったが。
  神をも恐れぬ振舞いは律法に背いている。
  神や宇宙や世界は尊敬の対象であって、全ての真実を知ろうとしたり、暴こうとするのは人間の傲慢以外の何ものでもない…
(もう戻らねば…)
  アスモデは思った。
(これから先はソロモン王の精鋭軍と、学者たちの出番だ。「恐れながら」と届け出れば、褒美の一つや二つは確実に出るだろう。貧乏な建築家見習いの自分にとっては、大いに期待できる)
  そう決心した彼の前に、またしても新たな隠し扉が現れた。今度は前のもの以上に巧妙に分からなくしてあったが、アスモデの目には大きな矢印で案内してあるのと同じだった。(出過ぎた真似はやめるんだ)
  アスモデは自分で自分にそう言い聞かせた。(いままで見つからなかったのも不思議なくらいだ。これから先の奥は敵の用心も増していることだろう。自分一人しか行き来しない廊下や部屋なら、落とし穴や仕掛け弓矢といった罠があることも充分考えられる。
  それどころか、先が長ければいくら記憶力のいい自分でも、全部の間取りは把握できかねるかもしれない。もし一か所でもど忘れするようなことがあれば、二度と外には出られない…
  テミエ少年に見聞きした通りの真実を告げ、二人で里に逃げればよいのだ)
  と、心の中でもう一人の自分が囁いた。
(ここまで来て奥の間を確かめずに引き返すなんて、もったいない。なあに、先は知れているさ。見れる限りのものを見てからでも、充分に逃げることはできる。この隠し扉も自分だからこそ見破ったんじゃあないか?
  ソロモン王も軍隊も、より詳しい情報があれば対処しやすく攻めやすいのに決まっている)
  しばらく迷った末に、さらなる冒険を望む心が勝ち、目の前の扉をゆっくりと押し開いた。
  迷路はそこからも果てしなく枝分かれしつつ続いている。
  少し進むと、壁が黒一色の、悪魔に礼拝を捧げるための円蓋を頂く円形のホールがあった。ホールのそこここには黒い支柱が立っていて、そのいくつかの上には人の頭ほどの丸いものが乗っていた。あがらい難い力に引き寄せられて間近でよく見ると案の定それは人間の首だった。カッと見開いた目の片方はなぜか全員えぐられている。
(やはりザイラス修道士の頭は切断されていたんだ。しかも、彼は首なしになってもまだ生きていた…」
  何かに蹴つまづいた拍子に、肩がとある支柱のどこかに触れた。途端に、首たちに残された目玉が輝き始め、回りを取り囲む壁に光を投げかけはじめた。
  それはアスモデが見たこともない世界の光景だった。氷に閉ざされた所。溶岩に覆われた所、いくつもの月がある国。巨大な生物の体内のような、肉と血管に囲まれた場所、そしてうっそうとした太古の木木に覆われたところ…
(これは我々の世界とは違う世界を写し出す生きた鏡だ)
  アスモデは悟った。
(…首を奪われた連中は、胴体だけの状態で、星星の間を駆け巡り、これらの風景を集めてきているのに違いない。しかしメテオラ院長はなぜこんなことをしているんだ。無人にして楽園の星が見つかったら、自ら初代の王となるべく旅立つつもりなのだろうか?)
  投影される風景の数々には興味が尽きなかったものの、中枢部に長居し続けては見つかる可能性も増す、と考えてさらに先を急いだ。
  次のホールでは数人の話し声が聞こえた。
  どうやらこのあたりはまだ、メテオラ院長をはじめ幹部たちが行き交うところらしく、それで罠の類は仕掛けられてないようだった。「えー、諸君。我々の秘密の計画にご賛同頂き、まことにかたじけない」
  と、これは慇懃なナイアス修道士の声。
「本当に、星の彼方に宝物があるのか?」
  問い返す声を聞いて驚いた。何と、エルサレムでともに建築を勉強した学友だ。
「謝礼の一部でいいから前渡ししてもらえないだろうか。もしも失敗して死んだりした場合、故郷の家族のことが心配だ」
  こちらの声には聞き覚えはない。
「わかった。そういうことならいま支払おう」
  金貨を数えるチャリーン、チャリーンという音。
「そういうことなら俺にもくれ」
「ぼくもお願いします」
「家族のもとに無事着いた証拠をくれれば、どんなことでもやる」
  残りの声にも聞き覚えはない。
  アスモデは(いまならみんな金貨のほうに気を取られているだろう)と思って、岩の戸口からソッと覗いてみた。
  ナイアス修道士以外は目だけを出した三角頭巾の人間が四、五人、金貨を受け取っている。
「金貨はおまえたち自身が直接、届けたい者のところへ届けるがよかろう。星星を旅する身体を持てば、この世界のどこへでもほんの一瞬で移動できる」
  ナイアスは面倒臭そうに言い、全員をさらに奥へと誘おうとした。
(ダメだ!)
  アスモデはもう少しで叫んでしまうところだった。
  おお急ぎで迷路を先回りし、学友が一人、一団から遅れたところを脇道に引きずり込んだ。
「アスモデ−−」
  意外なことに彼はそんなに驚いたふうではない。これにはアスモデのほうが少々面喰らった。
「−−おまえも来ていたのか?」
「これ以上奴について行くな!
  僅かな金で首をちょんぎられて化け物にされてしまうんだぞ!  それにうまく仕事とやらをやり遂げたとしても、用済みになれば殺されてしまうに決まっている!」
「しかしもう金を貰ってしまった。もう後戻りはできない。おまえも希望したからこそいまこの場にいるんじゃあないのか?」
「俺は違うんだ。詳しい事情は後でゆっくり話す。とにかくやめとけ」
  先に行っていたザイラス修道士ほかが不審を持ち始めた。
「おーい、そこの、ぐずくずするな!  迷路には自信があるだろうが、ここから先には罠が仕掛けてあるのだぞ!」
  振り返って怒鳴った。
(ええい、ままよ!)
  どうしても忠告に従わない学友にアテ身を喰らわせ、三角頭巾を奪って彼になりすまし、ナイアスたちに追いついた。
「すみません」
  できるだけ彼の声色を真似て言った。
「ボヤボヤするな!」
  案内された部屋は、この名状し難い崖に掘られた洞窟迷路にはふさわしくない、白い大理石に似た化粧壁に囲まれた清浄なところだった。中央、等間隔二列に、まるで霊安室のように白い横長の石で出来た寝台が六つ、並べられている。その横に同じ石製の脇机があり、その上には紫色の液体が入ったガラスの盃が一つづつ置かれていた。
(横になってあれを飲む前に、何とか逃げ出さなければ…)
  うまく友とすり変わったまではいいものの、アスモデは焦っていた。
「正直に申し上げよう」
  ナイアスが五人の申込者のうちアスモデと目を合わせてそう切り出したので、さすがの彼も震えが走った。
「−−そこの貴様、そう緊張するな。−−率直に言って、いままで、我々の計画には肉体の改造が不可欠だった…」
  一座にどよめきが広がる…
「静かに!  いままでの挑戦者は、人の姿を留めることは不可能だったのだ」
  どよめきはさらに大きくなり、
「俺は嫌だ!」
「話が違う!」
  と言う者もいた。
「だが今日、ほんの少し前、我が英明なるメテオラ院長は、ついに、短時間、肉体と精神とを完全に分離する方法を編み出した。
  自ら試してみたいのはやまやまではあるが、なにぶん、できたてのものである故、どんな欠陥があるのか、未知の部分も少なくない。
  院長が魂だけの存在になって、銀の秘鑰をもって開け進みたいのは次の場所である」
  ナイアス修道士はとある欲に目のくらんだ気の毒の男の干し首をトンと置き、回りの白壁に男が命賭けで見てきた異界の光景を写し出した。
  それは暗黒の宇宙に浮かんだ賽ころみたいに四角い、巨大で刻一刻と膨張を続けている白亜の建物だった。
  一階の窓の外から伸びた梯子が二階の真ん中と結ばれていたり、一見上りなのか下りなのか判然としない階段や、どう考えても低きから高きへ流れている水路など、アスモデたちの住む世の中の道理をことごとく無視した設計になっていた。
「宝は、この建物の最も深い部分に隠されているらしい。そこで、知り得る限りの世界から、諸君ら俊才建築家に集まってもらって、この常識を無視した空間に挑んで戴きたい」
  アスモデの心が揺らいだ。
  見るほどに不思議な家。しかも、ナイアスの言葉を信じる限り、身体は一寸たりとも切る必要はないと言う…
「−−この建物、さぞや諸君たちの探求心や冒険心をくすぐっていることだろう。大いに結構。だが、念のために申し添えておくと、所要時間はむこうの世界の時間にして一日。
  この一日は我々の世界の一日とほぼ等しい。
  太陽も月も一つづつで、時間に関してはこちらと同じ感覚でいいだろう。
  中で迷ってしまって、それを過ぎてしまうと、魂は永遠に肉体には戻れないので気をつけろ。念のために砂時計をやるから、着いたらただちにひっくり返せ」
  ナイアスは全員にゆっくりと真紅の砂の落ちる黄金の砂時計をくれた。
  アスモデはぜひとも、あの謎めいた世界を調べてみたくなった。一体、誰が何の目的であんなものを建てたのか。それとも、あちらの世界ではあれが当り前のものなのか。こちらの常識はどの程度、向こうに当てはめられるのか。
  建築構造(向こうでもそう呼ばれるものがあるとすれば)飲み込みでは誰にも負けない自信があった。
(宝物を発見するのは自分をおいていない)
  とさえ思えてきた。
「すみません、宝物はどんな形をしたどういうものですか?」
  誰かがもっともな質問をした。
「残念ながら不明だ。従って、苦労して見つけ、奪っても、全く見当違いのものである可能性もある」
  一同から「えーっ」という声が上がった。「面白いじゃあないか」
  アスモデが言ったので、他の者は一斉に彼のほうに目をやった。
「本当の意味での頭のよさ。人類の知恵が試されるんだ。操り人形のように言われたことだけを忠実にするのではなく、真にやり甲斐のある仕事とはこういうもののことじゃあないか?」
「そこの者、よく言った!  メテオラ様も貴様のような者を望んでおられるのだ」
  どの道、誰ももう後戻りはできなかった。
  金を受け取った上、これほどの秘密を教えられたいまとなっては「やっぱり辞めさせてもらいます」とは言い出せなかった。
「−−では、脇机の上の秘薬を飲みたまえ」
  恐る恐る一口づつ飲むもの、やけくそになって一気にあおる者など、いろいろだった。
  アスモデが口をつけると、普通の水と言ってもいいくらいに、味も臭いもなにもない液体だった。
(これはただの色つきの水だな。やはり部屋に仕掛けかあるんだ。例えば魔法陣が書いてあるとか、だ。
  院長は呪文で異世界との門を開き、俺たちを探検させるつもりだ)
  白い壁に赤や青や黄色や橙色の星がまたたき始めた。と、途端に周りは漆黒の闇に沈み、いつもは光の点にしか見えない星星が、満月かそれ以上の大きさとなって、次々とアスモデたちの目の前に迫ってきた。
  炎に包まれた星、氷に閉ざされた星、いくつもの月を持つ星、幾重もの輪を持つ星、灼熱の星、不毛の星、見たこともない奇妙な植物や動物にあふれた星、そして、どのような住人が建てたものか、人工的な曲線ばかりの街のある星などがあった。
  と、仲間の志願者の一人が、何か次元と次元の隙間のようなところで激しい摩擦を起こし、炎に包まれて燃え尽きた。もう一人は生きながらにして細かい砂粒と化し、四散してしまった。
  残りの二人は恐怖に顔を歪めていたが、アスモデはまるで他人事みたいに眺めることができた。どの道捕まればひどい目にあって殺されるだろうし、そもそもここにたどりついたこと自体も幸運な成り行きの末の出来事なのだ…
  ほどなく、例の滅茶苦茶な建物のある世界に到着した。そこは、海も山も森も林も草原もなく、ただただ人間の論理を無視した建築物が地平線の果てまで続いていた。
  六つの面を順番に回ってみても、特に変
わった特徴はない。どこも同じだ。
(飛ぶ速さをゆるめて)
  そう念じると、ちゃんとそのようになった。
  右旋回も左旋回も、上昇も下降も容易にできる。鳥と言うよりは天使になった気分だった。
  残りの二人もどこかに着地したらしい。
  アスモデも適当な場所を選んでゆっくりと降り、砂時計をひっくり返した。
  住民はむろん、いかなる生命もいる気配がまるでない。
  草一本生えていない白い広場の真ん中に、敷石の代わりにいくつもの石の扉がでたらめに配置されている。落とし戸か、と思えば把手がついている。まるで広場を歩く者を転ばそうとしているみたいに。
  力を込めて把手を引くと、ちゃんと下に向かって階段が続いているものの、その先は真っ青な青空だった。
  隣の扉を開くと炎が吹き上がり、少し走ってまた別の扉を開くと、無数の触手が飛び出したので慌てて押し閉じた。
(宝物を見つけられなかった場合、手ぶらで帰ってもいいのかな?)
  肝心なことを聞き忘れた自分をうかつに思った。
(…それはその時のこと。とりあえずは手がかりを集めなくては)
  敷石を蹴って垂直に上昇すると、街全体が見渡せた。と言っても、この星この世界全体が不気味この上ない建物に覆われている。まるで全体が苔に覆われた古い遺跡の如く、物理の法則を無視した建物が延々と広がっていた。
(中心というか、最初に建った地区が分かれば何とかなりそうだ。あとはそこを模倣するとか改良するとかして拡大したのに違いない)
  メビウスの輪をいくつも組み合わせた複雑きわまりない立体交差の道路が、子供の落書きみたいに不規則に走っている。幅か太いと思えば突然狭くなり、あるいはその逆といった感じで、どこが幹線やら支線やら、さっぱり見当がつかない。
  普通の人間、並みの建築家なら途方にくれ、あるいは心が壊れてしまいそうな状況だったが、アスモデは逆にますます闘志をかきたてられた。
(なるほど。全体が立方体をしていて、「世界の果て」が存在する以外は、  どこまでも無法則という訳か。しかしたとえ無法則の中にも法則というものがあるはずだ)
  睨んだ通り、街は、世界は永遠に繰り返される幾何学模様を構成していた。
(ということは、全体と部分は限りなく同じなのだ。この一角を探求するのと、向こうの一角を調べるのと、また隣接する面、裏面にある一角を調べるのとは同じなのだ)
  問題は一気に小さく、簡単になった。
(つまり、どこを調べても同じ結果が出る)
  気まぐれに手にした扉が正解の扉であることを祈りつつ、彼は把手を思いきり引いた。






    天空(メテオラ)の死  (承前)

                1

  いくらでたらめでも確実な法則性をもって繰り返されるものならば、それは真のでたらめではない。植物の種子の中には芽を出し、葉を繁らせ、花を咲かせ、実を実らせる神の御手が働いている。たとえ同じ種類の花でも赤、白、黄色とさまざまな色の花をつける。
  それらの種子がひとたび混じってしまうと蕾をつけるまで色は分からなくなる。茎の色などで多少判断できることもあることはあるだろうが。
  アスモデは懸命に隠された法則から、隠し扉や隠し部屋、隠し階段といったそのものずばりのものを探索したものの、まるで無駄だった。
  階段を登ってみると、いつしか降りている。空が足下の吹き抜けから見えることもしばしばだった。
  彼は作戦を変えた。
(延々と街を作り続けているのは「何か」の意思だ。この空間に棲む神かも知れず、化け物かも知れない。何故無人の世界でそんなことをするのか?  我々のようにいつか訪ねてくるであろう軽薄な輩を誘い込んで喰うためか?  それではあまりに非効率的だ)
  壁の一部を小刀で削ってみた。何か石灰岩に似た材質でできている。驚くべきことに、傷はゆっくりと自己修復された。
  どうやらこれらの建物は建物のようで建物ではない、それは人間の勝手な解釈で、実は珊瑚か何かの生物に間違いなかった。
(なるほど…)
  アスモデは自信を持った。
(亀の甲羅は整備された基礎土台と言えるし、遥か太古の昔には石灰の肉体を持つ生物たちが闊歩していたそうだ)
  見当をつけると次の目標が決まった。
(大きな固まりを持って帰って増やせば、奴らは好きなように研究するだろう)
  彼は装備品の中から楔(くさび)と金槌を取り出して、細い飾り石柱の一本を切り倒そうとした。材質は柔らかく、簡単に壊せた。
  ところが、失敬した部分が両端から延伸してただちに復元したのに比べて、切り取ったほうはたちまち茶色く腐ってベトベトの澱になってしまった。
(なるほど、元とくっついていないとダメ、という訳だな。まるで人間の皮膚みたいだな)
  普遍的な調査の策は尽きた。
(とにかく世界一の賢王と呼ばれたソロモンの臣民なのだから、時間いっぱいまではぶらぶらと歩こう。そのうちに何か秘策を思いつくかもしれない)
  途中でねじれて宙返りしている道を歩き始めた。ちょうどねじれている場所にさしかかると、そのまま  まっ逆さまに落ちる恐怖を感じた。ままよとばかり踏み出すとこれが落ちずにサンダルの裏はちゃんと道路の裏側をとらえていた。どんな状態になっても、通常頭の上には空があり、足元には地面があって街並が続いていた。
  砂時計が四分の三ほどこぼれた頃、アスモデは他二名の仲間のことを思い出した。
(あいつらがうまく打開しているかも…)
  悔しさとともに諦めを感じかけた時、突然閃くものがあった。
(もしや…)
  彼は直感の教えた壁の、とある部分をどんどんと叩いたり、体当りをしたりしてみた。五回、十回…  何も起こらない。
  一五回、二○回…
  阿呆くさくなって止める前にもう一度だけ思いきり力を込めて押してみた。
  するとどうだろう、曲線の壁にかすかに曲線の裂目が走ったではないか!
  アスモデは跳び上がった。
  やはりここは人間の論理で考えず、猪突猛進しなければ道は開けないところだったのだ。
  中に入るとすぐに岩に印をつけ、磁石と太陽の位置を計測して羊革に記した。たぶんこんな出入口はあっちこっちにあるのだろうが、慎重に過ぎることはない。
  扉の内側はやはりこの世界独特の論理で成り立っていたものの、もう永遠に同じものの繰り返しではない。少し飛ぶと、地形も風景も変わった。
  幹が鱗状になって、奇妙な葉をつけている植物などが一面におい繁っている。アスモデの世界の爬虫類に似た中型小型の生物も目にした。変わった昆虫もいるがいまのところ危険そうなものはいない。
  さらに飛んでいると砂漠が広がり、その真ん中にポツンと巻き貝か蝸牛の形の神殿が
そびえていた。
  中はガランとしていて、まがまがしい像や装飾の類もまるで見当らない。まるで引っ越しの後のようだ。
  ある白亜の広間には寝台が六つ、放射状に並べられていた。寝台のそばにはそれぞれ小さな脇机があり、その上には曲線で構成された空の盃が置かれていた。
(こ、これは!)
  まるで半日前、旅立ったのとそっくりの部屋だった。
  壁にそっと手を触れると、ここの人々の思念がゆっくりと投影された。
  彼らは肌の色が浅黒く、アスモデたちユダヤ人からすると異民族の雰囲気を漂わせていた。服装もまた然り。
  年老いた女性の神官や族長らしき者たちが次々に語り始めた。
『我等はヒアデスの者。星を造り、都市を造る太古の神スンビラルーを崇める者。
  我等はスンビラルーと共に文明を築き栄えてきた。その外側の皮膚に摩天楼をそびえさせ、山や川や湖や海や港や複雑な地形を思い通りに造って繁栄を謳歌してきた。
  だが、度を越した欲望はついに神を怒らせた。外の世界の果てしなく広がる理不尽な迷宮は、神官の制御を失ったスンビラルーの荒ぶる姿である。我等の力だけで止めることはもはや不可能。我が種族は滅亡を待つのみである。
  かろうじて命を長らえ、この「裏」の世界に逃れた者のうち、禁断の秘術を知る面々が、「この」世界を救うため、決死の星間旅行を試みることになった。
  我等に伝わる先住民族の文書によると、それ−−即ち邪神スンビラルーを統制する呪文−−は遥か彼方の赤き太陽を頂く世界の、第三番目の、一つの月を持つ青い星の、「メテオラ」と呼ばれる断崖の迷宮にあるらしい。
  この「裏の世界」も間もなくあの、ろくでもないでたらめの街に飲み込まれてしまうであろう。
  もし万一、このメッセージを読む来訪者がいれば強く警告する。己の思うがままの世界を欲して、スンビラルーを召喚してはならぬ。理由は言うまでもないだろう。そなたの世界を狂気の建築物で埋め尽くしたくなければ、絶対に−−」
  この星、この世界の人々が怒涛の如く迫り来る漆喰に似た物質に次々に飲み込まれて行く光景を写し出している最中に、壁の映像は乱れて途切れた。
(メテオラ院長の目的は我々人間の世界には来たことのない−−そんなことがあっては困る−−邪神スンビラルーを操ることだ。仮にその召喚の呪文なりが存在するにしても、とても持って帰れる代物じゃあない!)
  アスモデは神殿を引き払おうとし、扉を開けて驚いた。緑の世界はほとんどが例のおぞましい四次元の建築物に浸食されて、上空を含めて回りを完全に包囲されている。
  これではエホヴァの雷(いかづち)でもない限り脱出は不可能だ。
  ふと砂時計に目をやると、残り時間はごく僅かなものになっている。
(これまでか…  俺はこのスンビラルーの造った世界で、奴の発狂のために、ここの住人と同様の最後を迎えるのか…)
  最後の砦である神殿を前にして、浸食の速さは少し遅くなった。おそらくここには奴の嫌う何かの力が働いているに違いない…
(ダメかも知れないが−−)
  彼は半ばやけになって思った。
(万に一つ、助かる可能性がないとも言えないし、時間があるならこの神殿の隠し部屋とか秘密を暴いてみてやろう!)
  廊下を縦横にさっと走り、階段を登り降りして各部屋の間取りを眺めるうちに、人間の文明の感覚とそう大差のないことが分かった。どちらかと言うとエチオピアかヌメア(現・スーダン)の王候貴族の館に似ている。
  書庫や石板保管室もあるにはあったが、無視した。誰の目にも触れるところに大切なものが置いてあるとはとても思えなかったからだ。
  階段の段差の下や、部屋と部屋との間に、物入れとかに利用できるのにしていない空間が多い。
  拳を作って片っ端から叩いてみると、果たせるかな、そのうちの一つの向う側が空洞だった。
  アスモデが力いっぱい体当りすると、隠し扉は容易に開いて、派手に転んでしまった。
  そこにはラピスラズリ色の間接照明の下、数枚の薄い石板が、レリーフみたいに額縁に掛けられて収まっていた。
  書かれている文字はもちろん秀才のアスモデも初めて見る言葉だった。
(エルサレムに持ち帰れば、きっと読める者がいるに違いない)
  希望に胸は高鳴ったものの、強力(ごうりき)でもない限りとても全部は持てそうにない。
(どれだ?  どれがスンビラルーに関する重要文書だ?)
  彼は各々の石板を目を凝らしてジッと観察した。分厚く、あるいはうっすらと埃をか
ぶっているものは最近触られたことがないものだ。
  あまり迷わず、ピカピカに磨かれた形跡のある二枚を脇に抱えた。たった二枚でも腰にズシリと来る重さだった。
(これを携えて素早く動き回ることは不可能だ)
  慌てずに隣室の書記の控え室らしい部屋を捜すと、鍵のかかった大小の抽斗が並んだ事務用の棚があった。一際高くなっている檀の上の管理職の机の抽斗の中に置き捨てられた精密な象眼のある鍵束の鍵を次々と試してみると、そのうちの一つが見事に合った。
  抽斗の中には大小のパピルスがしまわれていて、使ったり、取り出したりした者の名前を記した帳簿があった。
(人の名前と取り出した枚数とか日時とか目的が書いてあるのに違いない。これはきっと解読の手がかりになる)
  帳簿とパピルスを何枚か失敬し、小さな陶器の壷に入ったインクも拝借して、件の石板の拓本を取って懐に隠した。
  砂時計を取り出すといましも最後の一つまみがこぼれてなくなってしまいそうだった。(くそっ、もはやこれまでか!)
  アスモデは走ってバルコニーへと出た。
  と、迫り来る狂った建物のあちこちが黒ずんで腐食し始めている。
(おお、ひょっとしたらこの世界の神官か、メテオラの配下がいち早く対抗策を発見したものか…)
  黒ずみはどんどん広がって、腐肉の如く次々と崩れ落ちていく…
  磁石を取り出して見ると、正確な方位を指している。もと来た位置、もとの扉のところに戻れそうだったが、いかんせん砂の最後の一粒がくびれをくぐるところだった。
(ダメか…)
  目をつむり息を飲んだ。
  ところが数秒して目を開いて見ると、何も変わったことは起きてはいない。もう一度砂時計に目をやると、何と、砂が重力の法則に逆らって下から上に逆流し、ガラスの筒の中で舞っている。
(助かった)
  一息ついたものの、この気紛れな世界ではいつ最後の時が訪れるものか、全く予測不可能だ。
  アスモデは心を沈めて腐食によってできた黒い洞窟の中を、両手を羽根のように広げて飛んだ。
  行き止まりでは引き返し、まもなく開き広がりそうなところでは辛抱強く待ち、磁石を頼りに渡ってきた場所に戻った。
  思いきり体当りすると扉は開き、彼は四次元の街の舞い戻った。
  懐の拓本や帳簿を取り出して無事を確かめると、彼は一気に上昇し、ユダヤの荒野(あれの)を心に思い描いた。

                2

  気がつくと、彼は出発した時と同じ六つの石の寝台の一つに横たわっていた。
  残り五つの寝台のうち一つは空席、一つの上には何か人の形に似た黒い焼け焦げが焼きつけられ、もう一つは炎で焼け爛れたボロボロの肉片が乗っている。次の一つは黒いタールに浸されたような人がた、最後の一つは人間ではない、アメーバ状の、目玉をいくつも持った怪物がいてゆらゆらと揺らめいていた。「話ガ違ウ…」
  驚いたことにそいつはアスモデらと同じ言葉を喋っていた。
「−−元ノ身体ニ戻シテクレ」
「何か価値あるものを手に入れてきたか?」
  ナイアス修道士は眉一つ動かさず、抑揚のない声で尋ねた。
「姿ヲ見テクレ。トテモソンナ余裕ハ…」
  ナイアスの掌から紅蓮の炎が放たれた。一瞬のうちにそのものは一握りの塵となって消し飛んだ。
「さて−−」
  ナイアスはアスモデのほうを向き直した。「−−貴様もずいぶんと早目に戻ってきたようだが、収穫はあったんだろうな?」
(「早目」?  とんでもない!  時間はとっくに過ぎているはずだ)
  と思ったものの、(時間もまた歪んでいるのかもしれない)と考え直して、黙って懐のものを取り出した。
「全部複製する余裕はなかったので、重要そうなものだけを取ってきました」
  ナイアス修道士は恐ろしく爪の伸びた手でそれらのものをひったくって貪り読んだ。
「分からん…  一体どこの国の言葉だ。我等の世界に読める者がいるのか?」
  苦虫をかんだ顔にますます新たな皺が寄った。
(手に入れても読めないものを、星の彼方まで取りに行かせるなよ。
  自分が浅学なだけじゃあないのか?)
  ムッとして、危うく口に出して言うところだった。
「−−これはメテオラ様に献上する」
「それでは約束の褒美の残りを頂いて、帰らせてもらいたい」
「この拓本が本当にあの世界のものか、確かめてからだ」
「ちゃんと行ってきたさ。報酬を貰うにふさわしい危険な目にも会い続けた」
  アスモデは彼方の世界で見たことを細かく話した。ナイアス修道士も一応最後まで聞いていた。
「−−さあ、これで信用して解放してくれるだろう?」
  彼の心の中は、テミエと一緒にオアシスに逃げて、それからソロモン王にこのうさん臭い砦のことを奏上して、軍隊を派遣して滅ぼして貰うことばかりが浮かんでいた。
(いくらメテオラが強力な魔導士といえども、聖櫃(アーク)には叶わないだろう。−−いいや、わざわざ聖櫃を持ち出すまでもないかもしれない…)
「いいやまだだ」
  ナイアスは砂漠の蛇の目をさらに細めて呟いた。
「−−話などいくらでもデッチ上げられる」「そんな、約束が違う!」
  いまだに顔を覆っている手下のつける覆面が危うく脱げ落ちるところだった。
「それに、事と場合によったら、おまえにもう一度『あちら』に行ってもらうことになるやも知れぬ。おまえには素晴らしい才能があるようだし、第一無事に帰り着いたのはおまえだけなのだから」
「約束を守ってくれ!」
  つかみかかろうとするアスモデの目の前に一瞬のうちに天井から一枚の鉄格子が降りてきて、行き止まりの通路に閉じ込められてしまった。
「とにかく、この拓本を調べさせてもらう」
  ナイアスはパピルスをひらひらとさせながら去った。
「おい!」
  アスモデは歯ぎしりした。
(あれだけの迷宮から帰還したのに、どうしてこの成り行きを予測できなかっのだろう)
  今度からは隠し扉や隠し部屋を見つける以上に悪人の悪心を見破ってやろうと決心した。
  もっとも、その機会が巡ってくれば、の話だったが。
  押しても引いても揺すっても鉄格子はビクともしない。
(ひょっとすると…)
  と考えて隠し扉、通路がないかと捜し、あちこちの壁を叩いたり蹴ったりしてみたが、今度こそ何もなかった。
  さすがにそこまでの運はないようだった。(『おまえの取ってきた拓本はメテオラ院長様が求めておられているものとは全く関係のないものだった。もう一度行って今度は全部取ってこい』などと命令されたらどうしよう…)
  最悪を想像すると目の前を闇の帷が降りた。(いくら何でもあんなところは二度と御免だ。いくら俺が建築に興味があり、迷路に自信があると言っても、だ!)
  ナイアスの武器を奪って格闘を試みることも計画してみた。
(だが奴は武器らしいものを持っている気配はない。掌から火球を撃てるところから憶測すると、もっと凄い術も使えるのだろう。つまり奴は正真正銘の魔導士で、剣など持つ必要はさらさらないのだ。その上に立つメテオラ院長は、さらに強力な術が使えるのだろう。
  ソロモン王か、メディア(のちのペルシア帝国)の魔導士長(マギ)でもなければとても太刀うちできないぞ…)
  溜め息をつき、途方に暮れている時、廊下の曲がり角に小さな影がのぞいた。
(くそっ、もう戻ってきたのか…)
  影は頭巾とマントをまとっていた。
「テミエ!」
「シッ、静かに、アスモデさん」
「おまえよくここまで辿りつけたな!」
  地獄で天使とはこのことだった。
「もうとにかく必死で…  あまりに遅いものだから」
  少年は青銅の合鍵の束から選んだ鍵を岩壁に開いた鍵穴に次々と差し込んだ。
「−−もうじき夜明けです。予定通りその時に退去しなければ大騒ぎになって追っ手がかかります。追っ手がかかればまず逃げ切れません。あの人たちみたいに…」
  鍵の一つが合って、鉄格子がせり上がった。「『あの人たち』とは?」
  アスモデはテミエの手を取って駆け出しながら尋ねた。
「『星に乗ってきた人たち』ですよ。と言っても貴方はご存じないでしょうが」
「心当りがある。街と言うか、幻想の世界を作り出す邪悪な神を操るのに失敗して、その収拾を試みようとはるばる我々の世界に旅をしてきた者たちだろう?」
  彼は「向こう」の世界での体験をテミエにも話した。
「そうだったのですか。それで分かりました。メテオラ院長はその星の人々が欲しがっていた『世界を造る神』を制御する何かをいち早く手にいれて、この荒れ野に自らの都を造営し君臨するつもりだったんだ」
  鋭い指笛が鳴り、それに呼応して同じ指笛があちこちで鳴った。
  広い廊下の向こうに手下の修道士たちの姿が見えたので仕方なくまた脇道に入った。
「どうやら逃げ出したことがバレたみたいです」
  テミエは泣き出しそうな顔で言った。
「諦めるのは早い。これだけの洞窟住居だ。出入口はいっぱいあるだろうし、その中には警備の手の回り切れないところだってあるハズだ」
「しかしメテオラ院長やナイアス修道士は迷路をほぼ把握しています」
「『ほぼ』だろう?  連中だって全て完全に知り尽くしている訳ではないことはお見通しなんだ」
  アスモデは行く先に追っ手の人影が見えると次々に角を曲がりながら、『メテオラ修道院』の全貌を頭の中に描き込んでいった。
「どうしてそんなことが分かるんです?」
  テミエの息が切れかけてきた。
「『星の彼方』で、迷宮を造り出す邪神を司る何かが、ずばり我々の世界の『ここ』に隠されていることを知ったからだよ。
  偉大なるメテオラ院長も、優秀なナイアス修道士もそのことを知ってはいなかった。もし知っていれば、星の果てに手下を派遣したりしないで、このお膝下を熱心に調べれば済んだことだ」
「それは本当ですか!」
  テミエは立ち止まって目玉がこぼれ落ちそうなぐらい見開いた。
「本当だ。だから向こうの世界の連中は、我々がやったのと同じような方法で『ここ』に探検隊を派遣したんだ。だからもし、そういう伝説か、残骸のある場所を知っていれば、その近くにきっと、スンビラルーを呼び寄せ操る秘密が隠されているに違いない。
−−それらしき場所を知らないか?」
「心当たりがあります」
  テミエは顔を輝かせた。
「−−遠い遠い昔、この地に『人を乗せた』星が墮ちたという伝説があります。星に乗っていた者は全員焼け焦げ、影となって岩に焼きついてしまって果てたそうです。何者かも分からない彼らの魂を安んじさせるために、古代の人間たちが祈りを捧げたのが、この修道院の起こりだ、と伝えられていますが、まさか実際に起きたことだったとは…」
「その場所に案内できるか?」
「ええ、ここから無事に脱出できさえすれば」

                3

  追っ手の手下たちが使用頻度の高い主な出入口とそこへ至る道すじを固めたのに対して、アスモデは奥へ奥へと逃げた。
「これでは袋のネズミではないですか?」
「普通ならばそうだろう。しかしこの洞窟の場合は特別だ。最も奥の行き止まりに非常口のようなものが必ずあるのに違いない」
  不安そうなテミエとは裏腹に、アスモデは自信たっぷりだった。
  そして彼の予想通り、洞窟が細くなってもう一歩も進めなくなった時、上の岩を「よいしょ」と持ち上げると、ひんやりとした砂漠の夜気が流れてきた。
  まずアスモデが外に出て、テミエを引っ張り上げた。
  あのどこかにアスモデの魂が旅をしてきた世界があるのだろうか、空には満天の星星が輝いている。
  そこは崖の頂上、絶壁の上の広場だった。谷を隔てて向う側の洞窟都市の黄色い獣脂の炎による灯火がいくつもゆらゆらとまたたいている。
  崖の縁にはこちら側の洞窟に修行者を引っ張り上げるための籠を吊した滑車がずらりと並んでいた。
  下を覗くといましも剣やら斧やらを携えた雑魚たちが滑車に乗って次々と上がってこようとするところだった。
  アスモデは手にした短剣でロープを片っ端から切って回った。籠は次々と落下し、乗っていた者たちは地面に叩きつけられた。
  怒り、わめくナイアスの姿が小さく見える。(おかしいな)
  彼はふと思った。
(これだけの大騒ぎになっているのに、肝心のメテオラ院長の姿が見当らない。大事な実験の最中なのだから、留守ということはまず有り得ないのに…)
「アスモデさん!」
  テミエの叫びを聞いて振り返ると、粗衣に身を包んだ、首のない、全身毛むくじゃらの大男が、刃が扇のように広がる大刀を振りかざし、宙空より現れた。
「ザ、ザイラス修道士です。沙婆にいた時は百戦練磨の戦士だった−−」
  アスモデは短剣一振り持ってはいなかった。旅嚢の中にはあったものの、山賊に襲われた際に投げ出してきた。出して応戦しようなどという気はさらさら起こらなかったし、そんなことを考えようものなら、とっくの昔に殺されていたことだろう。何しろ相手はプロの殺し屋で、こちらは鴨なのだから。
(彼らは勝てる相手しか襲わない。隊商は大勢通るのだから、敢えて強力な護衛に守られた団を狙う必要はない)
  つまり、襲撃を受けた時点で、ほとんど望みはない、ということだ。
  唯一の可能性としては、ただひたすら散り散りになって逃げる、ということ。それもやられている仲間を見捨てて。
  こちらはただの建築家、学者であって、趣味でやっていない限り身を守る方法や武器の扱い方など全く知らない。
「待て!」
  首がない−−当然聞く耳もないのだが、彼は鋭く呼びかけた。
  ザイラスはピタリと止まった。どうやら心の中を感じることはできるらしい。でないとメテオラ院長の命令も分からないし、遂行も難しいだろう。
「おまえをそのような姿にしてしまったのはメテオラ院長だろう?  ソロモン王ならばきっと元の姿に戻して下さる。憎むべきはメテオラ院長だ。三人で奴を倒し、陰謀を叩き潰そうではないか」
  ザイラスは迷っている様子だった。アスモデが最初に目撃した怪異も、彼が修行場である洞窟の横穴で悩み苦しんでいる光景だった。
  首のないものがそんな状況に陥るというのも哀れな感じがした。
  新たに強力な指令が送られてきたらしく、戦士の身体は雷を受けたように硬直した。そして剣を扇の形に開いたり、閉じたりして迫ってきた。
  崖の上はかなり広く、ところどころに見たことのない文字を刻んだ大昔の石柱が建っていた。それはアスモデが迷宮と化した世界から持ち帰った拓本の文字とそっくりだった。(こいつが読めれば何とかなりそうなんだが…)
  思ったところでどうにもならない。優秀な人材を結集しても、解読には早くて数日、下手をすれば数年かかるだろう。
(待てよ)
  刃が頭のすぐ上をかすめ、髪の先を切り落とした瞬間、閃くものがあった。
(メテオラ院長はこの文字がある程度読めるのではないか。だからこそ、ザイラス修道士や俺たちに術を施し、星の彼方の邪悪なる神の存在も知り得て欲した)
  彼は次第に崖っぷちに追い詰められ、後一歩下がればまっさかさまに転落しそうだった。
  敵はアスモデの引き吊った表情を楽しむかの如く、なかなかとどめの一撃を振り降ろしてこない。
「テミエ!」
  彼は石柱の影に隠れていた少年に呼びかけた。
「はい!」
「メテオラ院長が普段いる場所。院長室を知っているか?」
「はい!  ぼくらは絶対に近寄ってはいけないと言われている区画があります」
「どこだ?」
  テミエは簡単に、けれど要領よく説明した。「おまえはもう一度、岩蓋をどけてそこへ戻れ!  俺も院長室に向かう。できたらそこで落ち合おう」
  刃が振り降ろされた瞬間、アスモデはまだ何尺か残っていたロープにつかまってすぐ下の横穴に降りた。
  当然ザイラスは宙を飛んで追いかけてきた。
  空を飛ぶ能力はメテオラ院長が許可した時だけ使えるようになるらしかった。
  アスモデは横穴の隠し扉を発見し、素早く迷宮に戻った。こうなるとザイラスもそう簡単に追撃はできない…
(辞書だ。メテオラ院長はあの石柱の文字をある程度の解読することに成功したんだ。だから必ず辞書がある)
  彼は教えられた方向に進んだ。たとえ部屋に大魔導士であるメテオラ自身が待っていようとも他に方法はなかった。
(どうせやられるのなら、一目親玉の顔を拝んでやる!)
  洞窟の光苔の色が変わった。これまでの黄色から赤味を帯びたものになった。どうやら雑魚は立入禁止らしく、追っ手は立ち止まって何かひそひそ相談していた。
  洞窟の道は急に上下左右に広くなり、ここの主の住む区画にふさわしく漆喰や瀝青で美しく固められている。明かりも獣油を入れた火皿ではなく、高価で燃える速度の早い蝋燭になった。
(ここか!)
  アスモデは一際大きな間取りの部屋の魔法陣に似た図柄の装飾扉の前で立ち止まった。
  扉には鍵はかかっておらず、半開きになっていた。
(きっと留守だ。ナイアスがあれほど捜し回っていたじゃないか)
  隙間からソッと様子を伺って見た。案の定誰もいない。燭台は長い時間交換しなくてもよいように長短様々な長さの蝋燭が燃えている。
  升目状に区画を切った書庫には律法書の体裁を取った巻本がぎっしりと詰まっている。
  紫檀の衣装棚、黒大理石の机と椅子。どう考えても修道院の院長のものとは思えない。
  王候貴族かさもなければやはり大魔導士の部屋だ。
  彼は頭巾をかなぐり捨てて、手早く机の上を調べた。ヘブライ語〜エジプト象形文字の辞書を皮切りに、フェニキア語、ペリシテ語、メディアや少数民族の言葉、さらにはアスモデがまるで知らない、聞いたこともない国や地名の字引もたくさんあった。これらはおそらくは、遥か太古の大昔に滅びたもののようだった
  ムー、アトランティス、レムリア、ハイパーポリア、ルルイエ…
  中の一冊、表紙にタイトルも何もない写本が拓本や石柱の文字にそっくりだった。
  それにこれだけ他の辞書に比べてひどく手垢にまみれている。下線や書き込みも多い。(これだ、これに違いない!)
  早速ふところから拓本を取り出した。
(こんなこともあろうかと思って、二部づつ刷っておいてよかった!)
  この言葉はフェニキアのアルファベットにそっくりだった。
(バアルの神を崇める連中の言葉だ)
  アスモデは語学にも多少の自信があった。
  初めてにしては驚異的な速さで辞書を引きながら、拓本の文章を読んだ。同じく勉強家のメテオラ院長の下線も大いに役に立った。「…旧き神の一柱スンビラルー、そは『世界』を造るもの。煮えたぎる炎の海、氷に閉ざされたるところ、森や林、ありとあらゆる生物、その生物が造る構造物、己がかつて一度見たものは全て模倣し大規模に再現することが出来る。
  我等のうち、勇気ある魔導士はこの旧き神を手なづけ、己の意思の通りに動かして新たな植民星を造ることにした。されど奴も神ならば完全に我等の思い通りにはならず、幾度の実験、試行錯誤を重ねても臣従は叶わず、ここにその打切りと遺棄を決定する。

  スンビラルー召喚の陣と呪文は次の通りであるが、自らの世界が破滅に瀕しない限り、むやみな召喚を厳禁する。
  イア!  イア!  スンビラルー、ギア!
ギア!  コム、コデス…」

  以下に続く呪文は長く、陣も複雑だった。

  アスモデは別の石板から刷った拓本の翻訳を試みた。

「我等の世界より遥かに離れた一三の惑星を持つ太陽系の三番目の星の箱船が造られた土地の崖に造られた迷宮に、スンビラルーを完璧に操ることのできる秘密が隠されているらしい。
  仲間の多くがそれを求めて様々な方法で旅だったが、いまだに帰還した者はいない。
  透視能力者が彼の地を僅かにかいま見たところによると、生存者によって建立された墓がいくつか見えた、と言う…」

(「世界が造れる…」  ひょっとすると、「奴」こそが世界のあちこちで崇められている神の正体なのか?)
  心は荒海の如く波立った。
  その「神」を自分が呪文と陣を持って召喚し、思い通りに操れる、かもしれないと想像すると、嫌が上にも興奮が増した。
(人でありながら、神の上に立てる…)
  それはまさしく彼方の世界の魔導士たちが夢見て諦め、いまメテオラ院長が引き継ごうとしている究極の野望に違いなかった。
(ソロモン王も知らない…  いままで世界に君臨したいかなる支配者、大王、予言者もできなかったこと…)
  山賊に襲われて逃げ回っているような一介の人間には、この上もなく大それたことだった。
  とそこへ、コツコツと落ち着き払った大人の跫音が近づいてきた。
(とうとうメテオラか…)
  覚悟を決めかけたものの、その少し擦るような響きには聞き覚えがあった。
(ナイアス修道士−−いや魔導士。奴も俺の歯の立つ相手ではないな…)
  逃げようとノヴに手を掛けた反対側の廊下からはズシズシという大男の足音が迫ってきた。
(首なしのザイラス修道士…  挟み討ちという訳か…)
  院長室のことだから、何か強力な武器か薬品でもないかと思って、戸棚や衣装棚を開けて中を捜した。使えそうなものは何もない。
  ただ、衣装棚には竹馬みたいに長くかさ上げをした靴や、長く黒いローブ、顔をすっぽりと被う頭巾、それに表情のまるでない人間の面などが無造作に放り込まれていた。
  アスモデは咄嗟にメテオラ院長になりすますことも考えたが、二三言葉を交わせばすぐにばれることなので断念した。
  ナイアスとザイラスが二つの扉からほぼ同時に押し入った。
「…やっぱり貴様だったか。この究極の迷宮の中をこうも簡単に院長室までたどり着くとは、どうやらソロモン王の密偵のようだな」
  ナイアスは掌の中で特別の輝きを持つ火玉を造りこねつつ言った。
「おまえとメテオラ院長はスンビラルーで一体何をするつもりだ?  荒野にバビロンやエルサレムのような都を出現させるつもりか?」
「まずはそのつもりだがな。異端の烙印を押し我等を追放したソロモン王や律法学者たちが驚いてのけぞる街を造るのだ。その後、エルサレムを始めとする連中の街、神殿の街を瓦礫の山に変えてやる。連中は泣いて我等に降伏するのだ」
「スンビラルーを操るのは無理だ。言っただろう?  俺が見てきた星の彼方の世界の人々も同じことを計画したが、結局思い通りに造られることはできず、暗黒の闇の中に空しく浮かんでいるだけだ」
  部屋の真ん中に立ったアスモデは、自分の下の床が二つに割れる仕掛けがあるのを見つけた。どうやら院長が侵入者よけに落とし穴を設けたらしい。
「−−わたしと院長は制御方法を見つけた。彼方の星の住民の轍は踏まぬ」
  火玉の中で渦巻いている妖力も今や限界に達していた。
  片やザイラスの手からは扇状に広げた剣が放たれようとしていた。
(間に合ってくれ!)
  アスモデはテミエの到着を心から祈った。
  そして彼は天井裏から飛び降りてきた。
「アスモデさん!」
「テミエ、院長の机の袖にある紐を引け!」
  ナイアスが火玉を、ザイラスが風車剣を投げつけるのと同時に、少年は思いきり紐を引いた。床が割れ、アスモデは間一髪のところで落とし穴の縁につかまりぶら下がった。
  火玉はザイラスの胸に大きな風穴を開けた。嫌な焦げ臭い臭いが漂い、首なしの戦士はドサーッと地響きを立てて倒れた。
  戦士の放った剣は魔導士の身体を千万にも細かく砕き、辺りの床や壁には無数の血痕と肉の破片が叩き付けられた。
「やれやれ、何度目の命拾いだ?」
  床に這い上がったアスモデは、二人の死体には目もくれず、落とし穴の底を燭台で照らした。
「どうやらこの下に秘密が隠されているらしい」
  ロープを捜し出して丈夫な家具に固定すると、先頭に立って降りようと試みた。
「大丈夫ですかアスモデさん。下にメテオラ院長がいたらヤバいんじゃあ?」
  そんなことを言いつつ、テミエも続いて降りてきた。
「こうなったら毒喰わば皿までだ。ナイアスはすでに制御方法を見つけた、と言っていたし」
「『制御』?」
  アスモデは手短にいままでのことを話した。「そりゃあ凄い。もしそれが本当なら、ぼくらの世界は天国のように繁栄するんじゃあないでしょうか?」
「俺はそうは思わない。人間の欲望には際限がないから、さながら地獄が出現してしまう気がする」
  少し進むと暗くじめじめとした地下牢がいくつか並んでいた。
  中に白骨化した骨がいくつも倒れていたがそれらの骨は人間には似ているものの、人間のものではなかった。
「星の彼方からスンビラルーの制御方法を探索しにやってきた者たちの成れの果てだ。メテオラ院長は彼らを捕らえて秘密を喋らせようとしたが、肝心なことはついに聞き出せなかったようだ。それでザイラスや俺たち探検隊を募って星への扉を開くことになったみたいだ」
「ひどい…  ぼくはこんなひどいところで暮らしていたのか…」
  テミエは苔でぬめる岩壁によりかかって、口を手のひらで押さえた。
「君のような下っ端がもし何かの拍子に知ってしまったら、間違いなく殺されていただろう」
「その前に逃げ出して訴え出ていましたよ」「それが簡単にできたかどうか」
  さらにしばらく進むと、今度は人一人がようやく登れるくらいの狭い幅しかない螺旋階段に行き当った。
  アスモデはもはや半ばやけくそ気味に、一歩一歩踏みしめつつ上った。テミエも仕方無しに続いた。
  やがて、彼らはいくつかある切りたった円錐形の岩山のうちの、最も高いところの出口に出た。
  青銅や鉄ではない、人間がまだ知り得ていない薄く軽い銀色の扉を開くと、危うく突風で吹き飛ばされそうになった。
  柵もなにもない踊り場からは、荒野一帯が黄金色の月明かりに照らし出されており、修道院のある崖がはるか下に見えた。
「見ろ!」
  アスモデは眼下に広がる入り組んだ地形と自ら星の彼方の神殿から写し取ってきた拓本を代わるがわるテミエに示した。
  テミエの顔色がサッと変わった。
  拓本の文字と、辺り一帯の入り組んだ地形は同一のパターンを示していた。
「遠く離れた別の大陸の国の陸地には、遥か上空から見なければ分からない図形が描かれていると言う…  それと同じで『この場所』はそれ自体、我々の世界に刻まれた碑文だったのだ」
  彼は院長室から奪ってきた辞書で、大地に書き込まれた文章を読もうとした。
「…そうだったのか。気がつかなかった…」
  テミエは低い声を一層低めて言った。
  アスモデは何故か背筋に一陣の寒けを感じた。
「−−アスモデさん、あなたには本当にお礼を言わねばなりませんね。貴方が山賊に追われてこちらに来なければ、全く発見できなかったところでした」
「俺の冒険が役に立って嬉しいよ。いくら静かに修行できるか知らないが、こんな呪われたところは一刻も早く引っ越したほうがいい」「そういう意味じゃあないんですよ」
「えっ?」
「それを知った以上、ぼくの活動と言うか、実践の場は、ますます『ここ』でないとだめのようです。−−まだ分かりませんか?」
「まさか…」
  エルサレムから来た青年建築家は、まだあどけなさを残している少年を指さし、ほんの僅か後じさった。
「−−ようこそ、我がメテオラ修道院へ。ぼくが院長のメテオラです」
「嘘だろう?」
「少年ではいけませんか?  院長が白い顎鬚を生やした、腰の曲がった皺だらけのお爺さんでなければならないという規則でもあるのでしょうか?」
「テミエ、冗談はよせよ」
  無理やり笑顔を造ったアスモデが慣れなれしく肩を抱こうとするのを、少年は突き放した。
「じゃあ証拠を見せてあげますよ」
  彼は懐からアスモデがナイアスに渡したはずの一組目の拓本を取り出して広げて読んだ。「イア!  イア!  スンビラルー、ギア!
ギア!  コム、コデス…」
  長い呪文を唱えているうちに、辺りに薄い霧か靄のようなものが立ち込めはじめた。
  いいや、アスモデがそう感じただけで、実際には何も現れていなかったかも知れない。ただ、人の目には見えない、気配もよほどのことがないと感じることのできない何かがゆっくりと空間に満ちていった。
「−−いまから、この地面に描かれた制御の呪文を読み上げます。…いいえ、辞書はいりません。丸暗記してますから」
  テミエは大地に浮かび上がった稜線を追いつつ、人の言葉ではない奇妙な呻きを発した。
  するとどうだろう、質感のない空間が白く凝固し始めて、それはじょじょに建物の輪郭を取り始めた。
  荒地のそここに、青の都、ローズピンクの街、白亜の街、茶色の市街が姿を現し、うつつのものとなった。
「やめろテミエ||いやメテオラ!」
「ぼくはぼくの王国が欲しかったのです…
ソロモン王や、エジプトの太陽王(パロ)たちや、バビロニアの王たちのような立派な王国が。いまやっと、その望みが叶うところなんです。スンビラルーの手を借りて」
「だから、それは危険だと言っている。最後まで人間の手で操れるかどうか」
「貴方のお陰で、星の彼方からわざわざ遣わされて来た連中がどうしても口を割らなかった秘密も手に入れました。この上何が必要なのでしょう?
  ぼくは地上にぼくの楽園を造り、人でありながら神となる最初の一人となるのです!
  アスモデさん、もしもご希望ならば貴方が二人目となっては如何でしょう?  不毛の大地に夢の都を建設する…  建築家のあなただったらイマジネーションが尽きることはないはずです」
「莫迦な!  俺は星の彼方で恐ろしい失敗の跡をしっかりと見てきたんだ!」
「だからそれは…」
  霧のように見えたのは無数の小さな羽虫の集団だった。もちろんただの虫ではない。何もないところから物質を発生させている。どこか遠い遠い星から建物の材料である土や岩や砂や石灰を、空間をぐいとねじ曲げ、運んできて組み立てているようだ。
  群体の頂上部は、かなり広い範囲に渡って一定の高さを保っており、そこは彼らの密度も高く(おそらく完全に巨大な固体になるぐらい結集しているのだろう)さながら空に浮かぶ大陸のようにも見える。
  上層部ははっきりと、下へ行くほどぼんやりとしている形は、さながら空中を飛行する度外れて大きな水くらげだ。
(どこかに頭はいるのか?)
  回りを見渡してもらしきものはいない。
(彼らは一体何のために星星を巡ってこんな厖大な事業を繰り返しているのか?)
  無論、人智の及ぶところではなさそうだ。
  いろいろ考えたが、彼ら自身には意思は存在せず、ただ我々−−現在はテミエの思念を反映しているだけに過ぎないようだった。
(すると下等な生物?)
  でもないらしく、見る見る竣工して行く建物はどれもこれもきちんとした立派なものだった。
(やはり神か?)
  星の彼方の人々は霧に見える小さな虫の集団を「邪悪なる神」と呼んでいた。とにかく人間の尺度では計れない存在であることだけは確かだった。
  スンビラルーは街を仕上げ、最後は壁面や道の隅々まで磨きをかけてから、何処へともなく姿を消した。
「さあ行きましょう、アスモデさん!
−−ぼくは物心ついてからこの地から出たことがない、エルサレムもどこも見たことがない、というのは本当です。そのぼくが天から与えられた才能を使ってぼくだけの都を造るというのは快いことだと充分推察して戴けることと思います」
  テミエは数々の気味悪い幻の生物を描いた街の門の前に立って招いた。すでに修道院の手下たちは歓声を上げて入っていった後だった。メテオラ院長はおそらくかなり以前から部下の修道士たちに「砂漠の荒野」に神の国が出現することを約束して叱咤激励していたのだろう。
「俺は遠慮しておく。いまはきちんとしているが、時間が経つとどうなるものか分かったものじゃあない」
「ぼくらがこの街に入ったら、この世界の他の街、エルサレムや、テルアビブや、ベリュトス(ベイルート)やバビロンやテーベやメンフィスは全て、空から火の雨を降らせて滅ぼすつもりなのですよ。そうなると『ここ』は地上で唯一の都となるのです。助かりたければ−−」
  彼は声を張り上げた。
「−−ここの住民になるしかない!」
「エルサレムの親戚や友人たち、それに大勢の人々を見捨ててまで、自分だけ生き残りたいとは思わない」
「そうですか。それはとても残念だ。貴方はとても有能な人なのに…」
  最後に振り返った寂しそうな顔が彼の見納めとなった。
  荘重なきしみを立てて門が閉じた。
  しばらくして、何か別の呪文が聞こえた。
  空が次第に赤く輝き始めた。最初それは砂漠の夕焼けのようだったが、真紅ないし朱色を帯び、次いで熱風以上の恐ろしく生暖かい風が吹き、一転突如として湧き上がった漆黒の雲の中を縦横に稲妻が走るのを見たアスモデは、伝説に聞くソドムとゴモラの滅亡を思い出して震え上がった。
  とりあえずどこかに隠れようと思ったが、無駄な努力であろうと理性がつぶやき、数歩歩いただけで後は茫然と立ち尽くした。
  尋常ではない風に乗って、テミエの狂った哄笑が谺し、響き渡る。
  轟音とともに、空から無数の巨大な火の雨が降ってきた。
  アスモデは本能的にその場にしゃがみ込んで、頭を両手で覆った。
  ところが、焼き尽くす、破壊し尽くす音や振動や臭いはするのに、まだ命がある。
  恐る恐る顔を上げると、無数の火球は弧を描き、あるいは意思あるもののように飛行して、いましがたテミエが創造したばかりの新しい都だけに集中して落下していた。
(やはり、そんなに簡単に邪悪なる神を下僕とすることなど無理だったのだ)
  茫然とたたずみつつ、背を向けて目を閉じた。神を恐れぬ人々の都の末路を目撃した者がどうなるか、ユダヤ人なら誰でも知っていることだった。
  つい先ほど前まで、自信たっぷりに呪文を唱えていたテミエの声は、絶叫と化し、ふっつりと聞こえなくなった。
  街はぐにゃぐにゃに歪み、次第に黒ずんで建設された時より速い時間で腐りドロドロに崩壊した。
  溶け崩れる門のすぐ内側で、何人かの人間の悲鳴が聞こえたので、アスモデは思わず耳を塞いだ。
  やがて、朝日が差す頃、それらは跡形もなく消え去って、元の荒れ野に戻った。
  変貌の影響か、メテオラの修道院も大地震のあとのようにひどく破壊されていた。

  エルサレムに帰ったアスモデは、ごく親しい友人だけにこの体験を話した。
  友人のほとんどは「悪い夢を見たんだ」と取り合わなかったけれど、中の数人は「広い世界には、月の光に浮かぶ蜃気楼もあるそうだ」と言って信じてくれた。
  それ以降はアスモデ本人も、そう歪曲して語り続けたらしい。





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