大理石の男

あらすじ…

  とある年の夏…
  百貨店の「世界大蚤の市」で、円空仏のような素朴な聖母像を見つけ心打たれた「私」は、どうしても欲しくなって、買い求めた。
  あちこち置場所を変えているうちに、継目があることを発見した私は、像の中から文書を発見する…

  それは一九四五年の夏から秋にかけて、イタリア南部の小さな町で起こった出来事だった…
  空襲で両親を失った、一七歳の、眼の不自由な少年ディーノは、幼い頃から塑像造りが上手だったことを生かして、石工の親方の下で教会の修復を手伝っていた。
  たまたま誰もいなくなったスキに、おまつりしてある聖母像に抱きつき、「観賞」していたディーノは、親方から三枚の金貨を与えられて暇を取らされる。
  実は、この聖母は戦災で傷ついていて、新たに造り直す。ついては彫刻家なら誰でも応募できることが決まっていたのだ。
  親方から貰った金貨で、聖母像にふさわしい大理石を買いに出かけたディーノは、石屋の庭で、いま都で大人気の美男子の若手天才彫刻家ルイジに声を掛けられる。
  ルイジはもちろん、今回の聖母像のコンテストに招かれていたのだ。
  ルイジに比べてモデル描写の不足を痛感したディーノは、生まれて初めて町の売春宿の門をくぐる…
  そこで紹介された、結核の美少女ミーナはディーノが彫刻家であることを知って恐れおののく。
  彼女は、かってルイジのモデルを勤め、もてあそばれて捨てられた女の一人だった…



  その年の夏は大変に暑かった。私は新しく出たスピルバーグのテレ・フューチャーのヴィデオ・カセットを借りるため、あちこちのレンタル・ヴィデオ店を梯子したが、夏休み中ということもあって、どこもかしこも貸出中。とうとう気がついた時にはターミナルまで出てきてしまっていたが、なんとそこも十本全部が貸出中だった。
  いささか気落ちした私は、百貨店の催場…「世界大蚤の市」で時間を潰すことにした。ぐるっと見て帰る頃には一本ぐらい却されているかもしれない。

  その淳朴な、高さ二○センチ程の大理石の聖母像は、シンガポール製のラワンのテーブルの上に、中国製の硯と共に飾られていた。まるで円空仏のように、粗削りのなかにも人の心を捕らえて離さない優しさがある。
  値段は高かったけれど、どうしても欲しくなった。ヴィデオで先を越された焦慮なんかではなくて、優れた芸術に共通の黙し難い魅力を感じたからだ。
  早速カードで買い求め、空気の入ったビニールできっちりと包んで貰って、まっすぐに家に飛んで帰った。そして、手洗いも漱もそこそこに、包みを紐解いてみた。
「蚤の市」で売られていただけあって、家で眺める聖母像は、骨董品の山の中にあった時より幸せそうに見えた。
  さて、置場所を考え、あちこち動かしているうち、光の当り具合で像の台座の部分には切れ込みがあることが判った。そこで次の日曜日、友達の中でもフィギュアに詳しい男に来てもらって、台座が外せないものかいろいろやって貰った。
  世間話をしながら取り組むこと二時間。冷房が効き過ぎてるんじゃないか、とかなんとか言ってるうちにそれは外れた。
  聖母の中は細長いガランドウで、何枚もの極薄い羊皮紙に細かい字がびっしりと書かれた物が出てきた。地図だったら宝島だが、どうもそうじゃない。幸い英語だったので、ヴィデオ・ソフトは無し、外は暑しということで徒然なるままに訳してみた。
  なお、私の高校時代の英語の成績といったら惨憺たるもので、誤訳悪訳は御容赦頂きたい。


  これは一九四五年の夏からその年のクリスマスにかけて、イタリア南部の小さな町で起ったことである……

  蒼穹の空の下、小高い丘の上に、砲撃の跡や銃痕も痛々しい教会がそびえたっていた。
  今にも崩れ落ちそうなその建物に、数人の石工や職人、それに大勢の村人が出入りして人海戦術で瓦礫を片付け、石甃を敷き直し、煉瓦を積み直している。
  教会の内陣では、年配の鬚の親方と、一七歳の少年ディーノが、壊れた大理石の框の浮彫を刻み直していた。
  ディーノは生まれつき両眼が見えなかった。しかし幼いころから犬や猫や、ひよこやアヒルをしきりに触りたがって、家族を困らせた。
  一通り触り終えると、土や粘土のかたまりで塑像を造った。それらは実際可愛く出来ていて、人間より早く亡くなる小さな友達たちの永遠の思い出となった。
  ある時、黒シャツ隊の大きな軍用犬に手を出してひどく噛まれたこともあったが、ディーノは泣かなかった。ちょうど盲学校で、晩年眼が不自由になってからは彫刻家に転向し、素晴らしい作品を造り続けた偉大な画家、エドガー・ドガの話を聞いたばかりだったからだ。
  時はまさにダダや立体主義など、抽象芸術の台頭期。なんとなくただ丸いだけのものや、尖ったものがもてはやされ始めた頃だった。
  そこで、彼の両親は何とか塑像科のある美術学校へ進ませてやろうと爪に火を灯すようにして金を貯めてやっていた。しかし、この度の大空襲でその夢は両親と四人いた兄妹ともども灰燼に帰した。彼は一文無しの上、天涯孤独の身になってしまった。
  そこで彼は新たに石工としての才能を開花させることになる。なるほど、細かい精密な細工は無理だったけれども、器用に鑿を操って、親方の指示通りに花綵模様などを彫って見せた。さらには仕事も速かった。
  親方は汗びっしょりになって鑿を振るっているディーノを見て、安心したように溜息をついた。
「ディーノ、わしは疲れたよ。少し休んでくる」
  ディーノは見えない眼を親方に向け、ニッコリと微笑む。他でもない、この親方のお陰で今日の彼があるのだ。
  両親を失い、焼跡で茫然としていた彼に、親方は大理石の破片を与えて、供養するような何かを彫ってみてはどうか、と勧めたのだ。
  ディーノは初めて触る鑿で無骨な聖母像を刻んだ。時々鑿が滑って、手からどくどくと血が吹き出したが、彼は少しも構わず黙々と石を刻み続けた。まるで哀しみを振り払おうとしているかのように。彼にとって物理的な痛さなど問題ではない。…ボクサーが痛さに執着しないように……  それはむしろ、道具が操れることの喜びに掻き消されていった。
  やがて、怪我に巻かれた包帯が外れる頃に聖母像は完成した。
  焼け跡に置かれた、いくら洗っても血痕の落ちない夕映色の小さな像は、人々に祈りを思い出させ、哀れを誘った。同じように家と身内を失った人の中にはディーノの刻んだ像を見て、この素朴な聖母や基督と同じ物を欲しがる者も多かった。ディーノは快く注文に応じた。
  その数は日に日に増し、彼は悲しい目にあったのは自分だけでないことを深く悟った。「どうぞ親方、ごゆっくり。あとはぼく一人でも大丈夫です」
  親方が去ってしばらくの間に、ディーノは大急ぎで框を仕上げて、道具を入れるために沢山ポケットの付いた前掛けと腰道具を外すと、框をヒラリと跳び越え、大理石の聖母マリアをおまつりしてある台座に足をかけて飛び乗った。
  それはまだ受胎告知を受ける前の、若く清冽とした等身大の立像で、練絹の寛衣の襞越しに、ふくよかな胸や、柳のような腰を感じ取ることができた。
  ただ悲しいことに、静かな海を思い出させる襞の所どころが弾痕で欠け落ちていた。
  ディーノは、聖母の胸元の微妙な角度、腰回りの精妙な感じを、愛撫するように撫でさすり、確かめるように抱き締めた。
「これがそうか!  これがそうだったのか!」
  聖母に夢中になっていた彼は、親方が帰ってきたのに気が付かなかった。
「ディーノッ!」
  良くないことをしたのは分かっていたから弁解する気にもなれず、飛び降り、ひざまずいたまま恐縮している彼に、親方は昂然と言った。
「ディーノ、俺はただの石工で煉瓦職人だ。おまえが石工になりたいというなら考えてやらんでもないが、分不相応な望みには手を貸せん。これからは一人でやれ」
  ディーノの見えない両眼に涙が浮かぶ。まさかこんな風に言われるとは思いもよらなかったのだ。この親方も若い頃彫刻家を志して上京、夢破れて帰郷し、今は空しく石工をやっていることを彼は知らない……
「親方!」
「……いま、司教様からお話を伺ってきた。クリスマスまでに聖母様を造り直すのだそうだ。我と思う者は誰でも応募できる。何と言っても、民主主義とやらの世の中になったんだからな。ルネッサンスの頃のように、大勢の彫刻家、石工が腕を競うことになるだろう」
  親方はそう言うと、彼の手を握り締めた。
  ディーノが自分の手の中に握らされたものを確かめると、金貨が三枚……
「いままでよく文句も言わず働いてくれた。これは少ないかもしれないが、いい材料を買え。彫刻は石が大切だ」
  ディーノは嬉しさと寂しさ、期待と不安で親方に満足に礼を言うこともできず、ただしっかりと抱き締めあって別れた。

  二、三日後。
  ディーノは町外れにある、建築や彫刻の材料を売る石屋を訪れた。
  大小様々な名石が、広い中庭に所狭しと並べられていて、蕭索とした暮色が大理石を薔薇色に染めている。
  石屋の主がディーノに、等身大の立像を彫るのにちょうど手頃な石を次々に触らせている。
「……こちらは一○○○○。そちらは一五○○○」
  そんなことを言われてもディーノの方はさっぱりわからない。
「手触りは全く同じ様ですが……。色でもついているんですか?」
「ご明察。微妙に違うんでさ」
  デイーノはじっと考え込んだままだ。やはり儕輩と共に望蜀を懐に抱くことは叶わないことなのか。
  石屋はバツが悪くなった。
「向うにもっといろいろ…」
  その時、ディーノと同じように彫刻用の石を捜しにきていた、二四、五歳位の、両眼全体を大変大きい黒眼鏡で隠したハンサムな青年が声を掛けてきた。
「いい彫刻家は石など選ばない。選ぶとすればモデルだ。才能などを別にすればモデルが雅致を決する……」
「これはこれは、ルイジ様」
  嗤うが如き声にディーノは思わず振返った。『“ルイジ”?  …今をときめくフィレンツェのルイジ・ピアトーレ?』
「ディーノ君、と聞いた。きみも聖母を刻むのか?」
  当代屈指の若手彫刻家に声を掛けられて、ディーノは深々と礼をした。
「では、鎬を削り合うことになるわけだ」

  ディーノは誰が相手でも関係無かった。
  ただ無性に、誰よりも素晴らしい聖母を刻みたくてしょうがなかった。金の為でも、自分が刻んだ聖母をみんなに拝んで欲しいという名誉欲の為でもない。もっともっと何か言葉では言い表せない高邁なものの為に。
  そこからは斯道の大家も市井の石工もただ睥睨される存在にすぎない……
  それはさて置き、とりあえず、ルイジにはあって、自分には無い条件とは何だろう?
  ルイジには大勢の美しい婦人のモデルがいる。その気になれば、通りがかりの婦人を観察することも可能だ。…片や自分は、手で触れることのみによってしか物の形を確かめることができない……
  もっとも、都の噂によると、ルイジはモデルやパトロンを取替え、引換え、踏台にして今日の地位を築いたと言われている。
  また、彼のモデルになった婦人は運命のいたずらか何か判らないが、一○人が一○人とも一人残らず病気や事故、情痴沙汰や家運凋落などで不幸に陥っているともいう。
  その結果、「ルイジは悪魔だ。さもなくば悪魔と取引して才能と引換に、己と愛する者の魂を売り渡したのだ」と広言して憚らない者すら一人や二人ではないらしい。
  だがこんなものは単なる偶然か、ルイジの成功を妬む者の創作であろう。それが証拠にこれら誹謗のオン・パレードにも関わらず、ルイジのモデルを志願する女性は門前市を成し、後をたたない。中には「今の自分の美しさを永遠に記念できるなら、現世の未来などどうなっても構わない」と極言する女もいる。
  ディーノはまだ触れたことはないがルイジの彫刻にはそれだけ神韻縹渺とした處があると聞いた。
  恐るべき、底知れぬ実力……
  思うにルイジ自身の、己の芸術の貫徹の為にはそれ以外の事物や人間を全て一介の手段と見做す愼恚と、それと対を成し、不可解とも思えるほど大層気紛れに惻隠の情を表すことがあるという人となりにも、世間のとりとめのない揣摩憶測に輪をかける原因があるに違いない。

  商店の並んだ大通りには、若い女性達のはしゃぐ声が溢れている。
『あの娘の顔の輪郭はどのようなのだろうか?  胸は大きいのだろうか?  腰は細いのだろうか?  ああ、また可愛い声の娘とすれ違った。どんなドレスを着ているのか?』
  ふと我に帰ると、ディーノは町でただ一軒の売春宿の前に立っていた。
  でっぷりと太った年増の女主人が、彼に声をかけてきた。
「おやおやディーノ、ついに寄ってくれる気になったんだね。毎晩声をかけた甲斐があったよ。内陣の修理が無事に終わった精進落しかね?」
  ディーノは口ごもった。いままで何を言われても無視して通り過ぎるだけなのに、今宵は全身全霊を傾けて交渉しなければならない。「おかみさん、ぼく……  あまりお金を払えないんです」
「知ってるよ。聖母様にふさわしい立派な大理石を買わなきゃなんないんだろ?」
  返事があったので多少驚いた様子だった。「そうなんです。ですから……  お店で一番線香代の安い女の人を…」
  女主人は大いに戸惑った。
「“一番安い”というと……  …ミーナなら三○○  …いや二五○でいいよ。なにしろ労咳を病んでいるから」
「そのミーナとかいう子は、顔立ちとスタイルがいいですか?」
  女主人は『盲目でも顔や姿を気にするのか?』といささか奇異に感じた。
「身請けに一八○○○も出したのに、労咳持ちということが分かって、客もさっぱり。大損さ」
  ディーノは代金を金貨ではなく、紙幣で払って中に入った。
「その中庭を通って、つきあたりの離れだよ」
  ディーノは杖を軒先に立てかけ、離れのドアをノックした。
「どうぞ」
  中から懼れを帯びたか細い返事が返ってくる。
  ディーノは中に入った。部屋のあちこちの隙間から風が洩れるのが感じられる。
  藁敷きのベッドの上に、一五歳の可憐な美少女ミーナが座っていた。
  彼女は客の眼が不自由なのに気付いて、小さな息を呑んだ。
「触らせてくれ!」
  ディーノはそう言うと、両手で彼女の頬に触れた。なるほど、少し痩せて窶れている。
  小さくまとまった鼻、耳、唇。丁寧に梳られた豊かな翠の髪、懶い睚、長い睫毛、こめかみがかすかに顫えている。
  顔じゅうを這いまわった手が、小さな胸元に降りる……
「心配しなくていい。ぼくはこれでも彫刻家なんだ。触るだけで、それ以上は何もしないよ」
  “彫刻家”と聞いた途端にミーナの様相が一変した。小さく、鋭く、怪鴟のような叫び声をあげたかと思うと、ガックリと打ち拉がれて、啜り泣きはじめた。鳴咽を交えた歔欷はやがて激しい咳込みに変わった。
  一丁先まで響く、苦しい咳。
  女主人がたまりかねて、ノックと同時に入ってきた。
「どうかしたかい?」
「いやそれが…  ぼくが彫刻家だと言った途端に……」
「あらいけない!  大変なことを忘れてたわ。…ミーナは昔、彫刻家の男といろいろあったのよ」
  ディーノは驚愕した。
「ごめんなさい。すぐ他の子を……」
「いえ、いいんです!  お金も返していりません。そのかわりミーナを折檻しないでください!」
  女主人は肩をすくめ、ミーナの咳も鎮まった。

  その夜。
  町の中の貧乏長屋の一角にある家に帰ったディーノは、つい先ほどのミーナの身体つきを思い出しつつ、泥だらけになりながら粘土で聖母の塑像を造っていた。
  しかし、なかなかうまくできず、造っては壊し、造っては壊しを繰り返した。
『……たった一人のあの娘の不幸を見て見ないふりをして、どうしてみんなを感動させる作品を造れる?』
  加えて、ルイジがモデルの幸福を作品を燃焼させるエネルギーに換えているのなら、自分はたとえ拙くともモデルに幸福を呼ぶ祝福された作家でありたいという、ささやかな…いや、やや傲慢な野望もあった。
  そう思うと、彼は矢も盾もたまらなくなって、手も顔も洗わないまま、道具箱の底を手探って、親方から貰った金貨を取り出すと、それを握り締めて通りへ出た。

  ディーノは息を弾ませながら、再び先ほどの売春宿にやって来た。
もうすでに闇の帷が降りているらしく、アメリカ兵の武器のカチャカチャと鳴る音がそこらじゅうを徘徊している。
  女主人は通りに椅子を出して座り、長い煙管で煙草を吸っていた。
「おや、またあんたかい?」
「お願いです、おかみさん!  ぼくにミーナを身請けさせて下さい!」
  彼はそう言って親方から貰った金貨を差し出した。
「それは聖母様を刻む大理石を買う為の大事なお金じゃないか?」
「基督様もマグダラのマリアをお救いになられた」
「やれやれディーノ、いつ再臨なすった?」
  女主人の眼が急に狡そうに輝いた。
(どうせあの子はもう金にはならない。)
「ぜひ!」
「二○○○○だね。二○○○○出してくれりゃあ、あの子はあんたのものだ」
  ディーノは値切ることもできたのに、値切らなかった。別に基督を気取った訳ではなくて、ミーナにはそれだけの値打ちがあると思ったのだ。

  彼は三枚の金貨のうち二枚を支払って、ミーナを家に連れてきた。
  暖かいスープや冷たいサラダ、果物や栄養のあるものを買ってきて、焼き立てのパンとともに食卓に並べた。
  しかしミーナはずっと怯えたまま、食事に手を付けようとしなかった。
「どうした?  なぜ食べない?  彫刻家はみんな嫌いなのかい? 」
  ミーナはかすかに首を横に振る。
「行く先のあてがあるのなら、明日連れていってあげるよ。逃げたければ逃げてもいい。……でも、もうじきお医者様がくるはずだ」
  穏やかに話かけているうちに、ミーナはやがて莞爾とした笑みを浮かべた。彼女はスープを一口二口すすったかと思うと、食事を取り始めた。
  一刻ほどして、医者がやってきた。ミーナを診察した医者は、ディーノとともに外へ出た。
「どうでしょうか、先生?」
「第二期の結核じゃ。いままでは助からなかったが、アメリカ軍のペニシリンという薬が効くらしい」
「ぜひそれを手にいれて下さい!  これでは足りませんか?」
  彼はそう言って、金貨の最後の一枚を差し出した。
「…いや、足りるよ。偽物が出回っているらしいから、気をつけて本物を買ってこよう」
  医者は帰った。一つしかないベッドには、ミーナがすやすやと眠っている。
  ディーノは作業机の上の粘土のかたまりをじっと見つめた。
『ああ、とうとう一文無しになってしまった。大理石を買うことも、聖母様を刻むこともできなくなってしまったんだ……』
  しかしディーノは大いに満足だった。まともに渡りあったのでは到底勝目の無いルイジに勝ったような気さえした。大勢のモデルを踏台にしたと伝えられるルイジ。…対する自分の「五分の魂」のつもりだった。

  医者は約束通りペニシリンを調合してくれた。その薬とディーノの熱心な看病とで、ミーナの病は日一日と癒ていった…
  そんなある日、ミーナは改まった口調で尋ねた。
「ディーノ、あなたはなぜわたしにこんなに親切にして下さるの?  どんなに親切にして下さっても、貧乏で、おまけに盲目のあなたのところなんかに留まらないかもしれないのよ」
  ディーノはただ黙々と、粘土で聖母の塑像を造っていた。ミーナにはただ一度触れただけだが、聖母像には彼女をモデルとした面影がうかがえる。
  彼はいま、聖母の顔に手を入れていた。
  粘土を掬い、刳りしている姿は、序々にその全貌を現しつつある聖母の高風を秘めたその姿と相まって、空間に静謐を与えている。「ミーナ  …今度の戦争では、実に大勢の人が死んだ。ぼくは眼が不自由だったから、戦争に行かなくて済み、幸運にも命永らえているが、共に塑像作家を目指していた仲間の多くが戦場に散った。きみのことも、聖母のことも、彼等への供養のつもりだ。礼なんかいらないけれど、もし差し支えなければ、きみを落としめた彫刻家の名とその訳を教えてくれ!  …そいつはあの、いま都で評判のルイジか?」
「ルイジだったら、どうだと言うのですか?」
「ルイジだったら、ぼくは絶対に彼に負けたくない!  例え大理石を買う金が無くなっても負けたくないんだ!  いくら究極の美か、芸術か知らないが、それに係わる人間を不幸にするなんてそんな物は美とも芸術とも認め難い」
  ミーナは泣き崩れた。
「ルイジを敵に回してはいけません! …彼が、ルイジが、モデルの生命を吸い取るというのは本当です。それも決して非科学的な迷信などではなく、周囲の訳を分からなくさせて、破滅させる力がある、ということです。ちょうどあのヒトラーのように……」

  その夜、作業机に突き臥したディーノが、夢の中でルイジと覇を争っている最中に、ミーナの姿がフッツリと消えた。
 …夢の中で彼は闡明に眼が見えていた。彼はその見える眼で白い布を被ったルイジの造った聖母像を見上げていた。白い布が外される……
  台座の上には屍臘のようなミーナが立っていた。
「ミーナ!」
  ディーノが叫ぶと、ミーナは生気のない瞳を向け、まるで水の上を歩むように彼方へと消え去った。
「ミーナ!  待ってくれ!」
  ルイジは狼狽する彼を侮蔑とも嘲笑ともつかぬ表情を浮かべて見守っている。
「ミーナ!」
  もう一度叫んだ時、眼が醒めた。
  ディーノは家中手探りで捜したが、ミーナの姿はどこにも無かった。
  彼はもちろん、自分は見捨てられたのだ、とは思いたくなかった。ミーナは唯々諾々とした暮しがいやで飛び出したのだ、と信じたかった。それとも或は、彼女はもともと性悪な女だったのかも知れない。ルイジもそれを悟っていたから彼女には憐憫のかけらも抱かなかった。…いや、ルイジが付き合ってきた女達は皆、そうなのかも…
  どの道、見返りを期待していた訳ではないので、悲しくはなかったが、こんなことは二度とするまい、…いや、出来まいと心に決めた。

  翌日、フィレンツェで有名な若手彫刻家ルイジ・ピアトーレが、シシリアでの所用の帰り、汽車の時間の待ち合わせの間、二人の住んでいたこの小さな町に立ち寄った。
  彼は再建なった教会の内部で、トレード・マークの黒眼鏡をかけたまま聖母像と対する基督像のスケッチをしていた。
「ルイジ殿、主の御前ですぞ。その黒眼鏡を取っていただきたい!」
  司教の言葉にルイジは嗤った。
「この眼鏡はわたしにとって必要なもの。これがないと、この街中の女達を攫うことになりますぞ。さながらハーメルンの笛吹きのように。…しかし、どうしても取れとおっしゃるなら、取りましょう…」
「いや、それなら結構!」
  司教は慌てて言った。
「そんなことより司教、この基督像は痩せて窶れていて、いかにもみすぼらしい。聖母像を彫るついでに、新しい物にしては如何?」「と、とんでもない!  我が主は十字軍の頃より度重なる戦災、祝融にも滅せず、火難、剣難除けに御利益を求めてはるばる北部からも信者が……」
「わたしの考えでは」ルイジは言った。「基督とは万人を救う者。それにはもっと若く、もっと逞しく、もっと力強くなければならない!  …もっとも大体、自分一人すら救えなかった男が、世界を救うとは信じ難い話だが」
「やれやれ」  司教は溜息をついた。「ディーノさえ堕落しなければなぁ……」
「“ディーノ”?  司教、そう言えばあの盲目の彫刻家はどうしているんですか? 」 
「彼はダメですマエストロ。聖母の製作費用を全て女の落籍に使ってしまいまして……」「何だって!」
「要するに、ただの罰当りだっただけです」

  ルイジは汽車の時間がきてもフィレンツェには帰らなかった。彼は噂を確かめる為に、ディーノの家を訪れた。
  仕事場の大きな窓が開け放たれてあって、その下には大きな野良犬が寝そべっており、床の上に背中を向けた粘土の聖母の塑像が立っている。
  ルイジは犬を跨ぐように眺めた。犬が唸った。しかし、彼がキッと睨んだだけで、犬は尻尾を巻いて逃げた。
『なるほど、金を使い込んでしまっても、聖母の製作には未練がある訳か……』
  ミーナに去られたディーノは昼餉にでも行っているらしく、表の戸も開けっ放しだった。  ルイジはディーノの聖母の意匠を盗むつもりなどさらさらなかったが、つい誘惑に負けて中に入り、聖母像の表に回って、その顔を見た。
  そこにはかつて自分が瞞し、踏台にし、使い捨てた少女の顔があった。
『ミーナ!  …何ということだ!  ディーノが救った女というのはミーナだったなんて!』
  奇妙ともいえる慙愧の念が澎湃と沸き上がってくる。
  やがて、表の通りから摺足の足音が近づいてきた。
「ミーナ、ミーナかい?」
  ディーノの声がした。
  彼女がすでにディーノの許を去ったことを知らないルイジはミーナとの邂逅をひどく懼れた。
  ルイジは常に、自分が勝利であり、無敵であるという伝説の中に生きていたかった。捨てた女の讒訴といった世迷言は彼の人生には存在しないものである。
  だから後悔とは言っても、それはあくまで単に都合が悪いという自己中心的なものでだった。
  急いで逃げ出そうとすると、ディーノの手になるミーナの聖母がじっと見つめているのに気が付いた。
  自分の彫刻には有り得ぬ、他流と言うには余りにも劇的な視線が、惇徳の二文字を、そういう物の存在を認めぬルイジの瞳に、まるで光を放つ銃のように焼きつける……
  しかしもちろん、懺悔の時間は無い。いや、懺悔といった言葉自体彼の辞書には無い……
  彼は慌てて財布を取り出すと、金貨を三枚聖母の掌に置いた。
『初めて観るディーノの彫刻は、充分俺を戦慄させた』ルイジは認めた。『それほどの奴が、金という陳腐な理由で排斥されていいはずがない!』
  それ迄の妬忌に代わって、例の、自分でも不可思議な矜恤と、傲岸な矜恃が首を擡げてきた。
「誰かそこにいるんですか?」
  仕事場に入ったディーノが何気なく聖母の掌に手をやると、金貨が置いてある。
「貴方は誰ですか?  何故ぼくにお金をくれるんですか?」
  ルイジは答えない。
「……大理石の石粉と、上等の男物の香水の匂いがする。貴方はルイジですね!」
  ルイジはかすかに頷く。
「ミーナは、ミーナを御存じありませんか?…いえ、幸せに暮らしていたらそれでいいんです」
  しかし遂に、答は一つとして返らなかった。

  ディーノはともかく、早速大理石を買ってきて刻み始めた。ミーナについても、聖母についてはもはや絶望していた。盲目の、しかも彫刻に転向して日の浅い自分が、どんなに趣向を凝らしてもルイジに太刀打ちなど出来る筈がない。まあしかし、例え絶望していても、絶望の内に働き続けよ、だ。
  鑿が戛然たる韻を響かせて、大理石を人の形に変えてゆくに従い、『ミーナは必ず帰って来てくれるに違いない』という気持に捕らわれた。『家の閾口に立っていた男、あれは確かにルイジだった。彼はなぜミーナの像の掌の上に大金を置いていったりしたのか?
  ミーナは何故、あれ程迄にルイジを懼れるのか?』
  そう自問してみると、ディーノは聖母の顔を、ミーナのとは違うものにしたくなった。
  しかしミーナの帰還を日に日に確信したくなるにつけ、虚在の輪郭では決して満足できないといった天啓を感じた。だから大理石の聖母にも惜愛彷彿と甦るミーナの顔を与えた。
  自分の知るただ一つの愛しい顔……

  やがてその年の秋も深まり、南部にしては珍しい雪が広漠の大地や、教会の尖塔や、家々の屋根や風見鶏を薄化粧させた朝、ディーノに小さな小包が届けられた。
「ほらディーノ、ひと足早いクリスマス・プレゼントだ」
  もうすっかり耄碌している街で唯一人の郵便配達夫が、窓ガラスに写った決して落ちることのない鬢の雪を弾く。
「差出人は誰ですか?」
「…おや、おかしいなあ。書いていない…でも女の文字のようだなあ。消印はチュニスだ。開けようか?」
「ええ、お願いします」
  ディーノは胸騒ぎを感じて、鑿を道具箱にしまって言った。
「…おやあ、彫刻だ。…聖母様だ!  きっと友達からだよ。……手紙やカードは無いみたいだ。底に一九四三と年号があって、ルイジという署名がある……」
  聖母像を受取り、調べたディーノは愕然とした。ミーナの像だ。それも自分が知っているミーナよりも数段若くて、溌溂としたミーナの、だ。
  彼はルイジの作品を実際に触れるのはこれが初めてだった。ルイジの彫刻は金持に引っ張りだこで、展覧会など開かれない。
…盲学校の美術室にあったレオナルドやミケランジェロの複製とは違う。ミラノの彫刻公園のロダンやマイヨールとも違う。繊細かつ玲瓏としている。
  だが、だが何かがおかしかった。ディーノはレオナルドもミケランジェロも大変好きだった。ロダンやマイヨールにも人を愛する暖かさがある。ルイジのミーナ像にも一見暖かさが施されているように感じるが、それは「こうすれば感動するだろう」という華美な技巧…それも類稀な…の結果ようだ。
  この像を見たミーナはどう思っただろう?
  おそらくナルシスのように「わたしは美しい。だからもっと美しくあらねばならない」と考えただろう。…燦然とした装飾品を飾るべきだ。オートクチュールのドレスを着なければならない。貴族の舞踏会には是非参加しなければ……
「湯水の如く金を使え。若さを謳歌しろ! 他人など見捨てろ!」そう希求するかのように瞶くす怜悧な自分自身の瞳。それから眼を逸らすというには、聖人ですらあらがい難い魔風が、片手に余る石の固まりから発せられている……
「なあ、ディーノ。孫が拳ほどの海泡石を拾ったんだが、パイプを造れるかね?」
  ディーノは魂ここに無しといった様子で、二度三度頷いた。

  クリスマスがやって来た。
  雪は相変わらず薄く積もったままで、街を走る街道はブリューゲルの油絵のように沢山の人や馬車で賑った。
  とうとう、聖母像の審査会の日がやってきたのだ!
  ディーノは小さな海泡石のパイプをくわえた老郵便配達や、近所の人に手伝ってもらって、自作の聖母像を荷馬車に積込み、教会へと向った。
『もしかしたらミーナに再会できるかもしれない……』
  彼はそう信じていた。このコンテストは、彼女もとても楽しみにしていたじゃないか。
  教会の中には、すでに七、八体の聖母像が並べられて、司教や町の有力者たちの投票を今や遅しと待っていた。
  しかし、素朴で真率なディーノの聖母像はそれらのどれよりも、明らかに優れていた。
  人々の誉める言葉を失った溜息に、ディーノは得意満面だった。
「ルイジの、ルイジの作品はどこですか?」
  彼は勢い込んで尋ねた。
「彼のは招聘作品だから、別室に幕をかけたまま置いてある。ディーノ、予想通りきみのと一騎打ちだ」
  司教は何故か、ホッと安心した様子で答えた。
  奥の部屋に、ディーノ、町長と助役、その他町の名士らが集まった。
  幕をかけたルイジの聖母が辺りを睥睨している。
  ディーノの聖母にも改めて幕がかけられている。
  と、突然、窓の外に暗雲が湧き起こったかと思うと、季節外れの大きな雷が教会の風見鶏の上に落ちた。
  ふと気が付くと、ルイジがドアの近くに立っていた。
「皆さん、お待たせした。」
  相変わらず不気味な黒眼鏡をかけているルイジを見て、思わず小さな悲鳴をあげる名士婦人もいる。
「では、早速……」
  司教はディーノの聖母像の除幕をした。
  何度見ても、高潔で生きる喜びに溢れている。
「…続いてルイジのを」
  一同注目の内にルイジの像が除幕された。
  その等身大よりもやや大振りな聖母像は、年老い、失われた余りに多くの愛するものの膏血に打ち拉がれていた。高雅な格調、練絹のような鑿跡、嫋々たる余韻は満場を唸らせ咽び泣かせた。
  雌雄は誰の目にも瞭かだった。
「どうだね、ディーノ。ルイジ君に頼んで、触れさせて貰っては?」
  司教の慂めにディーノは黙って頷いた。
「ルイジ君、構わんね?」
「勿論。勿論ですとも、司教」
  ルイジは早くも大勢の、田舎の俄崇拝者たちに囲まれて奢り亢っていた。
  ディーノは別に落胆しなかった。ルイジは斯界の権威だ。これは当然の結果だ……
  彼はルイジの哀しみの聖母像に触らせてもらった。素人目には分からないが、真ん中で二個の石を継ぎ合わせてある……
  その繋ぎ目から人の鼓動のような音が聞こえる。
『鼓動?』
  ルイジはそれほど迄に名人なのか?  大理石の像に心臓を与えられる程の…
  そして気が付いた。
  心の眼で、誰の目にも見えないものを看、耳の奥深くで誰にも聞こえない韻を聴き、誰もが介意しないことに魔王が入場する警蹕の響きを感じた。
「助けて!」
  像ははっきりそう叫んでいる。
  痩せて窶れたものなど、とことん妬忌してきたルイジが、今回に限って「歎きの聖母」を刻んだのは何故だ?
  チュニスから像を送ってくれたのはミーナだったのだろうか?  送る為に安くない代償を払ったのではないか?  彼女は本当にどこかで、静かに幸せに暮らしているのだろうか……
「…ではやはり、満場一致でルイジ君の聖母を……」
  壇の上の町長が言った。
「待って下さい!」  ディーノは叫んだ。
「…まだ来ていない人がいる!」
  ルイジは恐ろしげにディーノを睨んで、自分の刻んだ聖母像に倚り添った。
「ディーノ、まだ来ていない人、とは誰かね?」
「ミーナです!  ルイジとぼくの聖母の共通のモデルであるミーナです!」
「モデルが来ることが大切なことなのかね?」
「ぼくは、彫刻家は心身共に清廉潔白な人間でなければならないなんて、言い出すつもりは毛頭ないです!  しかし…」
  彼はそう言うなり、手にした樫の白杖で、ルイジの聖母像を一撃した。
「何をする!」
  一同はてっきり、ディーノが失意の余りに乱心したのだと思った。
  大理石の一部が脆くも欠けて、継目が顕わになった。
  ディーノはその継目に両手を捩込んで引剥がした。
  中からぐったりとしたミーナが現れた。
「はははは…」
  ルイジは悪魔のように哄笑しつつ、黒眼鏡を外した。白皙の中にも炯々とした狂気の光を抱いた眼が、あたりを席巻した。
  高価な玩具を次から次へとねだる癖に、すぐ厭きて捨てる子供…  しかし他人がそれを拾うことを許さぬ暴君…
「どうだ、暫くは小用も垂れ流す奇跡の聖母…  俺の最高傑作だ!」
「ミーナッ!」
  ディーノが激しく揺り起こすと、やがてミーナはうっすらと瞳を開いた。
「ディーノ…」
「よかった、本当に…」
  二人はしっかりと抱き合った。

  教会の聖母像にはディーノのものが採用された。
  ルイジは後見人の嘆願と助力で収監を免れ、広大な屋敷の一室で製作を続けた。積年の栄光は流星のように去り、もはや購求に訪れる金持は一人も無く、零落の後は、カソリックのアメリカ兵たちが欲しがる民芸品の小さな大理石の聖母像をダース単位で彫り続けたが、不思議にもそれらの意匠は皆ディーノの模倣だったという。
  ミーナは自分がモデルとなった聖母像の下で愛する人と結婚式を挙げ、二人してチュニジアへと旅立って行った。
 …だから、ディーノの作品を一度に数多く見たければ、チュニスの町はずれにある名も無い回教寺院の、蔦に被われた壁の装飾を捜せばいい…



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