還らざる王 2002/01/13 プロローグ およそ帝国を支配した多くの皇帝たちの共通した興味と言えば、やはり「自分の帝国の外−−すなわち、外国はどのようになっているか?」ということだろう。 明日にでも侵略・進撃を考えているすぐ近くの外国はともかく、その遥か先、地の果て海の彼方についての憧憬には、登り詰めた者ならではの行動が付随したと思われる。 遠くエジプトのラムセス(2世)は、ナイルの源をはじめ、アフリカ各地に探検隊を派遣したし、ガーナや象牙海岸、マダガスカル島にはフェニキアの商船が残したと思われる碑文が残されている。 ローマ帝国の初代皇帝、アウグストゥス(「尊厳者」の意)ことオクタビアヌスもまた、各地に大々的な見聞使節を送ったことで有名である。 そのうち、紀元前二五年にアラビアに出発した隊は、一般には当時「幸福なアラビア」と呼ばれた香料貿易で栄えた砂漠の諸都市の偵察が主な目的だったと伝えられているが、実際には隠された秘密の任務があった。 それは、アウグストゥスより遡ることおよそ五○○年、新バビロニア最後の王ナボニドスと大いに関係がある。 ニネヴェを陥落させ、最後のアッシリア王シンシャルイシュクンを自決させたナボポラッサルとその子ネブカドネザル(2世)の末裔であるナボニドス王は、その治世の晩年、執政を息子のベルシャザルに任せて突如として失踪、さながらアラビアの深い砂漠に飲み込まれたかの如く消えた、と伝えられている。 ペルシア王キュロス(2世)の脅威にさらされていたベルシャザルは、一方では国民には王の行方不明を伏せたまま、もう一方では信頼できる部下を選んでその行方を捜させた。 以下は各地に飛んだ密偵のうち、王らしき姿および噂を尋ね当てた者の話である… 「その王らしき人はアラビアの小さな街、ティマにおられた、ということです。豊かでもない、貧しくもない、ごく普通のアラビア人の格好をされていて、供連れはなく、街の古老たちの間を『月の神殿はどこか? 月の神殿を知らぬか?』としきりに尋ね歩かれていたご様子にございます」 この情報はかなり確度のあるものだった。 ナボニドス王は国を捨てる前、在位中は、バビロン各地に古くから点在している月の神シンの神殿を修復したことで知られている。 王の政敵の間では「諸般の政治が行き詰まったから逃亡したのだ」とか、「何とかしてアラビアの香料の権益を入手するため、自ら交易に赴いたのだ」といった悪口が囁かれていたが、これでそれらの説は消し飛ばすことができた。 明らかに王は、月の神シンに関係のあることを調べていたのだ。それも余人には一切任せず、自分一人で。 「それでは何のために?」ということになるが、これに答えられる者はたとえ大神官、魔導士のうちにもしかと説明できる者はいなかった… そうこうしている間に新バビロニアは王不在のまま、ペルシアに滅ぼされてしまった。 話を戻してアウグストゥスは、このナボニドスに大いに興味を持って自ら調べるうちに(皇帝自身、ローマ帝国屈指の碩学だった)あることを突き止めて、一見経済使節団に見える腹心たちをティマに派遣し、真偽を確かめさせたらしい。 報告から分析され、導き出された結果は、実に驚くべきものだった、と言う。その日からアウグストゥス皇帝が用いていた睡眠薬と精神を安定させるための香は量が倍に、あるいはより強いものに変わった。 皇帝は自分しか知らないナボニドス王に関する真実及び秘密を堅く封印し、全幅の信頼を置く側近たちにも決して打ち明けることはなかった… 1 失踪直前のナボニドス王の様子と言えば、しつこい不眠症と、仮にうとうととできてもすぐに恐ろしい夢にうなされて、安らかに眠る夜はなかった。夢の内容が分かれば、占い師に判断させることもできるのだが、あいにく、余りの苦悶の様子に、医師や側用人に揺り起こされた王は、目覚めた途端に、自分をそれほどまでに苦しめるものの正体をきれいさっぱりと忘れていた。 王は次第に麻薬に溺れるようになり、その麻薬がまた、眠っている際の王の夢を、より現実のものとした。 思い余った王は、ついに、「夜な夜な朕を苦しめているものを明らかにしたる者には、望み通りの褒美を取らせる」との勅を発した。 国じゅうの我こそはと思う、腕に覚えの魔導士が馳せ参じ、王の夢の中に入り込もうとしたり、夢を影として白壁に投影しようと試みた。だが、普段はうまく行くはずの術がことごとく裏目に出た。 王の思念と同調しようとした魔導士は、生きながらにして、姿なき何ものかに八つ裂きにされ、無理にそれを見ようとした者は眼球が破裂し、続いて頭全体が同じように膨張して爆発した。 だから、目覚めた王が大言壮語した彼らの失敗を責めることはできなかった… 無論、ナボニドス王自身も、自らをかほどまでに責めさいなむものを突き止めるべく懸命だった。 中で一つ、「新バビロニア王国は、遠からず滅びる」という意識だけが、心配そうに覗き込む大臣たちやかつての寵姫たちの顔以上にハッキリと明確に悟っていた。 新バビロニアは滅びる−−かつて暴君アッシュールバニパル王が君臨したアッシリアがわが祖先ナボポラッサルやネブカドネザルによって滅ぼされたように、テュロスが灰燼に帰したように、ユダヤ人たちが国を失ったように… 陽が昇り沈むように、その上で四頭立ての重戦車がすれ違うことができる壮麗な城壁に囲まれ、宝石をちりばめたいくつもの門を持ち、天を衝く塔を誇った帝国もまた、落日を迎える… ペルシアやギリシアといった新興勢力が、次第に力を貯えつつあるというのに、貴族たちの多くは己の蓄財にしか余念がないし、民衆に至っては余りに過酷な重税と軍役、夫役に「どこかおおような外国が占領してくれまいか」と密かに願っているふしすらあった。 それらはやがてナボニドス王への呪いに変わり、王をさらに追い詰めた。 新バビロニアにはハムラビ大王以来、マルドゥクを始めとする多くの神神が祀られていたが、どうやら神神も、国や王族や貴族や人民に愛想をつかせて、天や海や森や砂漠や地中に帰ってしまったようだった。 (朕は王ではいたくはない。どこの国であれ王であれば、その国が外国に責め滅ぼされた際には、ただでは済まぬであろう。 朕は王であるよりも、千年の時空を越えて生きる魔導士になりたい。さすればいかなる強国の軍隊にも打ち破れぬ、幻の結界に守られ、或は有翼獅子や龍たちに守られた理想境の主となって、何不安不自由なく、永遠に暮らすことができるであろう) ナポニドスは思ったものの、どの腹心にも打ち明けることはできなかった。 こんなことを話せば、即乱心と受け取られ、バビロンの城の地下の水牢に放り込まれてしまうであろう。いかなる大貴族や大神官と言えども、癲狂の王と心中する気持はさらさらなかったからだ。 市民、貴族、戦士、神官を問わず密かに魔導士になりたいと思う者は少なくはなかったが、どうすればなれるのか、という段になると、誰もよく分からなかった。 いま上げた職業の中では神官が一番近いようにも思われるものの、神官というのは、神神に祈り、作物や漁業、戦や個人についての占いを立て、古より伝承されてきたものを守り、遺跡や発掘品を調査研究するのが仕事だった。何かの弾みで魔物を召喚し、幻影の都市を造り、そこに君臨する術を手に入れないとは限らないものの、いくら優れた医者でも不老不死の方法までは知り得ないのと同様に、子供の寝物語、御伽話の世界だった。 (それでもとにかく、いままで歴代の国王が貯えた未解読を含む石板粘土板類を見たい) と王は渇望した。 試しに神官長や学者長に「どれぐらいの量があるのか」と下問してみると、 「マルドゥクやイシュタールなど各神殿の地下三層なる書庫に、びっしりと隙間なく保管されておりますものの、その量は日に日に増えて、いまでは廊下すら整理係の痩せこけた神官一人がやっと通れるほどの余地しかなくなっています」 という返事が返ってきた。 「どれもこれも、外国人を含む優秀この上ない学者たちが日夜不眠不休で解析に当っておりますが、残念ながらナボポラッサル、ネブカドネザル両陛下以来、解読に成功したものはごく僅かで、それもだいたいが古代のつまらぬ公文書にございます」 自ら余り勉学ができるほうではなかったナポニドスは、失意落胆、書物を漁渉することは諦めた。 では、「我こそは魔導士である」と名乗っている者がその辺にいるか、と言うと、いることにはいた。 もっとも彼らとて、全ての権力を握り、不老不死のまま世界の終末まで面白おかしく暮らす方法など知る由もない。もしそんな術を知っているのなら、宮仕えなどする必要も、他人の顔色を伺って暮らす必要などさらさら必要ないではないか? 「現在となっては、習得すべき術の多くは失われ、伝え得る術者の殆どは物言わぬ屍となっておりますれば、叶わぬ望みと申せましょうが、世界各地に点在する太古の遺跡のいくつかには、その残滓たる碑文や石板が風雨に晒されるがままになっておると聞きます。 中でも、アラビア半島のつけねから少し南東に行ったばかりのところにあるティマという街の月神シンの神殿の跡は、我等がマルドゥク神をはじめとする神神が天より降臨し賜われる以前に宇宙を席巻した古の支配者の名も無き都市の跡だと伝えられております」 その話を聞いてナポニドスの心は踊った。(ティマに行けば、道は開けるやも知れぬ) その夜のうちに、いくつもある王室の宝物庫から、なるべく小さく軽い、かつ値の張る宝珠を選び出し、支那の交易品である金糸銀糸で龍が刺繍された錦の袋に入れると、後は何一つ持たずに、隠し通路からバビロンの街を縦横に走る水路へと出た。 「自分は王に睨まれた一貴族である。ティマまで落ち延びることができれば有り難いのだが」 隊商宿でそう声を潜めて話し、持ち出した宝石を二つ三つ見せると、話はすぐにまとまった。 持ち出した宝石は、たった一つを得るのに命掛けのキャラバンを十度以上はやらなければならないくらいの価値があったのと、王の評判が本国はもとより異国の商人たちのあいだでもはなはだ芳しくなかったからである。 そんな訳で、王はさしたる苦労もなくティマに向かうことができた。 もちろん、宮殿にいる時のように水を飲んだり好物の獅子の肉を食することはできなかったが、念願の魔導士になれるやも知れぬという期待から比べれば、容易に辛抱することができた。 都の宮殿にいた時は毎日の日課であった水浴も、美姫たちとの交歓も、生まれて初めて感じる胸の高鳴りに比べればごくごくつまらぬ日課であった。 日中の天を焼き尽くす如き暑さも、隊商全体を埋めてしまうかのような激しい砂嵐も、夜の氷り付かんばかりの寒さも何とか耐え忍ぶことができた。 かつては浅い眠りの中でうなされていた悪夢の数々はすっかり消え去った訳ではなかったが、疲れのほうが勝るのか、はっきり「夢」と認めるぐらいに熟睡することもできた。 およそ行程の半分にさしかかったところで、王の心は (ティマに行けば、全ての望みが叶えられるのだ) というはやる気持が支配していた。 バビロンを出て一カ月あまり、荒漠たる砂漠の中に、新たに白い石造りの街が陽炎のように揺らめいて見えた時、王は思わず膝まずき傍沱の涙を流した。 砂の山に埋もれてはいるものの、創世の頃に世界を支配した幻の種族が築いた都市の上に立っているのかと思うと、感激もひとしおだった。 街自体はこれまで通過してきた小さなオアシスと何ら変わるところはなかった。 バビロニア人は少なく、代わりにアンモン人(アラビア人)やペルシア人、対岸の大陸からやってきた肌の黒い商人の姿もちらほらと見られた。 ナポニドスは早速、青空市場にたむろして羊や牛や駱駝の取引をしていた博労たちに 向かって「月の神シン」の神殿のことを尋ねた。 不思議なことに、尋ねられた男たちは皆一様にあまりいい顔をしなかった。中にはあからさまに嫌な顔をする物さえいた。 「それなら街はずれの砂丘に埋まっているよ。蠍と毒蛇しかいないところだぜ」 その日は旅篭に泊まったナポニドスは再び不安にとらわれた。 (「埋まっている」だと? どうすればよいのだ? 宝石を売った金で人足を雇って掘り出させるのは不可能ではないだろうが、そんなことをすればせっかく秘密の計画が世間に露見してしまう…) 翌朝、夜が明ける前に王は実際にその場所へと赴いてみた。はやる心に足が付いて行かず、砂丘を何度も転げ落ちては砂まみれになった。 博労たちの言っていたことは正しかった。月の神シンの神殿のあるべき場所は、他とまるで一緒で、建物はおろか朽ちた柱の影一つさえないポカリポカリと丸い風紋が延々と刻まれた一面赤褐色の砂漠だった。 ナポニドス王は心の底から失望落胆した。 王としての身分を明かし、大々的に発掘作業を開始すれば、何かが出てくるかも知れないが、それは決して王一人のものになるものではなかった。下手をすると奪い合いになりそのことがもとで屋台骨の揺らいでいる新バビロニアを滅亡させる引き金になるものかも知れなかったし、またそういったぐらいの物凄いものが出てこなければ−−建物の残骸や土器の破片ぐらいでは−−わざわざ掘り起こす価値はないと思った。 こらえ切れなくなった王は、砂丘にひれ伏し、誰もいないことを幸いに号泣した。これほど泣いたことは子供の時以来だった。だがそれも、自分が泣き出す原因を作った乳母や子守たちが処刑されるのを知ってからは、ただただ我慢してきたことだった。 巷では「王の涙は真珠となる」と言われてきたが、ナポニドスはただのはったりであることが分かっていた。 王の涙も、空腹の余り声すら出なくなり死が目前に迫った病深き物乞いの涙と変わることなく、砂漠の大地のほんの一寸を湿らせたかと思うとたちまちのうちに蒸発した。 (余はどうしても人知れず、不老不死で、居ながらにして世界の動きを見ることのできる魔導士になることはできぬのか…) 涙が枯れ果て、陽が西に傾きはじめた頃、王は喉の渇きと空腹を覚え、砂丘の小さな丘にもたれて、持参していた水筒から水を飲みビスケットと羊の干し肉を食べた。 駱駝の膀腔製の水筒の中の水は、長い間炎天にさらされていたのにも関わらずいましがたオアシスの泉から汲んできたかのように冷たく、王はほんの少し気を取り直した。 (広い世界でここだけが魔導士になれる方法を伝える遺跡ではあるまい。出直し他を当るもよし、ティマに戻れば、ここ月神シンの神殿の伝説なりとも聞けるやも知れぬ) 立ち上がろうとしたちょうどその時、砂が小さな滝のように上から下へ激しくザーッと流れ、足を取られた王はそのまま砂丘の底のほうに滑り落ちた。 気が付くと足が腰のあたりまで砂の中に没している。 (これが話に聞く蟻地獄か…) ナポニドスは教えられていた通りゆっくりと慎重に這い出そうとしたが、かえって胸のあたりまで埋まってしまった。 やがて、すぐ目の前の砂が盛り上がって、巨大な角と挟みを備えた手のある黒い不気味な甲虫の頭が姿を現した。 驚き、思わずほんの少し動いた拍子に、今度は首の付け根まで砂の中に没してしまった。(ああ、余もいよいよこれで終わりなのだ。 これまで数多くの人々の首をはねた余も、彼らと同じ暗黒の冥界に行かねばならぬのだ) 全てを諦め、目を閉じた瞬間、ヒュンヒュンと弓矢の鳴る音がした。 王が再び目を開くと、蟻地獄はアンモン人たちが使う鷹の羽根を矢羽根にした大振りの矢によって針鼠にされ、早々に擦り鉢の底に退散して行くところだった。 目の前の矢には蔓草を編んだロープがしっかりとくくりつけられている。 地中に隠れた蟻地獄がひっぱるよりも先にナポニドスは両手でその矢をしっかりと握った。 「大丈夫かね?」 遥か上のほうで隊商たちの声がした。 (余にはやはり神々の加護があるのだ) 気を良くした王は、自分たちを救ってくれたアンモン人の商人たちに何がしかの礼をしようと、例の金糸銀糸で龍の縫い取られた宝珠入りの袋に手を伸ばそうとして愕然とした。 錦の袋は紐が引きちぎられて、きれいさっぱり無くなっていた。 (あいつだ。あの蟻地獄だ) ナポニドスは化け物のような虫が消え去った擦り鉢の底を覗いて見たが、底に向かって流れ続ける砂の中、キラリと光るものは全く見えなかった。 「すまぬ。礼をしようと思ったが、財布も宝石も、先ほどのあやつに奪われたらしい」 王は正直に言った。 「わしらは礼をしてもらうのが目的で貴方を助けたのではないよ」 アンモン人の商人たちは砂漠の熱風に白い長衣(ガラビーヤ)を翻らせながら言った。「−−困った時はお互い様。今度会う時は貴殿が上、我等が下になっておるやも知れぬ」「かたじけない。御恩は決して忘れませぬ」 王は生まれて初めて、赤の他人に心よりの礼を述べた。 「財産も、財布も無くされたのなら、ティマに戻られても当座のお足が必要でしょう。もしよければ、我等の常宿にお泊まり下され」 何から何まで親切な申し出に、王はいままで他人に抱いていた懐疑と不信をやや改めるに至った。 (思うに王というものは人から妬まれる割にはよい目は少ない立場だ。自分はこうしたいと思っても大臣たちは「御威光にかかわります」などと言って反対し、神官たちは「慣例と異なることになります」と述べて諌めにかかる。そのくせ、暗殺者に謀反人に狙われるのは、まず真っ先に王ときている。 いくら影武者や替え玉を雇っても、いかなる手練か、刺客はちゃんと間違わずに本物 −−つまり余を狙うのだ。 それなのにこの通りすがりの商人たちは、余を王とは知らず、何の褒美も目当てにせずに助け上げてくれた。−−いや、ひょっとして余をバビロンの王と知っておれば、かねてよりの侵略の恨みや面倒事を恐れて助けてはくれなかったやも知れぬ。 不老不死の魔導士になりたいのなら、ひっそりとなるか、もしくはそれとともに絶対的な力を得なければ、王であった頃に他の王たちとの間に起こしていた確執以上のやっかいを背負い込むに違いない。 アンモン人の商人たちとともに隊商宿に着いたナポニドスは、両手の全ての指に嵌めた金剛石の指輪のうちの一つを外し、宿の主に金貨に替えてもらうように頼んだ。 この指輪はたった一つでも小さな村全体が百年間の間安楽に暮らせるぐらいの値打があったから、主は目を白黒させた。 夕方にはティマの街じゅうはおろか、砂漠を越えたいくつかの隣街からありったけの金貨と銀貨が集められて、宿の帳場に積み上げられた。 屈強の傭い兵が何人もで守る中、王はその金を自分の命を救ってくれたアンモン人の商人たちに一人一袋づつ贈った。 その金額は商人たちが危険な旅で稼いだ金額よりも遥かに多かった。 「貴方様は何処かの国の王様か大臣であらせられるのですか?」 褒美を貰った商人たちはみな一様に目を白黒させ、他の者たちは皆ナポニドスが難渋しているところに通りがからなかったことを大いに後悔した。 最後の一袋で王は、バビロンまでの早飛脚による書状の配達を頼んだ。 書状はもちろん新バビロニア帝国摂政で息子のベルシャザル宛で、内容はもちろん「旅先で金子を紛失したので、すぐに目立たぬように精鋭隊を率いて迎えにこい」というものだった。 「お大尽、お大尽はベルシャザル摂政のお知り合いで」 宿の主や隊商たちや傭兵たちが一様に顔を曇らせた。 「一応そうだが」 ナポニドスは不吉な思いに駆られた。 「するとあの事はご存じないのですか?」 「『あの事』とは?」 「先週でしたか、新バビロニアはペルシアのキュロスと、それに呼応した高官たちの仕掛けた戦によって滅びましてございます」 「何じゃと!」 王は目の前が真っ白になった。 「摂政ベルシャザル様はユダヤより略奪した黄金の盃や食器で酒宴の真っ最中でしたが、その時奇怪至極なことに壁の中から何者かの手が現れて文章を綴ったのです。 文字は誰も見たことのないもので、バビロンの神官や魔導士は誰ひとり読むことができなかったため、仕方なくユダヤ人虜囚のダニエルが呼ばれて読んだとのことで…」 「で、何と書かれておったのだ?」 「確か、『新バビロニアは滅びる。ベルシャザル様には王としての器が足りない。滅びた後の国土はペルシアとメディアに分けられるだろう』と。 その夜のうちにペルシアのキュロス大王が軍勢とともに攻め寄せてきて… ベルシャザル陛下はあろうことか、内通したとの疑いをかけた部下やその家族を人質にして抵抗されようとしましたが…」 (余のせいだ。不老不死になりたい、時空を越えて永遠に生き続ける魔導士になりたいなどという度はずれた欲望が国を滅ぼし、摂政を死に追いやってしまったのだ) ナポニドスは人々の肩を借りて、宿の一番よい部屋の寝台に寝かされた。 いまや滅びた帝国からの落人になってしまったとはいえ、彼は桁外れの大金持であることには変わらなかった。 それにペルシア王キュロスの天下になったとはいえ、いつ新バビロニアの残党が決起して都を奪い返さないとも限らない。もしもそうなった時の報復が恐ろしかったから、彼のことをペルシア側に密告する者などいなかった。もしやるとしても、それはまだ彼が身に付けている財産を残らず使わせてからのことだっただろう。 オアシスの夜は、昼間とはうって変わってひんやりと涼しく、月は金色に、星星は銀色にさえざえと輝いていた。 人々の多くがまた明日からの長い旅や、過酷な仕事に備えて、毛布にしっかりとくるまって眠り、商売の成功や、道中の平穏といったささやかな幸せを夢に見ている中、ただ一人ナポニドスだけが安らかな眠りにつくことができず、寝台の上で寝返りを繰り返していた。 無理に瞼を閉じても、目に映るのは燃え上がるバビロンのイシュタール門であったり、血まみれのベルシャザルの首であったりした。 と、コツコツと扉を叩く音がした。 (刺客だ! 余が新バビロニアゆかりの者であるということはティマの街じゅうに知れ渡ってしまったので、早速賞金目当てのハイエナのような連中がやってきたのだ) 顔を引き吊らせながらも右手は何とかテーブルの上の剣に伸びていた。 もしもその通りだったら、息子のように往生際の悪いことはせず、華々しく戦って死ぬつもりだった。 (どうせ、あの蟻地獄に吸い込まれて落とすところだった命だ。惜しくはない) 昼間九死に一生を得たことが王の気持を妙に潔いものにしていた。 だが、小さな灯火を点したランプを手に持ち、長い影を引きずって入ってきたのは、 ティマの街の長老だった。 「お休みのところ申し訳ございません。しかし、きっと眠れずにいらっしゃることと思いご無礼を顧みず参りました」 「何の用だ?」 ナポニドスは剣の鯉口を切ったまま尋ねた。「聞くところによると、貴方様は蟻地獄に落ちた際に、腰に結び付けていた宝石の入った袋をなくされた、とか」 それは(どうせなくしたものだ。もはや盗賊に狙われることはあるまい)と思って、夕餉の車座で、つい愚痴に出したことだった。「いかにも」 「もしもその袋を拾い上げることができますれば、中身の三分の一を戴けますでしょうか?」 ランプの黄色い光に照らされた長老の顔はさながら砂漠の土鬼のように見えた。 「何と! かようなことができるのか?」 王は半信半疑だった。 (そのようなことができるのなら、なぜ黙ってやらぬのだ? 黙ってやって成功すれば、全てが己のものになるというのに) 「貴方様は何故『こっそりとやらぬのか』とお思いでしょう。理由がございます。わたしらもまた、掘り出し拾い上げる術を持たぬことは貴方様と同様であります」 「そらみろ。冗談は休み休み言え!」 王は麝香の香炉に一つまみの乳香を足すと頭から毛布をかぶり直し、長老に背を向けた。「ただ、それができる民を存じております」「だったらおまえたちが勝手に雇ってやらせてみろ。余は知らん!」 度重なる不運に、ナポニドスはもう捨て鉢になっていた。 「…それはティマの民ではございませぬ。ここよりさらに砂漠の奥地に入ったところに棲む幻の民でして」 「だから、おまえたちが行って頼め、と言っているだろう」 「彼らはかつて、ティマに棲んでいた者で、我々を恨んでおります。我々が行けば殺されることはあっても、依頼を聞き届けてくれることは決してありますまい」 長老の低いけれど鋭い声に、ランプの炎が激しく揺らめいた。 「−−ですが貴方様は遠い異国のお方。貴方様からお頼みになれば、彼らもきっと引き受けてくれるのでは、と」 「自分たちは何もせずに、三分の一か」 王は腹が立ってきた。 「幻の民の落ち延び先は我らしか知りませぬ。宝石の入った袋を実際に引き上げた者に三分の一、元の持ち主である貴方様が三分の一。−−全てを失うよりかは試してみる価値はあるのでは?」 そう言われて王の心はランプの炎や香炉から立ち上る紫煙の如く揺らめいた。 (自分にはもう帰る国も宮殿もない。指輪の宝石を小出しにして売れば、一生そこそこの貴族らしい生活を送れるだろうが、それもティマの住人が心変りしてペルシア王に讒訴えすればそれまでだ。 砂漠の奥地にかような民がいるのなら、例え貧しくとも彼らの天幕に暮らすほうが、静かで心安らかな余生を送れるのではないか)「よかろう。その条件でよい。明日の朝、その幻の民の棲む場所を地図にして渡して貰おう。代わりに証文を書こう。駱駝と水と食料も用意してもらおうか」 王は低く渇いた声で囁いた。 「ご身分に相応しい賢明なるご決断であらせられます」 長老は消え入り掛けていたランプの炎を、フッと一息に吹き消した。 翌朝夜明けを待ちかねて、王は供も連れずどの隊にも加わらずに、ティマの南東、アラビア砂漠の中心に向かって出発した。 「あんた、本当に一人で大丈夫かね?」 バビロン以来、ずっと旅を共にしてきた商人の一人が、彼の駱駝の手綱捌きがまだまだ心もとないのを見て声を掛けた。 「バビロンの都に残っておればまず九分九厘なかった命。なくしたところで別に惜しいとは思わぬ」 「そのことといい、蟻地獄から救われたことといい、貴方はじつに運のいい御方だ。お命を大切にされませ」 こうして王は、生まれて初めて本格的な一人旅を始めた。砂漠のど真ん中、一人ぼっちで、もう金貨も宝石も役には立たない。 (長老は「幻の民の村までは駱駝で三日」と言っていたな。水も、食料も四日分、果たしてそれまでにたどり着けるやら…) ところが、陽炎に揺れる白い街の輪郭が視界から消えて、ものの数分もしないうちに、十数騎の騎馬の一団が小さな竜巻さながらの砂塵を巻き上げながら追いついてきて王の前に立ちはだかった。 どいつもこいつも人相が悪く、それぞれの手にはよく馴染んでいると思われる武器を持っていた。 ナポニドスは全ての事態を悟った。 砂漠の奥地に棲む「幻の民」などいうものは嘘っぱちだ。 要は王を、たった一人で、隊商路もない砂漠に放り出すことができればそれでよかったのだ。 街なかで殺せば目撃してしまう者も少な目では済まないだろうし、噂も立ち、死体も残ってしまう。 ていよく砂漠に追い出して、ならず者たちに殺させれば、証人もなく、証拠もまず残らない… 「よう、バビロンの偉い御方。俺たちはあんたを殺すように言われてるんだけどよう」 盗賊の首領は両手に持った蛮刀をカチャーンチャリーンと擦り合わせながら言った。 「その両手の指に残っている七個の指輪をそっくり全部渡してくれれば、命までよこせとは言わねえ。砂漠の奥地でも、どこへでも好きに行かせてやるよ。 あんたの方向感覚では、ティマに戻ることさえまず不可能だろうからな」 盗賊たちはそう言ってひとしきり嘲笑った。「−−だからさっさと渡しな!」 王は手に残っている指輪を抜こうとしてはたと困った。 指輪はどれも嵌めてから十数年たっており、いまでは蟻地獄から救ってくれた礼に売却した指輪だけが着脱可能なものだったのだ。 齢を重ねたいまとなっては、残りの指輪は全て瘤のようになった指の関節に引っ掛かって、どうしても抜くことはできなかった。 「すまない。どれもどうしても抜けないようだ。おまえたちの仲間に宝石職人がいれば、金属挟みで切ってもらえれば有り難いのだが」「生憎そんな器用な奴は俺たちの仲間にはいねえ。どうしても抜けないと言うのなら、指ごとぶった斬ることになるぜ」 ナポニドスはますます焦り、必死になって抜こうとしたがやはり無理だった。 そこで、持参している小刀の中で最もよく切れるものを選んで自分で指輪を切断しようとしたが、これも自分の指を傷付けただけでどうにもしようがなかった。 「時間切れだ、バビロンの御方」 首領がそう言って目配せするのと同時に、二人の屈強な手下が後ろから襲いかかって王を膝まづかせ、さらに別の二人の部下が王の両手を砂漠の砂の上に押し広げた。 それぞれの役割がはっきりとしている上、手際も要領も呆れるほどによかった。 「約束だ。命は奪わねえ。うまく血を止めることができれば、明日の太陽を拝むこともあながち無理でもなかろうよ」 首領はそう告げたかと思うと、両手に持った刀を一気同時に振り降ろした。 おそらく腕がよかったのだろう。その瞬間王は痛みを殆ど感じなかった。 だが、閉じた眼は開く気にならず、じっと固く閉じ続けていた。それまで指のあった場所を誰かの指がまさぐる気配がして、激痛を感じてわめきながら七転八倒したのはその後になってからだった。 「莫迦野郎! 何をやってるんだ!」 罵声とともに、自分のものではない別の男の長い悲鳴が聞こえた。どうやら部下の一人が斬殺されたらしい。 「落っことしやがって! −−まあいい、六個でも大枚の収穫だ。野郎どもズラかるぞ。ぐずぐすするな、ヤバいぞ」 ナポニドスは気を失った。自分では(このまま死ぬのだ)と思った。 2 再び目覚めた時、王は自分の顔や手が相変わらず血と脂汗にまみれていて、激しい喉の渇きを覚えたことから、(自分はてっきり地獄に落ちたのだ)と考えた。 何の気なしに両手に目をやると、盗賊に切り落とされたはずの指が全部元通りにくっついている。 指輪はやはり持ち去られたらしく、どの指にもなかった。 (はて、傷が治っている。ということは、ここは天国なのか?) 見渡せば見慣れた砂漠が広がり、頭上には西に傾いた太陽があった。 砂の上には汚い衣装の男が一人、袈裟切りにされて絶命していた。その近くには、普通の、そう大きくない蟻地獄の巣があり、底のほうに穴が開いていた。 どうやらこの手下は、ナポニドスから奪い取った指輪の一つをこの穴に落としてしまったらしい。 (この巣に棲む虫は人に害を与えるほどの力はあるまいが、落とした宝石を掘り出すには大変な労力が必要であろう) 王は肩をすくめながら、首領に殺された手下の懐を探ったが、いくらかの小銭と大麻の葉を持っていただけだった。 (するとここは沙婆か?) そうすると、傷がすっかり治っていることがどうにも合点がいかない。 「くっつけてやったんだよ。あたしが」 突然の声にビクッとして振り返ると、王がかつて見たことのない不思議な民族衣装を 纏った十歳くらいの妙にこまっしゃくれた少女が立っていた。 「『くっつけた』? 縫った跡なんてないぞ」 王は両手を広げ、しみじみと眺めて言った。「そんなものある訳ないだろう。魔法でくっつけたのだから」 「『魔法』? するとおまえは『幻の民』なのか?」 「だったらどうだと言うんだ? またバラバラにはずして欲しいのか?」 少女には大人を敬う態度などさらさらなかった。王は宮殿の後宮で、大勢の女官や乳母たちにかしずかれていた姫たちのことを思い出した。 「いや、このままでいい。見事な腕前だ。大いに感謝している」 王は自分の幸運を大いに喜んだ。 あのまま順調に旅を続けていても、無事に『幻の民』のオアシスにたどりつけていたかどうかは分からない。盗賊に襲われたことははなはだ不運だったが、そのお陰でこの少女と出会うことができたのだ。 「わしはナポニドス。バビロンの者だ」 「あたしはアルテア。この蟻地獄の底の底にちょっと値打ものの指輪があるようだが、違うか?」 アルテアと名乗った少女は、細い二本の黄金の針金の棒を両手でより合わせながら言った。 ナポニドスは事情を語った。 ティマの街の長老に計られたこと。そのせいで盗賊に襲われ、指輪が外れなかったために指を切り落とされたこと。間抜けな手下がそのうちの一つをこの穴に落として処罰されたことを。 「おまえもとことんツイてない奴だな」 アルテアは侮蔑の笑みを浮かべながら、先端に白い芋虫のような虫を結び付けた釣り糸のようなものを取り出し、穴の中へと投げ込んだ。 しばらくして、糸をたぐり寄せると、白い芋虫にしっかりと咬みつかれた蟻地獄が上 がってきた。蟻地獄のとある足には、見事なルビーが引っ掛かっていた。 それは王が七つの指輪のうちで最も気に入っていたものだった。 少女アルテアは虫の足ごとその指輪を引きちぎると、自らの左手の薬指に嵌めた。 さすがに最初はぶかぶかだったが、少女が短い呪文を唱えると、指輪は誂えたかのようなピッタリの大きさになった。 (これだ! 余が捜し求めていたのは!) ナポニドスは、最後の指輪を失ったことよりも、目の前で見た術の素晴らしさに我を忘れた。 (この術があれば、いかなる傷や病でも立ちどころに癒すことができる! さらに、地中深くに埋もれたものでも引き上げることができるではないか。 あの芋虫のような虫をたくさん集めれば、月の神シンの神殿跡から、失われた古代の叡知のかけらを掬い上げられる。その前に、あの巨大な蟻地獄の底にあるであろう、宝石の袋を取り戻すこともできる!) 王は俄かに元気を取り戻した。 水が飲みたくなり、腹も鳴り出した。 しかし自分の駱駝は荷物もろとも盗賊に持ち去られて影も形もなかった。 (彼女は余のことを哀れんで指を治療してくれたのではない。一思いに殺すのはあとで万一自らに疑いがかかったときに面倒だし、かと言って、指輪を引き上げるまでの間そばでうんうんと唸っていられるのもうっとうしいと思ったからくっつけてくれたのに過ぎない) 王は魔導士の少女アルテアに水と食べ物を所望したかったが、まともに頼んだのでは鼻先で笑われた末に断られると確信した。 「おまえは魔法を使えるみたいだが、魔法で水や食料を出すことなどはできないだろうね?」 アルテアは一瞬ムッとし、次いで王のほうをキッと睨んだ。 「おじさんはバビロンの人な癖に、古の魔法の凄さを知らないの?」 「わたしがいたのはハムラビ王のいらした古バビロニアではなく、アッシリアを滅ぼした偉大なるナボポラッサル王が開かれ、その子ネブカドネザル(2世)王がバベルの塔を築かれた新しいほうのバビロニア帝国だ」 「そこには魔導士はいないの?」 「…いることはいるのだが、みんな享楽に耽けり、修行をおろそかにしたため、大した術は使えなくなってしまったのだ」 王は言葉を詰まらせながら言った。 「−−早い話、水は城内をくまなく流れ、食べ物などは鈴を振ればたちまち運ばれてくるのでな」 「で、砂漠のような危険な場所は、みんな家来に頼んで行ってもらう、のよね?」 アルテアは肩をすくめた。 「その通りだ」 「だから、ほどなく滅ぼされちゃったのよね?」 「その通りだ」 アルテアは短いケープを翻らせると、髑髏の飾りの付いた黄金の杖を取り出した。その杖で砂の上に簡単な陣を描くと、清くて冷たい水がこんこんと湧き出た。 ナポニドスはその水を貪り飲んだ。 次に彼女はケープを外し、手品師のように手元の空間を隠した。ケープをのけると、肉や魚はもちろん、世界の珍味を取り揃えた テーブルが忽然と現れた。 王がそれらを口に運んだが、全部できたての湯気のたった本物の料理だった。 「指輪を拾って喜んでいたところを見ると、本物の宝石は作り出せないみたいだな」 よどみなく料理を口に運びつつ、王は次に言わなければならないことを考え、慎重に言葉を選んで言った。 「作れるわよ。…ただ、この指輪は特別−−尽きかけた幸運をいましばし復活させるものだったから、わざわざ拾いに来たのよ」 少女はケープを元のように羽織り、その先端を敷物代わりにして砂の上に腰を降ろして、沈みゆく夕日にルビーをかざしてしげしげと眺めていた。 (そうか、それでバビロン陥落の場に居合わせずに済んだり、蟻地獄に落ちた時も偶然通りがかった者に助けられたり、いままたこの小娘に救われたりしたのだな) そう思うと、ルビーの指輪が他人の手に 渡ってしまったことはますます残念だったが今後は己本来の運に賭けるより仕方なかった。「それと同じくらいの立派な宝石が一杯に 入った宝石袋を、ティマからそう遠くない蟻地獄の巣に落としたのだ。 ここまでやってきたのは、『幻の民』−−魔導士に、引き揚げてもらって、ティマの長老を加えた三人で山分けするためで…」 ナポニドスは正直に言った。 「知っている。大した理由もなくこんなところにのこのこ来る奴などいないからな」 ルビーはいままさに地平線の端に隠れようとする太陽の輝きを吸い込んで、血の色をたたえた。 「−−まあしかし、できないことなら無理には頼まないよ。先ほどの白い芋虫ほどの虫なら、指輪のような小さなものを引き揚げるのが精一杯だろうからな。 もっと深い穴の底に落ちた、ずっしりと重い宝石袋を取り返すなんて、やはり不可能だ」 テーブルの上の料理をきれいに平らげる頃には、王はバビロンに君臨していた頃のかけ引きのこつをすっかり取り戻していた。 「いや、できる!」 案の定、少女魔導士は砂を蹴立てて立ち上がり、拳を固め、むきになって叫んだ。 「もっと大きな虫を捕らえれば簡単さ!」 「そんなに大きなのがいるのかね?」 「砂漠には始源の生命体が多数眠っている。 地底の奥深くに残された、太古の神殿の遺跡ごと吊り上げるような巨大な奴だって…」 そこまで言ってから、アルテアは慌てて口をつぐんだ。 「そこまでとは言わんが、くどいようだが、 あの蟻地獄の巣に落ちているやつはなかなかのものなのだ」 アルテアはまだあどけなさの残っている表情で王の顔をじっと見つめながら、指をパチリと鳴らした。 するとどうしたことだろう、砂漠は砂漠のまま変化はなかったものの、地勢が一変した。 二人は一瞬にして、ティマ近郊の月の神シンの神殿跡に移動していた。 件の巨大な蟻地獄の穴もちゃんとそのままあった。 アルテアは大きく開いた胸元の隙間から、細い遠眼鏡を取り出して擦り鉢形の傾斜が始まるあたりに立って身を乗り出し、穴の底を覗いた。 「ま、嘘ではなさそうだけれど、あれを取り戻すのは一苦労だぞ」 ナポニドスも恐る恐る端に立ち、手を震わせながら少女が投げてよこした遠眼鏡を覗いた。 それは彼方の星の世界の水晶を磨いて地面の底や壁の向こうを見ることができるようにした魔法のレンズだった。 なるほど、勇者が百人かかっても倒すのは容易でなさそうな巨大な蟻地獄が、地の底深い穴の中心に旅人たちや獣の骨を敷物代わりにして居座っており、その回りには気の毒な犠牲者たちのものであったただろう、錆びた武器や商売物の布や道具が朽ちるがままにまかせてあった。その中の一つ、まだま新しくて目立つものの一つに、王が奪われた宝石袋もあった。 「おじさんの言う通り、中身もなかなかよさそうだ。協力するのなら、一割の分け前をやろう」 アルテアは遠眼鏡をピンのように小さくしてから懐にしまった。 「『一割』? ティマの長老と三人で山分けするはずでは?」 「おじさん。おじさんは自分を罠をはめた奴の肩を持つのかい?」 少女魔導士はアイラインを濃く引いた顔を頬ずりせんばかりに近付けて言った。 「しかしキミのことを教えてくれたあいつも多少は恐ろしい魔法が使えるのでは?」 少女離れした大人びた香の匂いに、王は思わず顔をそむけた。 「ここらあたりで名のある魔導士といえば、いまのところあたしだけのはずだけど… −−もしも仮にそうだったとしても、このあたしが責任を持って片付けてやるよ」 アルテアが傲然と美しい形の胸を反らせた。「分かった。それなら… それならいい取引だ。で、わたしの出番は?」 「まだまださ。まず餌を取りに行かなければ」「『餌』?」 ナポニドスは眉をひそめた。 「そう。何をするにしてもいくらかの元手はいるということだ」 アルテアはそう言って屈託なく笑った。 同じ頃、盗賊の首領はナポニドスから奪った六個の指輪を焚火の炎にかざしながら、酒盃を重ねていた。 「チッ、ティマの街の長老も強欲なヤツよ。己は手を汚さずに『半分よこせ』と言いやがるんだからな」 「いくら情報を貰ったからと言って五割というのはあんまりですぜ」 手下たちも盗んだ駱駝に積んであった食料を貪りながら相槌を打った。 「しかし野郎はちょびっとだが魔法が使えるらしいんだ。どこまで使えるかは分からねえから、うかつに逆らうのは…」 「あたしが指輪三個で助太刀してやるから、やってみなよ」 少女の声とともに、手下が誤って穴に落としたルビーの指輪が焚火の前に転がった。 「誰だッ!」 盗賊たちは各々の剣を抜き放って立ち上 がった。 焚火の炎の中に、男装をした少女の幻影が揺らめき現れた。 「貴様、魔導士か? この指輪、どうやって穴から拾い上げた?」 「そんなことはどうでもいいだろう。おまえたちが手にした六つの宝石のうち四つをティマの長老に渡すか、それとも三つをあたしにくれるかと聞いているんだ」 少女は炎の中から腕を伸ばしてルビーの指輪を拾うと、改めて自分の指に嵌め直した。「承知した。ただし、持ち逃げしないように長老のところまでは俺の部下が持っていく。 それでいいか?」 しばしの沈黙ののち、盗賊の首領は狡そうに黒い目を光らせた。 還らざる王(承前) 1 夜半にも関わらず、ティマの長老は客間と書庫を兼ねた四阿(あづまや)で宝石に関する書物を読み漁っていた。 (あのバビロン人の嵌めていた指輪の宝石は、どれも尋常一様のものではなかった。あの半分−−四個が我がものになるとは、わしにもついに運が向いてきたのじゃ! …そうじゃ、四個を手にいれたら、すぐに「旅人の仇を討つ」という名目で盗賊討閥隊を出そう。さすれば、残りの四個を含めて、全てがわしのものになるやも知れぬ) 長老は彩色された絵図入りの宝石学の本の上に思わず涎をこぼした。 夜半を過ぎた頃に、アーチ形の窓の向こうでホーホーと梟の鳴く声がした。それが盗賊団と取り決めた合図だったので、長老はランプの灯に火屋代わりの覆いを取り付ける手ももどかしく、いそいそと窓辺に寄った。 灰黄色によどんだ月明かりの下、顔を覆面で隠した盗賊の手下が一人立っていた。 「おかしらに命じられて、約束のものをお届けに上がりました」 口もまた頭布(スフィーヤ)の端で隠されているので、言葉もくぐもりはっきりとは聞き取れなかったが、長老は満面に喜びの色を浮かべた。 「とっておきの情報におかしらもいたって満足しております。これからも大金持の旅人が街に立ち寄る際には…」 覆面の男はそう言って、裸のままの指輪を三個、長老の掌に置いた。それらはいずれも確かにこの街の人の親切に感謝しながら旅立って行った年配のバビロン人のものだった。「おい、どうしたことだ! 三個しかないではないか。これでは約束が違うじゃないか」「そう怒らないでおくんなさい。じつは」 と言って覆面の手下は事情を説明した。 「何! 蟻地獄の穴に落とした、だと? 何と間抜けな! ||いま申したことに嘘はあるまいな?」 「はい。月の神シンの名にかけて」 「ということは、いますぐ、指輪を落としたその場所に案内することもできるな?」 「忘れもしません。あっし自身、もし引き揚げる方法を知っているのなら、すぐに戻って拾いに行きますです」 「ようし、分かった」 長老は本棚と本棚の隙間から、一枚の丸めた絨緞を取り出し、部屋の中央に広げると、自身はその真ん中に胡座した。そして何事か短い呪文を唱えると、絨緞はふわりと窓を跳び越えられる高さにまで宙に浮かんだ。 「何をぼやぼやしている。早くおまえも乗るのだ」 窓から出るなり、長老は低い声で怒鳴った。 この時、最初の手下と入れ替わって、別の覆面の手下が絨緞に乗ったのだが、興奮している長老はついぞ気付かなかった。 ひんやりとした砂漠の夜気を引き裂いて、絨緞は物凄い速さで飛んだ。 「こんな術を使えるなんて、長老あなたは魔導士ですか?」 覆面の手下は転がり落ちそうになるのを必死でしがみつきながら尋ねた。 「そんなこと、貴様にはどうでもいいことだろう? それよりも、例の場所はどこだ?」 空飛ぶ絨緞などという、とんでもない乗り物に生まれて初めて乗ったといっても、そこは盗賊の端くれ、星を測って何とか目的地まで案内した。 「ふむ。確かに中ぐらいの蟻地獄の穴がある。本当にこの中に指輪の一つが落ちた、と申すのじゃな?」 「何なら、仲間の誰かに聞き合わせてもらってもいいです」 「よし。一応信用しよう。これぐらいの穴なら、引き揚げる手間もそう大してない。その代わり、もし何も出てこなかったらひどいからな」 「絶対にありますってば」 長老はなぜかもう一度覆面男に絨緞に乗るように勧めた。 「ティマの街まで送って下さるのですか。助かるなあ…」 だが、覆面の手下の期待に反して、絨緞はティマの街の明かりを遠くに見る、毒の泉の近くに着陸した。 そこは水が湧き出ているものの、砂漠の砂が赤茶色に変色し、草一本生えていない呪われた土地だった。 太古の種族が築いたと伝えられている、井戸の一番上の部分に似た円形の精巧な石積みの建築物のようなものが露出しているが、それが一体何であったかはいまではさっぱり分からなくなってしまっていた。 「ここに蟻地獄の巣に落ちたものを拾うための道具がしまってあるから一緒に取りに行こう」 長老は猫撫で声で言った。 「−−うまくいけば、このことを教えてくれたおまえにも、それ相応の礼はするぞ」 「そうですか!」 それを聞くと覆面の手下も余分の布で足首を分厚く巻き、毒の砂の上に飛び降りた。 井戸の入口は細長い板状の石板で幾重にも塞がれていたが、ごく最近外した者がいたらしく、再び覆った後の積み跡がまるで合ってはいなかった。 「まさかこれを取り除くのを手伝えってんじゃあないでしょうね? 大勢の人夫を雇っても何日もかかりますぜ。…いや、まあ誰かやった跡はあるけれど」 「まさか」 長老が石の蓋の前で目を閉じ、顔の前でいくつかの印を次々に結ぶと、今度は少し長い目の呪文を唱えた。 すると、一つ何千貫もあろうかと言う石の板は、まるで軽石のそれのように、砂漠を渡る夜の風に巻き上げられてふわりふわりと 次々に舞い上がり、近くの毒の砂地に、赤く湿った土の固まりを跳ね飛ばしながら落下した。 「凄い! 長老は本当は凄い魔導士だったのですね。こんなに凄い術があるのなら、どうしてどこかの強国の有力な王や皇帝に仕えないんですか?」 「それもこれもおまえの知ったことではないじゃろう」 老人は前と同じことを繰り返した。 「ははん、分かった。長老こそティマの街にもともと住んでいた『幻の民』の末裔なんだ。 おそらく土壇場で仲間を裏切り、現在ティマに住んでいる人々の側に加担した。 その行為が各地の心ある魔導士たちの間に広まってしまったので、仕方なくそこでずっと暮らしているんだ」 「うるさい。そんなことはどうでもいいと言っているだろう。指輪を取り戻したければさっさと穴に入れ」 「あっしが先に入るんですか?」 「つべこべ言わずにさっさとしろ」 井戸の壁面には、先人が打ち付けたと思われる足場の釘が何本も何本も、奈落の底に 向かって続いていた。 比較的新しいものもあれば、すっかり錆付きぼろぼろになっているものもあり、土台だけを残してすっかり腐り落ちているものも あった。 釘や梯子の形が見事なぐらい皆違うことから、随分古い時代から、いろんな種族民族がこの穴の底にあるものを頼りにしてきたことが推察された。 覆面の手下は中でもとりわけがっしりした足場を選んで、一段づつ慎重にゆっくりと降りていった。 途中ところどころにこれまた先人が設営したと思われる休息場所があった。 昆虫の繭に似た糸でできたものもあれば、蜘蛛の巣そっくりの粘着性のある糸でできているものもあり、うかつに腰を降ろしたり手で触れたりすることはできない… ものの小一時間ほど降りたところでようやく床面とおぼしきところに降り立つことができた。 地面には白く細い、または丸いバラストに似たものがびっしりと敷き詰められていて、緩い傾斜を保ちながらまだまだ地底へと続いている。 手下がランプの灯りを近づけて見ると、それらは全て人間や動物や種族不明の生物の骨で、足を踏みしめて歩く度にバリバリと乾いた音を立てて細かく割れた。 しばらくしてから、長老が空中浮遊の術を使って後に続いた。 「その術は、貴方一人にしか効かないんですか? もしも他人にもかけられるなら、かけて欲しかったなあ…」 「何を言う。さっき石板をどける時に力をほとんど使ってしまって、わし一人を浮かばせるのがやっとじゃ。とてもおまえに施してやる余裕などない」 「なるほど。じゃあ貴方の術もそんなに大したことはない訳だ」 それを聞いた長老は眉間に幾本もの縦皺を寄せたが、じっとこらえて辛抱した。 (なあに、言いたい放題もあとしばらくの間だ) 燧道の奥は、宮殿の広間ほどもある広い空間で、その真ん中ではとぐろを巻いた龍ほどの大きさの巨大な芋虫がもぞもぞと蠕動している。 最も大きな一匹の回りには、中ぐらいの数匹が吸い着くように寄り添い、その中ぐらいのものには、大きな犬程度のさらに小さいそれが群れを成して乳に似た養分をすすっていた。 「あの中でもっとも小さいもの一匹を生きたまま捕らえることができれば、そいつを餌にして蟻地獄めと、そいつが取り込んでいる指輪を引き揚げることができるのじゃが」 「じゃあ中ぐらいの蟻地獄と、中ぐらいのお宝を引き揚げるためには、中ぐらいのやつが要る訳ですね」 「その通りじゃが、やつらは事の他しつこい性格で、子供を一匹でも奪えば巨大なやつがどこまでも追ってくる。それも姿からは想像もできんくらいの速さでな。そこで、どうしても気をそらすための生贄が必要となる」 「『生贄』?」 「そう、おまえのことじゃよ!」 長老が手下を芋虫の巣に放り投げようと背中を押すよりも早く、覆面の手下は素早く老人の背後に回り込み、あべこべに突き飛ばした。 短い悲鳴に上げる間もあらばこそ、ティマの長老はたちまち芋虫の餌食になった。 「愚か者が」 手下が覆面を外すと、唇を少し歪めたアルテアの顔が現れた。 ぶよぶよとした芋虫たちの身体の間で、長老の手足は壊れた繰り人形のそれのようにバラバラに動いた。 親虫は、人間の子供が魚の骨を吐き出すように、短剣や装飾品のかけらをペッペッと吐き出した。その中には、いましがた自分のものにしたばかりの三個の指輪もあった。 アルテアはそれを拾い上げ、虫たちが引き続き食事に夢中になっているその隙に小さな象ほどもある中ぐらいの芋虫を念力で持ち上げ、そいつごと瞬間移動で地上に戻った。 彼女が指をパチリと鳴らすと、長老が四苦八苦して開けた石蓋があっという間に整然と元通りに閉じられた。 「ご苦労さまでした」 2 「何と不気味な。まるで地獄の生き物のようだ」 アルテアが捕らえてきた白く大きな芋虫を見て、残忍無比の盗賊たちも思わず目を背け後じさった。 「で、ティマの街の長老は?」 首領が尋ねるよりも先に、アルテアは借りていったものと合わせた四つの指輪を砂の上に転がした。 「これがここにあるということは…」 「あっしは確かに長老に手渡しました」 本物の覆面の手下がすがるような目で首領を見上げた。 「奴はいまごろこいつの親虫の腹の中さ」 アルテアは冷たく言い放った。 「−−なるほど。で、おまえが言うのには、この虫を使えば、愚かなバビロン人がこの中に落とした宝石袋も引き揚げられる、ということだったな?」 首領は手にした四つの指輪のうちの三個の指輪をアルテアに投げ返し、残り一つ真っ赤に光る「運命の指輪」を己の指に嵌めた。 「その通り。準備を頼んでおいたものもできているみたいだし…」 アルテアが蟻地獄の巣から少し離れた土手のほうを眺めると、巨人の釣り竿に似た仕掛けがか細い月の光に浮かび上がっていた。 釣り竿からは頑丈な綱をさらに編み合わせて作った太く長い綱が垂れ下がっている。 少女は静かに両手で複雑な印を結んだ。 すると綱は蛇のように勝手に動いて、まだかすかに動いている巨大な虫に巻きついた。「いいぞ、降ろせ」 竿を支えている大勢の手下たちは、その命令を待ち兼ねて、体重を穴のある方向に移した。 先端に巨大な芋虫を結び付けた釣り糸は、かなりの勢いで穴の下に落ちていった。 「時間がかかるのか? ヤツはすぐに餌に飛びつくだろうか? 夜が明けかけて隊商の連中がうろうろし始めると面倒だぞ」 首領の心配は全くの杞憂に終わった。 穴の主は気短かにも、ただちに侵略者に飛びつき、自慢の鋭い鉤爪のある四肢で抱きつき襲いかかった。 「よしいまだ。直ちに引き上げろ!」 アルテアの号令一下、手下たちは急いで元の位置に戻って綱を引き始めた。 「何て重たいんだ!」 「こんなもの無理ですぜ」 「いいか、こいつを上げれば一生遊んで暮らせるほどのお宝が入るんだ。死ぬ気でやれ」 泣き言をこぼす手下たちを首領は懸命に激励し、しまいには自分も綱引きの列に加わった。 「小娘、おまえも魔導士だったら、魔法でちょっとは手伝え!」 「じゃあ分け前を八割に上げろ」 「そんな。上がらなければおまえもゼロなんだぞ」 「あたしの契約は、上げる方法を教え、材料を提供するところまでだ。それ以上ということになれば、分け前を上げてくれなくっちゃあ」 首領はしぶっていたが、途中まで上がった獲物がまた地底に落ちそうになるのを感じて慌てて叫んだ。 「分かった。それでいい!」 アルテアは穴の上の夜空を仰ぎながら、何やら訳の分からぬ言葉で、長くややこしい呪文を唱え始めた。 盗賊の首領は頭の片隅で (こんな呪文はでたらめだ。本当はもっと簡単に上がるのだ。それが証拠にあの大きな餌の芋虫を、ごく簡単に運んできたではないか) と思った。 呪文の助太刀が功を奏したのか、穴の表面すれすれのところに大人の象ほどもある、黒く巨大な怪物が姿を現した。怪物は歪曲した牙を持つ口で、餌の芋虫を半分以上飲み込んでいた。 砂漠に突き刺した篝火の炎が、度外れた大きさの蟻地獄の甲皮の剥がれ目に引っ掛かっている無数の骨や、武器や、宝物の類を照らし出す… その中には確かにティマの長老が言っていた「バビロン人の宝石袋」もあったが、首領をはじめとする盗賊たちの誰もが、いまはそれどころではなかった。 「頼む、あと少しだ。頼むからもう少しだけ力を貸してくれ」 「九割だ」 首領の懇願に少女は冷たく答えた。 (あいつ、ひょっとしたら魔法で獲物を上げてくれているのではなく、むしろ押し下げているのでは?) その考えも、実は当っていた。 アルテアが人さし指で虚空をしゃくると、巨大な蟻地獄はふわりと弧を描いて宙を飛び次の瞬間砂嵐と間違うほど、近郷一帯にもうもうたる砂塵を巻き上げて地上に落下した。「よし、お宝を頂くのだ!」 首領は手下たちに命令したが、自らを含め全員が全く目を開けていられない状態に陥ってしまっていた。 「うわーッ!」 「ギャーッ!」 何がどうなっているのやらさっぱり分からないまま、砂煙の中に断末魔の悲鳴が谺した。 砂の上を這いずり回っていた首領は、手が何かに触れたのをきっかけに、無理に目を開けて見た。 (やった! ついに宝石の袋を手にいれたぞ) だがそれは、鋭い鎌のついた腕でスパッと切断された覆面の部下の首だった。 「逃げろ! もう宝はいいから早く逃げろ」 だが、決断は遅すぎた。 楽しいくつろぎと食事を邪魔された蟻地獄は、砂煙の渦巻く中、密林の豹よりも素早く移動し、すこしでも動くものは片っ端から容赦なく攻撃を加えた。 砂埃がおさまり、東の空がしらじらと明けかけてきた時分には、充分に腹いせを終えた怪物は幾分ふてくされた足取りで元の巣に 戻った。 後には、盗賊たち全員の酸鼻を極める遺体と、龍の刺繍の入った宝石袋をお手玉にしてニヤリと笑うアルテアと、ようやく避難していた場所から出てきたナポニドスだけが残されていた。 「これか?」 「それだ。それに間違いない」 少女魔導士が袋の口を縛っていた繻子の紐を解くと、なるほど比類なきバビロンの名玉の数々が現れた。 「でも、あんたが本当に欲しいのは、こんなものじゃあないんだろう?」 「そうだ。こんなものはわたしの住んでいたところには掃いて捨てるほどあったのだ」 ナポニドスはうめくように言った。 「あんたが本当に欲しいのは、あたしのような無敵の力だろう?」 アルテアは片方の眉を少し吊り上げた。 「そうだ。だが、この程度の謝礼では、万分の一も教えてはくれぬのであろう」 王は溜め息をついた。 「そうでもないわ」 「またまた、冗談を」 彼女のやり口を見た後では、よほどのお人好しでも疑り深くなって当然だ。 「まず第一に、あたしの術は無敵なんかじゃあない」 (それはそうだろう。もしも無敵でこの性格だったら、とうの昔に世界を征服しているはずだ。それをしていないということは、上には上がいるのか、もしくはとんでもない苦手がいるのだろう) 「第二に、だからあたしももっと強くなりたいと願っている」 「不老不死の術は知っているかね? それに二三の強力な攻撃の呪文を教えてくれれば、わたしはそれで十分なのだが」 王はたまらなくなって自らの望みを告げた。「不老不死といってもその度合いが問題だ。単に年齢を偽るだけなら、鍛練や化粧法に毛が生えた程度でもいいだろう。だが、正真正銘年をとりたくないのなら、それは人間には不可能だ。なぜなら人である限り、いつかは老いさらばえて死んで行く宿命からは逃れられない。 だから、その術が欲しくば人であることを捨てねばならない。邪悪なるもの、忌避されるもの、魔物、名もなき神にその身を委ねねばならぬだろう」 アルテアは足で砂の上に転がっていた首領の首を弄んだ。 「それしか方法がないのなら、それでもいい。 わたしはもう、この世の富や栄光には興味がないのだ。 −−ちなみにアルテア、おまえは人ではないのか?」 王は砂漠に手のひらと膝をつき、目の前の少女を上目使いに見た。彼女に治療しても らった指のすぐ先には、その指を斬り落とした憎い盗賊の首領の首があった。 (もし試みれば、この首を胴にくっつけることだってできるのに違いない…) 「あたしは、人の姿はしているが人ではない。 あたしは、我が父アブドゥル・アルハザードによって、その著書『死霊秘法』とともに作られた存在だ。 アブドゥル・アルハザードは、いまより後千年以上未来の、ウマイア朝サナアの魔導士だったが、人類が知る神神以前の、放逐されたいにしえの禁断の神神の探究にその身を捧げ、ついには不完全な形ながらその一部を召喚することに成功した。 父もあたしも、そのお陰で時空を越え、永遠に老いることのない身体を得た」 「その身体には、誰でもなることができるのか?」 「邪神の使徒となる覚悟があるならば、絶対に無理とは言い切れぬ。−−もっとも成功の保証などはさらさら約束できるものではないが」 いつの間にか太陽が東の空に顔を出し、砂漠全体を薔薇色に染めていた。 どこから飛来してきたのか、数羽の猛禽類が死体を求めて上空を舞っている。 「国を失い、宮殿を失い、民に裏切られ、財産といえるもののほとんどを失ったわたしだ。 これ以上失うものはもはや何もない。 だから一分−−いや一厘、一毛でも可能性があるものなら、大願に賭けてみたい!」 王が手にした短刀で首領の眼球をえぐり出し空に向かって投げると、二羽の禿鷹がくわえて飛び去った。 「いいだろう。今日の夜更けまで待ってその決心が揺るがなければ、この同じ場所に来るがいい」 アルテアは取り返した「運命の指輪」−−真紅のルビーだけを王に投げ返して言った。 ナポニドスは、ゆっくりとそれを元の指に戻した。 2 その日の昼間は、アッという間に過ぎ去った。 もっとも、人でいる最後の日というものは誰でもそういうものかもしれない。 もうティマの街に帰る訳にはいかなかったが、盗賊たちが作業に入る前に一箇所にかためておいたらしい水や食料のお陰でナポニドスは一息つくことができた。 (これが人として最後の食事になるやも) 再び沈む夕陽を眺めながら口に運ぶパンは味わう余裕もなかった。 (人でなくなればかの禿鷹たちのように、朋輩の肉を食しても平気になろう) 陽が翳ってからは、辺りを少し散歩してみた。 昨夜、大捕り物のあった蟻地獄の巣は、底にぽっかりと穴が開いたまま、特に何の気配も感じられない。 (だが奴は、いまだにこの底で悠然と次の獲物が掛かるのを待っているのに違いない) 考えると身の毛がよだつことだ。 やがて、満天に星の輝く頃になって、アルテアがティマの長老から分捕った空飛ぶ絨緞に乗ってやってきた。 「乗れ」 彼女はたった一言、そう言った。 王は一息に空中三尺に浮かぶ絨緞に飛び 乗った。 「おまえは、自分の望むものを手に入れる。あたしはあたしで、まだ持ってはいないものを手に入れる。 それでよいな?」 「それでよい」 ナポニドスは久しぶりに本来の威厳のある声で答えた。 絨緞は裾を翻らせてポッカリとひらいたままになっている蟻地獄の穴に急降下した。 王は長い絨緞の毛足にしがみついているのが精一杯だった。アルテアは掌で小さいが非常に明るい灯りを二つ作って、そのうち一つを王に投げてよこした。 それはわざわざ手に持っていなくても、宮殿にいた時に飼っていた手乗り文鳥のように主の回りに従ってきた。 縦穴は永遠に続くと思われるほど、長く果てしない地底に向かって掘り下げられていた。(砂漠といえども少し掘り下げれば、普通の土や岩であったり、水が染み出ていたりするものなのだな) 当り前のことを王は妙に感心した。 穴は次第に斜めになり、やがて水平になった。卵の形の広い空間では、例の巨大な蟻地獄が、砂時計のようにかすかに流れ落ちる砂粒を読みながら、次の獲物がかかるのを虎視耽々と待ち受けていた。 「触らぬなんとかに祟りなし」 王は思わず一人言を言った。 「よく言うよ。あたしたちこれからもっと恐ろしいものを触りに行くのに」 アルテアが呆れて肩をすくめた。 「そんなに恐ろしいものなのか?」 「くどい!」 「どんなふうに恐ろしいんだ?」 「そいつが完全に甦れば、いまの世界の姿は完璧に変わり、いまいる生き物のほとんどは死滅するだろう」 洞窟の奥に進むにつれて、いくつもの生きている−−または死んでいる蟻地獄の前をいくつも通り過ぎた。 奥のものほど、最初のもの−−普通に見かける蟻地獄を単に巨大にしたもの−−とは違う、蠕足が無数に生えたものや、触手を持つものなど、生物学の法則を無視したキマイラ的なものが目立つようになった。中には、深海生物に似た奇怪な物体に寄生されすっかり変質変色したようなものもいた。 「悠久の時を遡った大昔、この巨大な蟻地獄たちは、月の神シンの神殿の守護警備に携わっていた。 太古の幻の大地、ムーやアトランティスの神官や魔導士たちのうち、特に優れた者たちは、彼らが天然自然の存在ではなく、自分たちよりもさらなる以前に宇宙を駆けることのできる何者かによって創造され造られた存在であることに気付いた。 神官や魔導士たちは、従順に神殿を守る蟻地獄から、肉体を形造る始源の物質のうち、組み込まれたものを分離することに成功した。『これを犬や馬や人間に組み込むと、無敵の生物を造り出すことができるだろう』 彼らはそう考え、実行に移した…」 アルテアの言葉の通り、目の前には遠いギリシアの円柱に似た装飾のある列柱廊が続いていた。 「その一つが不老不死の肉、なのだな?」 永遠に生きることだけが目的のナポニドスにとって、その方法などはどうでもよかった。「厳密に言うと肉ではなく、もっともっと、とても尋常の目には見えない小さなものだ。 もっとも、病気に侵された臟腑を、豚などの臓器で代用して命を長らえさせる術もないではないが、あたしがいま言っているのはそれとは全く違う。身体を形造るもともとの物質に、それを組み込むのだ。 すると、普通は百歳も生きればいいほうの人間が、千年、万年と生き続けることができ、戦による傷などで大きく損傷した場合でも、アッという間に回復する。手足がちぎれるような大怪我を負っても、簡単に縫合でき、縫い目はまるで分からない。ちぎられた部分が敵に奪われたら、気合いもろとも欠損した部分を生やすことだって不可能ではない。 さらに、その物質は空間をねじ曲げることができるので、ねじ曲げた空間を伝って、まるで隣街に行くように、宇宙の果てまで旅することもできる」 (そうだ! それこそ余の望んでいた魔導士の日常だ!) アルテアに傷を治してもらって威力を目の当たりにしているナポニドスの胸は期待にはちきれんばかりだった。 だが、これまで数多の野望に取り憑かれた魔導士や神官、命知らずの盗賊が訪れた神殿跡は、足の踏み場もないぐらい徹底的に荒らされていた。 ある特定の目的を持った者にとっては全く意味のない壷や像は床に落とされて割られ、 祭壇は−−おそらく祭ってあったものを奪い去った後に−−黒焦げに焼かれていた。 「なんてひどい…」 艱難辛苦の末にようやくここまでたどり着いたナポニドスは、知らないうちに禁断の太古の神の信徒となっていた。 「新しき神の信者は、自分たちの神より古い神が存在することをあまり喜ばないからな」 少女は砕けた陶器の破片を爪先で蹴りながらつぶやいた。 「彼等−−この神殿を最初に建てた連中の名は分かっているのか?」 二人は瓦礫を踏みしめ、奥へと進んだ。 祭壇の真下に、さらに地下へと降りる階段が続いている。床の部分が奇妙なまでに広く高低はほとんどない奇妙な造りだ。 「それは残念ながら分かっていない。そのことを常軌を逸するまで探究した我が父アブドゥル・アルハザードにしてもついに知り得なかった事柄だ。 故にここは、古来より伝えられる通り『名もなき者の都市。無名都市』の一角としか呼びようがない」 祭壇の下はいやに天井の低い通路になっていた。ここからはアルテアもナポニドスも匍匐しなければならなかった。 ようやくひらけた場所に出ても天井は相変わらず低く、立つことはかなわなかった。 「あれは…」 隅のほうに二つ三つ固まっている物体を見て、王は息を飲んだ。 顔は蜥蜴そっくりの、手足は短くて這うことしかできないであろう、人と同じくらいの大きさの生き物が、蝉の抜け殻のようなカサカサの状態になって死んでいた。 「彼らがここ、無名都市の最初の住民だ。彼らが独特の科学文明−−主に生物学−−を展開し、我らがとても制御しきれない『神神』を掘り起こし、あるいは宇宙の彼方より召喚して、己の果てしない欲望を満たすために、利用しようとした者たちのなれの果てだ。 だが、神神は自信満々の彼らの手にすら 余った。栄華を誇った文明は一夜にして地中ないしは海底に没して、いまはご覧の通りのありさまだ。 彼らの身体には宇宙の果てにいる神の身体の一部が組み込まれている。 それを再利用しようと思えばできないことはなく、むしろいまはそれしか方法がないのだが、あそこに見える三体はすでに利用し尽くされていて滓になってしまっている」 (残念だ) 王は心底そう思った。 (神神の身体||肉体の一部を己のものにすれば、文字通り神の如く不死身の肉体と無敵の力、永遠の支配と快楽に身を委ねることができたのに…) それ以降、這い進みながら、王は目を皿のようにして通路の分岐点や崩れ落ちた壁龕の向こうに目を配った。 「あたしは先の未盗掘の地区を見てくるからおまえはここでしばらく待っていてくれ」 とあるいくつもの別れ道の前で、アルテアは言った。 「ここまで案内してくれただけでもう十分だ。後は自分で勝手に探させてくれ」 「何を言うか。僅かでも術を身に付けた後でならいざ知らず、いまのおまえはまだまるで術を知らないではないか。 このままでは明かりが消えても再びつけることも、空気を造り出すこともできない。 怪物に出会った時も戦う方法はなく、いざという時に一瞬にして脱出することもできない。だからここはおとなしく言うことを聞いて待っていろ」 けれども王はアルテアの姿が完全に見えなくなるのを確かめつつ、こう思った。 (あの小娘はあんなことを言っていたけれど実は自分がいいものを発見して一人占めするつもりに違いない) 王であった時、彼は誰の命令にも従う必要はなかった。 その習慣が、地獄の一丁目に来ていても出てしまった。 ゆっくりと、アルテアとは反対の方向に這い出すと、ものの数歩も進まないうちに床が抜け、まっさかさまに下へと落ちた。 3 幸い下は水−−地下水の泉だった。その水は清浄な塩水であった上、空気もまだ届いていた。 (余にはやはり神々の加護がある!) 王は思わず指に嵌めた赤いルビーを見た。 さらに泉はそう大きくはなく、少し泳ぐと(彼は幸い泳げた)黄緑色の光苔で縁取られた岸に着いた。 泉全体を見下ろせる位置にある凹みには、さっき見たのと同じような祭壇があった。 もっともこちらのほうは荒らされてもおらず焼かれてもいない。 斜めにかしいだ椅子−−玉座の形をしたそこには、黄金の衣装に身を包んだ蜥蜴人が座っていた。 ペリシテ人の神ダゴンと、シドン人の神バアルのことを、ナポニドスは思い出した。 彼らは深き海の深淵より来て、海の民に豊饒をもたらしたと言う… (「彼」の肉を喰えば、万病に効き、不老不死になれるのか…) アルテアが言っていたことをそう勝手に解釈した王は、異形の神が君臨する断崖絶壁をよじ登りはじめた。 しかし岩は一面水垢でぬるぬるになっており、何か特別な道具でもない限り、一段とて上がることはできそうになかった。 (ここまで来て… やはりあのこましゃくれた小娘の助力がないと無理なのか! せめてこの指先に蛸のような強力な吸盤でも付いていてくれればなあ…) そう思って手の指を見つめると、不思議なことに指先が盛り上がり、粘液がにじみ出して、望む通りになった。 (魔法だ。あの小娘が、余の指先を魔法でくっつけてくれた時から、余の指は魔法の指となったのだ!) ナポニドスは気を良くして、先ほどの岩壁にもう一度挑戦した。 すると、先ほどの苦労は嘘のように、簡単に上ることができた。 (こんなに力の強い吸盤なら、引き剥がす時は結構力がいるだろう) と思ったが全くの思い過ごしで、中に空気を入れようと念ずるだけで空気が入り、反対に抜いて吸盤の力を高めようと思えば、頭でそう念ずるだけで目に見えぬ小孔から空気を排出した。 王は階段を上がるように楽々と、蜥蜴人の王が座る玉座へと辿り着いた。 近くで見たその者は、王が所有していたどの宝石よりも素晴らしい宝石を身につけ、地底の湖から現れる何者かをただじっと待っているかのように湖面を見つめていた。 黄金の王笏には、ナポニドスがかつて一度も見たことのない蚯蚓がのたくったような文字で呪文らしきものが刻まれている。 とても大切なものらしく、蜥蜴人の王の手はしっかりとその柄を握りしめ、呪文を記した面を我が身に向けていた。 「死んでいるのか?」 ナポニドスは爬虫類の水掻きのある手にそっと触れてみた。 それは王族の遺骸を葬る時に着せる屍衣に似て冷たく、まるで生命の感触がしなかった。「遥かなる太古の、人ならぬ姿の種族よ。心あらば答えよ。汝は如何にしてその姿を今日まで残せしや?」 すると、黄金の手袋がピクリと動いた。 ナポニドスはビクッとして慌てて跳ねのき、もう一度黄金の椅子に腰掛けた その者の姿をよく見た。 『我を起こせし者は誰か?』 それは言葉ではなく、精神に直接訴えてくる音楽のような声だった。 「余はナポニドス。新バビロニア帝国最後の王にして、不老不死の術を望む者」 蜥蜴人の王はゆっくりと脂(やに)にまみれた眼をゆっくりと開いた。 『何と、鱗も甲皮もない! 龍の種族はどうなったのか?』 「龍の種族はいまより数千万年も前に、最後の一匹が死に絶えた。我ら人間は、化石や土偶や伝説でしかその存在を知らぬ。いまではその小さき末裔が人の足元を這うようにして、ひっそりと暮らしている」 ナポニドスはそう言って宝石袋を取り出し、刺繍された二匹の龍を示した。 『嘘じゃ! あの強大を誇り、二億年もの間世界を我が物としていた龍の帝国が跡形もなく滅び、貴王ら、毛の生えた肌を持つ者が地を治めていると言うのか?』 蜥蜴人の王は、すっかり白く濁って腐りかけた眼玉で、それらのものをもっとよく見ようとした。 「貴王には残念なことだろうが、嘘ではない。 龍の血統は絶え、地は人が支配している」『信じられん… あの、世界が終末するまで君臨し続けるであろうと思われていた我等がいとも簡単に滅亡してしまうとは? −−して、その原因や如何に?』 興奮の余り、蜥蜴人の王は黄金の玉座から身を乗り出し、立ち上がりかけた。 「原因はよくは判ってはいない。気候の激変、地殻の変動、龍族のみが侵される疫病の蔓延、隕石や彗星の激突などと、説はいろいろあるが、我等の学者も未だに解き明かすに至ってはいない」 『そうか… では久しぶりにここから出ても地上にはもう都はなく、民もおらぬのだな』「それどころか、貴王を守ってこの洞窟を守っていた御家来衆もみんな貧欲な墓荒らしどもにやられて、生き残っているのは貴方だけだ」 蜥蜴人の王はほとんど見えない目に透き通った涙を溢れさせた。 『こんなことなら皆と一緒に死んでいたほうが良かった…』 「莫迦な! いままで生き長らえて楽しかったことは一つもなかった、と言うのか?」 「酒を飲もうにも酒はなく、愛する者と語ろうにも相手はなく、気晴らしをしようにも街も森も河もなく、戦を仕掛けようにも敵はなく、財宝を集めても自慢する相手がいない。 こんな状態で生き長らえても、何が楽しいことがあろう。 それに、この術を得た者は、一日が千年、一月が万年、一年が億年の感じで過ぎてゆく。 新たに友を得ようとしても、同じ術を掛けて貰った者しかなり得ない。そのような愚か者はここ何億年待っても、誰も現れなかった』「余がその術を望む者だ!」 ナポニドスはこらえ切れなくなって叫んだ。「−−余がそなたの友となり、今後永劫の時を越えて、世界宇宙の消滅まで見届けようではないか!」 『正気か、ナポニドス?』 蜥蜴人の王は涙を振り払い、今度こそ必死で立ち上がった。 「正気だとも! 余はそのためにはるばると苦難の旅の末にやっとここまでたどり着いたのだ。 思うに貴王は果てしなき時の流れに流されて、退屈をしたのであろう? 余はまだ人として六十年しかこの世に生きておらぬ。今後二億年は退屈せぬ自信がある。一日が千年の割合で過ぎるのならなおさらだ」 『神でもないのに神の時間を過ごすことになるのだぞ』 「嬉しいではないか! 神でもないのに神の域に近づけるのだ。それも人として初めてな。 それこそ我が望み、本望だ!」 「よく言った。それでこそあたしが見込んだ者だ」 ようやくこの場所を捜し当てたのか、空間が揺らめきアルテアが実体化した。 「娘、邪魔をするな。この聖域は余が最初に見つけたのだ。故に不老不死の術を授かる権利は余のものだ」 「そんなもの、あたしは別に欲しいとは思わないよ」 魔導士の少女は「フン」と鼻を鳴らした。「−−でもせっかくだから、あんたが化け物になるところを一つ見物させてもらおうか」「何ッ! 化け物だと?」 「そうさ。何億年も、たった一つの身体で生き続けるなど、邪悪なる神でないならば化け物に決まっているだろう?」 アルテアはまたマントを形のよい尻の下に敷いて、近くの張り出した岩の上に胡座した。 ふと、地底湖の湖面に目をやると、小さな水泡がいくつも上がっていた。 水面は次第に波立ち、嵐の海のように大きく揺れた。 ふいに、水の中から何本かの触手が伸び出したかと思うと、蜥蜴人の王の手や足や胴や首筋に巻き付き、締め上げた。 蜥蜴人の王の身体は一瞬にしてバラバラに引きちぎられたが、中は血も肉もない、蝉の抜け殻に似た存在だった。 「そんな莫迦な!」 ナポニドスは信じられないといった表情で、亡骸に膝まづき、顔を近づけてがらんどうの内側を見た。 すると、蟻地獄を釣り上げるのに使った芋虫の、蛆くらいの大きさのものが一面に張りついていたのが、触手の吻門を通して引き揚げて行くところだった。 他には、無数の球形や四角形のクラゲの幼体のような小さな生物が内壁から離れ、こちらは空中をふわふわと漂いながら、地底湖に落ちていった。 「彼は生きていたんじゃあない。生かされていたんだ、無理やり、あいつらによって」 アルテアは肩をすくめた。その目は瞬き一つしないで湖に次第に姿を現しつつある邪悪な生命を見つめている。 「いいんだ。余はまさにこの状態を望んでいたのだ」 この後に及んでナポニドスはまだ永遠の命に固執していた。 やがて、何本かの触手が人の王の体に巻きつき、赤い血や、内臓や、灰色の脳髄などを吸い取り、代わりにおのれの体液であるまがまがしい下等生物を注入し始めた。 「ほら見ろ! 痛くも痒くもない! 余はこのように正気を保っておる。これからこの太古の神を率いて地上に戻り、この星の全てを支配してくれよう!」 口から灰緑色の泡を吐き散らしながら、王は触手で支えられた手足を壊れた繰り人形のようにじたばたさせた。 ゴボゴボという水音をたてつつ、波はさらに大きく盛り上がり、湖の主が全身を現した。「それ」は目の前の玉座に掛けている、肌のすべすべした二本足の奇妙な生物を見て、悠久何億年もかけて、この星の地上の支配生物がまたしても交替したことを知った。 知識も力もまるで大したことはない。 −−真に宇宙の始まりはどうであったか、その果てには何があるのか、生命はどうやって造られたか、時とは、永遠とはどういうことか、あの物知らずの蜥蜴人よりさらに物知らずである。 湖の主は相当失望した。 数億年ぶりに目を覚ましてみたのはいいがこの弱々しく極めていい加減な生き物は何だ?−−まあよい、これは何か重大な行き違いなのだ。こんな連中の天下などはものの百万年も続くまい… 巨大なバルーン状の頭部にある無数の複眼の多くが開きかけて閉じられた。 「お待ち下さい、我が外なる神よ!」 ナポニドスはさっさと水中に姿を隠そうとする相手に向かって叫んだ。 「なにとぞ我に貴神の代理としての力もお与え下さい!」 阿呆か、こいつは? 貴様に力を授けるくらいなら、猿に雷(いかづち)を、鯨に津波を、鳥に烈風を、土龍に烈震を与えたほうがよほどましというものだ。 無数の触手をゆっくりと引き上げ、樹齢数万年の鱗木に似た胴体に収納した外なる神は現れた時と同じくらいの緩慢さで、ゆっくりとその身体を湖面に沈ませはじめた。 「お待ち下さい!」 ナポニドスは立ち上がろうとしたが、身体じゅうに送り込まれた異界の生物が鉄線よりも強い糸を吐き出し、王の身体を玉座に縫い付けてしまっていた。 「おい、そこの娘、おまえは魔導士なのだろう? おまえからも頼んでみてくれ!」 「だめだね。この世界一の魔導士だったあたしの父でもだめだったんだ」 アルテアは水中に没したものが残したいくつもの波紋を飽きずにじっと眺め続けている。「この宝石袋の宝石は全部おまえにやる。余はこれで不死身の身体になったはずなのだ。 この身体でもう一度地上へと出て、兵を起こせば必ずや…」 「あなたは囮なのさ」 少女は岩の階(きざはし)の上でゆっくりと立ち上がり、そっけなく言った。 「−−『古の神の力を借りて永遠の生命を得た者がいる』『その方法がある』 数億年に一度噂を聞きつけてのこのことやってくる愚か者の記憶神経を喰うことによって横着者の邪悪なる神は、それまでこの世界に起こったもろもろのことを知る訳だ」 「そんな…」 ナポニドスは自分がティマの街の長老や、盗賊たちと同じ、釣り針に引っ掛ける下等な餌に過ぎなかったことを悟って愕然とした。「次の愚かな獲物が掛かるまで、あんたの使命は終わらない。不老不死はそのための条件−−まあ防腐剤のようなものさ。 自分が言っていたようにせいぜい楽しみな」 アルテアは微笑みながら消えた。 こうして、まだ宮殿にいた時、王が毎晩見ていた悪夢は、ついに本物となってしまった。 KIJISUKE@aol.com