アーク・ガーディアン 02/05/19

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  アクスム発、ベルリン宛
  「エニグマ」暗号による極秘電報

  ナチス親衛隊総監ハインリッヒ・ヒムラー閣下
  情報部、エーリッヒ・リヒター

  一九三五年、一○月五日
  総統万歳!
  事は全て着々と当方の都合のよいように運んでおります。イタリア軍のピエトロ・バドリキ将軍はようやくアドワを陥落させました。
  一八九六年、エリトリアから侵冦したエミリオ・デ・ボーノ将軍が、派遣軍一万六千のうち六千人を失った敗戦の雪辱を、やっと遂げたようです。
  皇帝ハイレセラシエはまだアジスアベバに頑張っています。装備の古いエチオピア軍と、憶病者揃いのイタリア軍−−最終的に決着が着くまでにはまだまだ半年以上かかるでしょう。
  私は何とか聖櫃の街に入り込むことができたので、与えられた任務を迅速かつ確実に果たしたく存じます。
「聖櫃」は新秩序の救世主たる総統及び世界に冠たるドイツ民族、勝利を勝ち取る我が親衛隊にこそ相応しきもの。黒い肌の連中はもちろん、頭の中にパスタの詰まった空威張りだけが取り柄の怠け者たちには過ぎたものです。
  安心してお任せ下さい。


  一九三五年、一一月。

  勝利万歳!
  折り返しのご命令の中に、お届け申し上げている不肖私の履歴と親衛隊入隊の動機をさらに詳述せよ、とございました故、いささか自己宣伝めきますが、述べさせていただきます。
  履歴書にあります通り、私は一九一○年ベルリンの生まれであります。両親は二人とも大学の言語学の教授で、世界各地の滅び行く言語−−チベット奥地だけで話される方言や、ミクロネシアのロンゴロンゴ文字、マヴァールやトレーン、ウクバルと言ったいまでは国家そのものの存在も証明できない滅亡国家の言葉、インドの神殿に保管されているムー大陸の象形文字、アトランティスの線文字やハイパーポリア、果ては人類のものではないとされるルルイエ文字−−の収集と解読を専攻しておりました。
  幼かった私も両親に連れられ、世界中の国々を転々とするうちに、二○以上の主だった国の言葉を習得致しました。加えてかたことの生活言語ならば五○以上の言葉を話す自信があります。
  従ってここ東アフリカの乾いた酸素の乏しい高地の中にあっても、会話に不自由を感じたことはありません。
  親衛隊に志願させて頂いた動機は次の通りです。
  あれは一九三三年、ヒトラー総統が晴れて一つの民族、一つの帝国を統べることとなり無数の松明行列で国民全員に迎えられてからほどなくのこと…
  それまで己の研究を全うするため大学に残る決心をしていた私が、何気無くベルリンの繁華街を歩いておりますと…
  すぐ後ろから奇妙な言葉が聞こえてきたのであります。
  それはドイツ語でもフランス語でも、英語でもイタリア語でもありません。トルコやセルビア、中東やアフリカのいかなる国の言葉でもなく、中国や日本をはじめとするどのアジアの言葉でもなく、南アメリカの原住民の言葉でもありませんでした。
「復活ノ日ハ近イ」
  一人がくぐもった声でハッキリとそう言いました。超古代のルルイエの言葉でです。
「永劫ナル時ノ流レの果テニハ死スラ死ヲ迎エン」
  もう一人が答えました。
  わたしは全身に冷水を浴びせられたように感じました。なぜならその言葉の存在を知る者はごく僅かで、話せる者となると全世界に五人といなかったからです。
  二人の謎の男たちも「よもや」と思って油断していたのでしょう。ところがどっこい、総統閣下のお膝下では大胆不敵過ぎる会話だったのです。
  愕然として思わず聞き耳を立ててしまった私に、彼等も気付いたようでした。そこで慌てて言語を変更しました。その言葉はさすがのわたしにも何語であるか分かりませんでした。後で思い出したり調べたりすることもあるだろうと思って発音記号の状態で記憶するのがやっとでした。
  二人はもうそれ以上は喋りません。
  歩くスピードを落とし、自然に追い抜かせる呈で二人の横顔を見ると、鰓の張った魚面の男たちでした。
  その時私はこう思いました。
(彼等のような連中こそ、ゲッペルス宣伝相がいつもおっしゃっている『アーリア人種の富を喰い尽くしているおぞましき劣等民族』に違いない。いかなる陰謀企みか、栄光あるドイツを蚕食し、滅ぼそうとしている輩である、と)
  早速後をつけようとしたところ、二人はとある角を曲がったところで文字通り忽然と消えてしまったのです。わたしの懐疑はますます募りました。
  帰宅後、メモした発音記号から、魚面の男たちが最後に話した会話が何語でどんな意味だったのかしらべようとしました。
  それは私が学び記憶しているどの言葉でもありません。抑揚も語尾も世界中のどの言葉−−すでに滅んだ国の言葉も含めて−−にも類似したものがありません。とにかく見当もつかないのです。
  大学の広い図書館いっぱい、天井まで積み上げられた万巻の書物、言語を収録したレコードにも触れたものがありません。
  両親がいれば分かったかもしれませんが、エスキモーの言葉を蒐集するために北極に赴いたきり行方不明となったままで、どうにもなりません。
  両親を除けば、帝国内に私を越える知識の持ち主はおりません…  焦りと挫折感は日に日に増し、仕事も手に着かなくなってしまいました。
  その時、ふとある考えが閃きました。
(彼等は私が立ち聞きしたことを察して言語を変えた。ということは、後の言葉は新たに人為的に造られた暗号ではないか?)
  数日考えた末、書類を整え親衛隊情報部に志願させて頂きました。幸い幹部候補として採用になり、現在に至っております。
  残念ながら彼等が最後に話した暗号は未だに解読には至っておりません。我が『エニグマ』と同様に、よく出来た暗号は解読表がなければ、全ての組み合わせを検討するのに何十年−−もしくは何百年とかかります。

  目的の品物を神神しき総大理石造りの親衛隊宮殿にて総統閣下に献上できる日もそう遠くないことと存じます。
  増援が必要になった時にはぜひともよろしくお願い申し上げます。
  あれが総統のものになれば、敵たちは恐れおののき、不穏分子も跡形なく一掃されることでありましょう。


  一九三六年一月

  輝かしき新年を栄光溢れる鉤十字の旗の下に迎えることをこの上なき栄誉に思います。

  過日、ここアクスムにて「タボットの祭り」なるものを観光致しました。
「タボット」とは、旧約聖書において、モーゼが神から渡された十戒を刻んだ石板をコピーしたもので、ある特殊な木の板です。
  エチオピア正教の教会ならば、どの教会にもこのタボットがあります。
  何故十戒を刻んだ石板のコピーがこんなところにたくさんあるのか−−
 いまから三○○○年前に、ユダヤの王ソロモンを訪ねたシバの女王。
  ソロモンの子である男子を生んだ女王は、十戒を刻んだ石板を収納した聖櫃を貰うか借り出すことに成功しました。一説によるとソロモンはユダヤの滅亡を予見して、聖櫃を彼女に預けたのだ、と言います。ソロモン王とシバの女王の子メネリクは、エチオピアの初代皇帝となりました。
  この縁からか、歴代エチオピア皇帝の城や墓にはユダヤのシンボルであるダヴィデの星が刻まれ、国民の一部はユダヤ教徒です。
  祭りでは各教会からそれぞれのタボットが神輿に乗せられて司祭らと練り歩き、人々はそれを拝んで十字を切ります。ですが全てのタボットには布が掛けられて、直接目で見ることはできません。
  タボット造りの職人は一子相伝で、どのようにして造るか?  どんなものか?  と言った質問には一切答えてくれません。また、一つのタボットを製作するには五年以上かかるそうです…


  一九三六年二月

  総統万歳!
  三○○○年前にエルサレムのソロモンの神殿より持ち出されたという聖櫃−−その聖櫃が隠されていると言う聖マリア・シオン教会についての下調べを終わりました。
  伝説によると、聖櫃はこの教会の地下深く渦巻き状の迷路の真ん中に隠されている、らしいです。
  守るのは聖櫃守護者と呼ばれる僧侶一人。聖櫃守護者は一旦任命されると終身その仕事に当り、街の外はおろか、教会の敷地の外に出ることすら許されません。
  現在の守護者はカイムと言う七○代の老人で、かれこれ四○年以上任についております。
  部外者はもちろん、歴代の皇帝たちですら聖櫃を直接見た者はおりません。また守護者と話をすることもできません
  すでに貿易商や新聞記者を装って潜入した一騎当千の部下たちが結集し、強行突破も可能ですが、問題の地下の聖櫃が囮であった場合も考えて、もう少し情報を収集し、出来れば隠密裡に奪取したく存じます…


  一九三六年  三月六日

  きのう、マリア・シオン教会に礼拝を装って偵察に参りました。手垢で黒光りしている素朴な木製の長椅子が並んだ正面には、同じく木製の荘厳な十字架が掲げられています。
  と、膝まずいて神に帝国と総統の勝利を祈念する私のすぐ横に、一人の現地人の少年がやってきて一心不乱に祈り始めました。
  他人の存在など目に入らないほど切羽詰まっていたのでしょうか、祈りの文句がはっきりと聞こえました。
「神様、どうか妹の命をお助け下さい。ぼくはどうなっても構いません。どうか妹エイリアの心臓病をお治し下さい…」
  黒い瞳からは涙が伝い落ち、後は言葉にならない言葉でこう言いました。
「…そのためには何でもします。本当に何でもします。ですから神様、どうか…」
  即座に私の頭にひらめくものがありました。
(ひょっとしたら、使えるのではないか)と。
  そこで、自分が祈り終えた後、ゆっくりと彼のほうを向いて、こう言いました。
「『何でもする』?  妹の命を救うためなら本当に何でもするのかね?」
「します」
  少年は鼻水をすすりながら答えました。
「神様が禁じたことでも?」
「神様なんているもんか」
  敬虔なキリスト教徒やユダヤ教徒の多いこの国では、例え子供でも動悸の高まる言葉でした。
「−−ぼくは毎日毎日一生懸命祈りに来た。なのに神様はぼくの祈りを聞き届けては下さらない。妹の身体は悪くなるばかりだ。と言うことは、神なんかいやしない、仮にいたとしてもぼくの願いなんかは聞き届けてくれないということだ」
「おじさんの知り合いにとても優れたお医者さまがいるんだ。彼が妹さんの病気を治したら、おじさんの願いも聞いてくれるかな?」「医者…」
  少年は目を丸くして言葉に詰まりました。「−−心配しなくてもいい。願いを聞いてくれればお金はいらない。それどころか、手間賃を払ってもいい。それにおじさんはキミにできないことなんか頼んだりはしない」
  私の頭の中にはたまたま現地に来ている総統侍医のヨゼフ・メンゲレ博士のことが思い浮かびました。彼は心臓外科の権威です。
「本当にお医者さまに診てもらえるのか?」「妹さんが治らなければ、キミは何もしなくてもいい」
  あまりの驚きのせいか、少年は私の顔をそれこそ神のように仰ぎ見るばかりです。
「−−たった一つだけ、あらかじめ分かっておいて欲しいことがある」
「それは?」
「おじさんは悪魔だ。それでもいいかな?」
  少年は動じません。
「いいよ」
「もしも妹さんが無事に治っても、キミが約束を破れば、キミも妹さんも、村のみんなもただでは済まない。それでもいいかな」
「村のみんなは何もしてくれない。妹の時も、他の誰かが重い病気や怪我をした時も、お医者様を呼んではくれないんだ。『あれ』さえ見せれば、お金なんかはいくらでも入ってくると言うのに…」
  私は勝利を確信しました。現地に来て半年弱。作戦はさらに大きく前進です。
「おじさんはエーリッヒ・リヒターだ」
  党員章の入ったベルリン大学助教授の名刺を出して、現地の言葉でフリガナを振って渡してやると、彼はそれをギュッと強く握りました。
「ぼくはアベル。約束は絶対に守るよ」


  三月八日

  作戦上の打合せのため、アクスムに来ているメンゲレ博士とホテルで落ち合いました。メンゲレはいつものようにバリッとアイロンを当てた白い麻の背広に下ろし立てのパナマ帽をかぶっていました。
「−−すると何かリヒター、他でもないこのわしにどこの馬の骨とも分からぬ原住民の小娘の治療をせよ、と言うのか?」
  メンゲレは両隣の部屋に響かんばかりに声を荒げ、鞄をテーブルに叩きつけました。
「落ち着けヨーゼフ。全ては聖櫃を手にいれるため、総統閣下のためなのだ」
  この件に関して私は全権を委ねられております。私が必要だと思って出す命令は総統のご命令。その気になればUボートにナイル川を溯らせることだってできるのです。
「その餓鬼は一体何様だというのだ」
  博士は未だにブツブツ言っております。
「だから、聖マリア・シオン教会に出入りしている萬屋の丁稚小僧なのだ。彼ならば不審がられず地下に近付くこともできれば、手引きさせることもできる」
「金で何とかならぬのか、金で?」
「子供を抱き込むには金よりも劇的な演出のほうが勝っている。数年間神に祈り続けても治らなかった妹の病気を治してみせれば、彼は神よりも我々の偉大な科学力のほうを信じるようになるだろう」
「チッ!」と舌打ちした後、メンゲレは血走った目で私を睨み付け、こう言いました。「この借りは安くはないぞ、リヒター!」
  高いも安いも、決まった方針に価値はありません。価値はその結果にあります。

  我々はその日のうちに傷病兵で溢れかえり、無数の蝿が飛び交うアクスムの病院でアベルの妹エイリアを診察することになりました。
  ベッドの上に横たわった七、八歳の少女は骨と皮ばかりに痩せ細っており、いかにメンゲレの技術をもってしても、手術に耐え得るかどうか不安を感じさせます。
「どうでしょうか、先生!」
  アベルは必死です。
「わしはその気になれば、肉片一つから死者を甦らせることもできる」
  博士は少年を部屋から叩き出すと、こんなに使えば死ぬと思うぐらい大量の麻酔薬を少女の枯木のような腕に注射し、休む間もなく銀色に光り輝くメスをその胸に突き立てました。
  付き従うのは能面のように表情のない博士専属の看護婦のみ。あとの看護婦は皆追い出されています。
「解剖用の死体じゃないぞ。もっと丁寧にやれ」
  私が部屋のすぐ外の廊下にいるアベルに聞かれぬように小声で囁くと、メンゲレの手つきはさらに荒っぽくなり、手術台の上はたちまち血まみれになりました。
「文句があるのならキミがやりたまえ、情報部員殿」
  膿盆の上に茶色く病変した心臓を私に手渡した彼の瞳は凍り付いたみたいにビクとも動きません。
  看護婦が持ってきたガラス容器の中の黄色い液体の中には、子供のものと思われる薔薇色の心臓がプカリプカリと浮いています。どうやら博士は世界中のどの医師もまだ成功していない心臓の移植をするつもりのようでした。
「この心臓はどうしたんだ」
「そんなことどうでもいいだろう。おまえさんがわしに命じたのは、この小娘を治せ、ということだった。細かいところまであれこれ指図される筋合いはない!」
「そうはいかない。この件に関してぼくの質問は総統閣下の質問だ」
「流れ弾丸に頭を撃ち抜かれた気の毒な子供の死体から取り出したんだよ」
  血管と血管、神経と神経を驚くべき速さと正確さで縫い合わせながら、博士はマスク越しのくぐもった声でうそぶきます。
  手術はかなりの長い時間に及び、輸血用のO型血液が大量に使用されたために、同じように手術を待っていたイタリア軍兵士のうちの何名かが死亡しました。
「さてと、わしはベルリンに戻る。こんなところで雑用に振り回されていたのではたまらん」
  最後に縫合する直前、博士は看護婦に命じてガラスの標本筒のようなものがならんだアタッシュ・ケースを持ってこさせました。
  今度は様々な大きさや形の腔腸動物が浮かんでいます…
「それは?」
  私が眉を潜めると、メンゲレはまるで何か大切なことを思い出したかのような感じで鋭く言いました。
「リヒター君。すまないがもう見学するのはやめてくれたまえ。これから少しだけ神経を使う作業をするのでね。大丈夫。手術は成功だ。後の作戦は君の手際次第だ」
  医学関係者でなくともはなはだ興味深い手術。最後まで見届けたい気持はやまやまだったのですが、普段から逆らい難い博士が、珍しく丁寧な口調。逆らい難さはさらに増し、私は軽く黙礼して手術室を出ました。
「リヒターさん、妹は?」
  アベルが走り寄ってきて尋ねます。
「大丈夫。よくなるそうだ。メンゲレ博士が言ったのだから絶対に間違いはないさ」
「本当に?」
  少年の表情がホッと緩みかけた瞬間、天地を引き裂かんばかりの少女の咆哮が病院じゅうに響き渡りました。
「エイリア!」
  アベルは引き留めようとする私を振り切って手術室に突進しました。
  私はこれ以上メンゲレ博士の邪魔をするのはさすがにヤバいと思ったので、視線を床に落としてあれこれ言い訳を考え始めました。
  ところが…
「どうかしたのかね?」
  博士は「地獄の天使」の仇名そのままの、相手をゾッとさせる冷たい微笑を浮かべながら、手術を終えたばかりの、縫合の後もなま生々しい裸の少女の手を取って立ち上がらせていたのです。
「エイリア!」
  少年は妹に走りよります。
「お兄ちゃん…」
  私は信じられませんでした。あの大手術のあと、麻酔からもまだ醒めていないだろうに少女は立ち上がり、兄と抱き合って言葉を交わしているのです。
「気分はどうだい?」
「とってもいいわ。いままでの痛かったことや苦しかったことがまるで嘘のよう…」
「それはよかった…  本当によかった…」
「小僧約束は分かっているだろうな?」
  メンゲレはまだよく洗っていない、ところどころに血の付いた手で少年の首を締め上げました。
「わ、分かっているさ」
「おい、後は私に任せろ!」
  慌てて二人を引き離し、少年と少女を部屋から出したあと、メンゲレは煙草に火をつけ一服しながら言いました。
「リヒター君。伝説によると聖櫃は想像を絶する怪物が守護しているらしいぞ。そいつが本当のアーク・ガーディアンと呼ばれるものだ。もし何ならあのエイリアとか言う小娘も探索に連れていくことだ。意外と役に立つかもしれない…」

  その夜はアベルとエイリアとその一族を囲んでのささやかな宴が張られました。
  二人の両親はうやうやしく私の手を取って膝まづいて何度も何度も礼を述べます。
「本当にお金はいいのでしょうか?」
  父親が不安げに尋ねます。
「よいのです。よいのです」
「それにしても、たった一日ですっかり良くなるなんて、まるで魔法のようです」
  母親の化粧は嬉し涙でぐしゃぐしゃです。「それを言うなら、飛行機も潜水艦もみな魔法ですよ」
  葡萄酒が継ぎ足され、賛美歌が歌われました。ランプの明かりにほの赤く浮かび上がる磔刑像が我々をじっと眺めています。少しおぼつかなくなった足取りで泥造りの家の外に出ると、夜空には満天の星が輝いていました。「ぼく、約束は必ず守るよ」
  気が付くと、傍らにアベルがいました。
「ああ、頼むぞ」
  私は薄いエチオピア高地の空気をゆっくりと深呼吸して言いました。
「おじさんは聖櫃を見たいんだろう?」
(察しのいい子供だ) そう思いました。「聖櫃はやはりあそこに−−聖マリア・シオン教会の地下にあるのかな?」
  やや間がありました。
「あるよ。シバの女王がソロモン王から預かった、十戒の石板を収めた箱だろう?」
「守護者が守っている、という噂だが」
  トルコの紙巻き煙草に火をつけ、腰をかがめて少年の顔を覗き込みました。
「ああ、そうだよ。守っている」
「拳銃で脅して縛り上げれば通れるだろうか?」
「そんな必要はないよ」
「と言うと?」
「現在の聖櫃守護者のカイム爺さんは盲目で身体も不自由なんだ。おまけに一日中眠っている…」
  正直言って拍子抜けしました。そう大したことのないものにいままで恐れおののいていた自分が莫迦莫迦しくさえ思えました。

  三月二一日

  アベル少年より「聖マリア・シオン教会に大きな荷物が運び込まれる予定」との連絡を受け、彼の手引きで馬車に積まれたつづらの一つ−−リネンの入った箱−−に隠れることにしました。
「早く!  門番の坊さんたちは屈強な上に目だってちゃんと見えているんだ」
  大人一人の空間を作るべく、反物をのけているうちに、黒く光る二つの目玉が現れ、思わず声を上げそうになると、聞き覚えのある声で
「あたしも聖櫃を見たい」
  と囁くではありませんか。
「エイリア!」
「シーッ!  あたし、メンゲレ先生から探索に同行するように命じられているの」
「メンゲレが?」
「先生によると、あたし、手術のついでにとても不思議な力を授かったらしいの」
「どんな?」
  今度は私が頭を悩ませる番になったようです。それならそれで事前にちゃんと打合せをしておくべきだったのに…
「まだ分からないんだけど、とにかく凄い力らしいの」
「足手まといだ!  さっさと降りろ!」
「嫌だ!  あたしも聖櫃が見たい。あたしの病気を治せなかったインチキな聖櫃ならジロジロ見たって目は潰れないし、祟りなんかもあるもんか!」
「もうじき着くぞ!  静かに!」
  御者台の上からアベルが低く叫びます。
「やあアベル、今日はやけに荷物が多いな」
  門番の若い僧侶の声がしました。
「もうじき復活祭だからね」
「荷降ろしを手伝おうか?」
  軍人崩れらしいもう一人の門番の僧侶のいかめしい声。
「いやいいよ。ぼくの仕事なんだから取らないでくれよ」
「遠慮するなよ。我々は暇だし、誰もおまえの仕事を奪ったりしないから」
「でも持ち場を離れたら…」
「なあに、こんなショボくれた教会に押し入って賽銭を盗む奴なんかいるものか」
「街で気になる噂を聞いたんだ」
  アベルが声を潜めて言いました。
「−−ナチスがこの教会の地下の聖櫃を狙っているんだって」
「何だって!  あいつらユダヤ人が嫌いじゃあなかったのか?」
  二人の門番は仰天した様子でした。
「嫌いさ。だから心の支えにしている聖櫃を奪って鼻を明かしてやるつもりじゃあないかな。それに聖櫃には古代の素晴らしい力が隠されているとも言うし…」
「それは用心しなければ…」
  二人は慌てて持ち場に戻ったようです。
  馬車は勝手口に止まり、そこでいくつかの荷物を降ろしました。
「やあアベル、今日はどうも雲の動きがおかしいね」
  厨房係の坊さんが、果物の一つを味見ついでにかじります。
  エチオピアの大きな湖に浮かんだいくつかの島には、世間と全く隔絶した修道院がいくつもあり、そこでは正確な時間を知るために天体の運行を学び、自らの影の角度を時計とする修行を積んだ僧侶がいると聞きます。
  彼もまたどこかでそのような秘伝を伝え受けた一人なのでしょうか。
「そうかな。ぼくはいい天気のように思うけど」
「いや、変だ。イタリア軍が再びわが国に攻めてきたあの日よりもさらに一層不気味な雲の動きだ」
「戦況は硬着しているし、首都アジスアベバも皇帝陛下もいましばらくは大丈夫だよ」
「そんなんじゃあないんだ。何かこう、とんでもないことの前触れというか…  蝗が大発生するような…」
「考え過ぎだよ。主は申された『明日を思い煩うな。明日は明日のみが思い煩う…』」
「そうだよな。しかし気になる…」
  アベルはまだ何かをぶつぶつと繰り返している厨房係を見捨てて、老いた馬にピシリと鞭を当て、そこからさらに奥にある物置小屋へと進みました。
「着いたよ。誰も見ていない。そっと出てきて」
  少年に促されて私とエイリアは箱から出ました。二人ともちょっと目には化けの皮が剥がれないように僧侶と稚児の衣装を纏っています。
  もしも見咎められられたら、とりあえず他の教会から来た使者になりすます予定です。
  それを証明する書類や手紙はあらかじめ入念に偽造してありますし、髪の毛を黒く染めてパーマを当て、顔や手には茶色の靴墨を塗った私のメーキャップも我ながらなかなかのもの…
  幸い、と言うか予定通り誰にも会わずに地下への階段のところまで来ることができました。
  教会の中庭に面した小部屋の入口で、窓から差し込む黄色く淡い太陽の光を浴びながら、聖櫃守護者のカイム老人は軽く目を閉じ、柔和な微笑みを浮かべながら立っています…
「三人もいるんだ。たとえ目が見えなくとも足音や気配で気付かれてしまう。廁か食事か眠るのを待とう」
「カイム爺さんは廁にも行かないし、食事も摂らないし、眠りもしないよ」
「莫迦な。…それはアベル、君がここに昼間しか出入りしていないからだ。夜になれば爺さんも食事をし、廁にも行き、寝所で寝ているんだ」
「大きな儀式の前や急な葬儀の時に、何回も泊まり込みで準備を手伝ったことがあるけど、夜中もずっとあのままでじっとしているよ」「まさか、ミイラじゃあるまいし」
「ミイラじゃないよ。話し掛けてこようか」「余計なことはしなくていい!  とにかくしばらく様子を見ながら席を外すのを待つぞ」
  しかしアベルの言った通りでした。やがて陽が西に傾き、夜の帷が降りても聖櫃守護者の老人は微動だにしません。逆にこちらのほうが回廊を渡る夜気と緊張で廁に行きたくなり、腹もすいてくるという始末…
  メンゲレ博士がいれば、ゲシュタポに命じて老僧侶を捕まえて、生体解剖でもやりかねなかったでしょう。「人間の代謝機能を極限まで落としめる方法云々…」とか何とか難しい小理屈を並べて。
「本当に前を横切っても大丈夫か?」
「ぼくはイタズラで何度も行ったり来たりしたけれど何も言われなかったよ」
「やっぱり死んでいるんじゃあ?」
「話し掛けてごらんよ。ちゃんと返事してくれるから」
  私は決意しました。いざとなったらナイフもワルサーもあります。それに「カイム老人はやはり死んでいる」という希望的観測も捨てた訳ではありません。
「エイリア、やはりおまえはここに残れ」
  私は何枚かの紙幣を少女の手に握らせて命じました。
「やだ!  あたしも行くもん!」
「アベル、何とかしろ」
「妹にとって貴方は命の恩人だ、リヒターさん。貴方の国では人から受けた恩は返さなくていいのか?」
「だから、それはキミがこうやって教会に潜入させてくれたことでもう返して貰っている。あとは邪魔をしないことが最大の協力だ」
「でも貴方の使命は聖櫃を見ることなんでしょう?  地下に第二、第三の守護者がいて襲い掛かってきたらどうするつもりです?」「その時はあたしとお兄ちゃんが囮になる」「分かった、分かった!」
  私は珍しくやけくそになりました。一人でも三人でも靴音や気配にそう差があるとは思えません…
  ソッと足音を忍ばせ、できるだけ気配を消してカイム老人の前を通りました。チラリと覗き見た限り、かすかに浅く息をしていて、なるほどミイラではないようです。
  ただ、半眼に閉じた目といい、ほとんど動かない身体といい、術に掛けられた−−と言うか自ら術を掛けて半分意識下、半分は無意識の状態になったような感じがしました。
  通り過ぎる瞬間、私は「もし彼に話しかけたらどうなるだろう?」という押しとどめ難い誘惑に駆られました。
 闖入者の存在に気付いた老僧侶は烈火の如く怒るのか、掟を静かに説くのか、それともいきなり攻撃してくるのか、はなはだ興味を禁じ得ませんでした。おそらく「総統の御為、聖櫃を手に入手する」という大目的がなければきっとそうしていたことと思います。
「おまえは何のためにそうしているのか?
黙って通って行く者に気が付かないのなら一生立っ放しでいてもまるで役に立っていないのではないか?  そもそも聖櫃が重要なものなのであれば、おまけに全く人の目に触れさせないものであれば、おまえのような年寄りが番をしているよりも分厚い扉と頑丈な鍵で封印してしまったほうが安心なのではないか?」
  奇妙な話ですが、何も問わなかった私は、首尾よく聖櫃を手に入れること以上の安心と幸福を喪失した感情を持ちました。
  カイム老人は単に高齢のせいでぼけた僧侶だっただけかも知れません。しかし私はこの時、二度と引き返せない奈落への道を進み始めた気がしてなりませんでした。

                2

  地下への石段は箒できれいに掃き清められ、乳香が焚きしめられています。
「カイム老人が手入れしているのだろうか?」
「掃除してるところなんか見たことないけれど」
  アベルが手にした燭台で壁や天井を照らしても、蜘蛛の巣はもちろん、漆喰のかけら一つ落ちてはいません。
(これは聖櫃はここにあるな)
  私は何となくそう直感し、同僚たちや重装備の兵士たちを率いて強行突破しなかったことを少し後悔しました。
(絶対にここにあるのなら、どんな手段をとってもよかったのに…)
  階段を降りきったところからは狭い壁に囲まれた曲線の通路が続いています。
  どうやら伝説の迷路の入口のようです。
  私は螢光塗料で印を付けました。
「よし、行こうか」
  しばらく進むと直進と内側に進む分かれ道にでました。
  少し考えてから内側に進み、しばらく行くと先のほうから靴音のような物音が聞こえてくるではありませんか…
  最初は地上部分の教会を歩く人の足音だと思ったのですが、どうも違う様子です。
  私はワルサーを抜いて構えました。
  オレンジ色の松明の明かりがチラチラと揺れて、靴音の主が次第に近づいてきます…
  姿が見えるとアベルとエイリアはそれぞれ思わず小さな悲鳴を上げました。
  何と相手は十字軍の時代の甲冑に身を包みビザンティンふうの剣を構えていたからです。「誰だ、貴様は?」
  騎士は古い時代のラテン語でそう尋ねてきました。
「人に名を尋ねる時は、まず自分のほうから名乗るのが礼儀では?」
  私は大学時代の退屈この上なかった授業を懸命に思いだしながら問い返してやりました。「むむ。確かに…  拙者はテンプル騎士団の団員で十字軍にも参加したフランソワ・ド・モーディニーである」
  私は狐につままれた気がしました。
  十字軍にも参加し、密かに聖櫃を捜していたテンプル騎士団。その末裔と言うのならまだ分かりますが、それだったら先祖伝来の鎧兜をわざわざ身につける必要はないはずです。
  さらに奴も私の服を見て奇異に感じている様子です。
「私はドイツ第三帝国ヒトラー総統の親衛隊情報部のエーリッヒ・リヒターだ」
「ドイツ」と聞いて騎士の身体がピクリと震えました。
「さてはうぬも聖櫃を…」
「しらばっくれるだけ無駄なようだな」
「聖櫃は渡さぬぞ!」
  騎士は剣を振りかぶりせまい通路を突進してきました。
  私は奴の足元めがけてワルサーを発砲しました。
  ガーンという銃声が地下通路じゅうに谺し屈強の騎士もひるみました。
「サ、サラセンの火矢とは卑怯な!」
  目に浮かんだ恐怖は、明らかに未知の新兵器を見た時のそれです。
「どうやら立場がはっきりとしたようだね。命が惜しかったら聖櫃の場所まで案内してもらおうか?」
「聖櫃はまだ見ていない。拙者はついさっき守護者のカイムという老僧の目をごまかしてこの地下に潜ったばかりなのだ」
  私はアベルやエイリアと目を合わせました。「こんな人知らないよ。こんな派手な格好をした人がそこらをうろうろしていたらかなり目立つと思うんだけれど」
「目立たなかったんだ。これが通常の男の格好だったんだ、モーディニーの時代ではね」「まさか…」
「信じるのも阿呆らしいことだが、モーディニーはそれと気付かず何百年もこの通路を彷徨い続けている…」
「で、カイム老人はその時からずっと守護者だった?」
  少年の顔からさっと血の気が引きました。「そうかも知れず、あるいは何代か前のカイムなのかもしれない…」
  私は拳銃を腰だめに構えたままゆっくりと後じさりました。
「−−とにかく一度引き返そう!」
  ところが、確かに角ごとにいくつも付けたはずの目印が、まるで何者かに掻き消されたようにどこを探しても見つかりません…
  冷水を浴びせられた気分になったのは、ひんやりとした地下通路の冷気のせいだけではなかったと思います…
「大丈夫、聖櫃を見つければいいだけのことさ!」
  アベルは勇ましく胸を張ります。予期せぬ出来事に対する訓練を受けた情報部員が途方に暮れているというのに…
「壁沿いに歩いて行けば、きっと先に進むか後に戻るかするよ」
  それまで私の後をついてきていた少年が先頭に立ちました。
  しばらくすると、松明の明かりの向こうにぼうっと白い人影が見え、ポチャリポチャリと水の音が聞こえてきました。
「やあ、あんたも聖櫃を探しにきたのかね?」
  真新しい白い寛衣を纏った老人が古代ギリシア語で叫びました。
「そうだ。あなたは?」
  私はもうワルサーを構えませんでした。
  私たちは全員、時間の経過を止められたこの地下道のさまよい人で、同胞なのです。
「儂はアテネの市民で学者のディミトリオスじゃよ。ユダヤ随一の宝物であるモーゼの十戒を刻んだ石板を収めた聖櫃の噂を聞いて、はるばるアフリカまでやって来たのじゃが、これから先は深い水のようで難儀しとるのじゃ」
  がっしりとした石垣で囲んだ地底の大井戸の水は、長い年月の末にすっかり腐り果てているのか、それとも中に生き物がいるのかどろどろに濁りっていて一寸先すら見えません。「ね、おじさん、あれを見て!」
  エイリアの言うほうを見ると、井戸の正面に奇妙な文字が彫られてありました。
  何と、古代ルルイエの文字です。
「人ノ腕、人ノ足、人ノ胴ト等シキ大キサノ新鮮ナル肉片『十』。小サ過ギルも不可。大キ過ギルモ不可。多過ギルモ不可。少ナ過ギルモ不可」
  確かにそう書かれています。
「ディミトリオスさん。貴方泳ぎが不得意なだけではなくて、先に何人かの仲間が飛び込んだけれど、誰も戻ってこないんじゃないかね?」
  私はギリシアの学者が、地下道の凹みに立て掛けた幾振りもの剣や盾を身体で隠そうとしたのを目ざとく見つけて尋ねました。
「いや、何でそんなことを」
「質問を変えよう。あなたもここまでたどり着いたぐらいだから、かなりの学者だとは思うが、あの正面の石板の文字が読めるのかね?」
  相手はゴクリと生唾を飲み込みました。
「いや…」
「読めないから、とりあえず屈強の戦士たちを動員したんじゃないか?」
「…………」
  私は彼を突き飛ばし、両刃の剣を拝借すると躊躇なく心臓を一突きにしました。
「なま物知りのせいで多くの人命を失った責任は重いぞ」
「モーディニー!  来い!  ついに石板を読める奴が現れたぞ」
  ディミトリオスは断末魔の叫びで十字軍の騎士を呼びました。
  モーディニーは走ってきましたが、私のワルサーを警戒して間を詰めません。
「あいつも殺すのか?」
  顔面蒼白にしながらアベルが訊きます。イタリアとの戦争で数多くの凄惨な場面を見てきていても衝撃だったようです…
「殺さなければ前へは進めない。たぶん後戻りもできない…」
  私は少年にワルサーを渡し、血に染まった剣だけを持って騎士の前に出ました。
「君に敬意を払って卑怯な武器、サラセンの火矢を使うのはやめよう…」
「ドイツ人。おまえはあの文句が読めたのか?」
  騎士は剣を構えてゆっくりと歩み寄ってきます。
「ああ読めた。失われた大陸の失われた言葉だ」
「教えろ」
  私は教えてやりました。
「そうか…  そういうことだったのか」
  彼の表情に諦めの表情が浮かびました。
「ということは、拙者がそなたを倒してここを突破したとしても、次に同じようなメッ
セージに出会えばまたそこで詰まってしまうということではないか?」
  私は無言で頷きました。
「しかし、関門はここが最初で最後やも知れぬ。騎士たるもの、たとえ一抹のものとはいえ、希望がある以上はそれに賭ける!」
  モーディニーは剣を振り上げ、私に襲い掛かってきました。
  二○世紀の情報部員と一三世紀の戦士。結果は明らか、アッという間に剣を跳ね飛ばされ、鈍い鉄の刃が迫ります…
  と、ダーン、ダーンという連続した銃声が響いたかと思うと、騎士は鎖かたびらで覆った顔のほとんどを吹き飛ばされて横薙に倒れました。
  とっさに横を見ると、硝煙をたなびかせた銃を腰だめに構えたアベルがいました。
「今度も頭を撃ったけど、よかったかな…
メンゲレ博士に『絶対に胸は撃つな』と命令されていたから…」
「どこでもいいんだ。さあ、しばらくテンプル騎士団の宝物で遊んでおいで」
  二人を倉庫代わりの窖に行かせると、私は力のいる嫌な作業を始めました。
「人の手足胴ぐらいの、それよりも大きくも小さくもない肉のかけらを十、多くも少なくもなく揃えよ…」
  血のしたたるそれらを腐液をたたえた地底の井戸に放り込むや否や、急に水面が泡立ち初めて、先細りの太いゴム管に似た何本もの触手が、その各々に投げ入れた屍体を掴んで浮かび上がってきました。
  気配を感じてアベルもエイリアも戻ってきました。
「見るな!」
  少女を抱き上げ胸に顔を埋めさせ、少年を背に回らせた私は、湖から太古の潜水艦の船体を思わせる巨大なオーム貝と対峙していました。オーム貝は特大のサーチライトほどもある二つのぬめった目で我々を見つめます…
  ところが、十本ある吸盤の付いた触手はみんな先ほど私が投げ込んだ過去の亡霊たちの残滓を掴んでいるために、さしあたっては何もできない様子です…
  ふと足元を見ると、巨体が持ち上がったために水面が下がり、下に降りる石段が露出していました。
  エイリアを抱き、アベルの手を引きつつ、一気に駆け降りようとしてもう一度よく石段に目をやると、一面に色とりどりの原色のナマコや海牛やクラゲや磯巾着や、刺だらけの奇怪な生物が張りついています。
  足を取られないように進むのは大変でした。
  かと言ってこんなところで転ぶのはまっぴらです。
  半ばまで来て足元を見ると、不気味な生物が靴を這い登り、ズボンの裾に取り憑いています…  連中は後から後から迫ってくるので払い落とすのも踏み潰すのも無駄なようでした。
「やめて」
  私の胸元からふいに状況をかいま覗いたエイリアがポツリと呟きました。
「だから来るな、と言っただろう?  みんなおまえが悪いんだ!」
「やめて」
  彼女はもう一度言いました。絶対に知っているはずのない古代ルルイエの言葉で。
  不思議なことに醜怪な棘皮動物や節足動物の大群は潮が引くみたいに道を開き、退いて行くではありませんか!
  お世辞にも彼等に人語が解せるとは思えません。耳があることすら疑わしい下等な者どもばかりなのです。
  しかし、いぶかしんでいる間はありません。
  この機会に一気に走り、向こう岸の石段を登りきった瞬間、生贄を頬張り終えたオーム貝は浮上したのと同じくらい速さで腐液の中に潜り、地底湖は元の水深を取り戻したのです。
「やれやれ、とんでもない守護者だった」
  でずがゆっくりしている間はありませんでした。いったんは道を譲ったはずの始源の生物たちが湖から這い上がり、ゆっくりとではあるけれど私たちの後を追いかけて来たのです。
  三人が少し走ると、またしても巨大な地底の大井戸がありました。今度は満面に恐竜の頭骨のような古の生物の骨が浮かんでいます。「骨伝いに渡れるのか?」
  試しに近くにあった岩を放り込んでみると岩が当った骨は塵となって雲散霧消し、湖面に触れた岩もまたジューッと白い煙となって消滅しました。
「どうやら強烈な酸のようだ。あの骨は大昔にここで死を迎えた恐竜たちの骨のようだが骨のカルシウムがすっかり崩壊していて、ちょっと衝撃を与えただけで粉々になってしまうみたいだ…」
  息を整えながら先ほどみたいな石板を探しましたが見つかりません。
  そうこうするうちに先ほどの井戸の生物たちが大挙して迫ってきました。
「ヒントがないのではとてもじゃないが無理だ」
  諦めかけたその時、地団太を踏んでいたアベルの足元の泥が剥がれ、敷石が露出していくのに気が付きました。
「下だ!  今度の謎解きはきっと敷石にきざんであるんだ!」
  私の号令一下、三人は大慌てで泥を払って行きました。
「あった、あったよ、リヒターさん!」
  アベルが叫びます。
  刻まれた文字はほとんど消えかけていましたがかろうじて次のように読めました。
「目と目の間、三」






    アーク・ガーディアン(承前)

                1

  目の前は酸の海。後ろからは毛の生えた、またはゼラチン質の無数の足を蠢かせながらさらにごろんとした紡錘形の胴体をころころと転がしながら数え切れないほどの奇怪な生物が迫ってきます。
  もはや自分の考えに自信も、思いついた答えを試し実験する時間もありませんでした。「行くぞ!」
  私は右手でアベルの手を、左手にエイリアの手を取って脆弱そのものの崩れかけた骨の浮遊物の上に飛び降りました。
(目と目の間、三)
  最近世界のあちこちで発掘されている恐竜の化石の中には、もっぱら頭突きをもって他を攻撃していたため、頭骨が異様に発達して何十センチもの厚さになったものがいたと言います。
  改めて池を見渡すと、ある特定の種類の頭骨だけが飛び抜けて分厚いことが分かりました。
  それはきっと二本ではなく、三本角を持つ「この世界」のトリケラトプスのような恐竜の頭骨を選んで渡れ、という意味に違いありません…
  幸運にも私の判断は正しかったようです。
  三本の角のついた頭骨は三人の体重が掛
かってもすぐには壊れず、沈みません。反対にその他の骨は追撃してきたほんの小さな軟体動物がポトリと上に落ちただけでも粉々に砕けて強酸の海に沈みました。
「よかったね」
  私たちは再び向こう岸に渡ることができました。
  子供たちは互いの手を取り合って抱き合っています。
  先にはさらなる先細りの燧道と、無明の深淵が続いています。
  しかし、今渡ってきた三本角の恐竜の頭骨は細かい無数のヒビが走り、対岸には例の匍蔔生物たちが待ち受けているとなれば、完全に引き返すことは無理となりました。
「おじさん。もう少しだよ。もう少しで全ての努力が報われるんだ」
  アベルに励まされ、私たちは永遠とも思える菌類に覆われた回廊を進むと、やがて魚の腐臭の立ち込める真鍮の扉の前に出ました。
  扉には
「始源の五」
  と書かれています。
  鍵はかかっておらず、簡単に開きました。
  そこは万魔殿の一室のような、高い穹窿天井に覆われた広間でした。周りの壁は化粧煉瓦で飾られ、ところどころに真紅の玉髄石を乗せた緑柱石の列柱が立ち、床には紅縞瑪瑙や柘榴石を砕いた玉砂利が敷き詰めてありました。
  奥の壁は何らかの衝撃を受けて崩れ、ところどころに青金石の混じった花崗岩や風信子石が露出し、大きな触腕を持つ蜥蜴に似た見上げんばかりの巨大な生物が半ば埋もれています。
  それは目覚め、我々めがけて長い鉤爪を伸ばしてきました。
  逃げだそうとしたアベルが何かに蹴つまずいて転びましたが、よく見ると蜥蜴の頭部を持つ人ならぬ人の髑髏です。悍しきことこの上ないものは封じられていた塁壁から身を乗り出し、貴橄欖石や鉱滓を撒き散らしつつ私たちに彎曲した長い鉤爪を振るってきます…「せっかくここまで来たんだ!  こんなところでやられてたまるか!」
  アベルが周囲の玄武岩の縁石を走って挑発している間に、私は扉に書かれていた文字の意味を考えました。
  忌まわしき生物が凹んだ眼窩の奥の象嵌に似たよどんだいくつもの金色の複眼を輝かせ、嗤笑したように見えました。
「助けてくれ!  もう懲り懲りだ!  聖櫃守護者は何匹いる?  こいつをやりすごしてもまだまだいるんだろう!」
  正気を失いそうになりつつふと剥がれ落ちた壁を見ると、タイル代わりの薔薇石とともに人の掌ほどのヒトデの化石が埋め込まれていることに気付きました。
(始源の五、というのはこいつのことではないか?)
  そんな気がしていくつかの化石を拾い上げ鉤爪のある触腕を持つ怪物に投げ付けました。
  途端に奴は滑稽なくらいにのけぞり、興奮の極みについた連祷に似た叫喚を上げてのたうち回るではありませんか!
「アベル!  エイリア!  奴の弱点はヒトデの化石だ。ヒトデの化石を拾って投げろ!」
  私の命令一下、少年と少女はその辺に落ちていた化石を片っ端から投げました。
  怪物はもだえ苦しみ、あわや広間全体が落盤する寸前に私たちは先にほんの少し見えていた隘路に進むことができました。
「きっと試練の数は十個だよ」
  アベルがポツリと言いました。
「すると、あと六つもあるのか…」
「あとたったの六つだよ。あと六つの守護者の前を通れば、ぼくたちは神になれるんだ」「神…」
  私は神になりたいなどとは思いません。私は総統と、栄光あるドイツ帝国のために聖櫃を探しているのです。
  次の広間はさらに大きく、人間の邑ほどの広さがありました。虹色の斑紋や層紋に彩られ、悠久の歳月に閲してきた、人ならざるものの物見の塔が林立し、その上方には巨大な蜘蛛の巣が張っています。
  地上には先に通じる道はなく、唯一、塔の円蓋天井のあたりから宙空の壁に向かって、筒状の渡り廊下が伸びている様子…
「ここを登れ、って訳か…」
  私は後悔していました。成り行きとは言えいたいけな子供たちをこんな忌避されるべき旅に連れてきたことと、その代わりに十分な軍事訓練を積んだ特殊部隊の兵士を連れてこなかったことを。
  しかし改めてよく考えました。特殊部隊の精鋭でも、彼らは人間もしくは機械化兵器と戦うようにされていて、このような地の底の深淵で不気味な化け物どもと対峙した場合の精神的平衡を保つ訓練はしていないはずです。肉体的にいくら極限を極めた男でも地上では存在が許されぬものを見た衝撃は精神のバランスを破壊するやもしれず、人数が多ければかえって混乱の極に陥るやもしれません…  それに比してアベルとエイリアはこれまでどのような恐ろしいものを見ても悲鳴一つ上げず、泣きもしません。まるで幼いころからこのようなものを見慣れ、親しんできているみたいな落ち着きです。
  私は−−と言えば、これまた古い書物や、暗号部の予算で購入した、堕落した米国の、怪奇小説雑誌の差し絵をディオラマで見るような感じで、これまた耐え切れぬほど恐ろしいものとは感じませんでした。
  全ては聖櫃を手に入れる為の試練−−そう割り切ると、人智を越えたこの世界のものならぬ生命も、納得が行きます…
  塔の入口には蒼枯たる杭垣があり、そこにはやはりルルイエの文字が刻まれてありました。
「真なる脚を撃て、九」
  大人が通るにはやや窮屈な、幅の狭い、勾配の急な螺旋階段を登り詰めたところからは船の段索に似た縄梯子が垂れています。
「こんな古い縄梯子、大丈夫か?」
「大丈夫だよ、おじさん。これは縄じゃない。これは何か特別な生き物の糸を撚り合わせたものでできているよ」
  言い終わるよりも先に、アベルは途中まで登りかけていました。
「次はあたしね!」
  エイリアがするすると続き、結局私が最後になりました。
  と、登り詰めたところ、水泳の飛び込み台のような狭い場所にも二人はいません。ここから先は太いロープに似た例の索縄が朦朧とした闇に向かって伸びています。
  どうやら二人はさっさとこれを伝って先に進んだようです…
  しかし私は簡単に踏み出せませんでした。
  正直言って高いところは苦手なのです…
  下を見ると予想通り、ただ何もない暗い闇の海…
  進退窮まってふと横を見ると、大小いろいろな弓矢が並んでいました。まるでタイタンの使うような大きなものから、ピクシーの使うようなマッチ棒程度のものまで。その全ての矢尻にツンと鼻をつく薬物−−おそらくは毒物が塗ってあります。それぞれが背負い紐付きの矢筒に納まっています。
  もうどうしたらよいか分からず、とにかく人が使う大きさのものを取り、おろおろしていますと、彼方のほうから「キャーッ!」という悲鳴が聞こえてきました。
  背負い紐を掛けて弓矢入りの矢筒を背負い、催眠術に掛けられたかの如く索縄に飛びついて先に進むと、アベルとエイリアが下から見上げた蜘蛛の巣に捕まっています。そしていましも、暗黒の使者たる小さな戦車ほどもある漆黒の蜘蛛が意外なくらいに素早さで二人に迫っていました…
  片手で縄にぶら下がり、片手でワルサーの残りの弾丸を全て撃ちました。ですが鋼のような甲殻はびくともしません…
「おじさん、弓矢よ、台のところにあった弓矢を射て!」
  黒い粘りけのある糸にまみれたエイリアが叫びます。
「拳銃が通用しないんだ!  どうしてこんなものが!」
「でももうそれしかないだろう?」
  なるほど少年の言う通り。しかし、片手でぶら下がり、片手で矢筒を持ってはたと困りました。
  人間の腕は二本、索縄にぶら下がって弓矢を射ることはできません…
  もしやるのなら誰かが誰かを持ち、その誰かに支えられた者が射るしかありません…
「アベル!  アベル!  ぼくにつかまれ!
  つかまってあいつを射るんだ!」
  かろうじて糸の呪縛をふり解いた少年は私の首を両足ではさんで座りました。
  軽いとは言え、私は両手でぶらさがっているのが精一杯、アベルが弓を引き絞るとさらに体重がかかって苦しくなりました。
  毒矢は一本しかないせいもあって、彼はなかなか放ちません。
「お兄ちゃん!」
  囮となってしまったエイリアの顔の先に、節のあるテカテカと輝く黒い脚がヌッと現れたかと思うと、闇の中に毛で覆われ、真紅にかがやくサーチライトのような二つの目玉が輝きました。
「リヒターさん、あの蜘蛛の脚、九本あるよ。『真なる脚』って、どの脚だろう?」
  なるほど、よく見るとその蜘蛛には蝶の蜜口に似た九番目の脚があります。
「あれだ!  あれしかない!」
  巻きくくられた消防ホースのような口が伸びてエイリアに迫った時、アベルはきりきりに引き絞った弓をヒョウとばかり放ちました。矢が見事にその先端に突き刺さり、蜘蛛は糸の固まりをバッと吐いて後退します。
「今だアベル、妹を助けろ!」
「おじさん、ナイフを貸して!」
  アベルは私のナイフを手にして、慎重にトリモチのない糸を選び、蜘蛛に迫ると、全身に毒が回って断末魔の苦しみに喘いでいるその脚の底からいくらかの滲出物質をこそぎ
取って自分の靴の片方に受けると、大急ぎで戻り、妹を締めつけている糸の上に振りかけました。すると不思議なことに接着剤みたいな粘液はさらさらに溶けたではありませんか!
  その間に蜘蛛−−に似た生物はまっさかさまに奈落の底に落ちていきました。落ちながらもそいつは口から粘液を吐き、何かにつかまろうとしていたけれど、もはやその液体には自分をつなぎ止めておくだけの粘りもなかったようです…
「やっと半分くらいかな」
  対岸の断崖に出来た壁龕のような凹みに落ち着くと、アベルは靴を履き直しながら微笑みました。エイリアは、と言えば、これほど恐ろしい目に会っているというのにまるで遠足か何かのように浮き浮きとしてはしゃいで「もうじきね、もうじきあたしたちが世界を支配するのよね」
  と、まるで屈託なく笑います。
  私は別の意味で少々不安になってきました。
  私は聖櫃を発見し、それをヒトラー総統閣下に捧げるために艱難辛苦に耐えているのです。
  決して自分が世界の王になるつもりなどは毛頭なく、子供たちにそうさせる気持もありません。なのに二人はそのつもりなのです。
  これまでの経緯からして、アベルとエイリアにはどこか人間離れした不思議な力が備わっています。聖櫃守護者の民族の末裔としての力なのか、それとも他の何かに由来するものなのかは不明なものの、とにかく言語には尽くせません。強いて言うなら、かつてこれらの化け物を、我々が馬や犬、猫を見るような感じで見てきたような様子です…
(彼らには恐るべき未知の力がある。肝心の聖櫃にたどり着く前に、可愛そうだが抹殺せねばならないかもしれない…
  聖櫃は彼らや私のものではなく、総統のものなのだから)
  そんなことを考えていると、その心を見透かすようにふいにアベルが言いました。
「リヒターおじさん。こんなに苦労して手に入れるものだから、まさか他人にあげちゃうなんてことはしないよね?」
「ああ、いや、その…」
「あれは手に入れたその瞬間から、もう恐れるものなんて何もないのよ」
  エイリアも黒い瞳を輝かせます。
  二人を始末することは容易です。−−少なくとも今のうちは。しかしまだまだ守護者たちは半分以上残っているのです。これまでの実績からして二人の禁断の智恵と、無神経なまでの勇気がなければ先へ進めそうにはありません。
「キミたちは聖櫃がどんなものか知っているのか?」
「形かい?  形は聖書に書いてある通りさ。捧げ持つ棒が付いた箱の形をしているよ」
「形じゃない、効能だ」
「だから、人間のものじゃない力を持っているんだよ」
  一休みした後、アベルとエイリアはまるでそう進むのが正しい道順であることを知っているみたいに、頭上に続くそれぞれ僅かに張り出した岩の突起を掴んでよじ登り始めた。「おじさん早く!  そんなところでじっとしていると、道標の骸骨になっちゃうよ」
  子供たちに囃し立てられるに及んでは、ドイツ帝国の情報部員の名がすたります。
  一気に手繰り登っている間は、二人の処遇も忘れることができました。
  天井近くには人一人がやっと通れるぐらいの横穴が二十近く開いています。アベルとエイリアの姿はなく、
「おーい!」  と呼びかけると、
「リヒターさん、早く!」
  と谺が返ってくるだけで、どの穴に入ったかは皆目分かりません。
「どの道を選んだんだ?」
「適当に、だよ」
「しかし、向う側に通じているのは一つかもしれない。罠だって…」
  これまであったような正解を導くヒントの文字を探しましたが、ここには何も記されていませんでした。
  仕方なく近くの一つを選んで腰を屈んで進んだものの、途中からは腹這となり、ついには頭を通すことも不可能となりました。
(しまった!  これは引き返さないと)
  考えたところでおいそれとは戻れません。
  と、その時、先のほうから何かの生物の分泌物の液体がどろどろと流れてくるではありませんか!
(やはり無理だったんだ。聖櫃を手に入れるなんて!)
  今度という今度こそは本当に諦めました。
  その液体が耐え切れない臭いがするとか、我慢のできない代物だったら、ただちにこめかみに当てた拳銃の引き金を引いていたでしょう。ですがそれは地下に入って以来、素晴らしい極上の蜜の香りがしたのです…
  最後の試みとばかりに、腕を伸ばして前方のとっかかりを掴み、満身の力を込めて身体を引っ張るように進むと、蜜のぬめりも手伝って、一気にやや広い箇所に出ることができました。流れてくる蜜の量も減って溺れる心配もなくなり、また一息ついたのです。
  またしても開けた大広間、そこは黄金色の人と同じくらいの大きさの蜜蜂たちが飛び交う花畑でした。
  色も形もとりどりの花もまた、みな直径一メートル以上の巨大なもので、蜂たちの羽音のブンブンうるさいことと言ったらありません。
  丸い天井からは巨大な蜘蛛の巣ならぬ蜂の巣がぶら下がり、無数の働き蜂たちが出入りしています。
  その付け根を囲むようにして、例の古代ルルイエ文字が刻まれていました。
「魔の数、六」
  六といえば蜂の巣は六角形。上空の巣もたくさんの六角形の小房の集合で成り立っています。
(でもあんなところまで上がることは、それこそ羽根でもあって飛べない限り不可能だ。
  と言って、先の化け物蜘蛛の巣のように糸が垂れている訳でもない…)
  依然としてアベルとエイリアの姿は見えません。これまでの経過から、どこかで未知の守護者に殺されたとは考えにくいし、どうやら先に行ってしまった様子。
  次の秘密の抜け道は間違いなく蜂の巣のようですし…
(落ち着け、落ち着け)と自らに言い聞かせながら目の前の花園を行き交う蜂たちをじっと観察しているうちに奇妙なことに気付きました。なるほど蜂のほとんどは蜜を吸っているのですが、中に白い卵のようなものを両足で抱えて巣に持ち帰るものがいます。それは蟻か何か昆虫の卵のようで、この蜂の好物のようです。
  乾いた血の色の斑の入った巨大な花をかきわけて、それを探すと、自然に壊れた蟻塚からいくつかこぼれ落ちたものが転がっており、人間の肩までぐらいの大きさの赤茶けた巨大な蟻たちが数匹づつ協力し合って、懸命に自分たちの巣に戻そうとしていました。
  蜂たちは急降下でその卵を狙っています。
  奪取に成功するものもあれば、蟻たちの抵抗にあって諦めざるを得ないものもいます。(あの中身をナイフで掻き出し、代わりに私がその中に入って蜂に捕らえられたら、蜂の巣に潜入できるのに違いない…)
  そう確信して、隅のほうに忘れられていた卵に向かって突進し、かろうじて両手で持つと、それは何かぶよぶよの巨大なマシュマロか海水浴に使う浮き袋みたいです。
  と、少し離れたところで作業中の兵隊蟻たちと目が合ってしまいました。触角をレーダーみたいにくるくると回転させながら、卵盗人を追跡し始めます。私も懸命に走ったのですが、なにしろ大きなものを抱えている上に、全力疾走する蟻の速さは結構早いのです。
  振り向きざまにワルサーを発射しても、例によって堅い殻に弾かれて跳ね返るだけ。
  芝刈り鋏のように鋭い彼らの顎が迫り、毒液が振り掛けられました。強力な蟻酸で、服がボロボロになりました。
(今度こそこれまでか…)
  観念した瞬間、身体がフワリと浮き上がり、上を見ると、巨大蜂が私の盗んだ蟻の卵を脚でつまんで急速に浮揚していました。
  追撃者たちはどんどん小さくなります。私は振り落とされないように必死で卵に抱きつき、できればナイフで中身を掻き出して代わりに隠れようと試みてみましたが、その間もなく、薄暗い蜂の巣の一部屋に卵もろとも放り込まれたのです。
  卵と私を放り込むや否や、働き蜂は出入口に外側から薄い膜を張ってまたどこかに飛んで行きました。
  そのお陰で羽根のない私と卵は膜に引っ掛かり落下を免れている状態。
  上を眺めると、六角形の壁がそびえています。
(果たして上に抜け道があるのか?)
  祈る思いで壁を掴んでみると、固まった蜂蜜の漆喰でできていて、これだと何とか岩登りの要領でよじ登れそうです。
(よし、あいつらが戻ってこないうちに…)
  ところが数メートルほど登ったところで何やら先に蠢くものを感じました。
  ほの暗い光に浮かび上がったのは、馬か牛ほどもある巨大な蜂の幼虫−−節のある半透明の芋虫です。
  そいつはゆっくりと身体を蠕動させながら餌めがけて降りてきます。相手の身体がもう少し小さければ、素早く間をすりぬけられもしましょうが、なにしろ部屋いっぱいの大きさ。このままではどうやっても押し戻されてしまいます…
  決断し、いまいるその壁の蜜を大急ぎで人一人分くらいかき出して、できた穴に身を沈めたのと、幼虫が通過したのとはほぼ同時。
  幼虫が蟻の卵に穴を開けて中の汁をすすっている間にどんどん上を目指して、やっと天井にたどり着いたものの、そこはやはり蜜の壁で行き止まりです。幼虫は卵を食べ終わり、ゆっくりと這い上がってきます。
(このままでは元の木阿弥)とばかり、さっき成功した方法で天井を削りましたが、掘っても掘っても上には突き抜けません。
(結局蜂の幼虫の餌となって果てるのか…)
  間近に迫った芋虫に、爪も剥がれんばかりに掻き続けると、小さな光の点が現れたのです。
  あとはもう何が何だかまるで覚えていません。気が付くと、その大広間の最上の部分、それ自体が教会の丸屋根ほどもある蜂の巣の頂上−−岩の天井とをつないでいる太い繋ぎ柱の陰にいました。
  監視の雄蜂が私を見つけ、ぐるぐると回りを旋回しながら攻撃の機会を伺っており、どうやらここにも長居はできない様子です。
  私は繋ぎ柱を先ほどと同じ方法でよじ登りました。本来の岩の天井には、穴とか道の続きはまるで見えません。
  と、雄蜂たちが一斉に襲い掛かってきました。
  無駄な抵抗と知りつつ、繋ぎ柱の裏側に回ってみると−−
  子供らしい、小さなよじ登った跡が二組、点々と続いているではありませんか!
  間違いなくアベルとエイリアのものです。(彼らにできて私にできないはずがない!)
  がむしゃらに登って、何もないと思われた岩の天井を調べると、取っ手のある引き戸になっています。幸いそんなに重くもありません。
  ずずっと引いて開けると、岩を削った握り梯子が付いています。
  いままでの苦労からすると、粗末な握り梯子でも宮殿の大階段に見えました。
  さっと潜り込んで戸を閉めると、もうあのおぞましい蜂は追いかけてはきませんでした…

                2

  付け梯子を登り切ったところには、蓋代わりの石の板があり、肩に力を入れて持ち上げると簡単に動きました。
  そこは、白く光り輝く石のタイルを敷き詰めた神殿の大広間のようなところで、もう化け物たちの姿はどこにもありません。
「ここだ!  ついに着いたんだ!  ここに聖櫃があるんだ!」
  大声で叫んで一目散に走りだしました。
  ところが走っても走っても、白く光り輝く道が永遠に続くばかりで、部屋もなければ曲がり角もまるでありません…
  怪物もいない代わりに、何も目標になるものがない、ルルイエ文字で書かれた手がかりもない…  途方に暮れる以外しようのない無限回廊です。
(冷静に、ここもきっとどこかにヒントがあるはずだ。その証拠に先に行ったはずのアベルとエイリアの姿も、足跡もない)
  目を閉じて床に耳を当て、二人の足音を聞こうと耳を澄ましても、自分の心音が谺するばかり…
  しかしそのうちに、かすかに不思議な声が響いてきました。
『マダイルノカ?』
『フン、ドウセロクナ奴デハアルマイ…』
  ひさびさに聞く言葉−−古代ルルイエ語。
  すっかり嬉しくなって、声のするほうに進みました。どんな醜い化け物でも誰もいないよりは遥かにましです。恐ろしい守護者たちよりも増して、永久に続く何もない廊下と部屋のほうが心が壊れてしまいそうでした。
  と、「彼ら」はフッツリと会話を止めました。まるでベルリンの繁華街で急に喋るのを止めた魚顔の男たちのように
『モウ黙ッテイヨウ…』
(喋れ!  喋れ!  出口はどこだ?  道標の文章と数字はどこにある?)
  必死に念じたところ、先の二人とは別のものが会話を再び始めました。
「ココニ呼ンデヤレヨ。我々ニハモウ失ウモノハナイノダシ、先ニ行ケバ行クホド楽シイノダカラ
(すると、二人は早くもここも抜けたのか)
  舌打ちしても始まりません。
「ソレモソウダナ。旅ハ賑ヤカナホウガイイシナ」
  声のする方向に慎重に角を曲がり、無数の扉の中から最も「当り」でありそうな扉を選んで中に入って進んだものの、全く終着点に到着しません。
(ひょっとすると)  私は思いました。
(ここの廊下も部屋の壁も白銀の鏡のようだ。これは本当に鏡以上の鏡で、姿はもちろん、音も反対方向に反射するのでは…)
  早速、喋り声とどんどん離れるようにすると、百以上の角を曲がっても辿り着けなかったものが、たった七つの四つ角を折れただけで、広い舞台のような祭壇のある広間に到着することができました。
  そこにはやはり怪物はいない代わりに、小さな虹を焼きつけたようなそれぞれ濃さの違うアーチ形の影がありました。
『ヤット来タヨウダネ』
  影の一つが言いました。
「次の場所に行く謎なぞの文句のある場所を教えてくれ」
『ソコノ影ダ』
  別の影が吐き捨てるように呟きます。
  なるほど磨き抜かれた床に文字の痕跡が見えます。
『ソコニ「調和の七」ト書カレテアッタノダ』
「誰が消して影みたいにしてしまったんだ?まさか小さな男の子と女の子じゃあるまい」『トコロガソノ通リサ』
  私は肩をすくめました。
「どうやって?」
『ソイツハ知ラヌガ仏ダロウ』
「ではどうすれば二人の後を追いかけることができる?」
『簡単サ。虹−−我々ノ付ケ根ニ触レバイインダ』
  黒い虹の影は完全に白銀の壁に焼きついていて触れても何も起きません。
「だめになってしまっているようだ」
『ソリャアソウダ。アノ二人ガ着イタ先カラ焼キ払ッタノダカラ』
「すると私は?」
『来タ道ヲ戻ルカ−−』
『−−ソレトモ永遠ニココノ住人ニナルカ』
「どっちも嫌だ!」
『我々ヲ元ノ姿ニ戻セヌ限リ、次ニハ進メハシナイ』
(水だ!  きれいな水さえあれば、光はふんだんに降り注いであるんだ)
  水はどこにもなく、最初あった虹がどうやって形作られていたのか、さっぱり分かりません…  これは黒焦げの焼死体を元のピンピンした人間に戻せ、というぐらいの難問です。
(待てよ)
  思い出しました。確か最初の虹は、神がノアに命じて箱舟を造らせ、堕落した他の人々を滅ぼした後に「二度と水で滅ぼさない約束のしるし」として天空に掲げたものであったはずです…
「約束が誠ならば、焼かれたくらいで消えるのはおかしい。こんな方法でもしも私を試しているのなら、すぐに止めて頂きたい」
  言い終わるや否や、黒い煤となっていた虹はキラキラと光はじめ、元の場所に浮かんで鮮やかな七色が甦りました。
  すかさず根元のほうを鷲掴みに掴むと、七つの色は寒天の糸のようにたわみ、次の瞬間私はくすんだ金色の大地に立っていました。
  目の前に広がる錆びた銅色の小さな山くらいの丘。
  山の中腹からは禿げ掛かった鱗に似た板岩がびっしりと張り詰めた四本の巨大な脚が伸びていて、先端には蹄らしきものも見えます。
  山全体からは耐え切れないほどの腐臭が噴出し、ハンケチでマスクをしないと鼻が曲がりそうです。
(これは何かとてつもなく大きな獣の死体だ)
  咄嗟にそう感じたのは間違いではなかったようです。
  半日ほどかけて周りを回ると、太い鋼の鞭のような尻尾が見えてきました。先端には前はさぞ立派だっただろう金色の絹糸の束みたいな房が付いています。もっとも今は腐り始めてどろどろになりかけています。
  さらに進むと英国の泥炭地帯に似た、黒い泥のような状態の背中が見えてきました。ここにもかつては金色に輝いていたと思われる鬣が、頭のほうから一条の燃え尽きた旗となって続いています。
  頭の先端には二本の尖った白い角が生えていて、これは腐っていません。二つの目玉はとろけ出して、もはや何も見ることはできないようでした。
  身体全体がどろどろに崩壊する寸前で、断定はできませんが、古代中国の伝説の幻獣、麒麟でしょう。−−角が一本だったら一角獣だったかもしれませんが、二本だし、おまけに全体が鱗と飾り毛に被われています。
(さてさて、おまえも二人の餓鬼にやられてしまったのか?  これからどう進めばいいのかな?)
  死せる麒麟は、先ほどの虹ほどは饒舌ではありませんでした。
  謎解きを書いた石板はおそらくこの死体の真下、おおかた
「獣の王、四」
  とでも記してあるのでしょう…
  麒麟の骸を中心に、東西南北なにもない地平線が広がっています。前と同じようにアベルとエイリアの足跡と靴音を調べてみても、今度は痕跡は何もありません。
(中国、東洋のしきたりでは、帝王の幻獣−−龍や麒麟や獅子の指し導く方向に宮殿や神殿や、重要な建物、場所があると言う…
  ここは無様に斃れてはいるものの、この神獣が向かおうとした方角に歩いて行く他はあるまい…)
  私はすでに幾度かの守護者との戦いや試練で雑巾みたいになってしまった上着を肩から掛けて、トボトボと歩き始めました。
  試しに磁石を出してみると、台風の日の風見鶏よろしくクルクルと回りっ放しでした。(また先ほどの神殿の廊下みたいに歩かされるのか…)  と、うんざりしかけた時、かすかに波の音が聞こえ、潮の匂いに混じってまたしても腐臭が臭ってました。
  自分でも(まだこんなに力が残っていたのか!)と思うほど勢いよく駆けると、薄いポタージュ・スープに似た薄黄色に濁った海があり、海岸には私が見たことのない怪異な生命が打ち上げられ死んでいました。
  それは飛行船ヒンデンブルグ号ほどもある巨大な蛸ですが、脚代わりの無数の触手は頭部から直接垂れ下がっており、脚のあるべきところには植物の鱗木に似た擬足が伸びています。その腐臭たるや、さきほどの獣の比ではありません。
  ぼんやりとした光に晒され、あちこち毬状に膨らんだ箇所には、捕らわれの贄と思われる不気味な軟体動物たちが未消化のままピクピクと蠢いていました。
  豊饒な死体を狙って、浅い海や海岸から様々な生物が波のように押し寄せて来ていましたが、その不気味さ、自然の摂理を無視した形態は、一番最初の池にいた守護者の使徒たちが水槽で観賞する可愛いい生物として思い出されたほどです…
  連中は腐敗して動かないものを目指しています。おそらく日頃彼らを下僕として徹底的に支配し君臨していたものだったのかもしれません。その定まっていない眼の数は復讐に狂っているようです。
  とばっちりがこないうちに、しばらく砂浜に沿って歩きました。
  途中、石ころでかなり目立つケルンが積んであり、そこには
「深海の旧き支配者、八」  とありました。
  守護者たちが十戒になぞらえて十いるのなら、あと二つ…  このところの三つの守護者はアベルとエイリアがさっさと片付けてくれているので、だんだんと楽になる感じではあります。が、二人はどのようにして、これほどの見るも恐ろしい化け物を簡単に倒す力をつけたのでしょうか?

                3

  薄黄色の海の向こうに何かがあり、求める聖櫃はそこにあると分かっていても、どうすればこの尋常でない海を渡れるか、しばらくは想像もつきませんでした。こんな不気味な生物がうようよしているところ、人間が泳いで行ける訳がありません。
  しばらく浜辺を歩いていると、やっと答が見つかりました。
  ボートほどもある大きな二枚貝がいくつか、潮の引いた浅瀬で餌を取っているではありませんか!
  あれを殺し、中身を捨ててひっくり返せば十分小舟になります。
  私は貝に近寄り、拳銃をその舌にあたる部分に向かって何発か発射しました。ちょっとは効いているようではありましたが、致命傷は与えられず、貝は仲間ともども体をすって海へと逃げ始めました。
  慌ててほんの少し先回りして、今度は閉じ合わせの部分めがけて慎重に照準を合わせ、撃っては弾倉を換えていると、突然貝の舌が目一杯長く伸びて私の体に巻き付き、抵抗する間もなく貝の中に引きずりこまれました。「『二』枚貝に注意」
  銀色の消化液が振りかけられると、手足をはじめ体全体がこわばって何もできなくなりました。
(とうとう、本当に終わりだ。聖櫃とも、党とも、子供たちとも、冒険とも…)
  意識が遠のき、何も感じなくなっていきました…

  目が覚めると、そこは粗末な板作りの教会でした。エチオピアの辺境にある大きな湖に浮かぶ修道士たちの棲む場所。インコの囀りが聞こえ、深い緑を渡る風が顔だけに心地好く感じます。
  感覚が甦ったのは顔だけで、残りの体は銀色の特別な蛋白質の硬い膜で被われていました。−−そう、私は危うく真珠の核にされてしまうところだったようです。
「リヒターさん、無事でよかった…」
  懐かしい声がし、粗末な修道服に身を包んだアベルが、他の銀色の像−−人間もいれば怪物もいる−−の間からゆっくりと現れました。
「アベル!  エイリアはどうした?聖櫃は手に入れたのか?」
  少年が手にした壷から聖水のような液体を振りかけると、あれほど硬かった膜が卵の殻みたいにもろくなって抜け出すことができました。
「エイリアは手に入れてしまった」
  彼は目を伏せました。
「エイリアは、もう元のエイリアじゃあなくなった。…お願いだ、リヒターさん。妹を、昔の妹に戻して欲しいんだ。聖櫃はもういらない。おじさんが好きなようにすればいい。そういうようにできれば、の話だけれど」
  建物の外は濃い白い霧に覆われていました。「ここはどこだ?  エチオピアに似ているが我々は元の場所に戻ったのか?」
「ここは、僕たちの住んでいる世界とは別の世界のエチオピアだよ。ここにも神様はいて、十戒を下さった…  十戒は無数のいろんな世界の間を巡っているんだ。でもいま僕らの世界にない−−留守にしているからと言って、それは存在していないことには当らない。
  聖櫃は、無限に速い速さを持つ強大無比のエネルギーなので、留守になった瞬間にもう戻ってきているんだ。つまりどこにでも存在する、遍在者だ」
  修道院の庭では、彼の国と同じように、太陽の高さと己の影の長さを計って礼拝の時間を告げる僧侶がジッと立っていました。太陽も見えなければ、影も全くないというのに、です。
「霧の流れと方向を見て、時間を調べているんだよ」
  冷たい水蒸気の中を歩くことしばらく、私たちはようやくマリア教会にそっくりな教会に着きました。
  地下室に降りる階段の手前には、カシム老そっくりの守護者が立っていて、腰が抜けそうになりました。
「また、あいつだ…  もう一度、あの恐ろしい目を繰り返すなんて、絶対に嫌だからな!」
「でも降りないと。聖櫃も手に入らないし、妹だって…」
  足は滑稽なくらいガクガクと震え、少年に手を貸してもらえなければ一歩も進むことはできませんでした。
  守護者は今度も見て見ぬふりです。
「くそ、莫迦にしやがって!」
  正直に言って、心が壊れてしまいそうでした。
  例えそれが世界を思い通りにできるほどの素晴らしいものであり、手に入れることが命令であっても、愚かなことこの上ない気がしました。
  地下に降りると、また螺旋状の壁を巡らせた迷路があり、その中心からまばゆく輝く黄金の光が漏れ出ている部屋があります。
(とにかく、今までの苦労が報われる!)
  矢も盾もたまらず踊り込めば、大理石の土台の上に指し絵でよく見た二本の棒が渡された箱があり、その傍らにギリシアの巫子ふうの白絹の衣装を着たエイリアが足を組んで
座っていました。
『最後の、ただ一人の守護者』
「お兄ちゃん、まだ気持は変わらないの?」
  彼女はいたいけな声で尋ねました。
「変わらない。聖櫃にぼくらが健康で金持で幸せになれることを祈るんだ。アクスムにお屋敷を建てて、大勢召使を雇って…」
「ケチなことを言わないで!  ねえ、お兄ちゃん、あたしたちの世界をいったん滅ぼしましょうよ。あのつまらない、ゴミゴミとした、下らない人間のうじゃうじゃいる世界なんか、まっさらの更地にしてしまいましょう!」「エイリア、何て恐ろしいことを言うんだ。ぼくらの世界は、神様が七日間かけて造られた御心の繁栄している世界なんだ。頼むから考えを改めてくれ」
  アベルが一歩踏み出すと、光の壁のようなものにぶつかり、手の先と頬に火傷の跡ができました。
「『御心』?  『繁栄』?  ちゃんちゃらおかしいわ!  あの世界に居た頃、あたしは病気なのに、お医者さまにかかるお金もなかった。頼んでも、頼んでも、誰も出してはくれなかった。おまけに戦争では毎日大勢の人が死んでいったじゃない!  多くが罪のない弱い人たちか、命令されただけの兵隊じゃない!」
  土台から降りた拍子にのぞいた彼女の寛衣の胸の奥には、血にまみれた細く長い蚯蚓のような触手の固まりがもごもごと蠢いていました。
「メンゲレ…  手術の時、何か余計なことをやっていたと思ったら…」
  私は歯がみしたけれど、もはや全ては後の祭り…
「リヒターさん、あなたのお友達のお医者さんは優秀だわ。ひ弱かったあたしに、こんな凄い力を授けてくれて」
「エイリア、きみは人の心の代わりにこの世のものではない変なものを埋め込まれて、何が何なのか分からなくなってしまっているんだ。頼むから聖櫃に、もとの人間に戻してもらうように頼みたまえ」
  鋼のように尖った触手の先端が群がり飛んで私の身体に迫った時、両手を広げたアベルが私の前に飛び出して、代わりに串刺しになりました。
「アベル!」
「あら、莫迦なお兄ちゃんね。せっかく今まで命を長らえて、さらに世界を破壊し、創造できると言うのに…」
  触手を自らの体内に引き戻すと、白い衣が赤い血に染まっていきます…
「リヒターさん、お願いします。妹を、救ってやって下さい。塵から生まれたものは元の塵に…」
  彼はそうつぶやいてこと切れました。
「そうはさせないわよ。お兄ちゃん。あなたはわたしと同じ、化け物の姿となって甦り、この世を見届けるの」
  エイリアが触手を使って器用に自分の細胞の一部を死んだ兄の身体に移植すると、アベルはいとも簡単に生き返りました。
「エイリア!  ぼくに何をした!  ぼくに何をしたんだ?」
「あら、お兄ちゃんやリヒターさんたちがあたしにしたことと同じことを、よ」
  これまでの旅で何度も生きた心地のなくなった私ですが、いよいよ全身から血の気が引いてその場に座り込みました。そして、旅の間ただの一度も言ったことのない祈りの言葉を口にしたのです。
「神よ、もしも居賜えるならば、この哀れな魂を、どうかお救い下さい…」
「神などいる訳がない。いるのはあたしたちがいままで目にしてきた、宇宙の果てより来たりし、古の外なる神たちのみ。あたしは封印されし彼等を解放し、死せるもの、あるいは死と同じ長き眠りをむさぼる者たちに再びの命を与え、君臨させてやるのだ!」
  立ち上がったエイリアは土台を階段の代わりにして聖櫃の上に登り、両手を大きく広げて蓋を開ける仕草をしました。
  彼女の小さな身体はふわりと持ち上がりました。その形相は人間の幼子のものとは思えないほど引き吊り、邪悪の気が溢れ出ています。
  聖櫃の蓋はさらに大きく開いて、金色の光はじかに目を開けてはいられぬほどまばゆいものになりました。
「支配を…」
  彼女の髪は黒い扇となって広がり、生暖かく生臭い風がゴオーッと吹きすさびます。
  私は瀕死のアベルを抱きかかえて外へと転がり逃げました。
「最後の、最後の守護者がいるはずだ。そいつが彼女を元通りにしてくれることを祈ろう!」
「無駄さ…  エイリアは大きな麒麟も、蛸の化け物も簡単に倒したんだ。きっと最後の守護者だってやっつけてしまうさ」
  アベルは息も絶え絶えに言いました。
「心配するな。神の力が邪悪な力に乗っ取られた女の子なんかに負ける訳がない!」
  ソロモン王以来、三千年間封印されてきた強大な力は大きな渦を巻き、竜巻となって私たちに迫ります。
  渦の中にはいろんなものたちがいました。
  中世の騎士、ギリシア・ローマ時代の学者、それよりもっと以前の、現代を凌ぐ文明を誇った伝説の大陸の神官、幻の生き物たち、深い海の生物、宇宙の彼方からやってきたものたち、定形のもの不定形のもの、心のあるもの、ないもの、みんなが一緒になった光景は、まるで審判の日のような賑やかさでした。『汝、何故に我の力を求めるか?』
  盲目の守護者カシム老人の声がしました。やはり彼は本当の守護者で、全てを見通していたのです。
「私は栄えあるドイツ帝国の栄光のために…」
  私の脳裏にひどく荒廃した国の姿が写し出されました。焼け野原となった街、おびただしい戦死者、収容所で虐殺された人々−−
「やめろ!  やめてくれ!」
  それはどう見ても狂気の男に翻弄された祖国の哀れな末路でした。
『これが「栄光の祖国」に見えるかね?』
「分かった!  私は騙されていたんだ。真に信頼すべきはもっとまともな考えを持った同志たちだったんだ!」
「では、汝、最後の、真にただ一つの守護者となって、悪魔の企みを阻止せよ」
「ちょっ、ちょっと待て、相手はメンゲレの手術によって人ならぬ力を持ったものだ。最後のほうの守護者たちもやられている。そんな恐ろしい力を持ったヤツを、どうして私が…」
  いくら辞退しても、返事はありませんでした。
  竜巻がやむと、蓋の開いた聖櫃と、その中を覗き込もうとするエイリアと、私だけが残されていました。
  私はとっさにエイリアの隙をついて彼女を聖櫃の中に突き落としました。気配に気が付き、触手で私を串刺しにし、触毛で自由を封じたので、私も一緒に櫃の中に転がり落ちました…


  一九三六年  五月。

  再び目を覚ました時、私とアベルとエイリアは、アクスムの街角に倒れていて、親切な住民の手当を受けていました。
  受けたはずの大怪我は、ほんのわずかな痕跡を残して、誰かが治療してくれていました。
  アベルとエイリアは地底の旅の記憶を全く無くしていましたが、そのほうが二人にとって幸せだと思います。
 イタリア軍はようやくアジスアベバを陥落させたようですがいまだに聖櫃も、それに関する情報も入手しておりません。
  私は、この日をもってドイツ帝国総統親衛隊を一身上の理由で退役したく存じます。
  ヒトラー総統閣下をはじめ、皆々様が正しい、神に導かれた判断を続けられて、千年の繁栄を続けられるよう、ひたすらお祈り申し上げます。
  この最後の報告のあと、無線機や暗号表は破棄破壊して、あとは世界の平和を祈りながら静かに暮らしたく存じます。
  もし総統閣下にまだ聖櫃に対するご執心があっても、アスクムの古い修道院の地下をお捜しになるのはやめたほうがよろしいかとご進言申し上げます。
  あそこにあるのは聖櫃の形をした化け物です。その形をしておれば訪れる愚か者の絶えることがなく、その恐怖を十分に味わい、食することができるので、そういう形をしているのです。
  おもうに世界中の秘宝や財宝というものは多かれ少なかれ皆そういうものではないでしょうか。
  英明なる英知をもってご判断下さい。

  追伸。ヨゼフ・メンゲレ博士にはくれぐれもご油断めされませぬよう…





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