砂のサルガッソー それは大層不思議な光景だった。 砂漠の真っ只中にぽつんと、青い泉があって、ニ、三十人は乗れるかと思われる交易用の帆船がぽっかりと浮かんでいる… 船は特に痛んではいない。帆は真っ白で、出港に際してたったいま、おろしたばかりのようだ。帆柱も船体も新しい。ニスがつやつやと輝いている。 ターバンを巻き、腰に偃月の短剣を差したアラビア人の船員たちが、甲板の掃除をしたり、帆柱のてっぺんから遠眼鏡で四方を覗いたり、洗濯物を干したりしてまめまめしく働いている。中には、デッキの縁に腰を下ろして、眼下の泉に釣り糸を垂れている者もいる。 とにかくのどかな光景で、これが海か大きな川の上だったら、何の変哲もない眺めだった。 最初にその船を発見したのは、隊商道で盗賊団に襲われ、砂嵐に巻きこまれていまにも死にかけていた若者だった。 彼の名前はラモンと言う。本人は発明家を志していたが、あいにく人手が有り余っているイスファファンの街で、バグダッド行きの絨緞商人の駱駝使いとしてやっと雇ってもらって、嬉々として旅を続けていた矢先のことだった。 人生一寸先は闇だ。キャラバンは五十人以上いて、そのうち半数は屈強な兵隊上がりの護衛と言うのに、百人以上の盗賊に襲撃されて、仲間のほとんどは殺され、商品と水・食料は奪われ、灼熱の砂漠に放り出された。 自分でも二日生き延びられたのは幸運なほうだったと思う。 (もうだめだ。これで終わりだ) よろめき倒れ、朦朧として行く意識の中で最後に目にしたものが、問題の泉と船だった。 最初ラモンは、蜃気楼だと思った。 太陽のいたずらで、どこか遠くの海原をのんびりと航海している船を映し出しているのだ、と。 にしては、細かいところまで実にはっきりとしていた。 そこで彼は最後の力を振り絞り、拳に砂を掴むようにして、それにめがけて這い進んだ。 するとどうだろう、船からは数人が乗り込んだ救命用の小船が下ろされ、砂の端に接岸したかと思うと、何人かがこちらに向かって駆けてくるではないか! 「大丈夫か?」 「おい、しっかりしろ!」 荒荒しく助け起こされ、野太い声が掛けられ、幻の泉から汲んだらしい、冷たい清らかな水が数滴、唇の端に掛けられて、ラモンはホッとして気を失った… 目が醒めると、精悍な鬚面の男が彼の顔を覗き込んでいた。 「わたしはこの船の船長、シンバッドと言う者だ。一旗上げようとバスラの港から船出したのはいいが、毎回毎回嵐に会って、とんでもないところに漂着してしまう… 何度か無事に故郷に帰れる度に、「もう航海はやめよう。家で静かに暮らそう」と決心するのだが、ものの一と月もたたない間に、また冒険が恋しくなるのだ。 しかし、今度こそは年貢の納め時かも知れない。大きな竜巻に遭遇して着いたところが運良くか、はたまた運悪くか、この泉。 積荷が食料であったことも幸いして、いまのところ乗組員一同こうして平静を保っているものの、食べ物を食い尽くさないうちに、またこの気まぐれな泉が干上がって枯れ果てない間に何とか脱出しなければならない。 あなたがこうしてここに来たと言うことは、この砂漠にも必ず出口があると言うことだろう。 済まないが教えてもらえないだろうか?」 ラモンは自分がイスファファンの出であることと、いままでのいきさつを語り、 「そんな訳でとてもお役には立てそうもない」 と、付け加えた。 シンバッド船長はガックリと肩を落とした。「…どうすればよいのだ? 時折、水と食料をたっぷりと持たせた斥候を出してはいるのだが、いかんせん、我等は船乗り。砂漠の徒歩での旅はからきし慣れていないから、みんなすぐに逃げ戻ってきてしまう。 太陽や星の方向は読めるものの、果たしてどれだけ歩けば次のオアシスに辿り着けるのかは見当もつかん。 ここに漂着してまもなく二た月。積荷の食べ物も節約はしているもののすでに半分近くを食べてしまい、船員の不安もじょじょに広がっている。心に病が生じる寸前の者も一人や二人ではない」 ラモンはしばらく考えてから、ゆっくりと口を開いた。 「とりあえず、よい考えがございます…」 一刻もしないうちに、船じゅうに次ぎのような噂が振りまかれた。 「砂漠から助けた若者は、出口に至る道筋をおぼろげにだが覚えている。ただ、皆を引き連れて脱出するまでには、もう少し体力を回復する余裕が欲しい望んでいる」と。 船内は喜びに湧き返った。 「もう少しの辛抱で、懐かしい故郷に帰れるんだ!」 「家に帰ったら、小さな商売でも始めて、二度と航海なんかには出ないぞ」 船を引き払う日に備えて、炎天下の砂漠を一時間、二時間と歩く練習を始めた者たちもいれば、早々と背に負えるだけの荷物をまとめにかかった船員たちもいた。 「あんなことを言って大丈夫なのか? 本当はおぼつかないのだろう?」 砂の海を見下ろす船尾の端で、シンバッドはラモンに囁いた。 「とりあえずこうでも言っておかないと、暴動が起きます」 「あてはあるのか?」 「船長、あなたは不思議に思いませんか? 現在船が浮かんでいる砂漠の水溜り、このカンカン照りにどうしてたちまちのうちに干上がってしまわないのでしょう? どうして池の魚がいるのでしょう?」 「そうか!」 シンバッド船長は手を打った。 「…底からどんどん水が涌き出ているんだ!」 早速潜水が得意な者ニ名が選抜され、泉の底に潜った。 が、数分たって水面に戻ってきた部下たちは難しい顔をして首を横に振った。 「船長、こいつあ底無しですぜ。確かに水はどんどんと湧いていますし、澄んでいるから見通しも効くけれど、とても人間の力じゃあ底まで確かめられません。それほど深いんです」 「魚になれたら、地下の水脈を移動できるんですが…」 しかしラモンは諦めない。積荷の中に上質の陶土や上薬もあることを知ると、砂漠の泉のほとりに大きな瀬戸物を焼く窯を立てさせて、土を練り始めた。 「何を作っているんだ?」 貴重な燃料の薪も、かなり船に残っていた。 「泉の底を見極めるための潜水球ですよ。その昔、アレクサンダー大王は自ら、のちにアレクサンドリアと名づけられた港の底の地形を確かめるために、陶器とガラスでできた丸い箱に入って海の底に潜ったと、言い伝えられています」 「おまえは偉い学者か発明家なのか? 確かただの隊商の駱駝引きだと言っていたはずだが?」 シンバッドが眉をひそめる。 「イスファファンは大きな都なので、勉強を積んだからと言っても、すぐに望みの職業に就けるとは限らないんです」 やがてラモンは完成した潜水球の中に入り、ロープでつるしてもらってゆっくりと潜水を開始した。 「いいですか。空気が続くのはせいぜい十分ほどです。だから五、六分したら再び引き上げて下さい」 しっかりと頼んで、水面を後にする。 予め素潜りで潜った水夫の報告の通り、泉の中は美しく澄んでいた。上部に取り付けたガラス板を通して上を見上げると、輝く水面に浮かんでいる船の船底はもちろん、砂漠の岸辺で心配そうにこちらをのぞきこんでいる人々の顔までがくっきりと見えた。 正面のガラス窓に目を移すと、魚たちが楽しげに舞い踊り、真水水母が漂っている。 (まもなく時間切れだ…) しかしまだまだ底は遥か。この潜水球を持ってしても、水が涌き出ているところを確かめることはできない。 ラモンが諦めかけた頃、水の流れが急に激しく渦巻き、逆巻いているところに出た。 (だめだ、巻き込まれる…) そう思った時には後の祭り… 潜水球はアッという間に渦に飲まれた。 命綱は引き千切られ、球はかなり錘の砂を積んでいたのにもかかわらず上下左右をうしなって、くるくるくるくると流れに弄ばれた。 後になって振り返ると、完全に気を失ってしまったのが幸いしたようだった。 空気はほとんど使い果たしていたはずなのに、幸い窒息せずに気がつくことができた。 潜水球はどこかの水面に浮かび上がっていた。ただし、シンバッド船長をはじめ誰も駆け寄ってこないところを見ると、元の水面ではない。 上部のガラス窓を通して見る空も、暗く雲が垂れ込めていて、薄暗かった。 とりあえず天井の空気穴を開いて浮上航行の態勢を取って(簡単な舵が付いている)正面の覗き窓から外を眺めたラモンは思わず息を呑んだ。 そこはシンバッドの船が漂着したのとは比べ物にならないほどの大きな湖だ。 四方をぐるりと、はるか彼方に、先の尖った氷の山脈が取り囲んでいる。感じからすると、とてつもなく巨大な火山の火口にできたカルデラ湖のようだ。…しかしもしもそうなら、湖底の水脈を通してよそとつながっているというのはおかしな話だったが。 驚いたのはそれだけではない。 アラビアの船、インドの船、ビザンティンの船、中国の船、果てはラモンがいままで本ですらも見たことのない奇妙奇天烈な形の船が、ひとかたまりになって湖の中央付近に打ち寄せられていた。 (どうして湖のまん中に?) その疑問はすぐに解けた。覗き穴に、黒っぽい毛糸の塊みたいな藻が迫ったとたんに、周りからからみつかれてしまったからだ。 (からみつく藻の群れで、通りがかる船という船を捕まえて動けなくしてしまう「船の墓場」があるらしいが、ここはさしずめその湖版だな…) ラモンは上部のハッチを開けて外へ出た。 何か毒気か瘴気が立ちこめていて、息をする度に喉がひりひりと痛い。 手ぬぐいを細くたたんで覆面みたいに鼻と口に当てると少しはましになった。 (ここはあまり長居するとヤバいな…) しかし泳いで岸または近くの難破船を目指すにしても、藻が密集していてどうにもならない。 いったん潜水球に戻った彼は、たまたま積んでいた木切れで、雪の上を歩く履物のようなものを作って、それを履いて固まった藻の上を歩き出した。 固まっていないところを踏み抜かないようにして注意深く進むと、普通に道を歩いているのと何ら変わりなく歩くことができる。 岸はかなり遠そうだったので、とりあえず見慣れたアラビアふうの船を目指した。 幸運なことに、それは他の多くの船みたいにまだ朽ち果ててはおらず、甲板から下ろされた縄梯子もしっかりとしていた。 ラモンは勇気を振るって縄梯子をよじ登った。 ぐるりと周りを見渡しても、誰もいない。 遺体も、骸骨の類もない。 「お〜い、誰かいませんか?」 何度か叫んでみても、何の応答もない。 (おかしいな。こんなに大きくて立派な商船に誰一人乗っていないなんて… みんなして陸を目指したのだろうか?) 陸ははるか彼方だ。藻が途切れたあたりからはボートにでも乗らないととても常人に泳ぎきれる距離ではない。 何艘かある接岸・救命用の小船は全部鎖でぶら下げられたまま、使われた気配はなかった。 いくつかある船室も寝具、机、食器などをそのままにしてからっぽだった。 船長室らしきところの机には、航海日誌が開いたままになっていた。 「○月○日(と、僅か二週間ばかり前の日付が印されていた) 突然の竜巻、または渦に巻き込まれて、当船はとんでもない異世界に飛ばされてしまった。 大量の藻に舵および船体をからめ取られてしまって、自力で脱出することはできない。 遠くに見える陸地を目指したいが、どんな化け物が潜んでいるやも知れず、落ち付くまで探検隊は出せない。 とりあえず近くの同じような目に会っている船と連絡をとりたいのだが、まだ新しそうな船なのに、人のいる気配がまるでないのだ。 不気味としか言い様がない…」 船員たちのたまり場では、読みかけの本がそのままになっていたり、差しかけのチェスの盤と駒が、いまにも対局者たちが戻ってきそうな雰囲気で放置されている。 厨房は、料理がやりかけのまま、材料が散らかされ干からびていた。 確かめるまでもなく、おそらく他の船も似たような状況なのだろう。 砂漠の真っ只中にある小さな泉の上に浮かんだシンバッド船長の船を何とかしなければいけないのに、これではあらたな問題を抱えただけで、どうしようもなかった。 (本当の本当に、誰一人いないのだろうか?) 絶望に打ちひしがれそうになった時、厨房の隅っこでチュッチュッと声と気配がした。 振り向くとまるまると太ったねずみが小さな目でこちらを眺めている。 どうやら人間がいなくなったせいで、我が物顔で振舞っているらしい。 (ねずみたちが生き残っているのならば…) ラモンは自らを奮い立たせた。 (…きっと誰か生き残りが隠れていて、訳を語ってくれるのに違いない!) 彼は備え付けのランプを手に持ち、船倉から順に、扉の開く船室を調べた。クロゼットも開いてみた。吊り下げられたアラビア商人の衣装は、まだ痛んではいない。 と、ある部屋とその隣の部屋は鍵がかかっていた。鉄梃で叩き壊しても扉が動かないところを見ると、バリケードが築かれているみたいだ。 そんな部屋はいままでなかったので、ラモンは色めきたった。 「誰かそこに隠れているのですか? ぼくはイスファファンから来たラモンと言うものです」 と、アラビア語、ペルシア語、ラテン語で叫んでみた。 「竜巻で船が砂漠の真っ只中の泉に飛ばされて、陸路を辿って帰るのはおぼつかないから、潜水球を造って地下水路を辿ってきたら、ここの湖に出てしまったんです!」 「ほ、ほんとうに人間でいらっしゃいますか?」 中からか細い少女の、中東のとある少数民族訛りのペルシア語が返ってきた。 「そうです! この船や、周りの船の乗組員の人々は一体どうなすったんですか?」 バリケードにしていた家具や置物を少しずつずらしてどける気配がした。 ゆっくりと、ゆっくりと… かなり時間がかかったが、ラモンは中の者を驚かせないように、辛抱強く待ちつつ、いままでのできごとを詳しく語った。 やがて、痩せた人間一人がようやく通れるくらいの隙間が開いて、中から青い色の長い髪の毛の、菫色の瞳の十五歳くらいの少女が愛くるしい顔を覗かせた。 「わたし、ルーンと言います。奴隷として売られて行くために、この船に乗せられました」 随分喋っていないように、たどたどしい言い方だった。 中に入れてもらったラモンは、水の入った大甕や保存食料や衣料が結構集められているのを見た。 「…実はこの船も、竜巻に巻き上げられたか、渦に飲まれたかして、気がついた時にはこちらの死の湖に運ばれてきてしまっていたのです… それが二週間ほど前のことです… それから二、三日して、突然船員たちの叫ぶ声がしました。 『奇跡だ! 出発した港に帰ったぞ』と。 甲板に出て見ると、なるほど空は晴れ、陸までは遠いけれど一条の青黒い道がついています。その先に小さく箱庭のように見えるのは懐かしい故郷です。 乗組員たちは仕事もチェスも放り出して、我先にそのできたばかりの道を陸のほうに向かって走り出しました」 「なぜ君はついて行かなかったの?」 「わたしの一族には言い伝えがあります。 船を迷わす妖かし、セイレーンの伝説です。 セイレーンは知恵があります。他の海の怪物のように力づくで船を静めるような荒っぽいことはしません。 船をどこか別の世界に攫っていって、そこで船長以下乗り組んでいる者の度胸を試し、心に適った者の命は助け、そうでない者たちの命は奪うのです」 「で、幻の故郷を目指した者たちはまんまと騙されて…」 「と、思います」 ルーンは静かに目を閉じた。 「『試す』と言うことは、正解は必ずある、と言うことだな?」 ラモンはにわかに張り切った。 「湖に見えているようでも、実は海かも知れず、彼方に聳える山脈は実は幻かも知れない。 さらに、砂漠の中の泉と思えるのは実は錯覚で、シンバッド船長の船はいまでも海のど真ん中にいるのかも…」 「そういうことですわ」 「そうと決まれば長居は無用だ。この船のすぐ近くに、ぼくが乗ってきた潜水球が繋留してあるから、それで戻れるものならシンバッド船長のところへ戻ろう。君は小柄だし、二人ぐらい充分乗れるだろう」 藻の上を歩く木ぎれでじゃぶじゃぶと、二人走ったまでは良かったが、肝心の潜水球がどこを探してもない… 「莫迦な!」 彼は真っ青になって、懸命に周囲を探索したものの、影も形もなかった。 (あの潜水球はハッチをしっかりと閉めていれば絶対に沈まない構造になっているのに…) 風もなく、穏やかな、濁った湖面… 何者かが持ち去ったとしか考えられなかった。 「あれがないと…」 泣きそうな顔のラモンに向かって、ルーンはぽつりと言った。 「あなたはさっきその潜水何とかを、遭難した砂漠の泉のほとりで作った、とおっしゃっていたのでは? それと良く似たものをここで作れませんか?」 (そんなこと、とてもできそうにない) と肩を落としたものの、それしか方法がないようなので、また一からやり直すことにした。 潜水球を造るためには、陶土が必要だ。 陸を調べてなければ、積んである船を見付けるしかない。窯は当然陸に作らなければならない… 彼は船の水と食料を分けてもらって、ルーンとともに大きなかんじきをはいて、てくてくと藻の上を歩き出した。 ビザンティンの船には宝物が一杯積んであり、ローマ船には武器や防具が満載されていた。…やはり乗組員は影も形もない。 (みんなセイレーンに騙されて、陸で食われてしまったのだろうか?) それならいまの二人は地獄に向かって進んでいることになる… ところどころで難破している幽霊船で休憩をとりつつなおも陸を目指していると、見たこともない船に出くわした。 それはかなり大きな鉄甲船で、帆もなければ甲板もない。 全体が銀色に光る金属で覆われていて、前後に数カ所、窓や扉があった。 拳で叩くとコンコンと金属音がする。 「奇妙な船だな。入ってみよう。何か強力な武器があれば、セイレーンに遭遇しても戦えるかも知れない…」 ラモンたちは錆びて開かれたままの扉から中に入った。装甲船の内部も、金属や樹脂を固めたもので壁を覆っていて、木造の部分はどこにもなかった。 「全く別の世界の船か、それとも未来の船なのだろうか?」 兵器室とおぼしき部屋には、ボウガンをうんと小さくしたような短筒が何丁も掛けてあった。 試しに取り出してそこここをいじっていると、いきなり筒先から真っ赤な光の矢が飛び出して、船室の壁に大きな穴を開けた。 「おお、危ない!」 肝が縮んだけれども、こいつは役に立ちそうだった。 さらに、潜水球を造り直すことなど莫迦げたことであることに気付いた。 (この鉄の船を再び動かせるようにすればいいんだ。そうすれば怖いものなしだし、どこへでも行けるのでは?) あっちこっちうろついているうちに、操舵室らしい部屋を見付けた。 いまは何も映ってはいない黒いガラスの窓がずらりと並び、その下には樹脂のスイッチや無数の小さなボタンが、さながら角砂糖みたいに整然と並んでいる。 ラモンは試しにそのいくつかを押して見た。 もちろん何の反応もない… 「この船、一体どういうふうにして動くのだろう? 外から見た時、帆はまるでなかったし、第一あったところで、こんな重そうな船体は動かせないに決まってる…」 彼はルーンの瞳を見詰めつつ考えた。 「そうだ! 魔法だ! この鉄の船は、空飛ぶ絨緞みたいに魔法の力で飛ぶのに違いない!」 そう叫ぶと、少女はにっこりと微笑んだ。 「くそ〜、ぼくは魔法使いじゃないからな。 こんなことだったら、魔法使いに弟子入りして、簡単な魔法の一つや二つ覚えておくんだった。そうすれば、この船を自由自在に動かして、シンバッド船長たちを助け出し、アッという間に故郷へ飛んで帰れるのに…」 「でもラモンさん…」 少女がポツリと言った。 「その無敵の船が、こうしてほかの葦船なんかと一緒に難破してるんでしょう?」 言われてみればそうだった。この魔の海に漂着した鉄甲船の乗員たちは、自分たちの「無敵の魔法の力」を信じて、この状況から何とか脱出しようといろいろ試したはずなのだ。 なのに、船は依然としてここにあり、乗組員たちの姿は見えない… 後の船も状態は似たりよったりだった。 渡し舟かはしけみたいにちゃちなものもあれば、紡錘形や円盤形など、異なる世界の船…と言うか乗り物も、多数朽ち果てていた。 「ぼくのいた世界、そうでない世界、ありとあらゆる種類の船の墓場だ…」 ラモンは呟いた。 「でも、いつどこからどのようにして運ばれて来るのだろう? もしもいま攫われてくる船があったら、走って行って、例え何があっても船から一歩も出ないように忠告するのに…」 油を垂れ流したみたいに不気味な燐光を放っている空を見上げても、特に何かが降ってくる気配はない。 とにかく、打ち寄せられた船伝いに陸を目指したものの、二三日すると不思議なことに気がついた。 こちらは一生懸命歩いているつもりなのに、まるで陸地が近づいてこないのだ。…それどころか、ますます離れて行くように見える。「あれは、幻だ」 彼はポツリと呟いた。 「…ありもしないものが見えているんだ」 陶土を見つけて窯を築き、潜水球を再建造する計画が崩れ去った。 「一体どうすればいいんだ?」 持ち出した食料が減り出したために、一旦ルーンの乗っていた物資の豊富な船に戻ることに決めた。 帰りは通りがかる船という船で、大声で呼びかけて見た。 言葉が通じる通じない、また化け物が潜んでいる危険性も、もうこの際言っていられなかった。 いや、化け物でもいいから出てきて欲しかった… 結局、誰にも会えず、振り出しに戻ってしまったラモンは、甲板の上に大の字に寝そべって怪しい色の空を見上げ、 「ああ、このまま歳を取って、ここで死んでいくのかな」 と、呟いた。 ふと脇に目をやるとルーンがいる。 「まだ諦めるのは早いわ。あなたは発明家を志しておられたのでしょう? いろんな材料は無限にあるのだから、潜水球に代わる潜水装置を発明して、それで元来た地底の水路を戻ってみる、と言うのはどうかしら?」 彼女の言葉に気を取り直して、ラモンは新しい潜水できる乗り物を考案することにした。 湖には機密性の抜群な船もたくさんあったけれど、そういうものの動力装置は複雑で、専門の訓練を積んだ操縦士がいなければどうにもならない代物だった。 そこで彼は、まだ新しい木造船から船材を失敬して、陶製ではなく、木造の樽形の潜水艦を造ることを思い付いた。 何度も何度も図面を引き直し、バラストの水の量と、どのへんにバラスト・タンクを積めばよいのかを計算した。 ラモンは樽職人ではなかったから、人間二人が楽に乗れて、その上空気、水、食料などを充分蓄えられるくらいの樽をぴっちりと隙間なく張り合わせるのは骨が折れた。 第一、木を丸く反らせるのは職人芸がないとなかなか難しい。 その辺は異世界の難破船から、ニスのように塗るだけで浸水を防げる魔法の塗料が入った魔法の缶を見つけて解決した。 作業は順調に少しずつやり遂げた。細かいところはルーンがまめまめしく手伝った。 そして、数ヶ月後にはようやく、ロープでゆっくりと湖面の藻の少ない部分に進水させるところまで漕ぎ着けた。 「さあ、帰ろう! とりあえずシンバッド船長が頑張っているはずの砂漠の湖まで帰って、そこからまた方法を考え出して、イスファフアンに戻ろう! 無事イスファファンに戻ったら…」 ラモンは少女を潜水艦の扉に誘いながら、照れ臭そうに言った。 「…結婚しよう」 だが、彼女は船の中には入らず、悲しそうな顔で首を横に振った。 「残念だけれど、それはできないわ」 「…そうか、他に好きな人がいるんだね」 「そうじゃないの」 「分かった! この世界にはぼくら二人しかいないけれど、首尾良く都に戻れたら、いろんな人に会えるからね」 「あなたと一緒に行くことはできないの」 「なぜ? この新しい船もすぐに沈むとでも?」 彼はいきり立った。 「いいえ。なぜなら、わたしがこの世界の主、セイレーンで、難破船の乗組員の魂を食うことで生き長らえているから」 「冗談だろう? 君はこんなに可愛いし、潜水艦を作るのだって手伝ってくれたし、第一もしも魔女だったら、どうして僕の命を取ってしまわないんだ?」 「貴方はわたしの獲物ではなく、あなたのほうからわたしの世界へとやってきた客人だから」 「まさか…」 笑いがだんだん引き吊っていく… 「すると、きみの真実の姿は?」 「この姿は、あなたの心の中を読んで、理想の女性に化けているの。正体は…見ないほうがいいでしょう」 「そんな…」 「さあ、早く! わたしの気が変わらないうちにさっさとお行きなさい。そろそろ魂に飢えてきたわ。あなたがいるあいだじゅう、ずっと新しい獲物を捕らえるのを我慢してきたから」 ラモンはまだ信じられない思いで、ルーンの寂しげな瞳の底を見やった。 「本当に… 本当にセイレーンだとしたら、シンバッド船長の船が陥った不思議な泉からの脱出法を教えてくれ」 「ホヤの一種で、深海に、蜘蛛の巣みたいに自分の身体の大きさの何倍もの粘着性のバリアを張るものがいるわ」 彼女は静かに語った。 「なぜそんなものを張るかと言うと、海のより浅いところから落ちてくるマリン・スノーを、より効率的に沢山拾うために、ドーム状に広げているの。 この瘴気を孕み、朽ちた藻の茂る世界も言わば同じようなもの。不運な船を捕らえ、乗組員の魂を貪る為に開かれた、いわば傘のようなもの… 網を張っているのはわたしだけじゃあない。 他にいろんな種類の『魔』もいる。中には『網』ではなくて、『無数の釣り糸』を垂れているものもあるのでは?」 「でも…」 彼は心配を振り払うかのようにむきになって言った。 「あの泉は特に邪悪な気配は感じられなかった。現にぼくだって、船長や仲間と一緒に半月くらい暮らしたんだ」 「相手が罠にかかった獲物を取り外すのを忘れているだけじゃあないかしら。いまごろは…」 「どうして… どうしてそんなことばかり言うんだよ! こんな凄い力があるのなら、ほんの少しでいいから、ぼくと一緒に来て、様子を確かめてくれ!」 「残念ながら、わたしの力は、このわたしの場所を離れると急激になくなるの。だから、一緒に行っても、足手まといになるだけで、お役には立てないと思うわ」 「…もういいよ。もう頼まない…」 ラモンは歯噛みして、ポツリと言った。 「この鬼! 魔物! こんなに… こんなにいっぱい船を沈めて… 人間を恐怖のどん底に落として、殺して…」 駆け出し、進水したばかりの樽型潜水艇に乗り込むと、わざとバァーンと激しい音を立てて扉を閉じ、バラストの水を注入した。 設計通り、樽はどんどんと沈んで、藻もなく、海底水流が堰を切って流れている深いところめがけて沈んで行った。 ラモンの樽は、来た時と同様に上下左右、螺旋状に揺れる激しい湖底の流れに、滅多やたらに揉まれた。 ただ、今度は悔しさのせいか、気は失わず、操舵席に紐で自分の身体をしっかりとくくりつけ、狂って回りつづける磁石を、じっと眺めていた。 地底の細い水路をずんずんと進んだかと思うと、樽は次第に上昇を始め、ポッカリと日のさすところに浮かび上がった。 ハッチを開くと、シンバッド船長を始め、陶器の潜水艇を作るのに力を貸してくれた懐かしい面々が寄ってきて取り囲んだ。 「どうだった、ラモン? 地底水路はどこか別の世界とつながっていたかい?」 「この潜水艇、潜ったときとはまるで違うもののような気がするが、まさか…」 ラモンは「向こう側」の世界で見聞きしたことを包み隠さず報告した。 「嘘をつけ! おまえが潜ってから、ものの一時間もたってはいないぞ。こんな短い時間にそんないろいろ冒険できるなんておかしい」 船員たちが非難するのを、シンバッド船長はやんわりと制した。 「まあ待て。俺も数限りなく変な世界を旅してきたが、広い世の中には桃源郷のように、我々の世界とは時間のたちかたがまるで違う国があってもおかしくない。 ラモンの話が嘘でないことは、行った時とは違う乗り物で帰ってきたことで明らかだ。 潜水艇から出た途端、白髪頭の老人にならなかったことを喜んでやるべきではないだろうか」 「すると船長、あっしらは別のことを心配しなくちゃあならないみたいですぜ。 …そのセイレーンとか言う女は、あっしらは蜘蛛の巣にかかった獲物で、獲物を取り忘れていた蜘蛛は、やがて…今日にでも…取りに来るかも知れない、ってことでしょう?」 船員たちはてんでに剣や短刀や、火薬砲の点検をし始めた。 もっともこんな異世界を作り上げられるだけの化け物を相手に、その程度の武器が通用するかどうかは大いに疑問だったが… それにそいつがついに現れなかったとしても、このままでは船内の積荷の食料を使い果たす日は目に見えている。 「そのセイレーンとかいう魔物はおまえには親切だったそうだが、もう一度、俺と一緒に戻って何とかしてもらえるように頼んでみるというのはどうだろう?」 シンバッド船長は真顔で言った。 「彼女が言っていることが真実ならば、いかなる形にせよ人間を助けるというのは、魔物の信義にもとるのでは?」 「う〜ん…」 その日も、その次の日も、魔物は現れず、いままで通りの生活が続いた。 食料は少しずつ減りつづける… 船員たちはお互い緊張と不安のあまり、些細なことであちこちで喧嘩を始めるようになった。 「俺たちはどっちみち死ぬんだ! どうせ死ぬのなら、食いたいだけ食ってから死んでやる!」 「なにを言う! シンバッド船長は何度も死地を乗り越えられてきた方だ。きっと何とかしてくれるさ。それにあのラモンとか言う発明家の小僧だっている。奴のお陰でいまの俺たちの状態が分かったんじゃあないか」 「うるせえ。あんなこと全部嘘っぱちかも知れないじゃあないか!」 取っ組み合いなら普段の航海でも日常茶飯事だが、魔物に向けるはずの磨いた剣がこともあろうに味方に向けられ出した… 「何とかしなければ、このままでは魔物に襲撃されるよりも、食料が底をつくよりも前に、自滅してしまいそうだ…」 仲裁に走り回っていたシンバッド船長も、頭を抱えて船長室に閉じこもってしまった。「とりあえず、の方法はあります」 「どんな方法なんだ?」 「魔物に現れてもらうんです」 「何だって!」 「セイレーンが言っていた魔物に来てもらうんです。『ここに取り忘れたおいしい餌があるよ』ってね」 「莫迦な!」 船長は机をドンと叩く。 「…もちろん本物じゃあありません」 ラモンは片目をつむってみせた。 「…ぼくか、船長か、とにかく秘密を絶対に守れる者が、魔物と思しき縫いぐるみを着て、 何人かにちらりと目撃されるんです」 「すると?」 「ついに敵が現れた、と言うことで、みんな再び結束することと思います」 あちこちの想像を絶する世界を旅し続けてきたシンバッド船長も、このアイデアには「う〜ん」とうなったきり、黙りこくってしまった。 ラモンにとっては、とりたてて秘密兵器も機能も付いていない縫いぐるみを作ることなど朝飯前だった。 半日ほど船長室のクロゼットにこもって、それを完成させた。 「異変が目撃された時、船長がその辺にいないと大騒ぎになるでしょう。だから、とりあえずこの中にはぼくが入ります」 シンバッドは言われるままに、着ぐるみの背中にある勤めて目立たなくしてある紐の閉じ合わせを固く縛ってやった。 「しかしラモン、追いかけられ、追い付かれて剣で斬りつけられたらどうする?」 「そんなドジは踏みませんよ」 で、と、ある見張りの一人が、マストの上から真面目に四方を眺めていると、そいつがちらりと視界の隅をかすめた。 「大変だ〜ッ!」 「どうした!」 「誰か…いや、何か砂漠にいる!」 見張りが問題の方向を指差すのと同時に、手に手に武器を持った腕自慢の水夫たちが砂煙を上げて駆け出した。 (確かに砂丘にはなだらかな丘の重なりがあるが、普通は完全に見とおしが効いて隠れる場所はない。ラモンの奴、あんな重たい縫いぐるみを着こんで、一体どうやって逃げおおせるつもりなんだ?) 報告を受けたシンバッド船長は、懸命に興奮している様子を装いながら、頭の中は (どうか捕まって事態を滅茶苦茶にしないでくれよ…)と祈っていた。 ラモンには作戦があった。 予め砂の斜面に自分ひとりが入れるほどの箱穴を掘っておいて、死角を利用して素早く隠れる、と言うものだ。 まんまとみんなを誘い出した彼は、予定通り、落し蓋を開けた。中に潜りこみ、蓋を閉じると斜面が自然に砂をかぶせる仕組みになっている。 中に隠れて蓋を閉じると、間一髪で追っ手がやって来た。 「消えた…」 「一体どこへ?」 「野郎、姿を消すこともできるのか。だったら難儀だな」 ラモンは(してやったり)と思った。 砂漠の隠れ場所はあちこちに数カ所設けていたので、神出鬼没ぶりを発揮することができた。 作った化け物の着ぐるみは、一種類だったのにも関わらず、目撃者たちはてんでに 「毛むくじゃらで、牙がずらりと並んだ大きな赤い口を開けていた」とか、 「蜥蜴みたいにぬめぬめした肌をしていた」とか、 「いいや、鱗に覆われ、尾鰭や背鰭があった」とか、勝手なことを言っていた。 乗組員たちは結束し、もういらつきから喧嘩を始める者もいなくなった。 さらに、誰からともなく、 「化け物を退治すれば、呪いが解けて、元の海に帰れるんだ」と言い出す者が現れ、一同は 「今度見たら絶対に取り逃がすものか」と張りきった。 「とりあえずは礼を言わねばならぬのだろうが…」 当然とは言え、シンバッド船長は浮かない顔だった。 「…再々出没していたら、ついに捕まって化けの皮がはがれることが怖い。 かと言って、ぱたりと出なくなれば、また元の木阿弥だ。 みんなは奴を倒す日が、元の世界へ戻れる日だ、と期待している。一体どうすればいいのだ?」 これにはさすがのラモンも返す言葉がなかった。 そうこうするうちに、船員たちの間から奇妙な噂が立った。 「船の周りに現れ消える化け物は、あれはもしかしてラモンではないか?」 「奴は化け物を一度も目撃していない。 追跡隊にも加わっていない」 「なるほど。彼は潜水球で別の世界へ行き、別の潜水艦で戻ってきた。 行ったラモンと帰ってきたラモンは果たして同一人物だろうか? 彼は向こうでは美しい少女の姿をした妖怪の類と会ってきた、と述べていた。そいつがラモンを殺してまんまとなりすましていないと言う証拠がどこにある?」 事態は当のラモン自身が予測もしなかった方向へと向かい始めた。 「船長、ラモンを出して下さい! 奴をぶっ殺せば、我々は帰れるのです!」 ラモンは船長室に逃げ込んだ。 乗組員たちは扉を激しく叩き続ける。 多勢に無勢、蹴り破られるのは時間の問題だった。 「どうする、例の縫いぐるみをみんなに見せて、正直に謝るか?」 シンバッド船長とラモンは懸命に扉を押さえつつ互いの顔を見合わせた。 「とんでもない。そんなことしたら船長とぼくと二人ともが殺されてしまいます」 「船長もぐるだ!」 外で叫ぶ声がした。 「…シンバッド船長もあちこち不思議な世界を旅して回っている間に、化け物と入れ替わってしまっているんだ!」 何人かが束になって体当たりを始めた。 扉がきしみ、ひびが走り始めた。 と、その時… マストの上から声が響いた。 「出た! 出やがった!」 「何だって?」 「例の化け物だ! 間違いない!」 いきり立っていた船員たちは、ラモンとシンバッド船長に襲いかかるのをやめて、剣をきらめかせ、脱兎の如くボートに乗り込んで砂漠のほうへ向かった。 二人が恐る恐るすっかり壊れかけた扉を開らくと、留守番の船員がしきりに頭を掻いていた。 「いやあ、疑って申し訳ない…」 「疑いを完全に晴らすために、我々も追撃に加わろう」 共に剣を抜いたものの、ラモンも船長も狐につままれた気分だった。 その影は砂丘の彼方に向かって駆けていた。 ラモンと違って隠れ穴に身を隠すこともしない。 (セイレーンかも知れない…) ラモンはそう思った。 (彼女がぼくらの頼みを聞いてくれる気になって、やつて来てくれたのに違いない。 …だとしたら、みんなは救いの主を殺そうとしているんだ) 彼女への思いが、彼を誰よりも早く走らせ、それに追いつかせた。 そいつは、彼が作った着ぐるみの化け物にはなはだよく似ていた。 毛むくじゃらで顔はほとんど隠れて見えず、指が判然とは分からない手を二本持っていた。 「きみはセイレーンだろ? ほら、あの船の墓場で出会った。いいから早く人間の女の子の姿に戻ってくれ。でないとみんなが追い付いたら殺されてしまうよ。みんなは早く帰りたくて気が立っているんだ」 毛むくじゃらは走るのを止めてきょとんとした表情で彼の瞳を見詰めている。 「彼女じゃあないのか? すると、やはり、ぼくらをこの不思議な泉に閉じ込めた張本人? …と言うことはこいつを殺すと元の世界へと戻れる?」 そんな気がしたりしなかったりする。 そうこうしているうちに、仲間が追い付いてしまった。 「でかしたぞ、ラモン! 奴を足止めしたのだな?」 船員たちは周りを取り囲み、ギラギラするだんびらを振り上げた。 「よし、そこをどけ。あとは我々に任せろ。 なます斬りにして、呪いを解いてやる」 輪がじりじりと縮まる… 「待って、こいつは大したことはできないよ。 とてもぼくらをここに閉じ込めている化け物なんかじゃあない」 彼は両手を広げてそいつを庇った。 「今さら何を言うか!」 「そいつが俺たちをいまのいままでひどい目に合わせていた張本人なんだ!」 「庇い立てするところを見ると、ラモン、やはりおまえは船の墓場の化け物に魂を売っていたのだな?」 「構わねぇ。ぶった斬れ!」 研ぎ澄まされた剣が一斉に振り上げられた。 と、そこへ船長が後詰の水夫たちとともにやって来た。 「待て。殺してしまうのは簡単だろうが、もしも人違い…いや、怪物違いだったらどうする? こいつも我々と同様に、この世界に囚われたものだったら? 幸いこいつは抵抗もせずおとなしいように見える。成敗するのは一応取り調べを…人の言葉が話せると仮定して、だ…してからでも遅くはないのでは?」 船長の命令とあらば仕方がない。 みんなは毛むくじゃらを荒縄や船具の鎖でぐるぐる巻きにして、いったん船へと連れて帰った。 もちろん、変な真似をしないようにラモンにも監視が付いた。 「さて、これより取り調べを開始する」 陽が傾き出した頃、シンバッド船長は見張り以外の乗組員の全員を甲板の上に集めて言った。もちろん輪の真ん中には、身動きが出来なくされた上に剣の切っ先を付きつけられた毛むくじゃらがいた。 「…おまえは何者なんだ? わたしたちの言葉が喋れるのなら、喋ってくれ。話すのは無理だが、わたしたちの言っていることは分かると言うのなら、頷くか首を縦横に振ってくれ。もしも全く答える術を知らないのなら、可愛そうだが命を貰わねばならない」 毛むくじゃらは身震いした。 「それでは聞く。おまえはこの世界のものか?」 首が激しく横に振られた。 「おらおら、嘘をつくと為にならねぇぞ」 「よさないか! 質問を繰り返せば、嘘をついていてもすぐに分かる」 船員が蹴りを入れようとするのを船長は鋭く制した。 「…おまえもこの世界へと流されてきたのか?」 頷き。 「おまえの仲間はいるのか?」 頷きとともに、二本しかない指が甲板の下にある船室を差した。 みんながどよめく… 「何だって?」 「俺たちのこの船に、こいつの仲間が隠れている?」 「まさか… それだったらすぐに見つけているはずだ」 もちろんラモンと船長には心当たりがあった。 (こいつは、着ぐるみを別れ別れになった仲間だと思って、じっと潜んでいた場所から、止むに止まれぬ気持ちに駆られて出てきたんだ…) 「すぐに調べてきます。私物の行李や、船倉の隅から隅まで」 許可を与える暇もあらばこそ、何人かの気の早い連中が船室へと降りて行った。 監視付きのラモンは唇を噛んだ。 あの着ぐるみが発見されれば、もう絶対に申し開きはできない。 「いたぞーっ」 しばらくして叫び声が聞こえた。 荒縄でぐるぐる巻きにされた毛むくじゃらが階段を上がってくる。自分の足で… 「嘘だ!」 ラモンと船長は思わず目をこすった。 それは間違いなくラモンが造ってみんなを騙していた気ぐるみだった。汚れ具合、ところどころの毛の抜け方、擦り切れ方、見覚えがありすぎるほどある。 「早く二匹ともやっちまえ!」 「こいつらが俺たちをこんなところに閉じ込めてからかっていたのに決まってる!」 「待てと言うのが分からんか!」 シンバッド船長が怒鳴る。 「すまないが、おまえたちも被害者であると言う明確な証拠を示してもらえなければ、そのようにせざるを得ない」 二匹の毛むくじゃらは激しく頷いた。 「証拠を見せられるか?」 いまつかまったほうの一匹が、指先で甲板に何かを描く仕草をした。 「おい、誰かインクを持ってきてやれ。たっぷりとな」 ただちにインク壷と、鵞ペンが持ってこられた。毛むくじゃらは器用にペンを持って、図を描いた。 それによると… 砂漠のあちこちにこういった泉がいっぱいある。ただし、それぞれ隣の泉や正しい世界の街道からはとてつもなく離れていて、人間や、その他の微力な生き物の力だけでは絶対に元の世界に戻ることはできない。 これらの泉は、ある大昔…龍たちが闊歩していたのよりさらに昔にこの世界に君臨していた「神」の一つが、生贄を蓄えるために、次元を屈折させて設けているものらしい。 …つまり、人間が釣って食べきれない魚を一時生け簀に入れて飼っておき、適当な時期が来たら食べる、と言うのに似ている。 それを聞いたシンバッド船長もラモンも、船員たちも震えあがった。 「…やっぱりラモンが聞いてきた話と一緒じゃねぇか」 「ラモンすまねぇ、おまえを疑ったりして悪かった」 「つまり、俺たちは蜘蛛の巣にひっかかってこれから食べられるのを待っている蝶や蜻蛉と同じ、ってことだ…」 「この泉の上に不時着して幸運だなんて思っていたが、何のことはない、泉は我々が干上がって死んでしまわないように、奴がわざと与えてくれていたものなんだ!」 「船長お願いだ! あっしらも死に物狂いで戦いますから、何とかそいつをおびき出してもらえるように頼んで下さい」 「そうだ。そうだ。不意を打たれて阿鼻叫喚になるくらいなら、堂々と闘ったほうがまだ諦めがつく」 乗組員たちの意見が揃った。 船長とラモンは毛むくじゃらに取り次いだ。「…と言う訳だ。みんなもああ言っているから、何とかその敵と対決したい。…敵わないまでも一太刀浴びせてやるつもりだ」 毛むくじやらは再びペンを取って、甲板に絵の続きを描いた。 「…泉の底の地下水源の湧き出している口に…頑丈な蓋をして泉を干上がらせろ。 …その前に、当分の水を樽に貯めておくことを忘れずに… 泉が干上がる…餌が餓死する…ことに気がついた神は、慌てて調べるなり、食べてしまうなりするために現れる… …無理だ、ここには大きな岩なんかない。底の水脈に蓋をするなど…」 シンバッド船長は地団太を踏んだ。 「待ってください船長。できますよ!」 ラモンが笑顔で肩を叩いた。 「…潜水球を造ってもらった陶土の残りがまだあるはずです。それにこの船には、ここでは永久に使い道のない石灰も沢山積んでいた。 石灰と砂を混ぜ合わせて漆喰を造り、それを練った陶土で覆って焼けば、大きな重たい蓋だって作れるはずです!」 「そうか、そうだな、その通りだ!」 翌日から乗組員総出で蓋造りが始まった。 水源の口の大きさはラモンがしっかりと記録していて、予想よりも小さなもので済むことも分かった。 食料が底を尽くよりも前に、太古の「神」と決戦する日取りもついた。 水も蓄え、いよいよ明日は蓋を落とす、という夜、ラモンは一番奥の船倉に閉じ込められたままの二匹の毛むくじゃらを訪ねた。 幸い、見張りは疲れ果ててぐうぐうと鼾をかいて眠り込んでいる。 彼は鍵束を拝借して中に入った。 「いよいよ闘うことになった。 君たちも一緒に闘うか? もしも嫌だったら、こっそり逃がして上げよう」 と、一匹の毛むくじゃらがもう一匹をかき抱いて眠っていたが、抱かれているほうのがペシャンコなのに気がついた。 びっくりして部屋を見渡すと、隅の椅子にあのセイレーンが座っていた。 「お久しぶりね、ラモン」 「やっぱりもう一匹は君だったのか…」 「やっぱり、じゃあないわよ。その縫いぐるみが発見されていたら、どうなっていたと思う?」 「感謝しているよ。…いろいろと教えてくれたし、第一、きみの領地に闖入したぼくを見逃してくれた」 彼は溜息をつきながら言った。 「…ところで、ぼくらはこのまま邪悪なる神と闘って勝てるだろうか?」 「無理でしょうね。全員はらわたを食い散らかされて、むごたらしい最期を迎えるに決まってる」 「それじゃあこのまま何もしないでじっとしていたほうが、長生きできることはできる?」「そう」 「邪神は大きいのか、人と同じくらいの大きさなのか、どんな姿をしていて、どういうふうに襲いかかってくるのか、せめてそれくらい分かっていたら、落とし穴を掘るなり、誰かが囮となってその間に攻撃するなり、作戦の立てようもあるというのに」 頭を抱え込み、唇を噛むラモンを見て、少しは可哀相に思ったのか、セイレーンはつかつかと歩み寄って、静かに言った。 「あたしは、人間の味方はできない。 人間は、海や川に網を投げて沢山の魚を取って食べる。飛ぶ鳥に矢を射掛ける。罠を仕掛けて獣を捕らえる。その人間たちが逆に罠にかかったからと言って同情はできない」 「そうか…」 「あなたは潜水球を造り、あたしの領地にまできた。そこにいる間にやってきた時の乗り物が消失すると、新たに造り直してここに戻った。いまはまた、わざわざ勝てもしない怪物を呼び出して決戦を挑むことを考えている。 …悪あがきもいいところよ!」 彼女は両手を腰に当てて、じっと彼のことを見据えた。 「諦めが悪いのは人間の特徴だ」 「一つだけ教えてあげましょう。 何が何でも助かりたければ、蓋に工夫をすることね」 セイレーンはそう言い残して消えた。 翌日、砂と石灰を練り固め、陶器で周りを固めて焼いた大きな蓋が、予め砂の上に引き上げられた船のマストを改造した支柱から、水の涌き出ている地点に向かって斬って落とされた。 蓋はザブーンと水しぶきをあげて沈んでいった。 「大丈夫かな?」 シンバッド船長は水面を覗き込みながらつぶやいた。 「何度も計算したんです。きっとおびき出せるでしょう。それに…」 「それに?」 「万一のことも考えて秘密の仕掛けを施しました」 ラモンの手には一本の固い油紙にくるんだ紐のようなものが握られていた。 蓋は見事計算通り、水脈口の上にかぶさった。 照り付ける炎天下の下、新たな水の補充が封じられた泉は、目に見えて水位を下げ始めた。 一刻ほどで普通の人の身の丈ほど、次の一刻でその倍、さらにその次で四倍という具合にに倍倍で落ちて行き、ほどなく底が見えるまでに至った。 泉にいっぱいいた魚たちがパタパタと空しく鰭を砂地に叩きつけている。 「みんな、奴…または奴等が、来るとすればじきに来るぞ!」 船長は全員に檄を飛ばした。 もとより乗組員たち全員は、手に手に剣やら槍やら弓矢やら、自分が最も得意とする武器を携えて、「それ」…もしくは「そいつら」が現れるのを今や遅しと待ち構えている。 やがて、砂漠の遥か彼方に、一陣の砂煙が上がるのが見えた。 「何か来ます!」 邪悪な神…と言うのは集団だった。 「大地を埋め尽くす」というほどではないものの、一千…もしくは二千ほどの数だ。 おまけに人間の大男よりもまだ大きい。 そいつらが匍匐に近い歩き方で轟々と迫ってくる。 色は、赤みがかった褐色。 「こうなったら玉砕だ!」 と大口を叩いていた船員たちの顔から血の気が引いた。 敵は、二足または四足歩行する蠍に似ていた。 鋭い鉤の付いた両手。毒液を滴らせている尾。ギラギラと光る金色の眼… 「うわーっ!」 先鋒を引き受けた勇者たちが一斉に突入して斬りかかったものの、奴等に刃物は一切通じなかった。 斬って斬って切りまくっても、かすり傷一つ負わせることもできない。斧で叩きつけてももへこまない、おそらくは極限の地に生きる生物だった。 あっちこっちから悲鳴が上がった。 人よりもはるかに大きな蠍が尾の先の毒針で痺れさせてから船員を貪り食っている。 仲間のはらわたが血しぶきとともに跳ね上がる様子を見て、偉そうなことを言っていた者たちも震えあがった。 「ひるむな! 敵は多いとは言え、無限にいる訳ではない。きっと倒す方法があるはずだ!」 シンバッド船長はそう叫んで、手にした松明を地面に降ろした。 予め同心円状に撒いてあった油が一気に燃え上がる… 「やった! これで半分はやっつけたぞ!」 そう思ったのは糠喜びだった。 奴等は、ごうごうと燃え上がる紅蓮の炎にもまるでひるむことなく、一歩一歩、じわりじわりと歩いてきた。 「炎にも焼けない…」 「あいつら不死身なのか?」 「こんなことなら食料がなくなるまで、じっと助けを待っていたほうがましだった…」 恐怖のあまり自刃するもの、炎の中に飛び込む者、元は泉だったすり鉢状の斜面はたちまち阿鼻叫喚の場となった。 生き残った乗組員は我勝ちに船の中へと逃げ込んで扉を閉め、バリケードを築いた。 ラモンと船長は互いの目を見やった。 「いよいよ最後の手段だな」 「これでだめなら、もう打つ手はありません」 ラモンは泉の水脈にきっちりと塞いでいる蓋まで全速力で駆け下りて、何かの仕掛けのスイッチを入れた。 それから再び、斜面を登って、船の甲板によじ登ったところを、シンバッド船長が助け上げてくれた。 いまや蠍の化け物たちは斜面一面をびっしりと覆い、盛り上がって、最初の数匹が船の甲板に迫ろうとしている。 ラモンと船長はしばし剣や斧で斬りつけて応戦していたが、無論、まるで歯が立たない。 「おい、どうした。もうそろそろのはずじゃあなかったのか?」 「おかしいな、どうしたんだろう?」 ついには背中合わせの防戦一方になって、完全に包囲されてしまったちょうどその時、蓋のあたりでドカーンと小さな爆発が起こった。爆破は次々と連鎖した。分厚い蓋にピピピッと亀裂が縦横に走ったかと思うと、木っ葉微塵に砕けた。 いままで押さえつけられていた地下水脈からの噴出水が一気に四方八方に吹き上がり、蠍の化け物たちの大群を飲み込んだ。 ただ飲みこんだだけではない。渦に巻かれた奴等は、まるで水に落とされた紙細工みたいにたちまちどろどろになって溶け去った。 泉がたちまちのうちに赤くヘドロ状に濁って行く… 「おい見ろ!」 「ツイてますね」 士気を取り戻したラモンたちは、二人で大きな梯子などを振り回して、甲板に残った怪物たちを次々に蹴り落とした。 窓や隙間からその様子を伺っていた船員たちも、にわかに強気になって加勢に加わった。 ものの十分もしないうちに敵は殲滅された。 かろうじて泉の端に留まった残りも、尻尾を巻いて砂漠の彼方に逃げ去った。 船は今朝までと同じように砂漠の中の小さな泉に浮かんでいる。ただ、水はあの化け物たちの死体が溶けたものでどろどろに濁っている。 「何も特に変わらないじゃあないか?」 「俺たちをここに封じ込めた奴等をみんなやっつければ、元の世界に帰れる、ってえ話じゃなかったのか?」 生き残った船員たちがまた騒ぎ出した。 「待てみんな。我々はたったいま勝利したばかりじゃあないか。 何か結果が出るにしても、普通もうちょっと時間がたってから、と言うのが常識ってものだ」 船長が静かになだめる。 「…いまはただ、命を落とした仲間のとむらいをしてやろう。そうこうしているうちに、また動きがあるかもしれない」 化け物たちの死体でどぶと化している泉に小船を出すのは気味悪かったが、砂漠に戻り亡くなった者の墓標を立てた。 船長はみんなからとは遅れて、一人だけ別の船で祈りだけ捧げに来た。 犠牲者は少なくなかったものの、半数以上は無事に決戦に勝利し生き延びることができた。 聖地と思しき方向に向かって祈りを捧げている時、異変が起きた。 船のほうからいくつもの連続した悲鳴と叫び声が聞こえてきたのだ。 「大変だ…」 ラモンも船長も砂漠に来ていた。 「残りがまだいくつか船に潜んでいたんだ…」 一同ただちに船にとって返そうとしたものの、泉が無数の化け物の死体によって赤い寒天のように固まってしまって小船を戻すことができない。 かと言って歩いて帰れるほどカチカチにはなっていない。 足をつけると底無し沼となってズブズブと沈む… 「これでは帰れない…」 船長は歯噛みした。 そうこうしているうちにも悲鳴と叫び声が続く… 「おのれ…」 やがて人の声はぱたりと途絶え、静かになった。 「喉も乾いたし、腹も減ってきた。船にはまだ充分な食料と、水脈に蓋をする前に樽と言う樽に汲んでおいた水だってあるんだ。 …何とかして戻らなければ」 「…もう我慢できない。俺たちは砂漠の横断を目指してみる」 「落ち付けみんな。もし出発するにしてもそれなりに装備というものが必要だ。水も食料も何も持っていなければ成功はとてもおぼつかないぞ」 船長の懸命の説得にも関わらず皆の決心は固かった。 「船に戻ると、またあの怪物と白兵戦になり、下手をするとこちらが全滅してしまう。そんなことになるくらいだったら…」 と言うのが名分だった。 「分かった。そこまで言うのなら止めるまい」 シンバッド船長は涙を流して、最後まで一緒に付いて来てくれた部下たちとの別れを惜しんだ。 残ったのは船長とラモンの二人だけだった。 手を振り、砂塵の向こうに消えるや否や、船から聞こえてきたのと同じ絶叫が轟いた。 奴等の、怪物たちの新手が、ずらりと砂丘の周りに立っている。 「おのれ…」 船長は血がにじむくらい唇を噛んだ。 連中が包囲の輪をゆっくりと縮め出した。 奴等が水に弱いことは分かっている。しかし肝心の泉の水は無数の死体で煮こごりになってしまった。 船には汲み置きがあるが、そこにも敵がおり、ひょっとするともう捨てられてしまっているかも知れなかった。 「いよいよ万事休す、か…」 さすがのシンバッド船長も、ついに砂地に膝をついた。 「待って下さい。いま船に退却する方法を思い付きました」 「何だって!」 「かんじき、ですよ。ぼくが潜水球で行って来た、藻が密集した船の墓場… そこでこしらえて移動に利用していた接地面積の広い靴なら、このゼリー状の泉を渡れるか、と」 「それしかないようだな。早く作ろう。作り方を教えてくれ」 二人は船を叩き壊し、大きな木片でかんじきを作って、道具箱の中の錐で穴を開け、サンダルとしての紐を通した。 すでに蠍の化け物たちは数尺まで距離を詰めている。 最初の一匹がバッと飛びかかった時、二人はかろうじて、走って沼の表面に出た。 奴等も当然追いかけてくる。体重はもちろん大人の人間よりもかなり重い… 当然、砂の途切れるところを待たずして、ゼリー状の底無し沼に沈み始めた。 ところが連中は愚かなのか、先鋒の仲間がズブズブと沈んでもがいているのが見えていても、次ぎから次ぎへと押し寄せる。 ついに残った蠍の化け物の大群も、全員が四方から沼に突進して呑まれてしまった。 もう砂漠から新手に襲われる心配はないようだった。 泉…沼は、さらに有機物が溶けこんだためにカチカチに固まり、せっかく作ったかんじきすら必要ない程になっていた。 シンバッド船長とラモンは、甲板から垂れたままになっている縄梯子を使って再び乗船した。 「気をつけて下さい。あの悲鳴。きっと船に奴らの残党が…」 「分かった。何よりも先に水を貯めてあるところにたどりつかなくては… おーい! 誰かいるなら返事をしろ!」 船長の叫びは空しく空にこだまする… 甲板に異変はなかった。化け物の姿も、留守番をしていた船員たちも… 「武器とかは全く役に立ちませんからね。もしも二、三匹でも残っていたら…」 慎重にあたりの様子を伺いつつ、ようやく水樽の貯蔵室にまで降りてきた。足元は水浸しになっている。 「開けるぞ」 船長が足で蹴り破って中に入ると、水を入れた樽は一つ残らず粉々に破壊されていた。 「これは…」 「少なくとも連中の仕業じゃあありませんよ。確かに連中はわが身を溶かすと分かっていて飛びこんでくる莫迦だけど、それなら例の気味悪い残骸が残っているはずです」 「そうだな」 「水は他にどこに貯めてあります?」 ラモンは声を潜めて尋ねた。 「結構あちこちに分けて置いているはずだ。船員たちの各部屋にも少しずつ汲み置きはある」 「一番量が多いのは?」 「それは厨房回りだろう」 二人は厨房に回った。 台所にも人影はなかった。案の定調理用の水樽は壊されている。 「難儀なことになったな。残った奴らと出くわしたらどうしよう?」 船長は床一面にこぼれた水をすくおうと試みたが、無駄だった。 「それもありますけど、ぼくらの飲み水も」 ラモンはセイレーンのことを疑っていた。 (実はいろいろ教えてくれた彼女は、この一連の茶番の大黒幕で、最後に二人を襲いに姿を現すのではないか?)と。 (「ここ」も彼女の罠の一つで、「間食」か何かとして食べに来るのでは)と 。 「やられたはずの乗組員の遺体がありません。あの蠍の化け物なら、その辺に食い散らしているハズなのに…」 ラモンは独り言のようにつぶやいた。 「…それにあいつらは水の入った樽を破壊する知恵はなさそうだし、あんな壊し方をすれば(返り水)を浴びて溶けているところだ」 「では一体何者が?」 「セイレーンでもないでしょう。もしも彼女の仕業なら、樽の下の栓を抜いて回ればいいだけですから」 ラモンはもう一度、壊された樽の破片を手に取ってよく調べた。 「斧だ… これは斧で叩き壊されている。 と言うことは?」 「残っていた乗組員の同士の喧嘩か?」 「まさか。死体も怪我人も見当たらない」 彼はいま一度甲板へと出て、遠眼鏡で四方の砂漠を調べて見た。 すると… 彼らが墓を掘りに行った反対側の砂漠に、食い散らかされた赤い肉が散らばっていた。 「見てください…」 ラモンは船長に遠眼鏡を渡した。 「あれが多分、留守番をしていた人たちです。 蠍の化け物にやられてます。船でと思ったらあんなところで…」 「あいつらは何でわざわざあんなところに?」 「もちろん自分たちの意思で行ったんじゃあない。行かされたんだ」 「一体誰に?」 「そりゃあ決まってるじゃあないですか」 ラモンはシンバッド船長の顔を見詰めて言った。 「船員が何の疑いもなく命令を聞く者は、船長、貴方しかいない」 「何をバカな! 俺がどうしてあいつらを危険な目に合わせなくてはいけないんだ?」 「多分、船長は本当の船長じゃあないんだ」 一歩一歩と下がって、間隔を広げる。 「…あの蠍の形をした怪物も、本当に一番恐ろしい存在なんかじゃあない。あれは一番恐ろしい奴の餌なんだ! あいつらは普段、この砂漠の中でバラバラに暮らしているんだ。 ぼくらを餌にしてあいつらを呼び寄せて、この泉いっぱいにゼリー状のごちそうを作って、黒幕に供するつもりなんだ! だから、いままでぼくの出したいろんなアイデアも、全く反対しないで聞き入れてくれた…」 「ふふ」 シンバッド船長は、手を自分の顔にあてがうと、ぐいっと引っ張って肉の面を剥がした。 服もなにもかもかなぐり捨てると、その下から鰐か蜥蜴に似た二足歩行生物が現れた。「ぐふふ… ぐふふ… とうとうバレちまったか! くくく… そう、その通り。我々はさるお方に供物を供せなくてはならぬ。それがいま我々が上に乗っかっているところの、特別なご馳走よ。おまえたちは、その材料となる者どもを呼び寄せるための餌だったのだ」「本物の船長はどうした?」 「船長は助け出したわよ!」 振り返ると、繭に似たものの中に閉じこめられたシンバッド船長を抱えたセイレーンが立っていた。 「セイレーン、ぼくはてっきりキミが…」 「話は後。あなたたちが一生懸命作って上げたご馳走を食べにくるのは、とんでもない奴よ!」 「セイレーン、キミの魔力を持ってしても太刀打ち出来ない奴か?」 「もちろん!」 彼女はラモンと船長をせき立てて船から飛び降り、カチカチに固まった赤いゼリーの上を走り、砂漠の上を駆け出した。 船長を縛めてていた繭は、走ると少しずつ剥がれ落ちた。 …どれくらい走っただろう、もうこれ以上は歩けないところまで逃げて振り返ると、砂の中からいくつもの黒く太い触手が次々に伸び出て、巨大な赤い半円形の物体を中空高く持ち上げていた。 黒幕は、「泉」じゅうを満たして固形化していた「ご馳走」をもの凄い力で掲げ持っているのだ。 その周りでは、蜥蜴に似た生物が輪を描いて、触手を持つ生物を崇め奉っている。 やがて触手は、その下にあるらしいとてつもなく大きな口に向かって半円形の物体を投げ入れた。 衝撃で赤いゼリーの破片が、ラモンたちのところにまで飛んできた。 蜥蜴のような生物はおこぼれを奪い合いしている。殺し合いすらしているようだ。 「彼らの、祭りよ…」 セイレーンはぽつりと呟いた。 「あれは?」 「深く考えないほうがいいでしょう。早く忘れて…」 「でも、ぼくらはここから帰れるんだろうか?」 「あいつが現れ、消える瞬間に次元が多少歪みます。そこへ飛び込めば、可能性は零ではないわ」 「セイレーン、キミも一緒に行こう! こんなところでこんな恐ろしいことを繰り返しているよりも…」 「それは、できないわ…」 彼女はうつむいて砂漠の砂をみつめた。 「わたしは、ここの住人。彼らの同類…」 「そんなことはないよ」 無数の触手を持つ化け物は、供応されたご馳走をむしゃむしゃと貪り喰い、下僕であるはずの蜥蜴生物まで、つまみ上げて喰っていた。 と、目の前の空間が突然渦を巻いて歪み始めた。 「さあ、どうやら満腹になってお帰りのようね」 セイレーンは二人の背中を思い切り押した。 …気が付くと、ラモンとシンバッド船長は、とある隊商の人々に助け出されていた。 「やっと目を覚ましたかね? あんたらは運がいいよ。流砂の中に飲み込まれそうになっていたんだ」 年とったリーダーは、笑顔で言った。 「有り難うございます」 「しかし、あんなところに流砂なんて、珍しい。儂らも気をつけねば…」 それはイスファファンに向けて帰る途中の隊商だった。 KIJISUKE@aol.com