第三章  皇帝の身代金

                1

  離宮のあるカハマルカの町の中央広場には、南米の乾いた太陽が照りつけていた。ピサロと兵士たちは、その広場がスペインのどの広場に比べても遜色のない大きさと美しさを容することに驚いた。周囲を取り囲むように建ち並ぶ石造りの家々や凱旋門、太陽神殿へと続く門は、古代ギリシャやローマのそれと同じく巨石造りだった。
  町にしばらく留まるにつれ、インカの住民たちは、最初恐れていた馬にも少しずつ慣れ、飼葉をやったり、おずおずながらもたてがみを撫でたりする者も現れた。また「白い人」が自分たちと同じく、旅の疲れから病気になったり、蹴つまづいて転んだりして怪我をし、赤い血を流すことも知ってしまった。
「ええい、一体いつになったらアタワルパは会見に応じるのだ!」
  宿舎で待ちぼうけを食わされていたピサロは焦りに苛立って叫んだ。
「このままでは完全に原住民の連中にナメられてしまう!  昨日も鉄砲が一丁盗まれかけた…」
「兄さん、ここの連中は決して『原住民』なんかじゃあない。あの石組を見ただろう?  剃刀一枚入らないほど精密に削ってある。どんな道具を使ったのかは分からないが、建物と言い、道路と言い、大した文明だ」
  エルナンドは賽ころの壷を振りながらつぶやいた。
「そうだよ。あくまでも計画の通り慎重に事を運ばないと、わたしも責任持てないね」
  カーデッタはこの地方の珍しい物産である細い葉巻を吸って、その煙を天井に向かって吐き出しながら同意した。
「しかし黄金が…」
「いくらすごい魔法を使っても、黄金は手足を生やして逃げていきゃあしないよ」
「逃げてはいかんかも知れんが、わしは先を越される、ということを心配しているのだ。…わしらと同じスペイン人に!」  ピサロはイライラと部屋じゅうを歩き回った。
「確かに、俺たちの通ってきた道を、別の隊が追いついてきているかもしれない。しかし、だからと言って、急いては事をし損じると思う…」
 エルナンドは眉をひそめて言った。
  ピサロはやおら銃を取って立ち上がった。
「このままではらちがあかない! あいつらに好奇の眼で見られたあげく、明日にもバッサリ殺られて、身ぐるみ剥がれるに違いない。…この戦い何が何でも先手を取ったほうが勝ちだ!」

  ピサロが奥の部屋に通じるカーテンを開くと、そこにはレテが空ろな瞳で椅子にかけており、そのさらに奥には猿ぐつわを噛まされがんじがらめに縛られたティコが床に転がされていた。
「レテとやら、おまえの出番だ!  皇帝の所へと出向き、我々と会見するように仕向けるのだ!」
  レテはコックリと頷く。
「危険だよ!」  カーデッタは煙草を投げ捨てて遮った。「インカの呪術を甘く見ちゃあいけない。もしもこの娘が私の術にかかっていることを見抜かれたら、一巻の終わりだよ!」
「我らの計画、もとより大博打!  乗るか反るかだ!  賭けてみるさ」
  ピサロは扉を開いた。催眠術をかけられていたレテはゆっくりと、白昼の太陽が照りつけるカハマルカの町へと歩き出した。

  コンドルは暗闇の中で目を覚ました。
『もしかすると死者の国か?  家族やティコやレテたちにはもう会えないのか?』
  身体を動かして見る。羽根の感触があり、どうやら鳥のままのようだ。
『痛い、ということはまだ生きているんだな。それにしても味方だったレテにやられるなんて…』
  コンドルは息を整えて考えた。
『レテを背中に乗せていてやられた時の雷撃よりも、レテの放つ攻撃呪文のほうが威力が大きい。しかし、その強力な呪文を持つレテがいともやすやすと敵の「白い人」の言いなりになるだろうか?』
  少しずつ動こうとして、危うく落ちかけた。そう言えば風もある。ここはどこか高い所のようだ。
「やぁ、これで三回目のご対面だね」  暗闇から声がした。ジャガーの声だ。「ここは主のいないコンドルの巣だよ。無論岩山の上にある…」
  コンドルはビクッとして元の位置に戻った。どうもチクチクすると思ったら、回りは枯れれ枝や草で囲まれている。
「それにしてもよく怪我をする男だな。治療には苦労したぞ」
「命を救ってくれてありがとう」
「礼には及ばんよ」
「あなたは元主君のワスカル殿下の忠誠を誓う者。かつ家族思いの人で、危険はまっぴら御免、『白い人』の侵略に対しては、一族で動物に変身して逃げようという考えの持ち主だ。それが何故?」
  コンドルは体を起こして尋ねた。
「おまえには関係のないことだ!」
  ジャガーは語気を荒げた。風が雲を拭い去ると満天の星が輝きを取り戻し、二人を照らした。
「ははん、わかった!  レテとあなたとは、特別の仲なんだ。レテはあんなに美しい人だし、あなたはカッコいいし、二人の職業には共通点があるし…」
  コンドルは羨ましそうに冷やかした。
「バカを申せ!  レテがアクリャであることを忘れたか?  いくら呪術師長でも…」
「例外はあるんでしょう?」
「仮にそうだとしても、レテは捕らわれの殿下に手渡す手筈だった  完璧な変身に必要な翡翠の小箱と薬を勝手に持ち出して、私を裏切った!」
「でも未練があるんでしょう?  だからこそ、『レテを殺せ』ではなくて、『捕まえてこい』と命令したのでは?」
「とにかく、これでレテを救おうとしてくれた恩は返した。彼女は私が救ってみせる。悪いことは言わん。おまえのかなう相手ではないから、そこでジッとしていろ」
  ジャガーはそう言い捨てると、コンドルの見ている前で豹に変身し、風のように去った。

                2

  カハマルカの離宮の柱の陰に身を潜めていたジャガーは、アクリャの正装を着たレテがアタワルパ皇帝をはじめ重臣たちの前に進み出るのを見た。
『しまった!  ひと足遅かったか!  まさか白い連中がこれほど早くに手を打つとは…』
  玉座の若き皇帝は、この世の物とは思われぬ優雅な織物を身に纏っていた。毛の組み紐を頭の回りに五回巻いた王冠。毛と黄金を絡み合わせた房飾りが額に垂れ、両の耳には大きな円盤状の丸い耳飾りを付けていた。
「レテ、実力は十分とはいえ、アクリャとしてはまだ見習いのそちが、余に何の用だ?」
「お恐れながら、陛下の頭上に凶星が出ております」
「何ッ!」
  居並んだ文武百官たちは、思わず椅子から腰を浮き立たせた。
「見習いの分際で、そんなことを言ってよいのか?」
「もしも違っておったら首が飛ぶぞ!」
  しかしレテは少しもものおじしないで、皇帝や貴族たちの目をキッと見つめ見渡して続けた。
「…ほんの針の先ほどでもお疑いの御心あれば、話を聞かずにお切り捨て下さい!」
「レテよ。そちはそちの兄のジャガーと共に度々我が帝国に起こる天変地異を予見し、大災害から救ってくれた。なんで耳を傾けないはずがあろうか?」  皇帝は右手を差しのべて動揺する臣下たちを黙らせた。「是非聞きたい。申してみよ」
  レテはコクリと頷いた。
「『白い人』は陛下と帝国に友好を結ぶフリをして、その実いくさを仕掛けようとしています」
  レテの言葉にアタワルパも臣下たちも「おおッ」と思わずどよめいた。
「やはりそうであったか…  余もどうせそのようなことであろうと踏んでおったのだ」
  このやりとりを物陰でジッと聞いていた
ジャガーは首をかしげた。
『おかしい…  どうして奴らは、術をかけて操っているレテを使って、自分たちに不利な讒言をさせるのだろう?』
  だがしかし、疑問はすぐに氷解した。
「では、どうすればよかろうか?」
  という皇帝の下問に対して、レテは胸を
張ってこう答えたのだ。
「まずピサロ将軍の弟エルナンドを呼び付けるがよろしかろうと。そして…」
  その時、衛兵たちが近づいてくる足音が聞こえたので、ジャガーは妹を救うことを諦めて、その場を離れた。
『そうか、ピサロたち「時間が経てば経つほど不利」と判断して、一か八かの博打に出たな…  アタワルパの一統などどうなっても構わぬが、レテ、おまえだけは救って見せる!』

  程なくして、レテの進言の通り、エルナンドとその部下が離宮に呼び付けられた。
  エルナンドの謁見に応じた際、アタワルパは顔をヴェールで隠していた。インカは「太陽の子」であり、身分が著しく低い者がその顔をまともに見ると病気になる、と言われていたからだ。
「お恐れながら、我ら遠路はるばる船と馬と徒歩を継いでようやくようやく此の地に辿りついた者共に存じます。何卒一目御龍顔を拝する栄誉を賜りたく…」
  アタワルパはエルナンドの拝謁の言葉を最後まで聞かずに、自らそのヴェールをむしり取った。いつもの癖で、あからさまに睨みつけることはしなかったが。
『下賎の者、望み通り余の顔を見て病の床に伏せるがよい!  もっともそれまで首がつながっておったら、の話だが』
  というのが皇帝の本心だった。
「…スペイン人エルナンドとやら、そちとそちの隊長であるピサロ将軍一行が、ここへ来るまでの間に奪った織物や宝物の全てを、速やかに返還せよ」
  アタワルパは、レテに教えられた通りに命令した。全くもってもっともな要求であり、返さなければもちろんのこと、おとなしく返したら返したで一二分に指弾されてよい犯罪だった。
「分かりました。お返し申し上げたく存じます。…但し、陛下のお手に直接」
  答えたエルナンドは、生唾をゴクリと飲み込んだ。丁と出るか、半とでるか…
「それは何故?」
  皇帝は鋭く下問した。
「敢えて誰とは申しませぬが、ちゃんと全てが陛下の手に戻らなければ、我々の首が危のうございますから」
  居並んだ大臣首長たちの顔色がサッと変わった。だが、ワタワルパ自身はつい先ごろワスカルの反乱を鎮圧し、疑心暗鬼いまだに溶けやらず、といったところだったから、理由はすんなりと耳に入った。
  この瞬間勝負は決まり、同時にインカ帝国の運命も決まってしまった。
「いいだろう。一枚一石も漏らさずに返すのだぞ」
  アタワルパが不承不承そう宣ったのを耳にして、エルナンドは込み上げてくる笑いを噛み殺すのに苦労した。そして念入りに難しい顔を作って一礼した。
「御意の通りに…」
  談判が着いたところで、アタワルパは家臣に命じて、黄金の壷に入ったチチャ(トウモロコシのビール)をエルナンドたちに振る舞おうとした。
  エルナンドたちはギクリとした。レテを用いた作戦のことはもちろん知っている。
『策略が効を奏し過ぎて、まさかこの場で毒殺されるようなことはあるまいな?』
  盃を持った手が小刻みに震えた。インカに於ては、交渉を始めるに際して社会的地位の高いほうが低いほうに酒を下賜する。もちろん辞退は許されない。辞退は決別と宣戦布告を意味する。
  いまやアタワルパの射るような目がエルナンドたちに注がれている。
『断ったところで死は免れまい…』
  そう判断したエルナンドは、最初ゴクリと一口、次に一気にゴクゴクと盃を飲み干した。その強烈な酒精に、頭の中、瞳の裏は一瞬金色に照り輝いた。
『やはり毒入りだ!  兄さん、奴らが一枚上手だ!』
  隣の部下の右手が腰の剣にかかりかけた時、彼はぐるぐると回る石の床にジッと踏み留まって、言った。
「うまい酒です。是非もう一獻…」
  それを聞いたアタワルパの瞳が狡猾そうにギラリと輝いた。
「明日はそちの兄や供の者にも振る舞う。楽しみにな…」

  コンドルは元より「ジッとしていろ」と言われるとジッとしていられる性格ではなかった。「白い人」に二度も命を狙われて、復讐してやりたい気持ちも沸々と湧き上がってきた。這うようにして巣を抜け出て、岩山の崖に立って少しずつ羽根を動かしてみた。
『痛いッ!  この大事な時に!』
  明るくまぶしい太陽に心は焦るばかりだが、どうにもしようがない。
  その時コンドルは晴天の一角を滑空してくる一羽の大きな鳥を見つけた。
『コンドルだ!  あの羽根の形からして雌の…」
  慌てたコンドルは足を滑らせ、羽根を充分に開ききらないうちに崖から転落した。
『もうダメだ!』
  そう思って目を閉じた瞬間、身体が下から何かに支えられて落下のスピードが落ちた。「飛んで!  なんとか気流に乗って下さい」
  目を開くと、下になった雌のコンドルが墜落を食い止めてくれている。コンドルは必死で羽根を広げ、身体を持ち上げた。幸運にも吹き上げる風に乗ることができて、高度を取り戻した。
「…キミは一体…」コンドルは必死になって体勢を立て直した。
「…確かに鳥や獣の中にも、同族と縄張り争いをするものもいるが、人間ほどひどくはないのかもしれない」  彼は、雌のコンドルのすぐ横を伴翔しながら思った。「何者もコンドルを憎まず、羨まず、望まず、必要としないし、コンドルであればは悩むことはないし、危険に陥ることはないし、しかも何でも食べられる…」
  二羽のコンドルは互いに寄り添うように飛びながら、太古から連綿と炎と煙を吐き続けている火の山の近くにやって来た。
  彼女は彼を、静かに水をたたえている白く濁った鉱泉に案内した。
「この泉に傷を浸してみて下さい。少しはよくなると思います」
  コンドルは彼女に勧められるままに、ソッと痛み続けている箇所を漬けてみた。
  その湯に最初少し漬けてみて物凄く滲み、思わず『騙された』と感じて、慌てて出ようとして滑って落ちてしまった。余りの痛みにまた気を失い、今度は溺れそうになったところを雌コンドルに首から上を救い上げられた。その態勢でしばらく辛抱していると、不思議なことに熱も腫れも次第に引いていくような気がし、一○分も浸かった頃には、湯の中にいる分には、どこにも痛みが走らなくなった。「ありがとう」
  魔法の温泉から上がり、羽根を振って水を切ったコンドルは、心から彼女に礼を言った。「本当にまた舞い戻られるのですか?」
  彼女は悲しそうに尋ねた。
「もちろん、このまま泣き寝入りをしてたまるか!」
「鳥の生活も、慣れれば楽しいものですよ」
  彼女の瞳に何か光るものが見えた。
  コンドルはふとジャガーの言っていたことを思い出した。
《我ら一統は争いの絶えない人間の世界を捨てて云々…》
「ま、まさかキミは元は人間だった?」
  相手は翼で顔を隠して泣き崩れた。
「待っていてくれ!  ぼくがあの翡翠の小箱を取り戻し、その謎を解いて、人間に戻してあげる!」
「いいのです。何度も考え迷って選んだ道です。後悔はしていません!」
「『白い人』をやっつけて、レテとティコを助け出し、ジャガーに勇気を与えてやるんだ!」
「失礼ですが、あなた一人でそんなに色々できるのですか?  敵はあなたの思っている以上に遥かな強敵ですよ」
「強敵だろうが何だろうが、やるしかない!ぼくは人間に戻ってみんなと楽しく暮らすんだ!」
  コンドルはキッパリと言った。
「欲や嫉妬や邪恋に満ち溢れている人間の世界のどこがいいのですか?」
  彼女は彼の体にすがり寄った。
「確かにコンドルは風に乗り雲の遥か上を飛ぶことができる。しかしコンドルにしても寿命があり、いつかは死なねばならない。
  普段は汚い雑雑とした欲望に満ちた泥の中を、のたうちまわって生きている人間も、見方によっては自分に嘘をつかない真摯な生き方をしているのではないだろうか?  大慾と小欲はどこで分ければいいのか?  人間の姿で好きな人や家族や友人に囲まれて毎日楽しく暮らしたい、と望むのは一国を攻め取ろうと望むのとどこが違うか?
  それなら土俵から逃げ出して高見の見物をするのも一興、戦いに参加するのもまた同じ一興!」
  コンドルは羽根を大きく広げると、三たび大空へと乗り出した。

                3

  一国を攻め取り、その黄金を全て我がものにすることを望んだ男、ピサロはとうとう待ちに待ったその日が来たことを確信した。
「いいか、合い言葉は『サンチャゴ』だ。サンチャゴと呼ぶ声が聞こえたら、一斉に攻撃開始だ。奪った金銀財宝のうち五分の一は国王陛下への献上品にする。残りは全ておまえたちの物だ!」
  将軍の抑揚を押さえた静かな命令に、居並んだ兵士たちは例外なくゴクリと喉を鳴らした。…無理もない、ここへ来るまでに数あまたの黄金を見てきたからだ。どんな小さな神殿にも純金の神像が飾られている。そして驚くべきことに、誰もそれを盗もうとしない…
  ピサロもエルナンドもスペイン軍将校の制服に身を固め、回りに、まるで看板や広告の人形のようにさりげなく飾られた  黄金のプレートや魔除けの精霊像を眺めながら、皇帝の現れるのを待ち受けた。
『やるべきことはすでに定まっている!』
  ピサロは勝利を確信した。最早インカは唯々殺されに来るのだ。
  広場を埋め尽くした数千人の衛兵と家臣たち、それに見物人たちがザワザワとざわめいたかと思うと、王専用の門からアタワルパが登場した。皇帝は一面鸚鵡の羽根で飾られ、巨大に黄金のプレートを下げた輿に乗って現れた。露払い役の容姿の整った若者たちが手慣れた手つきで地面を掃き清め、豪華なお仕着せを来た親衛隊がその回りを取り囲む。
『輿に乗って現れるとは、まるで東洋の王のようだな』
  ピサロは初めて見るインカの現人神にも畏怖の念を感じなかった。
『あのバカでっかい金の固まりも、もうじき俺様の物になるのだ』
  その気持ちが自分たちを処刑しようとしている相手を、頭から飲んでかからせた。
《強欲は神がかりに勝る》
  勝負は最初から着いていた。
  随行していたピサロの腹心、ドミニコ会の修道士ビセンテ・デ・バルベルデはかねてからの打合せ通り、片手に十字架、片手に聖書を持って玉座に移ったアタワルパの前に進み出て、うやうやしく聖書のほうを差し出しながら言った。
「わたしはあなたに神の言葉を伝えに来た。是非とも誠の神の言葉をお聞き戴きたい」
  アタワルパは聖書をつかむと耳に当て、しばらく何かを聞くような仕草をしていたが、やがてそれを地面に叩きつけた。
「この大嘘つきめ、何も聞こえてこぬではないか!」
  これこそピサロの思う壷だった。
『これにて正義は我がほうにある。教会も我々に味方してくれる!  洗礼を受けていない野蛮人どもをよき教えに導くのだ!』
「我らの神を冒涜するのか!」
  ピサロは疾風のように玉座に駆け寄ったかと思うと、誰も触れてはならないインカの腕をねじり上げ、玉座から引きずりおろして、高らかに叫んだ。
「サンチャゴ!  サンチャゴ!  サンチャゴ!」
  あたりが大混乱に陥る直前に、その罵声は待機していた六二名の騎兵と二○○名の歩兵士の耳にも届き、彼らは一斉に散開してインカの戦士たちに襲いかかった。騎馬隊が突入して攫乱し、銃声があちこちで轟いた。その音で馬の多くは逆足立っていななき、おとなしい時の馬しか見ていなかったインカ兵士を恐怖に陥し入れた。
「動くな!  抵抗すると  おまえらの大事なインカの命はない!」
  衣服が裂かれてボロボロになったインカの喉元に短剣を突きつけたピサロが、大音上に恫喝するまでもなく、恐慌状態に陥ったインカの戦士はそこここで将棋倒しになり、その間にスペイン兵は悠々と何度も弾丸を詰め替え、撃つことができた。
  一方的な戦闘は四○分ほどで終わった。
  アタワルパは延々と、自慢の親衛隊がまるで虫ケラのように無残に殺される光景を見続けなければならなかった。
  それでも三○分ほどしたところで、インカ側の呪術師団がバタバタとおっとり刀で駆けつけてきた。
「頼むぞカーデッタ!」
  ピサロはすかさず命令したが、魔女のほうはただ一人石柱の上にあぐらをかいて陣取り、落ち着き払っていた。
「あんなザコ、婆の出る幕じゃあないね!」
  そして、運良く計算外に操ることに成功したレテに向かって命令した。
「やっておしまい!」
  レテは仲間だった神官や呪術師たちに向かって杖を構えた。
「レテ、よせッ!  何をするんだ?」
「おまえ裏切ったのか!」
  愛国者と思われていた彼女の背任に、ただでさえも総崩れのインカ陣はひどく動揺した。
  レテはエリートらしく、素早く効果的に術を放った。
  雷が、電撃が、炎が、寒風がインカの呪術師団を直撃し、アッという間に殱滅してしまった。
「ホッ、ホッ、ホッ。  アッケないね。それとも後にお偉方が控えてらっしゃるのかね?…まぁ、その場合はこのカーデッタ様が相手だ」
  魔女はゆっくりと腰を上げると、透視の術を使って獲物を捜し始めた。

  ジャガーは相変わらず物陰から、長い年月自分が仕え禄をはんできた帝国が、無残な格好で滅ぼされて行く光景を、まるで大がかりな野天芝居のジオラマを観るような冷静さで眺めていた。
「『滅びる時は滅びよ』だ。ワスカル殿下ご覧下さい。閣下のご無念はいま異邦人どもによって晴らされています…」
  だが、その薄笑いは、妹のレテが現れてたちまち消え去った。
『レテ!  いま助け出してやる!  しかしジャガーよどうする?  かけられた術を解き記憶を甦らせるのは、オレの力では簡単だが、それではこの光景を目の当たりにしたレテが自責のあまり自決する恐れがある。かと言ってこのままでは…』
  迷っているうちに彼はカーデッタの透視に発見されてしまった。
「人面の豹!  ということはあんたがインカの呪術師長ジャガーだね?」
「おおジャガー、よく来てくれた!  早く余を救ってくれ!」
  アタワルパは目に希望が戻り、嬉しそうに言ったが、ジャガーの返事は冷たかった。
「いかにも。がしかし、わたしは元ワスカル殿下の部下。アタワルパ陛下、残念ながら陛下を命がけでお救いする気は起きません」
「なんだとッ!」
  皇帝は顔を紫色に染めて激怒した。
「結構なことだ。こやつはわしたちが辱めてやるから、早々の立ち去れ!」
  ニヤリと笑いかけたピサロの顔のこわばった。
「ピサロとやら、あんたには用がある。レテは返してもらう!」
  ジャガーは魔女の回りを目にも止まらぬ勢いで飛び回り、分身した。魔女の回りを十数匹の豹が取り囲んだ。
「噂の通りなかなかの腕だね。これは拾い物がなければ、わたし一人では危なかったところだよ」
  魔女はジャガーの囲みの外にいたレテに目配せした。
  レテが手にした杖で再び地上を叩くと、地面かがじわりじわりと熱を持ち、焼け石へと変化した。焼け石はジャガーの走る速度を鈍らせ、分身の数を減らした。
「レテ!」
  ジャガーは焦った。
「レテ、目を覚ませ!」
  覚醒の呪文を放ちかけたジャガーの目に、広場を埋め尽くしたインカ兵士の無残な血まみれの死体と、帝衣をズタズタに裂かれて後ろ手に縛られているアタワルパの姿が飛び込んできた。
「…ダメだ、できない!  妹は人一倍愛国心が強かった。こんな光景を見たら、きっと自分やわたしを責め、傷ついてしまうだろう…」
  焼け石はさらに高温になって解け、足元は煮え立つ溶岩に変化して広がった。 レテは自力で白鳥に変身した。飛びかたはまだまだぎこちなかったものの、何とか浮かび上がり、空を舞った。
  カーデッタは指をパチンと鳴らすと菷を取り出し、それに「よっこらしょ」とまたがった。
「おのれッ!」
  ジャガーはすかさず氷の呪文を唱えて、自分の立っているあたりを氷らせた。だが、溶岩のほうが勢いがあり、たちまち囲まれて動けなくなってしまった。
「不覚!  これでは…」
「そろそろ行かせてもらうよ!」
  魔女は虚空から死神の大鎌を取り出して、ジャガーに襲いかかる。高見の見物と洒落込んだピサロやスペイン兵士たちはヤンヤとはやし立てる。
  ジャガーは仕方なく人間の姿に戻って、同じく魔剣を虚空から取り出して応戦した。
  打ち合うこと数合、ジャガーは浸食してくる溶岩に抗し切れず、踵をジュッと焼かれた拍子に剣を巻き上げられて奪われた。
「勝負あったね!」
  魔女が満を持して急降下してくる。足先をさらに溶岩に焼かれたジャガーはついに諦めて目を閉じた。
「さらばだレテ!  愛しい妹よ!」
  その時、菷の魔女を一陣の竜巻が襲い、魔女はその菷ごと、ジャガーのすぐ前の溶岩に叩き漬けられた。
「そんなにあっさり負けてもいいのかい!」
  大空から声がした。
  ピサロたちが空を仰ぐと、倒したはずのコンドルが、悠々と上空を舞っていた。
「コンドル、おまえもう大丈夫なのか?」
  コンドルはジャガーの質問には答えず、魔女と同じ航跡をたどって急降下し、危うく溶岩の海に飲まれそうだったジャガーをその背中に乗せた。
「撃て!  あいつを撃ち落とせ!」
  カーデッタが溶岩の海に墜落したのを見たピサロは大慌てで兵士たちに命令した。
「気をつけろ!  魔法の力で変身していても鉄砲に当れば死ぬ!」
「わかった!」
  コンドルは急旋回して一斉射撃をかわした。「陛下、いまお救いします!」
「よせッ!  あいつがおまえに何をしてくれたというのだ?  恩顧の臣、忠義の戦士ならいざしらず、おまえはただの飛脚じゃないか?」
  ジャガーは反対した。
「確かに!  恩義はないし、それどころか虐げられていたほうかもしれない。…しかしいまは無法者たちの捕虜になっている!」
  コンドルは溶岩すれすれの低空飛行でスペイン兵をなぎ倒した。
「ええいッ、ひるむな!」
  エルナンドは部下たちを叱咤激励し、自らも新式銃を取った。
「新式銃だ。旧式のものよりもうんと射程が長い!」
「わかった、ありがとう!」
  コンドルは突っ込むスピードを減速して、体を左右に交わした。すると、そのつい鼻の先をエルナンドの撃った弾丸がかすめた。
「いいぞ、エルナンド!」
  その腕前にピサロは喜んだ。部下たちが次々に弾丸を新しく込め直した新式銃をエルナンドに手渡す…
  エルナンドはそれを受け取ると次々に発射する。コンドルはジグザグにかわしながら、突っ込むのを止めない…
「近寄るな!  それ以上近寄ると皇帝の命はない!」
  味方危し、と見てとったピサロは、アタワルパの喉元にナイフを当てて脅迫した。つまり、切り札を出した。
「クッ!」
  コンドルは悔しそうに高度を上げた。
「しょうがない…  また、ということもあろう」
  最初から皇帝などどうでもいいと思っていたジャガーはふと何の気なしに魔女が墜落した溶岩の辺りを見下ろして驚いた。
  なんと、溶岩が等身大の人がたちに盛り上がり、苦しそうに両手を天に向けている。少しずつ輪郭を現し始めたそれは、あきらかに魔女のそれだった。
□
  一方、カーデッタの術が解け、自分を取り戻したレテもまた、眼下に広がる地獄絵図を見て仰天した。
『この大惨事は一体何?  溶岩!  するとわたしは最高呪文の一つである『溶岩流』を
使ったの?』
  やがて彼女は無残にもピサロの虜となったアタワルパ皇帝と、溶岩の中、浮かんでは溶けて消える味方兵士の白骨に気がついた。
「まさか、わたしは敵の術に操られてこれを…」
  レテは真っ青になった。
「いかん、レテが正気を取り戻した!」
  ジャガーは叫んだ。
「陛下!  皆さん!  申し訳ありません!」
  レテは宙空で白鳥から人間の姿に戻った。当然頭から真っ逆さまに溶岩へと落ちる。
「あわや」というところで、上から回り込んだコンドルが受け止め、ジャガーが介抱した。「兄上、申し訳ございません。レテは取り返しのつかぬことをしてしまいました…」
「『兄上』?  するとあなた方は兄妹?  それで執着する理由が分かった!」
「うるさい!  この際関係ない!」
  ジャガーは妹が自分自身の胸に小刀を突き刺そうとする前に当て身を食らわせた。
  その時、溶岩の中で喘いでいた魔女はついに元の人の形を取り戻し、コンドルたちに火の玉を投げつけてきた。
「クッ、あいつは不死身か!」
  コンドルは罵った。
「倒し方もわからんし、レテのこともある。口惜しいがここはいったん引き下がって、態勢を立て直そう!」
「『口惜しい』って、あなたはインカのことなどどうなってもいい筈だったのでは?」
「インカはどうなってもいい!  だが、レテをこんな目に合わせた連中に復讐してやる!」
  ジャガーはグッタリとしたレテの体を抱きしめて言った。

  それよりほんの少し前。ピサロたちの捕虜として縛られたまま彼らの宿舎の床に転がされていたティコは、カハマルカの広場のほうから怒号と銃声が沸き上がるように聞こえてきたのを聞いた。
『連中、とうとうやりやがった。ついに戦争になっちまった!』
  見ると、ただ一人残されていた留守番の兵士も、扉の外から広場のほうを覗いてばかりいて、一向にジッとしている様子がない。そいつは自分で自分を落ち着かせようと、ピサロ将軍が置いていった宝物の入った箱の鍵を開け、中身を確かめてからもう一度鍵を閉めた。…そう、ピサロははなからここへ来るまでに奪った財宝を返すつもりなどなかったのである。
  蓋が開いた瞬間、ティコは魔法の薬の入った翡翠の小箱をチラリと目にした。
『こすっからい奴らのことだ。いかに勇猛果敢なインカの親衛隊でも勝ち目はない。おいらも早くズラからないと、今度こそバッサリと殺されちまう!』
  そう思ったティコは、そわそわしている兵士に話しかけた。
「そうビビるなよ。戦争はあんたらの勝ちだ。なんてったって鉄砲はあるし、あの魔女は恐ろしいしさ!」
「そ、そうかな?」
「ところであんたたちの国では、黄金はそれほどまでにいいものなのかい?」
「そりゃあそうだ。黄金さえあれば、地位や名誉も買えるし、女もいいなりに…」
「じつはおいら、髪の毛の間に黄金の護符を入れているよ。おまえにやるから助けてくれないかな?」
「本当か?」
  兵士は先ほどまでの心配はどこへやら、欲にギラついた目でティコの髪の間を探り始めた。無論約束を守る気などさらさらない…
「どのへんだ?」
「あるだろう?  トウモロコシの粒みたいな小さなやつだ」
  ティコは答えながら、両手両足を縛られているにもかかわらず、相手の顎に強烈な頭突きをお見舞いした。
  兵士がよろけたところへさらに二、三発、胃袋と頭に頭突きを食らわせると、兵士は壁にもたれかかるようにして昏倒した。
  ティコは相手からナイフと鍵束を奪うと、いましめを解き、宝箱から翡翠の小箱のほか、目ぼしい宝飾品を取り戻して大切に懐にしまい、ピサロの宿舎を後にした。広場のほうの暄騒はいよいよ激しく、火薬や硫黄の臭いも漂ってきている。
「さてと、早くコンドルやレテを捜さなくっちゃ!」

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  数万の戦士からなるインカ軍を殲滅し、皇帝アタワルパを捕虜にして、意気揚々とカハマルカの離宮に入城したピサロたちだったが、完璧な勝利の気持ちに酔うことはできなかった。もちろん、コンドル、レテ、ジャガーたちを取り逃がしたのと、頼みの魔女カーデッタが溶岩に落ちて行方不明になったからである。
  加えておまけに、帰って見ると捕虜のティコまでが逃げ出している。ティコは惜しくないが、あの何か値打ちもののようだった薬の入った翡翠の小箱が無くなっている。
  エルナンドをはじめ部下たちは、『得た物のほうが多い』と気にも止めていないようだったが、ピサロは地団太を踏んだ。
  ピサロは不満の鉾先をアタワルパに向けた。侵略者たちにさんざん殴られ蹴られして、誇りも何もかも失ってしまったかつての皇帝は、彼らの前に跪き、これ以上卑屈にはなれないというぐらい、地面に額をこすりつけて哀願した。
「頼む、何でもする!  領土も黄金も妾もみんなおまえたちにやる。だから命だけは助けてくれ!」
「きさまには、これから建国する新しいスペインの植民地の礎として、生贄の人柱になってもらう!」
  将軍は冷たく言い放った。
「嫌だッ!  死にたくない!  まして生贄など…」
  元皇帝は、自分の健康を祈念して生き埋めにされた数百人の幼児が、かなり日にちがたった後でも、地中から哀れな声を上げていたことを思い出しておじけづいた。
「やれやれ、自分がたくさん殺しておいて、よく言うぜ!」
  新式銃の手入れをしながらそばで聞いていたエルナンドも呆れ果てた。
「頼む、お願いだ…」
「そんなに言うのなら」  ピサロはいい加減うるさくなって返事をした。「おまえがいま捕らえられているその部屋を、一分の隙間もないほどの黄金で満たしたら、命だけは助けてやってもよい!」
「本当だな?  嘘ではないだろうな?」
  途端に、元皇帝の目に希望の光が戻った。それも一抹のそれではなく、えらく自信に溢れた言葉つきだった。これにはピサロたちも一瞬眉を吊り上げた。というのも、アタワルパを押し込めている部屋はかなり大きく、自分たちの王、スペイン王カルロス一世、すなわち神聖ローマ帝国皇帝カール五世の宝物庫よりも広かったからである。
「早速命令させて欲しい。余が命ずれば、こんな狭苦しい部屋を黄金で満たすことなど容易の一語に尽きる!」

  どさくさに紛れてカハマルカを脱出したティコは、峠のところで検問の列に並ばされてしまった。懐に隠した翡翠の小箱にハラハラしながらも、彼は何に食わぬ顔で検問官であるインカの役人の前に進み出た。
「名前、身分、年齢!」
  役人はそっけなく尋ねた。
「名前はティコ、一六歳。仕事はチャスキでして…」
  彼が言い終わらないうちに棒が首に当てられ、脇へ連れて行かれた。そこには彼の飛脚仲間を始め、屈強で身軽そうな男ばかりが集められていた。
「い、一体何なんですか?  工事の夫役なら毎年ちゃんと出ています。村おさに聞いてもらえれば…」
「そんなものではない!」
  役人は怒鳴った。
「いいか、よく聞け。それとこのことは絶対に他言無用だ。喋った者は切り捨てる!」
  あまりの殺気に捕らわれて徴用された者全員が震え上がった。
「こともあろうに皇帝アタワルパ陛下が、不覚にも『白い人』に捕らわれてしまった」
「エーッ!」
「静粛に!  静かに聞け!  …定められた期日の間に、部屋一杯の黄金を身代金として届なければ、『白い人』は陛下を処刑する。おまえらの仕事は、各地の太陽神殿に散らばる黄金の神像、その他黄金でできた太陽神への捧げ物を、一刻も早くカハマルカのピサロ将軍のもとへ届けることだ!」
  一同は等しく息を飲み、目を見張った。

  その噂は混乱の戦場から何とか無事に脱出し、近くの無人の神殿に身を寄せていたコンドルたちの耳にも入っていた。
「アタワルパめ、未練にも命に執着し、国の宝を集めて差し出すとはますます許せない!  集め終えたところで殺されるのはわかっているのに…」
  人間の姿に戻ったジャガーは、黄金を剥がされた跡も痛々しい祭壇を拳で叩いた。
「みんな、みんなこのわたしが悪いのです!」
  さっきから泣き続けていたレテはスクッと立ち上がって出て行こうとした。
「待てレテ、一体どこへ行く?」
「『黄金の太陽像』を守りに。九九人の仲間のいる処に!」
  振り返ったレテは決然として言った。
「バカな!  まだ懲りないのか?  …おまえごときの歯の立つ相手ではないということはよく分かっただろう?  他の九九人の太陽の処女の足を引っ張るだけだ」
「ぼくも行く!」
  一人だけ人間の姿に戻れずにポツンと梁の上に止まっていたコンドルもレテの後を追おうとした。
「…あいつらの人を人とも思わない悪行の数々は捨て置けないし、このままでは永久に人間の姿に戻れないからな」
「ありがとうコンドル!  戦士でも呪術師でもないあなたにそう言って頂いて、勇気百倍よ!」
  レテはコンドルの首に細くて美しい腕(かいな)を回して抱いた。
「『人間』だと?  『正義』だと?  笑わせるな!」  ジャガーの瞳に嫉妬の業火が燃え上がった。「なぜ人間の姿でなければならないのだ?  鳥や獣の姿のほうが自然と一体になって暮らせるというのに?  それに、自然は弱肉強食だ。弱いインカは強い白人に滅ぼされるべき運命にあったのだ。それを英雄気取りで粋がって何とかしようなどとは、身の程知らずにも程がある!」
「自分とその一族一統だけ幸せだったらあとはどうでもいいなんて、卑怯卑屈だ!」
「うるさい!  何と言う御人好しの甘ちゃんなんだ?  おまえも大人になったら分かるさ!」
「そんな大人になんか、鳥や獣以上になりたくない!」
  ジャガーは二人の出てゆく先に回り込み、豹へと変身した。
「兄さん、コンドル、二人とも止めて!  ピサロたちと戦わなければならない大事な時に、仲間割れをしてどうなるの?」
  レテは必死になって割って入った。
「レテよ。わたしにはおまえのいない幸せなど考えられない。だから、ただの金の塊にしかすぎない『黄金の太陽像』のことなど諦めて、わたしと来てくれ!  翡翠の小箱の薬なしでもワスカル殿下やわたしたちと一緒に幸せに暮らそう!」
  ジャガーは切々と頼んだ。
「『黄金の太陽像』はただの金属の塊ではありません。わが国の国章であり、それ以上のものです。同じ逃げるのなら、『黄金の太陽像』を逃すべきです」  レテはキッパリと言った。「…兄上が無理やり連れていくと言うのなら、レテも戦います!  …それ以外にわたしの罪を償う方法はありません」
  ジャガーはしばし怒りのオーラを発していたが、やがてフイと身を踊らせると、外の暗闇の中に姿を消した。コンドルは僅かの間、ジャガーの寂しそうな目を気にして遅れたが、それでも直ちに彼女の後を追いかけた。

  インカ帝国始まって以来、もっとも長かった一日が暮れかかろうとしていた。白鳥やコンドルの姿では夜は行動できない。自分の意思で人間に戻ることのできるレテはともかく、コンドルは心中で夜の闇と、闇の中で戦いが起きることを不安に思っていた。
  夕陽がアンデス山脈の山なみをオレンジ色に照らし、街道を行き交う旅人の足を急がせている。
  コンドルは眼下を蟻のように走る飛脚の姿がいつもより多いことに気がついた。
「人質となった陛下は、おそらくは全く無意味になるはずの身代金の黄金を請求され、それを払うつもりなのよ」
  レテは苦しそうに言った。無理もない、奴らに操られて戦わされ、精も根も尽きようとしていた。この上まだ『黄金の太陽像』のもとに馳せ参じるなどとても無理なくらい疲れ切っていた。「では、あの大きな荷物、どれもすごく重たそうなものは、みんな国の、神々に捧げられていた黄金?」
  コンドルは千里眼で、目の届き得る限りの街道中に散らばったチャスキを数えた。
『もの凄い数だ。これは本職のチャスキ以外の人々も刈り出されているな…』
  重そうな荷物に足をふらつかせているいたいけな子供の姿もあれば、到着時刻が遅かったせいで、役人に激しく鞭打たれているチャスキの姿もある。コンドルはその顔に見覚えがあった。
「ティコ!」
  実際、それはコンドルとレテがいま飛んでいる地点からはかなり離れた所での出来事だったが、彼には手に取るように見えた。
「どうしてこんなに遅れたんだ!」
「だって、ひどく重いんだもん。いくらおいらが熟練の飛脚でも無理だよ!」
  怒る役人の罵声と、弁明するティコのうろたえる声まで聞き取れそうだった。
「おのれ、見せしめだ!」
  役人の鞭が続けさまにしなる。
「待っていろティコ、今すぐ行くからな!」
  コンドルは翼を傾けると、レテが導くコースから大きく外れた。
「コンドル、どこへ行くの?」
  レテが鋭い声で尋ねる。
「友だちが危ないんだ。助けに行く!  先に行っていてくれ!」
「待ってコンドル!  『友だち』というのはただの飛脚でしょう?」  レテは彼が向かおうとするのを妨害するかのように回り込んだ。「…一介の飛脚よりも、いまは『黄金の太陽像』のを守ることのほうがはるかに大切です!」
「何を言う!  『黄金の太陽像』は例え奪われても取り返すことができるけれど、友だちが殺されたらそれっきりだ!」
  二人…二羽は上空で揉みあった。
「あいつは、ティコは、ぼくが傷ついたキミを担ぎ込んだ時、嫌な顔はしたけれど  かくまってくれたんだぞ!」
  コンドルはレテを振り切って、まっしぐらにティコのもとに急いだ。
「先に行っていてくれ!  ティコを助け出したら、ただちに追いかける!」
「結構よ!  もうあなたなんかあてにしないわ。コンドル!  兄のジャガーと同様、小さな幸せを追いかけてばかりいて、自分を捨て去れない人は同胞じゃないわ!」
「キミやキミの仲間たちこそなぜ、あんな黄金の太陽像を、命賭けでまもろうとするんだ?」
「『あんな』とは何よ! あれはインカの魂なのよ」
「魂は、神々から授かって、ぼくら一人一人が持っているものだ。そういう意味では、キミの兄さんは正しい」
「いいえ。正しくありません。魂の拠り所を失ってしまった人間は、もはや人ではありません。自分勝手に生きる獣と同じです」
「魂の拠り所は大切だろうが、それよりももっと大切なものもあるような気がするんだ」
「さよなら。コンドル、あなたは、言っていることは違っても、していることは兄のジャガーと同じです!」
  冷ややかなレテの視線に追いやられるように、コンドルは彼女と袂を分かった。
『国あっての家庭や自分や友人なのか?  いや、そんなハズはない!  その証拠に、アタワルパはあれだけ人々から生贄を求め、太陽神にそれを捧げてきたが、あの利己主義で欲の固まりのような『白い人』に実にあえなく敗北したではないか?』
  コンドルは見る見るうちにティコを打擲している役人のそばに舞い降りた。
  突然襲ってきた巨大なコンドルに、役人は自分で足を滑らせて谷底に転落した。コンドルの発する風圧はもはや自分でも御しきれないほど凄まじいものになっており、懸命に足を踏ん張ったものの、ティコまでが崖っぷちから投げ出されてしまった。
「ティコ!」
  コンドルは落ちる彼を追いかけてまっ逆さまに急降下し、間一髪羽根の上に拾った。水平飛行に切り替えると、ティコの背負っていた皇帝の身代金の一部である黄金の神像や延べ棒がバラバラと、夕陽にきらめきながら、目もくらむような谷底に落ちていった。
「コンドル!  もう二度と会えないと思ったぜ!」  ティコはコンドルの首に必死にしがみつき震えながら言った。「…と、ところでおいら、高所恐怖症なんだ。どっかに降ろしてくれないかな?」
「待ってくれ、ちょっと追いかけなければならない人がいるんだ。見失いたくない!」
  上昇気流に乗ってスピードを増すコンドルの目には、はるか先の雲の合間を行く白い点がかすかに見えていた。
「それって、レテのことじゃない?  あの娘はヤバいよ!」
「よし、追いついた。あとは間を詰めるだけだ」
  巡航速度に移って落ち着くと、ティコは片手を懐に入れて、翡翠の小箱を取り出した。「それはッ!」
  コンドルの目の色が変わった。


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