「エル・コンドル・パッサ」  あらすじ

  日本では戦国時代まっ只中の西暦一五三二年。海の彼方の南アメリカ大陸ではインカ帝国がそれまであった小さな部族や王国を統合し、覇権を握っていた。
  しかし、偉大だった先王が、その頃ぼつぼつと海岸線の村に姿を現していた白人たちにによって持ち込まれた天然痘で死ぬと、都クスコに陣取る正妻の子ワスカルと、それより北に一○○○キロ離れた副都キートを本拠にする愛妾の子アタワルパとの間に内戦が起こった。この内戦はアタワルパのほうが勝ち、帝位を継いだ。
  一方、時を同じくして、インカの貯えていた巨万の黄金を我が物にせんとするスペイン人の大山師ピサロ将軍は、わずか二六二名の兵隊を率いてインカへとやって来た。
  皇帝アタワルパを守るインカの兵士は数十万。しかしピサロには勝算があった。
「インカにおいては皇帝は絶対的存在である。甘言を弄してなんとか皇帝の近くまで近づき人質に取れば、こちらのものだ!」
  さらに一方、ふとしたことからコンドルに変身する秘密の薬を手にしたインカの飛脚の少年コンドルは、『太陽の処女』巫子のレテ、親友で西洋に憧れを持っているティコ、それに元ワスカル側の人間で呪術師長のジャガーらとともに、インカのシンボルとも言える
巨大な『黄金の太陽像』を守ってピサロやスペイン兵と戦う。
  ピサロは「身代金として、この部屋いっぱいの黄金を持ってくれば皇帝の命は助けてやる」という約束を破って、アタワルパを処刑した。
  だが間一髪、『黄金の太陽像』は一○○人の巫子『太陽の処女』たちに守られて密林の奥地へと持ち去られた。追うピサロたち。守るコンドルたち。『黄金の太陽像』の行方はどうなる?
 

  プロローグ  西暦一五三二

  果てしない、虚無の暗黒…
  夜の闇。しじまの空間。凍れる空気。
  奈落。死の世界。漆黒。

  針の先でついたような光。
  やがてそれは、徐々に広がり、地平線を照らす。暗闇の幕が上がるにつれて、険しい稜線と氷壁の連なりが姿を現す。

  コンドルはその光に向かって飛んでいた。太陽の、黄金の輝きが彼の身体全体を照らし、力強い風切り羽根を金箔のようにキラキラと輝かせている。

  朝が来る度に、彼は世界を巡る。
  断崖絶壁、人跡未踏の悪魔の山。
  天空から湧き出て、地の底深く吸い込まれるように滔々と流れ落ちる天使の瀑布。
  眼下に広がる鬼の洗濯板のようなクレバス。
  神の峰路…ワスカラン…

  赤土を含んだ赤い大河。青い大河。二つの川は密林の一点で交わるが、二色の水は二色の蛇の交合のごとく永遠に溶け合わない。

  高度を上げる。
  空中都市のきらびやかな神殿。生贄の血。  神官たちの朝の祈り。
  乙女たちが瞼をこする気配。
  綿菓子の白雲の中の黄金境。
  縦笛…ケーナ…の響き。碧空。

  大砂漠。巨大な地上絵…
  黒い大地に蝋墨で引かれた不可思議な紋様。『ああ、いつの日かあの娘を背中に乗せて、これらの世界を一目見せてやりたいものだ…』
  彼は大きく旋回する。
  燭台の指し示す方向には、彼自身の姿であるコンドルが、アルカトラズ(ペリカン)が、ハチドリが、星辰宸図やアストロノーツが、猿どもや手形が、数億光年の彼方に向けて描かれている…

  一人の巫子のことを思い出した彼は、風を羽根いっぱいに孕ませて、北向きの(南半球では、北側によく陽が当る)なだらかな斜面にある小さな村に向かう。
  彼はゆっくりと高度を落とす…
  眼下一面に広がる段々畑…アンデネス…と、清らかな谷から水を引かれた潅漑用の用水路…そのいずれもが整然と整備されている。
  たわわに実ったトウモロコシ。朝食のジャガイモが葺きあがる香り。緑のさざ波のコカの葉。
  村はずれにあるささやかな石造りの家。それが「太陽の処女」の巫子の家だ。
  白衣に黄金の花冠をつけた巫子が赤く熟したトマトの実を摘んでいる。彼はもっと低く飛び、危うく畑に激突しそうになって、慌てて高度を上げる。
  巫子は彼に気がついて、褐色の彫像のような細く美しい手を振る。こぼれる笑顔。白い歯。そこで彼も、風切羽根を揺らして応える。

  照れくさくなった彼は、風の流れに乗って高度と速度を上げ、村を離れる。
  のんびりと草原に草をはむリャマやグアナコの群れ。木陰でうたた寝をする牧童。しばらく飛び続けると緑はやがて殺伐とした荒地に姿を変える。
  アタカマ…地の果て…
  かつてここには古代の人々が住んでいた。かれらは遠くアジアのモンゴルの地から、冬の間凍るベーリング海峡の氷のきざはしを
通って、はるばる此の地へとやってきたという…

  七○年間種子の姿で地中に眠り、一○○年かけて成長し、花を咲かせて枯れる百年樹、プヤ・ライモンディー(後世の探検家の名)の木がポツンポツンと立っている。
  溶岩原。地獄の釜から吹き出たような泥や硫黄の間欠泉が、時折天高く吹き上がる。直撃を避けて高度を保つ。
  聖なる山…リカンカプール…と、頂上にある凍れる火口湖、聖なる湖…
  このあたりにはさながら龍の口の如く、煙を吐く山が多い。太古からの歴史に、新しい一ページが刻まれて行く。

  そして南の果ては針の峰のような大氷河。永劫の風雪に刻まれた底は、吸い込まれるように青い…
  氷壁に沿って降下すると、その下は氷の海原だ。
  こうして彼の巡回が終わると、人の世界でも新たな一日が始まる…





  第一章  西暦一五一七〜一五三二

                0

  果てしない、虚無の暗黒…
  夜の闇。しじまの空間。凍れる空気。
  奈落。死の世界。漆黒。

  アンデス山中の名もない寒村の夜。一人の妊婦が陣痛の苦しみに喘いでいた。

  時は西暦にして一五一七年。コロンブスがアメリカ大陸を発見してから一五年、西洋は大航海時代の真っ只中であり、胡椒、黄金、領土、その他ありとあらゆる欲望に狂った人々が、船団を操り、未開の土地を目指していた。

  その土地とは、南アメリカ大陸アンデス山脈の懐にあるという黄金境、エルドラド。
  二○世紀から遡ることおよそ一万二○○○年前の遥か昔、ムー大陸が太平洋に沈んだのと時を同じくして、アンデスに人が渡り、棲みついた。
  標高四○○○メートルを越える高原には家畜にできる生き物がおり、はるか下界の暖かい谷間は農業に適していた。
  近年、紀元前五○○○年前に農耕がなされていた痕跡が、海岸近くには紀元前三○○○年頃の大集落の跡が発掘されている。
  紀元前一五○○年頃には土器と織物の技術が現れ、大きな神殿も建設された。
  以降、世界中の各文明と同じようにさまざま小さな王国や部族が興亡を繰り返したが、一四世紀中頃、そのうちで政治と軍事に優れるインカ族が次第に覇権を握り、世に言う強大なインカ帝国を建設した。
  ちなみに、「インカ」とは、「皇帝」ないし「皇帝の」という意味である…

  インカには産婆というものが存在しない。妊婦は貴賎を問わず、たった一人で出産するのが習わしだった。たとえ帝国でもっとも権力のある皇帝…インカ…や、首長…クラカ…の妃といえども例外ではなかった。出産を助ける女がもしいたとすれば、それは産婆ではなくて、呪術師だっただろう…

  オギャー!
  オギャー!

  蝋燭の光の下、赤ん坊が元気のよい産声を上げる。
  母親は血だらけの赤ん坊をそのままにして、まず自分自身を近くの小川の水で洗い清める。それから冷水をたらいに汲んで戻って、赤ん坊を洗う。
  決して湯を使わないのは、子供に寒さや疲れに対する抵抗力をつけるためだ。冷水浴はこの後この子が成長するまで続けられ、それには、一晩冷気にさらされた水が使われるだろう…

  母親は赤ん坊の小さな背中、肩胛骨のあたりに、二つの小さな突起があるのに気がついた。
『まさか!  まさかワカ…精霊…の怒りに触れたのではなかろうか?』
  インカでは、病気や身体の異常、さまざまな不幸は、皇帝や精霊・ワカに背いたことに対する罰として考えられていた。
『でもわたしもこの子も、身に覚えがない。それよりか、伝説によるとわたしたちの遠い祖先は自由に鳥や獣や妖かしの生き物に姿を変えることができたという…  この子は長じて第一流の呪術師になるやもしれない』
  彼女はそう確信すると、赤ん坊をそそくさと産着にくるみ、特にまるまると太った腕は念入りにくるんだ。これから三ヵ月の間、赤ん坊の腕は産着にくるんだままである。腕は神聖なものと考えられていたのだ。
『この子は絶対にアユスカ…見捨てられた子、他の子と交換されなければならない子…などではない!  巫子にも呪術師にも断じて告げるものか!  そうだ、この子の背中は普通に戻るまで、絶対に人に見せないでおこう!  たとえわが夫にも!』
  彼女はそう決心すると、赤ん坊を粗末な籐の揺り籃にそっと寝かせた。
  赤ん坊は威勢よく泣き続けている。母親はまるで何事もなかったかのように、翌朝のパンにするトウモロコシの粉を挽き始めた。

「コンドル」と名付けられたその子は、スクスクと成長した。
  インカの母親はいついかなる場合でも、例えば母乳をやる時でも、赤ん坊を抱いたり、膝に乗せたりはしない。甘やかされた子供は泣き虫に、弱虫になり、勇敢な、りりしい若者や娘に育たないと信じられていたからだ。
  母乳は朝昼晩と時間を決めて、母親が赤ん坊のほうに身を屈めて授乳する。定めた時間以外は、いくら赤ん坊が泣き叫んでも乳をやることはない。のべつまくなしに乳をやると、大きくなってだらしのない大人になると考えられていた。
  赤ん坊が立つようになると、地面に穴を掘って古布を張り、子供を立たせて胸の高さまで入れ、その前におもちゃを置いて遊ばせる。
  これはどんな身分の子供でも同じである。
  自分の乳が出ず、乳母を雇うことは、母親の恥だとされていたのだ。
  コンドルはことさら、鳥の形のおもちゃを喜び、空を飛ぶ小鳥を仰いではしきりに手を振った。母親は、この子の守り神であり、名前でもあるインカ最高の神の鳥、コンドルが守護したまうのだと、ホッと胸をなで降ろした。


                  1

  西暦一五二五年。コンドル八歳。

「おーい、コンドル、おまえも泳げよ!」
  ある乾季の暑い日、高さも幅も三○フィートほどの大きくも小さくもない滝の滝壷で泳いでいた子供たちが、彼を誘った。
「カナヅチ、ってことないよな?」
「いいよ」
  コンドルは服のまま、両手を大きく広げて飛び込んだ。母親から『決して他人には裸の背中を見せてはいけない』と言われていたからだ。
  水の中で、彼は着衣のまま抜き手を切って泳いだ。他の友だちはみな裸だった。
「服のままだと泳ぎにくいだろう?  脱げよ!」
  ガキ大将の少年が水の中で無理やり彼の服を脱がせようとした。
「やめてくれ!」
  彼は抵抗した。
「見られたら悪いものでもあるのかよ!  おい、みんな、手伝え!」
  ガキ大将の号令一下、子供たちが全員彼のほうに寄ってきた。コンドルの体から血の気が引いた。
「やめろ!」
  彼は自分に群がる悪童連を突き放し、ねじ伏せ、陸に上がろうとした。執拗に食い下がるかれらは、コンドルの上着の切れはしを引きちぎり、ズタズタにした。
「おまえらちょっと待て!  何も見えないじゃないか!」
  ガキ大将が叫んだ通り、水の泡とおしくらまんじゅうのせいで何がなんだかよくわからない…
  その隙にコンドルはボロ布のようになった服を懸命にまとい、ようやくのことで陸の上に上がった。
「お、追いかけろ!」
  ガキ大将は水を吐き出しながら叫んだ。
  滝の上に逃げ登るコンドル。追う悪童連。しかしコンドルの走りはすば抜けて早く、誰も追いつけない。
「ティコ、おまえなら追いつける!  なんとかしろ!」
  滝の中腹の岩の上でのんびりと寝転がっていた小柄な少年は、命令されても素知らぬ顔でよそ見をしていた。
「アホ臭い!  きれいな娘の裸じゃあるまいし、何がそんなに面白い?」
「追いついて、ヤツの体を見届けたら、オレが大切にしている黄金の耳飾りをやる!」
  息が切れてへたばったガキ大将と取り巻きたちは、ついに物で釣った。
「本当に?」
「嘘じゃないッ!」
「じゃあやってみようかな」
  のろのろと立ち上がったティコは入念に足腰の準備体操を始めた。
「バカッ!  やる気があるのか?」
「この先は滝の上の崖で行き止まりだよ。相手が鳥でもなければ、誰でも追いつけるさ」
  そういい残して、ティコは猛然と走り出した。
  険しい登りの山道、ジワリジワリと追いかけてくる小さな影に、コンドルは焦った。
『金の耳飾りのためだ。頑張るか!』
  ティコはスパートをかけた。両者のあいだはさらに縮まった。
  走るコンドルの目の前がパッと明るく開けた。滝の頂上で行き止まりになっている。白い波しぶきをあげて流れる激流をはさんで、向こう岸の緑が見えている。
  コンドルはゆっくりと背走して、助走をつける態勢を取った。
「あー、バカバカ!  跳び越えるつもりだ。落ちても助けに行かないぞ!」
  ティコや少し遅れて追いついてきた悪童連も気が気ではない。
  しかしコンドルはかれらのほうをちらりと振り返って不敵に微笑むと、鋭いダッシュをかけた。
「おーい、待てよ!  早まるな!」
  ティコも土煙を上げて駆けた。
  コンドルは川岸の端をポーンと大きく蹴ったかと思うと、再び両手を大きな翼のように広げて、川の上に飛んだ。
  ティコも、ガキ大将も、悪童連もハッとして空を見た。コンドルの体は鳥のように上昇気流に乗り、長い滞空時間を数えた。
「本当に跳び越える?」
  彼の足跡のところでつんのめって止まったティコは信じられない目でコンドルの航跡を追った。
  コンドルは、そのうしろに地面をいくらか残す余裕で向こう岸に危なげなく降り立った。「嘘だ。信じられない…」
  子供たちは呆れた。
「骨折り損のくたびれ儲けだ」
  ティコは照れ隠しに笑った。
  こんなことが何度かあったけれども、結局誰も彼の背中を見たことはなかった。
  そんなある日、家に帰ったコンドルは、目に一杯の涙を溜め、声を小さく震わせて、母親に尋ねた。
「母ちゃん。何でぼくの背中には…」
「それはおまえが将来偉い呪術師になって、人々を救うために付いているのだよ」  母親は一言一句噛みしめるように答えた。「偉い呪術師になれば、自由に鳥や獣やもっと強い伝説の生き物に変身し、野山を自由に駆けることができたり、皇帝陛下やわたしたちを苦しめる悪者と戦うこともできるんだ」
「そんなもんかな…」
「母さんは、そのうち偉い呪術師が、『是非ともおまえを弟子に』と言って連れて行くような気がしてならないよ」
  母親はコンドルを抱きしめた。
  そう、思えば彼はその時からずっと思い続けていたのだ。『自分には、自分にしか果たせない役目か任務がきっとあって、その日の為に自分は生まれ、生かされているのだ』と…

                  2

  西暦一五三二年

  コンドルは長じて一五歳の元気な若者に
なった。心配されていた肩胛骨の突起もさほど目立たず、母親をホッとさせた。コンドルには特技が一つあった。それは大人も同世代の若者も含めて、誰よりも早く走れるということである。
  ワイナ・カパック皇帝の治世に、一○数年の歳月をかけて作られた海岸沿いと、アンデス山脈の稜線伝いに伸びる二本の、いわゆるインカ道…太陽の道…の幹線。そこから広がるおびただしい数の支道。
  チャスキ…公の飛脚…を表すタスキをかけたコンドルは、剃刀一枚入る隙間もないくらいにキッチリと積み上げられた、立派な土止めのテラスや石造りの階段で補強された羊の腸の如く曲がりくねった街道を飛ぶように走っていた。背中の行李の中の今日の荷物は海岸の町パラカスでとれた新鮮な魚。それと色とりどりの紐で作られた結紐の書類数点。(インカには文字が存在しない)
  それに、蜜蝋で厳重に封印された、小さな翡翠細工の小さな箱…
  雲を真横に見る高度数千メートルの高地。半レグア(征服者スペインの単位。およそ2キロ)の担当区間を風のようにひた走る…
  つむじ風のように疾走し、追い抜いて行く人影に、リャマやグアナコを連れた牧童は目を回し、茶店…タンボ…の主の老人は感心して彼が通り過ぎた後の土煙を眺める。
  それぞれの町のシンボルマークや守護神を形どった道標は次々と飛び去り、アッという間に次の飛脚にリレーする茶店が見えてきた。
  彼のあとの区間を引き継ぐのは、幼な馴染みのティコ。彼はあれからあまり背が伸びず、抜け目ない性格も変わっていない…
  ティコは茶店の床机に腰を降ろして、悠々とホット・チョコレート(ココアのこと)を飲んでいた。
「ティコ、ほら、今日の荷物だ。おあとはよろしくな!」
  コンドルはかかとをふんばって急停止すると、息一つ切らさずに言った。
「せっかくだけどコンドル、これから先へは行けないよ!」
「どうして?」
「おいらの担当の道が手抜き工事による土砂崩れで通れなくなってしまったんだ。…こりゃたぶん工事関係者は死刑だろうね」
  コンドルは一旦降ろした荷物をひっ掴むと、先へと進んだ。するとなるほど、ティコの言う通り崖沿いの小道が四分の一レグア(約五○○メートル)  ほど崖崩れで流されてしまっていて、旅人や役人が茫然と立ち尽くしている。
「…ご覧の通りだ。復旧のめどは全く立っていない。みんな最寄りの茶店まで戻って待ってくれ!  反逆者ワスカルとの内乱も無事わが軍の勝利に終わり、ワスカルを捕らえたことでもあるし、そう慌てることもあるまい」
  役人の説明に大抵の者はブツブツ言いながらも引き返したが、ただ一人だけ食い下がっている者がいる。
「お役人さま、わたしは薬草の商人です。近ごろ都、クスコで子供に悪性の熱病が流行っていると聞き、今日の夕方の約束でキナの葉を納めにいくところです。遅れれば遅れるほど子供たちが苦しみ、悪くすると…」
「気持ちはわかるが小官にどうしろと言うのだ?  こんなに欠けた道、鳥かムササビででもなければ向う側へいくことなどできん!」
  役人は投げやりになって言った。
「ちょっと待って!  ぼくがやってみる!」
  コンドルは薬草商人が背負ったツヅラを
ひったくって自分の肩にかけた。
「お気持ちは嬉しいですが、やっぱりやめて下さい!」
  商人は慌てた。
「小僧、下をよく見ろ!  落ちたらひとたまりもないぞ!」
  役人はコンドルの首ねっこをつかんでひっぱり、途切れた道の下を覗かせた。目もくらむような断崖絶壁。はるか下に地上の木々が風に揺れている。
「やらせて下さい!」
  コンドルは役人の手を振りきり、助走をつけるために後退した。
「よせよコンドル!  おいらはおまえが落っこちて死ぬところなんか見たくねぇよ!」
  ティコは彼の服の裾を引っ張った。
「大丈夫、ちゃんと届けて、また戻ってくるよ!」
  コンドルはそう言うと、両腕を鳥の翼のように大きく広げて駆け出した。まるで本物のコンドルの滑空を思わせる、ダイナミックで軽快な走り…
  両腕を心持ち後退させた瞬間、彼の体は空中にあった。
「無理だ!」
  ティコも人々もそう叫んで、顔を手のひらで覆った。それは向う側で待っている人も同じだった。
  だがコンドルは宙空でかすかになにもない空間を蹴ると、滞空時間はグーンと伸びて、向う側の崖に届きかけた。
「もう少しだ!」
  向う側の人々は大慌てで人の鎖を作って、飛んでくる彼のほうに手を差しのべた。
  あとちょっとと言うところで、彼の高度は落ち始めた。
「ダメか!」
  みんなの顔が真っ青にになったが、彼が右腕をほんの少し傾けると、彼の体はわずかに旋回し、気流に乗って高度を取り戻した。気のせいだろうかその際、あるいはもっと前からそうだったのかもしれないが、彼の腕が羽根の生えた翼になったように見えた。
  無論それはほんの一瞬のことで、次の瞬間には滑稽なほどに狼狽し、さしのべられた手をハッシと慌てて力強く掴んだ。
「ありがとう!  本当にありがとう!  礼はまた改めてする!」
  薬草を待っていた役人と呪術師は、行李の中から自分たちの荷物を捜し出すと、ひったくるようにして持ち去った。あとには魚と結紐の書類と、何が入っているのかわからない小さな美しい翡翠細工の小箱が残った。
「おーい、これはだれに渡すんだ?」
  コンドルは、いまはもはやはるか向こうの崖の上に立つ同僚のティコに怒鳴って尋ねた。「空中城砦の南の宮殿におられる、呪術師長のジャガー猊下だ!」  ティコは怒鳴り返した。「くれぐれも粗惣のないようにな!」
「わかった!」
「下がり物(この場合、チップのこと)おいらの分も貰ってきてくれ!」
(インカには貨幣は存在しない。全て物々交換である)
「わかった!」

  空中城砦…マチュピチュ…を目指してコンドルはひた走る…
  神々が設けた巨大な岩壁のように連なる
山々。起伏の多い急な坂道をいくつも越えると、山なみの中にポッカリと、夕陽を浴びて金色に輝く石作りの都市が見えてくる。
  複雑な地形を利用して、都クスコや、庶民が畑を耕している低地とは完全に隔絶されている、一種の宗教都市…
  ここには呪術師長のジャガーを始めとして、ごく一部の高級神官を除き、男性はごく僅かで、住民のほとんどは太陽神に使える巫子、すなわち「太陽の処女」と称されるアクリャと、それに仕える者ばかりである。
  日没閉門ぎりぎりに到着したコンドルは、さすがにハァハァと息を切らせて、その場にしゃがみ込んだ。
「道は事故で崩れたのじゃなかったのか?」
  下働きの男の神官が驚いた。
「道は崩れた。崩れたけれど、飛んできたんだ」
  吹き出る汗を拭い、地面を見て息を整えていたコンドルの目の前に、宝石を飾った黄金の盃になみなみとつがれた清水が差し出された。
「あ、ありがとう…」
  彼はその水をむさぼるように一息に飲み干した。
「もう一杯、もらえるかな?」
「あまり一度に飲まれると、体に毒です」
  鈴を振るような声がした。
  コンドルがハッとして顔を上げると、白い衣に金の髪飾りをつけたアクリャの一人が、黄金の水差しを持って立っていた。
  長い黒髪。静かな眼差し。彼女は彼がいままでに見たどんな少女よりも美しく上品だった。
  彼は長い間ボーッと見とれていた。
「こらこら、ちょっと親切にされたからと
言って喜ぶでない!  庶民の男がアクリャと契りを結んだらどうなるか知っておろう?」「はい。自分はもちろん、一族郎党、家畜まで皆殺されて、家は壊され、土地にはペンペン草一本生えないように塩が撒かれます」
「わかっていたらよい!」
  神官は威張って言った。
「しかしこの娘はまだアクリャの見習い。正式に終生アクリャになるかは、一五歳になった時決めるので、そうはならないかも…」
  コンドルの言葉に彼女は恥ずかしそうに顔を伏せた。
「バカなことを申すな!  レテは見習いの中でも抜群に成績優秀。霊能も抜きんでている。ジャガー様をはじめ我々神官一同、期待をかけておるというのに…」
  正式のアクリャ…太陽の処女…になると、終生独身で通し、専用の屋形で太陽神や皇帝や帝国のために祈念した、あるいは帝国の輝かしい歴史を刻んだ機織物を折り続ける。
  もっともそれは建前で、多くは皇帝や首長、大臣、高官たちの慰みものとなったり、贈り物にされたりしたという…
「ええい、スケベな奴が神殿をウロウロしていると汚れる!  用がすんだのなら、早々に立ち去れい!」
  もうとうの昔に太陽はとっぷりと暮れていた。コンドルはひとかかえの供え物の下がりを手にしてマチュピチュを立った。途中の都市を見下ろせる峠でそっと振り返ると、狭い段の上に並んだ見習いの住居や、共用の中庭に面して四〜一○戸ごとに並んだ一般の神官たちの住宅、それらをつなぐ入り組んだ路地が銀色の月の光に輝いて見えた。その中庭には穀物を挽くための大きな挽臼や大きな農工具、薪代わりのリャマの糞や機織機が置かれている。ジャガイモは板の上に並べられ、肉の束が綱で吊されて、昼間の日光と夜の寒気に干して保存食に加工されている。
  絶対神である太陽は天にあって日々これ新たな生命を生み出し、皇帝は地にあって民を従え、神官や巫子たちは帝国のあまねく下々にまで祈りを捧げてくれている(はずだ)…
  もよりのタンボ…この場合、旅篭…までもう少しというところまで来たとき、コンドルはすこし前のジャングルの中に光る二つの紅い眼を見た。
『豹だ!』
  彼は息が止まりそうになった。こんなことになるのだったら松明代をケチるのではな
かった。武器も小さなナイフの他にはこれといったものは持っていない。コンドルがいくら走りが早いと言っても、地上で最も速い獣とでは勝負は見えている。
『昼間崖を飛んだように飛ぶ?  これも相手のほうが得意そうだ。  だからといってじっとしていると…』
  彼ははじめジリジリと、やがてタイミングを見計らってバッと駆け出した。振り返った訳ではないが、豹がサッと追跡を開始したのに気がついた。光線のような殺気が彼の背中を射る。その距離と精度が次第に縮まって正確になるのを感じる。
  急な崖沿いの道の下、はるか下方に小さな湖が見えた。ただし、やはり相当飛ばないと崖の斜面に激突しそうだ…
  コンドルはまた両手を大きく広げて、ついに後ろは見ないままに崖から身を躍らせた。昼間とはうって変わって、冷たい夜の空気が体と触れ合う。片腕を少し傾けて旋回すると、くだんの豹が崖っぷちにたたずんでいるのが星あかりに照らし出されていた。不思議なことに、豹は獲物を逃した獣特有の悔しそうな表情をしていなかった。満腹で、遊びのために襲ったらしくも見えた。
  ささいなことだが珍しく腹が立った彼は、上に上がる気流を捕まえて豹を脅かそうとした。誰に教わったのでもなかったが、すでにこれくらいの術は会得していたのだ。するとなんということだろう、先ほどまで豹のいた位置には、人間の若いハンサムな男が驚愕の表情で立っていた。
  目と目が会った。若者の頬には、かなり身分の高い呪術師であることを表す独特の刺青がある。きっとそちら方面の才能に恵まれているのだろう…
  だとしたら、君子危うきに近寄らず、だ。
  若者のほうも同じことを考えたかして、動転した様子でジャングルの中に逃げた。
  コンドルは腕を身体に添えて、急降下した。バシャーンと水音を立てて湖に突っ込んだ時には、首筋を少し捻挫した。
  水から上がりながら、彼は今夜初めて見た相手に大いに興味を覚えていた。
『自分はほんの少しだけ鳥の真似事ができる。自分の他にも何かの獣の真似事ができる者がいるのだろうか?  だとしたら、是非とも友だちになりたいものだ。それとも自分が知らないだけで、母が言っていたように偉い呪術師や神官なんかはみんなそのようなことができるのだろうか?』
  興奮と興味に胸を弾ませて、そいつの立っていたあたりを調べて見ると、果たして、豹の足跡は突然人間の足跡に変わっていた。
『こうまで完璧に変身できるのか?』
  彼は僅かだが羨望を覚えながらも、油断なく足跡を追った。あたりにかすかにインカの高位高官の使う香の匂いがした。
  足跡のほうは、道へ出てからはわからなくなった。



                  3

  神殿都市からの帰り道に彼を追ってきた豹のことは大いに気になって、その晩はまんじりともせずに、よく眠れなかった。
  その夜がまだ明けやらぬ黎明時、コンドルは、彼の一族の家の真上を大きな鳥が激しく羽ばたく羽音を聞いた。
『鳥?  まさかこんな夜中に?  梟?  コンドルのように大きな梟などいてたまるか!」
  小さな弟や妹たちは、少し離れた傍らで
グッスリと眠りに落ちている。
  と、その鳥が「ピーッ!」という悲しげな声を残して、バサバサッと近くのジャングルに落ちる気配がした。
  飛び起きた彼は、、家から飛び出した。まだ真っ暗な外には、普段の夜とは違って、何とも言い知れない不吉な邪気が満ち満ちているのが呪術師でも戦士でもない彼にさえヒシヒシと感じられた…
  家の近所、村から少ししか離れていないというのに、焦りと胸騒ぎのせいか、走る速度がめっきりと落ちる。まるで泥の中を走っているかのようだ。
  黒くシルエットになった樹海の向こう、木の葉や枝が舞い落ちる…
  ようやくの思いでその真下に到着した彼は思わずハッとして立ち止まった。
  下草の中に、頭のところに小さなアクリャの黄金の冠をつけ、首からは小さな翡翠の小箱を細い金の鎖でぶら下げた、白く大きい上品な鳥が、傷ついて羽根をばたつかせている。
  コンドルはその小箱に見覚えがあった。他でもない、昨日の夕方自分がマチュピチュに配達したものだ。
「もう大丈夫。手当してあげるよ…」
  彼はその白い鳥をそっと抱いた。不思議なことに、白鳥はじっとしている。
  調べて見ると、左の羽根のつけ根に矢傷がある。かなりの深手で助かりそうもなかった。『どうしよう!  珍しい鳥だけれども…』
  どうしていいか分からなくなった彼は、白鳥の首から翡翠の小箱を取り外して、中身を改めた。
  それは薄い木の葉に包まれた黒い塵のような粉薬で、ありふれた薬や香料ではない、なにか大変な高貴薬らしいことは分かった。もちろんなんのための薬かは皆目見当がつかなかった。しかし無論試してみるような勇気もない。もしかすると、一粒舐めるだけで即死する猛毒かもしれない。その可能性も大いにあった。
 白鳥が閉じていたまぶたを開いた。黒い瞳は、なにごとかを懇願するかのように、じっと彼を目を見つめている。
『どうしたんだ? 何か言いたいのか? この薬を飲みたい、とか…』
 そう呟いたとき、気のせいか白鳥がこっくりと小さく頷いたように見えた。
  コンドルは小さく震える手で包みを解き、中の黒い塵のような粉薬を瀕死の白い鳥の嘴を開けさせて飲ませた。
  とたんに白い鳥は眩しい光に包まれてじっと見ていられなくなった。
「ウワーッ!」  あまりの突然のことに彼はびっくりして叫んだ。
  光の中で白い鳥はじょじょにその姿を変えていた。そしてようやく輝きが収まった時、そこには一人の美しい少女がうずくまっていた。コンドルはその顔に見覚えがあった。昨日の夕方、マチュピチュで彼に水をくれたアクリャのレテだった。
  駆け寄って抱き起こすと、レテは胸元を傷付いていないほうの右手で覆った。
  彼はレテの左肩に矢傷があり、ぽたぽたと血が流れ続けているのに気がついた。
『あの薬は、万能の、病気や傷に効く薬じゃなかったんだ!』
  しかし傷ついた白い鳥の正体が、太陽の巫子の見習いであることがわかって、ますます放っておけなくなった。
  彼は恐る恐る手を伸ばして、彼女を抱き起こそうとした。そして土にまみれた背中を見て驚いた。なんと、左右の肩胛骨のあたりに自分とおなじような突起がある。
『彼女は、ぼくの仲間?』
  胸の中を一度にさまざまな思いが去来しかけたが、いまはそんな場合ではない。
  彼は黄金の冠だけを身につけた裸の少女を胸に抱くと、あたりの気を配りながら、親友のティコの家に連れていった。
「朝っぱらからうるさいぞ!」
  案の定、寝ぼけまなこで出てきたティコの口は、たちまち開いたままふさがらなくなった。
「…ぼくには好きな女の子もいるんだ。将来は交易で身を立てようという夢もあるんだ。それをなんだ?  やめてくれ!」
  コンドルは構わずにずんずんと陽干し煉瓦でできた家の中に押し入った。そこには、各種のトウモロコシの種やジャガイモの種芋、商品の服や織物類はもとより、傷に巻く布や薬や魔法の道具やらいろいろ在庫があって、ちょっとした呪術師の家のようだった。
  レテの傷を清め、手当をして服を着せ終えた時、彼女はかすかに両目を開いた。
「薬を…  翡翠の小箱の中の薬を使いましたね?」
「ああ、使った」
「あと幾つ残っていますか?」
「六つのうち、最初から使ってあったのが三つ。ぼくがキミに使ったのが一つで、残りは二つだ。…あんまり口をきくなよ」
「その二つを大切に使って逃げて…」
  レテは途切れ途切れに言った。
「逃げるって、誰から?」
  ちょうどその時、ティコの家の前が大勢の人の気配でザワザワとざわめいたかと思うと、バーンと戸口を蹴破って、皇帝アタワルパの兵士たちがなだれ込んできた。
「掟を破って、皇帝陛下と帝国の所有物である太陽の処女を我が物にし、かくまった者がいると聞くッ!」
「あーっ、だから言わないこっちゃない!」
  ティコは顔をクシャクシャにしてその場に座って土下座した。
「そ、それとはちょっと違うようなんです」
「捜せッ!」
  隊長の号令一下、兵士たちは織物立てや壷を倒し、引っ掻き回し、槍を構えて奥の部屋に突撃した。
  コンドルは、翡翠の小箱にあった薬の包みをしばらくじっと見つめていたが、やがて、ゆっくりとその包みを解いた。
「ええい、隠れて出てこない者があれば、こやつの命はない!」
 隊長はティコの喉元に剣を押し当てた。
  それと同時に、灰色の羽根を大きく広げた一羽の巨大な鳥が、石造りと藁葺き屋根を突き破って、朝焼けの空に舞い上がった。
「な、なんだあれは!」
  兵士たちはよく目を見開いて確かめるまでもなく、その時起こった竜巻に巻き込まれ、部屋の中にあった品物ともども壁に打ち付けられ、あるいは宙空に舞い上げれれてから床に叩きつけられた。
「弓だッ!  弓で射ろッ!」
  隊長は砂塵にむせ、両目を腕で覆いながら命令した。
  果敢な兵士たちが半分目を閉じて引き絞る弓矢の先がコンドルに向けられる…
「隊長、あの鳥は太陽神の使いの鳥、コンドルです!」
「おまけに背中に何か乗せています!」
「人です!  少女です!  …あ、あの黄金の冠は我々の捜しているアクリャの…」
「何だと?  コンドルだと!  射ってはならん!  射ってはならんぞ!」
  隊長はようやくのことで自らの目でも確かめた。
「よく見えませんが、あの少女は間違いなくマチュピチュの神殿から姿を消した、見習いのレテだと…」
  昇りきった黄金色の若い太陽の中に、キラキラと光の粉を振りまいて消え去ろうとする雄々しいコンドルと、その背中に乗った少女を仰いで、隊長と兵士たちは地に平伏し、祈りを捧げた。
「これは大変な異変の前触れかもしれん!
皆の者、至急呪術師長のジャガー様に報告しろ!」
  兵士たちは蜂の巣をつついたようになった。『ジャガーだって?  負けたワスカル陣営の?』
  ティコはその隙にチャッカリと、腰を低くし、這いつくばるようにして逃げ出した。

                4

  背中にレテを乗せたコンドルは、羽ばたきを押さえ、上昇気流に乗り、悠然と滑空していた。
「すみません。わたくしのためにこのようなことになってしまって…」
  傷ついていないほうの手で翡翠の小箱をしっかりと抱いたレテは、はらはらと涙をこぼしながら謝った。
「それよりか訳を聞かせてくれ」
  コンドルは小首をかしげてレテのほうを振り向きながら尋ねた。
「ぼくはとうとう本物のコンドルになってしまった。…母が言っていたように、修行を積んで偉い呪術師になった訳でもないのにだ。それに、どうやったら元の人間の姿に戻ることができるんだろう?」
「わかりました、説明しましょう。でも、無関係なあなたを巻き込んでしまって本当に申し訳ないのですが、人間の姿に戻る前にやっていただきたいことがあるのです」
「やるって、一体なにを?」
「あなたの母上やご家族のような無辜の人々を侵略者から救うことです」
「そりゃ、やるよ!  それでなくてもアウカカマヨック…職業戦士…はみんなの憧れの的だものなぁ…」
「そう言って頂けて幸せです。…ではまず手始めに、どうか北へ、我々の大陸のくびれのある海へ向かって飛んで下さい!」
  コンドルは片方の風切り羽根をほんの少し傾けて旋回し、海岸線沿いに北上、彼女の願いの通りに西北の海に向かった。
  毎日通い慣れた峠の道を一瞬のうちに過ぎ、茶店や旅篭、村々の上を飛び、アッという間に海へと出た。彼が時々雇われて行く海辺の村々は、長年に渡る部族どうしの戦争と悪疫のために寂れていた。
「もっと遠くの海に出て下さい!」
  レテの言葉に促されて、コンドルはそれまで見たこともなかった遠海に出た。
  太陽は天高くにあって、雲は彼の傍らを綿菓子のように通り過ぎ、眼下の波しぶきの白い以外は青々とした大海原だった。
  と、丸い水平線の向こうにポツンと小さな影が見えた。島か、と思って寄って見ると、それは二人が見たこともない大きな船だった。
  潮風を一杯にはらんだ帆には、赤い先太りの十字が描かれている。舳をはじめ主な甲板には黒光する鋼でてきた筒のようなものがいくつも積んである。
  それに乗っている人々は、コンドルが生まれて初めて見る「白い人」だった。港町では噂のみ聞いたことがある。白い人々は、「馬」というリャマを大きくした顔と足の長い生き物に乗り、「鉄砲」という火を吹く弓矢を使う恐ろしい人種だ。かれらは何よりもまず黄金に興味があり、そのために黄金を豊かに産する土地を捜し求めて、世界じゅうを探検して回っているという…
  コンドルは港の人々と同様に、恐れよりも興味を持ってその船に近づいた。
  船の上でも、白い人々がかれらのことを見つけて、指で指し示したり、船室の中の人を呼びにやったりしている。
「これ以上はあまり近寄らないほうがいいでしょう!」
  レテは忠告した。
「どうして?  まだまだ弓矢の届く距離ではないよ」
  コンドルがそう言った時、ドギューンと大きな音がして、彼の羽根が二三本飛び散った。彼はあわてて反転上昇した。
「痛てッ…  なんだあれは?」
「あれが噂の鉄砲よ。弓矢なんかよりずっとずっと簡単に人を殺せるの。危ないところだったわ」
「あんな物騒な物を持って、あいつらは一体どこを目指しているんだ?」
「わたしたちの国よ」
  レテの言葉にコンドルは思わず失速しかけた。
「ぼくらの国?  なぜまた?」
「黄金が目当てなのよ。白い人の国では黄金が全てなの。黄金があれば品物はもとより、地位も名誉も、その他のものもみんな手に入るの…」
「そんな…  黄金は太陽神と皇帝陛下ご一家の栄光を称えるためのものだ!  普通の人が争い持っていいはずがない!」
  コンドルの声は怒りに震えた。
「奪いに来るわ…  ほらっ、もう海岸線まであと少し…」
  コンドルたちはいつの間にか旋回して、もときた方向へと戻っていた。
  港町トゥンベスではボートで到着した白い人の先遣隊にゴマをすっていた。
「あんなやつらにペコペコすることはないのに!」
「仕方がないわ。アタワルパ皇帝陛下も、陛下と敵対関係にありいまはクスコに捕らえられているワスカル首長も、白い人とその武器や道具ごと抱き込んで、自分たちの味方にしようと考えているんだもの…」
「するとキミは…」
  話が核心にさしかかった時、それまでカラリと晴れていた空が、一転にわかにかき曇ったかと思うと、その暗雲を引き裂いて稲妻が走り、雷鳴が轟いた。
「だ、大丈夫かい?」
  コンドルは自分の首にしがみ着いているレテに尋ねたが、折りから降り出した暴風雨に彼女は苦しそうだった。
「待っていて。いまどこかで雨宿りをするよ」
  彼が高度を下げかけたとき、一本の電撃が彼の身体を貫いた。
「わーッ!」
  コンドルは大切なレテを振り落とし、自らもキリモミをしながら、都クスコやマチュピチュからはおよそ一○○○キロも離れた小さな湖の一つに墜落した。



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