破滅の切札

 つい先ほどまでからりと晴れ上がった秋の青空が広がっていたと言うのに、突如として暗雲に染まり、稲妻が走り、雷鳴が轟いたかと思うと、一斉に激しい雨が落ちてきた。
 南フランス、イタリアとの国境に近いアヴロワーニュ領とカリオストロ領の境界線あたりで表具職人の仕事をしていた若者クロードは、
「ああまた、アヴロワーニュ廃城に巣食った魔導師の末裔が、何かろくでもない術を使ったな」
 と呟いて、貼り直しかけの巻本──教会の依頼で補修していた聖アウグスティヌスの「告白録」…何百組と作られた数巻組の羊皮紙模写本の中の一巻…を小脇によけて立ち上がり、建て付けの悪い木製のフランス窓を閉めに行った。
 すると、文目もわかない驟雨の彼方から、鈍い蹄の音が響いてきた。最初豆粒のように見えたのは、二頭の黒馬が牽く黒塗りの馬車だった。馬車は他でもない、彼の薪小屋を改装した五坪ほどの小さな店の前で止まった。落雷のせいで馬たちが竿立ちになっていななく。
 御者台から降りて来たのは、全身黒ずくめの衣装を着、黒いマントに黒いつばの広い帽子をかぶった、いかつい肩の中年の男だった。
「おまえが表具師のクロードか?」
 眼(まなこ)の奥で、豹のような金色の双眸を爛々と輝かせている男は、地獄から響いてくるような恐ろしい声で唸った。
「は、はい…」
「腕は確かか?」
「一応ストラスブールの親方の下で十年間修行して、こちらへ戻って参りました。親方は十年ほど昔、おいたわしくも断頭台の露と消えられたルイ十六世陛下のお声がかりでヴェルサイユ宮殿に招かれ、蔵書の修復に当たったこともあります…」
 クロードは小刻みに震える指先で、壁に掲げてあるギルドの許可証を示した。
「こんなところで商売をしていて儲かるのか?」
「いえ、この店の家賃さえ滞っている始末でして…」
「なぜパリとかリヨンとか言った街で開業しない?」
「両親が病気がちで、街の空気は… それにここ数年の革命騒ぎは、田舎者のぼくには恐ろしくて…」
 答えきらないうちに、男は目の前に金貨の一杯入った紋章のない皮袋をずしりと置いた。
「傷んだ紙の束の修復は得意か?」
「見てみないことには何とも…」
「ここには持ってきていない。城にある」
(すると、こいつはカリオストロ伯かアヴロワーニュ公の用人か?)
 クロードは閉め損ね、横殴りの雨が降り込んでいる窓の右端と左端に、靄にかすんで見える二つの城を代わる代わる眺めた。この辺りに城はこの二つしかない。
「これは前金だ。こちらの望む通りの仕事をしてくれたなら、同じ額を払う」
 彼は一瞬(これは夢ではないか!)と思った。
 これほどの金貨があれば、医者も気兼ねなく呼べるし高貴薬も買える。いや、それどころか小作人付きの田畑を買って、大地主として一生遊んで暮らせる。しかもこれはまだ半金と言う…
「──もちろん、これだけの金を払うからにはいくつかの条件がある」
「それはそうでしょうとも…」
「一つ、誰にも言わず、いますぐにわしと一緒に来ること。両親にも、友人恋人にも出かけることを述べてはならぬ」
(そんな… みんなが心配します…)
 喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
「二つ、仕事が完全に終わるまで、ここに戻ることはできない」
「一体どのくらいかかるような量ですか?」
「だから、それは貴様の腕次第だ。…三つ、戻ってきてからも、仕事の内容は絶対に他言無用だ。この三つを約束できたら、この金貨はいますぐおまえのものだ」
 聞くからにヤバそうな仕事だった。
(首尾良くやりおえても、その瞬間にバッサリやられて、前金の金貨も取り戻されるのでは)
 彼は真剣にそう考えた。
「疑うのは無理もない。──ではこうしよう。金貨の袋は、この町の去り際に、『支度金を貰って旅仕事に行く』と言う書き置きとともに、おまえの両親の家に投げ込んで行く、ただし、もちろん行き先を書いてはならぬ。それでどうだ?」
(やはり殺される…)
 クロードははっきりそうと確信した。
(仕事がうまく行かなかった時はもちろん、うまくやり終えても、秘密を守るために生かしては帰してはもらえない…)
 しかし口をついて出た言葉は、思いとは正反対のことだった。
「有難く存じます…」
 答えつつも彼はまだ金貨の袋の下のほうを見つめている。
「ははは、上のほうだけが本物で、下のほうは金メッキした鉛だと疑っておるな」
「いえ、滅相な…」
「おぬしの疑念はもっともだ。遠慮なくかき混ぜてから、噛んでみるがよかろう」
 彼はもちろん試してみた。

 おっとり刀でつぎはぎの当たった一張羅のウールの上着を羽織り、手になじんだ仕事道具の入った箱をひっつかんだ彼を乗せ、馬車は嵐の中を飛ぶように東の城──カリオストロ城を目指した。
 途中、男は手紙を添えた金貨の袋を彼の実家に投げ込むことを許してくれた。
 扉の向こう、暖炉のある部屋から聞こえてくる家族の声に、思わず何かを言いかけて、馬車の中に引きずり戻された。
 ぬかるみに車輪を取られて何度も今にも転落しそうになりながら、険しい崖に沿った道を駆け抜けた馬車は、半ば崩れかけた石のアーチをいくつもくぐった。峠から振り返ると、故郷の村や、ところどころにある小さな森や林が、霧に煙った箱庭のように見える。
 やがて、どんよりとした陽が西の荒地にとっぷりと沈む頃にはようやく雨も上がって、城としての原型を半分ほどしか留めていない廃城に到着した。
「ようこそ我が城へ。わしがこの城の城主のカリオストロ伯爵だ」
 男は御者台から飛び降りるなり、マントと帽子をかなぐり捨てた。
 篝火に浮かんだ鬢に白髪のまじる五十がらみ顔は、予想に違わず狡猾かつ残忍そうな表情。革命前夜のフランス宮廷で、怪しげな占いや催眠術を駆使して、一部の貴族や貴婦人たちをたらしこんだ大山師と呼ばれていた。
 借金や不倫、横領や空手形の乱発といったありとあらゆる不義理と不始末を繰り返した挙句、亡命同然にイタリアへ移った、と聴いていたのに…
 彼は早速──と言うか改めて、自分の愚かな決断に後悔した。
「あの… 城主のご帰還と言うのに、誰も出迎えませんね」
「当然だ。今回のことは、どんなに忠実な家臣でさえも、秘密のことなのだ」
 城のいくつかの窓からは明々と蝋燭の光が漏れていた。その明かりに照らし出されたいくつかある中庭の一つには、村と同じハシバミやニワトコの木が茂っている。
(これがもしアヴロワーニュ城だったら…)
 クロードは城の壁を覆い尽くしている蔦を見上げて多少ホッとした。
(…もっと不気味な光景だったかもしれない…)
「ぐずくずしていないで、こっちへ来い!」
 伯爵は鐘楼と時計台のある、一番高い塔へ上る階段へと彼を招いた。
 足が痺れて棒になるくらい螺旋階段を登って行くと、塔は途中で二股に分かれていた。 一つはもちろん、鐘楼兼時計台、もう一つはそれより僅かばかり低い部屋に通じる階段だ。
 この部屋──書斎は意外に広いのだが、出入り口は一つ、窓には鉄格子がはめられ、他の塔や屋根からは隔絶していて、中世には敵方の人質である王子や王女を閉じこめておくために建て増しされたものだ。例え鉄格子を外せたとしても、飛び移れそうな円蓋や屋根はなく、ま下は灰色の石畳…
「ここはわしの研究室だが、今夜から仕事が終わるその日まで、クロードとやら、おまえに貸し与えよう」
 自慢そうに言うだけあって、そこにはクロードが生まれて初めて見るようなものがいっぱいあった。
 飾り棚の上には、いろんな奇妙な形に削った磁石がお互いに引き合ったり反発したりして、さながら永久機関のように動き続けている。
「敬愛する錬金術師パラケラススの理論に基づく、頭痛・肩こり・腰痛、ヘルニアなどに効く磁界を作り出す装置だ」
 カリオストロは滔々と語った。おそらくここに招き入れられた者は、無学博識の別なく伯爵の蘊蓄を聞かされるのだろう。
「──パラケラススは、これらの磁界や薬品を駆使することにより、永遠に枯れない切り花を発明した。しかし、狭窄な常識に捕らわれた世間は、それを巧妙な造花と断じてだれ一人信じようとしなかった。まことに無念であったろう…
 わしは、これらを小型化したものをパリの貴顕淑女に勧めた。その結果が、この城と財産だ!」
 別の壁の棚には、瓶に詰められたいろんな薬草や、ホルマリン漬けの蛇や蜥蜴と言った気味の悪い生物がずらりと並んでいた。
「中国では、これらの草や生き物をやはり薬として使うのだ」
 また別の棚には、カイロの盗掘者から買い取ったらしい古代エジプトのファラオの墓から掘り出したと思われる、包帯に巻かれた子供の木乃伊や、着色された「死者の書」などが飾ってあった。
 クロードはストラスブールで親方の仕事を手伝っていた時に、同じようなものをちらりと見せてもらったことがあった。
「こんな大事なものばかりを置いてある部屋を使わせていただいていいのですか?」
 彼はプリニウスの「博物誌」やプラトゥスの喜劇の巻本が並ぶ、専用の書庫を眺めながら訊ねた。キケロやセネカ、ヴェルギリウスと言った有名な哲学者や作家の代表的な著作も揃っている。かなり古い版のプラトンの「歴史」やストラボンの「地理」もあった。
「この部屋の中にあるものなど──」
 カリオストロ伯爵は吐き捨てるように言った。
「──これから修復を依頼するものから比べたら、紙くずに等しい」
 伯は爪の伸びた右手を虚空に差し上げた。 すると、皮膚が黄ばんだ手のひらの上に、さながら手品師の如く小さなオルゴール箱ぐらいの水晶の小箱が握られていた。
 箱を深紅の天鵞絨のテーブル掛けの上にそっと置き、おごそかに蓋を開いた。
 煌々と輝くユダヤの七枝燭台の明かりの下、クロードが箱の中を覗き込むと、すっかり腐敗した、トランプくらいの大きさの紙の束が、茶色の腐汁をしたたらせながら、水晶のケースの中央に収まっていた。
「こ、これは…」
「きょう午後の無数の落雷を、おまえも見たことであろう。あの雷の一つが、我がカリオストロ城の、今は使われていない尖塔の一つに落ちたのだ。雷はすでに何百年前の戦火と祝融によりおおかた破損していた塔に、新たな破壊の槌を振り下ろした。
 名状しがたい胸騒ぎに襲われたわしは、ザイルとハーケンを駆使して、そこへよじ登ってみた。
 案の定、新たに崩れた壁の奥が秘密の物置となっていて、その中にこの朽ちたカードの束があったのだ! …残念ながら、カードは、ひびの入った天井や外壁からの風雨による浸水のせいで、塵に還る寸前であった」
「一体何なのですか?」
「だから、復元すれば分かるものだ!」
(これはちょっと無理です)
 と言いかけてクロードは黙った。
(報酬は先に貰ってしまっている。前金のうちのいくらかはすでに使われたかも知れない…)
「ま、修復に際して何のヒントもないというのも、少々酷かも知れぬ。
 我がカリオストロ城と言うのは、数代前においては、かの有名なテンプル騎士団の出城の一つであった。テンプル騎士団というのは、おまえも聞いたことがあるように、フランスから聖地エルサレム奪回のために出陣した騎士団のうちの一つで、のちに同じ基督教の一つで異端として滅ぼされたカタリ派と大いに関係があったとされる。…伝説によると、彼らはのうちの特に武勇と冒険心に優れた者が遠くアラビアのロバ・エル・カリエ…即ち『虚空』と呼ばれる遠い南の砂漠や、ベレド・エル・ジン…『悪魔の市』と称する魔物の街、あるいはカラ・シェハルなる『黒の都』、さらにはダーナと言う深紅の砂漠、またはトルコの無名都市にまで遠征し、そこで魑魅魍魎どもと言語に絶する戦いを繰り広げた後、
生存者は故国に凱旋したと伝えられている。
 その際の戦利品が、各人に分け与えられ、あちこちの城の宝物となった…
 ジョン・ディー師やマグナス伯爵などは、それらの遺宝の発見に精魂を傾けたが果たせなかった。いまでも騎士団の本拠地レンヌ城には、莫大な財宝が隠されていると信じておる者も少なくない」
「すると伯爵様は、きょう偶然の悪戯から発見されたこの腐ったカードの束が、テンプル騎士の持ち帰った魔物たちの宝の何かであろうと…」
 クロードは狐につままれたみたいな気分だった。
「最高級の脱脂綿も、いろんな大きさの新品の琺瑯の皿も、脱水紙も、そこの棚に入っている。払った金の分だけは、何とか試みてくれ」
「それはもちろん…」
「それからわしのような無骨で恐ろしげな者が度々進捗を見に訪れては、おそらく仕事に十分集中できぬであろう。よって…」
 カリオストロ伯爵は紫檀の仕事机の上にあった天使たちの浮き彫りのある黄金のベルを振った。
「クラリモンド、クラリモンド、おいで!」
 ただ一つの扉から現れたのは、セルリアンブルーの瞳に亜麻色の髪をなびかせた、十四、五歳の目も覚めるような美しい少女だった。
「わしの一人娘のクラリモンドだ」
 伯爵は微笑を浮かべながら、彼女の白いブラウスの肩に両手を置いた。
「おまえの仕事ぶりは、このクラリモンドが見届ける。食事や着替えも運ばせる。わしは召使いは余り信用しないたちなのでね」
(有難い…)
 彼に限らず、若い男なら、誰でもそう思っただろう。
 だが、クラリモンドには奇妙なところが多々あった。凛とした気品のある端正な顔立ちをしているものの、表情がほとんどと言っていいほど変わらないのだ。氷のようなものではないにしろ、仮面に近い。
「クロードと申します。お父上に依頼されて、これから朽ち果てる寸前のカードの修復に取りかかります」
「言い忘れたが、クラリモンドは耳と口が不自由だ」 カリオストロ伯爵が横合いから割って入った。「──読唇術によって、正面を向いて話せば、相手の言っていることはだいたい分かるものの、恥ずかしがり屋なので、滅多に返答はしない。…ま、秘密を守るためにはうってつけの監視役だ」
(何てひどいことを言う父親だ!) 彼は心底むっとした。(ひょっとしたら本当に血のつながった娘じゃあないのかも知れない。顔立ちだってまるで違うじゃないか! そうに違いない! いや、きっとそうだ!)
「さて、晩鐘が鳴って久しい。馬車に揺られて疲れているだろうし、きょうのところは夕食にして休まれるかね?」
「いえ、ぼくはこの城に物見遊山に参ったのではありません。もう一度あれを見せて下さい。一刻も早い処置が必要とされているのなら、まずそれをやります」
「おお、それは頼もしい限りだな」
 伯爵は前もって整理整頓してあった大振りの作業机に例のカードの束の入った水晶のケースを置き、自らカリオストロ家の紋章の入った椅子を引いて勧めた。
 彼がその椅子に腰を下ろすのを待っていたかの如く、クラリモンドはチェスの名人に試合を申し込んできた挑戦者よろしく、向かい合った席に座って、まっすぐに身じろぎもせずクロードを見つめた。
「さてさて、そういうことならわしはそろそろお暇しよう。さる枢機卿からの手紙に返事を書かなければいけないのでね。…クラリモンド、頼んだよ」
 石畳に響く伯爵の靴音が次第に遠ざかっていくのを待って、彼はまずクラリモンドに話しかけた。
「行っちゃったよ… あの、いきなりこんなことを訊いてなんだけれど、ひょっとしてきみは、あの伯爵にひどい目に遭わされているんじゃあないかい?
 それだったら言ってくれ。仕事を無事に終えて帰ったら、義勇軍の兵隊に頼んで必ず助け出しに来るよ。…ぼくはどうしてもきみがあんな恐ろしい男の娘だとは思えないんだ」
 ゆっくりと大きな声で発音した。彼女はじっとクロードの口元を見ていたものの、表情は変わらず、返事も返ってこなかった。
 彼は机の上の文箱からペンと便箋を取り出すと、次のように書いた。
『きみは、どこかの小さな国のお姫様で、あの邪悪極まりない伯爵に攫われて、無理矢理ここに閉じこめられているのでは?』
 椅子から立ち上がって手紙を彼女の正面に置き、返事が書けるようにペンを添えて渡しても、何の反応も示さない…
(これはきっと術に掛けられているんだ)
 クロードはますます確信した。(…カリオストロ伯爵お得意の催眠術に…)
 無性に腹が立ち、いらいらしたものの、さし当たってできることは目の前の仕事以外にはない。仕方なく、朽ち果てる間際のカードの束に目を戻した。
 改めてよく観察すると、どうも傷みかたがひどすぎる。一枚ずつ剥離させることさえ困難な様子だ。
 彼はとりあえず師匠が同じように傷んだ古文書にしていたように、先をつぶしたピンセットを使って一番上のカードをそっと剥がして、琺瑯の角皿の上に脱脂綿を敷いたものの上に載せようとした。
「頑張れ! 崩れないでくれ!」
 瀕死の病人を励ます医者みたいに、クロードはカードに声を掛けた。
 すると不思議なことにカードは、新品の金箔よりもきれいに、一番上だけが薄く、破れ残ることもなく剥離した。彼はすかさずそれを脱脂綿の上に乗せた。
「よし、いいぞ!」
 とりあえず最初がうまく成功したことで、クラリモンドの表情が変わるかと思えば、そういうことは全くない。相変わらず謝肉祭の「微笑の仮面」をまとったままだ…
 無事に救出したものの、札はすっかり傷んでいて、描かれてあったはずの図柄さえ判然としない。
「このカードは──」 二枚目の札を剥がしつつクロードは独り言を呟いた。「やはり何かを占うためのものなのだろうか?」
 すると不思議なことに、それまでジッと黙っていたクラリモンドが、突然鈴を振るような声で答えた。
「そうよ」
「クラリモンド、きみは喋れるのか?」
「いま語っているのは、この娘ではない。おまえの目の前のカードが、娘の口を介して語っているのだ」
 頭の芯から背中にかけて、ゾッとする悪寒が走った。
「まさか…」
 彼はようやくのこと、蚊の泣くような声で呟いた。
「まさかではない」
 クロードは椅子を蹴って立ち上がり、唯一の扉から外へ出ようとした。
「伯爵! カリオストロ伯爵!」
 しかし、扉には鍵がかかっている…
 クラリモンドが鍵を持っているかどうかは定かではない。
「まあ落ち着け、おまえの未来を教えてやる。おまえは見事にわたしの修復に成功する。
 そして伯爵に殺される。短筒で撃ち殺されるか、毒殺されるか、それともサーベルで一突きか、は、まだ定かではないがな」
「やはりそうか… やはり話が美味しすぎると思った…」
 クロードは髪の毛を掻きむしった。
「しかし絶望するのはまだ早い。未来は努力することでいくらでも変更可能なのだ」
「どうすれば助かって、無事に帰ることができるんだ?」
「それはおまえ自身で考えることだな。わたしは、それを実行した場合の答を教えるに過ぎない」
(しめた! ツイているぞ! このカードさえ味方であれば、仕事を成し遂げて帰れるはずだ)
 彼は張り切って、三枚目の札を上手に剥離させた。先に脱脂綿の上に載せた二枚は、ゆっくりと乾き始めていて、かすかに文字と絵柄が浮き上がり始めている。
 最初の一枚は、異端者と思われる者が、黒い目だし頭巾にすっぽりと顔を覆った首切り役人に首を斬り落とされた瞬間が描かれている。二枚目は首吊り、三枚目は「餓死」だ。
 どうやらこのカードは人のいろんな死に様ばかりを描いているようだ。
「よかったな、クラリモンド、このカードさえあればぼくらは助かる。カリオストロ伯爵からも、この城からも、オサラバだ…」
 振り返ってクラリモンドの顔を見たクロードは、思わず我と我が目を疑った。
 さきほど十四、五歳に見えた彼女が、十六、七歳に見える。胸はひとまわりふくよかに、腰は丸みを帯び、顔は可愛さが影を潜めて、美しい大人の女のそれになっていた。
「これは一体…」
「わたしは遙か遠い昔に失われた『黒の砂漠』の『悪魔の市』のカードだ。もちろん占い料はタダではない…」
「なるほど、占い料は寿命、という訳だな?
…それだったら、ぼくの寿命を奪えばいいだろう?」
「あいにく、男の寿命を奪う趣味は、わたしにはない」
「だったら、もう占っていらない。引っ込んでいていてくれ!」
「いいのか? 勝手に何かして、失敗したら、二人ともお陀仏なんだぞ。わたしが的確なアドヴァイスをすれば、頭のいいおまえのことだ。まず命は助かるだろうし、クラリモンドも無事助け出せる…その時彼女は老婆になっているかもしれないがね」
「放っておいてくれ! 今度勝手に余計な占いをしたら、わざと修復を失敗して、滅茶苦茶にしてしまうぞ!」
「いいや、あなたはそんなことをする人ではない。…あ、心配なく、この占いはサービスだ」
「そんな占い二度といらない」
「…………」
 クロードは作業に戻った。
(あの声は、、早く仕事を終わらせて帰りたい、というぼくの邪念が聞かせたものかも知れない。まだちょっと手をつけただけというのにもうこの様だ! とにかく貰った分だけの仕事はしなければ、こちらが詐欺師になるじゃあないか。
 まずこれをきちんと片づけてしまおう。帰るだの、逃げるだの、クラリモンドを救うだのは、それから後の話だ)
 彼は、やり終えるまでは、そんなことは二度と考えるまい、と固く心に誓った。
黙々とお互いにひっついたカードを引き離して、脱脂綿の上に整然と並べて行った。
 夢中になっているうちに、いい匂いがするのでふと顔を上げると、クラリモンドが別の食卓に夕餉を持ってきていた。
 ほかほかの湯気の立っている鴨の煮物、馬鈴薯にパン、葡萄酒も付いている。
 彼は手を休めて夕食にすることにした。
「『修復はうまく行っている』そう伯爵にお伝えしてくれ」
 夢から覚めたようなクラリモンドの、つぶらな瞳に向かってそう言った。
「…まだ確約はできないが、この感じでは一週間くらいで、目鼻がつくかもしれない」
「そんなに慌てて仕上げないほうがよいのでは?」
 また、あのカードだ。
「占いはいらない、と言ったはずだ」
「いちいち気にするな。おまえから依頼がないぶんの託宣は、すべて無料ということにしておこう…」
 夜半になってもクロードは作業を止めなかった。カリオストロ伯爵は尖塔の窓に一晩中明かりが灯っているのを見て、はなはだ満足だったことだろう。
 クラリモンドも眠ることなく、彼の繊細な指先が成す微妙な作業をジッと見詰め続けていた。
 城を取り囲む鬱蒼としたブナの森に一面白い朝霧が立ちこめる頃、彼は不覚にもピンセットを握りしめたまま眠りこけていた。
 目を覚ますと、昨日とは違う薄緑色のドレスに着替えたクラリモンドが、黒パンと、ジャムとミルクの朝食を運んできていた。
 カードは、まるで自分の意志でそうなったかのように、半分がたが、まるで近衛兵の閲兵式のように脱脂綿の上に整然と並んで、手で触れても大丈夫なほどに固まっていた。

(しまった!)
 クロードが目を覚ますと、やりかけの仕事がそのままで目の前にあった。
 飾り棚の髑髏たちがにやにやと笑っている。
「おはよう」
 クラリモンドに声をかけると、彼女も小さく頷いた。
 朝食もそこそこに、彼はまた猛然と修復作業に戻った。
「どうしてそんなに急ぐんだ? 逃げる手だては考えたのか?」
「そんな先のことは思案しちゃあいない。引き受けた仕事を片づける、それが一番だ」
「愚かな! 完成すれば確実に殺されるのだぞ。おまえには万が一にもあのカリオストロ伯爵に太刀打ちできる力はない。適当にサボって、そのへんにあるものを武器として使えないか、試してみればいいものを」
「嫌だ! ぼくの…引いては親方や同門の職人徒弟の評判を落としたくない!」
 落葉がガラス窓を叩く。
 カードは、真ん中くらいからばらばらに千切れていた。彼はその小さな紙片を一枚ずつ剥がして脱脂綿の上に並べて、ジグゾーパズルのように組み合わせていった。
 カードにはやはり薄く絵柄が浮き出ている。
「火あぶり」や「車裂き」、「串刺し」などの処刑の様子が描かれている。
 どうやらこのカードは、むかしの処刑法尽くしが描かれているようだ。
 ひょっとして、死刑囚に引かせて自分の死に様を選ばせたものなのかもしれない…
 昼休みになった。
 クラリモンドがサンドイッチと紅茶を持ってやってきた。
 クロードは彼女がこの部屋の出入りするための鍵を持っているのかどうか、知らなかった。仮に持っていたとしても、その鍵を無理矢理奪って逃げ出そうなどという気はさらさらなかった。
 全ての紙片を丁寧に分離し、乾かしてから並べ合わせ、貼り合わせていくのは大変に根気のいる仕事で、ああでもない、こうではないといろいろ試みているうちに、時間は瞬く間に流れ去っていった。
 その間、備え付けのベッドでまともに眠ったことなど一度もない。毎朝、気が付くと作業机の上に突っ伏していて、クラリモンドが肩から毛布を掛けてくれているのだった。
 食事も初日以外、主に何と何を食べたのか思い出せないような有様…
 カードの精もまた、彼の粉骨砕身の仕事ぶりに打たれたのか、その後はクラリモンドの心と体を乗っ取って語りかけてくることもなかった。
 木々が葉をすっかり落とす頃、「処刑法尽くし」を描いた合計七十八枚のカードは、修復され、図案も忠実に描き直されて、完全に作られた当時そのままの輝きを取り戻した。
「さあできたぞ、クラリモンド。伯爵をお呼びしてきてくれ」
 彼女に呼ばれて、カリオストロ伯爵が傲然とした態度で再びクロードの前に現れた。
「これが、そうか…」
 テーブルの上の深紅の天鵞絨の上に整然と並べられたカードを一目見て、伯爵の頬は大きく緩んだ。
 爪を伸ばした指先で何枚かを取り上げて、満足そうに頷く。
 この調子では、僅かな間にクラリモンドが急に大人びたことにも、まるで頓着などしていないようだ。
「でかした」
 伯爵は彼のほうは一瞥もせず、それらのカードを揃えてフロック・コートの内ポケットにしまい込むと、そのまま踵を返して塔の部屋から出ていこうとした。
「あの、お待ち下さい! 報酬の残り半分は?」
「カードの威力を確かめてからだ!」
 伯爵は振り返りもせず、鉄の扉を叩きつけるようにして閉めて出て行った。
(伯爵は、あのカードを一体何に使うつもりなのだろうか?
巴里へ行って、タンプル塔に捕らわれているマリー・アントワネット様や、あるいは革命派のジョルジュ・ダントンやロベスピエールにカードを見せて、未来を占ってやるつもりだろうか?)
 クロードは肩をすくめた。
(カード自身は、「手段、方法を提案してもらったら、その結果を占って答える」と言っていた。カリオストロは新しいフランス国王の座でも狙うつもりなのだろうか? それにしても、カードには占い料を払わなければならない。まあ伯爵は金持ちだから、若さや寿命を二三年売ってもいいと言う若い女を幾人か揃えているのかもしれない…)
 伯爵が、カードの力を試すために、すぐには自分やクラリモンドを殺さないだろうことは読み筋だった。
 パリか、ストラスブールか、シェルブールかどこかは知らないが、とにかくいろいろやってみた後で、特に問題がなければ伯爵はここに戻ってきて、彼とクラリモンドの口を封じることだろう…
 いいや、ひょっとすると己の野望の達成に熱中して、このままずっと半永久的に飼い殺しにされるかも知れない…
 あの魔法のカードにしても、使っている弾みで傷むこともあるに違いない。そうなるとまた修復する者もいるだろうし、秘密を知っている者は少なければ少ないほどいいはずだ。
 一仕事終えたクロードは、達成感と虚脱感に浸りつつ、初めてゆっくりと窓の外を眺めた。
 灰色の城壁、崩れ落ちて修理されないままに放っておかれている塔、落葉の舞う石畳を眺めているうちに、クロードはふと家族や友人のことを思いだした。
(みんな元気だろうか? あのお金は有意義に役立ててくれているだろうか? ぼくのことを心配してくれてはいないだろうか?)
 そんなことを考えているうちに、彼はここへ来て初めて「帰りたい」という気持ちに捕らわれた。
(そうだ。命じられた仕事はきちんと成し遂げたはずだ。いまなら、何を考えてもバチなど当たらないだろう…)
 クロードは仕事に打ち込んだ一心不乱さでもって、今度は、当初からの懸案だった自分自身のことと、クラリモンドのことを思案し始めた。
(仮に首尾良くここからこっそり抜け出せたとしても、魔法使いの伯爵は、いとも簡単にぼくを見つけだして、ひどい目に遭わせるだろう。…ひょっとしたら、家族や友人たちにも累が及ぶかもしれない。それはだめだ。
 かと言って、このままでは、口封じのためにいつ殺されるとも分からない。その気になれば、カードを保守する職人などいくらでも見つけられるのだから…)
 彼は、仕事中は大切なカードが散乱することを恐れて、決して一度も開けなかったフランス窓を開いてみた。
 爽やか、かつ涼しげな秋の風が頬を撫でる。
 下の中庭にはまったく人影はない。
 シーツを切り裂いてロープを作り、脱出することだって可能なようだ。
(この調子だと…)
 いつもクラリモンドが出入りしている鉄の扉の真鍮のノヴに手を掛けてみた。
 扉には鍵がかかってはいなかった。クロードは目の前に続いている黴臭い螺旋階段と、クラリモンドの瞳を代わる代わる眺めた。
「クラリモンド、少しくらい散歩したっていいだろう? 仕事に入ってから、一度も外に出ていないんだ。たとえ伯爵が戻ってきてやり直しを命じられるにせよ、それまでは久しぶりに暇なはずなのだから…」
 彼女は特に咎めない。
 いつものように、魂のないような寂しそうな瞳で彼のほうを見つめている。
 慎重に足下を確かめつつ、一歩づつ階段を下りた。
 そしてとうとう、来たときから十日か、二週間ぶりくらいに、地上の石畳を踏んだ。詳しい日付が分からなかったのは、伯爵があてがってくれていた書斎にカレンダーがなかったせいではなく、作業中の後半は意識が半ばも朦朧としていて、日時の経過などに頓着していなかったせいだった。
 クロードは改めて灰色の秋空にそびえ立つカリオストロ城の傾き、登り口である螺旋階段の地上に近い部分がほとんど剥離して、崩れかけている塔を見仰いだ。
 彼には仕事中、どうしても納得のいかないことがあった。
(残酷な処刑の方法を描いた七十八枚のカードたち… その中には、ギロチンによる処刑を描いたものはなかった。そりゃあ何百年も前のむかしのカードで、その頃にはギロチンはまだ発明されていなかった、と言えばそれまでだろうけれど…
 もしカリオストロ伯爵が都で要人たちの未来を占って、失った信頼を回復し、同時に金も儲けたいのならば、ギロチンを描いたカードが混じっていなければ説得力に欠ける。なにしろルイ十六世陛下も、多くの有力貴族たちも次々に断頭台の露と消えたのだ。
 新しく描き足してでも混ぜておくべきだろう。もっともそれは誰かほかのものが担当するのかもしれないものの、そうすると秘密を知る者が一人増えることになる。
 そんなことよりもさらに謎なのは…)
 彼は行き交う召使いたちの目を盗んで物置小屋に忍び込み、ロープや手鉤石工が岩を砕くために使うのみを何本か拝借した。
 使用人の中には彼のことを(どこのどいつだ?)といぶかしげな目で振り返る者もいたが、どこから見ても何かの雑用に呼ばれた職人に見えたので、敢えて問い正してくる者など一人もいなかった。
(眠いな… カードと向き合っているあいだはまるでほとんどまともに寝ていなかったからな。ほんの少しでも仮眠してからやるか?
──いいや、だめだ。何かの拍子に伯爵が今夜じゅうに戻ってこないとも限らない。陽が落ち次第、やるしかないだろう)
 遠くアヴロワーニュ廃城の背を橙色に染めて日が沈むと、彼は崩れた塔に最も近い足場に最初ののみを打ち込んだ。
 次に、ロープの先におもりと手鉤を縛って、塔のバルコニー(その塔にはバルコニーがあった)に向かって放り投げた。
 鍵は見事に引っかかり、軽業のできる者ならよじ登っていくことが可能な仕掛けが完成した。
 鳶職人用の道具入れを腰に巻く…
 ふと気が付くと、クラリモンドがすぐそばに来ていて、心配そうな瞳を彼のほうに向けていた。
「クラリモンド、頼むから召使いたちには黙っていてくれよ。ぼくはちゃんと前払いの分の仕事はやり遂げた。それはきみもじっと見ていてくれたはずだ。溜まっているはずの休暇を取って悪いという法はないだろう?」
 気のせいか、クラリモンドはかすかに頷いたように見えた。
 手鉤が引っかかっている塔のバルコニーの壁は、お世辞にも万全というものではなかったものの、彼は運を天に任せて身体にロープをしっかりと巻き付けてから杣人のように宙を飛んだ。
 何回か振り子みたいにぶらぶらとしたあと、彼は崩れかけた塔の真下にぶら下がっていた。
(カリオストロ伯爵も、ぼくと同じ方法でこの塔を登ったのだろうか? それともお得意の魔法を駆使して、たどり着いたのだろうか?)
 謎だ。
 ちらりと下を眺めると、クラリモンドが両手を合わせてこちらを見上げている。
 使用人で気付いた者はいない。カンテラは持参したものの、点灯できる状態ではない。
 あくまで月明かり、星明かりだけが頼りだ。
 傷んだ古文書の補修を行う繊細な掌に、荒いロープはこたえた。たちまちひりひりと傷んで血がにじみ出す…
 日頃から痩せぎすの身体が、日夜根をつめたせいでさらに軽くなっていたことはもっけの幸いだった。
 夜風が強まってきて、身体がぶらぶらと揺れる。
(早く登りきらないと…)
 身体をねじって上がろうとする… すると収っていた揺れがぶり返す。
(あの仕事を仕上げた勢いで頑張るんだ。あれは一週間か、十日かかったか知れないが、これを登り切るのは一分もかからないはず…)
 しゃにむに、強引によじ登った。
 そしてとうとう、手鉤のひっかかっている煉瓦に片手をかけた。
 だが、次の瞬間、その煉瓦はポロリと剥がれ落ちた。
(!)
 転落する直前、彼はもう片方の手で握っていたロープに、改めてしがみついた。
 バルコニーの煉瓦はどれもこれも剥がれそうだ。
(と、いうことは…)
 手鉤がかかっている煉瓦もぐらぐらと揺れている。
 慌てて持参した石工が使うのみを金槌で打ち込んだ。二三本ほど打ち終えてそれに足を掛けた瞬間、手鉤がかかっていた煉瓦が剥がれた。
(いかん!)
 間一髪、彼はそれまでの命綱だったロープを切断した。
 煉瓦は、ロープや錘ともどもま下へと落ち、カシーンと音をたてた。
「何だ! いまの物音は?」
「泥棒だ!」
 それに気付いてとうとう召使いたちも騒ぎ出した。
「伯爵さまを呼べ!」
「伯爵さまは外出中だ!」
(万事休す!)
 これまた盤石とは言い難いのみに必死でつかまっているクロードを幾条ものカンテラの光が照らす。
「矢か鉄砲を持ってこい!」
 地上や、クラリモンドのいる近くのバルコニーは大勢の使用人が押し掛けて、大騒ぎになってしまった。
 火縄を手にした使用人数人が、石畳の上に片膝をついた。
「よく狙えよ!」
 まさに引金が引かれようとした瞬間、閃光とともにドカーンという大音響が轟いた。
 地上で銃を構えていた召使いたちは、おもちゃの兵隊たちのように派手に吹っ飛んだ。
「キャーッ!」
 女中たちの黄色い悲鳴が響く…
「な、なんだ!」
 硝煙が風に吹き流され、一同が見上げた城の屋上の砲台には、あかあかと燃える松明を手にしたクラリモンドが、仮面のような表情で、大砲をこちらのほうに向けている。
 彼女が第二弾を込め、別のバルコニーから狙っていた連中に向けると、彼らは銃を投げ出して蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。
「クラリモンドお嬢様! いくらお嬢様でもかようなことをなさったら、伯爵様の逆鱗に触れますぞ」
(クラリモンド…)
 崩れかけた塔のてっぺん付近にのみ数本を足場にしてしがみついていたクロードは、踏ん切りがついた。
(クラリモンドが援護してくれなければ、銃撃で落としていた命だ。もはや、悔いはない!)
 そう思った彼は、手にした新たなのみを裂帛の気合いもろとも塔の煉瓦のさらに上部の隙間に突き刺した。
 漆喰自体が腐りかけていたのだろう、のみは金槌なしでも深々と突き刺さった。
 次も、その次も…
 彼はまるで手練れの泥棒の如く塔の壁面をよじ登り、とうとうバルコニーの内側へと潜り込んだ。
「くそっ、仕方がない! まずクラリモンドさまを取り押さえろ!」
 召使いたちが叫ぶ声が聞こえる…
 石造りの塔は、さほど強い風でもないのに、ぐらぐらと揺れていた。今度嵐が来たら、間違いなく崩壊するだろう…
 彼は素早く腰からぶら下げていた小さなカンテラを取り外し、火打石で火を付けた。
 秘密の塔の内部が、黄色い光にぼんやりと照らし出される…
 作りは、クロードがそれまでずっと仕事場に使わせて貰っていた部屋に似通っていた。
 おそらく中世においては、敵方の高貴な人質を幽閉しておくために使われたものであろう。
 円形の壁の一部は、二重になっていた。
 よく見ると、手足を鎖でつながれたままの骸骨が、壁に塗り込められていた。
 背恰好から言って、女子供のもの…
 ごく最近雷かなにかに撃たれたらしく、あちこちほぼ全体に渡って黒く焼けこげがあり、壁が壊された跡もまだ生々しい。
 そのさらに奥には、まだ窪みがある。
 何か大切なものを密かに隠しておくための「隠し壁龕」だ。
 窪みの中はカラッポだった。上からは雨漏りがあり、紙片がこびりついているところからすると、伯爵はここから問題のカードを見つけだしたらしい。
 対を成す角は、ずいぶん昔にすべての壁ごと崩れ落ちていて、夜の闇がポッカリと口を開けている…
(おかしいな。カードはまだ他にもあると思ったんだけれど、遠い昔に消滅してしまったのだろうか?」
 周囲を見渡してもそれらしき新たな隠し場所などは見つからなかった。また仮にあったとしても、簡単に発見されるようでは、伯爵に先を越されているのは明らかだった。
 天井の円蓋を見上げた。
 そこも半分崩れ去っていて、雨風にさらされている。よく見ると、燕か何かが巣を作っている。鳥は見あたらない…
(もしや…)
 彼は崩れて段々になった塔の部屋の壁をよじ登った。
 足が滑ると、またしても煉瓦の破片がパラパラと地上に落ちる。
 ほどなくして天井にたどり着くと、思いきり手を伸ばして、巣を取り外そうとしてみた。
 しかし、後ちょっとというところで届かない…
(ままよ)
 彼はそこから飛んだ。そしてとうとうその巣をつかみ取った。
 カンテラの明かりの下でほぐして見る。
 思った通りだった。
 鳥は、何枚かのカードを巣の材料に取り込んでいた。
 カードは、それこそ入念に修復してみないと、何のカードか分からなかった。
 と言うより、これ以上この場で触ることは台無しにしかねなかった。
 大切そうに巣を抱えて降りようとして、はたと立ち止まった。
(降りる手段がまったくない…)
 地上は銃を構えた伯爵の家来たち… 先ほど援護してくれたクラリモンドも、いまごろは取り押さえられているだろう。
(今度こそ、万事休す!)
 そう思った彼は、半ば無意識に鳥の巣をもみほぐして、カードの一枚らしきものを取りだしていた。
「よくもやってくれたな!」
 意地悪そうな声が響いた。
 気が付くと、カリオストロ伯爵がすぐ目の前に立っていた。背中には何か西洋凧に似た羽根を背負い、右肩には白い伝書鳩を乗せている。
「そのカードをよこせ!」
「嫌だと言ったら?」
 クロードは鳥の糞にまみれたカードをカンテラの炎にかざした。
「おい、よせ! それだけは…」
 立場が逆転した。
「その背中に背負ったものを取り外してぼくによこせ」
「…………」
 伯爵はしぶしぶ彼の言葉に従った。
 取り外しの順序、金具や帯の止め方をクロードは刮目して観察していた。
 彼はこのような一連の作業手順をほとんど一回見ただけで完璧に覚えられるような修行を積んでいた。
 羽根を受け取った彼は、伯爵がしていたようにそれを装着した。
「素人が付けただけで、簡単に飛べるものではないのだぞ!」
 伯爵が叫んだ。
「しかしぼくには、これしかここから立ち退く手段がない」
「あれだけ金を払ってやったのに、この恩知らずめ!」
「クラリモンドにかけた術を解いてやってくれ。術が解けたクラリモンドを連れて来てくれれば、このカードは返す」
 クロードは指を嘗めて風にかざし、風向きを読んだ。
「──ちゃんと修復してね」
「ふん!」
 伯爵はあざ嗤った。
「おまえは一丁も飛ぶことなく、この塔の真下に無様に墜落して、カードはそのまんまこのわしのものだ!」
「落ちるかどうか──」
 彼はハッとばかりに外の闇の中に身を踊らせた。
「──やってみないと分からないだろうが!」
 クロードはきりもみしながら真っ逆さまに落下した。
(やはりダメか…)
 覚悟を決めて目を閉じた時、下から一陣の風が巻き起こり、蝙蝠のように夜空を飛んでいた。

(家や、自分がかつていたことのある街に戻るのは危険だ)
 眼下に広がる闇に閉ざされた森や林を眺め下ろしつつ、クロードは考えた。
 もっとも、ときどき小さな村や町と思しき灯りが目に飛び込んでくるものの、自分がいまどこを飛んでいるのか、ここはどのあたりなのかサッパリ分からなかった。
 たとえ彼が背中に背負った翼を右左、上昇下降と自由に操れたとしても、故郷の村に帰り着くのは難しい情勢だった。
 幸い、月は煌々と照っており、星も多かった。
 満月を背にした城が見えてきた。
 カリオストロ城ではない。塔も、城壁も城門も、見る影もなく荒れ果てている。がしかし、あちこちに灯りが灯っていた。カンテラやランプ、篝火などだ。
 ぼうぼうにおい繁った草の合間、広場のようなところに集っている大勢の人影が蠢いていた。
 ほとんど全員彼のことに気が付き眺めていて、中には横の者に指さし教えている者もいる。
 荒涼とした城の姿には見覚えがあった。
 アヴロワーニュ城だ。
 幼い頃から「あそこの近くには決して近寄ってはいけない」と教えられていた場所。
 かつて異端者たちが立てこもって、法王庁から派遣された軍隊と長く悲惨な戦を交えたところ。
 いまでもときおり、魔女や魔導師たち、地獄の底から呼び出された悪魔や異形のものたちが集って、黒弥撒や奇怪な儀式を行っている、と噂が絶えない…
 クロードが目を凝らすと、人影たちの中には、明らかに人間ではないような者たちも大勢いた。ぶかぶかの寛衣や頭巾で隠してはいるものの、そこから角や鱗に覆われた鉤爪のある手足をはみ出させている連中が…
(あそこにだけは、降りちゃあだめだ!)
 塔から飛び降りた時以上に、心臓が早鐘を打ち、背筋に寒気が走った。
(あんなところに降りたら、それこそ命がいくらあっても足りない!)
 心とは裏腹に、翼はどんどんと降下を始めた。折悪しく風は吹き止んでしまった。
(だめだ! あそこだけは…)
 あれよあれよという間に連中の集っている真ん中に着地した。
 いかにも怪しげな連中が、一瞬さーっと潮が引くように彼から遠ざかる様子は、いささか滑稽でもあった。
「貴様、一体何者だ?」
 参加者のうち、人の言葉を喋れる者たちが口々に叫んだ。
(これは本当のことを言ったら、確実に八つ裂きにされる)
 そう直感したクロードは、顔をこわばらせつつもなるだけ不敵な笑みを浮かべて、大声で言った。
「ぼくは、カリオストロ伯爵様の使いだ!」
 嘘ではない。つい最近まで、伯爵に命じられた仕事をしていた。
「カリオストロ」の名を耳にして、ある者はほんの少しだけ後じさり、またある者は「フフン」と鼻先でせせら笑った。
「カリオストロだと? あんな小物のペテン師が一体何の用だ?」
「まあそう言うな。来たからには用事があるのだろう。そうだろう、小僧?」
「もちろんだとも! まず、貴方がたの親睦の集いの邪魔をしたことを、心よりお詫びする。
 伯爵の用というのは、皆への質問だ。
 じつは数日前、伯爵の居城カリオストロ城の塔の一つに落雷があって、壁に埋め込まれた壁龕から、一組のカードが見つかった。そのカードの一枚一枚には、絞首刑や斬首など、処刑の方法がいろいろと描かれている。
 伯爵は、有能な職人に命じて、傷んだカードを修復させた。カードの精が語るには、『自分は人の未来、特に死に様を予言することができる』と言う…」
「『破滅の切札』だ!」
「おお、間違いない! テンプル騎士団がアラビアの無名砂漠の奥地の魔王の宮殿から略奪していったという呪われたカードだ!」
「占うためには、若い女の生命を削って捧げねばならないらしいが…」
 魔物たちは互いの顔を見合わせて、口々に呟いた。
「で、小僧、その伝説の『破滅の切札』がどうしたというのだ? それくらいのことを知らない伯爵ではあるまい?」
「皆に訊きたいのはこれだ!」
 クロードは燕の巣の中に紛れ込んでいた最後の一枚をそっと取りだした。
 途端に化け物どもはさらに数歩たじろいだ。
「『切札』だ!」
「『切札の中の切札』だ!」
「小僧よ、貴様は一体これの何を訊きたいのだ?」
「まさか使い方を知らない、というのではあるまいな?」
 いったんたじろいだ連中が、じりっと押し戻してきた。
 こうなったらまさか「はいそうです」とは言えない…
「こいつのより強力な使い方だ! 十の力を二十、三十に発揮できる方法を伯爵は尋ねておいでだ」
 迫りかけていた異形どもが、またザザザッと後退した。
「…知っているんだ。伯爵は。切札の使い方を…」
「ちょっと待て、切札の使い方を知っている伯爵が、どうしてこんな片田舎にくすぶったままでいるんだ?」
「あれさえあったら人の世の天下など思いのままなのに…」
 ざわめきが渦巻く。
「最近手に入れたばかりだ、と言っているだろう?」
「おお、そういうことだったのだ!」
「恐ろしや!」
「助けてくれ!」
 魔導師や化け物たちは一斉に蜘蛛の子を散らす如く先を争って逃げ出した。
「これで人の世の天下は、あのペテン師詐欺師のカリオストロのものになるのか!」
「よりによってあんなつまらない男に…」
 魑魅魍魎どもの魔宴の真っ最中だったアヴロワーニュ城から、月や星の光を閉ざしていた黒雲や霧がかき消えて、城は何百年かぶりに元の荒れ城に戻った。
「やれやれ…」
 クロードは溜息をついて、枯れ草の上にヘナヘナと座り込んだ。
(何とかうまいことごまかせたようだが、危ないところだった。正直、この最後の一枚の使い方を、ぼくは知らない。が、魔物たちがあれだけ恐れ戦いていたところからすると、きっと強大な力を秘めたものなのだろう…
「人の世を支配できる」とまで言っていたな… もっともそれも正しい使い方を知っていたとして、の話だろうが…)
 彼は改めてしげしげと、そのカードに目をやった。薄汚れ、模様はほとんどと言っていいほど消えかけている。誰がどう見てもただの紙くずだ。これが本当にそれほどまでに価値のあるものなのだろうか?
 肉が焼ける匂いが漂ってきて、彼は昼から何も食べていなかったことを思い出した。
(世界征服できるかどうか知らないが、お腹が空いた。とてもいまから麓の村まで歩けないぞ)
 焚火の上では、牛のものでも、豚のものでも、羊や鶏のものでもない、奇妙な形をしたものの肉がくすぶっていた。
 まるで火葬場のような、戦場のような臭いの煙が立ち上っている。
 空腹感がたちまち萎えた。
(こんなものをとても口にすることはできない…)
 その近くには、酒らしきものもあった。何かメッキに使うような、鼻と目を刺す刺激臭がした。
(くそ。どれもこれも化け物どもの餌ばかりじゃないか! まともな人間の食べるものはないのか?)
 心の中でそう思った途端、不思議なことが起きた。
 汚れた酒や肉は、かすかな白い煙を上げたかと思うと、香ばしく焼き上がったばかりのローストビーフと、極上の赤葡萄酒に変ったのだ。
(これは幻覚じゃあないだろうな? サバトの食事を食べたら、その者も悪魔の眷属になる、と言われているしな…)
『心配ない』
 カードが彼の心に呼びかけてきた。
「な、なんだ、おまえは?」
 クロードは驚いて腰を抜かした。
『わたしは破滅の切札のジョーカーだ。カードの中で、唯一人の心と語れる』
「これはおまえの仕業か? 食べても大丈夫なのか? …その、地獄のものを喰うと、地獄の住人になってしまう、とか…」
『大丈夫だ。破滅の切札はすべて破滅を予言する。唯一の鬼札であるわたしには、ありとあらゆる苦難を呼び込む呪いがかかっている代わりに、その危機を間一髪のところで回避するステータスが備わっている』
「何だと? と言うことは、おまえを持っていると、ろくでもない災難が続々と襲ってくる、ということか?」
『そうだ』
 カードは、いとも簡単に言ってのけた。
「そんなろくでもないカードはいらない!
 いますぐ捨ててやる!」
『おまえは莫迦だな。生まれて初めて、背中に背負う凧に乗って飛んでも墜落しなかったのはだれのお陰だ? アヴロワーニュ城の物の怪どものど真ん中に着陸しても、襲われなかったのは、おまえがこのカードを持っていたせいだろうが?』
「しかし」
『しかしもくそもない。この城の回りには時間と空間を断ち切る結界が張り巡らされている。いったん降り立ったが最後、おまえがたとえ円卓の騎士の一人であっても、尋常な方法で出ることは不可能だろうさ』
「どうすれば…」
 クロードがあたりを見渡すと、なるほど堀に相当するところには黒い瘴気が渦巻いて、外界との接触を阻んでいる。
『決まったことさ! この城の主に開けて貰う』
「この城の主? ──アヴロワーニュ伯爵── とんでもない! 奴はカリオストロ伯爵のような小物のペテン師詐欺師じゃあないんだぞ!
 伝説の吸血鬼にして、錬金術師、カバラの奥義を究めた魔術師で…」
『だからどうしたというんだ? このわたし──切札がついているのだ。それにアヴローワーニュ伯爵と話をつけないことには、遅かれ早かれここでのたれ死にするぞ。先ほど引き下がって身を潜めた奴らが、気を取り直して戻ってくるのも時間の問題だ。雑魚どもに八つ裂きのなぶり殺しにされるのと、城主と一騎打ちで敗れるのと、どちらが恰好がいいかも考えてみるんだな』
 クロードは眼前に聳える朽ち落ちた城を見上げた。
「そうだな… あの偽錬金術師のカリオストロにやられていたことを思えば…」
 彼は「切札」が浄化した葡萄酒を飲み、肉をむさぼり喰った。
 カードが変化させた料理は、どれもこれもみんな、とてもこの世のものとは思えないほどの美味だった。
 すっかり満腹になった彼は、カリオストロも追ってこなければ、さっきまでこの広場にとぐろを巻いていた妖魔どもも戻ってこないのに気をよくした。
 カリオストロ城もところどころが壊れたままの城だったが、アヴロワーニュ城はそれに輪を掛けていた。
 屋根は、あるところのほうが珍しい。塔は、一つを残して後は全部崩れ去っている。
 部屋は蜘蛛の巣だらけ。人間のものやら怪かしのものやら分からない白骨が散らばっている床には、ドブ鼠が這い回っている。
 松明を一つ拝借したクロードは、たった一つだけ残っている塔の螺旋階段を登っていった。
 最上階の部屋の鉄の扉は開けっ放しだった。
 天蓋のある寝台や、分厚い埃をかぶった箪笥や書き物机とは別に、すり切れて腐りかけている絨毯の上に、やや小振りの棺桶があった。
 そっと近寄って恐る恐る覗き込んで見ると、中はカラッポだった。
「おい、アヴロワーニュ伯爵は留守のようだぞ。どうする?」
 問うてもカードは答えない。
 彼は仕方なくもう一度棺桶を観察した。
 ピンクの絹の内張、かすかな女物の香水の香りが漂っているところからすると、棺の主は女性のようだ…
 しかも、クロードはこの香水の香りに覚えがあった。
(まさか…)
 嫌な予感がして、箪笥の中や、机の抽斗を物色するのはやめた。
(いまは夜だ… 夜が明けたら──いや、伝説が本当ならば、夜が明ける前に伯爵は帰ってくるに違いない…)
 彼は漆喰の剥がれ落ちた壁にもたれて、しばらくのあいだうとうとと眠りに就いた。
 どれくらいの時がたっただろうか、ふと気が付くと開けっ放しの窓から、一羽の小さな蝙蝠が部屋の中に入り込んでいた。
 クロードはすかさずくしゃくしゃのカードをその蝙蝠に向かって広げた。
 すると、その途端に蝙蝠は、赤いドレスを羽織った二十歳前後の妖艶な女に変った。
「おやおや、『切札』なんか持ってしまって、あたしに何の用かしら?」
「アヴロワーニュ伯爵──夫人ですね? ぼくはクロードといいます。突然ご無礼して申し訳ありませんけど、ぼくを城の外に出して下さい!」
「いいわよ」
 伯爵夫人の声には、毒がこもっていた。
「──血を吸わせてくれたらね」
「嫌です、と申し上げたら?」
 彼の武器は、たった一枚の紙くず同然のカード。しかも、使い方がまだよく分からない…
「でも構わないけれど、あなた、その『切札』の正しい使い方をご存じなのかしら?」
 クロードは、伯爵夫人の顔をどこかで見たことがあった。
 セルリアン・ブルー色の瞳、亜麻色の髪…
(クラリモンド! まさか!)
 雰囲気はまったく違うが、カリオストロ城で危ないところを救ってくれた美少女と同じ面影がある。
「知っているさ」
「あらっ、じゃあどうして有無を言わさずあたしを倒して出ていかないの?」
「意味なく命を奪うのは、たとえ吸血鬼や妖魔の類のそれであっても夢見が悪い」
「あら、ずいぶんとお優しいことね」
 彼女はドレスを翻して彼のすぐ近くまで来た。
「そういう存在を退治するのを職業にしている者でもないし」
「そのカードは、とっても値打があるものよ。…失礼。ご存じなのよね」
「ああ、ぼくがカリオストロ伯爵に頼まれて、最初に修復した一連のカードは、占われる人間の死にざまを啓示するという、ロクでもないカードだった。このカードは本来その破滅カードに混ぜて使う、唯一の『生存カード』だそうじゃないか」
 クロードはいま一度、『切札』を広げ示した。
「──このカードを所持している限り、ぼくはどんなに危ない目に遭っても決して死ぬことはない」
 だが、「カリオストロ」の名を聞いた途端に、それまで穏やかに語っていた伯爵夫人の蝋細工のような顔に、みるみる朱が注がれた。
「カリオストロ! あの偽貴族が!」
「ぼくはそこから逃げてきたんですよ。クラリモンドに助けられて。──だから、今度はぼくが彼女を助けに戻りたいのです」
「本当に?」
 伯爵夫人は緑の瞳の中に暖炉の炎を写しつつ、その上に交差して掛けてあった鈍色のサーベルを手に取った。
「本当ですとも!」
「信じられないわ。うまいことを言って、あたしを妹の二の舞にしに来たのでしょう?」
「やはり、そうでしたか。クラリモンドは、本当の意味での人間じゃあなかったのですね?」
 
「──あなたも早く、剣を手にしたほうがいいんじゃないかしら?」
「その必要はない。ぼくにはカードがあるのだから…」
「正しい使用法を、完璧に習熟していて、の話じゃあないかしら?」
 言い終えるか終えないうちに、伯爵夫人はサーベルを振りかぶって、襲いかかってきた。
 間一髪、彼は最初の一撃をよけ、すぐ後ろにあったマイセンの花瓶が、サイドテーブルもろとも真っ二つに斬られた。花瓶は床に落ちて粉々に砕けた。
「──やはり、カードに守られているようね」
 伯爵夫人は向き直って、素早く二の太刀を構える。
「もしぼくをここから出してくれたら、この切札はあなたに差し上げてもいい!」
「いらない! あなた莫迦じゃないの?」
(「いらない」だって? どういうことだ? これは大変価値のあるものじゃあないのか?)
 彼女がジリジリッと間を詰めてくるのを見たクロードは、カードを振りかざして叫んだ。
「古きアラビアの『切札』よ、十字軍の勇士によって持ち帰られしカードよ! ぼくを助けてくれ! どんな手段でもいい。このままでは斬り殺されてしまうじゃないか!)
 一陣の突風が巻き起り、手にしたカードがはたはたと旗めいた。
 伯爵夫人の顔が再び蝋色に変った。
「何ということを…」
「いけないか?」
 彼もまた真っ蒼だったが、それからさらに一層血の気が引く事態になろうとは、知る由もない。
「その切札はね、普通目的を遂げるための方法を指定して念じるものなのよ」
「ふーん。そうなのか。有難う。次から必ずそうするよ」
「もし、指定がなければ、カードは己の持つ最大限の魔力を一気に放出する!」
「それは悪かったな。やり直すよ」
 言った時にはもう手遅れだった…
 城の壁がかすかに揺らめいたかと思うと、やがて阿片を飲んだみたいに足下の石の床も形を失って、ぐにゃぐにゃと形を失い始めた。 伯爵夫人もまた、立っているのに難渋しているところを見ると、幻などではないようだ。 そのうちに壁や、床や、天井から、無数の灰色の太い触手や、細い触手がぬるぬるとせり出してきた。
「なんだ、この城は?」
 相手は二本の鋭い牙を剥き出し獣じみた声で叫んだ。
「おまえは知らないのか? この城、アヴロワーニュ城は、大昔、南フランスに大きな岩の文化が栄えていた頃、偉大な魔導師が地獄の底から巨大な恐ろしい魔物を召喚し、そいつを城の姿に変えた、と伝えられているところなのだ。──すなわち、この城は生きている!
 生きている城なのだ!」
 彼の全身からドッと脂汗が吹き出た。
(醜きタイタンの末裔か何か知らないが、神話の英雄なき現在、そんなものが甦ったらどんなことになるか? ナポレオン将軍の砲術隊なら倒せるだろうか?)
 壁のあちこちからは、不時着した際に対面した獣やら、昆虫やら、人の形をした魑魅魍魎たちの姿が浮き上がっては消える…
 クロードは、日干し煉瓦にされた時に閉じ込められ、雨季とともに復活して住民に害を成したというアフリカの怪魚のことを思い出した。
 化け物たちもまた、救いを求めるかのように、鉤爪や水掻きの付いている鱗に覆われた手を差し伸べている。
 どうやらいにしえの偉大な魔導師は、この世のものならぬものを呼び出したとき、一体では足りずに、有象無象も十把ひとからげにしてこちらの世界に持ってきたようだ…
 そしてそれらはそのままアヴロワーニュに居付き、あるものは戒めを解き、あるものは解かれて…
「助けてくれ!」
 伯爵夫人は、しばし触手と戦い、何本かを斬りおとしていたものの、多勢に無勢でもうすっかり餌食にされてしまっていた。
「おい、もういい! ぼくをここから出してくれたらそれでいいんだ。元の城の姿に戻っておとなしくしていてくれ!」
 部屋という部屋は、忌まわしいぶよぶよの白い肉で満たされ、彼もまた、窒息しそうになった。
「貴様、同じ地獄よりもたらされた『生き残り』の切札に逆らうのか? 冥王ハディスがお怒りになるぞ!」
 わめく口もやがておぞましく膨張した細胞にふさがれて、気を失ってしまった。

 目が覚めると、夜はしらじらと明けかけていた。アヴロワーニュ城のあった場所は、何もなくなっていて、じめじめとした腐った土が露わになっており、古い沼が干上がったかのような臭気が立ちこめていた。クロードは剥がれ落ちたと思われる大きな鱗状の石畳の上に倒れていた。
 きょろきょろと見渡してみたものの、城はあとかたもなく消え去っている。…いや、立ち去った、と言ったほうが正しいだろうか…
 地面には、東──すなわちカリオストロ城の方角に向かって、何か恐ろしく巨大なものが移動したかのように、掘り返された剥き出しの地肌が晒されていた。
 ポケットをまさぐると、あの薄汚れたカードをまだちゃんと持っていた。
(これのお陰で助かったんだ!)
 そう思うと、感慨もひとしおだった。
 けれども、まだ気になることはある。カリオストロ城のクラリモンド、故郷の村…
 クロードは起きあがると、もよりの村を目指して、小走りに走った。
 もとより、アヴロワーニュ廃城は魔物の棲む城、集う城として大変恐れられているので、半日駆けなければ人家はない。その集落というのも、城を監視するために国王が置いたという砦の兵士の子孫、ということだったが…
 その村には、昼前にたどり着いた。
 案の定、頑丈な石造りだったと思われる家々はどれも粉々に破壊され、竈の煙が助けを求めるが如く、細く切れ切れにたなびいていた。
 何人かいたと思われる住民の姿はない。同じく潰された馬小屋の下に馬の死体がないところからすると、いち早く逃げ出したのだろうか…
 アヴロワーニュ城の化け物が付けたと思われる轍は、そこからさらにカリオストロ城の方向に向かって続いている。あの巨大さからすると、驚くべき移動速度と言わざるを得ない…
(これはとても歩いていては間に合わない!
 インチキ錬金術師のカリオストロ伯爵は、とてもあんな化け物と太刀打ちする力はないだろうし、下手をしたらフランスじゅうが滅びてしまうかもしれない…)
 クロードの憂慮はどんどんと膨らむ…
 そんな時、うまく逃げ出したらしい馬が帰ってきた。
 彼は素早く手綱を捕まえると、馬小屋の廃墟から鞍を引きずり出して乗せ、飛び乗った。
 アヴロワーニュ──カリオストロのあいだは、幸い村は少ない。むかしから「忌まれた地域」なのだ。
 馬は土煙を蹴立ててアヴロワーニュの荒野を駆けた。
 カリオストロ城に近づくにつれて、彼は異様な光景を目の当たりにすることになる。
 カリオストロ城のあった場所には、繭のような、昆虫の卵のような、ぶよぶよとした巨大な柔らかい物体が取り囲んでいる。
 言うまでもなく、アブロワーニュ城であったものだ。
 城下の人々は、家財道具一式を荷車に積んだり、子供の手を引いたりして、逃げまどうのに必死だった。
「カリオストロ伯爵め、あちこちで罰当たりなことを繰り返して、とうとう神様の罰が下ったんだ!」
「あいつと城の連中に天罰が下るのは一向に構わないが、こちらもえらいとばっちりだ!」
「革命義勇軍にも出動を頼んでおいたが、すぐに来てくれるかどうか…」
「おいあんた、そっちへ行ってどうする? 巻き込まれるぞ」
 人々とは反対に、見るも不気味な姿に変貌した城のほうに向かおうとしたクロードの手や肩を村の男たちが引き留めた。
「カリオストロ伯爵は悪人かもしれない。しかし城には、ぼくの命の恩人がいるんだ!」
「なるほどそうかい。しかし、あんた一人でどうなると言うんだ? たとえ軍隊が到着しても、どうなるものかどうか分からないんだぞ」
「しかし…」
「おおかたカリオストロ伯爵は悪魔をお得意のペテンにかけたんだ。今度こそは奴も年貢の納めどきだと思うよ」
「あの城には昔から伝わる抜け穴か何かがありませんか? 教えて下さったらこの馬を差し上げます!」
「これだけ言っても聞かないのなら仕方ない。
村の墓地の地下納骨堂から続いている洞窟がそれだと伝えられているが…」
 男が言い終わらないうちに、彼は馬を残して墓地のほうへと走り出した。

 松明を拝借し、納骨堂の奥へと進む。こころなしか洞窟の向う側──すなわち城のほうからは、何か生臭い、魚の腐ったような臭いの風が吹き流れてきた。
(間違いない。この道は城へと通じている…)
 彼は、いま一度カードを取りだしてみて祈った。
(これがある限り、ぼくは決して死にはしない!)
 分かれ道では勘だけを頼りに先へ先へと進んだ。
 その途中、何と、反対側──すなわち城のほうから逃げ出してくる一人の人影と出会った。
 ランタンを手にしたカリオストロ伯爵だ。
「クロード、きさま、よくも裏切ったな!」
 伯爵は素早く片手で拳銃を引き抜いた。
「──ここで会ったが百年目だ! さっさと『切札』を渡せ! そうすれば命だけは助けてやる!」
「嫌だ! 渡したら殺すんだろう? それに第一、クラリモンドはどうした? 城にいたおまえの家来たちもだ!」
「そんなもの知るか! 気が付いたら得体の知れないぶよぶよに城ごと覆い尽くされていたのだ」
 伯爵は引金に手を掛けた。
「ぼくが『切札』を持っていることを忘れるな! ここからおまえの凧で脱出してからも命の危険の連続だったが、そのたびにカードによって救われてきたんだ。
 その引金を引いてみろ、きっと暴発しておまえの腕のほうが吹き飛ぶぞ!」
 伯爵は、ビクッとした。
「──おまえはぼくが修復してやった破滅のカードをたくさん持っているだろう? そのカードを使って、都で占いをして一儲けしたらどうなんだ?」
「自分の死にざまを占って欲しい者など、誰もいない。ダントンも、ロベスピエールも、ナポレオンも、金を払って見て貰う、とは言わなかった! 彼らが大金を払ってでも知りたがっているのは生き延びる方法だ。その『切札』に対しては、フランスじゅうの金貨の半分でも支払うに違いない!」
 カリオストロ伯爵は、血走った目でクロードのほうを睨みつけつつ、じりじりとにじり寄った。
「だろうな… だったら、自分で自分の死にざまでも占ったらどうなんだ?」
「こんなものいるか! みんな貴様にくれてやる!」
 伯爵は手にしていた数十枚の破滅のカードをぶちまけた。そして、二度と振り返ることなく納骨堂の方向に逃げ去った。
「おやおやもったいない。せっかく由緒あるカードだというのに… 持っていれば、また何かの役に立つこともあるだろうに…」
 クロードは腰をかがめて、床に散らかったカードを一枚一枚拾い集めた。
 ぶよぶよの化け物は、いまにも一斉に襲いかかってきそうだったが、「切札」のせいか、なかなか手出しをしてこない。
 彼はさっと身をかわして奥のほう──城のま下へと進んだ。
 伯爵が踵を返して追いかけてくる様子はない。どうやら、城は、捨て去って逃げ出したくなるくらいの物の怪たちに占領されてしまっているらしい…
 洞窟を突き当たると、ちょうど城の地下牢へと出た。
「助けて下さい!」
「出して下さい!」
 娘たちの悲鳴が聞こえる。
 松明の火を向けると、ボロをまとった少女たちが、物置ほどの大きさの牢の隅で、互いに抱き合いながらわなわなと震えていた。
 彼女たちが指さす方向には、かつてアヴロワーニュ城を形成していた白濁した半固形状の物体がぬーっと突っ立って、いまにも襲いかかろうとしていた。
「おのれっ!」
 クロードは拷問用の鉄棒を手にして殴りかかったものの、不定形のそれは、いくら叩きのめしても多少へこむくらいですぐに復元し、
一向にこたえない。
(鍵だ。とりあえず鍵を開けて、この子たちを逃がさないと!)
 牢番の小部屋にも、そのへんにも鍵は見あたらなかった。
(牢番ばどこだ? 逃げたのか?)
 見回してようやく、その姿を見つけた。
 目の前のぶよぶよの怪物の腹──と言うことが出来れば、の話だが──の中にちらちらと見え隠れしているところどころ未消化の肉や内臓がくっついた骸骨が、どうやらそうらしい。
 その証拠に、腰のあたりの針金の輪に鍵束をぶら下げている。
(何と言うことだ…)
 彼は拷問用の棒を突きだして、何とか鍵束を奪取しようと試みた。
 が、どうしてもうまくいかない。
 そうこうしているうちに、相手は擬似口から黄色い消化液のようなものを吐きかけた。
 クロードが間一髪のところでそれをかわすと、液体はちょうど娘たちを閉じこめていた牢の鍵穴に命中し、白い泡を立てて腐り解け去った。
(ツイてる!)
 彼は素早く鉄格子を開け、少女たちを逃してやった。
(あとは、クラリモンドだ。クラリモンドさえ助ければ、こんなおぞましいところに用はない!)
 しかし、行く手には「奴ら」が膨張し、あふれていて、どうしようもない…
(この『切札』は…)
 彼は思った。
(持ち主の命は守ってくれるけれど、愛する人を助け出しに行くのには全く無力なのか… いいや、そんなはずはない。これほどの魔力を秘めたカードなのだ。きっと心より念じれば、道を開いてくれるのに違いない!)
 クロードは形なき化け物どもが回りをすっかり取り囲み、押し潰そうとしている中、一心不乱に正しい神と、カードに祈りを捧げた。
 すると、銅貨ほどの大きさの黒い小鬼のような生き物の顔がカードに浮かび上がって、アブロワーニュ城で話しかけてきたのと同じ陰鬱な口調で語りかけてきた。
「あんたも随分と無茶をするな、クロード?」
「とうとう現れたな、あんたがカードの精か?
 『初めまして』と言うべきなのかな?」
「いくらわたしでも、庇いきれない相手もいるのだぞ。…たとえば、旧き支配者と言われるものたちがそうだ」
「よく分からないが、回りを取り囲んでいるのがそうなのか?」
「まあな」
 小鬼はそっけなく答えた。
「──わたしもまた、奴らによって創られた存在だから、逆らえないし、逆らっても勝てないし、かわすことにも限界があるのだ」
「すると、さしもの『切札』も、その現在の持ち主であるぼくも、ここであえなくお陀仏なのか?」
「そんなことはない。黙って立ち去れば、奴らは追ってこない。切札を大切に持ち続けていれば、おまえはメトセラなみの天寿を全うすることができる。全財産と交換してもいいという大富豪も大勢いるだろう…」
「ぼくはクラリモンドを救い出したいんだ」
 彼は頑として言い張った。
「彼女はぼくを助けてくれた。今度はぼくが借りを返す番だ」
「彼女の姉──アヴロワーニュ伯爵夫人の正体を見ただろう? 彼女は吸血鬼だった。いまは城と合体している… 従って彼女の妹もまた吸血鬼か、それに類する異形の者だ。
──いいか、クロード、よく聞け。仮に正しき神のもたらす奇跡が起きて、彼女を助け出せたとしても、切札に近寄った途端、彼女の本来あるべき姿──塵に還る。分かるか?」
「なんだって?」
 駆け出しかけた足下がピタリと止った。
「そんな… 朽ち果てた城が、このような化け物に変じて、生き返ってるじゃないか?」
「では、クラリモンドも、その美しい姿を失って、二目と見られぬくらい醜いものに変じるかもしれんぞ」
「それでもいい。そうなったら、こんどはまた再び美しい姿を取り戻せるようなカードを探せばいいし、魔術も学べばいいんだ」
「愚かな! わたしを手にすることができたこと自体、何万、何億分の一の確率なのだぞ。太古に創られた真に威力のあるカードの大半は失われ、魔法の炎で焼かれてしまっている」
「だからそれでもいいと言っているだろう?
 それに第一、ぼくのせいで甦ったこのとんでもないものを何とかしなければならない…」
 クロードは一階へと通じる階段を走って登った。
 壁や天井は一面にもぞもぞと指の先ほどの長さの触手を蠕動させる軟体動物によって覆い尽くされている。
 一階の広間も部屋部屋も、毒茸のような毒々しい色で塗り分けられたそのものたちにすっかり占領されてしまっていた。
 そいつらはひたひたと波だって彼の足下にも押し迫ってくる。襲いかかられないのは、ひとえに『切札』を所持しているせいだ。
 ところどころに突き出たり転がっている人の骨は、この城に勤めていたカリオストロ伯爵の部下たちのなれの果てのようだ…
「城は埋め尽くされている。可能性が残されているとすれば、あの塔だ」
 クロードは、自分が不眠不休で『破滅』のカードの修復に携わった塔を目指した。
「まだ無事だとすれば、クラリモンドは塔の上にいる!」
 螺旋階段は、すでに奴らが押さえるところとなっていた。
『切札』を持つ彼が行くと、自動扉のように、それらは道を開けた。
 塔の上の部屋、カリオストロ伯爵の書斎の鉄の扉の前に立ったクロードは、扉をガンガンと叩いて叫んだ。
「クラリモンド、いるか? ぼくだ。カードの修復をやったクロードだ! きみを助けに戻ってきたんだ。中にいるのなら、開けてくれ」
 数瞬の間沈黙が続いた。
「クラリモンド、もしもきみが『切札』のカードに耐えられない現し身なのなら、ぼくはたったいま、この『切札』を破り捨てよう!」
「貴様は莫迦か? わたしを破いてどうして無事に逃げられるというのだ? たちまちやつらに吸収され、消化されて、一巻の終わりだぞ」
「そんなこと試してみなければ分かるものか!
 奴らはまだぼくがカードを所持していると勘違いしてくれるかも知れない」
 扉がギギッと細く開いて、クラリモンドの切なく怯えた顔の半分がチラリと見えた。
 手に燭台を持っていて、何かをかざして焼き捨てる身振りをした。
「ああ、クラリモンド、無事だったんだね。本当によかった! やはり『切札』は焼き捨てなければならないのか? …分かった。すぐにそうするよ」
 燭台を受け取った彼は、いままで本当に長い間たった一つしかない命を守ってくれていた『切札』を、橙色の炎の先端にかざした。
「後悔するぞ… どんな恐ろしいことになっても知らないぞ… 死ぬことすらままならず、永遠にこのおぞましい怪物の一部分として生き続けるかも知れないのだぞ」
「それでも、構わない…」
「歴史的に計り知れない価値はどうする? わたしは、人類がまだ毛むくじゃらの猿だった頃、星星の彼方より飛来した偉大なる種族によって創られ、今日まで生き延びてきたのたぞ」
「だったら、そろそろ永久の眠りに就く、というのもいいのではないか?」
「呆けたことを言うな! いったん失われたが最後、未来永劫二度と造り直すことも、新たに創ることもできないものなのだぞ」
「それがどうした?」
 焦げ臭い匂いがあたりに漂い始めた。
「貴様みたいな価値のない人間に、わたしのような偉大なカードを焼き捨てる権利などさらさらない!」
「黙れ!」
「永遠に生き延びたいとは思わないのか? 大金持ちになってみたいとは思わないのか? わたしを外へと持って出れば、クラリモンド以上の美女が百人、千人単位で貴様の前にひれ伏すのだぞ!」
 炎が、カードの全体に回った。
「後悔するぞ!」
「後悔はしない」
 きっぱりと言ったクロードだったが、次の瞬間、彼は我と我が目を疑った。
 炎の中で揺らめくカードが、なかなか灰にならないのだ。
 切札は、炎の中で楽しげに踊っていた。
 彼は指先に火傷を負って、思わずカードを手放した。
 カードは、炎の衣をまとって、楽しげに宙空を漂い続けた。
「ふふふ… ははは… どうやら大丈夫のようだな。何千年、何万年ものあいだ、オレを燃やそうなどと考えた者は誰一人いなかったので、思わず動揺してしまったが、どうやらまったくの杞憂だったようだな。わたしを焼き捨てるには、先ほど言ったように、偉大な魔導師が創った魔法の炎が必要なようだ…」
 クラリモンドは塔の部屋の中で、周囲を取り囲んでいる原形質の怪物よりも、カードのほうに震え上がった。
「クラリモンド、大丈夫だ… 大丈夫だからね!」
 クロードは彼女をかばって、カードとのあいだに立ちふさがった。
「愚かな! これでわたしはやっと持ち主の呪縛から解放された! わたしを燃やして消滅させようとした貴様は、もうわたしの支配者ではない! ──いや、もはやこの先この世のいかなる存在も、我が支配者にはなりえない!
 永遠の命を象徴する『切札』は、旧き支配者に匹敵する存在として、ついに自由を得たのだ!」
「クラリモンド、奴を解放してしまったのはほくの責任だろうか?」
 セルリアン・ブルーの瞳が小さく頷いた。
「ぼくに、奴を倒すことはできるだろうか?」
 再び小さな頷き。
「無理だな。すでにこのカリオストロ城と同化しているアヴロワーニュの女伯爵と化け物どもも、貴様たちの敵だ。両方を敵に回して一体何ができる? 真の威力を見せて、オレを手放そうとしたことを後悔させてやるぞ!」
 炎を振り払ったカードは、正視できないくらいにまぶしく輝いた。
 回りはぶよぶよの「旧き支配者の眷属」、おまけに『切札』は迫ってくる。
(もうだめか!)
 そう思って目をそらせたとき、クラリモンドはクロードが持っている「破滅のカード」を渡してくれるように頼む素振りをした。
「いいとも。どうせ終りだ。何でも好きなようにしてくれ」
 クラリモンドは受け取った破滅のカードを、さながらタロット占いでもするかの如く、素早くある形に並べた。
 陣を組んだカードは、『切札』よりも激しく光り輝いた。
 すると不思議なことに、光を浴びた原形質は炎天にさらされたクラゲの如く、水分を失ってパリパリに干からびた。城じゅうを覆っていたぶよぶよも同じ運命をたどった。
 オブラード状の残滓の中には、ときおり洞窟の中で見つける化石に似た太古の生き物が散見された。
 干からびた固まりは、風が吹くと剥離してカリオストロ領の空に飛び去り、やがて消滅した。
 残された芥の中から、アヴロワーニュの女伯爵が姿を現した。
「姉さん!」
 クラリモンドがはじめて声を発した。
「クラリモンド!」
 女伯爵は走り寄って妹を抱きしめた。
「莫迦な… 旧き支配者の眷属が、己の創った破滅のカードに消滅させられるとは…」
『切札』は周章狼狽した。
「『破滅のカード』は──」
 クラリモンドが凛とした声で言った。
「──わたしたち、闇の眷属の味方よ。なぜならこれらは、旧き支配者が統べるのを記念して、その時地にいたものたちが、人の姿で暮らしていた特別な旧支配者に贈ったものだから… そして、『命のカード』すなわち『切札』──貴方は、それと対を成すもの。人の姿で君臨していた旧き支配者の道具そのもの。つまり、わたしたちの宿敵!」
「ふふふ… 死が命に、闇が光に、絶望が希望に勝てるものか!
 おまえたちは本来死んでいるものだ。即ち、この世のものならぬものの力によって生かされている、と言ってもいいだろう。わたしは真理という名の切札だ。正しいものに味方し、尋常ならざるものを滅ぼす…」
 カードは伯爵夫人とクラリモンドに向き直った。
「ちょっと待てよ!」
 クロードは宙空に漂うカードに向かって、暖炉の日掻き棒を構えた。
「『人の姿をした旧き支配者』のどこが真理なのだ? そいつもまた、どこからともなくやってきて、現在はどこへ行ってしまったか分からない存在ではないのか? おまえはそいつの独断と偏見を代表しているだけではないのか? アヴロワーニュ城を山の如き怪物として甦らせたことの、一体どこが真理なのだ?」
「黙れ、しかと我が威力を見よ!」
 くるくると高速で回転し、分身した切札は、アッという間に伯爵夫人の全身に貼り付いた。
 途端に伯爵夫人の肉はボロボロに腐り、眼球はこぼれ落ち、全身の骨はバラバラに崩れ去った。
「姉さん!」
 クラリモンドが走り寄って抱きしめようとすると、塵が一陣の風に吹かれて舞い散った。
「確かにアヴロワーニュは、遠き昔には旧き支配者のかたがたの居城だった。けれども、いま残っているのは、厚かましくも主人顔をした、かつての下僕たちだけ、と言っても過言ではないだろう。
 世界にはまだそのような場所がいくつもある。ここをかたづけたら、わたしは世界中の似たような場所を掃除して回ることにしよう…」
「おまえはただのカードの分際で、仲間を消滅させて回って心が痛まないのか?」
「痛まないな。わたしは命だ。命が死を消し去って回るのは、よいことではないか?」
「おまえもまた、闇なる神が命を授けたのだろう? だったら、兄弟姉妹殺しなのではないか!」
 クラリモンドが破滅のカードの陣を組み直した。
「正しき神の命は、生きていることの苦しみから救い出すものであるはずよ!」
「そう、だから殺してやる!」
 カードがクラリモンドに襲いかかろうとした矢先、クロードの火掻き棒の一撃が、目くらましにたくさんに分身した切札の、真の一枚を捕らえた。
 パシーッ
 と鋭い音がして、カードは床に叩きつけられた。
「いまのうちだ、クラリモンド! 破滅のカードでこの命の切札の末路を占え!」
 少女は髪を振り乱して素早く破滅のカードを繰り替えた。
「莫迦な! 命の末路を占うことなど…」
 切札は逃げ出そうともがいたものの、尖った火掻き棒の先が串刺しにして離さない。
「占いが出たわ! 『命の切札』は…」
 クラリモンドが叫んだ。
「ここにあらざる世界より、尖った鉤爪を持つものがさらいに来る!」
「そんな…」
 切札が涙声になった。
「嫌だ! この世界が良い! たとえ何千年忘れ去られた存在になったとしても、この世界が…」
 最後まで言い終わらないうちに、目の前の空間が割れて、大きな鱗に覆われた鉤爪のある手がにゅっと現れた。
 クロードは震え上がった。それはまさしく、伝説の悪魔の腕だった。
 腕は切札をむんずとばかりにつかんだ。
「嫌だ! もう仲間を軽んじるのは慎む! 人間もだ! 化け物を甦らせていい気になったりはしない! だから…」
 鉤爪は空間の隙間に戻り、裂け目は閉じ合わさった。
 クラリモンドは、そのままだった…

 クロードは彼女とともに故郷の村に戻って結婚式を挙げた。
 子供も大勢産まれて、みんな幸せに暮らした。
 カリオストロ伯爵は、零落の末にイタリアで客死した。
 彼が占ったフランス革命の英雄たちの多くは非業な末路を辿った。

 そして…
「破滅のカード」は、ばらばらに分割され、世界じゅうの聖地や秘境と呼ばれるところに一枚ずつ隠された、と言う…



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