駱駝の図書館

      1

(ああ、早くあの駱駝が来ないかなあ…)
 陽炎に揺れる茫漠とした砂の海を眺めて、ハッサンは深く溜息をついた。
 ここはアラビア砂漠の中心。「大空白地帯」と呼ばれるところである。
 実際、ハッサンとその家族が暮らす、小さな井戸がひとつに、棗椰子の木が数本というオアシス以外、目に映るものは太陽と砂だけの世界だった。
 この芥子粒みたいな憩いの場所は、神が世界を創り給うた頃から存在し、一年に一度、いや、数年に一度通り掛かる旅人に備えて、冷たい水と乾いたパンを用意している。
 いまでは大きく立派な隊商道が帝国によって整備されたせいで、こんな辺鄙なところにやって来る者はほとんどいない。にも関わらず政府がこの地を放棄せず、就中駐屯する家族を置いているのは、その昔、砂漠がいくつもの部族に分かれて支配されていた名残りである。つまり「境界線」という訳だ。
 とある城砦町の衛兵だったハッサンの父は、仕事の上のふとした失敗で、この地に赴任を命じられた。今日は給料日なので、受け取りと二ヶ月分の食料、衣料、雑貨などを買い込むために、母と幼い弟や妹たちを連れて駱駝で一日半かかる町に戻っている。みんなは月に一度のこの日をとても楽しみにしていた。
 オアシスを留守にすることは規則によって許されていない。上の兄たちや姉たちがいた頃は順番に留守番をしたものだったが、みんなそれぞれ兵士に志願したり、嫁いだりしてからというものは、もっぱらハッサンとすぐ下の弟が交代でする役目になっていた。
 この二人にとって、町に行けるのは四ヶ月に一度なのだ。
「あなただって小さい頃は毎月出かけていたのだし、もうちょっと大きくなって働けるようになったら、好きなところで働けるようになるでしょう」
 母の言うことはもっともだったので、彼はいまは、早く大人になることをとても楽しみにしていた。
 身内や知り合いを除けば、何一つとして現れることはないであろう、いつもの灼熱の陽炎の向こう側から、何かがやって来ることをぼんやりと想像しながら粗末な日干し煉瓦でできた小さな家の軒先に出て佇みながらハッサンは考えた。
(そもそも、道に迷ってこんなところを通り掛かる旅人などいるのだろうか?
 敬愛する父が教主さまの命令を戴いてここへ来てからというもの、知らない人は誰もやって来なかったらしい。これからも多分未来永劫、来はしないだろう。それなのに途中交代はあっても誰かがずっとここにいる。居続ける。
 こんなことは本当に意味のあることなのだろうか?)
 彼が子供ながらにもこんなことを考えるようになったのは、ひとつのきっかけがあった。
 ここを定期的に訪れる、ほとんどただ一つの知り合い、「駱駝の図書館」である。
 その老人は、屈強な駱駝の両脇に、中に一杯本の入った袋や籠をくくりつけ、二月に一度くらいの割合で、舞い上がる砂塵の中をゆっくりと、ゆっくりとやってきた。
 本はありがたいアラーの神さまの教えを説いたものや、法律や生活の知恵を集めたようなものが多かったが、中には都で流行の詩や読み物もあった。さらには子供向けの勉強の本や物語の本もあったのだ。
 ターバンの下に古木の木の肌みたいに皺の寄った図書館の館長は、みんなの求めに応じて、全くの無料でそれらの本をいくらでも貸してくれた。
 聞けば教主さまが、慈悲深く慈愛遍く神アラーの教えを遥か辺境の土地の住民にも知らしめる為に、国費を裂いて創設なされたものとのことらしい。
 とにかくこの土地で、お金を一銭も払わずに名作から最新の知識まで得られることは大変に嬉しいことだった。
 お陰で一家は全員読み書きができ、兄たちは軍隊に入っても下士から始められた。
 中でもハッサンの秀才ぶりは、ときたま勤務評定のために訪れる父の上司たちが
「ぜひ金持ちの養子にして学校に通わせてやれ」
とか、
「回教の学者にすれば、立身出世間違いなし」
 と、太鼓判を押すほどだった。
 彼はこれらの人の前で、コーランの中でも最も難しいくだりを朗々と読み下し、宮廷の書記と見間違うばかりの達筆で模写してみせたのだ。
 これには流石に両親も心が動いて、最近では町に行く度に息子の将来をいろんな人に相談していた。
(家族と別れるのは悲しいけれど、こんなところにいつまでもいたのでは運は永久に開かれない。立派な軍人、僧侶、学者を目指すにしても、シンドバッドのような冒険商人になるにしても、いつかは旅立たなければならないことに変わりはない。それに試験に受かるなどして階梯を登れば登るほど、より多くの知識の門が開かれる…
 真面目に努力を重ねれば、バグダッドの図書館にある数万巻の書物の閲覧も意のままになるに違いない…)
 しかし、現在は、日差しに焼けた、ぼろぼろの煉瓦に凭れ掛かって、遠い異世界から何かがやって来るのを待っているだけの、貧乏人の子供に過ぎないのだった。
(あの駱駝の図書館、今日くらいに来ないかなあ。今日くれば、全部僕の読みたい本を借りることができるのに…)
 御恵み深きアラーの神は、砂漠の真っ只中、たった一人で留守番をしている子供を哀れに思ったのか、願いを聞き届け給うた。
 ハッサンの瞳に、陽炎が激しく揺れる中、
黒い人影を背中に乗せた豆粒ほどのものが次第に近づいて来るのが映った。
「おーい!」
 彼がいつもそうするように、大きく両手を振って駆け出そうとしたところ、不思議なことに、駱駝はもうすでに目の前に到着していた。
 それがいつもの駱駝ではないことはすぐに分かった。まず両耳の上に羊のそれに似た角がある。
 目はギラギラと赤く輝き、口からは野獣の牙がズラリとはみ出ている。
 降りてきた者もいつもの老人ではなかった。
 顔を漆黒のヴェールで覆った小柄な少女だった。
 同じなのは、駱駝もどきの怪獣の両脇にしっかりととくくりつけられた沢山の書物や巻物だけである。
「早く決めてね。次がつかえているの」
 少女の抑揚のない声に急かされて、ハッサンは紐を解いた。莚の上に並べられた本もまた、一見していつものものとは違っていた。まず第一に文字も言葉遣いも大層古いものだ。
 アラビア語はアラビア語に違いないけれど、
遠い昔にぺトラの地に石の都(セラ)を築いたナバテア人の人々が交易用に考案した文字がとうとうと並んでいる。これではいくら本好きのハッサンでも読むことはできず、題名すら覚束ない。
「あの、もっとやさしいのはありませんか?」
 言いかけて彼は咄嗟に口をつぐんだ。
(ひょっとしてこの子は、ある特別な人だけに凄く特殊な書物を届ける、伝説の魔法の国の駱駝の図書館の配達員じゃあないだろうか?
 だったら、ここに広げられた書籍の数々は相当な稀書であるはずだ。とりあえず何冊か借りておけば、何かいいことがあるかもしれない)
 そう考えた彼は、わざと難しい顔をして相手の少女の長い睫の双眸を見上げ、重々しく言った。
「どうもいつも同じような本ばかりだな。
特にお勧めのものはないのかい?」
 ハッサンの言葉に肩をすくめた少女は、肩から袈裟掛けに担いだ袋の中から、黴臭い巻物や写本を取り出して見せた。
「今回新たに手に入れたものの中では最も値打ちものの本よ。
『エデンの園を探して』、『眠れる生命を呼び覚ます法』、『ヨブの墓について』…」
「それではその三冊を借りよう」
「あなた、いくら何でも厚かまし過ぎてよ」
 三巻のうちの一巻を押し付けたかと思うと、
少女も駱駝も、莚の上に曝書されていた本もアッという間に消えうせた。
 狐につつままれた気分だったものの、両手の内に残ったまっ黄色の羊皮紙の巻物だけは幻なんかではなかった。
 家の中に戻ったハッサンは、父だけが使っている立派な書見台の上におずおずと巻物を広げた。
「眠る…命…起こす…」
 彼の年齢でこの書を読みこなすのは到底無理だった。都の一流の学者でもどうか、という代物だ。
(こんなところへ、こんな大事な本を貸しに来るなんて、絶対に手違いに決まっている。
 多分間違いに気付いたあの子は、すぐにでもこの本を取り返しに戻って来るに違いない)
 ハッサンは熱心に艶本を書き写していた兄たちを真似て、猛烈な勢いで「眠れる生命を呼び覚ます法」を複写し始めた。
 やがて、灼熱の太陽が西に傾き、月と星が空を覆っても、彼は手作業を止めなかった。
 ハッサンの家は貧しい。職業軍人となって聖戦に命を賭けたとしても給料は月に銀貨一枚あるかないか。
 片や都では珍しい書物が金貨数袋で取引されることもあると言う…
(この本がどれだけの値打ちのあるものか知る由もないが、一晩で金貨の報酬をくれる仕事など、刺客などを除いて、まずありはしない。だったら…)
 幼い彼は、いつあの子が現れないかとずっと戸口のほうを気にしながら、猛烈な勢いで愛用の竹の筆を動かし続けた。
 意味のほうは一割も理解できなかったものの、木乃伊みたいに一見死んだように見える太古の特定の生物を蘇らせる手順と方法が記してあることぐらいは読み取れた。
 彼は家にあるありったけの紙を集め、分からない綴りもできるだけ忠実に書き写し始めた。巻物はかなり分厚いものの、白紙の在庫は完全に模写して余りあった。心配なのは、全部写し終える前に、あの奇妙な駱駝を引いた不思議な少女が間違った相手に本を貸したことに気が付いて、取り返しに戻って来はしないか、といいうことだけだった。
 だから食事も摂らず、手の痺れも構わずに懸命に写し続けた。
 その甲斐あって日没までに一割。夜半までに三割、徹夜で頑張って六、七割、両親や弟妹たちが帰ってくるだろう明日の夜明け過ぎには、ほぼ全て模写し終えるであろうという段取りが付いた。問題はやはり、それまでにあの少女が戻ってくるかどうかに掛かっている…
 普通ならとうの昔に降参しているはずの睡魔との戦いは、まるで問題にならなかった。 なにしろ事は金貨なのだ。
(一枚、二枚、五枚、十枚、もしかしたらそれ以上… 何か楽そうな商売を始める元手くらいになれば、いや、なりそうだ。なるに違いない。きっとなる…)
 そんなふうに想いを描くと、手の痺れも目の痛みもまるで感じなかった。
 やがて、夜がしらじらと白み始めた。
 外の冷気とは反対に、頭も右手も火照ってどうしようもなくなった頃、ハッサンの手元には紙挟みで挟んだ全体の七割ほどの写しが出来ていた。
(あと少し、あと少し…)
 張り切りを増しているところへ、遠くのほうからザックザックと砂を蹴立ててやって来る一頭の駱駝の足音が聞こえてきた。
 家族のものではない。家族は三頭に分乗している。「あいつ」が引き返してきたのは間違いなかった。
 慌てて獣油の灯火を吹き消したりすればかえって怪しまれると思い、明かりはそのままに、元の本は卓の上にぞんざいに放り出し、写した紙の束は絨緞の下に隠して、自分は毛布を被って寝たふりをした。
「悪いけど、起きて」
 少女が低く囁くような声で切り出した。
「何でしょう?」
 彼は欠伸を噛み殺して起き上がった。
「その本は、別の予約をしている人に貸すものだったの。つまり、手違い。他の本と交換してくれない?」
「いいですよ」
 少女はゆっくりと、ハッサンが今しがたまで必死になって書き写していた謎の巻物を懐になおした。代わりに並べられた本は、どれもこれも人畜無害な、ありふれたものばかりだった。彼は適当に選んだ。
「じゃあまた…」
「もう二度と会うことはないわ」
 立ち去る間際、彼女は戸口のあたりで立ち止まって、ぐるりと部屋の中を見渡した。
「どうかした?」
 彼の心臓は本人の意思に反して早鐘を打っている。
(もしもあいつが魔法使いで、貴重な書物を写した事がバレたら、殺されても文句は言えない…)
「大変よね」
「君のほうこそ大変じゃあないか。広い砂漠を図書館駱駝で回らなければならないんだから」
「…………」
「水は汲んで行かなくていいの? 食べ物だって持って行ってもらっていいんだよ。僕たちの家族はここにいて、道に迷ったりした旅人の介抱をするように教主さまから言付かって…」
「いまは足りているわ。でも…」
 少女は言葉を継ぎ足しかけて止め、早足で出て行きかけた。
 ふと目を上げた瞬間、彼女はかすかに部屋の臭いを嗅いでいた。
「まだ何か?」
「いいえ」
 ハッサンはホッと溜息を付いた。
 戸口を出た瞬間、少女も駱駝もどきも幻の如く掻き消えた。
 結局全部書き写すことはできなかったものの、おおかたは写し終えた。珍しいもの好きの収集狂は、内容がちょっとくらい欠けていたとしても頓着はしないと思う。
 絨緞の下から努力の成果を取り出して、しげしげと眺めていると次第に笑みがこぼれてきた。
(これだ、これで僕の運を開くんだ)
 そうこうするうちに、無事に家族も帰ってきた。彼はその夜の出来事についてはじっと黙っていた。
 異様に減った紙は、すぐに町へ出かけて弁償しておくつもりだった。それくらいの貯金は彼にもあったのだ。
 翌日からハッサンは、以前にも増してコーランの勉強をした。勉強さえできれば、別に金持ちの養子などにならなくても、奨学金を貰って都バグダッドの学校に進める道が開かれていたからだ。
 旅立ちの日、ずっと大切に隠し持っていた例の写本を鞄の底に入れ、彼は十二年間暮らした故郷ーーもしもそれが故郷と呼べるものであるならばーーを後にした。
(あいつ、やはり三回目は現れなかったな)
 泣いて手を振る家族に、返し損ねた本を言付けて、彼はゆっくりと家を後にした。

「で、もし合格すれば、君は何を専攻するつもりなのかね?」
 幾度かに渡る筆記試験の成績表を繰りながら、みんながみんな揃いも揃って見事な顎鬚を蓄えた面接の教授たちのうち、ターバンに一際値打ちのありそうな宝玉を飾った学長がおごそかに尋ねた。
「はい。古代ナバテア語を」
 ハッサンがそう答えると、辺りにどよめきとざわめきが走った。
「いけませんか? この通り大学の講座一覧の中にも・・・」
「いけないことはない。だが」
 学長の口が淀む。
 面接官のうちの一人が、わざとどうでもいい書類を届けるふりをして、ハッサンにそっと耳打ちした。
「君は地方からの受験生だね? ナバテア語のシャリア教授は、バグダッド、いや、アラビア一の変人なのだ。とてもではないが、およそ教授からものを教えてもらおうと期待するなんて…」
 だが、彼にはつい三ヶ月ほど前に写した値打ち物の写本を読むという大目的がある。それに偉い学者であればあるほど、どこか常人とは違ったところがあるものだ。
「僕はコーランや聖書に出てくるセラ、即ち石の城を築いた大昔の人々のことに興味があるのです。そのためにはナバテア語は欠かせません」
 学長が咳払いをした。
「ハッサン君、だね? 筆記試験における君の成績は実に素晴らしい。特に物理と生物学と天文学は満点に近い。これが独学とは信じ難いが、神は時折、人間にとてつもない恩寵を下さる。その恩寵を人助けのために役立てよう、例えば医者になりたい、とかは思ったことはないかね?」
 彼は迷った。辺境で病や怪我に苦しむ人々は嫌というほど見てきている。
「専攻は合格してから決めるものだ。どうだろう、今日、この帰りにナバテア語の研究室を一度覗いて見る、というのは?」
 一座から感嘆の声が上がった。どうやらシャリア教授というのは教官仲間からもよほど嫌われているらしい。
 面接が済むと、耳打ちしてくれた助手がハッサンを大学の一番古い棟の、ところどころ煉瓦が崩れ落ちかけた端っこの建物に連れて行った。
「まあ、百聞は一見にしかず、というところだよ。それじゃあ私はここで失礼するからね」
 そう言い捨てて、助手はそそくさと去った。
「失礼します」
 彼は戸口で叫ぶと、汚くはないものの、蝶番の外れかかった扉を慎重に押した。
 注意していたのにも関わらず、とたんに扉は外れ、大きな音をたてて倒れた。
「す、すみません!」
 元に戻そうとした努力は無駄だった。
 研究室の内部は、外からは信じられない光景だった。
 床も、いくつかある机の上も、ピカピカに磨き上げられている。書物も石板も全てきちっと書棚や石板棚に整理されていて、埃一つ被っていない。ペンもインク壷も、まるで宮殿のそれのように輝いている。
 ハッサンは本能的に自分がいま歩いてきた足跡を振り返って見た。
 土足の跡は、まるで泥棒の足跡みたいにくさっきりと付いている。
「すみません・・・」
 研究室の奥、一点の曇りもないガラス窓のそばで、シャリア教授と思しき七十がらみの老人が桟に溜まった埃を拭いていた。
「シャリア先生ですね? 僕はハッサンという受験生です。合格の暁には先生の科目を取ってもいいでしょうか?」
 懸命に話し掛けても、老人はただ黙々と窓の拭き掃除をしていて、こちらのほうをちらりとすら振り返らない。
 深く刻まれた皺だらけの顔は異教徒の仮面さながら、ぴくりとも動かない。いくら呼びかけても振り返る素振りはまるでない。
 まるでこちらは透明な人間になってしまったかのような錯覚を抱かせる…
 教授がこちらに歩いて来たので、彼は本棚の脇に身をかわした。相手は相変わらず視線を全くこちらに合わせない。
 では目が不自由なのかというと、そんなことはまるでない。眼光はさながら砂漠の廃寺に巣食う魔人(ジン)の如く、紅色に炯炯と輝き、書架から抜き出した覚書を見つめていた。
「心ここにあらず」それが最も近い印象の表現だろう。
「シャリア先生!」
 思いきって大声で叫びつつ、目の前に立ち塞がってみても、まるで柳に風といった感じでひらりと身をかわされてしまう…
 その夜、寄宿舎に帰ってから、ハッサンは悩みに悩んだ。
(ナバテア語を専攻にすれば、事実上独学で学ばねばならないだろう…)
 一人でコツコツ勉強するのは好きだし、苦にならなかったものの、孤独の檻からやっと抜け出したばかりの少年にとって、学友が出来そうにない、というのが辛かった。
「おいハッサン、まさかおまえ、あの様子をみてもまだナバテア語をやりたい、だなんて思わないだろう?」
「どう考えても正気の沙汰じゃあない」
 寄宿舎の友達も口を揃えて言った。
「うちの大学は各学科から代表を選んで合同で探検隊を出すことで有名なんだ。別にナバテア語を取らなくても、成績優秀、体力頑健であれば、ペトラだろうが、ベリュトスだろうが、バールベクだろうが、パルミラだろうが、連れて行ってもらえるさ」
 なるほどそれは大いにその通りだ。医者を目指せば家族も、知り合いも大喜びしてくれるだろう。友人だって沢山できるに違いない。
 診察の手伝いをすれば、在学中から金も稼げる。卒業後も食いはぐれはない。探検隊にも寄せてもらえる確率が高い…
 あの本が読みこなせたとして、いくらで売れるものなのか? ひょっとすると銅貨一枚の値打ちすらないものかも知れない。そんなあやふやなものに賭けて、ほぼ確実に手に入るだろう富と名誉を放り出すなんて、それこそ正気ではないだろう。
(やはりあの巻物を写したということは一晩の夢だったんだ。大切な夢と思って頑張ってきたけれど、夢は夢のままそっと置いておくのが正しいのかもしれない…)
 決断をした彼は、しばし砂の都の夜の空気に当たろうと、棗椰子の木に登り、タイル張りの塀を乗り越えて外へ出た。
 ティグリスとユーフラテスから吹き降ろす涼風が頬を撫でる。バグダッドの街は一晩中灯火が瞬いて、寂しさにも孤独にもまるで縁のない様子だ。
 だけども、いまのハッサンは大空白地帯の駐屯所にいる時よりもずっと満たされてはいなかった。
(自分の最大の興味は、あの晩、必死の思いで書き写した巻物を完全に解読することだった。しかしもう諦めよう…)
 鬱々とした気分でさまよい歩いていると、通りの角に一軒の大きな隊商宿があった。
 向かって右手が回教徒の棟、左手が基督教徒の棟だ。厩舎にはかなりの数の駱駝や馬が繋がれている。窓からは羊を焼く匂いが漂い賑やかに談笑する声が聞こえてきた。
 旅の商人たちの話題と言えば、儲けた話、損をした話、山賊海賊に襲われた話、その他の災難や珍しい出来事に会った話と相場が決まっている。
「…信じて貰おうなんて露ほども思わないがな、砂漠のど真ん中でそりゃあ壮麗な宮殿を見たんだ。あれは絶対に幻なんかじゃあなかったな」
 やんややんや。
 気晴らしが欲しかったハッサンは、親から門出の祝いに貰った小遣いのうちのいくばくかを払って、料理と珈琲を注文し、輪に加わった。
「船が嵐で難破して、とある島に流れ着いたんだが、その島に住む種族の奇妙なこと…」
 いずれ劣らぬ珍奇な話題に耳を傾けているうちに、心も次第に晴れてきた。
「どうだい、そこのお若いのはまだそんなに旅をしちゃあいないだろうが、面白いのがあったら一つお願いしよう」
 彼は、もう自分で気持ちの整理をつけていたので、あの奇妙な駱駝に乗った、変な本を配達する係りの少女の話をした。
 多くの人に話せば、諦めもつく、と思ったからだ。
 ところが、話を進めるうちに、私語し合っていた者同士は互いに顔を見合わせてシンとなり、聞いてくれていた者の顔からさっと血の気が引くのが察せられた。
「あんた、そいつは誰かさんからまた聞きしたんじゃあなくて、正真正銘あんた自身の話かい?」
「ええ、都へ出てくる、ほんの数ヶ月前のことですよ」
 座のそこここでざわめきと、どよめきが起きた。
「念のためにもう一度聞く、お若いの、あんたは本当にそいつを見たんだね?」
「あなたもくどいですね。本当だと言ったら本当なんです!」
「ちょっと別の場所で話しましょう」
 年老いた旅の商人がハッサンを、庭の椰子の木の陰に引っ張って行った。
「いいですか。あんたは見ちゃあいけないものを見て、関わっちゃあいけないことに関わってしまったんです。今後、公衆の場ではもちろん、家族や恋人、親友と言えども話しちゃあなりませんよ」
 商人は声を潜めた。
「なぜですか?」
「あんたが出会ったのは悪魔(シャイターン)だからだ」
「そんなふうには見えなかったがなぁ…」
 ハッサンは椰子の木にもたれかかって呟いた。
「いまほんの少しだけ思い出してごらんなさい。奇妙なところが多々あったでしょう?」
「そう言えば…」
「早く忘れておしまいなさい。そうすれば、相手のほうもお若いののことを忘れてくれるかも知れません。慈悲深き神アラーの御名ににかけて、今後、もう二度と絶対に思い出さぬことです」
「すいません。もしも度々思い出して、忘れ去ることがなければ、一体どういう目に会うのでしょうか?」
「ひどい目に会った挙句、命まで奪われて、魂は永遠に浮かばれない地獄に落ちるでしょう」
「分かりました。ご忠告痛み入ります」
「お気を付けなされよ。一度好奇心を抱けば、上客を捕まえた商人よろしく、奴等は生贄の魂を掴んで放しませんから…」
 寄宿舎の部屋に帰ってから、ハッサンは一晩中、専攻の申し込み用紙を見つめて過ごした。
 同室の学友たちは皆、鼾をかき、毛布を放り出して眠りこけている。
 シャリア教授、学長たちや老商人の忠告、
家族や自分の幸せ…
 どれをとってみても、あの写本のことは忘れて、医者になる勉強をしたほうがよいことを示している。
 彼は家から持ってきた背嚢の底布をめくって、件の写しを取り出した。
(これさえなければ、迷うことなんかないんだ!)
 深夜の大学の寄宿舎の庭に出て、常夜松明の篝火の炎に焼べようと、ふと顔を上げた時、奇妙な光景を見てしまった。
 そう… 黒い顎鬚に背の高い大柄な横顔。一人は確かにシャリア教授だった。その横で、駱駝を引いた商人ふうの人影が、教授にいくつかの巻物の束を手渡している。もう一人、傍にいるのは、あれは確かに学長先生だ。
 ハッサンは思わず建物の影に隠れた。
 松明の明かりに揺れる、胴の両脇に沢山の書物とおぼしき荷物を付けた駱駝の頭には、確かに角のようなものがある…
 あれは確かに「駱駝の図書館」だが、貸し手はハッサンの会った少女ではなかった。
 学長に対しても頭を下げないシャリア教授が、駱駝もどきを引いている人影に対しては、平身低頭、一方ならぬ謝意を表している。
 やがて人影と駱駝は、寄宿舎の裏門から外へと出た。
 彼は走ってその後を追おうとしたが、門から出たところはまるで見通しのよい道であるにも関わらず、その姿はかき消えて、もうどこにもなかった。学長は何故か辺りを気にしながら宿舎に戻った。
(学長先生も禁断の駱駝の図書館を?)
 学長は、預言者マホメットが啓示を得る以前、聖遷の前後までアラビアに跳梁跋扈していた魑魅魍魎の封印の権威だった。
(ひょっとして、他よりも抜きん出た博識と研究は、あまり大っぴらには出来ないところからネタが出ているのでは?)
 …充分に考えられることだった。
 ハッサンは写本を燃やしてしまうのを止めた。
 部屋に戻った彼は、月明かりの下で、専攻希望学科の空欄を、達筆で
「ナバテア語」と書き入れた。

 数日後、ハッサンはあの「アラビア一の変人の教授」であるシャリア教授の研究室に、
再び立っていた。
 教授の邪魔さえしなければ、教授も彼の邪魔をしない。…と言うよりお互いがお互いを透明人間として付き合うという奇妙な学究生活が始まった。
 当然朝の挨拶も、夕方の帰りの言葉もなし。メッカへの祈りも適当に間隔を置いて別々。
 ハッサンには、教授が根っからの信仰を持っている人だとは到底思えなかった。礼拝の動作はまるで操り人形みたいにぎこちなかったし、お世辞にも心のこもったものではなかった。
 最初のうち、ハッサンのナバテア語の学習も順調に進んだ。教授は彼が研究室の棚の初級教本を独習することに何ら文句はつけなかったし、妨害もしなかった。
 現在のアラビア語の元になっただけあって、ナバテア語の文字や文法は、現在の国語にかなりよく似ている。隊商貿易の覚書として必要だったことから編み出されたものだけあって、他の少数民族の言葉や文字と違って普遍性があり、古語としては分かり易い部類に入る。
 勉強が少し、また少しと進む度に、ハッサンは寄宿に帰ってから、ひとけのない木陰で例の写本の翻訳を試みた。
 最初の長い休暇に入ろうかという頃、その冒頭の部分の抄訳がほぼ完成しつつあった。

      2

 …古代エジプト人はどうして木乃伊などにこだわったのだろう? 彼等は魂の不滅を信じていて、死の後、永劫の時を経て大切に保存しておいた肉体に帰ってくる、と確信していた。
 だがしかし、冷静に考えて見よ。
 内臓も血液もない肉体で、どうして食べ物を消化し、呼吸をするのか?
 筋肉の干からびた四肢で、どうやって動くのか?
 脳髄のない頭でいかにして考えることができると言うのか?
 およそ常識のある者ならば、一旦眼球を抉り出された眼は二度とものを見ることができないことぐらい簡単に理解できるはずだ。
 然るに、である…
 古代エジプト人は諸賢がよくよくご存知の通り、死後木乃伊になることに対して異様なまでに執念を燃やした。
 それは一体何故であろうか?
 私、ぺトラの魔導師アルデバランは、毛細血管の如く張り巡らされた交易路の四方八方より集散する図書や文献を渉猟し、ついにそのヒントになろう巻物を発掘した。
 それは古代エジプト第十八王朝の、王族出身の呪術師にして翰林院院長のアミン・カーの著作で、「眠れる大いなるものを呼び覚ます法」というものである。
 欠落、誤写だらけのぼろぼろのパピルスで、ほとんど要領は得ないものの、真理の探索の手立てとして、ないよりはましであろうこの本は、元来はアミン・カーの著作ではなく、太古の昔に存在したハイパーボリアの魔導師エイボンが著わした膨大な覚書のうちの抜書きのいい加減な訳本であるらしい。
 それによると…

 この世界には熊蟲という虫がいる。
 ムシとは言っても、六本足の昆虫ではなく、八本の短い脚でのそのそと歩く、緩歩動物という、脊椎のない生物である。
 体の大きさは罌粟粒よりは大きく、胡麻粒よりは小さい程度。拡大鏡で見なければそれとは分からない。主に石垣や歩道の石畳の隙間に生える苔に棲むが、「神の座」と呼ばれるアジア最高峰の山の頂上付近や、北の果ての極、南の果ての極、さらには深海底にすら生息している。
 この熊蟲には一般の生物には見られない極めて特殊な特徴がある。
 熊蟲は普通湿気を好むが、周囲が乾燥すると身体を樽のように縮めてあたかも死んでしまったかのような状態となって、何年も生き続けるのだ。その状態の熊蟲は水を与えると復活して再び動き出すことができる…
 熊蟲は自分の身体から水分を出すことで自らの意思で仮死状態になることができるのだ。いったん「眠り」の状況に入った熊蟲は体重は半分以下になり、空気がほとんどなくても生きて行ける。
 古代の翰林院の、親から子、孫、ひ孫へと引き継がれた研究で、これらの生物はこの状態で百二十年間生きたことが調べられている。
 沸騰水で六時間煮立てても死ぬことはなく、また或いは宇宙空間の無窮の寒さにも耐え得ることができるらしい…
 当然、完全真空の中でも生き続けることが出来、星星から降り注ぐ人の眼には見えない光線の影響も受けない…
 能力はそれだけではない。
 私、ハイパーボリアの魔導師エイボンは、魔法を使って熊蟲を六千尺の深海底に沈めた。二十分後、再び引き上げた熊蟲を眠りの状態から目覚めさせると、再び復活して活動をはじめた。
 私、エイボンは考察した。
 熊蟲は小さいとはいえ、かなり複雑な生物である。乾燥に使う石灰などにまぶして充分に乾燥させ、「生きながら眠れる状態」にしてやれば、無限の時間をも生き延びることができる存在が、少なからずあるのではないだろうか、と。
 それからと言うもの、故郷ハイパーボリアに生息する生物の中で、熊蟲の真似事をできるかもしれない、と考えられるものを、片端から実験してみた。
 無論、ほとんどは失敗であった。一旦身体の水分を失い、死に至った生命は、常識通り二度と蘇ることはない。
 だが、魔法の液体を組み合わせて使ったものの中には、いくつか見事に復活するものが
現れた。私はそれを使い、このハイパーボリアの生物を数万年彼方の未来に送り届けることにした。
 これらの生き物は、我々魔導師でなければ、たとえ最強の軍隊と言えども御し切れない、やっかいな忌むべき存在である。
 この書物を読んだ後世の人々よ。もしもそなたたちがハイパーボリアの人間と同じ位の文明を誇っており、さらなる発展と飛躍を切に望む存在であるのならば、我が封印せし生命たちを順次復活させてみるがよかろう…
 彼等は、そなたたちの敵対する勢力を虫けらの如く蹂躙し、その都を紅蓮の炎で焼き尽くし、一瞬のうちに灰燼に帰すであろう…
 また、その力を借用して、宇宙や、深海底や、溶岩の煮えたぎる火口の底を訪れることも出来るであろう。そしてそこで捕獲した新たな生命体に同じ術を施して持ち帰れば、更に更に力を得ることも可能である。この術を自由自在に操れれば、文字通り病も老いも、死すら超越するであろう。残念ながら私、エイボンは、完全なる完成を見ないうちに千五百歳で命終ろうとしているが、後進による完整の暁には真の神に近づく道となるであろう。

      3

 訳が少しづつ進むに連れて、ハッサンの胸は高鳴った。
(見ろ! やはりこの写本は研究すべき価値のあるものだったのだ。
 もしも、このエイボンと言う超古代の大学者が大法螺吹きでなければ、彼が「後世の人々に発掘してもらうべき生物」を見付け出し、
見事に正しい方法で蘇らせることが出来れば、
ビザンティンの基督教徒を殲滅することも、いや、世界を征服することすら容易に思えた。 この本の存在を教主猊下に訴え出れば、たちまちにして高位高禄に取り立てて貰えるだろう。将軍や元帥と言えども、敬意を払ってくれるであろう。
 なにしろ、敵の軍隊も都も「一瞬のうちに灰燼に帰」させてしまうのだ…
 もっとも問題はある。
 まず第一にエイボンがそれらの生物をどの辺に隠したのか分からないことには、どうしようもない。
 写本の最初の翻訳者であるエジプト十八王朝のアミン・カーもまずそのことを嘆いていた。 確かに地名らしきものは列挙してあるのだが、現在のどこにあたるのかは当然のことながらさっぱりであった。
 次に、場所を確定できたとしても、地殻の変動などでとてつもなく深い場所に埋もれてしまっていては、これまた手のつけようがない。
 さらに、首尾良く埋まっているところを発見できたとしても、うまく蘇らせることができるかどうかの保証がない…
 エイボンは蘇生に使用する薬草薬品の数々を列挙しているが、これまたハイパーボリアの名前である。それと同じものが現在でも揃うのか? 揃ったとして同じ効能を発揮してくれるのか?
 これらの数々の理由で、アミン・カーは研究の継続を断念した。
 同じ壁がハッサンの前にも立ちはだかった。
 謎の部分を完全に解明するのは不可能に近いし、これらの秘密を全て解いてからでなければ、誰一人として一笑に付す御伽噺に過ぎなかった。

(シャリア教授から何一つ習わずに、ここまで写本の内容を読むことは出来たが…)
 ハッサンは満足と言えば満足、不満足と言えば不満足の心地だった。
 ここまできた以上、「エイボンの無敵の怪物」の居所を突き止めて、条件を乗り越えて是非とも目覚めさせたかった。
 ためには、まだ色々と解明に通じる手引きが必要だった。持っていそうな者と言えば、彼と同じ、いや、彼以上に駱駝の図書館を利用しているらしいシャリア教授ただ一人。
 しかし「知っていたら何卒教えて下さい」と頼んで「はいはい」と答えてくれる人間ではない。
(こうなったら、教授を担当している「駱駝の図書館」の館員を捕まえるのみ、だ!)
 その夜からハッサンは窓辺で徹夜の張り込みを開始した。特に教授の部屋の窓辺に明かりが点っているうちは、自分も絶対に眠らず、他の学科の勉強を続けた。
 お陰で成績はうなぎ昇りに上がって、同期では常に刮目される存在になってしまった。「おいハッサン、凄いじゃないか。シャリア教授はただの一回も講義してくれたことなんかないんだろう? それでいてこの成績、一体どんなふうにやったんだ?」
「教え方の下手な先生の授業は、皆勤などにこだわらずに、休んでこつこつと自習したほうが能率が上がるんじゃあないか?」
 奨学金通学生の間からはそんな言葉も囁かれるようになった。
 思えば無茶な計画だったが、若い上に才能にも恵まれていたからできたのだろう。
 チャンスはおよそ二ヶ月後にやってきた。 
 それは乾いた風が細かい砂の粉を絶え間なく巻き上げていた夜のことだった。
 いつもは鮮明に見える月も星も、ぼんやりと霞んで、バグダッドの都は昼間の陽炎の中にある時以上にゆらゆらと揺らめいている。 夜は深く、勉強家揃いで鳴り響く寄宿舎の窓の灯火も、残すところハッサンの机と、シャリア教授の窓辺だけになっていた。
 と、教授の部屋の明かりもふいとばかりに掻き消えた。
 ざっくざっく…
 塀の外から、かすかに駱駝と人の足音が聞こえてきた。
(ついに来た!)
 ハッサンはかねて用意の短い偃月刀を懐に呑み、頭巾で顔を隠して外へと飛んで出た。 駱駝を引いた貸し本の商人は、棗椰子の木陰でシャリア教授と二言三言話をしてから新旧の本を交換して、ゆっくりと外へと出た。
 今回もやや大柄な、ハッサンがオアシスで出会った少女とは全く別の人物だ。
 彼は充分に間隔を取って、駱駝の図書館を追いかけた。
 大学の外れ、人家からもはずれた区画に差し掛かった時、彼は自ら写した例の写本のさらなる写し(暇な時に作っておいたのだ)を取り出して、後ろから声を掛けた。
「すみません。落し物のようですよ!」
 予想した通り、影はビクッと震え、慌てて立ち止まった。
 影もまた、ハッサンと同じく頭巾で顔を隠していた。
「かたじけない…」
 頭巾のせいでかなりくぐもってはいるが、男の声だった。男はハッサンが差し出した写しの写しを受け取ってチラリと見た。
「誠にかたじけない」
 男はもう一度繰り返し、写本を駱駝の右脇の鞄に入れた。
「今しがた来られた方向に、あと数冊落ちていたような気がします」
「そうですが。それはますますもって有難うございます」
 男は驚くほどの俊敏さで駱駝の踵を返すと、来た方向に引き返し始めた。
「ほらあそこ! あそこですよ!」
 ハッサンが指差す砂の上には、行きがけに彼自身が撒き散らしておいた何の変哲もない古本のページが夜風にはたはたとはためいている。
「…あれもあなたのものではありませんか?」
 男は本が散らばっているところに小走りに走った。黄色い砂の上に膝をつき、必死で本を拾い集めている。
 その隙にハッサンは、駱駝の胴の両脇にくくりつけた大きな鞄の中から、大急ぎで数冊の本を抜き取って、題名を月明かりで読んだ。
 できれば、シャリア教授が返却したばかりの本を借りたかった。
 遠目には、男は教授が返した本を駱駝もどきの尻の左側に結わえ付けた鞄に入れていた。
 だからその辺りを探してみた。
 するとどうだろう!
 確かに「エイボンの封印せしものの考察」という写本が現れた。著者はウマイア朝ダマスカスの魔導師アブドゥル… 後は擦り切れて読めない。
 彼はすかさずその本を懐に隠した。
(この本は、シャリア教授が今夜返し損ねた本なのだ。夜明けまでに完全に読破して、ピカピカの机の上に置いておけば、返し忘れたのは教授、と言うことになる)
「あの、これらいくつかの本は、どれも私が落としたものではありません。誰か別の商人が落としたものでしょう」
 駱駝の図書館の館員が振り返って見た時、そこにはもうハッサンの姿はなかった。
 ハッサンは無断で拝借した本を厠で蝋燭を燈して読んだ。自分の部屋は勿論、研究室などで読んでいてあの館員がやって来たら申し開きが不可能だ。
 もしもあの館員が魔法を使って(大いに考えられる)この本の後を追ってこの厠まで来たら、躊躇なく本を捨てるつもりだった…
「エイボンの封印せしものの考察」には一葉の地図が載っていた。
 大陸や島、海の形はハッサンたちの世界の地図…バスラのシンドバッドら名だたる冒険家たちが血と汗で描き足してきたもの…とは大きく違うものの、エイボンの暮らした大陸の形は、おおむね「この」世界の大陸の形と重なる部分が多いことが直感できた。
 何かを表す文字や記号が土地や海のそこここに書きこまれているものの、個々の意味はよく分からない。
 とりあえず彼らの世界である中東の辺りに的を絞って眺めて見ると、西の端の地中海ととの接点と思しき場所に数カ所、地中海自体に一箇所、アラビア半島の南東のあたりに一箇所、砂漠のど真ん中に一箇所、それぞれ違った文字が印として付けられていた。
 アブドゥル何某は次のように述べている。
 
…ハイパーボリアのエイボンは、我々にまたとない贈り物をしてくれた!
 そもそも我等が後世に残せるもので、真の価値あるものは何であろうか?
 文明遺産、知識、科学、哲学、思想、自然、黄金、宝石、覇権、発明、発見。そんなものは皆何万年、何十万年という尺度からすれば塵芥に過ぎない。
 時の流れは種族を滅ぼし、人種を滅亡させ、人類という生き物ですら化石と化してしまうことであろう。
 人類の後、この世界を闊歩することになるものを見届け得ずして命終わることは甚だ無念ではあるが、如何に天才魔導師と呼ばれた余にしたところで、一億年はおろか百万年の時すら超えることは難題である。
 もしも余が、何者の天下か分からぬ世界に敬意を込めて進物が果たせるのなら、迷わずにその世界を徹底的に破滅させる物品を選ぶことであろう。
 考えてもみたまえ。余なきあとに繁栄を極める世界。余が手に入れることはもちろん、見て触れることができない次元。それは文字通り無そのものである。元から無であるものを消滅させるに、どうして憐憫の情を抱く必要があろうか?
 余はエイボンに習って、余ならではの独自の贈り物を後世に残したいのは山々であるが、易々と世界を破局に追いやる存在などはそうそうはない故、エイボンの遺せしものを受け継いで解説を施すのみに留める…

 著者はアラビアの人間で、地名や薬品薬草の名前なども、よく調べれば分かる名前を記述していた。
 ハッサンは厠の中で重要と思われる名前のみをメモし、長々と記されている「復活の手順」の流れなどは徹底的に覚えることにした。
 夜が明けようとする頃、彼は周囲の様子をよくよく伺ってから失敬した本を、よく香を焚きしめてから研究室の教授の机の上の本立ての間にはさんでおいた。
 本は翌日の朝、まるで何もなかったみたいにそこからなくなっていた…

 それからしばらくして、ハッサンたちの大学が、とある記念事業の一環として。まだ調べ尽くされていない遺跡に向けて大規模な探検隊を出すことが決まった。
 これは二三年に一度、定期的に計画されているもので、すでに教主猊下の許可も得ている。
 歴史学部、宗教学部、医学部、地学天文学部などから長旅に耐えられる若くて優秀な学者とその卵が選抜され、学部を通じて支度金が渡された。
「今度はどこだって?」
「ヨルダンのぺトラだってさ」
「随分と遠いじゃないか。駱駝で往復するだけでも三ヶ月くらいはかかりそうだ」
「知るかよ。何でもシャリア教授の強い推薦でそこになったらしいよ」
「あの変人、教授会で力があるのか?」
「何でも『凄いものが埋まっている』と、ある程度の証拠を示して説得してしまったらしいんだ」
「俺は行かないから関係ない」
「行かない、と言うよりは。寄せて貰えなかっただけじゃないか」
 学内は噂話で持ちきりだった。
 もちろんハッサンは上位で選抜された。
 成績抜群の上、体力壮健。おまけにナバテア語を専攻するただ一人の学者の、たった一人の助手(シャリアがとりつくしまのない人物だから、いつの間にか助手に昇格…と言うか祭り上げられていた)だったからだ。
 遠征隊に選ばれ、一時は小躍りして喜んだ彼だったが、冷静になって考えるとだんだんと気味悪くなってきた。
 教授はぺトラの、とある場所に、どれくらいの深さかは分かっていないが、埋まっている「凄いもの」を掘り出すと言っている。
 アミン・カーやアブドゥル某によると、それは世界を破滅に追いやることができるくらいの「永遠の眠りについている」「究極の生物」らしい。
 発見するのは結構、掘り出すもの結構、それを乾燥させた熊蟲に再び水を与えるようにして蘇らせるのも大いに結構。ハッサンは自分が目指していた富と名誉の大方をシャリア教授が攫いそうなことについては、別段嫉妬心は起きなかった。相手は自分よりも三倍は年配の上、教授が大成功すれば、そのただ一人の助手である自分にも相当の報酬が転がり込むのは目に見えていた。勉強の進み具合から見てそうなった後でも、ほどなく教授を追い抜く自信もあった。なにしろ世界にはエイボンの隠した飛びっきりの生命がまだいくつかあり、彼もまたそれらの眠っている場所と復活の方法を熟知しているのだ。
 場合によっては外国に活動の場を求めて雄飛しても構わない。生き物が封印されているのはアラビアだけではないのだから…
 しかし、あの駱駝の図書館の少女と巡り合って以来の夢が実現に向かって大きく動き出した途端に、何とも言えない恐怖と戦慄が芽生えた。
 アミン・カーやアブドゥル某の写本には、肝心の生き物たちの挿絵が全くなかった。
 だからそれまでハッサンはゴーゴンやキメイラ、サイクロプス、ケルベロスといったギリシア神話に出てくる怪物のような、格好良いとも言える外見を勝手に想像していたのだ。
 出発と参加が決まったその夜から、それは彼の夢の中に現れ出した。

 彼とシャリア教授、学友たちは、現地で雇った大勢の労働者とともに注意深く発掘作業に勤しんでいた。太陽は赤くギラギラと照りつけているものの、バグダッドに比べると、暑さはそれほどでもない。
 むしろ地中海から吹いてくる風に含まれる湿気が肌着にまとわりつくほうが、嫌な気分にさせた。
 天幕にはそれまでに発掘した、ありふれた土器や石盤、レリーフの断片の類が飾られている。
 労働者たちは教授の指図で、奇妙な文様のついた石畳の下数十尺を掘り下げていた。
 最初にその「もの」を発見したのは、他でもない「彼」だった。
 それは一見、松の根株の先っぽみたいな、とぐろを巻いた乾いた物体だった。
「待て!」
 ハッサンが命令するよりも先に、シャリア教授が斜面を走り降りてきた。彼は教授がこれほど鋭く明瞭な声を出すのを始めて聞いた。
 教授は腕に小さな壷を抱えている。壷の中身はおそらくアブドゥル某が入れ知恵したところによる各種の薬草を混合した液体だ。
 と、ここまでハッサンの胸は興奮に高鳴っている。文句のつけようのない進展ぶりだ。 問題はその直後に起きる。
 教授は壷の蓋を開けて、中身のひどい臭いのするどす黒い色の液体を乾いた根株にかける。
 しゅうしゅうという音と共に白い煙が上がったかと思うと、湿り気を帯びた物体がぬめっててらてらと光る。
 教授の同僚の学者たちも駆けてくる。
「シャリア君、一体何を勝手なことをしているんだ? 重要物件と思えるものを発見した時は、まずみんなに知らせて、全員で相談するという約束じゃあないか?」
「その液体は保存液か、発掘の際に壊れにくくするための薬品か? どちらにしてももう少し掘って、全体の輪郭をはっきりさせてからにするべきじゃあないのか?」
「すぐに上に上がって来い! 場合によっては懲罰ものだぞ」
「『懲罰』?」
 教授は低い抑揚のない声で反芻する。
「…誰を?」
「君をだ! おいハッサン、教授の手を引いて早く上がって来い!」
 皆はカンカンだった。
 ハッサンは教授と皆のいる地上を代わる代わる見比べる。穴を覗き込んでいる沢山の顔は、逆光で黒く塗りつぶされてしまっている。
 彼は異変を労働者たちの短い叫び声で知った。
「うわっ!」
「あ、あれ!」
 指差すほう、液体を掛けられた根株の一部がとくんと鼓動みたいな動きをした。
 とくんとくん…
 見間違いや気のせいではない。確かに自ら動いている。
 ぐらっと地面が揺れた。竪穴を掘り下げたせいで地盤がゆるんだとか、そんな揺れなんかではない。地面の奥底から突き上げる激しい振動だ。
 金で雇われた連中は、悲鳴を上げ蜘蛛の子を散らすように四散した。
 やがて根株の先端が鎌首をもたげるみたいに持ちあがった。
「まさか…」
「信じられぬ…」
 穴の上にいた人々も、事ここに至ってだいたいの状況を悟った。
「教授、逃げましょう!」
 と声を掛けたものの、相手は濁った眸でその有様をじっと見て佇んだまま、ぴくりとも動かない。
 もとより師弟愛も何もあったものではないから、彼はとりあえず自分だけ梯子をよじ登ろうとするが、次の大きな揺れで振り落とされてしまい、体をしたたかに打ってしまう。根株は最初に掘り出した時に比べると十倍以上に膨らんでいる。
 動きも複雑に、まるで蛇の大群の如くのたくっている。
 地上から覗いていた仲間たちも、我勝ちに逃げ去った。
 と、びゅっと音がして根株の一つがいきなり百尺…いや、二百尺伸びきったかと思うと、上にいた一人を巻きとって捕まえ、下に引きずり込んだ。
 枯れた根と思ったものは見たこともない怪生物の触手だった。
 次々に伸びきった無数の触手は、発掘隊の仲間のほとんどを捕らえて穴の底に戻ってきた。
「助けてくれ!」
「許してくれ!」
 命乞いの言葉が空しく谺する…
 余りにも近くにいると、却って死角に入るのか、それとも蘇らせた者に対する恩義を感じているのだろうか、触手は教授とハッサンにはまるで向かってこない。
 教授は仲間が襲われているにも関わらず平然としていて、まるでカメレオンが虫を捕らえるところでも眺めているかのように、眉一つ動かさない。
 やがて十人用の天幕みたいに膨らんだ根株がぱっくりと割れた。中は西瓜よりも赤く、鈍い銀色の牙がぎっしりと植わっている。
 触手は次々に獲物を噛み砕いた。ハッサンは思わず顔を背け、目を堅く閉じた。

 目が醒めると彼は汗びっしょりで旅の天幕の毛布にくるまっていた。
 星を仰ぐと、まだ夜半を過ぎたばかりで、悪夢の中で虐殺されていた学友たちは鼾をかいて眠りこけていた。
(夢か… それにしてもなんてひどい夢だったんだ…)
 次のオアシスに到着するまでは補充できない貴重な背負い水の残りを割いて顔を拭き、うがいをすると、ようやく人心地が戻ってきた。
(なあに、ちょっと旅の疲れが出ただけさ。実際にあんなことが起こる訳がないじゃないか?)
 自分で自分に言い聞かせても、気持ちはまるで晴れなかった。
(まさか予知夢? いつもは夢なんかほとんど見ないし、見ても起きた途端に忘れてしまっている。あんなにはっきり見たのは、やはり未来のことなのだろうか?)
 ペトラに着いてもしもあの通りになるのだったら、言うまでもなく大変なことであった。(僕らはペトラに行ってはいけない。特にシャリア教授を連れて行っては…)
 次の夜も、また次の夜も全く同じ夢を見た。
 そっくり同じ内容で、同じところで途切れるのだ。四、五晩連続で続くと、ついには眠ることが恐ろしくなり、徹夜することになった。それでも翌日、駱駝の上で居眠りした拍子に見てしまうのだった。
「おいハッサン、どこか具合でも悪いのか?」
 友人にも気づかれ始めた。
 だがしかし、こんなことを他人に話したら失笑を買うだけだろう。唯一の根拠である「駱駝の図書館」のことを話せば少しは信憑性を増すかも知れないが、それでは自分の邪まな望みや、教授の本を一時失敬したことも告白しなければならない。なおかつそれでも信じる者はないであろう。
(困った… どうすればいいんだ…)
 答えは簡単と言えば簡単だった。要はシャリア教授が現場に到着しなければいいのだ。そうすれば、あの根株の姿をしていたエイボンの封印せし生物の第一発見者は自分ということになり、適切な処置を施して惨劇を免れ、じっくりと科学的に分析することができるだろう…
 問題はどうやって、ということだった。
 暴力なんかは滅相もない。例え教授が腹の中でどんな破壊的なことを企てているにしてもだ。
 教授が準備、調合しているであろう薬液をでたらめなものにすり変えるのも難しい。
 あと教授と話し合って、もしもそんな類のことを計画しているのだったら、説得して止めさせるということが考えられるものの、天気・世間の話題はおろか挨拶すらろくにかわしたことのない教授に、話しかけてもいつものように無視されるのが落ちだった。
 思案しているうちに眠くなり、眠るとまたあのろくでもない夢に襲われるのだった。
「困っているようね」
 キャラバンの休息中、用を足しに行った帰りに、いきなり背中から声を掛けられたハッサンは飛び上がらんばかりに驚いた。
「顔色が悪いわよ」
 そこには、あのオアシスの一軒屋で出会った、荷物を一杯くくりつけた奇妙な駱駝を引いた少女が夕陽を背にして立っていた。
 彼の脳裏に電光石火、あの問題の写本を無断で写した記憶が駆け巡った。
(あのことだけは絶対に秘密にしておかなければ… 問い詰められてもしらを切り通すのだ!)
 ハッサンは自分に言い聞かせた。
「久しぶりだね。もう二度と会うこともない、とか言ってたけれど」
「順調に学者さんか何かの出世街道を進まれているみたいだけれど、身体を壊しちゃあつまらないわよ」
 少女はあの時と同じ、冷ややかな抑揚のない声で言った。
「大丈夫だ。旅の疲れが少し出ているだけさ」
「そう、それだったらいいけれど。さよなら」
 彼女はそう言って駱駝もどきの手綱を引いて、ハッサンたちが進む隊商道とはまるで反対の、砂漠のまっ只中に歩み出した。
「…今度こそ、三度目は会うことはないでしょう」
 駱駝もどきがブヒヒンと身震いした。
「いや、縁は異なもの、と言うから分からないよ」
 何故かそんな言葉が口をついて出た。
 後姿の少女が肩をすくめた。
「特別サービスで一つだけ忠告しておくわ。…もしも心配事があるのだったら、常に先手先手をとることね」
「ありがとう。気をつけて」
 間違いなく魔法を使ったのだろう、少女と駱駝は次の瞬間、足跡も何も残さずに忽然と消えうせた。
 隊に戻ると、ハッサンはハッと少女が言い残した言葉の意味を理解した。
 他でもない、全員の会合の際に探検隊長が次のような提案をしたのだ。
「皆さん。神のご加護もあってここまで無事にやってくることができました。
 今回の目的地であり、探検発掘地点であるベトラはもう目と鼻の先です。
 そこで隊長としましては、特に気力体力に優れた若手の隊員を選抜し、予め先遣隊として目的地につかわし、天幕の設営場所の選定や、現地で雇う労働者の交渉などにあたらせたいのですが、如何なものでしょうか?
 我こそは、と思う若者は是非後で私のところまで名乗り出て戴きたい」
(そうだ!)
 彼は閃いた。
 シャリア教授よりも先にペトラに到着し、何とか理由をつけて先にあの問題の場所を発掘し、木乃伊化した根株のあるなしを調べ、もしも正夢でそこに埋まっていたのなら、火を放つなどして処分しておけばよいのだ。
 隊長は「気力体力の充実した若者」と言った。だからシャリア教授は先遣隊には入れない…
 ハッサンは早速自薦して、先遣隊に入った。
 幸運なことに、自薦組の中では彼が最も成績優秀だったので、先遣隊の隊長になることが出来た。初参加でこんな抜擢を受けることになったのは、身上書に「無名砂漠の真中で幼少年期を過ごす」という、いかにもサヴァイヴァルが得意そうな一行があったからだ。
 砂漠のど真ん中で幼少期を過ごしたからと言って、統率力に反映するかどうかは誠に疑問だったものの、とにかくこれは、間違った本が配達されて以来の二度目の大きな幸運だった。
 ハッサンの先遣隊は、ほどなく断崖と断崖とに挟まれた細い(とは言っても馬車が通れるくらいの)隧道(シク)の入り口に差し掛かった。 目的地のほうから涼しい山の風が吹き降りてくる。
「いよいよですね、先遣隊長」
 僚友が声を掛けたのに、彼はまるで気がつかなかった。
 頭の中では、
(夢でシャリア教授が掘っていた、あの場所はすぐに見つかるだろうか?)ということばかりを考えていたからだ。
「隊長、どうかなされたのですか? さっきから何か悩んでおられる様子ですが」
「水も食料も、薬も道具も充分に装備しています。まだ心を払わねばならないようなことは何も起きていないかと思いますが」
「いや、すまない。入り口が見えたのでほっとしたのだろう」
 ぎこちなく微笑んではみせたものの、内心は、この道が無限に続いて、永久に到着しないことを望んでいた。
 願いは空しく、やがて突然、パッと視野が開けたかと思うと、やがてエル・カズネと呼ばれる巨大な門が現れた。
 薔薇色に輝く正面(ファサード)のレリーフや飾り柱などの装飾は繊細で美しく、まさしく繁栄を極めた隊商都市の正面玄関にふさわしい…
「やっと着きましたね」
「ああ」
「どうですが、想像されていたことと比べて?」
 想像したのは、とんでもない災厄だったので、とりあえず平和でのどかな光景にはホッとした。
 かねての予定の通り、設営班や探検班に分かれて行動することになった。
 ハッサンは仲間とともに武器を手に、遺跡のあちこちを偵察して回った。
 ナバテア人たちを追いやった後に、入植したローマ帝国の円形劇場跡に列柱通り、神殿の数々、上下水道の遺構…
 街の最も奥にある大神殿エド・ディルの前まで来た時、彼は希望の光を感じた。
(このてっぺんに登れば、それらしいところが分かるかも知れない…)
 エド・ディルは断崖の正面をさながら巨大な建物の如く工事を施したものだから、屋上に上がるということは小さな山に上がるに等しい…
「今日じゅうにこの上に登って、全体の地形を掴もう」
 ハッサンは命令した。
「大丈夫ですか、先遣隊長? お疲れが出られては、元も子もありません。ここはまず余力のある者たちに任せて、隊長は明日お登りになられては?」
「いいや、ぼくも行く」
 斜面も階段も急な、予想通りの強行軍だったものの、何とか太陽のあるうちに頂上に辿り着くことができた。
 雲の上から見下ろす古代都市の全景はさすがに素晴らしいの一語に尽きた。
 商店が軒を並べていたであろう市場、広場や公園、大通り…
 住居があったであろう区画に、宿があった跡、大小いくつかの神殿…
 目を閉じると、繁栄の絶頂期の都市の風景が浮かび上がり、耳には往時の喧騒が聞こえてくるかのようだった。
「もうじき陽も沈みます。そろそろ下りましょうか?」
「もうちょっと待ってくれ」
 彼は古の怪物が封印されていると思われる場所を必死になって探していた。
(やはり神殿の地下なのだろうか? もしそうだったら、いくら見晴らしの利くところから眺めてもしようがない…
 だが、夢の中でシャリア教授は確かに何もない地面を掘らせていた。…つまり露天掘りだ)
 夕陽に染まって行く遺跡全体を見つめているうちに、とある古ぼけてすっかり瓦解している神殿の脇の空き地がそうではないか、と思え出した。
 屋上から降りて、夕食ののち、彼は現地で雇った案内人に
「あのすっかり寂れた神殿は何を祭っていたのか?」と尋ねた。
「あれはペトラでも最も古い神殿だと言う言い伝えですだ」
 案内人は訛りのあるアラビア語で答えた。「…伝説では、街を開いた人々が、ここへやって来た時に、もうすでにあそこに祠があったと聞いておりやす」
「すると、ペトラの神ではない?」
 案内人は頷いた。
 その晩、ハッサンはまんじりともしないで、天幕の寝袋に潜り込んだ。
(あと二三日もすれば、シャリア教授を含む本隊が到着するだろう。それまでに掘り起こして、油を掛けて焼き払ってしまわなければならない…)
 今夜もまたあの嫌な夢を見なければならないのかと思うと、徹夜して、明日こそ何とかしてやろうと決心したものの、疲れ切ってぐっすりと眠りこけてしまった。
 悪夢の内容は昨晩までとはガラリと変わっていた。

 学友や労働者たちは、確かに「その」場所を発掘していたものの、どこを見渡してもシャリア教授はいなかった。
 指揮を取っているのは、他でもないハッサンで、号令の下に一寸づつ慎重に掘り下げられていた。
 やがて、だれかの小さな鶴嘴の先端がガシッと音を立てて何かに当たった。
 彼が大急ぎで駆け寄って見ると、例の根株の先端が少し現れている。
「これだ。これこそ一刻も早く焼き払ってしまわねばならない太古の邪悪な生物なのだ」 その後こんこんと理由を説明したものの、皆はこぞって反対した。
「そんな大事なことを、あなた一人で決めてもいいのですか?」
「我々は安くない費用をかけて、はるばるとペトラまで来たのです。重要な発見をしたのなら、みんなで一応研究して、それで危険なものと分かれば、その時に処分すればいいのです」
 ハッサンは困り果てた。
 まさか身内に野望を抱く裏切り者がいて、仲間を皆殺しにして、強大な兵器を手に入れようとしている、とは言い出せない…
(それじゃあ手遅れになるんだよ)
 言えない言葉をぐっと呑み込んで、彼は天幕へと戻り、夜を待った。
 その晩、論敵たちが寝静まったのを確かめてから、ハッサンは一番良い油の入った壷を抱えて、根株の場所にやって来た。
 見張りも二人、いるにはいるものの、二人とも揃って白河夜船だった。
 根株は昼間見たときよりも随分と表面に露出した部分が大きく多くなっていて、まるで古い巨木の如く盛り上がっていた。
 火を放つには却って好都合だった。
 油をかけようと振りかぶった時、木の中から声がした。それもアラビア語だ。昼間発掘隊が喋っているのを聞いて覚えたのか、それとも心に直接問い掛けてきたのかは分からない…
「そこのおまえ。なぜ儂を滅ぼそうと試みる? 儂は果てしない時の流れを超えるように命令を受けて、いままで眠りについていたのだぞ。
 話したいことも、伝えたいことも山の如くにある。聞きたい学びたいとは思わぬのか?」「そりゃあ思うさ。とても思う。でも未開の頃の人類の掟と、いまの世界の掟とは全く違うように、おまえが生きていた頃の掟といまの掟は、重なることはないだろう。
 おまえが授けてくれるだろう知恵や知識と、おまえがもたらすだろう破滅的な落差を天秤にかければ、答えは明らかだ」
「小僧、それは余りな杞憂と言うものだ。
 現に儂はいまこうしてそなたとごくごく冷静に語り合っているではないか?
 儂はそなたたちがまめまめしく掘り出してくれている間に、そなたたちの心を読んで、法律も常識も、不文律や洒落さえも学び終えた。だから今、甦っても、誰にも迷惑をかけることはないだろう」
 雲に翳っていた月がほんの少し現れた。
 人語を解する根株の化け物は、ハッサンが来た時よりもさらに、地表より競りあがっていた。
「…頼むから、儂がいまから指図する薬液を調合して、持ってきて掛けてはくれないだろうか? そうすれば儂は、おまえのことを命の恩人と思って、永遠の忠誠を誓う。
 儂の力があれば、この世界の王になることなど、いともたやすいぞ」
 彼は思わず唇を噛んだ。
「いままで一体どのくらいの人間に …いや、人間以外にも知性を持った生命体に愚かな誘いを掛けてきたのだ? 魔導師エイボンが、悪意をもっておまえを後世に遣わしたのはバレているんだ。
 現在に至るまでそのまんまの姿であるということは、誰一人として陳腐な詐欺に引っかかる者はいなかった、と言うことだ。
 いい加減に諦めて、永劫の闇の世界に葬られるのがいいだろう!」
 そう言い放った瞬間、先の著しく尖った根株の先端が鞭の如くしなって、ハッサンの胸を刺し貫いた。
 気道にゴボコボと血が溢れ、激しく咳き込んで、ハッとばかりに目が醒めた。

(夢だったのか… それにしても何と嫌な夢だったのだろう… 数万年…いや、数億年もの間、仮死状態だった生き物が、ちょっと掘り出して、少し空気に触れたくらいで、あそこまで意識と動きを取り戻せるはずなんかないじゃあないか)
 彼は火照った頬を覚ますために、天幕の外へと出た。
 獣除けの焚き火や篝火がパチパチとはぜているものの、不寝番は夢の中と同じように鼾をかいて眠りこけている。
 と、問題の石板のある広場のほうが、これから起ころうとすることを待ちかねているかのように、ぼんやりと黄色く輝いているのが見えた。
(まさか… まさかあいつは、秘薬も何も必要とせず、一人で復活しようとしているんじゃあ!)
 もういてもたってもいられなかった。
 彼は不寝番の山刀を拝借すると、何度か転びつつ、夢の中の場所へとやってきた。
 想像した通り、かすかに光を放っているのは、ほんの少しだけ掘り出されてそのままになっている根株だった。
 夢の中みたいに語り掛けてはこないことに安心はしたものの、目に見える変化は確かに不気味で、先遣隊の全員をたたき起こすくらいの衝撃はあった。
(しかし起こしてどうする? このものの正体、本当の恐ろしさを知っている者など誰一人としていない… そんな連中に相談して得るところなどあるのか?)
 彼はいろいろと考えた。
 斧か鉈で滅多斬りにするのが一案、火を放つのが二案、植物をたちどころに枯らす薬を撒く、というのがとりあえず思いついた方策だった。
「いまごろこんなところで何をしているんだ?」
 突然に声を掛けられ、ハッサンは震えあがった。
 最初、彼はその声が未知の誰かであろうと思った。
 ゆっくりと振り返ると、月光に浮かび上がるがっしりとした長身の男の影があった。男は手に、その注ぎ口から、えも言えない甘い匂いの放つ薬液の壷を持っていた。
「シャリア教授! 一体どうなさったのですか? 本隊の到着は二三日後では?」
 教授は彼の質問には答えず、元のまるで無口な存在に戻った。
 ハッサンが教授の声にまるで聞き覚えがなかったのも無理はない。まとまった言葉を話しかけられたのは、実にこのときが初めてだったからだ。
 教授はまた彼の存在をまるで無視して、やりかけていた作業の続きに戻った。
 それは、持参した薬液の原液を、先遣隊の印の入った、いくつもの羊の膀胱の水筒の水で薄めて、刷毛で根株に丁寧に均一に塗りつける、というものだった。
「やめて下さい、教授! こいつの恐ろしさは貴方が一番よく知っているはずだ!」
 懇願したところで、聞き届けてくれるはずなどないことは、相手の凍りついた表情から分かった。
 光はますます輝きを増し、二つの夢の中の出来事とそっくり同じく、根株はかすかに、かすかに動いて、触手の鎌首を持ち上げ始める…
(こうなったら、みんなを呼んだ途端に完全に復活して暴れ始めるだろう…
 みんなを起こして、避難させるのが最善かも知れない… でも本当にもうそれしか道は残されてないだろうか…)
 彼は、最初に懸命に写したアミン・カーの本や、教授のところに通っていた駱駝の図書館員から拝借したアブドゥル某の本の内容を懸命に思い出そうと試みた。
(そうだ… 魔導師エイボンは、半分がた甦った生物を、「半分甦り」のまま運んだり、いろんな実験に使ったりする方法を述べていた。例えば、ハイパーボリアでは、物凄く巨大な生物を「生物兵器」として戦争に使用する場合、「戦闘が行われる場所まで半醒の状態で、自ら歩かせて移動させた」と書いてあったじゃないか…)
 生物を兵器として使用する場合、そいつをコントロールできることが必須条件だ。
 そいつが敵味方の識別なく襲いかかってきては困るし、第一、うまく敵を全滅させても、そのあと味方に向かってこられたらえらいことである。完全に覚醒した状態では人間の命令など意に介さないものでも、半分眠った状態なら何とかなるかも知れない…
 いろいろ考えている間にも、シャリア教授は黙々と邪悪な作業を続けている。
 事ここに至っては仮に(そんなつもりはないけれど)この場で教授を殺したとしても、手遅れに違いない…
(もはや、「この存在」の復活は止められない。問題はその後。エイボンが封印したように、再び封印できれば一番いいんだ。
…そうか、ひょっとすると、こいつが何万年、何億年の間一度も甦ったことはないというのは、単なる思いこみで、実は何回も復活して暴れまくったことがあり、その度に、叡智に溢れた人々が、丁寧に後始末をしてきたんだ!
 場所だって、エイボンが最初に埋めたところから変わっているものも多いだろう。
 各時代時代に書かれた禁断の書物のうち、信憑性があり、かつ最新版のものが、もっとも正しい、ということになる…)
 「奴」はもぞもぞと動き出したけれど、夢の中のように大きくもなければ、まがまがしくもなかった。
 当然、地震も地鳴りもなく、先遣隊の中で目を覚まして起きてくる者はなく、いまこの近くで不寝番をしている二人すら、ぐうぐうと眠りこけたままだった。
 ハッサンは、まず彼らを起こそうとした。「おい!」
 いくら大声で呼びかけても、揺すっても、頬を張っても反応がない。
「奴はきっと最初に腹ごしらえをするはずだ。じっとしていたらやられるぞ!」
 そうこうしているうちに、根株はついに全体の姿を現した。何本もの触手が互いにからまりあった、とぐろを巻いたガラガラ蛇くらいの大きさもの… 幸いなことに、現在の大きさは予想していたものよりもかなり小さい…
 術にでもかかっているのか、二人の仲間はいまだに気を失ったままだった。業を煮やした彼は、手にした短刀で、二人の太腿を浅く刺した。
「痛い!」
「おいハッサン、一体何をするんだ!」
 彼らはハッサンが指差すほうを見て、再び腰を抜かした。
「なんだ、あいつは…」
「なんでシャリア教授がこんなところにいるんだ?」
「理由は後だ! とにかく早く逃げよう」
 無論反対する者などいない。
 三人はこけつまろびつ天幕のほうに逃げた。 二人が叫びつつ本営に駆け込むのを確かめたハッサンは、踵を返し、怪物とシャリア教授を追いかけた。
 蛇に似たものは動きが比較的遅く、楽においつけたのもツイていた。
 彼らはペトラの旧市街あとに、突如として現れた、凱旋門ほどの大きさのある、巨大な虹色の光の幕を目指していた。
(あんなものがいつの間に…)
 ついさっき見渡した時にはなかったから、たったいまできたものに違いない…
 教授と化け物は、まるで飼い主と犬の如く虹の幕に吸い込まれて姿を消した。
(なるほど、魔法の扉という訳か。逃がさないぞ!)
 ハッサンは四方から急速に縮んで、やがて消滅しようとする光の幕に頭から飛びこんだ。
 
 気がつくと目の前には、天を突かんばかりの三つのピラミッドが聳え立っていた。言うまでもなくギザの三大ピラミッドだ。
 教授と「奴」の姿はじきに見つかった。
「奴」は倍くらいの大きさに膨らんでいる…と言うよりも、何かキノコの傘に似た不気味な生物を頭の上に乗せている。
 連中はまた虹色の光の幕を通って、別の場所に移動した。ハッサンも追い続けざるを得ない…
 断崖絶壁に突き出た、打ち捨てられた海賊の砦みたいな場所では、「奴」はいっぱい目玉の付いた、屈強な剣闘士ほどの胴体と合体した。上部に大きなものが付け加わると、脚にあたる部分の触手が肥大化して数も増え、いまや「奴」は人間と等身大を確保していた。
 が、まだまだ絶対倒せないほどのものではない。
 樹齢数千年以上の古い巨木に囲まれた森の中のドルメンのある広場では、「奴」は大きな鱗木の幹を取りこんだ。
 これで、ほぼ生物兵器としての体裁は整った。独自の養分を分配されて大蛇ほどになった触手は、一本でも獅子を一撃で倒せるだろう… そんな伸縮自在の先端が無数にある。これまた数え切れないほどある目玉は、見つめる者をアッと言う間に眠らせたり狂わせたりできるだろうし、キノコの傘からは強烈な瘴気をばら撒けるようだった。
(こんなもの、ぼーっと眺めているだけではますます手が付けられなくなるぞ… どうすればいいんだ、どうすれば…)
 考えを巡らせているうちにふと、ペトラ近くの砂漠で、二度目に会った時のあの少女の忠告をまた思い出した。
(そうだ、先手だ。あの化け物が各地にバラバラに封印された己の身体の部分部分を全部取り戻してくっつけ終わる前に、先に最終目的地に辿り着いて、そこに人間がいるものならば、そこの人々と相談すればいいし、仮に誰もいなくても、必ずヒントになるものが残されているに違いない…)
 蛇がとぐろを巻いたような不気味な形の禿山にさしかかった時、ハッサンは、黙々とかつての自分の身体の一部を取り戻している怪物とシャリア教授にこれ以上付き合うことはやめて、一足先に次の地点へと向かう光の幕に飛び込んだ。
 氷の世界、灼熱の溶岩の世界などの異界を通過するうちに、ついに、懐かしいアラビアに似た、三つの月に照らされた白い砂漠へとやって来た。
 街ではない。
 彼が子供時代を過ごしたのと、どことなく似ていて、つい感傷的になってしまうオアシスの隊商宿ふうの翼のある建物…
 棗椰子の葉が風に揺れていて、馬や駱駝たちを繋いでおく厩舎がある…
 彼はゆっくりと、いくつもの足跡がまだ崩れないで残っている敷地の中に足を踏み入れた。
 厩舎を覗いた時、思わずアッと声を上げそうになった。あの独特の鞍や荷物こそ付けてはいなかったものの、中にいたのは「駱駝の図書館」の駱駝もどきの生き物たちだったからだ。
(ここは… もしかして…)
 予想通りだった。
 建物は回教寺院(モスク)そっくりの様式で、一階は吹き抜けの広い空間の礼拝堂。二階の吹き抜け以外の広い部屋の一つ一つに、ずらりと万巻の書物が、数十もの書架に分かれて開架陳列されている様子は、バグダッドの図書館にも劣らなかった。
 試しにタイトルを調べてみると、どれもこれも見たこともない奇妙な文字ばかりで、さっぱり読むことができなかった。
(これだけあるんだ。シャリア教授によって着々と甦りつつあるあの化け物を再び地中深く埋め戻す方法を詳述したものもきっとあるに違いない…
 ただ、これだけあると、どこをどうやって探せばよいのやら…)
 館員や警備員に見つかって咎められるのは怖かったが、誰一人としていないというのも気味悪かった。
(普通の図書館には、カードや書物形式の索引があるはずだ…)
 正面入口の、司書たちが座るカウンター付近を調べていると、他の書物や巻物に比べて非常に新しい、大版の書物がずらりと並んでいて、椅子のない、机だけの一角を見つけた。(ここだ… この新しい本は、全部索引に違いない…)
 どうやら、同じ内容のことが、いろんな世界の、いろんな時代の、いろんな言葉で書かれているようだ。
 彼は慌てて、自分に読むことのできる文字で記された索引を探した。必死で探しているうちに、ついに古いナバテア語で書かれた総索引を発見した。
 ページを繰ると何とか読める…
「甦りし、太古の邪悪なる存在を再び永劫の眠りにつかせる法」
(これだ! これに間違いない!)
 所蔵棚の記号はそれぞれ百づつの「つくり」と「へん」からなる非常に複雑なものだったが、焦りながらもコツを呑み込んで、目的の棚へと急いだ。
(もしも巡回貸し出し中だったらどうしよう? 教授が用意周到な人物だったら、もう予め押さえているだろう…)
 索引が教える記号の棚はからっぽだった。(ダメか…)
 身体じゆうからスーッと力が抜けて行くのを感じたその時、白く細い手の先が伸びて、一冊の古い写本が棚に返された。
 ハッサンがびっくりして飛びのくと、今度こそもう会うはずもないと思っていた少女が返却用の小さな台車に、たくさんの本や巻物を積んで来ていた。
「あら、またお会いしたわね」
「大変なんだ!」
 彼は乾いた、声にならない声で言った。
「何が?」
「シャリア教授が…」
「『とんでもないことをしようとしている』?」
「分かっていたら、何とかしてくれ」
「彼がしようとしていることを、あなたがしようと思っていた時期もあったんじゃあ…」
「恐ろしさに気付いたんだ。君たちも、のほほんと構えている場合じゃあないぞ。やつらはもうじきここへもやってくる。ここを破壊して、本を全部焼き払ってしまえば、二度と再び封印されることはなく、自分たちの存在は磐石のものになると思いこんでいる」
「あら。それは正しいわ」
 少女は笑いながら、本を返す作業を続けた。
「だったら! 君はただ者じゃあない。おそらく強力な魔法の一つや二つ使えるんだろう。仲間を大勢呼べば、どんな相手だろうが袋叩きにできるとも思っているんだろう。しかしそれは甘い。
 教授はすでに、各地に封印されていた化け物の身体の部分をおおかた集めてしまったんだ。もはや魔導師が束になっても敵わないかもしれない。…ハイパーボリアの魔導師たちがそうであったように!」
「分かったわ。でもここは図書館であって、要塞ではないのよ。仲間のほとんどは各地に散って働いている。とりあえずどうすればいいのかしら?」
 ハッサンは、たったいま少女が返却したばかりの本のタイトルを鵜の目鷹の目で見た。 すると、何という幸運だろう、
「甦りし、太古の邪悪なる存在を再び永劫の眠りにつかせる法」が返ってきているではないか!
 彼はそれをむさぼり読んだ。
「…熊蟲のように、身体じゅうの水分をじょじょに抜いてやればよいのだが、石灰とか、その辺にある普通の乾燥剤では埒があかないだろう…」
 心臓はどきどきと打っていまにも破裂しそうだ… たとえ方法が分かったとしても、珍しい薬品や道具をいろいろと揃えなければならないのなら、万事休す、だ。
「…一度甦ったモノは、『白の砂漠』の無限の白砂で再び封印することができる。
…いにしえの、角のある駱駝たちが禁断の書物を運ぶ図書館が建っているところの砂漠の砂である…」
(なるほど… そうか、そうだったのか!)
 彼は思わず膝を打った。
 少女が泰然として落ち着いている訳。
 この図書館が、自らを窮地に追い込むかもしれない危ない書物を、決して一般人向けではないとは言え、平気でどんどんと貸し出している訳…
(彼らは、自分たちだけは、絶対に安心していられる場所にいるのだ!)
 そう思うと非常に腹が立ったものの、いまはそんな場合ではないし、目の前の少女は使い走りで、最初にそういうふうに考えた偉い奴が、また別にいるのかもしれない。
「…不測の事態で復活してしまったモノは、『白の砂漠』に何とか誘い込め。
…そして、太古の蟻地獄が作り出す無限の陥穽に落として、水分を奪い、再び永遠の眠りについた状態にすること…」
(蟻地獄だって! そんなもの一体どこにいるのだ?)
「この蟻地獄は、万一のことを考えて『駱駝の図書館』の地下に封印してある。
 彼に再びの命を与えるには、別途拙著『復活の書』を参照のこと」
(エイボンめ… 何と人騒がせな!)
 噴飯したものの、エイボンは齢千歳で、とうの昔に身罷っているし、仮にいまここにいたとしても、殴り倒すことによって事態が好転するものでもない。
「ちょっと聞くけれど、この図書館のどこかに、なにかが封印されている、といった伝説を耳にしたことはないかな?」
 彼はできるだけ穏やかで丁寧に、本をほぼ戻し終えた少女に尋ねた。
「そうね… 地下の礼拝堂の、古代文字の書かれた石畳の下に何かがいる、とは伝えられているけれど…」
「そこへ案内してくれ!」
 ハッサンは彼女の手を取って、擦り減って角がなくなった階段を二段おきに下へと降りた。
 地下の、いかにも意味ありげな何もない部屋の真ん中に、ベトラで見た石板そっくりの文字を刻んだ所があった。
「ここだ。ここを掘り返せばいいんだ…」
 ところが見渡しても道具はない。手で持ち上げようと試みても爪の先すら入らない。
「くそっ! ここまでか…」
 地団太を踏もうとした時、少女が手のひらをすっと差し出した。その手の上には、一寸ほどの蟻地獄が載っている。
「こ、これはっ」
「伊達にこの図書館で働いている訳ではなくってよ」
 少女は相変わらず、まるで抑揚のない声で言った。
「でも、ここにはこいつを甦らせる秘薬が揃っていない。いまから揃えようとしたり、元の世界に取りに戻ったりしていたら、とてもじゃないが間に合わない…」
 焦るハッサンを尻目に、少女は冷たくほくそ笑んだままだ。
「他でもないここ、きみの居場所が危ないんだぞ。よくそんなに落ち着いていられるな!」「だって、秘薬は、あなたの言うエイボンの怪物の身体の部分を集めて回っている人が、多分まだたくさん持っているのでしょう?」 彼は閃いた。
「そうか… そうなんだ… そういうことなんだ…」
 ハッサンは少女の手から、干からびて標本みたいになった蟻地獄を頂くと、図書館の庭へと出て、正面玄関の、太古の龍たちがとぐろを巻いている形の大理石の台の上に置いた。
 ここには以前、何かの彫像が乗っていたらしいが、奪われたのか、いまは何もない。
(ここなら嫌でも目につくだろう)
 物陰に隠れるのとほぼ同時に、無口なシャリア教授がやってきた。
 教授から遅れること数里、闇の中で荒れ狂う砂嵐の彼方に忽然と、大きな険しい山のようなものが現れた。
 大きい、などと言う代物ではない。この図書館はおろか、城も、街も、都でさえほんの一歩で踏み潰されてしまうだろう。
その巨大さなるゆえか、まだあんなに離れているというのに、漂う瘴気は思わず吐き気を催し、倒れそうになるほどだった。
 教授は彼のものに対して「止まれ」とばかりに手で合図を送った。
 これ以上近づいたら、いかに修行を積んだ魔導師と言えども、毒気に当たって死に至るだろう…
 エイボンもしつこいぐらいに警告していた。 慎重にやらなければ、肝心の術者にしても相当に危ない、と…
 頭布でほとんど覆われたシャリア教授の目は駱駝の図書館正面の大理石の飾り台の上に置かれたものに釘付けになった。
 むろん、肉眼で見えるほど大きなものではない。術で見たのだ。
 おそらく相手の瞳の中では、赤い丸と矢印が点滅しているのだろう。
 教授は問題の場所まで駆け寄った。
 ハッサンは教授が走っているところを始めて見た。そしてこれが最後になるだろう…
 教授はずいぶんと長い間、干からびた小さな蟻地獄を値踏みしていた。
(しまった、見破られてしまったかな…)
 長い時間がたち、万事休すかと思ったその時、教授は懐の中から大切そうな小さな薬の瓶を取り出して、黒い液体をほんの一滴、蝉の抜け殻に似たむくろにふりかけた。
 一抹の白煙が舞い上がったかと思うと、指の先ほどの大きさだったそのものは、アッという間に人と同じ大きさに膨張して、六本の節のある脚をもぞもぞと動かして、すぐ下の地面に穴を掘り始めた。
 事ここに至ってようやく、教授は何か様子が違っていることに気がついた。
(これは、ひょっとして、エイボンが残した「生ける最終兵器の部分」ではない? いや、秘薬で甦ったところからすると、エイボンが残したものに違いはないものの、何か別の…) 白い砂漠の地表に一筋の隆起を標して、古の蟻地獄はまっしぐらに山めがけて進んだ。
 全く恐れないところからすると、地の底深くで、奴に負けず劣らず巨大に成長したのかも知れない。
 不思議なことに、ハッサンが立っている場所も、図書館自体もピクリとも揺れない。
 高度な術で振動を伝えない仕組みになっているのだろう…
 数十里彼方、砂塵の帳の向こう側で、山が次第に地中にめりこむ様子が伺えた。
 一割、二割、と沈んでいって、やがて半分以上が、あれよあれよと言う間にほとんどが消えてなくなった。
 シャリア教授は、これは遠目にも半狂乱となって、懸命に自らが苦心惨憺して育てたモノの後を追って、一緒に同じ穴に吸い込まれた。
 嵐が静まると、白の砂漠はまた以前の静けさを取り戻した。図書館もそのままで、まるで何事もなかったかのようだった。
 ようやく、さえざえとした夜気が戻ってきて、心行くまで深呼吸することができた。
 少女はいつの間にか姿を消していた。
 ハッサンにとっては一生に一度あるかないかの大冒険だったが、この辺ではこの程度の事件は日常茶飯事なのかもしれなかった。
 彼はゆっくりと図書館の建物に帰った。
(ここなら、好きなだけ勉強ができそうだ)
 そう、好きなだけ、ゆっくりと…
                (完)



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