魔導師/沙羅

  「難破船の家」

 プロローグ

  声たちが初めて聞こえてきたのは、十三歳の誕生日を過ぎてすぐ、私が女になった日と同じ日でした。
  どの声も女の声で、恨み、呪い、祟ってやるとわめき叫び、頭の中でわんわんと渦巻いて、食事の時も眠る時も、華族の子女だけが通う女学校で授業を受けているときも、乗馬の練習をしている時も、両親に連れられて舞踏会に出席している時も、運転手付きのフォードに乗っている時も、片時も離れません。
  当時私はまだ幼かったけれども、この声がどこの誰からのものかは分かっていました。
  父、水無瀬男爵は紡績と養蚕で成功した地方の成金という触れ込みで東京にやってきたのですが、実際はそれ以外にも沢山の遊廓や女郎屋を部下を使って経営させ、そこから上がる厖大な利益を賄賂としてばらまいて男爵の地位を手に入れたのです…

  私の生涯も早や晩年となり、歯は抜け、髪の毛は白く、数多の思い出も日に日に忘れて行きます。しかし、あの日の光景だけは今だにくっきりと覚えています。
  一千の部屋のある広大な屋敷。庭に咲き乱れる真っ赤な鶏頭。抜けるような青い空。鐘楼からふわりふわりと降りてくる白い落下傘。
  最初私は陸軍か海軍の兵隊さんだと思いました。近くに演習場があり、休みの日にはきりりと軍服に身を包んだ凛々しい士官や将校の姿を見かけたからです。
  ふわりふわり…
  落下傘は赤い切妻屋根をかすめ、破風に
ひっかかり、仏蘭西窓の雨戸に触れて落ちてきます。
  ふわりふわり…
  どの少女の親たちも、幸せになることをを信じて、父の腹心の部下である女郎買いに自分の娘たちを託したのです。
  全うな女中の仕事、カフェのウエイトレス、彼女たちはみな、都会での華やかな暮らしと良い賃金を夢にみて東京へやってきました。支度金として渡されたお金は、長年の凶作、恐慌、不況に食うや食わずだった農村の人々にとって喉から手が出るほど欲しいものでした。そしてそれは、砂漠に落ちた水滴のようにすぐに使い果たすにも関わらず、使ってしまったが最後、彼等にとっては二度と返せないほどの大金だったのです。
  ふわりふわり…
  金色の髪の毛が見えたわけでもなく、蒼い瞳、葡萄酒色の唇に気が付いたわけでもないのに、私にはそれが何千里の海を越えてやってきた母だと言うことが分かりました。
  父は欧羅巴を旅行中に、彼の地のとある貧乏貴族からいくばくかの金で母を買いました。
  セピア色の写真で見る当時の母の美しさと言ったら!  母は当然その地方の大勢の貴族や金持ちの若者の憧れの的でした。が、実際に母が愛していたのは身分や財産はないものの、働き者の若者でした。
  それら一切を引き裂いて、父は母と結ばれようとし、結ばれたのです。
  理由は一つ、求婚者の中で父が一番たくさんのお金を積んだからです。血と涙で贖われたお金を…
  母の父…即ち私の祖父は、トランプの賭博でお金も土地も、全財産を失っていたものの、何百年も続いた貴族、という触れ込みでした。
  ところが帰国後何年も経ってから、母の出生証明書は偽物であることが父の政敵によって指摘されたのです。母は貴族の娘でも何でもなく、赤ん坊の頃に教会の軒先に捨てられていた捨て子でした。おそらく器量が並みはずれて良かったので、将来慰みものにでもするつもりで大切に育てたのでしょう。父はそんな母をまんまと掴まされたのです。
  さらにその政敵は、父の資金の出所の証拠を新聞雑誌に発表しました。
  貴族院議員を辞任させられて以来、すっかり打ちのめされた父は、それまでは人並みに深く愛していた母を近付けず酒色と賭博に耽り、果ては阿片にまで溺れるようになりました。
  私は無論、それまで通っていた女学校を辞めねばなりませんでした。
  それは別に悲しいとは感じません。幼かった心にも虚飾の空しさを嫌というほど思い知らされたから。
  悲しく寂しかったのは、世間体を気にした父が、私を一般市民の学校にさえ通わせてくれなかったことです。
  家族三人と召使だけの、広大な屋敷の中だけでの暮らし…  「貴族の」一家としての暮らしには気を使ってくれましたが、父の心の中で、私たちはもう愛される存在では無くなったのでした。
  ふわりふわり…
  本当は、とある流浪の民の魔女の娘だった母にも、声が聞こえていたのでしょう。
  ある夏の昼下がり、とうとういたたまれなくなって、何も聞こえず、どこの誰かも問われない国に行くことにしたのです…
  母は静かに地上に落ちました。死骸に群がるハイエナのように召使や女中たちが走り寄ります…
  その瞬間、屋敷の一角から紅蓮の炎が噴き上がりました。父、水無瀬男爵がいつも一人でいて、使用人はもちろん、家族も立ち入らせなかった部屋です。火はまたたく間に屋敷全体に広がりました。
  ひょっとすると、声は父をも苦しめていたのかも知れません。道連れにしたのは、例え一時にしろ自分に美しい夢を見せてくれた母の、父に対する最後の愛だったような気もします。
  それとも、この終幕こそが私自身の望んでいた少女時代の終わりだったのかも知れません。
  私は何一つ持たず、真紅のドレスに硝子の靴という、着のみ着のままでそのまま屋敷を出ました。
  父が死に、屋敷が焼け落ちたからと言って声が消えるわけではありません。おぞましい事業の数々は、父の死後も別の者が引き継ぎ、その混沌は未来永劫に続きます。死も炎も、暗黒の章と章との間を区切る句読点にすぎないのです。
  その後、私は霊媒師としてたった一人で生きてきました。真の悪霊と言うよりは、自らの良心にさいなまれる金持ちや権力者からは途方もない報酬を受け取り、貧しいけれども清く暮らしている人々からは僅かしか取りませんでした。
  間、いろんなことがありました。
  声は減るどころか増える一方です。
  安らぎのしじまの世界は近付くどころか、どんどんと遠ざかる一方です。
  地獄に落ちることは恐れぬとして、新しく声が聴こえた者は心してかかりなさい…


  第一話    難破船の家

  奇妙な家でした。家と言えば家のようでもあり、船と思えばすっかり赤錆びた船の面影を残しています。
  かなり離れた国道を通りがかっただけで、まるで象か恐竜が大きく息を吸っては吐き、吸っては吐きしているのを感じ、より道せずにいられませんでした。
  とあるひなびた海岸の磯から数歩のところにそれは建っていました。打ち寄せる青灰色の波しぶきが、かすかに家の戸にかかり、人の気配はあまりありません。
  後に土地の人々から「難破船の家」と呼ばれていることを教えられた、その家の前を通り過ぎようとした私の耳に、いつも流れている怨念の呻きとはまた別の、海嘯のような呪咀が聞こえました。
  私は思わず立ち止まり、耳を澄ましました。しかし先ほどまでの息も声ももう聞こえません。
 と、突然、静まり返っていたはずの「難破船の家」から、下は三つ四つから上は十二、三歳まで、五、六人の丈の短い着物を着た少年少女たちが飛び出して、浜辺で戯れている声が聞こえてきました。
『おかしいわ。誰もいないと思ったのは気のせいだったのかしら』
  そう思って県道の方へ歩み去ろうとした私に、一人の女の子が小鳥のように近付いてきて何かを差し出したのです。
  大きな波が迫って来て、また去って行きます。この家、この船がある嵐の夜何処からともなく現れて、また別の嵐の夜に何処へともなく去っていくだろうことは、潮騒が教えてくれました。
  女の子が差し出したものは貝がらでした。
  雲母のように虹のかかった銀色に輝き、深い海溝に棲む人魚の調べを奏でます。
「マリィ、いけないわよ」
  船の中から声がしました。でも回りを飛び跳ねている子供たちのなかに外国の子供は一人もいません。みんな黒い髪、黒い瞳の子供たちばかりです。彼等は死人とは違います。みんな生きていて金色の生命の光をまぶしいほどに発散させています。
  私は魚になって難破船の中に入りました。
  船は左舷を下にして横倒しになっており、前艢がまっ二つに折れています。船体の外側にはフジツボがびっしりと何層にも張りついていて、剥がし削ろうとした跡はありません。
  扉を潜って船室に入ると、そこは家でした。床には暖かいふかふかの絨緞、父の屋敷にあったものと同じのチッペンデール風の家具、海の向こうが移る鏡台、焼き立てのクッキー、ただ、暖炉の火だけが冷たく、氷の炎でした。「いらっしゃい」
  この家の女主人は、私と同じ年頃の、亜麻色の巻き毛の背の高い死人です。そう、彼女は死んで久しい存在でした。生気のない碧い瞳にはハイデルベルグの女学校の塔から見た森と湖の景色が焼きついています。
「始めまして。私は水無瀬沙羅」
  私はドレスの裾をつまんで会釈しました。
  淑女の挨拶です。いつもは名乗りたくない本名をつい名乗ってしまったのは、彼女に、儚くもろい夢の影を見たからでした。
  私にも水無瀬家の呪われた血が流れていることをはっきりと宣言して、相手を安心させたい気持ちに駆られたのかもしれません。
  彼女も分かってくれたのか、十数年ぶりのようなぎこちない微笑をくれました。
「私はエリーゼ。この船で、乗客の中の小さい子供さんの教育を承っております。決して子守ではありません。子守の少女は別に雇われています」
  もう一度辺りを見回しても、エリーゼと子供達以外、大人や船員の影はありません。この船はかつては遠洋航路の豪華船だったのでしょうか?  船首のところには「メリジェーヌ」という船名がかろうじて読み取れるだけ残っていました。
  子供達が皆日本の子供で、旅行に相応しい服装をしていないのも気になります。
「エリーゼ、この船はどこを出発して、どの港へ着くのでしょう?」
  私はクリームの壁に紫檀の額に入れられて掛けられた茶色に日焼けした世界地図を見て訊きました。
「あら、あなたは乗客なのにこの船の停泊地もご存じないのですか。リヴァプールを出て、リスボン、マルセイユ、アレクサンドリア、亜拉毘亜のアデン、印度のボンベイ、セイロンのコロンボ、インドネシアのジャカルタ、香港上海を経由神戸、横浜行きの汽帆船メリジェーヌ号と言えば、どの港でも一番首を長くして待たれている海の貴婦人ですよ。
  上海を出て三日、そろそろ日本が見えてくる頃ですわ」
  エリーゼがそう言った途端、難破船の家は青空に純白の帆を上げて処女航行する汽帆船メリジェーヌ号の姿になりました。
  帆の回りには鴎や信天翁が沢山飛んでいます。甲板には燕尾服にシルクハット、小さな日傘にドレス姿の貴顯淑女が大勢出て、湿気を含んだ東シナ海の風に当っています。子供たちは船員にまとわりついて、双眼鏡を借りたり、ロープの結び方を習ったり、それはもう元気そのもの…
  不思議なのは、背広に蝶ネクタイ、ドレスの小さな紳士淑女に混じって、着物姿の漁師の子供たちがいることです。でも、誰も何も言いません。彼等正規の乗客には、この子たちの姿が見えていない様子でした。
「そうね。嵐にも会わずに本当に穏やかな航海だったわね…」
  そんな私の返事に重なるように、マストの上の見張り台から叫ぶ声が聞こえました。
「嵐だ!  嵐が来るぞ!」
  エリーゼと私は船室を出て、水夫たちの指さす方向を見ました。
  その先には真っ黒な雲が空を覆い尽くしていて、ゆっくりとこちらへ向かってきます。
  ふいに私はこのメリジェーヌ号のことを思い出しました。
  つい二、三年ほど前のことでしょうか。同じ名前のリヴァプールの造船所で進水したての豪華客船が嵐に会って座礁したのです。幸い、乗客と乗員は殆どがボートで脱出し、親切な沿岸の漁民に助け出されました。亡くなったり行方不明になった人はほんの僅かだったと記憶しています。
「ちょっと失礼します。これから年少の子供たちには足し算を、年長の子たちには英語を教えなければならないのです。…嵐の中に入ったら、それどころではないかも知れませんけれど」
  エリーゼは乗客の子供たちと、漁師の子供たちを引き連れて上層の船室に行こうとしました。
「待って!  着物を着ているのはあなたの子供たちじゃあないわ」
「どうして勉強してはいけないの。読み書きや計算は、どんな子供にも大切だわ」
  エリーゼは振り返ると、目も眉も、唇も吊り上げて私を睨みます。
  足元に大きな穴が開いたかと思うと、私は無数の水泡に囲まれながら、底無しの奈落の水底に落ちて行きました…

  目を覚ますとそこは漁師の家でした。網や漁に使う道具が干してあり、揺り籃では赤ん坊が眠っています。
「大丈夫かね」
  そう声を掛けたのは、若い漁師の妻でした。「…『難破船の家』の近くで倒れていたのを、子供たちが知らせてくれたんで担ぎ込んだんだけれども」
「おかみさん。お願いですからあの難破船の家を、男衆に頼んですぐに焼き払って下さい。でないと今に大変なことに…」
  跳ね起きようとして、私は自分が裸なのに気付きました。
「あんたの洋服なら洗濯しておいたよ。ぬるぬるになっていてね。かすかに息をしていなければ、どこから見ても長いこと波にもまれていた土左エ門だった」
  彼女は網を繕う手を休めません。
「船を焼いてくれるのですか。焼いてくれないのですか」
  私は敷布をまとって立ち上がりました。
  赤ん坊が泣き出します。
「さあ、あそこは子供たちの格好の遊び場でね。ご覧の通りここは貧しい村で、あれだけ陸に打ち上げられていれば、そう危険もないと思うよ」
  彼女は赤ん坊を抱き上げてあやします。
「あれは座礁したメリジェーヌ号の残骸なのでしょう?」
「だったとしたらどうだと言うの?  海や磯で遊ばれるよりもずっと安全よ。それに、あそこで遊ぶようになってから、子供たちの小学校での成績が上がっているの。きっとあの中には世界地図や九九の表や他のお稽古の道具が残されているせいだわ。
  貧乏な私たちが、浜辺に打ち上げられたものを使ってどこが悪いの?  あなたがあれをどうしても何とかとたいと言うのなら、お役人にでも掛け合ってみたらいいわ」
  私はこれ以上何を話しても無駄だと思って軒に干してあった生乾きのドレスを着ました。「助けて下さって有難うございました。でも脅す訳ではありませんが、あなた方があの船の残骸を何かの形で利用しようとしているのなら、後でしっぺ返しがあるかも知れませんよ」
  彼女は少し肩をすくめただけで、プイと背中を向けました。腕の中の赤ん坊だけが不吉な空気を恐がるように泣き止みません…
  私は再び「難破船の家」へと向かいました。子供たちは、まるでそこだけがいることを許された場所であるかのように、干乾びた海草や藻のカーテンが風に揺れているそこを離れようとしません。
「ここは、そんなに楽しい?」
「えーえ、たっのスィーワ」
  エリーゼがマリィと呼んでいた女の子が、砂に指で花文字のアルファベットを書いていたので話しかけると、彼女は少し巻き舌の、奇妙になまった日本語で答えました。
「その字、エリーゼ先生に習ったの?」
「イエス!  先生はいつも『世界中の人々はみんな仲良くしなければいけない』と言ってるの。独逸のヒトラーみたいに力づくで、というのはいつか破綻するって…」
  他の子供たちも皆、英語で「トゥインクル・スター」を歌ったり、仏蘭西語で「マルセイエーズ」を口ずさんだりして、まるで国際学校の生徒といった様子でした。
  こんなに恩恵を与えているマドモアゼル・エリーゼについて警告しても、まるで無駄なことが分かります。
  でもエリーゼはメリジェーヌ号付きの教師だった頃のエリーゼではありません。亡霊の上、自分がかつて教えていた子供たちと、漁師の子供たちの区別もつきません。とても心配です…

  私はいったん、漁師町を去って汽車と連絡船を乗り次いで神戸に向かいました。メリジェーヌ号のかつての乗組員のうち、誰かが残っていないか、残っていれば座礁した船やエリーゼのことを覚えていないか話を聞くためです。
  賑やかな店、さびれた店、カード台やビリヤード台のある店、何軒かの波止場の酒場を回った末に、とある場末の一軒で、かすかながらやっとメリジェーヌと同じ霊気に行き当りました。
  探偵の真似事をする時、無用な誤解を避けるように私は必ず水晶玉とタロットと、普通のカードを持っていきます。でなければ、男たちは酒を勧め、いきなり値段を問い、辻姫は「他所者が縄張りを荒らしに来た」と思って意地悪をします。
  自分ではちゃんとした格好をしているつもりでも、物乞いに間違えられることはしょっちゅうだし、石を投げられたり、追い出されたりすることも少なくありません。
  その酒場の鎧扉はセイレーンの悲鳴のような音を立てて開きました。床のタールは剥げて斑になっており、テーブル・クロスは反吐の後のような染みだらけ、鉢の植木は完全に枯れていて、蝿がぶんぶんと音を立てて飛んでいました。
  外のヴェランダ・ポーチにも、店のテーブルにも酔っ払いの船員が酔い潰れていて、残りの客も血走り坐った目で私の姿を舐め回します。
  生のままのコニャックをブランデー・グラスに入れて注文すると、私はいつものようにカウンターのスツールに足を組んで座ります。「姉ちゃん、占い師かい?  金さえ払えば
もっと他のこともしてくれるのと違うのかい」
  冷やかしは相手にしません。グラスに残っ酒をそんな連中の頭にかけてやると、一言、低く呟きます。
「メリジェーヌ」
  キョトンとする顔、もう一度言われたら今度は真剣に聞き取ろうとする殊勝な顔、阿呆面の向こう、店の奥のテーブルに一人で安物のベルモットをチビリチビリやっていた初老のイタリア人が顔を引き吊らせ、思わず手にしたグラスを落として割りました。
  私は立ち上がり、野次馬を払い退けると、ゆっくりとその男の前に進みます。男はあたふたと逃げようとしましたが、足がもつれ、油ぎった椅子ごと転びました。
  男の背中に崩れこぼれた壁の漆喰が降り掛かります…
「貴方、メリジェーヌの乗組員ね」
  水晶球を鼻の先に突きつけてやると。赤かった男の顔は見る見る蒼白になりました。
  昔しはそれなりに一所懸命に働いて、品も威厳もあったに違いないごま塩の鬚面は、今ではすっかり落魄し切って見る影もありません。かつては多くの部下を睨み付けたであろう灰色の瞳は宙をさまよい、汚い言葉を怒鳴り付けたであろう唇からはだらしなく涎が垂れています。
「お、俺は関係ねぇ!  関係ねぇんだ!」
  節くれ立った震える手がテーブルクロスの端っこを、まるで唯一の命綱であるかのように掴もうとします。
「何言ってるんだ船長、あんたはかつて、あのメリジェーヌ号の船長だったじゃねぇか」
  カウンターのほうから、他のテーブルから割れたガラス窓の外から嘲笑う声が押し寄せます。
「…メリジェーヌ号に乗る前は、もっと山手の、名の通った豪華船の船長や高級船員だけが行く店で、最高のワインしか口にしなかった」
「それが今では一文なしのアル中だ。昔のことは聞かないのが仁義だが、あんただけには聞いてみたいね」
「メリジェーヌで何があったの?」
  私は容赦なく男の死んだ魚の目を見つめます。
「言えない。言ったところで誰も信じてはくれない」
「私は信じる。信じてあなたの背負った十字架を降ろしてあげる」
  私は手を貸して船長を椅子に戻しました。
  船長は相変わらず震える指先で逃げ場を捜そうとしています。
「主よ!  とても人に言えることじゃあねぇんだ。洗礼を授けてくれた神父様にも言えるものか」
「声が聞こえたの?」
  そう伝えた瞬間、相手の目は眼球がこぼれ落ちそうなほど見開かれ、口は空気を求めるかのようにあぷあぷと動きました。
「あんたにも、聞こえたのか」
  ほとんど聞き取れないような囁きでしたが、それまでの怒鳴り声よりもよく聞こえました。「メリジェーヌ号の残骸の跡を通った時に。…でもそれだけじゃあない。以前からもっといろいろと聞こえたの」
  負けないくらいに低く囁き返し、船長の肩を抱いて外へ出ました。
「『もっといろいろ』?  それは大変だろう」
  船長の表情が次第に、昔の大勢の船員や水夫たちを束ねていた落ち着きのあるものに戻って行きます。
  船長は誰もいない突堤の端に腰を下ろし、行き交う船の灯火を眺め、霧笛を聞きながら語り始めました。
「メリジェーヌ号というのは今度の座礁以前にも一度沈んだ船なんだ」
「何ですって?」
「名前は言えないが、ずっと昔大西洋を航海中に、氷山に衝突して沈んだ豪華客船があっただろう?  考え得る限りの安全装置が備えられていて、決して沈まないことが自慢のはずの船だった」
  私の子供心にその悲劇は強烈に焼きついていました。「T**号」。船が沈むと分かった時でも乗客たちは決して取り乱さず、整然と女子供から先に救命艇に乗せ、残った人々は最後までポーカーを楽しみ、楽団は音楽を演奏し続けたあの船…
「メリジェーヌ号に乗り組む前、俺は地中海航路の客船の船長として、何不自由のない暮らしをしていた。ジェノバには妻と三人の子供もいた。半年は海に上、半年は陸、人も羨む気楽な毎日だった。
  そこへ、あいつが現れた」
「あいつ、とは?」
「カスパル、と名乗っていたが、どうせ偽名。正体は悪魔だろう。フラマン系の彫りの深い端正な顔をした背の高い若い男で、大層な大金持ちらしく、いつも燕尾服に帽子姿だった。…そのカスパルが船員溜りに出没して、『自分は今度新しい船を造ったから、乗組員を募集している』と触れて回ったんだ。
  長期航路の客船で束縛は長くなるが、その分賃金は相場の五倍。不景気の今日、これは相当の訳ありとみんなが思った。船主自身が船員を集めに回るもの珍しい。それも大きな船ならなおさらだ。
  で、その訳を聞くと、カスパルも神妙な顔になって答えた。
『実は、多少事情があってね。だから多少のことには驚かない勇敢な者を集めたい』
  船乗りはみんな迷信深い。ジェノバの船員は特にそうだ。これでほぼ全員がこの話から降り、部屋には俺と奴だけが残った。
『「出る」のか?  新しく造った船じゃあないのか?』
  酔っていた俺は冗談半分に尋ねた。するとカスパルは真顔で小さく頷きながら答えた。『違う。引き揚げたんだ』
  これで、奴の言う船が、余り大した大きさでない、観光か、周遊目的の船であることを想像した。
  幽霊船観光や幽霊屋敷の見学は少し昔、降霊術の流行とともに  物好きの金持ちたちの間ではやったことがあった。
『何という名前の、どれぐらいの大きさの船なんだ?』
  奴は間髪を置かずに答えた。
『T**号だ』
『冗談がきついぞ。あんな大きな船引き揚げられるものか。それにとても深い海の底に眠っているんだ。洒落にしろ引き揚げようという話も聞いたことがない』
『引き揚げたんだ。何故なら、僕のただ一人の妹エリーゼが、船とともに沈んでいたからだ。いまは「メリジェーヌ号」と名前を変えていて、T**号と分からないように汽帆船にまで改装してある。部屋の内装も一新した。
  しかしそれは間違うことなきT**号だ』『T**号の船員になれ、と?』
  この時、俺は金色の前髪に隠れた奴の瞳に魅入られてしまっていた。
『あんただったら船長だ。…頼む。船は何もしなくても動く。ただ、お上や乗客を納得させるために、船員や水夫が要るんだ。僕のエリーゼは死んでいるから、船と一緒でなければ生きられないんだ』
  俺は懇願するカスパルに連れられて、港に停泊していた「メリジェーヌ号」を見にいった。
(この船は生きている)
  長年船乗りをしている直感でそれはすぐに分かった。甲板から船窓、黒い石炭をまっ赤に燃やす機関室からマストまてっぺんに至るまで生きてしっかりと呼吸しているんだ。
  見るからに気色の悪い存在だったが、本当のところの真実と、正体を突き止めたくなる船でもあった。
  金と名誉と興味に負けた俺はこの仕事を引き受けることにして、親しい仲間を口説き回り、頭数の足りない分はならず者さえ集めて船員に仕立て上げた。
  事情大ありとは言え、これほどまでの船の船長の地位と給金は冒険するに値すると、その時は思ったんだ。
  こうしてメリジェーヌは無事にリヴァプールを出港し、あちこちで乗客を乗り降りさせながら遥か東の東洋の国日本目指して船出した。
  海の上に出てから分かったんだが、メリジェーヌはカスパルの言う通り、誰も操縦する必要のない「意思を持った」船だった。
  舵輪を動かさずとも常に必要な方向に針路を取り、船を乱暴に扱おうとした水夫たちが海に振り落とされる事故が相次いだ。石炭を炊かなくても前に進むような気もした。
  航海士も船員たちも、そのことを非常に気味悪がり、途中の港で何人かが降りて、新たに船のことなんか何も知っちゃあいない連中を雇わねばならなかった。
  無論、乗客はそんなことを露ほども疑ってはいない。特等の船室にはカスパルとエリーゼの兄妹もいて、妹のほうは時折年長の子供たちの家庭教師をやっていた。別にそんなことをしなくても金はいくらでもある様子だったが、いつ見ても寂しそうな少女で、仕事はそれを紛らわせるためのようだった。
  船は特に異変もなく、日本の近くまで来た時のことだ。
  横浜に着いたら俺はカスパルに頼んで船長を辞任してメリジェーヌを降ろさせてもらうつもりだった。金は十分に稼いだし、この船がどんな船かもだいたい判ったつもりだった。しかし…」
  何事かを言おうとした瞬間、一本のナイフが私の頬をかすめて船長の胸に突き刺さりました。
「!」
  私は咄嗟に船長の腕を握り引っ張起こそうしましたが無駄でした。船長はこと切れて、目を大きく見開き、両手をこちらへ差し出しながら、ゆっくりと海の中に落ちて行くところでした。
  胸の真ん中には、柄の部分に飾りの施されたナイフが突き刺さり、汗で汚れたシャツを赤く染めていきます…
  ふわりふわり…
  思わず母の最後を思い出さずにはおれませんでした。
  しかし、海の上にバシャリと仰向けに落ちた船長の胸に、もはやナイフも血痕もきれいさっぱり消えてなくなっていました。
  振り返ると、そこには燕尾服にホンブルグ帽をかぶった背の高い金髪の若い男が立っていました。
「危ないところでしたね。彼は心を病んで、危うくあなたを殺すところでしたよ」
  男は銀の煙草入れからキャメルを一本取り出してジッポーのライターで火を付けました。「あなたも如何ですか」
  勧められるままに受け取り、ついでにライターの紋章を見ました。その泣き声を聞いた者は必ず近いうちに死ぬと言うアイルランドの女妖怪バンシーの船首像。
  …その昔、大英帝国の草創期、キャプテン・ドレイクを始めとする海賊たちが女王エリザベス一世の命を受けて七つの海を荒らし回っていた頃。一味の中に妖術の使える者がいて、敵の妖術師の術を破ったり、財宝の中で呪われている物を見分けたり、船に取り憑いた悪霊を追い払ったりすることが生業の秘密結社があったと聞きます。
  彼等の旗印がこの「泣き女」の船首像だったはずです…
「カスパルね。殺人者は貴方よ。船長が私を殺す理由などなくてよ」
  私は、殺された男の体温の残っている椅子に腰を下ろし、上目使いに相手を見ながら煙草を深々と吸い込みました。
「お察しの通り。僕は君の言う通り元メリジェーヌ号の船主だ」
  そう名乗りつつ、まるで改めて自分に言い聞かせるみたいに軽く目を伏せ、小さく頷きます。
「…いずれにせよ、酒に溺れて落ちぶれたあんな男の与太話など、お信じにならぬことです。『生きている船』などとは!
  仮に億万に一つ本当だとしても、雇われた者は雇った者の秘密を守るべきです。取り交わした契約書にもそのことはちゃんと認めてあったのですから、私には彼を処罰する権利があります。約束不履行で。
  その瞬間、夜の黒い波の打ち寄せる突堤は、アッという間に港の夜景を見下ろす瀟洒なレストランへと姿を変えました。
  糊の効いた真っ白なお仕着せを来たウエイターが注文を取りに来ました。カスパルはシャトー・ディケムと海亀のスープ、松露のサラダ、仔牛のレーヤー・ステーキ、杏のシャーベット、マンダリン珈琲のコースを注文しました。
「我々…と言っても、もはや僕とエリーゼだけなのですが」
  老ソムリエによって注がれた極上の赤葡萄酒を満たした、シャンデリアの光を受けて七色に輝くベネシアン・グラスのコブレットを手にしたカスパルは、溜め息まじりに呟きました。
「…さて、何のために乾杯しましょうか」
「船は失ったものの、命は殆ど失われなかったメリジェーヌ号の乗客と乗組員のために」
  私の瞳も葡萄酒色に染まります。
「そうですね。エリーゼも喜んでくれるでしょう」
  チンと金属が軽やかに鳴る音がして、グラスの中のお城が揺れました。欧州のどこかにある、兄と妹だけの城。
「あなたとエリーゼだけなのですね。考えるだけで外の環境を変えることが出来るのは」
  私はうやうやしく運ばれてくる料理には手を付けません。
「今や僕とエリーゼだけです。以前はもう少しいたと思いますが」
  カスパルも食べません。
「もちろん、それ以上の秘密はお聞かせ頂けないのでしょうね」
「残念ながら、そうです」
  それはもう聞かなくても分かりました。
…メリジェーヌ号は確かに嵐の夜に座礁した。けれども、乗客と乗員の殆どは救助されて、今はそれぞれの場所で元気に活躍している。もっともそれ以降の事故や病気などで亡くなった者はその限りではない…  この上何を知る必要があるでしょうか。
「他のメリジェーヌ号の生き残りの方…と言ってもほぼ全員がご健在だと思うのですが、その方たちに会うことも迷惑でしょうか」
「ええ、ひどい迷惑です。もしもそのようなことをお考えなら…」
  カスパル軽く目を閉じて何かを想い描く仕草をしました。
「私が先ほど頂いたお酒の中に毒が入っていたことでもイメージなさるおつもり?」
  相手の思考が乱れ、突然開いた瞼はあらぬ処を見ていました。
  私たちを照らしていたシャンデリアがくるくると回転し、光の束になったかと思うと、レストランは消え去り、霧ら浮かぶ倫敦塔や色とりどりの帆を張った地中海のヨット、陽炎に揺れるギゼーの三つのピラミッド、人間でごった返す印度の市場、セイロンの果樹園、中国のジャンクなどの背景が次々と現れては消え、神戸の波止場の桟橋に落ち着きました。
「失礼。せっかくの晩餐を台無しにしてしまって誠に申し訳ない…」
  カスパルは両手で顔を覆って波止場のベンチに座り込みました。
「…お願いします。これ以上もう、メリジェーヌの秘密を暴こうとしないで下さい。
  暴いたところで、誰も得をしません。誰も幸せになりません」
  私は彼一人をベンチに残して、桟橋の端の波打ち際まであるきました。穏やかな銀の滴が硝子の靴にかかってキラキラと輝きます。
  葡萄酒を頂いたというのに、酔いはまるでありません。
  その特別な力によって、僅かな時間の間だけ人間を取り巻く背景を変え得るエリーゼとカスパル。妹思いのはずの兄は、どうして座礁地点の砂浜に妹を置いたままにしているのでしょう?
  大勢の人が遭遇したのだから、嵐は事実です。しかしそれに伴う座礁は果たしてそのせいだけでしょうか。カスパルは船主、彼が悪意をもってそうしようと思えば出来る立場にあります…
  船長が亡くなって真相を知っているのはどうやらこの二人だけ。しかし彼らの心もまた潮に浸かった時計みたいに壊れ掛けています。
  両親の時と同じく、破滅の予感だけは落盤を予知する小鳥や栗鼠以上に感じます。
「エリーゼさんに会わなくてもいいんですか」
  私は彼のところまで戻ると尋ねました。
「会ってどうなると言うのだ。ますます辛くなるだけじゃないか。あの嵐さえなければ…」
  それだけ言うと彼の姿は幻のように掻き消えました。
  でもこの晩に起こったことはみな真実でした。翌朝、酔っぱらって誤って海に落ちた元メリジェーヌ号の船長の遺体が釣り人に発見されたからです。ただし、その胸にはナイフによる傷などどこを捜してもありませんでしたが…

  海の上にはたくさんの不思議があります。幽霊船、セントエルモの灯火、サルガッソー、大洪水の時から行方不明のもう一艘の箱船。
  船員が海の上で愛する家族の思い出を捨てると、捨てられた思い出は海の上に小さな町や村を作って幻の人々が生活を始める、とも言われています。
  私は神戸の外国人居留地の新聞社へ赴いて、彼の国が伝えるメリジェーヌ号の進水から座礁に至るまでの事件の詳細を調べることにしました。
  バンシーの生き残りで最高の魔導師カスパルも古新聞を読み返すことぐらいは許すでしょう。

  メリジェーヌ号がT**号と関係がある、とはかねがね噂に上っていたようです。

  あの有名な美談を残して沈没したT**号ではなく、もう一艘のT**号…  それはあくまで物理的にもう一艘のT**号が存在した訳ではなくて、あくまでイメージの上だけで存在する「沈み行くT**号」です。
  この「もう一艘のT号」は積んでいた救命ボートの数が少なく、少ないボートを巡って、乗客と船員が、乗客どうし、船員どうしがひどい争いを繰り広げ、海岸に打ち上げられた遺体の中には拳銃で撃ち殺されていたり、ナイフで心臓を刺されていたり、頭を殴られていたものがいくつもあったT**号です。
  子供は泣き叫び、船は修羅場と化しています。
  その船に乗り合わせた「バンシー」の生き残りで特別な「力」を持つエリーゼはどうしたでしょう?
「力」で救命艇を増やせても、実際に乗ることはできません。まして氷山によって開けられた穴を塞ぐことも不可能です。
  人は自分の胸にナイフが突き刺さっているのに驚いて死にます。しかしもし、その時目をつぶっていたとしたらどうでしょう?
  エリーゼはきっと、自分の力を最大限にまで高めて「整然と女子供から順番に避難させる人々」をイメージしたのです。
  そんなイメージなどなくても、人々はそうしたかも知れません。しかしそうしなかったかも知れないのです。
  いずれにせよその後、T**号は沈み、術を用いたエリーゼも他の大勢の勇敢な人々と運命を共にしました。

  そのT**号を、同じくイメージの上だけの最新のサルベージ技術で引き揚げたのが、エリーゼの兄上、カスパルその人です。
  このカスパルついても外国の新聞は奇妙なことを載せていました。

  カスパルは、T**号が沈んで一年ほど経ったある日、ジェノバの港の最も大きな修理用のドックの事務所に現れて、こんなことを言ったそうです。
「私と私の会社の者が、かなり大きな船を引き揚げた。だから、内外装共に、ここにある設計図のように修理して航行可能にしてくれないか」
  良い儲け話だと言うので、ドックが喜んで引き受けると、翌朝、曳航も何もなしに、その船がドックに入っていたのです。しかしこの時の船はT**号とは似ても似つかぬものでした。もし似ていれば、本当の船主や乗客の遺族及び関係者から問い合わせが殺到したはずです。
  それでもなおかつ、不審に思った人々が、カスパルのが何者なのか調べようとしたのですが、出生その他、どこで生まれてどんな教育を受けたのか、まるで痕跡がありません。それでいてお金だけは存分に持っているのです。
  形は似ていなくても、「イメージ」としての大きさ、豪華さは、T**号にそっくりな船を引き揚げたカスパル…
  そのカスパルに関する僅かな噂が、小さな囲み記事で取り上げていたのです。

「近代科学の発達によって、中世の魔法、魔導は伝説や御伽噺の世界へと追いやられた。
  しかし、ここにまだその「術」をかたくなに継承する人々の末裔がいる。
『バンシー』と言う名のその秘密結社は、フリーメイソンや薔薇十字団ほどには知られていないが、そういう意味では本当の「秘密」である。
  彼等は人の死や大きな悲劇を予言することができる上、幻影を自由自在に操り、現実とイメージをごちゃまぜにすることによって敵対する者を撹乱してきた。
  曰く「敵国の人間は恐ろしい形相をしていてその頭には角が生えている」曰く「我等が今度進撃しようとしている土地は、緑豊で作物が育つ土地である」
  電信電話、新聞、写真が普及するに連れて民衆はこのような宣伝には容易に踊らなくなった。
  そんな訳で「バンシー」も今や滅びる寸前である。その十数代目の当主カスパル氏は、新しい事業を模索中だったが、最近唯一人の肉親を失い、ひどく落胆している…」

  調べものが終わると、私はあの浜に戻りました。
  難破船はあのままの姿で潮風に洗われていましたが、気のせいでしょうか、赤錆も貝殻も以前よりひどくなくなっていて、まるで病人が少し回復したようにも見えます。
  噂が噂を呼んだのでしょう、子供たちの数は増えていました。
「やあ、またあのお姉ちゃんだ」
  マリィが長い髪をなびかせて走り寄ってきます。ピンクのドレスの裾がふわりと膨らみます。
  ドレス?
「ちょうどいい服があったのね」
  白い百合の花の髪飾り、リボンの付いた赤い靴。彼女にはもう漁師の娘だった面影はありません…
「沙羅さん、また来て下さったのですね」
  子供たちが全員洋装なのに対して、エリーゼは着物に袴姿で、金髪をうしろに垂せて束ねていました。
「どうぞ。船の具合は前よりもずっと良くなっていますわ」
  彼女の言う通り、誰が修理した訳でもないのに割れた船窓は元のようにはまり、廊下に絨緞は敷き直され、家具はニスを塗り直されていました。
「神戸で貴方のお兄さん、カスパルと、船長にお会いしましたわ」
  私は真っ白なテーブルクロスと、マイセンの一輪挿しとともに甦った一等レストランのの楽団席にもたれて言いました
「すでにお気付きでしょうが、私たちバンシーは兄妹、姉弟の兄妹の恋人同士で生まれてきます。そして、二人同時でなければ死ぬことができません。何故なら、私はカスパルがイメージすることによって生き長らえ、カスパルは私が思い出すことによって存在しているからです。イメージの連鎖、とも言いましょうか。だから喧嘩も出来ないのです。どちらかがもう片方を消えてしまえと思うだけで消えてしまいますから。そしてそれと同時にそれを最初に思った方も消えてしまいます。私たちはお互い決して会わないように心がけています。でも人の心の中の人はほとんどがイメージの存在。慣れてしまえば別に何でもありませんわ」
  エリーゼはこれから大勢のお客様を招く女主人のように、その一輪挿しに万華鏡のような花束を挿して行きます。
「T**号が沈むことを予感して、わざわざ教師として乗り組まれたのね。勇気のある方だわ」
  背後のオーケストラ・ボックスにはそれまでなかったピアノやセロといった大型の楽器が現れ、演奏者もいないのにオペラの一節を奏で始めました。「君よ知るや南の国」…ミニョンの冒頭です。
「兄カスパルはどうしてもT**号を引き揚げねばなりませんでした。私…即ち自分自身を深く愛していたからです。『力』を使っても私が救命艇に乗らなかったという『歴史』まで変更することはできません。だからどうしても引き揚げなければならなかったのです」「でも、T**号を実際に引き揚げるなど不可能だわ」
「おっしゃる通りよ沙羅。たった一つの方法を除いては」
  エリーゼは目をぱちくりさせました。
「…兄と私は共同で、T**号…メリジェーヌ号に命を与えたの」
「命…  すると船長の言ったことは真実だったのね。この船は生きている、と」
「そう、巨鯨のように生きて呼吸をしているわ。私がここを離れると死んでしまう。繊細な小鳥のように。メリジェーヌが死ぬと、私も死に、兄も死にます。私たちが生き延びるためには、どんな状態になろうとメリジェーヌと一緒にいる他はないのです」
  子供たちが入ってきました。小さいながらも男の子は夜会服、女の子はドレスに盛装しています。男の子は女の子のために椅子を引き、給仕はその男の子の席の椅子を引いて
待っています。
  総勢十数名の楽団が現れて優しい円舞曲を弾き始めます。赤いサクランボウの入ったカクテルが配られ、気の早いカップルは早くも踊り始めました。
「それなのに、あの船長は、嵐が近付くなり恐れを成して、この浜に座礁させてしまった。何という憶病者でしょう!  嵐が船の記憶を思い起こさせ、メリジェーヌが沈みたがるとでも思ったのでしょうか!」
  エリーゼの瞳がまた再び大きく吊り上がりました。
「あの船長さんは悪い人ではないわ」
  いつの間にか蚊の鳴くような小さな声に
なってしまっている私。その気になれば、エリーゼは私を南洋の小さな島へでも、北の涯にある氷の大陸へでも飛ばすことができる気がします。
「ご覧の通り、船は明日の早朝出発します。今夜はその前夜祭よ。あなたも、もし最高級に豪華な船旅がしたければ、船主としてご招待申し上げるわ。旅には、兄カスパルも合流するはずよ。もちろん、私たちは決して会わないけれど…」
「是非、お願いするわ。…じゃあ、荷物の用意があるから」
  私はそう言うと慌てて村のほうに戻りました。
  知らない間に夜はめっきりと更けています。夜空には雲が覆い、星一つありません。村の通りに立っても明かり一つ見えず、家々の戸には殆ど木が十字に打ち付けられています。『どうして?』
  驚く私の目に板に書かれた書き置きが目に入りました。
「貧しくてここではとてもやって行けなく
なったので、村を上げて南米に移住する」
  ような旨のことが書いてありましたが、どうせ嘘です。みんなエリーゼとカスパル、それにメリジェーヌに騙されているのです。
  いかに豪華に見えてもメリジェーヌは、気の向いた時に乗客とともに沈むことを楽しみにしている呪われた貍の泥船です。
  私は波の打ち寄せる海岸に足を抱いて座り、どうしたらよいかを考えました。
  水平線にかすかに曙がさしてきても、カスパル、エリーゼ兄妹に諦めさせる方法など思いつきません。
  朝靄に汽笛の音がボーッと長く尾を引いて響いたかと思うと、すっかり美しく甦ったメリジェーヌ号が、曳き船もないのに、まるで生き物のように、ザザッ、ザサッと船体を這い引きずって海へと入って行くのが見えました。
「待って!」
  私は砂浜を蹴立てて駆け出し、追い付こうとします。
  直されかけられていたタラップが再び下がり、水夫たちの不安そうな眼が私を見つめます。みんな昨日までは魚を漁って暮らしていた人々です…
  間一髪、船が深みに達する前に、タラップの手摺りにつかまることができました。
  ゆっくりと甲板に上がり、水に濡れたドレスの裾を絞ると、エリーゼと子供たちがやって来ました。
「一緒に旅をしてくれるんですね」
  白いサテンのドレスに麦藁帽子のエリーゼは、朝日に目を細めます。
「アルゼンチンのブレノスアイレス行き。南洋航路で余り寄港もしないので、ゆっくりお友達になれますわ」
  振り向くと陸地はどんどんと遠ざかって行きます…
  パスポートもなければビザもなく、まして移民許可証やお金もない旅。
  しかし大人も子供もまだ見ぬ新天地に思いを馳せ、豪華な船内を楽しんでいます。
「船長さんはどなたですの?」
「兄のカスパルがやることにしましたの。この船は勝手に動くので、誰がやっても同じことが分かりましたので」
  私は船長室というよりは降霊術師の部屋という感じのする、全ての窓が分厚い天鵞絨の
カーテンで覆われたカスパルの居室に入りました。そこには地球儀も羅針盤も海図もなく、古ぼけた硝子のランプが弱々しく照らしているだけです。
  ふかふかのソファーには、船長の制服ではなく、相変わらず黴臭い燕尾服のカスパルの半病人の顔が下からのランプの光に照らされて、ぼんやりと浮かび上がっていました。
  前のメリジェーヌの船長を幻のナイフで死に追いやった男…いいや、ひょっとするとそれもまた幻に過ぎなかったと誰が言い切れるでしょう。
「やぁ沙羅、この船は永久に目的地には着かない船かも知れないね」
  カスパルは美しい顔とは不釣り合いな芋虫のような両手の指を組んでランプにかざします。
  傍らには何百年も前の古い皮表紙の黴臭い分厚い本が開いたまま置かれています。文字や図版から察すると、明らかに魔法の本です。
  目が慣れてくるに従って、壁一面に据えられた黒いマホガニーの書架にギッシリと並べられているのは全てその種の本であることが分かりました。
「…目的地には決して到着しないように出来ている…」
「もうこれ以上、人々を||子供たちを巻き添えにして恐ろしい目に合わせないで。どうしても乗客を乗せたいのなら、幻の乗客を乗せて走れば全てが貴方がたの自由でしょうに」
  私が向かいに座ると、カスパルはその両手で髮を掻きむしりました。
「これは、本当の船じゃあないくせに、本当の船のふりをしたがっている。旅立ちを愛し、未知への到着と、乗客との別れの場面をひどく恐れている。物語を完結させない小説家の心だろうか、大学を卒業しない学生の心だろうか、とにかく永遠かつ無限の航海を楽しんでいたいみたいなのだ」
「定められた以外の、別の最終目的地があって、そこへ着きたがっているのではないかしら。だから、現実の苦痛に満ちた終点が見えてくると沈んでしまう…」
「その目的地とはどこだ?  絵に描いたような理想郷か?  …それとも完全な死を与えてくれる地獄か…」

  航海に出て最初の晩、私はいままで感じたことのない重苦しい気に思わず目を覚ますと特等室の羽根布団を飛び出して甲板へと出ました。
  甲板の上、海の上には乳のように濃い霧が立ち込めて渦巻き、流れています。
  時折風が吹くと、藍色の海面がほんのわずか顔を覗かせます。
  喫水は浅く、赤い識別塗料を塗ったメリジェーヌの船体がゆらめいて見えます。
  と、その時です、その部分がまるで呼吸しているようにプッと膨れ、スッとしぼまりました。膨らんだ時には赤い動脈、青い静脈が網目のように浮き立ち、腱も張り詰めて見えました。
「生きている…」
  はっきりとそう確信した私は、船室の壁を指の腹で撫でてみました。すると今まで鋼鉄に白いペンキを塗ったものと疑わなかったそこは、蛙の卵、マシュマロのクリームのように分離して、なめくじのように動き始めました。
  甲板はエイの背中のようにグニャグニャと波打ち、いくつかある煙突は八頭の大蛇のようにうねります。
  光を放ち、半透明になった甲板の下では、大勢の乗客が驚愕し、逃げ惑っていますが、どうしようもありません。扉も階段も梯子もこんにゃくのようにグニャグニャになって、それを通ってどこかへ行こうとしても転んで打ちのめされるだけです…
  船体は次第に透き通り、ゼリー状のものに色糸の神経が縦横に走ったものに変化していきます。船の機関室、動力のあたりには真っ赤な心臓が浮かび上がってドクンドクンと鼓動をしているのが見えます。
  ところどころ癌のように固まっているのが心臓を支える周辺体でしょうか…
  大抵の妖かしには驚かない私も、足を震わせ茫然と立ち尽くすばかりです。こんな巨大な怪物とどうやって戦えばよいかただ途方に暮れるばかりで、何も出来ません。おまけにこいつは大勢の人々や子供たちを人質に取っているのです。
  私はついに初めて自分の悲鳴を聞きました。
  目が覚めると、顔も手も、全身脂汗にまみれてベッドの上でのたうち回っていました。
  跳ね起きてサイド・テーブルや船室の壁を触って見ます。それは暖かな木であり、ひんやりとした鉄でした。どこにでもある、安心できる「物」です。
  机の上の腕時計は真夜中を指しています。
  私はシャワーを浴び、服を着替えてコートをまとい、甲板に出ました。そこは一面、夢の中で見たのと同じ、乳白色の霧に覆われていて、海上も海面も見えません。
  他の乗客は全員寝静まっているのか、自分のデッキ・シューズの立てるペタペタという足音以外は、どんな音も聞こえません。
  そのうちに夢と同じように、霧が少しずつ晴れてきました。しかしメリジェーヌはメリジェーヌのまま。霧笛を悲しげに鳴らして夜の海を進んで行きます。
  そのうちに霧を掃いていた風が急に生暖かく、腐った臭いのするものになりました。
  木や魚や藻や、その他もろもろの崩れ去る気配が海の臭いに混じり合って、鼻をつまみ息を止めたくなるほどの空気の悪さを感じ、低い歌声のようなものが聞こえてきました。
  そのうちにメリジェーヌのま横に、黒い、いくつもの朽ち果てた船の影が突然姿を現しました。半分沈んだ船、転覆して船底をさらしている船、傾いた船、残骸になってしまった船。どの船も蜘蛛の巣や藻に覆われ、死の気配を漂わせています。
「船の墓場だわ…」
  私は思わずつぶやきました。
「そう、ここがそうなんですよ」
  後ろから突然声がし、私はビクリと震え上がります。ゆっくりと振り返ると、真夜中にもかかわらず燕尾服に正装したカスパルがポツンと立っていました。
「妹のエリーゼも審判の日までここで暮らさねばならないところだったのです。審判の日までですよ。考えるだけでも恐ろしいことです。そうじゃありませんか?」
  カスパルは船縁にまで歩みを進め、鉄の柵を両手で握り締めました。
  改めて幽霊船の方を見ると、様々な時代の衣装を身にまとった様々な人々がカスパルと同じ姿勢で、悲しそうな目でこちらを眺めていました。
「でもそれは、エリーゼさんの望まれた道だったのでは?」
「とんでもない!  とんでもない!」
  語尾が涙声になりました。
「…貴方そんなことがよく言えますね。もし何だったらいま、ここから向こう側へ乗り移ってもらってもいいんですよ」
  カスパルの目に光の粒が集まったかと思うと、カッと眩しい閃光を放ちました…

  気が付くと、私はメリジェーヌ号の甲板から他人事のように眺めていた幽霊船のうちの一つの、ぬるぬるとぬめる甲板の上に横たわっていました。
  苦労して何とか立ち上がっても、またすぐに何かにつまずいて転びます。
 髑髏…シャレコウベやその他の骨が辺り一面に散らかっているのです…
「声」が聞こえます。死者たちの大合唱が。
  最初に聞こえた歌声は、これだったのです。
  間近で聞くと耳を聾せんばかりの叫びと慟哭。こんなところ、生きている生身の者には一刻と持ちません。
  かと言って逃げる場所もありません。漆黒の海面には溺死者たちがヘドロのようにビッシリと浮かんでいますし、船倉も死人で溢れています。
「生きている…  まだ生きている奴が来たぞ」
  彼らは物珍しそうに近寄ってきます。
「なぁに、もうじきに我々の仲間になるさ。ここは我々だけの国なんだ」
  私は彼らに触られ捕まらぬように夢中で逃げました。
  灰色の綿菓子のような海生茸が一面に生え、ナマコが這い回る甲板から崩れ掛けた船室へと降ります。
  かつては貴婦人の控え室だったのでしょうか、鏡台の上やその床下には今なお色褪せない宝飾品の数々が散乱しています。が、もはや誰一人として顧みる人はいません。
  銃器室にはライフルも拳銃もそのままでした。私はその中の一丁を取って、迫ってくる者たちに向けて構えました。
「愚かな!  すでに死んでいる我らを一体どのようにして殺すというのか…」
  彼らを消滅させることが出来れば、カスパルもエリーゼも同じ方法で消し去ることが出来るはずです。そして二人が消えれば、呪われた船メリジェーヌも…
  祈り?  お祓い?  …いやいやそんなものはすでに彼らの遺族が遭難現場を訪れて入念にやっているはずです。ではなぜ彷徨し続けるのか?
  それはおそらく人間に魂があるように、船にも魂があり、それが沈んで後も、乗員乗客の魂を掴んで離さないのです。晴天の下、軽ろやかに航海した日を忘れることが出来ずに思い出を手放さないのです。メリジェーヌのように…。
  船倉まで降りると、どのような事故だったのでしょうか、船底には大きな穴が開き、とうの昔に沈没していても不思議ではないぐらい、ほとんど全体が水浸しになっています。
  上からは彼らが怒号とともに迫り、もう逃げる場所はありません。
  と、その時、私はかすかな満ち引きを繰り返している水面に、かすかな金色の光が差しているのに気付きました。
  思い切ってそれにそって水の中に入って行くと、身体は濡れず、息も出来ました。
  そこは幽霊船の中をも思えない部屋で、
シャンデリアが煌々と輝き、壁には美しい中世の綴れ織りが掛かっていました。
  何故でしょう、初めて来た部屋のはずなのに、とても暖かく、懐かしい雰囲気です。
  暖炉の近くの揺り椅子には、黒いドレスに身を包んだ老婆が座り、編み物をしていました。上の連中とは違って、途方もなく長生きしているけれど、命ある存在のようです。
「随分と苦戦しているようじゃないか」
  老婆はしわがれた流浪の民の言葉で呟きながら、こちらを振り向きました。英語や仏語を教える合間に、母が教えてくれた言葉です。「バンシーの一族と、メリジェーヌという幽霊船に悩まされているのです」
「なるほど。強敵には違いないね」
  目を炯々と輝かせた老婆はスックと立ち上がり、こちらに近付いて来ました。赤々と燃えていた暖炉の火がフッと消えます。老婆の炯々とした瞳が写っていただけだったのです。「…しかしこれしきに戸惑っていてどうする? あんた水無瀬の娘なのだろう?」
「水無瀬を知っておられるのですか?」
「方法は自分で考えるのだ。目的地に着くまでにな。でないとメリジェーヌはその直前で必ず沈む。わざと沈んで乗せている人々や子供たちの魂を食う。おまえさんのも含めて。…この前は前船長の機転でほとんどの人が助かったがな。分かったか?」
  老婆の姿が急に金色の光に包まれ、眩しく輝いたかと思うと、私はメリジェーヌの甲板に戻されていました。
  青い空にカモメや信天翁が飛び交い、先ほどまで船の墓場にいたことがまるで嘘のようです…
  人々はこれから向かう新天地での希望を楽しげに語り合っています。
「土地は豊かで何を植えても育つそうだし、もちろん、漁業も盛んらしい…」
「気候は温和で、嵐なんか滅多にないそうよ」「土地はただで分けてもらえるそうだぜ」
「おまけに最初の数年は彼の国の政府から金まで貸してもらえるそうだ」
  なるほど、それはそうかも知れません。しかしこのメリジェーヌ号は決してそこへは到着しないのです…
  洗濯物が潮風に揺れ、厨房からはおいしそうな料理の匂いが漂ってきます。
  こんなところで「この船がとんでもない幽霊船だ」と叫んでみたところで誰が信じてくれるでしょう?
  普通の人間ではまず無理です。「声」を聞くことの出来る者でないと…
「やぁ、これはこれは、沙羅嬢、あそこから戻ってこれたとは、少々見直しましたよ」
  見せかけだけの船長の制服に身を包んだカスパルは、いかにもそれらしい指示を高級船員に向かって下しています。
「…まぁせいぜい航海を楽しんでもらいましょう。どの道運命は変えることは出来ないのですから」
  それから数日、私は乗員乗客の中で、「声」を聞いている者がいないか、孤独を囲っている者がいないか注意して観察することにしました。
  いかに未来が輝いて見えても、捨てた故国を思い懐かしみ、懐郷病に罹らない者がないはずはないのですが、ことメリジェーヌに関しては大人、子供を含めてはしゃいでばかりで、そんな人も見当りません。
  術はじょじょに人の心まで完璧に支配しているようです。
  見渡す限り海と空だけの真っ只中で、私は完全に孤立してしまいました…
  と、その時です。私はエリーゼの生徒である無邪気な子供たちが、些細なことで争い、口喧嘩をしているのを見かけました。片方の子供が、もう片方の子供に拳を振り上げて叫びます。
「お前なんか死んじゃえ!」
  するともう片方も負けずに叫び返します。「お前こそ死んじゃえ!」
  私は閃きました。決して会わないように心がけているというカスパルとエリーゼを会わせて争わせるのです。
  悲劇を未然に食い止めるのには、どうやらそれしか方法がないようです…

「兄に会え、と言うのですか」
  エリーゼは黒板に散らばった白墨をチョーク箱に片付けながら言いました。
「…それは不可能だわ」
「どうして?  同じ船に乗り合わせているというのに。会わないほうが不自然よ。会って第二の命を与えてくれたお礼を言うべきだと思うけれど…」
「私は、正直言って、いまの生活を有り難いとは思っていないの。できれば…」
  後は言葉になりません。
  救われることが二人同時の完全な死と消滅を意味しているのなら、誰だって迷います。「お兄さん…カスパルは自分も死ぬのが嫌で、あなたを沈没したT**号から救ったのかしら」
  エリーゼの顔色が変わりました。
「兄はそんな人ではありません。あくまで私を愛してのことと思います」
「でも、せっかく甦っても語り合うこともなければ、喜びを分かち合うこともないなんて、とても空しいわ」
「そこまでおっしゃるのなら、会いましょう。今夜、真夜中の十二時、特等の食堂を貸切りにして!」
  エリーゼの同意を取りつけ、後はカスパルです。カスパルは相変わらず外からの光を全く遮った暗い船長室で、黴臭い古ぼけた書物を読み漁っていました。皮表紙の紋章から察すると相変わらず魔法の書物でしょうか、読みかけのものは床や机の上一面に広がり、ちらかるままになっていました。
「分かっている。エリーゼと会う件だろう」
  カスパルは本から顔も上げずに言いました。「いいとも、会ってやろうじゃないか。この不思議な力を授かってからというものはお互い一度も再会してはいないのだ。生まれ変わった彼女の顔も知らなければ声も知らない。何が起きるか、僕も楽しみだ」
  その日のそれからほど、時間のたつのが長く感じた日は初めてでした。
  乗客の人々は遥か日本の方向に沈む夕日を眺めながら、捨てた故郷に思いを馳せ、夜の帷が降りると、二等の食堂で賑やかに食事をとりました。
  空を覆い尽くす宝石、海を渡る蝶の大群、遠くすれ違う船の霧笛、船倉にある二等客室のランプが一つまた一つと消えて行くのを数えるうちに、十点鐘が鳴りました。
  私は、一足先に特等の食堂に入り、王の食卓のように細長い一番奥のテーブルに乗せられた十四脚の椅子を全て降ろし、新品のテーブルクロスをかけて、その上に一輪挿しと燭台を置きました。
  穏やかな揺れ、かすかな波音がいつになく眠気を誘います。
  十二時の鐘が鳴りました。見張りの交替する音が聞こえます。ですが、エリーゼもカスパルも未だに姿を見せません。二人とも約束を反故にして、現れないつもりなのでしょうか。
  もう少しだけ待ってみることにした私は、真ん中あたりの椅子に腰を降ろし、そのまま少しうとうとと眠り込んでしまいました。
  そしてハッと気が付いて目を覚ますと、燭台の蝋燭は全てかき消えていて、まっ暗に
なっています。
  その暗黒の中、片方の椅子の端には長い髪のエリーゼの影が見え、もう片方の椅子の端にはカスパルの燕尾服の影が見えました。
「やぁ」
  カスパルが低く、穏やかに声を掛けました。「お兄さま…」
  エリーゼの声は涙に詰まっていました。
「…語るのはよそう。我々は決して争えない宿命にあるのだ」
「こうして、席を一緒にしているだけでも、胸が一杯でございます…」
「このまま黙って、互いの影だけを眺めることにしよう。そちらのお嬢さんも、それでご満足頂けるはずだ」
  私は火薬のそれであるかのようにこっそりと、安全マッチの箱を取り出して擦ろうとしました。
「沙羅さん、止めて」
「火を点すと、我々は我々でなくなります」
  エリーゼもカスパルも、まるで自分がメ
デューサででもあるかのように、お互いが光の中で見(まみ)えるを恐れました。
「…真実のバンシーは、夜の闇の中だけの存在なのです…」
  光も、語らいもなく、ただテーブルの端と端に座った互いの鼓動と息遣いだけを聞くエリーゼとカスパル…
  しかし、どうしたことでしょう。これだけ用心の上にも用心しているにも関わらず、あれだけ静かだった海が少しずつ波立ち、荒れ始めました。
  船窓から見上げる空からは幾筋もの稲妻が走り、それもだんだんと数を増していきます。それとともに雷鳴も近付き、横殴りの雨が窓を濡らし始めました。
「やはり、我々は会ってはいけないようだったね」
  カスパルはそう言って立ち上がりました。「そのようですね、お兄さま。もう二度と会わぬように致しましょう」
  エリーゼは座ったまま顔を伏せました。
「楽しかった。失礼するよ。僕はこれでもこの船の船長なんでね。皆に指示も与えねばならない」
  カスパルは去り、私は慌てて燭台に火を付けました。
  オレンジ色の蝋燭の光に、エリーゼの涙に濡れた白い頬が浮かび上がりました。
「兄さん…  私は兄さんと別れたい…  T**号とともに海の底で安らかな眠りに就きたい…」
  嵐の方は静まるでもなく、激しさを増すでもなく、メリジェーヌを激しく揺さぶりながら、何処へともなく攫って行きます。
「でないと繰り返される記憶が、再び現実のものに…」
  兄と会って、彼女は自分の本当の心を取り戻した様子でした。でももう少しするとまた兄にとって都合のよい妹に逆戻りするはずです。
「あなたと、メリジェーヌはT**号の記憶とともに沈むのね?  どうすれば乗っている人々を助けられるの?」
  私は彼女の目を見つめ、両手を堅く握りしめました。
「私かカスパルのどちらかが消滅すること。そうすれば残る片方も消滅し、船は海の底深く去って行くでしょう…」
  影のように儚い少女はそう呟くと気を失いました。
  エリーゼを彼女の船室の寝台に寝かせると、カスパルのところに向かいました。
  燕尾服の上から大きな黒いマントを羽織ったカスパルは、他に誰一人いないブリッジの窓という窓を開け放ち、黒い雲、黒い海に向かい、獣のような声で呪文を唱えていました。
  机の上には件の呪文書が何冊も必要な箇所が開かれ怪物を彫刻した文鎮で押さえられていました。
「また性懲りもなく邪魔をしにきたのかね。今度は命を頂くぞ!」
  カスパルは興奮で真っ赤に充血した眼で私を睨み付けます。
「エリーゼさんを解放して上げて!  今の彼女は兄の貴方によって無理やりに甦らされた存在に過ぎないわ。子供たちを教え続けるのも、船に乗りたがるのも、全部貴方の不完全な呪文のせいよ。可愛そうだわ」
「僕は可愛そうではないのか。僕も彼女と一緒に死ね、と言うのか?」
  怪物の彫刻をした文鎮がずれ落ちて、魔導書のページがはたはたと経文のように強風に舞い、めくれます。
「貴方はエリーゼさんを愛しているから甦らせたんじゃあないわ。自分が消滅するのが嫌で黄泉の国から甦らせたのよ!
  本当に妹さんを愛しているのなら、そうするべきです。無理に生かし続けていると、新たな犠牲が生まれるばかりだわ」
「嫌だ、と言ったら?」
  カスパルのマントは吹きすさぶ風に蝙蝠の如く、悪魔の如く広がって、本のページに合わせてはためきます…
「止むを得ません。最後の手段です」
  私の心は身構えながら、カスパルの心に向かって集中しました。
「愚かな!  霊力の争いで僕に勝てると思っているのか!」
  彼が両手を複雑に動かして印を結び、衝撃波を繰り出す前に、私は彼の意識の底に潜り込みました。

…カスパルの故郷、そこは欧州の端にある貧しい島国でした。土地が貧しい上に、隣の大国が求めてくる高い税金、それに疫病などに苦しんだ人々は、次々にアメリカへ移住して行きました。
  カスパルとエリーゼの両親も、そのようにしてアメリカ行きの移民船に乗り込んだのです。
  船に乗る前、両親はカスパルとエリーゼを一族の老人たちに預けて、自分たちだけがまず海を渡ろうとしました…
「お金をうんと稼いで、大きな家を建ててから、きっとおまえたちを呼び寄せるよ」
「それまで、我慢してね…」
  崩れ掛けたあばら家の軒先で、両親が兄妹を抱きしめ、頬ずりをして別れを告げる場面が見えました。
  しかし、『ここに残して行っては、この子らはただ飢え死にを待つばかりだ』と思った両親は、結局二人を連れて移民することにしたのです。
  アメリカへ渡るすし詰めの船の中では、猛烈な疫病が流行りました。
  船員も乗客もバタバタと倒れ、ろくに医者も薬もないので次々に死んで行きます。死体は重しを付けられて海の底に沈められます。
  カスパルもエリーゼも病気に罹って、大変苦しんでいます…
  両親は『どうせ助からないのなら苦しむだけなのなら』と、二人を、まだかすかに息があるにも関わらず海の底に沈める相談をします。
  しかし結局できずに、迷っているそのうちに二人は助かりました。病状が持ち直したのです…
  船はアメリカに着きました。両親の苦労はまだまだ続きます。アメリカは夢に思い描いていたような夢の国ではなかったのです。
  仕事はない、渡航費や住居費をはじめ、借金は返さねばならない。ただ、故国と違うところは、アメリカには非常な金持ちが大勢いる、ということでした。
  そこで両親は幼い子供たちを、教会や慈善施設の前に捨てることを思いついては止めます。
  そんなことを何度も何度も思っているうちに、両親はある日、自分たちの息子と娘、双子のカスパルとエリーゼの身体がぼんやりとかすんですっかり幻の存在になっていることに気が付きます。
  一日中、哀しみに泣き濡れている妖怪バンシー…  その声を聞き、櫛を拾った者には必ず死が訪れるという恐ろしい物の怪です。
  そう…  二人は彼らの両親が、心の中で彼らを数万回、数億回捨てている間に、そして彼らがその思念を感じ取るに連れて、「既に捨ててしまった」か「これから捨てられるところ」なのか、それとも「これからもずっと存在を続ける」のか、そのうちのどれか分からない黄昏の中の命になってしまったのです。
  イメージの中だけの命になった彼らに、もはや食べるものも着るものも、住むところも必要はなくなり、まるで好きなことだけができる超自然の存在となり、エリーゼは豪華客船の教師、カスパルは魔導師になりました。
  無力な人間の子供であった時、どんな苦しい時も二人で頑張ってきたので、イメージを自由に操れるようになってからは、決して会わないように心がけてきました。
  正直なところ、彼らは故郷のあばら家で、アメリカへ渡る船の中で、アメリカへ着いてからも、何度も死んでいたのでしょう。
  …でも生きている。それは互いの思いの電流が作り上げている幻なのです…
 薄っぺらいトランプのカードで築かれた家。ふっと息のひと吹きでばらばらになってしまうはかない存在。それが彼等です…
  エリーゼにとってT**号での死は、これまでいくつも経験した沢山の死のうちのたった一つの死に過ぎません。カスパルはそのことを痛いほど理解しているので、彼女を例え闇の中でしか生きられない亡霊としてでも甦らせた…
  ところが、今度は「想像以上に」「高くついた」のです…

  私はカスパルの心の中から戻ると、ゆっくりと彼の方に歩み寄りました。
「カスパル…  想像の中で何度も捨てられた者は、すでに捨てられた者だし、想像の中で死んだ者は、それはすでに死んだ者なのです」「嫌だ!  そんなのは嫌だ!」
  眼を真っ赤なルビーのようにしたカスパルが顔を引き吊らせ唇を曲げると、メリジェーヌ号は私が悪夢に見た通り少しずつ変形を始めました。
  甲板や船の壁はゼラチン質の透明のものになり、赤や青や黄色の血管や神経が浮き上がりました。
  鋼鉄製のメリジェーヌは、始源の海の寒天の化け物に変わり、ぐにゃぐにゃぶよぶよになって立っていることもままならない状態になりました。
「おのれ小娘!」
  カスパルの激昂が破局を早めます。
  嵐に目を覚ましていた乗客たちの顔は恐怖に歪み、悲鳴すら上げることもできずにガチガチと歯を鳴らすだけです。
  ふと気が付くと、人々の服装は、普通の漁師の家族のそれに変わっていました。
「小娘、責任を取れよ!  おまえはあの人達の美しい夢を無残に打ち壊したのだ!」
  カスパルは口から泡を飛ばして罵ります。「夢から覚めてよかったわ。どの道メリジェーヌは目的地には着かない。決して着かない船なのよ…」
  子供たちも、元の着古し、垢にまみれた着物姿に戻って、互いに抱き合い、どうなることかと辺りを見渡しています…
「ぼくたち、いままで何をしていたんだろう?」
  そんな子供たちを抱えるように守っているエリーゼは、必死になって精神を集中し、船も人々も元の姿に戻そうとしています。
  暗黒が打ち寄せる度ごとに、化け物船は元の美しいメリジェーヌ号の姿を取り戻し、乗客たちも華やいだものに戻りました。
  ですがそれはほんの一瞬で、闇が時折瞬く魂の光に照らされると、真実が現実を支配しました。
「無理よ、エリーゼ。メリジェーヌはもう元の姿には戻らないわ。決して…」
  無窮の闇の中、私が穏やかにそう言うと、彼女も子供たちもゆっくりと私の方に目を向けました。
「エリーゼ先生、恐いよう…  恐いよう…」
  子供たちは泣きじゃくり、エリーゼの手を強く握りしめ、しっかりとスカートを掴みました。
「エリーゼ、この子やこの子の親たちを、元の海岸に戻してあげて…」
  静かに言うと、彼女はこっくりと頷きました。
「そうはさせんぞ!  誰がそんなことをさせるか!  エリーゼ、僕とお前は一心同体だ。それを忘れるとどうなるか、お前にはよく分かっているだろう?」
  闇の向こう側、化け物の姿になったカスパルが私に襲い掛かる前に、エリーゼは微笑みながら子供たちと別れて、原形質の壁の中へと消えました。
  その瞬間、カスパルは寒天状の物体となって、物凄い悲鳴とともに木っ端微塵に砕け散りました。

  気が付くと、私や子供たち、それに大人たちは旅立ったはずの漁村の浜辺に打ち上げられていました。
  人数もちゃんと揃っているようでした。
  もちろん、その中にエリーゼとカスパルの姿だけはありません…  あの難破船の家も、なくなっていました。
  遠くの潮鳴りが、かすかにエリーゼの「声」を運んできます。
  悲しそうなその声も次第に遠ざかり、やがて聞こえなくなりました…
                (完)



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