「聖石の魔女」

 ひどい嵐の夜だった。
 ロンドン、英国心霊研究協会の屋敷の、昼間きれいに磨かれたばかりの窓という窓を、大きな雨粒と突風が叩き続けていた。
「今夜はここに泊まっていいかな? 辻馬車を呼びに行くのも何だろう… 家の者には電話をしておくよ」
 コナン・ドイルは、窓の外の人も馬車の行き来もまったく途絶えた通りを眺めながら、アイルランド人の赤毛の少女のメイドにすまなさそうに言った。
「かしこまりました」
 答えたブライディーは、うきうきとした気持ちを抑えられなかった。
(また、アフリカ航路の貨客船に船医として乗り込まれていた時の、とても面白いお話しを聞かせて下さるかもしれないわ)
「お姉ちゃん、あたしは帰るわね。お義母さんが心配するから」
 三つ四つ年下のメイドのデイジーは御者をする時に着るゴム引きのマントと頭巾をかぶりながら言った。
「デイジー、貴女も泊まって行けば? お義母様だって(きっと泊まったんだ)と思われるわよ」
「いいえ、アパートはすぐそこだし、走っていけば…」
「走ると危ないよ」
 ドイルはデイジーの靴が雨用でないのをチラッと眺めて言った。
「大丈夫。気を付けるわ」
 デイジーは勝手口から、滝のような雨の中に飛び出した。
 とその時、一台の幌付きの小さな荷馬車が物凄い勢いで通りの角を曲がった拍子に、大英百科事典一冊分ほどの大きさの小包を、車道の石畳の上にバシャーンと水煙を上げて落したまま、そのままつむじ風のように走り去った。
「おーい、荷物が落ちたわよー!」
 デイジーが駈け寄って油紙に包まれ十字に麻紐が掛けられた小包を拾い、ありったけの大声で叫んだ時には、荷馬車の姿はもう、雨の彼方へと消え去っていた。
「お姉ちゃん、これ、落とし物。落とし主が尋ねてくるかもよ」
 言付けに戻って再び帰ろうとした時、雨はさらにいっそう激しくなった。
「あたしも… 泊まろうかな…」
 どちらかと言うと雨脚に制せられたと言うよりは、落とし物の落とし主やその中身に後ろ髪を引かれた様子だった。
(もしも落とし主が分からなかったら、あたしのものになるのよね)
 年上のメイドさんは雨でびしょ濡れになった小包をしげしげと眺めた。
 表にも裏にも、宛名も差出人の住所氏名もまったく何も書かれていなかった。
「きっと中に手紙があるのよ。そうに違いないわ!」
 使用人用のコート掛けにずぶ濡れのコートを掛けたデイジーは、息を弾ませて言った。
「デイジー、戻ってきたのかい? それは賢明な判断というものだよ」
 居間にいたドイルがやってきた。
「ドイル様、いかが致しましょう?」
 事情を説明され、のっぺらぼうの小包を手渡されたドイルの表情は、たちまち険しくなった。
「…油紙も麻紐も、ごく普通に売られている何の変哲もないものだ。紐の結び目も普通。宛名も差出人も書かれていない。怪しいことこの上ない。ガイ・フォークスのような爆弾魔がつくった爆弾かも知れない。…デイジー、その荷馬車って、どんな荷馬車でどんな馬だった?」
「それがその… 雨でよく分からなかったわ」
「離れの物置部屋に置いておいて、明日このまま警察に渡すのがいいだろう」
「でも、もし中身が値打ちのあるものだったら、落とし主から御礼を頂けるはずなのに…」
「デイジー、警察に届けても、何割かの御礼は頂けるのよ」
「でも直接届けたほうが、たくさん御礼が頂けると思うわ!」
「待ちなさい」
 騒ぎを聞きつけたのか、老クルックス博士が階段を降りてやってきた。
「…レントゲン君が発明した機械を使うと、梱包を開けずに中身を見ることができるかも知れないぞ。おまけに試作機の同型機がいまここにある」
 一同は屋敷の二階の一角にある実験室に向かった。
 機械を動かすのに必要な電気を起すはずの、屋根の上の風車は、それ自体が吹っ飛んで行ってしまいそうなくらいカラカラと回っている。
「ドイル君、それはそこに置いてくれ」
 クルックス博士は指示しながら、ドッジソン教授の写真機に似た複雑そうな機械の暗幕をかぶった。
「こうですか?」
「それでいい。…みんな離れて! 弱いのは生物に照射しても、さしたる害はないはずなのじゃが、それでもなるべく当らないほうがいいのじゃ」
 ドイルもメイドさんたちも飛び退いた。
 カチッと写真のシャッターが切られるような小さな音がした。
「ちょっと待て、いま現像してくる」
 しばらくして戻ってきた博士は、一枚の写真のネガを示しながら重々しく言った。
「…少なくとも、中身は爆弾ではない。何かガランドウの箱のようなものじゃ」
「開けてみましょうよ!」
 デイジーが叫んだ。
「警察に届けたほうが…」 と、ブライディー。
「きっと中に手紙があるのよ。そうしたら明日にでも直接落とし主に届けられるわ。あんなに急いでいて届かなかったら、きっと困っておられるわよ」
 あまりの勢いに、ドイルも博士もブライディーもついに押し切られた。

 食堂のテーブルの上に置かれた小包は、ドイルの手によって慎重に開けられた。
 内側を包んでいたハトロン紙を剥くと、一インチ角に仕切の付いた、六かける七、合計四十二升の、作られてから何百年もたっているような手垢にまみれて飴色になった、骨董品のチーク材の飾り棚のようなものが現れた。中に手紙や送り状の類は何も入っていなかった。
「せっかく開けてみたのに、これではやはり宛先も送り主も分らないままだな」
 ドイルは小さな溜息をついた。
 外の雨は少し小降りになった様子だ。
「ところで、これは何なのかしら?」
 デイジーはしげしげと眺め渡した。
「これは『鉱物…と言うか、宝石の標本箱』じゃよ。それぞれの升目の下に、古い英語の書体の小さな文字で『金』、『銀』、『ダイヤモンド』、『ルビー』、『サファイア』とか書かれているじゃろう?」
 クルックス博士が皺だらけの指先で示した。
「宝石なら、きれいな宝石箱に入っているのでは?」
 ブライディーがおずおずと訊ねた。
「じゃからこれは、『宝石の原石の見本』を入れておくための標本箱なのじゃ。例えば金にしても、金鉱脈の岩石のなかにほんの少しずつ含まれているのが普通じゃ。これは金が少しだけ含まれている岩石などを入れておく標本箱なのじゃよ」
「なぁんだつまらない! 標本の宝石は付いていないのね」
 デイジーは頬を膨らませた。
「おそらくこれから自分で山などを歩き回ってコレクションしていくための空の箱なんだよ」
 ドイルにニコニコしながら標本箱を元あったように包み直し掛けた。
「ちょっと待って、ドイルさま。するとこれは、そんなに高いものではないのですね?」
「ああ、そうだ。いかにルビーやダイヤモンドと書いてあっても、かんじんの標本石がないのでは、骨董品の標本箱だけではせいぜい一シリングか二シリングくらいだろうね。しかし妙だな…」
「何が『妙』なのじゃ、ドイル君?」
「普通、『鉱物の標本箱』と言うと、中に入っているのは鉄だとか、銅だとか、亜鉛だとかニッケルだとか、高くてもせいぜい銀や水晶までのはずです。それなのにこの標本箱は、最初から非常に高価な宝石の原石を飾っておくためのものとしてつくられています」
「きっと金持ちの道楽人のための…」
「金持ちはあまり『宝石の原石』を集めたりはしません。ちゃんと岩から取りだしてカットして磨いて『愛でるための姿形』にして眺めると思います」
「金持ちの中には『変り者』もおるんじゃろうよ。…それじゃあ、わしは失礼させてもらうとするよ。外の風車が勢いよく回っているうちにやっておきたい実験があるのでな」
「熱いミルク・ティーをお持ち致しましょうか?」
 ブライディーは博士の後を追いかけながら尋ねた。
「ああ頼む。ついでに何か腹の足しになるようなものを…」
「かしこまりました」

 ビッグベンの鐘が去りゆく日を悼むかのように十点鐘を打った。
 広間の柱時計が一緒に鳴っていることを確かめたブライディーは、明日の朝早番でぐっすりと眠っているポピーを起さないように寝間着に着替えてから、隣の部屋のデイジーにお休みを言いに言った。
 するとデイジーは、例の落とし物の標本箱の中に、赤や緑のガラス玉を入れてしげしげと眺めて悦に入っていた。「金」と書かれた升目には、掃除用の酸でピカピカに漂白した一ペニー銅貨を入れていた。
「デイジー、それは人様のものでしょう?」
「明日ちゃんと包み直して警察に届けるわよ。どうせ中古の骨董品なんだし、ちょっとガラス玉を入れてみるくらい、いいじゃない?」
 ブライディーは肩を落とし溜息をついて自分のベッドに潜り込んだ。
 いったんは収まりかけたように見えた嵐だったが、再び勢いを盛り返し、夜半から明け方にかけて風雨が吹き荒れた。
 おまけに稲妻が走り、クルックス博士特製の避雷針には何度も落雷があった。

 ポピーがオーブンの火加減を担当したイングリッシュ・マフィンや踏み台の上に乗って焼ベーコン・エッグの匂いで目を覚ましたデイジーは、着替えの傍ら、昨夜の標本箱にチラリと目をやった。
 すると…
 まったくの洒落のつもりで入れたはずのガラス玉が、昨夜の嵐が嘘のような明るい初夏の朝の日差しを受けて、異様なくらいに美しくキラキラと輝いていた。
 透明のガラス玉はより透明に、赤いものはより赤く、緑のガラス玉はより緑色に、そして一ペニー銅貨は、まるで本物のソヴリン金貨のように燦然と黄金色に輝いていた。
(まさか、気のせいよね…)
 恐る恐る銅貨を手にしてみると、それこそ気のせいか、ずっしりと重さが二倍になっているように感じられた。
 ほかのガラス玉も、朝日にかざして見ると、ガラスとは思えないほど神々しく輝いた。
(もしかして… この鉱物標本箱は、カリオストロ伯爵のような、歴史に名を残す大錬金術師が作った由緒ある魔法の品で、中に石ころを入れたら、すべて、文字に書かれてある宝石に変成されるのでは? だから包んであった紙には宛名も差出人も書かれてなくて、配達の馬車もあんなに急いでいたんじゃあ?」
 胸が早鐘のようにドキドキ打った。
(とにかく、本物の金や宝石に変ったかどうか確かめなくっちゃ… でもどうしたらいいの? 先生がたに鑑定をお願いして、万一本物に練金されていたら『これは一体どうしたんだ?』と問いつめられるでしょうし…」

(落ち着いて、デイジー! 落ち着くのよ!)
 デイジーは自分に言い聞かせた。
(こういう時はとりあえず、いつもと同じようにお仕事をこなすのよ! まだ本物に練金されたかどうか、ハッキリと分ったわけじゃあないわ。いわゆる「ぬか喜び」かも知れないわ。もしそうだと分ってもガッカリしないように、いまは何も考えないようにするのよ!)
 昨夜まではガラス玉であり、漂白した銅貨だったものが入った古びたチークの標本箱を、何も入っていない引出しに隠すと、何喰わぬ顔で厨房へ降りていった。
「デイジー、ゆうべの標本箱はちゃんと包み直した?」
 ブライディーは湯気の立っているベーコン・エッグを運びながら声をかけた。
 どこの国の、いつの時代でも、お年寄りは朝が早いのだ。…たとえ夜遅くまで研究に没頭していたとしても…
「はい、はい、もちろんよ」
「きょうは後かたづけとお掃除はいいから、朝一番に警察に届けるのよ」
「はい、分ったわ」
 クルックス博士やドイルたち、嵐で泊った会員たちの朝食を作り終えたポピーは、残り物を使って賄い料理を作り始めた。
「ねぇポピー、貴女フランスのアルプスの麓の村の出身でしょう? 金の鉱石とか、銀の鉱石とか、本物かどうかはどうやって見分けるの?」
 配膳をもっと手伝わなくてはいけなかったのに、さっさと戻ってきたデイジーが尋ねた。
「そうですね。金銀宝石の鉱脈を探す『山師』と呼ばれる屈強な男の人たちは、『試金石』と呼ばれるヤスリのような道具を持っておられますわ。それに鉱石を擦りつけて、試金石に付いた条痕の結晶や色を確かめて、鉱脈があるかどうかを確かめられますよ」
「その判定って、難しい?」
「いえ、色刷りの図鑑なんかに載っているのでは? あと、鉱脈探しにはブライディーさんが得意にされているダウジングなどもよく使われますわ。あれは『失せ物探し用』ではなくて、もともとは『山師が鉱脈を探す』ために持ち歩いている金属の棒なのですよ。…鉱石がどうかしたんですか?」
「あ、いえ、ちょっとね…」
(お姉ちゃんには訊けないわ。…他のかたに当ってみよう! 昨夜の騒ぎをご存じないどなたかに…)
 賄いの朝食をかきこむように済ませたデイジーは、泊まる時の寝室に上がりかけた。
「デイジー!」
「分っているわ、お姉ちゃん。警察に昨夜の落とし物を持っていくわ」
「自分で入れた余計なものは出しておくのよ」
「はいはい」
 見つからないように「アカンベー」をしながら、デイジーはウォーレス博士の研究室のドアをノックした。
 若い頃にはボルネオやスマトラの探検に明け暮れたウォーレス博士は、いま書いたばかりの手紙をもう一度読み直してから封をしているところだった。
「ちょうどよかった。これも一緒に投函してくれないか?」
「かしこまりました。…ところで、つかぬことをお伺いしますけど、先生は試金石というものをお持ちですか?」
「『試金石』… 『試金石』… もうずいぶん長いあいだ使っていないが…」
 博士は整理箪笥の、たくさんある引出しのうちの一つを開き、中を覗かずに手を差し入れると、薄っぺらいラワンの小箱を取りだした。金具を外して蓋を開くと、親指くらいの柄の付いていないヤスリのようなものが五つ六つ並んでいた。
「ちょっとのあいだだけお借りしてもよろしいでしょうか?」
「構わないよ。同定用の図鑑は持っているかい?」
「いえ」
 ウォーレス博士は数え切れないほど無数の本が並べられ、雑然と押し込まれている本棚から、背表紙を見ることもなく一冊の図鑑を取りだして開いた。
 そこには、鉱石を試金石にこすりつけた時に付くいろんな跡が石版画で描かれていた。
「これと照らし合わせて判定するんだよ」
「これもお借りして…」
「もちろんいいよ。手紙を頼んだよ」
 博士はそれ以上何も訊かずに机の原稿に戻った。
(やはり偉い人ほど余計な詮索はなさらないものだわ…)
 試金石と図鑑を、泊まる時に使う寝室に持ち込んだデイジーは、さっそく、恐る恐る、黄金色に輝やいている一ペニー銅貨を「金鉱石用」と書かれたヤスリのような表面にこすりつけた。
 何度かこすりつけたところ、いずれも黄金色の条痕が残った。
 図鑑を開くと、まさしく黄金の条痕で、銅色をした銅鉱石の条痕や、黄銅鉱の条痕とは全く違っていた。
(ほかのガラス玉も、本物の宝石に変成された可能性が高いわ。…この標本箱、もうちょっと返せないわ… 返せるものですか!)

(でも、警察に届けに行かないと、ブライディーお姉ちゃんやドイル様が… お姉ちゃんなんかはきっと「受取りを見せて」とか言うに決まっているわ。どうしようかしら?)
 少し考えてから、デイジーはいいアイデアを思いついた。
 標本箱はお屋敷に置いたまま、デイジーはピカデリー広場の近くにある錬金術のグッズを売っている店にやってきた。
 アルコール・ランプ、アセチレン・ランプ、いろんな大きさの坩堝や、練金の原材料になるさまざまな鉱石をしばらく冷やかしていると、ゴブリンのような店主が揉み手しながら近寄ってきた。
「お客様、何をお探しですか?」
「ああ、そうね。鉱石の標本を入れておくような標本箱はないかしら? 一升が一インチくらい、たて七升、よこ六升くらいの、チークで、ニスが塗ってあるようなのが欲しいんだけれど…」
「これなんかはいかがでしょうか?」
 ゴブリン店主は、デイジーの目からするとまがまがしい商品が所狭しと渦高く積まれている一角から、きのう拾ったのとよく似た標本箱に入った「鉱物標本セット」を取りだした。
「あの、鉱物の標本は要らないのだけれど…」
「あいにくとこれはセットになっておりまして… 半クラウンと、大変お買い得になっております」
「だから、中身の鉱石は要らないから、二シリングくらいに負けてくれない?」
「それはちょっと… 標本箱だけとなると、このようなものしかございませんが…」
 店主が新たに取りだした標本箱は、どれも大きすぎたり小さすぎたりした。
「これの箱だけを二シリングで売ってよ。いま本当にそれだけしか持ち合わせがないのよ…」
「そんなことを申されましても…」
 押し問答をしていると、横合いから声を掛ける者があった。
「おや、聞いたような声だと思ったら、デイジーじゃないか」
 驚いて振り返ると、ときどき英国心霊研究協会に出入りしているケンブリッジの学生のアレイスター・クロウリーが、いつものクールな微笑みを浮かべていた。
「こ、これはクロウリー様…」
 デイジーは心臓が止りそうになった。
「ブライディーさんが来ていると言うのなら分るけれど… ここにはコスト・パフォーマンスな水晶玉も入荷するし、自分で山を歩いて鉱石を探す人のためのダウジングの棒もいろいろ置いているからね。でも、どうして君が? 協会の先生の誰かの頼まれものかい?」
「いえ、ウォーレス先生にいろいろ教えて頂いて、あたしも鉱物の標本を集めてみようかな、と思い立って…」
「そう、それで一所懸命値切っていたんだね。 …これなんかはどうだろう。それぞれはとても小さなカケラで不満かもしれないけれど、水晶や琥珀、煙水晶、紫水晶、エレスチャルやオパール、ラブラドライトやラリマー、ガーネットに瑪瑙、アメジストにシトリン、オニキスに薔薇水晶、インカローズやメスギライトにコバルトなんかも入っていて二シリング。予算の範囲内で収まる。そのへんに転がってはいない珍しい石が一揃い揃っている」
 アレイスターは、鉱石の種類は多いけれど安っぽい合わせ板の標本箱に入っているものを差し出した。
(…どうして、偶然とは言え知り合いなんかに会ってしまうのよ! それもよりによってアレイスター様のようなカンの鋭いおかたに…)
 心の中で地団駄を踏んだものの、遭遇してしまったものは仕方がなかった。
(そ、そうね… アレイスター様がオススメして下さるのだったら、これにしようかしら…)
 デイジーはそれを買ってアレイスターと別れ、途中の公園の木陰で鉱石の標本をざらざらと一つの袋に移し、標本箱だけを昨夜の包装紙に包み直して、警察の遺失物係に届けた。
「ここに貴女の住所とお名前を… 落とし主が現れたら、いくばくかの御礼がもらえるよ」
 係の警官が言った。
「あ、いえ、あたし、名乗るほどの者ではありません。当然のことをしたたげですから、御礼なんか要りません。それじゃあこれで失礼しますね!」
 後じさりしながらクルリと踵を返すと、目つきの鋭い私服の刑事が立っていた。
「おや、誰かと思ったら、英国心霊研究協会にいる三人のメイドのうちの一人の、確かデイジーじゃないか。財布でも落としたのか?」
「ブ、ブレード警部さん、こんにちは…」
 デイジーは口から心臓が飛び出しそうになった。
「…なに、『落とし物を届けに来た』…そいつは感心な。ここに名前を書いておくんだ。自分の名前くらいは書けるだろう?」
「は、はい…」
 署名する手が小刻みに震えた。
「どうしてそんなに緊張しているんだ? こんな安っぽい標本箱、誰も引き取りに来たりはしないさ。おまえのものになるよ」
 警部は吐き捨てるように言った。
「あ、あたしもこんなもの要りません!」

 デイジーは走って帰った。いつもなら、途中であっちこっちのショーウインドウを覗き、買い食いをして時間を潰し、「警察で時間を取られた」ことにするところなのに、そんな気分にならなかった。…なれなかった。
 日曜学校の牧師さまの話によれば、「すべての錬金術師は呪われている」そうだけれど、自分も同じことをして呪われたような気がした。
 英国心霊研究協会のお屋敷に帰っても、ろくでもないことが待受けているように思えた。 しかし、とりあえずそこしか帰ることができなかった。
「ただいま…」
 失敗した時や自信のない時のブライディーそっくりの「蚊の泣くような声」で勝手口で声を掛けると、応接間からフィオナ・ウォーターフォード男爵令嬢の、シクシクと泣いている声が聞こえた。
 そーっと覗いてみると、長椅子に座ったフィオナが左右のブライディーとポピーに両肩を抱かれて慰められていた。
 デイジーはフィオナが人前で泣いているところを初めて見た。
「大丈夫ですわ、フィオナさま。犯人は必ずすぐに捕まりますわ!」
 むかし、フィオナの屋敷で働いていたブライディーは、懸命にかつての女主人を励ましていた。
「ねぇ、ねぇ、フィオナ様が一体どうされたの?」
 デイジーは仕事に戻ってきたポピーの耳元に囁き尋ねた。
「はい。実は昨夜、ウォーターフォード男爵様のお屋敷に泥棒が入って、お母上の形見であるルビーや、サファイアの原石が盗まれたそうなんです」 ポピーはデイジーの耳に囁き返した。「…ちゃんと金庫にしまわれていたらしいんですけど、こじ開けられた形跡はないようなんです。ですから、警察は鍵を持っている者…男爵様やフィオナ様を疑われて…」
「男爵様やフィオナ様が疑われたと言うの? 持ち主が自分のものを盗むはずがないじゃない?」
「それが、警察は『保険金目当てだろう』と… ウォーターフォード家の財政状態が芳しくないのは、世間周知の事実ですから…」
 ポピーはさらに声を低めた。
「だからと言って、旦那様とお嬢様を保険金詐欺の容疑者にするなんて…」
「無理もないのですよ。昨夜はあのような物凄い嵐だったでしょう? なのに、いくつかある出入り口も、窓も鍵を開けられた形跡が無く、出入り口や窓の周辺に水や泥で濡れた足跡もなかったんですって!」
「メイドは? 男爵家のメイドたちの中に怪しい者がいるのでは?」
「男爵家のメイドは、出入り口の鍵は持っていても金庫の鍵は持っていません。それに、あの雷でなかなか寝つけない者がほとんどだったのに、誰も怪しい人影を見ていないし、物音も聞いていないんです!」
「フィオナ様の母上は、どうして宝石の原石を?」
「フィオナ様の母上は、アイルランドに古くから伝わる宝石の原石を使ったまじないをされたそうですわ」
「じゃあ、フィオナ様はどうして、そんな滅多に出して眺めたりしないものが盗まれたと気づかれたの?」
 デイジーはさらに尋ねた。
「きのう、夕方のお茶会に身につけられていった首飾りをしまわれた時には、異状はなかったそうなんです。けさ、何か言いようのない胸騒ぎを感じられて、開けられた時には、原石がほとんど消え去っていて…」
「ちょっと待ってよ、ポピー。すると、首飾りや他のものは?」
「それが… 盗まれてはいない…無事だったんですって! 警察は『足が付きにくい原石だけを盗んで行ったのでは?』と…」
「おかしいじゃない! せっかく苦労して盗みに侵入したのなら、保険金を詐取するつもりなら、とりあえず全部取って帰るか、隠すはずだわ!」
「シッ、デイジーさん、聞こえてしまいますわ」
 応接間では、まだフィオナが刺繍入りの絹のハンカチで涙を拭いながら、しゃくり上げ続けていた。
「どうして… どうしてこんなことに…」
「フィオナさま、そんなに悲しまないでください。きっと警察とドイル様が取り返してくださいますよ。いざとなったらこのわたしも協力させて頂きます」
 ブライディーはキッパリと言った。
「原石なので、その前に故買屋ばら売りされてしまいますわ…」
 デイジーはそっと二階に上がって、部屋に鍵を掛けてから、昨夜、練金と言うか変成された宝石の標本石をしげしげと眺めた。
(「無くなった宝石はこれじゃあありませんか?」と言ってあげようかな… …だめだめ! そんなことをしたらあたしが泥棒になってしまうわ。そっと元に返せるのならそうしてあげたいけれど、やりかたなんかまったく知らないし…)

 デイジーが再びそっと階下へ降りると、ドイルが警察から帰ってきたところだった。
「分からず屋の刑事たちめ! ウォーターフォード男爵も、フィオナさんも、保険金詐欺などするようなかたではない、と何度口を酸っぱくして言っても信じないんだ!」
「無理もありませんわ。我がウォーターフォード男爵家の財政がかなり逼迫していることは、調べればすぐに分ることですから…」
 フィオナがまたしゃくりあげ始めた。
「…わたくしが早く、裕福な貴族の婿をとっていさえすれば、たとえ泥棒に入られたとしても、このような疑いは掛けられなかったのに…」
「まぁまぁ、フィオナ様、とにかくドイル様の推理をお聞きしましょう」
 ブライディーが微笑みながら言った。
「それが、このぼくにも分らないんだ。おそらくシャーロック・ホームズでも考え込んでしまうのに違いない。はなはだ非科学的な推理だが、魔法使いが魔法を使って盗んだとしか思えないんだ」
「そんな…」
 フィオナとメイドたちの顔がたちまち曇った。
 デイジーはまたそーっと二階に上がって、キラキラと輝いている宝石の原石を見つめた。(だから、だまっているのよ、デイジー)
 メイドのお仕着せを着た妖精くらいの大きさの角と鉤爪のような尻尾の生えた少女がデイジーの頭の回りを、黒いコウモリの羽根を羽ばたかせクルクルと飛び回りながら囁きかけた。
(貴女に、やっと、せっかく訪れたチャンスじゃない? この原石は、しばらく分らないところに隠しているのよ。この「英国心霊研究協会」も急には辞めてしまわないで、当分真面目に働き続けるのよ。いままで以上に真面目にね。自然な機会が生じたら、それからお暇をお願いして、遠くの町に引っ越すの。それまでに、足が付かない売却先をゆっくり、ゆっくり探すの。
 大丈夫。まず絶対にバレないわ。フィオナさまは、生まれてからいままでずっと、大してしんどいことをすることもなく、恵まれた生活を過ごされてきたきたかたじゃない?
 仮にお父上のウォーターフォード男爵が破産されたとしても、フィオナ様がご結婚されたらそれなりの豊かな生活が保障されているわ。
 対する貴女は、いままでずっとしんどい仕事をしてきたんでしょう? ろくに学校も行かずに、黙々と働いてきたのでしょう?
 これは、貴女が時々買っている宝くじに当ったようなものなのよ。
 お義母さんと一緒に欧州旅行だって行けるし、小ぎれいな館を買って、メイドを雇って暮らすこともできるわ。
…そう、もう、炊事も掃除も洗濯も、面倒なことは何一つしなくてもいいのよ。
 好きなものを食べて、好きな服を着て、好きなときに好きなことができるのよ。
 こんなチャンス、もう二度と巡ってはこないわよ)
「そうね。生まれつき貴族の家やお金持ちの家に生まれてくる子もあれば、そうでない家に生まれてくる子もあるというのは、とても不公平よね」
(何を莫迦なことを考えているの?)
 メイド姿の悪魔を押しのけて、今度は頭の上に輪っかを乗せ、鳩の白い羽根を羽ばたかせて飛び回る小さなメイドが現れた。
(フィオナ様はあんなに困って…泣いておられるのよ! それに知らないフリを決め込むなんて人の道に外れているとは思わないの? まだまだ間に合うから、神様にこの標本石を、フォーターフォード家の金庫に戻してくれるように、イエス様にお祈りするのよ。
 もっぱら自分のことだけしか考えていない醜い人間たち全ての罪を背負われて十字架にかかられたイエス様だから、必ず宝石を元に戻されて、貴女の罪もなかったことにして下さるわ)
(そっちこそ、莫迦言わないで!)
 小さな悪魔のメイドが天使のそれを蹴飛ばして言った。
(お金に困ったら、神様がお金を出して下さるの? 食べ物のお金、着るもののお金、住むところのお金… それだったら誰も苦労しないわよ! いままで貴女が困ったとき、神様は一ペニーでも貸してくれたかしら?
 いい、あたいの言うとおりにすれば、貴女はリッチで幸せになれるのよ!)
(デイジー、悪魔の声に耳を貸してはいけませんよ)
 小さな天使のメイドが悪魔を蹴り返して言った。
(…あなたは「鉱物・オカルト・ショップ」でアレイスターさんと、警察ではブレード警部に声を掛けられているのでしょう? ウォーレス博士に試金石と図鑑を借りたのでしょう? 「天網恢々疎にして漏らさず」すぐに簡単にバレてしまうわよ。
 みんな悲しむわよ… お義母様、ドイルさん、ブライディーさん、ポピーさん、英国心霊研究協会の皆さん。「あのデイジーが! 信じられない!」って驚かれて… もちろんそれだけじゃあ済まないわ。刑務所に入らなければならないのよ! 盗難額から考えて、まず二十年は…)
(百歩譲って逮捕されても証拠がないわ)
 またまた悪魔がしゃしゃり出た。
(いい? 万々一宝石が見つけられたとしても、貴女は昨夜の晩、ずっとこのお屋敷の二階の小部屋で寝ていたのでしょう?
 ウォーターフォード男爵の屋敷に行ったことなど、いままで一度たりともない。宝石が勝手に引出しに入っていた、そうでしょう? ドイル様たちが信奉なさっておられる「科学的な、物質的な証拠」は何一つないのよ。 中世の魔女裁判じゃああるまいし、どんな裁判官だって「魔法を使って窃盗を働いたから」という理由で有罪にはできないわ)

「そうね。分かったわ」
 デイジーはキッパリと言った。信念に満ち満ちた小さな悪魔の血走った目のほうが、心配そうな天使の瞳より頼りになそうな感じがしたからだ。
「宝石の原石は、今夜にでも家に持って帰って、秘密の場所に隠しておくわ。それまでここに鍵を掛けてしまっておくわね」
 引出しを閉める時、気のせいか、六掛ける七升に仕切られた標本箱のなかの原石は、一回り大きくなって角がチークの仕切り板に当っているように見えた。
(よく決心してくれた。嬉しいわ。結局、なんだかんだと言っても、最後に頼りになるのは自分一人とお金だけなのよ)
「あたしもそう思うわ」
(後悔するわよ)
 小さな天使が涙を浮かべながら割り込んだ。
(…若い貴女に言ってもなかなか理解してもらえないでしょうけれど、人間の一生なんてアッというまなのよ。よくい生きて、七十年か八十年。オールド・パーみたいに百何十歳まで生きる人なんて、本当に稀だわ。
 この世での命が終わったら、特に悪いことをしなかった人については、神様が素晴らしい場所を用意してくれているの。反対に悪事を働けば、永遠に地獄の業火に焼かれるのよ。その時になって、《ああ、あの時に思いとどまっておけば》と反省しても、もう手遅れなのよ)
「やかましいわね!」
 デイジーは近くにあった古新聞で天使をピシャリと叩きつぶした。
「…そんな脅しには乗らないわよ。生き物は全部生きているうちがすべてなの。死んだら…そう、眠っているみたいに、もう何があっても気が付かないの。だから、生きているうちに、やりたい放題。できるだけ楽をして生きるほうが得なのよ!」
 パチパチパチと、小さな悪魔が拍手をしてくれた。
(賢明な決断だわ。いまから貴女は、みじめさと満たされない気持ちとキッパリと決別して、本当の、あるべき姿で過ごすのよ)
「有難う。『あたしが宝くじに大当たりしても、バナナの皮で滑って頭を打って死んでも、誰も気にしたりしない』のよね」
(その通り。とりあえず、どこの誰がやってきて、この引き出しの中の標本箱や、ウォーターフォード男爵家の宝石の原石について訊ねられても、いっさい『知らぬ存ぜぬ』で通すのよ)
 デイジーか「ウン」と大きく頷くと、小さな悪魔も頷き返して消えた。
 その時、勝手口の来客を知らせるチャイムが鳴った。
(どうせご用聞きかセールスマンだわ。お姉ちゃんが応対してくれる…)
「デイジー、貴女にお客さんよ!」
 階下からブライディーの呼ぶ声がした。
「誰?」
「何か、その…貴女と同い年くらいのみすぼらしい恰好をした女の子よ。もしもお気の毒なお友達だったら、銀貨の一枚でも貸してあげるのよ」
(そうね、あたしはこれからお金持ちになるんだから、銀貨一枚くらいどおってことないわ)
 勝手口に出てみると、ブライディーが言ったとおり、つぎはぎだらけの木綿のドレスの女の子が、すがるような瞳でデイジーを見つめた。
「すいません。わたくし、リーザと申します。荷馬車で、『昼夜風雨を問わない特急配達』の仕事をしています。
 あの… もしかして昨夜、こちらのお屋敷の前で、これくらいの小荷物を落としたのではないか、と…」
「ああ、それ。それなら今朝一番に警察署へ届けておいたわよ。表にも裏にも、宛先も差出人もなかったものだから…」
「はい。有難うございます。実は、わたくしもつい先ほど警察署へ赴き、受取ってきたのです」
「じゃあそれでいいじゃない。御礼なら、いまの言葉でじゅうぶんよ」
「それは有難うございます」
 リーザはもう一度深々と頭を下げた。
「…ですが、ですが大変失礼ながら、わたくしが落とした標本箱は、この標本箱ではないと思うのです」
 リーザは、合わせ板で出来た安っぽい標本箱を示した。
「わたくしが落としたのは、チーク材でできた、ニスが飴色になった、それぞれの升目の上に、金、銀、ダイヤ、ルビー、サファイア、オパール、トパーズなどと書かれていて『宝石の原石』を収納できるようになった標本箱なのです」
「な、なによ貴女、『あたしが標本箱をすり替えた』とでも言うの? もしかして、『標本箱の中には本物の宝石の原石の標本が入っていたのに無くなっている』とでも言うの? 失礼な!」
「いえ、滅相もありません。宝石は、原石も何も、一つだって入っていませんでした。
…むしろ、宝石が入っていて、それを紛失したのなら、そのほうがよかったのですけど…」
「何ですって?」
「あっ、すいません。いまのはお忘れください…」

「じゃあね、一つ聞くけれど、貴女が落としたと言う『宝石の原石の標本箱』は、なぜそんなに大事なのよ? ただの標本箱なら、新しいのを買うか作るかすればいいじゃない?」
 デイジーが逆に食ってかかった。
「そ、それは…」
 リーザはうつむいて黙ってしまった。
「じゃあね。あたしは忙しいの。お知り合いの貴族のかたの館に泥棒が入って、宝石がいっぱい盗まれたのよ」
 相手はサッと顔色を変えた。
「それは、本当ですか?」
「本当よ。世の中には悪い人もいるのね。それなのに、あたしは『つまらない標本箱』を律儀に警察に届けて、本当に親切よねー 年取って死んだら、きっと天国に行けるわよねー」
「あの… わたしはこれでお暇申し上げますけれど…」
 リーザは顔を紅潮させ、何か懸命にこらえているような声で言った。
「もし… もし、わたしが申し上げたような『宝石の原石の標本箱』が出てきたら、ぜひこちらへお電話くださいね」
 かすかに震える手で差し出された名刺は、七色の鱗のように光る薄い雲母で出来ていて、名前と電話番号だけが記されていて、住所はなかった。
「貴女、失礼だけれど、電話があるようなお屋敷に、そんなみすぼらしい恰好でお仕えしているの?」
 デイジーが意地悪く訊ねた。
「あっ、あの、その… わたしはお屋敷に上がることはなく、別棟の納屋で働き、寝起きをさせて頂いています。電話は呼び出しでして…」
「ま、いいわ。貴女に二度と会うことはないと思うし、電話を掛けることもないと思うから…」
 勝手口のドアをピシャリと閉めると、デイジーは貰ったばかりの名刺を厨房のゴミ箱にポイと捨てた。
(何か、キラキラ光って値打ちモノみたいだったけれど、アシが付いてもヤバいわ)
 応接間ではまだフィオナがシクシクと泣いていた。
「…あの宝石の原石がなくなり、盗難保険金もおりなければ、ウォーターフォード家は間違いなく破産ですわ…」
「そんなことはありません。神様がきっと、きっと、ドイル様やほかのかたを手足として使われて、見つけ出して下さいますわ」
 ブライディーは懸命に慰め続けていた。
 それを尻目にデイジーはまた二階に上がって、引出しに隠した標本箱と、原石を確かめてみた。
 すると…
 奇々怪々なことに、取っ手を持って引っ張っても引出しは出てこなかった。
 中で、何かが引っかかっているような感じだった。
(何よ! いままでずっとスムーズに引き出せたのに!)
 意地になって思い切り力を込めて引っ張ると、上の木の部分がベリッと剥がれ、ゴロンゴロンと、テニスボールくらいの色とりどりの宝玉が床一面に転がった。
「大きく… なっちゃった…」
 デイジーはそのうちの一つ二つ、真っ赤なルビーやミント・グリーンのエメラルドを両手に持ってしげしげと眺めた。
(なんてツイているの? こんな大きな宝石、一つでも億万長者よ! それが全部で四十いくつも… あたしはイギリス一の、いいえ、世界一のお金持ちよ! もしかしたら、ヴィクトリア女王陛下の宝物庫も圧倒したかもしれないわ…)
 顔をくしゃくしゃにし、涙と鼻水を流しながら転がった宝玉をエプロンドレスの前身頃で拾い集めた。
 いくつかは引出しに戻せたが、残りのほとんどは収納不可能になっていた。
「仕方ないわねー」
 納戸からシーツを持ってきて、それを上から覆い被せて隠した。
(でも、どうやって運び出そうかしら? …一つずつ持ち出さないと、目だってバレてしまうわ…)
 こみ上げてくる笑みを押し殺しながら階下へ降りると、アレイスター・クロウリーが訪ねてきていた。
「ああ、デイジー、ちょうどよかった。きみはけさ、『オカルト・グッズと鉱石の店』で鉱石の原石をコレクションするための標本箱を買っていたけれど、あれはどうした?」
 ギクリとしたものの、何とか微笑み返した。
「ああ、あれならあたしの部屋にありますわ。それがどうかしたんですか、アレイスターさま?」
「うん、いまブライディーさんから『フィオナさんのお屋敷で宝石の原石が盗まれた』という話を聞いてね」
「そ、それが何か? 大変お気の毒なことですわ」
「これは昔、ちょっと魔導書で読んだことなんだが、伝説の錬金術師が、実験で使うための宝石の原石を、近くに住んでいる金持ちの金庫からワープで盗み出せる『魔法の標本箱』を作り出したことがある、という話が書いてあったことを思い出してね…」

「そ、そうなんですか」 デイジーは目をそらせながら言った。「…でも落とし物のことをおっしゃっているんでしたら、ちゃんと警察にお届けしましたよ」
「そっちじゃない。『きみがあの店で買って帰った普及品の標本箱』のほうだ。ちょっと見せてくれたら安心出来るんだけれどね」
(どうしよう… 警察に届けたのは安物のほうだし、宝玉がテニスボールみたいに大きくなっているのに気持ちがいってしまって、あのチークの標本箱がどうなったかなんて、気にも止めなかったわ。たぶん引きだしの中で壊れちゃったんじゃあないかしら…)
「デイジー、アレイスターさんがおっしゃっているのだから、取ってきてあげなさい」
 ブライディーいが言った。
「その『魔法の標本箱が』ありさえすれば、宝石のある所まで赴かなくても、魔法で盗むことが出来るのですか? それだったら犯人は高名な魔法使いなのではありませんか?」
 フィオナの表情に希望が甦った。「…著名な魔法使いなら、当然その方面に名を轟かせているはず… 一人ずつ当たって頂ければ…」
「それがそう簡単ではありません。その術は、昔は使える者もいたようなのですが、現在では完全に失われた術なのです。つまり、どんな手順を踏んで行う如何なる術か、概要を知っている者すらいないくらいなのです」
 アレイスターは残念そうに言った。
「いま『魔法の標本箱を使ってする』と…」
「それは必要不可欠なものです。そのあと、一体どうするのか…」
(中にガラス玉を入れるのよ。そうすると、そうすれば、近くの金持ちの金庫の中の本物の宝石とすり替わるのよ)
 デイジーは思わず言いかけて口をつぐんだ。
「デイジー、早く!」
「はいはい、分かりました」
 重い足取りで階段を上がり、ドアを開けると、目の前には真っ赤な風船のようなものが立ちふさがっていた。
(な、何よ、これ!)
 そっと触ってみると、ひんやり冷たいガラスに似た感じだった。
(まさか、あのルビーが人間よりも大きくなってドアを塞いでいる…なんてことは…)
 赤い玉はさらに大きくなりつつあり、ミシミシとドアの回りを壊し掛けていた。
 気のせいか、部屋の壁も廊下側に向かって膨らみ、たわんでいるような気がした。
(もしかして、他の宝石も巨大化して…)
 そこへ、隣の部屋からウォーレス博士が出てきた。
「やあデイジー、試金石のセットと図鑑はも要らないのかい? 机の上に返してあったけれど…」
「え、ええ…」
「ところでデイジー、こっちの部屋の、ぼくの部屋に面した壁に、棚か何か取り付けようとしなかったかね? さっきから、本棚から本が落ちてきて仕方がないんだが。まぁ、溢れるほど詰め込んでいるぼくも悪いんだけれど…」
「そうですか… このお屋敷もそろそろ建て付けが悪くなってきましたからね。ホホホ…」
 そんなことを言っていると、ドアがバァーンと弾けるようにふっ飛んで、中から赤いガラスのような物体が枠を壊して廊下に転がり出た。
「な、なんだこれは?」
 ウォーレス博士は目の前にあるものが信じられない様子で眼鏡をずり上げた。
「そ、そんなことあたしに訊かれても… あたしのほうがお聞きしたいですわ」
 デイジーが言った。
 廊下にはほんの僅かな傾斜があったのか、赤い玉はゆっくりと階段のほうに転がり始めた。赤い玉に続いて、青い玉や透明の玉、琥珀色の玉が次々と部屋から出てきた。
 ウォーレス博士はとっさに、廊下の傾斜の高いほうへ飛び退いたが、デイジーは大きな雪だるまほどの大きさのたくさんの玉に追われることになった。
「助けてぇー!」
 デイジーは階段を走って下りたものの、途中でけつまづいて、踊り場に倒れた。
「痛いっ! 立てないよー 誰か助けて!」 悲鳴を聞きつけて、アレイスターやドイル、それにブライディーが踊り場を見上げた。
「いかん! 押し潰されるぞ!」
 ドイルは階段を駆け上がろうとしたものの、とても間に合いそうになかった。
 アレイスターは口の中で短い呪文を唱えた。すると、玉たちは凍り付いたように停止した。ドイルも、騒ぎを聞きつけてきたフィオナもポピーもピタリと動かなくなった。
 術を掛けたアレイスターと、デイジーとブライディーだけが動いていた。
「デイジー、早く逃げろ! この術は三分間くらいしか保たない!」
「脚を折って立てないよー」
 デイジーが泣き叫んだ。
「待っていてね、すぐ行くわ!」
 ブライディーがドイルを追い抜いて階段を駆け上がったものの、見えない壁のようなものに弾き返された。
「だめ! 近寄れないわ!」
「お姉ちゃん、電話をして! お台所のゴミ箱に、キラキラ光る名刺を捨てたの! その電話番号に電話して!」
「でも、電話して誰かが来てくれるまでには三分では…」
「何でもいいから早く電話してぇー!」

 ブライディーが電話機のもとへ走り。受話器を取り上げて交換手を呼び出そうとすると、さきほど、デイジーに取り次いだみすぼらしい少女リーザが、いきなり目の前に立っていた。
「助けて! あたしが悪かった! 二度としないから許して!」
 デイジーが踊り場から叫んだ。
「いいえ、わたしこそ、皆さんに謝らなくては…」
 リーザはひたすら恐縮し、頭を下げ続けた。「早く! もう支えが聞かない!」
 アレイスターが怒鳴った。
「あ、すいません。すぐに解きますね」
 リーザは軽く目を閉じ、二階から次々と落下しようとしている雪だるまのように大きな色とりどりの宝玉に向かって、口の中だけで呪文を唱えた。
 すると、あれだけかさばっていた宝玉たちは、輝く霧に取り巻かれたかと思うとかき消すように消えた。
「ありがとう。ごめんなさい…」
「一体どうしたというの?」
 泣きべそをかくデイジーに、ブライディーが走り寄って肩を貸した。
 三分がたち、アレイスターの術が解けて、ドイルもフィオナもポピーも目を覚ました。 ウォーレス博士もクルックス博士も二階から降りてきた。
「ごめんなさい、実は…」
 デイジーが洗いざらい話そうとするのをリーザが遮った。
「全部わたしが悪いんです。わたしが落とし物さえしなければ…」
「するとあの、古めかしいチーク材の鉱石標本箱を落としたのは貴女だったのですか?」 ドイル、クルックス博士、ブライディーは異口同音に訊ねた。
「ええ、そうなんです。あの標本箱は、手にした人の性格をガラリと変えてしまいます。だから、デイジーさんに罪はないんです」
「あの箱はやっぱり、近くの金持ちの金庫から宝石をワープで盗める箱だったんだな?」 アレイスターが勢い込んだ。
「すると、お屋敷の金庫から宝石の原石を盗んだのは…」
 フィオナがデイジーを睨み付けた。
「叱ってあげないで下さい。怒るのならこのわたしを怒ってください。まことに申しわけありませんでした」 リーザは深々と頭を下げた。「手にした途端に人を斬りたくなる剣があるように、この標本箱を手にした人は、だれでも中に埋める宝石が欲しくなるのです」
「そんな危険なモノを落とさないでよ!」
 デイジーは、自分には非がないと分ると一転して逆襲に転じた。「…心を弄ばれたことを慰め、弁償して欲しいわ」
「デイジー、いい加減にするのよ! 宝石は貴女の欲を吸い取って雪だるまみたいになったことは明かじゃない!」
 ブライディーが叱りつけた。
「いえ、デイジーさんがおっしゃる通り、すべてこのわたしが悪いのです。あの標本箱は命と意思を持っていて、勝手に逃げ出す可能性があることを軽視していました。荷馬車には他にも、危険な品物を積んでいたために注意がおろそかになり…」
 皆はそれがどんなモノか気になったものの誰も訊く者はいなかった。
「迷惑を掛けたのはお互い様のようですから、お差し支えがなければ、貴女が一体何者なのか教えてください」
 ドイルはパイプに火を付けながら穏やかに言った。
「さぁ、デイジーわたしたちは台所に戻りましょう。お客様たちにお茶とお菓子をお出ししなければ…」
 ブライディーはむずかるデイジーの手を無理矢理引っ張って立ち去った。
 フィオナは、ウォーレス博士やクルックス博士、ポピーたちとともに、床や階段に散らばったままの、元の大きさに戻った宝石の原石を集めるのに大わらわだった。
「わたしは、『清浄派…カタリ派…』の完徳者の一人です」
「すると、不老不死を探究しているグエンドリンさんやシーリアさん、魔女としての素質のあるものをスカウトして回っているゼリューシャさん、なぜか戦争を起そうとしているヴァイオレットさんたちのお仲間なのですか?」
 ドイルは、リーザを目を見つめた。
「いちおう、彼女たちの長(おさ)をやっています」
(なんだって! このみすぼらしい少女が、とんでもない魔女たちの長(おさ)だって!)
 アレイスターは表情に出るのを懸命に押さえた。
「申し訳ございません。わたしが不老不死や邪神召喚などについて口走ったために、皆様がたが本気になられてしまって…」
(信じられない! こんな子が連中の長(おさ)だなんて…)
 アレイスターは何か術を仕掛けたくてうずうずしたものの、場所が場所だけに思いとどまった。
「貴女がたは一体何をしようとなさっているのですか?」
「すいません。これ以上はご容赦ください」
 リーザはせっかく新たに淹れ直したお茶も断って、どこからともなく取り戻したチークの標本箱を胸に抱きながら、トボトボと歩み去った。

     (次のエピソードに続く)





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