ブライディー・ザ・マジックメイド 英国心霊研究協会」のクリスマス・プレゼント ウォーレス博士が語る「蝶の栞」 デイジーが語る「不思議なパン屋」 コナン・ドイルが語る「光あれ」 クルックス博士が語る「いと高きところ」 ブライディーが語る「いっぱい猫」 (短編五本) ウォーレス博士が語る「蝶の栞」 若い頃、ジャワ島のスラバヤあたりを仲間たちとともに踏査した時のことだ… コロニアル様式の街には現地インドネシアの言葉や、英語やオランダ語が飛び交い、羊の焼き肉などおいしそうな食べ物や、香料や花屋の花の匂いがたちこめていた。広場では大道芸人たちが球や棒や、皿や傘を使った曲芸を見せていた。猿使いは服を着せた猿に人間の真似をさせ、蛇使いは縦笛を吹いて、蛇たちを壷から出したり引っ込めたりして観客の拍手喝采を浴び、小銭を投げてもらっていた。 わたしは、隅っこのほうでやっていた「文字が読める蝶」という見せ物に興味を覚えた。道ばたには小さな植木鉢に植えられた赤・白・黄色の蘭が並べられていて、それとは別の止まり木に止った赤ん坊の手のひらくらいの白い蝶は、初めて見るものだったからだ。 蝶の羽根には、胡麻つぶに似たどこか遠い異国の文字のような黒い斑紋があった。 「さて、皆様がたの中には『蝶が文字を読めるなんて』とお疑いのかたも多いことでしょう」 ターバンを巻いた肌の色の浅黒い年齢不詳の「蝶使い」が、客に白人が多いのを見越してたどたどしい英語で口上を語り始めた。「…だけども、この蝶は本当に文字が読める不思議な、珍しい蝶で、このあたりの島々の奥地にしかおらず、年々数が少なくなって滅びかけているものなのです… ジャングルのところどころには、いまはもう誰にも読めない、大昔に海に沈んだ大陸の碑や石版がありますが、それを読んで智恵をつけ、捕らえようとやってきた者に魔法を掛けて、虻や蝿に換えてしまう、という伝説もあるくらいでして…」 「おまえさんはよく大丈夫だったな!」 大向こうから声が飛んだ。 「ええ。おとなしい蝶だったんです」 見物人から失笑が起きた。 「ごらん下さい!」 「蝶使い」は裏表に金釘流で『YELLOW』と書かれたボール紙を蝶に見せた。 蝶はふわりと宙に舞い上がったかと思うと、まっすぐ目の前の黄色の蘭の花にとまった。 「おおーっ」 客たちからはどよめきが起きた。 『RED』と書かれたボール紙を示されると蝶はすぐに赤い蘭に移った。『WHITE』と書かれたボール紙が出されると白い蘭に… 色の名を書いたボール紙を素早く変えると、蝶も素早く花から花へと渡った。 パチパチと拍手が起き、投げられた小銭を「蝶使い」は拾い集めた。 (何かのトリックだ) わたしは思った。(おおかた、ボール紙にはそれぞれ違う蜜か何かが塗ってあって、蝶はそれに対応した蘭の花に止るのだろう) 「どうです、お客さんの中で、試してみたいかたはおられませんか?」 「蝶使い」は何も書かれていないボール紙を示して言った。 わたしは他の何人かとともに手を挙げた。「蝶使い」はわたしを指さしてくれた。 「じゃあ旦那、お願いします」 「蝶使い」はボール紙と、墨汁を浸した筆の入った矢立を渡した。「…蝶ができることをお願いしますよ」 わたしはボール紙に「蝶使いの頭に止まれ」と書いて観客と蝶使いに示し、最後に斑紋のある蝶に見せた。 すると舞い上がった蝶は、ヒラヒラとまっすぐ「蝶使い」のターバンの上に止った。 観客からは「おおーっ」と感嘆の声が上がった。わたしはすぐさま「わたしの右肩の上に止まれ」と書いて蝶に見せた。 蝶はすぐにわたしの右肩にやってきた。 わたしは絶句した。試しに蝶の回りに手を差し出しても、操り糸も何もなかった。 「どうです? 素晴らしいでしょう?」 わたしは差し出された手の上に銀貨を置いた。 「有難うございます、旦那」 「どうだろう、この蝶を譲ってもらえないだろうか? もちろんそれなりのお金は払う」 「申し訳ないですが旦那、これはあっしの商売道具でして…」 「だろうね」 「待って下さい旦那、標本ならありますよ」 「蝶使い」は立ち去ろうとしたわたしを呼び止めて、ハトロン紙に包んだ同じ蝶を見せた。 それは押し花のように何かに挟んでペシャンコにしただけのもので、羽根もところどころ破れていて、とても標本と呼べるものではなかった。 わたしはさんざん値切った末に買い取った。 (これはまったくみすぼらしい栞と言ったところだな) そう思ったわたしは、論文で取り上げることは諦め、何気なくそのへんにあったポケット版の聖書の真ん中あたりに挟み込んだ。 それから探検やら採集したもろもろの標本の整理などで大変忙しくなり、見せ物の蝶のことなどは忘れてしまった。 やがてクリスマスが迫り、故郷のことを思い出して何気なくポケット版の聖書を開いてみた時のことだ。 白い羽根に豆本作りの職人が書いた異国の文字のような斑紋のある小さな蝶が、いきなりふわりと舞い上がって、開け放たれていた窓から、椰子の葉を横切って熱帯の青空に向かって飛んでいった… 『我は復活(よみがえり)なり、生命(いのち)なり』 ハトロン紙と鱗粉だけが残ったページにはそんな言葉が書かれていた。 デイジーが語る「不思議なパン屋」 白詰草亭で働いていた頃の話よ… お給金が安くてさぁ、せっかくの公休日だというのに、二人の友達と一緒に一日だけでもいいから臨時の売り子のアルバイトを探していたの。 大通りから一筋入ったところから、とても美味しそうなパンを焼く匂いが漂ってきた。 店先には食パンやコッペパンや、ドーナツやら、いろんなパンが飾られていたわ。 で、その横に 「店主急用につき、臨時店員募集。バイト料売上の一割。値段は好きに付けてください」 と書かれた張り紙… (このバイト良さそう!) そう思ったあたしは、店の奥に向かって呼びかけたけれど、誰も返事がなかったの。 あたしは白紙の値札に、相場と思う値段を書いた。 コッペパン二つで一ペニー 食パン一斤二ペンス ドーナツ一個一ペニー… 「ちょっとデイジー、右隣の魚屋さんも、左となりの鉱水屋さんもお留守で同じ張り紙がしてあるわよ」 近くを覗いていた友達が言った。 「だまされているのかしら?」 「そんなことはないと思うわ。たぶん経営者が同じ人なのよ」 試しにコッペパンを一つ食べてみたあたしのひとことで、友達も両隣で働くことになった。 お客さんが来てパンを見繕って買っていった。 あたしは適当に愛想を振りまき、お勘定をしてパンを売った。 パンはすぐに売切れてしまうはずだった。 だって、焼く職人さんの姿が見えないんですもの… だけども、窯にはちゃんと火が入っていて焼き上がる匂いがしてきた。 あたしはお客さんを待たせ、手袋をして焼きたてのパンを出して木のお盆に並べて売った。 そんなことをしているうちに、またパンが焼ける香ばしい匂いがしてきた。 (おかしい… 誰も次のパン種を窯に入れていない… 姿も見えない。なのにどうしてこう次から次へとパンが焼き上がるのよ? もしかして、このパン屋のオーナーは魔法使いではないかしら?) でもすぐにこう思い直した。 (たとえ魔法使いだろうと誰だろうといいじゃない? パンは売れている。お客さんから文句はない。バイト料は売上の一割。すでに一日の給金としてはかなりいい額になっている) 仕事を続けているうちに、あたしはふと考えた。 (値段を自由に付けていいと言うのなら、値上げしてやろうかしら? これから夕方になれば勤め帰りの人たちが増える。多少高くても買ってくれるのでは?) あわてて値札を書き換えた。 すると、不思議なことにパタリと客足が途絶えた。 窯の火も消えて匂いも漂ってこなくなった。 もちろんパンも新たには焼き上がってこなくなった。 (なぜなの?) 値札を元に戻したけれど手遅れだった。 通りがかる人は、まるで何も見えないかのように素通りした。 やがて陽が落ちて、看板に書かれた閉店の時間が来ちゃった。 気味が悪くなっていたあたしは、売上金の中からきっちり一割だけ取ると、あとのお金はお勘定の箱にしまって店を出た。 魚屋と鉱泉屋でバイトしていた二人は、最後まで値上げなんかせず、結局あたしよりたくさん稼いでいた。 翌日、気になってその店があった場所に行ってみたけれど、両隣のお店ともども「貸店舗」の札が掛かっていたわ… コナン・ドイルが語る「光あれ」 みんなも知っているように、エジンバラの医科大学を卒業したぼくは、しばらくアフリカ航路の貨客船で船医として働いたあと、プリマスで眼科の医院を開業した。あまりはやらなかったんだけれど、それでも患者は来ることは来た。 ある時、ほとんど目が見えなくなりかけている老人の患者がやってきて、とある一枚のチラシを示しながら言った。 「ドイル先生、この目薬は本当に効くのでしょうか?」 ぼくはチラシを受取ってまじまじと見つめた。そこには、シルクハットをかぶって片眼鏡をかけ、黒いマントを羽織ったいかにも頭の良さそうな男のイラストとともに、通常よりも大きな活字で次のような文句が印刷されていた。 『ドイツからやって来た天才眼科医、ルードヴィッヒ博士の「奇跡の目薬」 ルードヴィッヒ博士は、ババリアに古くから伝わる、薬草からつくる目薬に近代医学・薬学の光を当て、これを精製することによって、どのような眼病にでも効く点眼薬をつくり出した。 ただし、この点眼薬のもとになる薬草は、故国バイエルンの深い森の中でも絶滅しかけていて、非常に貴重なものになってしまっている。 ルードヴィッヒ博士はヨーロッパじゅうの町を巡回して、この目薬を目が見えなくて本当に困っている人々に頒布することにした。 明日の午後から、ここプリマスの公演広場に来るので、試してみようと思うかたはぜひ来られたし。 点眼は一回一滴25ポンド。両眼だと50ポンド。 なおこの目薬は、もちろんすべての患者に100パーセント効く、というわけではない。人によってはまったく効かないこともある。 しかしそれは稀なケースである。 僅かでも光を取り戻したり、失いかけていた視力を回復した患者たちはヨーロッパじゅうで数知れず… 貴方もぜひ、騙されたと思って試してみられてはいかがなものか?』 そのあとには、実際に治ったり症状が改善したと言う患者たちの言葉が、顔写真入りで列挙されていた。 「どうでしょうか、ドイル先生?」 老人はすがるような目でぼくを見た。 「お気の毒ですがインチキにきまっています。 そんな素晴らしい目薬があるのなら、どうして学会で発表しないのでしょうか?」 ぼくはキッパリと言った。 「ここには『もとになる薬草がなくなりかけていて』みたいなことが書いてありますが?」 「値段をつり上げるためのアオリです。真実かなりの確率で効くのであれば、こんなビラなど撒かずに、王侯貴族といった金持ちの患者だけに目薬を売り歩くことでしょう」 「やはりそうでしたか…」 患者の老人は溜息をつきながら肩を落とした。「…だけども、わたしは騙されたと思って、このルードヴィッヒ博士の目薬を試してみようか、と思っているのです。50ポンドと言えば出せない金額ではありません。ここで見送って(ああ、あの時試していれば…)と思い続けるよりは…」 「そこが相手の詐欺師の付け目なのです。身体の具合がよくなくて、いまの治療に不満を持っておられるかたは、ご家族のかたを含めて皆さん藁にもすがる気持ちになっておられる。 その足元につけ込んで、ほとんど効かない薬を法外な値段で売りつけてドロンするのです」 「分っています。分っているのです。…では買わないまでも、公園広場で行われるという、実際の治療を見に行く、というのはどうでしょう? もちろんお金も持っていきません」 「こういう連中は、実に上手にサクラや手品のトリックを使うのです。みたら最後、走って家か銀行までお金を取りにいくことでしょう」 ぼくは、あまりにも冷たいことを言っている自分に嫌気が差していた。 ご存じの通り、人間は感情の動物だ。 「効く、良くなる」と言われれば暗示にかかって、実際に症状が改善する者もまったくないことはないだろう。可能性がゼロでない限り、どんな奇跡も完全に否定することはできない… 「ではドイル先生、お願いします。無理を言って申しわけないが、明日わたしと公園広場へ行って、ルードヴィヒ博士のインチキを見破ってください! わたしが騙されるのが可哀相だと言うのなら、この町の他の眼病患者が騙されるのを黙って見過ごすことだってできないはずです」 「分りました。相手は歴戦の詐欺師です。このチラシにも『必ずしも全員に効くわけではない』と予防線を張ってあります。しかし、貴方の仰るとおり、本人や身内のかたが借金をしてでも大金をつぎ込むのをのほほんと眺めていることもできない。なるべく被害者が出ないように全力を尽くしてみましょう…」 翌日、潮の香りが漂い、時おり遠くから汽笛の音が聞こえるプリマスの公園広場には、十数人の目の病気に老若男女が集まっていた。 付添の人に手を引かれて来ている者もあれば一人で白い杖をついて来ている者もあった。「皆さん! きょうはわざわざこのようなところにお呼び立てしてすみませんでした」 まるでチラシから抜け出てきたようなルードヴィッヒ博士がマントを翻らせて現れ、よく通る声で言った。「…これが貴重な薬草から精製した目薬です!」 彼は小さなガラス瓶に入った点眼薬を、白い雲が浮かぶ青空に掲げて見せた。瓶がキラリと輝いた。 「とりあえず25ポンド出して、片目だけでも試してみたい、と思われるかたはいらっしゃいませんか?」 「すいません。もし治ったら必ずお支払いしますから…」 聴衆の中から、両目を閉じた小さな女の子の手を引いた、みすぼらしい姿の若い婦人が歩み出た。「…その、後払いではいけないのでしょうか? もし治ったら必ずすぐにお支払いしますから… ほうぼうで借金をしてきたのです。だから、この子の、娘の目が治っていないと、わたしは借り主に嘘をついたことになってしまうのです」 ルードヴィッヒは腰をかがめ、細い指で少女の眼に触れた。 (ほぅ、詐欺師とは言え、いちおう診察の真似事のようなことはするのだな) ぼくは思った。(…いや、詐欺師だから、そのあたりは手が込んでいるのかも知れないな。そもそも、あの親娘がサクラかもしれないし… いや、きっとルードヴィヒが仕込んだサクラに違いない!) 「…たぶん見えるようになると思います。ただし、確約はできません。チラシにも書いた通り、絶滅しかけている薬草から精製した大変貴重な目薬なのです。薬草を集めるために多額の費用をかけています。申し訳ないが結果にかかわらず前金でお願いしたい」 婦人は紙幣が入っていると思われる白い封筒を胸の前で抱きしめて迷っていた。 「頼んでみなさい!」 ぼくは声を掛けた。「…もしも治らなければ、ぼくがお金を立て替えて払ってあげよう。貴女は借りてきたお金をすぐに返しに行けばいい!」 婦人はあっけに取られた表情になった。 ルードヴィヒはさすがに落ち着いていた。「おお、これは奇特な御仁ですな…」 「…もしも治ったら、貴女が借りてきたお金で払えばいい。お金を貸した人たちも、その子の目が見えるようになったのを見れば、納得して返済を待ってくれることでしょう」 ぼくはつけ加えた。 「ちょっと待ってください、ドイル先生」 ぼくに同道を頼んだ老患者が囁いた。「それでは先生が損をすることに…」 「大丈夫、あの子の目は見えるようになります。『必ず』 なぜなら『そういうふうに仕組まれている』からです。舞台の上に上がってからセリフを変更するわけにはいきませんからね。…ましてや、あんなにちっちゃな子役は、ね…」 「お母さん、あたしのおめめは見えるようになるの?」 女の子はいたいけな声で尋ねた。 「ええ、見えるようになるわよ、だから安心して!」 ルードヴィヒはは目薬の小瓶を振りかざし、固く閉じた少女の右の目尻に、続いて左の目尻にも点眼した。 集まっていた人々は固唾を呑んだ。 「でもドイル先生、それだったら詐欺師の片棒をかつぐことになるのでは?」 老患者は再び囁いた。 「そうしたら、次は『何が何でも』貴男が点眼してもらうように頼むのです。お金を先に見せてはいけない。ぼくはすかさずこう言います。『今度もぼくが立て替えます。ただし、今度は治ったら』 詐欺師…ルードヴィッヒは『前の条件を飲んだのだから』『今度の条件も飲まざるを得ない』『実際は似て非なる条件なのだが』『集まっている人々はそんな違いには気が付かない』」 群衆が固唾を呑んで見守る中、女の子はしきりに瞼を動かそうとする仕草をした。 そして、ゆっくりと目を開いた。 「お母さん! 見えるわ! 明るい! とてもまぶしいわ!」 母親は娘をしっかりと抱きしめた。 「ああ、よかった! 本当によかった! 有難うございます! 有難うございます!」 よめきが渦巻いてしばらく止まなかった。 母親はルードヴィヒに向かって深々と頭を下げ、ぼくに向かって会釈してから封筒をルードヴッヒに手渡した。ルードヴィッヒはその中をチラッ覗き込んでから懐にしまった。 それから人々に向き直った。 「どうでしょう? 皆様も試してみられてはいかがですか? 今回持参した目薬は二人分です。従ってあと一人分しか残っていませんが…」 「お願いします。いま金は持参していないが…」 打合わせの通り老患者が挙手した。 「今度もぼくが立て替えましょう。ただし『治ったら』」 ぼくはすかさず付け加えた。ルードヴィッヒは一瞬頬を引きつらせたように見えた。 「ですからそれは…」 ぼくは(しめしめ、これでまんまと詐欺師ルードヴィッヒの裏をかいてやった)とほくそ笑んだ。(…もし治らなくても、ぼくの患者は虎の子の金をだまし取られることはない。そして、あり得ないことだが、万々一良くなったら、金を払えば済むことだ) と、その時、聴衆の中から、丸い黒眼鏡を掛けた一人の身なりのいい青年が挙手をした。 「ちょっと待って下さい。それだったら、もし治らなかった場合、ルードヴッヒ先生は、薬草の調達と精製にお金をかけた目薬の代価をまったく得られないことになります。 わたしはもし治らなくても払います! だから目薬を私に差してください!」 (なんてことだ! せっかく上手く行きそうだったというのに…) ぼくは思わず額を手で押さえた。(なんてことだ! 別の鴨が現れるなんて! ルードヴィッヒは間違いなくあの黒眼鏡の青年に点眼薬を差すだろう。なにしろ彼は「治らなくても払う」と言っているのだから…) 案の定、ルードヴィッヒはニヤリと笑ったように見えた。が、先に母娘の「奇跡」を目の当たりにしている人々には「救世主の微笑」に見えたに違いない。 「どうしましょうドイル先生?」 ぼくの年老いた患者は途方に暮れた表情で尋ねた。 「どうもこうも、選択権はルードヴィッヒに移ってしまった。金の問題は抜きにしても、診察の真似事をして、「こちらの若いかたのほうが治る可能性が高いので…」と言われてしまうとそれまでです」 老患者はほんのしばらく何かを迷っていた様子だったが、やがて青年に負けないくらい勢いよく手を挙げて叫んだ。 「そういうことなら、わしも『もし見えるようにならなくても金を払うことにする』から、わしを治療してください!」 ぼくは思わず目をつむった。 (これではルードヴィヒの思うつぼだ…) 案の定、広場に来ていた、見えるようになることを願っている人々が次々に手を挙げ、ルードヴィヒのほうに押し寄せた。 「ぜひわたしを…」 「俺は二倍の金を払う!」 「わしはいくらでも払う!」 「全財産を前払いしてもいい!」 「みなさん、押さないでください!」 ルードヴィヒは本当に困惑した顔をして言った。 (「全財産を差し出す」と言っている患者はさすがに断るだろう。もし治らなかった場合…と言っても、治るわけがないのだが…訴えられてしまう。ルードヴィヒの今回の稼ぎの目標は50ポンドのはずだ。さこからサクラの母娘の「出演料」を支払って… 「裁判に訴えたら、訴えたほうが例え勝っても、裁判費用やら弁護士費用やらで損をしてしまうギリギリの金額にしているのだ) 「…ここは「紳士の国」らしく『先着順』ということにしたいと思います。 そちらの黒眼鏡の紳士は、わたくしの、薬をつくる際の苦労を思い計って下さって、『たとえ良い効果がなくても、治療費は払う』と仰ってくださった。わたしはこのかたに点眼薬を差して上げたいと思う」 黒眼鏡の青年はニコニコしながら歩み出ようとした。と、その前に、ぼくの老患者が立ちふさがった。 「待ってくれ! 『先着順』ということならば、わしが一番先に手を挙げたはずだ。最初の条件は引っ込めて、わしも『効き目はなくても払う』と言っている。だからわしに…」 ルードヴィヒは場数を踏んでいるかして、落ち着いていた。 「分りました。…それではこうしましょう。 残った点眼薬は一人分。これを二つに割って、お二人の片目に差してあげようと思う。 もちろん、頂く治療費は一人25ポンドずつでよろしい」 「嫌だ!」 黒眼鏡の青年が言った。「わたしはできることなら両目が見えるようになりたい! 失礼ながら、こちらのかたは、声から察するとかなりのご年配とお見受けする。 治る…治す価値はわたしのほうが高いと思います!」 「何を言う! 医者が年齢で患者を差別していいのか?」 場には険悪な空気がみなぎった。 さすがのぼくも、どう止めたらいいのか慌てた。 ルードヴィヒは大きな溜息を一つつき肩を落とした。「…こうなったら正直に申し上げる。わたしは医者ではない。詐欺師です」 ぼくの老患者も、黒眼鏡の青年も、ほかの人々も、もちろんぼくもあっけに取られた。「…この中の点眼薬も『奇跡の目薬』などではない。ただの蒸留水です。わたしはこうやって辛い思いをされているかたを騙して金を巻き上げて暮らしているのです。さきほどの母娘もわたしが雇ったサクラです」 どよめきが起きた。 「警察に連絡しろ!」 「しかし証拠がないぞ。ここではまだ金を騙し取ってはいない。それどころか、自分で詐欺師だと言った」 二人の患者も、人々も、ぼくも当惑した。 「いいや、先生は詐欺師なんかじゃない!」 黒眼鏡の青年が叫んだ。「先生は立派な先生なんだ。その目薬は、ドイツの深い森の、絶滅しかけている薬草でつくった高貴薬に違いない! 先ほどの親娘も、本当に治して貰ったんだ! 先生は、わたしたちが疑ったり、醜い争いをするのを見て嫌になり、この場から逃れるために自ら詐欺師だと嘘をついんだ!」 「やれやれ。勘ぐりもいいところですな」 ルードヴィッヒ博士はまた溜息をついた。「…わたしは正真正銘のペテン師なのです。 良心の呵責から、これ以上あなたがたを騙し続けることが嫌になったのです。…聖パウロが神の雷に撃たれたように、とまでは言いませんが、とにかく僅かとは言え、それに近い感情に見舞われたんです」 「だったら、その点眼薬がただの蒸留水で、いくらでもあるものだと言われるのだったら、それでもいい。どうかわたしの目に差してください!」 「わしもだ!」 青年も、ぼくの老患者も詐欺師のルードヴィヒにすがった。 「わたしたちもお願いします!」 その場に集っていた人々はワッとばかりにルードヴィヒを取り囲んだ。 「…どうだろう皆さん」 黒眼鏡の青年がルードヴィヒがかぶっていたシルクハットを奪い取って差し上げた。 「…ルードヴィッヒ先生は、この目薬の材料になる薬草を手に入れるのに50ポンド必要だとおっしゃっている。いまここには五十人ほどの目の病気を患っている患者がいます。一人一ポンドずつ払おうではありませんか? 皆さん、それくらいだったら持ち合わせがあるでしょう? 目薬はいまや、一人分、二人分だけでなく、無限に、いくらでもある。 全員に差して貰おうではありませんか」 ぼくは正直、あっけにとられた。「盗人に追銭」という諺があるが、これでは詐欺師に金を恵んでやるようなものだ。 しかし、人々は口々に「お願いします、どうか…」と言いながらルードヴィッヒの回りに依ってきた。 「いいのですか? 本当にまったく効かないのですよ! 少しでも治るようには、見えるようにはならないのですよ!」 詐欺師は念を押すように、大音声で叫んだ。 異を唱える声はなく、自発的に一列に並んだ人々は、シルクハットの中に一ポンドの紙幣や金貨を投げ入れ、ルードヴィヒ博士に点眼薬を差してもらった。 指の先ほどの小さな入れ物の中身がなくなると、ルードヴィヒ博士は近くに老いてあったブリキの水筒から水をつぎ足して「治療」を続けた。 「どうです? 良くはならないでしょう? 見えるようにはならないでしょう? それが当たり前なんです。効くわけがないのです。 金は、お返しします!」 ルードヴッヒがシルクハットの中の金を地面に打ちあけようとした時、開かない瞼を懸命に開こうとしばたたかせていた男が叫んだ。 「見えるぞ! 海だ! ああ、これが青という色なのか! 船が浮かんでいるぞ! 大きな船や小さな船。どれも黒い煙を吐いている!」 「あたしも見えるわ!」 女性が言った。「…白いカモメが一、二、三羽… いっぱい飛んでいるわ!」 「波のしぶきは白いぞ!」 「雲… あちらの雲は白いが、こちらの雲は灰色だ。どうやら雨がやってくるらしい!」「港の水夫の多くは、横縞のセーターを着ているぞ!」 青年は黒眼鏡を投げ捨てた。 ぼくの老患者は、ぼくの両手を取って、年甲斐もなくはしゃいだ。 「ドイル先生! 見えます! 見えます! 見えるようになったんです! 治ったんです!」 (莫迦な!) ぼくは思った。(…これは集団催眠か、集団暗示に違いない! 詐欺師のルードヴィヒは催眠術を使うのだろう。 いままでヨーロッパのあちこちで、大勢の人々に治ったような感じにさせて金を出させてきたのだろう。彼らは、自分の家に帰るとまた元の状態に戻ってしまうに決まっている!) しかし、その場の誰よりも驚いたのは他でもないルードヴィヒ自身だった。 「そんな莫迦な! あり得ない! あり得ないことだ!」 「ルードヴィッヒ先生、有難うございました! 我々は金を払った。どうかまた、ドイツの深い森から貴重な薬草を採取してきて、治療を続けて頂きたい!」 「どうか、お願いします!」 「頼む!」 人々は口々に言った。そして、三々五々帰っていった。 あとには、要らなくなった白い杖が何本か、そこここに置き捨てられていた。 ルードヴィヒの姿も、いつのまにか消えていた。 たぶん、逃げ出したのだろう。 そうに違いない… クルックス博士が語る「いと高きところ」 クリスマスだね… わしも科学者だからね。たとえ子供相手の方便だとしてもあまり嘘はつけんのだ。 「サンタ・クロース」とか、ね… しかし、不思議な体験をしたことはあるよ… 仮にトビーとしておこうか。四歳か五歳くらいの、物心はつきかけているけれど、サンタ・クロースはまだ信じている、そんな年頃の子供だった。 トビーの両親は相次いで病気で亡くなっていてね、子供のない親戚の家に引き取られていった。 わしの友人で、ちょくちょく訪ねては歓談していた義理の父母はよく出来た人たちで、トビーを実の息子のように可愛がっていた。それでもトビーのほうに遠慮はあったようだ。 (ぼくは貰われてきた子だ)と。 ちょうどトビーが夜空の月や星に興味を持ち始めていた。 わしは、孫の一人のようなトビーに、簡単な天体望遠鏡の組み立てセットをプレゼントすることにして、ある年のクリスマスの前に持参した。 「うわぁ、クルックスのおじさん、いま開けてもいい?」 きれいな包装紙に包まれたプレゼントを見てトビーは子供らしく瞳を輝かせた。 「いいとも。そおっとな。ワレモノだよ」 「トビー、ちゃんと御礼を申し上げるのだよ」 友人は高価な贈り物に苦笑いしながら言った。ちなみに、わしはこの友人に論文の手助けをしてもらうなど、とても世話になっていたが、わしよりもずっと資産家だったので、金銭的なもので謝礼をすることはできなかったのだ。「うん、クルックスのおじさん、本当にありがとう!」 「これはこれは、今夜はサンタクロースの扮装で来たほうがよかったかなぁ…」 「うううん、それはいいよ」 包装を開け、箱を開いたトビーは、飛び上がらんばかりに喜んだ。 「うわぁ、有難う! 本当に有難う!」 トビーはさっそく、宝島を探す海賊の船長のように手にした望遠鏡を片目にあてがってみせた。 わしと友人はそのあいだに、子供用の小さな三脚を組み立てた。 「ねぇお義父さん、二階の窓から見てきてもいい?」 「ああいいよ。風邪を引かないように、暖かくして見るんだよ」 わしは少し責任を感じ、三脚を手に一緒に二階の子供部屋に上がった。 「すみません、高価なものを」 踊り場に差し掛かった時、友人が階下から声を掛けた。 「いや。そんなに高いものではないんだよ。 ご覧の通り子供のためのものだ。レンズもツァイスなんかじゃない。もしもトビーがこれで興味を持って、もっといいものを欲しがったら、その時は君が買って上げてやればいいよ」 「そんな。『天文道楽』はギャンブルよりもお金を浪費する言うじゃありませんか」 「それを言ったら、我々の『物理道楽』も金食い虫じゃないかね?」 子供部屋に着いたトビーが北東の窓を開けた。 幸い、そんなに寒くはなく、夜空は晴れて北斗七星やオリオン座が輝いて見えた。 トビーは三脚の上に望遠鏡を置いてのぞき込み、ゆっくりと動かして見せた。 「凄いよ、クルックスのおじさん。とても大きく見えるよ! 色もとても鮮やかに見えるよ!」 「それはよかったな。知っていると思うけれど、出来たばかりの星は青白く、年寄りの星は赤みがかって見えるんだよ」 わしの説明など聞かず、トビーは無我夢中で星を覗き続けた。さすがに少し寒くなってきたわしは、我慢ができなくなって尋ねた。「トビー、一体どの星を探しているのかね? 星座板なら、ほら、ここにあるし、南天の星星は南側の窓からしか見れないよ」 「うん。ぼくの亡くなったお父さんとお母さんがどの星にいるのか探しているんだよ」 「それは、こんな小さな望遠鏡じゃあ見れないよ」 わしは思わず口を滑らせてしまった。「…グリニッジやケンブリッジにあるような、大きな天文台の望遠鏡でないと無理だよ。君のお父さんやお母さんのほかに、亡くなられた人も見えないだろう?」 「うん…」 トビーはかなりガッカリした様子だった。 そこへ友人夫妻がやってきた。 「どうだい。よく見えるかい?」 「お義父さん、お義母さん、お願いがあるの。クリスマスのプレゼントはもう要らないから…クルックスのおじさんに貰ったら、代りに大きな天文台に連れて行って。お義父さんは科学者で、天文台を持っているお友達もいるのでしょう? ぼくはお父さんとお母さんが暮らしている星を、一目でいいから見たいんだ!」 「いいかいトビー…」 わしの友人はしゃがんでトビーの目を見つめていった。「…お父さんと、お母さんが暮らされている星は、とてもとても遠いところにあるんだ」 「でもお月様なんか、大きな望遠鏡で見たら穴ぼこだらけで誰も住んでいないでしょう? 同じように大きな望遠鏡で見たら、これだけたくさんある星の一つに、ぼくのお父さんやお母さんがいるのが見えると思うんだ」 「トビー。わたしたちが新しいお母さんとお父さんになったでしょう? まだ何か欲しいものでもあるの?」 友人の妻が目に涙を溜めながら尋ねた。 「うううん。新しいお父さんとお母さん、ぼくはとても喜んでいるよ。でもね、クリスマスくらいは、星にいるお父さんとお母さんに会いたいんだよ」 友人夫妻は困惑した様子でわしのほうを見た。 わしは小さな子供用の天体望遠鏡などをプレゼントに選んだことを後悔した。よもやトビーが、そんな理由で星を見たがっていたなどとは思いもよらなかったのだ。 「あのね、トビー」 わしは意を決して切り出した。「星はね、どの星も遠い遠いところにあるんだ。お月様よりずっと遠いところにね。だから、グリニッジやケンブリッジの大きな立派な望遠鏡で見たとしても…」 トビーはもちろん、友人夫妻も不安そうな表情でわしの顔を見つめた。 「分ったよ、トビー」 わしは破顔一笑しながら胸を張った。「わしの友人に、お金持ちで自分の屋敷に天文台を作っている男がいる。 彼に頼んで覗かせてもらおう!」 「本当?」 トビーの顔がたちまち明るく輝いた。 「ああ、本当だとも。ただし、一回だけだよ」 「うん、一回だけでいいよ」 「次もし、星々の中にお父さんとお母さんを捜したり、会いたくなったら、一生懸命勉強して、働いてお金を貯めて、自分の部屋に天文台を作るんだ。約束してくれるかい?」 「うん、約束するよ! 星々の中にお父さんとお母さんが暮らしている星を見つけたら、印しを付けて覚えておいて、それを見上げてお祈りすることにするよ!」 友人夫妻はますます困惑した顔をした。 「さぁトビー、そういうことでいいわね。窓を閉めて、寝間着に着替えてねんねすることにしましょうね」 「はい、お義母さん」 「あんな約束をして大丈夫なのですか、クルックス先生」 階下の書斎で飲み直しながら友人が言った。「ああ。自宅に天文台を作っている友達がいるのは本当だ。一晩だけ借りるようにしよう」 「しかし、いかにアマチュア天文家の望遠鏡とは言え、せいぜい土星の輪くらいしか見えないのでは?」 「ところできみ、トビーの亡くなった両親の写真はあるかね?」 「もちろんありますが、それが一体?」 「それをもとにして幻灯を作ろう。望遠鏡を覗いたトビーが、一瞬でもその姿が見えたならきっと納得してくれることじゃろう」 「ですが先生、それはイカサマでは?」 「ああ。君も知っている通り、わしは『英国心霊研究協会』で、幽霊や降霊術についてトリックなのか、それともそうではないのかを調べている。そのわしがトリックを使って子供を騙すのは、とても心苦しいが、実際トリックの降霊術でも心の安らぎを得られている者は大勢いるのだ」 「それはそうでしょう。本人が本物だと信じている限りは…」 「トビーにも、たとえ幻灯であれ亡くなった父と母が『わたしたちはこんなふうに幸せに暮らしている。トビー、おまえのこともしっかりとここから見つめている。だから、新しいお父さんとお母さんのもとで幸せに暮らしなさい』と言ったら、心穏やかに過ごすことができるのではないか?」 「ええ、それはそうでしょうけれど…」 「だったら、わしらがやろうとしていることは、良いことのはずだ」 数日後の、ある澄み切った冬の夜、わしと友人と、トビーは馬車の中の人になった。 「お義母さん、行ってくるよ。お父さんとお母さんの星を見つけたら、すぐに帰ってくるよ!」 「気を付けてね!」 別の友人には、少し前に話をつけてあった。 ふつうの屋敷の屋根裏の一角に漆喰張りの小さなドームが作られている。そこに壁に穴を開けて大砲のような天体望遠鏡が冴え冴えとした夜空に向けられているのを見て、トビーは目を見張った。 「うわぁ、すごいや! これ、本当に女王陛下や、大学のものじゃあないの?」 魔法陣くらいの大きさのドームの床はルーレットのように回転する仕掛けも付いていた。 「ああ、別荘や、旅行や、美術品や、舞踏会やご馳走にかけるお金を全部この望遠鏡につぎ込んだんだよ」 わしは階下の研究室の本棚にずらりと並んだ天文の雑誌や天体や彗星を描いた絵画を示した。「…ちなみに、新しい星や彗星を発見すると、その星に自分の名前を付けられるんだよ」 「ええっ、本当?」 トビーは大き目を見開いた。 「本当だよ。…さぁ、今夜一晩の約束で、トビー、君のために借りたのだから、さっそく覗いてごらん。君が眠くなったら帰ろう」 わしはトビーを、個人の持ち物としては破格に立派な望遠鏡へと招いた。 「うううん、ぼく絶対眠くなんかならないよ。朝まで…夜が明けるまで覗いているよ。…ねぇいいでしょう、お義父さん?」 トビーは心配そうな表情で義父の顔を覗き込んだ。 「ああいいとも。もしも眠てしまったても心配はないよ。お義父さんがちゃんと馬車でお家まで連れて帰ってあげるから」 「大丈夫だよ。朝まで起きているよ! いまが冬でよかったなぁ! 夏だったら早く夜が明けてしまうでしょう?」 トビーはそう言うと、からくり小屋の覗き眼鏡を覗き込もうとする子供のように急いで用意された踏み台に駆け登り、接眼レンズを覗き込んだ。 「使いかたが分らなかったら遠慮なく言っておくれ。上下左右に動かしたい時もな。おじさんが動かしてあげるから」 「うわぁ! すごいや! クルックスおじさんがプレゼントしてくれたやつよりも、ずっとずっとはっきりと、いろんな色に輝いて見えるよ!」 トビーはわしの言葉をかき消すように感嘆の声を上げた。 「トビー、ここは全財産をお星様を見ることに費やしているお金持ちの家なんだ。おまえが同じものを欲しければ、一生懸命勉強して、真面目に働いて、自分のお金で買うんだよ。 それまではクルックスおじさんのプレゼントの望遠鏡で我慢するんだよ」 しかし義父の言葉はもう彼の耳には届いていなかった。 トビーは無我夢中で手元の操作用のクランクを、小さな手で右に回したり左に回したりした。 「うわっ! オリオンだ! ベテルギウスだ! こちらがアンタレス、あれが北斗七星で… ポラリスが一番明るいというのは本当だね! …お父さん、お母さんの暮らしている星は、どこにあるのかなぁ… あんな立派な星じゃあないのかなぁ…」 「トビー、君がいま見ている星はほとんど恒星と言って、太陽のように燃えて輝いている星なんだ。人間や生き物は住むことはできないんだ。亡くなった人たちが暮らしているのは恒星の回りを回っている惑星…太陽の回りを回っている地球のような星なんだよ。でなければ、一つの星のように見えているけれど、たくさんの星が集まった集まりだ」 「じゃあ、その惑星はこの立派な望遠鏡でも見えないの?」 少年は、時おり右目と左目を交代させながら尋ねた。 「理屈ではそうだよ。でも君が神様に…お星様にお祈りすれば、見えるかもしれないよ」「クルックスおじさん、この床は回るんでしょう? ゆっくりと、ゆっくりと回しておくれよ」 「分った」 わしと友人は船の舵輪に似た舵機を力を込めて回した。無数の歯車や滑車が働いて、望遠鏡を乗せた円盤がゆっくりと動いた。 「どこだろう? どこにあるんだろう? お父さん、お母さん、返事をしておくれよ! ぼくはクルックスおじさんにお願いして、無理を言ってここに連れてきて貰ったんだよ! 今夜だめだったら、当分来ることはできないんだよ! 一目会いたいよ! 一目会えたら、それでいいんだよ!」 わしと友人は目配せを交した。 「子供だまし」とは言え、昼間のうちに予め用意した仕掛けを使う潮時だと思ったからだ。 わしはトビーに気づかれないように、そっとスイッチを押した。 そうすると、望遠鏡の向こう、あたかも星の一つに、亡くなったトビーの両親の幻灯が浮かび上がるはずだった。 「あっ! お父さん、お母さん! こんなところにいたの! ぼくだよ! トビーだよ! 寂しかったよ!」 わしたちは無言で頷き合った。 「…新しいお父さんとお母さんは、とても良くしてくれているよ! …クルックスおじさんも。新しいお家にも慣れたし、新しい友達もできたよ。おもちゃも、絵本もたくさんあるよ。…でもねぼく、会いたかったんだ! 会いたくて、この望遠鏡を覗かせてもらったんだよ!」 トビーと、写真からこしらえた幻影の両親との会話は、三分、五分、十分と続いた。 「…行きたいよ… だめなの?」 と囁くような涙声と鼻をすする音が聞こえた。 友人は(変じゃありませんか? いくらなんでも?)と言いたげな視線をわしに向けた。 わしは少し迷った末に、幻影を投影するスイッチを切った。 それでもトビーと両親の会話はしばらく続いた。 「ありがとう、お父さん、ぼく、眠くなってきたよ。また会いに来るよ」 そう言うと少年は、望遠鏡にもたれかかるようにして眠りに落ちた。 友人はトビーを愛おしそうに抱いて、馬車で家へと帰った。 わしは双眼鏡を覗いてみたが、冴え冴えとした冬の星座しか見えなかった… ブライディーが語る「いっぱい猫」 わたしがウォーターフォード男爵様のお屋敷でお仕えしてた頃の話よ… 男爵様の一人娘のフィオナ様が大変可愛がっておられた猫のブチが、ある朝、急に具合が悪くなってしまったの。 奥様…フィオナ様にとっては母上…を病気で亡くされた直後のことでしたから、男爵様は大変ご心配になって、すぐにブチを隠すようにお命じになり、こうつけ加えられました。「すぐに代わりの、ソックリのブチ猫を探して来るのだ。ソックリで良く慣れたブチを見つけてきた者には10ポンドの褒美をやる! きょうは屋敷の用事はしなくても構わない!」 さし当たっての仕事のないメイドたちや召使いたちは、まなじりを吊り上げて散って行きました。 「ブライディー、おまえはブチそっくりのが見つかるまで、もしフィオナがブチのことを思い出したり探したりし始めたら、何とか気をさらさせるのだ」 「分りました」 二階のお嬢様のお部屋へと階段を上がりかけたわたしの耳に、 「旦那様、具合が悪くなった本物のブチは如何致しましょう?」 と言うメイド頭の小さな声と、 「任せる。処分してもいい」 という男爵様の低い声が聞こえてきました。「ねぇブライディー、ブチを見なかった?」 お部屋に入ったとたん、フィオナお嬢様がいきなり訊ねられました。 ご承知の通り、フィオナお嬢様は、父上の男爵様に似て大変な読書好きです。 家庭教師が教えるフランス語やラテン語、ギリシア語をすぐに覚えて、父上の書棚からギリシア神話やホメロスのオデッセイを読みふけって、先生を困惑させるくらいの頭のよいお嬢様でした。 「さ、さぁ… 庭にでも出かけているのではないでしょうか?」 「でも、きょうはこんな荒れ模様よ」 フィオナ様は子供部屋の窓から、冷たい雨がぱらつく鉛色の空と、枝だけになった木立を眺めながら言いました。 「…ああ、そうそう、フィオナ様、先日本屋に注文されていた本が届いておりますよ」 わたしは控えの間に置いてあったボール箱を両手で抱えて持ってきました。 「そう、有難う。…でもブチが…」 「ではブチは、メイドや召使いたちに探させましょう。わたしも探しに参りますわ。フィオナ様は本をお確かめになってください。 もしも間違って違った本が届けられていたら、取り替えて頂くようにしなければなりませんでしょう?」 「そうね…」 いつもは、新しいおもちゃ箱を開けるように本の入ったボール箱を開けるフィオナ様が、なかば渋々と中の本を改め始めました。 わたしは(もうそろそろ誰かが…)と思いながら階下に降りてみました。 「あまり…と言うか、ほとんど似ていないじゃないか!」 黒っぽい部分の多いブチ猫を連れてきたメイドが執事に怒られていました。 「お言葉ですが、何から何までソックリというのは難しい話で… それに、たとえソックリでも飼い主のいるものを連れてくるのはどうかと…」 「その場合は買い取ってくるのだ。そのための費用は別に払ってもいいから…」 別のメイドはブチによく似た背格好の白っぽい猫を連れてきていました。 「この子に黒のヘアカラーを塗って…というのはどうでしょうか?」 「悪くはないけれど、最後の手段だ。何かの拍子に色が落ちてしまったら大変だからな」 階上から小さな足音が響いてきたので、わたしは慌てて二階へ戻りました。 案の定、フィオナ様が踊り場まで降りてこられていました。 「あ、ブライディー、ブチは見つかったの?」 「いえ、…でもすぐに見つかるでしょう。それよりかフィオナ様、注文された本は全部合っていましたですか?」 「うん、合っていたわ」 「では、いまから『これから読む本』の本棚に並べませんか?」 「ええ、そうね」 子供部屋に戻ったわたしは、小さな書架用の梯子に乗って、フィオナ様の指示に従って「読み終えて、もうあまり読み返さないだろう本」を書架の上のほうに並べて行きました。 届けられた本を手の届く棚に並べながらも、フィオナ様はまだ窓の下の庭をチラチラと眺めておられました。 わたしもつられてよそ見をした時… メイドのメリーがブチではないブチ猫を追いかけて庭を横切って行くのが見えました。「あっ、ブチかな?」 フィオナ様は、また窓際に駈け寄られました。 その時、別のブチ猫を追いかける別のメイドが反対方向からやってきて、二人と二匹は交差しました。 「あれ、ブチそっくりの猫だ! きょうだいかな?」 もう止めることはできません。フィオナ様はドレスのつまみ上げて階段を駆け下りられました。 と、そこに、ケロリとした顔をした本物のブチを抱いたメイド頭が立っていました。 「あっ、ブチだ! すると外のは…」 「ブチのきょうだいですよ」 メイド頭は重々しく言い、それからわたしの耳に囁きました。「幸い、お薬がよく効いたみたいです。 もしまだソックリを探している者を見かけたら伝えて下さい」 (次のエピソードに続く…) KIJISUKE@aol.com