ブライディー・ザ・マジックメイド(730)

 氷の碑

 その日、ケンブリッジ大学の、とあるカレッジの「未解読言語研究会」の研究室では、いつものように教授や准教授、助手らの指導者、学生、大学院生ら生徒たち有志が数人が集まって、世界中から送られてくる、よく知られている言語に分類できない…意味はもちろん何語かも分らない言葉の資料…石碑の断片や、アルファベットでの聞き書きや、まるで幾何学模様のような拓本を整理していた。
「これは一体、いつの時代のどこの国の文字だろうね?」
 たまたまついでがあって来ていたドッジソン教授が、ルーン文字によく似た、大人の手のひらほどの黒に近い灰色の石板のかけらに刻まれた碑文を、老眼鏡を掛けたり外したりして見ながら言った。
「近年、アイスランドの火山が噴火した時に、吹き上がった溶岩の中に石板が混じっていたそうですわ」 ニューナム女子校から研究生として派遣されているフィオナ・ウォーターフォード男爵令嬢が答えた。「…地元の人が『これは悪魔の碑で、いにしえの勇者たちが苦労して噴火口の中に捨てたものに違いない』と言い張って、オリジナルの石版はほどなく再び火口の中に投げ込まれたそうです」
「そりゃあもったいない…」
「村人の中に、金に困っている者がいて…その男は以前ケンブリッジで雑用係として働いていて、『処分される前に素早く割り取ったこのカケラを買ってくれないか?』と言ってきたので、僅かな金額で資料として買い取ることになったそうです」
「ほぅ、それはそれは、糸かけ糸かけ糸かがり、というところだね。
…世界には、それこそ星の数ほどの言語があるが、そのうちいくつかは毎年確実に滅びていっているからね。で、解読できたのかい、これは?」
「いいえ。ルーン文字に似ていますけれど、読めません。他の世界のどの文字体系とも隔絶しています。文章が短すぎて、将来、電気の力で高速に演算する『超・電気計算機』ができたとしても、比較するものがないので無理でしょう」
 フィオナはかけらから取った拓本に保存資料としての通し番号を振り、経緯を書いた付箋を付けて、公式のスクラップブックに綴じ込んだ。
「そうか… それは残念だなぁ… お宝のありかが印してあるかもしれないのに…」
 レースのカーテンが揺れる窓の外、関係者の家族だろうか、小さな女の子たちが無心にはしゃぐ声がして、ドッジソン教授は彼女たちの翻るレースのスカートの裾に心を奪われて出て行ってしまった。
 他のスタッフたちは一心不乱に、自分に割当てられた仕事に没頭している…
 フィオナはこっそりと、自分の鞄の中から一冊の黄ばんだ覚え書き帳を取り出した。
 それは祖父か曾祖父か、何代か前のウォーターフォード男爵のものだった。
 覚え書き帳には一通の、ものものしい羊皮紙の署名、封蝋、指輪で捺印された手紙が挟まれていた。
 差出人は何代か前のヴァチカンの総務省の長官だった枢機卿で、用件は、当時はまだ国教会に改宗する前の男爵家の多額の寄付に対する謝辞。アイルランドの貴族では先祖代々有数の古書蒐集家である男爵家に対し、『貴家のコレクションの力になれることがあれば、我等の教えでは禁書とされる書物の閲覧でも複写でも、なんなりと気軽に申し出られたい』と社交辞令のようなことが書かれていた。
 注目すべきは、まったく気まぐれに書き添えたような追伸にあった。そこには、アイスランドの火山の噴火で吹き上げられた石碑の断片にあったのと同じ文字の文章が何行か書かれていて、
『碩学の貴卿、この文字言語に心当たりありやなしや? もしあれば、至急知らせられたし。その際決して内容を手紙に認めぬこと。我、速やかに出向かん。このこと絶対他言無用』と、ラテン語で走り書きがしてあった。
(ヴァチカンが欲しがっている…) フィオナは手紙の文字と、石版のかけらとスクラップした拓本の文字を見比べた。両者は同じ文字を使用した違う文章だった。(シスター・セアラ様がいらっしゃるヴァチカンが… カトリック圏に関しては網の目のようなネットワークを誇っている教皇庁が… でも、アイスランドの国民はほとんどがルーテル派のプロテスタント。たぶんこのかけらについてはまだ知られていないでしょう…)
 フィオナはこの断片を、大学には内緒で… ドッジソン教授たちには秘密のうちに売却することを目論んでいた。実は父のウォーターフォード男爵が株の取引に失敗し、うわべの華やかさときは裏腹に、破産の危機に瀕していたからだ。
(ヴァチカンは『これ』をいまでも欲しがっているのかしら? 欲しがっているとすればいくらで買ってくれるのかしら? そもそもこの石版のかけら…さらにそこに刻まれいることにはどういった、またどれくらいの価値があるのかしら?)
 彼女は買取りの値段が千ポンドや二千ポンドくらいではないことを祈っていた。
 なにしろ(ずいぶん昔の話であることが不安ではあるけれど)総務省の長官の枢機卿が『自ら出向く。絶対他言無用』と記しているのだ。
(断片は速やかに、うちの「ウォーターフォードガラス工房」の職人たちにレプリカを作らせてすり替えましょう。…どうせ石自体は何の変哲もない花崗岩か火成岩のはずよ…)
 フィオナは良心にさいなまれながらも、誰にも見とがめられないように注意しながら、かけらをこっそりとハンケチに包んでバッグにしまった。

 フィオナ・ウォーターフォードは鞄をしっかりと携えて、汽車でロンドンの「英国心霊研究協会」に向かった。そこにはかつて自分の小間使いとして仕えていた誠実な子が、住み込みのメイドとして働いていた。
「お願いです。ブライディー、わたしはどうしても欲しいものがあるのです。それは父の男爵にも無心できないものなのです。率直に述べると、自由になるお金が欲しいのです」
 まさか「父の男爵が破産の危機に瀕しているので」などと言う訳にはいかず、けれどもそれに等しいくらいの有無を言わさない勢いで言った。
「でもそれはよくないことでは… もしもケンブリッジ大学の偉いかたがたの知るところになったりすれば…」
 メイドは、いままでになかったくらいおろおろしていた。
(…またデイジーが立ち聞きしていないかしら?)
『大丈夫、さっき宝くじを買いに行ったよ』
 ブライディーをはじめ、魔術師の面々にしか見えないフワフワの毛玉のような生き物ネイが耳元に浮かびながらながら囁いた。
「…『よくないこと』であると言うのはよく分っています。リスクを負う価値はじゅうぶんにあることなのです」
「わたしは… わたしは何をすればいいのでしょうか?」
 おずおずと訊ねる。
「シスター・セアラさんに手紙を書いて頂くだけでいいのです」
「手紙を?」
「ええ。短い手紙です」
「それだけでいいのですか?」
「それだけでいいのです」
 フィオナはすがるような表情で言った。メイドさんは『お嬢様』がこんな顔をするところを初めて見た。
『やめておいたほうがいいよ。丁重に、しかしキッパリとお断りしようよ』
 フィオナの顔色から不吉なものを感じ取ったのか、ネイは必死で言った。
「フィオナさんはわたしによくして下さいました。この協会や、ドイル様や、デイジーやポピーたちにも…」
『でも大学のものを自分のものにして持ち出すなんて… 偽物を作ってすり替えるなんて…』
「これにはきっと何かの事情が…」
『欲しいものがある、なんて、そんなものお嬢様の勝手じゃないか!』
「だから、これにはきっと事情が…」

 ブライディーはフィオナに指示された通りにヴァチカン外務省外交文書課のシスター・セアラに手紙を書いた。
 内容は、
「心霊研究協会会員のある人が、最近アイスランドの火山から噴出した石版のカケラを手に入れたこと」
「その人は現在手元不如意であること」
「拓本を同封するので、もしも興味があれば適正な価格で買い取って欲しい、とおっしゃっていること」
 というものだった。

 シスター・セアラからの返事は来なかった。
 その代り、二週間ほどしてシスター本人が、まったく何の前触れもなく唐突に、心霊研究協会の屋敷を訪れた。…まるで昔、ヴァチカン国務省の長官である某枢機卿が、数代前ののウォーターフォード男爵に「自ら出向く。決して内容を認めぬこと」と書き送った約束を果たすかのように…
「セアラ様、お忙しいところわざわざ有難うございます」
 メイドさんは(フィオナ様に頼まれて、半ば無理矢理に書かされた依頼のご返事が頂けるんだ) と胸をドキドキさせていた。
「ブライディー、元気そうで何よりです」
 シスターはメイドさんを抱きしめ、頬と頬を合わせた。いつもは軽く、しかし優しさ溢れる抱擁だったが、きょうは勝手が違っていた。まるで恋人にするようにきつく、全身を、腰から下も合わせてきた。
「セアラ様…」
 ブライディーは顔を紅潮させ、戸惑い、どぎまぎした。いつもはお香の香りがするセアラの衣からは、情熱的なフランスの香水の香りがした。
「ブライディー、いきなりこんな話をしたら驚くでしょうけれど、メイドの仕事を辞めて、どこか遠い南の島で、わたくしと二人、のんびりと暮らしませんか?」
「ええっ!」
 心臓が止りそうになった。こともあろうにセアラからそんな言葉が発せられるとは夢にも思ったことはなかった。てっきり冗談だと思った。が、セアラはとてもそんな冗談を言う人ではなかった。万が一にも…
「わたしは本気で言っているのです」
 いつも心静かな、すべてを神にゆだねているセアラが、頬を朱に染めてさらに抱きしめようと迫ってきた。
「おやめください!」
 振りほどいて逃げようとしてハッと気が付いた。
(もしかして、お送りした手紙のせいでは?
 フィオナ様が取引をしたがっている拓本…カケラには非常な価値があって…)
 考えかけてすぐに取り消した。シスター・セアラの信仰は、例え何万何十万ポンドの現金と引き替えでも揺らぐものではなかった。 さらに、手紙には「取引希望」を認めただけだった。たかだか仲介者に、神を裏切るほどの手数料が入るとは思えなかった。
(でも待って。イスカリオテのユダは銀貨三十枚でイエス様を裏切った…)
「あの、手紙を読んで下さいましたか?」
「もちろん読みました。でも、もうそんなことはどうでもいいのです。貴女も、わたくしも、もうこれ以上こんなロンドンのような埃っぽい街での面倒ごとの数々に煩わされることはないのです」
(手紙と大いに関係がある。けれど、手紙の内容とは直接どうこうと言うことはない?) メイドさんは一瞬回りが真っ白に見えた。 ややあって、シスター・セアラの姿や見慣れたお屋敷の小さな控え室の調度が甦ってきた。
(もしかして、「見本」として同封した拓本の文字に何かあるのでは? 「断片や拓本」を見てフィオナ様は横領を思いつき、わたしはその片棒を担ぎ、そしていまセアラ様が…

「セアラ様! セアラ様! どうか落ち着いて下さい!」
「これが落ち着いてなどいられるでしょうか。わたくしはようやく、自分がやりたいことを見つけたのです!」
「これ以上お戯れになるのなら、デイジーを呼ばせていただきますわ」
 言いながらメイドさんは呼び鈴の紐を引いた。すると、間髪を入れずバァンと威勢良く扉を開けてデイジーが入ってきた。まるで、すぐ外で立ち聞きしていたみたいに…
「お姉ちゃん、呼んだ?」
 これにはセアラもさすがにハッと目を覚ました。
「…わ、わたくし、いま何を…」
「いえ、まだ何もお話しして下さっていませんわ」
 応接間のテーブルの上のお茶はもうすっかり冷め切っている。
「あたし、お茶を淹れ直してこようか?」
 と、デイジー。
「いえ、構わないから貴女も一緒にいて頂戴!」
「そう、いいの?」
 大きなメイドさんは真剣な目でシスターを見た。
「…それで、セアラ様。手紙は読んで頂けましたでしょうか?」
「ええ。『あれ』は、法王庁が何万、何億ポンド出しても買い取るべきものかもしれません」
「ええっ!」
 ブライディーもネイも、顔を引きつらせた。
 デイジーはヘナヘナと腰を抜かして座り込んだ。
「あの拓本に書かれている言葉は、言わば『神様を呪い、すべてを恨み、祟りを成そうとする《呪い石》《恨み石》に刻まれた文章の一部です。
…太古の昔、人類がまだ、それぞれの神話を作り出せなかった頃、つまりアイスランドの神話ができる遙か以前、『狩りが上手く行かなかった』『愛する家族が病気で死んだ』などという悲しいことが起きるたびに、自分たちの悲しみを大きな石の前で叫び、涙を流したのです。…しかしこれでは悲しみがますます増すばかりであることを悟った人々は、おのおのの体験を持ち寄って神話としてまとめ、神に祈るようになったのです。《呪い石》《恨み石》は火山の火口に捨てられ、地の底深く埋められ、あるいは砕かれたはずですが、まるで水をたっぷり含んだ海面のように、あまりにも多量の悲しみや憎しみを含んだために、いまでもときどき地上に姿を現し、断片や拓本の、しかも一部となっていてさえも大きな災いを成すのです」
 セアラはいつものような優しさと落ち着きを失い、焦っていた。
「大変ですわ! かけらとは言え、そんな暗黒の力を秘めたものがフィ……会員さんのところに…」
「信義というか約束を守ってその人の名前を秘密にしたいことはよく分ります。けれどもブライディー、今回だけは教えてください。
 そうすれば、こういうことの処理に長けたわたしたちの代理人が、内々ですべてを丸く収めます! …そう、二千年近くそうしてきたように…」
「でも、そのかたのお屋敷…じゃなかった、お家に泥棒が入ったら、わたしが疑われます…」
 ブライディーはうつむき、蚊の泣くような声で言った。
「何言ってるのよ、お姉ちゃん! これは一刻を争うことなのよ!」
 わめくデイジーにシスターもネイも大きく何度も頷いた。
「言い値で買い取ってもよいのです。しかし問題は、高値で売りつけることに成功したその者が味をしめて、アイスランドに別の呪い石、恨み石や拓本を捜しに行くかもしれません。また、噂が広がればアイスランドに赴く人々も増えるかもしれません」
 セアラの言葉に今度はデイジーとネイが大きく頷いた。
「その会員さんが『わたくしセアラも知っている人で、人間関係が壊れるのが嫌だ』と言うのなら、ブライディー、いつか貴女が話してくれた『封印者』のかたもいるではありませんか?」
「メルさんだ!」
 デイジーがまた叫んだ。
「…その人にお願いすれば、何とかしてくれるのではありませんか? なにしろそれを専門に仕事しておられるかたなのですから」
「でも… でも… こう申し上げては何ですが、セアラ様もつい先ほど少しおかしくなられていました。信仰の篤い人、立派な人、正義感に燃えておられる人でも、その石板の断片の文章を見ただけで、あるいはもしかしてハンケチ越しに触れただけでも心が揺らぐのなら、機械人形の泥棒にでも命じて盗み出させない限り不安です」
 セアラもデイジーも瞳を伏せてしまった。
「じゃあ、じゃあおいらならどうだい? おいらは人間じゃあないから、人間の恨みつらみ、祟りを受けても大丈夫なんじゃあ? おまけに秘密も守れるよ」
「そうよ、ネイならきっと!」
 デイジーは顔を輝かせた。
 セアラは相変わらず浮かない顔だった。
「もう一つ勧めかねます。たとえ妖精とは言え、人間の凝縮された怨念の影響をまったく受けないという保証はありません」
「でもさ、でもさ、歩くときにガシャリガシャリと音を立てない、逃げるときも素早い、目立たない、そんな精巧な機械人形は百年後の未来でも難しいと思うよ」
「分ったわ、ネイ。あなたと一緒に行きましょう!」
 大きなメイドさんはしばらく考えた末に言った。

 ガス灯に浮かぶウォーターフォード男爵の上屋敷。
「内部の間取りは知っているの?」
 ネイが訊ねる。
「ええ。でも年月もたっているからフィオナ様のお部屋は変っているかも。頼りはこれだけ」 私服の地味なドレスの上にまとった薄いケープを合わせ直したブライディーは、ダウジングの棒を取りだした。「…だから、臨時の雇われメイドとして潜入するつもりよ。フィオナ様はただいまケンブリッジ大学のニューナム女子校の寮。男爵様はほとんどお目通りしたことはないし、心配なのはダブリン時代のメイド仲間がここに来ていて気づかれることだけれど…」
 素通しの眼鏡を取り出してかけてみる。
「その時はその時、だね?」
「今夜は『ガラス工芸愛好会会員』の持ち回りのパーティ。今宵限りの派遣メイドに入って…」
 ウォーターフォード男爵家の宴は、まずほとんど舞踏会がない代りに、それよりも神経を使うものだった。
 まず男爵家の工房のガラスの食器やグラスが使われる。次にガラスの飾り皿やランプやギリシア神話の女神像などが来訪客たちの目に付くところに飾られる。貴族の客たちもお抱えの職人に作らせた逸品や、大金を払ってオークションで落札した名品や、骨董商から買い取った美術品を屈強の召使いたちに命じて持ち込んでくる。…いずれも、もちろん、言うまでもなく、自慢するためだ。
 愛好家同士が、愛好するモノについて、見せびらかし合い、熱く語り合う…となれば、もはや料理の味は二の次、数多の使用人も、それこそまるで透明なガラスのように目には入らない…
 もっとも、貴族の社交というのはもともとそういうようなもの。話題の中心がダンスの上手下手やゴシップでないだけ、まだマシかもしれなかった。
 ブライディーは素早くお仕着せに着替えると、慣れた手つきでフランス人の雇われシェフの指示のもと手際よく作られる料理を運びながら抜け出せるチャンスを待った。
「…いやいや、おたくのフィオナさんは、本当に才媛でよろしいですな」 仕えていた頃に比べてかなり老け込んだように見えるフィオナの父に貴族の友人が話しかけていた。「…それに比べてうちの豚児は、いくら家庭教師がやっきになっても見事なまでにサッパリと勉強ができんのです。
 このままではどこの大学、どこのカレッジにも入れないかも知れません」
「いや、勉強などできなくても、男の子のほうがいいですよ。なまじ娘が学問などできても、嫁に行き遅れるだけです」
「そんなことはないですよ。いずれアルバート公のような立派な婿殿が…」
(フィオナ様はどうしてそんなにこっそりと大金が欲しいのかしら?) メイドさんは思った。(…ちゃんと理由のあるものなら、このお父上なら出して下さるはず…)
「だったらよいのですが…」
「ところで、さっきお褒め下さったエミール・ガレのランプ、お譲りしましょうか?」
 友人がにこやかに言った。
「いえ、あれは貴卿の大切な収集品、やめておきましょう」
 男爵は口ごもった。
「どうしてです? 二ヶ月前の会合ではあんなに欲しがっておられたではありませんか?」
「いえ、私が欲しいものは、貴卿にとっても大切なものだと思いまして」
「いや、実はモナコとモンテカルロに遊びに行って派手に負けてしまいましてな。真剣にに買い手を探しているのですよ。あれを売れば帳尻を合わせられるのです」
 ウォーターフォード男爵の顔色が悪酔いでもしたかのように悪くなった。株での損失は自らのガラスの美術品コレクションを相場の二倍、三倍で買い取ってもらっても苦しかった。そしてもちろん、できることなら手放しなどしたくはない。いつまでも手元に置いて眺め続けていたかった。

 その頃、「潮時」と判断したブライディーは早くフィオナの私室に行きくてうずうずしていた。問題の危険な断片がこの屋敷…おそらくはそのあたりに隠匿されているだろうことは、前もって入念に占ってきていた。細かい隠し場所はさらに改めて占い直さねばならない。
 賑やかなパーティの席上から逃げ出そうと、ゆっくりと後じさりをはじめた途端、大きな人影にぶつかった。
「すいません。ごめんなさい!」
 振り返ると、まるでビア樽みたいに丸々とした、人の良さそうな四十がらみのメイドがニコニコしながら立っていた。
「ベリンダさん!」
「おや、誰かと思ったらブライディーじゃないか! 懐かしいねぇ。ダブリンのお屋敷以来だね。…その眼鏡、眼を悪くしたのかい? あんたは読書好きだったからねぇ」
「ベリンダさんも、お元気そうで何よりです」
「心霊研究協会いでお世話になっていると聞いたけれど、今夜は助っ人に来てくれたのかい?」
「ええ」
 嬉しいけれど、顔が少しこわばり、引きつった。
(どうしよう? 首尾良く断片を盗み出せても、ベリンダさんがフィオナ様に今宵のことを話せば、疑われてしまうわ。本当にどうしよう? 計画は中止しようか)
『なんて粘りのない! 振り切って突撃あるのみだよ!』 ネイが眼を吊り上げる。
「どうだい? いまは仕事中だけれど、今夜はここに泊まるんだろう? 疲れているだろうけれど、積もる話でも? ダブリンから来た子も何人かいるよ。みんなきっとなつかしがるよ」

「有難うベリンダさん。ぜひそうさせてもらうわ」
 ブライディーは精一杯の笑顔で言った。
『莫迦だなブライディー、ますます君が今夜ここに来ていたことが知れ渡ってしまうじゃないか!』
「一人が知るのも五人が知るのも同じことよ。こうなったら一泊して情報を集めて帰るわ」
「えっ、いま何か言った?」
 ベリンダはプディングのような身体を震わせた。
「いいえ。ベリンダさん。仕事が終るのを楽しみにしているわ」
「そうね… そうね…」
 古い…といっても数年前の…仕事仲間をやり過ごしたメイドさんは、あらためてパーティ席上をソッと抜け出して、ダウジングの棒に導かれるままにフィオナの私室を目指した。
 ネイが先導して、前からやってくる人との鉢合わせを避けた。
「いいよ、誰も来ない!」
 フィオナの私室には鍵はかかっていなかった。
 ドアを開けて中に入ると、ランプの灯りが照らし出したのは立錐の余地もないほどに横にして床から天井まで積み上げられた本の山々だった。
 だが、ダブリンのお屋敷でフィオナが少女の頃に仕えていたブライディーはまったく驚かなかった。
『フィオナさんって、すごい読書家なんだね』
 ネイは呆れ、呆然としていた。
「若いお嬢様だから珍しいだけよ。貴族の殿方だったらそんなに珍しくないわ。ダブリンのお屋敷には、図書室が十数室並んだ棟もあったわ」
 メイドさんは本の山と本の山のあいだの通路を時々身体を横にしてすり抜けるように通った。
『さっきの太ったメイドさんなら無理だね』
 ネイはポツリと言った。
「ええ、ベリンダさんはダブリンの頃から、お嬢様のお部屋の掃除ができない、と嘆いておられたわ。
 ようやく辿り着いた蟻の巣のような空間に一応ちゃんとベッド・メーキングされた寝台と、少し離れた所に勉強机があり、そこも本の山だった。
 ダウジングの棒はその寝台の、唯一鍵のかかる小物入れの引出しを指した。
『ここだ、ここだ、ここに間違いないよ!』 メイドさんは腰にぶら下げた鍵束から素早く合いそうなものを選んでは回し続けた。
 幾つ目かの鍵が合い、引出しを開けると、ハンケチに包まれた黒に近い火成岩でできた石版のかけらが出てきた。
『…ふーん、これがシスター・セアラの言う《呪い石、恨み石、祟り石》のカケラか…
 なるほど、強烈な妖気だ。これも一刻も早くアイスランドの火山の火口に放り込んでしまわないと…』
「ええ、そうね」
 ブライディーは手早く断片を、クルックス博士が用意してくれたランチボックスほどの薄い鉛の箱に入れた。
【これはラジウム鉱石の放射能も通さないんだ。きっと超古代の、恨み、呪い、祟りも遮ってくれるさ。どんな呪いか知らないが、何千年何万年もたっているんだ。いま生きている人間の恨みつらみのほうがおそろしいのに決まっている】
 クルックス博士はそう言っていた。
『さぁ、目的の盗品は無事に取り返した。長居はは無用だと思うよ。ベリンダさんには「急な用事を思い出したから」とでも言って、早く心霊研究協会へ帰ろうよ!』 ネイが急かした。『…仮に、フィオナさんから君が怪しいと疑われても、そもそも最初に大学のものを横領したフィオナさんが、警察なんかに訴え出るはずはないし… フィオナさん付きのメイドや小間使いが疑われる可能性だってあるじゃないか』
「それはそうね、でも…」 ブライディーにさっさと逃げ帰る気はなかった。「…フィオナさんが盗みをするなんて、よくよくの理由があると思うの。ベリンダさんたちにお話しを聞いてみたいわ」
『一般に、他人に知られたくない活動をしたところは長くいれば居るほどヤバいんだ。そんなことも分らないのかい?』
 ネイはとうとう怒りはじめた。
「いいの、いいの…」
 ブライディーは構わず、ウォーターフォード家の四人部屋のメイドの寝室の一つを訪れた。
「いらっしゃい、ブライディー!」
 寝間着姿で迎えてくれたベリンダほか三人、合計四人のダブリンから付き添ってきたメイドたちを見て、ブライディーはアッと声を上げた。旧知のメイドたちはみんな丸々と太っていた。
「…驚いた? 貴女がお暇してから、フィオナ様は思春期と言うか、自分以外誰も立ち入れない特別な私室を設けられて、そこのベッド・メーキングなんかはご自分でなさるのよ」
『落ち着けブライディー、料理や接客、給仕係のメイドはみんな普通だったじゃないか』
 ネイが慌てて囁く。
「…フィオナ様の区画は痩せた…と言うか普通の体型のメイドは立入禁止なの。まぁ千里眼でもあって誰とも鉢合わせしない自信があれば別だけれど…」

「どうしたの、ブライディー、顔色が少し悪いような… 今夜はいろいろとお手伝いして下さったから… ココアなんかどう?」
 ベリンダはオペラ歌手のような身体をかがませた。
「有難う、頂くわ…」
「そうかなぁ、あたしはあんまりお見かけしなかったけれど…」
 別の旧知のメイドが頬杖をついた。
「あ、あんまり目立たないところで働かせて頂いていたから…」
 早くもしどろもどろになってきた。
『何をビビっているんだよ! ブツはこちらの手にあるんだ。君の仕業だとバレたっていいじゃないか。もともと横領する者のほうが悪いんだ』
 耳元に浮かんでまくし立てるネイを、ブライディーは髪を撫でるフリをして払いのけた。 みんなでパジャマに着替え、それぞれのベッドの上に座ってココアを啜りながらお菓子の残りを食べながら、お互いの最近を語り合った。
 ベリンダたちは、
 男爵様やフィオナ様は使用人にお優しいこと。
 フィオナ様は相変わらず、ずば抜けて勉強がお出来になること。読書や学問に熱中される癖も相変わらずであること。
 そのために社交やダンスが中心の、同じ年頃の貴族の女性や男性の友達が出来にくいこと、などを語った。
 ブライディーも負けずに、
 ドイル様をはじめ、英国心霊研究協会の皆様は大変親切にして下さること。
 デイジーやポピーといった新しい同僚の友達もできたこと、を嬉しそうに述べた。
 ひとしきり旧交を温めて、ココアのカップもお菓子の皿もからになり、ランプの油も残り僅かになった頃、ベリンダは口ごもりながら再び喋りはじめた。
「…ブライディー、これは噂。本当にあくまでも噂なんだけどね。つい最近、男爵様が株で大きな損をされたらしいんだよ」
「えっ!」
(フィオナ様に絶交されてしまったらどうしよう?)と、いままでほとんど上の空だったブライディーは頭をガーンと殴られたような衝撃を受けた。
「…何とかお金を工面できなければ、男爵様愛蔵のガラス工芸のコレクションの数々も、フィオナ様が愛しておられる厖大な蔵書も、売り払わなければならないらしいんだ。お屋敷もいくつか処分して、小さな館に移らなければならないだろうし、もちろんわたしたちもおおかたがお暇を…」
 ベリンダは涙を流し、しゃくり上げながら言った。
「でも、助かる方法が一つだけあるの。フィオナ様がいますぐ大学をお辞めになって、お金を腐るほど持っているけれど、そのぶん評判も身持ちも良くない貴族の殿方を婿に迎えれば…」
「お話しはすでに一つ、二つ出ているのですって」
(それで… それでフィオナ様は《恨み石・呪い石・祟り石》の断片を横領して、大金を工面しようと…) ようやく納得できた。(…けれども、こんな小さな断片が、指折りの大貴族ではないとは言え、ウォーターフォード男爵家の身代を窮地から抜け出させるほどのお金に替わるものかしら?
 でも、でも待って。これだけ本を読まれているフィオナ様、断片の文字が読め、意味がお分かりになられるのではないかしら? もし断片の本体や、ほかの《恨み石・呪い石・祟り石》の在処を推察できるのなら、悪魔を崇拝する闇の大貴族や大金持ちたちが、それこそいくらでもお金を払うかもしれない… だけどそれだと、また悪い噂が広まるかもしれないから、まずセアラ様のヴァチカンに売ろうとされた…)
「どうしたのブライディー、まっ青よ。驚かせてしまったのならごめんなさい。あたしたち、本当に仲良く楽しく働かせて頂いていて、散り散りバラバラになるのは悲しいけれど、いよいよになったら仕方のないことよね。…貴女に話してもどうしようもないことを、許してちょうだいね」
「お気の毒なフィオナ様…」
 ブライディーは貰い泣きした涙をハンケチで啜った。
 やがて話が語り尽くされ、ランプが吹き消された。ベリンダたちはそれぞれ毛布にくるまり、思い思いの寝相ですぐにスヤスヤと寝息を立て始めた。
 ただ一人、寝つけないブライディーは、しばらくしてそっと起きあがった。
『どこへ行くんだい? お手洗い?』
「このかけらをフィオナさんのところに返しに行くのよ。だから、長くなっても心配しないでね」
『えーっ!』 ネイは目を剥いた。『なぜまた?』
「この断片をヴァチカンなり、悪魔崇拝の億万長者なりに買って頂ければ、フィオナ様は好きな学問を続けられるのよ。だから元に戻して上げるのよ」
『そんな莫迦な! …そうだ、そんなとんでもない考えが思い浮かぶのは、きっとこの石の仕業だよ! クルックス博士が貸してくれた鉛の小箱では、呪い、恨み、祟りパワーは完全には遮断できないんだよ、きっと。その証拠に、妖精のおいらは正気を保っているだろう?』
「ネイ? あなたには人をお気の毒に思う心はないの? これをお返しし、何も知らなかったことにすれば、すべては元通りになるのよ」
 ブライディーは鉛の小箱をかざしながら真顔で言った。

「ウォーターフォード男爵が株で大損したのは自己責任というやつだよ。ガラス細工でも稀覯本でも、屋敷でも何でも売って穴埋めすればいいんだ。使用人たちに暇を取らせるのも仕方ないね」
 ネイは涼しい顔をして言った。
「やっぱり人間じゃない生き物には人間の血は通っていないのね」
 ブライディーは構わずメイドたちの寝室を出て、廊下を再びフィオナの区画…フィオナの図書室や着替え、行水用の部屋、寝室などがある…へと向かった。
「みんな、起きてくれ! ブライディーが莫迦なことをしでかしそうなんだ! 止めてくれ!」
 ネイは大声でベリンダたちアイルランドから来たメイドたちの耳元で叫び、羽根で頬を打ったりしてみたものの、魔術師ではない彼女たちの耳には聞こえず、肌には感じなかった。みんなはパーティの疲れもあってぐっすりと眠りこけていた。中にはいびきをかいている者もいた。
 ブライディーはダウジングの棒を使って屋敷の中を夜回りしている召使いとの鉢合わせを巧みに避けた。向うから人がやって来ると(足音や気配でも分るが)棒が小さくピクピクと動くのだった。
『いまならまだ間に合うよ! 君がいま鉛の小箱に入れて持ち歩いている石版のカケラは、とてつもなく邪悪な石なんだ!』 追いつき追い越したネイが行く手を遮って言った。『…ラジウムの放射能さえ防げるはずの箱が強力な呪いや恨みの波動は防げないんだよ! つまり、君はいまおかしくなっているんだ。フィオナさんやセアラさんがおかしくなったみたいに! ベリンダさんたちも鉛越しのオーラを受けて、メイドが憶測してはならないこと…男爵の破産の噂とか…をしてしまったのかもしれない!』
「うるさいわね! 少し黙っていらっしゃい!」
 ブライディーはネイの首根っこをひっつかまえると、鉛の小箱を素早く開けてその中に閉じこめた。
『わっ! 何をするんだ! やめてくれ! 息苦しい!』
 フィオナの寝室に辿り着いた寝間着姿のメイドは、積み上げられた本のあいだをすり抜けてベッドのところまでやってきた。
 小箱を開けるとまずネイが飛び出した。
 ネイはどういう訳かわずかな時間に黒っぽく、可愛かった目は血走り、尻尾の先端には少し曲がって鉤のようになりかけていた。
『…よく考えてみたら、オレもそう思うぜ! 石っころ一つで大勢の人間が路頭に迷うのを防げるんだ。ぜひどこかの酔狂な大金持ちに買ってもらうべきだぜ』
「ネイ、物わかりが良くなってくれて嬉しいわ。好きよ…」
 ブライディーは唇を少し歪めながら、ネイの頭を撫でた。
 石碑のかけらを手に持って、元通り寝台の引出しに直して鍵をかけ直した。
 と、その途端に一人と一匹はハッと我に返った。
「…わたし… わたし一体何をしようとしていたのかしら?」
『おいらも… 待てよ、邪悪な《呪い石》を盗みだしに来たんじゃあなかったかな? 一度奪うことに成功して… でもなぜ?』
 と、その時、廊下から積み上げられた本の垣根を通ってこちらへとやって来る人の気配がした。
「ど、どうしましょう! ここはフィオナ様がお一人になるための部屋で、ベリンダさんたちお付きも、お出入りは許されていないはずでは…」
 取りあえず自分が持っていたランプは吹き消した。箪笥などは隣の着替え用の部屋にあるらしく、隠れられそうな場所はどこにもなかった。
 仕方なく、一番目に付きそうではない、本箱のくぼんだところに、蝋人形のように貼り付いた。
 ランプの灯りが次第に大きくなって近づいてくる…
 入ってきたのはフィオナだった。
 彼女はベッドに腰掛けるなり、小さな鍵を取りだして引出しを開け、カケラを取りだしてしげしげと眺めた。
「…父上が『急な話で悪いが、見合いをしてくれ』って… いいわ… お見合いくらいいくらでもして上げる! 全部断るんだから! この石さえあれば、お金はいくらでも都合がつくんだから… ヴァチカンのシスター・セアラ様が買って下さらなくても、他に興味を持っている大金持ちを探せばいいんだから…」
 フィオナはかけらに頬擦りをした。
 本棚に貼り付いているブライディーは、いつ彼女がこちらを振り向きはしないかと気が気ではなかった。
『出て行ってくれるか、寝てくれるかすれば…』
 ネイはハラハラしていた。
 だが、フィオナは少し隈の浮かびかかった顔を上げ、ゆっくりと本に囲まれた部屋を見渡しはじめた。
 そしてとうとう、おびえた目と鋭い目とがあった。

(ああ、もうだめ! これでとうとう、長く続いたフィオナ様とも完全におしまいよ!
 英国心霊研究協会もお暇しなければならないかも… だって、むかしお世話になって、いまもお世話になっているウォーターフォード男爵様のお屋敷に泥棒に入ったんですもの… 叫び声を上げられて警察に突き出されても仕方ない… 刑務所は確実…事情を知っておられるシスター・セアラ様は弁護して下さるかも知れないけれど、良くて女子修道院に行くしかなくなるわ… そうしたらもう「お兄ちゃん」とも結婚できなくなって、普通の生活は送れなくなってしまうわ…)
 悪い考えが次から次へと頭の中を駆けめぐった。
『そら見ろ! だから言わないことじゃあない! おいらが言ったように、盗み出してあのままスッと帰っていれば、こんなことにはならなかったんだ! 現行犯だぜ、現行犯! ただ疑われるのとはわけが違う、わけが!』
 ネイが口角泡を飛ばして叫んだ。
 だが、フィオナは何も言わず、叫び声も上げず、服のままベッドの枕元の飾り棚にもたれたと思うと、そのままスースーと寝息を立てはじめた。
「わたしが見えないのかしら? 神様が透明人間にして守って下さったのかしら?」
『莫迦言え、ちゃんと見えているのに決まっているよ!』
「だったら見て見ぬふりをして下さったのかしら?」
『そうに決まっているじゃないか! さっさと退散しよう!』
 ブライディーはネイにつつかれるようにして逃げ出した。
 ベリンダたちのメイドの寝室に戻り、横になったものの、もちろん一睡もできなかった。 翌朝、名残りを惜しまれながら屋敷を辞去した。幸い、フィオナと顔を合わせることはなかった。
「また是非お手伝いに来てね!」 にこやかなベリンダの態度から察すると、フィオナは彼女たちにも何も言いはしなかったようだった。「…でも、本当に少し顔色が悪いようだわ。健康にはじゅうぶん気を付けてね」
「ええ、有難う…」
 ブライディーは逃げ出すように駆け出した。

「そうですか、それは仕方ありませんね…」 さすがにシスター・セアラはがっかりとした様子だったが、それでも怒り出すことはなかった。
「お姉ちゃんって、莫迦じゃない! 一度上手く盗み出せたもの、わざわざ返しに行くなんて!」 デイジーは両の拳でテーブルをドンドンと叩いた。「…しかも、返しに行ったところを目撃されるなんて、間抜けもいいところだわ! もし大声を出されたら、警察に逮捕されてすべてをなくしてしまうところだったのよ、すべてを…」
 ブライディーの頬を大粒の涙が伝った。
「…これから一生、フィオナ様には頭が上がらないわね!」
「デイジーさん、もうそんなに責めて上げないでくださいまし…」 ポピーが横から助け船を出してくれた。「ブライディーさんは、あのカケラの影響で心に迷いが出来てしまったのだと思います。クルックス博士が貸してくださった鉛の小箱でも、邪悪な力は防ぎきれなかった、ということです…」
「ふん、そんなことくらい分っているわよ。予め予想出来たことなのに防げなかったから残念なだけよ」
「正直、油断していました…」 シスター・セアラは両手を組んで祈った。「…わたしも、拓本を見ただけで不覚にも悪魔に支配されかかって… 信仰が足りませんでした…」
「わたし、罪滅ぼしをしたいと思います」
 瞳を上げたブライディーはきっぱりと言った。
「いまさら一体なにをしようと言うのよ! あの断片は、悪魔を崇拝する億万長者に買い取られて、それでオシマイよ! きっとまたどこかの国と国同士で戦争が起きるわ! みんなお姉ちゃんの責任よ!」
 デイジーはなじり続け、ネイも「うんうん」と頷いた。
「…分りました。せっかく最初に声を掛けて頂いているのです。何万ポンドになろうと、何十万ポンドになろうと、断片はヴァチカンが買い取る方向で上のかたにご相談申し上げてみましょう」
 これ以上はないくらい穏やかに述べられた言葉にメイドさんたちとネイは仰天した。
「えーっ、本当ですか!」
「…わたしが総務省と財務省の長官の枢機卿と掛け合います。これはそれだけの値打ちがあるものだと思います。フィオナ…ではない、心霊研究協会の某会員も、心根の悪い大金持ちに売却することは本意ではないでしょう。交渉が決裂しても、時間稼ぎにはなるでしょう」
「えーん、そんなにお金があったら、百回生まれ変わっても、百回遊んで暮らせるわ…」 デイジーは鼻水をたらしておいおいと泣きじゃくった。
「お金に困っておられるかた、何千人、何万人に炊きだしができますわ…」
 ブライディーはテーブルに突っ伏してしまった。
「仕方ありません。大きな戦争が起きるよりずっとましです」
 シスターはあくまでも静かに言った。

「…ですからブライディー、貴女はもう何もかも忘れて、後は神様にお任せして、普段の仕事に戻りなさい」
「わたし、何でもお手伝いをします。ドイル様にお暇を頂いて…」 大きなメイドさんは繰り返した。「いくらカケラの影響とは言え、取り返しのつかないことをしてしまって…」
「ですから、そんな必要はありません。あらゆる罪は、イエス様が身代わりとなって購ってくださっています。どうしても、と言うのなら、祈ってください」
「嫌です! わたし、アイスランドに行きます! 行って、全身全霊で占って、まだ掘り返せば手に入る石版や断片を封印して回ります。これ以上フィオナ様を疑いたくはありませんが、もしもヴァチカンとの折り合いが付かなければ、かけらや拓本だけでも威力を発揮し、オリジナルの石版の在処…一応、火口に投げ捨てられたことになっている…が分るかも知れない拓本を売って回るかもしれません」
「アイスランドでも、北極でも、どこへでも勝手に行けばいいんだ! おいらはもう懲り懲りだからね」
 ネイはそっぽを向いた。
「お姉ちゃん、心細かったらあたしが一緒に行ってあげようか?」
 一転してデイジーの瞳が輝きだした。
「デイジー、お金儲けが目的じゃあないの?」
「お姉ちゃんは自分は大失敗をした癖に、他人を信用しないの?」
「ごめんなさい。…そうね。ドイル様は奥様が入院されているスイス周辺でなければご旅行しにくいでしょうし…」
「でも、断片や拓本を見たり触れたりすれば、どんな強固な心でも揺れ動いてしまうのでしょう? 迷いを生じてしまうのでしょう? そしてそれは鉛の箱でも防げないのでしょう? また木乃伊取りが木乃伊になってしまったら、どうするおつもりですか?」 それまで黙っていたポピーが口を開いた。「…それに、拓本の文字を読み解いた者が、自分では探さず、ブライディーさんの後をつけ、ブライディーさんが見つけた瞬間に横取りする作戦を採るかもしれません」
「それは大いにもっともだ」 ネイは腕組みして頷いた。「もうこれ以上余計なことはしないで、おとなしくしていればいいんだ」
「では、こうします。《呪い石、恨み石、祟り石》には近づきません。その代り、その石版の邪悪な力を消滅させる力がある石がないか探してみます。できるだけ速やかに! ですから、フィオナさんとの交渉はできるだけ引き延ばしてください」
「それは… いい考えかもしれませんが、貴女が危険な目に遭うかもしれないことに変りありません」
 セアラは眉をひそめた。
『でもな、そもそも打ち消すものがないからこそ、石版やカケラは甚だ危険なもので、恐ろしく高値で取引されるものなんじゃあないのかい?』 ネイも首をかしげた。『打ち消す存在があるのなら、そっちもチラホラと噂になって高額で売買されるか、探している者もいるはずだ』
「まず、そういうものがあるのかないのかをよく確かめてから行かれたほうが、無駄足にならないと思いますわ」
 ポピーも瞳を潤ませていた。
「じゃあ、《呪い石、恨み石、祟り石》と、それを打ち消す石、アイスランドにおいて、人間の手に届くところにあるかないか、いまからすぐに占ってみますわ!」
 ブライディーは愛用の「不思議の国のアリス」のタロット・カードを取りだして、よく切り、静かに並べてから、一枚一枚図案のほうをめくっていった。
「不思議な縁を感じます。わたしが、このような『魔法』と『魔法使い』と親しいなんて…」
 セアラが囁く。
「あたしが思うに、両方ともありそうね」
 デイジーは腕組みを崩さない。
『そう言われればおいらもそんな気になってきた』 ネイは目を閉じる。
「あることになっても、あなたは行かないんでしょう? アイスランドくんだりへは? あたしは行くもんね」
「シッ、お二人とも静かにしてあげてください」
 ポピーが祈る仕草をする。
 チェシャ猫に三月ウサギ、おかしな帽子屋にハンプティ・ダンプティが次々に姿を現した。
「…両方とも、アイスランドの人間の手の届くところに存在する、と出ていますわ」
 カードをまだ半分も開ききらないうちにブライディーはつぶやいた。「…打ち消すほうの石のほうは、どんな姿形をしているのか、占うことができません。秘密のヴェールに包まれています」
「行こうよ、お姉ちゃん、アイスランドに!」
 デイジーは両手を上げてはしゃいだ。
「おいらは… おいらは行かないからね」
 ネイはヘソを曲げ続ける。
「どうしても行く、というのだったら十分に気を付けて」
 セアラは溜息をついた。
「わたし、『封印者』のメルさんに、《呪い石》のほうを何とかしてくださるように手紙を書いておきますわ」
 ポピーもしょうがなさそうにほんの少しだけ肩をすくめた。

「だめだ! これを反対せずに、何を反対すると言うんだ?」
 アイスランド行きの計画を話した時、ドイルは珍しく語気を荒げた。
「去年の、北海に浮かんだ『聖ブレンダン女子修道院』の時は、シスター・セアラのたっての頼みの上、セアラさんと同道ということで認めたんだ。絶海の孤島とは言え、大英帝国の領土でもあったしね。それを何だ、こともあろうに『アイスランド』だって? しかもデイジーと二人で? だめだ。危険過ぎる。英語はまず町の宿と案内人以外ほとんど通じないだろうし、寒さも増す。さらに火山に近寄りたい、と言う。…デイジー、テームズ川の遊覧船で船酔いする君が一体何を考えているんだ? アバディーンからシェットランド島まででさえ、一日かかるんだぞ。アイスランドはそこからさらに数日だ。おまけに波は高く、海はほとんど常に荒れている。次にアイルランドに行く時に一緒に連れて行ってあげるから、それで辛抱しなさい!」
「しかしドイル様、《恨み石、呪い石、祟り石》をこのまま放っておくわけにはいきません」 ブライディーは両手を組み、前屈みになって懇願した。「…もしも、いままで出会ってきた相手…何百年のむかし、異端者の烙印を押されて滅ぼされた人々の末裔で、いまだに恨みを持ち続け、世界を滅茶苦茶にしたいと思っている者たちの手に落ちたら、その脅威は計り知れないと思います」
「君たちはメイドだろう? そんなことは心配しなくてもいいんだ。シスター・セアラやメルさんや、その仲間が日夜奮闘してくださっている」
「…どうしてもダメだとおっしゃるのなら、お暇を頂いてでも行かせて頂きます」
「ドイル君、ちょうどいい機会だ。こんな主を主とも思わないメイドたちは、この際スッパリとクビにしてしまえ!」
 デュード侯爵が怒鳴る。
「まぁ待ってください。ぼくが一緒に行きますよ。失礼ながらサダルメリク君やアレイスターさんだったら、万一魅入られて虜になってしまう可能性が高いでしょう」 たまたま遊びに来ていた日本人の陰陽師の子孫、安倍薫が助け船を出してくれた。「…大丈夫、日本にも蝦夷地…いまは北海道と言うのですが、寒い土地はあるのです。海峡をはさんでロシアと接しています。アイスランドがどれくらいかは知りませんが、人が住みついている上に、幸運なことに夏に向かいます。何とかなるでしょう」
「安倍様…」
 メイドさんたちは瞳を輝かせた。
「いつものように旅費は出してあげられないからね。これは意地悪ではなくて、君たちのことを真剣に心配しているからだよ」
 ドイルは憮然として言った。
「分りました。貯金をおろして行きます」

 アバディーンからシェットランド島へ。
 シェットランド島からデンマーク領フェロー諸島へ…
 夏というのに定期連絡貨客蒸気船には石炭ストーブがたかれていた。聖ブレンダン女子修道院は、夏場だと何とか泳げたことから比べると、それよりもかなり北へ来てしまったようだ。
 七、八月の最高気温は摂氏10度くらいで、ロンドンの冬の暖かい日くらい。
 セーター、カーディガン、コート、マント、マフラーなどで何とかしのげそうだ。
 船の中でブライディーは、熱心にアイスランドの案内書を読みふけって、簡単な日常会話や看板の文字の読みかた、おおまかな地図を覚えようとしていた。
 デイジーは、もともとブライディーが「聖ブレンダン女子修道院」に行くときにシスター・セアラから貰った船酔い止めの丸薬を、決められた量の二倍ずつ飲んで、せっかくの船旅だと言うのにぼんやりウトウトしていた。 安倍薫は、ほとんど人のいない甲板に立って、黒いトンビ・マントを寒風に翻らせ、水平線に広がる灰色の冬の海をじっと飽きずに眺め続けていた。まるで、この海の底に、太古のむかしに封印された、伝説の邪悪な神々が復活の時を待っているというのを信じているかのように…
 ネイは… あれだけ言っていたというのに、結局ついてきた。
『…氷河のクレバスに落ちて一巻のおわりだ。 みんな悲しむ。悲しむけれど、わざわざ探しに来てくれる人なんて一人もないさ、きっと…』 などと、縁起でもない独り言を言い続けていた。
「お嬢さんたち、一体アイスランドなんかに何をしに行くんだね?」
 船員たちがかたことの英語で話しかけてきた。
「わたしたち、あの日本人の安倍様のお付きなんです。安倍様は世界中の火山や温泉を実地踏査されて、研究論文や旅行記を書いておられるのです」
「ふーん、火山と温泉ね。イタリアなんかのほうがずっと有名だと思うがね…」

 都で港のレイキャビーク。
 人口わずかに六千人(一九〇〇年当時)
 イギリスの地方のひなびた漁港、といった雰囲気の突堤には何隻かの漁船が停泊し、ニシン、タラ、カレイやメヌケ、エビなどが積みおろしされていた。農産物はジャガイモと一部の野菜以外、衣料や雑貨もほとんどすべて輸入に頼っているので、定期貨客船が入港すると、港はにわかに活気づく…

「あんたたち、女だてらにヘクラ山に登るんだって? やめときな、やめときな!」 レイキャビークからおよそ60マイル、麓の村の宿の女将は眉をひそめ、両手を大きく振った。「…そりゃあ確かに外国から偉い火山の学者様がやってくることはちょくちょくあるよ。イギリスとかアメリカとか、イタリアとか、ギリシアとか、北欧の国々からね。日本から来た人はあんたが初めてかな?
 でもお仲間ともども男の人ばかりさ。いくら夏とは言っても女には無理無理…」
「大丈夫です。ここまで来たんです。行けるところまで行ってみせますわ」
 アイルランド育ちのブライディーは、野菜はジャガイモだけ、というのはビクともしなかったが、デイジーは早くもげんなりとしはじめていた。安倍は、二人がどうしても口に入れることができないアイスランド独特の鯨の煮付けをおいしそうに、勝手におかわりをしながら食べていた。
「そりゃあ、あたしの亭主がガイドをすれば、女でも登れないことはないけどね」
「ぼくはとりあえず温泉に入れてもらうよ」
 厚手のキモノにドテラを羽織り、首から手ぬぐいをぶら提げた安倍は、ブリキの洗面器の中のセッケンをカタカタと鳴らした。
「…どうだい、君たちも一緒に? たらいの中で行水をするのなんかとまったく違う、とてもいい気持ちのものなんだよ」
「え、ええ。あとであたしたちだけでね」
 デイジーは恐い目で睨み付ける。
「そうかい。それがいいかも知れないね」
「日本の旦那、くれぐれも間欠泉には気を付けてください。突然吹き上がって飛ばされて、地面に叩きつけられますよ」
 女将が魚を焼きながらにこやかに笑う。
「ええ、川湯だけにしておきますよ。ぼくの故郷の京都の南の和歌山というところにも、川の砂を掘って入る温泉があるのですよ」
「火傷にも注意して!」
「ですから、和歌山の川湯も80度、ほとんど沸騰していますから、川の水でぬるめて入るようになっているんですよ」
「ふーん、世界は広いねぇ… ここと同じような温泉が、そんな東洋の島国にあるなんてねぇ…」
 おかみは魚をひっくり返しながら感心していた。
「ネイ、君はぼくと入るんだ」
 安倍は妖精の首根っこをつまんで持っていった。
『嫌だ! おいらはブライディーたちと一緒のほうがいい! おいらはブライディーの付き物なんだぞ! 着替えだっていつも見ているんだ』
 ネイはじたばたと もがく…
「火山の火口に放り込んで帰りましょう」
 デイジーは微笑みながら言った。

(もしも周囲の景色がゴツゴツとした岩山じゃなくて、緑の山々だったら日本とそっくりじゃないか)
 安倍は現地の人々が掘った川湯の温泉につかりながら、頭に手ぬぐいを乗せ、感慨に耽っていた。
(…ブライディーさんたち、本当にヘクラ山に登って石版を探すつもりなのかなぁ… ここまで来たんだ。決心は揺るがないだろうなぁ…)
 と、岩場の陰から何者かがこちらを伺っているような気配がした。
(? 地元の人かな? まぁいいか。ぼくは男だし見られても…)
 と、呑気に考えた。
(あの子たちに教えてやろうかな? それとも止めておこうか。出歯亀くらいでやめにするには、あまりにも惜しいしなぁ…)
 北の国の青天井。首から上は寒風で冷やされ、身体は温泉で暖められ、極楽気分にひたりながら、彼は両脇の岩にもたれかかり、目を閉じて空を仰いだ。
『ブクブクブク… 覚えていろよ、安倍!』
 ネイは数個の卵と一緒に網に入れて沈められていた。

「ああ、いいお湯だったよ。ぜひ入ってきたらいいよ」
 日本人は、イギリス人の女の子たちに向かってにこやかに言った。
 メイドさんたちは顔を見合わせて、川湯に入ることにした。
「ねぇデイジー、わたし、ズボンで山に登ろうと思うの」
 温泉は生まれて初めてのブライディーは、冷たい泉とは違う奇妙さを感じながらも、だんだんと慣れてくるに従っておかみさんや安倍の言う気持ちよさを感じはじめていた。
「あたしもズボンを持ってきたよ。あんな岩山、とてもじゃないけれど、いくら裾を上げたり縛ったりしてもスカートじゃあ無理だよ」
 ブライディーよりも先に、大いにリラックスしたデイジーは、古代ローマのお姫様気分でお湯の中をばしゃばしゃとうろうろしていた。
(うむむ… あたし、お姉ちゃんみたいな大きな胸になれるかしらん? ジャガイモがいいのかな、やっばり?)
「デイジー、危ないわよ! 深いところもあるわよ。貴女泳げないのでしょう?」
「だからここで練習しようかな。海や川は危ないから…」
 小さなメイドさんは恐る恐る犬かきの真似事をしはじめた。
「でも凄いわね。あれが全部溶岩の流れた跡だなんて…」
 大きなメイドさんは温泉につかりながら、火山の火口から麓に向かって四方八方に筋状に走る、長いもので十数キロもある溶岩流の跡を見上げて言った。
「いま噴火したら、あたしたち全員一巻の終わりね」
「デイジー、わたし思うんだけれど、《呪い石、恨み石、祟り石》は、このアイスランドの人々がものじゃあないのではないかしら?」
「そうね。いまでさえ人の数は数えるほどしか住んでおられないから… そんな怨念を凝縮するほど人はいないから…」
「でしょう? ここ、アイスランドは、最初は誰も人が住んでいなくて、アイルランドの修道士さんがさらなる孤独と隠棲を求めて移り住んだのが最初の住人だ、と言われているくらいだから… だから、石版は、大昔でももっと人が住んでいたところ、気候のいいヨーロッパ大陸のほうから、捨てに来たもののような気がしてならないわ」
「でもそれだと、深い海の底に沈めてしまうほうが簡単じゃあ?」
「海の底には魔物…邪悪な神が厳重に封印されながらも生きているのよ。もし封印を解いて自由に操る魔導師が現れたら…」
「そうかぁ… でも、それほどまでに人の心を悪に染める石板をこんなところまで捨てに来た勇者たちって、本当に正義の塊みたいな人たちだったんだろうね」
 誰かの視線を感じたブライディーが岩陰を見つめ返そうとした時、デイジーが足を滑らせてバシャバシャと溺れた。
「ほらほら、言わないことじゃあないでしょう?」
 助けに行っているあいだに、気配は消えていた。

 翌日、三人と一匹は宿の亭主を案内人に立てて、安倍はもちろん女性二人もズボン姿で、ゴゴゴコ…と絶えず小さな地鳴りが響いているヘクラ山へ登り始めた。
「わたし、暗くならない夜を初めて見ました」
 ブライディーは余り眠れなかったのか、少し赤い目をしていた。
「あら、もったいない! 勉強家の人にとっては、蝋燭やランプの油代が節約できるのに…」
 頭から何枚もの毛布をかぶって寝ていたデイジーはすこぶる元気だった。
「その代わり、冬は夜ばかりじゃあなかったっけ?」
 安倍薫もあくびをかみ殺していた。
「ねぇねぇ、オーロラは見えないの? とってもきれいらしいけれど」
 デイジーはレイキャビークで買った絵葉書をを示した。
「滅多に出ないなぁ。短期の旅行者で見られた者は幸運だよ。わしら地元の者でもそうそう見たことはないんだ。…ところでおまえさんたち、本気で火口を望むところまで登りなさるつもりかい? あっしはとてもそんなところまでは案内できねぇよ。火口を覗き込もうなんて、人間じゃあ無理だ。人間離れした、いにしえの勇者たちか、でなければバケモノでもないと…」
 亭主は呆れたように言った。「…まぁ、火山の学者さんにとっては絶好の研究対象というのは分るんだけどねぇ… お嬢さんたちは分らんねぇ…」
「ええ。案内は途中まででいいんです。有難うございます」 安倍は安山岩や流紋岩がゴロゴロ転がっていて、土石流の流れた跡がまるで舗装されような急傾斜のところどころから細い煙が上がり、硫黄の臭いが漂っている殺風景な岩山の光景を眺め渡しながら答えた。「どうか適当なところで先に引き返していてください。ぼくたちはポイントとかちゃんと地図に書き込んでおいて、帰りは間違えずに来た道を戻りたいと思います」
「そんなことじゃあないんだ。『火口を覗くのは不可能だ』って言ってるんだ」
「行けるところまででいいんです。ぼくの故国日本にも、例えば桜島みたいな噴煙を上げている活火山がいくつもあって、火口を覗きに行くことは火山学者以外は禁止されているんですよ。観光客は遠くから眺めるだけです」
「そうだろう? まぁせっかくここまで来たんだから、火口を覗いて見たい、っていう気持ちは分るがなぁ…」
(地獄よ…) デイジーは思っていた。(地獄はきっとこういう感じなんだわ。こんな風景がずっと広がっていて、悪魔たちがうようよしているのよ、きっと…)
 ネイもまた同じことを考えていた。
『ケッ、まさしく《呪い石、恨み石、祟り石》の捨て場所にふさわしいところだぜ!』
「こんなことは言いたくないけど、定期船が行き来するようになってからは、わざわざイギリスやヨーロッパ大陸からやってきて、火口に飛び込んで自殺するヤツだっているんだ」 亭主は声を潜めた。「…あんたらたちは男一人、女二人で結構明るいから違うと思うんだが、男でも女でも一人きりはまず火口に飛び込みに来たんだと見て間違いない。カップルだったら心中だ。そういうのはまずほとんどちゃんとした宿には泊まらない。船の中の雰囲気からして分るから、見つけ次第ルーテル教会の牧師さんのところに連れて行って説教をしてもらうんだ。…そしかし、それでもコッソリとやっちまうのはいるんだよ」「し、失礼ね! あたしたちはそんなんじゃあないわよ!」
 デイジーは頬を膨らませた。
「火口近くまで行ったら、しっかりとお祈りをして、そういうかたたちの魂が天国に昇れるようにお祈りを捧げたいと思っています」 ブライディーは言ったものの、その声はかさかさに乾いていた。
「とんでもない! 祈ったりするのが一番いけない!」
「どうしてですか?」
「それはね、何かに深い恨みを抱いたまま亡くなった人の魂は、亡くなった場所にじっと居続けて、やって来たり通りがかって、自分に気が付いてくれた者を道連れに引きずり込もうと試みるからだよ」 安倍が代りに答えた。「…だから、日本でも、もし無縁塚を見つけても滅多に拝んだりお花を供えたりしてはいけない、という人もいるんだ」
「そうなんですか…」
「日本人の旦那の言う通りだ。だからもし、火口まで辿り着くことができても、覗くのは学者の旦那だけにして、お嬢さんたちはやめておくことだ。第一危ないしな。それに…」 続けて何かをいいかけた亭主は、急に黙りこくってしまった。
「どうしたんですか?」 安倍は時おり辺りを見渡しながら訊ねた。草木は一本もなく、ただ荒涼とした岩ばかりの荒れ地がつづくだけで、小動物の姿はもちろん、虫一匹いる気配はない… 「他にもまだまだ気を付けなければいけないことがあるのですか?」
「いいや、もうそれだけだ」
「あの… もしかして、黒い石の石版か石碑か、そのかけららしいものを見かけても、拾ったり触ったり、まして持って帰ってはいけない、ということではありませんか?」
 大きなメイドさんが問うた途端、亭主の顔から見る見る血の気が引いた。まるで激怒したかのように青白く、頬を引きつらせた。
「…そうか、どうも様子が変だと思ったら、あんたたちもそれが目当てだったんだな!
 もういい! 金は返す! 案内はしない! 帰りに…もし帰れたらの話だが…わしたちの宿に寄らないでくれ! わしたちは『あれ』のせいでえらい迷惑をしているんだ! ヴェスヴィオにしてくれたらよかったのに!」
 亭主は何度も地面に唾を吐きかけ、くるりと踵を返すと脱兎の如く山を下っていった。『莫迦じゃないかブライディー あのことに触れるなんて!』
 ネイは両方の羽根で顔を覆った。
「もう、黙っていればもうちょっとガイドしてもらえたかもしれない言うのに!」
 デイジーも拳を振り上げて怒った。
「いつもの君らしくないよ」
 安倍も情けなさそうだった。
「そうですか、すいません… 正直にお尋ねしたら、何か教えて頂けるような気がしたものですから…」
 ブライディーは悲しそうに言った。
 地鳴りはさらに大きくなり、山頂の火口付近からはしきりにコロコロと小石が転がり落ちてきた。

「さてと、案内人さんは逃げてしまったことだし、そろそろ占って…」
 気を取り直したのか安倍薫は快活に言った。
「そうですね…」
 持参してきた「黄金のダウジング棒」を取りだしたものの、何となく元気がない。
『分っているよね? まず、《呪い石、恨み石、祟り石》の邪悪な力を打ち消す石碑を見つけるんだ! そうでないと、先に黒い石の本体…火口に投げ込まれたらしいけれど…を見つけたところで、近づくことすらできないのだから!』
 ネイがうるさく言う。
「お姉ちゃん、もういろんな人たちといっぱいいっぱい冒険をしてきたんだから、いい加減でちゃんとしてよね!」
「まぁまぁ、ネイもデイジーも、そんな言いかたをしたら、ますます緊張してしまうじゃないか」
 デイジーはさらにガミガミと…
 安倍は硫黄のますます濃くなる硫黄の煙に吹かれながらも落ち着いていた。
 メイドたちは口元にハンカチを当てた。
「あちらの方向だと思います…」
 ゆっくりと目を開いたブライディーはさらに急斜面の上のほうを指さした。
「もぅ、足元がよく見えなくなってきたじゃない! あたしはお姉ちゃんよりずっと若いんだから、火口に転げ落とさないでよね!」
『デイジー、君は一度落ちて溶けて、甦ったほうがいいかもしれないよ』
「もう、ネイったら! あんたはいつも宙に浮かんでいるから滑落しないでしょうけれど!」
 かなり歩いても、その場所には到着しなかった。
「まだなの? あたし、疲れてきたわ。帰りの自信がなくなってきた。空気も毒ガスだし…」
 デイジーが言うとおり、足元には朽ち果てた何かの動物の白骨が目立つようになってきた。地鳴りはさらに一層大きくなり、地面が小刻みに動いているのが感じられるようになった。
「標高もおよそ1500メートルあって、登山に慣れた者でなければ日帰りはきつい…」 安倍もとうとう口元にハンケチを当てた。「…どうだろう、せっかくここまで来たけれど、一度引き返そうか? お詫びして、事情を話せば宿のご夫婦も泊めてくださるだろう」
 外気は真冬のように寒いのに、火口から吹き上がる熱風がまさしく地獄からの風のようだった。
 と、フィオナが横領したカケラに似た黒い石をデイジーが見つけて拾った。だが、それには何も刻まれてはいなかった。
「つまんない…」
 デイジーは黒い石を放り捨てた。よく見ると先ほどから黒い石は辺り一帯に転がっていた。
「それも黒曜石と言って火山岩の一種だよ」
「どうかされましたか、安倍様、さっきから回りを気にしておられますが?」
「昨日からどうも何者かに見られているような気がしてね」
「やつらよ!」 デイジーが舌打ちした。「…あたしたちがずっとやっつけて回っている…」
「するとやはり、彼らはわたしたちが石碑を見つけるのを尾行しているのでしょうか?」
「かもしれない。しかし確たる証拠がない。ぼくが神経質になっているだけかも知れない」
『よう安倍、もしも気配が本物だとして、横取りしに現れても、おまえさんとおいらでチョイチョイと畳んでしまおうぜ』
「偉そうなこと言って、ネイ、あなた戦いの呪文か何かできるの?」
 デイジーが疑り深そうな目で見上げる。
『そいつはその時まで企業秘密だぜ』
「言っておくけれど、相手の魔導師たちは、怪物を操ったり、幻術を使ったり、手練ればかりなのよ! 安倍様も強いと思うけれど、もしも数を頼んで現れたら、ネイ、あんたは捨て身で頑張るのよ!」
『ああ、承知しているって。デイジー、おまえさんも次元の隙間に弾き飛ばすとか、チームプレイをよろしくな』
「あたしの術は一日一回しかできないから、攻撃に使っちゃうと誤って火口に落ちた人を助けられなくなるし、ヘトヘトになっても下山できなくなるわよ」
『おいおい、味方を脅かすのかよー』
「それも自慢じゃないけれど三人一度と言うのがやっとなのよ。もしも溶岩が降りかかったらネイ、あんたは一人…じゃなかった一匹で逃げてね!」
『そんな殺生な! それがマスコットに向かって言う言葉かよー』
「あ、あれです!」
 ブライディーは黄金のダウジング棒をポケットにしまい、上のほうを指さした。
 ますます濃くなる硫黄臭のする噴煙が立ちこめる先に、あっちこっち欠けた、ドアくらいの厚さと大きさの真っ黒な石碑が斜めに突き刺さっているのが霞んで見えた。
「しかしあれは《呪い石、恨み石、祟り石》のほうじゃないか?」
 安倍は両手を広げてメイドさんたちを遮った。
「地元の人たちが『火口に捨てた』と聞いたけれど、横着してここに置き捨てて行ったのかな? それだったら、どおりで最後まで案内してくれないはずよ」
 デイジーは腕組みして頷いた。
『それか、信じるとすれば、火口に投げ込まれた石碑が、また小さな噴火でここまで吹き飛ばされてきたかだぜ』
 ネイも短い首をひねってみせた。

「取りあえず無視しよう!」 安倍はメイドさんたちのハーフ・コートの裾を引っ張った。
「…計画の通り、まず邪悪な石碑を打ち消す石碑か石板のほうを探し出すんだ!」
 だが、不思議なことに、黒い石碑は、まるでそれまで一行が来るのを待っていたみたいに、脚だけの黒い橇のように、ふもとに向かってズルズルと滑り落ちはじめた。
 もっと言うなら、生きているかのごとく…
「このままでは、村のほうに転がっていくわ!」
「何とか止めなくては!」
 ブライディーとデイジーは斜め下に駆け出して、先回りしようとした。
「やめろ! 二人とも、はじき飛ばされるぞ!」
 安倍はトンビ・マントをさながら本物の大コウモリのように広げて跳躍し、加速して転がってくる石碑と、メイドさんたちのあいだに割り込んだ。
 そして持っていた折りたたみ式の杖を三本、手品師のように伸ばすと目の前の固い岩に間隔を置いて差し込んだ。
 黒い石碑は三本の杖に当たり、少しバウンドしてから動かなくなった。
「ふぅっ、危ない!」
 安倍は手の甲で額の汗を拭った。
『いいぞ安倍! おまえさんはアレイスターやサダルメリクに比べると今ひとつなヤツだと思っていたが、見直したぞ!」
 ネイが口笛を吹いて冷やかした。
「有難うございます、安倍様!」
 メイドさんたちも瞳を輝かせた。
「君たち、無茶をしてはいけないよ」
 だが、一同は図らずも《恨み石、呪い石、祟り石》の前に立ってしまった。
 石碑は表を上面にしていて、そこには一面に、住民がケンブリッジ大学に売り込みに来たカケラと同じ文字が刻まれていた。
 しかも、長い時間に渡って、自然に、または人為的に欠けたり削り取られたりした跡がそこここにあった。
「ああ、ついにこの目で見てしまった!」
 安倍は思わず両目を固く閉じ、噴煙に曇った灰色の空を仰いだ。
「大丈夫よ! 麓まで転がってきたこの石碑を火口か途中まで捨てに行った村人たちも大丈夫だったのでしょう?」
 デイジーは明るく言った。
「…だといいのだけれど… ハッキリ言って、ここに住んでいる人々は欲が少ない。買えるものと言えば知れている。食べるものか衣料か日用品、そして燃料くらいだ。対してぼくらはロンドンという文明国の都から来て、貴族ほどではないにしろありとあらゆる贅沢を知っていると言っても言い過ぎじゃあない」
「そんなに恐れることもないのではありませんか?」
 ブライディーはしゃがんで文字の刻まれた表面を間近で見た。
「フィオナ様やセアラ様のお話では、文字の種類は古代ノルマン系のルーン文字の系統ではないか、ということでした。…ほとんどまったくと言っていいほど似てはいないようなのですが…
 わたくし、少しだけ勉強してきました。
 アイスランドには、
 例えば「巫女の預言」のような叙事詩「古エッダ」とか…
「エイリーク王賛歌」といった「スカルド詩」や…
「植民の書」といった散文詩「サガ」なんかがあるのです。
 けれどもこれは、それらの記録文学よりも、もっともっと古いものかも知れません」
『もしも、イギリスやヨーロッパ大陸のほうから捨てに来たものなら、そういうものとはほとんどまったく関係ないだろうしな!』
 ネイが冷やかした。
「そんな! せっかく調べてきたのに!」
 ブライディーは悲しそうな顔になった。
「さぁ、これはしばらくこのままにして、この石碑を完全に封印する力がある石か、もしくはその方法が刻んである石板を探しに探しに行こう!」
 安倍が先を促した。
 その時、ゴゴコゴ… と地鳴りがして、安倍が支え棒として打ち込んだ杖が、石碑の重さに耐えかねてしなった。
「いかん!」
 安倍は真ん中の杖を支え、ブライディーとデイジーはそれぞれ左右の杖にしがみついた。それでも黒い石碑は、まるで上から透明な巨人が押しているみたいに重さを増した。
「もうだめ、あたし、離すわよ!」
 片手を離したデイジーが、その片手をズボンのポケットに突っ込んで、小さな石斧に似たハンマーを取りだして、それで石碑の手前の部分をコンコンと削り取ろうと試みた。
「デイジー、何をしているの!」
「見ての通りよ! せっかくここまで来たんだから、一カケラだけもらっておいて、重い病気にかかるとか、万一の時に売ってお金に換えるの! お姉ちゃんはフィオナ様には同情したんだから、あたしも、少しくらいはいいでしょう?」
「そんな…」
 固い石なので簡単には欠けないと思っていたら、少女の力でもいともたやすく、まるで石灰岩みたいにテニスボールくらいのカケラが欠け落ち、デイジーは素早くそれを拾った。

「デイジー、早くそれを捨てるか元に戻すかしなさい!」
 ブライディーはみんなが初めて聞くような険しい声で言った。
「嫌だ! あたしだっていつかは病気にかかるとか、怪我をするとかで働けなくなる日が来るかもしれない。これはその時のために、隠しておくのよ!」
「そのカケラは呪いと恨みと祟りの塊。持っていたりすれば貴女も邪悪な力の虜になるわ!」
「ならないもの! フィオナさんとこは破産するところを、この石版のカケラのお陰で免れそうじゃないの? カケラさまさまよ!」
「頼む、デイジー!」 切羽詰まった安倍薫が叫んだ。「支えが抜けそうだ。君の、人や物を瞬間移動させられる『力』で、『この石板のほうを』 火口に放り込んでくれ!」
「いいわよ。このカケラを持って帰っても構わない、と約束してくれたら」
「デイジー!」
 悲鳴のようなブライディーの声がこだました。
「あたし、やっぱりいざという時のお金が欲しいの。…お姉ちゃんも、心の底の底では100パーセント正義のためじゃあなくて、アレイスターさんたちみたいに、自分に何ができるか、どこまで行けるか試すためにこうして冒険を繰り返しているんでしょう? メイドの仕事なんて、単調で退屈で、しんどいだけだものね」
「そんな… わたしはそんなことは…」
『ああ、よりによってこんなところで内輪もめをしなくたって…』
 ネイは呆れて言葉を続けられない様子だった。

「さてさて、御礼を申し上げなければいけませんね」
 頂上の、火口に近いあたりから、若い女性の険のある声が響いた。
 一同が目をやると、まるでこれから舞踏会に行くところのような、鮮やかな紫色のドレスに身を包んだ女が、吹き上がる煙と溶岩を背に立っていた。
「ヴァイオレット様!」
 遠目だが、ブライディーとデイジーは彼女に会ったことがあるのを思い出した。
 ドイツとオーストリアの国境、ライン川のほとりの町ブラウナウで、税関長の息子に徹底してユダヤ人の悪口を吹き込んでいたメイド…
 フィオナの友人で、王族であるオクタヴィア姫の妹で、早世した両親を甦らせようと魔術に傾倒し、おそらくは本物の魔女になるべく、ある日突然、何不自由ない生活を捨てて出奔した人…
「…ご案内、どうも有難う。カケラを莫大なお金を出して買うくらいなら、オリジナルの石板を丸ごと手に入れたほうがいいのに決まっていますものね」
「デイジー、早くこの石板を火口に放り込むんだ!」
 安倍が叫んだ。
「ホホホ… デイジーちゃんの術は一日一回限りでしたわね。ではこうさせて頂きましょうか?」
 ヴァイオレットが腕を伸ばすと、先ほどからグツグツと吹き上がりかけていた溶岩がドッと吹き出し、一行目指して、まるでプディングに垂らしたソースのように落ちてきた。「…さぁ、どうするデイジーちゃん」 ヴァイオレットは安全な高みに立って僅かに反り返った。「ブライディーさんや、そこの日本人の魔導師の言うことを聞いて石板を火口に捨てることに『力』を使って、自分たちは溶岩に溶かされるか…
…それとも、石板を諦めて、自分たちは安全なところに脱出するか…
 あまり迷っている時間はないわよ!」
「もちろん、いったん撤退だ!」 安倍はブライディーとデイジーの顔を見渡して言った。「…残念だが、石板は、また取り返せばいい」
「でも、取り返せるものでしょうか? 彼女…ヴァイオレットは、すでに相当な魔力の持ち主です。奪ったら最後、どこか、ここから遠い外国へ持ち去って、とことん悪用するのでは?」
「しかし、ヴァイオレットの言うとおり、選択の余地はなさそうだ」
 安倍も唇を噛みながら言った。
『くそぅ… 悔しいな! ある程度予想していたとは言え、敵を案内してしまうなんて… 待ってくれ、おいらがあいつを!』
 ネイは一直線にヴァイオレットに向かって飛んだ。
「ホホホ… 付き物の分際で恰好を付けて!」
 ヴァイオレットが細く優雅な指先で、小さく簡単な印を描くと、まるで塹壕に隠れていた兵士たちが発砲したかのように噴煙が吹き出して、ネイを吹き飛ばした。
「ネイ!」
「お姉ちゃん、逃げるよッ!」
 デイジーは構わず両手で大きく弧を描いて空間をねじ曲げた。

 逃げ出してきた一行にとっての引き続きの仕事は、麓の村の宿の亭主との交渉になった。「お願いします、どうか泊めてやってください…」
 安倍薫は、輝かしい先祖とはひどいギャップのある、いまにも泣き出さんばかりの哀れな声で訴えながら、粗末なドアを叩き続けた。「お断りだ! 他でもない、あの黒い石板がからむと、ろくでもないことが起きるんだ!」
 家の中から亭主の激しい声がした。
 ドアのすぐ外には、一行の旅行鞄がぞんざいに放り出されていた。
「そうおっしゃらずに! 信用して頂けないかもしれませんけれど、ぼくたちはこれでも正義の心に燃えて、はるばるやって来たんです」
「天下に名前を轟かせた、いにしえの勇者たちならともかく、中途半端な連中は悪人に利用されるのが落ちだ!」
『ケッ、図星だぜ。あのヴァイオレットとか言う魔女は、いまごろ、どこか遠くにトンズラして、石板を抱いて薄笑いを浮かべながら眠っていることだろうよ!』
 ネイはいまいましそうに言った。
「すいません、またわたしのせいで皆様を窮地に立たせてしまって…」
 また、目にいっぱい涙を溜めたブライディー。
 ただ一人、デイジーだけが『一生遊んで暮らせる以上の価値がある』という、ハンケチに包んだ石板のカケラを、ズボンのポケットの上からまさぐってニヤニヤしていた。
「デイジー、それは石板の本体を取り戻すための手掛かりの一つとして貴女に預けてあるだけよ」
 ブライディーはしゃくり上げながら続けた。「違うもん! フィオナ様に、一度奪回したカケラを返したお姉ちゃんに、わたしのことをとやかく言う資格なんかないんだもん」
「シッ! 石板を削ったカケラを持っていることが亭主たちに分ったら、完全に拒否されてしまうぞ」 安倍が囁いた。「…もう少しだけ聞いてください! お察しの通り、ぼくらは黒い《呪い石・恨み石・祟り石》を封印する方法が刻んであると言う《白い石板》を探しに来たんです。それがあれば、もう黒い石板も、そのカケラも恐れるに足りないと思ったからです」
 安倍は源頼光に慈悲を請う酒呑童子のような哀れな声で訴え続けた。
「嘘をつけ、嘘を! おまえたちもまた、黒い石板を見つけて莫大な邪悪の力を手に入れようとしている悪人たちだろう? 騙されないぞ!」
「では、明日必ず《白い石板》の在処か、その手掛かりを見つけてきます。だから、せめて今夜一晩だけでも…」
「ハッタリを言うでない! 古来、多くの勇者たちが探しあぐねてきた《白い石板》が、そんなに簡単に見つかってたまるものか!」
「お疑いはごもっともです。ですがこちらにはダウジングの名手がいるのです。なんなら長いあいだ探し続けているものを探し出して証明してもよろしいですよ」
 亭主の罵りが止んだ。家の中でおかみと何かしら相談しているような気配がした。
 やがて、かんぬきを外す音がしても扉が開いた。
「そこまで言うのなら、一度試してやろう。 実は、わしたちの子供がこの家を出て行く前、まだずっと幼かった頃に、先祖伝来の大切な釣り針を無くしてしまったのだ。あちこち懸命に探してみた。当時はご不浄の中まで探したが、とうとう出てこなかった。捨て去ってはいないと思う。それを見つけてくれたら信じよう」
「その釣り針は、どれくらいの大きさ、どんな形のものですか?」
 亭主は、先端が少し渦巻状になっている変った釣り針を絵に描いた。
「分りました。占ってみます」
 ブライディーは黄金のダウジング棒を取りだして、目を閉じ、心を静めた。
 棒はまるで生き物のように少しずつ動きだし、やがて戸棚を指した。戸棚を開けると、そこにはおかみの裁縫箱があり、棒はそれを指して止った。
 おかみの顔から血の気が引いた。
「イギリスから来たお嬢さん、釣り針はこの中にある、と言うのかい?」
 亭主の顔色が変りかけた。
「ええ。たぶん、そこの針刺しの中に…」
 亭主は裁縫ばさみで針刺しを切り裂いた。 すると、綿屑とともに、まっすぐに伸ばした針が出てきた。
「おまえが! おまえが隠して、幼かった息子に罪をなすりつけたんだな!」
 亭主は満面に朱を注いだようになった。
「…ごめんよ、おまえさん。あの頃はおまえさんの母親と同居で、我慢続きだったんだ。 おまえさんが本気で息子をぶつのを見て怖くなって出しそびれてしまったんだよ」
 おかみさんは謝りつつブライディーのほうを恐ろしい目で睨み付けた。
「おい、おまえ。自分が悪いのを棚に上げてなぜそちらのお嬢さんを恨むような目で見ているんだ?」
 言うなり亭主はおかみさんを殴りつけた。「ちょっと、殴ることはないでしょう?」
 走り寄ったデイジーが二人のあいだに入ろうとして蹴つまづいた。その時、ズボンのポケットにしまっていた黒い石板のカケラが包んであったハンケチから転がり出た。

 亭主もおかみさんの目玉がこぼれ落ちそうなくらい大きく見開かれた。
「おまえさんたち、『黒い石板は目的じゃあない』と言いながら、そのカケラは一体何だ?」
 おかみさんは、亭主の怒りをそらせるかのように罵った。
 デイジーはまっ青になった。
「こいつは…」 真っ赤だった亭主の顔は、どす黒くなった。「…うちのかみさんを殴っている場合なんかじゃあねぇ! おまえさんたち、よくも何度も何度も嘘をついて… やっぱり黒い石板が目的じゃないか!」
「ち、違うのよ! このカケラは『白い石板』を探す手掛かりになれば、と思って…」 デイジーは懸命に言い訳を試みたが無駄だった。
 亭主は壁のトナカイの角の鉄砲掛けに掛けてあった熊撃ちのための散弾銃を外してデイジーのこめかみを狙った。
「可愛い顔でごまかそうとして、この悪魔どもめ!」
 おかみさんも包丁を振りかぶった。
「もうだめだ。これでウォーターフォード男爵の屋敷に奪取に赴いて以来、三度続いて予想されうる最悪の結果ばかり出ている…」
 飄々として辛抱強い安倍薫も、ついに唇を噛み、大きく首を横にひねった。「…どうやら、黒い石板のカケラは、正真正銘《恨み石、呪い石、祟り石》の断片で、これを所持しているか、関わっている限りいくら正義のためにやっていても、神や仏を信じていても、悪意の力に飲み込まれてしまうのだろう…」
「そんな… これだけ神様にお祈りしながら進めたのに…」
 ブライディーは顔をくしゃくしゃにした。「いいことを教えてやる!」 亭主は散弾銃の引金を絞りながら言った。「全知全能の神様でも、ただ一つ御しがたいものがあるんだ。それは言うまでもなく、神様を信じない、神様を恐れない輩たちだ。言い換えると悪魔どもだ。その連中が全身全霊をかけて呪い、恨み、祟った石は、たとえ小さなカケラでも、どうしようもなくえげつないことばかりを引き起こすんだよ! だから、わしらは傍目にも滑稽なくらい恐れているんだ、分ったか? 分ったら出て行け! この村の住民にはすぐに触れを回しておく。二度とこの村に、ヘクラ山に近づくな!」
 安倍は両手で二人のメイドさんをかばうようにゆっくりと後じさった。
「し、失礼しました。数々のご無礼、お許し下さい!」
 素早くドアを閉めるのと同時にズドーンと鉄砲が撃たれた。樅の木の分厚いドアでなければ、三人ともドアごと蜂の巣になっていただろう…
 三人は荷物を持って一目散に走って、町へと続く街道を見下ろすことができる岩陰に身を潜めた。
「…すると、安倍様、いままでずっと上手く行かなかったのは、わたしのせいでも、誰のせいでもなくて、黒い石板のカケラのせいだとおっしゃるのですか?」
 ブライディーは息をはぁはぁさせながら訊ねた。
「そうさ。ぼくらは完璧に『呪われて』しまったんだ。そしてそれはこれからも続くだろう。カケラを持っている限り…」
 安倍はそう言って、愛おしそうにカケラを見つめているデイジーを眺めた。
「何よ!」 デイジーはまた唇を尖らせた。「誰がなんと言っても、これは捨てませんからね! これさえあれば、メイドをクビになっても、病気になっても、怪我をしても困らないくらいのお金に替わるんだから!」
『まだ分らないのかデイジー、その石を持ち続けている限り、その石の価値以上の不幸なことが起きるんだよ!』
 ネイが旋回しながらわめいた。
「嫌だと言ったら嫌だよ! …そうだ、お姉ちゃんがまた男爵様のお屋敷に忍び入って、フィオナ様が持っているカケラを今度こそ奪還してきたら、あたしのも捨てていいよ」
 安倍は嘆かわしそうに、うつむかせた首を横に振った。
「分ったわ。…わたし、イギリスに、ロンドンに戻って、もう一度フィオナ様のところからカケラを取ってきて見せるわ!」 ブライディーはまたキッパリと言った。「何度でも、何度でも、成功するまでやり直して…」
「今度言う今度は捕まって、君も、フィオナ様も女子刑務所送りになるだろうよ」 安倍はポツリと言った。「…宿の亭主が言った通り、ぼくらは関わってはいけないものに関わってしまったのかも知れない。…いままで大した怪我にも災難にも遭っていないのは、むしろ神様のご加護だろう…」
「そんな…」
「それよりも取りあえず、今夜をどうするかだ。宿からは追い出され、夏のあいだだけ行き来する貴重な馬車は呼んでもらえず、隣村までは10マイルか15マイル… いまから歩き出せば、途中の町までくらいにはたどり着けるだろうが…」
「皆さんは歩いて帰ってください。わたしは、夜明けを待ってから『白い石板』を探しに再びヘクラ山に登りたいと思います」
 ブライディーは決然として言った。
『莫迦言え! お腹がすいてくるよ! 行き倒れになっちゃうよ!』
 ネイはわめいた。
「その通りだ。ここはいったん隣村まで撤退しよう」
「嫌です! 黒い石のカケラを持ったデイジーと一緒なら、その途中でもひどいことが起きるに決まっています!」
「いいのよ。さいごに大金が手に入るのなら、少々のことが起きたって」
 デイジーはシレッとして言った。

「ここで仲間割れをするなんて、いよいよ最悪だよ」 呑気な安倍も険しい表情になった。「…とにかくリーダーとして、初めて命令させてもらう。ブライディーさん、ぼくらと一緒に隣の村まで戻ろう。急げば今夜じゅうに着けるかもしれない」
 村の小さな教会の晩祷の鐘の音を聴きながら、一行は雪のちらつく石ころと火山灰の積もった道をトボトボと歩き始めた。
 北の国の夜は暮れることなく、いつまでも明るかった。それは有難いのだが、次第に寒さが増してきた。荷物は重く肩や腰にのしかかり、脚は痺れて痛くなってきた。
 きょうは一日、片道とは言え登山をしたので、お腹も減ってきた。
 安倍の腹も、メイドさんたちのお腹もグゥーッと鳴った。ブライディーとデイジーは鞄の中からクッキーを取りだして食べた。
「…隣村までは10マイルほどか… 半分ほど来たと思うから、後5マイルほどだな」
「あと5マイルも! だめ! あたしもう歩けない。少し休ませて!」
 デイジーが道ばたに座り込んだ。
 なぜか風まで急に寒くなり、真夏には珍しい雪がちらつきはじめた。
「だめだ! とことんツイていない。こんなところで座り込んだら凍死する危険性も出てきた…」
 安倍はマントをかき合わせ、ブライディーはデイジーに立ち上がるように促した。
「どうしてそんなにせき立てるのよ! あたし、きょうは脱出の呪文を使って、みんなを溶岩流から助け出したじゃない! みんなより疲れているはずなのよ!」
『ああ、とうとうブライディーも、デイジーも、安倍も、こんな何もない、殺風景な、寒い地の果てで一巻の終わりか! 可哀相なものだな。あっけないものだな!』
 ネイは飛ぶのを止めて岩の上に降り立ち、観念したように動かなくなって目を閉じた。「もはやこれまでか…」
 安倍は振り絞るように言ったかと、安倍は急に、まるでロンドンの「英国心霊研究協会」のお屋敷の暖炉の前に座って暖かい飲み物でも飲んでいるようなニコニコ顔になった。「ああ、幸せだな。…たくさん失敗もしたけれど、何とかここまでやってこれたんだ。悲しいことや辛いこと、どうしようもないことばかりが多かったような気もするけれど、仕方ない、仕方ない…」
 スキップしながら踊り出した。
「安倍様、どうなさったんですか! しっかりしてくださいませ!」
 ブライディーが抱きついた。
『大変だ! 安倍がまでおかしくなってしまったぞ! 一応まともなのはおいらとブライディーだけか?』
 ネイは、瞳まで固まってしまった。
 デイジーは問題の根源と思われる、自分が削り取った黒い石板のカケラを取りだし、虚ろな目で見つめながら、何かブツブツと呟きだした。
「…呪うわよ、アンタを… あたしに、何が起きても安心なくらいのお金をもたらしてくれるはずだったのに、どうしてこんなところで行き倒れにしてしまうのよ? ロンドンに戻れば大金持ちになれるというのに…
 恨むわよ… フィオナ様の家、ウォーターフォード男爵家は、アンタと同じカケラによって破産の危機から救われる、と言うのに、どうしてあたしはこんなところで死ななくちゃあいけないの? まだまだ若いのに… おりたいことも一杯あるというのに… 殺生というものよ!
 祟ってやる! あたしの霊は、未来永劫『ここ』に住みついて、化けて出て、通りがかる人全員を谷底へ落としてやる!」
 ブライディーはデイジーが喋っているカケラを視ると、目の錯覚か、固い石のはずが、まるでオーブンの中の黒パンみたいに、かすかにかすかにだが膨らんでいるように見えた。「デイジー、やっぱりその石のせいだわ! その石を捨てなさい! 捨てたら呪いが解け、助かるかもしれないわ!」
「嫌よ! 例えお姉ちゃんでもこれをあたしから取り上げたら…」
 目を血走らせたデイジーはバッグの中からナイフを取りだしてブライディーに向けた。
「分った! 分ったからそれをしまって」
「いや、しまわないわ。どうしてこんな簡単なことに気がつかなかったのかしら? 生け贄を捧げればいいのよ!」
 デイジーはネイのほうに向き直った。
『おい、ちょっと待てよ! 無茶なことは考えるなよ!』
「どこが無茶なのよ? 付き物の類にはいくつの命があるのでしょう? 一つくらいくれたっていいじゃない?」
 ナイフを振り上げたデイジーはネイに迫った。
『ブライディー、悪いな。あいにくおいらの命も一つきりなんだ。しばらく隠れているよ』 ネイはそう言い残して飛び去った。「…決して見捨てた訳じゃあないからなー 何かいい考えを思いつけたら必ず戻ってくるからなー!」
「ネイ、できたら白い石板を見つけてカケラを持ってきて!」
「分った。難しいと思うけれども」

「…失敗したら、踊ってごまかそう…」
 安倍は、日本の盆踊りのようなでたらめなダンスを踊り続けた。
「こうなったら生け贄はお姉ちゃんでもいいわ…」
 ナイフを構えたデイジーは、今度はブライディーに向かってきた。
(やはり、黒い石板のカケラの呪いを解くのは、白い石板を見つけてそのカケラを持ってくるしかないのだわ)
 ブライディーは後じさりしながらすでにかなり遠ざかってしまったヘクラ火山を見上げた。
(やはり、引き返してきたのは失敗だったわ… 何が何でも居残って探すべきだったのよ…)
 後悔先に立たず…
(神様、マリア様、「思し召し、ご計画」については逆らわずに受け入れさせて頂きます。でもこれは、努力すけば変えられる事柄のように思います。どうか変えさせてください!)
 ブライディーは巾着の中から旅費として持ってきた金貨や銀貨を取りだしてぶちまけた。「お姉ちゃん、何をするのもったいない!」 しゃがんで拾い集めようとしたデイジーに体当たりして、黒い石のカケラをハンカチごと奪い取った。
「な、何をするのよお姉ちゃん! その石はあたしのものよ! あたしに万一のことがあったらお姉ちゃんがずっとあたしの面倒を見てくれるの?」
 ブライディーは構わず手を振り上げてカケラを崖の外に捨てようとした。
 すると、不思議なことに黒い石のカケラが心の中に語りかけてきた。
『それこそもったいない! 俺様は一生遊んで暮らせるくらいの値打ちのあるカケラだぞ。 俺様を捨てるくらいなら、あのデイジーとかいう小娘と、安倍という日本人をここか突き落としたらどうなんだ? タイミングなどは俺がコーチしてやる。…なぁに、簡単だ。いまなら二人とも俺様の魔力でいかれちまっているからな!』
「嫌です! わたしにはお金よりもデイジーや安倍様のほうが大切です」
(もしおまえさんが大きな怪我や病気をしたら、あの二人はおまえさんの面倒を見てくれるのか? 親でもない、子でもない、あいつらが? 難しいだろう? 俺様は見てやれる。俺様の言うとおりにすれば、召使いが百人いる貴族様の生活をさせてやるぞ!)
「もう何も言わないでください!」
 ブライディーは黒いカケラを投げようとした。が、カケラはまるでニカワで接着したみたいに離れず、落ちて行きもしなかった。手を振っても、激しく振っても、外れなかった。
『ほらほら、頭の中では俺様と縁を切ろうとしても、心の奥底では末永く仲良くすることを望んでいるだろう? いいことを教えてやろう。実は俺様は巨万の富のほかに、もっと凄いものも与えることができるのだ。それは、神しか与えることができないとされている永遠の命だ』
「まさか! 嘘に決まっています!」
『決めつけていいのかな? それこそこれ以上はないくらいの後悔をするぞ!』
「でも、ヘクラ山麓の村の人々が、火口に捨てようと…」
『未開の地に棲む原住民が、エジソンの電球の光を恐れるようなものだ。俺様の真の価値を理解できないだけだ』
 ブライディーの心は揺らいだ。
「お姉ちゃん。こうしよう」 デイジーもじりじりとにじり寄ってきた。「…そのカケラはとても値打ちがあるものなのよ! だから、だから、山分けしてもすごいお金持ちになれるのよ!」
「だめよ、デイジー、このカケラは人間が手にしてはいけないものなのよ」
「でも、もうヴァイオレットさんが本家本元の石板を手に入れられてしまったし、もう一つのカケラはフィオナ様が… あたしたちが好きにしたってもう大きな影響はないわよ」『その通りだ。デイジーと君で金持ちになって、面白おかしく暮らせばいいんだ。同意してくれれば、ただちに信じられないような幸運をプレゼントするが、それよりもここで野垂れ死にするほうがいいかね?』
「あなたは悪魔よ! 正真正銘の悪魔のカケラ! ヴァイオレット様に本体の石板を与えてしまったのは、慚愧に耐えないけれど、せめてあなただけでも処分させてもらうわ!」
(みなさんごめんなさい! 何もかもわたしが失敗を重ねたせいです。責任を取ります…)
 ブライディーは谷底めがけて身を躍らせた。
 と、それまで正気を失っていたはずの安倍薫が、いきなり駆け出し、落ちていくブライディーに向かって荷物の中からはみ出していた鉤付きのロープを投げた。
 ロープはまるで生き物のように、見事に彼女の身体に巻き付いて、宙ぶらりんで止った。「デイジー、上げるのを手伝ってくれ!」
「そうだね。一財産のカケラが…」
 二人は懸命に引揚げた。ブライディーは気を失っていたが、安倍が活を入れると薄目をあけた。
「安倍様…」
「だめじゃないか。おかしくなったフリでもすれば、敵は油断してくれるかなー、と考えたのに…」
 デイジーはカケラを取り戻してご機嫌が戻った。

「やれやれ、黒い石板そのものを、抱いて火口に飛び込むのだったら、まだ命を賭ける価値もあるだろうけれど、たかたがカケラとともに谷底に飛び込もうとするなんて、命を粗末にするにも程があるよ」
 しばらく安倍薫の説教が続いた。
「すいません。本当に申し訳ございません… けれどもこのカケラが、いまのわたしたちをこうして窮地に追いやっているかと思うと… それに、このカケラ、ネイのように喋ったんです」
 デイジーと安倍は代わる代わる耳を当ててみたものの、何も聞こえてこなかった。
「お姉ちゃんはきっと本当におかしくなっていたんだよ。ネイのような妖精ならともかく、石のカケラが喋るだなんて…」
「捨てようとしても手から離れず…」
「デイジー、ちょっとぼくに貸してみてくれないかな?」
 安倍は手を差し出した。
「捨てちゃ嫌だよ、安倍様」
 デイジーは渋々カケラを手渡した。
 安倍は手のひらを下にしてみた。なるほど、カケラは落ちなかった。
「…なるほど、欲望を持った人間が捨てようとしても離れないわけだ。これなら捨てようとしたら身投げするしかないな」
「…すると。わたしも欲にまみれているということでしょうか?」
 ブライディーは情けなさそうな顔になった。「お姉ちゃんは『お兄ちゃん』と結婚したいとか、いろいろ思っているじゃない」
「それでは、頑張ってもう少しだけ歩こう」 安倍は二人のメイドさんたちを促した。
「歩く、ってどこまで?」
「そうだね。次に木のあるところまで歩いたら、また休憩しよう」
「木、って、枯木しかないよ」
「枯木でもいいよ」
「それならあそこに見えるよ」
 デイジーが指さした。
「じゃあ、あそこまで歩いたら、固まって眠ろう」
「約束だよ!」
 デイジーは張り切って歩き出した。
 高さ数フィートの針葉樹の枯木のところまでやってくると、安倍は枯れ枝で焚き火を起した。ブライディーとデイジーは身体にマントを巻き付けて、身を寄せ合って眠りに就いた。雪はまだ降り続き、彼らの頭や肩に積もっていく…
「凍え死にしないでしょうか?」
「大丈夫、ぼくは起きて、気を付けておいてあげるよ」
「安倍様は?」
「ぼくのことは気にしないで」
 くたくたに疲れ切っていたせいか、二人はじきに眠りに落ちた。パチパチとはぜるオレンジ色の火の粉が、いつまでも明るい夜空に舞った。
 時おり、カンカン、コンコンと枯れ枝を落としたり、シュッシュッと切ったり削ったりする音が聞こえたけれども、ブライディーは(柴を足してくださっているんだ)と思って、安らかな眠りに落ちた。真夏とは言え、アイスランドの白夜はしんしんと冷え込んできた。
 ブライディーは夢を見ていた。
 火口からどくどくと吹き出す溶岩、それが絶えず注がれている傾斜の窪地のようなところに透き通った氷のような、ガラスのような石板が立っている… 大きさは、ちょうど黒い石板と同じくらい。表面に刻まれている文章は違うものの、文字の種類は同じ…
 ガラスだとしても、ましてや氷だとしても、しくら溶岩が降り注いでも溶けない不思議なものだった。
(ああ、これだわ。これを見つければいいのね…)
 眠りながら思わず唇がほころんだ。
 と、安倍の声がした。
「デイジー、またカケラを貸してくれないかな?」
「むにゃむにゃ、捨てちゃあ嫌だよ」
 デイジーは寝ぼけながらも安倍の手にカケラを渡した。
「捨てようと思っても捨てられなかったじゃないか」
「そうだね。むにゃむにゃ…」
「だけども、捨てて見せるよ」
「えっ?」
 デイジーはハッとして目を覚ました。
 黒いカケラは安倍の右手のひらの上に乗っている。
 安倍は左手で右腕を付け根から外すと、投げ槍のように、カケラを腕ごと、谷底目がけて放り投げた。
 その時、三人の耳に邪悪なるものの叫びが響いた。
『おのれっ、計ったな!』
「安倍様!」
 ブライディーが日本人の陰陽師を見ると、コートの右袖はなくなっているものの、毛糸のセーターの右袖を露出させている安倍の腕は確かに目の前にあり、安倍はニコニコしながら手のひらを握ったり広げたりして見せた。「…急ごしらえだったけどね、腕と同じくらいの太さの枯れ枝で義手を作ったんだよ」
 ブライディーはホッと胸を撫で下ろした
「えーん! あたしの財産が!」 デイジーはわんわんと泣き出した。「安倍様の莫迦!」
「これから少しずつ上向くはずだよ、ぼくたちの運が」
 安倍は晴れ晴れとした表情で言った。

 しばらくすると、ヘクラ山側のほうからパカパカ、ガシャガシャと、ひずめと車輪の音が聞こえてきた。
「やった! 馬車だ! 一体誰かな? 乗せてくれるかな?」
 デイジーは肩の雪を払いのけながら飛び起きた。
 小さな点は次第に大きくなってくる…
 御者台には、あの宿屋の亭主が乗っていた。
「また、撃たれるのでしょうか?」
「そう何でも悪いほうに考えちゃあいけないよ、ブライディー。君の悪い癖だ。せめて半々くらいに考えておくんだよ。そうすれば、良いことも、そうでないこともね半々くらいの割合で起きてくれるだろう」
 御者台の亭主は手を振ってくれていた。
 安倍も手を振り返した。
「おーい、おまえたち、済まないことをしたな」
 荷台からはおかみが降りてきて、魔法瓶に入れたホット・ブランデーと手作りのクッキーを勧めた。
「…むかしの釣り針のことで気が立っていたんだよ。ルーテル教会の牧師様や、村の長老たちに諫められて、迎えに来たんだよ」
 三人は薄めたブランデーを飲み干し、クッキーを貪るように食べた。身体がぽかぽかと暖まって、まともな考えが戻ってきた。
「有難うございます」
 ブライディーは深々と頭を下げた。
「黒い石板のカケラは捨てられちゃったよ!」
 デイジーはハンカチを振ってアピールした。「わたしがこの谷底に捨てました」 と安倍。
「安倍様は枯木の枝で、急ごしらえの義手を作ってカケラを欺くことに成功したんです」
 大きなメイドさんは誇らしげに言った。
「おお、それは頭がいい! あんたたちなら『氷の石板』を見つけ出して持って帰り、黒い石板と対抗することができるやもしれん」 亭主とおかみは、片方の袖がない安倍を眺めて顔を輝かせ、しっかりと抱き合った。
「あたし、本当に悔しくて残念だったけれど、こうして許してもらえた上、また応援してもらえそうでうれしいわ。…お金も欲しいけれど、命あっての物種だからね」
 デイジーも本当に嬉しそうだった。
「これでまた、鯨の煮付けが食べられるな」
 安倍は舌なめずりをした。
「わたし、夢に見たんです! 氷のような、ガラスのような石板は、確かににヘクラ火山の煮えたぎった溶岩の上に神々しく立っていました」
「そりゃあ、大昔の偉大な魔導師が、黒い石板を封印するため…というか、邪悪のエネルギーに対して釣り合いを保つために精魂を傾けて作ったものだ。溶岩のただ中にあっても溶けず、流れ去らず、埋もれずにあってもふしぎではないかもしれないな」
 一同は亭主が御する荷馬車で宿屋まで戻った。玄関のドアは内側の散弾の弾痕が生々しかった。
「また、修理するよ」
 亭主はバツが悪そうに言った。
 そ、そこへ、パタパタと羽音を立てながらネイも戻ってきた。
「やあ、みんな、勘弁してもらったんだね。本当に良かったね」
「ネイ、あんた、どこへも行かずに、物陰に隠れてあたしたちの様子を窺っていたんじゃあないの?」
 デイジーはやぶにらみで睨んだ。
「そんなことはないよ。ちゃんと探して見つけてきた。ガラスのような、氷のような碑をね!」
「なぁんだ、それだったらブライディーさんを先頭にしんどくてアテのない登山をしなくたって、最初からネイを斥候に出せばよかったんじゃないか?」
 安倍薫は溜息をついた。
『ところがブライディーが来て正解だったんだよ。そのガラスのような、氷のような碑は、火口か火口付近の煮えたぎる溶岩の中を、まるで難破船の板きれみたいに、現れては消え、消えては現れしているんだ。おそらく、黒い石板のほうも、そうやってさまよい、漂い続けていたんだろうけれど、ぼくらがヴァイオレットを案内してしまったんだ』
「なるほど… するとまた登山か…」
 安倍は、おかみがさっそく出してくれた鯨の料理をパクつきながら言った。
「遅くなってしまったが、今夜はしっかり食べて、ゆっくり休んでください。わしも、村のもんもできるだけの案内はさせてもらうよ」
「いいえ。これ以上ご迷惑をおかけすることはできません。上へ登れば登るほど本当に危険ですもの」 ブライディーもジャガイモ料理をおいしそうに頬張った。「…それに、黒い石板を奪った人々が、もう用済みだとばかりに、わたしたちを狙って襲ってくるかもしれません…」
「そうよそうよ」 ひもじい思いをしたのか、けさまで嫌々食べていたデイジーも、自分が食べられそうなものだけではあるものの、真剣に貪っていた。「…黒い石板も、ガラスの石板も『さまよう石板』なんだったら、お姉ちゃんのダウジングで探し当て、あたしの脱出呪文でみんなと一緒にこの村に引き下ろすしかないと思うわ」

 真夜中を過ぎても、カーテンを降ろしても淡く白い光が部屋を照らす中、ひどく疲れているというのにブライディーはなかなか寝つけなかった。
(…あまりにも大勢の、大きく凝り固まった恨みや、人を呪う気持ち、邪悪な念は、うっかり触ったり紐解いたりしてしまうと、多く…下手をすると全部自分にはねかえってしまうのでは? だから、黒い石板を手に入れてしまったヴァイオレット様も、電気についてほとんど知らない人が、強力な発電装置を手に入れたみたいに、「どうしたらいいか」「何に使ったらいいか」分らずに、使いあぐねていったん土の中に埋めているか、どこかに隠しておられるのではないかしら? …それだったらいいし、いつまでもいつまでもその状態が続いてくれればいいのに…)
 隣のベッドでは、安倍によって第二のカケラを捨てられてしまったデイジーが、グーグーといびきをかいて、さばさばした、安らかな表情で眠っていて、時々
「…いいもん、あたし、株とアパート経営で儲けるもの…」
 と言ったような寝言を呟いていた。
(安倍様もぐっすり眠っておいでなのでしょうね…) ブライディーはデイジーの毛布を掛け直してやりながら思った。(…あのかたもほとんどイライラクヨクヨなさらない、羨ましい性格のかたですものね)
 だが実際の安倍は、久しぶりに鯨の肉を食べ過ぎてもたれ、北氷洋を小舟で彷徨っているところを鯨の群れに襲われている悪夢にうなされていた。

 翌朝、デイジーはすがすがしい顔で、ブライディーは腫れぼったい目で、安倍は腹をさすりながら食卓についた。
「きょうはきのうよりも少し先まで案内させてもらうよ」
 亭主はばつが悪そうに言った。
「…その代り、無事に使命を果たされたら、村の者が無くしたものを探し出してやってくれないかね?」 おかみさんがおずおずと言った。「…みんなには、家庭内騒動が起きても、貴女に八つ当たりはしないように約束させたからさ」
「え、ええ。喜んで…」
「あのさ、言いにくいことなんだけどね」
 いつものようにブライディーや安倍が残したパンを包んで鞄に入れながら、デイジーがはおもむろに口を開いた。「…ハッキリ言って、石板がそこそこの重さと大きさだったら、『脱出の呪文』は、あたし自身と、石板と、あと一人…お姉ちゃん…に対してくらいが限界よ」
「分った。ぼくはご主人と一緒に途中で降りることにするよ」
 安倍は、ゆうべの残り物の鯨料理の皿を恨みがましそうな目でチラチラと眺めながら言った。

 亭主と安倍は、きのう登ったところよりも高いところまで一緒に付き合ってくれた。
 だが、煮えたぎった溶岩が、まるで赤い水たまりのように迫ってきたあたりまで来ると、すまなさそうに、振り返り振り返りしながら降りていった。
「さぁ、お姉ちゃん、頑張ってよ!」
『いよいよ、だな。…なぁに、無理をすることはないさ。きょうがだめなら明日、明日がだめならあさって、ということもある。溶岩流に飲み込まれて溶けちまったり、土石流に埋って石像になってしまうくらいだったらさっさと逃げ出せばいいんだ』
 ネイは上のほうの、より危険なあたりを見上げて言った。
「ネイ、あんたはモノを食べないからいいでしょうけれど、あたしはもう、あの鯨料理の臭いは勘弁して欲しいのよ。…お好きな様子だった安倍様も、けさはもう手を着けられなかったでしょう? お姉ちゃんも早くイギリスに帰って、食べ慣れたものを食べたいでしょう?」
「え、ええ…」
「きょうよ! きょうこそガラスか氷の石板を持ち帰って、おさらばさせていただくのよ! あのヴァイオレットという魔女も、ドイツだかオーストリアだかに帰って、ドイツの料理を食べているに違いないわ、いまいましい! まぁ、ドイツのお料理もそんなにおいしくはなかったけれどね…」
「あった!」
「あったわ!」
 黄金のダウジング棒が指す方向を見上げたネイとブライディーが同時に叫んだ。
 ガラスのようにも、氷のようにも、水晶のようにも見える石板は、山頂の火口より少し下がったところ、テニスコート反面くらいの窪地になった溶岩の池の中に、神々しい光を放ちながらスックと立っていた。
『早くしないと気まぐれな石板はまた場所を変えちまうぜ!』
 ネイがせき立てる。
「お姉ちゃん、『脱出の術』が使えるところまで、あたしをおんぶして行って!」
「えっ?」
「だって、溶岩に脚なんかつけたらたちまち溶けちゃうでしょう?」
「そ、それはわたしだって…」
「お姉ちゃんは大丈夫よ! 神様が守ってくださるもの。靴も脚も靴下も溶けないってば!」
『そうだ、たとえ溶けてとしても、溶け去る前にたどり着けるだろう。…そもそも、こんな溶岩は、侵入者を引き下がらせるための幻影に過ぎないことも多いんだ』
 ネイが他人事のように言った。
「そ、そんなものかしら…」

 デイジーをおぶったブライディーは恐る恐る、はき慣れた、もともとは「森歩き用」の靴で、溶岩の端っこに足を踏み出してみた。すると、靴の先がジューッと音を立てて溶け、あわてて足を引っ込めた。
 大切な靴の先が溶けて不様な姿になったことが悲しかった。
「だめじゃないの、お姉ちゃん、突撃しなくっちゃあ」
『なにビビっているんだよ!』
 デイジーもネイも言いたいことをまくし立てた。
「そんなことを言っても、やっぱり足が溶けてしまうわ!」
「だったらどうするのよ?」
「ガラスの、氷の碑は、いまは溶岩の真ん中に浮かんでいるわ。でも、ネイの話によると、日によって現れる場所を変えるらしいの」
『ああ、そうだよ。早くしないとここからも消え失せるだろう』
「…だから、白い石板が『ここ』を去り、次に現れるだろうところを占って、そこへ先回りするの。わたし、思うのだけれど、溶岩の流れはガラスの碑に誰一人近づけないようにするために、悪魔の命令に従って碑を追いかけてくるようになっているのじゃあないかしら?
 だから、『ここ』から消え去り、次に現れる場所に先回りすれば、そこにはまだ溶岩がないか少ないはずよ」
「えーっ! ということは、まだ歩くの?」
 デイジーはあからさまに嫌な顔をした。
「そんなこと言わずに。これで本当の本当に最後だから…」
 ブライディーはもう一度占って、先頭に立って歩き出した。

 その、灰色の泡だらけの火山岩に囲まれた窪地に着いた時には、また長い白夜が迫りかけていた。
「あの石板、今度はここに現れるのね?」
 デイジーは半ば疑いながらも、いままでの実績から信じざるを得ない、といった顔で、小さな擂り鉢の底を見つめ続けていた。
『見ろよ、現れた!』
 ネイが叫ぶのと同時に、火山砂がサラサラと底めがけて流れだしたかと思うと、底に透明の角が現れた。
「間違いない、急ぎましょう!」
 今度はブライディーがデイジーの手を千切れるくらいに引っ張って蟻地獄の斜面を駆け下りた。
「痛い! お姉ちゃん、痛いよ!」
 少しスピードを落し、回りを見渡すと、なるほど、瘴気の湯気を立てた、煮立ったトマトソースのような溶岩が、回りから小さな滝となって流れ落ちてきた。
「デイジー、万一貴女が脱出に失敗したら、わたしたち二人とも溶けちゃうよ」
 今度はブライディーが脅かした。
 底に着いた時には、碑はまた、全体の姿を現していた。
 間近で見た二人は驚いた。
 白いところもあり、透明なところもある、ドアくらいの大きさの石板は、触ると冷たい氷で出来ていた。
「嘘でしょう! どうして何度も溶岩の中を浮かんだり沈んだりしているというのに溶けてしまわないの?」
 デイジーは透明な表面に刻まれた文字の列の合間に顔を映して言った。
『感心している場合じゃないだろう!』
 ネイが羽根で示す先、溶岩が目の前に迫っていた。
「分ったわ! お姉ちゃん、行くわよ!」
 両手で大きく弧を描くと、石板も、ブライディーも、そして自分も吸い込まれた。
 次の瞬間、溶岩が底に雪崩落ちてきた。

 石板を携えた二人は、麓の宿屋の前に姿を現した。
 そこには安倍薫が、いまかいまかと首を長くして待ち続けていた。
「ついにやったんだな、ブライディー、デイジー!」
「ええ、何とか…」
 二人は荒い息を整える。
 騒ぎを聞きつけて亭主とおかみも飛び出てきた。
「…驚いたな。『白い石板』は氷でできていたのか! あんなホカホカする火山の火口付近にあったと言うのに溶けなかったのが不思議だな…」
 眺めていた安倍の目の前で、氷の碑は幾筋ものしずくを垂らしながら溶け始めていた。「…だが、ここでは溶け始めているぞ!」
「えっ?」
 ブライディーもデイジーも顔色を変えた。「いまは夏。もしこれが氷でできているのなら溶けてしまいますぞ」
 亭主が言った。
「それもそうだし、そんなのじゃあとても『これ』をお借りしてロンドンまで持って帰ることはできない」
「どうしましょう!」
 うろたえる一同の前で、碑の文字は次第にぼやけ、輪郭を失っていった。

「春秋冬なら、溶けないのだが…」
 亭主の顔から血の気が引いた。
「とりあえず…」 安倍薫は傍らに置いてあった鞄から、拓本用の墨汁と和紙、それにバランを取りだし、太い筆を配った。
「みんな、手伝ってくれ!」
 ブライディーもデイジーも、亭主もおかみも、安倍自身も必死で氷の石板の表面に塗った。
 安倍はメイドさんたちに和紙の上下左右の端を持たせて氷の石板にピッタリとはりつけさせた。
「よしっ、これで拓本は取れたと思う…」
 いったんは微笑んだ安倍だったが、和紙を引きはがすと、何故か文字は読みとれないくらいににじんでいた。おまけに、いかなる魔法か、じっとりと濡れた和紙は青白い、触れても熱くない炎をメラメラと上げて燃え上がり、一つまみの灰になってしまった。
「写真機だ! ブライディーにデイジー、写真機を組み立てるのを手伝ってくれ!」
「はい!」
 二人は、一番大きな旅行鞄の中から最新式の写真機を取りだして手早く組み立てた。
 ところがその頃にはもう、氷の石板に刻まれた文章は、もう識別ができないほどに溶け出していた。
 それでも安倍はマグネシウムを炊いて、シャッターを切る紐を引っ張った。途端にマグネシウムは大爆発を起こし、安倍は後ろに吹っ飛んだ。
「安倍様!」
「安倍様、大丈夫ですか?」
 ブライディーとデイジーが駈け寄ると、安倍は顔を真っ黒にさせながらも目を覚ました。
「…おかしい、分量は正しかったはずなのに…」
 それほどの衝撃ではなかったはずなのに、氷の石板は粉々に砕けてしまい、無数のかけらも急速に溶けて水に戻りつつあった。
「やっぱりあんたらは疫病神だ!」 亭主の顔色がさらにどす黒くなった。「…これで、黒い石板の邪気を封じるための手段が分らなくなった!」
「待ってください! 氷の石板がこれ一枚だったという根拠はどこにもないはずです。真に大切なものだったら、どこかに予備があっても不思議ではないはずです!」
 安倍は懸命に弁明したが、再び一同に銃口が向けられた。
「…やっぱりわしらの勘は正しかったんだ。 確かにあんたらは悪人ではないかもしれん。だが、わしらの平和と平安をかき乱すとんでもない連中だ!」
「おっしゃることはごもっともです! お邪魔致しました!」
 三人は深々と頭を下げて詫びると、今度もまた一目散に逃げ出した。
「…さすがにこんなことは予想外の出来事で仕方がない」
 また岩陰に身を潜めながら、安倍はポツリと呟いた。
「またわたしが悪いんです。氷の板を麓に持って降りたりなどしたら溶けるかもしれないことに気がつくべきでした」
 ブライディーはしゃくり上げた。
「…でも、確かに溶岩がボコボコと泡立っている真ん中に立っていたんだから、少々のことでは溶け出さないと思うわよね、誰でも…」
 デイジーも珍しく責めなかった。
『やれやれ、黒い石板のカケラを捨てれば、運が上向くはずじゃあなかったのかい?』
 ネイが余計なことを言った。
「そうよ! あたしはそんなふうに聞いたから、捨てられたしまっても怒らなかったのよ!」
「ちょっと待ってくれ。ここはブライディーさんに、もう一つ、同じ氷の石板がないか占ってもらおう。それでもしあるようなら、明日もう一回アプローチしてもらって、今度は持ち帰るのではなしに、拓本を取って引揚げることにしよう。石板を持って帰らなくてもいい…脱出の際、重くないだろうからぼくも同行するよ」
「いま、占ってみますか?」
 ブライディーがダウジングの棒を取りだした。
「ああ、きっとあると思うよ。それが分ればぼくがもう一度、宿屋に戻って土下座しててでももう一泊泊めてもらえるように交渉してくるよ。
 ブライディーは薄く目を閉じ、心を平静に保って占った。
「…残念ですけど、もうありません…」
「何だって!」
「…わたくしたちが先ほど持ち帰ったのが、唯一無二の氷の…白い石板だったようです」
「あーあ、ダメよダメダメ、今度こそ本当に完全に失敗したわ」
 デイジーは手のひらで顔を覆い、大の字になって倒れた。
「…やむを得ない、方便を述べよう。ブライディーさん、嘘をつかせて悪いが氷の石板はもう一枚あることにしてくれ。ぼくは『ということで』と、亭主に…」
『いい加減にしろよ、安倍』 ネイが苦笑いしながら羽ばたいた。『…それこそ「無駄あがき」というやつじゃあないのかい?』
「そうよ、泊まらせてもらっているうちに、いい智恵を思いつかなかったらどうするつもりなのよ?」
「じゃあまた歩き出すのかい? 今度という今度こそ凍死するかもしれないよ」
 肩をすくめながら安倍は、宿へと戻っていった。

 結局、三人は嘘…ならぬ「方便」を使ってその夜も宿のベッドで過ごした。
 長い夜がますます長く、白夜の光も責めるように明るさを増した。
「お願いだ。白い石板の拓本が取れたら、ぜひ写しを一枚頂きたい」
 亭主は、またまた疑いの色を浮かべながらも、そう頼んだ。
「ええ、もちろんですとも! ないと困ることになるかもしれませんからね」
 安倍薫は、腹具合が治ったのだろうか、また鯨肉の料理をばくつきながら笑顔で言った。(いったい安倍様はどうされるおつもりなのでしょうか? たった一つしかない氷の碑は、もう溶け去って無くなり、拓本を取ることもできなかったというのに…)
 ブライディーはなかなか食事が進まなかった。
「大丈夫だよ、お姉ちゃん。安倍様にはきっといいお考えがあるんだよ」 デイジーはまるでヤケになったように、最初はあまり好きそうではなかった料理を片っ端から平らげていた。

 翌朝、出発の準備でばたばたしている時、安倍はブライディーにこっそりと小さく折りたたんだ紙切れを渡して囁いた。
「…いつものようにダウジングで占うフリをして。そして「この場所」を探し当てたことにしてください」
「えっ? それはどういう意味ですか?」
「シッ! とにかくこれまでのように、ぼくらをその場所に導いてくれれぱいいんです。 位置というか、場所を覚えたら、その紙切れはマッチで燃やしてね」
「えっ? えっ?」
「お姉ちゃんって察しが悪いね。あたしたち三人、これからお芝居をするんだよ」
 大声で叫び掛けたために、安倍はあわててデイジーの口を押さえた。
 ブライディーはいつもよりも真剣に、黄金のダウジング棒を見つめ、祈りを込めているふりをした。棒はそのままではまったく動かなかったが、古代人の火起こし棒のようにソッと両手のひらをすり動かして、いつものように勝手に動いているように見せかけた。
「こちらです…」
「こっちのほうだと思います…」
 ネイが振り返ると、宿の亭主やおかみ、ルーテル教会の牧師や、村の住民と思しき人々が、自分たちは岩陰に身を潜めているつもりで、ぞろぞろとついてきていた。
『なるほど… あいつらもとうとう尾行してきたか。そりゃそうだろうな。いままでさんざん雲をつかむような話に振り回されてきたんだからな…』
 地図に書かれていた場所は、溶岩流などはほとんどない、比較的安全な区域だった。
 しばらく歩いて登っているうちに、白い石灰岩のような、ドアくらいの大きさの石板が目に入った。
「あっ! あれは何だ?」
 安倍がわざとらしい声で叫んで指さし、駆け出した。
「白い石板よ! 二つ目を見つけたんだわ!」
 デイジーも大根子役の棒読みの台詞のような声を出して後を追った。
「やった! 失敗を取り戻したぞ! 有難うブライディーさん!」
 まわりに溶岩があるわけではない、至極安全な場所にその石板は立っていた。刻まれている文字は、黒い石板のものと似ていたが、適当に真似をしただけのものであることが見て取れた。
「お姉ちゃん、もっと嬉しそうな顔をしないとバレちゃうよ!」
「えっ、ええ… やりましたわ! これで黒い石板が、いつどの場所に姿を現しても安心ですわ!」
「さっそく拓本を取ろう!」
「地上に降ろそうとすると溶けてしまうんですものね」
 三人で素早く墨を塗りつけ、和紙を押し当てて拓本を二部取った。
 ネイが少し高いところから眺めると、村の人々は晴れ晴れとした様子で、お互いに手を取り合って喜んでいた。
「安倍様、昨夜一晩で作られたのですか? 手早いですね」 デイジーが囁く。
「何を言うんだデイジー、この石板は、碑は、人類が誕生するはるか以前から、恐竜が闊歩していた時代からずーっとこの地にあったんだよ。悠久何億年、何十億年、ずっとこの地にあって、栄枯盛衰を見守ってきたのだ。
 デイジーが両手の指でつまむようにすると、簡単に表面が削れて粉や小さなカケラがハラハラと風に舞った。
「何十億年もこの地に立っている割りにはもろいわね」
 さらに爪を立てようとするデイジーを安倍が睨みつけた。
「壊しちゃだめ」
「でもこれね簡単に傷つくし、たぶんちょっと触ったりしたら崩れ去るのでは?」
「いまから、昨夜やる時間がなかったことをするのだけれど、人々にはとりあえず『我々は魔術の心得があるので構わないが、普通の人々は決して近寄ってはいけない』とでも言っておくよ」
「それでも近づく人は出てくるよ。バレるのは時間の問題だよ。安倍様はあたしたちが麓の村を去るまで保てばいい、と?」
「いいや」 安倍は困惑した表情で自作の偽物を仰ぎ見た。「…それこそ何とかして、半永久的に保たせなければだめだ。何しろ本物は、ぼくらが無理矢理引きずり降ろして溶かしてしまったんだからね」

 安倍薫は、ブライディーたちが見たことがないくらい真剣な顔をして、聞き慣れない言葉の、東洋の呪文を唱えた。
 五分…十分… 呪文は延々と続き、ブライディーは固唾を呑んで立ちつくしていたものの、デイジーのほうは退屈して貧乏ゆすりをし始めた。
 岩陰に身を潜めて遠巻きに眺めていた村人たちも、互いに顔を見合わせながら、
「おい、安倍様は何をしているんだ?」とか「拓本を取ったことでバチが当らないようにするお祓いの呪文じゃないか?」 などと囁き合っていた。
 呪文は二十分くらいたった頃にようやく終った。
 溶岩が流れてきて、白い石板の下の部分を浸しだしたたが、『偽物で作り物』であるはずの石板は溶けることがなかった。
「おお、やっぱりあの人たちの言うとおりだった!」
「本物の白い石板は、溶岩の中でも溶けない!」
「疑った我々が悪かった!」
 宿の亭主やおかみや、ルーテル教会の牧師たちは感心することしきりだった。
『すごいな! やっぱり安倍はただの役立たずの日本人じゃなくて、魔導師だったんだ』 ネイは目玉がこぼれるほど見開いていた。
「あまりおだてたら、その気になってしまうよ」 安倍は片目をつむる。「できるだけのことはやったが、果していつまで保つか…
 今夜か、明日か、それとも一年後、二年後、半永久に保ってくれるか…」
「安倍様、自信をお持ちになって!」
 デイジーは安倍の背中をドンと叩いた。

 村人のなかの一人、目つきのよくない男が、自分の家に帰ってから暗号で薄い紙片に短い手紙を書き、伝書鳩の筒に入れて飛ばした。

「ヴァイオレット様。

 ヴァイオレット様が仰った通り、ブライディーと安倍たちは愚かにも『氷の碑』を術で麓に降ろしてしまい、溶かして消滅させてしまいました。ざまをみろ、です。
 ところが連中は、唯一無二であるはずの『氷の碑』は複数ある、と苦し紛れのでまかせをぬかし、きょう探しに行きました。
 で、見つけた『氷の碑』…白い石板は、なぜか溶岩に浸されても溶けないのです。安倍のチャチな術だとは思うのですが、『どのような些細なことでも報告するように』とのご指示の通り、一寸お知らせ申し上げます」

 その夜、白い夜が赤く煮えたぎった飴のような溶岩を照らす中、菫色のドレスを翻らせた魔女が、安倍がでっちあげた偽物の「白い石板」を見下ろすように立っていた。
 ヴァイオレットが指をパチンと鳴らすと、石板はズブズブと溶岩の中に溶けながら沈んで、最後にはセッケンのそれのように泡だけを残して溶け去ってしまった。
「…自分たちの信用を守りたいがために、姑息な手段を! ブライディー、貴女は頼りない仲間たちにもみくちゃにされて、落ちるところまで落ちたわね。それとも、まだまだこれから落ちていくところなのかしら?」
 ヴァイオレットは嘲笑うように唇を歪めた。「…やれやれ、とんだ無駄足だったけれど、あの子たちを莫迦にすることができて楽しかったわ!」
 再びドレスの裾を翻らせた魔女は、雪と氷の結晶を撒き散らしながらかき消えた。

 ヴァイオレットは、アイスランドからはそう遠くない、北極の氷の城に、あたかも雪の女王を気取って、ただ一人で住んでいた。
 雪の女王と違う点は、ドレスの色が菫色だ、ということだけだった。それはまるで、冷酷非情な中にも、何か「元の優しかった自分に戻りたい」と心の底で願っているかのような、白一色の世界で淡い光を放っていた。
 彼女が奪い取った『黒い石板』…『呪い石・恨み石・祟り石』は、氷の台座の上に乗せられて、もくもくと黒い瘴気を発し続けていた。
「…戦争よ起れ! 戦争よ起れ! たくさんの人間が死ぬがいい!
 いままでの、人の長い歴史の中で、苦しみながら死んでいった人間たちの怨念が、いま生きている人間の心に覆い被さり、浸食しますように!
 死者が生者を、怨霊がごく普通の平凡な魂たちを欲望に染め上げて、狂わせますように!
 そして、言われのない迫害の中、虫けらのように殺戮されていった無辜の民の慟哭と喘ぎが、宇宙と同じ大きさの無念の思いが、いまこそ道連れを求めて、のほほんと暮らしている愚か者たちから、平和と安息を奪い取りますように!」
「ヴァイオレット様、貴女は世界を滅ぼして、最後に自分一人になられたら、その後一体どうするおつもりなのですか?」
 凛としたが響いた。
 安倍も、デイジーも、ネイもいた。どうやらデイジーの瞬間移動の術で乗り込んできたらしい。
「ご案内、どうも有難うございます」
 安倍がいつもと変わらないも一見ボーッとした緊張感のない表情で言った。

「おまえたち、尾けてきたというのか、このわたしを!」 ヴァイオレットは青白い顔を真っ赤にした。「…わたしとしたことが、不覚な… …そうか、そこの小娘の瞬間移動の術だな? 確か一日一回が限度のはずだな。ここを引き払ってやろうか」
 そう思いかけた魔女の目に、奪ってきた黒い石板が映った。
(…いかにわたしの魔力が強大でも、『あれ』を守り運びながらこいつらの相手をするのは難しいな…)
「お願いします、ヴァイオレット様」
 三人の中から歩み出たブライディーが、氷のきざはしに片膝をつき、両手を組んで懇願した。
「どうして、どうしてそんなにまでして大きな戦争を起したがっておられるのですか? 貴女様のご実家は兵器の製造にも携わっておられませんし、国際政治にもほとんど御無縁のお家柄ではありませんか? お姉様のオクタヴィア様も非常に心配しておられます。どうか邪悪な研究には見切りをつけられて、ロンドンにお帰りくださいませ」
「もしも『どうしても』という理由があるのだったら、その理由が知りたいわ」
 デイジーも鼻息を荒くしてまくしたて、安倍も「うんうん」と頷いた。
「お黙り! たかがメイドや市民の分際で、わたくしに意見をするのですか?」
「では、『英国心霊研究協会』の、貴女様よりご身分の高い貴族のかたをお連れしてくれば聞いていただけるのですか?」
「聞きません! …しかし、こうなったものいい機会。この際わたくしの…わたくしたちの目的をお話ししてあげましょう。冥土の土産にね…」

「わたくしの家の遠い先祖は、イングランド人ではなく、フランス人…それも南仏の出身です。…そう、あなたがたが『清浄派…カタリ派』と呼び、異端者として王国の信者のほぼ全員が、ヴァチカンと、それに与する国の軍隊『アルビジョワ十字軍』によって滅ぼされた王家の末裔なのです」

「だからそんな大昔の恨みはもう…」
 安倍が口をはさんだ。

「大昔のことということで済ませられることではありません。対立した教義も、わたしたちのほうが正しいと信じています。…そう、この世が悲しみや苦しみに充ち満ちているのは、世界は神が創世したのではなく、その時は筆頭の天使で神の代理をしていた悪魔が作ったからです。悪魔が作った人間が欲望に満ち、不完全なのは当たり前で、監督責任があったはずの神が頬被りを決め込むのは許せません。よって、わたしたちが選ばれた真の正しい者のみを残し、後の者たちはすべて滅ぼすことにしました。それには戦争が一番手っ取り早い…」
『そんな無茶苦茶な! 要するにおまえとおまえの仲間だけが生き残る、という話じゃないか!』
 ネイが叫んだ。
「そうよ。それのどこが悪いの? わたしたちの先祖は八百年前、異端者の汚名を着せられて皆殺しにされた。そして、異端者という呼称は常に少数派にあてられてきたことをお忘れなく。わたしたちはいまだに少数派で異端者。でも、その少数派の異端者たちが強力な呪術を持った時、反撃が開始されるのよ」

「ブライディーさん、ぼく何だか怖くなってきました。この人とこれ以上お話ししても無駄なのでは?」
 安倍薫が声をひそめて言った。
「…でも …でも、ドイル様が常々『暴力はよくない。問題は話し合いで解決しなければ』とおっしゃって…」
「でも相手が問答無用の人だったら仕方ないじゃない、お姉ちゃん?」
「そこの! 人が話をしている時は行儀よく聞きなさい! これだから下々の者は困ります!」
『デイジー、君はきょう、一日一回限りの術を使ってしまっている。だから、おとなしくしていたほうがいいんじゃない?』
 ネイが囁く。
「んなこと言っても、お姉ちゃんはもともと占いしかできないし、ヴァイオレット様と互角に渡り合えるのは安倍様とネイ、あなたたちだけよ」
「ぼくはまったく自信がない」
 安倍はポツリと言った。
「なんですって?」
 デイジーの顔色が変った。
「だから『戦ったら、ぼくら全員むごたらしく殺されちゃうだろう』ってこと…」
「あわわ…」
「でしょう? だから一生懸命考えを改めてもらうように…」
 ブライディーが言った。
「しかし、絶対悪に屈服して機嫌を取る、というのも気が引けるな」
『安倍、おまえ一体どういう考えなんだ?』

「わたしたちが、多数派によって滅ぼされた理由はもう一つあります」
 ヴァイオレットは力を込めて言った。

「…それは、八百年前に、南仏のアルビジョワ地方、モンセギュールの城で、魔術か錬金術の研究をしていたわたしたちの先達が、結核や癌、心臓病、高血圧など、こんにちでも治すことが難しいとされている病気の数々を治す方法、または薬を発見していたらしい、ということです。
 清浄派以外の権力者や大金持ちで不治の病におかされた者は、いくらお金を積んでもいいからと、治療を依頼してきました。
 ところがその魔導師…ご存じの通り清浄派では『完徳者』と言うのですが…は、断り続けました。
 一説によると、その薬が大変希少なものを原料にしていて、いくら治して差し上げたくても、いくらお金を積まれてもできなかった、と言われています。…もっともな理由です。(ならば…) とばかり、多数派の宗派の権力者たちは『それは我々で探すから教えろ。無論、タダでとは言わない』と言ってきました。
 しかし完徳者はこれも断ったのです。
 たぶん、その薬の『希少な原料』を巡って血で血を洗ういくさが起きてしまう、と考えたからでしょう。
 カンカンに怒った多数派宗派の偉い人々は、ついに軍隊を派遣し、後はあなたがたの知っている通りです。
 その完徳者は、民衆と運命を共にして自害したと伝えられています。
 清浄派の人々の中には『あいつらが殺し合いをするのは勝手だから、方法を教えてやったらいい』と言う者もありました。けれどもそれはできなかったのです。
 もし教えなければ、滅びる…滅ぼされるのは清浄派だけ。しかし一度教えれば、確実に欲に狂った人類が、文字通り最後の一人になるまで殺し合いを続けるのは目に見えている。それも支配者たちの命令によって、一般の人々は気が進まないままに戦争に巻き込まれていく…」

「うーん、その万病に効くと言う、または不老不死のお薬の原料は、本当に一人前かそこらしかないものなんだ」
 デイジーは一人、納得したように頷き続けていた。

「…この黒い石板は、多分そんな我等の思いに似た太古の人々の呪いと恨みの結晶。いまこそその思いを解き放ち、粛清を開始しようとするのが何故悪い?」

「悪いです!」 ブライディーが叫んだ。
「…筆頭熾天使のルシファーは『あたかも神のように振る舞う』という傲慢の罪を犯して地獄に墜とされて大悪魔になった、と言います。ヴァイオレット様、あなた様とお仲間がやろうとしておられることは、それと同じことだと思います」
「何とでもお言いなさい。もう皆で決心したことです」

「安倍様にネイ、お願いします! こうなった時のためにはるばるロンドンから一緒に来て下さったのでしょう?」
 デイジーはそれぞれの手で安倍の防寒コートの裾と、ネイの片方の羽根を引っ張った。
「いや、遠慮しておこう」 安倍は歩幅は小さいものの一歩一歩、後じさった。「…ぼくも自分で自分のことを『弱くはない』と思っているけれど、ヴァイオレットさんにはかなわないよ。…ましてや彼女はいま、黒い石板の力を利用できるんだ。とてもじゃないけれどかないっこないよ」
「そこの東洋人、なかなか頭がいいですね」 ヴァイオレットは、他の者たちが寒さで凍えそうになる中、扇子を取りだしてはたはたとあおいだ。「…でも、そこのちっちゃい子の瞬間移動の術は一日に一回が限度。ここにはもちろんお客様に泊まって頂く部屋もありますけれど、さすがに招かざる客は…」
「すみませんでした。歩いて帰ります」
 作り笑いを浮かべながら玄関の重々しい扉を開けた安倍だったが、どっと吹き付けたブリザードに当って、一瞬のうちに凍りついてしまった。
「安倍様!」
 ブライディーとデイジーは顔色を失った。「あらあら、お気の毒に…」
『おいらは飛んで帰るぞ! おいらは人間じゃあないんだ。凍り付いたりしないぞ』
 決意も空しく、ネイもカチカチに固まってゴトンと床に落ちた。
「まぁ、かなわないまでも華々しく戦って破れるのならともかく、ぶざまなことですこと…」
 魔女は扇を広げて口元を覆った。
「覚えてなさいよ! あたし、この屋敷に隠れ潜んで、明日になったら星の彼方に吹き飛ばしてあげるから!」
 デイジーは安倍たちとは逆に、氷の屋敷の奥へと続いている廊下を駆け出した。
「ずいぶんと威勢のいい子ですこと! 貴女は侮れないかもしれませんね。…では、宇宙に飛ばされてしまわないように、先手を打たせてもらって、貴女に飛んでいってもらうことにしましょう…」
 ヴァイオレットは扇子で空間に弧を描き、それを投げつけられたデイジーは、ぐにゃりと歪んでその中に吸い込まれ、溺れるような仕草で飲み込まれ消えた。
「デイジー!」
「オホホ… 他愛ないというか、口ほどにもないと言うか… さてブライディー、貴女はどうするの?」

「お願いします。ヴァイオレット様!」 ブライディーはいま一度ひざまづいて懇願した。
「…そんな遠い過去の恨みはほとんどの人がが忘れていることです。昔の数々の戦争のことも忘れても良い、とは申しませんが、そう再々人々の日常生活に入り込んでくることではありません。
 不老不死、万病に効くお薬のことについても、先ほども申しましたが、自分一人が生き残っても楽しいはずがありません。また、失礼ですが、貴女か貴女のお仲間が首尾良く手に入れられたとして、そこでまた奪い合いが起きないでしょうか?」
「それは言えているかも知れませんわ」 ヴァイオレットは玉座と思しき氷の椅子に座って頬杖をついた。「…率直に言って、おまえたちがわたくしの仲間の何人かを倒したことについては、実のところ密かに喜び、感謝しています。志を同じくする者たちとは言え、みなライヴァルですからね」
「…何ということを、仲間でお友達ではないのですか?」
 答えは返ってこなかった代りに、魔女はしばらく思案してから改めて言った。
「どうでしょう、ブライディーさん。貴女には特別な才能がおありになるようですから、わたくしたちに与してみませんか?」
「嫌です。そんな友を友とも思わぬ集まりになど…」
「…とりあえず、わたくしが望んでいる大きな世界を巻き込んでの戦争が、この先十年、二十年、三十年先に起きるかどうか、占って下さったら、いま、哀れにも氷付けになっている貴女の仲間を一人、助けて差し上げましょう」
 再びキッパリと断ろうとしたブライディーだったが、消え去ってしまったデイジーが、この世とあの世の境目で助けを求めている様子が脳裏に浮かんだ。
「オホホ… 友達とか仲間とか、結構負担になるものですわね!」
 メイドさんは仕方なくコートのポケットに入れて持ってきた「ケルトの神々」のカードを取りだして、氷の椅子に腰掛け、氷のテーブルにカードを並べ始めた。
 占いは『いまから十数年先にヨーロッパで大きな戦争が起きる。そして三十数年先には世界を巻き込む大戦が起る』と出た。
 ブライディーは気分が悪くなってきた。身体じゅうが急に冷えてブルブルと震え、それはすぐに悪寒に代り、吐き気がこみ上げてきた。
 最初、「わたしたちが生きているあいだに大きな戦争は起きません。残念でしたわね」と嘘をつこうと考えた。
(でもそんなことをすると、ヴァイオレット様たちはますますひどい方法を画策されるかもしれない…)
 仕方なく、占いの通りのことを語った。
 ヴァイオレットは何も言わず、ゆっくりニヤリと頬を引きつらせた。
「約束です。デイジーを呼び戻してください!」
「そうでしたですね」
 魔女は片腕で虚空を大きくなで上げる仕草をした。すると何もないところからデイジーが現れて氷の床に崩れ倒れた。
「デイジー、大丈夫? デイジー?」
 ブライディーは駈け寄って抱き起こした。
 ヴァイオレットは氷の天蓋を見上げて独り言のように呟いた。
「ああ、わたしたちの未来は明るいわ…」

「お姉ちゃん、寒いよぅ…」
 案外近くの氷の中にでも閉じこめられていたのだろうか、それが溶けてびしょ濡れになったデイジーはガタガタと震えた。
「お願いします、デイジーの服を乾かして、炎か何か暖まるものを出してください!」
「おやおや、二つ目のお願いと受取っていいのかしら? だったらわたくしも第二の質問をしますよ」
「何でもいいから早く言って下さい!」
 ブライディーは、しがみついてきたデイジーを両手で抱えるように抱きしめながら叫んだ。
「…この、太古の人々が自分たちの運命を呪い、恨んだという黒い石板に刻まれた文字ですが、わたくしの魔力をもってしてもサッパリ読めません。読む方法かどこかに読み解くためのヒントになるようなものが残されていないか、占って頂けませんか?」
「先にデイジーを!」
「いいでしょう」
 魔女がどこからともなく取りだした指揮者の指揮棒のような杖を一振りすると、デイジーの服はたちまち乾き、目の前に大きな焚き火が現れて赤い炎がパチパチとはぜた。
(次は安倍様もお助けしなければ)と思ったメイドさんは懸命にカードを並べて占った。が、開かれたカードたちは縦、横、斜め、どのように読み解こうとしてもまったく意味をなさなかった。
「なるほど、貴女の力をもってしても占えないものというものもあるのですね」
 魔女は軽い失望の色を浮かべた。
 そんなことをしているうちに、第二の願いで出してもらった焚き火の熱が、凍り付いて床に落下したままのネイを少しずつ溶かし始めた。が、ヴァイオレットはそんなことは気にしていなかった。歯牙にもかけていなかったのだ。
 デイジーはネイの溶けてつかめるようになった尻尾をつかんで焚き火の中に放り込んだ。「アッチッチ!」
 ヴァイオレットもブライディーもあっけに取られた。ネイは羽根のところどころに氷を残しながらも、安倍に向かって呪文を掛けた。
「安倍の氷よ、溶けろ!」
 途端に安倍を氷漬けにしていた氷は一瞬にしてきれいに蒸発した。
「ええい、雑魚が何をするのですか!」
 魔女は再びネイをカチンカチンに凍らせた。 が、今度は安倍薫が自由を得ていた。
 その時、ブライディーは閃いた。
「…安倍様、わたし、分りました! わたしたちは勘違いをしていたんです。『いにしえの勇者たちは、黒い石板を北の国の火山の火口に捨てに行った』と… 単に捨てに行けばいいのなら、イタリアのヴェスヴィオス火山でもシチリアのエトナ火山でも、あるいは日本の火山でもどこでもいいはずです。
『それがどうしてわざわざアイスランドの火山に?』という点に、この黒い石板を読み解く秘密が隠されているんです!」
「なんだって!」
「何ですって!」
 一同の血相が変った。

「…この黒い石板のほうは、白い石板…氷の石板と違って、保管場所はどこでもいいんです。それは、カケラを削り取ってケンブリッジ大学に持ってきても、某男爵様のお屋敷に持ってきても消え去らず、売買の対象になっていることからも分ります」
「どういう訳なんだ、ブライディー? 捨てにきたんじゃあないって?」
「そうよお姉ちゃん、こんな重たいものをなんのためにアイスランドなんかに?」
『分らない… おいら皆目分らない…』
 安倍薫も、デイジーも、安倍によって再び溶かしてもらったネイも色めき立った。
「安倍様、どうか黒い石板の下で炎を燃やして下さい!」
「やってみよう!」
 安倍が短い呪文を唱えると、氷の台座の上に置かれた黒い石板の下からメラメラと炎が燃え上がった。
「オホホ、愚かな… 火山の溶岩でも溶けない『呪い石、恨み石、祟り石』が、魔法の炎でも溶けるはずがありませんわ!」
「ネイ、お願い! この真上の天井を突き破って!」
『お安い御用だ!』
 矢のように急上昇したネイは氷の天蓋に頭から体当たりした。バラバラと氷の破片が落ちてきた。
 が、ヴァイオレットは見えない防壁の傘をかざして破片をすべて弾き落とした。
 安倍も同じ呪文を唱えようとしたものの間に合わず、氷はデイジーと安倍の頭上に降り注いだ。
「もぅ、ネイったら何をするのよ!」
 二人は顔を両手でかばいながら逃げまどった。
「さて、ヴァイオレット様。ヴァイオレット様は北極圏特有のオーロラを、出現させることができますか?」
 ブライディーは居住まいを正して言った。
「できます」 魔女はしばし迷ってから言った。「…ほとんどすべての魔力を費やさねばならないでしょうけれど…」
「アイスランドや北極でも、オーロラは非常に珍しいものだと聞いています。わたしたちもイングランドからやってきて数日たちますが、いまだに見ていません」

「オーロラって、あの絵はがきの?」
 デイジーが安倍に尋ねた。
「そう。北の果ての国でも滅多に見られない、白夜に降りてくる七色の光のカーテンだよ。クルックス博士に訊いたら、どうしてそんなものが現れるのか教えてくれると思うよ」
「そんなきれいなものが見れるんですか?」
「砂漠の蜃気楼のように、滅多に見られない類い希な自然現象だよ。見られた人は大変幸運だ。旅行者で見ることは難しい」

「ヴァイオレット様、どうかオーロラの光で、この黒い石板を照らしてご覧あそばせ」
「何?」
 魔女はしばらくためらっていたが、やがてまた奇怪な呪文を唱え始めた。
 すると、ネイが開けた屋根の上の白い空に、七色の光の粒が降りてきて、それらは次第に空にかかる巨大な舞台の幕を形作った。

「きれい…」
 デイジーは思わずオーロラを見上げたまま感じ入っていた。
「この地に住んでいると、鯨を食べられるだけじゃあなくて、こんなものも見られるのか」
 安倍もまた、驚嘆した。
『魔女も、こういうことにだけ魔法を使ってくれていたらいいのにな』
 ネイもつぶやいた。

 降りてきた光の粒子が、黒い石板にかかると、不思議なことが起きた。どうしても読むことがかなわなかった碑文が、まるでミミズのようにのたくって変化し、魔導師には見慣れた普通のルーン文字に変った。

「そう、そうだったの… 有難う、ブライディー… 御礼を申し上げるわ…」
 ヴァイオレットは石板に抱きつくようにして、貪るように読んだ。
「凄いわ! さっき話していた不老不死の薬の調剤法が書いてあるわ! この通りに作ることが出来れば、永遠の命が得られるわ!」

「お姉ちゃんって莫迦じゃない!」
『ブライディーの莫迦! 強敵にどうしてそんなものを教えてやるんだよ!』
 デイジーとネイはメイドさんの胸を叩いてなじった。
「二人とも、心配ない。見ろ!」

 碑文を読んでいたヴァイオレットが突然両目を激しく掻き始めた。
「痛い! 痛い! 目が痛い!」
 魔女の両眼と顔はバターのようにドロドロに溶け出していた。
「…おのれ、計ったな!」
 ヴァイオレットは顔を掻きむしり苦しみもだえながら、最後の力を振り絞って次元の隙間に消え去った。
 オーロラが消えると、黒い石板の文字は元の解読不能のものに戻った。
「そう… 勇者たちがわざわざ遠いところを運んできたのは、捨てるためではなくて、読むためだったんです」 メイドさんはしみじみと言った。

「…そんなわけで、また大変な目に遭ったのですけれど、何とか黒い石板は、ヴァイオレット様の手に渡さずに済んだようです…」
 十数日後、懐かしい「英国心霊研究協会」に帰ってきたブライディーは、フィオナ・ウォーターフォードと、シスター・セアラにアイスランドでの出来事を報告した。
「そうですか、大変でしたね」 フィオナは自分も何か言いたげな表情だった。「…ヴァイオレット様がそんなふうになっていることをお伝えしたら、お姉様のオクタヴィア様はさぞかしお悲しみになられるでしょうね。時にその…ヴァイオレット様はお亡くなりになられたのでしょうか?」
「いいえ、たぶん生きていらっしゃると思います。あれくらいのことでは…」
「でしたらブライディー、貴女が危ないのではありませんか?」 シスターは顔を曇らせた。「自業自得なのに逆恨みして、自ら、あるいは人に頼んで復讐しようと思い立つのでは?」
「大丈夫です。このお屋敷にいる限り、皆さんが守って下さると思います」
 メイドさんは明るく言った。
「あの、セアラ様…」
 フィオナはずいぶん長いあいだためらった末、懐から絹のハンカチで包んだ握り拳大のものを取りだした。
「何も言わなくていいのですよ」 シスターは包みをバッグにしまった。「…お金はさるおかたが、父上の男爵様に融資という形でお貸しします。ケンブリッジ大学にはレプリカを戻しておきます。すべてわたくしに任せてください」
 気丈なはずのフィオナの両目に涙が流れた。
「…わたしは、これがそんなに恐ろしいものだとは知らなかったのです。…ブライディー、貴女にも謝らなくては…」
「いいえ、わたしこのほうこそ…」
「二人とも、およしなさい。すべて終ったことです」
 セアラは微笑みながら穏やかに言った。
 どうやら、本体がなくなってしまった黒い石板のカケラは、その魔力のほとんどを失ってしまった様子だった。

 同じ頃、屋敷の厨房では安倍薫が、ヘクラ火山の麓の宿の亭主夫妻に土産にもらった塩漬けの鯨の肉を煮込んで凄まじい臭いを立てていた。
「安倍様、やめてよ! やっと…やっともうこの臭いを嗅がなくて済むと喜んでいたのに…」
 デイジーはハンカチで鼻を押さえながら言った。
「いゃあ、ぼくはドイルさんをはじめ、心霊研究協会の皆様に、鯨肉料理のおいしさを紹介しようと思って…」
『せっかく作っても、ここの会員は誰もそんなものは食べないのに決まっている!』 ネイは羽根を羽ばたかせて立ちこめる臭いを窓に向かって排気しながらわめいた。『…そんなにおいしいと思うものなら、自分の屋敷で作って、自分一人で食べればいいんだ!』
「でも今回は、フィオナさんのことが心配でまっすぐ帰国したから、他にお土産を買う暇もなかったし、あまり記念写真を撮る余裕もなかったし…」
「いいのよ! あたしたち、別に観光に行ったわけじゃあないんだから!」 デイジーはとうとう逃げ出してしまった。「あたしは… あたしは… 不公平だと思っているのよ。どうしてウォーターフォード男爵様の借金は事実上チャラにしてもらえると言うのに、どうして危険な目に会い続けているあたしは、大金持ち…とまではいかないまでも、小金持ちになって毎日好きなことをしておもしろおかしく暮らす機会を与えてもらえないの?」
「…そうだね、鯨料理のおいしさや、オーロラの美しさが分らない人には、他の何事も解らないんじゃあないかな?」
「そんなもの分りたくもないわよ!」
「でもとにかく、本当によかった」
 ドイルは応接間から下がってきたブライディーを見て、心からほっとした様子で言った。
「ドイル様、ご心配をおかけして申し訳ありませんでした」
「…しかしぼくも、鯨の料理は遠慮させてもらうよ」

 次の公休日、ブライディーは再びウォーターフォード男爵のロンドンの上屋敷に、ベリンダたちを訪ねた。
「ねぇねぇ、ブライディー、良かったわ! 噂なのだけれど、男爵様に救いの手を差し伸べてくださるかたが現れて、男爵様は破産しなくてもいいようになったみたいなのよ!」
 ベリンダは膨らんだ身体をゆすって飛び跳ねながら言った。
「そう、それは本当に良かったわね!」
 ブライディーもつられて飛び跳ねた。

 安倍薫が心血を注いだ鯨の大和煮を食べた者は一人もいなかった。彼は大きな瀬戸物の器に自分が作った料理を盛りつけて、すごすごと自分の屋敷へ帰っていった。
「安倍様、どうかお気を落とさずに…」
 ずっと留守番をしていたポピーが申し訳なさそうに見送った。

     (次のエピソードに続く)





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