ブライディー・ザ・マジックメイド

 ショート・ショート集
  ロンドン、朧月夜の幽霊譚

(小説形式)
「ブライディー、縫いぐるみを作る」
「心霊ポスター」
「風水おはじき」
「これ、いかがですか?」幽霊

(語り部形式)
「嵐の夜の釣り人」
 シスター・セアラが語る「女軽業師」
 安倍 薫が語る「あやかしを斬る刀」
 サダルメリク・アルハザードが語る「ドライ・ボーンズ」
 ドイルが語る「落盤」
  アレイスター・クロウリーが語る「王子と猫の木乃伊」
 デイジーが語る「雨の日の花売り」
 ブライディーが語る「ゴルゴダの欠片」
 ポピーが語る「地獄の香水」
 ウォーレス博士が語る「コーンウォールの樹海」
 クルックス博士が語る「立読みの客」
 ドッジソン教授が語る「夢の中の数式」


「ブライディー、縫いぐるみを作る」

「『除霊』でございますか?」 大きなメイドさんはまた困ったように顔を伏せた。「…わたくしはどちらかと言うと、占いとダウジングが…」
「まぁそう言わずに、頼まれてくれたら嬉しいよ」 ドイルはそう言って「英国心霊研究協会」宛に送られてきた手紙の一つを、テーブルの上に広げた。
 中には短くない手書きの手紙とともに、熊の縫いぐるみを抱いた五、六歳の可愛い巻き毛の女の子の写真が添えられていた。
「…あるお屋敷のご息女で、ケィティちゃんだ。可哀相なことに、この冬、病で急に亡くなった」
「出るのはこの子の幽霊なのね?」
 デイジーが写真をひったくって、まじまじと見つめた。
「ああそうだ。ご家族は気に病んでおられる。 かと言ってケィティちゃんの霊を見捨てて引っ越すのも、と躊躇っておられる。…アレイスター君やサダルメリク君、安倍君などに頼めば確実だろうが、こういう除霊は無骨な男性よりも…と考えてね」
「お祈りやお祓い、心当たりを当っては見られたのでしょうか?」
 濃い目のお茶を運んできたポピーが尋ねた。「…ご家族は、『もしかして、この写真に写っている熊の縫いぐるみではないか』と書かれている。ケィティちゃんの一番のお気に入りだったのだが、ご家族が形見に、と柩には入れずに置いておいたそうなのだ」
「ではそれをお墓にお供えしてみれば?」
 メイドさんたちは異口同音に言った。
「それが不思議なことに、ある晩を境に忽然と消え失せたらしい。ケィティちゃんの霊が、縫いぐるみを取りに来て、持ち去ったのなら、もう再び出ないはずなのだが、相変わらず夜な夜な現れて、しかもまだ何かを探している様子なのだそうだ」
「難しいですわねー」 ブライディーは首をかしげた。「女の子の霊は目的のものを手に入れた。なのに…」
「念のため、もう一つ、二つ、同じ熊の縫いぐるみを買ってきて、目立つところに置いてみたら?」
 と、デイジー。
「それが…」
「どうかされましたか、ドイル様?」
「ケイティちゃんのお気に入りの熊の縫いぐるみは、お母さんの手作りなのだそうだ。お母さんは、数年前、ケィティちゃんがまだほんのよちよち歩きの頃に、夫…すなわちケィテイちゃんのお父さんと離婚して、実家に戻っている。 お母さんはケィティちゃんの病が重い、という知らせを聞いて駆けつけて最後の日々を看病され、もちろんお葬式にも出られている」
「可哀相なケィティちゃん…」 ブライディーはハンカチで目頭を拭った。「…でもそうやってもう一度お母さんに会えたのだから、幸せだった、と言うべきかも…」
「だったら、もう一度お母さんに縫いぐるみを作って来て貰って、ケィティちゃんの霊に、天国に行くように話しかけて貰ったらどうかしら?」
 デイジーは一人で勝手に頷く。
「それでうまく行けば解決ですけれど、万一失敗したらお母さまもひどく傷つかれますわよ」
 ポピーが眉を寄せる。
「とりあえず、デイジーの言うとおり、念のために、写真をもとにしてお母さんが作られた、という熊の縫いぐるみソックリの縫いぐるみを、わたしたちのほうでも作ってから訪問させて頂きましょう」
 ブライディーの言葉にデイジーは、
「やった! あたしの意見が通った!」
 と飛び上がった。

 それから数日かけて、三人のメイドさんたちは熊の縫いぐるみ作りに取りかかった。
 絵心のあるデイジーが型紙を作り、羊の毛皮の端切れを買ってきて、茶色に染めて裁断し、縫い合わせた。
 デイジーとポピーのはかなりの出来映えだったものの、なぜか歌と踊り以外のアート・センスは皆無のブライディーは、ガラス玉の目玉を取り付ける位置がほんの少し狂ってしまって「ちょっと…」と言う出来になってしまった。
「お姉ちゃん、目はとても大事なんだから、もうちょっと慎重にやらないとだめじゃない!」
「それにこのあたり、縫い目が粗くてパンヤがはみ出ていますわよ」
 小さなメイドさんたちの意見に、大きなメイドさんは反論できず、ただうつむくだけだった。
「ポピー、針と糸とハサミを貸してちょうだい。お姉ちゃん、気に触らなければあたしが直して上げるわ。いいでしょう?」
 デイジーの雄叫びに、ブライディーは「ええ、お願いするわ」と言ってシュンとなった。「…お料理でも、何でもそうなんでしょうけど、ポイントは目玉と仕上げ全般なのよ。尻尾の取り付けにしたって、気にならない人はならないでしょうけれど、なる人は物凄く気になる、ってこと」
 デイジーはそんなことを言いながら、ブライディーがせっかく彼女なりに一所懸命に縫い付けた糸を無情にもブチブチと切っていった。

 留守番を、それこそ縫いぐるみソックリのネイに任せて、三人のメイドさんは除霊に赴いた。
「せっかく仲間になったというのに、いきなりお留守番?」
「まぁそう言わずに、今回はお人形を持った幽霊だそうだから、ネイの出番はないわよ、たぶん…」
 デイジーは追って出てこようとするネイにぶつけるように勝手口のドアをバタンと閉めた。

 その屋敷は街のなかと郊外の境目にあり、まばらになったガス灯の黄色い光に照らされていた。
「よろしくお願いします」
 召使いたちを飛ばし、亡きケイティの父である主人が直接出てきた。
「お父様は、幽霊とは言え、ケィティちゃんに会えなくなってもいいのですか?」
 大きなメイドさんが口ごもりながら尋ねた。「ええ。私も妻と離婚したことで、ケィティに後ろめたい思いを抱いています。ケィティの病気が、もしも母と離された悲しみによるものだったら…」
「もう済んだことですわ」
 カラッと言い放ったデイジーが、先頭を切って、片手にランプ、片手に自作の熊の縫いぐるみを持って子供部屋…ケィティの部屋だったところへ進んでいった。
 なま暖かい風が火屋の炎を揺らめかせる。「デイジー、ケィティちゃんの幽霊に、あまり思ったことをズケズケと言ってはいけないわよ」
 追いついてきたブライディーが囁く。
「やはりケィティちゃんは、お父さんやきょうだいと遊びたいのでは?」
 ポピーが小声で訊ねる。
「でも、それだったらその人たちの前に現れるでしょう? 幽霊が出るというのは自分の部屋だったあたりだけ。きょうだいと遊ぶよりも熊の縫いぐるみと遊ぶのが好きだったそうだし…」
 久しぶりの心霊がらみの仕事にデイジーはやる気満々のようだった。
 と、白い靄のようなものが漂い始めたかと思うと、小さな子供の姿になった。子供はふわふわスカートの裾の短いドレスを着て、巻き毛の髪をリボンでまとめ、両手に熊の縫いぐるみを抱えていた。
「ケィティちゃん!」
 幽霊は三人のメイドさんたちを見て、逃げ出すでもなく、近寄ってくるでもなく、何か戸惑っているような感じだった。
「ケィティちゃん、どうして神様やマリア様のところに行かないの? お父様やきょうだいのところがいいの?」 大きなメイドさんは腰をかがめながらゆっくりと近づくと、自作の…デイジーが手直しした熊の縫いぐるみを差し出した。「…それとも、お人形さんが『友達がいないよー』と寂しがっているのかな?」
 幽霊は小さな顔をかすかに横に振った。
「さぁ、これはみんな貴女のものよ! 気に入ってくれたらお墓に供えておくわ」
 ケィティはまたかすかに、しかしハッキリと首を横に振った。
 デイジーは目ざとく、ケィティが小さな両手で抱えている熊の縫いぐるみの、手足や胴体や尻尾の縫い合わせ目に、半インチくらいのほころびができていて、ほんの少しパンヤがはみ出ているのを見つけた。それは、乱暴に扱ったせい、というよりは片時も、肌身離さず持ち歩いていたせいでできた、といった感じだった。
「ケィティちゃん、その子はちょっと痛んでいるわ。お姉ちゃんたちが新しいのをいくつも持って来て上げた。だから、この子たちを持っていって!」
 デイジーが自分のを含めて三つの熊の縫いぐるみを差し出そうとした。が、少女の形の霧の塊は「いらない」と言いたげに後じさった。
「おかしいなぁ… 気に入らないのかなぁ…」
「デイジー、ケィティちゃんが持っているのは、別れたお母さんが作ってくれた手作りのものでしょう? だから、当たり前だけれど特別な思い入れがあって、他の熊の縫いぐるみでは、いくらきれいで新しいものでも、欲しくはないんじゃあ?」
 ブライディーの囁きに、ポピーがポンとかすかに手を打った。
「分りました! お二人はケィティちゃんを留めておいて下さいね! すぐに戻ります!」
 ポピーはそう言って小走りに去った。
「ケィティちゃん、何が欲しいのかな、言ってみて!」
 デイジーが一歩歩み寄ると、幽霊は一歩下がった。
「お別れしたお母様に会いたいのかな?」
「それだったらお母さんのところに現れるはずよ、お姉ちゃん」
「そうね…」
 じきに戻ってきたポピーは、片手に乗るくらいの小さな箱を差し出してみた。
「ケイティちゃん、これかな? これを探していたのかな?」
 小さなケィティはそれを受取ると満足そうに大きく頷き、少しずつ消え去った。
「一体何だったの、ポピー?」
 ブライディーとデイジーは異口同音に尋ねた。
「縫いぐるみをなおすための裁縫箱ですよ。 ケィティちゃんのお母さんは常々、縫いぐるみのほころびは自分で縫ってなおすように教えておられた、とか…」


 「心霊ポスター」

 その日、「英国心霊研究協会」の屋敷を訪れた紳士は、バリッとしたフロックコートにカイゼルひげ、立派なシルクハットをかぶっていた。
 紳士は、
「自分は、とある、名前を言えば誰でも知っている有名な劇団の支配人です」と言った。「…故あって、自分の名前も、劇団の名前も勘弁して欲しい。…もっとも、いまからあるものをお見せしたら、分ってしまうのですが…」
 紳士はそう言って、持参した筒のように巻いた紙を伸ばし、反対に巻き直して癖を取り、テーブルの上に示した。
 それはイギリスでも有数のシェークスピア劇団の、この春の公演「マクベス」のポスターだった。中央にマクベス役の俳優とマクベス夫人役の女優、その回りにバンクォー将軍や森の魔女たちらの脇役が印刷されていた。「何かお気付きになりませんか?」
 そのポスターを両手で持ってしげしげと眺めていたドイルは、背景の、手に手に木の枝を持って進軍する兵士たちを指さした。
「…ここに何か、人の顔のようなものが見えるような気がします」
 メイドさんたちも覗き込んだ。すると、確かに、ちょっと目を細めると、不気味な、痩せてやつれた男の顔のようなものが見えた。支配人は溜息をつきながらソファーに座り直した。
「そうなのです。何度写真を撮り直しても、イラストにして画を描き直させても、いざ印刷が出来上がってくると、元のネガや原画にはまったくない男の顔が刷り込まれてくるのです」
「印刷所に勤める何者かの嫌がらせでは?」 パイプに火をつけたドイルは、煙を吐き出しながら言った。
「私もそう思って印刷所を変えました。けれども…」
「なるほど、それは難儀ですね。…で、何かお心あたりは?」
「それがあるのです。長いあいだチョイ役兼雑用係で頑張ってきた…仮にハリスという青年なのですが…『もうそろそろ俳優は諦めて、裏方に回ってもらえないだろうか』と言ったら、道具置き場で首を吊ってしまったんです。どこのどんな仕事場でも、そんなふうに肩を叩かれるやつはいくらでもいる。でもみんなそれなりに方向転換するなりしてやっている。正直、いい迷惑です。このままでは永久にポスターを貼ることができません。それでなくても、夜更けの稽古場で彼の幽霊を見たの、見ないの、と言う噂が広まって動揺する者も出始めています」
「支配人さん、貴男が一番恐れておられるのではありませんか?」
 ドイルの言葉に支配人は両の拳を握り締め、うつむいてしまった。出されたお茶やお菓子にもまったく手をつけなかった。
「お願いします、ドイルさん。何とかして下さい!」
「分りました。さっそく調査しましょう。…ぼくは手を放せない仕事があるので、とりあえず、ここにいるメイドたちを向かわせていいでしょうか?」
 ドイルはお盆を持って神妙に控えているブライディーとデイジーとポピーを示した。
「…彼女たちも優秀ですよ。最初から『いかにも除霊師です』という者が向かうよりいいでしょう。もちろん、もしも彼女たちの手に負えなかったその時は、ぼくか、名の通った魔導師が、ただちにリリーフする、ということで」
「そういうことでしたら、それでお願いします」
 支配人はしぶしぶ同意した。

「『ここ』に出るのね。その、役者を目指していて挫折したという情けない男の幽霊が」 デイジーはいかにも古色蒼然とした、芝居用の道具置き場の入口に立ち、城やら屋敷の中やら、森や林の描き割りを眺め渡した。
「いまからそんなに張り切って大丈夫? 幽霊が出るのは大抵丑三つ時だよ」
 ネイがパタパタと羽ばたきながら言った。
「大丈夫だもん。きょうはたっぷりお昼寝をしてきたもの」
「もし出たらどうされるおつもりですか?」 ポピーがブライディーに尋ねた。
「そぅねぇ、とりあえずお話しが交わせるようだったら、幽霊…ハリスさんの言うことを聞いてみて、天国へ行ってくださるように説得してみようか、と…」
「そんなの甘いわよ! えいっ! やぁ! って、あたしの『ゲート・オープナー』の呪文で次元の狭間に封印してやるわ」
 デイジーは小道具の剣を振り回した。
「でもそれだったら、また何かの拍子に…」
 ネイはその切っ先を巧みにかいくぐりながら言った。
「うるさいわね! 万一そうなったらまた封印し直すまでよ!」
 夜は深々と更けた。春の朧月が薄くたなびく綿飴のような雲に隠れる頃…
 三人はブライディーがチョークで描いた、星座のシンボルのような魔法陣の上に置いたテーブルを囲んで座っていた。
 大きなメイドさんは読書を、ポピーは編み物を、デイジーはネイを枕にして船を漕いでいた。

 と、どこからともなく冷ややかな風が吹き渡って、ランプの火屋の中の炎を揺らせた。
 ブライディーとポピーがそれぞれの脇に目をやると、中世のチュニックの衣装を着た若い、顔に影の多い男のぼやんりと霞んだ姿があった。
「デイジーさんと、ネイを起しましょうか?」
 ポピーが囁く。
「いえ、そうするとすぐに荒事になってしまうわ。目を覚ますまで、ハリスさんが言いたいことがあるようでしたらお聞きましましょう」
『来た来た! 支配人さんはついに除霊師を招いたんだな! てっきりむさ苦しいヒゲもじゃの男かお爺さんが来る、とばかり思っていたら、若い女性じゃないか! これは感激だね!」
 ハリスは両手で大きく振りをつけながら背中をそらせた。
「ハリスさん、ですね? どうして迷っておられるのですか? どうしてこの一座のポスターの中に入ろうとされるのですか?」
 立ち上がったブライディーは、ポピーとのあいだにもう一つ椅子を持ってきて、俳優の幽霊に座るように促した。
『それはもちろん有名になりたいからさ!』 割り込むように椅子にかけた幽霊は、二人のメイドさんの顔を代わる代わる身ながら言った。ランプの揺らめきの加減で、愛嬌のある喜劇俳優にも、深刻そうな悲劇俳優にも見えるそのマスクは、さすがに舞台人を目指していただけあって端正に見えた。
『ぼくは有名になりたかった。脚光を浴びたかった。できることなら生きているあいだにね。だけどその願いは叶わなかった。だからせめて死んでからでも、仲間や、お客さんたちや、人々の口の端にのぼるようにしたいのさ』
「…ごめんなさいね。貴男を責めようとしてる訳じぁないのよ。…それだったら、生きて、生きて、生き抜いて、成功を目指すべきじゃではなかったかしら?」
『おっしゃる通りだ、その…』
「ブライディーです」
「ブライディーさん」
 ハリスはテーブルの上でしきりに両手を組み合わせたりはずしてみたりした。
『…努力はしたんだ。自分なりに一所懸命。しかしなかなか認めてもらえなかった… 主役とか、重要な脇役なんて大それたことを望んでいた訳じゃあない。端役でも十分だと思っていた。二言三言台詞があって、何分間かは舞台の上に居られる役でいい、と思っていた。だけど、それすらなかなかだったんだ。ぼくは自分に愛想が尽きた。それはそれでいいんだ。全部おのれが蒔いたタネだ。おまけにもう済んでしまったことだ。誰かを恨んだり呪ったりする気持ちもない。本当だ、信じてくれ。だけども、未練なのだろうか、幽霊となったいま、メーキャップをして衣装を着、小道具を手に持った自分の姿が、劇団のポスターの片隅に…真ん中に大きく、でなくてもいいんだ…描かれている夢を見るんだ』
「あの、申し上げにくいんですが…」 ブライディーは幽霊のハリスの顔を見上げるように覗き込みながら切り出した。「支配人さんも、劇団のかたがたも迷惑されています。『夜な夜な道具部屋に、挫折した俳優の幽霊が出る一座』…『その劇団のポスターには、背後霊が写っている。さて、どこに写っているのか、みんなで探しましょう』…話題作りとしても、あまり趣味のいい話題作りではありませんわ」
『分っている! ぼくも頭の中では分っているんだ。仲間や、お世話になった人々に大変な迷惑をかけている、ということが』
 ハリスは両手で頭を抱えた。いかにも芝居がかっているようにも見えたが、どうやら演技ではなさそうだった。
『…だけども、自分で自分が止められない。こうして自分で自分の命を絶ってしまったいまでも、生き返って(芝居に出たい! 芝居に出たい! 芝居に出たい!) と思い続けているんだ。(ポスターに載りたい! ポスターに載りたい! ポスターに載りたい! 家族や親戚や友達に招待券をおくりたい! おくりたい! おくりたい!)って…」
「茶化すつもりはございませんが、典型的すぎるくらい典型的な『浮かばれない気持ち』ですね」
 ポピーがポツリと口を開いた。
「でも『正しい道理を貫いていても、多勢に無勢で敵に討たれてしまった騎士や貴族のかたのご無念』なんかとはちょっと違うんじゃあ…」
 大きなメイドさんもポツリと言った。「貴男は、ご自分でご自分を見限られたのですから…」
 居眠りしていたデイジーが、鼻提灯が割れた拍子に目を覚ました。もちろんネイも…
「わっ! 出ている! どうして起してくれなかったの? 封印しちゃうわよ。いいわよね、お姉ちゃん、ポピー?」

「嫌だ! ぼくは有名になりたいんだ! 生きているあいだは残念ながら叶わなかったけど、死んでからは『ロンドン塔のアン・ブーリン』の幽霊みたいに、誰もが知っている『有名な幽霊』になってみせるんだ!」
 ハリスの亡霊は、城や森や屋敷の中などの描き割りのあいだを、風に飛ばされたシーツみたいに逃げ回った。
「これぞまさに『世迷いごと』ね!」 デイジーは両手で素早く印を切り始めた。「…地獄の舞台で悪魔たち相手にお芝居するといいでしょう!」
「ちょっ、ちょっと待ってくれ! ぼくはまだこの世で名声を博することを望んでいるんだ! 例えば『ハムレット』の父王の幽霊役なんかどうだろう? 本物の幽霊が幽霊を演じるんだ。きっと話題になるよ! 貴女たち、支配人に掛け合ってくれよ!」
「支配人さんは、そんな貴男が迷惑だから何とかしてください、と言って除霊を頼みに来られたのよ」
 デイジーは術を放った。最初の一撃に賭けたのか、アレイスターや日本から来た陰陽師と比べても遜色のない、強力な波動が直撃した。
(ああ、これだ終り、一件落着)
 ブライディーもポピーもネイも、そう思った。
 だが、ハリスは次元の狭間に封印されることはなく、瞳を青白く燃え上がらせながら漂っていた。
「きみは、ぼくが有名になることがそんなに嫌なのかい? ぼくが有名になったら、きみはなにがしかのお金やモノを損する、とでも言うのかい?」
 デイジーは慌てて身をひいた。
「いえ、特にそういうことは…」
「だったら邪魔しないで欲しいな。ぼくが有名になることを…」
 後じさるデイジーとのあいだにふわふわと浮かんだネイが割って入った。
(分った。分ったよハリスさん。ぼくがきみに「有名になった夢」を見させて上げる。それでどうだろう?)
「やってみてくれ。納得できるかできないかはその後で…」
…
「ハリス主演『ハムレット』」
「ハリス主演『マクベス』」
「ハリス主演『オセロ』」
「ハリス主演『リア王』」
「ハリス主演『ロミオとジュリエット』」
「ハリス主演『真夏の夜の夢』」…
 ポスターはいずれもハリスが真ん中で一番大きく…
 王立シェークスピア劇場は連日連夜満員札止め… 満員の観客総立ちの拍手喝采… 新聞や雑誌の批評は「ハリス、素晴らしい演技」というようなものばかり…
 郊外に屋敷を建て、若い淑女たちにキャーキャー言われ取り囲まれ… ヴィクトリア女王陛下からはサーの称号を…

「素晴らしくいい夢だったよ、有難う、縫いぐるみ君」  ハリスは誰かさんみたいに夢に飲み込まれて取り乱してしまうことなく、カッと目を見開いて言った。
「…これは絶対に、夢のままで終らせたくなんかないな。今日から、いま今夜から、現実に近づけるように、より一層努力するぞ!」

「何か逆効果だったんじゃあないでしょうか?」
 ポピーがネイやデイジーたちに囁いた。
「わたしたち、ハリスさんの霊を買いかぶっていたみたいですわ。ここはいったんお屋敷に戻って皆様と相談を…」
 ブライディーは皆の顔を見渡した。
「お姉ちゃん、そんな弱気な…」
「でも…」
「ブライディーさん、何かいい考えが?」
 ネイとポピーが左右から尋ねた。
「あの… わたしたちが脇役になって、実際に幽霊のハリスさんに主役を演じてもらう、というのはどうかしら?」
「いいと思いますけれど、満員の観客がいなければ、ハリスさんは納得されるでしょうか?」
 と、ポピー。
(分った。それはおいらが担当するよ。観客は夢、ってことで…)
「お願いね、ネイ」

 大きなメイドさんは、ハリスに何事かを提案した。
「おおっ、新人女優諸君、このぼくに稽古をつけて欲しい、と… もちろんいいとも!」 するとたちまち幽霊は森を進む武将の姿に、メイドさんたちは黒ずくめの魔女の姿になった。

「太鼓だ、太鼓だ。マクベスが来た。
 海山千里を駆けめぐる
 運気の姉妹手に手を取って
 こうしてくるくる輪をつくる
 おまえが三度で、おいらが三度。
 も一つ三度で、九度になる。
 黙った。これで魔法は結ぼった」

 メイドさんたちはネイが掲げるプロンプターに書かれてある通りに「マクベス」冒頭の三人の魔女たちの台詞を唱和した。

 そこへハリスの幽霊が、舞台上手から登場した。
「こんな汚いきれいな日は見たことがない。…おまえたちは何者だ?」
「マクベス、万歳! グラームズの領主ばんざい!」
「マクベス、万歳! コーダの領主ばんざい!」
「マクベス、万歳! 行く末は王になる人ばんざい!」
 生きているあいだ、一度もスポットライトを浴びたことのなかったハリスは、つかの間とはいえ、主役の立ち振る舞いができて大喜びだった。彼の、もはや肉のない両目には、ネイが見せる満場の観客が固唾を飲む様子がありありと映っていた。
「いいぞ! いいぞ! 三人の魔女諸君! せっかくだから、第四幕の有名な場面もやろうじゃないか!」

「マクベス、マクベス、マクベス、マクダフに気をつけろ。ファイフの領主に気をつけろ!」
 ブライディーは頭巾の中から双眸を不気味に光らせながら、声を低めて言った。
「残酷に、大胆に、思い切ってやれ! 人間の力を笑え! 女から生まれた奴は誰一人として、マクベスを害する者はないぞ!」
 デイジーが、甲高い…耳障りにすら聞こえる声で、半ば棒読みみたいに言った。が、それがかえって迫力があった。
「獅子のような心で勝ち誇っていろ! 誰が憤慨しようと、誰がいらだとうと、どこに謀反人があろうと気にかけるな。マクベスは決して破れることがないぞ。大きなバーナムの森が、高いダンシネインの山のほうへ、マクベス目がけて攻めかからない限りは!」
 ポピーはまだあどけない声で言ったが、それがまた恐ろしかった。
「…そんなことがあるものか。誰に森の招集ができるか。大地にへばりついた根っこを放せと木に命令できるか。…有難い預言だ。よし、叛逆の首、バーナムの森が立ち上がるまでは立ち上がるな!」
 ハリスの幽霊は、本物の有名な俳優が演じているのと何ら遜色なく、小心者ゆえに大それたことをしてしまうマクベスを演じて見せた。
「…ああ、いい気分だ。一度やってみたかったんだ。お嬢さんたち、もう少しだけ続けていいかな? ぼく一人で…」
 三人のメイドさんたちは「どうぞ、どうぞ」と言うように頷いた。
「お前には心の病気は治療できないか?
 悲しみの根ざしを記憶から抜き取って、
 頭に書いてある悩みを擦り消して、
 何か気持ちのよい忘れ薬を施して
 心を押さえつけている危険な詰め物を
 いっぱいに詰まった胸から取りのけることはできないか?」
 それはもはや演じている…芝居をしているのではなく、心からの叫びだった。
「…明日(あした)、明日、明日の日が、
 毎日忍び足で這い寄って、
 時の記録の最後の日まで続く。
 そうしてすべての昨日という日は、
 馬鹿者どもの塵の死へ行く道を照らした。
 消えろ、消えろ、短い蝋燭(あかり)
 人生は歩く影だ。あわれな役者だ。
 舞台の上を自分の時間だけ、のさばり歩いたり、じれじれしたりするけれども、やがては人に忘れられてしまう…
 愚人の話のように、声と怒りに満ちてはいるが、何らの意味もないものだ…」
 最後の台詞を言い終えると、ハリスの幽霊は満場の拍手と喝采を浴びながら、陽炎のようにゆらめきながら消えた。
「…もう、出ないかな? 『ここ』にも、ポスターにも…」
 デイジーがポツリと言った。

 その後、ドイルもメイドさんたちも、その劇団の公演のポスターが街角に貼られているのをちょくちょく目にしたが、横から見ても斜めから見ても、幽霊の顔らしいものはもうどこにも見あたらなかった。
「デイジーさんの演じる魔女は迫力がありましたわね」
 何気なしにポピーが言うと、デイジーは、「うるさいわね。ポピー、貴女も、ブライディーお姉ちゃんも真に迫っていたわよ」 と切り返した。

(「マクベス」の翻訳は、岩波文庫版 野上豊一郎先生の訳文を使わせて頂きましたm(_ _)m)


  風水おはじき

「実は… 大きな声で言えることではないのですが…」 薄地桜色の絹のように光沢のある海島綿のドレスに衣替えしたフィオナ・ウォーターフォード男爵令嬢が、ブライディーらメイドさんたちの目を眺めわたして、囁くように言った。「…ドイル様やアレイスター様たちにご相談申し上げるのもはばかられるのです。ロンドンや、アイルランドのウォーターフォードの屋敷に『出る』というのならまだしも…」
「分りました。秘密は固く守らせて頂きます。…デイジー、貴女もよそで喋つちゃだめよ」
「どうしてあたしに言うのよ、お姉ちゃん」
「とにかく本題です…」
 フィオナはかまわずに続けた。

「…承知の通り、ウォーターフォードはガラス工芸で知られています。アイルランドのウォーターフォードで作られる各種のクリスタルのグラスなどの製品は、王室や貴族、郷紳、外国にも納めています。そこで、さらに力を入れようと、仮に…オハラという親方と、若いけれども才能のある職人たち数人を選んで、ロンドンの郊外に、小さなガラスの工房を構えさせたのです。
 幸いなことに、店を訪れて商品に触れ、製作実演を目の当たりして気に入って下さる紳士淑女のかたがたもじょじょに増え、わたくとたちもとても喜んでいたのです。
 ところが、最近になって、いろんな霊が、夜更けに、オハラ親方や職人たちの住宅を兼ねている工房や二、三階の住居に『出る』ようになったのです」
「『いろんな』とはどういう意味ですございますか?」
 ブライディーは、むかし仕えていたお姫様に、ゆっくりと尋ねた。
「文字通り『いろんな』幽霊が出るようになったのです。一人、一種類ではありません。 大昔のピクト人、ノルマン人、デーン人、サクソン人… 中世の貴族や市民、職人…
 身分も、王侯貴族から武将、兵士、農民、老若男女、子供までと多岐に渡っているようなのです」
「ええっ、そんなに賑やかなんですか!」
 デイジーは大げさにのけぞって見せた。
「その工房がある場所は、幽霊たちの集会場なのではありませんか?」
 ポピーがデイジーを遮るように口をはさんだ。
「だとしても…」 フィオナは首をかしげた。「つい最近そうなってしまったのです。開業から数年は、何事もなかったのですから… また、それぞれの幽霊たちは、まるで万華鏡のようにチラッと現れてはすぐに消えてしまうのです。同一の霊が、長く居座る、ということはないようなのです」
 しばらく考えていたブライディーは、「原因はいくつか考えられると思いますわ」 と切り出した。「…一つはこのデイジーの『ゲート・オープナー』の術を使う者が、霊の通り道を開けてしまっている。とか…」
「ちょっと待ってよ、お姉ちゃん」 デイジーがポピーをかいくぐってまた前に出てきた。「…『ゲート・オープナーの術』はしんどいんだよ! 一日一回かできて二回、それも数分できればいいほうなんだよ。そんなにぞろぞろ幽霊を行き来させるられるのは、マーリン様クラスの物凄い術者でないと無理だよ! 例えそういう魔法使いの仕業だとしても、毎晩ずっと続けては無理。バテちゃうよ」
「何者かの嫌がらせだとしても、かなり効率が悪いやりかたですわね」 ポピーも首をひねった。「…脅かすつもりなのだったら、うんと恐ろしいのを一つ出せばすむことでしょうし…」
「あと、工房…お店に住み込んでおられるオハラ親方か、職人さんたちのうちの誰かか、そのご家族かが『強力な呪われグッズ』を買い込まれてきて、それがもろもろの霊たちを、まるで磁石が鉄の粉を吸い寄せるみたいに呼び寄せている、ということもあり得ると思います」
 大きなメイドさんはおずおずと言った。
「それはわたくしも、みんなも考えました」 フィオナはピシャリと切り返した。「…確かに、オハラ親方も、職人たちも、休みの日には骨董店や蚤の市をぶらぶらと覗いて、気に入ったガラス細工があると買って帰って飾っています。しかし、親方や職人たちは、もちろん魔法使いや除霊師ではないものの、ガラスの専門家たちなのです。そんな邪悪な、数多の霊を呼び寄せるくらいにおどろおどろしいモノなら、その輝きなどの見た目の感じ、持ったときの雰囲気で分る、と申しています」
「すると、親方や職人たちのコレクションの中に、心当たりはないのですね?」
「そうなのです。もしもそういうものを発見できれば、処分すればすむことだったのですけれど、お互いに入念に検品しても、そんな怨念に満ちたものはなかった、と言うことなのです」
「その他に、何か変ったことやできごとはございませんか?」
 ブライディーは重ねて訊ねた。

「それが…」 フィオナは口ごもった。「…関係のあるなしは分らないのですが…」
「あるのですね?」
「ええ」 小さな頷き。「…実は若い職人の中に、ロンドンに来てから宝くじを買い続けている者がいて、その人が…一等ではないものの、幽霊たちが出没するようになってから百ポンド当ったのです」
「すごい! その幽霊たちの中に福の神…というか、ラッキー・ゴーストがいたのかな?」
 デイジーが目を輝かせる。
「でもそんなにいろいろ現れるのだったら、中には貧乏神…貧乏ゴーストだっているはずですが…」
 ポピーが小首をかしげる。
「…別の職人で…」フィオナが続ける。「…長いあいだ、できなかった赤ちゃんを授かった夫婦もいます」
「えっ、子宝幽霊もいるようなのですか?」 大きなメイドさんは少しあっけにとられた。「…他に、いくらプロポーズをしてもフラれ続けていた職人で、ついにとうとう婚約者ができた者もいます」
「うーん、幽霊以外は、総じて良いことが起きているのですね?」
「お姉ちゃん、一度行ってみようよ! そのウォーターフォード・ガラスの工房に!」
 デイジーがブライディーのお仕着せのエプロンドレスを引っ張った。
「そうよね。もしも何か『呪われたガラス製品』があるようなら、わたしのダウジングで探し出して…」
(おいらの「鑑定眼」で鑑定してやるよ!) それまで応接間の飾り棚の上でおとなしくしていたネイがぴょんぴょんと飛び跳ねた。が、フィオナの目には映らなかった。

 ロンドンから馬車で三十分ほど、町と村の中間のような緑に囲まれた、昔は豪農の家が点在し、最近は都市から逃げ出しだしてきた小金持ちたちが新しく小さな家を草原のあいだを埋めるように建て始めたあたり。まだまだ緑が多く残っている田舎に「ウォーターフォード」のガラス店があった。
 それぞれ春物の、厚手の綿のドレスと、薄手のフェルトの、つばの幅も中くらいの帽子でおめかししたメイドさんたちは、さまざまなワイングラスやウィスキー・グラス、タンブラーやカクテル・グラスが飾られた、元は大きな鍛冶屋だったというショー・ウィンドーを眺めていた。入口のドアを挟んで反対側には、ランプやガス灯の火屋やガラスの飾り皿や、ガラス細工の妖精や動物たちの人形が飾られていて、それぞれ小さな値札が付けてあった。
「売り物は…当たり前だけれど…みんな新品で、何も感じられないわ…」
 大きなメイドさんは、二人の小さなメイドさんと宙で羽ばたいているネイを従えて店の中に入った。
「毎度いらっしゃいませ。お嬢様がた、何をお求めですか?」 オハラ親方と思しき、頭の禿げ上がった親方が出迎えてくれた。「おおかたの職人たちや家族たちは、休みをやってピクニックに行かせました。悪魔祓いのお香でも何でも焚いて頂いて結構です」
「お香は焚かないと思いますが…」
 店の中は工房で、あちこちの炉で火がいこされ、汗だらけになりながら棒でガラスの形を整えていた職人が一人、二人、メイドさんたちのほうをチラリと見た。
「…なるほど、製造直売、というわけね」
 そうつぶやくデイジーの手には、いましがた買ったばかりの宝くじが数枚握られていた。 壁際の棚には、表に飾りきれない分のガラス製品が見栄えよく並べられていた。
「そうですね。新しくここで作られたものについては、当たり前ですが何も問題はないみたいですね」
「それはそうでしょうとも」 オハラ親方は大きく頷いた。「…古いものは職人たちが勉強のために買った私物…コレクションです。貴女がたは特別です。皆には言ってありますから、どうか二階、三階に上がって見てやってください。あっしがご案内しますんで…」

「…そんなに幽霊がぞろぞろ出るのですか?」
 親方に案内され、階段を上がりながらブライディーが訊ねた。
「ええ。もしお疑いなら、空いている部屋もありますんで、泊まって確かめて頂けませんか?」
「でも、宝くじに当ったり、赤ちゃんを授かったり、いいことも起きているんですよね。幽霊たちを封じてしまうことで、それらも無くなってしまってもいいんでしょうか?」
「ええ、やむを得ませんなぁ」
 最初の職人の狭い私室に入った。窓は予め細く開けられていたものの、それでも汗と酒と煙草の臭いがムッと漂っていた。
 店の飾り棚よりはずっと貧相で小さな、古道具屋で買ってきたか、それともゴミ捨て場で拾ってきたような棚には、子供の手のひらに乗るくらいの大きさのグリフォンやケルベロス、ユニコーンのような神話伝説のガラスの動物が並べられていた。
「このガラスの怪物たちが、幽霊たちや出来事を引き寄せているのかしら?」
 ブライディーはダウジングの黄金の棒を取りだし、両手に挟んで掲げ、心を静めて占ったものの、棒はピクリとも動かなかった。
(この連中の中には怪しいやつはいないなぁ…) ネイは一同の頭の上で羽ばたきながら言った。
「…ああグリフォン様、ケルベロス様、ユニコーン様、どうか宝くじが当りますように… 一等でなくてもいいですから… 二等でなくてもいいですから…せめて三等くらいを当ててください…」
 それでもデイジーは、何かブツブツと口の中でつぶやいていた。
 次の職人の部屋には、犬や猫、鳥や魚、ライオンや虎といったガラスの動物たちが置かれていた。
 ここでもブライディーがダウジングの棒で占ったものの、棒は何の反応も示さなかった。
(次へ行こう! 次へ!)
 ネイが急かせる。
「ああ、犬さん、猫さん、鳥さん、魚さん、ライオンさん、虎さん、どうかハンサムでお金持ちの男の人からプロポーズされますように… プロポーズされますように…」
 デイジーはまたボソボソと祈っていた。

 親方のコレクションは、大小さまざまなグラスや火屋が中心で、ボヘミアのものが多かった。さすがのデイジーも、「実用品」にお祈りは捧げなかった。
「これはもう、原因になっているガラス細工があるのなら、わたしの占いで探したほうが早いと思いますわ」
 大きなメイドさんはネイやポピーたちの顔色を窺いながら言った。
「そうですか。とにかくよろしくお願いします」
 オハラ親方は(こんな子たちで大丈夫かなぁ…)と言いたげな表情をしていた。
 ブライディーは早速、愛用の黄金の棒を両手にはさんで掲げた。
 すると、棒はたちまち廊下を指し、廊下に出ると奥の部屋を指した。
「すごいですわ! いつもながら本当に…」
 ポピーはただただ感心していた。
(さすがにおいらのご主人さまだけのことはあるなぁ…)
 宙で羽ばたき浮かんだネイは、心持ちマスターとの距離を取った。
「しまった! 宝くじをもっとたくさん買っておくのだったわ!」
 デイジーはくじを強く握り直した。
「この部屋は、女房持ち、子持ちの職人たちの子供たちが、共同で遊ぶ『おもちゃ部屋』で、ガラス細工なんかはないはずなんですが…」
 親方はいぶかしがる。
 落書きだらけのドアを開けると、かすかにミルクやキャンディーの匂いがかすかに漂ってきた。床には絵本や、積み木や、ブリキの汽車や客車や、大小のすり切れた人形や縫いぐるみが散らかっていた。
 部屋には一人、エプロンドレスを着た、茶色の髪にそばかすだらけの、賢そうな小さな女の子が木張りの床に座り込み、おはじきで遊んでいた。
「おや、パールちゃん、お父さんと一緒にピクニックに行かなかったのかい?」
「こんにちわ、親方さん。ここで遊んでいたほうが楽しいもの。…そのかたたちは?」
「このかたたちは、そのぅ…」
「おもちゃのお店から来たんです」 ブライディーはとっさに笑顔を浮かべて言った。「このおもちゃの中に、手を切ったり、口に入れたりすると毒になるものがないか、調べに来たんです」
 棒は女の子が指で弾いて遊んでいるおはじきを指していた。
 それは確かに変ったおはじきだった。大きさは一ペニー銅貨ほど。カチッカチッと当る音からするとガラス製のようだったが、目を見張るのはそれぞれの色の鮮やかさだった。 赤いものはルビーのように赤く、鮮紅色。 青と緑はサファイアのように、黄色はトパーズのように、乳白色のものは真珠のように輝き、いろんな色が混ぜ合わさったものはオパールや蜻蛉珠のように神秘的に輝いていた。
「あれですわ! あれが幽霊たちや、並はずれた運命を引き寄せていると思います」
 大きなメイドさんは皆に囁いた。
「確かに…」 親方が頷く。
「そのへんにある、ただのおはじきには見えませんね」 ポピーは一歩、二歩近づいてまじまじと眺めた。
「何よ! お姉ちゃんたち! このおはじきが毒だとでも言うの?」
 パールの瞳に警戒の色が浮かんだ。
 両手で素早く散らかっていたおはじきを集めて、半ば錆び付いたドロップスの缶にざらざらとしまい、しっかりと胸に抱いた。
「パールちゃん、そのおはじき一体どこで手に入れたのかな?」
 ブライディーはしゃがみながら女の子に近寄ろうとした。
「おのおはじき、あたしのだもん! 盗んだものじゃないもの! この缶に入れて物置に捨ててあったのを拾っただけだもの! 毒じゃないもの! 拾ったのは少し前だけれど、あたしはこんなに元気だもの!」
 パールはそう言うなり、ドロップスの缶をかき抱いたまま、メイドさんと親方のあいだを実にすばしっこくすり抜け、廊下を走り、階段を降りて逃げ去ってしまった。
「待って、パールちゃん!」
 みんなが追いかけようとした時、デイジーが思わず握っていた宝くじを手放してしまった。折悪しく吹き込んできた一陣の突風に、くじはひらひらと舞い上がり、窓から舞い散ってしまった。
「ああ、あたしの宝くじ! お願いネイ! 拾って!」
「ええっ!」
 ネイは戸惑いながらも窓から飛んで出て、桟から身を乗り出したデイジーとともに一枚、二枚と回収した。
「わたしたちはパールちゃんを…」
 階段を降り掛けた時、上がってきた職人さんの一人と鉢合わせした。
「ああ、親方、上得意の皆様が… どういうわけか、遠乗りのついでにふらっと店に立ち寄ってくださって…」
「なに、それはご挨拶をしなければ…」 オハラ親方は大あわてで前掛けを脱いで職人に預けた。「…お嬢さんたち、よろしくお願いしますよ!」
 残ったブライディーとポピーが表に出た時には、もうパールの影はなかった。
 あっちこっち数ヤード先に新しい家が、近くにはガラス工房の物置や離れ、荷馬車の厩舎が、高い木もあって子供が隠れるのはたやすいようだ。
 ブライディーはさっそく棒で占った。
「ちょっと大勢で来たのはまずかったかもしれませんね…」 とポピー。
「そうね、またてっきり幽霊とどうこうしなければならないかな、って思ったものだから…」
「って、いまは昼間ですけど…」

 ダウジングの棒は何棟かある、漆喰が染みになったり剥げ落ちたりしている物置小屋の一つを指し示した。
 開けっ放しのドアの中には石英の原石や、石灰、その他の原料になる鉱物が小さなピラミッドみたいに無造作に積み上げられていた。
 普及品の依頼があった時のために、溶かしてまた使う屑ガラスが積み上げられている小屋もあった。
 その中の一つをコンコンとノックして、ガラッと開けたブライディーとポピーはアッと声を上げた。
 セメント張りの床には、たどたどしいものの、れっきとした五芒星や、ダヴィデの星を組み合わせた複雑な魔法陣がチョークで書かれていて、奥の脚立にはドロップスの箱を抱えたパールがちょこんと座って隠れていた。
「パールちゃん、この絵は貴女が描いたの?」
「近寄らないで! このおはじきは、絶対にあげないから!」
「パールちゃん、そのおはじきが貴女にとって、とても大切な宝物だ、ということはよく分るわ。この絵も、ここでそのおはじきで遊びながら、線を結んでいったのでしょう? 線を結ぶことは自分で思いついたの?」
 パールはまたコックリと頷いた。
「おはじきで遊んで、線を結んで、何かいいことがあったのよね? だから、そのおはじきをとても大切にしているのよね?」
「うん、天国にいるはずのお母さんに会えたの」
 ブライディーとポピーはハッとして顔を見合わせた。
「オハラ親方さんは確か、職人さんの奥さんたちが交代で子供たちの面倒を見ている、そのための部屋が、あのおもちゃ部屋です、みたいなことを…」
 ポピーが言った。
「パールちゃんのお父さんは、奥さんを亡くされて、パールちゃんを身近で預かってもらえるこの工房で働いておられるのだわ」 ブライディーは描かれた陣の様子を読みながら頷いた。「やたらといろんな幽霊が出現する理由も分ったし、幽霊の他にチラホラいい運勢も寄ってくる理由が…」
「パールちゃんがゴミ捨て場で拾ったというあのおはじきは、凄い魔法アイテムだったんですね。…でも、それだったら回収は難しいですね」
「ええ。まさか、まさか別の降霊術で、毎週お母さんに会わせてあげるから、とも言えないし…」
「たとえ別の方法で、いつもお母さんに会わせてくたとしても嫌だわ! このおはじきたち、まるで生き物みたいに元気に動いたり、弾いたり弾かれたりするのだもの!」
「どうしましょう? パールちゃんのお父さんにお願いしてみましょうか?」
 ブライディーのほうを見て言った途端、ポピーの身体は、まるで生きている蜘蛛の巣みたいにスススーッと移動してきた星形の上に乗り、フッとかき消えた。
「ポピー!」
「嫌よ! 例えお父さんが言ったとしても嫌! お父さんは、新しく包装係に雇われた寡婦のおばさんと結婚しようとしていて、きょうだったその人にお弁当を作作ってもらってピクニックに行ったんだもの! だからあたしは『ちょっとしんどいから』と言って行かなかったんだもの!」
 これにはいままで、かなり恐ろしい敵や存在と戦ってきたブライディーもたじたじとなった。
(本当にどうしたらいいのでしょう? セアラ様やドイル様やアレイスター様、サダルメリク様や安倍様ならどうされるのでしょう?)
「分ったら早く帰ってね。でないと、さっきの子みたいに消してしまうわよ!」
 パールは錆びたドロップスの缶に入っているおはじきをジャラジャラと鳴らし、一つ二つ取りだした。
「…あたし、邪魔するつもりなの。お父さんが新しいお母さんと仲良くなって結婚するのを… このおはじきたちは、一生懸命お願いしたら何でも叶えてくれるの。トーマスさんが『お金が欲しい』と言って宝くじを買い続けていたから、あたしは当るようにお祈りしてあげたの。この黄色のおはじきを、トーマスさんの部屋の西側の窓辺に置いて、トーマスさんがいつも抽選前の宝くじをしまっている紙箱に、黄色の光が当るようにして…
 またジョンさんご夫婦が、赤ちゃんを欲しがっていたから、この赤いおはじきを東側の窓辺に置いて、ベッドに赤い光が当るようにしてあげたの…」
「ねぇパールちゃん…」 大きなメイドさんは少女の言葉を遮った。「そんな方法は一体誰に教わったのかな? 何かの本に書いてあったのかな?」
「うううん、この缶に、おはじきたちに耳をくっつけると、聞こえてくるの。どの色の石とどの色の石をどういう場所に置けばいいかを… 最初は途切れ途切れ、それも小さい声しか聞こえなかったから、よく分らなかったけれど、いまはハッキリと聞こえるようになってきているの…」
「それで… それで、パールちゃんに会いにきてくれたお母さんとは、どんなことをお話ししたの?」

「お母さんはね、お母さんはね…」 パールは時おり口ごもりながらも、たどたどしく続けた。「お母さんは、『いまでもお父さんのことを愛しつづけている。もちろんパールのことも』と言って抱きしめてくれたの。でもね、もう前みたいな暖かい温もりは感じなかったよ。お母さんは『お父さんがこんなに早く再婚を考えるなんて寂しい』と言っていたよ。『その人がパールに優しくしてくれるのならともかく、もし、万一、そうでない場合はパールが可哀相で』とも… だからあたし、邪魔しようと思っているの」
「分ったわ、パールちゃん」 大きなメイドさんは地面に描かれた魔法陣の動きに注意しながら心持ちパールに近づいた。「…そのおはじきはパールちゃんが持っていていいわ。もう取り上げようとしたりしないわ」
「本当?」
 まだ少し疑いの色を残しながらも、少女の瞳に少し輝きが戻った。
「本当よ。新しいお母さんになる人が、パールちゃんに意地悪をするかもしれない、と頭から疑ってかかるのは良くないわ」
「でも、いまは優しくても、結婚して時間がたって、新しい弟や妹ができた時が心配だ、と、お母さんは言っていたよ」
「分ったわ。じゃあ、今夜、思い切って、パールちゃんのお母さんと、新しくお母さんになる人と会ってもらいましょう。もちろん、パールちゃんもお父さんも一緒にね!」

「ええっ、じゃあ、あのおはじきはあの子のもののままにしておくの?」
「ウォーターフォード・ガラス、ロンドン工房」のお客さん用の部屋。
 窓の外は暑くもなく寒くもない穏やかな晩春のオレンジ色の夕暮れに染まっていた。
 遠くからわいわいと言う大勢の人の声と、荷馬車の揺れる音が近づいてくるのは、きょう一日ピクニックに行っていたというこの工房の主だった人々と家族だろうか…
 その話をした時、デイジーは目を剥いた。「小さな子に、ナイフや包丁や、その…拳銃を持たせたままにしておくようで心配です」 デイジーの魔法で次元のはざまから助け出してもらったポピーには、まさしく人ごとではなかった。
(ええ、わたしもダブリンにいた頃、あの子みたいに小さかった頃から、ある人から占いを教えてもらって、いろいろ言われながらもこうして続けているから、パールちゃんもお母さんの幽霊や、新しくお母さんになろうとしているかたがいい人で、正しく教えて上げたら、きっと立派な…その…おはじきの風水師になるんじゃないかしら?」
「そんなに上手いこと行くかしら?」
 デイジーはいつものやぶにらみの癖。
(どんな人間でも、そんなに完璧な人っていないよ) ネイは三人のメイドさんたちの真上で羽ばたきながら言った。(…大きく道を外れることがなかったら、無理矢理におはじきを取り上げる必要はないんじゃないかな」「わたし、オハラ親方とパールちゃんのお父さんに分ったことをお話ししてくるわ。デイジーとポピーはみなさんの同意が得られれば今夜にでも行う降霊会の準備をはじめて。…あの子供たちの遊戯室をお借りすればいいと思うのだけれど…」

「ええっ、パールが… 一連の幽霊騒動はパールの仕業だったんですか!」
 ブライディーからの報告を聞いたオハラ親方とパールの父親はのけぞらんばかりに驚いた。
「お二人とも、どうか怒らないであげてくださいね。パールちゃんはその…わたしと同じように霊感の強い子なのでしょう。それが亡くなったお母さんに会いたいとい強い気持ちが、あのおはじきを見つけ、いろいろ試しているうちに幽霊の召喚術やちょっとした幸運の招き入れかたを少しずつ身につけたのだと思います」
「すみませんオハラ親方。私の娘がご迷惑をおかけしていただなんて… いや、再婚話で浮ついていて、娘に寂しい思いをさせていた私にも責任があります。クビにされても文句は言えません」
 オハラ親方はしばらく目を閉じ腕組みをして考え込んでいた。が、ややあってゆっくりと口を開いた。
「おまえのせいじゃない。パールちゃんのせいでもない。ブライディーさんたちが原因を明らかにしてくれたのだから、もはや有象無象の幽霊たちをむやみに恐れる必要もなくなった。問題はどう解決するかだが…」
「私が… 私がパールにその魔法のおはじきを手放すように説得します」
 ブライディーはまた自分のことを引き合いに出し「おはじきは取り上げないほうがいいと思います」と意見を述べた。
「うーん、そんなものを一体どこで拾ってきたのでしょう…」 パールの父は困りはてた様子だった。「…私が、もっときれいで素敵なおはじきを作って上げる、と言ってもだめでしうか?」
「パールちゃんはもともと霊感の強い子なのでしょう。だから、いままで何十年、もしかしたら何百年打ち捨てられたままになっていた魔法のおはじきを拾ったんです。あのおはじきがあれば、いつでも亡くなったお母さんに会えることが分ったいまでは、他のどんなものにも代え難い宝物なのでは…」
「パールちゃんが魔女ではなく、この工房の幸運の乙女になるように、みんなでいいほうに持って行けたら…」
「とりあえず降霊会をやってみましょう」
 大きなメイドさんは二人の目を見て言った。

 その夜、「ウォーターフォード・ガラス ロンドン工房」の職人たちとその家族が寝静まり、さらに真夜中を過ぎた頃、三人のメイドさんとパール、パールの父と再婚を予定している相手の女性、オハラ親方の七人が、おもちゃ部屋に集まった。
 別の部屋から大きな円卓が持ってこられ、とりあえず思い思いに席に着いた。
「ブライディーさん、パールちゃんのお父さんの再婚相手って、やはり亡くなられた前の奥様に似ているのですか?」
 ポピーが小声で訊ねる。
「いえ、さっき写真を見せて頂きましたが、特にそういうことは…」
「似ていてもいなくても、修羅場になってしまうかもしれませんね」
「その時はデイジーに頼まないと…」
「本当のお母さんの幽霊を封印したりすれば、恨みますよパールちゃんは…」
「その前の口論の段階で、傷ついてしまうでしょうね… そうならないことを祈るのみだわ…」
 かんじんのデイジーは、やっとの思いで拾い集めた宝くじを、懲りずに、封筒にも入れずに剥き出しで握り締めていた。
「…金運を司る、黄色のおはじきだけでも貸してくれないかなー」
「おいおい、ぼくらは使命を果たしにやってきているんだよ。いい加減にしないとまた足を引っ張ってしまうかもよ」
 ネイは円卓の真ん中に浮かんで羽ばたきながら溜息まじりに言った。
「でも百ポンドは大金よ。稼ごうと思ったら、何時間働かなくちゃいけないか…」
「でもどうして百ポンドなんだい? 同じ事なら一等、二等の二千ポンド、千ポンドが入るように祈ればいいのに…」
「それは、ここの職人さんが当てたのが百ポンドだからよ。あのおはじき、魔力がセコいから、百ポンドがせいぜいなのよ、きっと…」
 デイジーが唇を尖らせる。
「そうかなぁ… いろんな時代の幽霊を入れ替わり立ち替わり大勢呼び寄せられるほどの魔力が、果して『セコい』と言えるかなぁ…」
 ネイは、縫いぐるみソックリの、ほとんどない首をぐいっとかしげる。
「うるさいわね。術者がおしっこ臭いガキンチョだから思いのままにならないのよ」
「そうかな。デイジーとそんなに年は変らないよ、あの子… ぼくは他に理由があるような気がするけど…」

「パール、眠たくないかい?」
 父親が心配そうに顔を覗き込んだ。
「大丈夫だよ。あたし、とてもわくわくしてきた」
 父の新しい恋人と、なるべく目を合わせないようにしていた少女は、わざとなのか元気いっぱいの声で答えた。
「えーっと、燭台は円卓の真ん中に置いて… 七人の席順も決めないと… それぞれが手を繋いで…」
「そんなこと必要ないもの!」 準備していたブライディーにパールが言った。「…ロンドンでものすごく流行っている降霊会の写真や挿絵は、新聞や雑誌で見たわ。でも、あんなものものしいことはやらなくていいのよ。 もちろん明りもつけたままでいいし、いまのまま、好きなところに座って貰っていいの。…このおはじきさえあればね」
 パールは自信たっぷりに言った。
「本当に? …その、幽霊は明りを嫌うんじゃあ…」
「だって、蝋燭の明りがなければ、せっかく会いに来てくれるお母さんの顔が見えないわ」
 そこで一同は思い思いに固まって席に着くことにした。
 三人のメイドさん、パールの父親とその再婚相手とオハラ親方。そしてパールが三角形を作るようにやや間隔を置いて不揃いの椅子に腰掛けた。
 ジャラジャラとドロップスの缶を二三度振った少女は、おもむろにおはじきを、何度もニスを塗り直した跡のあるテーブルの上にカタカタと取りだした。
 赤、青、緑、黄色、それぞれの色の薄いもの、濃いもの、色と色が渦巻状に混じったもの、金粉や銀粉がかかったようなものなどが、蝋燭の光のもとで神秘的に輝いた。
「ただのガラス細工のおはじきなのに、とても…とてもきれいだわ… やっぱり魔力がこもっているからかしら?」
 ポピーが囁いた。
「もし売りに出せば、きっと高い値段が付くでしょうね…」 デイジーは溜息まじりに言った。「…ああ、あたしもメイドさんなんか辞めて、お宝探してゴミ捨て場を回ってみようかしら…」
「ブライディーさんみたいにダウジングの能力があれば、それもいいかもしれませんね。…でも、でも、いま実際に幽霊が現れたら『修羅場』かも…」
 パールはテーブルの上に散らばったおはじきのうち、一番手元の薄桃色に輝くものを親指と人差し指でパチンと弾いた。そのおはじきはスーッと滑って、濃い青色のおはじきに当った。その軌跡は、細い銀色の線となってテーブルの上に残った。

 小さな右手の、小さな親指と人差し指が、今度はその青色のおはじきをパチッと弾いた。青色のは黄色に当たり、黄色は赤色のに当った。右手では難しそうな体勢のところでは、左手で器用に弾いた。おはじきたちの軌跡は、まるで定規に鉄筆を添えて引いたみたいに鮮やかに白く輝き、じょじょに星形の輪郭をあらわにした。
「お母さん、お母さん見て! あたし、とても上手になったでしょう? だからまた来て一緒に遊んで! 上手なはじきかたや、新しいゲームを教えて頂戴!」
 と、燭台に立てられた五、六本の蝋燭が、風もないのに急にゆらゆらと揺らめいたかと思うと、一本だけを残して次々にフッフッと消え続けた。
(すわっ!) とばかりに椅子から立ち上がろうとしたデイジーとポピーを、ブライディーはそっと両手で肩を押さえつけて制した。 パールの父親は、懇意な女性をかばうかのように、彼女の背中に手を回した。
 オハラ親方は油断なく部屋じゅうをみわたした。その目線の先、薄ぼんやりと白い霧か霞の塊のようなヒトガタが現れた。
「出た!」
 デイジーも気が付いて指さした。
 パールの父、親方、それに女性はここのところ不本意にも幽霊を見慣れているせいか、生唾を飲み込む程度で、傍目には落ち着いているようにさえ見えた。
「お、おまえなのかい?」
 パールの父親は凍り付いたような表情、こわばった声で訊ねた。
『あなた、ひどいですわ… わたしが亡くなって二、三年にしかならないというのに、もう後添えを貰おうとなされるなんて…』
「俺は… 俺は… パールに母親がいないとかわいそうだと思って…」
『その割りには、彼女はあなたとばかり話したり、きょうみたいに遊んだりして、ほとんどまったくパールに話しかけたり、遊びに誘ったりしてくれませんね…』
「その子が… パールちゃんがわたしをはなから毛嫌いして、近づいて話しかけようとすると逃げてしまうんです…」
 女性は立ち上がり、パールの父親の背に隠れつつ、さらに部屋から逃げるようなそぶりを見せながら言った。
「ブライディー、あの幽霊は霊体…つまり本物だ!」
 テーブルの下、ブライディーの膝の上に隠れていたネイが顔を覗かせて言った。
「逃げないでください! もう少しお話しをしてください!」
 立ち上がったブライディーがドアとのあいだに立ちふさがるようにして制した。
「でも…」
「でも、相手は幽霊だよ」
「仮に正しいことを言っているにしても、生きている人々にいろいろ言うのはどうかと…」
 デイジーもポピーも、父親と女性のほうの肩を持ったが、ゴースト・バスターとして招かれたとすれば当然かも知れなかった。
(おかしい… わたしたちは本当のパールちゃんのお母さんを知らないから、何とも言えないけれど、何かおかしい感じがするわ…)「パールちゃんのお父さん、あの幽霊は本当に、奥さんのだとと思いますか?」
 ブライディーは父親の後ろに回って囁いた。「…感じは似ています。しかし、妻はあんなふうに猜疑心が強くはなかった。パールという心残りを残してこの世を去らねばならなかったから、性格が変ったのかも…」
(このままでは文字通り「修羅場の降霊会」になってしまうわ…)
 困惑し、何気なく少し後じさりかけたブライディーの靴が何か薄っぺらい本のようなものにつまづきかけた。一本だけ残された蝋燭の明りが照らす先にふと目を落とすと、それは大判の絵本だった。
「イギリスの、いろんな時代の人々」
 表紙にはピクト人や、ノルマン人や、デーン人や、中世の衣装をまとった人々が描かれていた。
「お母さん、もっと言ってあげて!」
 パールはまた指先でテーブルの上のおはじきをはじこうとした。
 大きなメイドさんは電光のように閃いた。「パールちゃん、このおはじきは、互いに当て合いっこをしてはだめ! 指で弾いてもいいけれど、別のに当ててはいけなと思うわ。おはじきたちはそう言ってなかった?」
「そ、そう… 『指先ではじいて使って』とは言っていたけれど、当てると時々『痛いッ!』とか言って(変だな)と…」
「当てないで、近くに寄せていくだけにしてみて!」
 パールは言われた通りにした。
 すると、心なしか揺らめいていた母の幽霊の表情が、柔和なものに変った。
『…女の子というものは、新しい母親に対しては過敏になるものです。…貴女が夫かパールに対して優しく、愛して下さるのなら、わたしはもう特に何も申し上げることはございません』
「お母さん!」
 パールは次第に薄れていく幽霊の胸に飛び込もうとしたが、そこにはもう何もなかった。

 一夜明けた翌日は、とても爽やかな初夏のような陽気になった。
「ああ、早く心霊研究協会のお屋敷に戻らなければ、ドイル様をはじめ皆様が不自由なさっていますわ…」
 ブライディーは大急ぎで小さな旅行鞄の荷造りをしていた。
「でも、実際に幽霊と対面できたんだから、良かったじゃない」 デイジーはまだ粘り強く宝くじを握り締め続けていた。「…お姉ちゃん一人だけだったら、幽霊になめられて、こんなにすんなり行ってなかったかもしれないでしょう?」
「…でも、おはじきは、おはじきではなくて、当て合いをするものじゃあないって、よくお分かりになりましたね」
 ポピーはあれからずっと感心し続けている。
「うろうろと現れていた幽霊たちは、本当の幽霊ではなくて、パールちゃんが普段見ていた学習絵本の挿絵だったんじゃあないかしら、と思ったら閃いたのよ。実際にいた人間の霊魂や怨念を召喚しているのじゃなくて、単にイメージを増幅しているだけじゃあないかしら、って…」
「ということは、パールちゃんのお母さんも幽霊ではなくて、彼女の心の中にある思い出を増幅させたものだったんですか?」
「ええ。だからお母さんの気持ちじゃあなくて、パールちゃんの心の奥の気持ちだったはずよ」
「でも、何か忘れているような気がするなぁ…」
 ネイは宙をくるくると旋回しながら言った。
「宝くじに願をかけることでしょ。この宝くじ、パールちゃんに預けて帰ろうかしら…」
「デイジー!」
 ブライディーが目を吊り上げる。
 パールの父親とオハラ親方が、町の運送屋に納品に行く荷馬車の支度ができたことを知らせに来た。

「本当に… 本当にあのおはじきをそのまま持たせておいていいんでしょうか?」
 正体は自己増幅させた幻影だったとは言え、亡き妻の「幽霊」を見せつけられたパールの父の顔には、まだ完全に血の気が戻っていなかった。「ええ、でもくどいようですが、当て合いをして遊ばないことが大切です。誤って使ったので、幽霊がぞろぞろ…みたいなことになったのですから…」
「分りました。しっかり言い聞かせておきます」
 荷馬車の御者台には親方がいた。
 ドロップスの缶を抱いたパールと、新しいお母さんが見送りに来ていた。
「本当にもう当てっこをして遊んじゃあだめなの?」
「ええ。当てっこは他のおはじきでして、そのおはじきでは『当てないように』弾いて遊んでね」
 荷馬車の荷台の空いたところに乗り込もうとしたブライディーは、はたと足を戻した。
「オハラ親方、あと十分…十五分ほどいいですか?」
「いいよ、お嬢さんがたは恩人だからね。フィオナ様にもしっかりお礼を申し上げておくよ」
 馬車から降りたメイドさんは、長いこと漆喰を塗り直していない物置の一つに向かった。「お姉ちゃん、どうしたの?」
 デイジーやポピー、それにパールが追いかけてきた。
 そこは文字通りがらくた置き場で、ガラスの工房ではおそらく永久に使わないようなフイゴや、柄の長い金槌などが雑然と放り込まれていた。
 みんな、手伝って! この奥のほうにあるかもしれないものを掘り出すのよ! 手を怪我しないように気をつけてね!」
 みんなは一つ、二つと、埃をかぶった鍛冶屋の道具を外へと放り出した。
「あーん、よそ行きのドレスなのに…」 デイジーは不平たらたらだった。「…これだったら降霊会で恐ろしい幽霊と対決しているほうがまだマシよ!」
 パールの父と、オハラ親方、職人のうちの手の空いた者がきて、ガラクタは見る見るうちに外へ積み上げられた。
 ブライディーは、パールの新しい母から手渡された雑巾で、その板のようなものを丁寧に丁寧に拭いた。
 それは、コリント・ゲームのようにあちこちに一ペニー銅貨ほどの穴が開けられた大きめの洗濯板くらいの板だった。
 ほとんど消えかけてはいるものの、それぞれの穴の近くには、英語でもラテン語でもギリシア語でもない、どこか遠い外国の、見慣れない文字で何事かが記されていた。
「これは?」 みんなが異口同音に訊ねた。「盤ですわ。風水おはじきの。やはり当てて遊ぶのじゃあなくて、この板の穴を狙って入れて占う…ものなのだと思います」
 盤を渡されたパールは、早速ドロップスの缶からおはじき…ではない、色とりどりのガラス玉を取りだして、手前の線から次々と弾いた。見事に穴に入ったものもあれば、外れるものもあった。
「入らなかったおはじきに当てちゃあいけないのなら、難しいわ。遠いところの穴から狙うのがコツみたい…」
 パールはさっそく夢中になった。
 ブライディーは(もうこの工房には、ささやかないいことは起きても、とんでもないことは起きないでしょう)と確信した。
 デイジーは、ここぞとばかりにまた、宝くじを握り締めてブツブツと祈っていた。

     (次のエビソードに続く)


 「これ、いかがですか?」幽霊

「ねぇポピー、今夜、あたしたちだけで幽霊を見に行かない?」
 ブライディーが市場に、配達されないもの…台所の道具類など自分の目で確かめて買いたいもの…を買いに行っている隙に、デイジーが囁いた。
「えっ、あたしたち二人だけ、でですか?」
「そうそう、たまにはね」
「でも相手は幽霊でしょう? 万一襲いかかってきたら…」
「その時は逃げましょう! 退治の依頼は心霊研究協会に来ているのだから、逃げたらおしまいよ!」
「でも、でも、恐ろしいですわ」
「それが恐ろしくなさそうなの。面白そうなのよ」
「面白い幽霊って、どんな幽霊なんですか?」
「それは行ってからのお楽しみよ」
(おやおや、二人で一体何の相談だい? ブライディーさんがいたらつまらなくなる…だけど多少危険、ということなら、おいらがついて行くよ!)
 話を聞きつけてネイが飛んできた。
「ネイ、あなたはお姉ちゃんの『つきもの』でしょう?」
(また勝手なことをして、どうなっても知らないよ!)
「大丈夫、ポピーが一緒だもの!」
 その一言でポピーは一緒に行かざるを得なくなってしまった。

 夜更け、デイジーとポピーがやってきたのは、ガス灯に照らされた、古い煉瓦の石畳が敷き詰められた、さして広くもない、かと言って狭くもない、中央にこれまた古い大理石の天使の噴水のある円形の広場だった。
「ここって、日曜日にはいろんな食べ物の屋台が集まるところよね?」
 ポピーがピンポン球くらいの丸い毛糸玉が付いた丈の短いケープをかき合わせて言った。
「そうよ。『フィッシュ・アンド・チップス』とか、いろんな種類のプディングの切り売りとか、パンやケーキ、お菓子の量り売りの屋台が並ぶところよ」
 二人の小さなメイドさんは茂みで隠れるようになっている古いベンチに腰を下ろして、あたりを見渡した。
 朧月夜の下、片手にジンの瓶を持った男が一人、訳の分らない戯れ歌を歌いながら噴水の右から左へ横切って行った。
「こんな見通しの効くところに出るの? …その…幽霊が?」
 重ねて訊くポピーに、目をパチッと開いたデイジーは「うん」と小さく頷いた。
「…出るらしいよ」
「どんな幽霊?」
「それは…」 言いかけて口をつぐむ。「…あまり最初から分っていたらつまらないじゃない。現れなかったり、現れても期待したほどではなかったりしたら特に」
「でも、出たらどうするつもり?」
「もし、悪さをしてきたら、あたしがやっつけるわ。それ以外は逃げましょうね」
「ブライディーさんがいないと、怖いわ」
「お姉ちゃんがいたら必ず何とかしてくれた、ということもなかったじゃない?」
「それはそうかもしれないけれど…」
 十分…二十分…三十分…一時間…
 何事もなく過ぎた。
 遠くビッグ・ベンの鐘の音が、ゴーン、ゴーンと真夜中を告げた。
 二人の小さなメイドさんは、さすがに眠くなって抱き合うようにして、持参した古い毛布をかぶってうつらうつらしていた。
 と、コツコツという足音がした。
 彼女たちはパッと目を開くと、茂みの奥に隠れた。ベンチに毛布を忘れてきたことに気が付くと、ずるずると引っ張り込んだ。
 足音の主は二人の制服警官だった。
 警官たちはランプを掲げて外周の建物と茂みのあいだを調べていた。
「『あの噂』って本当かな?」
 若いほうの警官が言った。
「ばか言え、誰かの作り話に決まっているじゃないか。人間の幽霊ならともかく、荷馬車の屋台…そんな大きなものが…」
 年配のほうは取り合わない。
「でも噂になるってことは、何人かの人間が見た、ってことじゃないか?」
「だから、酔っぱらいが幻を見ただけの話さ。ここは天下の公道だからな」
 警官たちがやって来かけたので、デイジーとポピーは茂みを揺らさないようにして移動した。
「おい、パトロールの範囲は広いんだ。いい加減で進まないと夜が明けてしまうぞ」
 年配の警官が急かし、若い警官は後戻りした。二人のメイドさんたちはホッと肩を撫で下ろした。
 警官たちが去ってしばらくした頃、どこからともなくかすかに、ヴァニラ・クリームと、メープル・カラメル・シロップのような香りが漂ってきた。
「こんな夜中に、お菓子かプディングを作っているような家があるのかしら?」
 ポピーは顔を上げて外周を取り巻く家々の窓を眺めたものの、常夜灯のようなほのかな明りを除いて、大きな明りが灯っているところは一つもなかった。

 カステラを焼くような、フルーツ・ケーキを焼くような匂いは次第に、ますます濃くなった。まるでパン屋かケーキ屋が目の前にあって、客寄せにわざと派手に匂いを立てているような感じさえした。が、そんな店はどこにもなかった。
「おかしいですわね」
 ポピーの顔から次第に赤味が引きはじめた。
「おいしそうな匂いを立てる幽霊なんて、あたしもはじめてよ。だから、実際に嗅いでみたかったの」 デイジーは鼻を春の夜空に向けてヒクヒクとさせた。「…でも、お姉ちゃんやネイにそんなことを言ったら、また『いやしい』とか何とか言われそうでしょう? だから貴女だけを誘ったのよ」
 お菓子の香りはさらに広場全体に立ちこめた。シナモンやナツメグ、シロップ漬けのリンゴや桃やパイナップル、サクランボや洋梨、柑橘類の香りもして、まるで大きな高級洋菓子店の店の中にいるようだった。
「これ、いかがですか?」
 どこからか、か細い女性の声がした。
 二人は見張りの兵士のように素早く前後左右を見渡したが、人影はもちろん、人の気配もどこにも感じられなかった。
「これ、いかがですか?」
 また同じ声がした。年齢のほどはよく分らなかったが、強いて言えば若い女性のような声だった。
「『これ』って何よ?」
 デイジーは意を決して問い返した。
「これ、いかがですか?」
「だから、見せてくれなくちゃ分らないでしょう?」
「デイジーさん、声が大きいですよ! わたくしたちだけに聞こえているのかもしれませんでしてよ」
「そ、そうよね…」
 と、正面の噴水越しに白い霞のようなものがかかったかと思うと、一匹のロバがひく、小さな荷馬車のような影が、かすかに輪郭を現した。
「あ、あれ…」
 二人は目を見張った。
「どうします? 逃げます?」
 ポピーが震える声で訊ねた。
「い、いえ、あたしたちはいちおう『英国心霊研究協会』のメンバーなのよ! ゆ、幽霊を見て、い、一目散に逃げ帰ったということになったら、兵隊さんが敵前逃亡したのと同じじゃない!」
「それは、ちょっと違うかな、とも思いますけれど…」
「と、とにかくもっとよく見てみましょう!」
 デイジーはポピーのケープの飾り玉を引っ張りながらペンキで花畑が描かれた小さな荷馬車に近寄った。
 幻灯機の映像のようなロバはこちらを向いておとなしくしている。花文字で読みとれないものの、店の名前が刺繍された、白いスカーフに白のエプロンドレス姿の少女が、笑顔でいろんなケーキやクッキーの乗った木の盆を差し出した。
「これ、いかがですか? どうか一口召し上がってください」
「どうしよう?」
 小さなメイドさんたちは顔を見合わせた。「頂いてみようかな」
 デイジーがカスタード・クリームの上に干しぶどうがのっているケーキに手を伸ばしかけた。
「デイジーさん、お財布は持ってこられましたか? いくら、その…相手が幽霊で、ケーキも幻でも、お代は払わなくてはいけないかもしれませんよ!」
「しまったわ! まさかお金が要るとは思わなかったものだから、お財布は持ってこなかったわ。ポピー、貴女は?」
「わたしは一応持って参りましたわ」
 ポピーは小さな巾着袋を取りだした。
「これも、いかがですか? 当屋台のオリジナルでございますよ」
 少女の幽霊は、切り刻んだ色とりどりのゼリーが乗ったケーキを勧めた。
 ポピーは思い切って手に取り、一口食べた。 不思議なことに、ちゃんと歯ごたえがあり、味も美味しかった。
「ねぇ、ポピー、帰ったら返すから、お金、貸してくれる?」
「いいですよ」
 まるで昼間に普通のお菓子の屋台の前に居るような会話だった。
 デイジーは少女に勧めるお菓子を一つ、二つ、三つと食べた。幻のはずなのに、口当たりが良く、味もあまり甘くなくておいしく、お腹も次第に膨らんできた。
「これもぜひ… 荷馬車の中に、まだまだ別のもございますよ、ぜひ荷台に上がって…」
「見せてもらおうよ、ポピー」
「やめておきましょうよ、デイジーさん」
「わ、悪いけれど、お腹もいっぱいになってきたし、そろそろお勘定を…」
「当屋台は、一週間に一度、日曜日にこの広場だけで営業させて頂いています。ぜひ、日持ちのするもののお持ち帰りを…
 こちらのはいかかでしょうか?」
 少女の幽霊は笑顔で固く焼いたクッキーを示した。

「ねぇデイジーさん、いくら人なつこくって害がなさそうでも、そこは幽霊、いい加減にしておかないと大変なことになるかもしれないんじゃありませんか?」
 ポピーはデイジーの背中を小突いた。
「ちょっと待ってよ。この屋台のケーキもクッキーも、とても美味しいじゃない。あたし、せっかくだからもっと食べて帰るわ。…あの、お茶を頂けません? 『お茶は無料』だったら嬉しいんですけれど…」
「お茶はサービスさせて頂きます。…こちらのアーモンド・クッキーはいかがでしょうか?」
 店員の少女が言うと、不思議なことに小さな荷馬車が、まるで馬数頭でひく王族の家馬車みたいに広くなった。ふと見ると洒落た小さなテーブルと、椅子が二脚あった。デイジーは座って店員が次から次へと勧めるお菓子を手当たり次第に食べた。
「デイジーさん、そろそろお勘定を… わたしもそんなにたくさん持ってきているわけではありませんよ。もし足りなくなったらどうするんですか?」
「大丈夫よ。こんなにいろいろ熱心に勧めてくださるのだから、きっと『お試し値段』になっているんだと思うわ」
 そう言えば、この「幽霊ケーキ・クッキー屋台」の品物には値札がまったく付いていなかった。
「わたし、聞いてみてもいいでしょうか?」 ポピーが訊ねると、少女は
「一シリング六ペンスです」 と答えた。
 相場より少し高い感じはしたが、食べまくっている割りには暴利というほどでもなく、それくらいのお金なら財布に入っていた。
「デイジーさん、本当にそろそろお引き取りしましょう。これらのお菓子は幻、おいしい味がしてお腹が膨らむのは、そういう気がするだけですよ」
「そぉ、仕方ないわね。お名残り惜しいけれど…」
 デイジーはポピーの財布で払うと、「有難うございました」と深々と一礼する店員を背中に、荷馬車を降りた。
 降りてみて二人の小さなメイドさんはびっくりした。すぐ隣に、よく似た荷馬車が止っていた。
 この屋台の店員の少女は、痩せていて陰気な顔で、声まで暗かった。おまけにロバまでしょぼくれていた。
「あの、お一ついかがですか?」
 店員は文字通り幽霊のような声で試食用の菓子を勧めた。そのケーキは、ホイップ・クリームがぐしゃぐしゃで、まるで汚れた手で触り続けたみたいなひどい姿だった。クッキーは、ヒビが入ったり、欠けたり割れたりしていて、古い油の饐えた臭いがし、おまけにところどころにもぞもぞとウジ虫のようなものがうごめいていた。
「ご、ごめんなさいね。あたしたち、もうお腹いっぱいなの。お金もそんなに残っていないし… 本当よ!」
 さすがのデイジーも慌てて立ち去ろうとしたが、その正面に陰気な店員が立っていた。「…お代は要りません。試食して頂いて、ご感想をお聞かせ頂けるだけでいいんです」
「でもね、あたしたち、満腹だから、せっかくおいしいものを頂いても、おいしいと思わないかもしれないの」
 デイジーは不気味なお菓子たちを一目見てブルッと震えた。
「ご感想を頂けないと、私、せっかく働かせて頂いているこの屋台をクビになってしまうんです。どうか、どうか一口お味見わしていってください!」
「そうね… じゃあポピー、貴女、前のお店で何も食べてないでしょう? 食べれるわよね?」
 振り返ったものの、つい先ほどまで一緒にいたはずのポピーの姿はどこにもなかった。「ポピー!」
 デイジーは背筋が凍る思いがした。
(…待てよ、あたしには『ダンジョン・オープナーとシーリング』の術があるじゃない! 幽霊なんか、次元の隙間に封印してしまえばいいんだ。だから、怖がらずにここに来たんじゃないの?)
「同じ幽霊でも、一方では機嫌良くお菓子を食べてお金まで払われたのに、もう一方では封印してしまおうとお考えになるなんて、冷たいですね。分け隔てですね…」
 地獄のメイドのような少女は、さらに声を低めた。
「いや、決してそういうつもりでは…」
 とはいうものの、
「それでは、こちらはいかがですか?」
 と次々に出されるお菓子やクッキーは、汚物と見間違うほどの凄惨な姿で、思わず鼻をつまみたくなるほどの臭気を放っていた。
「どうぞ一口、お召し上がりになってください。そして、ご感想を頂ければ…」
「本当の、本当に、一口食べて感想を言えば見逃してくれる?」
「ええ。お約束します」
 デイジーは盆の中から、比較的ましような、赤い血のようなシロップがかかったケーキを手に取った。
「これって、ラズベリー・シロップよね?」
「そう思われますか?」
 少女は不揃いな黄色い歯を剥いて微笑んだ。

 デイジーは恐る恐る口を少しだけつけてみた。オイル・サーディンがさらに腐ったような、恐ろしい味がし、あわてて「ペッペッ!」と吐き出した。
「どうです、いかがですか?」
「いまひとつだわ。口に合わないからやめておくわ」
 デイジーはハンケチで唇を拭った。水でうがいをしたくし仕方がなかった。胃も腸も焼け付くようではらわた全体がでんぐりかえりそうだった。
「では、こちらのはどうでしょう?」
 少女はさらに、牛か、豚か羊の内臓をぶちまけたようなものを持ってきた。それはもうお菓子やケーキと呼べる代物ではなく、料理ですらなく、「げてもの喰い大会」の献立でもなかった。唯一、例えられるとかれば魔宴(サバト)のコースだった。
 デイジーは必死で口元を押さえながら逃げだそうとした、するとまた正面に、あの少女がさらにひどいものを持って立ちふさがった。
「これはどうでしょう? これはいかがでしょうか? とにかく、一皿でも気に入って、全部食べて貰えるまで帰しませんわよ」
 ついにデイジーの目から涙がこぼれた。
「ごめんなさい。あたし、とてもじゃないけれどこんなもの食べれないわ。日曜新聞の『ドッキリ写真』か何かじゃあなくて?」
 店員の少女はとても悲しそうな顔をした。
「そんなふうに思われるのですか?」
「悪いけれど、これ以上勧めるのなら、呪文で次元の隙間に封印してしまうわよ」
「怖くはありませんわ! わたしも…わたしもお菓子とケーキ、クッキーに命を賭けているんです。…そして、命のほうはもうありません! 残されたお菓子だけが、わたしがこの世にいたことを証明するものですわ!」
 少女は何年も寝かせたニシンの油漬けの澱のようなものがかかった、卒倒するくらいのひどい臭気の代物を投げかけた。
「もう、堪忍袋の緒が切れたわ! そのえげつないモノと一緒に地獄に堕ちたらいいわ!」
 小さなメイドさんは短く呪文を唱えながら、簡単な印を切った。
 しかし、少女もニシンも吸い込まれて消えることはなく、逆に新たな老若男女の店員たちが、解体中のタコやイカや、けばけばしい色の毒キノコや、瓶詰めの何かの生き物の胎児を手にしてぞろぞろと出てきた。
「これ、いかがですか?」
「ぜひ、一口、ご試食ください!」
「珍味ですよ!」
「ここで食しておかれないと、もう一生、二度と召し上がる機会はございませんよ!」
 ひどい料理の数々が、次から次へと投げつけられ、デイジーはその底なし沼のような海にブクブクと沈んでいった…

 目を覚ますと、そこは「英国心霊研究協会」の屋根裏のメイド部屋で、きれいな寝間着に着替えさせられていたものの、まだかすかに臭い匂いがした。
「デイジー、大丈夫?」
「こひどい目に遭ったな」
 ブライデなどィーやポピー、そしてドイルが心配そうに覗き込んでいた。
「…あろうことか、ヒビの入っていたどぶの石蓋が割れて、落ちられたのですよ。すぐに引っ張って助け上げたんですけれど…」
 ポピーがすまなさそうに言った。
「そう、どぶに落ちたの… それだけ?」
「ええ、それだけだと思います。噴水のお水で下洗いはしたのですが、辻馬車を止めるのが大変でした。何倍もの料金を払って下さったドイル様にお礼を申し上げてください」
「ごめんなさい、ドイル様。でも… でも…最初の幽霊が勧めてくれたお菓子やクッキーは美味しかったんです。本当です…」
「デイジー、この後に及んでまたそんなことを…」
 大きなメイドさんが目を吊り上げた。
「『最初は親切だが、調子に乗るとひどい目に遭う、というのはおとぎ話でもよくある話だ」
 ドイルはわざとパイプの煙をプカプカと吐き出しながら言った。
「…今夜も出かけるわ! そして、今度は美味しいお菓子やクッキーを出してくれても、有無を言わさないで次元の隙間に封印してやるわ! 今夜はちょっと油断しただけよ!
 相手がどぶだったら、呪文が効くはずないし…」
「デイジー、貴女って子は、こんな目に遭ってもまだ懲りないの?」
「そう責めるな、ブライディー。試食の食べ物を勧められ、なおかつそれが、いい匂いを立ておいしそうだったら、ぼくでも食べて見ていたかもしれない。しかし、ギリシア神話などでは、地獄の食べ物を一口でも食べたら最後、もうこの世には戻れない、という伝説もあるからなぁ。
 今回はこの程度で幸運だったと言える。以後は十分気をつけたほうがいいだろう」
 ベッドの上に起きあがったデイジーのお腹が「グウーッ」と鳴った。
「おかしいわ… 最初の屋台であんなにいっぱい食べたはずなのに…」
 ションボリしたものの、ドイルと他のメイドさんたちの顔には微笑みが戻った。


 「嵐の夜の釣り人」

 またですか?
 またあの話を聞かせろ、と?
 世の中には変った人が多いねぇ…
 いいですよ。もう一品何か注文して下さったら、お話ししますよ…

…あそこに、いまは使われていない突堤が見えるでしょう? 穏やかな春の海峡。「ひねもすのたりのたりかな」ってね。
 その向うに灯台が見えるでしょう? 灯台守は偏屈な爺さんでねぇ… 食料品や日用品を届けたら、入口のドアのところに代金が裸で置いてあるんでさぁ。この二十年で顔を見たのは二、三回かなぁ… 仕事ぶりは恐ろしく真面目でね。あっしの知る限り、灯火が灯らなかった夜は一晩もありやせん。
 で、その釣り人は、決まって嵐の夜に出るんでさ。一寸先も見えない吹き降りの夜にね。「そんなのにどうして見えるんだ?」と、思われるでしょうね。おっしゃる通りです。 最初に見たのは七年前に他界したあっしの女房でね…
 ちょうどいまごろの季節でした。なま暖かい、蒸し暑い、まるで夏のような日が二、三日続いたかと思うと、急に北極から北風と寒流が押し寄せて、ゾクゾクと寒気がして風が渦巻き、滝のような雨が降ってきた夜のことでさぁ。
 もちろん客なんか一人も来やしません。
(早終いをしようか) そう考えていた時のこと。
「ちょいとあんた、あれを見てごらんよ」
 窓際に立っていた女房が素っ頓狂な声を上げました。
「『あれ』って?」
 あっしは商売もののジンをチビチビやってました。
「こんな天気なのに、突堤で釣りをしている人がいるよ。灯台の明りが回るのをやめて、ずっとその人を照らし続けているよ」
「莫迦言え、この天気だ。一ヤード先だって見えるもんか」
「でも見えるんだよ。嘘だと思うのなら、見に来てごらんよ!」
 あっしはノロノロと立ち上がり、女房の傍らに立って目を凝らしました。
 すると、そいつは確かに見えたんです。
 このとんでもない嵐の夜に突堤の端に腰掛けて、荒れ狂う海に竿を伸ばし、釣り糸を垂れていました。
 帽子をかぶっていたの、いないの、顎がとがっていたのいないの、ひげがあったのなかったの、ゴム引きのレインコートを着ていたのいなかったの…いまとなっちゃあよく覚えていません。
 でもとにかく見えたんです。暗い舞台の、ランプのスポットライトに照らされた俳優みたいに止った黄色い明りに照らされた人影が。
「本当だ…」 あっしは思わず目をこすりました。
 次の瞬間、灯台の灯火は、ヘソを曲げていたのをやめたみたいに再び回り始めました、 それで、男の姿は見えなくなりました。
「ねぇあんた、見ただろ?」
「ああ…」  あっしは認めざるを得ませんでした。「灯台守の爺さんかもしれないな。俺たちを驚かそうとして…」
「あんた莫迦言っちゃあいけないよ。爺さんだったら吹き飛ばされているよ」
「じゃあ誰だ? 爺さんの知り合いが爺さんと組んで冗談を?」
「そうだね。こんな芸当ができるのは、悪魔だけかも…」
 そう言いながら、まっ青な顔で十字を切っていた女房は、ほどなく病の床について亡くなりました。
 三、四年前だったか、たまたま嵐の夜に晩飯を食べに来ていた漁師のトマスもそいつを目撃して…
『海が荒れると、魚が釣れるんだ』 と、いまさらながらのことを言ってました。
 自分も嵐の夜に船を出して、それっきりでさぁ… そんなふうにして、このへんの住民も一人減り、二人減りして、いまじゃああっし一人… こんなところで商売してたって、どうにもならないはずなんですがね。
…おや、雨が降ってきましたぜ。風も出てきた。…お客さん、宿に引き上げなすったほうがいいんじゃあ? えっ、
『自分もその釣り人を一目見てみたい』?
 およしなせぇ。あいつでしょう、こいつでしょう… 釣り人を見た連中は、みんなあの世に行っちまってるんだ。
 ほらほら、空が真っ暗になってきた。
 灯台に光が入って回り始めましたぜ。
 本当にご覧になるおつもりですか? 悪いことは言わない、およしなせぇ…
 あの釣り人はきっと死神ですよ。嵐の夜に人の魂を釣っているんだ。灯台守の爺さんもグルですよ。
 あっ、光が止った。あーっ、また見ちまった… きょうはまたハッキリと…
 えっ、何ですって? 
『おまえさんは何度も見ているのに、どうして呪われないんだ?』 ですって?
 そうですね、なぜでしょうね…
 おや、どうされるおつもりで?
 えっ、突堤まで走って確かめる、ですって? 海に落ちたらそれっきりですぜ。
 死神が「待ってました」とほくそ笑むだけですぜ。
 でも、「どうしても」とおっしゃるのなら止めませんよ。連れは多いほうが賑やかですからね…


 シスター・セアラが語る「女軽業師」

 いまでもそうでしょう…
 むかしはもっと恋愛にいろんな制限があったのです。
 そう、身分違い、親の反対、権力者の横恋慕など…
 何時の時代の、誰のことかは申し上げることはできません。イギリスがまだカトリックで、男子の修道院はもちろん、女子修道院もあちこちにあった頃のお話しです。
 とあるお姫様が、無理矢理に女子修道院に入れられました。理由は…そう、身分の低い者…それも祝い事の日に御前で公演したサーカスの軽業師を好きになってしまったからです。「お互い一目惚れ」というものだったのでしょう。軽業師が姫の寝所に近づこうとするのを見とがめられたのかもしれません。
 もちろん捕まったら極刑です。
 が、幸いなことに軽業師は何とか追っ手を振りきり、逃げおおせました。
(あの人は生きておられるんだ!)
 一縷の望み、召使いたちの風の噂が姫をかすかな狂気にまで誘いました。
 姫の親にしてみれば「頭が冷えるまで入っていなさい」ということだったと思います。 けれども、姫にしてみれば、日ごと夜ごとに思いは募るばかり、食事もとらず、次第に痩せていったそうです。
 このままでは身も心も病んで、死を待つばかりになりそうでした。
 そんな運命に同情した、小さなシスター見習いがおりました。身の上は秘密だったのですが、元はいかがわしい仕草の軽業を見せる見せ物小屋に売り飛ばされていた少女で、かつて領内の矯風に関心のあった姫が、お触れを出して解放し、女子修道院に引き取らせた者でした。
 無論、少女は姫が女子修道院に幽閉されるまで一度も会ったことはありませんでした。 けれども「自分が慰み物にされるところを救って下さった」と、大層恩に思っていました。
 そこで小さなシスターは、日に日にやつれていく姫を励まそうと、二人きりになった時にこう言いました。
「あたしたちには、あたしたちにしか分らない秘密の連絡方法があります。例えば鳥の声、獣の声、虫の声を真似て、思いのたけを伝えるのです。もしも逃走中の彼が、『灯台もと暗し』このあたりに身を潜めていて様子を窺っているのなら、その鳴き声をもって、姫様が元気で、いまだに思いを寄せていることをお伝えしてみようと思いますが…」
 もちろん姫は飛び上がらんばかりに喜び、「ぜひお願いします」と涙ながらに頼みました。
 小さなシスターは早速、その夜から、ご不浄に立つフリをして、人けのない廊下の窓から高い煉瓦塀の外の深い森に向かって「ホー ホー」とフクロウの鳴き声を真似て囁きました。
 意味は「わたしは元気です。貴男は元気ですか?」 みたいなことでした。
 すると、驚いたことに、「ホーホーホー」と同じフクロウの鳴き声を真似た声で返事がありました。
「ぼくは元気だよ。きみを攫って外国へ逃げたい。ぼく一人なら、いまでも十分逃げ切れる。だけど、きみと一緒に、というのは難しい。いましばらく辛抱し、機会を待っていて欲しい」
 そのことを、食事を運んできた小さなシスターから聞いた姫の瞳には、希望の光が甦りました。規則正しく食事を摂り、真剣に神様とマリア様にお祈りをし、「聖書を書き写す」と言って紙とペンを差し入れてもらい、彼に熱烈な手紙を書いてこう言いました。
「小さなシスターさん、貴女ならなんとか修道院の塀を乗り越えることができるでしょう。 どうかこの手紙を彼の前で読み上げてやってください。そして、彼が返事で言ったことを紙にとどめ、持ち帰ってください」と…
 小さなシスターは今回も引き受けました。 そして、とある月も星もない夜、姫様からの手紙を携え、先に鉤の付いたロープを塀のてっぺんに引っかけ、修道服の裾をふわりと翻らせて、こっそり塀を越えました。
 姫の手紙に心を燃やした彼は、小さなシスターに代書をしてもらい、シスターはそれを姫様の前で声を潜めて読みました。
 姫の胸の高鳴りはいかばかりだったことでしょう…
 小さなシスターを介した手紙のやりとりはその後、何度も何度も続きました。
 そして何ヶ月かたったある時、ついに心配していたことが置きました。小さなシスターが、塀をよじ登る際に姫の手紙をどこかに落としてしまったのです。それは風の強い夜で、どこかに吹き飛ばされたらしく、必死にあちこち探してもとうとう見つかりませんでした。
 さぁ、大変です。どこかの茂みの下でそのまま朽ち果ててくれれば問題はないものの、他のシスターに拾われてしまったら…
 小さなシスターは泣きながら彼に相談しました。すると彼はしばらく考えた末に、静かにこう言ったそうです。
「このままでは、姫と、きみの二人とも厳罰に処せられてしまう。きみは軽業ができる。足手まといにはならないだろう。姫には気の毒だが、ぼくときみの二人で逃げよう!」
 二人が逃げおおせたかどうかは伝わっていません。言葉に尽くしがたいほどの衝撃を受けた姫は、まもなく失意のままに亡くなり、幽霊となって小さなシスターが落としたという手紙を夜ごといつまでも、いつまでも探し続けているそうです…


 安倍 薫が語る「あやかしを斬る刀」

…と、ある大きな藩に剣の達人の若い侍がいました。それはもう、強くて強くて、懸賞金のかかった試合では毎回優勝。遠くからやってきた挑戦者にも負けたことがありませんでした。
 日本一を目指して江戸に出て修行したり、諸国武者修行の行脚を勧める友人もいましたが、そこのでする気持ちはなく、藩主の許可を得て道場を開いて大勢の門弟たちに教え、毎日幸せに暮らしていました。
 と、高弟の一人が数日ずっと浮かない顔をしているのを見た彼は「どうかしたのか?」と訊ねました。
「実は甚だ申し上げにくいことなのですが…」 弟子は師の質問を待っていたかのように答えました。「自分の遠い親戚が城下のはずれの遊郭で廓を営んでいて、小禄のわたくしは時おり用心棒のようなことをしております。ところがここ最近、そのあたりに自害した女郎の幽霊が出て、遊びに来る客を脅かし、客足が激減しているのです。僧侶や山伏に供養を頼んだり、いろいろしてもらっても成仏しないのです」
 話を聞いて侍は困惑しました。
(自分は剣については多少の自信がある。しかし相手は幽霊だ。僧や祈祷師たちでも上手く行かないとなると…)
「で、わたしにどうしろと?」
「廓の主たちが金を出し合って、とあるところから『あやかしを斬ることができる刀』を借りて参りました。相当な金額を積んだのにもかかわらず買うことはままならず、数日のあいだ借りられるだけだった、という名剣です。尋常の刀ではありません。
 自分はその剣を携えて、仲間とともに勇躍幽霊が出るという場所…遊廓の入口の橋のたもとに出かけて待ちました。
 すると、現れたのです、紙のように真っ白な顔をした遊女の幽霊が。
 自分はくだんの刀を抜いて、斬りつけましたが、退散させることができるどころか、幽霊ニヤニヤと笑っています。
(さては、この刀が「幽霊を斬ることができる」というのが偽りなのか、それとも自分の技が未熟なのか、先生に見極めて頂けたら)、と思いまして…」
 侍はさっそく部屋に入り、懐紙を口に噛んで刀をゆっくりと鞘から抜きました。
 凍るような刃、にぶく光る鋼、どこから見ても至宝の名刀であることに疑いはありません。しかし、幽霊を斬ることができる霊力があるかは何とも分りませんでした。
 持つ人の力が問題なのかも知れません。
「お願いします。刀の返却期日は明日。幽霊を斬るとすれば今夜しかありません。万一、先生に斬れなかったとなれば、わたしたちも諦めます。どうか…」
 侍はかなり迷いました。もしも自分にも斬れなかったとなれば、面目丸つぶれで恥をかくからです。しかし、見事に幽霊を斬ることができれば、誉れはいまよりも上がることは間違いありません。
 しばらく考えているうちに、侍の心にはそれ以上の興味と好奇心が湧き上がってきました。
(…わたしは、このような素晴らしい刀を持ったことがない。たとえ借り物とはいえ、一度は振るってみたいものだ。さらに、わたしは幽霊なるものを見たことがない。前々から一度お目にかかりたい、と願っていた)
 失敗した場合失うものが多くても、この二つの興味が侍の心を駆り立てました。
「分った。試みてみよう」
 師の返事に、弟子は飛び上がらんばかりに喜びました。

 その夜更け、侍と弟子は満を持して遊廓へと続く橋のたもとで待ちました。
 すぐ先の色町では、赤や青の灯火が、さながら虫を誘う火のようになまめかしく揺れているものの、訪れる人は数えるほど。常連の多くは幽霊の話に恐れを成して遠ざかっているようでした。
 と、裸の背筋を鳥の羽根で掃くような悪寒が走ったかと思うと、冷たい風の中に、朧に霞んだ着物姿の若い女性の姿が浮かび上がりました。
 侍は刀を抜き、気合いを刀身に集めるべく念じます。弟子のほうは、長い槍を携えていたにもかかわらず師の背中に隠れました。
「辛い勤めであったことは同情する。だが、これからも現れ続けるつもりならば成敗いたす」
 自らは一度もこのような場所で遊んだことのない真面目な侍は、ためらうことなく刀を正眼に構えました。
 遊女の幽霊のほうは鬼女のような凄惨な顔に嘲り笑いを浮かべ、終始無言でした。
「やむを得ん、斬るぞ!」
 侍はジリッジリッと歩み寄り、裂帛の気合いとともに刀を振り下ろしました。
 次の瞬間、カキーンと激しい音がして刀が真ん中から折れ、刃先がポチャンと川の中に沈みました。
 侍が一刀両断にしたと思ったのは、石の欄干でした。
 そこで、はじめて幽霊の声が聞こえました。
『ざまをみろ! これで不本意にも多額の借金を背負う気持ちが分るだろう…』

 サダルメリク・アルハザードが語る「ドライ・ボーンズ」

 アラビアには実にいろんな魔術があります。 手品や奇術みたいにタネも仕掛けもあるものじゃあありません。魔導師のぼくや、姉上や、先祖のアブドゥル・アルハザードが見ても、一瞬あっけにとられてしまうような突飛なものも少なくありません。…同業者に感心していてはいけないのですけどね…

 ダマスカスの近くに、王立医学校がありました。…いつの時代でも、どこの国でもそうでしょうが、入学するのは難しく、学費も相当にかかりました。
 学校に付属した病院もあり、町々の医者に首を横に振られた患者さんたちが心配そうな顔をして治療を受けるために訪れていました。 そこである時、薬品室から次々と高貴薬が盗まれ、おまけに門外不出であるはずの治療法が、仮想敵国の医療機関で真似される、ということが相次ぎました。いずれの場合も窓ガラスなどは割られた形跡はなく、窓や各扉の鍵はしっかりとかかったままでした。つまり、何者も侵入した気配がないのです…
 信頼できる警備の者の夜間巡回の頻度を高めてもだめでした。
 裏切り者…スパイがいるのではないか、と内々で調べてみても、疑わしい者はなく、証拠も何も上がりませんでした。
「頼む、サダルメリク君、これ以上先生がたや生徒たちを疑って傷つけることなく、調査をしてくれないだろうか?」
 院長先生に頼まれたぼくは、よく仕込んだフクロウたちを、薬品室を含む各部屋の窓の外の梢に配置し、カーテンを細めに開けておきました。

 翌日、やはり薬品室から高価な薬がいくつか盗まれていました。
 ぼくは見張らせていたフクロウを、光を遮る分厚いカーテンを降ろした部屋に連れて入りました。院長先生も一緒です。
 席についたぼくは、フクロウに魔法を掛けました。フクロウの金色の眼が輝きだして、昨夜の光景を白い壁に映しはじめました…
 フクロウの両の瞳の記憶は、時間を早めて映し出すことができます。一時間を五分に、二時間を十分で見ることができます…
 偃月刀を携えた二人の警備の者が正規の鍵で入って来て、ランプの明りで照らしたものの、何ら異状はありません。警備の者たちは鍵を降ろし巡回に戻りました。
 三時間…早送りの映像にして十五分、また別の警備員たちが来て確認をしました。もちろん異状なし、です…
 ところが、その直後にとんでもないことが起きました。
 薬品棚の奥のほうには、箱に入った白骨の人体模型や、腹部の内臓や、手足の筋肉の模型などが、ほとんど使われないまま無造作に置かれていました。そのうちの白骨がカチャリと、かすかに勝手に動き出したのです。
 院長先生はもちろん、ぼくも驚きました。噂や物語では聞いたり読んだりしていたのですが、実際に見るのは初めてだったからです。
 人体模型のしゃれこうべがグッと前にもたげて左右を見渡しました。二組目の警備の者たちは去った直後で、三組目まで間があるものと踏んだのでしょうか、顎をカクンと下げて笑ったようにも見えました。
 そしてさらに首を突き出して部屋の中を窺ってから、カシャリカシャリと歩き出したのです。
「なんということだ…」
 院長先生のまなこはこぼれ落ちてしまいそうなくらいに見開かれていました。
 白骨は高貴薬を入れてある棚の前に立つと、時間をかけて作ったと思われる手製の合い鍵を差し込んで開き、薬を空き箱に移しました。 それから扉を閉め、鍵を降ろしました。
 ほどなくコンめコン・コンと部屋のドアをノックする音がしました。
 人体模型は中から開けてやります。
 廊下側に立っていたのは… もう一体、別の骸骨でした。
 人体模型たちは頷き合い、部屋にいたほうの骸骨は盗品を携えたまま、廊下をどこへともなく去っていきました。
 やってきたほうの骸骨はそのままカシャカシャと乾いた音を響かせながら、それまで相棒がおとなしく入っていた標本箱にこちら向きに収まり、そのままジッと動かなくなりました。
「何ということだ!」 院長先生は繰り返しました。「…交代要員、ということか…」
「じっとしている、ということはかなりの難行苦行ですからね」
 ぼくたちは続きを見ることはやめて、警備の者たちに命じて学院じゅうの人体模型や、バラバラになったままの標本の骨を集めさせました。それらの骨を校庭の真ん中に積み上げて、灯油を掛け、火を放ちました。
 紅蓮の炎とともに、耳を塞ぎたくなるようないくつもの物凄い悲鳴が上がったことを申し添えておきましょう…


 ドイルが語る「落盤」

「あれは本当に事故だったんです、ドイルさん」
 コーンウェルと名乗る男は、まだ三十歳台ということだったが、髪の毛は真っ白な上、顔は皺だらけで、倍の年齢に見えた。
「…しかし、それを証明する手だてはありません。ぼくがダイヤモンドを独り占めしたくて、ジョージや、世間の人たちから疑われても仕方のないことですが…」
 彼は、南アフリカで成功した帰国者の多くがそうするように、郊外の家を買い、数人の信用のおける使用人に囲まれて、一見静かに優雅に暮らしているように見えた。
「それで、貴男の相棒だったジョージさんの遺体は、いまもキンバリーの小さな鉱山の一つの、落盤を起した坑道に埋っているのですね?」
「ええ、掘り出すのは無理でした」
「それで貴男は、ジョージさんの幽霊に弁解というか、弁明をしてみたのですか?」
「ええ。でも無駄でした。最近ではすっかり諦めました」
「誰か信頼のおける者と一緒の部屋で寝てもらったらどうですか?」
「もちろんやってみました。執事や庭師に頼んで… しかし、彼らには聞こえないのです。あの恐ろしい音が」
 コーンウェルはそう言って耳を塞ぐ仕草をした。
「それが、落盤の轟音ですね?」
「はい。やっとの思いで眠りに就いたかと思うと、頭のすぐ上で鳴り響くのです。もちろん、他の者には聞こえません。すぐ横にしつらえた簡易ベッドで眠っていても…です。間違いなくジョージの霊の仕業です。お願いです、ドイルさん。わたしには本当に身に覚えがないのです。ジョージ同様、信じてもらうのは難しいでしょうけれど… 逆恨みで眠りを奪われ、心を狂わされ、死に追いやられるのはまっぴらだ。かくなる上は、いくら金を使ってもいいからジョージの霊を消滅または封印したいと思うようになりました」
 ぼくは考え込んでしまった。
 もしもコーンウェルの言っていることが真っ赤な嘘で、彼がジョージを落盤に見せかけて謀殺していたとすれば、ジョージの復讐は至極妥当なもので、コーンウェルの肩を持ったりすれば、こちらにもどんなトバッチリが飛んでくるか分ったものではない。
 まず真相を確かめたいところだが、南アフリカまで調査に行くのは難しいし、降霊会を開いてコーンウェルとジョージを対決させたとしても水掛け論になるのは目に見えている…
「耳栓などは試してみられましたか?」
「もちろんです。しかし、物理的な音ではなく、心の中に響いてくる音なので、耳栓などでは防げないようです」
「では、いっそのこと、岩石を組み合わせてベッドを作り、その上に布団を敷いて眠り、細かい石や砂で作った蓋のようなものをかぶって眠るようにされたらいかがでしょうか? 例え何が起きようと、ご自分はもうすでに埋っているのだから、これ以上埋る心配はないのではないかと…」
 ぼくは怒り出されるのを承知の上で、半ば冗談のつもりで行ってみた。ところが、ソーントンの反応は信じられないくらいに嬉しさに満ちあふれたものだった。
「なるほど! なるほど! それはいい考えですね、ドイルさん! さっそく職人に製作を依頼してみます。最初から岩石の中に埋っているつもりで眠れば、いくら落盤の轟音が鳴り響いても気にすることなく、眠り続けられることでしょう。もうすでに埋っているのですからね。最初から医者や看護婦たちに囲まれて、消毒剤の匂いが漂う部屋で生活していれば、病気で倒れる不安から解放されるのと似ていますね!」

 ぼくはまさかソーントンが実行に移すものとは思わなかった。ところが彼は、金にあかせ、大英博物館で遺跡の修復や模型の製作に携わっている工房に頼んで、実際にそれらしきものを作らせてしまった。
「完成したから見に来てくれ」という知らせを受けて出かけたぼくはびっくりした。
 普通のアパートの部屋くらいの、小さな部屋は壁も天井も大小の岩石が貼り付けられていて、床にも石ころが敷き詰められていた。 部屋の真ん中にはごく普通のベッドが置かれていて、全体がガラスの棺桶みたいに、厚さ一インチほどのかなり分厚いガラスで覆われていた。さらに、これまた柩らしく上のほうには同じ厚さのドーム状のガラスの天蓋が付いていて、蝶番で外からでも、中からでも開閉できるようになっていた。おまけに蓋には、口元の位置から放射状に、無数の空気抜けの穴が開けられていた。
「ご覧下さいドイルさん。これで、すでに予め生き埋めになっているような雰囲気で眠ることができます。いくら就寝中に落盤の轟音が鳴り響いても、これ以上埋りようがないのだから安心して眠り続けられる、というものです…」
 ソーントンさんは、いまでもお元気でお暮らしだと漏れ伺っている。もっとも、こういう状態でしか眠ることができないというのは、果して幸せなのかどうなのか、ということには大いに疑問があるけれども…


 アレイスター・クロウリーが語る「王子と猫の木乃伊」

 きみたちの中で、まだ「木乃伊の解体ショー」を見たことのない人はいるかな?
「怖いもの見たさ」「友達に誘われて」ということで一度は見たことがあるはずだ。…もっとも、一度…それも指のあいだから見たら、もう二度と見たくない、という気持ちも大変よく分る。楽しいというものでもないし、前のほうは何千年か前の埃も飛んで、あまりきれいなものとも言えないからね…

 ソーホー街の見せ物小屋の一つに、毎日毎日…日曜日は二回…この「木乃伊の解体ショー」を見せるところがあった。通常、この手の見せ物は美人の助手が付くことも多かったが、ここは経費節約のため、お色気の要素はなかった。
 木乃伊の包帯をハサミでじょきじょきと切り、キラリときれいに磨き上げたメスなどを駆使して解体していく主人公は、本当の年齢はもちろん、メーキャップ後の設定年齢もよく分らない男だった。それでもフロックコートにシルクハット、胸にレースの飾りのついた純白のシャツに臙脂色の蝶ネクタイをしめて、「博士」と呼ばれていた。
 その日、「博士」は、いつものように楽屋に積み上げられた十数体の木乃伊のうちの一つを、今夜のショーのために引っ張り出した。
 と、妙なことにその木乃伊の足元には、同じく包帯でぐるぐる巻きにした物体が、まるで添え物であるかのように、これまた包帯で結びつけられていた。
(うん、これは一体何だ? もしかしてお宝ではないだろうか?)
「博士」はそう思った。なにしろ木乃伊は百、千単位で、カイロからここイギリスのロンドンへと輸入されてくる。とにかくかなりの量だから、業者の連中が折角ついていたお宝の一つを見落とした…と言うか、見逃してしまったとしても不思議じゃあない。
「博士」はその包帯の球を切り離すと、座長やほかの仲間に気づかれないように、部屋の物陰に持っていった。そしていそいそと包帯を引きはがしてみると… 中から現れたのは猫の木乃伊だった。干物のようにカサカサになり、カチカチに固まったもの…
 ただ、黄緑色のきれいなガラス玉の目玉だけが、キラキラと輝いていた。
(なんだ、猫の木乃伊か…)
「博士」は少なからずガッカリした。猫は、古代エジプトでは豊穣の女神バステトの化身とされて崇められ、可愛がられ、人間と同じく死後は木乃伊にされたものの、こちらもその数は膨大で、大きな木箱に一杯いくらで輸入されて、砕かれて畑の肥料にされていたくらいだったからだ。だから、ポイと放り出して、人間の木乃伊だけを担いで、いつも使っている安物の宝石の飾りが付いた棺桶に入れると、ステージの上に担いで上がった。

 その晩のショーの客の入りは、六、七分というところだった。普通の客は一、二度、物好きな者でもせいぜい二、三度で飽きてしまう。
(何かちょっと新味なことでもやってみないことには…) 商売用の慇懃かつ恐ろしく気難しそうな表情をした「博士」は焦っていた。(…客は半分以下になり、俺もお払い箱になってしまうかもしれない… それでなくても木乃伊じたい人気はじり貧だと言うのに… しかし、別嬪のアシスタントを雇う金なんて、到底ないしな…)
 しかし「博士」は仕方なく、いつもと同じように入念に深刻な表情を作って「解体ショー」を開始した。
 まず最初に簡単に古代エジプトの歴史を語り、身分の高い者たちは、いつの日か魂が現世に戻ってくることを信じて、自らの遺体を木乃伊として保存・保管しておかなければならなかったことを説明した。
 それから、その王子の身の上話を語った。 ストーリーは予めいくつか用意され、本日の客の顔を見渡して、できるだけ同じ客に同じ話を聞かせることがないように心掛けていた。
 曰く、父王が暗殺され、叔父に裏切られた王子(どこかで聞いたような話だ)、継母に殺された王子、兄弟のあいだの確執と陰謀、妻である妃と親友の密通の果ての策謀、とにかくドロドロとしたものが好まれ、最近の大英帝国の有名な王族や貴族の醜聞を剽窃したストーリーなども大いに好まれた。
 で、ジョキジョキとハサミを入れはじめる…固唾を呑んで見つめるのは初めての客だけだ。
 二度目以降の客は、どうでもいい、ということはないけれど、どうでもいいような視線を注いでいる。
 足、手から始まって胴、そして顔へと進む… カチカチに干からびて固まった人間など、そんなに面白いものではない。
「…刺客に襲われ、無念の死を遂げた、この王子の怨念に満ちた表情をとくとご覧頂きたい!」
 木乃伊はがらんどうの眼窩を心なしか床に向けたように見えた。
『…ペピは? ぼくの可愛がっていたペピはどこに? 一緒に葬ってくれるように頼んだはずだ』
 白く舞い上がる埃の中、埃とは違う白い気体が「博士」にそう語りかけた。
『どこにいる? と聞いている。余は王子であるぞ、答えよ!』
 他の座員たちが、喉を掻きむしって苦しむ「博士」に駈け寄り、ようやく気体を引きはがした頃には、「博士」の息は絶えていたと言う。


 デイジーが語る「雨の日の花売り」

…そうよね。そういうことって、あるようでないし、ないようであるのよね…

 ロンドンの春から秋にかけては雨と霧が多いでしょう? そして冬は氷雨…
 外で商いをする人たちや、荷物の積みおろしをする人々や、御者さんたちにとっては文字通り「身に染みる」気候よ…
 でも、傘やコートやマントやケープも売れて、それを縫ったり商う人も仕事がある、というものだけれども…

 幽霊ってね、いまさらながら「見つけてやるぞ」とか「何とか写真に撮ってやるぞ」と息巻いている人の前には姿を現さないものなのよ。反対に、目的地に向かって急いで歩いているのに道に迷ってしまった時とか、酔っぱらって友達とはぐれてしまったりした時にふわっと偶然遭ってしまうものなのよ…

…その子はね、安いパブとか食堂が、小さな金貸しや質屋にまじってごちゃごちゃと建ち並んでいる裏通りの、そのまた奥まった路地裏に現れるのよ。雨か、霧の日に限ってね。 雨は、叩きつけるような土砂降りの時もあれば、ザーザー降りの時の事もあり、しとしととそぼ降る雨の時もあるの。霧はね、一寸先も見えないような濃い霧の時もあれば、建物の剥げたペンキや漆喰が隠されて、何か現実の町じゃあない町に見えるような霧の時もあるわ。
「勘弁してくれ」というくらいの強い雨の日にその子に遭った人は、まずびっくりして酔っ払いなら酔いがたちまち冷め、しらふだったら血の気が引くの。なぜなら、その子、傘はもちろん差していない、レインコートやマントもケープも着ていない、つぎはぎだらけの木綿のドレスに、ところどころほころびたエプロンドレス姿なんだけれど、服も髪の毛も顔も、どこもまったく濡れていないの。
 どこかの軒下で雨宿りしていて、お花を買ってくれそうな人が通りがかったからあわてて出てきたにしてもたちまちずぶ濡れになるような豪雨よ。考えられない…
 遭った人のほうは、こうもり傘を差しているにしてもあちこちひどく濡れている… コートやマントやケープの場合は、当然ぐしょぐしょになっているわ…
「お花を買ってください…」
 女の子は、紫色の小さなスミレなり、白いひな菊なりを差し出した、と言うわ… どれもお花屋さんで仕入れてきたものじゃあなくって、町の空き地の日だまりでひっそりと咲いていたものを丁寧に摘んで、小さな花かごに入れてきたものらしい。お花も花かごも、差し出した細い指も、濡れていない…
「女の子は金髪だった」「いいや茶色の髪をしていた」という人もあれば「黒い髪だった」という人もいるわ。人の記憶なんて、そういうものかもしれないわね。「そばかすがあった」という人もいるし「白い、すべすべした頬をしていた」という人もいるみたい。
 共通しているのは、「女の子はとても可愛らしかった」と言うこと… まるでお芝居の「いい子役」の子役みたいに…
 でもやはり不思議なのは、その子がまるで濡れていない、ということ。
 多くの人が、上でこっそりと大きな傘か何かを差し掛けている者がいないかどうか、とっさに、またはゆっくりと上を見上げたそうよ。でも、そこには真っ暗な、もしくはどんよりと曇った空と、針のように落ちてくる雨粒が見えるだけで、何もありはしなかった。 傘を差し掛けている人がいるとすれば、それは神様だったのよ。かわいそうな子に、神様が濡れないようにして下さっていた。
 お花… ポケットをさぐって、一ペニー銅貨を取りだしてお花を買った人もいれば、手のひらを横に振って断った人もいる。
 ただ、買って上げた人も、後でそのお花をいくら探しても、どこかで落としてしまったのか、見つからなかったそうよ。

…実はね、あたしもね、その子に遭ったことがあるの。
 場所はそう…××街の路地裏で、去年のいまごろだったかな… (早く帰ろう、近道をしよう)と思ってね、かえって入り組んだ狭いところに入り込んで、(早く大きな道に)と焦っているとますます分らなくなって、おまけにポツポツと降り出した雨がアッというまに強い雨になって…
 窓や扉に板きれを×字に打ち付けた潰れた店先の軒下で雨宿りをしていると、通りの向う側から小さな灰色の人影が近づいてくるのよ。
(ああ、あの子、風邪を引くかも…)とかぼんやり考えていると、急に目の前にその子が立っていて、小さな赤い野バラの花を差し出して「お花を買ってください」って言うのよ。 普段のあたしなら「貴女、相手をよく見なさいよ。もっとお金持ちそうな人のところへ行って」と言うところだけれど、その時はなぜか一ペニー渡して買ってしまったの。
 その後、どこをどうやって帰ったのか覚えていないのだけれど、本降りだったにもかかわらず、ほとんど濡れなかったわ。
 お花は…やっぱりどこかに落としてしまったらしいわ…


 ブライディーが語る「ゴルゴダの欠片」

 ダブリンの貧救院にいた頃の、いまは懐かしい思い出です…

「ブライディー、ケリーと一緒にちょっと隣町の教会へお使いに行ってくれないかしら?」
 ある日、院長先生が封筒を出しておっしゃいました。「…このあいだの会合で、隣町の神父さまにお金を用立ててもらってね。神父様は『いつでもいいですよ』とおっしゃっていたけれど、こういうものは早く返しておきたいのです」
「はい」
 わたしは顔をほころばせました。天気はいいし、大好きなケリーちゃんと一緒だし、給食を作るお手伝いや洗濯や掃除はしなくていいし… 隣町の教会までは二、三マイルほどあって、子供の足では半日…いや、一日仕事でしたけれど、心が弾みました。ケリーは早くも「行こう! 行こう!」とはしゃいでいます。
「くれぐれも気を付けてね」
 わたしは院長先生から渡された封筒をドレスの内側の隠しポケットにしまうと、ケリーと手を繋いで出かけました。
「お昼は向うで頂いてくるのですよ。それから受取りも頂いてきてくださいね。これも勉強であることを忘れずに」
「はい、院長先生!」
 ところがダブリンの、きれいなお店がいっぱい建ち並んでいる商店街に差し掛かると、ケリーが立ち止まって言いました。
「ねぇブライディー、きょうのお使いって、お金を届けるだけなんでしょう?」
「ええ」
「それも大金じゃあないんでしょう?」
「ええ、そうみたい…」
「あたし、歩くのしんどいし、ウィンドゥを眺めているほうがいいから、悪いけれど一人で行ってくれないかしら?」
「ええっ!」 わたしは親友に裏切られた思いで、ガッカリしました。「…でも、このへんをうろうろしていて、もし誰かに見とがめられたら…」
「大丈夫よ」
 ケリーは携えていたバッグの中から、自分のじゃあない、ひさしの先がほころびかけている少女用の帽子を取り出して目深にかぶりました。
「お昼を抜いたら、お腹がすくでしょう?」
「構わない。夕ご飯まですぐだし、がまんできなくなったら、黒スグリ摘みのお駄賃で貰った銅貨も持っているし…」
「本当にいいの?」
「いいの、いいの」
 ケリーはわたしの背中を押しました。(今度またこんなことがあったら、今度はケリーに一人で行ってもらって、わたしは一日中貸本屋さんで立読みをして、店員さんにハタキで叩かれながら、貧救院にはない、いろんな本を読んでいたい)とも思いました。
 ともあれ、先を急がなくてはなりません。隣町への道は、昼間ということもあって、馬車や荷馬車や人々の行き交いもかなりあって、少しも危ないところなどはないはずでした。 ところが、あと一マイルくらい、というあたりまできた時、あんなに晴れ上がっていた空が急に曇り、風が吹き始めました。
 徒歩の人々はもちろん、馬車も急ぎだしてどんどんと追い抜いたりすれ違って行きます。
 近くの丘から湧き上がった濃い白い霧が、スーッとこちらの街道のほうに流れ漂ってきました…
 ほんのしばらくすると数フィート先くらいまで、それもおぼろにしか見えなくなりました。わたしも小走りに、それも足元の土の道を確かめながら先を急ぎました。
 また小さな馬車が一台、追い抜かして行きました。天気の様子を伺っているのでしょう、もうダブリンの方向に出かけていく馬車や人影、足音はまばらになりました。
 それだけ隣町はもうすぐだ、ということでしょう…
 息を切らせながら勇んで進むわたしの前に、一台のジプシーの家馬車が見えました。
 そこは隣町が設けている、ジプシーたちが家馬車をとめてもいい町はずれの広場でした。木戸銭の安い…その代り象やライオンとかはいない…小さなサーカスがやってくることもあれば、蚤の市が開かれることもあり、ダブリンの下町に暮らすわたしたちからすれば、イギリス以外の異国の香りがする不思議な場所でした。
「お嬢ちゃん、クルス(十字架)にロザリオ(数珠)を見ていってくれないかい」
 その男の人は、とても年を取っていて、背中が曲がっていて顔も朽木のようで、聞き返さないと分からないくらい訛りのある英語で語りかけてきました。
「でも、わたし、お金を持っていないから…」
 それは本当でした。院長先生に預かった分以外には、持っていなかったんです。
「買ってくれなくてもいいんだ。見ていってくれるだけでいいんだ」
 その人は喉をぜーぜーと鳴らしながら言いました。
「あの、わたし、先を急いでいるので…」
「分っているよ。この霧だろう? ちょっとでいいんだ。すぐすむよ」
 彼はそう言って、ニスが剥げてまだらになった木製の鞄を開いて見せました。

 中には、子供のわたしが見ても安っぽいガラス玉をつなげたロザリオや、何人も何人も持ち主が変っただろう、すっかり手あかにまみれてどす黒くなった十字架のペンダントが、数えられるほど…全部で十くらいでしたでしょうか、元はビロードだったことがかすかに分る古い布の上に並べられてありました。
 どれもこれも、とても売り物にはならないようなものばかりでした。
「見させてもらったわ。じゃあ…」
 立ち去ろうとしたわたしの目に、男が皺だらけの手にぶら提げた、子供の包み込めるような、小さな木の十字架が飛び込んできました。
 それは大層な年代物で、ニスではなく、手の脂で、黒色じみた茶色になっていました。
 上に錐であけた小さい穴があり、新しい細い麻の紐が通されていました。
「それは?」
 わたしはつい尋ねました。
「おや、お嬢ちゃん、お目が高い。これは本当に特別な十字架なんだよ」
「『特別』?」
「そう」 男は頷きました。「…これは、ゴルゴタの丘で、イエス様が掛けられた十字架を切り分けて作ったクルスの一つなんだよ。 ほら、ちゃんとトネリコの木でできているだろう?」
「まさかぁ…」 わたしは子供心に、すぐにインチキだと思いました。「そんな大切なものが、こんなところにあるはずがないもの!」
「そんなことないよ。イエス様を磔にした十字架は、とても大きかったんだ。知っているだろう? 当時、罪人は自らが懸けられる十字架を背負ってゴルゴタの刑場までの『悲しみの道』を歩かされたんだ」
「教会の壁に古いタペストリーが掛けてあるわ。鞭打たれ、いばらの冠をかぶせられ、十字架を背負わされたイエス様に、茶碗のお水を差し出した人もあれば、引きずっている十字架の後ろを持ってあげようとした人もいたのでしょう?」
 わたしはシスターたちから聞いた話を得意げに言いました。
「その通りだよ。磔にする十字架は罪人一人に一つずつだったから、イエス様が降ろされて葬られた後は、用済みになってしまった。何人かの心ある人たちが『思い出に』と思って、端っこからノコギリで切り取って持って帰ったとしても不自然ではないだろう?」「そんな話、一度も聞いたことがないし、とても信じられないわ。もしも仮にそのお話しが本当で、そういうクルスがあったとしても、これがそれだとは… どこか大きな教会の宝物になっているはずだし、それも聞いたことがないし…」
 男はそのみすぼらしい古い木のクルスを差し出してわたしに握らせました。
「じゃあ、これで祈ってみたらどうだい? 何か特別な感じがしたら、それが何よりの証拠になるのでは?」
 わたしは小さなクルスを両手の手のひらで捧げ持ち、目を閉じて祈りました。
(…神様、どうか天国のお父さんとお母さんの魂が、神様とともにあって安らいでいますように… 院長先生や、シスター・セアラや、ほかのシスターのかたがたも元気でありますように… ケリーちゃんや『お兄ちゃん』やほかのお友達も元気でありますように… わたしが施設を卒業したら、どうか親切で優しい人のところで働けますように…)
 すると、不思議なことに、身体じゅうがとても暖かい気持ちに包まれました。
 そして綴じた瞼の裏に、額から血を流されたイエス様のお姿が浮かんで、
『おのが十字架をとりて我に従わぬ者は、我に相応しからず』(マタイ10.38)とおっしゃいました」
(まさか… まさか… これはきっと、このジプシーの男が、わたしに催眠術をかけているのに違いないわ! ほら、みんなが『眠くなる… 眠くなる…』 とか言って穴あき硬貨に糸を通して、それを揺らせて遊んでいる…)
「どうだった? イエス様は貴女に何かおっしゃったかね?」
 クルスを返したわたしに、男はしゃがれ声でそう訊ねました。
「あ、いえ、その…」
「どうだろう。儂はもう先が長くない。文字通りお迎えの近い身だ。おまけにイエス様ではない、別の神様を信じている。貴女にその気があるのなら、一シリングで譲ってあげてもいいが、どうだね?」
(そら来たわ!) わたしは思わず院長先生から言付かってきた封筒を、ドレス越しに確かめました。(やっぱりインチキよ! この人は、あちこちで、古い小さな木の十字架を売り歩いているのよ!)
「ごめんなさい! わたし、やっぱりいらないわ!」
 そう言い残すと、後ろを振り返らず、錐の中を一目散に隣町の教会を目指しました。

 その人も、クルスも、二度と見ていません。けれどいまでも、もしあの時、預かっていたお金で買っていればどうなっていたか、思い出すことがあります…


 ポピーが語る「地獄の香水」

 わたしの故国フランスは香水で有名です。原料にするための花畑もあちこちにありますし、いろんな香料を調合する調香師のかたも大勢いらっしゃいます。
…フランソワという名前のその調香師のかたは、親方から独立したばかりで、若くてハンサムで独身でした。早々とシャンデリゼ通りの、一等地ではないものの一角に、小さな店を出せたところからすると、人並み以上の鼻と才能があったと思います。
 彼にはプロポーズしていない、片思いの恋人がいました。彼女は女優の卵でしたが、まだそんなに売れていないので、ドレスや宝石や香水も、高いものは身につけていませんでした。
(ぼくも金持ちじゃあない。この店もちょっとした実業家のかたに資金を出して貰ってやらせてもらっているものだ。だから彼女にドレスや宝石を贈ったり、端役で出ているお芝居の切符をたくさん買ったりすることはできないけれど、専門の香水で応援してあげよう)
 フランソワはそう思って、彼女にだけはこっそりと原料の仕入れ値よりも安い値段で売っていました。
 彼のそんな行為に気づいてか気づかずか、最初は月一、二回だった来店が、毎週足を運ぶようになった頃…
 彼女はガラスの戸棚に並んだ高価なジャコウ猫や乳香などのベースにした香水を眺め、溜息をつきながら言いました。
「ムッシュ・フランソワ、あたし今度オーディションを受けさせてもらうの。監督さんや演出家さんの前で演じてみせる台本を貰ったんだけれど、死神の女で、恋人に取り憑いて魂を奪ってしまう、という役どころなのよ…」
「へぇ、それはすごいじゃないか! ぜひ受かるといいね!」
 彼は本心から喜びました。で、危うく言いかけた「もしも受かったら、毎晩でも見に行くよ」という言葉を飲み込みました。
「ええ、でもライヴァルも多いらしいから…
 …衣装や身につけるアクセサリーとかは決まっているから、演技以外、せめて死神の女らしい香水でアピールできたら、と思うのだけれど…」
 フランソワは考え込んでしまいました。
(「女性の死神」の香り? 血の匂い? 病院の匂い? 墓場の匂い? 違う! 違う! でも薔薇やラヴェンダーみたいな華やかで馥郁ちした香りでもないだろう… シトラスやミントのようなシャープな香りだろうか?)
 彼女が帰ってからも、フランソワはなかなかイメージを掴むことができませんでした。 若さや清潔感、爽やかさや夢ゆめしさなどを香りで表現するような修行はしてきたのですが、冷酷さや非情さ、死そのものといった普通はマイナスの要素を強調することなど、一度もしたことがなかったからです。
 もちろん、回りの人々に不快感を与える香りではいけないでしょうし…
 彼は女の死神が出てきそうな小説や、資料を読んでみましたが、そもそもそういうテーマの本が少ない上に、あっても香りにまで詳しく言及しているものはなかなかありませんでした。
 彼女が注文した香水を受取りに来る日がだんだんと迫ってきます。他の客の調香を間違えたり、上の空になりかけているのにハッとしたフランソワは(これではいけない)と自分に言い聞かせました。
(親方や仲間に聞くのは癪だ。文献にはほとんど載っていない。お芝居は書き下ろしらしくて、以前に演じた女優はない。こうなったら、本物の女性の死神を見つけ出して、その香りを嗅いでやる!
 はて、しかし、一体どこにいるのだろう? 男性の死神でよければ、重病者ばかりが入院している病院や、戦場にいそうだが…)
 ふと閃いた彼は、妊産婦の死亡率が高い、あまり評判の良くない産院に目を付けました。(お産が重くて苦しんでいる妊婦の命を奪いに来るのは、たぶん女性の死神だろう)と考えたからです。
 雲が空を覆い、月が隠れ、風がさわさわと騒ぐ満ち潮の夜、フランソワはまるで赤ん坊攫いのように、とある産院の塀を乗り越えて庭の茂みに潜みました。
 耳を澄ますと、妊婦の苦悶の声や、産婆や身内の励ます声、それから「オギャー オギャー」と、新しい命の誕生を告げる産声が聞こえてきます。
(しかし、十何人に一人の赤ん坊か母親は亡くなるんだ)

 注、百年前のことです…

 彼はコートの襟を立て、医者が夫に対して「母子ともに助けるのは難しいかもしれません」と、廊下で声をひそめて話していた病室の窓際の壁にもたれるように座って、じっと待ち続けていました。

 陣痛が始まってから長いあいだたっているにもかかわらず、その部屋の赤ん坊はなかなか生まれませんでした。
(…やはり死神なんか、空想や話だけの中の存在なのかもしれないな… ことに、女性の死神となると… もうしばらくしたら帰ろう。身内でもないのに、人が…それも妊婦が苦しむ声を聴くのはつらい…)
 立ち上がろうとした時、闇がゆらっと揺らめいたかと思うと、黒いマントをスッポリと羽織り、黒い頭巾で顔を隠し、長い柄の付いた鎌を手にした小柄な人影が立っていました。
「何だ、貴様は?」
 非常に低音の、想像していた通りのゾッとする声だったが、確かに女性の声が聞こえました。
「た、たたの野次馬です」
 フランソワは息が詰まりそうになりながらも答えまし た。
「邪魔立てするな。それから、見聞きしたことを決して他人に語ってはならぬ」
「分っています。十分承知しています」
 彼は職人魂を発揮して、必死で鼻をクンクンさせ、相手の匂いを嗅ごうとしました。
 が、硫黄の臭いはもちろん、記憶にあるどんな種類の香りにも似ていない、これまでに一度も嗅いだことのない匂いが、かすかに、かすかにしました。例えるのなら、そう…「死の香り」といったものが。血でも消毒薬でも、硝煙のものでもない…
「何をしている? 関わりのない者ならば早く立ち去れ!」
「あの… 貴女から漂ってくる香りは、一体何の香りなのか、教えて頂けませんか?」
「地獄の花の匂いだ。この世にはない。探すのは無駄だ」
 相手はそっけなく答えました。
「分りました。…似たような香りを真似して作ってもよいでしょうか?」
「人間の女性や男性が好む香りではない」
「特別な目的があるのです」
 独特の香りを頭の中に深く刻み込んでそう答えると、彼は最初はゆっくりと後じさりし、踵を返すと一目散に逃げ出しました。

 香水店の工房に帰った彼は、さっそく女の死神の香りを懸命に思い出して、ソックリのものを調合しよとしました。
 文章のような知識なら、メモや覚え書きに書き留めておけばいつでも何度でも繰り返して見ることができます。絵や図版や楽譜なども… けれど匂いだけは忘れてしまわないようにする方法はありません。あるとすれば、大急ぎで同じ香りを調合して、そのレシピを残しておくぐらいしかないのです。
(違う! こんなのじゃあなかった。こんなふうでもなかった!)
 フランソワは、調合しては捨て、また調合しては捨て、を何度も何度も繰り返しました。
 数え切れないくらい試作しても、ついさきほどの闇の中で嗅いだ香りと同じものは作り出すことができませんでした。
(もしかして、ぼくが持っている材料からの組み合わせでは作ることができないのではないだろうか? ぼくが持っていない、もしくはまったく知らない材料から調合するものではないだろうか?)
 でもそれは典型的な「ないものねだり」でした。店にない原料は非常に高価で珍しいものに限られていたからです。知らないものに至っては、それこそどうすることもできませんでした。
 フランソワは仕方なく、前と同じ産院に出かけて行き、辛抱強く待ちました。
「またお前か! 用は済んだのではなかったのか?」
 女性の死神は頭巾の中で輝く赤い眼を吊り上げます。
「頼む! ぼくの魂と引き替えてもいいから、地獄に咲いている花から作ったというその香水を、一回分でいいから分けてくれ!」
「何を気安く…」
「断るのなら悪魔に頼むぞ」
 死神はさらに不愉快そうな顔になったが、渋々言いました。
「仕方ない。そこまで言うのならやむを得ないだろう。だが、言うまでもなく、どうなっても知らないぞ」
 死神はそう言って懐から指先ほどの小さなガラスの香水瓶を取りだして渡しました。
「有難う! 恩に着るよ!」
 彼が瓶の蓋を慎重に開け、鼻を近づけて嗅いでみると、まさしく、どんなに研究しても作り出すことが出来なかった香りがしました。「これをぜひ、オーディションの時に付けていってくれ」
 フランソワは片思いの彼女に頼み、彼女は怪訝そうにしながらも「有難う、そうするわ」
 と、答えました。
 会場の前までやってくると、彼女の両脇にピッタリと黒衣のマントに頭巾をスッポリかぶって顔を隠した女たちが挟みました。
「何をしている? けさは全員参加の重要な打合わせがあるのを聞いていなかったのか?」
「早く一緒に行きましょう!」
「貴女がた、人違いをなさっているわ。あたしはこれからオーディションを受けるのよ!」
 女優の卵は相手を振り払って中に入りました。すると、いるわいるわ、すでに役柄の女性の死神の衣装に着替えた競争相手が十数人たむろしていました。
 彼女もさっそく着替えて、演出家や脚本家たちの前に出ました。すると、関係者のうちの二、三人がハッとした表情になりました。鼻をクンクンさせている者もいました。
 そのなかの一人がおずおずと進み出てこう言いました。
「すみません。私は、母や姉を病気で亡くしたとき、貴女がつけていらっしゃる香水と、同じ香りを嗅いだことがあります。誠に申し訳ありませんが、『本物』のかたのエントリーはご遠慮して頂けないでしょうか?」
 そこへ助監督が走ってきてお偉方に耳打ちしました。
「早くはじめましょう。外の歩道にも応募者が溢れています。それもみんな家から衣装を着てきて、長い柄の鎌を持っていて、人だかりになっていますよ…」


 ウォーレス博士が語る「コーンウォールの樹海」

 遠い昔、大学で学んでいた頃の話だよ。
 ぼくは担当教授やゼミの仲間たちとともに、コーンウォール近くの深い森に、新種のヤドリギを見つけに行くことになった。そのヤドリギは、古い写本文献にはイラストとして載っているのだけれど、各大学や大英博物館に標本はない、というものだった。
「必ず二、三人ずつ組になり、チョークで印しを付けながら進むように。方位磁石や地図は当てにならない。…それからだな、この樹海には自殺者の遺骸や、敵軍の攻撃から落ち延びようと試みた昔の騎士の亡骸や、司法の手を逃れようとした盗賊たちの死体が結構放置されたままになっているらしい。きつく言っておくが、もしそのようなものを見つけても、絶対に関わってはいけない。もちろん触るなどもってのほか。何も見なかったことにするのだ。我々の目的はあくまでも植物の標本で、決して無縁仏の供養や宝探しではない」
「教授、どうして関わってはいけないのですか? 新しいものなら警察に届けてあげれば警察が喜ぶでしょうし、古いものなら専門の研究者が興味を持つのでは?」
 ブルースという学生が挙手した。
「それはだな…」 先生は口ごもって空咳をした。他の学生も怪訝な顔をしたよ。「…諸君は『非科学的な迷信だ、伝説に過ぎない』と一笑に付すかもしれないが、そこの樹海は『特別』だからだ」
「何が『特別』なのですか?」
「ガイドブックは読んだはずなのに意地がわるいな、ブルース君。皆も」
 ぼくももちろん知っていた。樹海には『そこで亡くなった者には悪魔が永遠の命を与える』という言い伝えがあるのだ。
「…だからこそ、イギリス国内であるにもかかわらず、こんにちまで本格的な踏査が行われていなかった。人文的なものは警察や心霊研究団体に任せればいいのだ。だが、警察もオカルティストも、いままでまったく手を出してはいない。どういうことなのか賢明な諸きみたちは分ってくれるな?」
 ぼくは小さく頷いた。「触らぬ何とかに祟りなし」というのは永遠の法則だ。

 現地では、ぼくはブルースとパートナーを組むことになった。気が合うという訳ではなく、合わないということもなく、ぼくのほうは自然の摩訶不思議さに憧憬を抱いていたのに対して、彼は論理を重視する流行の唯物論者だった。
 二人で割り当てられた区域を歩いて、ぼくは彼と組になったことを喜んだ。実に目が利くし、てきばきとしていた。
 昼前には、ぼくが肩からぶら下げたブリキのドーラン…標本入れの中には、目的のヤドリギをはじめ、図鑑でも見たことのない植物やキノコが収まっていた。
 持参したパンと干し肉、ジャムの弁当を食べ、水筒の水を半分ほど飲んでしまい、もう少し探索するか、それとも付けた目印を辿って撤収をはじめるべきか、お互いの顔色を窺い合っていた時のことだった。
 森の一角がポッカリと開けて、妖精たちの広場になっているような場所があった。
 薄暗いこもれびの光の下、樹齢数百年はたっているだろうブナの古木の根本に、何かボロ布のようなものが見えた。
 ぼくはとても嫌な、不吉な予感がして、
「おい、ブルース、そろそろ…」 と言いかけた。が、彼は目ざとく「そいつ」を見つけてしまった。
「これは!」
「それ」は、衣服の残骸を僅かに留める程度の白骨化した遺体だった。様子からすると死後数年から十数年といったところだった。
 骸骨がしっかりと抱えるように持っていた革袋も半ば腐敗して、中身がこぼれていた。にぶく光る幾枚もの金貨が…
「莫迦だな。こんな重たいものを手に持って森を歩けるはずがないじゃないか。紙幣に変えておいて、軽くなった分、水や食料を持てば逃げ切れたかもしれないのに…」
 ブルースは標本採集用の予備の麻の袋を取りだして金貨を入れはじめた。
「帰ってから警察に届けるのか?」
「いいや、俺ときみで山分けにしよう、アルフレッド」
「それは良くないと思う」
 彼が貧しい生まれ育ちで、例えば奨学生などだったらぼくも考えたことだろう。だが実際には、ブルースの実家は、ぼくの実家よりも裕福だった。
「どうして? 確かにこの死体と金貨は、何かの犯罪がらみだろう。しかし、もうどう考えても時効になっている。ぼくらは幸運なんだ。ツイている、と言うことさ」
「しかし、この樹海の伝説が…」
「そんなものは迷信に決まっている。こいつをよく見ろよ。誰が見たって半分バラバラになった骸骨に過ぎないじゃないか。つまりもはや金が必要な状況じゃあない。元通りの姿に戻って追いかけて来るとも思えない」
 金貨を全部袋に入れて持ち上げようとしたブルースの顔色が変った。袋は片手で持ち上げるのはやっとで、両手を使っても身体はがくがくと震え、歩こうとするとふらついた。
「言わんこっちゃない。一度キャンプに戻って、先生や仲間に報告するべきだ。ぼくらはもう十分すぎるくらいに新種の発見をしたじゃないか」
「嫌だ! これは俺が見つけたんだ!」
 ブルースは袋を胸の前にかき抱いた。足がフラフラとよろめいた。
「じゃあせめて、とりあえず半分にしておけよ。残り半分は改めて取りに来ればいい」
「それだと仲間に発見されてしまうかもしれない!」

 思わぬ大金を手にしたり、大きなチャンスが巡ってきたりした時に、それまでの性格が一変してしまう人は少なくはないが、この時のブルースがまさにそうだった。
 彼は移し替えた金貨の袋を胸元にかかえこんでしまっており、ぼくのほうもとても
「御礼なんかいらないから、半分持ってあげようか」などと言い出せない雰囲気だった。 ぼくたちはゆっくりと来た道を戻りはじめた。幸いなことに、目印に付けながら来たチョークの印も、木の幹に付けたナイフの傷もそのままだった。
「なぁアルフレッド、誰かあとをつけてくるような気がするんだが」
 時おりチラチラと後ろを振り返っていたブルースが声をひそめて言った。
 ぼくは立ち止まって振り返り、眼を凝らし耳を澄ましてみたものの、鬱蒼とした森が視界を遮り、葉ずれや鳥たちの鳴く声が聞こえてくるだけだった。
「誰もいないと思うけど…」
「ゼミの仲間じゃあないだろうか?」
「それだったら声を掛けてくるだろう。なんならぼくたちのほうから声をかけてやろうか?」
「莫迦、やめろ!」
 彼はぼくの口を手で押さえかけた。
「どうして?」
「予想に反してもしも悪人だったら、位置を教えてやるようなものだろう? もし仲間だとしても、いまの俺は『これ』を持っているんだ」
 ブルースは金貨の袋をちょっと掲げてみせた。
 ぼくはそれから黙ってしまった。もしも例えば金に困っていたら、ぼくも同じことをしたかもしれない。そう考えると彼を非難することはできなかった。
 ブルースがまた振り返った。今度は急に。 しかし見えるのは獣道のような小径とびっしりと繁った梢と茂みだけだった。
「絶対に何者かにつけられている…」
 彼は足元から木のてっぺんまで、前後左右くまなく眺め渡した。
「誰も見えないけれど… ウサギかリスか、獣の気配じゃないか?」
「いいや、もっと大きい。人だ…」
「ぼくは何も感じないけどなぁ… …ひょっとしたら、あの白骨化していたやつの霊じゃないか?」
 何気なく言った後でぼくは(しまった)と思った。ブルースから数倍にして反論されるのは間違いないと思ったからだ。けれど意外にも、ずいぶん長いあいだ小径に視線を落としたままで黙っていた。が、さらにややあって、
「きみの言う通りかもしれない、アルフレッド」 とつぶやいた。「…ぼくは教授やきみの忠告…伝説の教えを守らずに、決して関わってはならないものに関わり、持ち去ってはいけないものを持ってきたのかもしれない…」「そう思うのならその金貨をここに捨てて行こう! 早く歩けるようになる」
「いいや、それじゃあだめだ。ヤツは許してはくれないだろう。元あった場所…遺体のそばに戻さないと…」
「分った。じゃあ二人で返しに行こう。何なら今度こそ半分持ってもいい」
「それもヤツは『ズル』と見なすだろう。俺一人が抱えてきたものだ。俺一人で返しに行かないと」
「分った分った。じゃあ付き合うよ。いまからでも日没までには十分間に合う」
「済まないな、アルフレッド」
 ぼくはほんの僅かな時間のあいだのブルースの豹変ぶりに大層奇異な感じがした。ツイ先ほどまで「金が」みたいなことを言っていたのに、声も顔色も臨終間際の老人のようになってしまっていた。
 とにかくぼくらは歩き続けた。まだ目印は生きている。地形を覚えているところもある。 しかしさすがに疲れてきた。大枚の金貨を携えている彼はぼくより疲労していたことは確かだ。
 それでも何とか妖精の広場の入口に辿り着いた。帰りは手ぶら同然だから、何事もなかったことにするのは簡単…のはずだった。
「きみはここで待っていてくれないか。ちゃんと元通りに返してくるよ」
「ぼくも手伝うよ」
「いいや、きみは反対して一枚も取っていない。恰好悪いし、俺一人でやりたいんだ」
 ぼくは渋々同意して、少し離れたところから見守ることにした。ブルースは、実に丁寧に金貨を元通り白骨死体に抱きかかえさせた。「終ったよ。済まなかった。有難う」
 ぼくたちは無事に教授や仲間が待っている集合場所に帰り着くことができた。
 ただ、ブルースはその後変ってしまった。 月並みな表現だが、まるで別人になってしまったようだった。 上手く言えないが、科学者らしいところが無くなってしまって、えらく迷信や縁起をかつぐようになった。ちょうどいまのぼくみたいにね。


 クルックス博士が語る「立読みの客」

 諸君もよく知ってくれていることと思うが、わしは幽霊の正体というものを知りたいと思っている。プラズマか、何らかの粒子か、同じ粒子でも光のようなものなのか?
 何でもそうだろうが、研究の基本は読むことだ。自分が知りたいことについて、先人たちはどのように述べているか? ピタゴラスの定理のように、すでに結論が出ているものもあれば、まだ出ていないものも多い…

 わしは学会や出張や、遠くの友人宅を訪問する時は必ずその土地の古書店を覗くことにしている。文字通り偶然見つけてフラリと立ち寄ることもあれば、予め手紙などで集めているジャンルの本があるかを確認した上で訪れることもある。ところがここ数年ずっと、奇妙な邪魔が入って、興味のある本や中身を確かめたい本を立読みできないことが続いているのだ。
 つい先日、スコットランドのある街で電気に関する国際学会が開かれた時のことだ。
 わしは前もって手紙で在庫を確かめておいた、とある小さな古書店に立ち寄った。
「クルックスだ」と名乗ると、頭が禿げ上がり、鼻眼鏡を掛けた地霊のような店主が小声でこう言いながら、壁をびっしりと覆い尽くした書架の一角をそっと指し示した。
「確か幽霊に関する本を集めておられるのでしたね。それでしたらあのへんにありますよ。あのお客さんがおられるあたりです」
 干からびた指が指す方向には、フロック・コートに山高帽の紳士がいて、何か古めかしい革表紙の本を、一心不乱に読んでいた。
 もともと狭いとは言え、店の中にはその紳士とわししかいなかった。
 わしはそこの書架に近づいて、遠目に背表紙のタイトルを読んだ。期待していた通り、霊や幽体離脱、臨死体験に関するまだ読んだことのない珍しい古書が数冊だが並んでいた。 しかしその真前には件の紳士が…
 紳士の顔は帽子に隠れていてよく分らなかったが、若くはない感じがした。
『すいません、その本を取らせて頂けませんか?』と言うつもりだったが、正直(あと十分…いや、五分もすればあの紳士は立読みを止めて別のところに移るか、店を出て行くだろう)と考えた。
 が、それは甘かった。わしが店の、他のあまり興味のない本を眺めているあいだ、五分…十分とたっても彼は立読みを止めなかった。わしが中身を確かめたいと思っていた霊に関する本を、書架からとっかえ引き替え抜き出してはページをパラパラとめくってから元の場所に戻していた。
(今度こそ「わしにも取らせてください」と言おう)と思って再び近寄った時、別の人物が店内に入ってきた。
「あっ、クルックス先生じゃないですか! 大学では大変お世話になりました」
 その男は、わしの昔の教え子だった。
「…お元気そうで何よりです」
「君も立派になったな。嬉しいよ。ところで君も『電気学学会』に?む
「ええそうです。こんなところでは何ですから、近くの喫茶店でお茶でもどうですか?」
 わしが「英国心霊研究協会」の会員で、超自然現象の解明に携わっていることを知らない者は少ない。…みんな知っていると言ってもいいだろう。だから、教え子と再会したと言っても、遠慮せずに『すまないな。実はここでちょっと見たい本があってな』と断って、延々と立読みを続けている紳士にも「失礼ですが」と言って目的の本を手にすることはできた。
 だが、二人に断るのは何となく億劫になって、わしは教え子とともに店を出た。積もる話は楽しく、(判断は楽しかった。古書店なら帰り際でも読める)と思った。
 ところが学会の途中で、わしの先輩にあたる大御所の教授が急に体調を崩して、わしは付添って帰ることになった。あの古書店に寄りそびれた、ということだ。

 長いあいだにはそういうこともあるだろう。だが、その次、パリの学会に出席した時も同じことが立て続けに起きた。
 前もって手紙で問い合わせておいたカルチェ・ラタンの古書店の幽霊に関する書物の棚の前には、どこかの大学の学生たちが二、三人たむろしていて長いこと本を物色していた。よほど『君たち、わしはロンドンからやってきた旅行者なんだ』と言おうと思ったが、言い出せず(帰りにまた寄ってみよう)と考えて数軒はなれた古書店に入った。
 そこでは何と、フィオナ・ウォーターフォード男爵令嬢のような、やんごとない雰囲気の妙齢の美しいご婦人が、退屈そうな表情の小間使いを待たせて、延々と心霊関係の本を立読みしていた。
 その次の店では外国人ふうの、いかにも胡散臭そうなひげ面の男が目的の書架の前にずっと立ちふさがっていた。
 帰り際はあいにくひどい嵐になって古書街への寄り道は断念せざるを得なかった。

…そんなことが余りにも続くうちに、わしはこう考えるようになった。
(これは、わしが研究しようとしている幽霊の妨害…霊障に違いない! 彼らはわしになるべく自分たちについて書かれた書物や資料を読ませまいとして可能な限り邪魔をしているのだ)と…
 それはいまでも続いている。
 わしは毎回何とかして奴等の裏をかいて、このいまいましい悪循環を断ち切ってやろうと試みてはいる…


 ドッジソン教授が語る「夢の中の数式」

 友人の若い優秀な数学者の話だがね。仮にホワイトとしておこう…

 ホワイトはね、起きて机や黒板に向かっている時はあまり閃かなかった。彼が閃くのは夜、眠っている時だったんだよ。
 彼が言うのには、夢の中で彼は、爽やかな春の公園を散歩しているらしい。ハイド・パークのような大きな公園の時もあればねこじんまりとしていることもあると言う…
 花壇には四季折々の花々が咲き乱れ、小鳥が飛び交い、リスが走り回っている。
 まことにあやかりたいいい夢だ。
 で、そのへんをうろうろしていると、数字や数学記号が、まるでシャボン玉のようにフワフワと飛んでくるのだ。
 最初はバラバラで意味のない記号を立ち止まって、あるいはベンチに腰を下ろしてぼんやりと眺めていると、それらはまるでダンスを踊るみたいに弧を描いたりラインダンスをしたかと思うと、ホワイトはもちろん、世界の数学者たちがまだ誰も知らない方程式や証明となって整列するのだそうだ。
 ガバッと跳ね起きた彼は、大急ぎでそれらをメモ用紙に書き留める。そのまま再び眠り直すことが多いそうだ…
 翌朝、メモした数式を見て清書すると、これが自分でも信じられないくらいの、ちょっとした新しい解法や、アプローチになっている…
 こんなふうにしてホワイトは教授の地位を手にし、ぽつぽつとながら学会の注目も集め始めるようになってきた。
 素敵な婚約者もでき、自他共に前途洋々と思われたとき、思わぬ暗雲が漂いはじめた。 数日後、権威のある学会で発表しなければならない、とか、お偉がたの前で模範講義をしなければならない、とか、婚約者とデートしなければならない時に、緊張の余り眠れない…もしくは眠ってもすぐ目覚めてしまうようになってしまったのだ。眠れなければ夢は見ない。夢の中で踊ってくれる数式たちが天啓のすべてだったホワイトは焦りはじめた。 なにしろ、いくら起きて机の前でウンウンとうなりながら智恵を絞り出そうとしても少しも出てこないのだ。目覚めている時の彼はまったくの凡人だった。
 ホワイトは焦り、名医と言われる医者のところに通い、睡眠薬を処方してもらったのだが、これが結果的に、ますます泥沼にはまることになってしまった。
 薬の効き目でなんとか眠ることはできたのだが…
 夢の中で散歩している公園は、もはやなぜか晴天ではなくなった。どんよりと曇りねいまにも降り出しそうな… 時としては雨が降っていることすらあった。そして彼は傘もなく、帽子もかぶっていない。コートも着ていない。花壇の花は咲き終わり、しおれている。 そしてもちろん、あの陽気な数字と記号たちはいくら待ち続けても現れなかった。
(おかしいな、なぜだ?)
 ホワイトはますます焦った。
 周囲の人々は(そろそろまた、彼が新しい発表をする頃だ)と期待する。励ましの言葉も掛ける。だが、肝腎の彼は閃きの泉であるはずの「快眠」をすることができない。
 学会に招待されなくなったっていい、数学者仲間や婚約者に愛想を尽かされて逃げられてもかまわない… そう居直ってプレッシャーから解放されれば、また元のようにぐっすりと眠れてよい仕事ができるようになったはずだった。
 ところが彼は睡眠薬の量を増やした。裏町で怪しい売人から買った阿片すら試してみたという…
 夢に現れる公園は、もはや戦争の後の廃墟のようだった。花壇は跡形もなく掘り返され、ベンチはひっくり帰っている。空は「雲行きが怪しい」と言った程度のものではなく、前衛芸術家の絵画みたいにいろんな色がぐしゃぐしゃに混ざり合っていた。
 それでも、数字や数式はふわふわと飛んできた。ただしその数字や記号は、ローマ数字のような、エジプトの象形文字のような、メソポタミアの楔形文字のような、中国の漢字のような、専門家でなければ読めないものだった。
「なぜだ! なぜこんなことになってしまったんだ?」
 夢の中でホワイトはあがき、それまで思ったこともないこと… 数字や記号らしきもの…を手でつかまえてみようと試みた。
 ジャンプし、跳びはね、さらに助走をつけて地面を蹴って、何とか触ろうとした。
 努力の甲斐あってやっと届いたものの、触れた途端にそれらの数字や記号は、煙草の煙のように消え去った。
「見捨てないでくれ! 置いていかないでくれ!」
 次に飛び上がった勢いで、ゼロの輪っかに首が引っかかった。
『助けてくれ! ゼロに引っかかった。首が絞まる…』
 彼はメモに書き残した。
 検死官は「阿片のよる心臓発作」と報告書に書いた…


     (次のエピソードに続く)





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