ブライディー・ザ・マジックメイド

 神様の卵

「やぁブライディー、すまないが一つ頼まれてくれないかな?」
 いつも物静か、温厚で控えめなウォーレス博士が、いつものように眼鏡の奥の瞳をショボショボさせながら言った。
「何でございましょうか、ウォーレス先生」 メイドさんはこの実直そう博士が大好きだった。時々語ってくれる、若い頃に英領インドネシアや英領マレーシア、英領ボルネオやスマトラ、英領オーストラリアの秘境や島々を探検して回った話が面白いのはもちろん、ダーウィン博士に学問上の手柄を横取りされたらしいのに、そんなことは少しも気にしていないところが。
 ウォーレス博士の友人の中には、「ダーウィン氏を訴える裁判を起したほうがいい」と言う人も少なくなかったけれど、ウォーレス先生は「一生好きなことができたのだから、そんなことはどうだっていいんだ」と、まるで気にしている様子はなかった。
「卵を一つ、かえるまで世話をしてやって欲しいんだ」
「卵、でございますか?」
 メイドさんは大きな鳶色の目をくりくりさせた。
「『湯たんぽか何かで、冷えないように暖め続ければそれでいいのでしょう?』と言われそうなんだが、実は簡単ではなさそうなんだ…
 博士はそう言いながら、いつの頃のものなのかよく分らない、古いぼろぼろのアルバム兼スケッチブックを取りだして開いた。

…その探検がいつ頃なされたか、場所はどこなのか、詳しく語らないほうがいいだろう。 わたしも一人の新米学者として参加していた。密林の奥地の、原住民の村での出来事だった。
 わたしはたまたま文明から持ってきた薬を使って、村の子供たちが病気で苦しんでいるのを治した。村長は泣いて喜んでくれて、極彩色の手織りの麻布に包まれた、ちょうどラグビー・ボールほどの大きさのものを運ばせ『どうかぜひお礼にもらって欲しい』と言った。
 布のむすび目をほどくと、中から象形文字のような模様が彫られた木彫りの台座の上に乗せられた、ラグビー・ボールを二回りほど小さくしたような、紡錘形の乳白色の卵が現れた。…これがそうだよ。

 一見、何の変哲もなさそうな、ダチョウのそれのような卵が目の前に持ち出された瞬間、メイドさんは一瞬、身体に電流のようなものが走るのを感じた。

 わたしは村長に「触ってもいいですか?」 と尋ねた。全身に呪符のような刺青をし、頭に極楽鳥の羽根飾りを乗せた一体何歳くらいなのかよく分からない村長は、
「ああもちろん。これは貴男に差し上げたものだ」 と、言ってくれた。
 わたしは卵に向かって一礼し、うやうやしく持ち上げると、棕櫚葺きの窓の外にギラギラと輝いている日の光にかざしてみた。
 残念ながら卵は死んでいた。どれくらいの年月を経たものかは分らなかったが、自然の気まぐれか、黄身も白身も腐らずに化石化して、そのまま固く固まってしまっていた。
 どのような生物…もしかして恐竜のものかもしれなかった…かは不明だった。
 しかし、わたしが知っているどの卵とも違っていて、希少性は十分だった。
「有難うございます。これはきょうの友情の記念に、何があっても人に売ったり譲ったりせずに、子々孫々我が家の家宝にしたいと思います」
 わたしは心からそう述べた。
 ますます喜んでくれた村長はわたしの手を取ってこう続けた。
「…そうか、白い客人、貴男にはこの卵の価値がお分かりになるのか?」
「分ります。分りますとも!」
「おお、さすがですな。では、失礼ながら、どのあたりが貴重であるとお考えですか?」「一つは、大変に古く、珍しいものです」
 村長は大きく頷いた。
「おっしゃる通り。だが、それだけではありませんぞ。この卵は『神様の卵』なのです」「『神様の卵』?」
 正直、わたしは意表を突かれた。何かの…滅び去ったものを含む…動物の種類や形、名前が出たのならともかく…
「貴男は白い人の世界の賢人らしい。賢人ならば、さっき透かしてみたとき、この卵の中身がとっくの昔に固まって、石のようになってしまっていることに気づかれただろう。
 しかし、それは違うぞ」 村長は急に声を潜めた。「…その卵は生きておる。生きて孵る日を待ち続けている。どのようにすれば孵すことが出来るのか、それが分っていれば、とうの昔に我等が試している。だが、いにしえより伝えられるところによると、時が満ちて不思議な力を持つ者がそれを手にするとき、卵は再び命の息吹を取り戻すだろう、ということだ。 白い人よ、貴男がたの世界にもそういう人がいるだろう。持ち帰り、だまされたと思って気長に時を待ちなされ」
 あとは椰子酒が運ばれてきて宴となり、わたしたちは翌朝、その村を後にして、二度と訪れることはなかった…

 最初、この卵を、他の採集標本や、現地の骨董屋で買った化石などとともにリヴァプールへと帰る船に積み込む木箱に放り込もうとした私は、何となく特別なもののような気がして、手提げ鞄に入れて持ち帰ることにした。
 村長が「神様の卵だから」と言っていたので粗末に扱ったらバチが当る、と思ったせいじゃあない。
 椰子酒の酒宴が進み、腰蓑姿の女性たちが激しい動きの踊りが一段落した頃、村長は少しろれつが回りにくくなった口元をわたしの耳に近づけてこう囁いた。
「先生、失礼ですが先生は『卵の姿の神様』さいう意味がお分かりになりますか?」
「いいえ。われわれ白い肌の者にとっては、唯一無二のおかたで、神様との約束を破って楽園を追放された我々の代りに十字架にかかられ、罪を購い、許してくださったかたです。
 卵の姿など…申し訳ないですが考えることはできません」
「ごもっともです。広い世界には実に多くさまざまな神様がいらっしゃいますからな。この密林の奥地の村にも、太陽を神とする隊商たちや、天地万物に精霊が宿ると信じている旅人たちが来ました」 村長はさらに声を潜めた。「でも神様というものは、普通、貴男からかたときも離れず、苦しい時は励まし、寂しかったり悲しかったりする時は慰めてくれるものなのでしょう?」
「ええ。わたしたち一人一人の心の中におられて、すべてを創造され、人に魂を授けてくださったかたです」
「卵は『外なる神』の卵です。貴男がたキリスト教徒から見られれば『異端邪教の神』と思ってもらってよろしい。ただ、我々の神様は現世利益、崇める人にピッタリの神様になりますぞ」
 わたしは正直、村長の言っている意味がよく分らなかった。
(ピッタリ? はて、神様が人に合わせるなんて考えられないぞ)
 とにかく、帰国の日が迫っていたので、わたしたちの隊のメンバーは、貨客船の乗客になった。

 インド洋の、明るい太陽が照りつけるエメラルド・グリーンの海の上でのことだった。 わたしは甲板のデッキ・チェアに腰を下ろし、くだんの卵を雲一つ無い青空に捧げてしけしげと眺めていた。
 すると、偶然通りがかったアラビア人の裕福そうな商人が、わたしの持っていた卵を見るなり、それこそまるで神様か悪魔でも見たかのように、目玉が飛び出しそうなくらい大きくめを見開き、背中をのけぞらせ、卵を指さして言った。
「おおっ、それは… それは…」
「これがどうかしましたか?」
「紳士よ。初対面でいきなりこんなことを言い出すのははなはだ失礼ですが、その卵をぜひとも譲っては頂けないでしょうか? お金は…そう、貴男の言い値で結構です。十万ポンドでしたら、いま持ち合わせております。 故郷に帰ればもっと…」
(十万ポンドだって? 一生遊んで暮らしてお釣りがくる額じゃあないか)
 わたしは(かつがれているんだ)と思ったが、アラビアの商人は真剣だった。
「まさか… まさか… こんなところで目撃するなんて! おお、神よ! 感謝します! これがこの世に本当にあったなんて…」
「大変有難いお申し出ですが、この卵は大切な友人からの贈り物で、いくらお金を積まれてもお譲りすることはできません。これは行く行くは大英博物館に飾られるべきものなのです」
「大英博物館」と聞いて、商人はガックリと肩を落とした。
「そうですか… 『大英博物館』…それならやむを得ません。その卵にふさわしいのは『大英博物館』だけのようにも思います」
「ところでアラビアのおかた、貴男はこの卵が、どの時代の何という名前の動物の卵かご存じなのですか? もしもご存じなら、是非ともご教示頂きたいのですが」
「それは『神様の卵』ですよ」 商人はわたしに近づき、甲板に両膝を折って座り、うやうやしく卵を仰ぎ見て言った。「…その卵が孵れば、寂しさとも孤独とも、永久におさらばすることができます」
「『孵る』? この卵は化石ですよ。孵るわけが…」
「化石のようになっているように見えているだけです。その卵は、時が満ちれば必ず孵ります」
 商人は有無を言わさぬ口調で言った。
 わたしはもちろん信じられなかった。まぁ世界にはあまたの伝説や迷信があるから、この人もそれを信じておられるんだ、くらいしか思わなかった。
「孵ると…その…どのような生き物が生まれてくるのですか?」
「ですからそれは、願いをかけて孵す人によって違います」
「えっ、それはどういう意味ですか?」
 わたしはますます眉をひそめた。
「例えば、戦争好きの将軍が孵せば、最終兵器のような生き物が生まれてきます。お金儲けの好きな人が孵せば、お金儲けの上手な生き物が、そして、心優しい人が孵せば、心優しい生き物が生まれてくることでしょう。それぞれの人たちにとって生まれてきたものは自らの理想を具現化した『神様』ということになります」

 わたしは曲がりなりにも生物学を研究している。商人の説明はどうしても納得がいかなかった。
「元は同じ卵でも、環境によって生まれてくる際の姿や形や性質が違う、ということですか?」
「そうですね。同じ神の鳥の卵でも活火山の火口に産み落とされれば火の鳥が、氷の世界に産み落とされれば氷の鳥が生まれてくるのに似ていますね」
 その商人とはそれきりだった。
 くどいようだが卵はどこからどう見ても化石化している…つまり、もう生命の種子を宿してはいない。化石の卵が孵ることなど、それこそ非科学的なことだ。
 帰国したわたしは卵を、ほかの貴重な標本とともに大英博物館に寄贈した。
 件の卵は、結局同定できず、そのせいで残念ながら保管庫に収納され、こんにちまで人目に触れることはなかった。…もし何らかの形で展示されていたら、価値の分る者の手によって盗まれていたかもしれない。
 わたしも若かった… お蔵になった標本のことなど時がたつにつれすっかり忘れてしまった。

 ところが…
 それから何十年もたったある日、研究のために大英博物館に立ち寄り、たまたま保管庫の一つを開けたわたしは、腰を抜かすほど驚いた。あの分類できなかった卵の化石が、少し柔らかくなり、すべすべだった殻はザラザラになり、おまけに内側からほんのりと輝いている…
 正直、(誰かいたずら者の学生のいたずらだ)と思い、憤慨した。
 けれども記録を見ても、わたしが昔に収納した時から誰も保管庫を開けた者はいない… 背筋に寒いものが走るのを感じたよ。
 例えば何千年、何万年前の遺跡から出土した植物の種子が芽を出す、ということはよくある。しかし、化石の卵が再び命を得るなど…
 わたしの脳裏に若かりし頃の探検と、南洋の島の村長や、船の上で出会ったアラビア人商人が走馬燈のように甦った。
 そこで「研究のため」と申請の書類を書き、こうして持ち出した、という訳だ。

 ウォーレス博士がブライディーに謎の卵を預けて帰った数日後、ドイルが主催するお茶会に集まった魔術師たちは、眉間に皺を寄せたり、拡大鏡を取り出したりしてしみじみと卵を見つめた。
「おまえたち、あまり近寄らないほうがいいと思うぞ」 黒いコート姿のケンブリッジの美形の学生、アレイスター・クロウリーは部屋の隅で腕組みしながら卵を眺めて言った。「…俺には、数秒間隔でピンク色の波動が発せられているように見えるのだが」
「そうですね」 寛衣をまとった肌の色の浅黒いアラビア人の少年サダルメリク・アルハザードが指を指しだしながら言った。「…本質も価値も計りかねますねぇ。とにかくただの卵でないことは確かです」
「その南の島の村長という人は、むかしとは言え、よくプレゼントしてくれましたね」
 日本人の陰陽師の末裔、安倍薫は首をかしげた。
「きっとよほど感謝したのだと思いますよ」 ブライディーは魔術師たちがあまりに興味を示すのでオロオロしていた。
「この木の台座に刻んである模様のようなものは文字ではないのかね?」
 ドイルはしゃがんで眺めながら言った。
「ウォーレス先生もわたしもそう思って、シスター・セアラ様に解読をお願いしたのです」 メイドさんは懐から手紙を取りだした。「『…あいにくと、どこの国、地域の文字か分らず、もしも文字だとしても読むことはできませんでした。鋭意心当たりを当っていますので、いましばらく待ってください』と、ご返事をくださって…」
「きっと『取扱上の注意』ですよ」
 サダルメリクは一人頷いた。
 アレイスターは「フッ」と白い歯を見せて、背中を壁にもたせかけた。
「最初にもらった時に、解読する努力を始めるべきだったんですよ」 日本人が難しい顔をして言った。「そうすればいまごろは解けていたかも…」
「まさか、こんにちのようなことになるとは想像もされなかったんだろう、ウォーレス先生は」
 立ち上がったドイルは、今度は上から観察をはじめた。
「卵が孵らないうちに、いまのうちに売ってしまいましょうよ!」 デイジーは両手で握り拳を作って叫んだ。「その卵、十万ポンドで買う、と言う人がいらしたのでしょう? 新聞に広告を出せばきっと…」
「それはできないわ。ウォーレス先生が村長さんから友好のしるしに頂いたものですし… いまはわたしがお預かりしているものだし…」
「しかし手に余るものは手に余るでしょう?」 四番目の魔術師『封印者』のメルがいきなり卵をひったくって抱えた。「これは魔法庁が責任を持ってお預かりします。それが一番安全で確実です。皆さん異論はないですね? ではそういうことで…」
「メルさん、そ、それがだめなんです!」
 大きなメイドさんは一所懸命に事情を説明した。
「…なんと、『孵化直前の持ち主の性格を反映する』? だったら人格が立派で高潔な人に…」
「一見立派で高潔に見えていても、実際は腹黒かった…なら大変なことになりますよ」
 安倍薫が誰に言うともなく言った。

「ぼくはウォーレス先生から、その卵を手に入れた村の場所を聞いて、詳しく調べてきますよ」 サダルメリクはくるりと巻いてあった南太平洋の赤道近辺の地図を広げた。「……うまく行けば当時の村長さんがまだ生きておられるかもしれないし、『この』卵よりも以前に孵った『生き物…神様』に会えるかもしれません」
「ここのところ未開の地にも、どんどん文明の波が押し寄せてきています」 安倍がボソッとつぶやいた。「その村はもう町になっていて、昔のことを知る人々も少なく、大昔から連綿と保たれてきた呪術も忘れ去られてままっている可能性が高いと思いますよ」
「それは行ってみないと分らないでしょう」 アラビア人の少年は地図をまた巻き戻した。「で、『空飛ぶ絨毯』で行くのかい?」
 アレイスターは腕組みをほどいた。
「まぁそんなところです。よかったら一緒にどうです? クロウリーさんなら、どんな恐ろしい未知の妖術でも、『お爺さんとお婆さんのまじない』みたいなものでしょう?」「悪いが今度にしておくよ。…それよりか小僧、気を付けろよ。あのあたりの島々は太古に水没したムー大陸のかけらだ、と言われているからな」
「有難うございます、アレイスターさん」
 指をパチリと鳴らすと、サダルメリクの姿はフッとかき消えた。
「もう、あの子ったら! だんだんとお姉さんに似てきて人前だと恰好を付けるようになっちゃって!」
 デイジーが頬を膨らませる。
「じゃあわたしは魔法庁の図書館の文献を調べてみますわ」
 言い終わるより早く、メルの身体は粉々になってキラキラ輝きながら消えた。
「で、やはりブライディーさんが預かって孵すのですか、その卵?」
 安倍薫がほんの少し首をかしげた。
「ええ。そうなんです。わたしも不安で…」「メルさんについていてもらったほうがいいんじゃあなかったのでは?」
 ドイルはパイプに火をつけた。
「そうなのですけれども、ウォーレス先生のお話によると、卵は敏感でいろんな物事を感じ取ってしまうのだそうです」
「まるでお腹の中の赤ちゃんと同じですわね」
 お茶を淹れ直して運んできたポピーが言った。
「そんなに面倒な代物なら…」 アレイスターが素早く印を切りかけた。「…いま葬り去ってしまう、というのはどうだろう?」
「だめですクロウリーさん!」 ブライディーがあいだに割って入った。「…この卵は、村長さんの、ウォーレス先生の、そしてわたしのとても大切なものなんです!」
 アレイスターはほんの少し肩をすくめると、悠然と立ち去った。
「彼は消え去りませんでしたね」
 と安倍。
「貴男は消えないの? なんならあたしの術で家まで送り返して差し上げましょうか?」 デイジーが眉を吊り上げる。
「ぼくは過去のいきさつよりも、文献の記述よりも、卵が孵る瞬間に興味がありますね」 日本人は細い目をますます細めて言った。「わたしもそうだ。しかし、卵が孵るとき、複数の人間がそばにいるとよくないらしい、というのがミソだな」
「ミソですね」
 初めて意見が一致した。

 屋根裏のメイド部屋、いつも本を読んだり『お兄ちゃん』やシスター・セアラに手紙を書いている小さな書き物机の上に、台座に乗せられた卵は置かれた。
 寝間着に着替えたポピーが、いつもと変ることなく繭のように毛布にくるまった。
「自分で言うのも何ですけれど、わたしは影響を及ぼさないと思います。善良ではないでしょうけれど、邪悪でもないでしょうから」 そう言って数分後、スースーという寝息が聞こえてきた。
(でも、その神経は尊敬ものだわ)
 ブライディーはまんじりともせず、カーテン越しに差し込む月の光に照らされた卵を眺めていた。波動の間隔はますます短くなり、いつ殻にひびが入っても不思議ではない状態だった。
(孵った途端に、どこかへ逃げ去ってしまう、ということはないかしら? …いけない、いけない、また心配してしまったわ。わたしが心配すると、生まれてくる生き物も心配性になってしまうのよね…)
(思ってはいけない) と思うほどに、実際にはまずあり得ないと思われるような妄想が次々と頭の中に湧き上がったきた。
(「逃げて行方不明になってしまう」というのならまだいいわ。いきなりわたしたちに襲いかかったりしないかしら? 怒り出して「裁きを下す」とか言い出したりしないかしら?)
 恐ろしいイメージの数々がねまるで底なし沼からはい出てくる屍食鬼のように増殖した。「ガーゴイル」「醜いゴブリン」「悪鬼悪霊」…いままでいろんな災難に遭ってきたメイドさんには、いい予感を抱くことがどうしてもできなかった。
(神様、マリア様、聖パトリック様、どうかヨブのようなよくない考えからお救いください… やっぱりわたしなんかよりも、もっと楽天的なかたに…)
 けれども「あまりに楽天的な存在」というのもまた接しがたいような気がした。

 どれだけ夜が更けただろうか、お屋敷の予備の置き時計の歯車のコチコチという音が小さくなり、ようやくうとうととしかけた頃、卵がさらに一層ぼんやりと金色に輝いたかと思うと、ピピッと小さなヒビが横に走った。 ブライディーはガバッと毛布をはねのけて起きあがった。
「ポピー、起きて! お願い! 卵が!」
 鋭く囁き、揺り起こしたものの、不思議なことにポピーはクークーと深い眠りに落ちたまま、まるで目を覚ます気配がなかった。
「ポピー、お願い!」
 ピピッ ヒビはさらに大きく走った。
(どうしましょう!)
 思っている間もなく、ヒビは縦横斜めに走った。
 そして、パッと殻の上半分が放り捨てられ、中から幽霊みたいに半透明の、子犬のような、子猫のような、耳の短いウサギのような存在が顔を出した。
(やあ、君がブライディーさんだね。はじめまして、おいらはネイ。よろしくね)
 生き物は微笑んで小さく会釈しながら言葉ではなく、心に語りかけた。
「ネイ、さん?」
 書き物机に駈け寄ったブライディーは、それをしげしげと眺めた。
 地球の裏側の、南の島に住んでいる人たちの神様、と言われているだけあって、何か暖かく、大きな力…自然の力か、超自然の力かは分らないけれども…さんさんと輝く太陽、青い大海原、どこまでも続く白い砂浜の絵が浮かんできた。
「ああ、よろしく」
 ブライディーはもう一度ポピーのほうを見やった。ポピーは相変わらずスースーと安らかな寝息をたてていた。
「こちらこそよろしくね」
 メイドさんはあまりの可愛さにそーっと両手を差し伸べたものの、指先は向う側へと突き抜け、手のひらは合わさってしまった。
(ごめんなさい。ぼくはこんなのだから、撫でてもらったり、抱きしめてもらったりすることはできないよ。でも、気持ちを込めてジェスチャーをしてくれると嬉しいな)
「そうなの…」
 ブライディーはさっそくそっとそうしてみた。
(有難う。もう気づいていると思うけれど、ぼくの姿は見える人と見えない人がいるからね)
「はい。でもここは『英国心霊研究協会』のお屋敷です。そう申し上げれば、おおかたの人に信じて頂けるかと…」
 メイドさんはネイを抱いて自分のベッドに連れて行って毛布にくるまって横になった。 まるでそうすることが当然みたいのように…
(…それからぼくは「神様」なんかじゃない。 真の神様を篤く信じている君のことだから、分るだろうけれど、ぼくは永遠の存在じゃあない。時が満ちれば、然るべき場所へと帰るんだ。人間の魂と同じく)
「それはいつ?」
(分らない… 何年先か、何十年先か、それとも君より長くこの場所に留まっているのか…)
「お願い、わたしよりも長生きして! わたしが天に帰る時もそばにいて」
 何とも言えない暖かく優しい感じに、ふと囁いた。
(できたらね… それからおいらは、君を手助けするために来た)
「すると、ウォーレス先生がわたしに卵を預けてくださったのは偶然ではなく?」
(そうだよ) ネイはこっくりとうなづいた。(…ウォーレス先生は、君がこのお屋敷で働いているのを見て、『気だてのいい子だなぁ』と思い続けていたんだ。『もしも何か頼まねばならないことが生じたら、君のような子に頼もう』って)
「そんな… 大げさですわ」
 メイドさんの顔がリンゴのようになった。(…君は思っているだろう。「お父さんとお母さんを小さい頃に亡くしたのは、心が引き裂かれるほど寂しい」と… でも、そのせいで君はダブリンの貧救院に行き、そこで院長先生や、シスター・セアラさんや、『お兄ちゃん』と出会った。ウォーターフォード男爵のお屋敷ではフィオナさんと、ロンドンでは白詰草亭のオマリーさん、デイジー、心霊研究協会ではドイルさん、ドッジソン先生をはじめとする先生たち、ポピーさんと知り合った。 それから、いろんな事件に関わったり、巻き込まれたりして、魔術師たちをはじめ、数え切れないくらい大勢の人々と縁を結んだ。 ごく一部の、心のよこしまな人たちを除いて、ほとんどは善良で、穏やかで、優しい人たちばかりだ。
 君は感謝しているだろう。『これもみんな神様の思し召し、ご計画だったのだ』と…
 いま置かれている立場、境遇を喜ばなければならない、と…
 まことにその通りだと思うよ。
 人の心には、神様や…東洋の人々が信じている仏様でなければ、決して埋めることができない空洞があるんだ。どんなお金持ちで名誉があっても、天下人でも、いつかは老いて病気になり、天に帰らなければならないからね…
 君はそのことを重々知っている。知った上で感謝し、空洞は埋っていると思っている。でも君を含め、ほとんどの人は完全に埋めきることは難しいんだ)
 ネイは一息ついた。

(アダムとイヴが、蛇にそそのかされて食べた「神のように振る舞える」実。「神のように」というのは「永遠を手に入れる」ということだったんだよ) ネイは続ける。「…でも、永遠を手に入れるどころか、死すべき定めのものになってしまった。人間は。
「食べたのはアダムとイヴだ。自分たちじゃあない」納得できない連中が「魔法」によって永遠を手に入れようと考えた。ブライディー、君はもしも誰かが、ずっと前に亡くなった君の両親を、そっくりそのままの姿形で甦らせてあげよう、と申し出たら、頼むかい?)
「いえ、両親は天国の神様の家で安らかに暮らしていると思います。それをどうこうするのは冒涜ではないかと…」
 メイドさんは答えたが、歯切れは悪かった。(なるほど。時がたつにつれ悲しみは和らぎ、薄まっていく。けれども、亡くなられた直後のことを思い出してごらん…)
「それは…」
 答えに詰まった。
(取り返しのつかない悲嘆に襲われている時、人間はもろい。魂と引き替えに何かをしてもらえるような話に乗ってしまったとしても、その人を責めることはできないと思うよ)
 ネイはそう言うと、指人形くらいの大きさに縮まって、黙りこくってしまった。

 翌日、ブライディーはさっそく「英国心霊研究協会」の人々と、魔術師たちに「永遠を語る小さな縫いぐるみ」のような存在であるネイをお披露目した。
「かわいい!」
 デイジーは手のひらの上に乗せて走り回った。
「本当にかわいいですわ」
 ポピーにも見える様子だった。
 いっぽう、ドイルやウォーレス博士をはじめとするメンバーには、まったく見ることも触ることも出来なかった。
「これは悔しいな」 ドイルは拳を握り締めた。
「一つ、絵に描いてくれないか? 何か大きさを比較できるものも頼むよ」
 ウォーレス博士の願いに応じて、デイジーが器用にネイの姿をスケッチした。
「ほぅ、こんなのか。実物を直接見てみたいものだ」
 ウォーレス博士は眼鏡をはずしてまじまじと眺めた。他の紳士たちも意見を交し合った。「…見える人と見えない人がいるというのは、幽霊や妖精に似ていますな」
「『見える』という人は、一種の集団催眠なのではありませんか?」
 魔術師たちのうち三人は出払っていたが、安倍薫には見える様子だった。
「ぼくに見えるということは、ほかの魔術師のかたがたにも見えると思いますよ」
 安倍はメイドさんから借りたネイを頭の上に乗せて遊んでいた。
 もうこれからは恐ろしいことは何も起らない… いつまでも、いつまでも… 穏やかで満ち足りた日が続く… ブライディーはそんな感じに包まれていた。
(もういくら頼まれても冒険なんかはやめよう。言葉を尽くしてお話しすれば、ドイル様も、皆様も、きっときっと分ってくださるでしょう…)
 未来は「永遠に」午前十時の若い太陽のまま止り、凪の海のように静かで、時計の針は進むことなく…進んだとしてもごく緩慢なスピードで、歩む… そんなイメージに覆い尽くされていた。

 それは、まさしく、ただ一瞬の出来事だった。
 昼前、いつものように御用聞きが届けてくれる食料品から漏れたか、注文するのを忘れた品物を買いに市場に出かけたブライディーが、ふと歩道の向う側に目をやるとデイジーが歩いていた。
 デイジーもブライディーの姿を見つけた。「お姉ちゃん!」
 デイジーはこぼれんばかりの笑顔で手を振った。
 いつもは用心深いデイジーが、どうしてこの時ばかりは左右を確かめなかったのか、分らなかった。…そう、分らなかった…
 馬がいななき、デイジーの身体がふわりと宙を飛ぶのを、デイジーの両目がびっくりしたかのように虚空をさまようのを、ブライディーは見た。
 それまでこんなことが起きるなんて、髪の毛一本ほども思ってはいなかった。
 今夜もいつもと同じようにデイジーやポピーとともにお料理を作り、お皿を並べ、お皿を片付けて洗い、後かたづけと戸締まりをして…
 飛び降りる御者、誰かの悲鳴、駈け寄る人々、そして車道に倒れたデイジーの頭部から流れ出る血が、まるで写真のように瞼にやきついた。
 ドイルもポピーもすぐに駆けつけてくれた。
 だが、次に記憶があるのは、お屋敷の応接間に、大人よりも一回り小さな棺に寝かされ、清められ、両手を軽く胸の上で組んで、美しい春の花に埋められた、永遠に両目を閉じたデイジーの姿だった。

 ブライディーは泣いた。泣いて泣いてなきじゃくった。
「デイジー! デイジー! どうしてこんな急に! 何の前触れもなく!」
 ドイルも、ポピーも、博士や魔術師たちも、慰める言葉を持たなかった。
 何をしていても、どんなことをしていても、思い出すのはデイジーとの楽しかった思い出だけだった。
 パリへの旅、ネス湖への旅、貴族の養女のお話…
 お皿を洗っていても、デイジーが隣で洗っているようで…
 掃除をしていてもデイジーがすぐ横でホウキをはいているようで…
 洗濯を干していても、デイジーが次の洗濯籠を持ってやってくるようで…
 ふといつもの減らず口が聞こえてくるようで…
 何をしていてもうわの空だった。
 ロンドンの片隅にある、小さなアイルランド人のための教会の、聖像に囲まれ、たくさんの蝋燭の灯が揺れる礼拝堂で、十字架に賭けられた基督を仰いで、ついに彼女は神を恨んだ。
 小さいときに両親が亡くなった時にさえ、そんなことはしなかったというのに…
「神様、あんまりです… 神様、あんまりです… どうして、こんなにむごいことを…」 シスター・セアラがいれば、遠慮して思わなかったかもしれない。セアラは遠方でこの悲報を聞き、急いでロンドンに向かっている、とのことだった。
 ブライディーはそれを待ちきれず、ヨブのように神を呪った。ヨブは、自分自身が重い病に侵されるまで、すべてを失ってもまだ神を信頼していたというのに…
「…これだけ祈っていたのに… あれだけ祈っていたのに…」
 そしてふと気が付いた。
(ネイが来たとたん、この事故。もしかして、この悲劇はネイが仕組んだものじゃあないかしら? 可愛らしい姿形をしているけれど、ネイこそ悪魔そのものでは?)
(いま君は、おいらのことをある憶測を持って見ているね?) 芝居なのか、ネイもまた悲しげな表情で言った。(気持ちは分るよ。 でも、世界中のあちこちで、ついさっきまで元気でピンピンしていた人が、突然亡くなっているんだ。事故、急病、そして戦争なんかだったらもっとひどい… だから受け入れてくれよ。誰も恨むなよ。神様も、自分も、すべてを…)
「呪うわ…」 メイドさんはポツリと言った。「…これが『ご計画』だと言うのですか? これが『思し召し』だとおっしゃるのですか? あんまりです! あんまりです! あんまりです!」
 十字架に懸けられた、古い木製の、やせ衰えた基督像は、何も答えてはくれない。
「恨みます! 今回ばかりは本当にお恨み申し上げます… こんな悲しい思いをするくらいなら、わたしが馬車に轢かれて死んでいたほうがよほどよかったんです!
 魔女グエンドリン様や、シーリア様たちが、どうして神様に逆らって『永遠の命』を追い求め続けられたのか、いまではよく分ります!
 わたしが心から求めていたのは、『この世』で頑張って頑張って、働き続けて、いろんなことをやり続けて、天国に招いて頂くことなんかではなくて、『この世』で、いつまでも仲の良い人たちに囲まれて、いつまでも楽しく暮らし続けることだったんです!
 そのためには、ドイル様のように医学を修めて病気の人を救ったり、博士たちみたいに創意工夫を重ねて、あらゆる事故が無くなるように研究しなければならないんです。死後の神様の救いなんか… わたしは意味がないように思えてきました…
 いますぐ、デイジーを返してください! 吸血鬼となっていても、構いません。そうでなければ、わたしはもう、二度とお祈りなどしなくなるかもしれません…」
(もうそのへんでやめておきなよ) ネイが半透明の姿で飛び跳ねながら言った。(おいらが心を尽くして慰めるから…)
「とても嬉しいけれど、ネイ、あなたはデイジーの代りにはならないわ。デイジーは絶対にデイジーでなければだめなのよ! それか時間を、あの事故の前に戻してくれるというのでなければ嫌なのよ!」
(それは無理だよ。いままで数多の、神様を信じない、自分の力だけで何とかしようとするのが信念の、文字通り『神様のように振る舞うことを旨とする』『魔法使い』たちが、不老長寿の方法や、死者を復活させたりする方法を追い求め続けてきたけれど、多くの者が失敗したり、不完全に終っているんだ)
「わたしがやる…」 ブライディーがポツリとつぶやいた。「…わたしには占いという不思議な力があるわ。それで完全に亡くなった人を甦らせる手段をつきとめて…そう、自分では考えつくことは絶対にできないでしょうけれど…もしもそれがあるならば、たぐって、たどりついて見せるわ!」
(だめだよ。もし仮にそういうものがあつたとしても、恐ろしい困難が山のように待受けていて、悪魔や魔物たちが行く手を阻んでいるよ。それがもし存在して、占いで分るようなところにあるのなら、いままでに君よりずっとずっと優れた人たちが探し当てて…)
「『探し当てて』?」 メイドさんは問い返した。「『とっくの昔にこの世を《死というものがない》地上の楽園に戻しているんじゃあないだろうか』とでも?」

 その頃、サダルメリク・アルハザード少年は、数十年前ウォーレス博士たちが踏査して謎の卵の化石を持ち帰ったという、南の島々の中の、外国人にはほとんど知られていない島を探していた。
 探検をして帰ってきた、と言うのだから、地図もあれば行き方を記した日誌も残っていて、誰でも閲覧できたのだが、いざベースポイントとなる比較的大きな島の町に着いて尋ねても、だれもその島…「さまよい島」のことを知らなかった。
「それはたぶん、『じっとしている島』じゃあないんだ」
 同じ回教徒で、しかも子供であることに心を許した町の古老が、ようやく教えてくれた。「『じっとしている島』じゃあない? 地面とつながっておらず、浮島のように、巨大な船のように動いている、ということですか?」
 サダルメリクは吹き付ける海の香りに溢れた潮風にはためく寛衣を押さえながら聞き返した。
「ああそうじゃ。白人たちが来たときには、確かにその場所にあったのじゃろう。じゃがそれは何十年も前のこと… いまはどこにあるのか… ひょっとすると、大きな島にぶっつかってくっついてしまっているかも知れないし、あるいは逆に、打ち寄せる波に島の土地が少しずつ削り取られて、消滅してなくなっておるかも知れないな」
 古老はところどころ欠け落ちた黄色い前歯を剥き出しにして微笑みながら言った。
(困ったな、そうなっていたら空から探すというのも難しいだろうしなぁ…)
 アラビア人の少年魔導師は途方に暮れた。 砂漠には「さまよえる湖」や「さまよえるオアシスの町」というものがあって、長い間に場所を移動したり、消滅したり再び姿を現したりすることは特別に珍しいことではなかった。だがしかし、そこは何もない砂の海のこと、鳥にでも姿を変えて空から丁寧に見渡せば、発見することはそう難しいことではなかった。けれども、数え切れないほどの小さな島が浮かぶ南の海では、砂の中の胡麻粒を探すくらい困難だった。
(うーん… これはそれこそブライディーさんのダウジングでもなければだめだなぁ… それとも分身の術でも使ってしらみつぶしに調べようか…)
 諦めて引き返す前に、(だめでもともと)と思い、
「私はアラビアから来た、とある大金持ちの好事家の使い走りです。わたしのご主人様は卵の化石を集めていて高価で買います。このような木彫りの台座に乗っているもの。卵はなくなっていても台座だけでも買取ります。実物はなくても絵だけでも買います。また、あるところ、持っている人についての情報をくれた人にも、相応のお礼をします」
 と書いたポスターを市場の目立つところに張り出し、チラシを配らせた。さらに現地の踊りを歌って踊る大道芸人たちも雇って、触れ回らせた。

 果して、賞金目当ての大勢の人々が、泊まっている宿屋に押しかけた。
 子供が紐を引っ張って回す椰子の葉の扇風機のむせかえるような風が流れる中、サダルメリクは一人ずつ面接し、話を聞き、卵の化石を品定めしていった。
 来訪者のほとんどは嘘つきで、持参した卵の化石や台座もみんな真っ赤なニセモノだった。
(やはり駄目か。これはいったんロンドンに引揚げようか…)
 嫌気がさして面接を打切ろうとして顔を上げたとき、列の後ろのほうに、およそ化石や骨董品とは縁のなさそうな現地の少女が、不安さうな表情で並んでいるのを見つけた。
 すり切れた貫頭衣を来ているものの、こざっぱりした髪と、澄んだ黒い瞳をした少女に、サダルメリクはブライディーさんと同じ波長を感じた。
「卵も台座も持っていない、ということは、お話しを聞かせてくれるのかな?」
 サダルメリクがまっすぐに見つめると、少女は小さく頷きながら見つめ返した。
「わたし、病気などで行き倒れた人のお世話をするところで働いています。運ばれてきた人がうわごとで、卵の話をしていたのを、看病しながら聞いたことがあります。そのかたは、いくつかある『さまよい島』の住人のお一人だったそうです…」
(『さまよい島』!) 少年は思わず身を乗り出した。
「…その島には、かつて、貴男の求めておられる不思議な文字が刻まれた木の台座に乗った、決して孵ることがない石になった卵が二つ、あったそうです。
 伝えられるところによると、卵は、時が満ちると、暖めた人の意思を反映した生き物が孵る、とか…」
「それだ! それだ!」
 サダルメリクは飛び上がりかけた。
「…ただ、持ち主の心に僅かでも不安や心配があると、孵ったあと、その不安や心配まで具現化してしまう、と、その人は言っていました。卵から孵った生き物は、持ち主の無二の友となるとともに、現実と夢の境目をなくしてしまう、と… 例えば、金持ちになりたい持ち主には、往々にして一文無しになってしまう夢を与えてしまう、と… 我々の島もいつか無くなってしまうのではないか、そんな不安にとらわれた途端、島は本当に消滅してしまったそうです。いまわの際の言葉、でまかせではないように思います…」

(それは大変だ! 文字通り「試練を与える神」じゃないか!)
 砂漠のようなカラッとした暑さではなく、じめじめと湿り気が肌に貼り付いてくるような暑さにばてかけていたサダルメリクだったが、冷や汗が吹き出て背筋に悪寒が走った。(…早くロンドンに戻らないと、ブライディーさんが大変な目に遭っているかもしれない!)
「有難う。それだけ聞けばもう十分だ」
 懐からオスマン・トルコの金貨を取り出して渡しかけた手がはたと止った。
「君、もしも、もしもだよ、その卵が孵って何かが起きてしまっている場合、何とかする方法はないのだろうか? その行き倒れの男は、自分たちの島を元の姿に戻せなかったのだろうか?」
「方法はあったようなことをおっしゃっておられました」
 少女し訥々と語った。
「なぜ、なぜ試さなかったのだろう? 難しいことなのでしょうか?」
 少年は身を乗り出し、思わず少女の両肩をつかんだ。
「痛い!」
「ごめん… でもどうしても知りたいんだ」「でも、あたしも亡くなられる前の数日間看病しただけですから… その時はただの空想か妄想だと思っていました。貴男が貼られたポスターを見て、息が止りそうになりました。『神の卵』は本当にあったんだな、と…」
「そうか、そうですよね。…でもどうして二個なんだろう?」 サダルメリクは拳を作って自分の頭を叩いた。(…村長は、いくら子供たちの病気を治してくれたとは言え、遠来の白い肌のウォーレス博士に、そんな大切なものの片割れをくれたりなんかしたのだろう?
…その卵、自信過剰な将軍なんかに渡したりすれば、戦争を繰り返して大きな悲劇が起きる、と言っていたな。反対に、敬虔で心優しい人に渡すと、個人的なヴェルで悲劇が起きる。まがいものにせよ、卵から孵った者は「神を騙る者」なんだ。相当な魔力を秘めていると考えられる。別の次元、別のパラレルな世界を作れるのかもしれない。もしかしたら、ぼくの先祖、アブドゥル・アルハザードが手に入れ、操ることを切望した、この星がまだ火の海だった頃に君臨していた『旧き神』の一なのかも… このあたりはルルイエ海溝にも、ポナペ島にも近い。重ねてもしかしたら、村長は、自分の村に卵の化石が二つあることに怯えていたんじゃあないだろうか? そこで、訪れてきた白い肌の人々のうち、人格に間違いのなさそうなウォーレス博士に一つを託したのでは…)
「君、すまないけれど、もう一度名前を教えてくれないか?」
「ツァイです」
 黒いつややかな髪が揺れる。
「有難うツァイ。これは取りあえず約束のお礼だよ」 サダルメリクは繻子の小袋に入れた金貨を渡した。「帰りは急ぐのかい?」
「いいえ。日没までにに戻れれば…」
「では、すまないけれど、時間までここにいて、他に思い出せることがあれば、どんな些細なことでもいいから教えてくれないか?」「ええ。ご協力申し上げます」
 少女はサダルメリクと同じ、彫りの深い褐色の顔をほころばせた。
(さて、どうしよう?) アラビアの少年は思案した。(いったん戻ったところで、もしもトラブルが起きていて、解決策を持ち帰れなかったのなら、どうしようもない。かと言って、方策を得るまで粘れば、その間にロンドンで何が起きているか分ったものじゃあない。アルテア姉さんだったら、たとえ藁一本でも何かつかむまで粘るだろうから、ぼくもそうしようか… 魔法庁に持ち帰ったメルさん…失礼ながら彼女はどう見ても頭脳戦は不得意のようだから、期待できないしな…)
 付近の島々の詳しい地図を取りだして、もう一度眺めた。
(「消え去ってしまった『さすらい島』」、「二つの神様の卵」…パラレル世界を作り出すことができる… そうか! 何となく分ってきたぞ!)
 サダルメリクは瞬間移動で宿屋の椰子の葉で葺いた屋根の上に出た。海はすぐ近くにあり、小さな船…定期船などが桟橋に停泊しており、原色のアロハシャツやムームーを着た現地の人々が乗り降りしたり見送ったりしていた。
(パラレルな世界がいくつもある、と言うのなら「さすらい島」が消え去ってはいない世界があるに違いない。「ゲート・オープナー」のデイジーさんがいてくれたら、入口をこじ開けてくれるのになぁ…)
 やがて、ギラギラとしたオレンジ色の太陽が西の海に傾き始めた。
 少女・ツァイはこれ以上何も思い出せなかったことを詫びて辞去した。
 サダルメリクはただちに気配を念入りに消して、姿を透明にしてツァイの後を追った。 驚いたことにツァイは角を曲がって人けのない通りに出た途端、煙のようにかき消えた。(なるほど… あの子、やはりただ者じゃあなかったんだ) アラビアの少年魔導師は、(尾行がバレたらバレた時のこと)と、流星のように彼女を追った。

 不思議な島だった。
 椰子の葉の屋根の、高床式の民家がポツンと建っていて、回りは大小の、熱帯の原色の花が咲き乱れる庭に囲まれていた。
 で、それがあるだけで後は何もない、いきなり波打ち際になっている五分もあれば一周できる小さな小さな島… それも予想していたように、島自体が動き、移動しているようだった。
(もしかしたら、これが「さすらい島」の最後の一かけらなのかもしれないな)
 砂浜に降り立ったサダルメリクは、かまびすしい鳥のさえずりを耳にしながら気配を伺った。
(この島の住民はツァイさんだけ、ということだろうか。あと、村長さんや大勢いたはずの、元からの住民はみんなどうしたのだろう? 島が波に浸食されて、面積がだんだんと減っていくのに従って、あっちこっちへと散っていったのだろうか…)
 彼は油断なく気配を伺いながら、家のほうに近づいた。
(…おそらく「卵から孵ったもの」と上手に付き合うには、「悲観も楽観もしない、論理的で冷静な、それでいて機械人形のように何に対しても何も思わないか、というとそうでもない性格が必要なんだ。でもそれは非常に難しい。
 いつの頃かよく分らないけれど、昔、最初の一個を孵した村の人は、心のほんの片隅の片隅、隅の隅に『自分たちの島が、少しずつすり減って、いつか無くなってしまいはしないか? という不安』を抱いていた。
 卵から孵ったものは、オーナーや村人たちの多くの望みや希望を叶えただろうけれど、ついでにその不吉な予感も成就してしまったようだな。長い時の果てに…)
 ブーゲンビレアの花に見とれていると、ツァイが家から出てきた。
「後をつけてこられたのですね。ひどいおかた…」
「すみません。でも、貴女もただ者ではなかった、ということですね」
「どうして分りました?」
「貴女が看病して最後を看取ったという『さすらい島』の住民、彼はどうして、卵から孵り、おそらくは神として島じゅうの人々から崇められていたと思われる『神』の話をしなかったのでしょう? おかしいとは思いませんか? ぼくだったら一番にその『神』のこと話すでしょう」
「たぶん、卵はずっと卵のままで孵らなかったのでは?」
 ツァイは赤くて大きな花の一つを手折って髪に挿した。
「いや、卵は孵った。孵ったからこそ『持ち主の心を反映する』ということなどが分ったはずです」
「その神から『島の住民同士以外には他言無用』と口止めされていた、とか… その神は、見るも恐ろしい怪物である、とか…」
「ああ、それはあり得ますね。でも己の正体が暴露されることを気にするような神は、神ではないでしょう」 サダルメリクは花を身につけて精一杯のお洒落をした少女をまじまじと見つめて言った。「…ぼくの生まれ故郷の砂漠では、花というものは贅沢なものなんです。オアシスか、王侯貴族や金持ちでないと手に入らないのです」
「そうですか… ずいぶん遠いところからいらしたのですね。…そんなにその卵のことについて興味がおありですか? 砂漠の国には、負けずとも劣らない凄い魔力を秘めた品々があると聞き及んでおりますが」
「ええ、おっしゃるとおり掃いて捨てるほどありますよ。空飛ぶ絨毯だとか、こすると中から魔神が出てくるランプだとか…」
 サダルメリクはキラキラと金色に輝く波間と、ツァイの横顔を交互に見つめながら言った。
「まぁ素敵! あたし、一度でいいからそういう国を旅してみたいわ」
「いつでも喜んでご案内しますよ」
「そんな不思議がいっぱいの国から来られているということは、よほど卵のことが…」
「ええ。気にしています。もしかしたら、仲間がその卵のせいでピンチに陥っているかもしれないのです。手ぶらでは帰れないのです」
「お友達思いのかたなのですね」
「貴女ともぜひ友達になりたいですよ、ツァイさん。おそらくはこのあたりでは屈指の魔導師である貴女が、どうしてぼくの広告を見て訪ねて下さったのですか? 魔術師なら、その気になったら金貨などいくらでも手に入るでしょう? 貴女は貴女で、卵について気になることがあるのですか? 特に、二つ目の卵の行方とか?」
「黙っていてごめんなさいね。二つ目の卵の行方を気にしていることは確かですわ。…その前に、一緒に夕食でもどうですか?」
 招かれて入った小さな家の床には、椰子のジュースや様々な果物、焼き魚などがずらりと並べられていた。
「どうぞ、ご遠慮なさらずに」
「有難う。後をつけてきたというのに、ご馳走まで…」
 ちょうどお腹もすいてきた頃合いだったので、少年は手を休めずに食べた。
「アルハザード、と言うお名前は聞き及んだことがございますわ。名門魔導師のかたとこうして知り合えたことを光栄に思っておりますわ」 正面に腰掛けたツァイははにかみ、照れながら言った。「…どうでしょう、サダルメリクさん。あたしと二人で、ポナペ島やマリアナ海溝の深い海の底に封印されていると言う旧い神の召喚をやってみませんか?」

「いや、それはやめておきましょう」
 サダルメリクは食事の手を休め、ハンカチで口元を拭いながら言った。「…と言うか、止めておくべきでしょう」
「どうしてですか? 貴男とあたしが手を組めば、可能なように思いますが」
 ツァイは潤んだ瞳で少年を見た。
「可能、不可能の問題ではないのです。相手は人智を越えた存在です。ぼくの先祖、アブドゥル・アルハザードは、魔導師としての腕は一級でしたし、おまけに狂気に侵されていました。言わば『人でありながら人ではない、超越した者』だった、と言っても過言ではないでしょう。なのに、その最後は無惨でした。『人間だから、旧き神を御せなかったのだ』とは思いたくありません。そのうちに人間も過去を変更し、死者を蘇らせ、真の神からのみ与えられる永遠の命を自ら伸ばしたその手に掴む日がやってくるかもしれません。けれども、人間にはやっていいことといけないことがあるのです。ぼくの姉、アルテアは先祖が夢見たことを自分も夢として持ち続けています。ツァイさん、貴女もそうだ。『できることのすべて』をやってはいけない気がするのです」
「それは弱気な…」
 ツァイは立ち上がり、見下ろすように少年を見た。「人間はもっと強気であるべきです。『神をも畏れぬ』ところがないと、面白くありません。火を使い、弓矢を使い、鉄砲や大砲を使い、蒸気で戦艦を動かし、大勢の同胞を殺戮することで、こんにちの文明を築き上げてきた、のでは?」
「確かに、封印され何億年も生き続けてきた『旧き神』を召喚し、その身体の細胞を削り取るなどして、亡くなって間もない人に与えれば、とてつもない生命力を得て息を吹き返すかもしれない。けれども、そうして甦った者が人間と呼べるかどうか… 吸血鬼に血を吸われて甦った者は、もう人間とは呼べないでしょう。それともそれは『差別』でしょうか?」
「サダルメリクさん。わたしは何に見えますか?」
 少女は、仏像のように目を半眼に閉じ、試すように言った。
『人の女性、若い女性』と答えかけ、少年は言葉を飲み込んだ。
(「そういうこともあるかもしれない」と思っていたけれど、もしかして…)
「(もしかして)という直感は、往々にして当っていることが多いんですよね」
 ツァイは畳みかけた。
「普通の、無力でか弱い少女を装っているけれど、貴女が第一の卵から孵り『さすらい島』を消滅させた『神』なのですか?」
 食べ物の味がなくなり、身体がこわばる…(とてもそんなふうには見えない。もしも『神』なら、嫌でも感じる強大な魔力を発しているはずだ。まったく感じない、というのはあり得ない… 『神』に仕える巫女、なのだろうか?)
「あら、小さな島を消滅させ、住民を離散させめくらい、人間でも力のある人なら簡単にできることですわ」
 少女はサダルメリクの心を見透かしているように言った。
(なんだ、このまがまがしい感じは… まるでロンドンでもいまごろ、とんでもないことが起きているような感触じゃないか)
 アラビア人の少年はいまや自分がハッキリと罠に落ちてしまったことを悟った。
「…もちろん、このまま、お国に帰って頂いてよいのですよ。でも、帰った先で大変悲しい出来事が起きてしまっていたら、ロンドンにいる知り合い人々に加わって、一緒に泣かなければならなくなるかもしれませんね」
(脅迫か? 「悲しい出来事」って、まさか誰かが亡くなっている、ということでは?)
 顔からさらに血の気が引いた。
(…もしもそうなら、その人を生き返らせる手段を、ぼくが持って帰らなければ、ぼくらの仲間全員が、『エセ神』が操る『夢』から目覚めることはできない、ということか…)
「頭のいい人は尊敬致しますわ」 ツァイは人なつこく微笑んだ。「…二人でルルイエ海溝で永劫の眠りについている旧き神を甦らせましょう、アルハザードの末裔さん」
「ご先祖様か姉上ならしもかく、ぼくなどには到底無理ですよ」
「できるか出来ないかなどお訊きしてはおりませんわ。やるか、やらないかをお尋ね申し上げているのです」
「分りました。どうやら受けざるを得ないようですね」 サダルメリクは油断なく身構えながら言った。「…それで何をすればいいのでしょうね。ぼくには、ルルイエ海溝の深淵で永劫の眠りについている旧き神を目覚めさせたりすることはできませんよ」
「あたしもそんなことをして欲しくはありません」 ツァイは穏やかに言った。「あたしは、人間の少女に生まれるように望んだ村長さんのことを恨んでいる訳ではありません。 どう申し上げればよいか… あたしは、いつまでもいつまでも『神様の卵』のままでいたかった。『さまよい島』の小さな山の上の祠に祀られたままでいたかったのです。なぜなら、そのほうが島は削られて無くなってしまうことはなく、まるで物語や空想の中のイメージのようにいつまでも形を定めずに有り続けられたのです…」

(…そうか、卵が孵るということは、閉ざされていた「時間」が動き出す、ということだったんだ…) サダルメリクは合点がいったような気がした。(…つまり「神様」と言うのは「現状をルーレットみたいに回転させてしまう」という意味だったんだ。これはまずいな。ロンドンの「英国心霊研究協会」でショッキングなことが起きていなければ良いのだけれど…)
「で、どうすればいいのでしょうか?」
 サダルメリクがおずおずと訊ねる。
「その気になれば、未来を占うことができる強力な術者のかたが要ります。その上で、あたしをロンドンに行った、もう一つの卵から孵ったものに会わせてください。二人で新たな卵を二つ産めば、すべては元通りになるはずです」
(それだったら、何とかできそうだ) アラビアの少年魔導師はホッと胸を撫で下ろした。
(空飛ぶ絨毯でも使えば、ロンドンまではひとっ飛びだ。ブライディーさんが孵した『生き物』なら、きっと心優しくて、願いを聞いてくれるに違いない!)
「早速行きましょう、ロンドンへ」
「ええ」 微笑みかけたツァイが、また顔を曇らせた。「急ぎましょう! 例えば、あたしたちきょうだいが巡り会う前に、卵を孵した人が黒魔術などを使ってしまうと、卵の作り出した現実は確定したものとなって、元通りにすることは不可能になってしまいます」
「えっ?」
 サダルメリクは立ち止まり、目を見開いてツァイを見た。
「『さまよい島』の人々は、あたしが誕生したことで最初はとても喜んでくれました。しかし、それから嵐が襲ったり、地震や津波が起きて島が不幸が訪れるたびに、だんだんと白い目で見るようになり、しまいには石を投げたりして追い払うようになったのです」
「…………」
(ブライディーさんも、もし悲しいことが起きていたら、「卵から孵ったもの」のせいだと思って、疑いの目で見ているかもしれないな…)
「…そしてとうとう、別の島から呪術師を呼び寄せて、欠け去った島の土地を元通りに復活できるようにと、邪悪なるものに祈ってしまったんです。結果は、ご存じの通りです」 ツァイは悲しそうに目を伏せた。「ここが『さすらい島』の最後の一つで、あたしが最後の住民になってしまいました」
(大丈夫、ブライディーさんは敬虔なクリスチャンだ。たとえどんな不幸が襲っても、「神様の思し召し」と受け入れて、悪魔なんかに願を掛けたりすることはしないだろう。 きっと…いや、多分…)

 ブライディーはロンドン郊外にある、共同墓地を訪れていた。そこは「デイジーがあまりに可哀相だから」と、ドイルをはじめ協会の有志がお金を出し合って立てた墓だった。 一番小さな区画、新しい小さな墓石に供えられた花束は、まだ瑞々しかった。
(デイジー…) メイドさんはひざまづいて祈った。(…わたしが悪かったのよ… わたしが貴女を殺してしまったのも同然だわ。…わたしがあんな不気味な卵を孵すことを引き受けさえしなければ…)
(それは考えすぎだよ、ブライディーさん) ほとんどのの他人にはその姿が見えない、可愛い小動物のネイが、回りを飛び交いながら言った。
「いいえ、愚痴になるかも知れないけれど、あなたとの関係はないはずはないわ。…わたしたち、いままでドイル様たちと、沢山いろんな冒険をしてきたの。でも、神様のご加護があって、誰も大けがをしたりしなかった。それなのに、実にあっけなく…」
(それがデイジーちゃんの寿命だったんだ。 君の友達のシスターだって、きっとそう言って慰めてくれると思うよ)
「わたしは、今度ばかりは、神様に疑いを持ちました。両親を早くに無くした時も、そんなことは思わなかった。でも、今度ばかりは特別です。わたしは、わたしの占いの力で、何とかデイジーを甦らせる方法を突き止めて、実行するわ」 涙ににじむ石と墓を見つめながら、メイドさんは言った。「アレイスターさんやサダルメリクさん、安倍さんやネイさん… こんなに大勢の魔導師のかたと知り合えたのだから、わたしにだってできる、と思うのです。もちろん『手助けしてください』と頼むつもりはないわ。そんなことをお願いしたら、断られて、忠告されて、諫められるのに決まっているから… あなたがいま言ったみたいに… だから、たとえ何年何十年かかったとしても一人で頑張ってやり遂げてみせるわ」
 スッと立ち上がってもう一度祈った。
「…それまで、どうか待っていてちょうだいね、デイジー。お姉ちゃんが必ず、その冷たくて、寒くて、狭くて、寂しいところから出してあげるから…」
(もともと「胡散臭い」と疑われているのに、さらに嫌われることを言うようだけれど…) ネイはメイドさんのスカートの裾を引っ張った。(君の知っている相当な力を持った魔女たちも、何らかの形で死の向かう「時間を止める」ことはできたけれども、いったん命を失った者を甦らせることはできなかった。
 それは道徳や信仰心のかけらもない魔導師たちのあいだでも禁呪だからだ。それを、コツコツとメイドさんとして働きながら、みんなのために占いの力を役立ててきた優しい君が思うのは無茶なことだよ」

 その日からブライディーは、料理や掃除、洗濯、そのほかの仕事のあいまに、お屋敷の蔵書から「死者の復活」に関することが書かれている本を一冊ずつ持ち出して読みふけった。
 キリスト教の言う「天国における復活」について述べられた箇所は読み飛ばした。
 デイジーが亡くなる前の彼女なら、両手を合わせながら読み、悔い改めてすがる者は誰でも救って下さる基督の有り難さに心の安らぎを見出しただろうが、もはや、そのような「死後の救い」からは関心も興味も消え去ってしまっていた。
 ネイはもちろん、ドイルも、ポピーも、もう悲しみをあらわにすることなく、淡々と仕事ほこなすメイドさんに、奇異なものを感づいていたが、そのことに触れようとはしなかった。
 ただ、屋敷の蔵書の中に、具体的に死者の復活が書かれた本は少なかった。と言うよりも、ほとんどなかった。
 唯一の例外は「フランケンシュタイン」だったが、これはほとんど役には立たなかった。(ああ、「黄金の暁団」に行ったらあるのかしら? アレイスターさんやサダルメリクさん、安倍さんやメルさんならご存じなのかしら?)
 早くも行き詰った。
(ほらね。だからもう、到底無理なことを思うのはやめようよ)
 ネイは穏やかに諭した。
(こうなったら、計画どおり占いで目的のことが書かれた本がどこにあるか、探し出して見せるわ!)
 メイドさんはその日の仕事が全部終って、ポピーがすやすやと寝息を立て始めるのを待って、お仕着せのまま書斎に向かった。
 春まだ浅い、ひんやりとした夜の空気、ほんの少し黴臭さと石炭の臭い感じる空気の中、いつもより何倍も時間をかけて集中してからゆっくりと時間をかけて「不思議の国のアリス」のタロット・カードを並べ始めた。
(お願い… カードたちの教えて。命の灯が消えて、土の中に埋められてしまった、可哀相なちっちゃな子を、元のようにきれいで可愛くて、そしてほんのちょっぴり意地悪なまま、甦らせる方法はあるの? あるとすれはそのことについて書いた本はどこにあるの? 誰が持っているの?)
(やめておこうよ!) ネイは鋭く囁いた。(…そんなことをして、もしも万々一上手く行ったとしても、君も、デイジーちゃんも、みんなも、誰も幸せにはならないよ。まして失敗した時に起きる恐ろしいことを考えると…)
「黙っていて!」 メイドさんは珍しく…本当に珍しく言葉を荒げた。「ほんの少しのあいだでいいから、話しかけないでちょうだい!」
(教えて! 教えて! 本はどこにあるの? わたしにでも読める本、亡くなった人をそのままの姿と心で甦らせる本。審判の日まで待たなくてもそういうことができる方法が書かれた本…)
 アリスのタロット・カードの配列は「そのことが書かれた本は世界中に無数にある」と答えた。
「大昔から、いろんな国の言葉で…中にはもう、とうの昔に滅びてしまって、誰一人読むことも書くこともできなくなってしまった言葉で…中には難解な暗号で…書かれ続けている」と。
(やっぱり、やっぱり、むかしむかしから、肉親や親しい人を亡くした人は、ひっそりと内緒で思い続けてきたのよ! イエス様の苦難と死のあとに復活がある、ということを信じられない人々が、大っぴらに、声高には言えないけれど、細々と…しかし連綿と研究を続けてきたのよ!)
 メイドさんは何者かに力強く背中を押された気がした。
 いままで知り合った魔女たち、グエンドリンやシーリアたちを、いままでは「真の神様を信じない、文字通りの不信心者だと軽蔑してきたブライディーだったが、いざ自分がデイジーの死に直面して見ると、実に人間らしい親しい友のように思えてきた。
(本は、たくさんあるようだから、もっと絞り込みましょう… このイギリスの、ロンドンの近くで、わたしが読める言葉で書かれていて、禁書の書庫などに封印されていなくて、手にすることが可能な本! とりあえずわたしの身近にあるものから教えて!)
 改めて一枚、一枚とカードを並べて行くと、タロットの絵柄は嬉しい結果を指し示した。『貴女が読むことを望んでいる本で、一番身近なものは、ここ英国心霊研究協会の屋敷にある。その他には大英博物館、黄金の暁団、ソーホー街のサダルメリクのアラビア古書店、あとは好事家の貴族たちが所蔵している』
(ああ、ついているわ!)
 メイドさんは思わず顔をほころばせた。
(後はダウジングで探すわね! カードさん有難う)
 陣を崩し、丁寧に箱にしまって、代りに片手に黄金の棒、片手にランプを持って、真夜中の屋敷の廊下に歩み出た。
(もう少し待ってみようよ…) ネイがふわりふわりとついてきながら言った。(…せめてサダルメリク君やメルさんが帰られるまで待ってみられては?)
「待てないわ! それに、わたしはもう他の魔導師のかたがたを頼りにしないことに決めたのよ!」

 黄金の棒は、「英国心霊研究協会」の屋敷の、ほとんど使われていない棟の、さらに奥まったところに導いた。そこのいくつかは物置の代りに使われているところで、特に日頃の掃除も何もしなくていい、と言われていた部屋だった。
 鍵束の中から滅多に使わないために錆び付きかけていた鍵を差し込んで回すと、樫の木のドアはギィーッと重苦しい音を立てて開いた。
 ランプを掲げて照らすと、埃の積もった木箱が部屋いっぱいにびっしりと天井まで積み上げられ、黴臭い空気が立ちこめていた。
(わたしもこのお屋敷に来て、かれこれ三年になるけれどねこんなところは初めてだわ。 それとも「ここは掃除も何もしなくていい」と言われていたのかしら…)
 どうやらそんな感じだった。
(それで、かんじんの「死者を蘇らせる方法」が書かれた本はどこにあるのかしら?) メイドさんはいま一度黄金のダウジング棒を手にして心を静めた。
 棒はかすかにくるくると動きながら、まるで背伸びするかのように彼女の手のひらから伸び上がり、奥の奥のそのまた奥、一番奥の、一番下になっている木箱を指し示した。
(誰の助力もなしに君一人の力で本を取り出すことなんて無理だよ」
 ネイは相変わらずブライディーの回りをゆっくりと飛び回りながら、独り言のように言った。
 ブライディーは試しに手前にある木箱の一つを持ち上げようとしてみたが、ずっしりと重く、びくとも動かなかった。蓋を取って覗くと、中には大小の古書が、寸分の隙間もなくビッシリと詰め込まれていた。
 目的の本が入っている箱に辿り着くためには、このような箱を何十個も廊下に移動させなければならない様子だった。
(「お兄ちゃん」みたいな力持ちの沖仲仕が何人かやってきても、一日で終るかどうか… ましてわたしなんかだったら、毎日少しずつ動かして、何日も何ヶ月も、下手をしたら何年もかかってしまうわ。この廊下は見通しがいいので、そのあいだに会員さんのどなたてかに見とがめられてしまうでしょう…)
 メイドさんはガックリと肩を落とした。
(ほらね。やっぱり諦めるのが正解だと思うよ)
 ネイが慰めるように言った。
「いいえ、わたしはやるわ!」 メイドさんはまなじりを決して言った。「たとえ長いあいだかかっても、その間に「そんなところの掃除はしなくていい」と怒られても、必ず取りだして見せるわ!」
 そう言うなり猛然と、最初の一箱の中の本を取り出して順序よく取りだして床の上に置き、持ち上げられるようになったところで木箱を廊下の窓際へと出し、そこに放り出していた本を戻した。
(一人でするには気が遠くなるような作業だよ) ネイが言った。(それに、目的の本を取り出して読んだり書き写したりした後、また全部を元に戻さなくっちゃいけないんだよ)
「いいの! 一人寂しく、冷たい土の中に埋められているデイジーの寂しさを思えば、そんな苦労なんかへっちゃら! 毎晩少しずつ、寝る時間にやるわ!」

 それから数日後、「心霊研究協会」の屋敷を、シスター・セアラが訪ねてきた。
 シスターはどうやら、夜ごとの、メイドさんの奇妙な行動に気が付いたドイルから、来訪を頼まれたような様子だった。
 ところが、それまではセアラを本当の姉のように慕っていたブライディーだったのに、態度はよそよそしいものになっていた。
「ブライディー、ドイル様からお話しをお聞きしました。…デイジーちゃんは大変可哀相だったと思います。…でもそれも、世の中で起きている様々な苦しいことや悲しいことも、すべて主の思し召し。人生の大半がしんどいことや辛いことなのも、十字架の受難の末に復活された主に習い、後に続くようにと言うことなのです。…デイジーちゃんはいま、天国の神様の御許にいると思います。もうこれ以上悲しんだり思い詰めたりすると、デイジーちゃんのほうがもっと悲しむと思います」
「有難うございます、セアラ様。ご心配をおかけしてすみません」
 そう答えたメイドさんの瞳の片隅に、小さいけれど気になる怪しい光があるのを、若いシスターは見逃さなかった。
「差し出がましいことを言うようだけれど、デイジーちゃんの魂を慰めるのには、お祈りだけで十分だと思いますよ。もしも、それに加えて考えていることがあるのなら、それはせめてもう少しだけ時間を置いてからにしてあげればどうでしょうか」
「はい」
 メイドさんは力無く答えた。
 そして、幾つ目かの夜、廊下には本が詰まった木箱があふれ、ブライディーが目的の本を手にする時がやってきた。

「生命の本質 パラケラスス著 16XX年、スペイン、バルセロナにて刊行されたものの写本」
 恐ろしく古い羊皮紙の束を革張りの表紙と裏表紙で綴じた本の、元は金箔だったのだろう、剥げて窪みだけ残っているタイトルにはそうあった。
 中身は茶色味がかった黒インクの、オールド・イングリッシュの手書きだった。
(これだったら、古語辞典があればわたしにだって読めるわ!)
 メイドさんの唇からは久しぶりに笑みがこぼれた。
 最初のほうにはマグナス、トマス・アクイナス、ベーコンらの業績に対する賛辞が、続いてルルスやゲービルらの研究の検証が書かれていた。
 本の前半は、文字通り鉄や銅など、安物の金属から金や銀などを作り出すやりかたについてのアプローチが、実験器具のセッティングの図解とともに記されていた。古今東西、何をするにつけ「先立つもの」は要る、ということだ。
 パラケラススは「城のように壮大で分厚い石垣で囲まれた窯と、地獄の炎よりも熱い業火を作り出すことができれば、それらを使ってダイヤモンドやサファイアでも、人の手で作り出す世の中が来るであろう」と結んでいた。
(まぁ、すごいわ!) ブライディーは苦労の果てにようやく掘り出した本の内容にただただ感心した。
 そして、後半ではいよいよ、命を亡くし、朽ち果てたものに再び命を吹き込む方法が述べられていた。
 が、しかし、ページの大半は、枯れてしおれてしまった薔薇の花を、元通り生き生きとさせる薬液の調合と手順に裂かれていた。
 そして「応用」として、命を奪われ、標本箱に針で止められた美しい蝶と、かぶと虫や玉虫に、再び命を与える方法がちょっとだけ語られていた。
 メイドさんは肩を落とした。
(何よ、お花と虫のことしか書かれていないじゃないの… わたしは、人間をデイジーを甦らせたいのよ!)
 そんな不満に対してパラケラススは後書きでこう書き逃げしていた。
『…たかが花や虫ではないか、それならば新たに花屋で買ってきたほうが安上がりだし、森で採集してくるほうが遙かに容易ではないか、読み手の諸侯はそう思われるかも知れない。なれど、余は積年の研究の末に、ようやく枯れた花を甦らせ、死せる蝶を再び羽ばたかせる方法を完成させた。余より賢明なる諸侯は、ぜひこの上を積み上げられんことを望む…』
(分ったわ。だったら取りあえず、今夜中に枯れたお花に再び命を与えてみせるわ!)

 かくして、クルックス博士やウォーレス博士たちが時々使っているお屋敷の簡単な実験室に、枯れて捨てられていた薔薇の花と、いくつもの薬瓶が並べられた。
(危ないよ! どうなっても知らないよ! 君は科学者でもなければ、錬金術師でもないんだろう? やめおいたほうがいいよ! しまいにドイル様たちから怒られるよ! みんな君が可哀相だ。何かに打ち込むことで忘れられることができるのなら、と思って大目に見てくださっているんだ。でも、勝手にこんなことまでやったら、堪忍袋の緒を切ってしまわれるよ!)
 ネイが、試験管やビーカーやフラスコや冷却管の回りを飛び交いながら言った。
 けれどもメイドさんは、アンモニアや臭素、カリ、ミョウバンやカルシウム、燐など、パラケラススが教える薬剤の調合に夢中だった。
 窓を開け放ってもあたりには異臭が立ちこめ、マスクで口元を覆ったブライディーの瞳は、まるで別人のようにギラギラと異様にに輝いていた。
 やがてアルコール・ランプの青白い炎の上、湧き上がって煮立った液体が立てる白煙の中に、恐る恐る枯れた薔薇の花をかざしてみた。
 するとどうだろう、花はゆっくりとみずみずしさを取り戻し、一分後には何日か前の色鮮やかな美しさを取り戻した。
「やった! やったわ! 大成功よ!」
 メイドさんは飛び上がった。
「次は、これでやってみるわ!」
 ウォーレス博士が壁に飾っていた、珍しい蝶たちが並んだ標本箱から、針で突き刺された蝶を抜き取って、煙にかざしてみた。
 すると、パタッ、パタッと羽根を動かしたかと思うと、自分で針から抜け出して実験室の空間を飛び回り始めた。次の蝶も、その次の蝶も…
「わたしには、才能があるのよ!」 ブライディーは興奮し、恍惚とした表情でつぶやいた。
「次は、次はデイジーよ! お墓から掘り出してこの煙に当てて上げるの! ドイル様や、ポピーや、アレイスターさんや、セアラさんや、皆さんはびっくりして腰を抜かされることでしょう!」

 次の夜、覚えてしまった郊外の墓地への道を急ぐ、一頭立ての使い古した荷馬車があった。メイドさんがあらかじめ、出入りの食料品店のご用聞きの少年に頼み込んで借りたものだった。無論「遺体を乗せて屋敷まで連れて帰ってくるために使う」とは言わなかった。
 言えば絶対に貸してくれなかっただろう。普段は口に入れるものを乗せている荷台…なのだから…
 御者台のメイドさんは、黒いマントをスッポリと羽織り、黒い頭巾を目深にかぶって、誰が見ても正真正銘の魔女のいでたちだった。
(デイジー…、待っていてね。もうちょっとの辛抱よ。わたしが冷たい土の中から掘り出して甦らせてあげる! またみんなで楽しく働いたり、遊んだり、旅行に行ったりしましょう!)
 もう幾夜もほとんど眠っていないのにもかかわらず、頭は冴え渡り、血走った目はしっかりとつり下げたランプが照らし出す行く手の闇を見つめていた。
(一緒にお料理や、お洗濯や、お掃除をしましょう! ポピーも喜ぶわ! 貴女のお義母さまも喜ばれるでしょう! ドイル様や、先生がたは驚かれるかしら? 魔導師のかたがたは「しまった! メイド如きに先を越された」と思われるかもしれないわね。セアラ様は、わたしを「異端」として破門されるかもしれないわ。…でも構わない! デイジー、また貴女のはしゃぐ姿を見られるのなら…
 わたしは教えて差し上げようと思うわ。「パラケラスス先生のご本に書いてある通りにやっただけです」って! その後は… どうなるかしら? ご遺体を火葬に付さずに、昔ながらの土葬にされているかたがたは、甦らそうと思えば全員甦らせることができるのよ! 「遺体を焼いてはいけない。復活の日に、魂が帰るべき肉体は必要」と考えた、昔の人々は本当に賢明よ!
…ロンドンの人口はまた増えて、あちこちで混雑の度合いが増すのかしら? デイジー、貴女が再び命を得ることができるのなら、他の人が同じようにされても構わない。グエンドリン様やシーリア様は、さぞかしショックを受けられるかもしれないわね。だって、自分たちが長い長いあいだ、心血を注いで探究してきたことを、ただのメイドが、あっけないくらい簡単に達成してしまうのですもの!
 でも、「世紀の発見」なんてそういうものかもしれなくてよ。…そう、これが「ビギナーズ・ラック」というものかもしれないわ!」
 折から、冬の氷雨の名残りのような、みぞれまじりの冷たい雨粒が降り始めた。雨と風邪は次第に強さを増し、マントも頭巾もじきにずぶ濡れになった。
 共同墓地に続く道はぬかるみ、馬はスピードを落とした。
 その時、ようやくネイが、雨を跳ね上げながら羽ばたき、追いついてきた。
(ねぇブライディー、本当の本当に、こんなことはもうやめておこうよ! でないと完全に取り返しのつかないことになってしまうよ! …そもそも、ムーのサントゥーにしろ、キャメロットのマーリンにしろ、サナアのアルハザードにしろ、君が語ってくれたグエンドリンやシーリアたちにしろ、歴史に名を残す大魔導師たちでも、誰一人死者の復活を成し遂げた者はいないんだ。フランケンシュタイン博士…彼だけは別格しても、死者を…ラザロを…甦らせたのはイエス様だけだ。バルセロナのパラケラススにしても、枯れた花と昆虫がやっとだった。それを君が?
 いい加減で目を覚ましたほうがいいよ。
 そうでないと、とんでもないしっぺ返しを受けるよ。事態はもっともっと悪くなるだけだ。そうなってしまった後で「しまった! 莫迦なことをした」と後悔しても、それこそもう誰にも、どうにもできないんだよ!)
 メイドさんは黙って、ドイルから黙って拝借してきた拳銃を抜き出して、銃口をネイに向けた。
(な、何をするんだ! 危ない! しまったほうがいいよ! おいらはこういう姿だから、例え命中しても、弾丸は突き抜けてしまうだけだよ!)
「…わたしはいままでいろんな人のご忠告にほとんどすべて従って生きてきた… でも、もういいでしょう。わたしはただ、仲良しだったデイジーを元通りにしたいだけ。ただそれだけなの… 初めて、心の底から願っていることを行動に移す、ただそれだけなの」

 吹き降りの嵐の中を、漆黒のマントと頭巾をべったりと身体にまとわりつかせながら、シャベルで墓石を掘り起こし、馬に牽かせてどけ、さらに穴を掘り続ける影があった。
 時折、稲妻が照らし出すその顔は、若いメイドさんのものだった。
 雷鳴が轟くのと同時に、シャベルの先がカチンと音をたてて、柩の蓋に当った。
「…デイジー、長い間待たせてごめんなさいね。もう少しよ。もう少しで元通りにしてあげる! もう一度声を聞かせて! 姿を見せてね!」
 柩に留め金を打ち込み、これも馬に引かせた。馬は度重なる雷鳴にいななき、竿立ちなった。
「どうどう、怖くない! もう少しだから頑張ってね」
 柩を黒くべとつく土のなから引出し、斜めに傾けた荷馬車の荷台に載せた。

「さぁ、デイジー、帰りましょう。…冷たかったでしょう。寂しかったでしょう。でも、それもおしまい。お姉ちゃんが生き返らせてあげるから… 暖炉をいこして、暖かくして… 着替えも用意してあるわ。貴女のお気に入り。処分してしまわずに、ちゃんと置いておいたの。(こんなこともあるかもしれない)と思って。本当に良かったわ」
 メイドさんは馬を荷馬車につなぎ直し、御者台に乗り込んだ。
「どうどう…」
(やめておこうよ! これが最後のチャンスだよ!) ネイは飛び回りながら叫んだ。(本当にこれが最後のチャンスだよ! いま、その馬に鞭を当ててしまうと、何もかも…本当の本当に何もかも、もう元へは戻らなくなってしまうよ!」
「いいえ、元へ戻すのよ! デイジーがいて、楽しかった、とても楽しかった、とてもとても楽しかった頃に!」
 ブライディーはそうつぶやくと、ピシリと馬に鞭を当てた。

 その頃、サダルメリクとツァイは、空飛ぶ絨毯に乗って、ロンドンへと急いでいた。
 ところどころ雲で遮られた、ま下の景色が海から町へ、町から野山へ、野山から砂漠へと絵巻物のように変る…
「振り落とされないように、しっかりぼくにつかまっていて!」
 アラビアの少年魔導師が叫ぶ。
「大丈夫です。もっとスピードを出して下さい!」
 長い黒髪を吹き付ける風になびかせながらツァイが叫び返す。
 やがて眼下に、先の尖った塔や、教会の鐘楼などの、懐かしいヨーロッパの風景が見えてきた。気球を横切り、飛行船を追い越し、ドーヴァー海峡を渡り、ビッグベンが見えてスピードを落とす頃にはとっぷりと夜が更けていた。
「もうすぐです。アルテア姉さんなら瞬間移動の術を使うところですが、相当な遠距離で、しかも二人となると、万一失敗した時のことを考えると…」
 絨毯は「英国心霊研究協会」のお屋敷の、メイド部屋の窓際につけられた。
「夜遅く、ご婦人の部屋に、失礼します!」
 少年はブライディーのベッドがカラッポで、眠った形跡もないことに、不吉な予感を感じた。
 隣のベッドで、まるで魔法にかけられたようにスヤスヤと眠りこけているポピーの両肩を持って揺り起こした。
「ポピー、ポピー、窓から失礼してごめん! ぼくだ、サダルメリクだ! 帰ってきたよ!」
「う、うーん」
 ポピーは眠たそうな目をこすりながらようやく起きあがった。
「ポピー、ウォーレス博士がブライディーさんに預けた化石の卵は孵ったんだね?」
「ええ、そうなんです。ブライディーさんそっくの優しい心を持った、子犬のような子猫のような、フワフワと空を飛ぶ可愛らしい動物が… それからしばらくして、デイジーちゃんが事故に遭って…馬車にはねられて、亡くなったんです」
「ええっ! デイジーさんが!」 サダルメリクは心臓が止りそうになった。「…デイジーさんが馬車に…」
「落ち着いてください、サダルメリクさん。これは卵から孵ったものが見せる夢…悪夢です。正しい手順を踏めば、もとへ戻すことができます」
 ツァイが少年の耳に囁いた。
「本当になかったことにできるのですか? ぼくには現実…そう、現実以外の何ものでもないように感じられますが。…それでポピー、ブライディーさんは?」
「ブライディーさんは、その… 物凄く悲しまれて、お休みの時間には黒魔術の本などを読みふけられるようになりました」
「『黒魔術の本』?」
 サダルメリクは眉をひそめた。
「ええ。このお屋敷の『開かずの書庫部屋』にあった本を、ほとんど全部廊下に放り出して、一番奥にあった本を読まれていました。 ドイル様も、他の会員のかたがたも、『それでブライディーさんの気が休まるのなら』と見て見ないフリをなさっておられました」「まさか… まさかとは思うけれど、ブライディーさんは、死者の復活の禁呪を研究して実行するつもりなのでは…」
「それをやったら最後、これが現実となって確定し、元に戻せなくなります」
 ツァイがまた囁いた。
「で、ポピーさん、ブライディーさんはいまどこにいるのですか?」
 サダルメリクの勢いにポピーはベッドの上で後じさった。
「…ですから、その書庫で本を読んでおられるとか、放り出した他の本を元通りにしておられるとか… ああ、そう言えば実験室にもよく出入りしていて、何かの薬剤の調合のような実験をされていました。これもドイル様たちは知らないふりをされておられました」
「ポピーさん、こんな夜遅くに悪いけれど、ぼくらをその実験室に案内してください!」
「は、はい。構いませんけれど」
 ポピーに案内され、ランプの明りに照らされた部屋の、机の上の実験器具の配置を見てサダルメリクは息を呑んだ。
「こ、これは!」

「…パラケラススが考えた『枯れた花を、咲いたばかりのようにみずみずしく元に戻す』黒魔術の実験を、科学の実験器具で再現したものじゃないか!」
 机の上には枯れた花と、いましがた花屋で買ってきたばかりのような色とりどりの春の花束も置いてあった。
「黒魔術は成功してしまったんだ! ということは、『卵が作り出した事実』…『デイジーさんが亡くなってしまった』ということはもう元には戻せない?」
「いえ、たぶんまだ大丈夫だと思います。ブライディーさんが、人間のデイジーさんを甦らそうとしない限りは」
 ツァイは枯れた花と、復活させた花束を交互に手にとって意味ありげに眺めた。
「いくら何でもブライディーさんはそこまではしないだろう。神様を信じ畏れていたし、どちらかと言うと恐がりで臆病でもあったし…」
「それが… デイジーさんが亡くなられてからというもの、少し…と言うか、かなり、人が変ってしまわれたようになって… ここだけの話、甘やかされたドイル様もいけないと思います」
 ポピーはポツリポツリと語った。
「よーし、とにかくブライディーさんと、ネイを探すことが先決だ!」
 サダルメリクが出て行きかけたところへ、降り続ける雨の中を、一台の荷馬車がお屋敷の裏庭に止った。覆いをかけられた荷台には、人一人が入るような長細い箱が積まれている。 スックと降り立った御者は、見覚えのある、華奢な体つきをしていた。
「ブライディーさん!」
 サダルメリクは叫びながら駈け寄った。
「こんな夜中に、しかも雨の中を…」
「この荷台のものは何でしょうか、まさか…」
 ポピーとツァイは口々に言った。
「デイジーよ。わたしが生き返らせてあげようと思うの」
 一同は息を呑んだ。
 その声は、以前と同じように穏やかでおとなしいものだった。
「いけないよブライディーさん、そんなことをしなくても、時間は元に戻せるんだ。ここにいるツァイさんと、君が卵から孵したというネイが出会うことによって!」
「有難う。でももういいの。今度という今度は、わたしが一所懸命願いを込め、祈ってやってみるの」
 メイドさんは雨に打たれ続けながら身じろぎもしなかった。
「一体何に祈るんだ? 悪魔にか? そんなことをすれば、本当の本当に取り返しのつかないことになってしまうよ!」
 そこへ、ネイが追いついて帰ってきた。
 ツァイは、一対の卵から孵った片割れ…と言うか、きょうだいと対面した。片や、南洋の、黒に近い褐色の美しい少女、かたや、縫いぐるみみたいな奇妙な生き物…
「あなたが…」
 ツァイが手を差し伸べる…
「貴女が…」 ネイは宙に漂いながら静止した。「島は? 『さすらい島』はどうなったんだい?」
「珊瑚礁が、嵐や波に削り取られて次第に小さくなり、最後は消滅したのと同然の大きさになってしまいました。あたしはいま、そこで一人で住んでいるの。あたしを孵した村長さんが、いつもいつも心配していたことを反映してしまったの」
「そうか… で、黒魔術は使われてしまったのかい?」
「ええ、諫めたのだけれど… 呪術師が呼ばれて生け贄の豚が捧げられて…」
「そうかい… それはもう仕方がないね」
 ネイは悲しそうに目を伏せた。「…そちらの事実は確定だ」
「ブライディーさんがつねづね心の奥に抱いていた心配、不安は?」
 ツァイが訊ねる。
「仲のいい、親しい人が、事故か何かで急に亡くなる、とうものだったよ」
「やはりあなたが、卵がデイジーをあんな目に遭わせたのね!」
 メイドさんは、一見、ピエロが操る腹話術人形にも見える縫いぐるみのような生き物を、憎悪に燃える瞳で睨みつけた。
「だから違う、違うんだよ! ぼくたちは卵を孵した人を反映しているだけなんだ。いわば鏡のように、君の心…良心や、潜在意識の底の底の不安を写しだしているだけなんだよ」
「何やかや言って、結局あなたの仕業じゃないの、ネイ!」
「だからそれは違うって、分ってよー!」
 ブライディーがネイと、南洋から来た少女たちに気を取られているあいだに、荷馬車に忍び寄ってこっそりと覆っていた布をめくったサダルメリクは、思わず声を上げそうになった。
(棺! デイジーさんの棺桶! 何ということだ! 魔導師ではないブライディーさんは、まったくの本気で死者を蘇らせるつもりだったんだ!)
「触らないで! サダルメリクさん! デイジーはわたしが生き返らせてあげるの!」
 駆け戻ったメイドさんは少年を払いのけようとした。
「だから、そんなことをする必要はないんだってば! 卵から孵ったものが二人揃った以上は、正しい方法で時間を戻せるんだ。だけど…」
 少年は口ごもった。

「それまでに黒魔術などを使ってしまうとだめになるのだそうです」
「『正しい方法』… 『正しい方法』…」 メイドさんはうわごとみたいに繰り返した。
「…やっぱり、この悲しいことは卵と、卵から孵ったネイの仕業だったのね。わたしがウォーレス博士から卵を預かりさえしなければ、わたしも、みんなも悲しい思いをしなくて済んだのね…」
「だからそれは違うのよ、ブライディーさん」 (誰が説明しても、納得してもらうことは難しい)と思ったのだろうか、ポピーが歩み出て、一言一言区切るように言った。
「…たとえ卵を預からなくても、お断りになられたとしても、ネイが孵らなかったとしても、いつか、何か悲しいことは起ってしまうでしょう? 卵はその予行演習をして見せてくれる…と言うと言い過ぎになるけれど、二つの卵は、数万年前のむかし、ムーやアトランティスの凄い魔導師さんが、自分で自分を計るために使ったものだと思うのよ。
 例えば、悲しみにうちひしがれてしまったら、『ああ、自分はこんなにも弱い人間だったんだ』と自省するために。
 反対に強気で楽観的な人には、それなりの結果を見せて『ああ、強引なところがあった』と思わせるのでしょう…」
「わたしは… 弱い… 人間…」
 雨の中に立ちつくしたメイドさんは、ポツリと言った。
「弱くてもいいんです。恥ずかしいことはないのです。だけど、思い切り莫迦なことをしてはいけないんです」 サダルメリクは荷馬車の御者台に飛び乗って、馬に鞭を当てた。「ぼくはこれを墓場に戻してきます。ポピーさんたち、後はよろしくお願いします!」
 雨すだれの中、荷台に柩を乗せた荷馬車は見る見る闇の中へ消え去っていった。
「デイジー! デイジーを持っていかないで!」
 追いかけようとしてぬかるみの中に転んだブライディーをポピーが抱え起した。
「それでは、新たな卵を…」
「おいらたちの血統が絶えないように…」
 ツァイは、胸の中に縫いぐるみのような生き物を抱きしめた。
 一人と一匹は、青白い燐光に包まれた。
 光の粒は螺旋状に渦巻いたかと思うと、二人の姿はそれぞれ青白い膜に覆われた。
 膜は次第に縮んで、元のダチョウの卵くらいの大きさへと戻っていった。
「元の卵に戻った…」
 二つの卵は、光の尾を引きながら上昇し、絡み合いながら東の夜空に消え去った。
「どこかへ… 行っちゃった…」
 メイドさんたちは呆然として見送るだけだった。

 嫌な夢だった。
 いままでで見た夢の中でも最悪のものだった。
 ベッドから起きあがったブライディーは、全身にぐっしょりと寝汗をかいていた。
 卵はあった。
 あの夜そのままに。

 卵は金色に輝いたかと思うと、ピピッと小さなヒビが横に走った。 ブライディーはガバッと毛布をはねのけて起きあがった。
「ポピー、起きて! お願い! 卵が!」
 鋭く囁き、揺り起こしたものの、不思議なことにポピーはクークーと深い眠りに落ちたまま、まるで目を覚ます気配がなかった。
「ポピー、お願い!」
 ピピッ ヒビはさらに大きく走った。
(どうしましょう!)
 思っている間もなく、ヒビは縦横斜めに走った。
 そして、パッと殻の上半分が放り捨てられ、中から幽霊みたいに半透明の、子犬のような、子猫のような、耳の短いウサギのような存在が顔を出した。
(やあ、君がブライディーさんだね。はじめまして、おいらはネイ。よろしくね)
 生き物は微笑んで小さく会釈しながら言葉ではなく、心に語りかけた。
「ネイ、さん?」
 書き物机に駈け寄ったブライディーは、それをしげしげと眺めた。
 地球の裏側の、南の島に住んでいる人たちの神様、と言われているだけあって、何か暖かく、大きな力…自然の力か、超自然の力かは分らないけれども…さんさんと輝く太陽、青い大海原、どこまでも続く白い砂浜の絵が浮かんできた。
「ああ、よろしく」
 ブライディーはもう一度ポピーのほうを見やった。ポピーは相変わらずスースーと安らかな寝息をたてていた。
「こちらこそよろしくね」

 ブライディーは、いままで見ていて、うなされていただろう良くない夢のことを思い出そうとしたが、さっぱりと記憶から消えていた。
 そして、目の前に現れたネイのことで頭がいっぱいになった。

  翌日、ブライディーはさっそく「英国心霊研究協会」の人々と、魔術師たちに「永遠を語る小さな縫いぐるみ」のような存在であるネイをお披露目した。
「かわいい!」
 デイジーは手のひらの上に乗せて走り回った。
「本当にかわいいですわ」
 ポピーにも見える様子だった。
 いっぽう、ドイルやウォーレス博士をはじめとするメンバーには、まったく見ることも触ることも出来なかった。
「これは悔しいな」 ドイルは拳を握り締めた。
「一つ、絵に描いてくれないか? 何か大きさを比較できるものも頼むよ」
 ウォーレス博士の願いに応じて、デイジーが器用にネイの姿をスケッチした。
「ほぅ、こんなのか。実物を直接見てみたいものだ」
 ウォーレス博士は眼鏡をはずしてまじまじと眺めた。他の紳士たちも意見を交し合った。「…見える人と見えない人がいるというのは、幽霊や妖精に似ていますな」
「『見える』という人は、一種の集団催眠なのではありませんか?」
 魔術師たちのうち三人は出払っていたが、安倍薫には見える様子だった。
「ぼくに見えるということは、ほかの魔術師のかたがたにも見えると思いますよ」
 安倍はメイドさんから借りたネイを頭の上に乗せて遊んでいた。

 その朝、ブライディーは何かそわそわして落ち着かなかった。
(この気持ちは、一体何かしら? 何かとてもとても嫌な予感がして… でも、お仕事は目白押しで、占いをしている時間はないし…)
(どうしたんだい、ブライディーさん?)
 ネイが心配そうな表情で飛び回りながら訊ねた。
「何かうまく説明できないんだけれど…」
 洗濯物がいっぱい入った籠を抱えたポピーが目の前をトコトコと横切った。
「デイジーさん、手が空いていたら洗濯物を干すのを手伝ってくださいよ!」
「あーっ、あたし、買物で買ってくるのを忘れてたものがあったわ! 大急ぎで買ってくるわね!」
 デイジーが走って出て行こうとした時、ブライディーの脳裏に電光が走った。
「デイジー!」
「なぁに、お姉ちゃん?」
 デイジーは立ち止まり、振り返ってこちらを見た。
「きょうは… きょうだけは、夕方まで外へ出ないで、お屋敷の中の用事だけをして!」「なんで?」
 小さなメイドさんは眉間に皺わ寄せ、ふくれっ面をして見せた。
「なんででも!」
 大きなメイドさんは走り寄ってデイジーの手を取り、開いた勝手口から部屋の中へ強く引っ張り込んだ。
「お願い! きょう一日だけは!」
(分ったわ。お姉ちゃんは占いの名人だからね。おおかた、きょう出かけたら転んでケガでもするんでしょう。あたしもケガするなんて嫌だもんね」
 デイジーは肩をすくめ、ブライディーはホッと溜息をついた。ネイは印象派の絵画の前で羽ばたきながら変な顔をしていた。

 昼過ぎになると、ウォーレス博士がお茶を飲んでいるところへサダルメリクがやってきた。
「ウォーレス博士、博士が若い頃に探検隊に加わって行かれ、例の卵を貰った、という島を探すことは探したのですが、全体が珊瑚礁でできた浮島のような島だったかして、教えて頂いた場所にはもうありませんでした。波に乗ってどこかへ行ってしまったか、それとも長い時のあいだに削り取られてなくなってしまったか…」
「そうか… ご苦労だったね」 ウォーレス博士は過ぎ去った遠い過去を慈しむように言った。「…花も木も、空も海も極彩色の美しい島だったんだけどね…」
「…でも、その島には、もう一つの卵から孵った『神様』がいて、守護してくれているはずじゃあなかったの?」
 デイジーが茶々を入れる。
「そうなんだ。でも何故か、無くなってしまっていたんだよ」
(神様は気まぐれなところもあるからね。『守護してやるに値しない』と見切りをつけられたのかもしれないね)
 自分が当の「神様」の片割れであるはずのネイが、まるで他人事みたいにうそぶいた。「お姉ちゃんもせいぜい、ネイに愛想を着かされないようにね。…これでも一応『神様』らしいから」 デイジーがうそぶく。
(デイジー、もう少し言葉遣いには気をつけましょうね)
「この縫いぐるみ、妙に慇懃なところがあるわね。神様らしく『黙れ、このガキんちょ! バチを当てるぞ』くらい言っほうが神様らしいのに」
 デイジーは肩をすくめて見せた。
(おいらは君と違って、ブライディーさんの性格を反映しているから、そんな憎まれ口は叩かないんだよ)
「何よ! この出来損ないの縫いぐるみが!」
 デイジーがホウキを振り上げかけたところに魔法庁の『封印者』ネイが灰色のマントを翻らせて入ってきた。
「読めましたよ皆さん。あの卵の台座に書かれてあった文章がようやく」
「メルお姉ちゃん、本当にお姉ちゃんが辞書を山のように積み上げて調べたの? 誰か読めそうな人を捜して、次から次へと持って回っていたんじゃあ?」
 デイジーが下から見上げる。
「実はそう…」 と言いかけたメルが「コホン」と咳払いをして取りだしたメモを読み上げた。「これはうんと古い、太古に海底に沈んだ大陸の神官の言葉で書かれていて、意味は『これは、真に勇気のある者が己を試すためのものである。卵を孵して何事もなかった者に祝福あれ』…と、まぁ、そういう意味のことが…」
「何かわたしはダメだったような気がしますわ」
 ブライディーは何かを思い出そうとしたものの、何も思い出せなかった。
「まぁいいじゃないか。ネイという一緒に暮らしても邪魔にならない友達もできたことだし…」
 ウォーレス博士はにこにこしながら言った。「そうよね。あたしも楽しみが増えたわ」
 デイジーも意味深に目を細めた。…そう、まるで何事もなかったかのように。

…ブライディーは夢を見ていた。
 とは言うものの、少し前に見たような気がする。長くて恐ろしい、現実そっくりの夢ではなかった。
 完全に空想…物語の世界…(ああ、これは夢だ。わたしは夢をみているんだ)とハッキリと分るたぐいのものだった。安心と客観性から、思わず眠りながら微笑んでしまうような、そんな「楽しい」夢だった。

 そこは、いまは深い海に沈んでもうない、太古に栄えた大国だった。
 真ん中が心持ち膨らんだ、大理石の立派な石柱が整然と並ぶ神殿。その中庭に集まったいずれも寛衣にトーガをまとった目鼻立ちの整った黒髪の少年たち…
 顔じゅう皺だらけの神官たちが、飾りの付いた大きな盆の上に乗せた、たくさんの卵を運んできた。
「えー、ではこれより、わが国認定の魔導師登用の最終試験を行う」 神官長が厳かな声を発する。「…承知の通り、試験は卵を孵すことである。己の意思と性格を反映したものが生まれ出るはずであるから、無事に善なるものを生み出した者を合格とする」
 一人ずつ歩み出た少年たちに、神官の助手が一つずつ卵を渡していく… 少年たちはそれをうやうやしく受取り、ある者は清浄な布で包み、ある者は持参した箱に入れて持ち去った。
「えー、老婆心ながら申し添えておく。この卵は、いまではわが国でも滅多に見かけない、集めることも出来ない、非常に貴重なものとなった。従ってこの試験が、来年も同じ形式で行うことができるか、分らなくなった。
 下世話な話、諸君たちの登用試験については、莫大な国家予算が投じられている、ということだ。そのことを肝に銘じて、合格を目指して頑張ってくれたまえ」
 神官長が少年たちの背中に向かって叫ぶと、ある者は振り返って耳を傾け、ある者は聞いてか聞かずか、そのまま歩み去った。
「…くどいようじゃが、最低二人は合格するようにな!」 神官長はなおも続ける。「最低二つの『卵から孵った存在』がなければ、次の世代の卵が生まれんからな!」
 ゆっくりと遠ざかる少年の中に静かな輝きの瞳の中に、満々とした野心の輝きをたたえた者がいた。名をサントゥーと言い、魔導師の修行をしているあいだじゅう、ずっと主席で通し、百年、千年に一人の逸材と称された子だった。
「サントゥー、君は確実にものにできるのな、その卵」
 友人が冷やかすように言った。
「俺は、この卵に、俺の夢のすべてを注ぎたいと思う」
 サントゥーは卵を愛おしそうに撫でた。
「君の夢って、国の魔導師長になることだったっけな。それくらい楽勝だよ」
「このあいだまではそう望んでいた。が、いまは違う」
「何? 良かったら教えてくれよ。世界征服でもする気かい?」
「旧き神、邪悪なる神を甦らせるんだ。深き海の深淵より復活させる」
「莫迦な!」 友人はおどけて見せた。「…君のことだから、やろうと思えばできるだろう。だけど、甦ったそいつが君の言うことなんか聞くだろうか? 相手は邪神だぜ。人間の言葉を解するか疑わしい。ましてや人間の命令に従うことなど、考えられない…」
「何とでも言えよ」 サントゥーは無表情で言った。「とにかく俺は、この卵に、もろもろの邪な思念を注ぎ込む」
「おい、冗談はよせよ。国が滅んでしまうかもしれないぜ」
「国なんか…」 サントゥーの瞳が冷ややかに光った。「…知ったことじゃあない」

「誰かと、何か大切な約束をしたような気がするんだがなぁ…」
 いつものように「英国心霊研究協会」のお屋敷に遊びに来ていたサダルメリク少年が、橙色に波打つ紅茶を眺めながらつぶやく。
「そういうことって、ありますよ」
 ブライディーが焼きたてのマフィンを添えながら言った。「…わたしも、つい最近、何か物凄く辛く、悲しい夢を見ました。だけど、幸いなことに、どんな夢だったか思い出せないんです」
 メイドさんはクスッと笑った。
「まぁ、二人とも、長生きするわよ」
 デイジーは苦笑い。
「いや、でも本当に何か約束したような… いやいや、断ったんだったっけなぁ… それともすでに果たしたんだったか… 相手は女の子だったような…」
「君は魔術師だろう。思い出す方法はないのか?」
 ドイルが珍しく皮肉を言う。
「ないことはないのですけれど、何か、思い出さないほうがいいような…」
(そうそう。東洋には「知らぬが仏」と言う諺もあるくらいですからね)
 ネイが一同の回りを飛び交いながら言った。「しかし、相手が覚えていて、ぼくが忘れていたら悪いなぁ」
 アラビアの少年は、何か釈然としない様子だった。

     (次のエピソードに続く)





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