ブライディー・ザ・マジックメイド

 メイドさん対 小さな吸血鬼

「なぜ… どうしてそのような危険な仕事を、かよわい若い女性がやらなければならないんですか?」
 ブライディーはまた不吉な思いに駆られながら紅茶を注いだ。
「簡単なことよ。相手は若くて美しい女性しか襲わないから、むくつけき男がウロウロ探索しても意味なさそうってこと」
 久しぶりに「英国心霊研究協会」を訪れた「魔法庁」の公認『ダンジョン封印者』のメルは、呆れかえるほど砂糖とミルクを入れてから口をつけた。
「『吸血鬼』と言えば、うちの会員の一人で、ダブリンで有名な俳優のマネージャーをしながら、それをテーマにした小説を書いているブラム・ストーカーさんという人がいる」  ドイルが会報の近況欄を示しながら言った。「…もうじき完成、出版間近だそうだ。題材がとても面白そうだし、ぼくもうかうかしておれないなぁ…」
「そう、ズバリそれなんです、ドイルさん!」
 メルは勢いよくとドイルのほうを振り返った。「ストーカーさんの小説は、ヨーロッパの東の果て、ロシアに近い辺境の国を舞台としているそうです。表向きは、そこの国にむかし、正体が化け物の領主がいた、という伝説に基づいて…ということになっていますが…」
「そ、そんな遠い国のお話しなのですか。だったら安心ですわ」
 メイドさんは胸元に銀の盆を抱えてホッと溜息をついた。ドイルは心の片隅を(いつもながらチラッと思うことだが、あの盆は幸せな盆だ)という考えがよぎった。
「…どこにあるのか、それともどこにもないのか、遠い遠い国の出来事なのでしたら、眠る前にも安心して読むことができますわ。貸本屋さんに並ぶ日が楽しみですわ。…そうだ、いまから予約しておこうかしら!」
「お姉ちゃん、甘いわよ」 出来たてのレア・ケーキを持ってきたデイジーが首をかしげて見上げた。「…鉄道、汽船、飛行船を乗り継いで、いつロンドンに現れてもおかしくないんだから…」
「ええっ!」 大きなメイドさんの顔から血の気が引いた。が、すぐに気を取り直した。「…そんな外国のかたでしたら、訛りもあるでしょうし、立ち振る舞いや雰囲気で分るのでは?」
「だったら外国人のイケメンの紳士はみんな怪しいことになるわよ。それでもいいの、お姉ちゃん?」
「デイジー、このケーキ、ほとんど火が通ってないんじゃないの?」
 ブライディーが目を吊り上げる。
「あ、いいんです」 答えながらメルは、レア・ケーキを食べ終わりかけてしまっていた。「…わたし、ナマは平気ですから。『封印者』たるもの、食べられるものはキノコから虫から、何でも食べられないといざという時往生しますから。万国博覧会の日本館で食べたサシミも美味しかったですよ」
「血は?」 とドイル。
「レア・ステーキも大好きですよ」
「メルお姉ちゃん、お姉ちゃんが実は吸血鬼じゃないの? 魔法使えるし、髪の毛銀色だし…」
 デイジーが疑いの目を向ける。
「オホホ… 実はそうかもしれません。カーミラみたいな…」
「いやですわメルさん、やめて下さい」
 ブライディーはまばたきを繰り返す。
「…でもって封印のお仕事です。ストーカーさんはルーマニアのトランシルヴァニアを舞台として書き進められておられるのですが、実は『カーミラ』みたいにアイルランドにも吸血鬼伝説があるのです。小説が出版され話題なれば…きっと大ヒットすることでしょう…『アレは舞台こそ変えてあるけれど、作者の地元の話なのに違いない』と囁く人たちが出てくる可能性が高いのです。その前に…もしそういう者…アイリッシュ・ヴァンパイアがまだいたら、何とかします」
「『何とかします』って、どうされるのですか?」
 大きなメイドさんはオロオロし始めた。
「文字通り『何とかする』んです」 メルはケロッと言った。「…すでにストーカーさんの身の回りには、本人には気づかれないように二人一組三交代で護衛を付けました。後はこっちから打って出るだけです。ブライディーさん、貴女も故国がオリジナルの吸血鬼のいるところだと思われたくはないでしょう?」
「え、ええ。それはもちろん…」
「オリジナルの吸血鬼は、ルーマニアとか言う聞いたこともない地の果ての国にいるんだ、ということになったほうがいいでしょう?」
「は、はい…」
「ではお願いできますね? もちろん戦うのはわたくしが戦います」
「ストーカーさんは英国心霊研究協会の会員でもあるし、五十歳という年齢で、他に本職を持ちながら初のヒット作を、と努力して執筆されておられるかただ。ぼくからもお願いするよ」
 ドイルにも頭を下げられては、いた仕方なかった。

 リヴァプールからダブリンに渡ったブライディーは、子供の頃育った貧救院を訪ねた。 なんでもてきぱきさっさと片づけて、およそ連れが過去に暮らした場所などには興味を持ったりはしないようなメルだったが、なぜか、どういう訳かついてきた。
「…おととしの春はドイル様と一緒に『妖精探し』に赴いたときに、資料の閲覧も兼ねて寄らせて頂きました。(「女神たちの森」参照)昨年の春は、不治の病に冒されたさる貴族のお嬢様を、自分のテリトリーの中だけなら永遠の命を与えられるという魔女の元へ送る時に、立ち寄らせてもらいました(「ラキシス最後の旅」参照」)
 またあの懐かしい空気が漂ってきた。
 過去と現在、そして未来をつなぐ風。
 古ぼけた小さな教会と、漆喰の剥げた施設の建物。子供たちの歓声。お年寄りたちの姿。 日々の糧の匂いと、命の輝き…
 ロンドンにも、おそらく世界のどの裏町にもあるだろう風景が迫ってきた。
「思い出があって、立ち寄れる所があるというのは幸せなことだと思うわ」
 メルは銀髪をかき上げて言った。
「…両親のお墓は遠くにあるので、ここで祈ることにしています」
 メイドさんは少し瞳をうるませ声を詰まらせる。
「ご両親もご先祖も、天国におられるのですから、どこでお祈りしても喜んでおられることでしょう」
「だったらよいのですけど…」
 香の匂いが染みつき、床も壁も飴色の礼拝堂にひざまづき、十字架の基督を見上げ、二人は祈った。
「あの… メルさんは魔女…というか、魔法使いなのに、構わないのですか?」
「まことの神は…」 メルは片目をつむった。「たとえ大悪魔が来ても追い出したりはしないでしょう」
 生きている二人。天上の主。天国にいるであろう過去の人々…
「ブライディー、ブライディーではありませんか! 今年も来てくれたのですね!」
 目にいっぱいの涙をためた院長先生が差し招く枯れ枝のような両手に、若木が飛び込んだ。
「院長先生!」
「元気そうで何よりです。さらなるお守りがあらんことを…」
 年老いたシスターは十字を切って祝福を授けた。
「有難うございます。…セアラ様は?」
「セアラも時々立ち寄ってくれますよ。あの子も僅かながら神様のお役に立てるようになって喜んでいます」
「僅かだなんてそんな! セアラ様は本当に一所懸命頑張っておられます!」
「僅かです。たとえ天空の月や星を駆ける船を操ったとしても、御業(みわざ)に比べれば蟻がパン屑を運んでいるのに等しいのです」
 マリア像の近くの柱に軽くもたれて腕組みしたメルが(そうだ、そうだ)とうなづいた。
「貴女はまた、貴女の使命を果たすためにに帰ってきたのですね」
「はい」
「『一里一緒に行ってくれるように頼む者には、二里、共に行きなさい』の御言葉を忘れぬように…」
「それは… 難しいです。いざとなったら逃げ出してしまうかも知れません。聖ペテロ様ですら逃げ出したのですから…」
(だから貴女は逃げても構わない、と言ってます!)
 メルが離れたところから身振り手振りで伝えようとした。
 院長先生は破顔一笑して首からぶらさげていた大きくて立派な銀の十字架を外し、メイドさんに握らせた。
「…これを持ってお行きなさい」
「そんな、できません。これは院長先生の大切な…」
 押し返そうとしたつやつやした手を、骨張った皺だらけの手がさらに押し戻した。
「わたくしも伊達に馬齢を重ねてはおりません。貴女の連れの魔女、かなりの手練れと見ました。普通ならブライディー、いかなる助手も、ましてや貴女の力などまったく必要がない、むしろ足手まといになるくらいの力量の持ち主です。セアラと互角か、それ以上の。ですから遠慮などしないで持ってお行きなさい。必ず役に立つでしょう」
「本当によいのですか?」
 ロザリオを胸に押し抱くメイドさんに、老シスターは目を細めて頷いた。

「おー、いいものもらったわねー」
 教会から出るなりすり寄ったメルはロザリオをじろじろと見た。
「差し上げませんよ。貸しもしません」
 ブライディーはそれを隠そうとした。
「福音書には『乞う者には与え、借りようとしている者には貸しなさい』とありますけど?」
 メルがまたウィンクした。
「もぅ、メルさんたら困ります!」
 施設に夕暮れが迫り、ドタ靴につぎだらけの服の子供たちの元気な声一つ、また一つと建物の中に吸い込まれていった。
(わたしも、「お兄ちゃん」もあんなふうだったのかしら…) メイドさんは思った。
「…子供には、生きる力が凝縮されているわね」
 メルは灰色のマントをふわりと羽織りながら言った。

 ブライディーの占いで、人の血を吸って永遠に生き続けるという恐ろしい魔物が棲むという場所へは容易に辿り着くことができた。それは、人里離れた深い深い森の中だった。「本当に貴女がいてよかったわ」 メルは獣道の木の枝を、時おり山刀で刈り落しながら先頭に立って進んだ。「…ストーカーさんの物語では、吸血鬼は朽ち果てた古城を住処としているらしいの。現実の吸血鬼も、せめて何か目印になるようなところにいてくれればいいのにね」
「それだったらあまりにも簡単に見つかってしまって、吸血鬼には都合が悪いと思いますよ」
 メイドさんは故国アイルランドの森が好きだった。
(ドイル様のために、妖精と出会ってその有様を伝えたり、絵に描けたらいいのに…)などと考えながら、しっかりとメルの背中を見つめて歩いていた。
「まじで妖精が居そうな森だわねぇ」
 メルは高く聳える梢の真ん中にポッカリと白く輝く太陽を見上げた。その日の光のせいで上空は明るかったが、前後左右はまるで曇りの日のように暗かった。
「メルさんは妖精をご覧になったことはあるのですか?」
「あるわよ。だいたい目撃談に書いてある通りで間違いないわ。ブライディーさんは?」
「わたしは小さい頃に何回かちらっと見たことがあります。でも、いまにして思えば蝶々だったのかも…」
「いや、それはきっと妖精よ。貴女があんまり可愛らしかったので、仲間と思って近寄ってきたのよ」
「そんな…」
 メイドさんは顔を少し赤らめた。
 二人はもう何時間か歩いていた。夜が明けてすぐに最寄りの小さな村をたったから、そろそろお腹もすいてきた。
 しかし、鬱蒼と繁る木々は進んでも進んでも絶えることはなく、同じ所をぐるぐると回っている気もしてきた。
「メルさん!」
 ブライディーは念のために付け続けてきたナイフの印しを見つけて叫んだ。すでに磁石はクルクルと回り続けてまったく役に立たなくなっていた。
「ふーん。貴女のダウジングをもってしてもヤバいところというのはあるのね」
 肩をすくめたメルは、腰に両手を当てて空を仰いだ。
「また、あの『ダンジョン・オープナー』の時のように(「最後の封印者」参照)ジャミングされているのでしょうか?」
 メイドさんは愛用のコックリさんの棒を見続け、心を静めながら言った。
「そうね… それくらいのことは当たり前のようにできる相手かも…」
「だったら、わたしは足手まといだったのでは?」
「そんなことないわ。『だいたいこのへん』とアタリを付けられるだけでも素晴らしい能力よ」
「そう言って頂ければ…」
 二人が試しに方向を変えるたびに、樹木は倒れかかるようにぐいっぐいっと迫ってきた。「も、もし戻れなくなってしまったらどうしましょう?」
 ダウジングの棒も、それを捧げ持つ両手も止る。
「大丈夫! 洞窟じゃあないから地盤が崩れる心配はないし、いざとなったらビスケットも寝袋も、マッチもツェルトも持参してきているわ」
「何日かしてもわたしたちが戻らなければ、誰かが助けに来てくれるでしょうか?」
「もぅ… お姫様のご旅行じゃああるまいし…」
「マッチがあるから、狼煙の合図もできますよね」
「ブライディーさん、貴女、冒険には向いていないわ」 メルは溜息混じりに言った。「お屋敷でお料理を作ったり、お洗濯やお掃除をしているほうが向いていると思うわ」
「そんなことないです!」 メイドさんはなぜかむきになった。「ドイル様たちと出かけたときも、お役にたてるよう心掛けています」
「だったらいいのだけれど…」
 確かに、ごくたまに誰かが歩いた形跡のある獣道。道が分かれているところでは、まるで舞台の描き割りのような感じで新緑が迫ってきた。
「…うーん、ストーカーさんが執筆中の物語では『吸血鬼はコウモリに姿を変えて移動できるから足跡などはあまり残さない』らしいのだけれど、だとしたらこの道は…」
「『ここ』の吸血鬼は、コウモリに変身できないのじゃあないでしょうか? 例えば『修行中』とか『見習い』と言うことで…」
 首をかしげるメルに、ブライディーはおずおずと言った。
「かもしれないわね。だったらそれこそいまのうちがチャンスよ!」
「分りました。もう一度、…いや、何度でもやってみます」
 メイドさんは棒を握り直すと、精神を集中した。

 だが、ついに棒はくるくると回るばかりで、止らなくなってしまった。
「すみません。やはりだめみたいです。このあいだの時のように(最後の封印者」参照)、ジャミングがかけられているみたいです。…いままでこんなことはなかったのに、これからの相手はみんな妨害をしてくるようです。…そうなるとわたしの能力はもう…」
 ブライディーはションボリして言った。
「そんなに結論を急がない、急がない!」
 メルはニコニコしながらまたまた片目をつむった。「とりあえずお弁当にしましょう」
 メイドさんがダウジング棒で清水が湧き出ているところを探すと、意外にもそれは簡単に見つかった。
「ふむふむ、ある特定の存在を探し求めようとすると、その時だけジャミングが入る、というのは『そいつ』がいる証拠ね」
「メルさん… ストーカーさんがモデルとされた『吸血鬼』を見つけられたら、どうされるおつもりなのですか?」 野草のサラダに塩を振りかけ、固めに焼いたパンと薄く切った干し肉の昼食を食べながらメイドさんが尋ねた。「『何とかする』とおっしゃってましたけれど…」
「ケースバイケースよね」 メルはパクパク食べながら答えた。「…このサラダ、香りがさわやかで美味しいわ! 帰ったら作りかたを教えてね。お水も美味しい…」
「さんざん歩き回ったせいですよ。セリとかナズナとか、ごく普通の野草ですわ。…あの、差し出がましいようですけれど『吸血鬼』を見つけたら、その…やっつけてしまうんですか?」
「だから、それは様子を見て決めるの。そこから先はわたしの責任で判断するから、貴女は何も関わらなくていいわ。もしなんなら先に一人で帰ってもらっても…」
「いえ、そんな… だったら、『これ』を使ってみますわ」
 ブライディーは院長先生から手渡された銀のロザリオを胸元に掲げた。
「…神様、マリア様、聖パトリック様、わたしたちがしようとしていることが御心にかなうことならば、どうかお力をお貸しください」
 すると、いかめしくも重々しいロザリオが、まるで命あるものの如くかすかに動いて方向を示した。
 二人が目を皿のようにしてそちらを見ると、葉の色も枝や幹の色もほんのかすかに違う樹海が、枝と枝のあいだ数インチの隙間から見え隠れしていた。
「ここだわ! きっとここに違いないわ! 有難うブライディー!」 メルは枝を掻き分け覗いて小声で言った。「…もう大丈夫、貴女はそのロザリオを使って村まで戻っていてちょうだい。ここまで危ないところはなかったから大丈夫でしょう?」
「いえ、お供します。これから先も、このロザリオが必要な道が続くような気がします」「そ、それもそうね…」
 メルは四方の気配を伺いながらゆっくりと分け入り、進んだ。
 樹木の葉の茂りかたが密度を増し、昼なお暗い森の奥、といった感じになった。
 と、小鳥のさえずりや風の音に混じって、どこかから子供たちが歌う歌が聞こえてきた。
「♪永遠の命、永遠の命
 グエンドリン様(「女神たちの森」「ラキシス最後の旅」に登場する魔女)が与えて下さる永遠の命は、その場所から一歩でも出たら消え去るよ。
 つまり、その外は死の世界…
 中で暮らさなければいけないよ、永遠に…
 おまけにその術は女の子にしか効かないんだってさ。男の子はだめ。
 何かだめなことばかりの術だよね。
 シーリア様が与えて下さる永遠の命は、どこへでも行ける…
 でも太陽の光を浴びたりすればだめ。
 どこへでも行けるけれど、それは闇夜か真っ暗な雨か嵐の日。
 それでも好きなところへ行けるほうがいいね。
 男の子も、女の子もいるほうがいいよね」 茂みから恐る恐る垣間見ると、十人ほどの十歳前後の色白の子供たちが、森の中の広場で数頭の羊を取り囲み輪になって踊っていた。
 太陽は照っているのだろうけれど、取り囲み覆い尽くす樹木のせいで、雨の日のように暗かった。
「まさかあの子たちが魔物、などということはありませんよね?」
 メイドさんが囁くように尋ねた。
「分らないわ」
 メルは珍しく困惑していた。
「万一、魔物だったとしても、普通の人間に戻せますよね」
「たぶん大丈夫でしょう」
「よかったです」
「シーリアとか言う魔女の居場所が分れば…」
 メルがつぶやいた時、子供たちが続きを歌い踊った。
「♪シーリア様はお出かけ中、
 シーリア様はご旅行中、
 ずっとずっと帰らない…」

「わたし、思い切ってあの子たちと話をしてきますわ」
 メルはそう言って、山刀を近くの木のうろの中に隠し、枯葉を詰めて立ち上がりかけた。
「大丈夫ですか? もしも、もしも万一あの子たちが小さな…その…吸血鬼だった場合、どうされるのですか?」
 メイドさんは不安げに尋ねた。
「大丈夫でしょう。いちいち心配していては、きりも果てしもありませんわ」
『封印者』は飛びきりの笑顔で子供たちの前にゆっくりと歩み出た。
「ねぇみんな、こんにちわ」
「あっ、大きなお姉ちゃんだ!」
「大きなお姉ちゃんだけれど、シーリア様じゃあない」
 子供たちは驚いて踊るのをやめ、一、二歩後じさった。
「シーリア様は『ここにはわたくし以外の大人は誰も入ってこれません』とおっしゃっていたけれど…」
「どうして入って来たんだろう?」
「怖がらないで、逃げないで! わたしはシーリアさんの…その…友達よ! メルって言うの。どうかよろしくね」
 メルは立ち止まった。灰色のマントが闇の空間に翻る。
「シーリア様の友達だって!」
「本当かな?」
「本当かも… 女の人だし…」
 互いに顔を見合わせていた子供たちの中から、格別に色白の、ともに整った顔立ちの金髪の男の子と、燃え立つような赤い髪の女の子が進み出た。茂みから覗いていたブライディーは
(「お兄ちゃん」とわたしの小さい頃みたい。特に男の子のハンサムなところは…)と思って胸をどきどきさせた。
「ぼくはセオ。…この子はサキ。…お姉ちゃん、ぼくたちの何の用?」
 訊きたいことは山ほどあったが、(あまり根ほり葉ほり尋ねては、シーリアと友達でないことがバレてしまうわ)と、メルは考えた。「シーリアさんと会う約束をしたのだけれど、居場所がわからないの。あなたたち、行き先を聞いていない?」
「ぼくらは聞いていないよ」
 セオが答えた。
「あたしたちもお聞きしていませんわ」 サキは潤んだ瞳をかすかに波たたせながらつけ加えた。「…ところで、メルお姉ちゃんもお友達とご一緒のようなのに、どうしてあんなところに隠れているの?」
「それは… 突然二人で押しかけたら、厚かましいかなー、と思ったからよ」
(どうやらサキちゃんには特別な能力があるらしいわ…) メルは身を固くしながら隠れているブライディーを手招いた。(セオ君やほかの子たちもそうなのかしら?)
 銀のロザリオをドレスの胸の中に隠したメイドさんが走り寄ってきた。
「ブライディーよ。みんな、よろしくね」
「お茶やお菓子や食べ物やベッドのことなら心配しなくていいよ。願えばいくらでも出てくるんだ。…そう、シーリア様のお陰で」
 セオが胸を張った。
「どうかゆっくりお休みください」
 二人を空いている小さな小屋に案内してくれたサキは、香り立つ紅茶と焼きたてのクッキーを置いて下がった。
「あの子たち、『吸血鬼』の子供なのかしら?」
 腕組みしたメルは部屋の中をうろうろと歩き回りながら言った。
「とてもそんなふうには見えませんわ」
 とメイドさん。
「わたしの『封印者の力』をもってしても、普通の人間の子供にしか見えなかったわ。だけども、ここの森の暗さは半端じゃない。それともきょうは特別に曇っているだけなの?」
 二匹の絡み合う蛇を彫金した婦人物の懐中時計を開いてみるとまだ午後三時。なのに机の上にはランプがあかあかと燃えている。
「『願えば何でも出てくる』というのはただごとではありませんわ」
 ブライディーはお茶を一口飲み、クッキーを食べてみた。おかしなところは何もないようだった。
「『永遠の不在』らしいシーリア。せめて肖像画か何かがあれば…」
 メルは板葺きの天井を睨んだ。
「『吸血鬼』を探し占って、このロザリオを使ってここに来たというのに、いないというのも変ですし… わたしの手違いでしょうか?」
 メイドさんはションボリとした。
「いいや、そんなはずはないわ! この際『シーリアは吸血鬼のボスで、セオ君やサキちゃんはその予備軍で、大きくなったら世界の各地へと散っていき、入れ替わりにシーリアがかどわかしてきた子供がやってくる』という仮説Aか、『あの子たちはあくまでも被害者で、その…言いにくいですけど、吸血鬼シーリアの餌である』という仮説Bのもとに探索を続けましょう!」
「そんな… もし『あらぬ疑い』だったら謝るくらいでは済みませんわ!」
「しかし、貴女の占いでは『ここがアイリッシュ・ヴァンパイアの巣』と出たのでしょう? なんとかはっきりとした証拠を見つけて…」
「どうされるのですか?」
 ブライディーの問いにメルは口ごもった。

 夕食は、十数人が掛けられる大きなテーブルに招かれた。
 こんな森の奥に、どうしてこんなご馳走が、と思うようなレア・ステーキや魚料理や鶏料理、スープやオードブルなどが、メイドのお仕着せに着替えた女の子たちによって次々に運ばれてきた。
(みんな魔法で出したのでしょうか?)
 ブライディーが目配せでメルに尋ねた。
(ええ、そのようね)
「ごめんなさいね、わたしたちが突然やってきたせいで… 貴女たちが食べるのが遅れるわ」
 ブライディーがウェイトレス役をしているサキに話しかけた。
「いえ、あたしたちは残りものを頂きますから…」
「でも、お皿を洗ったり後かたづけで寝るのが遅くなるのでは…」
「いえ、どうぞお気遣いなく」
 サキはニッコリと笑いながら食べ終わった皿を下げ、一礼して下がった。
「…その、貴男たちはシーリア様に会ったことはないの?」
 メルはいつもと変らない食欲を発揮して、ぱくぱく食べながら、ホスト役のセオに尋ねた。
「いいや、ないよ」 天使のような男の子はかすかに首を横に振った。「お姉ちゃんたちはあるの? あるのだったら教えてよ」
「いいや、お姉ちゃんたちもお会いしたことはないのよ。お手紙のやりとり…文通だけで」
「すごい! もしかしてここの住所が書いてったの? それにしてもシーリア様と手紙のやりとりをしているなんて! いま持っているならぜひ見せてよ!」
「残念ながらここには持ってこなかったわ」
「どんな字?」
「と、とても美しい字よ。まるでお姫様が書かれたような… それよりか、貴男たち、どうしてこんなところで、子供だけで暮らしているの?」
「それが… ぼくもみんなも気が付いたらここにいて、いままでのことは何一つ思い出せないんです」
 晩餐は長く続いたものの、大したことは何も聞き出せなかった。

「とにかく『女主人が永遠に留守』のところを訪ねてしまったのよ、わたしたちは。明日にでも『出直してきます』とか言っておいとましないと不自然だわ。つまり探るとなると、今夜しかないわ」
 セオたちが用意してくれた客人用の小屋に戻ったメルは傍目にも焦っていた。
「でも、気づかれずに家捜しするなんて無理ですわ…」
 メイドさんは消え入るような声で言った。
「ブライディー、お願い! あのサキとか言う女の子のリーダー、小さくした貴女にそっくりだったじゃない。きっと性格も似てるに違いないわ! 一晩だけ…一晩以上は危険…あの子の魂と、貴女の魂を入れ替えるから、そのあいだにあのセオとか言う男の子組のリーダーからいろいろ聞き出して!」
「えーっ!」 メイドさんはよろめいた。「そ、そんなぁ…」
「こんな入れ替わり、わたしがやればいいのだけれど、わたしは術をかけなければならないし… おまけにこの術、魔力の消費が大きくて、ヘトヘトになってしまって、かけたほうは歩くのも難しくなるし…」
「ということは、サキさんの身体を借りたわたしがもしピンチになっても、メルさんは助けには…」
「行けないわ」 はっきり言われてしまった。
「でも、正直ほかにいい方法も思いつかないし…」
「あ、あの… わたし、お芝居とかものすごく下手ですし、すぐに正体を見破られてだめになってしまうと思いますわ。…それに第一、サキさんの魂はどうするんですか?」
「貴女の肉体に入れて眠らせておきます」
「そんなことをして大丈夫なのですか?」
「ここまで来て、何も探らないで退散するなんて、あまりにも悔しいし、それに、もう一度ちっちゃい子に戻れるのは嬉しいし面白いでしょう?」
「いえ、嬉しくも面白くもないです」
「セオ君や、サキちゃんや、他の子供たちが、もしもわたしたちがこのまま見て見ぬふりをして帰れば、なりたくもないのに吸血鬼にさせられてしまう、というのはかわいそうだ、とは思いませんか?」
「可哀相です! そんなことはあってはいけないことです!」
「じゃあ…」
 メルは真剣な目でブライディーの鳶色の瞳を見つめた。

「お飲物をお下げします」
 サキがノックしてとことこと入ってきて、卵酒とココアが入っていたカップを盆に乗せた。「…毛布はそれだけでいいでしょうか? 暖炉を燃やさなくてもいいですか?」
「サキさん」 ベッドに腰掛けたメルが声を掛けた。
「はい?」
 ベッドに崩れるように倒れかけたサキと、空のカップを乗せた盆を、メルは器用に支えた。

 まぶたを開くと、目の高さがとても低くなっていた。視野が狭く、手や足の小ささも気になった。
「どう、気分は?」
 メルが尋ねた。
 ベッドの上では、何と、自分が昏々と眠りこけている。
「何とか大丈夫のようです」 当然声が自分のものではなく、サキの声になっていた。「…でもサキさんの記憶はありません。本物のサキさんなら知っていることを、セオさんや他の子供たちから訊かれたらどうしましょう?」
「適当にごまかして答えておけばいいでしょう。一晩くらいは…」
「はい」
「この銀の十字架はどうする?」
「ここに置いていきます。子供の姿になったら重たいし、隠し持って行こうにも服の上からでも目だってしまいます」
「そう? じゃあ責任を持って預かっておくわ。気を付けて!」
 ブライディーは改めてカップを盆に乗せると、母屋へ歩いていった。

 母屋ではセオをはじめ子供たちがみんな起きていて、それぞれホメロスやギリシア神話、アラビアンナイトなどの本を読んだりチェスやおはじきや編み物などをしていた。
 同じ年頃の子供たちなら、もうとっくにベッドに入っている時間だ、というのに。
「サキ、客人のお姉さんたちはどうしていた?」
 セオがガリア戦記の本を閉じて尋ねた。
「機嫌よくして下さっていたわ」 サキ/ブライディーは慎重に答えた。「長旅で疲れておられるし、今夜はじきに休まれると思うわ」
「そうかい。明日は何としても朝一番に帰ってもらわないといけないな」
「そんなのでいいのか、セオ?」 副リーダー格の男の子が詰め寄る。「…あの二人、きっとぼくらのことを喋りまくるぞ。一度来れた者ならまた来るかもしれないし、その他の物見高い奴らだって…」
「しかし『処分』しようとして戦いになるのもまずい。ブライディーさんという人のほうはまだしも、メルという人は相当な使い手だ。ぼくらのほうにも多大な犠牲が出るのは必至だ。何かのスパイでないのなら、できることなら黙って帰ってもらいたい」
 副リーダーはキッとセオを睨み付けたものの、プイと立ち去った。
「さぁてサキ、そろそろいつものように『準備』してくれないかな?」
(「『準備』? はて、何の準備なのかしら? 『いつものように』ということは、毎日か、ほぼ毎日やっていることなのかしら?)
「客人たちのこと、もしシーリア様にお伺いを立てられるようだったら、お尋ね申し上げてくれ。シーリア様とテレパシーで話すことができるのは君だけなんだから」
 セオはサキ/ブライディーの肩をたたいた。
(そんなことができるの!) と一瞬飛び上がりそうになったが、心が入れ替わっているのだから、やりたくてもできる訳がなかった。
「今夜はちょっと調子が悪くて無理みたい…」
「そうか。それは仕方がないな。それじゃあいつもの準備だけでも…」
 サキ/ブライディーは一人になったところで棒きれを取りだした。ダウジングはジャミングされているはずだったが、サキの肉体、姿のせいか、棒きれはちゃんとクルクルと回って行くべき方向を示した。
 母屋の長い廊下を歩いているうちに、サキ/ブライディーは自身の身体の不思議な変化を感じた。胸が膨らみ、背丈が伸び、腰つきが丸くなった。幸いなことに服やドレスも成長に合わせて伸び、はち切れることはなかった。
(な、何よこれ? 真夜中になると大人になるの、この人?)
 戸惑いながら母屋の広間に辿り着いた。
 そこは、まるで野戦病院のようにいくつものベッドが並べられ、その一つ一つがテントのようなカンヴァスのカーテンで仕切られていた。
 しばらくすると、若い男女が三々五々集まってきて、カップルごとにベッドに入っていった。
「さてサキ、ぼくらも今夜の儀式を…」
 さっきまで子供だったセオが彼女の身体を抱きすくめようとした。
「ちょっ、ちょっと待って! 今夜は本当に調子が悪いの」
 身をよじって逃げかわした。
「そう? それこそ本当に仕方ないな…」
 青年セオは悲しそうな目で彼女を見つめた。 カーテンで仕切られたベッドのそここからあえぎ声やくぐもった声が漏れだした。
 お互いに激しい口づけをしているような気配…いや、唇はもとより、首筋を甘噛みしているような感じで…
 顔を真っ赤にしたサキ/ブライディーが毛布を引き寄せてまとおうとして愕然とした。 両手が貧救院の老院長先生のように皺だらけになっていた。慌てて顔に手をやると頬も顎も…
「もらってきてあげるよ。…ぼくも今夜は誰かからもらわないと」
 セオは唇を赤く染めて戻ってきた。
 サキ/ブライディーはのけぞって身を引いた。セオの手には真っ赤な血が入った小さなコップが握られていた。
「さぁ、早く、これを飲まないと朽ち果ててしまうよ」

 目の前の赤い液体は生臭く嫌な臭いを立てていた。
(そんな… この子たちは、一夜にして大人に成長し、老人となって死ぬのを防ぐためにそれぞれがカップルを組んでお互いの血を啜り合っていた、というの…)
 サキ/ブライディーは頭がクラクラした。(こんなもの、とても飲むことはできないわ。…でも、飲まなければサキさんの肉体は… サキさんの肉体が腐ってしまうと、いまそこに間借りしているわたしの精神は一体どうなるのかしら?)
 考えているうちに、両手はますます干からびる。無意識にその手を頬に当ててみると、ふわふわだったそこは、まるで干物のようにカサカサになっていた。
「さぁ早く! 見ての通り、ぼくはもう友達からもらって飲んだ」
 セオはますますせき立てる。
(神様、マリア様、聖パトリック様! こんなことをしたら許されない罪をおかしてしまうことにはならないのでしょうか? …でもしかし、でもしかし、このままでは… わたしが飲むんじゃない。サキさんが飲むのよ。それも、今晩が初めてじゃなく毎晩…)
 年老いたサキの姿のブライディーは、覚悟を決め、思い切ってコップの中の血を一気に飲み干した。幸い、味などは感じずにすんだ。
 するとどうだろう、数秒もしないうちに手はみずみずしさを取り戻し、頬もふわふわに戻った。そして、身体は小さくなって、元の小さなサキに戻っていた。もちろん、目の前のセオも、ゆっくりと唇の汚れを赤いハンケチで拭っていた。
 そして、カーテン越しの各々のベッドからは、小さな黒い影たちが安らかな、天使のような吐息を立てていた。
「良かったね、サキ。ぼく、本当に心配しちゃったよ」 小さなセオは泣き出しそうな表情になって言った。「でも変だったよ。いつもは美味しそうにぼくの血を啜ってくれるというのに… まるで別人みたいだった。シーリア様に伝えておいたほうがよくないかい?」
「そ、そうね。もう大丈夫なんだけれど… 少し考えさせて。シーリア様にご心配をかけさせるのもどうかと…」
(セオ君が、こんなにもサキちゃんのことを思っているなんて… 「使命」とは言え、メルさんの策の手先になって、悪いことをしてしまったわ。この子たちは、グエンドリン様が集められた子供たちと同じく、不治の病か何かで「ここ」でシーリア様という魔女から永遠の命を与えられた子たち、というだけかもしれない… 「血を吸うから吸血鬼だ」というのはわたしたちが勝手に貼ったレッテル、というだけかもしれない… コウモリに変身して村へ降りていくどころか、いたいけな子供に戻って静かに眠っているじゃない…)
「…そうだね。シーリア様とお話ができるのは、サキ、君だけなんだから任せるよ」
 セオの表情も小さな子供らしく、次第にまぶたが重そうになってきた。
「…サキ、ぼくは君のことが大好きだよ、本当に… いつまでも、いつまでも、永遠に、ここでこうしていられたらいいなぁ、と思っているよ」
 サキの姿のブライディーは、とっさに「お兄ちゃん」のことを思い出した。メイドさんは「お兄ちゃん」から、こんなことを言ってもらったことは一度もなかった。
(「お兄ちゃん」は、どちらかと言うと無口で、照れ屋の恥ずかしがり屋で、ぶっきらぼうで…)
 彼女はひととき、サキが少し羨ましく感じた。が、
(…だけども「お兄ちゃん」は働き者で、わたしたち女の子にも、男の子の友達にも裏表がなくて…)とも思った。
(とにかく、わたしはいまサキさんなのだから、サキさんのようにしなくては…)
「…わたしもよ、セオ。わたしも貴男以上に、いつまでも、ここでこうして一緒にいられたらいいなぁ、と願っているわ」
「ありがとうサキ」
 セオはゆっくりとサキの唇に一瞬口づけをした。
 サキ/ブライディーは思わず頬を染めた。 二人は互いの身体を柔らかく抱きしめながらうとうとと眠りに落ちた。
(吸血鬼であるはずなのに、夜はちゃんと眠っている。それもカップルで抱き合って…
 害はないのではないかしら? でも、術者の魔女のシーリアが、この子たちの前に一度も姿を現したことがない、ということがとても気になるわ。…そうよ、何としてでも今夜のうちに真相を突き止めなければ! メルさんもわたしも、そのために苦労してここへ来て、身体を交換…と言うか、心を交換するという危険なことまでしているんじゃない!) 彼女はゆっくりとセオを振りほどこうとした。目を覚まさせずにそうすることはかなり難しいくらいに、二人は抱き合っていた。
「一体どうしたんだい、サキ? いつもと少し違うみたいだよ…」
 薄目をあけたセオが言った。
「ごめんなさい。わたし、何か今夜は胸騒ぎがするの。きっとあの二人のお姉さんのお客さんのせいだと思うわ。ちょっと見てくるわ!」

「ぼくも一緒に行こうか?」
「何を言ってるのよ! 夜によそからいらしたレディの寝室を覗いたりしたらただじゃ済まないわよ!」
 サキの姿のブライディーはごそごそと起きかけたセオを押しとどめた。
(本当はこのまま帰って、メルさんに元通りの身体に戻してもらいたいけれど…) 窓の外にぼんやりと浮かぶコテージを見つめて彼女は思った。(いま撤退すれば、いままでの苦労が水の泡になるわ。第一、メルさんは『この術はとても体力魔力を消費するから、つづけさまには使えない』と言っていた。いま戻っても待って時間を無駄に過ごさなければならないくらいだったら…)
 サキ/ブライディーは思い直して、そう広くもなさそうな母屋の廊下を歩き出した。
 手にした小さめのランプのほの暗い明りが灰色がかった漆喰の壁や、ところどころニスの剥げたドアを照らし出す…
 子供たちのための居間、図書室、毎夜の「儀式」を終えたら戻ることもできるのだろか、二段ベッドが一つ、二つずつ並んで、服が掛けてあって私物も置いてある部屋部屋… ひんやりとしたノヴの感触に緊張しながらドアを開けて覗いて回ると、やがてシーリアの書斎と寝室に行き当たった。
 まるで「英国心霊研究協会」の書斎、図書室のように、びっしりと難しそうな本が並べられ、うず高く積まれている。オークの机の上も同じよう… 主がいて使われている気配はないというのに、本棚の縁や机の上に埃が積もっていないのは、子供たちが交代で、毎日きちんと掃除をしているせいだろうか…
 彼女は机の上と、一番手近な本箱の本の背表紙をランプで照らしていった。
 シスター・セアラに教えてもらったり、フィオナ・ウォーターフォード男爵令嬢が家庭教師と勉強しているところに居合わせたり、ドイルに訊ねたり、自分でも勉強したせいで、メイドさんは少しだけれどラテン語やギリシア語が読めた。
 魔女シーリアの蔵書の多くは「永遠の命」や「現世利益」について記されたものだった。
(…申し訳ないけれど、シーリア様の大切なものはどこ?)
 心で念じて、ロザリオの代りに持ってきた棒をかざすと、一見飾り板にしか見えないところに、装飾の見せかけた一インチ四方の木製のダイヤルが並んだ魔法の記号錠をかけた隠し扉があった。
(えーっと、最初は「唐草」、次は「小鳥」、その次は「月と星」…)
 幸い、ジャミングはなくてブライディーは装飾板に指を滑らせて鍵を開けた。
 目の前に、羽根を広げた金箔の鳩の刻印のある革表紙のノートがしまわれていた。
(この紋章、確かゼリューシャ様《「ブライディー、女子大生になる」に登場》たち「清浄派《カタリ派…「カタルシス」の…》のご紋章…)
「我等は天国の福楽を信じず」
 パラパラとめくって目に付いたページには、ショッキングなことが麗しい手書きのラテン語で記されていた。
「…清浄派は、この世界は筆頭熾天使、後の魔王ルシファーによって作られたと信じる。 創世記やイエスや福音書は信じず、ただ預言者たちの預言書のみを信じ、厳しい戒律を守って『完徳者』になって真の天国を目指す…
 が、我等は清浄派の中でもさらなる異端の者なり。二重の異端なり。
 いかなる方法を採っても現世利益、永遠の命、世界を滅ぼす力を手に入れる、と誓いし者なり…」

 続けて、何か名簿のようなものがあった。 驚いたことに、その中にブライディーたちが出会ったり、倒した者があった。

 闇の「完徳者」

 グエンドリン。(「女神たちの森」に登場)
 ゼリューシャ。(「ブライディー、女子大生になる」に登場)
 キーウリン(「北海の邪神」に登場)
 キーウリンの名前は「物故者」として二重線で消されていた…
 シーリア。
 ヴァイオレット。(「ブラウナウの少年」に登場)
 ………

 闇の使者

 ローレンス(「パリの淫魔」に登場)
 ミレディ(「復讐者ニセ・ブライディーに登場)
「切り裂きジャック」
“怪獣使い”(「メイドさん対ネス湖の怪獣」に登場)
 ………
 彼らのうち「切り裂きジャック」を除く三人は二重線で消されていた。

 メイドさんは思わず息を飲んだ。
(まぁ大変! わたしやドイル様たち、この人たちみんなと出会っているわ! 「使者」のうち三人は倒しているし…)

「…我等ここに、永遠の命、世界を滅ぼす力を手に入れるために集い誓えり…」

(でも… でも…) ブライディーは思い直した。(…グエンドリン様の「永遠の命」の術は著しく不完全。キーウリン様は、大昔のアヴドゥル・アルハザードのように北海の邪神を操ろうと試みて失敗し、亡くなられている。そして、シーリア様は子供たちを残して行方不明… 野望があまりにも大きすぎて、誰一人…)
 サキ/ブライディーはその小さな手で懸命にページを繰った。

…愛する者を失う悲しみは、言葉には尽くせないものがある…

 シーリアは書き付けていた。

…「神の思し召し」? 「神り計画」、「天国の安息」? 我等は信じない!
 たとえ「悪魔の所業」と罵られようと、愛する者たち…家族や恋人と、永遠に現世で暮らし続けることができたら、どんなに素晴らしいことだろう!
 死者の心臓に鼓動を甦らせ、血液を循環させ、魂を引き留めておくことが自由自在にできれば、いかなる富も権力も思いのままだろう。
 我等「清浄派」最強の「完徳者」にして魔女五名は、ここにその術を完成させるべく互いの研鑽を誓い合った。

 だが… まずグエンドリンが失敗した。
 彼女の不老不死の術は、狭いテリトリーの範囲しか効果がない。
 そこから出てしまうと、塵に還るのだ。
 おまけに女性にしか効かない。
 従ってグエンドリンも、己のテリトリーである「女神たちの森」から出ることが出来ない。彼女が様々な釣り餌によって集めた少女たちも、出ることは出来ない。
 なんと間抜けな!
 まぁ、これ以上悪くは言うまい。グエンドリンは我が第一の盟友であり親友である。

 次にキーウリンも失敗した。
 キーウリンは、太古にこの世界を支配したという旧(ふる)き神々を召喚し、手なずけ、その一部を己の肉体に取り込めば「永遠の命」が得られる、と考えた。
 他人のアイデアながら大いに有望そうだ。なにしろ、この星が誕生した何十億年前に星辰や次元の果てから飛来し、何億年という長いあいだ君臨し、対抗勢力との戦いに敗れ去って深い海の底や地底深くに封じられたとはいえ、「いまも生き続けている」のだ。何という生命力だろう!
 一万年ほど前、ムーの大魔導師サントゥーは、彼らを戦の道具に利用しようと呼び出した結果、繁栄した大陸は一夜にして懐中に没したと伝えられる…
 千年ほど前、アラビアの狂気の魔導師アブドゥル・アルハザードも同じことを思いつき、召喚を試みたが、ダマスカスの街で衆人環視のもとで、姿の見えない怪物に貪り喰われたという。
 そのような御しがたい「もの」を、サントゥーやアルハザードほどの名の知れた「大物」にさえ御せなかった「もの」が、彼女にどうこうできる訳がない。まぁ、「身の程知らず」ということだ。
 案の定、カトリックの尼僧に身をやつして潜り込んだ先の北海の孤島の修道院で、古文書を奪うために殺害した魔術師の娘に復讐され、命を落とした。
 死者を鞭打ちたくはないが、不覚もここに極まれり、といったところだろう。

 この私、シーリアは「血にすべての鍵がある」と思う。
 血こそすべての生命エネルギーの源、絶え間なく新鮮な血を補い続けることで、永遠の命を得られるのに違いない!
 我がアイルランドには「ヴァンパイア伝説」がある。夜のみ行動し、生き血を啜り、太陽の光や十字架を嫌う…
 わたしは、セオをはじめあちこちから不治の病におかされた子供たちを集めて研究を開始した。
 実験は上手くいった。子供たちは全員全快した。ただし、予想外の困ったことのいくつかを除いては…
 この森は、わたしの魔法で一日、そして年中闇に閉ざされている。
 それでも宵闇の迫る時刻になると、子供たちは急に成長を始め、老化した。
 それは血を飲むと元通りになる。だが、子供の姿では街に血を吸わせに行かせるわけにはいかない。夜、街の子供たちは家へ帰っている。大人を襲うと抵抗される。仮に成功しても人々が騒ぎ出し、警察が動き出してままにならない。
 そこでセオたちは、とんでもないことを思いついた。ヴァンパイアの子供たち同士、血を啜り合えば問題はない、というのだ…
 しかしそれでは、グエンドリンのと同じように、小さく、狭いコミュニティの中に、すべてが閉じこめられてしまう…
 これでは、決してグエンドリンを笑うことはできない…
 だけども、子供たちはいまのところそれで十分満足しているようだ。
 さらに、思いも寄らなかったことに、わたし、シーリアの記憶が日に日に少しずつ、少しずつ無くなっていく… 病だろうか、それとも…
 これは一体どうしたことだろう?
 早く原因を突き止めて対処しなくては…

 シーリアのノートはそこで終っていて、後は、何も書かれていない黄ばんだページが続いていた。
 サキの姿のメイドさんはノートを閉じ、元あった通りにしまい、唐草や、月や星の小さな装飾板ををくるくる回して魔法の鍵をおろした。
(もしかして、シーリアさんは、いつのまにかあの子たちの中に混じってしまわれているのでは?)
 そんなことを考えていたメイドさんの肩を後ろから鷲づかみにつかむ者がいた。
「!」

 振り返ると、心配そうな表情のセオが立っていた。
「どうしたんだい? 客人のお姉さんたちの様子を見に行ったはずじゃあ?」
「ああ、いえ… その前にシーリア様が何か記されていないか、ざっとでも調べてからにしようかな、と思って…」
「ここは何度も調べたじゃあないか。だけども、残念なことにシーリア様のノートはラテン語で書かれていて、ぼくらの中にはラテン語を読み書きできる者がいなくて、辞書を引きながら読んでみようと試みたけれど、なかなかうまくいかなかった…」
「そ、そうだったわよね。わたし、これから離れの小屋に行って来るから、貴男はここで待っていてね」
 サキ/ブライディーは言いようのない不安に駆られながら離れに戻ろうとした。
(…結構情報を集めることができて良かったわ。これだけ材料があったら、きっとメルさんがいい方法を考えて下さるでしょう。一度ここをお暇して、ドイル様や、アレイスターさんや、サダルメリク君や、安倍薫君、それにメルさんの上役である魔法庁の偉い人と相談することだってできると思うわ…)
 メイドさんは一刻も早く自分の身体を取り戻したくて仕方がなかった。いや、誰でも、自ら望んでそうしたのでない限り、非常に居心地の悪い状態であることは確かだろう。
 小屋の薄明かりが見えてきた。
「メルさん! メルさん?」
 彼女は小さくノックしたが、返事はなかった。
 かんぬきはかかっていなかった。
 ソッと扉を引くと、つり下げられたランプの明りに照らされた部屋の中には、メルもブライディーの肉体もなかった。
 サキ/ブライディーの顔が引きつった。
「…まぁ大変! メルさんとわたしは一体どこへ行ってしまったのかしら?」
 近くの茂みや小径を探してみても、二人の姿は影も形もなかった。呼びかけようにもあまり大声を出すとセオたち子供たちに気づかれる恐れがあった。
(そうだ、院長先生にお借りした銀のロザリオは?)
 部屋じゅうをくまなく探したけれど、あの大きくて立派なロザリオは見つからなかった。(どうしましょう?)
 心を落ち着かせて棒きれを胸元で立てて二人とロザリオの行方を占ったものの、棒はくるくると回り続けて止らなかった。
(ジャミングが張り巡らされているわ。あの母屋以外は…)
 メイドさんは泣きそうになった。
(メルさんはどうされたのかしら? もしかして自分で術を破って目を覚ましたサキさんにやられてしまって…)
 悪い予感が次から次へと押し寄せてきた。(ああ… いえ、でもその可能性は少ないと思うわ。もしもそれなら、メルさんをどうにかしたサキさんが、怒りに燃えて自分の身体を取り戻そうと、血まなこになってわたしを探し探すだろうから…)
 そんなふうに考えていたものの、ふとそれ以上の恐ろしい考えが脳裏をよぎった。
(待って! もしも、もしもよ… 万一、サキさんが自分の肉体よりもわたしの肉体を気に入ってしまった、とすれば…
 毎日毎晩、セオさんと血の吸いあいをするのが嫌になっていたとしたら?
 生き血を吸わないと生きていけない身体だったら、たとえ町に出ても、旅をしてもその都度相手を捜し見つけるのに苦労しなければいけない。おまけに警察も黙ってはいない… サキさんは、元は健康そのものでそんなことをする必要はまったくない普通の女性だったとすれば…)
 サキの姿のブライディーは震えだした。
(対するわたしは、毎晩セオ君か、他の仲間の血を吸わなければ急激に年老いて朽ち果ててしまう肉体を借りている。もし自分の身体を取り戻すことができなかったら、永久にこのコミュニティを去れないし、町に帰るとえらいことに…)
 恐ろしい予想が次から次へと頭の中を駆けめぐった。
(…もしもサキさんが、自由に旅をしたり、健康な女性としてごく普通の生活に憧れていた、としたら…)
 ブライディーは、偶然目を覚ましたサキが、強力な術を使ってヘトヘトになり、くたびれはてて眠っていたメルをどうにかして、そのままこの村を去っていく光景を想像した。
(いいえ、でも… でもそれは考えにくいわ。だって、サキさんはセオ君のことをとても好きそうに見えたし… セオ君もサキさんのことをとても愛していた。そのサキさんが、セオ君に何も言わずにふいに飛び出していってしまうなんてあり得ない。
 わたしがもしサキさんだったら、セオ君に訳を話して「良かったね」と言ってもらって… 「セオ君もこんなふうに血を吸わなくてもいい身体になれたらいいね。ハンサムな男の人が偶然訪ねてきて…)
 そこまで想像して、ハッとした。
(もし、もしもサキさんがメルさんと同じように、心と体を入れ替えることができる術を使えたら、そして、セオ君が別に男の子でなくてもいいのなら、セオ君の心をわたし…ブライディーの身体に入れて、このコミュニティから自由に旅立てるんじゃあ!)

(…そんなことになったら、本当に大変!
 でも、とにかく、サキさんか、もしかしてメルさんの心が宿っているわたしの身体を見つけなくては…)
 とはいえ、土地鑑のないテリトリーで、ジャミングがあってもダウジング効果がある銀のロザリオがない限り、探すのは至難のようだった。
(ジャミングを外すか、あのロザリオを取り戻さなくては…)
 どうやらジャミングを何とかするほうが有望のようだった。
(母屋と、シーリア様の書斎では、占いに対する妨害はなかった。「まさかここまで辿り着くとは思えない」と油断しているようだったわ。だからいったん母屋に戻って、そこでメルさんとわたしの身体とロザリオの行方を占えば、どれか一つくらい…)
 セオに見つかるか鉢合わせして
「どうだい、あの二人はおとなしく寝ていたかい?」
 などと訊ねられないように、気配を伺いながら慎重に引き返した。
(お願い! どうかメルさんか、わたしの身体か、ロザリオがある場所を教えて!)
 サキの姿のブライディーは、棒きれに向かって心を傾けた。
 すると、棒は、母屋と広場から何本か伸びていて、そのうちの一つが(ブライディーたちがやってきた)外の世界とつながっている細い道や獣道のうちの一本を指した。
(行ってみるしかないわ。…そう、そうするしかないわ!)
 一歩外へ出るとダウジングに対するジャミングが張り巡らされている。サキ/ブライディーは隠し持っていたチョークで、そこここの木の幹に矢印を付けながら、手にしたランプの明りだけを頼りに歩き始めた。
 月も、星の明りも届かない、アイルランドの深い深い森の奥。幼い頃、まだ元気だった両親から「恐ろしい魔法使いや魔物が棲んでいるよ」と言われていた森。「英国心霊研究協会」のメイドになり、いろんな事件に遭遇したり、自分や他の人たちの不思議な力を見て、(むやみに恐ろしがっているだけでは何も分らないし解決もしない)と考えるようになったいまでも、現実に目の前に、広大無辺に広がる闇や、科学や人間の理性や理解を超えたものは、ただただ恐ろしくて仕方がなかった。
 その漆黒の暗闇の先に、ぼんやりと、まるで光苔か燐光石に照らし出されているかのように、子供たちが踊っていたのと同じくらいの広場が現れた。
 そこには、ところどころ欠け落ちて蔦がからまったり、苔が貼り付いた、十字の中心を小さな円で囲んだ、大小様々なケルトの十字架が、十、二十と、あるものは歪んで、あるものは倒れてそこにあった。
(墓場だわ…) サキの姿のブライディーはなぜか森の中の獣道を当てもなく歩いている時よりも心が落ち着いた。(亡くなった人たち… 審判の日と、復活できる日を待ちこがれている人たち… 待って、待って、もう待ちきれなくなって、とうとう悪魔の甘言に乗って蘇り、その代償に魂の平安を手放してしまった人たち…)
 ランプを掲げると、その中にボウッと人影が浮かび上がった。冷たさの残る夜風にドレスを波打たせている、姿に見覚えのある大人の女性の影。
(メルさん!)
 呼びかけようとして思わず声を飲み込んだ。(…待って、メルさんは「この術を使うとヘトヘトになる)というようなことを言っていた。なのにどうして、離れの小屋を離れて、こんなところに?)
 何か、もしくは誰かを捜しているように見えたメルがランプの明りを察してゆっくりと振り返り、サキの姿のブライディーに気が付いた。
「メルさん!」
 サキ/ブライディーは意を決して自分から声を掛けた。
「ああ、ブライディーさん…」
「どうしてこんなところに? サキさんの魂が入っているわたしの身体は?」
(この人はメルさんじゃあないかもしれない…) そう疑いながらも、慎重に尋ねた。
「ごめんなさい。わたしがうとうととしているあいだに、ロザリオを黒い布で包んで逃げてしまったのよ。身体が入れ替わっているのも驚いた、とは思うのだけれど、何故かセオ君や仲間たちのいる母屋の方向には逃げずに、こちらの方角へ…」
「メルさんは大丈夫?」
「え、ええ… こんなことになって、休んでいることもできなくて…」
(メルさんでないとすると、サキさんである、ということも想定しておかなければ… もしも目の前の人がサキさんなら、わたしの身体を取り戻したいはず…普通は…でも、吸血鬼の身体には戻りたくない、と思っていたら返して欲しいとは思わないかも…)
「わたしの身体、もし見つからなかったらどうしましょう? ずっとこのままだったら…」
「ええ、責任を感じているわ」
 サキ/ブライディーはだんだんとメルはメルでなく、別人…サキであるような気がしてきた。
(そうよ、本物のメルさんなら、こんな時こそ明るく「大丈夫、必ずなんとかするわ」と言うはずだわ!)

(…もしもサキさんが、メルさんの身体を乗っ取っているのなら、サキさんはただの女の子じゃなくて、すごい魔法使いだ、ということになるわ。とてもわたしなんかが戦って勝てる相手じゃない。正体を知って確認した上、暴かないほうがいいわ…)
 メイドさんは震えているのを悟られないようにしながら思案した。
「貴女はいったん母屋に戻って、できることなら探索を続けていて。…探索で思い出した。何か分ったことがあって?」
(この人は、姿はメルさんだけれど、中身はサキさんだ。だから、とてもじゃないけれど、本音や、いままでに分かったことは言えないわ)
「…いいえ、残念だけれど、特に…」
「…そう、だったらなおのこと、もう少し粘ってみて!」
「はい」
 踵を返そうとしたサキ/ブライディーの靴に墓場の土が貼り付いた。
(せっかくここまで来たのだから、それこそ粘らなければ… 何も発見できなくて元々、しかし何かあるような気がするわ。そうでなければ、お二人のうちのどちらか…または両方がわざわざ来るような場所じゃあないもの…)
 メイドさんは、わざと迷い込んだふりを装って、奥のほうに入っていった。雑草に覆われ、ずいぶんと以前の献花なのだろう、茶色くカサカサになった花束が備えられたままになっているケルト十字架が、ポツポツと立っている。
 と、ランプに照らし出された根本の土が、十字架を中心に半径一フィートくらいの円を描いてずれているのを発見した。
(こ、これは…)
 明らかに何かを掘り起こしたのように見えた。それも、スコップやシャベルやつるはしを使ってではなく、念力か何かの魔法の力を使って。
 思わず、メルの姿をしたもの…のほうを振り向くと、本物のメルならとてもしないような恐ろしい形相で、こちらを睨み付けていた。
(この下に、誰か、または何かが埋められている! わたしの身体? それだったら一刻も早く掘り出さないと、それこそ…)
「どうかした?」
 メルの姿の者が叱るように尋ねてきた。
(ああ、神様! マリア様、聖パトリック様! どうかどうかお守りください! お助けください! わたし、このまま一生他人の姿で一生を送るなんて嫌です! いや、それにも増して、メルさんの魂…というか心も心配だし…)
「あ、いえ、その…」
 メルの姿をした者が、凶悪の光を宿した眼を細めて、ゆっくりとこちらに向かって歩いてきた。
「どうかしたのですか、と訊いているんです」
「こ、ここの十字架の土が、丸く盛り上がっているような気がして…」
「ああ、これ。これですか…」 メルは「ふん」と鼻先でせせら笑った。「…このへんの墓の下にはみんな吸血鬼が住みついていた様子だったので、片っ端から封印したのよ。なにしろわたしは『封印者』だから…」
 メイドさんが近くの十字架の根本に目をやると、それまではなかったはずの、丸く掘り起こした跡がどの十字架にも付いていた。
(…おかしいわ。そんなはずは…)
 サキの姿のブライディーは素早く、もともと跡があった十字架のデザイン…流水紋と刻まれた名前…ブリジット・なんとか…と、位置を覚えた。
「さぁ、早く戻りなさい! 『ここ』を探し当てたお手柄だけで十分よ」
「はい…」
(この人、どうしてわたしをやってしまわないのかしら? 欠陥があるとは言え、かつての自分の肉体に愛着がある、とか…)
「聞こえないの?」
「すいません…」
 後ろ髪を引かれる思いで帰りかけると、離れの小屋や母屋のある方向に、蛍のように小さくランプの明りが迫ってくるのが見えた。
「おーい、サキ! サキ、大丈夫か?」
 ランプを振り、叫ぶセオの声がした。
「セオ、ここよ!」
 サキの姿のブライディーは、いままで以上にサキを演じて見せた。
「よかった! 離れ小屋にもいなかったし、お客さんのお姉さんたちも消えていたからどうしたか、と…」
 セオはサキ/ブライディーを抱きしめ、頬ずりをした。メルの姿をしたものは苦虫をつぶしたような表情で眺めている…
「メルさん、どうしてこんなところに? 肝試しですか? もう一人のお姉さん…ブライディーさんはどちらに?」
「この下に埋められているみたいなのよ!」 メイドさんは、メルの姿をした者が口を開く前にすかさず切り出した。「このコミュニティには、魔物がいるみたいなの!」
「ええっ、ブライディーさんがこの下に? それに、このコミュニティにいるのはぼくたちだけだと思っていたけれど、魔物も…」
「早く掘り返してみましょう」
「あ、ああ…」
 セオは近くに立っていた物置小屋からシャベルを三本持ってきた。
 セオとサキ/ブライディーが必死に掘り返し始めるのを見たメルの姿をした者も、芝居なのか懸命に掘り始めた。
 やがて古い柩が現れ、釘を打っていない蓋を開けると、中から目を閉じ、両手を胸の上で組んだブライディーの身体が現れた。

「ブライディーさん、大丈夫ですか?」
 メルの姿をした者はさも心配している感じを装ってぐったりとした身体を引きずり出し、心臓に耳を当て、脈を計った。
「よかった… 生きているわ。深く眠っているだけよ」
 一緒に入れられていた分厚い黒い布で包まれてていたものをすかさず取り上げた。後ろ手に触って確かめたあと、老院長先生のロザリオてドレスの中に隠したサキの姿のブライディーは焦った。
(わたしの身体が目の前に! 中にある魂…心はたぶんメルさん。メルさんは「この術を使うとヘトヘトになってしまう」と言っていたから、グッタリしているのは分るわ。だったら、メルさんに宿っているサキさんも、同じ術を使ったのだから、いましばらくは強力な術は放てないのでは? だったらチャンスはいましかないはず。
 ここで正体を暴露すれば、驚いたセオ君が味方してくれる、とか…
 いやいや、きょう知り合ったばかりの人をとても頼りにはできないわ。
 でも放っておくと…)
「ブライディーさん! 一体誰がこんなことを!」
 セオが辺りを見回した。
(千載一遇…かしら? でも、失敗したら一巻の終わりよ。ドイル様はよく「石橋を叩いて渡れ」とおっしゃっていたじゃない!)
 メルの顔をチラリと覗くと、鋭い一瞥が返されてきた。
「とにかく母屋まで連れて帰ろう」
 セオが言った。「仲間を起して担架を持ってくるよ!」
 セオが去ったあと、再びメルの姿をした者と、サキの姿のブライディーが残された。
「もう気づいているとは思うけれど…」
 メルの姿をした者は切り出した。「…わたしたちは『ここ』に巣くっている吸血鬼たちを封印しに来たのよ。サキさん、貴女やセオ君や、他の子供たちを」
(血を吸い合わなくてもいい身体を、棚ぼたで手に入れて、さぞかし嬉しいでしょうね、サキさん…いや、「闇の完徳者」魔女シーリアさんと言ったほうがいいかしら?)
 メイドさんは喉から出かけた言葉を飲み込んだ。
「…でも、あなたがたを見ているうちに気の毒になって、朝になったら黙って立ち去ろうかしら、と考えていたのだけれど… もっとも『ここ』は夜が明けても薄暗いままだけれど… 友達のブライディーさんにこんなひどいことをする者がいる以上、どうにかしなければいけませんね」
(よく言うわよ! 貴女がやったんじゃない!)
 思ったメイドさんはハッとした。
(もしかして、魔女シーリアは、自分の意思とは無関係に、何者かになりきる超能力を持った「自我のない」存在なのではないかしら? だから、数時間前まではサキさんになりきっていた。そして、いまはメルさんになりきっている…)

 しばらくするとセオと、副リーダー格の少年、他の主に男の子たちが担架を持って走ってやってきた。サキの姿のブライディーが頭と肩のほうを、メルの姿をした者が足のほうを持ってそーっと担架に乗せた。自分で自分の躯を持つというのは、何か変な具合だった。 後は、セオたち男の子たちがブライディーの身体を母屋へと運んだ。
「サキさん、お願い、しばらく様子を見ていてあげて」 メルの姿をした者は、サキをブライディーと知って頼んでいる様子だった。「…もし目を覚ましたら…」 その後に続くだろう『面白いことになるでしょうね、きっと』という言葉はほんの少し歪んだ唇の中に飲み込まれた。
「はい」
 答えたものの、メイドさんはすぐに出て行った相手の後を追った。母屋にはジャミングはなく、おまけにロザリオも取り返しているので、かなり距離をとっても見失うことはなかった。メルの姿をした者も、もはや後をつけられていると分っても気にしていない様子だった。

 メルの姿をした者は、不安そうに警戒している男の子たちのところへ行き、セオが実際はいない外部からの襲撃者の探索に物置部屋に入って一人になるのを待ちかねて話しかけた。
「セオ、気が付かない? わたし、わたしよ!」
「は?」
 セオはきょとんとして、メルの姿をした者を見上げた。
「メルさん、お友達についていて上げなくてもいいんですか?」
「まだ気が付かない? わたしよ、サキよ! メルの身体に入っているけれど」
 メルの姿をした者は、腰をかがめてセオの首筋に噛みつく仕草をした。
「サキ、一体なぜまた?」
「セオ、よく聞いて。シーリア様を訪ねてやってきたと言うあの女たちは、わたしたちを滅ぼしに来た『封印者』だったのよ」
「ええっ!」
「メルが秘密を探ろうと、ブライディーとわたしの肉体と心を入れ替えた。こんなに便利な術があったなんて! すぐに覚えてかけ返してやったわ」
「そんな… かけ返すのなら、ブライディーさんにかけ返して元通りにするべきだったんじゃあ?」
「その場にいなかったのよ。この愚か者のメルしか」
「じゃあ、ぼくがサキだと思っていたのは…」
「愚か者のブライディーよ」
「じゃあ早く身体を交換して元の姿に…」
「何を言っているのよセオ、分らないの?
 この術があれば『吸血鬼であることを止めて、普通の人間になれる』のよ! 普通に暮らして、普通に働いて、普通に愛し合って、普通に子供をもうけて…」 メルの姿をした者はしゃがんだままセオの身体を抱きすくめた。
「二人で町へ行きましょう! ハンサムな青年を見つけて、身体と魂を入れ替えて上げる!」
「そ、それはダメだよサキ。そんなことをすれば、何の罪もない人の魂を『吸血鬼セオ』の身体に入れてしまうことになるよ。その人は、生き血を求めて夜な夜な町をさまようことになってしまうよ!」
「構わないじゃないの!」
 メルの姿をしたサキは冷たく言い放った。

「いや、やっぱりそれはいけないよ」 天使のように美しい少年セオは悲しそうな、寂しそうな、何とも言えない表情で言った。「…ぼくらは、コミュニティに居られるだけでも幸せなんだ。食べ物、着るもの、住むところには不自由しないし、必要な血を吸い合うパートナーだっている。ぼくらは『誰か』が望んだ『永遠の命』を、不完全の形だけれど具体化している存在なんだ。そしていつの日かシーリア様が、この状態から解き放ってくださる…それが仲間の血を吸わなくてもいい存在になることか、普通の人間のように死すべき定めの存在に戻ることなのかは分らないけれど…と、サキ、君が言ってくれていたじゃあないか!」
「セオの分らず屋!」 メルの姿をしたサキは思わず声を荒げ、積み上げられている木箱の陰に身を潜めていたメイドさんはすくみ上がった。「…どうして幸せになれることを、普通の人間として普通に暮らし、普通に年老いて塵に還って行くことを恐れるの? 『ここ』作ったシーリア様こそ愚かだったのよ!
 永遠の命、永遠の若さこそが素晴らしいものであると信じ切って、わたしたちに押しつけた」
「シーリア様の悪口を言ってはいけないよ」 セオの磁器人形のような顔は一層、儚げな憂いを帯びた。「シーリア様は幼い頃に病気で天に召されなければならなかったぼくたちに、生き続けるチャンスを与えて下さったんだ。
 仲間とともに助け合って生活する楽しさや、それにも増して何よりもサキ、君と出会って好きになるという素晴らしい、素晴らしい機会を…」
 セオはサキが成熟した大人の女性、メルの姿をしているのも構わず、豊かな胸に飛び込んで頬にキスをした。
(ああ、メルさん…) サキの姿のブライディーは思わず顔を赤らめた。(まぁいいわ。相手はまだ子供なんだし… もしデイジーがいたら『この、ませたガキ!』とか叫んではり倒してしまいそうだけれど…)
「そ、それは確かにシーリア様はわたしたちの大恩人よ」 メルの姿をしたサキは胸に飛び込んできたセオを固くしっかりと抱きしめたまま言った。まるでこのまま二度と離すつもりがないかのように… 「…だけども、シーリア様の本当の望みは、わたしたちが『永遠の命』の中で生きることではなく、例え短くても『永遠の愛』のうちに生きることだと思うのよ」
「だから、その愛は、他人に迷惑をかけては愛じゃあなくなってしまう… ぼくが、仮に姿形がぼくソックリの男の子と魂を交換すれば、ぼくはいいかも知れないけれど、相手の男の子は非常なショックを受けると思うよ。
『望みもしていないのに吸血鬼にされてしまう』なんてね」
 セオはずっとメルの姿をした者の胸の中に留まったまま言った。
「大きな夢の達成には、ある程度の犠牲はつきものだわ」 メルの姿をしたサキは、ようやくセオを引き離し、情念に燃える瞳で見つめた。「…肉や鶏や魚を食べることは命を奪っているわ。お互いの血を吸い合うということも、緩慢ではあるけれど命のやりとりをしているようなものよ。セオ、貴男の代りに吸血鬼となり、吸血鬼としてここのコミュニティで生きていくか、世界をさすらうことになる男の子は、それが彼の運命か宿命なのよ。気にすることなんてないわ!」
「そんな訳にはいかないよ!」 セオは…恐らく生まれて初めて、愛する者を不信の目で見た。「…パートナーの血を吸い合わなければ朽ち果ててしまう辛さ哀しさは、ぼくらの身に染みている。取り立てて何の関係もない普通の男の子にそんなことができるものか!」
「だったら!」 メルの姿をした者は遮った。
「…不治の病に侵された、可愛いい男の子を探しましょう! それだったらいいでしょう? その子はきっと感謝してくれるわよ。生き続けられることに対して。死ななくてもいいことに対して。愛する人やものと別れなくていいことに対して!」
「その子がもしも本当の神様を心から信じていて、本当の天国での幸せを信じていたらどうするの?」 セオはあどけなく尋ねた。「…ぼくも、サキも、他の仲間も、苦しい病気で死にかけていた頃の記憶はないだろう? それはそれで有難いと思うよ。誰だってしんどかった頃の感じなんて思い出したくないからね。でもねそれと同時に、心配し、看病してくれたはずのお父さんやお母さんや、きょうだいや親戚や友達のことも思い出せないんだ。あるのは『ここ』へ来てからのことだけ…」
「だから、それでいいんじゃないの。わたしたちは、シーリア様の力によって、新しい生命を授かったのよ」
「だから、シーリア様がぼくたちの神様になのなら、シーリア様のお許しを得ないで、その思し召しを、身体を、ほかの子のものと勝手に交換したりしてはいけないと思うんだ。…アダムとイヴが、神様の言いつけを破って勝手に禁じられた実を食べてしまったみたいに」
「それは構わないのよ。なぜなら…」 その後に続いたであろう。「…わたしこそがシーリアだから」という言葉は、ぐっと飲み込まれてしまったようだった。

「『構わない』はずなんてないよ!」 セオは泣き出しそうになった。「…ぼくらが『ここ』から逃げ出したら、心配して追いかけてこられるかもしれないよ」
「わたし、たったいま、きょう、いままで起きたことを心で念じてシーリア様にご報告したの。そうしたらシーリア様は『おまえたちの好きにして構わない』と…」
「それは本当?」
「本当よ!」
 メルの姿をした者は、セオの両手を堅く握り締めて言った。
「…セオ、貴男は本当に好きなようにしていいのよ! …それとも貴男は、わたしの心ではなくて、わたしの顔と姿が好きだったの?」
「いや、そんなことはない。…心も顔も両方好きだったよ」 セオは困っている様子だった。「…少し考えさせてくれないかな。二時間…いや、一時間でいいから…」
「待ってあげたいけれど待てないのよ。ぐずくずしていたらブライディーの身体に封じ込めたメルが目を覚ましてしまうわ。…命を奪ってしまいたかったけれど、そうすると、わたしがいま乗り移っているメルの肉体も変調をきたしそうで、不安でできなかったのよ。 だから、仮死状態で永遠に眠らせておこうと思ったら、わたしに成りすましているブライディーに見破られて…」
 メルの姿のサキはいまいましそうに言った。「だから、こんなややこしいことはもう止めようよ! みんなそれぞれ元に戻って、穏やかに暮らそうよ」
 セオは相手のスカートの裾をつかんで哀願した。
「いいや、わたしは諦めないわ! 噂には聞いていたけれど、こんなに凄い術があるなんて! それをこんな小娘が操るだなんて!」
「『小娘』?」 セオはたいそう怪訝そうな表情になった。「サキだって少女じゃあ?」
「あっ、いえ… そうね。『こんな普通の女の人』が操る、だなんて… この術さえあれば、それこそ不治の病に侵されたり、大けがをしたら、次々に肉体を乗り換えて永遠に生き続けられる、と言うものよ!」
「それは本物の『永遠の命』じゃあないよ。
 姿形が変ってしまったら、家族も知り合いも戸惑うし、自分だって… そう…よほど自制心が強くないと、おもちゃみたいに飽きてしまったら大した理由もなしに新しい身体が欲しくなって術をたびたび使うようになり、しまいに自分で取り返しのつかないことをしてしまうと思うよ」
 メルの姿をした者は押し黙った。その眼は(…そう、確かに交換した相手の命を奪ってしまえない、というのはネックかも… 相手が病気や事故などのトラブルを起せば、こちらにもトバッチリが飛んでくる恐れがあったら、おちおち安心して暮らせないわ…)
 と言っていた。
(…「不完全」だわ。「血を吸わなければ永遠の命を維持できない」というのも不完全だけれど、「乗り移り、用済みになった、かつての自分の肉体を殺してしまえない」というのも「不完全」の極みよ…)
 夢のような計画も、にわかに暗雲を帯びてきた。
 おまけに好き合っていたセオに、こんなに強硬に反対されるとは思ってもみなかった。 セオは喜び勇んで、『ここ』のすべてを捨て去って、子犬みたいにまとわりつきながらついてくるものだとばかり思い込んでいた。(あの子も、成長しつつあるのよ) メルの姿をした者は眼を伏せた。(…仲間の血を吸わなければやってくる「急激な老化」のような「まやかしの時の流れ」じゃあなしに、「本当の時の流れ」に包まれているのよ。だからこそ、平凡だけれど祝福に満ちた人生に戻して上げようと思ったのに…)
 彼女は、両目に熱いものが溢れてきそうになるのを感じた。絶えて久しくなかったことだ。身体を交換したら、元の持ち主…おそらくは仕事が「封印者」で魔導師という以外、ごく普通の偏差の範囲内の性格をした「人間」の気持ちが押し寄せてきた。
(…でも嫌よ! どうしても嫌! サキには戻りたいけれど、毎晩セオと血を啜り合わなければならない存在に戻るのは嫌! そうではなくて、それこそごく普通に、愛を交し合えるようになりたい!)
「ぼく、みんなのところに戻るよ。…いまの話を聞いて分ったよ。「ここ」には特別に「怪しいやつ」なんて居やしない。…もちろん「特別な魔物」も… 居るのは、「外の世界」からやって来たメルさんと、ブライディーさんと、そしてサキ、君と、ぼくたちだけなんだ。だから頭をちょっとばかり冷やせば、明日の朝には…「ここ」にはよそみたいに明るい朝日が差し込む朝は来やしないけれど…すべてを元通りにできるんだ。
「封印者」のメルさんとブライディーさん、あの二人は優しい人だと思うから、きっといままでの出来事は見なかったフリをして、黙って帰ってくださるよ」
「嫌よ!」 メルの姿をしたサキはきっぱりと言った。「セオ、貴男がどうしても嫌だと言うのなら、わたし一人だけでも出て行くわ。 かつてのわたしの姿のブライディーと、ブライディーの身体に入れたメルを残して。…そうだ、ブライディーやメルに追跡されないように、血を吸って吸血鬼にしてやるわ!
 そうすればあの子も、このコミュニティから永久に出られないはずよ!」

(これは大変よ!) サキの姿をしたブライディーはあわてた。(早く戻って、わたしの身体に入っているメルさんの心の眼を覚まさせないと、仮に全部がうまく元通りになったとしても、わたしの身体は吸血鬼に… そんなの絶対に嫌!)
 そっとその場を立ち去って、ブライディーの姿をしているメルを寝かせてある部屋に戻ろうとしたところ、運悪く副リーダーの少年と鉢合わせした。
「どうだいサキ、怪しいやつは見つかったかい?」
「いいえ。まだ… セオさんやメルさんも調べて下さっているみたいなんだけれど…」
「そうかい。ぼくらもなかなか手掛かりをつかめないでいるんだ。…ところで、きょうの一連の出来事は、シーリア様にテレパシーで報告しておいてくれたかい?」
「ああ、いえ、忘れたままだわ。とにかくばたばたしていたから…」
「じゃあいまやってみたらどうだろう。シーリア様なら何かよい智恵を授けてくださるかもしれない」
 サキ/ブライディーは気が気ではなかった。(こんなことをしているあいだにも、メルの姿のサキは、セオを思い通りにできなかった腹いせに、ブライディーの喉に噛みついて吸血鬼に変えてしまうかもしれない…)
「ごめんなさい。わたし、セオに言われて、あのお姉さんの様子を見に行くところなの。 シーリア様への報告はその後で…」
 ようやく部屋の入口近くに戻ったが、時すでに遅く、中からはメルの姿のサキと、セオの声がし、ランプの明りに照らし出された二人の影が、開かれたままのドアから伸びていた。
「さぁセオ、この子の血を思い切り吸って、仲間にしてしまいなさい!」
 メルの姿をした者が邪悪に満ちあふれた声で命令していた。
 サキの姿のブライディーがそーっと覗くと、ベッドの前に両膝をつかされたセオが、首根っこを押さえられて口元をブライディーの身体の喉もとに押しつけられていた。
「そんなことはできないよ… 確かにこのお姉さんたちはぼくたちを滅ぼしに来た人たちかもしれないけれど、そんなことはできないよ…」
 振り絞るような声を出すたびに、セオの唇から鋭く尖った小さな二本の牙が見えた。
「でもね、わたしがこのまま町へ行ってしまうと、貴男にはこれから毎晩血を吸い合うパートナーがいなくなってしまうのよ! 他の子たちはみんなパートナーを組んでいる。これからずっと仲間の血をもらい続けるなんてできないでしょう? 幸い、この子はきれいだし、可愛いし、貴男と気も合いそうじゃないの」
 セオの頬に涙が伝った。
「嫌だ! 嫌だよ! ぼくが辛く苦しんでいることを、とてもこの人に押しつけるなんて出来ないよ!」
「だからわたしが、貴男を、その過酷な運命から解き放ってあげる、と言っているでしょう?」
 メルの姿のサキが、またガラリと打って変わって、甘い声で少年の耳元に囁いた。
「だからそれが嫌なんだよ。ぼくのせいで気の毒な人が増える、ということが…」
「分らない子ね! どんな命も、大なり小なり他の犠牲なしには生きてはいけない、と言っているでしょう!」
 魔法か、それとも念力か、魔女の手が青白くぼんやりと輝いたかと思うと、少年の牙は自らの意思とは逆により鋭く尖って、ブライディーの喉に突き刺ささりかけた。
「やめて! 待って!」
 メイドさんは思わず叫んで部屋の中に走り込んで、二人を自分の躯から払いのけた。
「サキ!」
 セオはホッとした表情だった。
「何を言っているのセオ、これはわたしじゃない。わたしの姿をしたブライディーよ」 メルの姿をした者は頬を引きつらせながら言った。「…そしていまは見事な吸血鬼。…まぁいいわ。メルと違って、この子はダウジングができるくらいで、何もできないでしょうよ。何も…」
「そんなことないもの! そんなことないもの!」
 サキ/ブライディーは隠し持っていた老院長先生の銀のロザリオを包んでいる黒い布をかなぐり捨て、掲げた。
「…神様、マリア様、聖パトリック様。どうかどうかお助けください!」
 だが、メルの姿をしたサキは、鼻の先でせせら笑うだけで、一向にこたえていない様子だった。
 それどころか、メイドさんのほうは、ロザリオを持った両手が、まるで熱い鍋を直接素手で持った時のように、次第に焼けて痺れてきた。
 セオもまた、ロザリオがまるであたかもまばゆく輝いているかのように直視できず、目をそらせて部屋の隅に座り込んだままだった。
「オホホ、貴女バカじゃない? いまのわたしの身体は、吸血鬼じゃあないのよ! 『封印者』魔法使いではあるけれど、ごく普通の健康な女性… 対する貴女は、いまは吸血鬼の身体。聖なる銀のロザリオなど掲げたら、自滅行為じゃない?」

(そう、そうよね…) サキの姿のブライディーはあわててロザリオを黒い布で包み直した。
「サキ、ぼくはやっぱりやめておくよ!」 セオもまたハッキリ言った。「…ぼくはいままで君のことが大好きだった。…でも、いまは違う! 君がこんなことを考え、こんなことをする子だなんて、思いもよらなかったよ」 男の子の言葉に、メルの姿のサキは顔をこわばらせた。
「どうして… どうしてそんなことを言うのよ、セオ? 急にわたしの姿が変ってしまったから? 急に大人になってしまったから?」
「うううん。そんなんじゃあないんだ」 セオは激しくかぶりを振った。「決してそんなんじゃあないんだ!」
「分った。分ったわ! セオ、やはり貴男は、わたしの顔と姿や声を好いてくれていたのね。だったら早くそう言ってくれたら良かったのに…」
 メルの姿のサキは笑顔で言い、セオは今度は何度も大きくうなづいた。
「そこの! そう言う訳で、わたしの身体を返してもらいます!」
 メル/サキは恐ろしい形相でメイドさんに歩み寄った。
「ど、どうぞ… 謹んでお返しします…」
 一瞬、闇が渦を巻いて迫り、彼女を飲み込んだ。数秒後、恐る恐る目を開くと、メイドさんはメルの姿になっていた。
 一方、身も心も本来の姿に戻ったサキは、しゃがんだりかがんだりしなくてもセオを抱きしめられるようになっていた。
「セオ、セオ、ごめんなさいね。貴男の心も知らないで… もうずっと、永遠に、わたしはこの姿でいるから、貴男もずっとそのままでいてちょうだいね…」
 サキは愛おしそうにセオの首筋にキスをした。
 今度はメルの身体に入ったブライディーは、頭の中に立ちこめていた靄のようなものが晴れるに従って、何か自分が非常に力強くて、どのようなことでも「思えば実行に移せる」ような気分に取り憑かれはじめてていた。
 次々と押し寄せてくる魔法の知識、呪文の数々…
(すごいわ… メルさんって、こんなに凄い人だったんだ! もしかして、思ったことは何でも出来る人なのではないかしら?)
 押し寄せてきたイメージの中に、それとはなく、しかし強烈に指図するものがあった。
『コノ者タチ、吸血鬼タチヲ掃討セヨ! 放ッテオケバ禍根ヲ残スコトハ確実ダ! イマノオマエナラデキル! 老院長先生ノろざりおモ使エル。術ト併用スレバ、確実ニ滅ボスコトガ可能ダ』
 それは、メルの声ではなかった。
(ちょっ、ちょっと待って! もしもそうするとしても、それは「封印者」…シーラーであるメルさんのお仕事よ。わたしがしなければならないことじゃあないわ)
 目の前、強力な術を一晩に二度も使って、今度こそへとへとになったサキは、セオにおぶさるようにして部屋から出て行こうとしていた。
『ヤレ! ヤラナケレバキット後悔スルゾ。 オマエハオマエ自身ノ身体ニ戻リ、封印ヲ生業トスルめるにヤラセルツモリダロウガ、ソレデハ手遅レナノダ。奴等ハ奴等デ力ヲ取リ戻シ、マタ別ノ力モ手ニ入レル… ソウナッテカラデハマタ難シク、ヤヤコシクナル…程度…ナラマダシモ、今度コソ取リ返シノツカナイコトニナッテシマウゾ!』
(でも、でも…)
 メルの姿のブライディーは懸命に言い訳を考えていた。
「お姉さんたち、どうかぼくたちをこのまま見逃してください。ぼくらは時が果てるまで、イエス様が審判を下さるまで、ここで静かに、お互いの血を吸い合って静かに暮らします… だから… だから…」
 出て行く際、セオはすっかり疲れ切ったか細い声で言った。
「ええ。『封印者』はメルさんだけなのだけれど、頼んで上げるわ」
「お願い… 夜明けの時間になったら、何も見聞きしなかったことにして立ち去って下さい… どうか… どうか…」
 二人の力の無い足音が、廊下を次第に遠ざかっていった。
『何ヲぐずぐずシテイル? めるト心ヲ交換シテカラニスルツモリナラ、魔力ヲ大キク消費シテ出来ナクナッテシマウゾ! 今ココデ、オマエガヤルノダ、ぶらいでぃー! アノさきコソハ「魔女しーりあ」闇ノ完徳者ノ一人ダ。彼女ハ永遠ノ孤独ヲ彷徨ウ亡霊ソノモノ… イマコソ、コノ場所デ起キテイル悪夢ニ終止符ヲ打ツノダ! サモナケレバ、悪夢ガ果テシナク続キ、現実ヲ覆イ尽クシテシマウゾ!』
 外はいつしか暗雲に閉ざされ、稲妻が光って雷鳴が轟き、激しい横殴りの雨が叩きつけていた。
 メルの姿のブライディーは目を閉じ、自分がメルの代りに呪文を唱えているところを想像した。
 まばゆく輝く太陽の光が、窓から、また屋根や天井を突き抜けて差し込み、サキやセオや、少年少女たちに燦々と降り注ぐ光景を… 子供たちは恐怖に顔を引きつらせ、互いに抱き合い、忘れてしまったはずの父母の名を呼びながら塵となって崩れ去り、風に吹かれて飛び去る姿を…
『早クヤレ! 真ノ神モソレヲ望マレテイルハズダ!』

「嫌です! 嫌です!」
 メルの姿のブライディーは、メルの自慢の銀色の髪を振り乱し、目の前のベッドでこんこんと眠っている自分の姿をしたメルを揺り起こした。「メルさん、目を覚ましてください! わたしに、しきりに「あの子たちを滅ぼすように」と命じる声がするのです。それが正しいことなのか、そうでないことなのか分りません! あのサキと言う子は、魔女シーリアが変じた姿に間違いありません。何かの術に失敗して、自分がかつて魔女だった記憶が薄れているようです!」
「自分が自分を揺り起こす」というのは、本当に奇妙極まりない感じだった。自分の姿のメルは固く目を閉じ、こんこんと深い眠りについていて、容易に目を覚まそうとしなかった。
「メルさん、ぐっすりと休まれているところ悪いですけれど、起きて下さい! あのサキ…魔女シーリアは『一晩に二回』魂と身体を交換する術を使ったけれど、セオ君に抱えられてはいたけれど、しっかりしていましたよ! こそれを貴女は何ですか! サキさんにまんまと術を盗まれて、永遠に埋められかけていたんですよ! それも他でもない、わたしの身体とともに! わたし、告げ口は大嫌いなんですけれど、今度ばかりは『魔法庁』の偉い人に言いつけますわよ!」
 マネキンみたいにこわばっていたブライディーの姿のメルの眉がピクリと動いた。

『他人ニ頼ムナ! コノ横着者メ!』 声は責め続けた。『無理ニ起スト障害ガ残ルカモシレナイゾ! オマエガヤレバイイノダ。クドイヨウダガ、イマノオマエナラバデキル。吸血鬼ノ少年少女タチヲ塵ニ返シタラ、ユックリト自然ニ、起キルノヲ待テバイイ。ソレデオマエタチハ元通リ。じゃんぬ・だるくノヨウニ英雄トシテ名ガ残リ、褒美モ貰エルハズダ!』
 メイドさんは、ふとその声にドイツ語の訛りがあることに気が付いた。
「貴女、オーストリアのブラウナウの町で、税関長の息子さんのアドルフ君に、メイドとして取り入って、ユダヤの人たちの悪口ばかりを吹き込んでいたヴァイオレットさんでしょう?(「ブラウナウの少年」参照)
 魔女のグエンドリンさんや、シーリアさん、ゼリューシャさん、それに亡くなられたキーウリンさんと仲間のかたでしょう?
 それなのにどうして、いまではサキさんになりきっているシーリアさんや、子供たちを消そうとされるのですか?」
『モウ用済ミダカラダ』 相手は急に口をつぐんだ。
「『用済み』? なぜ用済みなのですか?  貴女は天使ではありませんね? まして神様でもマリア様でも聖人さまでもありませんね? あなたは『まことの神様の天の御国』は信じていない人ですね?
 グエンドリンさんたちと一緒に『現世での永遠の命を突き詰めよう』と誓ったかたがたのお一人ですね?
 あなたは見つけたのですか、その方法を? だからもう、シーリアさんと、彼女の家族の子供たちの命を奪おうとしているのですか? もしもそうなら、あんまりです!」
『「家族」?』 相手はせせら笑った。『家族ナドデアルハズガナイ! タダノ実験動物ダ。愚カナしーりあハ、ソノ中ノ一人ノ男ノ子ヲ好キニナッテシマッタノダ』
「いいではありませんか! 人が人を好きになるのは素晴らしいことだと思います!」
『…ヨリニヨッテ子供ニ… ソレモ毎晩血ヲ啜ラナケレバ朽チテシマウ身体ニ、自ラナッテシマウナンテ…』
 吐き捨てるような声だった。
「だからそれはシーリアさんがセオ君を好きになって… シーリアさんは魔女なら、おそらくグエンドリンさんと同様に何百歳の年齢なのでしょう。でもいいではありませんか。ハンサムな男の子を好きになってしまうなんて、カッコいいじゃありませんか。貴女にはそういうお相手はいないのですか? 心から好きな人と一緒に暮らせたなら…それが何年か何十年かは分りませんが…子供たちに恵まれたら、永遠に生きたいなどとは思ったりしないのではないでしょうか?」
 声は答えることをやめ、しばらく押し黙った末、押し殺すような抑揚で言った。
『コレ以上ハ問答無用! オマエガ吸血鬼ノ餓鬼タチヲ葬ラナイト言ウノナラ、子供タチニオマエタチヲ襲セテヤル! ヤラナケレバヤラレルゾ!』
 そう言い終えると、母屋のその部屋は、しじまに閉ざされた。
 だがそれはしばらくのあいだだけで、やがて、廊下と窓の外に、いくつもの小さな足音が響き、近づいてきた。
 メルの姿のブライディーはとっさにドアのかんぬきを降ろした。
 ドン、ドン、ドン…
 いくつもの拳が激しくノックする音がした。 呼びかける声はなかった。
 ドーン、ドーンと、ドアが体当たりできしみ始めた。
 メイドさんはドアの前に椅子を二つ、バリケードとして置いたが、箪笥かベッドでなければ無意味なようだった。
 窓の外に目をやると、瞳を炎のようにぎらつかせた子供たちが、手に手に棍棒や包丁を持って睨み付けていた。

『サァ、焼キ払ッテ滅ボシテシマエ! 銀ノろざりおヲカザセバ簡単ナハズダ』 声が命じた。『…アルイハ、イマ、オマエハめるナノダカラ、彼女ノ魔法ヲ使ッテ終ラセル、トイウコトモデキルゾ!』
「嫌よ! メルの姿のブライディーは思わず窓から顔を背けた。「…この子たちは、わたしたちを歓待してくれた。精一杯もてなしてくれたわ!」
『夜中ニ大人カラ老人ニナッタリ、互イニ血ヲ啜リ合ッタリスル、アノオゾマシイ姿ヲ見タ後デモカ?』
 窓ガラスが凶器で叩き割られ、掛金を外し、桟をまたいで小鬼たちが中部屋の中に入ってきかけた。ドアのもたせかけてあるバリケードの椅子も、もはや保たない感じだった。
『遠慮スルコトハナイ。さきモれおモしーりあモ、何百年モ生キテイル身ダ。モウ十分生キタ、トモ言エルダロウ。神ノ代リニオマエガ審判ヲ下シテモ、誰モ何モ言ワナイダロウ…』
「メルさん! メルさん! 起きてください! 大変なことになっているんです!」
 メルの姿のブライディーは、こんこんと眠りこけたまま目を覚まさない自分の躯を、さらに激しく揺り動かした。が、それでも中にあるメルの心は覚醒しなかった。
 椅子が倒れ、ドアが蹴破られて恐ろしい形相になった子供たちがなだれ込んできた。
 その中には、あんなに可愛らしくいたいけだったセオやサキもいた。
「お姉ちゃんたち遊ぼうよ! ずっとずっと永遠に楽しく暮らそうよ!」
「みんな、目を覚まして! それからこれ以上近寄らないで! でないとわたし、あなたたちを…」
 メルの姿のブライディーの手が、銀のロザリオを包んだ黒い布にかかった。
『サァ早クソノ布ヲ取リ払ッテシマエ! ソウスレバ全テは片ヅキ、オマエタチハ無事ニ、ヤッテキタ世界ニ帰レルハズダ。仮ニ、「封印者」ガ目ヲ覚マシタトシテモ、同ジコトヲスルダロウ…』
「出来ないわ! 例え相手が吸血鬼だとしても、それ以外は人の心を持っているのですもの!」
 メイドさんは、不思議な力で勝手に剥がれ落ちようとする黒い布を必死で押さえつけた。 その拍子に、銀のロザリオからごく僅か、それも一瞬、まばゆい光が漏れ、金粉や銀粉に見える者が流れ出て飛び交い、一同を照らした。
「あ、あれ? わたしたち、何をしようとしていたのかしら?」
 サキが手にした果物ナイフを見て言った。「そうだよ、お客さんが静養している部屋をこんなにめちゃくちゃにしてしまって…」
 セオもあっけに取られていた。
(よかったわ…) メイドさんはホッと胸を撫で下ろした。(…みんな正気に戻られて、朽ち果ててしまうこともなく…)
 あろうことか、ちょうどその時、ブライディーの姿のメルも目を覚ました。
「あれっ、なに、これは? 何でこんなことになっているの?」
「メルさんいまごろ… どうしてもう少し早く…」
 メルの姿のブライディーの目にどっと涙が溢れてきた。
「どうしてわたしが泣いているの?」
「あとで… あとでちゃんと説明申し上げますわ…」
 後は言葉にならなかった。

 翌朝、「術」を使ってそれぞれ元の姿に戻ったブライディーとメルは、厚い雲に覆われたままの、小さな吸血鬼たちのコミュニティに暇を告げることにした。
「シーリア様にお会いすることができなくて、とても残念ですが、また今度、ということで…」
 ブライディーは明るく言った。
「そうですね。貴女がたのことは忘れずにお伝え申し上げておきますわ」
「ぼくたちだけでも良かったら、またぜひ遊びに来て下さい」
 サキとセオは、しっかりと手をつなぎ合っていた。
「…あの二人、本当に仲が良さそうだったわね」
 手をちぎれんばかりに振って別れを告げる子供たちの姿が見えなくなったところで、メルはつぶやいた。
「ええ、そうですね」
「…ところで、他人の身体の中に入った気分はどうだった? 若返ることができて嬉しかったでしょう?」
 片目をつむってメルが尋ねた。
「いう、とんでもない! もう二度と懲り懲りですわ!」
 メイドさんは大きく目を見開いて両手を大きく横に振った。
「…それにしても、アイリッシュ・ヴァンパイアの手掛かりをつかむことができなくて残念だったわ。まさか、あの子たちに大きな関わりがあるとは思えないし… もっとねばってあの子たちを巻き込むのもどうかと思ったし…」
「そ、そうですよ。疑わしくても子供たちを巻き込むというのは…」
「部屋が壊されていたのは気になったけれど…」
「み、みんなで騒いでボール遊びとかしていたんですよ。たまの、目滅多にないお客さんがやってきたので…」
 森の中が深くなると、ロザリオが日の光が差す場所へと導いてくれた。

 春まだ浅きロンドン、「英国心霊研究協会」のお屋敷の、昼下がりの休み時間、本嫌いなはずのデイジーが、何やら分厚い大人向けの小説の単行本を、むさぼるように読んでいた。
「あら、デイジー、珍しいわね。字ばっかりの本だなんて」
 スコーンを運んできたブライディーが、表紙を覗き込む。
『ブラム・ストーカー著 吸血鬼ドラキュラ』
「会員のストーカーさんが、出版されたばかりの本を十冊もご寄贈されたのよ。ドイル様や他のかたがたが借りて行かれたあと、残っていたから始めのところだけ読んでみたら、これが面白くってやめられないの。お姉ちゃんも読んでみたら?」
「え、ええそうね… でもデイジー、おねしょの癖をぶり返さないようにね」
「それはこっちのセリフよ、お姉ちゃん」
 そこへ、巻末にしおりをはさんだ同じ本を抱えたドイルがやってきた。
「ブライディー、すまないがこれを図書室に返しておいてくれ」
「かしこまりました。しかしドイル様、十冊もあるのですから、頂戴しておかれたら…」「…この本は…」 ドイルは真顔で言った。「借りたまま返さない人が続出すると思うよ」
「まぁ、まるでドイル様のシャーロック・ホームズシリーズのようですね」
「ああ、予想していたように強力なライヴァルが出現したね。賭けてもいいけど『ドラキュラ』は百年後も版を重ねて、芝居にもなっていると思うよ」
「そんなに凄いのですか?」
「ああ、迫真の物語だ。…もしかしたら真実の部分が少なからずあるのかもしれない」
 メイドさん用の椅子に腰を下ろしたドイルは、淹れたての紅茶を一口すすった。「…時にブライディー、メルさんと一緒に行ってきたという『アイルランドの吸血鬼』探しの旅はどうだったんだい?」
「残念ながら…」 メイドさんは微笑みながら答えた。「…子供たちだけで暮らしている隠れ里のようなものは見つけたのですが…」「ふーん、『子供たちだけ』でねぇ。そいつは興味深いなぁ…」
「ドイル様と一緒に訪れた魔女グエンドリン様の『女神たちの森』のようなところでした。 なんでもグエンドリン様の盟友のシーリア様とおっしゃるかたが開かれたとかで… お二人のほかにあと三名、合計五人の…うち一人はすでにお亡くなりになられていますが…清浄派の完徳者のかたがたが、『この世での永遠の命を会得しよう』と誓いを立てられたとかで…」
「わたしがケンブリッジのニューナム予備校で知り合ったゼリューシャ様(「ブライディー、女子大生になるむ参照)と、ドイル様と一緒にオーストリアのブラウナウでお見かけしたヴァイオレット様(「ブラウナウの少年」参照)と、キーウリン様(「北海の邪神」参照)だそうです」
「ねぇ、その『ゼリューシャ様』って、ドラキュラ伯爵みたいに変った名前だね」
 しおりをはさんで本を閉じたデイジーが、素っ頓狂な声を上げた。
「東欧系の名前なんだよ」
 ドイルがパイプに火を付けた。
「ねぇ、その魔女たちって、どうしてそかなにまでして『永遠の命』にこだわっているのかな?」 と、またデイジー。「ドラキュラ伯爵なんか、結構可哀相だよ。血を吸う相手を見つけなければならないし、お日様とか十字架とかニンニクとか、弱点も多いのよ。(いつやられちゃうか?)とビクビクオドオド心配しながら暮らしているなんて、普通の人間…例えば兵隊さんとか…と一緒じゃないの?」
「きっとそのかたがたは、とても悲しい思いをされたんですよ」 お使いから帰ってきたポピーが言った。「…そのかたがたは、むかし、平和で仲良く穏やかに暮らしておられたのでしょう。過去を取り戻すことはできないので、現在をつなぎ止めておく方法へと、心が向かわれたのでは?」
「真の神ならともかく、人の力では…いや、魔王の力をもってしても不可能だ」
 ドイルが大真面目に言ったとき、玄関の鐘が鳴った。
「はーい、ただいま!」
 ブライディーが走って出て行くと、「ドラキュラ」の本を抱えたメルが立っていた。
「ブライディーさん、この本もう読まれた? すごく面白いんですって!」
「いいえ、これからよ。メルさんはもう読まれたの?」
「いいえ、わたしもこれからろ 友達にあらすじを聞いて…」 メルは本に続いて東欧の地図を取りだした。「…それよりも一緒にトランシルヴァニアへ行かない? 正真正銘、本物の吸血鬼を捜しに行くの! わたしが頼めば上から予算と日数が降りると思うわ!」
「いえ、遠慮しておくわ…」 メイドさんは顔をくしゃくしゃにして言った。「わたしは本…そう、本で十分満足だわ」

     (次のエピソードに続く)





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