ブライディー・ザ・マジックメイド 最後の封印者 「誰かいませんかぁ? …誰もいませんかぁ? … もうどなたもいらっしゃいませんかぁ?」 ランプの明かりだけがほんのりと照らす洞窟の中、マーケットの売り子のような威勢のよい少女の声がこだました。 「はい。います。何でしょうか?」 ドイル、デイジーとともに、ピクト人が描いた呪術画の踏査に来ていたブライディーがそれに負けないくらい明るい声で答えた。 「…おかしいわね。ここにはあたしの『ゲート・オープナー』の術で来たというのに…」 デイジーが囁く。 「おかしくはないよ。向こうも君と同じ術が使えるんだ」 しゃがんで岩絵を写していたドイルはズボンの裾を払いながら立ち上がった。 すると、まるで岩をすり抜けるようにしてブライディーと同じ年頃の利発そうな少女が現れた。 裾を短くした濃紺のガウンマントの頭巾を脱ぐとまるで仙女のような銀色の髪がはらっと広がり、口元には東洋の仏像に似た微笑みを浮かべていた。 「初めまして。わたくし、シーラー(封印者)のメイベルと申します。メルと呼んで下さい」 四人は互いに握手を交わした。暖かくて女性としては節のある、働き者の手だった。 「『英国心霊研究協会』のコナン・ドイルです。こちらはメイドのブライディーとデイジー」 二人がちょこんと頭を下げると、メルも同じように頓首した。 「あの高名なドイル様ですか! 光栄ですわ」 「貴女も何かの探索ですか?」 ドイルが穏やかに尋ねた。 「いえ、わたくしは魔法庁の者で、危険がありそうな洞窟や建物を封印して回っているのです」 「封印?」 「ええ」 メルはコックリと頷く。「例えば『ここ』のように、岩に見えて実は、デイジーさんみたいな特別な能力を持っている人だったら通り抜けられるところを、もう通れなくするのが仕事です。危険防止のために…」 メルがすぐ横の岩に手を突っ込むと、吸い込まれて消えた。 「しかし、それでは考古学的に貴重な遺跡が発見されず、もう誰にも見られなくなってしまうと思うのですが…」 「お宝も発見できないわ」 ドイルに続いてデイジーも言った。 「お気持ちはよく分かります。…しかしやはり危ないです。それを探されているかたがトラップなどの事故に遭うことはもちろん、例えばもしも太古の怪物を作り出す方法が書かれた石板などを見つけ出した場合、現代科学を駆使すればそれを解読して実際に生み出されてしまうかもしれません」 「ちょっとあんた失礼ね! ドイル様やあたしたちがそんなド悪人に見えるわけ?」 デイジーが詰め寄る。 「デイジー、おやめなさい」 ブライディーがあいだに入る。 「だってお姉ちゃん、いきなり現れて、この人が実は悪の手先でないという証拠がどこにあるのよ?」 メルは苦笑した。 「お疑いはごもっともです。では、誠に恐縮かつお手数ご面倒ながら、わたくしたちの活動ぶりを少しご覧になって頂けませんでしょうか?」 メイドさんたちはドイルの顔色を窺った。「ぜひお願いします。ぼくもそのようなことを耳にするのは初めてで、お差し支えなければぜひお仕事ぶりを拝見したい」 「少々危ないかも知れませんが、よろしいですか?」 (フン、何よこの子、さっきから聞いていれば「危険」「危険」って! あたしたちもいままでいろんな目に遭ってきているんだから…) デイジーが目を吊り上げる。 「分かりました。そちらのメイドさんたちも普通のメイドさんたちではなさそうですし、お言葉に甘えて普段どおりに働かせて頂きます」 「どうぞご遠慮なく。足手まといになりそうだったらおっしゃって下さい」 (ドイル様も… 「足手まとい」なんかになるはずが…) と思っていたデイジーの目前で、メルは古代の人々がマンモス狩りをしている場面の岩絵をすり抜けた。 「さぁ早く、わたくしの『力』で開けています。じきに消えますので…」 ドイルに続いてブライディーも飛び込み、あわててデイジーも突っ込んだ。 「向う側」は切り立った地底の崖になっていた。その下は目もくらむような千尋の谷。勢い余って両手をばたばたさせても止まらず、落ちそうになったデイジーを、メルとドイルが素早く取り押さえた。 「慎重にお願いしますね、デイジーさん」 「フン、分かっているわよ! (…でも、悔しいけれどこの隠された入り口、あたしには見えなかった…) 「あのぅ… 呼びかけると中と言うか、奥に人がいらっしゃるということはよくあるのですか?」 人一人がやっと通れるような細い崖っぷちの道を歩きながらブライディーが尋ねた。 「あります。あります。皆様がたのように素直に指示に従って下さるかたばかりだったら助かるのですが、そうでないかたがたの場合は本当に困ってしまいます」 困っている割りには、メルは至極陽気に答えた。 「そういう時はどうするのですか?」 と、ドイル。 「まぁ、ケースバイケースですね」 少し歩くと一行は横穴の前に出た。 メルは思いっきり深呼吸してから口元に両手の手のひらをあてがって叫んだ。 「誰かいませんか!」 ドイルたちのほうを向いて「…やかましくてすみませんねぇ。しかし『ありったけの大声で叫べ』という内規なので…」 「…この洞窟を探検中、または住んでおられるかた、いませんか?」 声はわんわんと反響する。 (「住んでる」だなんて、一体どんなやつなのよ?) デイジーは思った。(ゴブリンやノームじゃあるまいし…) 元気がいいと言うか、あまりの声量にドイルとメイドさんたちは思わず耳を塞いだ。 「…もうどなたもいらっしゃいませんかぁ?」 「『最低三回は言わねばならない』という規則なんです…」 「誰も返事がないわね。ここは…」 デイジーがポツリと言った。 「その場合はもう封印されるのですか? 中に居るのに貴女を無視した場合は、相手の人の過失、ということで…」 ドイルがランプを掲げながら洞窟の先を照らした。 「封印しちゃってもいいんですけれど、確認できる時は確認するようにしていますよ、なるべく…」 おちょぼ口から苦笑いがこぼれる。 「わたし、この奥にどなたかがいらっしゃるように思います。人間か、それ以外のかたかは分かりませんけれど…」 いつのまにか胸元でダウジングの棒を操っていたブライディーがおずおずと言った。 「おやっ、スゴいですね! 大変失礼ですが、いまどれくらいのお給金を頂いておられますか?」 「ブライディーを引き抜くつもりなら、『心霊研究協会』に相応の寄付をして下さい」 ドイルが真顔で言った。「…いまどき、いいメイドを新たに探すのはかなりの骨折りなので…」 「ドイル様…」 大きなメイドさんの目に涙が浮かんだ。 「じょ、冗談だよブライディー、冗談に決まっているじゃないか」 ドイルは頭を掻いた。 「寄付の金額をお聞かせ下さい。いちおう上の者に相談しておきます」 メルはどこからともなく小さな手帳を取りだして開き、ちびた鉛筆を持った。 「ちょっとあんた、いまそれどころじゃあないでしょ?」 デイジーが足下の土を蹴る。「…この先を調べるの? 調べないの?」 メルは婦人用の小さな懐中時計を取りだしてチラリと見た。 「この仕事、完全出来高制で、各種手当はほとんどないのよねぇ…」 「わたし、確認してみたほうがいいと思います」 と、ブライディー。 「ぼくもそう思う」とドイル。 「行きましょう!」 メルはコートの裾を翻らせて先頭を切って進んだ。 すると、少し先に、ほんのかすかに黄色い蝋燭の灯火が見えてきた。 「人間よ! ゴブリンやノームじゃないわ!」 うっすらと浮かび上がった背中の輪郭を見てデイジーが言った。その者は地面に座り込んで、素手のつま先で横穴を掘っていた。 「あのぅ、もしもし。こんなところで何をしておられるのですか?」 ランプに照らされた顔は、日本の即身仏を目指している僧侶のような、骨と皮と皺だらけの老人だった。 「見ての通り、宝物を掘っているのじゃ」 かたわらには、かつてはスコップや、つるはしだったものの残骸が転がっていた。 「ここは危険ですから速やかに退去してください。責任を持ってよい施設をご紹介しますから…」 「断る。ここはあんたの土地なのかい?」 「いえ、もしそうだったら嬉しいんですが…」 ドイルとメイドさんたちは溜息をつきながら肩を落とした。 「で、どうするの、こんな時は?」 デイジーが意地悪な目でメルを見た。「…お給金は出来高歩合、つまり『ダンジョンに居ついている人を追い出して、封印していくら』なのでしょう?」 「ええ、そうよ」 メルはどこからともなく、何枚かの古いボロボロになった羊皮紙の地図と写真を取りだした。「えっーと、ここよりもずっとお宝が出る確率が高い洞窟に移って頂く、というのはいかがでしょうか? この通り、地図もありますし、実際に財宝を掘り当てたかたの写真もございます」 老人は地図と写真をしばらくしげしげと眺めていた。 写真には掘り出された宝物の山の前で満面の笑みを浮かべている人や人々が写っていた。 「嫌だね。どうせおまえさんたちが遊園地のように人工的に作った洞窟で、宝も釣り堀の魚のようにおまえたちが埋めたものなんじゃろう?」 ポイと放り投げられた地図や写真がハラハラと舞い、メルはあわててそれらを拾い集めた。 「ねぇ、本当にそうなの?」 デイジーは唇を少し歪めて尋ねた。 「そ、それは秘密です」 「そんなふうに答えたら、認めたのも一緒じゃない」 と、デイジー。 と、その時、かすかにだがぐらぐらと地面が揺れ、天井からパラパラと落ちてきた土が一同の頭や肩にかかった。 「いかん! これはおそらく地震の揺れではなくて、ここの地盤全体が緩んでいるような感じだ。メルさんの言うとおり危険かもしれない」 ドイルはメイドさんたちの肩を抱くようにかばった。 「は、早く逃げよう! …でもいくらあたしの『脱出の呪文』でもいっぺんに五人は無理だよ。三人か、できて四人かな…」 デイジーはドイルやブライディーの顔色を伺った。 「『脱出の呪文』! 貴女使えるのですか? 失礼ですが、いまいくらお給金を頂いているの?」 メルがまた尋ねた。 「アッカンベー …こんな後ろ向きなお仕事は続かないよー このお爺ちゃんみたいに、洞窟に突撃してお宝を探す、みたいなんだったらともかく。…でもパートナーはこんなお爺さんじゃあなくて、若くて、ハンサムで、運動神経抜群で足が長いお金持ちの男の人がいい!」 「なんじゃと?」 老人が血走った黄色い目でデイジーを睨み付けた。 「デイジー、失礼よ」 ブライディーも目を吊り上げる。 「あの、皆さん、わたくしの仕事は『後ろ向き』でしょうか?」 メルは泣き出しそうになった。 「うーん、洞窟や塔や幽霊屋敷に挑んでいる人は、危険を承知でみんなそれなりに夢を持っているか、愛する人を救い出したいといったような大きな目的を持っている人が多いだろうから、それを無理矢理に諦めさせる…というのは難しいかもしれない」 ドイルは小さくかぶりを振った。「…冷やかしや中途半端な気持ちで入り込んでいる者は強制的に退去させ、二度と入り込めないように厳重に封印するべきだろうが」 「ブライディーさん、貴女は?」 「わたしはどちらとも…」 ぐずぐずしていると、またグラグラと揺れが来た。今度のは先ほどよりも大きく、岩のかけらや石も落ちてきた。 「どうかドイル様たち、先に逃げてください!」 「紳士として、君たちを見捨てるわけには行かない」 「あたしの『力』はギリギリの間際でも使えるから、それまでは付き合ってあげるわよ」 デイジーはドイルの真似をして腕組みした。「…そうですか。では、お言葉に甘えて…」 メルはまたどこからともなく薄っぺらい冊子を取りだして、それをしばらく読んでから言った。「…お爺さん、お爺さんが長いことこの洞窟で頑張ってこられたお気持ちはよく分かります。ですが、命を失ってはどんな宝物や、素晴らしいものを手に入れても仕方がないではありませんか? ほかの洞窟に変えてまた続けられれば…」 「前途のある若いもんじゃったらそうするじゃろう。わしはもう老い先短い。最後まで掘らせてくれ! ここで生き埋めになっても、本望じゃ! いや、たとえ若いもんでも、そこにしかなくて、愛する者の命を病気から救うといったような薬があるとすれば、退去には応じるまい」 「そんなことをおっしゃらずに… お爺さんが探しておられるのは、この洞窟にしかないものなんですか?」 「そうじゃ」 老人の目に、悲しそうな寂しそうな光が宿った。 「どうだろうブライディー、君の力でこのかたが探し求めておられる『もの』がこの先にあるかどうか占っうというのは? もしあるようならこのままもやむなし、ないのなら…」 ドイルは大きなメイドさんの目を見つめた。 「ええ」 ブライディーはダウジングの棒を、老人が掘り続けている岩壁に向けた。 「『ない』と言ってもわしは立ち退くかんぞ」 老人は長い長いあいだ見続けてきたであろう、茶色と黒と灰色の岩肌を見つめて言った。「…あんたの占いがいかによく当たる優れた占いだったとしても、わしは信じない! わしは己が信じたことだけを信じる!」 「ひょっとして、洞窟に立てこもっている人たちって、みんなこんなの?」 デイジーはメルに意地悪く尋ねた。「…だったら大変よねぇ…」 「大変です。でもやらなければならないんです。誰かがやらなければ、幸せでない人々が増えるだけで…」 「それは一概には言えないんじゃないか?」 ドイルが重々しく言った。「…仮に百人のうち九十九人がまったく無益な努力を延々と続けていたとしても、最後の一人が宝を探し当てたらなら、九十九人の頑張りは無駄ではなかった、と…」 「そうよ、そうよ…」 デイジーは両手を腰に当てて言った。「…たとえピラミッドの頂点が針の穴ほど小さくても、裾野が広ければいつかは登り詰める人だって出てくるはずよ。 アルプスの登山口なんか、大きな町になっているもん。あたしたち、行ったことがあるもん」 ブライディーの手にした棒がクルクルと小さく動いた。 (ない… このお爺さんが探している『もの』は、いくら掘ってもこの先にはないわ… これ以上いくら時間をかけても、手伝いの人数を揃えても…) 「どうだい、ブライディー」 「どう、お姉ちゃん?」 「分かりません」 大きなメイドさんは蚊の泣くような声で言った。正直自信もなくなってきた。「…人がほとんど全人生を傾けてやってきたことを否定してしまうようなことは、占いではできませんわ」 「そら見たことか!」 老人ははまた爪の先で岩をこすり始めた。 またゴゴゴ…と地鳴りがして地面が揺れ出した。 「仕方ありません。人命尊重の観点から、地上に強制送還します」 「嫌じゃ! やめてくれ!」 「でもどうやって?」 とデイジー。「…あたしみたいにワープの術が使えるのなら簡単でしょうけれど…」 「残念ながらそれも…」 メルは長くも短くもない呪文を唱えた。すると、老人の姿が白く黄色い光に包まれたかと思うと、そのままスーッと縮まって、手のひらに乗るくらいのリアルな人形に変わった。 彼女はそれを大切に方形のガラスのケースに入れると、コートのポケットにしまって頭巾をかぶり直した。 「…さぁ、実力を行使してしまったので、この場所は封印します。わたくしはまだ他に人がいないか呼びかけながら戻ろうと思うので、皆さんがたはどうかデイジーさんの術で早く地上に脱出してください」 「デイジー、五人は無理でも四人なら君の術で帰還できるだろう?」 ドイルは小さなメイドさんの目を見た。「…ここはみんなで行動して、いよいよという時はメルさんも一緒に…」 「分かったわよ、分かったわよ…」 デイジーは頬を膨らませる。 四人は洞窟の分かれ道のところまで戻った。 メルが、今度はまた別の短い呪文を唱えると、通ってきた空間が赤い光に包まれて岩の壁に変化した。 「我、ここを、以後何人も立ち入れぬように封印する!」 老人が、おそらくほとんど一生をかけてきただろう横穴は、ほぼ一瞬にして元の岩盤の姿に戻った。 「ねぇ、一カ所封印するといくら貰えるの?」 「デイジー失礼よ!」 「それは秘密じゃないので、興味があったら調べてください」 メルはウインクする。 一行はゆっくりと地底の吹き抜けの上り坂を上がり始めた。 「もう誰もいませんかぁ? いないですよね? どうなっても知りませんよ!」 横穴に差し掛かる度ごとにメルは叫んだが、それもそばで聞いていると、心なしか次第にぞんざいになってきた。 「…いませんよね? そうそう居るわけないですよね。もうしーらない!」 「こんなに適当でいいのだったら、あたしもやってみようかしら?」 デイジーが指をくわえながら囁く。 「あの、言うことを聞かない人を小さなお人形にしてしまう呪文が難しそうよ」 と、ブライディー。 「魔法界の求人情報紙を見れば募集しているのかもしれない」 ドイルは真顔。 「永久に立入禁止! 迷宮があるから入りたがる人が後を絶たないのよねー …なんとかは死ななきゃ治らない」 メルは鼻歌交じりに片っ端から手際よく封印していった。 地鳴りと揺れははさらに大きく、間隔は短くなった。 一行の頭や肩に土が降りかかり始めた… 「さぁさぁ、もうわたくしの仕事ぶりには納得して頂けましたか? 皆さんはお怪我のないうちにそろそろデイジーさんの魔法で一足先に地上にお戻りください…」 「上手いこと言って、あたしたちを追っ払ってからお宝を探して独り占めするんじゃあ? 『役得♪』とか言って…」 「デイジー、失礼よ!」 「疑り深いんですねぇ… 仕方ないです。そういうことならギリギリ間際まで見ていてください」 メルは肩をすくめた。 一行は崖と崖とのあいだに渡された地底の吊り橋に差し掛かった。崖と吊り橋の下は、目もくらむようなさらなる地の底だった。 橋の板はところどころ欠け落ちていて、残った板も腐ってボロボロのように見えた。 「わたくしがまず先に、体重がかかっても持ちこたえる大丈夫な板を占って、印を付けながら渡りますので、皆様はその後を辿っていただければ…」 ブライディーは早くも手前のほうの板を透視するかのように見渡した。 「そんなこともできるのですか! 本当にご一緒にお仕事をしたくなってきましたわ!」 「イーッだ! お姉ちゃんはこんな、人の邪魔をして嫌われるような仕事はしないんだよー!」 ブライディーは一歩歩いて一枚の板を渡るごとにしゃがんでチョークで大きな○印を付けていった。 「この板はダメ…」 そう呟いた板には×印を付けた。 幸いなことに○印の板がほとんどで、×印は数えるほどだった。 無事に向こう岸へ渡りきったブライディーはニコニコしながら大きく手を振った。 「デイジーさんにドイルさん、どうぞお先に…」 メルは手を差し伸べて促した。 「デイジー、先に行きたまえ」 「あたしはいつでも脱出できるから、ドイル様どうぞ…」 「そうかい。じゃあ…」 ドイルは慎重、かつ手早く、ブライディーが付けた印の○の上をゆっくりと進んで渡りきった。 「ではデイジーさん、どうぞ」 メルは再び先に行くように勧めた。 「いえ、あたし、あわて者でふつつか者だから… 何かの弾みで板を落としてしまうかもしれないから… くどいようだけれど、あたし一人ならなんとかなるから、メルさんどうぞお先に…」 「そう? では…」 メルはいかにもこういうところは慣れているといった様子でトントンと軽やかに吊り橋を渡っていった。 「デイジー、後は君だけだ!」 「デイジー、貴女だけよ!」 向こう岸からドイルやブライディーたちが呼んでいる。 デイジーは板が歯抜けになった吊り橋を見た。ついでに見なくてもいいのにその下も見てしまった。真っ暗な奈落が永遠に続いている地の底を… (あわわ… デイジー、貴女何をビビっているのよ!) 彼女は自分に言い聞かせた。(もしも、万一、足を踏み外して落っこちたとしても、あたしには脱出の呪文があるじゃない! 落ちながらワープすれば済むことじゃない。「落ちながら」?) 顔からスーッと血の気が引いていく。 (真っ逆さまに落ちながら、それができるかしら?) そんなことを考え始めると、両足が、そして次第に身体がぶるぶると震え始めた。 「どうしたデイジー、早く来い!」 「デイジー、何をぐずぐずしているのよ!」 「分かった、分かったわよ! そんなに急かさないでよ!」 恐る恐る一歩踏み出すと、吊り橋がグラッと揺れた。二歩目はさらにグラグラと、揺れが増した。 板と板のあいだ、さらに抜け落ちた板のあいだから覗く下は、底なしの闇だった。 (えーっと、○印、○印… お姉ちゃんが付けた○印っと…) ○は揺れで二重丸、三重丸に見えた。 (えーっと、×はダメ… ×は踏んではダメ…) 三歩目、四歩目… まったく意識してやっているわけではないのに、身体が機械人形のようにこわばって、まるで格闘家が踏みしめて歩いているような歩行になった。 当然吊り橋は、そのたびごとにさらに大きくグラッグラッと揺れる… 「デイジー、何をやっているんだ! ふざけている場合じゃあないだろう?」 ドイルが叱った。 「デイジー、ヒヤヒヤさせないで!」 ブライディーは両手を合わせて拝む仕草をした。 「えーい、ままよ!」 デイジーは半ば目を閉じつつ板の上を小走りに走り出した… 「デイジー、走っちゃあだめよ!」 ブライディーが叫ぶ。 「こういうところではゆっくりそろそろと進むのが原則だ。○がついていても割れる板があるかも知れない。そういう時に後戻りできるように!」 ドイルも顔を引きつらせた。 「でも万一の場合でも、デイジーさんには脱出の呪文があるのでしょう?」 メルは落ち着き払っている。 「落下しながら呪文を唱えられるかが問題だ」 と、ドイル。 「落ちた瞬間に気を失いでもしたら…」 ブライディーはハラハラし通しだった。 案の定、ゆらゆらと揺れが増した吊り橋の上でデイジーの両足はもつれ、勢いをつけていたために前につんのめるようにして倒れ、そのまま二枚続けて空いていた板の隙間から真っ逆さまに落ちた。 「アーッ!」 デイジー自身も、ブライディーもドイルも悲鳴を上げた。 「助けてーぇ!」 「デイジー呪文よ!」 「大丈夫、底は深い! 叩きつけられる前に唱えられる!」 ブライディーとドイルの声が見る見る小さくなっていくデイジーの姿を追いかけた。 「…………」 デイジーの姿が見えなくなってから、かなり長いあいだ沈黙があった。 「大丈夫、一足先に地上に戻っておられますわよ」 メルが明るく言った。 「メルさんって、楽天的なかたなのですね」 ブライディーはデイジーが吸い込まれていった闇の底をいつまでも眺め続けていた。 「ええ。気を取り直すのが上手でないと、この仕事は勤まりませんわ」 「行こう。どうなったか分からない時は、取りあえずよいほうに考えておくんだ」 ドイルは少女たちを促した。 「あの… デイジーさんが先に戻られた、ということは、いますぐ落盤などがあったら… ということでしょう? わたしは仕事ですが、ドイル様たちは早く地上に戻って下さい」 メルは真剣な目でドイルたちを見つめた。「そうだな… そうさせてもらおうかブライディー。デイジーの脱出の術は一日一回がやっと。きょうはもう唱えてしまったから、ヘトヘトになっていることだろう」 「ええ。失礼させて頂きましょうか」 「そうと決まれば、あの道が近道です。ブライディーさんの占いというか、ダウジングがあれば迷うこともないか、と…」 メルは崖沿いの道を指さした直後、上から土砂が雪崩落ちてきて埋まってしまい、それからすぐに全体が崩落してしまった。 「…………」 「仕方ない。次の近道のところまでメルさんと一緒に行動しよう」 ドイルは肩をすくめた。 「あの… もし何でしたら、先ほどのご老人のように、一時人形に変えて、責任を持って地上までお連れしますが…」 「いや、それはご遠慮申し上げる。なるべく自分の足で歩くようにするよ。作家をしているとどうしても運動不足気味になるのでね」 「わたくしも… 貴女のように機敏に動けないので、足手まといになったら悪いのですが…」 ブライディーも、もじもじしながら言った。 「どうやらわたくし、いまひとつ信用がないようですね…」 メルは瞳を曇らせた。 「いえ、決してそういうわけではないのですが…」 「わたしもいよいよ危ないと思ったら、仕事を投げ出して逃げますよ。自分で言うのも何ですが、その見極めはいいほうで、ですからこんにちまでこうして生き延びているわけで…」 メルは再び歩き出しながら言った。 「この仕事で殉職されるかたは多いのですか?」 「ええ。魔法庁の裏庭の目立たない草葉の陰に殉職碑がありますわ」 「こんなことを聞いては何かもしれないが…」 ドイルが切り出した。「君のような女性が、それも若くて美しい女性が、どうしてこのような仕事をされているのかな? まさか魔法で実際の年より若く見せているとは思えないし…」 「ドイル様、失礼ですよ」 ブライディーがたしなめる。 「いえ、構いません。実は、魔法関係でももっと楽で安全な仕事も選べたのです」 「なのにわざわざこの仕事を選ばれたというのは、例えば父上か兄上か、それとも恋人がどこかを冒険中に行方不明になられた、とか…」 ドイルの推理にメルはうつむき押し黙った。 「いや、いいんです。失礼しました」 ドイルは本当に申しわけなさそうに口ごもった。 「いえ、こちらこそいいんです。口に出しておっしゃるかおっしゃらないかの違いはあっても、皆さんそう思われるでしょう」 メルは精一杯の明るい笑顔で言った。 「さてさて、我々もより一層慎重に行動しなければならなくなった、ということですね。 貴女の足を引っ張らないようにしなければ…」 ドイルは話題を変えた。 「ご迷惑でなければ、わたくしも全力で占わせて頂きますわ」 ブライディーはダウジングの棒を掲げた。「そんなことおっしゃったら、もろにアテにしますわよ」 メルは再び片目をつむった。 「…この洞窟は、ブリタニアの魔法庁の権威において、今後、ヒトは一切の例外なく立入禁止を宣言します。魔法・魔術を使われるかたはもちろん、探検家冒険家のかたがたもすみやかに退去してください!」 新たな横穴、よほど年を取って耳が遠くなっている者でも聞こえるような大声が響く。「えーっと、『自分はここで何かを探し求めることに命を賭けている。だから、ここでもうどうなっても構わない』と腹をくくっているかたも出てください! 聞こえているのに聞こえないフリをしているかたは、大英帝国の法律により罰せられます!」 「『もうどうなってもいい』と思っている者や、『罰せられても構わない』と覚悟を決めている者が、言うことを聞くだろうか?」 ドイルが小さく首をかしげた。 「このずーっと奥に、メルさんの指図を無視している人がいるような気がしますわ」 ブライディーはかすかに揺れるダウジングの棒を見つめて言った。「それも大勢… …感じからして山賊たちか盗賊団のような…」 「『大勢』ですか? それは行かねばなりませんね」 メルは眉をひきしめるとツカツカと中に進んでいった。 「大丈夫なのか? 先ほどの『従わない者を小さな人形に変える呪文』は、大人数にも効くのか?」 ドイルはポケットから拳銃を取り出した。 「いえ、一度に多数にはかけられません」 「では、逆襲されたらどうする?」 「アハハ、その時はその時です」 メルはまるでこれからピクニックにでも行こうかといったような上機嫌。 (もしかしてメルさんは、以前一緒に組んでいてこのお仕事をしていた人を、ご自分の失敗か何かで目の前で亡くされたのではないかしら?) ブライディーは先ほどのドイルの推理に加えてそう思った。(…これじゃあまるでメルさんご自身が『自分はどうなってもいい』と思っていらっしゃるようだわ) 数分歩くとざわめきが聞こえランプの明かりが見えてきた。 「向こう」もいくつものランプが持ち上がり、群れる蛍のようにゆらゆらと揺れた。 こちらが行くよりも先に、「彼ら」がおっとり刀でドヤドヤと迎え撃ちに来た。 黄色い光に照らされた姿は人間だった。 男…それもひげぼうぼう、毛むくじゃらの大男たち。手に手にサーベルやナイフや棍棒を持っている… 「なんじゃい、おまえらは?」 頭領らしき恐ろしい顔つきの男が耳まで裂けた口を開いた。 「あはは、ここは危険なので、立ち退いてください」 メルはニコニコしながら言った。 「女だ!」 「若くて可愛い女の子が二人も…」 「飛んで火に入る夏の虫とはこのことだ…」 山賊というか盗賊たちは舌なめずりして色めき立った。 ブライディーはすくみ上がり、ドイルは拳銃を構えたが、メルはまったく落ち着いていた。 「仮にいまいっときいい目をしても、生き埋めになってしまってはつまらないでしょう?」 「おまえたち、この子たちに手を出したら撃つぞ!」 ドイルが銃口を左右に振った。 「撃てるものなら撃ってみなよ!」 「一人二人は倒せるかもしらねぇが、その後どうなるか…」 手下たちが構わずずいずいと迫ろうとした時、頭領が一喝した。 「莫迦野郎! 恐るべきはそのオヤジじゃあねぇ! そっちの銀色の髪の小娘のほうだ」 「頭領、何をおっしゃるんで?」 「阿呆! おまえらには分からんのか? 銀色はただ者じゃあねぇ。赤い髪のほうは魔法は使えないようだが、別の意味の力があるようだ」 「えーっ?」 男たちの顎が下がった。 「さすがおかしらだけあって、多少はお利口さんのようですね。物わかりがいいついでに、早く出て下さい」 メルは居座るヤクザに立ち退きを迫る美人大家のように両手を腰に当てて言った。 「おまえ『ここ』がおかしいんじゃあないか? 俺たちが『はいそうですか、分かりました』と言って従うように見えるか?」 子分たちは髪を逆立たせた。 「後悔しても知りませんよ!」 メルは一歩も引かない。それどころかジリッジリッと前に出る。あまりの迫力に盗賊団と思しき連中のほうが僅かずつではあるが後じさりした。 「大丈夫だ。メルさんは慣れている」 わなわなと震えているブライディーにドイルが囁いた。 「ほ、本当ですか?」 「うん。あの子は自分で『危険箇所の封印が仕事だ』と言っているが、事実上そこに巣食っている連中のクリアリングがメインみたいだな」 「と言うことは…」 「そう、メルさんの真価は相手が大人数の時の戦闘だ。いつ大規模な落盤が起きるようなダンジョンや、いつ崩れ去るかも知れない建物に大部隊を送り込むわけにはいかないからね」 「構わねぇ、やっちまぇ!」 男たちのうち、先頭の三人が棍棒、つるはし、シャベルを振りかざしてメルに襲いかかった。 メルはスカートの裾を翻らせながら大きく右足を上げると最初の男の胴をなぎ払い、次に軸足を変えると左足で二人目の男を蹴り飛ばした。三人目は顔が変形するほどの肘鉄を受けてバサッと倒れた。 残りの賊たちは息を呑んだ。 「ちくしょう! もう手加減しないぜ!」 賊たちは次から次へと襲いかかったが、たちまち気絶者の山が築かれた。 「だから言っただろう。『おまえたちのかなう相手じゃねぇ』って。どけっ!」 頭領が手下たちを掻き分けるようにしてずいっと出てきた。 「貴男たちがいままでこんなところで何をしているのか、おっしゃらなくても結構です。わたしも知りたいとは思いません。詮索もしません。ただ、退去して頂きたいのです!」 メルは頭領をキッと見据えた。 「フッ、こいつが噂に聞く『ダンジョン・シーラー』、魔法界の『追い出し屋』か! 俺たちと同じヤクザな家業だな!」 「追い出しに成功すると、いいギャラを貰えるんですか?」 手下の一人が尋ねた。 「ああ。だが嫌われもんだ。例えば『そのうちにきっと大それた悪事をやりそうだ』というだけで、まだ小さい悪事しかやっていない奴を監獄にぶち込んだりすれば人権侵害だろう? 同じように『いつか大災害を起して中にいる者がみんなくたばっちまうかもしれない』というだけで全員そこから無理矢理立ち退かせるというのは一種の権力の横暴だと思わねぇか?」 「そうだ、そうだ! 植民地の徴税官みたいに横暴だ!」 子分たちは声を揃えて叫んだ。 「わたしは、貴男たちのためを思ってやっているのです。大の元気な男たちが、炭坑夫でもないのにどうして日長一日こんなあなぐらに固まって、何をごそごそやっているんですか?」 「何をやろうと俺たちの勝手だ! 放っといてくれ!」 「おまえたちは引っ込んでろ!」 頭領は懐から葦笛に似た長短数本の細い筒が並んだ笛を取り出すと、目を白黒させながら懸命に、世界じゅうのどのリズム、メロディーとも違う奇妙な曲を吹き始めた。 「これはもしかして…」 メルは油断なく周囲を見渡した。 頭領は構わず、唇を激しく動かしながら葦笛を吹き続けた。相変わらず音はしない… 「ドイルさま、あれは…」 「気を付けろブライディー、身体をできるだけ岩壁に貼り付けておくんだ!」 すると、いましがたドイルたちが進んできた横穴の方向からバサバサと羽音が聞こえてきたかと思うと、何十匹何百匹ものコウモリの大群が、さながら土石流のようになだれ込んできてメルの身体に貼り付いた。 「キャーッ!」 悲鳴を上げるブライディー。 コウモリの黒い筒はどんどんと太くなった。 「おい貴様! その笛を吹くのをやめろ!」 拳銃を頭領に向けたドイルだったが、残りのコウモリたちがドッと襲いかかった。 「ドイル様!」 ブライディーはおろおろしたがどうすることもできない。 「さすがは頭領、やりましたね!」 手下たちは、やんやと囃したてた。 (でも待って!) メイドさんは必死で考えた。(コウモリたちは、あの葦笛の音で集まってきてメルやドイル様に襲いかかった。もし仮に…できたらの話だけれども…似たようなリズム・メロディーを歌うことができたら、操ることは出来なくても、攪乱して邪魔することくらいはできるのじゃあないかしら? とにかくいまはそれくらいしかやれることはないわ!) そう思ってすぐに、頭領がいまも吹き続けている旋律を、少し変えて歌い始めた。もっとも、そっくりに歌えと言っても土台無理な話だったろうが… 「ラララララ… ラララララ…」 すると、メルとドイルにビッシリとたかっていたコウモリたちが、一匹、二匹、三匹と離れだした。 「ラララララ…」 五匹、十匹、二十匹と、てんで勝手に飛び回り始めた。コウモリで覆い尽くされていたメルやドイルたちの姿が見えてきた。 (しめた! 上手く行きそうよ!) 「ラララララ… ララララ…」 ブライディーは歌い続け、コウモリたちは飛び回って手下たちの顔や身体にぶつかり始めた。 「うむむ… 赤毛のほうはコウモリどもの餌にしないで手下たちのために置いといてやろうと思ったが、甘かったか…」 頭領は葦笛を口から離し、コウモリたちはますますメルとドイルの身体から離れた。 「ええい、こうなったらあの赤毛も!」 再び笛を吹き始めたものの、もはや遅かった。 「ララララ…」 笛の音はブライディーの歌と混ざってしまい、一度離れたコウモリはもう二度と言うことを聞かなくなった。 身体にまとわりついているコウモリを掃き剥がしたメルとドイルは、ボロボロになった服を一瞥してから盗賊たちを睨み付けた。 「よくもやってくれたわね!」 「おのれ! こうなったら… 野郎ども、やっちまえ!」 手下たちの先頭に立ち、まずドイルに襲いかかった頭領。ドイルは拳銃をポケットにしまうと、ニヤリと不敵な笑みを浮かべ、相手の胸ぐらをつかんで「トオッ!」という掛け声とともに投げ飛ばした。 頭領はしたたか岩壁に打ち付けられ、ズズス…とそのまま崩れ倒れた。 「ララララ…」 音はブライディーが歌い続けている歌だけになり、ただでさえひるんだ手下たちを、コウモリたちが襲い始めた。 「こんなはずでは…」 「助けてくれ!」 手下たちは数人で気絶した頭領を背負うと、ほうほうのていで洞窟から外へと出て行った。 その後をコウモリの大群が、彼らの背中をつつくようにして追いかけていった。 「ふうっ…」 メルは埃をはたいた。「ありがとう、ブライディーさん」 「いえ、何とかお役に立てて…」 「また一カ所、立ち退きに成功しましたね」 ドイルはいまひとつ浮かない表情だった。 「あのかたたちは、こんなところで一体何をなさっていたのでしょう?」 メイドさんは小首をかしげた。 「…先ほどの老人のように何かを探して掘っていた、とか… 盗品の隠し場所にしていた、とか…」 ドイルは無意識に指を折った。 「さっそく確かめてみましょう!」 言い終わるよりも早くメルは奥へと歩み出した。 ランプの明りが照らし出す洞窟の広間には、大勢が飲み食いした跡はあったが、別段特に岩壁を掘ったり、何か作業をしていた形跡はなかった。 「おかしいな。彼らは確かにシャベルやつるはしを持っていた。…まだそのへんに散らかっているはずだ…」 ドイルは注意深くあたりの岩壁を眺めてみたり、手のひらで撫でて回った。「…見ろ、壁の色が違う。こちらは年月を経た感じがするのに、ここは最近掘られたみたいに鮮明な色をしている。…なのに、掘られたとするなら、土や岩のかけらがほとんどどこにもない…」 「それは簡単ですわ」 メルはニコニコしながら言った。 「ちょっと待ってくれ、メルさん。…ここまで出かけているのだが…」 「分りましたわ!」 ブライディーはパッと顔を輝かせた。「…あの盗賊たち、掘っていたのではなく、メルさんと同じように、この先にあっただろう洞窟を魔法で封印していたんです!」 「正解ですわ!」 「そうか…」 ドイルもはたと手を打った。「…だから、親分がやられたら簡単に逃げ出したんだ! 一応封印してあるからバレないだろう、もしバレても再び開扉するのは難しいだろう、とたかをくくって… …でもそうなると、ますます中身が気に掛かるな。…メルさんの術で開けられるかな?」 「残念ながら技術的にはできても、規則でできないのです」 「えっ? どうしてですか?」 「…考えてもみてください。わたしはこの洞窟を封印しに来たのです。誰かが…例え盗賊でも…先に封印してくれていたら、それはもうそれでいいわけでして… …そういう場合、わたしに課せられた仕事は、連中が舞い戻ってきて『開け胡麻』をしないように、より強力な呪文で二重に封印することくらいなんです」 「そんなことを言われると、すごく気になります」 ドイルが色めき立った。「…仮に、ここでメルさんが規則通りに二重に、厳重に封印してしまうと、中にあるものは二度と見れないのでしょう?」 「そうです」 「あの… そんな場合、中身は何であることが多いのでしょう?」 ブライディーがおずおずと尋ねる。 「『ホトボリが冷めるまで隠しておこうとした盗品など』というのだったら、どんどん開けて、本来の持ち主に返してあげるべきなのですけれど、往々にして『持て余しモノ』とか…」 「それは例えばどういうものですか?」 ドイルの声と眼光が鋭くなる。 「例えば、龍の子供や、モンスターの子供といった、これからどんどんと大きくなって、飼い主の術者にも飼い慣らせなくなるだろう生き物とか…」 「『生き物』! でもそれだったら可愛そうじゃあないですか? もう二度と日の光を浴びられないのでしょう?」 メイドさんは瞳をうるませた。 「情けは絶対に禁物です」 メルきキッパリと言った。 「彼ら…連中が『御せられない』と見限ったモノを、我々が御せるという保証はどこにもありません! 魔法庁の幹部を総動員しても…いや、世界中の魔導師を集めても、どうにもならない可能性だってあるのです。万万一そのようなことになれば…」 メルは声を潜めた。「…この世界の破滅です。「封印した… と言うか、封印された時は、非力で未熟な魔術師にも操ることができた脆弱な存在でも、少しのあいだに成長して、今度出したら最後、世界を滅ぼすまで暴れまくることも考えられます」 「なるほど、それは恐ろしいな…」 ドイルは大きく頷いた。「…行こう、ブライディー。 メルさんのおっしゃる通りだ。東洋には『君子危うきに近寄らず』という諺もある…」 「あの… せっかくですから占ってみて、中身が盗品だったら開けて本来の持ち主に返却し、それ以外だったらメルさんが二重に封印する、というのはどうでしょうか?」 「それは良い考えかもしれない…」 ドイルがまた頷いた。「盗品だったら、持ち主はきっと日夜『返ってきたらいいのにな』と思い続けていることだろう」 「そうですね…」 メルも渋々言った。 ブライディーはすかさずダウジングの棒を取りだし、胸の前に掲げて心を静めた。 『この中にあるのは盗品と…』 棒はすぐにそう告げた。メイドさんが『どうも盗品のようですわ』と言いかけた時、分厚い岩壁の奥からかすかな鳴き声が聞こえてきた。 (助ケテ… 助ケテヨ…) (えっ?) ブライディーは左右を見渡したが、その声はメルやドイルにはまったく聞こえていない様子だった。 (オ願イ… 優シイ オ姉チャン… 『中身ハ盗品』ダト言ッテ! ボクハ、小サイノニ『大キクナッタラ手ニ負エナクナル』ト思ワレテ、閉ジコメラレタンダ。デモソレハ誤解。 ボクハイツマデモ小サナママダ。暗イヨゥ… 狭イヨウ… ボクのコノ声ノコトヲ言ッタラ、冷酷ナ封印者タチはキット『情ケハ禁物』トカ言ウダロウ… ダカラ『中ハ盗品ダケデス』ト言ッテ…) (あなたは誰? 何という名前なの? どうしてそこに閉じこめられたの? さっきの盗賊ふうの連中に封印されたの?) メイドさんは占いを続けているふりをしながら問い返した。 (ソウナンダ。ボクハ妖精。特ニ何ノ害モ及ボサナイ妖精ノ一人ダヨ。ソレナノニ大変ナ誤解ヲ受ケテ閉ジコメラレタンダ) (うまいことを言って、わたしを騙そうとしているのでしょう? かわいい声で欺いて、いったん外に出たらまがまがしい化け物になるんでしょう? わたし、そんなお話しをいくつも読んだことがあるわ) (主、いえす・きりすとノ名ニ於イテ誓ウヨ。ボクハ絶対ニ人間ヲ傷ツケナイ。ソレドコロカ人間ヲ楽シマセテ幸セニスルコトヲ約束スルヨ!) (本当に?) (本当ダヨ。邪悪ナ魔物ハ神様ノ名前ヲ唱エラレナイノハ知ッテイルダロウ? ボクハ神様ニ恭順シタ。人間ニ夢ト希望ヲ与エル存在ニナロウ、ト…) (嘘をついてもすぐに分るんだから!) ブライディーはダウジングの棒を掴み直した。(棒よ、中にいる「自称・妖精」が真実を語っているかどうかを教えて!) 棒はかすかに震えて告げた。 『中にいる存在は真実を語っている…』 (ホラネ… オ願イダヨ…) あとはただシクシクと泣き続けるだけだった。メイドさんはゴクリと生唾を飲み込み、ドイルとメルの目を見て言った。 「中は盗品だけです。開けてください…」 「そうか、ブライディーがそう言うのなら、開けてやってもらえませんか?」 ドイルがかすかに頭を下げた。 「そうですか… ブライディーさんの占いは一度もはずれていませんし…」 メルはまた短い呪文を唱え始めた。 (中身は盗品だけじゃあない。どんなふうに言いわけしよう?) メイドさんがあれこれ考えていると、岩壁にスーッとドアくらいの長方形の筋目が入った。それはまるで、銀行の金庫室の扉のように、ゴゴゴゴと音を立てて一人でにずれ、三人がいる方向に開いた。 メルが先頭に、続いてドイルが中にはいると、そこは召使いの控え室くらいの小部屋で、宝石や骨董品と思われる壷や花瓶も油絵や彫刻、宝剣や楯などがぎっしりと詰め込まれていた。 「すごいわ! 『封印者』(シーラー)は、原則として封印した箇所の重要度と数だけがお手柄なのだけれど、この発見を認めない人はいないでしょう!」 「よかった」 ドイルはメイドさんの肩をポンポンと叩きながら言った。 いっぽうブライディーはホッと胸を撫で下ろしていた。 (よかったわ… 中に盗品が… しかもこんなにたくさん。「盗品がある」というのも嘘ではなかったんだわ。やはりあの「妖精さん」?はいい妖精さんだったのだわ) と、その時、一陣の、小さな竜巻のような強いつむじ風がどっと吹き付けてきた。 ドイルもメルもブライディーも思わず腕で顔を覆い、背けた。風はそのまま出口に向かって吹き抜けていった。 「何だ、いまのは? 盗品の陰に何かが隠れていたのか? でもそれだったらブライディーの占いで…」 ドイルの言葉にメイドさんは背筋が凍り付いた。 「いや、大丈夫でしょう」 メルはあっけらからんとして言った。「恐ろしく凶悪で邪悪なものなら、長いこと閉じこめられていた腹いせに、わたしたちを襲わずにはいられないと思います。それをやらなかった、やるそぶりも見せなかった。捨てぜりふも残さなかったということは、もともと大したことのないやつか、そういうことは思わないやつなのでしょう…」 メルの言葉にブライディーはまたホッとした。 「…これらをそのまま封印してしまわずに、元の持ち主に返したり、博物館に展示できるということは素晴らしいことですよ」 ドイルは部屋じゅうに溢れるお宝を眺め渡して言った。 「ええ、整理は魔法庁とロンドン警視庁にお任せしたいと思いますわ。…さぁ、お陰様できょうはもう何日か分の仕事をしてしまいました。いったん外へ出ましょう。デイジーさんも心配して待っておられることでしょうし…」 「そうですね。わたくし、僭越ながら心を尽くして安全で最短の道すじを占わせて頂きますわ」 「ええ、お願いしますわ」 三人は急ぎ足で戻った。 めでたし、めでたし… 「?」 横穴を出た三人は、はたと立ち止まった。 自分たちが いま出てきた洞窟の左右に同じ大きさの横穴があいている。 「はてな、メルさん、先ほどの宝物室の封印を解いたときに、ついでにこのあたりの封印を解きませんでしたか?」 「いいえ、そんなことは…」 メルは戸惑った表情で言った。 「この両隣のダンジョンも奥が深そうですよ」 ドイルはランプの明りでそれぞれの先を覗いた。 「ドイル様! メル様!」 ブライディーは悲鳴のような声を上げた。「どうした?」 「どうしましたか?」 メイドさんがぐるりと指さすあたりを見たドイルとメルも息を呑んだ。 まるで穴あきチーズのように、岩壁一面に、もちろんそれまではまったくなかった穴…横穴…洞窟…があいていた。 「これは一体どういうわけなんだ?」 「分りません。わたくしもこういうのは初めてです…」 メルは気丈に正視しつつ言った。 穴は、まるで焼き掛けのホットケーキのあぶくのように、ポコポコと増えていった。 駆け出したドイルは、目の前で開いた穴をランプで照らして覗いてみた。 「ただの穴じゃない! みんな奥が深く、枝分かれもしているようだ! ダンジョンが…ダンジョンが増えている! いや、増殖していると言ったほうがいいかもしれない…」 「いいではありませんか」メルは不敵な笑みを浮かべた。「……これで当分リストラされる心配がなくなりました!」 (まさか…) ブライディーは頭が真っ白になった。(…わたしが逃がして上げた、あの「自称・妖精」のせいでは… 「決して傷つけない」と約束したけれど、とんでもないいたずら者だったのでは…) 「とにかくいまはもう一つ一つのダンジョンを点検している時間はないし、そんな場合じゃあなくなった。一刻も早く地上に戻ろう!」 三人は走って地上に出た。背後ではまだどんどんとダンジョンが増殖をし続けている気配が続いていた。 光がまぶしい。 いままで頼りにしていたランプの灯火などあってないみたいに… 「お姉ちゃん! ドイル様!」 入口のあたりで待っていたデイジーが走り寄ってきてブライディーに抱きついた。ブライディーもまた、両手でしっかりとデイジーを抱きしめた。 「デイジー、無事だったのね! 本当に良かったわ!」 「…落ちながら脱出の呪文を唱えたの。なかなかワープできなくて、もうダメだ! と思ったけれど、何とか地面に叩きつけられる前に…」 「ブライディーさんやドイル様がちゃんと渡りきっているというのに、不器用としか言いようがありませんわ」 腕組みしたメルが唇を尖らせて言った。 「ふーんだ! どんな方法で帰ろうとあたしの勝手だもんね!」いったんそっぽを向きかけたデイジーが振り返った。「…そんなことより、いったい中で何が起きているの? 何かのっぴきならない気配を感じるけれど…」「そ、それは…」 口ごもる大きなメイドさんを制して、メルが代りに答えた。 「ダンジョンが増えているんです!」 「えっ『増えている』って、それどういう意味? 蟻やモグラが巣を…トンネルを掘り進んでいるみたいに?」 デイジーはかすかな地震のように揺れ続けている地面を踏みしめた。 「そんな感じだ」 ドイルが深刻な表情でうなづいた。 「でも… でもそれって、そんなに困ったことじゃあないしんじゃあ? 中でどんなに枝分かれしようと、この入口を封印して番人を立てればそれでいいことじゃあない?」 「それがそんなわけには行かないかもしれません」 そういう割りに、メルはにこやかに笑って言った。「この洞窟…ダンジョンの入口はここだけではありませんからね。一マイル先、二マイル向うの裏山にもありますし、出入り口自体だって増えているかもしれません」 言い終るか終らないうちに、少し先の丘の斜面に、まるでアトラスが呼吸したかのようにポコンと横穴が開いた。穴はここの斜面、あそこの斜面にポコポコと増え続けた。 「た、大したことないわよ。このあたり一面を国立公園か何かにして、全面的に立入禁止にしてしまえばそれで済むことよ!」 そう言うデイジーの顔が引きつり始めた。 「それは…難しいだろうな」 と、ドイル。 「あの…」 ブライディーがかすれた声で言った。「…盗品の中に潜んでいた『モノ』を封印しようとしていた、あの盗賊団の頭領に聞いたら、何か知っているのではないでしょうか?」 「そうだな。まだ遠くには行ってないような…」 ドイルとメルが周囲に広がる小山や丘を見渡した。 「…ふーん、そうなんだ。でもそんなにこっぴどく痛めつけたのなら、もう逃げちゃっているんじゃないの?」 ブライディーからいきさつを聞いたデイジーは眉間に皺を寄せた。「…だからぁ、そんなに極悪非道じゃあないやつは、こてんぱんにしちゃあいけないのよ。 後でその人しか知らないことを聞き出さなくちゃあいけなくなるかもしれないし…」 「そこだッ!」 メルの瞳がキラリと光ったかと思うと、手の先から数個の火球が放たれた。火球は物凄い勢いで飛びながら次第に膨らみ、とある丘の中腹に次々と命中した。丘は吹っ飛び、そこに身を潜めて様子を窺っていた盗賊団と頭領の姿があらわになった。 「貴男たち! 貴男たち一体何を封印しようとしていたのか答えなさい!」 メルは大音声に叫んだ。「せっかくの宝物を諦めてまで、一緒に閉じこめようとしたのは何なのよ?」 「へーんだ、誰が教えてやるものか!」 最初は自分が操っていたはずのコウモリたちに襲われて傷だらけになった頭領が叫び返した。 「まったくいい気味だぜ、封印者(シーラー)の姉ちゃんよ! 『あいつ』を解き放っちまった以上、イングランドじゅうに洞窟やら塔やらのダンジョンが、泉のように湧き出るだろうよ!」 「へーん、だ!」 メルはアカンベーをやり返した。「これでわたしたちシーラーは、永久に失業知らずよ! 定年もなくなるわ! どんなに年を取っても、自分で引退を表明しない限り雇い続けて貰えるし、期間契約や派遣のシーラーも入ってきて賑やかに盛り上がるわよ!」 「呑気なことを言っていられるのもいまのうちさ!」 頭領は鼻の先でせせら笑った。「…封印しても封印しても、ダンジョンは増え続ける! シジフォスの苦しみを背負うことになるぞ! …それもこれも、みんなおまえさんたちのせいだ。当然責任も問われるぞ!」 盗賊たちは「ガハハ、ガハハ…」と哄笑しながら逃げ去っていった。 「…わたしのせいなんです! みんなわたしのせいなんです!」 ブライディーは泣き出しながら打ち明けた。「…その妖精は『絶対人間を傷つけない、人間を楽しませ、夢と希望を与えます』と言って、わたしの占いでも真実を告げていると出たものですから…」 「お姉ちゃんって莫迦じゃない? それって、まんまと騙されたのよ!」 デイジーは地団駄を踏んだ。 「うむむ、それにしてもその相手は嘘はついていないような気もするが…」 ドイルは顎に手を当てて考え込んでしまった。「『人間を傷つけない、楽しませ、夢と希望を与える』…確かに、ダンジョンがそこここに出現すれば、腕に覚えのある者は探索してみようと思うだろうし、にわか冒険者も大勢…」 「まぁ、ドイル様まで! 確かにそのとんでもない妖精自身は人を傷つけないかも知れないけれど、ダンジョンの中に入った人たちが怪我をしたり命を落としたりしてしまう可能性は大いにあるわけでしょう? ちょうどあたしが吊り橋から落っこちたみたいに…」 「デイジーさん、それはネガティヴな考えというものです」 メルはあっけらからんとしていた。 「ダンジョンに入る冒険者は、たいがい自分の意思で入るものです。たとえ人に頼まれたとしても、給料というか何らかの報酬が目的で入るわけです。志願兵か雇い兵かの違いはあれ、どっちみち自己責任です。怪我をしようと死亡しようと、ほかの誰の責任でもないはずです。だからブライディーさん、貴女のせいではないと思います」 「その理屈には無理があると思うわ」 デイジーが重々しく言った。「やっぱりもともとの原因を作った人は、『知りません』じゃ済まされないでしょ?」 「…どうしましょう …わたしは、わたしはどうすればいいんでしょう?」 大きなメイドさんはその場に泣き崩れた。 「フン、泣いて謝って済むのなら、誰も苦労はしないわよ!」 と、デイジー。 「何も知らない、何もしなかったことにすればいいんです」 メルは朗らかに言った。「…『後は野となれ山となれ』 忘れちゃったらいいんです」 「うむむ… さすがに知らぬ存ぜぬでは済まされないかもしれない… …例えば、逃げ出した妖精を捕まえて、再び封印すれば雨後の筍のように出現したダンジョンを引っ込ませることができる、とか…」 「無理よ」 デイジーはそっけない。「…ダンジョンを操る妖精なら、いまごろはきっとダンジョンの奥深くにこもって、せっせとダンジョンを作り出していることでしょうよ。 どこにいるか…」 とそこまで言ってハッと口ごもった。「…ダンジョンが無数無限に増えたとしても、お姉ちゃんの占いとダウジングがあれば、居所・潜伏先は突き止められるかも…」 「そうだ! その手があったか!」 ドイルもはたと手を打った。「…あの盗賊団の頭領は、そう大したことのないやつだった。どういう経緯があったかは分らないが、彼程度の者でも封印できたのだ。居場所さえ分れば…」 「そうですね。絶対上手くいきますよ!」 メルも「うんうん」と大きく頷いた。「わたしはいったん魔法庁へ帰って報告します。…もちろんブライディーさんのことは隠してね」 「さぁ、ぼくらもいったんロンドンへ帰ろう。アレイスター君やサダルメリク君、安倍君たちに相談すれば、もっといい智恵が出るかもしれない…」 ロンドンは、いつもと変わりなかった。 新聞や、雑誌のどこを見ても「新たな遺跡や洞窟が発見された」といった記事は載っておらず、ブライディーはホッと胸を撫で下ろした。 だがしかし、一部の興味本位の夕刊新聞は、次のような記事を大きくも小さくもないスペースで報じていた。 「遺跡や洞窟で新たな通路が続々発見される? …『黄金の暁団』メイザース氏は語る。 我が国でも有数、有力な魔術・魔法研究団体『黄金の暁』の幹部、サミュエル・メイザース氏によると、最近、おそらくは何者かが特殊特別な魔術・魔法を使ったせいで、それまでは相当な実力のある魔法使い、魔導師たちがその透視眼で見ても発見できなかった遺跡や洞窟の中の、遠い過去に封印された秘密の出入り口が次々にあらわになっている、らしい… 色めき立った命知らずの冒険者たちは、入念に装備を調え、早速先を争って新たに姿を現した扉や通路に挑んでいる模様である。 『黄金の暁』や、もう一つの著名な団体『英国心霊研究協会』は『くれぐれも軽はずみな行動は慎むように』と警告を発しているが、宝物目当ての半ばシロウトの『にわか探検家』が入り込むのは避けられない様子である…」 「本当にどうしましょう… やっぱりわたしのせいですわ…」 心霊研究協会の応接間、大きなメイドさんはハンカチを握り締めながらシクシクと泣き続けていた。「その妖精… というか魔物のことは聞いたことがありますよ」 アラビア人の少年で、世界を邪神で満たすことを企んだ狂気の魔導師の末裔であるサダルメリクが言った。 「本当かね?」 ドイルは色めき立った。 「ええ。そいつはおそらく『ダンジョン・オープナー』です」 「『ダンジョン・オープナー』?」 ドイルとメイドさんたちは目を見開いた。「ええ、ぼくもどんな姿をしているどんな奴か、詳しくは知りません」 サダルメリクは穏和な表情で言った。「…ただ、神…太古の邪神や悪魔でないことは確かです。つまり、そいつ自身が洞窟や塔などのダンジョンを作り出せる創造主ではない、ということです」 「しかしぼくらの目前ででも、洞穴は増殖したように見えたし、この夕刊新聞の記事を読んでみても…」 ドイルの言葉にブライディー、デイジー、ポピーの三人のメイドさんたちも「うんうん」と頷いた。 「ドイルさんたちが行ってらした洞窟はおそらく古代人…ピクト人やデーン人やノルマン人よりももっと昔の、原始人の住みかだったところですよ。洞穴の数もおそらくいっぱいあったと思います」 サダルメリクはいつものように、香り高いモカのコーヒーを啜った。「…もともとたくさんあって、そこにはドイルさんが探しに行っておられたような壁画なども多数描かれていたし、我々が想像もつかない効能を発揮する呪具や祭具、そして誰もが欲しがる宝物なんかも隠されていたことでしょう。 しかし、それを使って悪事を働いたり、掘り出したお宝を巡って争いごとが起きるに付けて、心ある魔導師たちは『このままではいけない』と考えたのです。そこで生まれたのがメルさんのような『ダンジョン・シーラー』です。魔法使いたちはダンジョンの探索にかかりきりになっているわけにはいきません。部屋にこもって読書や執筆をしたり、自分の研究だけにいそしみたい者も多いでしょう。そこで、志望者を募って『シーラー』としたのです。 いまから何百年… いや何千年… いや、何万年前の大昔から、歴代のシーラーたちは人間の目に触れてはいけない、触れないほうがいい、手にしないほうがいいグッズがあるかもしれないダンジョンを次々に封印しました。 話が少し横道にそれますが、わが先祖、アブドゥル・アルハザードなどは、世界各地の太古の邪神が封印されているであろう場所を訪ね回って邪神たちを解き放とうと試みたものです… …善良な魔導師たちからしてみれば『世間を騒がすどころでは済まない』とんでもないことです。 探索、盗掘を試みる者よりも強力な魔術・魔法でしっかりと固く封印し、そこに扉や通路があった記憶を忘却の彼方へ押しやってしまえば、『お騒がせ』も起きないし、それを巡る争いも起きないはずです」 「ふーん、メルさんのお仕事はうーんと昔々からあったお仕事なんだ…」 デイジーは貧乏揺すりしながら言った。 「太古から連綿と続く『ダンジョン・シーラー』さんたちの地道な活動のお陰で、昔はたくさんあったでしょう危険な場所が減っていったのですね?」 と、ポピー。 「そのはずです」 「いまは科学万能の世の中だ。人々は次第に『目に見えるもの』だけしか信じなくなってきている。むかしのように本気で魔物を恐れたり、妖精の存在を信じている大人や子供も減ってきている。無理に封印しなくても、ダンジョンに興味を持つ者も、『ケービングをやろう』というごく一部の人々だけになってきている。一流の探検家たちの興味は、アフリカや中国やインドや東南アジアの秘境や奥地、太平洋や大西洋の島々、北極や南極に向いているからね」 ドイルが寂しそうに口をはさんだ。「…すぐ近く、足もとのブリタニア島にもまだまだ発見されていない、地層のヴェールに包まれている遺跡がたくさんあると思うのに…」 「だから、そんなに思い詰めることはないのです、ブライディーさん。危険なところであるということを覚悟しながら中に入る…というのは、シーラーのメルさんのおっしゃる通りあくまでもその人の自己責任です。危ないと思えば入らなければいいんです」 サダルメリクは穏やかに言った。 「…しかし… 大人はともかく、子供たちが… 子供たちがもしそのようなところに入って行方不明…神隠しに遭ったりしたら、それはみんな、いたずら妖精を解き放ってしまったわたくしの責任です…」 大きなメイドさんの言葉に、ドイルも、ポピーも、サダルメリクも押し黙ってしまった。 「でもさぁ…」 それを打ち破るように、デイジーが声を張り上げた。「…子供たちが洞窟で行方不明になったとしても、それはやっぱりその子たちの責任だと思うわ! でなければ『危ないところへは行ってはいけません! 洞窟に入ってはいけません!』と教えなかった親の責任よ!」 さすがにこの場合は若干無理のある理屈だった。 「…分りました。早速方策を練りましょう…と言いたいところですが…」 サダルメリクが口ごもった。「ぼくは『世を忍ぶ仮の姿』の古本屋が忙しいのです。みんな古い地図を買いにこられて… もともと商売が目的ではないので、臨時休業してもいいのですが、信用の問題が…」 「じゃあアレイスター・クロウリー様は?」 デイジーがドイルの顔を見て言った。 「『黄金の暁団』にダンジョンの随行を頼まれたそうだ」 「じゃあ、じゃあ、安倍君は?」 「彼も…」 「そう… こうなったらあたしたちだけでやるしかないわね!」 デイジーはレスラーのように足を踏ん張った。 「とりあえずブライディー、君が逃がしてやった自称妖精の潜伏先を占ってみたらどうだろう?」 ドイルが提案した。 「はい、もちろんそうしてみるつもりです」 大きなメイドさんは書斎のテーブルにイギリスの地図を広げ、回りをぐるりと囲むように蝋燭を立て、見る角度によってキラキラと輝いたり、輝かなかったりする、ダイヤふうにカットされた米粒ほどの小さなガラス玉の入った小瓶を用意した。 デイジーやポピーたちの手によってすべての窓のカーテンが引かれ、部屋は暗く、ただ細い蝋燭の小さな灯火だけがゆらゆらとゆらめいた。 椅子に浅く腰を下ろして、精神を集中し始めた。 一分… 三分… 五分… 十分… デイジーやポピーやドイルが固唾を呑んで見守った。 (ガラスの粒よ、どうか、どうか、あの自称妖精のいる場所を教えてちょうだい!) スッと立ち上がり、手のひらにうちあけたガラスの粒を、目を閉じて地図の上にばら撒いた。 (妖精がいる場所の粒だけ輝いて!) そして、ゆっくりと目を開くと… ガラスの小粒はほとんど全部がキラキラと輝いていた。 「えっ、どうして! なぜ!」 大きなメイドさんは取り乱した。 「どうしたブライディー? 何か不都合なことでも?」 ドイルと小さなメイドさんたちが心配そうな目で見た。 「ドイル様、デイジー、ポピー、粒はみんな輝いているように見える?」 「当たり前じゃない、お姉ちゃん。蝋燭は七、八本立っていて、四方八方から照らしているんだもの」 「ドイル様も?」 「ああ、そのように見えるな」 「ポピーも?」 ポピーは小さく頷いた。 「…どうしましょう… わたしの占いが通じませんわ。…いままでこんなことは一度もなかったのに…」 大きなメイドさんはさらに顔をくしゃくしゃにした。 「えーっ!」 「えっ!」 デイジーは派手にのけぞり、ドイルとポピーは息を呑んだ。 「そんなことって…」 「泣くなブライディー! まだ手段はある!」 「どんな… どんな手だてが…」 「あのコウモリを操る葦笛を吹く盗賊団の頭領の居所を占うんだ! 奴がその妖精を閉じこめたかどうかは分らないが、何か知っているに違いない!」 「そうよ! あのお宝を諦めてまで一緒に封印しようとしてたんだから…」 デイジーも大きく頷いた。 「やってみます」 ブライディーは地図の上に散らばったガラス玉の粒を手のひらで集め、一粒だけ残して元の小瓶の中に詰め戻した。 再び眼を閉じ、その一粒を下手から投げた。 粒はころころと渦巻きを描くように転がって、ちょうどロンドンの上で止った。 「ツイてるぞ! やつはいまロンドンにいる! …デイジーにポピー、屋敷じゅうのロンドンの地図を持ってくるんだ!」 「はいっ!」 二人の小さなメイドさんは部屋を出て、廊下の左右に散っていった。 「これがいいかも…」 デイジーは玄関の壁にピンで貼られた地図を取り外し、クルクルと巻いて持ち帰った。 ポピーは折りたたまれた地図を手のひらで伸ばしていた。 ブライディーはもう一回、ガラスの粒を投げた。粒はキラキラと輝きながら、ソーホー街の怪しい宿屋や古物商が集まっているあたりで止った。 「ソーホー街! いかにも、だな」 ドイルは小さく頷いた。 「でもどうします? このあいだみたいに、まともに尋ねても、きっと教えてくれないわよ、きっと…」 と、デイジー。 「大丈夫だ。ここはわたしに任せて欲しい」 ドイルは胸を張った。 その日の夜、派手な背広に金ぴかの懐中時計など、いかにも「その筋」といったいでたちに、パテやドーランで品のない顔に変装したドイルが、胸をはだけたドレス姿に、これまた顔を変えたブライディーを引き連れて、ソーホー街のうさん臭い酒場に乗り込んだ。「は、恥ずかしいですわ、ドイル様」 「シッ、その名前は呼ぶな、と言っただろう?」 「は、はい。すいません…」 二人はプンプンと安酒の匂いと、脂っこい料理の匂いが漂い、煙草の煙で霞のかかったテーブルのあいだを進んだ。 「で、やつはどこだ?」 「はい」 ブライディーはペンダントに見せかけたケーキ用フォークほどの長さの銀の棒をソッと取りだした。 両手の手のひらに包んで棒をかざすと、棒はかすかにくるくると動いた。が、それはいくら待っても止らなかった。 「おかしいですわ。…どうして止らないでしょう…」 ブライディーは焦り始めた。 「場所が場所だから落ち着かないのかな? もう少し静かなところでやってみようか?」 「いえ、それは関係ないみたいです」 「そうか、じゃあ一回外へ出てみよう。新鮮な空気を吸えば…」 「ええ」 ドイルは、およそ似合わないけばけばしいドレスを着て派手な化粧をしたメイドさんをかばうように促した。 「出口は… …おかしいな、ぼくらは確かにこっちから来たはずなんだが…」 その「来たはず」の通路は見つからなかった。建て増しにつぐ建て増しを重ねた怪しい酒場兼あいまい宿は、古代人の洞窟とは雰囲気が違うだけのラビリンスだった。 そこここの小部屋から女の嬌声や酔っぱらいが怒鳴るが怒鳴る声が聞こえてきた。 「よう、ねぇちゃん、そのおっさんが気に入らねぇんなら、俺とどうだい?」 いやらしい笑みを浮かべた男に身体を触られてブライディーは「キャッ!」と悲鳴を上げた。 「貴様、何をする!」 ドイルは男を思いきり殴り倒した。 「お客さん、喧嘩は困りますよ」 たちまち鋭い目つきの男たちが集まってきた。その中には、見覚えのある者もいた。 「ああそうかい。すまなかったな。外へ出たいんだが、帰り道を教えてくれるかい?」 「それは愛想がない。せっかく来て頂いたのですから、ぜひあちらのカジノで遊んでいって欲しいですね」 「あいにくだがぼくは賭け事には興味がないんだ。…ブリジット、出口は?」 「それが… それが…」 ブライディーは棒を握り締めて泣き出しそうになっていた。 「そうか… 調子が悪いんだな。では…」 ドイルは懐から何枚かのソヴリン金貨と、予め描いてきた盗賊団の頭領の似顔絵を出して用心棒たちに示した。 「…実は… ぼくたちは遊びに来たんじゃあないんだ。この男を捜している。知っていたら教えてくれないかな?」 「チップは有難く頂きますよ」 用心棒は金貨をひったくった。「…ですが、ご希望には添えませんね。ここでは、個々のお客様の秘密はとても大切なんでね」 代って手下たちがズイッと迫ってきた。 「お客さん、警察(サツ)か探偵じゃあないですかい?」 (もはやこれまで!) ドイルは変装をかなぐり捨てると、目にも止らない素早さで、先頭の三人の用心棒たちをアッパーカットやストレート、みぞおちへの強烈なパンチで倒した。 ところが騒ぎを聞きつけた新手の用心棒たちが腕まくりをしながらわらわらと集まってきた。 「構わねぇ、簀巻きにしてテームズ川に沈めちまぇ!」 さすがのドイルも多勢に無勢、絶体絶命と思われた時、一人の小柄な人影が疾風のように現れた。 「メルさん!」 「どうしてここが?」 「心霊研究協会で留守番をしていたデイジーちゃんに聞いたんです。ここは引きましょう。雑魚に構っても得るものはありません」 「なんだと、この女(アマ)!」 襲いかかってきた用心棒たちをスカートの裾を翻らせながら蹴り崩し、あいだをかいくぐって走り出した。 「メルさん、わたしの占いが通用しないんです!」 「ええ。連中は貴女の得意を知ったのでジャミングをかけてきているんです」 「逃がすな!」 立ち止まり、追いかけてきたヤクザ者たちのほうを振り返ったメルが両手の手のひらをかざし短い呪文を唱えると、たちまち何もなかった空間に分厚い壁が現れた。 向う側からはドンドンと叩く音や罵るような声が響いていた。 「有難うメルさん」 「いえ、いいんです、ドイル様。わたしもあの頭領とはもう一度話をしたかったんです」 埃をはたくメル。ブライディーは (わたしもメルさんみたいに強かったら…) と唇を噛んだ。(…ジャミングをかけられただけでダメになってしまうような占いだったら、ほとんど価値がないじゃない…) 「がっかりすることはないですよ、ブライディーさん。だいたいの居場所が分るだけでも大したものです」 メルは励ますように言った。 「でも、せっかくここまで来て…」 「用心棒の中に奴の手下たちが混じっていたことを見ると、近くに隠れているんじゃあないだろうか?」 と、ドイル。 「ですよね。そう思って見覚えのある顔の服にこの雌を付けておきました」 メルは一匹の黄金虫を取りだした。 「これは雄で、雌を追いかけるはずです」 「おおっ、これなら!」 「占いがだめでも居所を突き止められそうですわ!」 「コラッ! あれだけおまえたちは出て行くな、と口を酸っぱくして言っただろう?」 隠し部屋では盗賊団の頭領が頭から湯気を立てていた。 「しかし、おかしら。やつらが…」 「おまけにつけられやがって!」 「えっ?」 手下たちが振り返ると、そこには棒の先に糸でくくった黄金虫を手にしたメルと、ドイルとブライディーが立っていた。 「お、おまえらどうして? ダウジングによる占いの術は封じてあるはずなのに…」 「ふふふ、わたしたちを甘く見てはだめよ」 メルが糸をちぎると虫は子分の一人の襟に付いていたもう一匹のところへと飛んでいって重なった。そいつはあわてて二匹の虫をた叩き潰した。 「も、申し訳ありません、おかしら!」 「さて、おまえたちが盗品とともに永遠に閉じこめようとしていたもののことについてお伺いしようか」 ドイルがスックと歩み出た。 「聞いてどうする? いまやイギリスじゅうの魔導師魔法使い、冒険家探検家…それも一流どころから、きのうきょうなったやつまで国じゅうのあちこちにできたダンジョンに興奮して色めき立ち、喜んでいる。何をしたらいいか迷っていた若者たちは目的を見つけ、年配の者は好奇心と若さを取り戻していている。…結構なことじゃないか。シーラーのおまえも未来永劫仕事が無くならなくて嬉しいだろう?」 「お願いです! 教えてください!」 ブライディーは深々と頭を下げた。「…このままでは危ないです! ダンジョンに挑戦した本人は、怪我をしても、万一のことがあっても覚悟の上でしょうが、残されたご家族やお友達の悲しみを考えると、このままにはしておけません…」 「嫌だね! 何度も言うが、どうして俺様をひどい目に遭わせた連中に教えてやらなければならないんだ?」 手下たちも「そうだ、そうだ」と頷いた。 「やむを得ない。こうなったら捕まえて前科から何から厳しく取り調べてもらおう!」 ドイルがさらに迫ろうとすると、頭領が 「フンだ! ここで捕まりゃ百年目だ!」 と捨てぜりふを残し、どんでん返しになった壁をくぐって逃げ出した。 「待て!」 ドイルもメルも、ブライディーもすかさず後を追った。 そこは、ソーホー街の館の地下とは思えないくらいの迷路が広がっていた。 下に降りる石の階段だけでも十以上、扇状に広がり続いていた。 「へへーん、占いが通じなければ追ってはこれないだろう。ざまを見ろ!」 下から嘲る声が響いてきた。 「何だこれは? 幻か? 幻影なら本物は一つだけだろう! そもそも、ロンドンの町の真ん中にこんなものがあるはずがない!」 「待って下さい、この迷宮はすべて実体、現実です!」 力むドイルをメルが制した。 「何だって! そんなことがあるはずがない! メルさん、君だって知っているだろう。ロンドンの地底には地下鉄が走っているし、上下水道だって…」 「もちろんそういう意味では現実ではありません。何者かが次元をねじ曲げて存在させているのです!」 「すると追うのは?」 「ブライディーさんの占いが通じず、デイジーさんを外で待たせている以上、追うのは危険です! わたしの力をもってしても、二度と戻れなくなるかも…」 「くそぅ…」 「へへへ… ざまを見ろ!」 迷宮の底深くからこだまが響いてきた。 「申し訳ありません! お役に立つつもりが逆に足を引っ張ってしまって…」 ブライディーはまた泣き出しかけた。 「『逆』… そうだ、逆なのかもしれない!」 ドイルがハッと目を見開いた。 「何か思いつかれましたか?」 メルは下へと続いている階段を片っ端から封印しながら尋ねた。 「…ぼくらは普通、洞窟などのダンジョンを探検している時、無数に枝分かれしていて迷宮になっていると『困った、どうしよう、印しをつけながら進もうか、地図を描きながら進もうか』いろいろと考える。だけども、犯罪を重ねている後ろめたい連中は、官憲に追われた時など『もっと入り組んでいたらいいのに』とか『追っ手が二の足を踏むくらいの迷路だったらいいのに』と願うだろう。 あの頭領も願ったのだ。強く、とても強く… 『逃げおおせたい!』 と… 奴は魔力的には大したことはないやつだが、召喚することに成功したんだよ『ダンジョン・オープナー』の妖精を… たまたま波長が合っただけかもしれない…」 「そうですか! そうだったのかもしれませんね!」 メルはポンと手を打った。 「でも、でもそれだったら…」 ブライディーはさらに悲しそうな顔になった。「…『ダンジョン・オープナー』は探し出すものじゃなくて、召喚するものとしたら、どのようにして呼び出せばいいのか分りません。サダルメリクさんのご先祖であるアブドゥル・アルハザードが著した『死霊秘法』などに書いてあるのでしょうか?」 「…そうですね。『無削除版』なら書いてあるかもしれませんね」 ところは同じくソーホー街。怪しげな店とはさほど離れていないところ、サダルメリク・アルハザードの古書店を一同は訪れた。「アラビア語」の本、というのは、いわゆる本の姿をしたものもあれば、巻物の姿をしたものもある。壁という壁を埋め尽くし、天井まで届く本棚にビッシリと埋った本を背にして、アラビア人の少年は小首をかしげた。 「えっ、書いてあるのですか!」 「それなら話は早いかもしれないな」 メルも、メイドさんたちも、ドイルも顔をほころばせた。 「…ちょっと待ってください。実はぼくが持っているのも完全版ではないのですよ…」 細い階段を上がったところにあるこじんまりとした店主の部屋、サダルメリクは手が届く高さにある本棚からボロボロの革表紙に、すっかり黄色ばんだ羊皮紙が分厚く綴じられている本を抜き出した。 「そんなところに置いてあるのか。ずいぶんと不用心なんだな」 この部屋は初めてのドイルはあたりを見渡した。アラジンのランプではない、ごく普通のランプ。ペン立てにインク、帳簿にノート類、特に奇怪でオカルティックなものは見あたらない… 「ええ、まぁ… 大丈夫なのですよ」 褐色の指先がゆっくりとページを繰り続けた。デイジーとメルは両脇から覗き込むと、みみずがのたくったような文字がぎっしりと書き込まれているあいだに、不気味な記号や図版が書かれていた。 「…残念ながら、ぼくのこのヴァージョンには書いていないようです」 彼はメルに本を渡して言った。メルはところどころ開いてみては食い入るように眺めた。「メルさん、読めるのですか?」 ブライディーは感心したように尋ねた。 「いえ、さっぱり」 「なーんだ、紛らわしいことしないでよ!」 デイジーは眉間に皺を寄せた。 「完全版はどこに所蔵されているのかな?」 ドイルが尋ねた。 「完全に近いものが何冊かあるらしいです。 ヴァチカンの禁書の書庫、大英博物館、アメリカはハーバード大学のワイドナー図書館、同じくアメリカのロードアイランド州のにあるミスカトニック大学の図書館の、ともに禁書の書庫にある、と噂されていますが…」 「ヴァチカンの分を、何とかシスター・セアラ様にお願いして…」 「だめだよブライディー、ヴァチカンの禁書書庫は法王猊下か、枢機卿でないと入れないと思うよ」 ドイルがたしなめる。 「ではどうすれば?」 ブライディーがまた泣き出しそうになった。「魔法庁にないかどうか、当ってみたいと思います」 メルが決然として言った。「…この世に何冊かある本なら、必ず魔法庁の蔵書の中にもあるはずです。…完全版かどうかは分りませんけれど… 要は、完全版でなくても、『ダンジョン・オープナーを召喚する方法』が書かれていれば…」 言い終わるか終らないうちにメルは階段を駆け下りていった。 「…何とかシューティング方法が分ればいいんですが…」 サダルメリクは別の本を開いてページを繰った。「…姉上だったら知ってそうですが…」 「アルテアさんですね」 と、ブライディー。 「あの人も性格が良くないから、知っていても教えてくれそうにないわ」 デイジーがむくれる。 「うーむ、どちらかと言うと、うしろめたいことをしていて身を隠す必要のある連中が関わりやすく、我々のように青天白日の人間には見出しにくい、ということなら、正しくない者を頼りにするしかないが、そういう者に借りを作ってしまうのもなぁ…」 しばらく考え込んでいたドイルが、ゆっくりと口を開いた。「…こうなったら仕方ない。ブライディー、失礼なこととは思うがメルさんの居所を突き止めて追うんだ」 「魔法庁に乗り込むの? やったぁ! あたし、一度でいいから魔法使いたちの本拠地に行ってみたかったんだ!」 デイジーが腕まくりした。 「いや、魔法庁のある場所も秘密中の秘密だろう。占ったところで多分分らないと思うし、メルさんに迷惑もかかる。メルさんはおそらく魔法庁で『ゲート・オープナー』の召喚方法を知るだろう。だから、『魔法庁を出た後』の彼女の居所が分れば… ま、大なり小なり迷惑をかけることに変りはないのだが…」 「分りました、さっそく…」 大きなメイドさんはアラビア語のメモが散らかった小さなテーブルの上にロンドンの地図を広げた。 その時、カランカランと小さな鐘が鳴った。 階下へ降りていったサダルメリクは一通の電報を持って戻ってきた。 「大変です。知り合いの幼い兄妹が出現した洞窟の中に迷い込んだらしくて行方不明だそうです… すいませんがぼくは救出に向かいたいと思います」 「ああ、気をつけて。こちらはぼくらだけで何とかする」 ドイルはキッパリと言った。 ブライディー、デイジー、そしてドイルの眼前には、奇妙奇天烈な形の、壮大な屋敷が建っていた。 一つ一つ、窓の形と大きさが違う。壁の色も材質も、数平方フィートごとに違う。五階建てなのか六階建てなのか、八階建てなのか、位置によって建物の高さが違う。ところによって二階は途中から三階になり、三階は五階につながっている。もっとも高いところは塔のようになっていて、その塔の形もゴシックふうあり、バロックふうあり、ロマネスクふうありといったように違っていた。 建物の外壁には、非常階段のつもりなのだろうか、あらぬところからあらぬところをつなぐ階段や螺旋階段、梯子が付いている。 一口で言うと、どう考えても正常な精神の持ち主とは思えない大金持ちが、芸術家気取りでか、もしくはからくり屋敷のつもりで建築した館だった。 「ドッジソン先生がご覧になったら喜ばれそうだわ…」 デイジーはポカンと開いた口が塞がらないままつぶやいた。 「数学と建築学において天才的な業績を残した、ある大貴族が建てたものらしい… 彼は晩年『誰も最後の部屋にたどり着けないからくり館』を建築することに夢中になった。 …これがそうだ。 一族は『その程度の酔狂で気が収まるのなら…』と好きにさせていたそうだ。それだけ桁外れの財産があった、ということだろう… 大勢の大工や左官が国の内外から呼び集められ、設計の秘密を守るためにそれぞれ数日で暇をとらされたそうだ…」 「その大貴族のかたは魔術や魔法はできなかったのですか?」 ブライディーが尋ねた。 「それは分らない。こんな館を建てようと思い、実際に建ててしまうような人物だ。おそらく数秘術などにも興味を持ち、本を読むくらいはしていただろう…」 「すると、吊り天井や槍ぶすま以外にも、恐ろしいものが出てくる可能性もあるのですね?」 「ハッキリ『化け物がでるかもしれない』と言ったらどうなのよ、お姉ちゃん?」 「ああ、それはないとは言い切れない…」 ドイルは拳銃に弾丸を装填した。 「大貴族は、むかしのかたなのですか?」 「ああ、百年以上も前のな。この屋敷の中で行方不明になり、生き続けているものか、死んでいるものかも不明だ。この館は数十年前にメルさんのようなダンジョン・シーラーによって封印され、次元の隙間に押し込まれて常人の目からは見えないようにされた。だが、貴族本人も遺体も見つからなかったそうだ。それがいまになって再び姿を現した、ということは…」 「わたくしのせいですわ…」 ブライディーはまた泣き出しそうになった。「…とにかく、メルさんがこの中にいるのなら、『ダンジョン・オープナー』もここにいるのだろう。われわれは彼女の足を引っ張らないようにして、エセ妖精を封印するのに力を貸すべきだ。…さぁ行くぞ!」 「大丈夫、万一の時はあたしの『脱出の呪文』で撤退すればいいだけのことだから」 「このあいだみたいに、吊り橋から落ちて、自分一人だけ早々とリタイアしないでね」 「お姉ちゃん、意地悪を言うと助けてあげないわよ。ここんところ占いが通用しないんでしょ? だったらただのメイドさんに過ぎないんでしょ?」 「仲間割れをしている場合じゃない! ジャミングが解ければブライディーの占いだって復活するかもしれない。時々試して見るようにするんだ」 「わかりました」 三人がポッカリと暗黒の口を開けた正面玄関に進もうとすると、探検用の服や古い軍服を着て、肩から輪にしたロープやライフルを掛けた数人の男たちと鉢合わせした。 「あなたたちは何者だ?」 「見ての通り、この館を探検するのさ」 男たちの中のリーダーらしき男が胸を反らせて言った。 「この建物も地所も私有地だぞ」 「ああ分っている。だけどもこれは、まともな人間は誰も近寄らねぇ、近寄ろうとも思わねぇ幽霊屋敷だ。俺たちゃ度胸だけは自信があるから、お宝を頂こうって寸法さ。…百年間も姿を消していた館。きっとお宝もずっとそのままに違いない!」 「危険だから止めるんだ。ここはとても素人の手に負えるようなところじゃない!」 「ほぅ、じゃああんたらはシロウトじゃねぇ、って言うのかい?」 「この子たちは魔法が使える!」 「じゃああんたは?」 「…ぼくは…魔術魔法、超能力や超常現象に興味は持っているが、残念ながらぼく自身にはそういった才能は何もない」 「じゃあ俺たちと一緒じゃねぇか、ズルいぞ!」 男たちはいきり立った。 「ブライディー、デイジー、行くんだ! このかたたちはぼくが食い止める」 「しかしドイル様!」 「早く行くんだ! 行ってメルさんと合流しろ!」 ドイルの言葉に背中を押されるようにして、二人は館の中へと入った。 玄関のホールでブライディーとデイジーはピタリと立ち止まり、唖然として動くことが出来なかった。 「上に上がる階段」…それも、急なものが二、三本、ゆるやかなものが三、四本、螺旋階段が四、五本… まちまちな角度でそれぞれの階上へと伸びていた。「下…地下に降りる階段」も同じくらい… 奥へと続く通路も何本もあり、それぞれ先でさらに複雑に枝分かれしていた。 「お姉ちゃんどうしよう? とてもじゃないけれどダウジングの占いでもできない限り先へと進むことはできないわ」 デイジーは顔を引きつらせた。 「…でも、メルさんはこの中に… ということは『ダンジョン・オープナー』も…」 「彼女のことだから出鱈目、やみくもに進んでいるんじゃあないかしら?」 「そんなんじゃあとても…」 ブライディーは考え込んだ。 「入口で鉢合わせした『にわか探検隊』の人たち、感じが頭領と盗賊団に似ていたと思わない?」 「お姉ちゃん、何をいまさら…」 デイジーは眉間に皺を寄せた。「…山師はみんなあんな顔をしているのよ。合衆国の大統領だったリンカーン閣下も『善良にしていれば善人の顔になるし、悪いことを考えていれば悪人顔になる』みたいなことをおっしゃっていたでしょう? 雰囲気だって…」 「デイジー、『ダンジョン・オープナー』は居場所は定かではなく、召喚するもの、なのよね?」 「ええ、そうよ」 「…もしか… もしかして… 何か悪事を働いていて、警察や不義理をした仲間に追われていて、『どこかに逃げ込んで隠れて、ずっとそのままでいられる場所があったらなぁ』と強く願っていて、なおかつ暗くて狭いところも平気な人が、『ダンジョン・オープナー』を呼び出せる、のじゃあないかしら?」 「そうかもしれないわね。このからくり屋敷だって、あいつらが異世界から召喚したのかも… でも、だったら何だと言うのよ?」 「『古代人の洞窟』で会った盗賊団の頭領は『ダンジョン・オープナー』を閉じこめ…封印した。…ということは、『頭領は出会った』のよ」 「だったら?」 「偽妖精は、自分を封印しようとした頭領を、ソーホー街のお店で、地下に迷路を延ばして再び助けている。『恩を仇で返そうとした奴を再び救っている』のよ」 「考えてみれば莫迦なやつよね。そんな人に義理立てする必要なんかないのにねー」 デイジーは一人で憤慨していた。「…まぁしかし、雌鳥や雌牛みたいに、餌をあげていたら卵を産んだり、お乳を出したりするようなものよねー」 「それよ! …間違っているかもしれないけれど『ダンジョン・オープナー』は、本物の妖精たちみたいに、人間より古くからいるものじゃあなくて、『人間の…それもあんまりいい人じゃあない人が、心の中で作り出したものが現実化して、勝手に動き回っているもの』じゃあないかしら?」 「ええっ!」 メイドさんたちはドイルと、「にわか探検隊の胡散臭い男たち」が小競り合いを続けている入口に戻った。 「ドイル様! ドイル様!」 「どうしたブライディー、先に行ったんじゃあなかったのか?」 「ドイル様、この人たちにも入ってもらいましょう!」 「えっ、どうしたんだ急に?」 「あの… 賑やかなほうがいいし、はかどるかもしれないと思うんです。…お宝は見つけたもの勝ち、ということにして、できるだけ協力したほうがいいのでは?」 「エヘヘ… お嬢ちゃんいいこと言うじゃあないか! そうこなくっちゃあな!」 「探検隊」とは出で立ちだけのヤクザ者たちは肩をいからせながら勇躍なかへと入っていった。 ドイルは大きなメイドさんの目をジッと見つめた。 「いいのかブライディー、何か考えがあるんだな?」 「ええ。ドイル様。わたしたちも後を追いましょう! …いえ、彼らのあとは追わなくてもいいんです」 「分った、行こう! …デイジーも頼むぞ。万一諦めて脱出する時は君の力が必要だ。…このあいだみたいに一人で吊り橋から落っこちないでくれよ」 「もう、ドイル様ったら、そのことばっかり…」 デイジーがお多福のように頬を膨らませて、三人にやっと笑みが戻った。 「占いは相変わらず通用しないんだな?」 いくつもの分かれ道の前で立ち止まったドイルが尋ねた。 「ええ。でも勘は効くんじゃあないかと… …それに、わたくし、『道』はどの『道』を選んでも一緒のように思えてきました」 「えっ、それは一体どういう意味よ、お姉ちゃん?」 「だから『ハンプトン・コート』の庭園迷路や、遊園地の『からくり迷路』みたいに正解の道順がある訳じゃあなくって、迷路は建物の壁を覆う蔦のように、最初から『たどりつくべき場所』なんかないのよ、きっと…」 三人が選んだ廊下は、珍しくまっすぐで分かれ道もなかった。 「なんか、怪しいわね」 肩で風を切って先頭を歩いていたデイジーの顔の一インチ前をヒュゥと音を立てて槍の穂先がよぎった。 「危ないッ!」 彼女の両脇に回り込むように駆け出したドイルとブライディーを狙って、別の、数本の槍がシュッシュッと、両側の壁から飛び出してきた。 そのどれもが、誰にも刺さらなかったのは僥倖というか、奇跡に近かった。 「大丈夫か?」 「ええ。何とか…」 ブライディーはジャングルの樹木のように交差した槍の柄をまたいで抜け出しながら答えた。 「そう言えば…」 デイジーはまっ青になりながらうそぶいた。「…何かにちょっとつまづいたような気がしたけれど、気のせいのね」 後の二人はホッと溜息をつきながら肩を撫で下ろした。 突き当たりの部屋は、また新たな迷路で、壁という壁に鏡が張られていた。 「やれやれ、これはまさしく遊園地の迷路だな。ブライディー、君も『お兄ちゃん』と行ったことがあるだろう?」 「えっ、ええ…」 大きなメイドさんは少し頬を赤らめる。 「恋人同士が一分でも長く一緒にいられるように、という趣向だな。まさしくこれは…」 鏡は三人の姿を、ものすごく太ったように、あるいは非常に痩せたように、またかなりいびつに映しだした。デイジーはそんな鏡に向かって百面相をして見せた。が、鏡の中のもう一人の自分は、まったく違う表情をして見せた。 「お姉ちゃん、ドイル様!」 自分は鏡を指さしているというのに、鏡像は「あかんべー」をし続けていた。「…例の妖精が…『ダンジョン・オープナーがいるわ!』 「何だって! どこだ?」 ドイルもブライディーもあわててきょろきょろしたものの、目に見えるのはグロテスクに歪んだ自分たちの姿だけで、デイジーの姿はなかった。無理に突破しようとしても、鏡に弾かれてしまった。 「よせっ、ブライディー、怪我をするぞ!」 「ドイル様もお気をつけて!」 デイジーは鏡に映ったあやかしと、にらみ合いを続けていた。 「あんた、『ダンジョン・オープナー』でしょう? いい加減で『おいた』はやめなさい!」 「『おいた』…ああ、『いたづら』のことだね。ぼくは悪いことなんか何もしていないよ!」 「何を言うの! みんなが迷惑をしているでしょう? 子供たちも危ない目に遭って、親ごさんたちは心配するし…」 「とんでもない。みんなハラハラドキドキして楽しんでいるよ。たまーに宝物を見つけたやつなんか、大喜びさ!」 「冗談じゃないわ! さっき串刺しにされかけたわよ!」 「『串刺し』? はて、そういうのもあったかなぁ…」 鏡の中の、もう一人のデイジーは首をひねった。 「人の姿を真似たりしないで、せめて正体を見せなさいよ、この卑怯者!」 「ぼくにはみんなが…君たちも含めて…ワクワクしているように見えて仕方がないんだけどなぁ…」 「勝手なことを言わないで!」 「だってさ、庭園の迷路や、遊園地のお化け屋敷やビックリハウスとか、木戸銭を払ってまで入るんだぜ、人間は。『ダンジョン大好き』って顔でね。君の『お姉ちゃん』とやらのお陰で、ぼくは自由を得させてもらったから、恩返しをしているだけじゃないか」 「言わせておけば… もう許さない! あたしの『力』は別にダンジョンから一瞬に脱出することだけが能じゃないのよ。『目には見えない壁を開けることもできる』んだから…」 デイジーが両手の手のひらをかざすと、二人を隔てている壁が小石を投げた水面のように波紋を立てはじめた。 「おっと、ヤバいぜ。アバヨ。君にはさっさと外に戻ってもらうことにするよ」 「そんなこと言うんだったら、意地でも逃げ出さないから!」 デイジーは波立つ鏡の中に素早く右手を突っ込んだが、間一髪のところで相手はそれをかわして逃げ出した。 「おっとっと…」 前につんのめったデイジーがハッと回りを見渡すと、そこは太陽がさんさんと輝く緑の芝生の上だった。 「あわわ… し、しまった… 『一日一回こっきりの術』を使ってしまった…じゃなかった『使わされてしまった』わ!」 小さなメイドさんが振り返ると、そこには『歪んだ館』がうねうねと、まるでゼリー細工の巨大なお菓子のように蠢いていた。 「…お姉ちゃんやドイル様はきっと怒っているわよねー 『吊り橋』の時と違って勝手にいなくなった、と思っているかも…」 「デイジー! デイジー! どこへ行っちゃったの?」 鏡の迷宮でブライディーは、丸や楕円や四角や三角など、さまざまな形に映った自分の顔に辟易しながら走り回っていた。 それだけにドイルと再会したときは思わず目尻が下がった。 「ドイル様! …デイジーが…」 「こんな有様だ。はぐれてしまったのかもしれない… デイジーはピンチに陥っても脱出できるから大丈夫だろう」 「まったくあの子ったら! 本当の本当に肝腎な時に全然役に立たないんだから!」 プンプンしているとドイルが手を差し伸べてきた。 「これからは作戦を成功させるまではずっと手をつないでいよう。でないと危ないぞ!」 ドイルの手は、特に暖かくも冷たくもなく、ごつくも華奢でもない、ごく普通の男の手だった。が、メイドさんは主我が頬を赤らめて顔を伏せた。 しばらく行くと、廊下のあちこちにぽこぽこと不定形の穴が開いていた。 「落とし穴…のようだな。…こんなことならあの男たちみたいに、ロープや何やらを持ってくれば良かったかな…」 慎重に縁にしゃがんだドイルがランプで底を照らしてみた。 すると、鋭い穂先をギラギラと輝かせた槍が、何本も植わっていた。 「…『作られたダンジョン』とは言え、こいつは本気だな。おまけに悪趣味なことこの上ない…」 (もしも万一、デイジーが落ちていたら…) 口には出さないものの、二人は顔を曇らせながら一つ一つ覗いて回った。 「あっ!」 ドイルは自分に続いて穴の底を覗こうとしたメイドさんの顔を力ずくでそらせた。 「君は見ないほうがいい! 先ほどの、にわか探検隊の一人が…」 「すると、ついに犠牲者が出たのですか? …わたくしのせいですわ…」 「気にするな。メルさんも言っていただろう。『欲と道連れで入る人は、みんなその人の責任だ』って…」 「しかし、もしも子供たちが入って…」 「いまごろはサダルメリク君がきっと助け出してくれているさ。彼は『伝説の大魔導師の末裔』だからね」 「え、ええ…」 しばらく進むと、廊下の先に槍ぶすまが放たれた格子があって、ドイルがまたメイドさんの顔をそむけさせた。 「ま、またどなたかが…」 「ああ、幸い…などと言うと語弊があるが、また先ほどの連中のメンバーだ」 「『ダンジョン・メーカー』のニセ妖精は、あまり『良い人』とは言えない人たちとは言え、人の命を奪って楽しんでいるのでしょうか?」 「ああ、『ダンジョンの中にあるかもしれない…ないかもしれない、お宝目当ての欲望にまみれた魂』を、ダンジョン生成のエネルギーにしているのかもしれないな」 「それでしたら、なおのこと一刻も早く何とかしないと、犠牲者は増え、国じゅうのダンジョンも増殖するばかりですわ。メルさんたち『ダンジョン・シーラー』のかたがたにも多大な迷惑を…」 「ああ、そうだな」 手を繋いだ二人は、上がっているかも下がっているかもよく分らない廊下や階段を進み、右に曲がり、左に曲がり、直進した。ドイルは次第にメイドさんの手を取って引っ張っていた。 「こんな、でたらめな進みかたでいいのでしょうか?」 「そんなことを言っても、君のダウジングが通じず、『辿り着くべき目的地…終着点はない』と言うのだから仕方ないだろう」 目前は壁の行き止まりになり、その壁の一番下の隙間からは、まだ固まっていない赤い血が流れ出していた。 「キャーッ!」 メイドさんは悲鳴を上げた。今度はドイルも目を背けさせる間がなかった。 「デイジーやメルさんだったらどうしましょう?」 「大丈夫だよ、ブライディー。またさっきの連中だ。全部で四、五人…いや、五、六人はいただろう?」 「そうでしょうか?」 ドイルは床に這いつくばって隙間から覗いてみたものの、もちろん確かめることはできなかった。 迂回してしばらく進むと、また行き止まりだった。ただ、天井近くの壁に子供か小柄な大人ならすり抜けられそうな換気口のような隙間があった。 「どうもだめなようだな…」 踵を返そうとした二人の前で壁がバーンと落ちてきた。 「やれやれ、潰されずに済んで良かったな…」 「ドイル様、どうしましょう?」 「ブライディー、君があの隙間をすり抜けて行くしかない」 「しかしドイル様は…」 「それしかない。さぁ、わたしが肩車をするから早く! どっちみちわたしはあそこをすり抜けることはできない。早く行ってメルさんを見つけ出して合流し、二人で『ダンジョン・メーカー』を封印して、助けに戻ってきてくれ!」 「分りました。失礼します」 ブライディーは眉を引き締めるとしゃがんだドイルの肩に乗った。ドイルは壁に手をつきながらゆっくりと立ち上がった。ブライディーはそろそろとドイルの肩の上に立ち上がって隙間に顔を突っ込み、腕で這いずって前に進んだ。 「ドイル様、行って参ります!」 「ああ、気をつけてな!」 数分…いや、十数分這って(もしかしてこの穴は物凄く長い穴だったらどうしましょう… 今さら後ずさりもできないし…)と不安に押し潰されそうになった頃、ようやくはるか先に針でついたような明りが見えた。 猛然と這うスピードを上げて進むと、ようやく外への出口の前に出た。 (「出口」? 出てしまったらだめじゃないの…) 恐る恐る外を覗くと、吹き飛ばされそうなくらいの強い風が吹きすさんでおり、目もくらむような高さで、ところどころ白い雲がかかっていて地上がどこなのかも定かではなかった。 (わたしたち、 こんな高いところに登ってきたのかしら? そんなに登りの階段を登ったような覚えもないのに…) 出口からは上に登る梯子と、下に降りる梯子がかかっていたが、ともに安っぽい木製でデイジーが落ちた吊り橋のように、半ば腐りかけているのが見て取れた。 メイドさんはごくりと唾を飲み込んだ。 (…でも、行くしかないわ…) 上にしようか下にしようか迷った。 (ああ、占い…ダウジングが効かないのがこんなに不便だなんて… 逆に言うといままでどんなにか助けられてきたことでしょう…) と、その時、「ギャッー!」という男の悲鳴とともに、いかつい人影が真っ逆さまに落ちてきた。思わず顔をひっこめた目の前を人影がかすめ、見る見る小さくなっていった。(…また、あの人たちの仲間だわ… 梯子から落ちたのかしら…) 意を決して梯子を登ることにした。 一段一段、慎重に体重を移す… 風はますます強さを増し、吹き飛ばされそうになる。ドレスのスカートの裾が翻る… 中には明らかに折れている横木があって、二段ずつ登らねばならないところもあった。 梯子を打ち付けていた釘が腐っていて、ピキピキという音とともに抜け始めた。梯子全体と、それにつかまっているブライディーが外側に向けて反り返る… (もうだめ! 神様、マリア様! どうかお救いください!) 目を閉じて祈ると、 「早く! つかまって!」 と、聞き覚えのある声が響いた。 パッと目を開けると、目の前に先端に輪っかを作ったロープがぶら下がっていた。 思わずそれにぶら下がった途端、梯子はほぼ粉々になって落ちていった。 「早く! 早くよじ登ってきて! ロープが切れるわ!」 目を上げると数フィート先の窓から見下ろしているメルの顔があった。フードが脱げ、銀髪が風に乱れている。メルはロープの先を肩に巻いていたが、ロープは窓枠の岩に当っており、無理に引っ張り上げると切れそうだった。 「はい!」 ブライディーはダブリンの貧救院の庭の木で、「お兄ちゃん」たちと木登りをして遊んだことを思い出して必死でよじ登った。日頃の掃除や洗濯のせいで手のひらの皮が分厚かったのも幸いした。 ロープの、窓枠に当っているところが見る見るコヨリのように細くなってプチッとちぎれる寸前、メルの、細いけれども莫迦力の腕がメイドさんの腕をつかみ、投げ入れてくれた。 「あ、ありがとうございます…」 「大丈夫ですか?」 メルのいつもの屈託のない笑顔に、ブライディーはひとまずホッとした。 (本当にこの人はどうなっているのかしら? 凄い魔法が使える…という自信があるからこんなに落ち着いていられるのかしら? いいや、アレイスター・クロウリー様も、サダルメリク・アルハザードさんも、安倍 薫さんも、シスター・セアラ様もピンチの時は厳しい表情をなさっているわ…) 「は? あたしの顔に何か付いておりまして?」 メルは手で頬を拭い、髪を掻き上げた。「ついていたとしても不思議ではありませんわ。先ほどからずいぶんとこの建物の中をさすらっておりましたもの…」 「いえ、何か付いているというわけでは… …魔法庁の蔵書を読まれて『ダンジョン・メーカー』の召喚に成功されたのですね?」 「いえ、『ダンジョン・メーカー』はいわゆる『善人』には呼び出すことはできないのです。そこで『囚人』たちの中から希望者を選んで呼び出してもらいました。一部はお会いになっているかと…」 「入口でお会いしたかたがたのうちの何人かが、罠にかかって亡くなられておられました…」 ブライディーは目を伏せて答えた。 「ええ、まぁいいんです。…どうせ死刑か、それに近い重罪で服役中の連中でしたから…」 メルはあっけらからんとしていた。 「…でも、わたしのせいで亡くなられたような…」 「とんでもない! そういう成り行きだっただけです。あの人たちも、死刑台のような恐ろしいところで処刑されるのではなく、好きなことをしながら亡くなったのですから、むしろ喜んでいるのでは、と思います」 「メルさんって、前向きなかたなんですね…」 「だって、もしも一生懸命にやってもダメだった時は、それは『運が悪かった』…ただそれだけのことでしょ?」 「…と言うと、デイジーもドイル様も…」 「デイジーちゃんはまた要領よく一足先に脱出されていますよ。ドイル様…あんな凄いおかたが、そうやすやすとやられるはずがありませんわ」 「そ、そうですね…」 「そうですとも!」 「そうと決まれば早速お得意のダウジングで占ってくださいよ。あいつの隠れているところを…」 「でもジャミングが…」 「解けているかもしれません」 「でも、解けていなかったら…」 「それは、やってみないと分らないことでは? どんな魔法だって、一回やってダメでも、二回三回と試してみたり、少し時間を置いてからやり直してみたら、上手く行くことだってあるんです。半々は無理でも、ある程度の割合で… 上手く行けば儲けもの、ラッキーです」 「はい…」 ブライディーはダウジングの棒を取りだして、懸命に心を落ち着かせて祈ってみた。 しかし、棒は相変わらずくるくるとでたらめに回り続けるだけだった。 「やっぱりだめです… ああ、また足手まといなだけだったのかも…」 「結論を出すのが早すぎます。占いの場合は喜ばれるでしょうけれど、実際、現実はたえずいろんな不確定な要素に揺れ動いています」 メルはあたりを見渡した。二人ともずいぶん高い階まで登ってきたようだったが、まだ先がどれくらいあるのか、さっぱり見当がつかなかった。迷宮もさらにいっそう複雑になって続いている様子だった。 「…ジャミングを出しているところを叩き潰したいところですけど、おそらく一カ所じゃあないでしょう。数カ所あったら、それをするだけでもかなりの時間を取られて、相手の思うつぼですわ」 「では… どうすれば…」 「やっぱり、釈放してあげた悪人の後をつけることにしましょう。『蛇の道はヘビ』ってね!」 メルはソーホー街の宿屋で使った雄の黄金虫を取りだしてウインクした。 虫はブーンと羽ばたいて飛び立った。 メルとブライディーは息をきらせながら追いかけた。 グラグラの崩れそうな階段は案の定崩れ落ち、目もくらむような高い吹き抜けにかかった橋は、ちょうど真ん中に差し掛かったときに真っ二つに割れて落下した。 そのたびにメルは、鉤の付いたロープを投げ、ブライディーを抱きかかえて安全な場所に飛び移ってくれた。 「サ、サーカスのようですね…」 「そうですね。もしもシーラーをクビになったら門を叩いてみますわ」 メルは腕をぐるぐる回してほぐしながら言った。「…それにしてもおかしいですわね。危険なところへ、危険なところへと誘導されているようで…」 「おかしいな…」 こだまのように、男の独り言が聞こえた。「…どうしてくたばらないんだ? あの小娘どもは…」 「もしかして…」 ブライディーはメルの耳元で囁いた。「…黄金虫を使って追跡していることを見破られているのでは?」 「なるほど… それなら罠ばかりというのも分るわね。一攫千金狙いの隊長は、あたしたちをどこかから見ているのかしら?」 「そうね… でも、手下たちを失っているというのに、冷酷なな人ですね」 「たぶん見つけたのでしょう。『お宝』を… それを独り占めしたくって… もしかしたら手下たちをトラップにはめて殺したのは隊長自身かも…」 「なんと無慈悲な… 悪人というものはみんなそういうものなのでしょうか?」 「でも、見られているのなら、こちらから見ることが可能ですわ」 メルはあたりを見渡した。歪んで傾いた部屋の壁に、なぜかごく普通の姿見がはめこまれている… 「…これでしょう。向うからは見えて、こちらからは鏡」 メルが短い呪文を唱えると、鏡は輝きを失って、普通のガラスのように透き通った。 両腕を広げて枠を持ち、ぐらぐらと揺するとガラスごと外れた。向う側には人一人が通れるような通路が続いていて、突き当たりにはまた姿見が取り付けてあった。 「手品師のように、あっちこっちに一見鏡には見えない鏡を取り付けて、全体の要所要所を見ることができるようになっているみたいです!」 メルの言うとおり、秘密の通路は曲がり角ごとに姿見が張ってあり、蝋燭やランプが掲げられ、その姿見はどこからかから這わせてある紐で角度を変えられるようになっていた。 紐や鏡をたどって行くと、目の前に頑丈な壁が現れた。 「残り僅かな魔力は温存したいですわ。ノーベル先生、どうかよろしくお願いします!」 コートの内側のポケットに差し込んであったダイナマイトの細い筒を取り出すと壁に取り付け、導火線を引っ張り、マッチを擦って火をつけた。 「ブライディーさん、伏せて! 目を閉じて耳を塞いで! しばらく息を止めて!」 ドカーン! 物凄い轟音が轟いたかと思うと、ガラガラとがれきが崩れる音がして、漆喰の粉がもうもうと舞い上がった。 メルは素早く立ち上がり、部屋に躍り込んだ。 「待って下さい! 置いていかないでください!」 よろよろと後を追ったブライディーの前に、小山のように積み上げられたキラキラと輝く金銀財宝と、にわか探検隊の隊長の姿が飛び込んできた。 「…だ、誰にもやらないぞ! みんな俺のものだ! たとえ仲間にも分けてやるものか!」 壁じゅうに張られた歪んだ鏡に囲まれ、まるで操り人形師のように両手にたくさんの紐をもった隊長は、狂ったように叫んだ。 その肩口には、黒い不定形の煙のような存在がうねうねとうごめいていた。 「アイツラハ、オマエノ宝ヲ横取リニ来タンダ! ヤッテシマエ! ソレカラ、宝をだんじょんノモット奥深クニ隠ソウゼ! コノ俺『だんじょん・オープナー』様ガばっちり力ヲ貸シテヤルゼ!」 「見つけたわよ『ダンジョン・オープナー』年貢の納めどきね!」 メルは不敵に微笑んだ。「…そこのあなた、手下を手に掛けてまでして手に入れた宝物がどういうものか、教えて差し上げるわ!」 短い呪文を唱えると、部屋の真ん中にうずた高く積まれていた財宝はアッという間に塵となって雲散霧消した。 「お、俺の宝が…」 隊長の顔から血の気が引いた。 「オノレ、余計ナコトヲ…」 黒い煙は次第にまとまりを失いはじめた。 「妖精さん、どうして嘘をついたのですか? 『決して人を傷つけない、それどころか楽しみを与える』と言ったから…」 一歩踏み出してブライディーが迫った。 「ボクハ嘘ナンカツイテイナイ! ボク自身ハ誰モ傷ツケテハイナイ! 傷ツケアッタリ殺シアッタリシテイルトスレバ、ソレハ人間同士ガ争ッテ…」 「でも、あっちこっちにダンジョンが発生したら、そうなることは必至でしょう? 『未必の故意』というやつよ!」 メルは懐から折りたたんだ棒のようなものを取りだして組み立てた。組上がったそれは補注網に似ていた。それを黒い煙に覆い被せ、またコートの内側から小さな瓶を取りだして移し替え、しっかりと栓をした。 「さぁて、これでオッケーよ! 早く撤収しましょう!」 「有難うございます」 「あなたも早く一緒に逃げましょう!」 メルは男に手を差し伸べた。 「嫌だ! この宝を置いていくなんて、とんでもない!」 男は塵の山を抱えて動こうとしなかった。 ゴゴゴゴ… 激しい地鳴りとともに館全体が大きく揺れ始めた。 ブライディーは棒を取りだして胸元にかざした。棒はスッと一定の方向を指した。 「ジャミングが解けています!」 「ドイルさまー! ドイルさまー!」 叫びながら棒のさし示す方向に走るメイドさんが通り過ぎた後から後から、廊下の石組は崩れ落ち、吹き抜けに吸い込まれていった。 メイドさんが反り返り、つられて落ちそうになるたびにメルは腕をハッシと掴んで引っ張り上げた。 「もう誰もいませんかぁー! もう誰もいませんかぁー! この館は、もうまもなく跡形もなく崩れ落ちますよ! …すいませんね。一応仕事なもので…」 「いえ、こちらこそ、すいませんでした…」「いえいえ、トラぶった時のフォローはお互い様ですよ。このわたしも、明日にでも大・大・大失敗をしてしまうかもしれませんから…」 いまやダウジングの棒はハッキリと主の願いに応えていた。四つ角や、もっと複雑な放射状に廊下の延びた小部屋ではスッと一つの方向を指し示した。上り下り、いくつかの階段があるところでも… 「ドイルさまー!」 「ブライディー!」 いつもの、やさしい声がした。 「ドイル様!」 メイドさんはドイルの身体に抱きついた。「メルさん… …と言うことは、首尾良く…」 「ええ」 メルは小瓶を取りだして示した。中では褐色と黒が入り交じったようなおぞましい気体というか煙が、もぞもぞとのたうち回っていた。 「こいつを封じ込めたら、ジャミングも解けて…」 「そうか、ジャミングは複数箇所から発せられていたのじゃあなくて、すべてこいつの仕業だったんだな… ツイてるぞ。…と言うことは、洞窟で出会った盗賊団の頭領のほうは、部下を生贄として捧げるのが嫌で、隙をついて封印したのだな…」 二人が少し話しているあいだに、ブライディーは小さな水晶玉を取りだして覗き込んでいた。 「デイジーは罠に引っかかってすでに外に返されています」 「そうかそうか、我々も早くここから脱出しよう!」 「ドイルさん、ブライディーさん、お二人は早く脱出してください!」 「メルさん、貴女は?」 二人は異口同音に尋ねた。 「わたしは。もうちょっと残されている人がいないか探して呼びかけてみます」 「莫迦な! 館が消滅してしまいそうなのは誰の目にも明らかだ。そんな必要はないでしょう?」 「それはもちろんそうでしょう。でも、仕事ですし、出来る限りのことをします」 メルはウインクすると、天井がどんどん崩れ落ちている方向に戻っていった。 「メルさん!」 思わず追いかけようとするメイドさんを、ドイルが押し留めた。 「また近々会えるよ、きっと…」 「そうですね…」 ブライディーは目頭を拭った。 崩壊する館を背にして、芝生を全力疾走すると、デイジーが飛び上がり、ちぎれんばかりに手を振って出迎えた。 「お姉ちゃん、ドイル様。その様子だと上手く行ったのね?」 「ええ、メルさんが『ダンジョン・オープナー』を封印してくださって… …それよりもデイジー、貴女また…」 「エヘヘ…またまんまといなされちゃった…」 「いいじゃないか。デイジーはまだ小さいんだ。まだまだこれからだよ」 「まぁ、ドイル様が甘やかされるから…」 誰からともなく浮かべた微笑みが、すぐに三人に広がった。 からくり館は轟音を立てながら崩落しね後にはうず高い塵の山だけが残ったが、それもすぐに風で四散した。 「ちょうどその時間ですよ」 英国心霊研究協会の昼下がり、サダルメリクはターバンの上から頭を掻きながら言った。「…子供たちを救うべくダンジョンに入ったのですが、思わぬピンチで『もうだめか…』と思ったとき、急にダンジョン自体が消滅して… 皆さんの活躍の賜物だったのですね。お陰様で無事、子供たちも救出することができました」 紅茶を注いで回るブライディーも、クッキーを持った菓子皿を配るデイジーも、心からホッとした様子だった。 そこへ、ポピーがドイルに、夕刊新聞を持ってきた。 そこには、大きくもなく小さくもないスペースで、次のような記事が載っていた。 「ダンジョンの出現は一時的なもの? 『黄金の暁団』メイザース氏は語る。 このところ、各地に突如として出現していた多くのダンジョンが、また突如として消滅したことについて黄金の暁団』メイザース氏は、 『例えば地震のように、自然の摩訶不思議な力によって、次元の隙間が開かれたものが、またしばらくして塞がってしまったのではないか?』と説明している。 いずれにしても、探索の準備を整えていたにわか探検隊や冒険隊にとっては、大変残念な話である… (次のエピソードに続く) KIJISUKE@aol.com