ブライディー・ザ・マジックメイド 番外編 アレイスター・クロウリー少年の事件簿 ★クロウリーがアレイスターと名乗るのは18歳以降のことですが、この物語では、12歳の頃から名乗っていたことにしました… 登場人物 ロバート…同じ寄宿舎の、絵の上手い親友 マックス…同、軍人志望の体格のいい少年 ウィルバー…同、科学者志望の少年。有人熱気球を作っている プリチャード先生…とても厳しい寮監の先生 アーネスト…プリチャード先生の信奉者の神懸かりの少年 シャッシャッと絵筆を走らせる音は、衣擦れの音に似ていた。水彩絵具の肌色が醸し出す妖しさは、着色写真のそれよりも、もしかすると血肉を備えた現実の少女よりも勝っていた。 「髪型はどんな感じ?」 ロバートは黒縁の眼鏡を持ち上げて、ぞんざいに尋ねた。 英国国教会原理主義の一派「神聖渇望派学校」の寄宿舎の寮の一室では、十二歳から十五歳くらいまでの少年たちが息を潜め、生唾を飲み込みながら、蝋燭の明かりで照らされた、同じ年頃の女の子の裸像を食い入るように眺めていた。 ギリシア神話のニンフなどを題材とした古典的な絵画と違うところは、女の子は一糸まとわない姿で岩場に脚を大きく広げて座り、こちらに向かって微笑んでいることだった。 「本当にこんなふうになっているの?」 少年たちのうちの一人が問い返した。 「ここはこんなふうに開くんだよ」 ロバートは少女の細い両手を描き加えた。 誰かが、たまらなくなってトイレに走っていった。 「その絵は、オレにくれ!」 「ぼくにください!」 「くじ引きにしよう」 「シッ、静かに! プリチャード舎監に聞こえるよ!」 「アレイスター、おまえも見に来いよ!」 「有難う。だけどせっかくだけれど、ぼくはいい」 アレイスターは窓越しに星を眺めながら言った。 「どうして? 興味あるだろう?」 「席次トップのおまえに、ロバートが迫っているからか?」 「女は、いくら良くても矛盾の塊だ。魔物だ。マリアも、イエスを生まなければ、イエスは十字架にかけられて苦しまなくてすんだと思う」 「でも現実には、女性のお腹を大きくして新たな不幸を作り出すのは、ぼくたち男性だけれど」 ロバートはそう言いながら、せっかくほぼ完成した絵をびりびりに引き裂いた。 「ああ、もったいない!」 「なんてことをするんだ!」 「破るのならくれたっていいだろう!」 少年たちは口々に怒った。 「…我々は極力煩悩というか、欲望を抑え、勉学やスポーツに精力をかたむけ、結婚するまではよこしまな考えを抱かぬように勤めねばなりません…」 ロバートはプリチャード舎監の暗い口調を真似して言った。 「これからパブリック・スクールに行って、大学に行って、卒業して…そんなに我慢できるか! オレは取りあえず絵か写真でいいぞ!」 「でも、もし見つかったら…」 「持ち物検査は毎日のようにあるし…」 「バカな! 薄っぺらい絵の一枚や二枚、ノートのあいだにでもどこにでも隠せるよ!」 とその時、見張り役の子が息を切らせて駆け込んできた。 「来るよ! プリチャードが! 抜き打ちの見回りだ!」 少年たちは蜘蛛の子を散らすように廊下に、窓の桟に飛び出した。逃げ遅れた者はベッドの下に隠れた。 蝋燭が吹き消され、ロバートは自分のベッドに潜り込んだが、アレイスターは身じろぎもせず星空を眺めていた。 「何か騒がしかったようですね」 ランプの明かりにプリチャードの鉄縁の眼鏡と、鞭を持ったぽっちゃりした手と、異様なくらい赤く太い唇が浮かび上がった。 「もう消灯時間はとっくの昔に過ぎていますよ。勉強も禁止です。ましてや…」 「夜空を眺めていたんですよ、プリチャード先生」 アレイスターは歌うように言った。 「それは見れば分かる。…困りますね、アレイスター君、君のような成績の優秀な生徒は、規則を守る、という点においてもみんなの模範になってもらわなければ…」 「すみません。以後気を付けます…」 ゆっくりとベッドに入ろうとするアレイスターをいやにジロジロと眺めていたプリチャードが、床に落ちていた絵のきれ端を目ざとく見つけた。 「部屋もきれいにね…」 彼はしゃがんでそれを拾った。 火事などの時だけに鳴らされる鐘の音が、寮じゅうに響いた。 パジャマに靴をはいた少年たちが、どたどたと寮の中庭に飛んで出た。 「一体何の騒ぎですか?」 委員長で士官学校に進学を希望している体格のいいマックスが、全員の数を数えてから尋ねた。「三十六名全員避難を完了しました。…どこにも火の手など上がっていないし、消防も来ていないように思いますが、訓練ですか?」 「いいや、訓練ではない。実はいまさっき、夜間巡回をしている時に、神様はもちろん、世の女性を冒涜する絵の切れ端を見つけてね」 プリチャードは引き裂かれた紙切れを裏返しにして見せた。「…誰が描いたか、それとも誰の持ち物なのか知りたくて非常呼集をかけたのだ! 早くベッドに戻りたければ、該当者は名乗り出なさい!」 ロバートと、アレイスターの部屋に集まっていた者たちは、無意識にロバートにチラリと視線をやった。 「落ちていた部屋も分かっている。私には、だいたいの目星はついているが、証拠もなしに決めつけるのはよくない。さぁ早く!」 寮監は鞭を掲げて叫んだ。「…それとも全員夜明けまでそうして立っているつもりかね?」 月に照らされたロバートの顔は、紙のように蒼白だった。だが、罪を認めると背中か尻に鞭打ちが数十回(回数はプリチャードの機嫌によって変わった) 数日間食事抜きの罰が待っていた。 「ぼくです」 アレイスターが静かに細い手を挙げた。「…ぼくが、先日外出した時にこっそりと買って帰って、一人で見ていたのです」 ロバートと少年たちはハッとしたが、やはり何も言い出すことができない様子だった。 「…アレイスター君、嘘を付いてはいけない。 嘘を付くことはそれはそれで神様の怒りに触れる別の罪ですよ。明日の朝食は抜きにしましょう」 プリチャードはいままで数え切れないほどの少年たちの背中と尻の皮を破り、血を吸ってきた鞭をアレイスターの頬に当てた。「君は確かに女好きだ。だが、その他のものも好きなことを私は知っていますよ。ああいうもの、こういうもの、公序良俗に著しく反するものをね。ですが…そもそも、欲しくて手に入れた絵を、どうしてそんなに簡単に破って捨ててしまうのでしょうかね? …この絵は、ここにいる誰かが描いて、出来が気に入らないから破り捨てたのです! 自分が描いたものなら、あとでいくらでも描き直すことができますからね!」 「…あの、先生。女性の裸体画を描くことはそんなに罪なことなのでしょうか?」 「科学クラブ」の部長で、小柄なウイルバーがおずおずと尋ねた。ウィルバーとその仲間は、今度の学園祭で熱気球を飛ばすことになっていた。 「ウイルバー君、絵も罪ですが、そういう絵を描かせたよこしまな考えが罪なのです。十分に清め、償ってもらわなくては…」 プリチャードはウィルバーの顔に自分の顔を近づけ、唾を飛ばして言った。「…ついでに申し添えると、貴男の熱気球を私は決して快く思っていません。天はいつまでも神様だけの世界であるべきなのです!」 「そんな… 暗黒中世じゃああるましいし、明日にでも飛行機が空を飛ぶかもしれないのに…」 「『言い訳はするな』と、いつも申し上げているでしょう?」 プリチャードは折りたたんだ鞭でウイルバーの頬を叩いた。ウィルバーは地面に倒れ、しばらく起きあがれなかった。 たまりかねて歩み出ようとしたロバートをアレイスターがかすかに首を横に振った。 (でも、ぼくのために、部屋に来てさえいなかったウィルバーが…) その灰色の瞳はそう訴えかけていた。 (いいや、やめておくんだ。プリチャードの度の過ぎた仕置きに遭って、心を病んで退学を余儀なくされた者が何人もいることを。君も聞き及んでいるだろう?) アレイスターは目で応えた。 「…どうも強情な生徒たちばかりですね! 私は神様に代わって裁きを下そうとしているのに…」 プリチャードはポマードで固めたオールバックの髪を逆立てんばかりに叫んだ。「いいでしょう… 明日の朝までに私の部屋に懺悔と告白に訪れる者がいなければ、全員朝食抜きの上に鞭打ちの罰に処します! いいですね?」 少年たちの中から「えっ」と声にならない声が上がった。 「神様の声に従って、犯人を知っている者が来てくれると嬉しいです。しかしその場合はその者に、改めてみんなの前で犯人を名指ししてもらいわないといけませんが…」 黄色い歯を見せニヤニヤと笑いながら、プリチャードは去っていった。 猜疑と、憎悪と、諦めによどんだ空気が、夜霧に混じってあたりを包んだ。 虫の声が聞こえていた。 「アレイスター、ぼく、やっぱりプリチャード舎監のところに行ってくるよ…」 ロバートは染みが浮かび上がった天井を見つめて言った。 「バカな! さっきも言っただろう? こんなことぐらいであんなふうに言うプリチャードのほうがおかしいんだ。彼はその…普通じゃあないんだ。だから黙っていればいいんだ。誰も君のことを告げ口する者なんかいやしないさ!」 アレイスターは、ベッドに浅く腰を掛けたロバートと鏡像のように向かい合っていた。 「でも、それだったら寮のみんなが鞭打たれてしまうよ。ぼくらの部屋に来ていなかった、まったく関係のない者も…」 「大丈夫さ。そんなことにはならないさ」 「どうしてそんなことが言えるの? …全員が罰を受けさせられたことは、過去に何度もあったと聞いているし…」 「ロバート、君も気が付いていることとは思うが、プリチャード先生はそのぅ… 特別な嗜好のある特別な人なんだ。そんな人の言うことのすべてに従う必要はない。寮のみんなも良く分かっているはずだ」 「そうかなぁ…」 彼は、節だらけの床板に目を落とした。 「君がやったことは、口で注意されるくらいが関の山のことで、気を失うまで鞭打たれるようなことじゃあない。この『神聖渇望派』寄宿学校が異常なんだよ。…もっともこんな学校は他宗他派にもいっぱいあるだろうけれどね」 アレイスターは苦笑いした。 「さぁ、もし眠れないのなら、もっと楽しい話をしよう! 君はどうして少女のヌードの絵を描くのが好きなんだい?」 「それは…」 ロバートは少し口ごもってから続けた。「…好きなんだ。興味がある。数年前からギリシアやローマやルネッサンスの女性の裸体画を真似て描いていた。両親も認めてくれていて… 王立美術学校を受験させてくれるということで、専門の家庭教師まで付けてくれていたんだ」 「それがどうして、こんな監獄みたいな寄宿舎に?」 「…ある日、買ってもらった石膏のアフロディーテ像をあちこちから眺めてデッサンしていると、妹がやってきてこう言ったんだ。 『お兄ちゃん、そんな像でじゅうぶんな勉強ができるの? ポーズもとってくれないし、表情も変えてくれないのに?』 『本物のモデルさんを雇うなんてまだ早いよ。首尾良く美術学校に入れても、当分は石膏像だろうし、その次は何人かで一人のモデルさんをデッサンするんだ。一人で一人のモデルさんを使うと言うのは一人前になってからだ。同じモデルさんを他の学生がどんなふうに描いているのかを見て、気が合えば批評し合う、というのも修行なんだよ』 『お兄ちゃん… あたしは何がなんでもお兄ちゃんに王立美術学校に合格して欲しいんだ!』 妹は言い終わるのを待たず、ドレスを脱ぎ始めた。 『おい! 一体何をするんだ? やめてくれ!』 ぼくは目のやり場に困ったけれど、彼女は構わずコルセットも、その下の肌着も片っ端から脱ぎ捨てた。 『あたしの顔やスタイルが、絵にするには耐えない、と言うのならやめるけれど…』 『そんなことはない! そんなことはないけれど、もしもこんなことをしているところを見つかったら…』 『心配ないわ。父上と母上はパーティだし、召使いたちも人払いしているから…』 ぼくは口から心臓が飛び出し、身体じゅうの血が沸騰した。なにしろ生身の女性の裸を…それも少女の…それも妹のを見るのは初めてだったからだ。 「どう? せっかくなんだからポーズや表情の注文を付けてよ! できるだけやってみるから」 どんなことを言ったか、分からない。たぶん、ごく普通の、おとなしい、古典的なポーズと表情を注文したと思う。ぼくは無我夢中で画用紙に鉛筆や、木炭でクロッキーを描き続けた。…そう時間いっぱいまで… 妹の裸身にうっすらと汗が浮かび出すまで、何とも言えない香りが部屋じゅうに立ちこめるまで… 『お兄ちゃんは絵を描くこと自体が勉強なんだから、これはわたしに頂戴ね』 衝立の陰でドレスを着た妹は、床じゅうに散らかった下絵を拾い集めて立ち去った。 そんなことが月に何回かあったんだ。 一回か二回で止めておけば良かったんだ。 両親や召使いに見つかったわけじゃあなかった。ただ何となく気づかれたらしかった。 ぼくはこの『神聖渇望派』の寄宿舎に入れられた…」 「妹さんはどうしたんだい?」 ロバートは広間の振り子時計のように大きくかぶりを振った。 「分からない… もしかしたら、女子修道院に入れられたかも知れない。そんなことにはなっていなくて、普通に暮らしているかもしれない。手紙だってくれているかも… でもきっとあのプリチャードのやつが握りつぶしているのに違いないんだ。ぼくは、妹がぼくの描いた絵をとても大切にしてくれている夢を見るんだ…」 「それじゃあ、いつかはこんなことになるかもしれないと思いながらも、みんなの要望に応えて描き続けていたのは、妹さんの面影を追い続けていたからなんだね?」 「ああそうさ! ぼくのまぶたに焼き付いている生身のモデルは彼女だけだからね」 かすかな溜息をつきながら立ち上がったアレイスターはゆっくりと寝間着を脱ぎ始めた。 「着替えるのだったら…」 「見ていてくれたまえよ」 目をそらしかけた彼を制し、肌着を揃えてベッドの上に置き、窓を開け放ち、まるで悪魔を手招きするように両手を差し上げたアレイスターの裸身は、さながら詩神か女神のようだった。 「…どうだろう。画家というものは、男女の骨格を描き分けなければならないと思うのだけれど…」 ロバートは羽根なき使徒の、肋骨の浮き上がった白く形のいい背中に魅入られた。 「ああそうだよ。老若男女の骨格をきちんと描けなければならない。男の場合は筋肉質から、ナルキッソスのような体型まで自由自在にね」 その手は自然にスケッチブックと鉛筆や木炭に伸び、素早く動いていた。 シャワー室では飽きるほど見ているはずのものも、あんなことがあって、罰が待ち受けていることを考えると、何か別の、とてもなまめかしいもののように、瞳に映った。 「前を向こうか?」 「あ、ああ…」 白い影はゆっくりと、ゆっくりと窓を背にした。 「アレイスター いつか一度訊いてみたいことがあったんだけれど…」 勤めて冷静に、鉛筆を走らせながらロバートが言った。「…黒魔術というようなものは、この世に本当にあるのだろうか?」 「あると思うな」 答えはよどみなく、すぐに返ってきた。「祈りが心を強くするように、呪いや祟りのようなものもあるだろう。暗黒の力を甘く見てはいけない。それなりの心得のある者がなにがしかの術を使えば、恐ろしいことが起こる」 「ぼくはその… 君がそいういことに興味を持っているように… 怒らないでくれよ。どうしても気づいてしまうんだ…プリチャード先生もそういうことをやっているような気がして仕方ないんだ」 「かもしれないね。…いや、ロバート、君の予感はたぶん当たっているだろう。本当の神は、鞭による贖いなどは望んでいない」 「…ぼくは、プリチャードさんが、今夜じゅうに死んでしまえばいいと思う。そうすれば、誰も痛い思いをしなてもいいし、今後は永久に平和が訪れるんだ!」 ロバートは鉛筆を置き、出来上がったデッサンをアレイスターに見せた。そこには黒い、コウモリのような羽根を広げた若く美しいルシファーが描かれていた。 「…プリチャード先生を地獄へ連れ去ってくれたらどんなにかいいことだろう。もうビクビクオドオドせずに寮生活を送れるんだ。万一新しく来る寮監の先生が、プリチャード先生と同じことをしないように、想像を絶するような、おぞましくてむごたらしい死にかたをすればいいんだ。そうすれば、彼の虐待を受けて精神病院に入っている者たちの魂も浮かばれるに違いない!」 「もっともだ。あり得ない話じゃあないかもな」 アレイスターは肌着も寝間着を着ることなく、そのまま毛布をまとってベッドに横になった。 「アレイスター、お願いだ! 君にもしそんな力があるのなら、ぜひやってくれ。ここで暮らしているみんなの願いだ! プリチャードに地獄の鉄槌を下してくれ!」 ロバートはひざまづいた。 「君が、みんなが切実に願っていることなら叶うかもな」 白面の少年は、ゆっくりとまどろみに落ちながらつぶやいた。「…ぼくがやらなくても、プリチャードの命運はもう尽きているかもしれないぞ…」 夜だというのに、鴉たちが寮の敷地の中にある雑木の上空をカァーカァーと不吉な声を上げて鳴きながら舞い飛んでいた。 風はさわさわとさわめき、虫たちはチロチロと鳴いたかと思うと、シンと静かになることを繰り返した。 アレイスターは何度もうとうとと目を覚ましたが、隣のベッドは人のかたちに膨らんでいたものの顔は見えず、寝息も聞こえなかった。 (もう嫌だ!) 「科学研究部」部長のウィルバーは、目を血走らせ輾転反側しながら、明日の朝には振り上げられ、打たれるだろうプリチャードの鞭と、プリチャード自身のことを思い浮かべていた。 (あいつは、ぼくやロバート君のような、あまり強くなさそうな生徒は、ひときわ力を入れて打つんだ。マックス君のみたいな筋骨隆々の者には、手加減する癖に… きっと万々一、退学覚悟で逆襲されたら怖い、と思っているんだ。弱そうだったらとことん、強そうだったら緩く…なんて卑怯なヤツなんだ! …もう嫌だ! 例え両親に何と言われても、怒られても、こんな学校から逃げ出してやる! それも今夜じゅうに! 明日以降にして、叩かれてからでは遅いんだ。 もう二度と鞭打たれたりするものか! プリチャードのようなヤツに… ぼくは消灯時間にはおとなしく寝ていたんだ。みんなが誰かの部屋に集まって何をしていたかは知らないけれど、連座なんてまっぴら御免だ!) 彼はベッドを吹け出すと、もぞもぞと外出日用の私服…背広に着替え始めた。 「おいウィルバー、どうしたんだ?」 相部屋の少年が気配で目を覚ました。「服なんか着替えて… まさかプリチャードのところに行くんじゃあないだろうな?」 「誰が行くものか! あいつの顔を見たのは、さっきが最後にしてやる!」 「どういう意味だい? もしもここから脱走するつもりなのだったら、ぼくも一緒に連れて行ってくれ!」 「悪いけれど『あれ』は一人乗りなんだ。それにもしものことだってあるかもしれない!」 「おいウィルバー、まさか『あれ』で逃げるつもりじゃあないだろうな? 夜だしまっくらだぜ」 「今夜は月も星も明るいし、もう夜明けが近い、飛んでいるうちに明るくなるし、もちろんコンパスも装備しているから大丈夫さ!」 ウィルバーは鏡の前で何度も蝶ネクタイを締め直しながら答えた。 「じゃあな! 二年半、だったかな? 長いあいだ有難うな!」 私物を手早く鞄に詰めると、足早に出て行った。 「神聖渇望派」の寄宿学校は、信者である某貴族の広大な領地の一角にあった。 科学研究部の部室は、体育会はもちろん、他の文化クラブの部室とも遠く離れた小さな森の中の広場に立っていた。 もしも万一、何かが爆発しても、落雷があったりしても決して巻き添えは出さないという、初代の部長のなみなみならない決意の結晶だったらしいのだが… 一人ランプを掲げてやってきたウィルバーは、格納庫を開け、金具の上きちんと折りたたまれた気球と籠を引っ張り出した。とも綱を近くの木の幹に結びつけてから籠の中で特製の大きなアルコール・ランプに火を付けると気球はゆっくりと膨らみ始めた。 (燃料よし! さぁさらばだ、地獄の寄宿学校よ!) 気球が十分に膨らんだところを見極めて籠に乗離婚だ。とも綱を切り、バラストとしてまわりに付けていた土の入った小袋を順番に捨てると、気球はふわりと浮かび上がった。 (よし、風向きは絶好だ! 多少霧はあるものの、大きな支障になるほどじゃあない。 もしも誰かに炎や気球自体を見られても、駆けつけた時には後の祭りのはずだ) 小さな森の、一番高い木立よりも高く昇った気球は、風に乗ってゆっくりと飛び始めた。 テスト飛行で何度も飛んだことがあるとは言え、夜間飛行は初めてで、眺める光景は新鮮なものだった。 (…我ながら本当によくできた気球だ。もしも親に勘当されても、これを見せ物にすれば食っていけるかもなぁ… でもきょうび気球くらいじゃあ誰も驚かないかな? やっぱり「飛行機」でないとなぁ…) 黎明のほの暗い明るさの中に浮かび上がった寄宿学校は神秘的で美しかった。 (みんなまだ寝ているんだろうなぁ… 明日の朝のプリチャードの鞭のことを思い浮かべて眠れないヤツもいるかなぁ… ぼくが逃げたことでそれどころじゃあなくなるんじゃないかな? ざまを見ろ、だ…) 晴れだした夜霧の中を二、三回旋回していると、眼下の一本杉のてっぺんに、白い奇妙な物体が突き刺さっているのが見えた。 (何だろう? モズのはやにえ(速贄)にしたら大きいしな…) 接触に気を付けながら高度を下げ近寄ってみたウィルバーは目が飛び出しそうになった。 そこには、「気を付け」の姿勢で硬直したプリチャードが仰向けに、尖った先端に突き刺されて串刺しにされていた。 (た、大変だ!) ウィルバーは頭の中が真っ白になって、どうしたらいいか分からなくなった。最初に浮かんだ考えは (このまま逃げてしまおう!) というものだった。 (しかし、地面に埋められていたのならともかく、あんなところにあんなふうになっていたら、早晩だれかが見つけ、みんなが騒ぎ出すのは間違いない。すると、逃げ出した者…それも熱気球で逃げ出したぼくが真っ先に疑われるだろう。私立の寄宿舎から脱走したというような話はよく聞くし、警察に届けられても、まともに取り合ってはくれないけれど、「殺人事件の容疑者」となったら話は別だ。とても逃げおおせるものじゃあない。 みんなはきっと、ぼくがプリチャードを殺し、熱気球で運び上げて一本杉の上に突き刺したと思うだろう… いくらこの熱気球が一人乗りで、二人が乗ったら一フィートも浮かび上がらない、と説明しても聞き入れて貰えないかもしれない…) ウィルバーは軍の、薄い鉄板で覆った巨大な装甲飛行船が追ってきて、小さな大砲を発射する光景を思い浮かべた。彼の気球はひとたまりもなくキリモミして墜落して行く様子も… (ダメだ、引き返そう…) そう決心して、アルコールランプの火を弱めた。(いまだったら、学校か寄宿舎の敷地のどこかに着陸できるだろう…) ウィルバーはプリチャードの死体の第一発見者には絶対になりたくなかったが、幸いそれにはならずに済んだ。 第一発見者は、アーネストと言う、珍しくプリチャードの信奉者で…ということは「神聖渇望派」の熱心な信者で、神がかり的にところのある生徒だった。彼は、毎朝朝の四時頃から起き出して「修行」と称して学園の敷地をほぼ一周していた。規則で決められている起床時間は六時で、各種スポーツ・クラブの朝の練習時間も七時から八時半の始業時間までだったものの、プリチャードは「修行」という言葉には弱かった。おまけに数少ない自分の支持者から申請が出たことなので、認めないわけには行かなかった。 「みんなの中でアーネストと一緒に修行したい者があったら、遠慮なく申し出るように。 朝のさわやかな空気の中で、この自然に恵まれた広大な校庭の敷地の中をジョギングするというのは、神の御心に叶っていると思いますよ」 もちろん、手を挙げる者は一人もいなかった… そういうことで合い物のトレーナーにフード付きのパーカー姿のアーネストは、自分で考えた祈りの文句をつぶやきながら、そろそろ落ち葉が散り始めた小径を小走りに走っていた。 ふと何気なく空を見上げると、朝霧の中、木の上に何か、両手足のようなものをきちんと揃えた楕円形か、紡錘状のようなものが突き刺さっているのが見えた。 (凧か豆気球だ。きっと誰かが遊びで上げて、引っかかってしまったのだろう…) そう思い、近づいて目をこらして見上げると、はっきりとは分からないが、フロックコートを着て、オールバックの髪をポマードでべっちゃりとなでつけた、見慣れた顔が逆さまに垂れ下がっているのが見えた。 「先生! プリチャード先生!」 アーネストはヘナヘナと腰が抜けた。 「おお神様! 神様! どうかお救いください! あんな高い木のてっぺんに死体を突き刺せるのは悪魔の仕業です! と、次の瞬間、プリチャードの姿がパッと消えた。 「パッと消えた、などと言うと…」 後でアーネストは涙ながらに証言した。「…いかにも魔法か何かでパッと消えたような感じなのですが、文字通りそんなふうに消えたのです! …そのあと、ドサッという音がして、音がしたほうに走っていって見ると、プリチャード先生が一本杉のま下あたりに倒れられていて…」 後は言葉にならなかった。 アーネストの悲鳴が一エーカー四方に響き渡り、寝間着姿の少年たちがいっせいに駆け出してきた。 みんなは息を呑んで、落ち葉の上に倒れた、背中と腹にメダルくらいの大きな刺し傷があるプリチャードの死体を見つめた。 「先生!」 「よすんだ! もう亡くなっている。警察が来るまでそのままにしておくんだ!」 委員長で軍人志望のマックスが駈け寄って抱き起こそうとするのをアレイスターが止めた。 アレイスターはそっと近寄って遺体を眺めた。 「先生は、先生は、この木のてっぺんに突き刺されていたんだ!」 アーネストはわめき続けた。 「まさか!」 「そんなバカな!」 少年たちは口々に言った。 「アーネストの言ってることは嘘じゃない。ぼくも見た。気球の上からね」 ウィルバーが言うと、ほとんどの者の背中に恐怖と戦慄が走った。 「本当か?」 「ああ、本当だ」 「誰か、警察と医者を呼んでくるんだ! こんなことを言っては何だが…」 委員長のマックスが、もともと謹厳実直な顔の眉間にますます皺を寄せて言った。「プリチャード先生は確かに『いい』先生じゃあなかった。恨んで、殺したいと思っている者も一人や二人ではなかっただろう。だからと言って実際にやっていいはずがない! だが、一体どうすれば死体を一本杉のてっぺんに突き刺したりできるんだ?」 皆はシーンとなった。 「熱気球に乗せて浮かび上がり、突き刺したとか…」 「それは絶対に無理だね」 みんなの目がウィルバーの集まりかけるのを制するように、アレイスターがピシャリと言った。「ウィルバー君の…科学研究部の気球は一人乗りだ。二人が乗ったら浮かび上がらないだろう」 「有難う、アレイスター君、その通りだよ」 ウィルバーは頬をゆるめた。 「でもウィルバー、おまえはなぜ、こんな朝早く、私服を着て気球なんかに乗っていたんだ?」 マックスは畳みかけた。「プリチャードに見つかったら、それこそ大目玉だっただろうに…」 「それは…」 ウィルバーはぽつりぽつりとやろうとしていたことを話した。 夜が明けたらプリチャードに鞭打たれるのが嫌で、気球で逃げ出そうとしたこと。死体を発見後、そのまま逃げだそうとも考えたけれど、疑われてはつまらないと思って引き返したことなどを… 「それは賢明な判断だったと思うよ」 アレイスターはウィルバーの肩を叩いた。「信じられるもんか!」 アーネストが叫んだ。「…熱気球は一人乗りの他に、二人乗りがどこかに隠してあるのかもしれないじゃないか!」 みんながウィルバーを見る目がやや上目遣いになりかけた。 「何を言うんだ! なんなら学校じゅうを家捜ししてもらっても構わないんだぞ! その代わり出てこなかったら…」 アーネストに飛びかかりかけたウィルバーをアレイスターは羽交い締めにした。 「よすんだウィルバー、真犯人はきっと何かトリックを使ったんだ。ぼくが見破ってやるよ」 「本当にトリックかな、アレイスター君」 アーネストは目を血走らせた。「…噂によると君は黒魔術をやっているそうじゃないか。 そしてそのことでプリチャード先生から睨まれていたんじゃないのか?」 「…黒魔術などという言葉は…」 アレイスターは静かな、しかし威厳のある声で言った。「…そうたやすく口に出してもらっては困る言葉なんだ。ましてやそれがどういう意味を持ち、どういうことができるものか、生かじりの連中には」 「できるんだろう、そういう恐ろしいことが! いつもよこしまなるものと戦ってこられた立派な先生を、黒い羽根の生えた悪魔たちを召喚して、木のてっぺんに突き刺すようなこともできるんだろう?」 「もうよさないか、アーネスト。どう考えても莫迦げているぞ」 委員長のマックスがアーネストの肩をわしづかんだ。 「マックス、君もプリチャード先生を嫌がっていたよな。君のように筋肉隆々で運動神経が抜群だったら、先生を殺し、遺体を背負って担ぎ上げ、てっぺんに突き刺すことが出来るんじゃないか?」 アーネストは、今度はマックスに食いついた。 「まさか! こんな高い木、オレ一人でも上までよじ登るのは至難の業だ。ましてや死体を背負ってなど… サーカスの軽業師にしてみたところで相当難しいことのはずだ」 「そらみろ! 不可能ではないんだろう?」 アーネストは鬼の首でも取ったように小躍りした。「…一人でロープを持って登り、滑車か何かを取り付けて、ロープの先にくくってあった先生の遺体を引っ張り上げたのかもしれないし…」 「その可能性はなくはないな」 死体を調べながらアレイスターがつぶやいた。「…服や身体のあちこちに木の枝で摺ったような跡がある」 「だめじゃないか、アレイスター。『警察が来る前に現場を触ったり荒らしたりしちゃあいけない』と言ったのは、他でもない君自身じゃないか」 「ロバート、君も来ていたのか?」 生徒たちの中に、ロバートの姿を見つけたアレイスターは、ロバートが制服を着ているのを見て少し驚いた様子だった。 「…朝一番に、プリチャード先生に謝ろうと思ってね。…あの絵を描いたのはぼくです、と… そうすれば、みんなに迷惑をかけなくて済むか、と思って… だから、動機の点から言うと、ぼくが第一容疑者だよ」 居合わせた生徒たちは、裸体画を書いたのがロバートだと分かっても、そんなに驚かなかった。いまは、それ以上のことが起きてしまっていたからだ。 「そうか… プリチャード先生と上手く行っていなかった生徒は大勢いたからな」 アレイスターはなおも遺体を調べ続けた。「ふむ… 硬直状態などから、死後一時間から二、三時間というところだな。それにしても変だな…」 「何が変なんだい?」 ロバートがおずおずと隣にしゃがみ込んだ。「あのてっぺんから落ちたんだろう?」 「ああそうらしいね」 と、ロバート。 「ぼくはジョギングの最中に見たんだ」 アーネストが言い張った。 「ぼくも見たんだ! 熱気球の上から…」 ウィルバーも言った。 「でも変だ。あんな高いところから落ちたのなら… いくら枝に触れながら落ちたのなら、骨がもっとあっちこっち折れているはずだ」 アレイスターは遺体の手足をハンカチ越しに触って言った。「木の枝による擦り傷も、そんなに多くない。建物で言うと二階くらいの高さから… そう、あの太い枝くらいから落ちたという感じだ」 みんなは指さされた枝を見上げた。 と、そこへ、副寮監で助手の若い先生が、呼びに言った生徒とともに走ってきた。 「警察も医者も急いでこちらに向かって下さっていると思う。こんなところにたむろしていないで、早く寮に戻りなさい! 私とマックス君が見張っています。…ところで、あの上に突き刺されていた、というのは本当ですか?」 副寮監の先生は青い顔をして木を見上げた。 「本当です! これは絶対に悪魔の仕業です。黒魔術を操る者でなければ、こんな真似は絶対にできるはずがない!」 アーネストはアレイスターに近づき、パジャマの襟をつかんで詰め寄った。「おまえが犯人の癖に、それ以上もうプリチャード先生に触るな!」 「『悪魔の仕業』ですか? 十三歳の、寄宿学校の学生に、そんなに簡単に悪魔を召喚できるのなら、フリーメイソンや黄金の暁団の会員や、自称他称の黒魔術の権威者が大勢いるロンドンの夜空は、さぞかし呼び出された悪魔たちでひしめいていることだろうね」 「なんだと!」 「二人ともよさないか!」 副寮監の先生があいだに入った。 そのうちに警察の馬車が到着し、縄を張り、写真を取り、検死官が検視を始めた。 「みんな、朝食後に刑事さんたちが尋問をされたいそうだ。後で呼び出しがあったら、協力するように!」 副寮監の少し震えるような大声に頷くと、少年たちは三々五々寮へと戻った。 「どうだいロバート、この奇怪な事件、一つぼくらで解決してみないか?」 「えっ?」 不敵に微笑むアレイスターにロバートはたじろいだ。 「まさか刑事たちが黒魔術の仕業にするとは思えないけれど、例えば『黒魔術の儀式の一つになぞらえた犯行かも知れない』などと思い込んで、フリーメイソンや黄金の暁団に聞きこみをしたり、参考文献を読まなければならなくなったら気の毒じゃあないか?」 「えっ、するとこの事件は黒魔術とはまったく関係がないのかい?」 「ああ、おそらくね。『黒魔術がかりに見せかけた犯行』であるかもしれないけれど、『なぞらえたもの』ではないよ」 (そんなことが言い切れるなんて君は…) ロバートはそう言いかけて、あわてて言葉を飲み込んだ。代わりに 「…ぼくは複数犯の仕業だと思うよ。何人か…二、三人かそれ以上でやれば、プリチャード先生を殺して、一本杉のてっぺんまで持ち上げて突き刺すこともできると思うよ」 「なるほど、君の言う通りかもしれない。…晴れ続きで地面が固くなってさえいなければ足跡で推察できたかもしれない。だけども、例え犯人たち…仮に犯人たちと言わせてもらおう…の足跡が残っていたとしても、ぼくたちみんなが駆けつけたから、すっすり踏み荒らされてしまっているだろうね」 「そう、それが残念なところなんだよ」 ロバートは腕組みをして言った。 「もし、用意周到な計画的犯行だとしたら、愛用の靴をはいて犯行に及ぶとは考えにくいしね。そこらあたりを考えて行くと、プリチャード先生があの木の下で殺されたのか、それとも別の場所、教員用の宿舎などで殺されて運ばれたのかを考えなければならなくなる」 アレイスターは腕組みをして言った。 「いくら複数犯でも、別の場所で殺して一本杉まで運ぶのは大変じゃあないかな?」 「だろ?」 魔術師の少年は(我が意を得たり)というふうにベッドに腰掛け、先ほどから何やら描いていたロバートの隣に身体をくっつけるようにして座った。ロバートは思わず描きかけの絵を脇に隠した。 「プリチャード先生は言葉巧みに一本杉の真下までおびき寄せられたんだよ」 アレイスターはロバートの耳に息をかけるようにして囁いた。「…でも、それだったら複数犯という推論がおかしくなってしまうんだ」 「どうして?」 「プリチャード先生は、何か思惑がなければ夜の夜中に一本杉まで行ったりしないからさ」 「と言うと?」 「仮にA君としておこうか…」 アレイスターはまるで怪談でも語り出すかのように、さらに声を潜めた。 「…この話は、いまぼくの頭の中で考えた、まったく架空の話だ。小説と思って聞いてくれてもいい。 A君は成績優秀で、両親の期待も高い… ある不得意な学科…ギリシア語かラテン語か、それとも数学か物理か…とにかくそんな科目で、どうしてもいい点が取りたくて、カンニング・ペーパーを作って試験場に持って入る。ところが現場をプリチャード先生に見つかってしまうんだ」 「そりゃあ大変だ。鞭打ちか、下手をしたら退学処分だ!」 ロバートはまるで自分のことのように顔を引きつらせた。 「プリチャード先生は証拠のカンニング・ペーパーを静かにひったくる。そしてA君の耳にこう囁くんだ。 『後で私の部屋に来なさい。職員室ではなくて、私の部屋にだ」 A君は顔を紅潮させて頷くだけだ。まさに『まな板の上の鯉』というところだろう。 ここで一つ申し添えておかなければならないのは、A君がギリシア神話に出てくるようなハンサムな美少年だ、ということだ。まかり間違っても東洋の羅漢様のような顔はしていない、ということだ。 「どんな顔だろうね」 ロバートは無意識のうちにスケッチブックを取って、デッサンを始めた。 「…試験終了後、自室を訪ねたA君に向かってプリチャード先生は押収品のカンニング・ペーパーをちらつかせながら、眉間に皺を寄せて、こんな感じのことを言う… 『残念だねぇ、A君。私ははなはだ残念だよ。まさか君のような「いい子」がこんなことをするなんてね』 『魔が差したんです。きょうが初めてだったんです』 A君は泣きべそをかきながら言う。 『そうだろう… そうだろう…』 プリチャード先生は意外と同情的だ。 『君はこんなものを使わなくても、普段から真面目に勉強しているからね』 『すると、今回だけは見逃して頂けますか?』 『それは事情によるね。…どうだろう、今夜は暑くもなく寒くもなく、月は明るく、散歩にはもってこいの夜だ。歩きながら話そうじゃないか』 二人は校庭から森へと続く小径に歩み出す。 A君は心持ちうなだれて歩きながら、ぼちぼちと自分の身の上話のようなものを語り出す… 両親は大変躾が厳しいこと。例えばもしも自分がカンニングをしてこの歴史と伝統のある神聖渇望派の学校を退学・放校処分などになったりしたら、まず間違いなく勘当されてしまうだろうこと。きょうだいは優秀な者ばかりで、もしも落ちこぼれたりしてしまっても、白い目で見こそすれ、同情したり救いの手を差し伸べてくれるような者はいないだろうということ… プリチャード先生はなぜかあまり口を差し挟まずに、ほとんど黙って「うんうん。確かにそのような感じのご両親だ」とか言いながら聞いている。 そうこうするうちに、二人は一本杉のある小さな森の中に来ている。月明かり星明かりはあるものの、ほとんど真っ暗だ。寄宿舎から、たまたま手洗いに立った者が窓の外に広がる森のほうを眺めても、木立に覆われていて見えない… 『お願いです、プリチャード先生。だから今回だけはどうか見逃してください。もう二度ととしません! 約束します! 誓います!』 『まぁそんなに取り乱さなくてもいいだろう。まぁ座りたまえ。少し休んでから帰ろうじゃないか』 と、近くの岩か、切り株を勧める。 『君にはとても同情しているよ。私が君の立場でも、同じことをしてしまっていたかもしれない…』 『えっ、すると…』 期待のかけらを持ち始めたA君の手を、先生は両手に握り締める。 『私も前途のある若者の経歴をささいな、つまらないことで汚したくはない、と思っているんだ』 『有難うございます』 プリチャード先生はA君の頭を、まるで小さい子を褒める時のように撫でる… 『今夜一晩、今夜一晩だけでいい! 私とほんのちょっとのあいだ…そう、十五分…いや、十分だけでいい。付き合ってくれたら、きょうのことはなかったことにしてあげよう」 ひげはほとんどない、のっぺりとした頬を近づけられてA君は仰天する。 『やめてください先生! 何をされるんですか?』 「仰天」とは言っても、日頃からクラスメートから噂や冗談を聞いている訳だから、飛び上がるほど驚きではない。 (ああ、「あのこと」はやっぱり本当だったんだな) という気持ちだ。 『どうなんだ? 私はどちらでもいいんだよ』 プリチャード先生はなおも迫ってくる… こんなふうに…」 アレイスターはいきなりロバートの身体を両手で抱きしめた。 「な、何をするんだよ!」 ロバートは驚いて、手を振りほどいて弾かれたように立ち上がって逃れようとした。 「逃げちゃだめじゃないか!」 少年魔術師は、まるでハムレット役の俳優のように、入念に恐ろしい表情を作って見せた。「…おとなしくされるがままになっていないと、退学になるかも知れないんだよ」 「でも嫌だ! 気色悪い! 退学も嫌だけれど、触りまくられたりするのはもっと嫌だ!」 「触られるだけだろうか、果たして?」 重々しい声が響いた。ロバートはさすがに気分が悪くなってきた。 「アレイスター、一体どうしたんだ? 君までおかしくなってしまったのか?」 ふと傍らの勉強机に目をやると、本やらノートやらが散らかった片隅に、切れ止んだ「よろずナイフ」が転がっていた。ロバートは眼鏡の奥の怯えた瞳でしばらくそのナイフを見つめていた。 「どうだろう、チラッとでもそういうことを考えないほうが不自然な気がしないか?」 魔術師はニコニコと、屈託のない人好きのする顔に戻った。 「た、頼むから、悪い冗談はやめてくれよ…」 「でも守ろうとしただろう、『自分の身』を?」 「ああ…」 ロバートはホッとした様子で椅子に腰を下ろした。 「…こんなふうに寮の部屋にいたら、何かの弾みで大声が出るかも知れないし、まず滅多なことはないだろう。特に我等の『神聖渇望派』の寮の壁はボール紙みたいに薄っぺらいしね。…しかし、一本杉のところのような人けのないところだったらどうだろう? 大声で口論しても人に気づかれる可能性は少ない。だから逆に…」 「『だから逆に』?」 「自らの身に危険が迫りそうな予感に襲われた人間なら、予めナイフなり、何かを持参していた、と考えるほうが自然じゃあないだろうか?」 「そ、そうだね…」 「殺意が極地の氷みたいにコチコチに固まっていたのなら、後は簡単だ。服の上からいくら触られようと、服を脱がされようと、『自分で脱ぎなさい』と言われようと、黙って従えばいいんだ。 プリチャード先生が服を脱ぎだしたら、若干面倒なことが増える。殺ったあと、硬直する前に再び服を着せるのは大変だし時間もかかるからね。 だから、犯人は自ら進んで、それもホワイトチャペル街の秘密の見せ物のように、優雅に脱いで見せた、と思うよ。死体に服を着せるより、自分が手早く着るほうがずっと楽だろうし、そこらじゅうに血が付いてしまうかもしれない… まるで音楽に合わせているみたいに、月光に照らされながら上着を脱ぎ、シャツも脱ぎ、スボンも脱ぎ、その下のものも脱いだんじゃないかな。 かたや、プリチャード先生は「ゴクリ」と生唾を飲みながらその様子に釘付けになっていた。「先生」という職業はとてもストレスが溜まる仕事でね。ムラムラとした気持ちが群雲のように沸き上がってきても、他の紳士がたのように、なかなか風俗街へは行きにくい。意を決して出かけても常に、出てきたお相手や踊り子が教え子だったり、目撃されたりしたらどうしよう? という不安がつきまとって心底からは楽しめない… だから「一本杉」でそういうものが見れたプリチャード先生は大感激だったと思うよ。「これ」と目を付けて脅かした美少年だっただろうしね。…もしもそう美しくない少年だったら、それこそ鞭打つとか、別の楽しみかたをしただろう… 『素敵だよ、A君… まるでミケランジェロの彫刻のようだ』 先生はA君を褒めたに違いない。このあたりは男女間のそれと同じだ。『言葉』というのはとても重要な『お楽しみの要素』だろうからね。 『プリチャード先生、どうか触れてください』 A君はまるで生け贄のように、岩の上のしどけなく横になった。 先生は喜んで、A君の髪を触り、頬ずりし、身体を触り、やりたい放題したことだろう。 じっと耐えていたA君は、そのへんに隠していたナイフでプリチャード先生をぐさりと刺す… すっかり油断していた先生はひとたまりもなく絶命したことだろう…」 「なるほど、君は単独犯が、先生を一本杉まで誘い出して殺害した、と言うんだね?」 ロバートはハンカチで顔の汗を拭いながら言った。 「ああ、たぶんその時の様子はこんな感じで間違いないと思う」 「でも、先生は一本杉のてっぺんに突き刺されていたんだよ。犯人がそれをどのようにやったか、証明できないとだめだよ」 「それはいまから考えるのさ!」 アレイスターは片目をつむった。 食堂での朝食は、暗い雰囲気だった。まず第一に、毎朝神様への感謝の祈りの音頭を取るプリチャード先生がいなかった。副寮監の先生も、到着した警察の事情聴取を受けているいるとかで姿を見せなかった。 寄宿舎の生徒たちはいつものように食卓に向かい合って座り、委員長のマックスの祈りの言葉に唱和した。 「天にまします我等が父よ、きょうもまた日々の糧をお与え下さって感謝します…」 普段は食事中の私語は禁止されていたが、こういう有様だったので、たちまちあちこちでひそひそ話が囁かれた。 「…いつかはこんなことが起きるような気がしていたよ」 「『こんなこと』って?」 「プリチャード先生さ」 「実はぼくもかねがねそう思っていたんだ」 「だろう? 確かに少しおかしかったよな」 「ああ、尋常じゃあなかった」 ロバートは冷めたベーコン・エッグをなかなか食べきることができなかった。ベーコン・エッグが冷たくなっているのはいつものことだったが、今朝はとりわけミイラのようで、おいしいという感じがまったくしなかった。 かたや、アレイスターは、その発掘品のような朝食をパクパク食べていた。 「どうした、ロバート、腹具合でも悪いのか?」 「いや、そんなことはないよ。お爺ちゃんの葬式以来、久しぶりに遺体を見たせいだと思うけれど…」 「そんなこと言っていたら、絶対に医者とかにはなれないぞ」 「ぼくは医者になるつもりはないよ」 「魔術師にもなれないぞ」 「魔術師になるつもりもないよ。ぼくはできたら画家になりたいんだ」 「ダヴィンチは解剖もやっているぞ」 「ああ、そうだね。ダヴィンチは偉大だよ」 朝食の後は、一人一人警察の事情聴取があるとのことで、それぞれの教室で自習しながら待て、とのことだった。 生徒たちは思い思いに教科書とノートを開いてはいた。まるで何かを振り払おうとしているかのように無我夢中でペンや鉛筆を走らせている者もいたが、ボーッとして窓の外の森を眺めている者や、ノートに意味のない線や記号の落書きを描いている者もいた。 アレイスターは、事情聴取から帰ってきたばかりの科学研究部部長のウイルバーの前に立った。ウィルバーは、たぶん無意識にだろう、一本杉に串刺しになっている「へのへのもへじ」の絵を描いていた。 「なぁウイルバー、刑事さんは君を疑っていたかい?」 「いいや、熱気球もよく調べて『これでは二人が乗って浮かび上がるのはまず無理だな』と納得してくれたよ」 ウィルバーはホッとした様子だった。 「ところでウィルバー、君はこの学校で一番の熱気球の権威だと思うんだけれど、一体どこでどんなふうに勉強したんだろう? よかったら教えてくれないか?」 「ほとんどは本だよ。図書館なんかに置いてある本を読んで、ノートに写したりしたんだ。自分で買った本もあるよ。かれこれ二、三十冊は読んで勉強したかな。あの気球はほとんど最近一人乗りで成功したものをそっくりそのまま真似て、科学研究部のみんなで力を合わせて作ったものだから、もう一つ胸を張って自慢したりはできないのだけれど、機会があったら、今度はオリジナルの熱気球を作ってみたいと思っているんだよ。…でも、こんな事件があったらもう無理かもしれないな」 彼は誇らしさと残念さが入り交じったような複雑な表情で言った。 「君たち科学研究部のみんなが『熱気球を作って乗りたい』と最初に言った時、プリチャード先生は何とおっしゃった?」 「それはもう、猛反対されたよ。まず第一に危険。『ご両親からお預かりしている君たちに万一のことがあったら、私が責任を取らねばならないのだよ!』と怒鳴られた。『どうしてもやりたければ、もっと勉強して大学生になって成人して、自分で責任を取れるようになってからやりなさい』ってね」 「それなのにどうして一転して許可が下りたんだい?」 「父だよ…」 ウィルバーは照れてはにかむように、少し頬を染めた。「…父は冒険にとても理解があるんだよ。父自身もアフリカやアマゾンや、ヒマラヤやオーストラリアの探検隊に加わって出かけている。『ここ』の講堂で講演会をしたこともあるから、君も覚えているだろう?」 「ああそうだった!」 アレイスターは指をパチリと鳴らした。「…とても面白く興味深いお話しだったよ。ぼくも大きくなったら絶対にインドや中国や日本に旅をしてみせるぞ、と決心したよ」 「だろ? …それに、こんなことを言ったら何だけれど、父は『神聖渇望派』の熱心な信者で、たくさん寄付をしているんだよ。もちろん、この学校にも。だから、おべっか使いのプリチャード先生は、学校の理事や校長先生や教頭先生たちから『生徒の進取の芽を摘むのはどうか?』とか言われて、コロッと態度を変えたんだよ。それでもあまりいい気はしていなかったみたいだけれど…」 「材料は、気球の材料もお父上が用意してくれたのかい?」 アレイスターは重ねて尋ねた。 「そのような、そうでないような…」 ウィルバーは無意識にノートのページをパラパラさせながら、初めて口ごもった。 「ぼくのお父さんと関係があるんだよね」 横からロバートが口をはさんだ。 「…前に話したことがあるかも知れないんだけれど、アレイスター、ぼくのお父さんはゴム製品などを商っているんだ。英領マレーシアや英領ボルネオのプランテーションから天然ゴムをただ同然で輸入して、小さいのは輪ゴムから大きいものは広告用の水素無人気球を作っている。ハロッズ百貨店や、大きなサーカス団が上げているやつさ。軍のために観測風船や偵察風船も納めている。ああそうそう、避妊用具も作っているよ。馬車の車輪に巻くゴム・タイヤも研究中だ。いわば『ゴム成金』なんだよ」 「へぇー それは聞き始めだよ。ロバートのお父さんは大実業家なんだ。羨ましいね」 そう言いながらもアレイスターは、瞳をキラリと輝かせた。 「恩着せがましくなるけれど、ウィルバーが熱気球を研究していることを知った父は、雨の日でも上がる最高級のゴム引きの軽くて丈夫な布を提供したんだよ」 「君の父上には本当に感謝しているよ、ロバート」 「いいや、ぼくの父こそ、探検家である君の父上のことを、とても尊敬しているよ。『もし人生をやり直せるのなら、商売ではなく冒険をやりたかった』ってね。…お陰で父兄会でもつながりができたようだし…」 「…警察に聞かれた後でまた聞かれるのは嫌だし、しつこいと思うだろうが…」 アレイスターは「ゴホン」と咳払いをして続けた。「…ウィルバー、君はその… プリチャード先生のご遺体が一本杉に突き刺さっているのを目撃して、何か変なこと…というか、奇妙なことに気が付かなかっただろうか? どんなささいなことでもいいんだ」 「うん…」 ウィルバーは頷いた。「気球から見たとき、先生のご遺体がブランブランと揺れていた。その揺れかたがゆらゆらと揺れているだけではなくて…」 「ではなくて?」 「…何かこう、上に向かって持ち上がりそうな感じにも揺れていたんだ。…と言っても、ぼくは目がいいほうではないし、明けがたでまだ暗かったので、文字通り気のせいだったのかも知れないのだけれど…」 委員長のマックスは、警察の事情聴取を受けて、アーチェリーの練習場に戻っていた。 ヒョゥッと風を切って放たれた矢は、見事に数フィート先の的の中央近くに次々と刺さっていた。 アレイスターは、休憩中でタオルで顔の汗を拭っているマックスに近寄って、おもむろに話しかけた。 「刑事さんに何を聞かれたか、聞いてもいいかな?」 「『何を』って、昨夜から今朝にかけての一連の出来事のことだよ」 マックスは結構大きな、本格的な洋弓を使っていた。 「…これって、人を殺すことができるだろうか?」 アレイスターは弓を持ち上げてみて言った。「ああ。名人ならね。もともと狩猟や戦争の道具だし… だけども、不意打ちでもしなければ、狙いを付けられているヤツは逃げるだろうな。動いている者を殺傷するのは、よほど上手な者でないと難しいだろうな。…競技会ではこんなふうに動かない的しか使わないからな」 「気を悪くしないで欲しいんだが、もしも相手が油断していて…例えば背中を向けていたりしたら、最初の一矢で殺すことはできるだろうか?」 「やれやれ、それは刑事にもされなかった質問だな」 いかついマックスが少し胸をそらし、道化師のようにおどけて見せた。 「それはちょっと言い過ぎだよアレイスター」 ロバートがあいだに割って入った。「…ごめんよ、マックス。思いついたことはすぐに口に出してしまうたちなんだよ、クロウリー君は」 「君が謝らなくてもいいよ、ロバート。…答えはイエスだ。もしもプリチャード先生が背中を向けていて、いわゆる至近距離で、オレがこのアーチェリーを構えるのに気づかなかったとすれば、殺すことはできる」 「マックス、ぼくは何もそんなことは…」 アレイスターはかぶりを振った。 「二人とも、ぼくは軍人になるのが夢なんだ。軍人は決して、そんな不確実な方法には頼らない。もしもやるのなら、近寄ってナイフでブスリとやったほうがよほど確実だ。例え返り血を浴びる危険があってもね。だけどもオレにはプリチャード先生をやる動機がない。そりゃあ先生のやりかたには、委員長として眉をひそめることも多かったし、処罰の仕方にも疑問を持っていた。でも、だからと言って、殺したいと思うほどの恨みは抱かなかった。もうじき卒業だし… それに第一、オレには先生の遺体を一本杉のてっぺんに突き刺すようなことはとても無理だ。オレ一人ならよじ登れるかも知れないが、遺体を背負って、というのはいくらなんでも…」 「分かったよ、マックス」 アレイスターは委員長のいかり肩をポンポンと叩いた。「分かっているとも!」 事情聴取から戻ってきたアーネストは、いつもの神懸かり的な元気はどこへやら、すっかり憔悴、意気消沈していた。 「おいロバート、次は君のようだよ。早く行ってこいよ。…まぁ君のような非力なヤツには、犯行は絶対に無理だと思うけれど、それでも実行犯は別にいて、計画を立案する役目だったのかもしれない。もしそうだったら、早く白状して、懺悔して、少年院に送られたらいいんだ!」 「そうだね。ぼくはいままで何十回、何百回、もしかしたら何千回もプリチャード先生の殺害計画を頭の中で思い浮かべたよ」 ロバートは寂しそうに微笑みながら肩をすくめた。 「ロバート、おまえやっぱりやっているな! 誰に頼んだ?」 アーネストが襲いかかるのをアレイスターが押しとどめた。 「まぁまぁ、若者だったら誰でも空想の中で厳しい親や教師を殺しているさ。刺殺、撲殺、銃殺、毒殺、転落死、なんでもござれというところかな」 「罰当たりなおまえたち… ぼくは自分の両親をとても尊敬しているぞ! 恨んだり、傷つけたりしたいと思ったことは一度もない! 先生がたやプリチャード先生も、立派な人たちばかりじゃないか! それを… それを…」 「いや、アーネスト君、君は本当に立派だよ。この『神聖渇望派』学校生徒の鑑だと思うよ」 アレイスターは穏やかに言った。そのあいだにロバートが出て行った。 「…ところで、一つ二つ、聞いてもいいかな?」 アーネストは眉を吊り上げた。 「刑事や警察官にならともかく、どうして君のような黒魔術の使徒の質問に答えなければならないんだ? いったい何の権威があって尋ねるんだ? この犯行にしたって、おまえたちが寄ってたかってプリチャード先生を殺めて、つるし上げたのに決まっている! 犯行に関わった者はみんな死刑になればいいんだ!」 「まぁ落ち着けよ。ぼくはただ、事件の真相を明らかにしたいだけなんだ。君も本当のことと言うか、真実を知って、真犯人に罰を下して欲しいだろう?」 「ああ、それはもちろん…」 「じゃあ、もう一度一緒に考えてみようじゃないか。もしも君が新たに思い出したり、思いついたりしたことがあったら、必ずぼくから刑事さんに伝えておくよ」 「そうかい?」 アーネストの眼から猜疑の光は消えなかったが、それでも以前のような敵意は少しだが減っていた。 「刑事さんたちの前でも『黒魔術を使う者が、魔物を召喚して運び上げた』といったのかい?」 「いいや。それはさすがに言えなかったよ」 「では何と?」 「『プリチャード先生を恨んでいた何人かの生徒たちが、共謀して遺体を運び上げたような気がする』と言ったよ」 「すると刑事さんたちは?」 「『複数の…三人以上の犯行は、確率的にどうしても発覚しやすいし、目撃もされやすいんだ』とおっしゃってた」 「ぼくもそう思うよ」 アレイスターはかすかに頷きながら言った。「きっと神様がご覧になられていて、啓示をくださると思うよ」 次にアレイスターは、プリチャードの助手で副寮監の先生を職員室に訪ねた。 「ああ、まったくえらいことになってしまった。新聞記者やカメラマンたちは塀を乗り越えてやってくるし… みんなには黙っているように言っておいたが、どこまで守られるか分からないし… こんな事件だ。どんなにセンセーショナルに報道されるか、分かったものじゃあない!」 副寮監は机の上に突っ伏して頭を抱えていた。 「大丈夫ですよ、先生。きっとすぐに解決しますよ」 「君は簡単に言うけれど、アレイスター君、こんな奇々怪々なことは切り裂きジャック以来じゃないか? 父兄や理事や、ご寄付を頂いている人たちに何と説明してよいものやら…」 「そんなことは、それこそ理事さんたちお偉いかたが心配すればいいんです。…それよりも先生、ここ数日間、変わった…というか、奇妙なことはありませんでしたか? どんなことでもいいんです。刑事さんたちに話されたことを、ご面倒でももう一度お願いできませんか?」 「変なことと言えば…」 副寮監は青ざめた顔を上げて虚空を見つめた。「…実験室の、薬品棚から亜鉛と、希塩酸と希硫酸がかなり減っていた。何者かが合い鍵を作って盗み出したようなのだが…」 「『亜鉛と希塩酸、希硫酸』ですか?」 「ああそうだ。それと…」 「それと?」 「体育会のアーチェリー部から、『弓が一はりなくなくなりましたが、またすぐに戻されていました』と… どうせいたずら者が鳥でも撃とうと…」 「そうですか!」 アレイスターは思わず顔がほころぶのをこらえることができなかった。 面接室の扉をノックすると、どうぞ」という少し陰気な声が返ってきた。 中入ると、一見眠そうな眼をした背広姿の刑事が小さな机に座っており、制服の警官がメモ帳と手帳を手にして立っていた。 「座りたまえ」 アレイスターは、いつもプリチャードにねちねちと小言を言われていた椅子に浅く腰掛けた。 「私はロンドン警視庁のブレード警部だ。君の名前と年は?」 「エドワード・アレクサンダー・クロウリーです。が、みんなは『アレイスター』と読んでいます。ぼくもそちらのほうが気に入っています。十三歳です…」 警部は彼に生い立ちや経歴などの簡単な質問をした。彼は、父が亡くなって嫌々ながらこの「神聖渇望派」の寄宿学校に入学させられたことなどを語った。 「…ふむ、プリチャード先生が、夜中にみんなを集めて『春画を描いた者が名乗り出ないと、翌朝全員に罰を与える』と言ったあと、君はどうしたのかね?」 「同室のロバートと共に、自分たちの部屋に戻って眠りました」 「いきなり単刀直入に尋ねるが、ロバートはずっとおとなしく眠っていたかね?」 「分かりません… ぼくは疲れていてすぐに寝てしまいましたから… 最後に見た時は、毛布は人の形に膨らんでいましたが…」 「問題の絵を描いたのはロバートである、ということは分かっている。このことはロバート自身も認めている。ゆえに、動機の点からすると、彼がもっとも怪しい。彼のせいで皆が罰を受けなければならなかったからだ。しかし、ロバートはひ弱で、どう考えてもプリチャード先生の死体を一本杉の上まで運び上げられたはずはない。熱気球少年のウィルバーや、委員長のマックスが手を貸したもの、とアタリを付けているのだが…」 「そうですか…」 「クロウリー君、…いや、クロウリー、君も一枚噛んでいるのじゃあないか?」 ブレード警部は頬を引きつらせた。眠そうに見えていた瞳は怪しく輝いてアレイスターを睨み付けた。 「いえ、ぼくは何もやっていません」 「みんなそう言うんだ! だが、おまえたち餓鬼どもは、何をしでかすか分かったものじゃあないからな。刈り入れ前の麦畑を、奇妙な幾何模様に刈り込んで『宇宙人の仕業です』と言ってみたり、蛙を何百匹と捕まえて箱に閉じこめておいて一斉に放してみたり…」 「ですから、夜中に集まって、ロバートが描く興味深い絵を、みんなでドキドキしながら鑑賞していたんです。ほとんどの生徒はそれ以上のことはなく、おとなしく寝ていたと思います。プリチャード先生から罰を受けるのは、いつものことでしたし…」 「『いつものこと』? だったらさぞかし、先生を恨んでいた者は、一人や二人ではなく、多かったことだろうな」 「そのことについては否定しません」 「そうだろう…」 ブレード警部はメモを取っていた制服警官を見上げた。 「君、すまないが少しだけ席を外してくれ」 「えっ、しかし聴取は二人以上でする、というのが規則では?」 「少しのあいだだけだ。すぐ廊下に居てくれればいい」 「そうですか…」 警官は渋々出て行った。 ドアが静かに閉められるのを眺めていたブレード警部はゴホンと小さく咳払いをした。 「クロウリー、噂によると君は、黒魔術に関心を持っていて詳しい、ということだそうだが、本当かね? …嘘を付くとためにならないぞ」 「そんなに力まなくても大丈夫ですよ、警部さん」 「質問に答えたまえ!」 「それの噂は本当ですよ。黒魔術関係の本を読むのは好きですし、将来ここを出たら、本格的に学んでみたいとも思っています」 「やっぱりそうか! では、憎い相手の遺体を高い木のてっぺんに突き刺すというのは、何か意味があることなのか? 何かのサインなのか? それとも死者の魂が地獄に堕ちるように、との呪いか何かなのか?」 しばらく間があった。アレイスターは東洋の仏像のような微笑みを浮かべて言った。 「…ぼくの知る限り、黒魔術としての意味はありませんよ。疑われるのだったら、フリーメイソンか『黄金の暁団』にでも行って詳しく尋ねてみられたらいいでしょう」 「私は君に尋ねているのだ、アレイスター」 ブレード警部は立ち上がって彼の背中に回り込み、少ししゃがんで頬を近づけ目を見つめた。「…黒魔術は『一人一派』と言われるほど、数多くの不可解な儀式や手順があると聞いている。どうなんだ?」 「木に突き刺したことには、別の意味があるのですよ。必要なものを揃えて頂けるのなら説明してご覧に入れます…」 「ブレード警部や警察の人たちはもう帰ったのかな?」 ロバートはまた、自らを落ち着かせるように、イラストの下書き帳に鉛筆を走らせながら言った。 「さぁどうかな」 アレイスターは読みかけの本を閉じて言った。「主だった先生がたや寄宿生徒たちへの質問が終わったら、いったんスコットランド・ヤードに引き揚げるんじゃあないかな」 「やっぱりぼくらの中に犯人がいるのだろうか?」 うつむくロバートの横顔を、窓越しに穏やかな秋の光が照らした。 「ああ、そうだろうね。とても残念なことだけれど…」 アレイスターは敷地にはらはらと散る落ち葉を眺めて言った。「プリチャード先生ではないけれど、警察の捜査が進む前に、自首して欲しいものだ」 「まったく…」 警察の検視が終わると、プリチャード先生の葬式が行われた。先生は身寄りがなく、遠い親戚が来るまでは、学校のすぐ近くの教会の墓地に葬られることになった。 「神聖渇望派」寄宿学校の生徒たちは、全員黒い背広に黒いインヴァネス・マントの正装姿で参列した。 「プリチャード先生は、まことに教育熱心でした…」 国教会の牧師様のお祈りのあと、校長先生が弔辞を述べた。「…それは勉強のみならず、生活態度やしつけ全般にも及び、恨まれることを恐れない愛の鞭は…」 「『恨まれることを恐れない愛の鞭』だってさ!」 「よく言うよ」 「いや『愛の鞭』というのは案外間違っていなかったかもしれない」 ロバートとウィルバーとマックスは囁きあった。 冷たい風が吹く中、生徒たちは墓穴に納められた先生の柩にシャベルで土をかけた。 「ところで、年少組の生徒たちが先生の幽霊を見た、という噂は本当だろうか?」 アレイスターが声を潜めて尋ねた。 「実は… ぼくも見たんだ」 ウィルバーは青ざめた顔をますます青白くさせて言った。「…昨夜、夜中に手洗いに立った時に…」 「おいおいウィルバー、君は科学の信徒のはずなのに、そんなものを信じるのか?」 寒さのせいかロバートの声もかすかに震えていた。 「…先生は、いつものように薄い髪の毛をべったりとポマードで固めて、手には例の鞭を持って、廊下の向う側から来て角を曲がって行った。腹と背中は破れて茶褐色の染みが浮かんでいたと思う…」 「ど、どうせ誰かが扮装していたずらをしているんだ」 いつもは私語などしないはずのマックスも、大柄な身体を貧乏揺すりしながら言った。 「そうだね。きっとそうに違いないよ」 ロバートは一人頷いていた。土の上に、白と黄色の秋の花束が置かれた。「だって先生はもうこの下に眠っておられるんだ。昨夜まではどうか知らないけれど、今夜からはきっと、もう天国に行かれているから出ないと思うよ」 その日の夜更け、そっとベッドから起きあがったロバートは、アレイスターの耳に囁いた。 「アレイスター、アレイスター…」 「ううん、なんだよ、ロバート」 「すまないが一緒にトイレに行ってくれないか?」 「いい加減にしろよ。小さい子供みたいだぞ」 少年魔術師は頭から毛布をかぶり直した。 「君は黒魔術に興味があるんだろう? いままでに本物の幽霊や亡霊を見たことがあるのかい? あったとしても、ないにしても、チャンスじゃないか?」 「仕方がないなぁ…」 アレイスターは渋々起きあがると、あくびをかみ殺しながらロバートの先に立って歩いていった。 「まぁ繊細な君のことだから無理もないとは思うが…」 「でも、いたずらだとしたら、ずいぶんとたちが悪いよね。何年かたって伝説になってからならともかく、先生が亡くなられて間がないというのに…」 「それを言うのなら、先生を殺した者のほうがもっと良くない」 用をすませて部屋に戻ろうとすると、廊下の向こうの端のほうをふわふわと漂うようにゆっくりと横切る人影が見えた。夜中なのにちゃんと服を着て気のせいか髪型その他がプリチャード先生に似ていた。 「で、出た!」 ロバートは腰を抜かせて、ヘナヘナとその場にしゃがみ込んだ。 「うろたえるな! 誰かのいたずらだ。君は誰かと一緒にいろ!」 言うなりアレイスターは駆け出した。 だが、人影のあったところまで来て四方を見渡すと、あやかしは忽然と消えていた。 「まったく困った寄宿舎だ。『英国心霊研究協会』のメンバーに来てもらって調査してもらおうか」 暗闇に苦笑いが浮かんだ。 翌早朝、日課のジョギングを再開していたアーネストが、ふと何気なく一本杉のてっぺんを見上げると、朝靄の中に人の形が串刺しとなってゆらゆらと揺れていた。 「ギャーッ!」 彼は、今度はためらわずに悲鳴を上げた。 その悲鳴を聞きつけて、ロバートやマックスや、ウィルバーや、他の生徒たちがパジャマ姿のまま走ってきた。 なぜかブレード警部もその中にまじっていた。警部は、きちんと背広を着ていた。 「また誰かが殺されたと言うのですか? …まさか、そんなことはあり得ない!」 ロバートはまっ青な顔で言った。 「何ということだ…」 委員長のマックスは呆然としていた。 「ぼくは… ぼくはあれから一度も気球なんか飛ばしていないですよ!」 ウィルバーは言い訳にやっきになっていた。 と、次の瞬間、突き刺された遺体はフッとかき消すように消えたかと思うと、『神聖渇望派』学校の制服を着たヒトガタがドサリと落ちてきた。 が、それはよく見ると等身大の縫いぐるみだった。 「皆さん、これでお分かりになったでしょう?」 木陰からアーチェリーの弓を携えたアレイスターが姿を現した。 「アレイスター君、これは一体どういうことなんだ?」 生徒たちと警部は、異口同音に尋ねた。 「だから、人間の形をした… つまりプリチャード先生の形をした風船だったのですよ。 木のてっぺんに突き刺さっていたように見えたのは、実は『木のてっぺんに突き刺さっているプリチャード先生の形をした風船』だった、ということです」 「何だって?」 「犯人は、化学実験室から亜鉛と希塩酸や希硫酸を失敬しました。何のためか? 水素を作るためです。水素がなければ風船を上げることができません。本当のプリチャード先生のご遺体は、滑車か何かを使って、せいぜい一番下の大きな枝にひっかけてあっただけです。だから、あんな高いところから落ちた割りには、骨はあまり折れていなかったのです。 実際は、てっぺんから落下した訳ではなかったのです… 誰か目撃者に目撃させたら、すかさずアーチェリーで風船を割り、さして高くない枝に持ち上げてあった遺体を落とせばいいわけです。後は矢を回収すれば完了です。割れた風船は粉々になっているので、見つけられる可能性はごくごく僅か、です」 「風船… 風船だったのか…」 ウィルバーはポツリと言った。 「そう、だから君が『何かこう、上に向かって持ち上がりそうな感じにも揺れていたんだ』というのは間違いじゃあなかったんだ」「でも犯人はどうしてそんな面倒なことを?」 マックスが尋ねた。 「遺体を木のてっぺんまで持ち上げることは、真犯人には絶対にできないことだ、と思わせるためですよ。つまり真犯人は、熱気球にも乗れない、遺体を担ぐこともできない、非力な者だ、ということですよ。だから、ウィルバー君があの夜、気球に乗って、遺体…実は風船を目撃してくれたことは、犯人にとってものすごく幸運なことだったのですよ」 「真犯人は一体誰なんだ?」 ブレード警部が手錠を取りだした。 「犯人は、風船の扱いに長けた人物ですよ。 もとから人の形をした風船、などというものはありません。色んな長さの細長い風船や、丸い風船をねじったり、結びつけてくっつけたりしていろんな形を作るのです。風船作りの大道芸人が、子供たちのためにいろんな動物の形の風船をねじって作るように… さらに、その風船に、プリチャード先生そっくりに姿形をペイントできる者でなければなりません。絵が下手で、先生そっくりに見えなければ何にもなりません」 みんなの視線が一斉にロバートに注がれた。「それは確かにぼくの実家は風船を作っている。似顔絵も… でも、それだけじゃあ証拠は…」 「わざわざ幽霊を作って、ぼくに見せたのも君の仕業だ、ロバート。予め膨らませて物置に隠してあった風船を、遠くから糸を使った掛けがねを外すなどして登場させて、しぼませる… トイレに誘った君でないとできないことだ。それに、いまこの風船の遺体を見たとき君は『まさか、あり得ない!』と言った。なぜ『あり得ない』と断言できるのか? それは最初にやったのが君だからだ。…残念だよ」 アレイスターは哀れむような目で友を見た。 (次のエピソードに続く) KIJISUKE@aol.com