ブライディー・ザ・マジックメイド

 北海の邪神

 登場人物
 ブライディーさん…不思議な力のあるメイドさん。ふだんは「英国心霊研究協会」に住み込んでいる
 シスター・セアラ… ブライディーの「お姉さん」のようなシスター
 シスター・エゼル…北海の孤島の女子修道院で、妊娠して亡くなったシスター
 シスター・キーウリン…その老院長
 シスター・エレ… その総務長
 シスター・ベンダ、シスター・ワルド、シスター・マーシア、シスター・エグベルト…その見習いシスターたち



『海はその中にある死人を出し、死も陰府(よみ)もその中にある死人を出したれば、各自(おのおの)その行為に従ひて審かれたり』(黙示録20.13)

 ヴァチカン法王庁の紋章入りの鹿皮の巾着に入った金貨でチャーターされた小さな蒸気帆船は、アイルランドの遙か北の海、ヘプリデス島近くの、名もない絶海の孤島を目指していた。
 遅い夏の海は穏やかに凪いでいるとはいえ激しく揺れ、秋、冬の厳しさを容易に想像させた。
 船頭のほかに小舟に乗っているのは、二十代後半の美しいシスターと、十代後半の可愛いシスターの見習いだった。
「気分は悪くありませんか?」
 年長のシスターが尋ねると、ブライディーと呼ばれた妹のようなシスター見習いが波しぶきを受けるとも構わずに
「はい、大丈夫です。セアラ様。セアラ様に頂いた船酔い止めの丸薬のお陰だと思います」
 と、元気よく答えた。
「すみませんね、こんな地の果て、海の果てまで連れてきてしまって…」
 セアラは、申し訳なさそうに言った。
「いえ、わたくしでお役に立てるのなら」
 そう言うブライディーは、セアラと一緒に旅ができることが本当に楽しそうだった。
「帰りはいつになるか分かりません。この海は、冬は氷山のカケラに閉ざされてしまいます。もしかすると、来年の春まで、ロンドンには戻れないかもしれませんよ」
「それでも構いません。マリア様のようなセアラ様とともにいられるのなら」
 見習いシスターは頬を赤く染めた。
「あれですだ」
 皺だらけの日焼けした顔にねボロボロの船員帽をかぶった船頭がいきなり声を出した。
 シスターたちが振り向くと、灰色の海の彼方に、上空に数羽のカモメが群れ飛ぶ岩礁のような島があった。
 小舟が近づくに連れて、四方が切り立った岸壁の上に、苔むした小さな石造りの修道院が建っているのが見えた。
「…あれが、聖ブレンダン女子修道院…」
 二人は軽く抱き合いながら、異口同音につぶやいた。
 それは、陰鬱かつ恐ろしそうで、修道院と言うよりは、悪魔の居城のような景観だった。
 船が岸壁の下に到着すると、一人乗りの気球の籠のような、紐で吊された樽がするすると船の上に降りてきた。
「ブライディー、貴女が先に上がりなさい」
 セアラに促されて、上縁をまたぎ、ブライディーが樽に乗り込むと、ガクンガクンと揺れながらゆっくりと持ち上げられ始めた。
 眼下の、小舟の上のセアラと船頭がじょじょに小さくなって行く…
 顔を上げると、ふいに目の前に顔色の悪い数人の、まるで珍しい動物を見るようなシスターたちの顔が見えた。
「ようこそ、いらっしゃい、シスター…」
「見習いのブライディーです」
 ブライディーはリーダーと思しき丸顔の人の良さそうなシスターと抱擁と頬への接吻を交わした。
「総務長のシスター・エレです」
 樽は再び降ろされ、セアラを乗せて引き揚げられた。ブライディーも引っ張るのを手伝った。目の前で張り出された滑車がカラカラと回った。
「セアラです。法王猊下より使命を授かり、参上致しました」
 油紙に包まれたラテン語で書かれた勅命状が広げられた。
「遠路はるばるご苦労様です。まったくもって奇怪な事件で…」
 シスター・エレは続けかけて口をつぐんだ。

「こちらが祈りの場になっております」
 シスター・エレによって案内された礼拝堂は、二人掛けの木の長椅子を二列に十くらい並べた潮の香りと湿気が立ちこめていた。
 陰鬱な色調のステンドグラスからは北国の弱々しい太陽の明かりが差し込む内陣の奥の、飴色の磔刑像やマリア像は普通だったが、居並ぶ聖人像のうち、聖ブレンダンは古代のガレー船を背景に、大小の魚を従えていて、ブライディーには珍しいものだった。二人は跪いて、短く祈りを捧げた。
 質素な応接室に通された二人に、十歳くらいの、鶏がらのように痩せたちっちゃな見習いシスターが、紅茶とクッキーを運んできた。
「シスター・マーシアと申します。セアラ様とブライディー様のお世話をするように申し使っております。なんなりとお申し付けください。後でお部屋にご案内させて頂きます」「よろしくね、マーシア。わたしたちはこんなには食べないから…」
 セアラは自分とブライディーのクッキーを一切れずつだけ残して、紙に包んで渡してやった。
「有難うございます。貴女がたに神様とマリア様の祝福がありますように」
 マーシアは顔をくしゃくしゃにしながらクッキーを修道服の中に隠すと、小走りに出て行った。

「まさしく、煩悩を断ち切ろうと試みるにはふさわしいところね」
 セアラが木製のの観音開きの窓を開けると、ただ何もないグレーの海が広がっていて、ただ、自分たちを運んできた小舟が、日没までに戻ろうと本島に向かっているのが芥子粒のように見えた。
「みなさん、顔色がとてもお悪いような…」
 ブライディーはテーブルに置かれているチェス・セットを見つめながら言った。
 駒は、オウム貝や、大王イカや、イソギンチャクと言った不気味な海の生き物たちで、材料も貝殻を削って作ったもののようだった。「木はまったくないし、たぶん野菜や果物が少ないのでしょう。わたしたちがたくさん持ってきたので、当分少しはましになるかも」 セアラもやって来て覗き込んだ。「珍しい定跡ね、とても古い、何百年も前の…」
「ようこそ、聖ブレンダン女子修道院へ」
 地獄の底から響いてくるような、かすれしゃがれた声に二人が振り向くと、ミイラかと思う皺だらけの老シスターがねじ曲がった身体を杖を頼りに立っていた。
「わしが院長のシスター・キーウリンじゃ…」
「はじめまして、わたくしはセアラ、この子は見習いのブライディーです」
 セアラは、片膝をついて拝礼し、ブライディーもそれに倣った。
「『見習い』? いきなりこんなことを言っては何じゃが、そんな子が、今回のことで役に立つのじゃろうか?」
 シスター・キーウリンは白く濁りかけた目でブライディーをギロリと睨み付けた。正直に「とてもお役に立つと信じます」と言えないセアラは、微笑みながら答えた。
「将来とても見込みがある子なのです」
「そうか… 礼拝堂での祈りはすでに済まされたと思うので、シスター・エレに残りの建物を案内させよう…」
 院長の背中から現れたシスター・エレは、何か怯えているような足取りで、口の字の形をした建物の中庭に出た。サッカーのコート二、三面ほどの小さな土地の三分の一は、ここで亡くなった尼さんたちの墓で、岩を削って作った10インチから20インチくらいの小さくて粗末な十字架の石板が並んでいた。残りは畑で、拳ほどの芽キャベツやレタスや、ショボショボとしたアスパラガス、そして薬草類が植えられていた。
「建物で海風を防いで育てています。千数百年前からの智慧と申せるでしょう。しかし残念ながら、日当たりが悪いのと、水を十分に施せないので、夏でもなかなか大きくはならないのです…」
 シスター・エレは芽キャベツに付いている青虫を指先でつまんで取り、靴で踏みつぶした。
「お水は、天水ですか?」
 セアラが質問した。
「そうです。雨は結構降るのです。嵐は、月に数回あります。そして冬は雪と氷に閉ざされてしまいます… しかしこのようなところでも、神様のみ恵みに感謝して、四十二人の修道女たちが、祈りの日々を過ごしているのです」
 エレはところどころ石壁の隙間に海鳥が巣を作っている建物の二階、三階部分を示して言った。
「飲んだり、料理や洗濯に使ったり、時おり身体を清めるための水は、神様が下さいます。が、大切にお使いください」
「はい」
 ブライディーは、東側にあるやはり灰色の石造りの鐘楼の塔を眺めながら答えた。
「あの塔ですか? もちろん時刻や祈りの時間を知らせるために鳴らします。当番が決められていて。…おお、もうじき鳴ります」
 鐘楼に黒い尼僧服姿の人影が現れたかと重うと、綱を引いた。
 ガラーン ガラーン ガラーン
 孤島の女子修道院に、暗く重苦しい鐘の音が響き渡った。それは、夏なお冷たい波間を渡って、四方へと散っていった。
 三人は十字を切り、夕べの祈りを祈った。「で、密書に書かれていたことは本当のことなのですか?」
 セアラは澄んだサファイア色の瞳で、エレの不安に満ちた目を見つめた。
「この子にも聞かせていいのですか?」
「先ほども申し上げたように、わたしの知る見習いの中では、最も信仰の篤く聡明な子です。なにとぞご信頼を…」
 シスター・エレは何者か姿なき者から逃げるような足取りで、真新しい、仮作りの木の十字架の前まで来た。十字架には「シスター・エゼル。俗名… 1878年…月…日から1896年七月…日」と書かれていた。
(生きていらっしゃったら、わたしと同い年だわ)
 ブライディーは再び眼を閉じて祈りを捧げた。
「エゼルさんは、病気で亡くなられたのですか?」
「そうです。わたしたちや、薬草に詳しいシスターが看取ったのですが、どうも死因は毒物を飲んだことのようだったのです」
「ここにはそのような危険な薬草が?」
 セアラは畳みかけた。
「どんな薬草でも、分量を誤れば毒になります」
「それで、『あの』ことも間違いないことなのですか?」
「ええ」 シスター・エレは目を閉じ、ゴクリ生唾を飲み込み、歯をガチガチと鳴らした。「…シスター・エゼルは、召されたとき、確かに妊娠していたんです…」

「ブライディー、貴女がここに来る時、船で考えてきたことをお尋ねしてみなさい」
 溜息まじりにセアラが、向かい合った荒削りの石のベンチに座ると、シスター・エレはその向かいに座り、ブライディーはメモ帳を取りだして開き、鉛筆を持ってセアラの隣に腰を下ろした。
「あの… もしかして、この女子修道院には男の人が…女の人の格好をして潜んでいるとか?」
 シスター・エレは、黙って顔を横に振った。
「それは、お互いに、ちゃんと調べあいました」
「では、秘密の隠し部屋とかがあって、そこに潜んでいる、とか…」
「それもあり得ません。ご覧の通りの狭い島です。食べ物や水を探したり、ご不浄に行こうとしたら、必ず誰かに目撃されてしまうでしょう… 誰かがこっそりとかくまうこともできないと思います」
「でも本当に『秘密の隠し部屋』などがないかどうか、後で貴女に調べてもらうわ、ブライディー」
 セアラが横から口をはさんだ。
「定期船の船頭さんは?」
 シスター・エレはかぶりを振った。
「あの船、あの船頭さんは真冬を除いて二ヶ月おきに必要な物資や手紙を運んで下さっているのですが、ご自身が空樽で上がってこられることはなく、シスターが空樽で船に降りていくこともございません」
「シスター・エゼルは、ここに来られたとき、すでに赤ちゃんがお腹の中にいた、とか…」
「エゼルがシスター見習いとしてここへやって来たのは、十年前の八歳の時でした」
「エゼルさんは、亡くなる直前に何かおっしゃておられませんでしたか?」
「即効性の毒物だったようで、何かを伝えようとしているようにも見えましたが、聞き取ることはできませんでした」
「その時の状況はまた後で、皆さんが集まった時に…」 セアラがまたさえぎった。「ブライディー、他に思いついたことはありませんか?」
 今度はブライディーが大きく首をかしげた。
「分かりません。まるで雲をつかむかのようですわ、セアラ様」
「シスター・エレがおっしゃっておられることは、本当のことでしょう。けれども、何かほかの、矛盾をきたさない考えがあると思います」
「これは、この修道院の中でまことしやかに語られている噂ですが…」 エレは声を潜めた。「実は、先代院長のシスター・オーファは、黒魔術に凝っていて、何十年も前に亡くなられたというのはわたしたちを欺く嘘で、いまなお生きておられて、『真夜中に何者かが岸壁から海に入る影を見た』とか、それこそこの修道院のどこかに隠れておられる、という噂があるのです」
 セアラはニッコリと笑った。
「ブライディー、やはり貴女を連れてきて正解でしたね」
「は、いま何と?」
 シスター・エレはキョトンとした。
「失礼しました。こちらの話です」
「すると、亡くなられたシスター・エゼルが妊娠していたのは、先代院長のシスター・オーファの黒魔術のせい、と考えておられるかたが多いわけですね」
 ブライディーはしきりに鉛筆を走らせながら尋ねた。
「そうです。オーファ前院長が、この北の海の底に棲む『深き者ども』を召喚し、エゼルさんを犯させたのではないか、と… オーファ前院長自身も、禁忌を犯し、彼らと交わって快楽を得ていたのではないか、ということも言われています」
 シスター・エレの青白い顔から、ますます血の気が引いた。
「で、オーファ前院長の墓は調べたのですか?」
「オーファ前院長は、今を去る何十年も前の、ある冬の嵐の夜に、お一人で危険な箇所を点検に回られていて高波に攫われて… お墓には最初から亡骸はございません」
 エレの言葉に、セアラとブライディーは思わず顔を見合わせた。
(なるほど… そういう最期だったのなら、恐ろしい伝説として残っても不思議じゃあないわ…)
 二人はともにそう思った。
「シスター・エゼルの写真か肖像画があれば、貸してください」
 セアラの頼みに、エレは「絵の上手な者が描いた唯一の似顔絵です」と言って、一枚の鉛筆画を渡した。それを見るとシスター・エゼルは、意思の強そうな、何か運命に立ち向かっているような感じのする、凛としたところのある女性だった。

 夕食のため、四十数名の修道女たちが、黴臭い食堂に集まった。祈りの前に、現院長のシスター・キーウリンが立ち上がって、隣に座ったセアラを紹介した。
「…セアラさんたちは、使命を果たされれば次の船で帰られますが、おられるあいだは姉妹として愛し助け合うように」
「帰る」と言う言葉を聞いて、死ぬまでここで祈りの生活を送るという誓いを立てた修道女たちも、一瞬羨望に満ちあふれた気を発したように、セアラもブライディーも感じ取った。
「セアラ様、わたくしもお給仕を手伝って参ります」
 席を立ったブライディーは、小さなマーシアらとともに配膳をした。
 魚介類のスープにパンだけの文字通り質素な食事だった。
 鯨油の入った小皿の灯心が燃える生臭い臭いが漂うなか、シスター・キーウリンが感謝の祈りを捧げ、静かな食事が始まった。
 食事が終わると後かたづけ、繕い物、写本などの各々の仕事をし、晩祷のあとは、二人はマーシアに、客用の寝所に案内された。
「長旅、さぞかしお疲れでしょう。どうかゆっくりとお休みください」
「ねぇ、セアラ様、わたしマーシアと一緒に寝たい、いいでしょう、マーシア?」
「えっ、でもそういうのは院長先生のお許しがないと…」
「わたし、ロンドンやダブリンの話をしてあげる。貴女もここの話をして!」
 マーシアはひどく戸惑っていたが、結局折れた。

 マーシアは、三階の北向きの二人部屋を一人で使っていた。「同じ年頃の子がいない」というのがその理由だったが、ブライディーにはどうもそれだけの理由ではないような気がした。
 鯨油の灯火が揺れる中、反対側のベッドに腰掛けたブライディーは、アイルランドの海辺の村に生まれたことや、両親は幼い頃に病気でなくなったことや、ダブリンの貧救院で育ったこと、ウォーターフォード男爵のお屋敷のメイドや、ロンドンのアイリッシュ・パブなどの職を転々として、いまはセアラの見習いをやっていることなどを手短かに話した。
 もちろん、いまの本当の仕事は「英国心霊研究協会」でメイドをしていることだということだけは隠して。
 だが、いままで語った人はほとんど身を乗り出して、耳を傾けてくれたというのに、マーシアは無表情で、ときどき「へぇ」とか「ふうん」とか、あまり興味のなさそうな相づちを打つだけだった。
 ブライディーはマーシアの身の上話も聞きたかったが、彼女は自分のことは一切語らなかった。
 貧救院や修道院では、本人が進んで語らない限り、こちらから問うのはタブーだから、どうしようもなかった。そこで、ここにやってきた本来の目的の質問をすることにした。
「召されたシスター・エゼルはどんなかただったの?」
「穏やかで、静かで、大人しくて、あたしにも、どなたにでも優しく接してくださったかたでした」
 マーシアは風がカタカタと鳴る木窓にチラリと目をやって答えた。
「ここではどんな仕事を受け持たれておられたのかしら?」
「普通です。当番で、厨房や洗濯や、お年をめされて身体がご不自由になったシスターたちのお世話や、魚を釣ったり、畑を耕したり、納品されてきた樽や木箱の検品や、薬草の勉強を…」
(『薬草の勉強』をされていたかたが、誤って毒物を飲んでしまうことは考えにくいわ。誰かに巧みに飲まされたか、それとも、自分から進んで飲んだか…)
 ブライディーは考えたが、続けた質問は違うことだった。
「『魚を釣る』?」
「ええ。ここでは大切なタンパク源です。冬を除いて、貴女たちが乗ってこられた樽の底に重しを仕込んで海面に浮かべて、岩壁にひっついている貝を採ったり…」
「それって危なくはないの? わたしは揺れて怖かったわ」
 ブライディーは昼間のことを思い出し、身体をすくめた。
「釣りの時は、降ろしてくれたシスターたちは樽を降ろすと、何時間かして再びひっぱり上げてくれるまで、それぞれの仕事をやっておられるから、波間にひとりぼっちです。でも、慣れるとかえって気楽です」 マーシアは遠く水平線を眺めるような目をしてつぶやいた。「…それは確かに、皆の晩ご飯がかかっているのですから、『釣れたらいいのに』『釣らなければならない』とは思いますが、そのうち、そんなことはもうどうでもいいことのように感じてくるのです」
「分かるわ… でもそれなら、エゼルさんが一人で釣りをされている時に、船で男の人が近寄ってきて、身ごもられた、ということは考えられないかしら?」
 ブライディーは身を乗り出して尋ねた。
「無理ですわ。どんな船でも修道院の窓からは目立ちます。それでなくても、みなさん何気なく窓から海を見ておられますから… 伝説の魚人が海を潜ってやってきたら、目撃されなかった、ということもあり得るでしょうけれど」
 言ってしまった後で、マーシアは慌てて口を手のひらで押さえた。
「『伝説の魚人』? それは一体何なにかしら?」
 マーシアは仕方なさそうに肩を落とすと、再び語り出した。
「ブライディーさんはアイルランドのかたでよくご存じでしょうが、神代のむかし、元からエールに棲み支配していたフォーモーリーの神々は、新しくどこからかやってきたダナーンの神々と争って破れ、海の底深く逃亡した、とか。彼らの眷属が人と交わって生まれたのが魚人であり、人魚たちだと、このあたりでは言われていますが…」
「本当にいるのかしら?」
 ブライディーは真顔で尋ねた。
「漁師や船頭たちは、霧の立ちこめる日に、見かけたことがある、と言っています」
「アザラシかセイウチの見間違えじゃあないかしら?」
「かもしれません。けれど…」
「『けれど』?」
 マーシアは寝間着の胸元をかき合わせてベッドに潜り込むと、頭から使い古された毛布をかぶり、くぐもった声で続けた。
「先代の院長、シスター・オーファは密かに異端に走られ、フォーモーリーたちを召喚しようと試みられていた、とか…」
「でも、仮にそれが本当のことだったとしても、行方不明になられて久しいのでしょう? ずいぶん昔のかたのようだし、どう考えても、もう亡くなられておられるのでは?」
「フォーモーリーのしもべとなった者は、人間離れした寿命を得るらしいのです。もしそうなら、オーファ様は…」
「マーシア、貴女はそれらしいのを見たことがあるの?」
「いえ、神様とマリア様がしろしめす世界に、そのような魔物がいる訳がなく、もし見たとしたら、それはあたしの信仰に至らなさから生じた幻かと…」
「それは建前でしょう?」 ブライディーは珍しく語気を強めた。「大丈夫よ。わたしたちが来たからには、必ず謎を解いて、もしも悪魔がいるのならその正体を暴き、真実を明らかにしてみせるわ」
 ブライディーは、毛布から不安そうな目を除かせているマーシアの頭を撫でて言った。

 修道院の朝は早い。礼拝堂で、全員揃っての朝祷は午前三時半頃にあるので、午前三時には起きて顔を洗っていなければならない。「ブライディーさん、ブライディーさん、起きてください!」
 旅の疲れでぐっすりと眠っていたブライディーは、もうきちんと修道服に身を包んでいるマーシアに揺り起こされた。
「ご、ごめんなさい!」
「慌てなくてもまだ間に合いますよ」
 朝の弥撒は、きのう最初に案内された、潮の匂いがして湿っぽい礼拝堂で行われた。院長のシスター・キーウリンは、流暢なラテン語で祈りを捧げた。賛美歌を歌い、マーシアが朝食の準備に向かうと、ブライディーはセアラのそばに戻った。
「よく眠れましたか?」
 セアラはいつもと変わらない爽やかな表情で尋ねた。
「はい。危うく寝過ごしてしまうところをマーシアに起こされて… でも、最初の夜からいろいろと話を聞くことが出来ました」
 ブライディーは、樽で釣りをする話や、前院長にまつわる奇怪な言い伝えの続きを語った。「セアラ様は、このような話を信じられますか?」
「まさか!」
 セアラは一笑に付した。
「『前院長が黒魔術で召喚した海神フォーモーリーの眷属が、エゼルさんを妊娠させた』などと、そんな莫迦なことは決してあり得ません」
「では、エゼルさんはどうして?」
「それをきょうこれから、調べて真実を突き止めるのが、わたしたちの使命です」

 二人は総務長のシスター・エレに案内されて、三階の角部屋にある図書室にやってきた。
 エレは古い真鍮の鍵でドアを開け、その鍵をセアラに預けると、仕事に戻っていった。
 そこは、さしたる広さではなく、蔵書の数もそれほどではなかったが、書棚に収められている、無造作に机の上に積み上げられて埃をかぶっている写本のタイトルを見た時、セアラの表情が変わった。
「これは凄いわ! ロンドンや、アイルランドや、ヨーロッパのどの図書館にもない珍しいものばかり! 異端審問の嵐が吹き荒れたとき、この島の、この図書室の本だけは、すっかりその存在が忘れ去られていて、焚書をまぬがれたのね!」
 セアラはそれらの本を次から次へとパラパラとめくった。
「…削除も免れている! 奇跡だわ! これらをアレイスター・クロウリーさんのような黒魔術の研究家や、稀覯書の蒐集家にみせたら、きっと皆さん飛び上がるくらいに驚くことでしょう!」
「そんなに貴重な本ばかりなのですか?」
 と、ブライディー。
「貴重などというものじゃないわ。どれもこの世の最後の一冊と言えるようなものばかり… もし仮にオークションなどに出したとしたら、金持ちの好事家たちが一冊あたり、ロンドンにお屋敷が建つくらいのお金を出すことでしょう」
「するとどなたかここの人が、一冊持ち出して逃げ出したら…」
「うまく売りさばくことができたら、一生遊んで暮らせるでしょうね」
 ブライディーは「ホーッ」と長い溜息をついた。
「でも、どなたもそういうことをなさらないのは?」
「価値を知らないからでしょうね。それとも、価値は知っているけれども、神様に背くことはしない、のか、それとも…」
「『それとも』?」
「価値は知っているけれども、自分がここから生きて決して抜け出せないと諦めているから、どうしようもない、とか…」
 そう言いながらセアラは、そのうちの数冊を小脇に抱えていた。
「せっかくですから、滞在中に読ませて頂くことにしましょう。…こんなこともあろうかと、写本の道具もひと揃い持参してきていますし…」
「しかしセアラ様、それはわたしたちの本来の使命とは…」
 ブライディーは口ごもりながら言った。
「今回の事件に関わりのある記述があるかも知れません」
 セアラはニコニコしながら答えた。
「ブライディー、貴女は、亡くなられたエゼルさんの過去を調べて下さい。…とは言っても、修道院では入った人の過去の経歴がどのようなものであっても、仮にどのような罪を犯していたとしても、そのことは問わず、記録にもなるべく残さないことになっています。 あるとすればエゼルさん自身が、ここのどなたかに語ったか、ふと漏らしたことがらになります。それを丁寧に当たって下さい。
 もちろん知っていても語りたがらない人もいるでしょう。だから、尋ねた時に顔色が変わったり、態度に変化が見られた人は、そのことを報告してください」
「分かりました。セアラ様」
 ブライディーが廊下の分かれ道で小走りに駆け出しながら答えると、セアラが「気を付けて!」とつけ加えた。
「…すでにお一人、明らかに毒で死んでいるのですから。わたしはエゼルさんが亡くなったときに、近くにいた人を全員集めてくださるように、院長様にお願いしてきます」

 ブライディーは持ち前の人なつっこさで、エゼルと仲良しだったシスターは誰と誰だったか、尋ねて回った。
「それは、なんと言ってもシスター・エグベルトよ!」
 皆は口を揃えて言った。
「では、そのエグベルトさんとお話しをさせてください」
「いいですけれど…」
 同じ年頃のシスターのリーダー、シスター・ワルドがブライディーの耳に何事かを囁いた。

 ブライディーは、エゼルとエグベルトが十年間、仲良く暮らしていた部屋で、残ったエグベルトに会うことにした。
「えぜる! えぜる! かえってきた!」
 ワルドに案内されて入ってきたブライディーに、ステンドグラスの天使そっくりの顔をしたエグベルトがいきなり抱きついてきた。「違うのよ、エグベルト! このかたはブライディーさんとおっしゃるのよ。ブ・ラ・イ・ディーさん」
 ワルドは懸命に納得させようとしていた。
「よく見て! お顔も、髪の毛の色も違うでしょう?」
 ワルドはブライディーの額の頭巾をめくつて見せた。
「赤い! ちがう! エゼルは金色だった… エゼルと違う!」
 ブライディーより背の高い子は、途端に泣き出しそうになった。
「エグベルトさん、教えて。エゼルさんがいなくなる前、何か変わったことはなかった? 何でもいいの。どんなことでも、どうか教えてちょうだい!」
「エゼル、いないことない! いまでもちゃんとここにいるもの」 エグベルトはムッとした顔になった。「エゼル、この部屋には戻ってこない! エグベルト、喧嘩していないのに! エゼル、帰ってこない! でも、この聖ぶれんだん女子修道院には、いる。エグベルト、何度も見かけた。お葬式の時も、いつものお弥撒の時も、何度も… 何度も…」
 ブライディーは頭から北海の水を浴びせかけられたような気がした。
「それって…」
「気にしないで」 シスター・ワルドが再び耳打ちした。「…ご覧の通りの子で… 普段はとてもいい子で、嘘など決してつかないのだけれど… エゼルが召された悲しみからでしょう…」
 ワルドはエグベルトを椅子に座らせ、ブリキのコップの中の水に、薬包紙に包んだ散剤を溶かして勧めた。
「さあエグベルト、お薬を飲みましょう! エゼルがいた時は、ちゃんと飲み続けていたでしょう?」
「お薬、飲まない! あたし、エゼルが作ったお薬しか飲まない!」
「エゼルさんはもういらっしゃらないのよ」 ブライディーは膝をかがめてエグベルトに語りかけた。
「エゼルいる! あたし、エゼルと話したい! でも、みんなが近づけさせない!」
「エゼルさんは一体どこにいらっしゃるの?」 ブライディーは優しく尋ねた。「教えてくれたら、連れてきてあげるわ」
「無理無理、貴女には無理!」
「それはどうして?」
「ブライディーさん。わたしたちが忘れさせようといろいろと努力しているのに、思い出させるようなことを言わないでください!」
 シスター・ワルドは眉をひそめた。「…さぁ、エグベルト、お薬を飲みましょうね」
 何度も勧められて、エグベルトはコップの薬水を飲んだ。途端にエグベルトの瞳はとろんとなり、ふらふらと自らベッドに赴いて横になった。
 そんなエグベルトに毛布を掛けてやったシスター・ワルドは、ブライディーのほうを向き直って、審判の喇叭を吹く天使のように睨み付けた。
「貴女も見習いなのでしょう? だったら、ここで見習いシスターのリーダーを仰せつかっているあたしに従って下さい!」
「それは… すいませんでした。わたしはただ、エゼルさんのことが知りたかっただけで…」
「自分のことはほとんど話さない子だったわ。ここにいる子のほとんどそうだけれど。ただの、泳ぎが下手でラテン語も下手な子だったわ」
「『泳ぎが下手』?」
「ええ。もう何年も前の夏、ここでは珍しく暑い日、エゼルとエグベルトが二人して樽に乗り込んで釣りに降りた時、エグベルトがふざけて裸になり、海に飛び込んで足を引きつらせたのよ。エゼルは肌着一枚になって助けようとしたけれど、エグベルトのほうはなんと、そのまま犬かきで泳ぎ始めたのに、エゼルは溺れた、ってわけ。で、エグベルトが大声で崖の上の仲間に助けを求めたのだけれど、シスター・ベンダが抱えて上がってきたきた時は、ひどく海水を飲んでいて、本当に危ないところだったわ」
「ここでは、泳げる皆さんは、暑い、波の静かな夏の日は、樽で降りて泳がれることがあるのですか?」
「見習いの若い子はときどき… しかし、海神フォーモーリーの眷属の魚人が足を引っ張って海の底に引きずり込む、という伝説があるので、みんな怖がって実行に移す子はほとんどいないわ」
 シスター・ワルドの横から、それこそ子羊のようなシスターが出てきて、ワルドに代わって答えた。
「失礼しました。私がエゼルさんを助けに行ったベンダです」

 シスター・ベンダは、頬にソバカスがあり、少女と言うよりも少年のような感じがするシスターだった。
「どうぞこちらへ、ブライディーさん。私がエゼルさんのことをお話ししますわ」
 ベンダはブライディーを、シスター・ワルドから引き離すようにして、シスターたちの小集会室というか、歓談室にへ連れて行き、ワルドは憮然として見送った。
「私は、エゼルのことが好きでした。…いえ、おかしな意味ではありません。それは、戯れに私が少年を演じたり、エゼルが少年を演じたりしたことはあります。でも、それ以上のことはありませんでした。エゼルは、お芝居がとても上手で、クリスマスの劇では、イエス様の役をやられて、長い台詞もきちんと覚えていて…」
 シスター・ベンダは悲しそうに笑った。
「…でも、エゼルには祈りだけの生活を過ごす、という以外に、何か目的があったような気がしました。それが何かは分かりませんでしたが、そんな気がしました」
「エゼルさんは、どのあたりのご出身だったのでしょうか? 八歳の時、ここに来られたということですが、自ら進んで来られたのでしょうか、それとも誰か人に預けられたのでしょうか?」
 ブライディーはシスター・ベンダの青い瞳を覗き込むようにして尋ねた。
「知らないんです。エゼルは本当に、自分のことは何も語らない子だったんです。私も知りたくて、折りあるごとに水を向けてはみたのですが… キーウリン院長や、総務長のエレさんなら多分ご存じだと思います」
「では、それは後でお二人に伺うとして、ベンダさん、貴女の過去をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
 ブライディーはベンダの目を見つめて尋ねた。
「それが…」 シスター・ベンダは真っ直ぐ見つめ返したものの、いままではきはきしていた口調が急に口ごもりはじめた。
「私は、ここに来る前の記憶がさっぱりないのです」
「えっ?」
「こんなことを言うと、お調子者の大嘘つきと思われても仕方がないでしょうけど、それこそ本当に、思い出せないのです」
「いえ、信じますわ。そういうこともあるのではないか、と…」
「ずいぶん簡単に人をお信じになるのですね。失礼ですが、そんなことでエゼルの死と… その…妊娠の真相を明らかにできるのでしょうか?」
 ツカツカと入ってきた見習いシスターのリーダーのワルドが唇を歪めて言った。
「では、ワルドさんは、ご自身の過去のことを語ってくださるのですか?」
 ブライディーは、セアラの微笑みを思い出し、懸命に真似ながら穏やかに問い返した。
「ええ、いくらでも教えて上げるわよ。あたしは、コークの、とある商売人の娘なんだけれど、十二歳の時、馴染みの金貸しに襲われそうになって、思わず近くにあった包丁で、そいつを刺し殺してしまったのよ! 後で両親も納得ずくだったことを知って愕然としたわ。で、気がついたら、島流しに遭っていた、という訳。でも、悔い改めはしないわ。もし同じ目に遭ったら、何度でも刺し殺してやる!」
「シスター・ワルド…」
 シスター・ベンダが制しようとしたが、ワルドは構わずに続けた。
「わたしだけじゃあないわ。『女子修道院』と言うと聞こえはいいけれど、ここは、何か止むに止まれぬ、罰しようにも罰し辛い罪を犯した女を、体よく終生閉じこめておくところなのよ。女子刑務所ではないけれど、似たようなところなのよ! だからみんなほとんど身の上話をしたがらないのよ。分かった?」
 シスター・ワルドは腰に両手を当てて一気にまくし立てた。
「そんな… まさか…」
 ブライディーは手のひらを口に当て、蚊の泣くような声でつぶやいた。
「だから、さっさと謎を解いて、ダブリンにでもロンドンにでも帰りなさいよ。でないと、次の犠牲者は貴女たちかも知れなくてよ!」
「ワルド、少し言いすぎだわ」
 ベンダは右腕をワルドの首に巻き付けて締め上げた。
「私がニワトリを締めるのが上手いことはよくご存じでしょう?」
「く、苦しい! ついに正体を現したわねベンダ。貴女が、エゼルが意のままにならないのに腹を立てて毒を盛ったのでしょう?」
「お二人とも、おやめになってください!」
 ブライディーは二人を引き離した。
「…仮にワルドさんのおっしゃることが真実だとしても、エゼルさんはご自分で毒を飲まれた…つまり自殺だったのかもしれないし、殺されたのだとしても、犯人は一人のはず… 共犯者がいたら、毒殺した後、重しをつけて海に沈めて口裏を合わせることもできたと思います。そうすればエゼルさんが身ごもっておられたことは分からず、従ってわたしたちも来ることはなかった、と… ですから、真犯人を除いて、後のかたがたはこの件に関しては無実。たとえ過去に罪を犯されていたとしても、イエス様の贖いと、皆様の祈りによって許されているものと信じますわ」
 ブライディーは毅然として言った。

 と、そこへ総務長のシスター・エレが、いつものようにおどおどとした足取りでやってきた。
「エゼルが亡くなった時に、近くにいた者は、院長室に集まるように…」
 ワルドとベンダは顔を見合わせた。
「すぐに行かせて頂きます」
 ベンダは同意したが、ワルドのほうは嫌がった。
「何をまた蒸し返そうというの? エゼルの死は事故か自殺よ。自分が妊娠していることが分かって、お腹の子を何とか堕ろそうと思って、自分で薬草を調合して飲んだのに違いないわ。で、調合にミスがあって、あのようなことに…」
「仮にワルドさんのおっしゃる通りだとしても、エゼルさんが身ごもられていた謎は解けません。それを解くためにもどうか… わたし先に行ってセアラ様にいままでのことを報告してきますから ろ」
 ブライディーが頼み駆け出すと、ワルドは渋々とついてきた。

 香と黴の匂いがしみこんだ院長室には、すでに数人のシスターが集まっていた。
 質素な執務机には、院長のシスター・キーウリンが、ミイラのようなしわだらけの顔をこちらに向けて座っていた。その脇にはシスター・エレが不安げな表情で立っていた。
 向かい合った、キルトを掛けたソファーの上にはマーシアが浅く座っていた。ブライディーはマーシアの隣に腰を下ろし、ワルドとベンダはその向かいに座った。そして、シスター・セアラは、部屋の壁際を行ったり来たりしていた。
「あの日、この東棟にはエグベルトもいましたが、彼女はいいでしょう? いまお薬を飲んで眠っていますし…」
 ワルドが言うとセアラは意外にも
「それは残念。わたしはそのエグベルトさんに一番お会いしたかったし、お話しも伺いたかったのに」と悔しそうにつぶやいた。
「貴女の見習いのブライディーさんが会ったわよ。正直、何の役にも立たないと思うわ」
「そうでしょうか?」
 セアラがワルドに鋭い一瞥を投げると、ワルドはそれ以上何も言えなくなった。
「…では、エゼルさんが亡くなった日からさかのぼって、エゼルさんに変わったことはありませんでしたか?」
「そう言えば、変でした」 エゼルと親友だったというベンダが言った。「急に口数が少なくなって、こちらから声を掛けても答えなかったり…」
「それは自分が妊娠してしまっことが分かってショックだったからでしょう?」
 ワルドが横から口をはさんだ。
「そうそう、エゼルさん、おかしかった。まるで人が変わったみたいに…」
 小さなマーシアも認めた。
「それはいつごろからですか?」
「…あれは、二ヶ月前にいつもの配達船がやってきた頃から… それから三日後にエゼルさんは亡くなられたのです」
 ベンダは手帳を開いて見ながら言った。
「折悪しくキーウリン院長が体調を崩されて、引きこもっておられた時なので、よく覚えております」
 シスター・エレがおずおずと述べた。
「では、『エゼルさんは薬草に詳しいかただった』ということですが、皆さんは風邪などを引いたとき、エゼルさんの調合されたお薬を飲んでおられたのでしょうか?」
 シスターたちは思い思いに頷いた。
「エゼルさんは、その薬草学を、主にどなたに習われたのでしょうか?」
「それは、院長先生にです」
 シスター・エレが答えた。
「幼い頃から薬草を扱うすべに天分があったので、わしがコツコツと教えたのじゃ」
 キーウリン院長がしゃがれ声で言った。
「では、キーウリン院長、貴女はエゼルさんに『もしお腹に望まない赤ちゃんができた時に、わざと流産させるような薬草の調合法』も教えましたか?」
 一同息を呑んだが、セアラは堂々として落ち着き払っていた。
「かっ、かっ、かっ…」
 しばらく間があったが、院長は笑い飛ばした。
「まさか! 女子だけの修道院で、どうしてそのような薬の調合法が必要なのじゃ?」
「院長先生は、そういった薬の調合方法をご存じですか?」
「莫迦な! 魔女ではあるまいし、そのような神の掟に逆らうような薬の作り方など知る訳がない!」
 院長は顔を真っ赤にしたが、セアラはたじろがなかった。
「エゼルさんが、図書室にある本の中から調べだして、一人で勝手に作った、ということは?」
「それじゃったら有り得る」
 今度は院長も認めた。
「では、エゼルの死は、自分で起こした事故だったのですか?」
 シスター・エレが言った。

「ここにいる皆さんが、エゼルさんの死を看取ったのですね」 セアラは続けた。「では最初に、苦しんでいるエゼルさんを見つけたのはどなたですか?」
「私よ」 シスター・ワルドが言った。「…喉と胸をかきむしり、顔色はまっ青でよろよろとそこの外の廊下をよろめきながら歩いてきて『助けて…』と…。正直、彼女が歩いてきた方向には、いつもベンダのいる裁縫室があって、その時もいたというのに、なぜこんな時に限ってわたしに…と思いましたわ」
「なるほど…」 セアラは腕組みをして染みだらけの天井を仰いだ。「では、ワルドさんがそこで大声を出して、皆さんを呼んだ、という訳ですね?」
「ええ、小さなマーシアもエグベルトもやってきたので、わたしがマーシアにエグベルトと一緒にこの場を離れるように命じました。そうよね、マーシア?」
 シスター・エレがマーシアに言った。
「はい、そうです、エレさま」
「それで、親友のベンダさんも裁縫室から走ってきた。ベンダさん、それから後のことを話して頂けませんか?」
「わたしはエゼルを抱き起こしました。口元から嗅いだことのないようなお薬の匂いがしました」 ベンダは辛そうに語り始めた。「エゼルは、何か言いかけましたが、そのまま大きく目を見開いたまま、わたしの腕の中で息を引き取りました。後で、調べてみたら、薬草室に、きれいに洗った乳鉢とコップがありました」
「本当に何も言い残さずに亡くなられたのですか?」
「ええ、本当です。その時はただ呆然と驚くだけで… …終油の秘蹟を施し、衣服を改めさせたときに、身ごもっていた時はもっと驚きましたが…」
 ベンダはそこまで語ると口をつぐんだ。
「なるほど、雲をつかむようですね…」
 セアラは肩を落とし溜息をついた。
「では、皆さんはどうお考えですか? まさか、エゼルさんが樽で海面に降り、そこで伝説の海神フォーモーリーの眷属である魚人と禁断の交わりを持って妊娠し、お腹の子を堕すために自分で毒薬を調合して飲み、分量か配合を間違って亡くなった…とは思っておられないでしょう。だからこそ、わたしたちが招かれた…」
 シスター・エレも。ワルドもベンダも、キーウリン院長も小さく、あるいはかすかに頷いた。
「ブライディー、貴女はいままでの皆さんのお話のなかで、何か気がついたことはありませんか?」
 四人のシスターたちの目が、ロンドンからやってきた見習いのシスターに注がれた。
「セアラさま。わたし一つだけ腑に落ちないことがございます。もしもエゼルさんが自分で調合し分量・配合を誤って何かを飲んでしまわれたのなら、どうしてとりあえず吐き出さなかったのでしょうか?」
 皆はハッとした。
「…もしわたしだったら、そうすると思います。エゼルさんがそうされなかったのは、たぶんどなたかに『これは貴女のお腹の赤ちゃんを上手く始末するためのお薬だから、苦しくなっても吐き出さずに我慢しなさい』と命令されたからではないでしょうか?」
「なるほど… そうなると、わしが最も怪しいことになるな」 キーウリン院長が口を開いた。
 一同は一斉に院長の魔女めいた顔を見つめた。「…わしはエゼルの薬草学の師であり、ここで薬草に詳しいのはわしとエゼルじゃったからな… じゃが、自分で『どうしても何とかしたい』と思い詰めて自ら調合して飲んだのなら、吐き出さないのではないか?」
 緊張は溜息へと変わった。
「…もう一つ分からないことがございます」 ブライディーは構わずに続けた。
「…エゼルさんは、薬草室のすぐ近くの裁縫室に、親友で気心の知れたベンダさんがいらっしゃるのに、どうしてわざわざ遠くの、余り仲が良かったとは思えないワルドさんのいらっしゃる『ここ』までふらふらになりながら歩いてこられたのでしょうか?」
 今度は皆の視線がベンダに注がれた。
「ベンダ、貴女がエゼルから相談を持ちかけられて『じゃあ中絶するためのお薬を作って飲んだらどうかしら?』と、いい加減なことを勧めたのでは?」
 ワルドはベンダに迫った。
「とんでもない! わたしはそんなことは何も聞かされていませんでした。まして…」
「二人とも、およしなさい!」
 シスター・エレが割って入った。
「わたくしもそのあたりが核心だと思いますわ」 セアラは四人を見渡して言った。「…ではブライディー、もう少しわたしたちで調べてみましょう!」

 その日は午後遅くから曇り始めた。寒く冷たい風が吹き渡り始め、まだ昼間だというのに係のシスターが廊下の鯨油の入った小皿に蝋燭で火を灯して回った。
「それではマーシア、ブライディー、お願いするわね」
 聖ブレンダン修道院の簡単な見取り図と鉛筆を手にしたセアラが言った。
 ブライディーはダウジングの棒代わりの小さな細身の銀のロザリオを胸元に掲げると、三階の廊下の端からしずしずと歩き始めた。
「その十字架は何のためなのでしょうか? やはり魔除けのためでしょうか?」
 幼いマーシアは気になって仕方ない様子だった。
「ええ、まあそんなところかしら」
 セアラはいつもよりももっとニコニコしていた。
 三人が岩を組み合わせた湿った壁に湿った板張りのの廊下をしずしずと歩くと、用事のないシスターたちが部屋の扉を細く開けて盗み見て、何事かを囁きあった。
「この階には、特に秘密の部屋も扉もないように思います」
 ブライディーはセアラの耳に囁いた。
「それでは二階に参りましょうか」
 一行は二階でも同じことをしながら、廊下の端から端を歩き、ノックして了解を取っては部屋部屋も調べて回り、踏査が澄んだ
 ところはセアラが見取り図を塗りつぶした。
「あの、あたしたちはいま何をしているのでしょうか? もしかして、いけない魔術か何かではないのでしょうか?」
 マーシアはおずおずと尋ねた。
「大丈夫よ。神様もきっと、早く真相が明らかになって、皆さんの不安が消え去って、元の平穏な祈りの日々が戻ってくることがお望みだと思うわ」
 セアラは優しく言った。
 二階も終わり、一階へと降りた。
 と、いまは道具置き場となっている部屋に入ったとき、ブライディーのロザリオが震え始めた。
「セアラ様、ここには何かがあります」
 セアラは頷くと、マーシアに
「マーシア、力の強そうなシスターたちを五、六人呼んできて」
 と頼んだ。
 まもなく手空きのシスターたちが小走りにやってきた。その中にはシスター・エレやシスター・ワルドやシスター・ベンダたちもいた。
「すみませんが、これらの道具をどけて部屋の外に出して頂けませんか?」
「みなさん、セアラさんのお言いつけに従うように」
 シスター・エレの号令いっか、皆は黙々と、とてつもなく古い機織り機などを運び出す作業を始めた。何百年分と思われる埃が舞い上がり、蜘蛛の巣が顔にまとわりついた。
「やれやれ、こんなことをして藪から蛇、とんでもないものが出てきても知らないわよ」
 シスター・ベンダがぼやいた。
「そんなこと言うものじゃあないわ。この女子修道院に隠されていることを明らかにして頂かないと、エゼルも神様の御許に行けないわ」
「だから、女子修道院じゃあない、女子刑務所だってば!」
 ワルドは吐き捨てるように言った。
 おとぎ話の挿絵に出てくるような糸つむぎ機から、どう見ても拷問の道具にしか見えない手かせ足かせのついた板などが、バケツリレーのように次々と廊下へと出されていった。 ブライディーとマーシアも手伝ったが、セアラとエレはただじっと見守っていた。
 やがて、全部のガラクタが退かせられると、黒い黴がびっしりと貼り付いた石畳の床が現れた。シスターたちがモップやデッキブラシでこすったが、なかなか取り去ることができず、時間がかかったが、やがてとうとう、岩の地肌が現れた。
 ブライディーはそこだけ僅かにほかの部分とほんの少し色の違う、一辺が一フィート四方の岩の端にしゃがみ込んだ。
「…この岩が持ち上がるはずだと思うのですが…」
「まったく何をおっしゃるのかと思ったら!」 シスター・ワルドが目を吊り上げた。「仮に、貴女の言うことが正しくて、この岩が持ち上がるとしましょう。でもいまは四方がピッタリ貼り付いてしまって、本職の石工さんがコツコツとノミを入れて、長い時間作業しなければ離れないと思うわ!」
 ブライディーは脇に用意されていた何本かのノミのうちの一本を取り上げると、金槌でコンコンと打ち始めた。セアラも、ベンダも続いた。
「やりましょう。交代でやれば、明日あさってにもなんとかなるかも知れません」
 シスター・エレが残りのシスターたちに命じた。
「わ、分かったわよ! やればいいんでしょう、やれば…」
 シスター・ワルドも加わって、これで四辺が埋まった。

 古道具を片付けている時から、入れ替わり立ち替わりシスターたちが覗きに来ていたが、ノミを使うようになってからはさらにその人数が増えた。
 と、物音で起きたのか、薬を飲んで眠っていたはずのシスター・エグベルトが、人垣をかきわけて飛び出してきて、ブライディーやセアラやエレや、ワルドやベンダの手や肩を、少女とは思えない万力のような力でつかみ引っ張って、岩の床から引き離した。
「ダメっ! ここを開けちゃあダメ! この下にはとても恐ろしいものがいるの! エグベルト分かるの! 開けちゃあダメ!」
「エグベルト、貴女が恐ろしいと思って警告してくれるのは嬉しいけれど、そのままにしておくことはできないの」 ベンダがエグベルトを抱きしめて言った。「また誰かがエゼルみたいに召されてしまっては悲しいでしょう?」
「この下に棲んでいるモノは、エゼルとは関係ないもん! エゼルはいなくなってないっば! 『ここ』にいるんだってば!」
「エグベルト、訳の分からないことを言うものじゃあないわ!」 ワルドは叱りとばした。
「…さぁ、お部屋に戻りましょう!」
 ワルドとベンダが二人がかりでエグベルトの両肩を持ち上げるようにして、二階に連れて行こうとした。
「…そこを開けたらいけないわ! エゼルは死んではいないけれど、別の召される人が出るわよ、何人も!」 振り向いたエグベルトは唾を飛ばしながら恐ろしい形相でわめいた。
「…ブライディー、開けちゃあいけない! 貴女なら分かるでしょう?」
「これはどうしようもないわ」
「お薬の量を増やしましょう」
 ワルドとベンダが囁きあった。
「お二人とも、エグベルトさんにひどいことをしないでください!」
 ブライディーが駈け寄って懇願した。
「大丈夫よ。貴女にはひどい有様に見えるかもしれないけれど、嵐の夜なんかもこんな感じで取り乱すのよ」
 ベンダは穏やかに言った。
「そうなのですか… では、よろしくお願いします…」
「…その下には、海神フォーモーリーと、その眷属が棲んでいるの! 彼らを怒らせたら、大変なことになるの!」
「さぁさぁ、エグベルト、安心して! たとえ貴女の言うとおりだったとしても、きっと神様が守ってくださるわ」
 ベンダは懸命になだめ続けていた。
「ブライディー、貴女も安心しなさい」 セアラは立ちつくして見送るブライディーの肩を叩いて言った。「…エゼルさんが海に棲む生き物の毒で殺められたのなら、わたしも何かしら思うでしょうが、海神フォーモーリーやその眷属が、陸地の上に生えている薬草を使って何かをするなど、おかしいではありませんか?」
「そうですね、セアラさま」

 固まりひっついている岩をこじ開ける作業は、皆が揃って行われる食事や弥撒の時間、それに夜を除いて交代で行われた。そのかいあって、数日後には何とか開けられるところまでに至った。
 何人かのシスターが岩の回りを取り囲み、L字型の鉄棒を差し込み、下に当たったところで90度回転させてひっかけて「一、二の三!」で持ち上げようと試みた。
「何とか…行けそうよ!」
 一番腕力がありそうなシスター・ワルドが棒に全体重をかけて引いた。ベンダも、エレもブライディーも、セアラも必死で試みた。
 と、ゴリゴリッと音がしたかと思うと、幅一フィート四方、厚み五インチほどの分厚い石畳みが持ち上がり、取り除かれた。
 途端に、海の匂いがブァーッと吹き上がってきた。一同が恐る恐る覗き込むと、海の花でぬるぬるに滑った、人一人が降りられるほどの縦穴が続いていた。
「どなたか、ランプと縄梯子を… いいえ、普通の梯子ではだめです」
 セアラはてきぱきと指示した。
「ブライディー、わたしが降りて合図をしたら、貴女も来てください」
「はい」
「わたしたちも、ここのシスターを代表して降りるわ!」
 ワルドとベンダが顔を見合わせあって言った。
「ええ、お願いします。万一に備えて、ロープやコンパスやナイフなど、探検に使う道具を集めてください!」

「気を付けて!」
 ブライディーは首からぶらさげた小さなオイルランプの明かりと、下でチラチラとまたたくセアラのランプと励ます声を頼りに、地下二階分くらい、縄梯子二十段ほどを一段一段慎重に降りた。
 それでも縄梯子は足りず、最後の一段を両手に持って、三フィートほど飛び降りなければならなかった。靴の裏がぬるっとした岩で滑りそうになるのをセアラが抱き留めてくれた。
「大丈夫?」
「ええ、有難うございます」
 見上げると、帰る時に飛び移れるかどうか不安なくらいの高さのところに、縄梯子の最後の段がぶらぶらと揺れ、その上からシスター・ワルドが身軽な足取りで降りてきていた。
 辺りを見渡すと、ちょうど人一人が立って歩けるくらいの洞窟で、壁面や天井にはフジツボのような貝や、いろんな種類のヒトデやシソギンチャクなどが貼り付いていて、足下の潮だまりには節足動物が這い回っていた。
「どうやらここは、満潮になると洞窟全体が潮で満たされるみたいね。…ワルドさん、きょうの満潮は何時くらいかしら?」
「夕方、日没の頃だと思うわ」
「では、一時間くらいで戻ったほうがいいですね」
 セアラは懐中時計を確かめた。
「…あの、この洞窟は、海神フォーモーリーの住みかなのでしょうか?」
 ブライディーは恐る恐る尋ねた。
「いいえ、ずいぶん古いけれど、ノミや工具で削った跡があるわ。人が掘ったものね」 壁をランプで照らし、虫眼鏡で確かめていたセアラはつぶやいた。「おそらく、千年以上前のヴァイキングたちか、さらなる先住民族が、秘密の取引場所か何かとして使うために掘ったものじゃあないかしら」
「ブライディー、貴女バカじゃない?」 ワルドが眉をひそめた。「立派な教会も、天を突く塔も、この島の修道院も、神様が作ったんじゃあない。みんな人間が建てたのよ。この洞窟だって、自然に出来たものじゃあないんだったら、人間が掘ったものに決まっているじゃない!」
「では、先代院長のオーファ様が潜み棲んでおられる、とか…」
 セアラが大きな溜息をついたところへ、シスター・ベンダがきびきびとした足取りで縄梯子を降りてきた。
「どことつながっているのか調べるのですか、セアラさま」
「ええ、もちろんよ」
 歩いて二、三分したところで、最初の分かれ道に遭った。
「ブライディー、お願い」
「何がある方向を求めればよいのでしょうか、セアラさま?」
「それは… 普通に、変わったものがある方向をお願いするわ」
 ブライディーは目をつむり、銀のロザリオに向かって祈る仕草をした。十字架はかすかに震えて、向かって左側を指したように見えた。
「…なるほど、さすが遙かヴァチカンから派遣されてきた子、ただの見習いシスターではないと思っていたけれど、そういうことだったのね…」
 ワルドは舌打ちして言った。
「え、ええまぁ…」
 セアラは微笑んでごまかしたが、ブライディーは心の中で(本当は「英国心霊研究協会」のメイドなんですけれども…)と思っていた。
 四人はそれからまた五分ほど歩き続けた。
「おかしいですわ。回りをぐるっと一周しても三十分とはかからない島です。ほぼまっすぐに歩いているのなら、もうそろそろ海に出るはずなのですが…」
 ベンダがつぶやいた。
「ブライディーの『力』がいい加減なものなのでは?」
 と、ワルド。
「そんなことはありません。大丈夫です」
 セアラが言ったとき、少し先にほんのかすかに光が見えた。
「出口よ!」
「樽で何度も、岸壁の海面に降りていたというのに、こんな隙間があるなんて、まったく知らなかった!」
 ワルドとベンダは競走するように走り出した。
「たぶん光の加減で海側からは見つけにくいのよ」 セアラも足取りを早めた。「…二人とも、慌てると危ないわよ!」
 と、ワルドとベンダの「キャーッ!」という悲鳴が響いた。
「どうしたの?」
 セアラとブライディーが駆けつけると、二人は目を背けながら、海側の出入り口らしい、人一人がやっと通れるくらいの岩の裂け目を指さした。
 そこには、魚に食われ、潮で弄ばれて、無惨にも朽ち果てた死体が、横たわっていた。
「貴女たちはここにいなさい!」
 セアラは眉を引き締め、唇を真一文字にして遺体のそばにしゃがんだ。
 気がつくと、ブライディーも口元を袖で押さえながら傍らにいた。
 遺骸はかなり痛んではいるものの、着衣や顔立ちには見覚えがあった。
 それは確かに、セアラとブライディーたちをここ、聖ブレンダン修道院に運んでくれた船の船頭の死体だった。

 嵐がさらに近づいているらしく、出口の岸壁に打ち寄せる波は次第に荒さを増し、夕暮れまでまだかなり時間があるというのに、空は黒インクを流したようになっていた。
「殺されたのでしょうか?」
 ブライディーが尋ねると、セアラはてきぱきと遺体を調べながら、
「ええ、痛みが激しくて死因は分からないけれど、たぶん間違いないわ」と言った。
 船頭のポケットからは、何枚かの真新しいソヴリン金貨が出てきた。
「フォーモーリーと、その眷属の仕業でしょうか?」
 いつも元気のいいシスター・ベンダの声も、さすがに震えていた。
「バカおっしゃい! エゼルを殺めた人にやられたのよ」
 ワルドは苦々しく言った。
「じゃあ、わたしたちが見た、本島へ帰っていく船は、だれが舵を取っていたのかしら?」
「エゼルを殺した犯人が、船頭さんに『帰りにこの洞窟に寄ってくれ』と頼んだのよ。たぶん予め樽で釣りに降りたときに、何かをしてもらった口止め料が置いておいた。ついでにお酒や弁当も置いてあった。その中に毒が仕込んであって、船頭さんは死に、酒瓶や弁当箱は潮で流され、簡単な錨を降ろしただけの船も、潮が満ちてくると、無人のまま本島のほうへ流されていった。…それだけのことよ」
「ワルドさん、いい推理よ。おそらくその通りでしょうね」 セアラは認めた。「みんな、このことはマーシアやエグベルトには内緒にね。知るときっと恐がると思うわ」

 ところが船頭の死体を帆布に包んで樽に乗せて引き揚げさせると、ニュースはあっという間に修道院全体に広まってしまった。
「これは大変なことになりました!」 総務長のシスター・エレは、気の毒なくらいに取り乱していた。「十一月の、氷の海を渡れるのは、この船頭さんだけなのです! 『若い者を育てている』とはおっしゃってましたが、そのかたがもし来て下さらないと、毎年三月までの四ヶ月分の食料や物資を届けてくださるので、真冬に四ヶ月分の食べ物やモノなしで過ごさなくてはいけないことになります!」
「船頭さんの船がいつまでも帰ってこない、もしくは、船だけが帰ってきたら、本島の人たちが『これは明らかに、何かの事件が起きたのだ』と思って、十一月の前に、誰かがこの島にやって来て下さるのではありませんか?」
 落ち着いて述べるセアラに、ブライディーもかすかに頷いた。
「とにかく知り合いの人が召されたのです。みんな、儀式の準備を!」
「キーウリン院長様にお弥撒のお願いを!」
 ベンダとワルドは、年上のシスターたちよりもてきぱきと段取りをこなしていた。
「セアラ様、貴女はダブリン、ロンドン、パリ、ローマと、都ばかりを行き来しておられるので分からないと思うのですが、このあたりは大変に迷信深い土地柄なのです」 シスター・エレは顔をくしゃくしゃにして言った。「…この聖ブレンダン修道院島に何かが起きた、ということを本島の人たちが知ったなら、それは海神フォーモーリーとその眷属の仕業、ということになって、誰もが近寄らないのに決まっています!」
「この修道院島には、本島まで行けるだけの船はないのですか?」
 セアラは尋ねた。
「ふぉっふぉっふぉっ!」 不気味な笑い声がしたので、皆がびっくりして振り返ると、院長のシスター・キーウリンが杖にもたれかかるようにして立っていた。「船? そんなものはありはせぬ。すべては神の御心思し召し、食べ物やモノがないならないで、分け合えば良いし、いよいよの時は、必ず神が助けてくださる!」
「やってられないわ!」 葬儀の弥撒用の蝋燭やお香を用意していたシスター・ワルドは、それらを床に投げつけた。「ベンダ、こっちは放って置いて、わたしたちだけでも小舟を作り始めましょう! 寝台や、机や椅子や、木箱の木材をバラしたら、何とかなるんじゃあないかしら? 補修用のタールで水止めをして、帆布で帆を作れば…」
「ふぉっふぉっふぉっ、愚か者めが!」 キーウリン院長は魔女のようにあざけり笑った。「一度でも船を造ったことがあるのか? 図面を引いたことがあるのか? 出来もせぬことを言うでないわ!」
「船が無理なら、筏でもいいわ!」 ワルドは院長を睨み付けた。「そうでなくても、わたし、いつかきっとこの修道院から逃げ出してやろうと考えていたんだから!」
「ふぉっふぉっふぉっ、鮫の餌食じゃ。いや、その前に、海神フォーモーリーとその眷属に、果てしなく暗い海底に引きずり込まれてそれでおしまいじゃ!」
「ワルドさん、院長先生の仰る通りよ。くれぐれも早まったことをしたり、皆を煽ったりしないように」
 セアラがたしなめた。
「ふぉっふぉっふぉっ、さすがは総本山から派遣されてきた者。いちおう頭のほうはまともなようじゃな。ここにいる、神に見放されたシスターたちとは違って」

 事がこんなふうになってきては、いくらセアラと一緒だとはいえ、ブライディーも大変不安になってきた。
(いっそのこと、占いで真犯人を捜し出せばいいんじゃあないかしら? 真犯人とその手口… きつく問いつめたら白状するかも…)
 しかしそれはセアラから厳に禁じられていた。
『…いくら必ず当たる占いとはいえ、そんなことをしたら、中世の魔女裁判と一緒でしょう?』と…
(でも、三人目の犠牲者が出てしまう前に …)
 何度もトランクの底の『ケルト神話のタロットカード』に手が伸びかけたが、かろうじて思いとどまった。
「ねぇ、ブライディーさん、もしかして、お船はもう来ないの?」
 一人ぼんやりと、窓から海を眺めていると、エグベルトの手を引いたマーシアが尋ねてきた。
「大丈夫。お船はきっとまた来るわよ。本島の教会や、本島の人たちはきっとわたしたちのことを心配してくださっていると思うわ」
「きっと、物置き部屋の、石畳の落とし蓋を開けたからよ!」 エグベルトはマーシアの手を振りほどいて言った。「あたし、注意した。『フォーモーリー怒っている』と… それなのに、あなたたち、言うことを聞かずに…」「そんなことないわ。船頭さんが事故に遭われたのは、フォーモーリーの祟りのせいなんかじゃあないわ」
 ブライディーは優しく言った。
「フォーモーリー、怒らせると恐ろしい! また人が死ぬわ! 生け贄を捧げて、怒りを静めないと!」
 エグベルトの興奮は増し、マーシアやブライディーでも押さえきれなくなってきた時、折よくワルドとベンダが通りがかった。
「エグベルト、また何をむずかっているの?」
 語気を荒げるワルドを制して、ベンダがエグベルトを連れて行った。

 セアラを探してうろうろしていると、彼女は何人かのシスターたちを指揮して、例の物置部屋の石畳の落とし蓋を元に戻させているところだった。
「セアラ様、せっかく開けたのに…」
「しかし、このままでは危険のほうが大きいと思います」 そう言うセアラも、かなり残念そうだった。「皆さん揃っていらっしゃる以上、とりあえず閉じて、交代で不寝番を付けておくほうが無難でしょう」
「皆さん、船頭さんのお葬式の御弥撒を行います! 手の空いている人は、どうか祈りに来て上げてください!」
 総務長のシスター・エレの呼ぶ声が聞こえてきた。

 嵐はゆっくりと、しかし確実に近づいている様子だった。
「…船頭さんは、本島に家族やご親戚がおられると思うのですが、とりあえずこの地に仮埋葬しておきましょう」
 次第に強さを増す潮風のなか、キーウリン院長がラテン語で、故人の霊が安らかに主の御許に行けるように祈りを捧げ、エレやセアラやブライディーたちも祈った。
 塔の鐘がガラーンガラーンと鳴り響き、柩に土がかぶせられる頃になると、とうとう雨がポツポツと落ちてきた。
「急ぎましょう!」
 誰ともなく声が掛けられ、船頭の埋葬は終わった。
「嵐が近づいてさえいなければ、ついでにエゼルさんのお墓を開けて見てみたいところなのだけれど…」
 セアラに囁かれてブライディーは仰天した。「セアラ様、皆様が嘘をついておられるとおっしゃるのですか? 疑われておられるのですか?」
「そういうことではないけれど、一度自分の目で見てみたくて… ブライディー、貴女も自分の目で確かめたくはありませんか?」
「い、いえ、とんでもございません!」
 ブライディーは激しくかぶりを振った。

 夕食と、就寝前の祈りが終わる時分には、激しい雨風が木窓をたたき始めた。残りの食料と物資の計算をしているのだろうか、シスター・エレの部屋からは、「ああ、どうしましょう!」とか「神様、お助け下さい!」といった独り言が漏れ聞こえてきた。
「ブライディーさん、今夜もあたしと一緒に寝てくれませんか?」
 マーシアは自分から頼みにやってきた。
 ブライディーとマーシアが一枚の毛布にくるまって抱き合っていると、遠い海鳴りか、海神フォーモーリーのうなり声ともとれる不気味な「ウォオオオオオー」と言う咆哮が島全体を包んだ。

 その夜は、この島、聖ブレンダン修道院に何十年もいる、どのシスターもなかなか眠れない様子だった。誰もが何度も寝返りを打って輾転反側し、低い、小さな声で「神様、どうかわたくしたちを悪しきものからお守り下さい…」という祈りの声がつぶやかれ続けた。
 ブライディーも興奮と怖ろしさで目が冴えて仕方がなかったが、すぐ横で安らかな寝顔で眠っているマーシアを眺めているうちに、昼間の疲れのせいもあって、自分もいつしかうとうととしかけていた。
 と、真夜中を過ぎた頃だろうか、最初は小さかった声がだんだんと大きくなり、やがて三階一帯に、そして修道院全体に響き渡り始めた。
「フォーモーリー様はお怒りよ! あたしたちはみんな、神様の贖いをもってしても決して許されない、罪で穢れた存在なのよ!」
 それはシスター・エグベルトの声だった。 エグベルトはかつてはエゼルと同室だった自分の部屋の窓と、廊下側の扉を開け放っていた。
 ものすごい雨風が窓から吹き付け、床も壁も寝台も、すべてがずぶ濡れだった。寝間着姿のエグベルトは、まるで呪いをかけている魔女のようにわめき続けていた。
「…先代院長のオーファ様が召喚されたフォーモーリー様にお鎮まり頂くには、生け贄しかないわ! 罪で穢れたシスターを何人か、海の底に沈めるのよ!」
 声と騒ぎに気づいて、シスターたちが一斉に起きてきた。
 ワルドは悪戦苦闘しながらようやく窓を閉じ、ベンダとエレは他のシスターたちとエグベルトを取り押さえた。
「ベンダさん、院長先生に高ぶりを押さえるお薬を貰ってきてください!」
「はい!」
 エレの命令を受けてベンダは走り去った。ブライディーとセアラは、その様子をじっと見守っていた。廊下には、さらに多くのシスターたちが怖ろしさに歪んだ表情で、立ちつくしていた。
「…この島は、この聖ブレンダン女子修道院は、呪われた存在なのよ! むかしも、いまも!」 エグベルトは叫び続けた。「死ぬまで…いや死んでからも、誰もここからは逃げ出せないの!」
「分かった。分かったわ、エグベルト。わたしは必ず近い将来、ボートか筏を作って、ここから逃げ出すつもりなの」 ワルドはエグベルトの焦点の定まらない視線を見つめて言った。「その時は必ず、一緒に連れて逃げて上げるから、今夜のところはどうかおとなしくしてちょうだい!」
「本当? 本当に一緒に連れて逃げてくださるの?」
 エグベルトの不安そうな瞳に、ほんのかすかに希望の光が灯った。
「ええ本当よ! 約束する! わたしはレイプしようとした金貸しを刺し殺したことのある人殺しだけれども、約束は破ったことがないのが自慢なのよ!」
 ワルドが言葉を続けると、エグベルトはみんなに羽交い締めにされ、足を押さえられてこわばらせ突っ張っらせていた身体をから少しだけ力を抜いた。
「…それに、逃げ出すまでもなく、二人も奇怪な亡くなられかたをされたとあっては、この修道院は解散、取りつぶしになるかも知れないわ」
 ワルドの言葉に、エグベルトはもちろん、シスター・エレも、セアラもブライディーも、他のシスターたちも思わずハッとした。
「もしかしたら、犯人の目的はそれなのかも…」 セアラはつぶやいた。怪奇な死、殺人が続けば、わたしたちのような者が派遣され、それでも事件が止まなければ、また止んだとしても報告がなされれば、この修道院は解散されて、シスターたちは各地の女子修道院に分けられ別れて行くことになるわ。そうなると、少なくともこの島からは出られることになる…」
「でも… でも…」 ブライディーは口ごもりながら言った。「…そのために、最も恐ろしい罪、人殺しをやるなんて、とても信じられませんわ!」
「ブライディー、貴女は来たばかりで分からないでしょうけれど、こんなところに一年…いや、半年もいたら、娑婆にいる時よりもずっと多くの悪魔の囁きが聞こえてくるのよ!」 ワルドが言った。「…いままで数百年間も、取り潰されなかったというほうが不思議だわ。おそらく、事件はいくつもあったのでしょうけれど、全部揉み消されたのに違いないわ!」
 そこへ、キーウリン院長からとても強力な「気を静める水薬」を作ってもらってきたベンダが戻ってきた。エグベルトはコップに入った見るからにとても苦そうな液体を見るなりまた暴れ始めた。
「もういや! お薬はもういや! もう二度と飲まない!」
 飲ませるのは無理と悟ったベンダは、自分でその薬を口の中に含んで、いきなりエグベルトの唇に自分の唇を付けた。驚いたエグベルトは、思わずその薬を飲んだ。

「うーん、やはりこれは、皆様の過去を知らない限りは、どうにもならないわねぇ」 客室に戻ったセアラは、騒ぎが収まり、ようやく本来の静けさが戻った灰色の空間を眺めながら、珍しくワインをあおった。「キーウリン院長や、エレさんにお伺いしても、存じておられないかもしれないし、例え知っていても『知らない』とおっしゃられるでしょうね」
「ワルドさんだけはご自分から語ってくれましたが…」
 ブライディーはリンゴ色に染まったセアラを信頼に満ちた目で見つめた。
 外はまだヒューヒューと風が吹き止まないでいる。
「金貸しにレイプされそうになって刺し殺した』? 疑って悪いですが、本当のことを語っておられるという証拠はどこにもありませんね」
 セアラがその唇で啜ると、質素な修道院の儀式用の赤ワインも、年代物の極上品に見えた。
「ではベンダさんが、『過去を思い出せない』とおっしゃているのも…」
「それもまことかどうか、分かりませんね。人間の心ほど分からないものはありません」
「この女子修道院が、特別な理由で設けられているものなら、どこかに全員の身上書があると思いますが、もしかして、ヴァチカンに、でしょうか?」
「あってもヴァチカンの分は最高秘密でしょうね。第一、いまは閲覧に行くことが物理的に不可能です。この修道院の中に、控えがあればよいのですが…」
「わたしの占いの力で、探してみましょうか?」
「そうしてくれますか?」
 セアラは火照った頬を近づけて、ブライディーの瞳をみつめた。甘い、ワインの香りが香った。
「ええ。そのためにご一緒にここまでやってきたのですから」
「お願いします」
「はい」
 旅行鞄の底から、「ケルト神話」のタロット・カードを取りだし、心を静め、入念に切ってから並べ始めた。
「求めるモノは、海の底深くにあります…」
「えっ、あるのですか!」
 セアラは目を輝かせ、飛び上がった。
「あります。場所も分かります。沈めたのはキーウリン院長です。幾重にも油紙で包み、金メッキした鉛の箱に入れて、ハンダで厳封して…」
「沈んでいる場所は、人間が潜って取りに行ける場所ですか?」
「ええ、水深数十フィート。普通の人には難しい深さですが、潜りの名人なら不可能ではありません。わたしが、潜ります」
 ブライディーはきっぱりと言った。
「でも、もう海水はかなり冷たいですよ。大丈夫ですか? 無理をしなくてもいいのですよ」
 セアラは澄んだ瞳を曇らせた。
「もしどうしてもだめなようでしたら、途中で切り上げて戻ってきます。…しかし、樽で海面まで降ろしてもらうのは、かなり目立ちます。仮にちゃんと許可を取って潜るとすると、真犯人が邪魔をしてくるのではないでしょうか?」
「なるほど… 『暑くてつい泳いでしまった』というのは、この時期では無理な理由ですね。…いいでしょう」
 セアラはこの島に到着以来、克明に付けていたノートを開いた。そこには、事件の経過はもちろん、天候の移り変わりや、温度、風向や風速、おおよその気圧なども併記されていた。
 島の地図を広げた机から立ち上がったセアラは、木窓を細く開けると、通り過ぎようとしている嵐の風向きなどを指を立てて調べた。
「二日後…」 彼女はよく考えた末に言った。「…二日後に暑さの戻りがあるでしょう。その日に、樽で海面に降りて、魚釣りの当番ができるように、いまのうちからエレさんに頼んでおきましょう!」

 果たして、翌々日はカンカン照りになった。 前日、樽での魚釣りの当番を申し込んでいたブライディーは、水筒や弁当やビスケットなどを持って樽に入り、シスター・ワルドやベンダに、滑車で海面に降ろしてもらった。「きょうはまた暑そうですよ。明日にされたらどうですか?」
 総務長のエレは(客人に万一のことがあっては大変)とばかりに、おろおろしていた。「有難うございます。でも、わたし、暑いのは平気ですから」
 ブライディーは(ここで止めさせられてはもう来年の夏までチャンスはないわ)とばかりににこやかに笑って見せた。
「ところで貴女、魚釣りの腕前のほうはどうなの?」 ワルドは意地悪そうな表情で尋ねた。「あたしたちの晩ご飯がかかっているのだから、遊びだとは思わないでね」
「はい。頑張ります」
 と答えたものの、ブライディーはダブリンにいた頃「お兄ちゃん」たち男の子組と一緒に海釣りに行って、そばで見ていたことがあるくらいだった。
「教えた通りにやってみてね。…でもなかなか釣れないのよ。晩ご飯は野菜がたくさんあるから…」
 ベンダは早くも気の毒そうな顔をしていた。

 ブライディーは、嵐が去って穏やかに凪いでいる島の東側の波間に浮かんでいる樽の上に立って、古いけれども一応釣り具職人が作った釣り竿に、ミミズを付けて釣り糸を垂れた。ミミズや蛙は男の子たちにさんざんからかわれたので平気だった。竿は「英国心霊研究協会」の釣り好きの会員さんたちが自慢し合っていた素晴らしい釣り竿とは比べるべくもなかったが、リールも何とか巻き上げることはできたし、釣り餌は他にゴカイや小魚も持ってきていた。釣り針も浮きも思ったより種類があって、疑似餌もいくつかあったが、何をどう使っていいかいまひとつ分からなかった。
 十分…二十分…三十分… 海面に浮かんだ浮きはピクリとも動かなかった。
 セアラの観天望気の通り、やがて、太陽はサザンプトンやドーヴァーといった南イングランドのように、カンカン照りに輝き始め、それに伴って気温がぐんくんと上がり始めた。
 黒地に白の縁取りのシスターの修道服は、たちまち暑くなってうっすらと汗がにじんできた。
 一時間…一時間半… 立ちづめで足は次第に棒のようになってきたが、魚はさっぱり釣れなかった。
 ブライディーは(男の人に生まれて、釣りが好きにならなくて良かったわ)と、つくづく思った。
(もうそろそろ服を脱いでもいいかしら?)
 頃合いを見計らい、樽の底の重しを頼りに足を踏ん張りながら、素早く上着を脱ぎ、レースの飾りなど一切ない地味な肌着姿になった。
「見てみて、ブライディーがあんな恰好になっているわよ!」
 崖の上を通りがかったシスター・ワルドが冷やかした。
「きょうはまた特別に暑いわ。海神の怒りで天変地異が起きる前触れなのかしら?」
 シスター・ベンダがハンカチで半分頭巾で覆われた額の汗を拭った。
「ワルドさーん、ベンダさーん、暑いわ。このままちょっとだけ泳いでみてもいいかしら?」
 ブライディーは崖の上を見上げて叫んだ。
「いいけれど、鮫や海神の末裔に襲われないようにしなさいよ!」
 ワルドは牙を剥く形相を作って叫んだ。
「海水は想像するよりも遙かに冷たいから、心臓麻痺を起こさないように、しっかりと身体を動かして暖めてから泳ぎなさいよ」
 ベンダも続けて叫んだ。
「じゃあ、ちょっとだけ入ってみますね」
 ブライディーは樽の中で、手足を震わせて入念に準備運動をしてから、樽をまたいで海水の中に入った。
 まだ九月の初旬だというのに、氷のように冷たく肌を刺す。丸まるに太ったロシア人の寒中水泳の達人でも、十分…いや五分いるのがやっとのような感触だった。
(ぐずくずしている時間はないわ!)
 ブライディーは素早く潜った。
「潜って何かをとりに行くつもりなら、危ないからやめておきなさい!」 ワルドは絶叫した。「…と、言ってももう聞こえないか… あの子は責任感が強そうなところだけが取り柄のようだったし… 貝でも探しに潜ったのかしら?」
「わたし、万一に備えて助けに行く準備をしておきますわ」 言うなりベンダは服を脱いで肌着姿になった。「樽をもう一つ用意して下さい」
「やめておきなさいよ、ベンダ。あの子はよそ者… セアラという人の助手。わたしたちの仲間じゃあないんだから…」
「仲間です。友達です。…いや、姉妹です。院長先生もそうおっしゃったではありませんか?」

 水は、キリキリと刺すような感じだった。ブライディーは、もちろん、寒中水泳などしたことはなかったが(たぶんこんな感じではないかしら)と思った。真冬にお湯を沸かすお金も時間もなく、水で行水をした時よりももっと冷たかった。そう、行水の水は、自分の体温で次第に暖まるから…
(でも、探さなくては! みんなの身上を記した書類を入れた箱を…)
 数フィートの水深のところには、寒流を住みかとする魚たちが泳いでいた。その数は少なく(道理でなかなか釣れないはずだわ)と悟った。
 聖ブレンダン修道院島は、海底火山が隆起させた岩で、なぜかそこだけが突出して盛り上がっていて、崖の下はただまっすぐに海底へと続いているだけだった。
(占いでは、確かにこのあたりに沈んでいるはず…)
 目を凝らして見つめると、次第に海中の崖の様子がはっきりと見えてきた。幸い、海水は澄んでいた。
(一体どこにあるの? この一回で見つけられなければ、何度も潜っているとみんなが不審に思う。それにわたしも冷たすぎてとても我慢できない… 神様、どうか、どうか見つけさせて下さい!)
 息がこらえきれなくなってきたちょうどその時、目の前すぐ下の崖に、マリンスノーをかぶった四角い書類箱らしきものを見つけた。
(あれだ! きっとあれに違いないわ!)
 近寄って手を伸ばそうとした瞬間、背後から、何か大きな…人間くらいの…魚が忍び寄ってくる気配を感じた。
 ハッと振り向くと、そこには、顔も身体も銀色の鱗に覆われた、それでいて乳房のあるフォーモーリーの眷属の魚人の女が、牙を剥いて迫ってきた。

(助けて!)
 ブライディーはいったんはすぐに海面を目指して逃げようとしたが、目をつむり、首を大きく横に振ってから、海中で踏みとどまった。
(ここまで来て逃げてしまっては、いままでの苦労がすべて水の泡になってしまうわ。怖くないと言えば嘘になるけれど、ネス湖の怪物の時も逃げたりしなかったじゃない!)
 くるりと振り帰ると(万一、藻がからみついたときのために)と足首に縛り付けて持ってきていたナイフをスラリと抜いた。
(おのれ、フォーモーリーの眷属、捕らえるか、成敗するかして、セアラさんの期待に応え、修道院のみんなを安心させてみせるわ!)
 ところが意外なことに、構えられたナイフを見た魚人は、大きく目を見開いて自らも少し引き下がった。まるで相手が驚いて逃げるのが当たり前。とても刃向かってくるとは予想していなかったように。
(何よ! 近寄ったらはらわたを抜いて剥製にして、ピカデリー広場の見せ物小屋に売り飛ばしてあげるから!)
 居直った決意のようなものが通じたのか、魚人はブライディーが見つけ出した書類箱を素早く手に取り、どこかに向かって逃げようとした。
(ちょっと待ちなさい! 海神フォーモーリーの眷属が、どうして人間の履歴を書いてあるようなものを欲しがるのよ! 分かった! あなたは、全身に鱗を描いて、背びれを付けた肉襦袢を着てマスクをかぶった人間でしょう? 海から上がったら脱ぎ捨てるのでしょう?)
 そう言えば魚人は、人魚のような尾ひれはなく、鱗はあるものの二本の足を巧みに使って泳いでいた。
 そうと分かればナイフは口にくわえて抜き手を切ってどんどんと追いつき、書類箱を取り返そうと手を伸ばしてもみ合いになった。
(貴女、修道院のシスターのお一人でしょう、
 かなり泳ぎのお上手なかたですね。体つきはシスター・ベンダさんに似ていますね。ベンダさんなら溺れていたエゼルさんを助け上げたくらいだから、扮装してこういうことをすることもお出来になりますわね?)
 魚人は、ブライディーがもはや自分をまったく恐れていない…いや、それどころか正体にも迫り始めたことに慌てて逆上し、自分も手足に巻き付けてあったらしいナイフをギラリと抜きはなった。
(ほうらやっぱり人間ね! その恐ろしげな牙は作り物だから、実際に噛みつくことはできない訳よね!)
 ブライディーは両手を伸ばし、魚人が片手で抱えていた書類箱を奪い取った。
 魚人はまなじりを吊り上げ、二度、三度とナイフで突いてきた。ブライディーはとっさに、書類箱を楯にして受けたが、防水を施してあった油紙はひどく引き裂かれ、とじ合わせの部分のハンダも欠け落ちた。
 ほんのかすかに開いた箱の隙間から、小さな空気の泡がぷくぷくと漏れだした。
 ブライディーは(しまった!)という思ったが、魚人のほうは一瞬ニヤリとほくそ笑んだように見えた。
(そう… 貴女のほうはこの箱の中身が必要なのじゃあなくて、書類が秘密のまま破棄されることが目的なのね…)
 考える間もあればこそ、魚人はかさにかかってブライディーではなく箱に向けてナイフを突き立ててきた。ついに箱の口はバカッと開き、ガバッと大きな水の泡が浮かび上がった。
 息も限界に近づいていたブライディーは遅まきながら、まっしぐらに海面を目指した。魚人も追いかけてはきたが、すでに目的は達したと思ったのか、それとも海面近くまで追いかけて余人に姿を見られることを嫌ったのか、途中でいずこへともなく逃げ去った。

 息を切らせ、樽に這い上がったブライディーは、箱を素早く釣り道具の下に隠すと、チラリと崖の上に目をやった。
「あっ、ブライディーが帰ってきた!」
「あまり長い時間潜っているので(溺れたのでは)と心配したわ」
「貝か何かをとってきてくれたのかなぁ…」
「すみません。いろいろやってみたけれどボウズでした」
 そこには、シスター・ワルドやマーシアやエグベルトらの姿はあったが、シスター・ベンダの姿は見あたらなかった。

「申し訳ありません」
 セアラとの客室に戻ったブライディーは内側までびっしょりと海水に濡れてしまった書類箱をセアラに渡した。
「いいえ。わたくしもまさかそのように邪魔をしてくる者がいようとは思いもよりませんでした。危険な目に遭わせてごめんなさいね」
 箱の中身は、予想どおり油紙で包まれた書類だった。
 セアラが油紙を開くと、少し濡れてしまってはいたものの、大部分はにじみがあるくらいで、何とか読むことができた。
「えーっと、『シスター・エゼル』はと…」 書類のページを繰っていたセアラの顔から微笑みが消えた。
 エゼルの部分は、名前の見出しが書かれているだけで、あとはまったくの空欄だった。

「…仕方ありませんね。ほかのかたがたのものを読ませて頂くことに致しましょう」 セアラはまた脇に置かれたワインに一口だけ口を付けて書類を繰った。「…紙も、インクも筆跡も、それぞれまったく違いますね。ということは、この身上書はある程度信用ができる、ということですね…」
 ブライディーが覗き込むと、なるほど、紙は灰色だったり、黄色だったり、羊皮紙であったりケント紙であったりした。インクの色も、その錆具合もまちまちだった。
「…まず、先代院長のシスター・オーファ、一七八〇年代、スコットランドの生まれ、一八三〇年代から六○年代まで、この聖ブレンダン女子修道院の院長。一八六○年代の中頃、とある冬の嵐の夜に波に攫われて行方不明… 三十歳台で『ここ』へシスターとしてやってきてからというもの、みるみる頭角を現して十年足らずのうちに院長に任命される…
『ここ』に来る前は… 『数十カ国の言葉を話し読み書きすることができ、古代文字にも精通していたためにヴァチカンの文書・通訳翻訳課にいた』ですって!」
「…ということは、セアラさまの大先輩ですね!」
 ブライディーも驚いた。
「…おかしいわね。そんな優秀なかたが、どうしてこのような辺境の地にいらしたのかしら? …えっ、『シスター・オーファ本人の、たっての願いが上の者に聞き届けられ、この聖ブレンダン修道院へやってくる』ですって? これって『自ら志願して来られた』ということよね…」
 今度はセアラが驚いた。
「どうして、このような最果ての女子刑務所のようなところに行きたいと思われたのでしょうか?」
 セアラは年月のせいでところどころ消えかかっている文字を、必死で指先で追った。
「シスター・オーファがヴァチカンで最後にお勤めになっていたところは… 『図書館部・禁書課』…」 セアラは息を呑み、目を閉じ、ややあってからまた開いた。「これでオーファ様に関してはだいたい分かりました。彼女はきっと禁書課で、数々の黒魔術の本…とりわけ八世紀のアラビアの狂気の魔導師アブドゥル・アルハザードが書いた『死霊秘法』などの魔導書を読んで、海神フォーモーリーらの『旧き神々』の存在を確信したか、それともその存在を自分で明らかにしたいという思いに駆り立てられて、そしてこの修道院島にやってこられたのでしょう… もちろん、『実際にここにやってくれば、より確かな情報を手に入れられるのではないか』と考えられたとも思います」
「清らかで、ただ一つの本当の神様を信じ、祈りの生活を送っておられたはずのおかたが、どうしてそのような魔女みたいなことを思いつかれたのでしょうか?」
 ブライディーは不安げに尋ねた。まるでもしかしてセアラ様も、いつかオーファ様のようなことをしてしまうのではないか、という不安にとらわれたように。
「文字通り『魔が差した』としか言いようがないわ」 セアラは目を伏せた。「『神様に会いたいと心から願っている人は、ややもすると同じくらい強く悪魔に遭いたいと思っている』といったところかしら」
「そのことが分かっていながら、偉い人たちはどうしてオーファさまがブレンダン島に行くことをお許しになったのでしょう?」
「おそらく上手く騙したのでしょうね『このままでは、いにしえのリヴァイアサンが復活してしまいます』『わたくしならば厳重に再封印できます』とか言って…」
「でもそのオーファ様は嵐の夜に行方不明になり、ご遺体は上がらず… やはり邪神に殺されてしまったか、それとも眷属となっていまでもかしずいているのでしょうか?」
「真偽はともかく『そう思っていて欲しい』人がいることは間違いなさそうね」
 セアラはオーファの書類を脇にどけ、次に「キーウリン」と書かれた書類を目で追った。
「キーウリンさんは、最初からシスターではなかったのね。これによると、ずっと独身で家庭教師として身を立ててこられ、六十歳代の時は、アイルランドの有名な魔法研究家、オコンネル家に住み込んで、双子の姉妹に勉強を教えられていた、とあるわ。けれど、ある日、オコンネル家は謎の原因不明の火事に見舞われ、オコンネルご夫妻は焼死、双子の姉妹は親戚に引き取られていった… キーウリンさんは責任の一端を強く感じられてシスターになられ、この聖ブレンダン修道院に来られた…」
「わたくし、そのニュースをよく覚えておりますわ! わたしが幼い頃に起きたことで、両親もよく『怖いな、恐ろしいわ』と話題にしておりました」 北海の海に潜った寒さのせいか、それとも怪事件の記憶のせいかブライディーは少し震えだして言った。「キーウリンさまが関係者だったとは…」
 セアラは続けてシスター・エレ、ワルド、ベンダ、エグベルト、マーシアの身上書を読んだが、何も言わずにすぐに脇へどけた。
 ブライディーも敢えて尋ねたり覗き込んで読もうとはしなかった。

「さてブライディー、疲れているところ使い立てて悪いのですが、この書類箱を元の海底に沈めてきてください」
 セアラは、少し眠たそうな様子で穏やかに言った。
「えっ、もう要らないのですか? 後でまた必要になる、ということはないのですか?」
 ブライディーは目を見張った。
「ええ、もう必要ありません。早く元の場所に戻さなくては、貴女を襲った魚人の機嫌もますます悪くなるでしょうから… それから、箱を沈めるについては、もちろん誰にも見られてはいけないのですが、誰かに見られている気配がしても構いません。そのまま沈めてしまいなさい」
「えっ、それはどういう意味ですか?」
「目撃されては具合が悪いのですが、のぞき見られるのは構わない、という意味です」
「えっ、えっ?」
 ますます訳が分からなくなった。

 その夜の北海は、昼間の暖かさが残って穏やかに凪いでいた。月は煌々と海原を照らし、満天の星は降るように輝いていた。
(若い船頭さんは心配して来てくださるのかしら? もし来て下さらなければ、わたしとセアラ様は、ここで一冬過ごさなければいけないのかしら? エゼルさんと船頭さんを毒殺したのは一体誰なのかしら? セアラさまはもうお気付きになっているのかしら?)
 ブライディーはあれこれ考えながら、散歩をするていで、箱を引き揚げた東側の崖を見下ろす窓から外を眺めていた。
 左腕には布で覆った書類箱を隠し持っている。
(セアラ様はあんなことをおっしゃっていたけれど、本当にもう要らないのかしら? 「もう一度潜って取りに行ってください」とおっしゃっても、わたし、もう二度と行かないから…)
 回りの様子を窺い、誰もいないのを確かめてから布を取り去り、手を窓の外へと伸ばすと、思い切り放り投げた。
 金メッキされた書類箱は、北国のさえざえとした月と星々の明かりでキラキラと輝きながら舞い落ち、ボチャンと小さな波しぶきを上げて没した。
 瞬間、ブライディーは何者かにその様子を見られたような気配を感じた。悪魔がどこかの物陰から、まっすぐに視線を自分に向けている気が、確かにした。
(セアラ様は「見られても構わない」おっしゃったけれど、本当によかったのかしら?)
 少し自責の思いとともにセアラの待つ客室に戻ろうとすると、いつもむずかって癇癪を起こしてばかりいるシスター・エグベルトがランプ片手に珍しくニコニコしながら歩いてきた。
「ブライディーさん、エヘヘ…」
「これはエグベルトさん、こんばんわ」
「一つお願いをしていいかなー?」
 エグベルトは女道化師のように、ずるそうな、思惑ありげな作り笑いを浮かべて、ブライディーの顔を下から覗き込んで言った。
「ええ、いいわよ。どんなこと? 難しいこと、それとも簡単なこと?」
「普通の人にはとても難しいことだけれど、ブライディーさんにはできることだわ。…と言うよりか、ブライディーさんにしかできないことだわ」
「一体何かしら?」
「本当を言うと、これはエゼルのお願いなんだけれど、あたしのためでもあるの」
『エゼルさんはもう、天国に召されたでしょう?』 出かけた言葉をブライディーは飲み込んだ。
「…そう、エゼルさんが生前、望んでおられたことなのね」
 途端にエグベルトの形相が険しく変わった。「だからぁ、エゼルは死んでなんかいないって! ちゃんと『ここ』に居るんだってば!」
「そ、そうよね、ごめんなさい… で、そのエゼルさんは何と?」
「ブライディーさん、きょう貝を採りに樽から海に飛び込んで、潜っていたよね?」
「ええ。でも食べられそうな貝は一つも取れなかったの…」
「貝はいらないの。この島の海底の崖のどこかに、フォーモーリーが文字を刻んだものすごく古い石版があるの。持ってくるのは絶対に無理だから、文字を覚えるか写し取ってきて欲しいの、ってエゼルが言っていたの」
(「ものすごく古い、文字を刻んだ石版」?)
 ブライディーは体じゅうに電気のようなものが走るのを感じた。
(もしかして、真犯人の目的はそれではないかしら? その石版に書かれている内容が、とても価値のあることだったら… 間違いない! きっとそうだわ)
「あたしも、ブライディーさんのように泳ぎも潜るのも得意なのだけれど、たとえ石版のある場所を教えてもらったとしても、ちょっとだけこっちのほうが…」
 エグベルトは悲しそうに、修道女の頭巾に包まれた頭を指さしてみせた。
「そんなことないわよ。そんなことないってば…」
「だめよだめ、お願い、叶えてくれる? エゼルがとっても喜ぶと思うわ!」
 エグベルトは飛び跳ねてはしゃいだ。

「でもそれって、キーウリン院長先生のお許しを頂かなくてはならないのじゃあないかしら? わたしだって、セアラ様のお許しを頂かなくては、見習いのわたしたちが、勝手にそんなことをしたら、きっと怒られてしまうと思うわ」
「大丈夫よ!」 エグベルトは意味ありげな微笑みを浮かべた。「大丈夫。もう当分のあいだ、誰も何もおっしゃりはしない…」
(エグベルトは、石版を読みたがっている何者かに操られているのかしら? それとも、エグベルト自身が、本当は大変賢い子なのに、わざとあんなふうに振る舞っているのか…) いろんな考えが錯綜して、訳が分からなくなりかけてきたブライディーは、とりあえずこのことをセアラに知らせようと、自分たちの客室へと戻った。
 とにもかくにも、(いるとすれば)黒幕の目的が判明したのだ。かなりの進捗で、大ニュースのはずだった。
「セアラ様! セアラ様!」
 ところがセアラは、シスターの制服のまま、寝台ですやすやと眠っていた。
(セアラ様、お疲れなのかな? ここのところずっと根を詰めておられたから、無理もないかな。珍しく飲まれていたワインのせいかもしれないし…)
 ブライディーはセアラが寝ているところを見るのは初めてだった。ダブリンの貧救院時代の頃、風邪をこじらせた時にずっと添い寝をしてくれた時も、セアラは眠ることはなかった。毎日毎日、朝早くから夜遅くまで、看護を必要とする人たちへの奉仕に明け暮れていたというのに…
(どうしよう… 起こそうかな。それともしばらこのままにして差し上げておくほうがいいのかな…)
 しばらくためらった末に、そっと耳元に囁いてみることにした。
「セアラ様! セアラ様!」
 しかしセアラはスースーと安らかな息を立て、まぶたを軽くつむったまま一向に起きる気配がなかった。
(おかしい)と思ったブライディーは、セアラの身体を持って軽くゆすり、揺り動かしてみた。
「セアラ様、起きて下さい!」
 相当強くゆすってみても、セアラは目を覚まさなかった。
(もしかして、眠り薬を飲まれた? …いや、飲まされた?)
 動転したブライディーは、世話係のマーシアの部屋を訪ねてノックした。
「マーシア! マーシア!」
 扉越しにいくら呼びかけても返事はなかった。
「マーシア、入るわよ!」
 扉を押すと、マーシアは寝台の前の床に膝をつき、寝台に顔と胸を突っ伏すような姿勢で倒れていた。
「マーシア! マーシア大丈夫?」
 駈け寄って起こすと、息と胸の鼓動はあるものの、意識は戻らなかった。
(一体どうしたのかしら?)
 ちゃんと寝台に寝かせて毛布を掛けてやってから、他のシスターたちの部屋を次々に覗いてみると、シスター・ワルドも、シスター・ベンダも、シスター・エレも床や寝台の上に倒れて昏々と眠っていた。
「ああ、皆さん! 皆さんどうなさったのかしら! わたしを除くみなさんの夕食に眠り薬が入っていたのかしら?」
「その通りよ!」 後ろで声がしたので振り返ると、エグベルトが立っていた。「…この眠り薬は、二十四時間以内に解毒しないと、そのまま息もも心臓のドキドキも止まってしまうの!」
「そんな! エグベルト、貴女がそんな恐ろしい薬をみんなに?」
「あたしじゃあないよ。あたしは薬草の調合も、量を量ることも、さっぱり分からないもの!」
「じゃあ、じゃあ、解毒剤のあるところを教えて! 人の命を奪うことは一番恐ろしい罪なのよ。知っているでしょう?」
 ブライディーはエグベルトに歩み寄って膝を曲げ、両手で肩を抱き、瞳を見つめて懇願した。
「まだ作ってないよ。貴女の透視で見つけ出されたら困るもの」
「じゃあ、あなたが?」
「明日の昼間、また海に潜って、石版の文章を写すか覚えてきてくれたら、作りかたを教えてあげるよ!」
「きょうは特別に暑かったから、海に入って潜ることができたのよ。明日はとても寒くなるかもしれないわ」
「そんなことは知らないわ!」 エグベルトはツンとそっぽを向いた。「明日の日没までに、石版のありかを見つけて、そこに書いてあることを書き写すか覚えて帰ってくれないと、貴女の大切なセアラさんも、エレさんも、ベンダもワルドもマーシアも、その他の何十人かのシスターたちも、みんな天に召されてしまうだけのことよ!」
「ちょっと待って! どうしてキーウリン院長の名前が出ないの? 薬草の権威であるキーウリンさんがいたら、解毒剤を作ってもらうことくらい簡単のはず! わたし、探してくる!」
「無駄よ! 貴女には絶対に見つけられないわ! いくら貴女が捜し物を見つける超能力を持っていても!」
 駆け出そうとするブライディーの背中に向かってエグベルトが叫んだ。

 ブライディーはキーウリン院長の部屋を探してみた。寝台に寝た形跡はなく、毛布がきちんと畳まれて足下に置かれていた。
 公務室にもいなかった。机の上は整理されていて、荒らされた様子などはなかった。
(いまは緊急事態よ!)
 本立てに立ててあった院長日誌を抜いて広げてみた。すると、不思議なことに、シスター・エゼルが毒殺された日の数日前、セアラとブライディーが来る前に、船頭さんが樽で食料や物資を運んできた日を境に、ふっつりと記述が止まっていた。
(そう言えば、「このごろ年のせいか、署名するのも手が震えてままならぬのだよ」とおっしゃっておられたし…)
 一応お年よりが隠れていそうな場所は一通り調べてみた。寝台で眠り薬によって眠りこけているシスターたちの顔も一人一人確かめてみたが、キーウリン院長はいなかった。
(ということは、セアラ様と一緒にコックリさんの棒を持って、秘密の部屋や通路を探して、物置部屋で見つけた海底洞窟への出入り口以外にも、秘密の部屋か通路があるのよ! きっとそうに違いないわ!)
 セアラが眠っている客室に戻ると、エグベルトがセアラの横に潜り込んでいた。
「貴女、何をやっているのよ!」
「セアラ様って、お優しい上にいい香りのする、本当に素晴らしいおかたね」 エグベルトはうつらうつらしながら寝言のように言った。「…貴女は、いい姉様をもってお幸せね。死神に奪われてしまいたくなければ、早く石版の場所を透視して、潜って調べてくることね。…あたしにも、エゼルという本物の姉様のようなかたがいらしたのよ。再び一緒に暮らすために、石版の呪文がどうしても必要なの… だから、お願いね…」
 珍しく怒りがこみ上げてきたブライディーは、エグベルトをセアラの横から引きずり出してやりたい気持ちになったが、ぐっとこらえた。
(それにしても面妖なことを! エゼルさんは亡くなられて、この修道院の墓地に葬られている、というのに… もしかして、石版に書かれている呪文というのは、もっとも禁忌とされる「死者を復活させるための呪文」ではないかしら? そうだったら、絶対に持ち帰って与える訳にはいかないわ!)
 決心しながらも、「ケルト神話の神々」のタロット・カードを手早く切り、並べた。
「ふーん、カードを操って占いをするんだ! 知らなかった! すごいわね」
 ついに、相手に能力を知られてしまったが、仕方なかった。
(カードよ、お願い、教えて! シスター・キーウリン院長は、この修道院のどこにいるの? エグベルトによって囚われているの? それとも院長ご自身が、この一連の怪奇な事件の真犯人であり、黒幕なの? それだったら、わたしが見つけ、捕まえて、セアラ様をはじめ、みんなの解毒剤を作らせなければいけないわ!)
 出来上がった陣を読み解いたブライディーは息を呑んだ。カードたちは
『シスター・キーウリンは、この聖ブレンダン修道院島の、北側の海底にいる』と告げていた。
「ほうら、ごらんなさい! あたしは嘘なんかついていなかったでしょう?」 エグベルトは夢の中のうわごとのように囁いた。「キーウリン院長先生は、ずーっと気にかけておられた、欲するもののある海の中にいらっしゃるのよ。さぞかし今はお幸せにしておられることでしょう…」
(そんな…) ブライディーは途方に暮れた。(キーウリン様は、先代院長のオーファ様に続いて、海神フォーモーリーの臣下、眷属の魚人になってしまわれた、というの? それともエゼルさんや船頭さんを殺した真犯人は、キーウリン様ではなく、他の別の誰かで、キーウリン様もその人の手にかかって、無惨にも重しを付けて海に沈められた、という訳? どっちにしても大変! キーウリン様に皆様の症状を診て頂いて解毒剤を調合して頂けないとなると…)
「…そうよ。あたしに作り方を訊くしかない訳… 早くしないとあたし、忘れてしまうかもしれないわよ」 エグベルトは、もう半分眠っているような、幸せそうな表情でつぶやいた。「くどいようだけれど、それも明日の日没までにね… なんなら、いまからすぐに探しに潜ってもらってもいいのよ。海の上も、海の底も、真っ暗だと思うけれど…」
 エグベルトはまるで、幼い子が母親にするように、寝台の中で人形のようになっているセアラに頬ずりし、キスをした。
 ブライディーは一瞬、エグベルトを捕らえて縛り上げて、鞭打って解毒剤の作り方を聞き出そうか、とも思ったが、すぐにその考えをかき消した。
(…そう、エグベルトさんもどなたかに操られているのよ…) ブライディーはタロット・カードの陣を崩し、改めて切り始めた。(…それに、エゼルさんが亡くなられて、とても寂しかったのに違いないわ。たとえ誰が真犯人だろうと、必ずその正体を暴いて、セアラ様をはじめ皆様を救い出してみせるわ! でも、そのためには…)
「ブライディー、いい子よ! とりあえず早く、石版が沈んでいる場所を占いで明らかにして! 何百年、何千年のあいだ、力のある魔導師たちが探し出すことができなかった石版の在処を!」
 タロット・カードはその場所を告げていた。
 ブライディーはそれを目に焼き付けるとただちに、また陣を崩した。

 ブライディーは、セアラに貸してもらった、見習いシスターが使う質素な旅行鞄を、じぶんの寝台の下から取り出すと、二重底のなかから、ネス湖の探検の時に揃えた、真っ黒なぶかぶかの肌着のような水着を取りだした。
「何よそれ?」 エグベルトは物珍しそうにじろじろと見た。「ははん、分かった。それが『女性用の水着』というものね? 結構恥ずかしいかも…」
「肌着よりはましでしょう。何より泳ぎやすいし… それに、保養地などでは、ちゃんと男女の泳ぐ場所を仕切幕で分けて下さっているところもあるの」
「いいなぁ、海水浴場… あたしもきれいな砂浜がずっと続いている遠浅の海水浴場で、きれいな浮き輪で浮かんだり、泳いだり、水遊びをしてみたいなぁ… エゼルと…」
『エゼルと』という名前にブライディーはハッとしたが、そのまま準備を続けた。
(セアラ様、ごめんなさい…)
 今度はセアラの寝台の下から、使い込まれた旅行鞄を取りだして開いた。
 ヴァチカンの文書課に長いセアラは、旅をする時は必ず、珍しい墓碑や石碑の拓本を採れるように、高価な日本の和紙や、専用の墨汁や、それを塗るための筆や、和紙を押し当てるためのバランを持ち歩いていた。
「これは何をするためのもの?」
 エグベルトが訊くので教えた。
「書き写すと元の大きさとかは分からなくなるでしょう? これで写すと、そっくりそのままに写し取れるの…」
「ふーん、でも、海の中の石版はどうするの?」
 ブライディーは鞄の底から、大学ノートくらいの大きさと厚さの蝋石の石版と鉄筆を取りだした。
「よかった! さすがはセアラ様、こういうこともあろうかと、持ってこられていた!」「それは?」
「この鉄筆で簡単に彫れる、とても柔らかい石の板よ。水の中でも文字が書けるの。…でも、本当を言えば、海の中でも写真が写せる写真機があれば楽なのだけれど…」
「それで、いまタロット占いで見つけてくれた石版を書き写してくれるのね!」
「やりたくはないけれど、セアラ様や皆様のお命には代えられないから、仕方ないわ」
「そうそう、それでいいのよ」
「そうと決まれば、夜が明けるまで休ませてもらうわね。きょうは一度潜って、疲れているから」
「ええどうぞ。あたしも貴女が、気が変わって逃げ出してしまわないように『ここ』に居させてもらうわ」
 エグベルトはさらにセアラの懐深く潜り込んだ。
(少しでも眠れるかしら…)
 そう思っていたブライディーだったが、すぐに眠りに落ちることができた。

 ひりひりとするような寒さで目が覚めた。
 文字盤が夜行塗料の婦人用の懐中時計に目をやると、午前三時半。修道院の起床時間だった。
「セアラさま! セアラさま!」
 そっと起きあがり(もしや)と思って呼びかけたがセアラは軽く目を閉じたまま、すやすやと安らかな寝息を立て続けた。
「無駄だよ!」 エグベルトが目を覚まして言った。「何なら、みんなのところを回って確かめてきたっていいよ!」
「そうさせてもらうわ!」
 ブライディーは各部屋を覗いてみたが、シスター・エレも、ベンダもワルドも、マーシアも、その他のシスターたちもぐっすりと眠りこけていた。
「ベンダさん! ワルドさん!」
「マーシア!」
「エレさん!」
 部屋から部屋へと渡り歩いて、親しくなったシスターたちを次々と揺り動かしてみたものの、目を覚ます者は一人もいなかった。
 ヒューヒューと風の音がするので、石版が沈んでいる北側の窓を開けて驚いた。
 海原にところどころ大小の白い氷の破片が浮かんでいる。風もロンドンやダブリンの真冬よりも冷たくなっていた。
 たった一日で、きのうとは打って変わった天候になっていた。
「こんなの、身体じゅうをすっぽりと覆う鋼鉄製で、顔のところにはガラス窓があって、ポンプで空気を送ってもらう潜水服でもないと、到底無理だわ!」
「あら、あたしは構わないのよ」 エグベルトは冷ややかに言い放った。「…それはベンダのように、親切にしてくれた人もいたけれど、ほとんどの人はわあたしのことを…その…バカにして… あたしのことを本当に構って守ってくれたのはエゼルだけよ!」
「だからと言ってこんなことをしてはいけないわ!」 ブライディーは必死になって言った。「神様も『悪いことをした人を裁くのは、わたしに任せなさい』とおっしゃっているでしょう? このままでは、貴女が一番重い罪で裁かれるわよ、エグベルト!」
 エグベルトは目を伏せ、少しためらう素振りを見せた。
「…それは、嫌だけれど… でもあたし、エゼルと約束したから… 石版の文字を写して来させる、って…」

 ブライディーは一人で朝の祈りを捧げた。
(神様、マリア様、聖パトリック様、聖ブレンダン様、どうかわたしたちをお守りください。どうか陸地も海も、海の中も、昨日のように暖かくなりますように。海に入れて石版を見つけることができますように。エグベルトが納得して、解毒剤の作りかたを教えてくれますように。それでセアラ様をはじめ皆様が目を覚ましますように。真犯人分かって、神様の裁きを受けますように…)
 昨夜の野菜スープを一人分だけ暖め、パンと少しだけワインを飲んで、水着の上から毛布を羽織って、ナイフと鉄筆をそれぞれ左右の二の足に巻き付けて、蝋石の板を紐で背中にくくりつけて外へ出た。
 ヒューヒューと凍てつくような寒風が毛布越しに肌を刺した。
 空には、黒に近い灰色の雲が分厚くたれ込め、白い粉のような雪がチラチラと舞っていて居た。
(だめだわ。ロシアの寒中水泳の選手でもない限り、こんな日に海に入ったら、一分もたたないうちに心臓麻痺を起こしてしまうわ…)
「よーく身体を動かして、身体を暖めておいてね。貴女にもしものことがあったら、あたしも困るのよ)
 エグベルトはは海面に降りるための樽の準備をしながら言った。
 崖の上から北側の海を眺めると、海面は半分以上、大小の白い氷のかけらで覆われていた。
(でも、こうなってはもう仕方ないわ…)
 ブライディーは半ばやけになって羽織ってきた毛布を畳んで置くと、ほっそりとした腕や足をぐるぐる動かした。だが、暖まってくるよりも、冷えて感覚がなくなってきた。
「もういいわ。降ろして。貴女一人で降ろせるの?」
 樽の中に入ったものの、ガタガタと震えだし、時間が経つにつれ震えはますます激しくなった。
(神様、マリア様、どうかどうかお守りください…)
「大丈夫よ、滑車があるから。みんなは二、三人で上げ下げしているけれど、本当はマーシアのような小さい子でない限り、一人でできることなのよ」
 樽はぶらんぶらんと大きく揺れながら、ぐんぐんと降下していき、最後はパシャーンとしぶきを上げて海面に到達した。
 見上げると、エグベルトが恐ろしい表情でこちらを見下ろしていた。
「早くしてね、早く!」
(どうかお守りください…)
 ブライディーは樽をまたいで足の先から氷の海に足先を浸した。冷たい、というよりも、熱湯につけた時のように、焼け付くような感じがした。
(神様! マリア様!)
 全身をつけた瞬間、たちまち気が遠くなった。
(しっかりしなければ…)
 気力で目を開くと、奈落のような底が続いていた。
 必死になって潜り続け、占いで見当をつけたところを探してみたが、それらしいものは見つからなかった。
 冷たさと絶望が再び意識を奪いかけた時、灰色の布で包まれ、ロープで縛られ、女性が一人で持てそうなくらいの岩の重しを付けた小さな樽くらいのものわ見つけた。
 ブライディーは足首にくくりつけたナイフをスラリと抜くと、包みの中身を傷つけないように布を一部分を小さく一文字に裂いた。
 中身は二つに折り曲げた人間の死体だった。 いくら氷の海とはいえ、腐敗が始まっていて、顔も手足も皮膚や肉の剥離が進んでいたが、それでも老人らしいことが分かった。
 勇気を奮って上半身と顔を起こして見ると、その顔立ちはわずかにキーウリン院長の面影を残していた。
(キーウリン院長様! 道理で占いで探した時に「この修道院の中にはいらっしゃらない。この島の北側の海の中にいらっしゃる」と出たのは、「海神フォーモーリーの眷属になられた」のではなく、やはり「殺められて沈められている」ということだったのね…)
 よく考えれば、当たり前のことだったけれど、あまりの海水の冷たさに、その当たり前のことすら次第におぼろになってきた。
(そうよ! ご遺体はもう勝手にどこへも行かれないわ) ブライディーは裂いたところを手早くロープを縛り直した。
(早く石版を見つけなければ、息も続かなくなる… この冷たさ! 一度浮かび上がったら、再び潜ることは不可能だわ…)

(早く! 早く!)
 気持ちは焦りに焦るが、たとえ夏のあいだだけとは言え、この聖ブレンダン島の回りは気晴らしを求める泳ぎの上手なシスターたちや、それを阻止しようと魚人の肉襦袢を着込んだシスターが潜っている。何百年も、何千年も… 決して大きくない、小さな島なのに。それでもいまだに発見されていないということは、何かによって巧妙に覆い隠されているということだろう。
 しかし、占いの力は強力だった。
 もしも、まともに計画を立てて、数人の潜水夫を雇って、交代で潜らせたとしても、一夏では難しい、いや、何年かかっても見つけられないかもしれない石版のありかの当たりをつけることができた。
 それは、小さな部屋ほどもある、巨大な人食い貝の中、だった。
 その化け物貝は半分ほど開いて、貝柱を軸に、肉のひだをもぞもぞと動かしていた。回りには、人間の骨か、魚の骨か、点々と散乱している。
(神様、マリア様、どうかお守り下さい!)
 ブライディーはまっすぐに人食い貝の中心に向かって飛び込んだ。
 貝は腹を空かせていたのか、喜んで、想像していたより速いスピードで閉じ始めた。
(逃げようとしたところで間に合わないし、確実に助からない!)
 腹をくくって貝柱に向かった。消化液が分泌され、漂ってきたところを危うくかわしたが、一部は触れてしまって水着と皮膚が溶け、痛みが走った。
(どうか! どうかこれで!)
 辿り着いた貝柱をナイフで滅茶苦茶に斬りつけた。が、それはまるですじ肉のように固くて、ほとんど歯が立たなかった。
(やっぱりダメなの? 道理で多くの犠牲者の骨が…)
 覚悟しかけた時に、思いついた。
(ナイフよ! こいつに急所があるのなら教えて!)
(もう生還は望みませんから…)と、心を静めて祈り願うと、海中に漂っていたナイフのきっ先はスーッと真下の最下部を指した。
(そこ?)
 改めてナイフを手にしたブライディーは、そこを突き刺し、切り裂いた。
 だが、努力のかいなく、たった数インチを残してしっかりと閉じ合わされてしまった。 消化液も迫ってきた。
(やっぱりもうだめ…)
 いよいよ諦めたものの、
(こうなったらせめて、石版を一目拝んで…)
 もう破れかぶれになって、貝肉を切り裂き続けた。
…すると…その中に、全体の大きさはよく分からないものの、分厚い石の板の端のようなものが見えた。
(あれね… あれだったのね… でももう… セアラ様、皆様、ごめんなさい… ドイル様… 神様、マリア様… お父様、お母様…)
 冷たさと、息が続かないのとで、ついに海水を飲んでしまった。が、目の下の貝の肉のあいだには石版の上のほうが露出していた。 大理石のように白くきれいな石版は、ゴミも土も何もついておらず、刻まれている文字文字は読むことができた。
 それは、ラテン語のアルファベットだった。
(ラテン語? そんなに古くない… せいぜい二千年前…)
 ブライディーは、セアラやドイルたちに、ほんの少しだけラテン語の読みかたを習っていた。
(…そは、永久《とこしえ》に眠るものなれど、永劫なる時の果てには死すら滅びん…
 くとぅるー るるいえ? 固有名詞?
 我が望み、叶え賜え… 脆き存在の人間に、ひととき、凍れる海中での生を恃まん…)
 遠のいていく意識の中で、そこまで読んで目を閉じた途端、不思議なことが起きた。
 まず、どこからともなくプカリと、大きな空気の泡がふわふわと漂ってきた。
 ブライディーがその中に首を突っ込んで息をしてみると、ちゃんとできた。
 息を吹き返し、飲み込んだ海水を吐いた。(神様、マリア様、聖パトリック様、聖ブレンダン様、有難うございます…)
 感謝の祈りを捧げながら深呼吸を繰り返していると、海底の熱水口で暖められたらしい、人間にはちょうどいい加減の温度の熱海水が流れ込んできた。
(ああ、何という幸運でしょう!)
 足下の石版は次第に全体があらわになった。 それはちょうど墓石くらいの大きさで、この大きな貝の中にあるものとしては小さなものだった。
(早く、写さなくては!)
 背中に縛り付けて背負ってきた蝋石板を取り出すと、鉄筆で手早く写し始めた。
 呪文自体も長くはなく、数分で写し取ることができた。だいたいが「ラテン語の説明」に続いて呪文の本体が書かれている、という構成になっていた。
(「真の神のしろしめす地上に戻し賜え」いあ! いあ! くとぅるー ふだぐん!)
 心の中で念じた途端、貝の口が人が通れるくらい開き、ブライディーは空気の泡と温水に囲まれて、海上の樽に戻ることができた。
 「どう? 見つけられた? 写せた?」
 崖の上からエグベルトが尋ねた。

「ええ、何とか。早く引き揚げて!」
 蝋石板をしっかりと胸に抱いたブライディーは、樽に乗り込み、毛布をまとった。
「いいでしょう」
 エグベルトは全体重をかけてロープを引いた。滑車がカラカラと回り、樽はゆっくりと崖の上に引き揚げられた。
「じゃあその蝋石板を渡して」
 エグベルトは両手を差し伸べた。
「嫌よ! 先に皆様を目覚めさせて!」
「貴女は石版を見つけていなくて、そこに写されている文字は出鱈目の文章かもしれないわ」
「じゃあこうしましょう。わたしがいまからこの中の呪文の一部を唱える。それで、海に異変が起きたら、皆様を目覚めさせて」
「いいでしょう。呪文の『力』を、きっとエゼルも見たがると思うわ」
 ブライディーは毛布を着たまま、氷海のほうを剥いて石版の呪文の一節を読み上げた。
 すると、寒風に変わって、なま暖かい風が吹き始めたかと思うと、聖ブレンダン修道院島を囲む海全体が、さわさわと不自然に波立ち、泡立ち始めた。
 ブライディーがなおも呪文を続けると、島の遙か沖合に、何か黒い、大きな生き物がザバーンと水しぶきを上げて浮かび上がった。
 それは、船乗りたちが恐れる伝説の大王イカかタコのように見えた。
 が、「それ」は無数の泡を残してすぐにまた元の海中に没した。
「すごい! すごいわ!」
 エグベルトは目を見張り、飛び跳ねた。
 その化け物は、何本もある触手をわさわさと振りながら、召喚者を探しているように見えた。
「さぁ、これで呪文が本物だということが分かってもらえたかしら? 早くセアラ様や皆様を目覚めさせて!」
「嫌だ! 先にそれを渡してくれなくちゃあ、目を覚まさせた途端、海に放り捨てられたり叩き割られたら困るもの! とりあえず真二つに割って、上半分か下半分のどちらかを頂戴! そうしたら、みんなを目覚めさせて上げる! 左右に割っちゃあ嫌よ!」
「仕方ないわね…」
 ブライディーは仕方なく鉄筆で蝋石板の上下の真ん中に何度か鉄筆で筋を走らせ、まるでチョコレートの板を半分に割るように、バキンと割って、上半分を近づいてきたエグベルトに渡した。
「さぁ、早く皆様を!」
「いいわ。ついてきて…」
 彼女は薬草室に入ると、
「えーっと、これをこれだけっと、これはこれだけっと、それから、これを少々…」
 と独り言を言いながら、ガラス瓶に入っている乾燥させた葉や、鉱物や、爬虫類を薫製にしたものなどを「香炉」の中に入れてガラスの棒でかき回した。
「さぁ、これでいいはずよ。これに火を付けて煙をみんなに嗅がせると、目を覚ますはずよ!」
「煙を嗅がすのね?」
「ええそうよ!」
 ブライディーは言われた通りに、煙を立ち上らせている香炉を持って、まずセアラのところに行った。
(セアラ様、どうか目を覚ましてください!)
 香炉を静かに寝息をたてている顔に近づけ、細くたなびく紫色の煙を吸わせると、固く閉じていたまぶたがピクピクと動き始めた。
「セアラ様!」
 もう一度呼びかけると、セアラは薄く目を開いた。
「おはよう。寝過ごしてしまったみたいですね…」
 セアラは目をこすりながら半身を起こした。「どうしたんです。その恰好は? 水着など着て… しかも濡れているではありませんか? 風邪を引いてしまいますよ!」
「セアラ様、お話は後です! わたしは取りあえず皆様をお起こしして参ります!」
 ブライディーはマーシアを起こした。
 マーシアは、
「あっ、ブライディーお姉ちゃん… …大変! 朝のお祈りが… 怒られてしまうわ!」
「大丈夫、怒られたりはしないわ。皆さんもほとんど眠っておいででしたから…」
「その恰好は?」
「訳は後よ!」
 続いてシスター・エレや、ベンダやワルドやほかのシスターたちを起こして回った。
 みんなが寝ぼけまなこで、ブライディーのあられもない姿の理由を尋ねた。
 ブライディーは質問を無視して、エグベルトのところに戻った。エグベルトはもう、蝋石板の上半分を持ってはいなかった。
「さぁ、みんな目を覚ましたでしょう? 約束通り、呪文の残り半分をちょうだい!」
「嫌よ! 誰が上げるものですか! これはこうするわ!」
「ちょっと待って!」
 蝋石板を床に叩きつけようとしたブライディーに向かって、エグベルトは小さな薬草の小袋をつまみ上げて見せびらかしながら言った。
「さっき調合した煙、重要な薬草を一つ抜いておいたの。もう一種類混ぜてまた嗅がせないと、また眠っちゃうわよ!」
「ブライ…ディー、一体…どう…したの?」
 よろよろと薬草室に入ってきたセアラが、そのまま崩れるように倒れて、また眠りこけてしまった。

「セアラ様…」
 駈け寄って抱き起こしたものの、セアラは前よりも深く眠っていた。
「さぁ、早くその蝋石板の残り半分をちょうだい!」
(エグベルトは絶対誰かに操られているわ。 彼女は、こんな駆け引きができるような子じゃあないもの… キーウリン院長様かな? でも北側の海の底で、キーウリン院長様らしい袋詰めのご遺体を見つけたし… 伝説の通り、前院長のオーファ様がずっとこの修道院のどこかで生きておられるとか… まさか、エゼルさんがお墓の中から甦られて、ということはないでしょうね…)
 ブライディーは渋々、蝋石板の残り下半分をエグベルトに差し出した。
「そう、それでいいのよ。エゼルもあたしも、無益な殺生はしたくはないもの!」
 エグベルトは、そう言うなり薬草の入った小袋を三階の半開きの窓から放り捨てた。
「何をするの!」
「要るのでしょう? 取ってきてみんなに嗅がせたらいいじゃない?」
 階段を駆け下りて落ちたあたりを探すと、幸いにすぐに見つけることができた。
 もう一度、香炉の中に入れて煙を嗅がせると、今度こそセアラも他のシスターたちも、はっきりと目を覚ました。
 エグベルトの姿は、何処へともなく消えていた。
「クシュン! クシュン!」
 ホッとした途端に、くしゃみが続けて出た。
 自分がまだ水着に毛布をまとっただけの姿であることを思い出したブライディーは、手早く着替えて、いままでの経緯をセアラたちに話した。
「そうですか… わたしとしたことが大変な不覚でした…」
 セアラは椅子に座ることもなく、院長室を行ったり来たりしながら言った。
「…キーウリン院長先生らしいご遺体が、沈められていたなんて、わたくし、これからどうすればいいのでしょう?」 総務長のシスター・エレは、いまにもまた泣き出しそうだった。「…食料も、ほかの物資も、もし新しい船頭さんが来てくれないと、とても足りません…」
「落ち着いてください、エレ様」 シスター・ベンダがエレの肩を抱いて言った。「まだ一ヶ月以上の余裕があるではありませんか。 神様やマリア様がわたくしたちをお見捨てになるようなことはありませんわ」
(そうだ、とにかく無事に海の底から帰ることができて、こうして皆様を目覚めさせることができたことを神様やマリア様にお礼申し上げなくては…)
 ソファーに座ったブライディーは、疲れのせいか、まぶたが鉄の扉のように降りようとするのを懸命にこらえながら心の中で祈った。「そんなことよりも、呪文を写した蝋石板を、エグベルトを操っている人に渡して大丈夫なの?」
 シスター・ワルドが言った。
「あたしもそれが心配ですわ」 小さなシスター・マーシアが目覚ましと元気づけの薬湯を持ってきて、みんなに配りながら言った。「ブライディーさんのおっしゃる通り、巨大な化け物を呼び出すことができる呪文だったら、この聖ブレンダン女子修道院が襲われて、この島ごと沈められてしまわないか、ということも心配です」
「それももちろんそうだけれど、この中にエグベルトを操っている真犯人がいる、なんていうことはないでしょうね?」 ワルドは、目の前のテーブルに置かれた薬湯を見つめて言った。「…疑って悪いけれど、早い話が、これに新たな毒は入っていないか、ということよ」
「そんな、あんまりですわ!」
 マーシアは泣き出しそうな顔になった。
 シスター・エレとベンダは、思わず啜ろうとしていた口を離した。
「そんなことはありませんわ」
 シスター・セアラだけが悠々と薬湯を飲んだ。「これには毒は入っていません。まんまと目的のものを手に入れた真犯人は、もうこれ以上犯行を重ねることはないでしょう」
「セアラさん、なぜそのようなことがお分かりにになるのですか?」
「そうよ! どうして分かるのよ!」
 エレとワルドはセアラを見つめてなじった。「わたくし、神様とマリア様のご加護で、今回のこの事件の真相が分かりました」
「えっ!」
 皆は異口同音に叫んだ。
「セアラ様、それは本当ですか?」
 ブライディーも眠気がいっぺんに覚めた。「本当です。ブライディー、貴女を危険な目に遭わせてしまって、済まなく思っています。 でもお陰で、真犯人の目的はもちろん、正体も、事件の全体像も分かりました」
「誰なのですか?」
「亡くなったエゼルが身ごもっていた理由も分かったのですか?」
 皆は再び口々に尋ねた。
 と、その時、吹雪が一層強まって、バラバラとヒョウが木窓を叩きつけた。
 風がゴウゴウとうなり、ザバーンザバーンと波の打ち寄せる音も響きはじめた。
「おかしいです。いつもの嵐とは違うような…」
 誰がともなく言う声が聞こえた。

 やがて風雪は、石造りの古い修道院の壁をギシギシと揺らせるほど強まった。
「エレ様、大丈夫でしょうか?」
 年の若いベンダやワルドやマーシアたちが口々に尋ねた。
「千数百年間ものあいだ、相次ぐ海底火山の噴火や、大嵐にも壊れることのなかった聖ブレンダン修道院です。何か分かりませんが、今回もきっと、神様やマリア様がお守り下さると思います…」
 しかし、風はますます強まり、二つ三つのかんぬきを下ろした北側と東側の木窓は、かんぬきを飛ばして内側に向かって開きそうになり。シスターたちが二人三人と固まって、押さえつけなければならなくなった。
「これはただの嵐ではありませんわ!」
 ベンダとワルドは顔を見合わせた。
「寒くなるきざしはありましたが、こんなになるような感じはしませんでした」
「ええ、貴女がたのおっしゃる通りです」
 優雅に薬湯を飲み終えたセアラが立ち上がってつぶやいた。「…真犯人が手に入れた呪文を使って、早速旧き邪悪なるものを召喚しようと試みているのでしょう…」
「すると、わたしのせいで…」
 ブライディーはすっかり恐縮して小さくなった。
「いいえ、心配には及びません!」 セアラは毅然として言った。「…いくら密かに黒魔術の修行を続けてきたとは言え、きょう、それもたったいま手に入れた呪文で、急に何事かを成し得るとは到底思えません。…エレさん、この修道院の中で、建物と四方の海を一番良く見渡せる場所はありませんか?」
「それは… やはり… 鐘楼だと思いますが、この風では大の男でも立ってはおれないと思います」
「では、その鐘楼が最も良く見渡せる場所は?」
「西側の廊下の真ん中のあたりの窓よ! あたし、あたし、当番のシスターが鐘をつくところを見るのを楽しみにしていたから…」
 マーシアが言った。
「ではそこへ行ってみましょう」
 一同が院長室を出た時、時刻でもないのにガラーンガラーンと鐘の音が響いた。と同時に、女性の、歌うような、朗唱するような呪文が、かすかに風に乗って聞こえてきた。
「だ、誰の声かしら?」
「聞き覚えがあるような…」
「もう少し大きいとはっきりするのでしょうが…」
 シスターたちは口々に言った。
 廊下の目的のところに着くと、他のシスターたちが手分けして中庭に向かっている窓を懸命に手で押さえていた。
「開けないことには鐘楼は見えませんね」
 セアラはまるで何事も起きていない…これからも起きないと確信しているかのように落ち着き払っていた。
「窓を開けるですって! そんな恐ろしいことを… ×字に板を打ち付ける間がなかったことを恨んでいるくらいですのに…」
 シスター・エレがおろおろしながら言った。
「でも、誰がどんなことをしているか、確かめなければ…」
 しかし、セアラが言い終わらないうちに、木窓はバッと開き、物凄い雪と風がバーッと吹き込んできた。押さえていたシスターたちはひっくり返り、エレや、ワルドやベンダは立っていることが出来ずに床に倒れ、ブライディーは飛ばされたマーシアが壁に叩きつけられないように抱き留めた。
 まともに目を開いておられないほどの突風、その中でセアラはただ一人、まるで魔法でもを使っているかのように凛として立ち、窓の外の白一色の世界を見つめていた。
「マーシア、怪我はなかった? お部屋に戻りましょうか?」
 ブライディーはマーシアの耳元で言った。
「いや、見られるものなら、あたしも、エゼルや船頭さんや院長先生を殺めた犯人の姿を見たいわ…」
 マーシアが応えた。
 猛吹雪の中、ガラーンガラーンと鳴り続ける鐘。その脇に、修道女の制服ではなく、黒いマントを着て、黒いフードを目深にかぶった、ほっそりとした者が立っていた。
「だ、誰でしょう?」
「若い子のように見えますが…」
 その修道女…いや、いまや女魔導師は、すぐに覚えたのだろうか、呪文を唱え続けていた。
 審判の日のように荒れ続ける海。その中から何か巨大なものが波しぶきを上げて盛り上がろうとしていた。
「キャーッ!」
 シスターたちは口々に悲鳴を上げた。
「皆さんは、ご覧にならないほうがよろしいかと思います!」 セアラがありったけの声で怒鳴った。「…見ると、心の傷になり、一生ぬぐい去れない可能性が高いです!」
 エレも、ベンダも、ワルドも、他のシスターたちも床に伏せて目を固く閉じた。
 ブライディーもマーシアをしっかりと胸に抱きながら目をそらせた。
「セアラ様は構わないのですか?」
「わたくしは、見届けるためにここに来ているのです!」
 セアラの見ている前で、一本の鱗に覆われた長い長い触手が岸壁のあたりの波打ち際から跳ね上がり、その尖った先端で、鐘楼の女魔導師に巻き付いた。

 女魔導師は蛇の舌に巻き取られた小さな蛙のように、手足をばたばたさせた。
『そんなはずではない!』
『どうして!』
 と、わめき叫んでいるようだったが、吹雪のうなりと邪神が上げる波しぶきにかき消された。
 邪神はそんなことにはまるで頓着せず、象の鼻みたいなものが何本も垂れ下がった太い触手に隠れた口に彼女を投げ込んだ。
 細く長い悲鳴とともに、ガリッゴリッグシャッという骨や肉を噛み砕くような音が聞こえたような気がしたが、すべては気のせいかもしれなかった。
 未熟な召喚者を貪り喰うと、北海の邪神はゆっくりと現れ出た島の岸壁の海に沈み始めた。
「よかった! もうこれ以上こちらには来ないみたいです!」
 セアラは自らも膝をついて、伏せて壁の影に隠れていたシスターたちに言った。
「本当ですか?」
 シスター・エレがゆっくりと立ち上がった。 心なしか吹雪はじょじょに収まりつつあるようだった。
「さんざん脅かしておいて! もしかすると怪物は、海から陸に上がってくることはできないのではありませんか?」
 シスター・ワルドがいまいましそうに言った。
「でも、あの大きさ、あの触手の太さからすれば、この修道院全体を一撃で叩き壊すこともできた感じでしたわ」
 シスター・ベンダは心から胸を撫で下ろした様子だった。
「鐘楼の上にいた女魔導師はどうなったのかな?」
 小さなマーシアが、抱きかばい続けてくれていたブライディーに尋ねた。
「たぶん神様のお怒りに触れて、地獄に堕ちたと思います」
「そうね… 彼女も、あの化け物も、もう二度とわたしたちの前に姿を現すことはないでしょう…」
 ブライデーの肩を優しく抱いたセアラは、窓越しに波も静かになって行く水平線の彼方を穏やかな瞳で眺めながら言った。
「さぁ、ブライディー、大変疲れているところを申し訳ありませんが、エグベルトを探してもらえませんか?」
「えっ、すると、怪物に貪り喰われた女魔導師は、少なくともエグベルトではなかったのですね?」
「ええ。違います。エグベルトさんはそのようなことを思いつかれるような邪悪な心の持ち主ではありません。皆さんにひどいことをしたのは、文字通り、真犯人に操られていたからです」
 ブライディーはへとへとの身体に鞭打って、またロザリオを掲げて祈った。
「神様、マリア様、聖パトリック様、聖ブレンダン様、わたしたちを黙示録の、恐ろしく邪悪なるリヴァイアサンからお守り下さって本当に有難うございました。ここにいる一同、心よりお礼申し上げます。…ですが、いま一度、いま一度だけお力をお貸しください…」
 十字架がかすかに震えて、鍵のかかる納戸のほうを指した。
 シスター・エレが鍵束の鍵で開くと、ぐったりとしたエグベルトが横たわっていた。
「大丈夫、息も脈も鼓動もあります。何者かに深く眠らされているだけだと思います」
 エグベルトの胸に耳を当て、手首に触れたセアラが言うと、シスターたちが「良かったですわ」と安堵の溜息をついた。

 エグベルトの手当と世話を他の者たちに任せ、 主だったシスターたちが再び院長室に集まった。幼いマーシアは「貴女は無理に聞くことはないのよ」と諫められていたが「あたしも真実を知りたいです」と居残った。
「一連の事件の真犯人は、キーウリン院長先生だったのでしょうか?」
 シスター・エレはまだ顔を青ざめさせたまま尋ねた。
「いいえ、キーウリン院長先生は、殺められて北側の海の底に沈んでいるのをブライディーが見つけています」
 セアラはもう、立ったまま語ることはなく。年代もののビロード張りのソファに浅く腰掛けていた。
「でもセアラ様、ご遺体は痛みが激しく、絶対にキーウリン様に間違いなかったとは…」「キーウリン様で間違いないでしょう。ご遺体を引き揚げて、葬って差し上げなければならないでしょうが、おそらくもう、来年の夏まで無理だと思います。…その時は、シスター・ベンダ、よろしくお願いしますね。
「え、ええ…」
 ベンダは落ち着かない様子で、もじもじしていた。
「キーウリン院長先生じゃあないとすると、オーファ前院長先生かな?」
 小さなマーシアが小首をかしげた。
「オーファ様でもありません。もっとも、邪神に海の底に引きずり込まれたあの女魔導師と同じ運命をたどったのは、ほぼ疑いのないところですが…」
「ではエグベルトだった、とか…」 ワルドが膝を乗り出した。「本当は賢い子で、いまでも何者かに操られているふりをしているだけ、とか…」
「違います。エグベルトさんはやはり利用されていただけです」
「では誰が?」
 シスターたち全員の視線がセアラに集まった。

「これは、ブライディーが最初の潜水で持ってきてくれた書類で分かったことなのですが…
…事件は、いまから十数年前にさかのぼります…
 当時、アイルランドの著名な魔法研究家、オコンネル家の幼い双子の姉妹を教育するために、一人の住み込みの家庭教師がやってきました。
 名前を仮にミス・Kとしておきましょう。
 ミス・Kがオコンネル家にやってきたことには、おそらく秘密の目的があったと思います。それは多分、オコンネル氏が研究していた『北海の邪神』の召喚と、邪神が与えてくれるであろう、この世での不老不死を手に入れること、だったと思います。
 ミス・Kは、オコンネル氏を殺めるようなつもりはなかったでしょう。ところが、氏の研究の成果『邪神は、スコットランドの北の沖合に浮かぶ、聖ブレンダン修道院島近くにいる』という知識を盗み出した時、オコンネル氏に見とがめられたのだと思います… オコンネル氏も魔法の研究家です。ミス・Kの怪しい動きに気がついていたのかも知れません。
 ミス・Kはやむなく、オコンネル夫妻を火事に見せかけて殺めました。ところが、その現場を幼い双子の姉妹に目撃されたのです。
 ミス・Kは、慌てて催眠術で双子姉妹の記憶を消しました。
 そして自分は火事の責任を取るふりをして女子修道院に入り、シスター・キーウリンと名乗ったのです」
「キーウリン様がそんな恐ろしい罪を犯されたかただったとは、とても信じられませんわ」
 シスター・エレの顔から血の気が引いた。
「そうでしょうか、わたしはあの院長先生は、何か曰くありげなかただと思っていましたわ」
 シスター・ワルドはツンとして言った。
「キーウリン院長は、その魔法の知識を使って、どんどんと使命を果たしていき、ついに『北海にある聖ブレンダン修道院島の近くの海には、太古の邪神がいて、甦ろうとしている。自分ならば確実に封印し続けることができる』と上の者を騙し、まんまとここにやってきました。
 前院長のオーファ様が魔法使いである、という噂を流し、機会を窺って嵐の夜に密かに殺し、まんまと次の院長に納まったのです…」
「院長先生が、そんな怖いおかただったなんて…」
 シスター・ベンダとマーシアは抱き合って震えた。
「…さて、両親が焼死し、教会に預けられたオコンネル家の双子の姉妹ですが…」
 セアラは続けた。
「…そのうちの一人がシスター・エゼルです。…もちろん、本名は違うでしょう」
「ええっ、エゼル! エゼルがそうだったのですか!」
 親友だったベンダをはじめ、一同が驚いた。「分かりました。エゼルがこの島にやってきたのは、キーウリン院長への復讐のため、だったのですね?」
 ブライディーはセアラを見つめて言った。「その通りです」 セアラは頷いた。「…おそらく、記憶を封印する魔法が解けたか、それとも自分で解いたのだと思います。エゼルさんも魔法研究家の娘ですから…
…いっぽう、念願かなって、この聖ブレンダン修道院にやってきたシスター・キーウリンは焦っていました。(この修道院の図書館の蔵書を調べれば、邪神の召喚法に触れた本が必ずやあるだろう)とたかをくくっていたのに、歳月をかけて少しずつ読み、研究しても、さっぱり埒があかなかったのです。
 召喚法について書かれた石板が、この近くの海に沈んでいる、という事ぐらいまでは分かったかも知れませんが…
 そんな時、自分が殺した魔法研究家の娘であるエゼルがこの島にやってきました。シスターとして…
 キーウリン院長が、そのことに気づいていたか、それとも、気づいてはいなかったかはいまとなっては分かりません。海底から引き揚げたエゼルさんの身上書は白紙でした。最初から白紙だったのか、院長が破棄したのか、どちらかでしょう。ここでは『気がついた」という仮定のもとに進めます…
 キーウリン院長は窮地に追い込まれました。 望む呪文はなかなか手に入らず、おまけに復讐者まで現れたのです…
 ですが、エゼルは、思わぬことを申し出ます。
『…先生…むかしのように先生と呼ばせて頂きますね。邪神の力を借りれば、亡くなった両親を骨から甦らせることも可能かもしれません。邪神に貴女の知っていることをわたくしに教えて下されば、過去のことは水に流しましょう。もちろんわたくしも知っていることをお教えしましょう。手に入れたものは山分けにしましょう。さもなくば…』
 高齢の上、自分ではまったく成果を手に入れていないキーウリン院長としては、悔しくても飲まざるを得ない条件だったことでしょう。
 こうして、エゼルさんは、院長から薬草学を習うなどしてさらに力をつけて、キーウリン院長が完全に用済みとなる復讐のチャンスを待ちました…」

「(キーウリン院長には、いつでも鉄槌を下せる)と思ったエゼルさんは、いよいよ実行に着手します。けれども、夏が巡ってきてもエゼルさんが自分で潜ってあちこち探索することは不可能でした。
 エゼルさんは泳ぎがあまり得意ではありません。エグベルトさんが溺れて飛び込んだ時、自分のほうが逆に溺れそうになってしまったそうですからね…
 そこでまず、二ヶ月に一度、食料や必要な物資を運んでくる船頭さんを買収しました。なにしろ、院長に命じて、自分を樽の中身の検品係に任命させているのですから、何でも内緒で運んでこさせることができます。
 そこで、エゼルさんは、自分とソックリで自分よりも泳ぎが上手いであろう双子の妹を、樽の中に入れて連れてこさせたのです」
「ええっ!」
 シスター・エレや、ベンダや、ワルドや、マーシアや、ブライディーは驚き、目を見張った。
「そうか、そうだったの…」 ワルドは歯がみした。「…エゼルが二人… それだったら、二人で一緒に居るところさえ目撃されなければ、ご不浄に行っても、どこで何をしていてても怪しまれない、というわけだったのね…」
「そうです」 セアラは大きく頷いた。「…これで海の中の探索も可能になりました。一方、キーウリン院長のほうは、安心して油断していました。前院長のオーファ様に続いて自分まで行方不明になったり、殺されたりすれば、また騒ぎになる。エゼルも不用意にそんなことはするまい、と思っていたのでしょう。 しかし、エゼルさんには秘策がありました。よく考えれば『エゼルは二人も要らない』のです。
 そこで妹と二人で共謀し、両親の仇であるキーウリン院長を殺害。重しを付けて海底に沈めました。
 すかさず、船頭さんに内緒で持って来させていたドーランや、変装用の道具でキーウリン院長に成り代わったのです。痛み止めの薬草を使って、健康な自分の歯を全部、妹さんに抜かせている光景を想像すると、寒気が走りますが…」
「まさか!」
 皆はポカンと空いた口を手のひらで隠し、ただ呆然としていた。
「…エゼルは妹エゼルが演じ、院長は、院長の癖や何かを熟知している自分が演じる… お芝居が上手で、クリスマスの劇にはいつも主役を演じていたエゼルさんには、そう難しいことではなかったかと…
 誰も十代後半のエゼルさんが、高齢のキーウリン院長を演じている、などとは夢にも思わなかったでしょう…
 もとより体格は似ています。入念に皺だらけの顔と手を作り、歯を抜いて背中と腰を海老のように曲げればいいだけですから、むしろ極端から極端へ、ということで演じるのは比較的簡単だったことでしょう…」
「す、すると…」 シスター・エレの顔色は紙のように蒼白だった。「少なくとも貴女がたがいらしてからのキーウリン院長様は、エゼルだった、ということですか?」
「ええ、そうです。わたしたちもまんまと騙されていた、ということです。たぶん声を枯れさせる薬草なんかを飲んでいたのでしょう…」」
「信じられないわ!」
 ベンダは両手で顔を覆った。
「自分は妹に譲り、キーウリン院長になりすまし、この聖ブレンダン修道院の主導権を握りたかったのでしょう… ベンダさん、貴女に『書類箱』を取りに潜ったブライディーを、魚人の肉襦袢を着て脅かしなさい』と命令したのはキーウリン院長…エゼルが演じていた…ですよね?」
「ええ、そうです。ブライディーさんごめんなさい…」
「いえ…」
「謝らなくてもいいでしょう。その時はキーウリン院長先生のご指示だと思っていたのだから…」
 ワルドがかばった。
「これで皆さんにも、ほぼ全体が分かったことと思います。普段はラテン語が下手なふりをして、キーウリン院長になった途端に、流暢なラテン語で御弥撒を捧げるなど細かいところも演じ分けました」
「…それで、エグベルトは『エゼルは死んでいない、まだここにいる』と言い続けていたのですね?」
 小さなマーシアが叫んだ。
「マーシア、その通りです。おそらくエグベルトは、独特の勘で、知っていたのでしょう。
 そこでエゼルさんは『これはまずい』と考えて、催眠術か何かでエグベルトさんを操ることにしたのです」
「『復讐と、両親の研究を取り戻す機会がやってきた』とはるばる海を渡ってきた妹エゼルが身ごもっていたのは?」
 ワルドが尋ねた。
「妹エゼルさんはシスターではありません。街では結婚していたかもしれませんし、好きな男の人がいたのかもしれません。全くの成り行きだったでしょうが、姉のエゼルさんは不注意を責めたことでしょうね。『この大切な時に!』って。よりによって女子修道院では最も目立つことをしてしまったのですから… そこで、特別なお薬を作って飲ませましたが、毒が効きすぎて、かわいそうに妹エゼルさんは亡くなってしまわれました」
「苦しまれている時に、仲の良かったベンダさんを頼らずに、ワルドさんたちのところへ来たのはそのせいだったのですね」
 ブライディーが言った。
「そう。妹エゼルさんは、姉から修道院の人間関係について一通り説明は受けていましたが、完全に把握していたわけではなかったのです…」

「…キーウリン院長になりすましていたエゼルさんも、悲しかったことでしょう。来年の夏くらいから、海中の探索手として期待していた妹さんを亡くして、予定していた計画も頓挫しました。キーウリン院長の姿で御弥撒を上げた時に流した涙は本物の涙だったことでしょう…
 おまけに、妹さんが身ごもっていたことが皆さんに発覚し、報告と調査を依頼する手紙を書いて船頭さんに言付けねばなりませんでした…」
「その結果、貴女がたがやってきたのですね?」
 シスター・エレはようやく頬に血の気を少し取り戻した。
「そうです」 セアラはコックリと頷いた。「けれども、エゼル・キーウリンはそう簡単には諦めません。…と言うか、諦められないのです。なにしろこのままでは、死ぬまでずっとキーウリン院長の役を演じ続けねばならないし、そんなことは不可能です。そのうちいつか、何かのはずみで正体がバレてしまうことは必至です。船頭さんに買ってこさせた変装用品もいつかは底を尽きますし、そうそう繰り返して頼むことはできません。すでに十分なくらい弱みを握られていますし…
 エゼル・キーウリンは、わたしたち…特にブライディーがその不思議な力を使って、石版の場所を確定し、呪文を写し取ることに一縷の望みを賭けました。
 はるばると、法王庁から直接派遣されてきたわたしたちです。きっと何か特別な力があると睨んだことでしょう。
 エゼル・キーウリンは勝負に出ました。
 まず、わたしたちを運んできた船頭さんを海底の洞窟に誘って、謝礼の金貨とともに置いてあった酒か何かで毒殺しました。
 これで一応、秘密を知る者はいなくなり、この女子修道院を当分『閉ざされた世界』にすることにも成功しました。
 ブライディーが物置部屋の秘密の扉を探し当てて、海底洞窟への通路も見つけて、船頭さんの遺体を発見するのは折り込み済みでした。見つけられて、心の中でさぞかし欣喜雀躍したことでしょう。『さすがは法王庁が派遣した、特別な能力を持った者だこと。この調子だったら、石版の沈んでいる場所を占って、写し取りに行ってくれるかもしれない』 …そしてその通りの展開になりました」
「毒を操るのに、貴女がたを毒殺してしまわなかったのは、そういう思惑があったからなのですね」
 シスター・ワルドも胸を撫で下ろした。
「ワルドさんのおっしゃる通りです。ブライディーが書類を探して一回目に潜った時、ベンダさんに『魚人に化けて脅かして邪魔をするように』とだけ指示して、それ以上強硬な手段に出なかったのも、そのせいです」
「とにかく良かったですわ。エゼル・キーウリンさんも、自分が呼び出した邪悪なものに滅ぼされて… いまは彼女の魂も救われるように祈って差し上げたいですわ」
 シスター・ベンダは頬に流れる涙を拭った。
「…結局、この事件で亡くなられたかたは、キーウリン院長に始まって、妹エゼルさん、船頭さん、エゼルさんと、四人が四人とも何らかの罪を犯した罪人です。船頭さんは微罪でしょうが、そもそも彼が妹エゼルさんと変装道具を樽に入れて運んでこなければ、このようなことにはならなかったわけです…」
 セアラは、目を伏せて溜息をついた。

 数日後の、寒さが少し納まったある日、ブライディーが何気なく海を見ていると、一隻の小さな蒸気帆船が見えた。
「みんなー、船よ! 船が来てくれたわ!
 セアラ様、船です!」
 シスターたちはその側の窓に鈴なりになって、細々と黒い煙を上げ、白い波を蹴立ててこちらに向かってやってくるポンポン船を眺めた。
「ああ、よかった! これで今年の冬が越せますわ」
 ブライディーはここへ来て初めてシスター・エレがにこやかに笑うところを見た。
「ブライディーさん、帰ってしまうのね…」 小さなマーシアは泣いた。
「えっ、ええ…」
「セアラさんにブライディーさん、お願いです」
「報告書を書かれたら、どうかここで何年か祈りの生活を過ごしたシスターたちが、希望に添って他の…本土の女子修道院に移ったり、社会の中でなければできない奉仕活動ができるように書き添えて貰えないでしょうか?」 シスター・ベンダとワルドは口々に嘆願した。
「分かりました。ええ、それはもちろん書き添えます」
 船は岸壁に着き、樽を使って荷物の積み降ろしが始められた。
(これはたぶん、千数百年変わらない光景なんだわ…)
 また、また、自分たちだけが現実の世界へと帰っていくことを後ろめたく感じながら、ブライディーは思った。

「ブライディーさん、貴女もセアラさんと一緒に、帰ってしまわれるのね?」
 エグベルトは、まだ催眠術から醒めていないみたいに眉を吊り上げて、責めるように言った。
「えっ、ええ…」
「エグベルト、無理を言ってはいけませんよ。セアラさんとブライディーさんは、ご使命を果たされるためにここに来ておられたのです。 果たし終えられたら、次のご使命が待っているのです」
 シスター・ベンダが宥めた。
「あたしは、ブライディーさんが、ここにずっと居てくださるものと思っていたのに、裏切られた気持ちです…」
 エグベルトはさらにだだをこね続けた。
「船頭さん、船が出るまで、あとどれくらい時間がありますか?」
 ブライディーは崖の上から、船の上にいる若い船頭さんに向かって叫んだ。
「そうさな。日没までには本島に戻りたいから、あと二時間くらいってところかな」
 船頭さんがパイプにタバコの葉を詰め直しているの見てドイルのことを思い出したブライディーは、シスターたちのほうを向き直った。
「この聖ブレンダン修道院島には、まだ何かが隠されているような気がします。時間まで探してみたいと思います。いいでしょう、エレ様、セアラ様?」
「ええ、もちろんですよ」
 エレもセアラも、笑顔で言った。

 あの物置部屋の落とし扉の岩が、再び力自慢のシスターたちによって「せーの!」で持ち上げられた。
 ブライディーはまた細身の銀のロザリオを掲げた。
「御心のままに…」
 セアラやエレ、ベンダにワルド、マーシアにエグベルトが、手に手にランプやロープ、岩に印を付けるためのチョーク、帰り道が分からなくなったときの糸巻きなどを持って先に立ったり後に続いたりしてついてきた。
「もうご遺体は御免ですわ!」
 ワルドは憮然として言った。
「『ここ』は海賊たちや、さまざまな異教邪教の信徒たちの砦だったところ。ご遺骨を見つけたらねんごろに祈り葬って差し上げるのが、わたしたちの使命ですわ」
 袋を下げたベンダが言い返した。
 暗い不気味な海底洞窟の分かれ道を何回曲がったことだろう。夜行塗料付きの懐中時計が一時間過ぎて、もう引き返さなければならなくなった時、洞穴の先にキラリと光るものが見えた。
「何かしら?」
 ベンダとワルドが修道女の制服の裾を持ち上げて駆け出した。が、すぐに立ち止まった。
 エレもマーシアもエグベルトも、ブライディーもじきに追いついて、息を呑み呆然と立ちつくした。セアラだけがニコニコといつもと変わらない微笑みを浮かべていた。
 ランプの光が照らす先、海底の小部屋には、何百年何千年隠され続けてきただろう、キラキラと輝く黄金の冠や、色とりどりの宝石や、金貨が、小山のように山積みになっていた。
「…ご、ご本山に報告して、神様のために、恵まれない人たちのために役立てて頂かなくては…」
 シスター・エレはやっとそれだけ言った。「エレ様、とりあえず貴女が運び出しと整理の責任者ですよ。頑張って下さいね」
 エレの肩を叩いたセアラは、宝の山に近寄って、渦巻き模様の付いた装飾品や、顔立ちがアングロサクソン人のものではない聖像をまじまじと眺めた。
「…これはおそらく、伝説の聖ブレンダン様ですね。このような奇跡が起きた以上は、この女子修道院は法王庁から北の巡礼地の一つとして認定されると思います。神様のご栄光を一目拝そうと、…現実には願い事が叶えられることを求めて、冬でも砕氷船を仕立てて、世界中から大勢の巡礼者のかたがたがどっとやってこられることでしょう。宿坊やお食事の段取りなどで、皆さん、目が回るほどお忙しくなられますよ」
「嘘でしょう!」
「信じられないわ!」
 ワルドとベンダは腰を抜かしてその場に座り込んでしまった。
「エレ様、いまだけ少し身につけてみてもみてもいいですか?」
 小さなマーシアがすがるような目で見上げた。
「え、ええ…」
 マーシアが頭巾の上に小さな女王冠をかぶると、エグベルトも習った。
「マーシア、神様に天国に上げて頂いたマリア様みたい!」
「エグベルト、貴女もよ!」

 セアラとブライディーと船頭さんを乗せて、船はゆっくりと島を離れ始めた。
 岸壁にはシスターたちが鈴なりになって、千切れんばかりに手を振ってくれた。
 ブライディーもセアラも、同じように手を振り返した。

     (次のエピソードに続く)





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