2005.06.29 みぐさんのご教示ご指摘で、「グノーシス派」について間違っている箇所を削除。「智恵」を「智慧」に置換… ブライディー・ザ・マジックメイド 「裸足のコッペリア」 真っ白な、なま暖かい、嫌な霧が立ちこめる夜のことだった。肌にまとわりつくような六月の湿気の中。漆黒の学生マントをまとった金髪で眉目秀麗な魔導師アレイスター・クロウリーが、人影の途絶えた深夜の歩道をコツコツと靴音を響かせながら「英国心霊研究協会」のある界隈を歩いていた。 と、通りの向こうから、修道士の全身を包む黒マントに黒頭巾、仮面をかぶった小柄で華奢な人影が近づいてきた。 (ふむ、このぼくに…ね…) 人影は数ヤード先でピタリと立ち止まると、手にしていたステッキを構えた。 「失礼ながら、ケンブリッジの学生、アレイスター・クロウリー殿か?」 ドイツ語かオランダ語の訛りがある。 「そうだが…」 アレイスターも歩みを止めると野心に充ち満ちた瞳をキラリと輝かせ、ステッキを胸元に掲げた。 「貴殿ほどの魔法使いなら、すでにわたしの目的はお察しかと?」 影は、中性的な声で続けた。 「『魔法を教えて欲しい』?」 「いかにも。しかしそれは貴殿がわたしよりも強かったなら、の話」 アレイスターは少年のように屈託なく微笑んだ。 「何がおかしい?」 影はムッとしたようだった。 「もしもぼくがあなたに勝ったら、ぼくはあなたを殺してしまうかもしれない」 「その時はその時…」 歯ぎしりの音とともに、青白いオーラが燃え上がった。 「分かった。…ところで、名は? 墓に刻むのに必要だ。ついでに信じる神か悪魔があれば聞いておこう。葬式くらいは出してやろう」 アレイスターも身体じゅうから黒いオーラを立ち上らせた。 「コッペル」 影はポツリと答えた。 「奇妙な名前だな。大陸の出か? まぁいい。覚えておこう。忘れてしまわなければ」 言い終わるよりも早く、コッペルは黒いマントを大きな蝙蝠のように翻らせて、アレイスターの真上でステッキから変容した銀のサーベルを振りかぶっていた。アレイスターは悠然と、自分のステッキもサーベルに変えると、カキーンと水平に受け止めた。コッペルはその反動を利用して空中で二、三回転すると、ヒラリと元の位置に舞い降りた。 「なるほど。少しはやる…か…」 コッペルは片手に十本ほどの細身のナイフを扇のように広げて持つと、サッとばかりに投げつけた。アレイスターがとっさに手のひらで空間をなで回すと見えないガラスの壁ができ、ナイフはそれに弾かれてカシャカシャーンと歩道にこぼれ落ちて消え去った。 コッペルはもう一度、十本のナイフを、まるで小鳥を放つように投げた。 「笑止。何度やっても同じことだ!」 だが、それらのナイフは魔法のガラスの壁の前で、まるで意思を持っているものであるかのように、あるものは迫撃砲のように上を飛び越え、あるものは回り込んで速度を増し、ドスドスッという音を立てて突き刺さった。 素早く近寄って遺骸を確かめようとしたものの、そこには何本ものナイフが深く突き刺さった中くらいの樽が、ぼんやりとしたガス灯の明かりに照らされているだけだった。 まなじりを大きく開けた刺客の頭上の中空から、涼やかな声が響いた。 「悪くない… どうやら魔法の腕は同じくらいのようだ。どうだろう、君さえよければ剣で決着をつけないか?」 「望むところだ」 男のものでも女のものでもないうなり声を発しながら、コッペルはサーベルを、まるでホッケーのスティックを持つかのように地摺りに構えた。 アレイスターはエクスカリバーを抜き去ったばかりのアーサーのように、剣を真下に向けて飛び降りてきた。 カシャーン。 相手は見事にそれをなぎ払った。学生魔導師はかろうじて片膝をつき、着地した。 「力もあるようだな。では、これはどうだ!」 目にも止まらぬ速さでビュンビュンと繰り出される切っ先。しかしコッペルは受け止め、払いのけ、受け流し、身をかわして全ての太刀筋を避けた。 だが、受けているうちに、コッペルの動きは次第に鈍くなり、じょじょに機械人形のような足取りになった。 「もらった!」 アレイスターは大きく踏み込んで剣の先端をコッペルの左胸に突きつけた。 カキーン! 剣は弾かれ、再び歩道に片膝をついた。 アレイスターの剣は真ん中のところからポキリと折れていた。 (鎧か? しかし、いまのは例え魔法の鎧を着込んでいてもかなりこたえたはず!) しかしコッペルは息も乱さず、霧の中にマントを漂わせながら傲然と立っていた。 「アレイスター殿、手加減をしているおつもりなら、墓石に刻まれるのは貴殿の名になりますぞ」 コッペルは一歩、また一歩ゆっくりと迫ってきた。耳を澄ましてみてもカシャリともガシャリとも、鎧が擦れ合う音はまったく聞こえない。普通の衣服しかまとっていない感じだった。 (意思を持つ機械人形か? そうとしか思えない。だとすれば、おそらく火炎や重力による攻撃も通用しないだろう。逃げても追ってくるだろう… このぼくに何の恨みがあると言うのか? 心霊研究協会に用があるのか、それともただの腕試しの果たし合いなのか…) クロウリーは珍しく恐怖を覚えた。しかし、それを表に出すくらいだったら死んだほうがましだった。彼は、両手の手のひらで黒い気体の球を造ると、迫り来る者に向かって投げつけた。 黒い瘴気はたちまち相手を包み、高濃度の王水のように溶かし尽くした。 学生魔術師の口元からほんの少しだけ白い歯がこぼれた。 が、次の瞬間、黒い気体は着ぐるみのように震い落とされ、後にはまた、ほっそりとした黒い影が立っていた。 「期待はずれ、だな…」 コッペルは肩を落として言った。「…大英帝国の帝都ロンドンで、いま最も噂に高い青年魔導師はこの程度か」 音が聞こえるほどの歯がみが響いた。 (悔しいが、いまは他の、どの術を放ってもこいつには通用しないだろう… こいつ自身は大したことはなくても、身にまとっている術が強力なのだ。一体何なんだろう? 欧州に古くから何らかの目的を持って続いている秘密結社の一員だろうか? だとしたら危ないぞ。…ブライディーがケンブリッジのニューナム女子大で遭遇した女魔導師ゼリューシャが属していた、大昔に滅ぼされたはずの異端「清浄派」の手の者だとしたら…) 気がつけば一歩、また一歩と後じさっていた。 (引いている? このぼくが? 下がっている?) 愕然としたものの、如何ともし難かった。「どうされましたクロウリー殿、逃げ出したければ逃げて頂いてよいのですぞ」 コッペルは仮面の下の口元を歪めた。 「ぼくは、敵に背中を見せたことはない」 「名誉を重んじる英国紳士にふさわしい立派なお言葉です。が、さすがのわたしでも、あなたは手加減して勝てる相手ではない」 術を放つべく丸い不可思議な大小の円が空間に描かれた。「まだ一つしかないだろう御命を頂戴することになりますぞ!」 青白いアレイスターの顔がさらに蒼白になった。 と、その時、空間が歪んでコッペルよりも小柄な、トンビマントを羽織った、肌の色の黄色い青年が現れた。 「アレイスターさん、何か? ついさっき、強力な術が放たれた気配がしましたが…」 「安倍、気を付けろ! 奴はただ者ではない!」 振り向いた安倍の黒い瞳の目はこれ以上はないくらいに開かれた。 「確かにメッチャやばそうですね」 「日本人の偉大なる陰陽師・安倍晴明の末裔か…」 コッペルは両手のあいだに青白い閃光をたたえながら言った。「…ちょうどいい。探す手間が省けました」 「アレイスターさん…」 安倍はすがる目で大学生の碧眼を見上げた。「逃げましょう!」 「何だと? いま何と言った?」 「一、二の三で逃げましょう、と申し上げたんです」 「莫迦な! そんな恰好の悪いことができるか? 日本にも恥という言葉はあるだろう?」 「アレイスターさんは将来必ず、ものすごい魔術を極められるおかた。万々一いまここで不覚を取ってしまえば、魔術界全体の大損失です。二、三年後には、あんな奴、敵ではありませんよ」 「そ、そうだな。しかし、あいつが『アレイスターは逃げた』と言いふらしたらどうしよう?」 「次の戦いで勝って嘘だということを証明すればいいんです。きちんと調べて対策を立てれば勝てる相手です」 「おい、そこ! さっきから何をこそこそと話しているのだ?」 「『こそこそ』とは何だ!」 前に出ようとしたアレイスターを、安倍はトンビマントで覆い隠した。 「な、何をする、安倍!」 「勇敢に戦おうとするクロウリーさんを、臆病者のぼくが引っ張って逃げるんです」 空間に幾重もの波紋が発せられた次の瞬間、二人の姿は忽然と消えていた。 「フフフ… 如何ほどのものかと思えば…」 コッペルの含み笑いは次第に高笑いに変わった。「…オブザーバーの魔法使いたちは大したことがないではないか! 次はいよいよ本丸、だな…」 仮面の、くり抜かれた不気味な光を放つ目の先には「英国心霊研究協会」の屋敷の建物があった。 翌朝、外は相変わらず乳白色の霧で充ち満ちた「英国心霊研究協会」のお屋敷の応接間では、珍しく少し憔悴した顔のアレイスターと、サダルメリク・アルハザードと、安倍薫と、コナン・ドイルがテーブルを囲んでいた。 「というわけで、ドイルさん、十分に気を付けてください」 アレイスターは、ブライディーとデイジー、ポピー、三人のメイドさんたちが次々に運んできたティーカップの表面に目を落として言った。 「仮面の人物はこの屋敷に、何かするつもりだったに違いありません」 安倍薫は遠慮無くお菓子をむしゃむしゃと食べ、紅茶で流し込んだ。「…ぼくが通りがかった時には、クロウリーさんが追い払って下さった後でした。…本当に間の抜けたことで…」 「やっぱりクロウリー様は…」 「いまロンドン一の…」 「凄い魔導師なんだ…」 三人のメイドさんたちは三人とも瞳を輝かせてアレイスターを見つめた。 「お姉ちゃんとポピーって、本当に鈍感なのね、外でそんな騒ぎがあったというのに、グーグー寝ていたなんて!」 デイジーが冷やかす。 「霧で窓を閉め切っていたし、疲れていたから…」 ブライディーは頬を染める。 「しかしそのコッペルと名乗る謎の人間は、ぼくらの心霊研究協会に何の用なのだろうね?」 ドイルはお茶には手を付けないまま、パイプをふかしはじめた。「何か要求のようなものがあるのだったら、脅迫状でも来ていそうなものだが、そのような手紙は何も来ていないし…」 「腕試し、かもしれませんね」 サダルメリクは上品にケーキをフォークで切り分けて食べながらつぶやいた。「…このお屋敷の周辺で待っていると、クロウリーさんや、安倍さんや、ぼくが通りがかるので…」 「ぼくも最初はそうか、と思った。しかしどうも、単にそれだけには見えなかった。だからこちらから魔法での攻撃はほとんどやらなかった。 …そうだな、敢えて言うのなら、魔法の鎧を着ていて、それはこちらの魔力を吸収してしまう鎧で、ぼくが術を放つのを待っていたかのような…」 「さすがアレイスター様!」 そう言いながらもデイジーは、サダルメリクの椅子の回りをうろうろとしていた。 「術を撃たなくて正解でしたね」 銀のお盆を胸元で抱えたポピーが頷いた。 「…というわけで、みんな十分気を付けて欲しいんだ」 ドイルはメイドさんたちを見渡して言った。 「あーあ、毎日毎日、お台所に掃除に洗濯、お客様やお出入りの御用聞きさん、郵便屋さんの応対… だんだん嫌になっちゃうわ」 デイジーは窓の外の霧を眺めてぼやいた。 「お姉ちゃんには占いという素晴らしい才能があるし、あたしにも『ゲート・オープナー』という『力』がある。なのに、やっているのは普通の女の子なら誰でもできるような雑用ばっかり… 一度パァーッと派手に旅行して、豪華客船や大陸横断列車に乗って、宝物を探したり、悪魔の秘密結社と戦ったりしてみたいわ」 「デイジー、莫迦なことを言わないの」 ブライディーは箒を逆さに立ててトンと鳴らした。「地道にコツコツと仕事をして、神様に感謝しながらカレンダーをめくっていくのが人間というものでしょう?」 「普通の、何の特別な力もない人だったらそうでしょうけれど、あたしたちは『マジックメイド』なのよ。あーあ、今年は去年みたいにネス湖とかに行かないのかしら?」 ちっちゃなメイドさんは頬を膨らませ、頬杖をついてむくれた。 「力を使えば使うほど、敵の数が増えるのは貴女にも分かるでしょう? いまも正体不明の者に、このお屋敷が狙われているかもしれないというのに…」 大きなメイドさんは箒で掃き寄せた埃をデイジーのほうに寄せていった。 「だからぁ、やっつけてしまおうよ。お姉ちゃんがいつどんなふうにそいつが現れるかを占って、あたしが次元の彼方に追放しちゃうの。アレイスター様たちは感心して下さるでしようし、ドイル様や会員のかたがたは安心してくださるわよ…」 「無茶なこというものじゃあないわ。相手はクロウリー様だから尻尾を巻いて逃げたのよ」 「でも…」 デイジーはむずかった。「…あたしはお姉ちゃんみたいに読書好きじゃあないけれど、ベストセラーやベスト貸出をみたら、普通の女の子が身分の高い殿方と恋をしたり、アーサー王と円卓の騎士物語のように、剣と魔法と恋の物語だったり、ドイル様のホームズ物語のように、名探偵が難事件を解決するお話がいつも上位を占めているじゃない? ロンドンじゅうの普通の仕事をしている女性は、みんなそんな波瀾万丈に憧れている、ってことでは? 現実に毎日が大冒険になったら、どうしていけないの?」 「だからぁ、そんなの炊事洗濯掃除なんかよりももっと疲れて大変だし、第一命を落としてしまうかもしれないでしょう?」 ブライディーはわざとデイジーのほうに埃を舞い上げた。 「プップッ、ひどいよぉー」 「とりとめのないことばかり言ってないで、さっさと働きなさい。神様から賜った特別な力を、自分の煩悩のために使ってはバチが当たるわよ」 「やだっ!」 いつもだったら大人しく引き下がるはずのデイジーが、なぜか引き下がろうとはしなかった。「スポーツの選手や芸術家や学者さんは、みんな自分の才能を使って稼いでいるというのに、どうしてあたしたちはダメなのよ?」 改めてそう問われてみると、すぐにちゃんとした理屈をつけて反論が出来なかった。 「でも… でも…」 「あたしは、このお屋敷の回りをうろついているらしい修道士のマントの魔術師をこてんぱんにやっつけて、新聞や雑誌のニュースに取り上げてもらって有名人になって、それを足がかりに、いまよりもっとお金もうけをするんだ!」 ちっちゃなメイドさんは両手を握り締め、地団駄を踏んだ。 「でも、もし相手のほうが強くて返り討ちにあってしまったらどうするの? どなたも物語やお芝居みたいに急には助けに来ては下さらなくってよ!」 「遠いところに出かけているわけじゃない、誰かお屋敷にいるだろうから、万一の時には逃げ込むもん」 「わたしは、助けて上げれないかもしれないわよ」 「お姉ちゃんは、そんな冷たくないもん!」 デイジーはブライディーの脇をすり抜けて出て行った。ブライディーは「ほぅっ」と大きな溜息をついて肩を落とした。 その日の夜になっても、まだ霧は引かなかった。「英国心霊研究協会」のお屋敷の屋根から突き出た破風の上に浅く腰掛けたサダルメリク・アルハザードは、灰色の寛衣をかき寄せた。 「ふうっ、アラビアの生まれ育ちにとっては、この湿気はこたえるな…」 夜は更け、行き交う馬車の轍の音も、通りを行く人々の靴音も次第にまばらになった。 (ブライディーさんからデイジーさんのことを頼まれて見張っているわけだけど、やっぱり気持ちだけじゃあないかな。なんと言ってもまだ『ねんね』だし…) あくびをかみ殺そうとした時、霧の向こうから、黒い修道士のマントをまとった人影が現れた。 アラビア人の少年は、眉を引き締めてひらりと行く手に舞い降りた。 「コッペルさん、ですね?」 「…狂気のアラビア人の末裔…」 「一体何の目的があって、このあたりをうろついているのですか?」 「ここは天下の公道だ。歩いてはならないという法律はないだろう?」 サダルメリクは相手の身体を透視しようと試みたものの、はっきりしたことは分からなかった。 (…コッペルとかいうこの存在。気のせいか実体がないように思う。アレイスターさんも「術を放てば逆効果のような気がする」と言っていた。だが幻影というわけでもない。なにかの「入れ物」の中に、特別な『念』を詰め込んでいるような感じだ… やはり『何かのテスト』なのだろうか?) カシャと窓を開く気配がして、霧の中、寝間着姿のブライディーとポピーが顔を出した。 「サダルメリク君!」 「お二人とも、降りてこないでください! ぼくが何とかします!」 コッペルは屋根裏の窓を見上げた。 「いまの声のかたがブライディーさん、ですか?」 「答えてはいけません!」 サダルメリクが怒鳴る。「こいつの目当ては明らかに貴女です!」 屋敷の中、階段を走って降りてくる気配がした。 サダルメリクは油断なく身構えながら、玄関から出てきたブライディーとポピーと、コッペルの間に立ちふさがった。 「ブライディーさん、メイドなんか辞めて、もっと面白くて楽しい人生を送りませんか? …いえ、我々の仲間になりませんか、などと言っているわけではないのです。貴女が判断して『これは神様の御心に』と思えばやってもらえばいいし、そう思わなければ断ってもらえばいいのです。例えすべてを断っても、我々は望みままの報酬を支払う用意があります。つまり、炊事や掃除や洗濯、メイドとしての仕事からは解放されるのです」 「せっかくですが、お断りします」 ブライディーはきっぱりと言った。「すべて断ってもお給金が頂けるというのは倫理に反しますし、ドイル様や皆様と別れたくありませんので…」 「ここのお仲間と別れる必要もありません。貴女はこのお屋敷に住み続けていいのです。…ただし、住み込みのメイドとしてではなく、『英国心霊研究協会』の女性会員として…」 「それは、どういう意味だ?」 戸惑うメイドさんに代わって、サダルメリクが詰問した。 「貴女はそっくりそのまま貴女のままでいいのです。…ただ、メイドであることを辞めて、『占いをする淑女』になって頂ければ良いのです」 コッペルは仮面の下の唇をニヤリと曲げて言った。 「奇妙なことをおっしゃいますわね。ブライディーさんが、メイドを続けていたら何か都合の悪いことでもあるのですか?」 それまで黙っていたポピーが口を開いた。 コッペルは黙したまま答えない。 (どうしたものか? 英国心霊研究協会の屋敷の回りを夜な夜なうろつくだけでは、何の罪にも問うことは出来ない… だがしかし、このままにはしておけない… 一つ、魔法で攻撃してみるか…) サダルメリクはゆっくりと印を結び、口の中で呪文を唱えはじめた。 「やめてください、サダルメリクさん!」 ブライディーは必死の形相で叫んだ。「その人の中はガランドウです。鎧のようなガワを着ているかどうか分かりませんが、とにかく中身はカラッポで、魔法は通じないと思います!」 「ククク… さすが占いの名人のメイドさん…」 コッペルは修道士のマントの裾をはためかせた。 (なるほど、アレイスターさんが魔法で攻撃しなかった、というのはやはり良い判断だったという訳か… メイドさんたちさえいなければ「名状しがたきもの」を召喚して貪り喰わせるところだけれど… ひょっとしたらそれでも倒せない?) 「今夜はご挨拶 と有意義な話ができてよかった。申し出、よく考えておいてください。また参ります」 白い霧が小さな竜巻のように渦巻いたかと思うと、コッペルの姿は消えていた。 「大丈夫ですか?」 「ええ。でも気味が悪いわ…」 メイドさんたちは抱き合って震えた。 「泊まる。今夜はあたしもここへ泊まって、そのコッペルとかいう奴の正体を確かめる!」 デイジーは屋根裏にもう一つある部屋のベッドにシーツを敷きながら言った。 「だから、貴女がいたって、どうにもならないわよ」 大きなメイドさんは目を吊り上げた。 「だって、お姉ちゃんはもちろん、コッペルの申し出をキッパリと断るつもりでしょう? そうなったら、いままで大人しく引き下がっていた奴も、頭の線がプチンとちょん切れて、暴れ出すかもしれないじゃない。アレイスター様やサダルメリク君や、安倍君たちが束になっても、もし敵わなかったら…」 「デイジー、そんなことを想像するのは、皆様がたに失礼よ」 「でも、頭数はあればあるほど心強いじゃない? お三方も毎晩三人揃ってお姉ちゃんたちを守れる訳じゃあないし…」 「今夜は安倍様が客間に泊まってくださるそうだけれど…」 「怪人も怖いけれど、安倍様にだって気をつけなくっちゃ… 遠く日本から来た若い男の人にとっては、お姉ちゃんみたいに、肌の色の白くて、瞳や髪の色もカラフルな女の子は珍しいかもしれないし、覗かれるかもしれない…」 「ますます失礼よ。ポピーだっているし…」 ブライディーは莫迦らしくなって目尻を下げた。「…安倍様はそんなことをされるかたじゃあありません!」 「いや、ああいうタイプが案外むっつり助平なのよ」 ちっちゃなメイドさんは、小さな旅行鞄の中から、二、三冊の本を取り出してサイドボードに並べた。 (本?) ブライディーは目を丸くして背表紙のタイトルを読もうとした。 (サンドマン著…珍しい名前…「美剣士メイド」シリーズ???) 「ああそれ、いま大衆小説好きの人たちのもの凄く流行っているのよ」 デイジーが示した表紙には、ロビン・フッドと彼の仲間、マリアン姫と思しきキャラクターたちに囲まれて、昔のメイドさんが描かれていた。 「時はジョン王の大圧政時代、庶民とともに立ち上がったロビンフッドにはメイドさんがいて、実はそのメイドさんは剣と魔法の達人で、男に変装して、ロビンと仲間のピンチを助ける、というお話しよ」 「面白そう…」 ブライディーはパラパラと頁をめくってみせた。本は貸本で、すでに何人もの人が借りていて、手あかにまみれていた。奥付を見ると版もかなり重ねている… 「ロビンのメイドさんミミは、密かにロビンに恋しているのだけれど、ロビンにはもちろん、マリアン姫がいて、叶わぬ恋なの。どの本も読み切りで、どの巻から読んでも楽しめるから、貸して上げようか?」 元々本好きのブライディーは、むくむくと興味が沸いてきた。 (デイジーがお金を払って借りる本なんて、きっと面白いに違いないわ!) 「じゃあ、お言葉に甘えて…」 「これ、面白かったわよ」 ちっちゃいメイドさんは「美剣士メイド・危機一髪」の巻を差し出した。 「有難う。読ませて頂くわ」 「あーあ、あたしもミミみたいに、大活躍してスカッとしたいわ… 今夜、またコッペルがやってきて、ボコボコにできたら、ミミの気分が味わえるのに…」 その日が暮れても霧はまだ引かなかった。 (…洗濯物は乾かないし、蝋燭は冬なみにたくさん要るし、夏になるまでこんな感じなのかしら? ああ、ダブリンが恋しいわ… イングランドの貴族やお金持ちがこの時期、あちこち空気の爽やかな外国にお出かけになるのがよく分かる… まぁロンドンには大きな本屋さんや貸本屋さんがあるし、大小の劇場があって、お芝居は選り取り見取りだし、楽しみには事欠かないのだけれど…) 寝間着に着替えて傍らのベッドを眺めると、普段は寝付きのいいポピーが、うつぶせに寝そべって熱心に本を読んでいた。 『美剣士メイド・絶体絶命』 どうやら彼女もデイジーから借りたらしい… 「ねぇポピー、その本、面白い?」 「…………」 いつもは返事の素早いポピーが、今夜に限って、黙りこくったまま、リズミカルに首を左右に振るのを繰り返している。 「ねぇポピー、その本、面白い?」 今度はもうちょっと大きな声で尋ねてみると、ポピーはハッとして顔を上げた。 「面白いです! 滅茶苦茶に面白いです!」「どんなストーリーなの?」 大きなメイドさんはお仕着せを脱ぎ、寝間着に着替えた。 「えーっと、ヒロインのミミは、シャーウッドの森の修道院に捨てられていた孤児なんです。院長先生が亡くなる時に『貴女の父上は貴族の剣士で母上は魔法使いで、二人とも悪王ジョンの罠にはめられて殺されたのです』と言われて、形見の剣と魔法の本を貰って、妖精たちを相手に猛特訓するんです。 ロビンと劇的な出会いのエピソードがあって彼のメイドになるのですけれど、ロビンが絶体絶命の危機の時、ロビンそっくりに変装をして、ジョン王が放った手練れの刺客の手にわざとかかるんです…」 ポピーは目に涙をためながら言った。 「ヒロインが死んじゃったら、お話しは終わりじゃないの?」 「それが、神様の奇跡が起こって助かるんです! ところが、無骨なロビンは、彼女が女性であることに気がつかなくって、男として、命を救われた熱い友情を感じるだけなんです…」 「なるほど…」 と、窓の外に気配を感じ、暖炉の火掻き棒を取ってカーテンを開けた。 「曲者!」 窓の外の桟の上には、安倍が忍者のように身を潜めていた。 「安倍君…」 大きなメイドさんは振り上げた火掻き棒を下げた。「わたしたちはいいから、デイジーを気を付けてあげて」 「はい。今夜はぼくに任せて、お二人も気にせず早目にお休みください」 「分かりました」 横になったものの… (明朝になったらデイジーが「どう、面白かった? お姉ちゃんは大河小説もさくさく読んでいるから、こんな本、一時間で読めたでしょう?」とか言いそうだから、読んでおきましょう…) 貸本を開いたのがいけなかった。 いや、荒唐無稽というか、痛快というか、でもただそれだけではなくて、ミミのロビンに対する思いが、自分の「お兄ちゃん」に対する思いと重なって、最後まで読んでしまっていた。 (あー、面白かった!) ブライディーは幸せな気分にひたりながら蝋燭を吹き消した。ポピーは先にスヤスヤと安らかな寝息をたてている。 大団円。ミミは男装して、ジョン王が雇ったならず者の雇い兵たちが大勢の手下とともに、地元の娘たちをかどわかして慰みものにしようとしているところに斬り込んで、派手な立ち回りのチャンバラと魔法合戦の末、この巻のラスボスである強敵にやられそうになった時、ロビンの百発百中の矢に救われる…というようなシーンを思い出し、微笑みながら眠っていた。 「今夜こそ、観客や読者じゃなくて、スーパー・ヒロインになってやる!」 デイジーはシャーウッドの森の猪みたいに鼻息を荒くして、お仕着せのまま窓の外の霧を見つめていた。 「デイジーさん、早く着替えて寝てください! 危ないことはぼくに任せて…」 「頼りない… 悪いけれど信用できないわ。式神のお姉さんたちはどうしたの?」 「残念ながら、今回の敵は、彼女たちの敵う相手ではありません。足手まといなので古伊万里の壷の中にしまってきました」 その時、歩道の向こうの角を曲がって、修道士のマントで全身を覆い隠した人影が、霧の中を泳ぐようにやってきた。 「きた!」 安倍がデイジーに背を向けた瞬間、デイジーは陰陽師の頭を隠していたフライパンで思い切り殴った。 「デ、デイジーさん、なにゆえ…」 安倍は後頭部を抱えながら桟の上に倒れた。「あのコッペルとかいう奴は、あたしの獲物よ!」 デイジーはお仕着せのスカートの裾と、エプロンドレスを霧風にはためかせながらスックと桟の上に立った。「今夜という今夜こそあたしが主役になるのよ!」 「コッペル、勝負よ!」 階段を走って降りて玄関に躍り出たデイジーは、修道士のマントをまとった怪人と向き合った。 「おや、貴女はデイジーさんですね?」 コッペルは、いつものように男のものでも女のものでもない声で話しかけた。 「そうよ。だったら何だというのよ?」 デイジーはフライパンをふりかぶって構える。 「いきなりで失礼ですが、わたしと一緒に来ませんか? 正義のスーパー・ヒロインとして日夜大活躍ができて『ここ』に勤めているより、面白おかしくて退屈しない人生を送れますよ」 丁寧な口調に、デイジーはちょっと奇異な感じを抱いた。 「『正義』って言うけれど、あんたが正義の味方であるという証拠はどこにもないわ」 「それは仲間になってもらったらすぐに分かって頂けると思います。…ちなみに、アレイスター・クロウリーは、紳士を装っていますが、希代の女色家で野心家です。サダルメリク・アルハザードは、ご承知の通り、昔の『狂気のアラビア人』の末裔で、いつ先祖の血に目覚めるか分かったものではない危険な存在です」 「クロウリーさんはそんな感じがしないでもないけれど、サダルメリク君の悪口を言うのは許せない!」 ちっちゃなメイドさんは、フライパンをそっと歩道の敷石の脇に置くと、両手で大きく弧を描き、古代の軍隊丸楯のように正面に構えた。その中では、水の中に色とりどりの絵の具を溶いたような大小の渦が渦巻いていた。 「『ゲート・オープナー』または『ゲート・キーパー』と呼ばれる特別な力。冥界から霊を呼び出したり、奥深いダンジョンから脱出する時に大変役に立つ力だし、敵を次元の彼方に追放することもできるようですね…」 いいながらコッペルは、ゆっくりとデイジーが開いたゲートのほうに歩み寄ってきた。 「ちょっ、ちょっと待ちなさいよ、それ以上近づくと、こいつを投げつけて、あんたを星々の果てとも、どことも分からない遙か遠くへ追放してしまうわよ! 例えどんな凄い魔導師でも、サダルメリク君が言うところの『時空を自在に移動できる旧き神』でもない限り、二度と絶対に戻ってこれないんだから!」 「わたしはそのような大層な存在ではありませんが…」 コッペルは歩みを止めずにゲートに近づき、そのまますたすたと次元の歪みの中に足を踏み入れた。 「あー、どうなっても知らない! あたしは何もしていないわよ! あんたが勝手に入ったのよ! 知らないから!」 ゲートは一分もしないうちに狭まり縮まって、やがて消え去った。 (あーあ、やっちゃった… みんなあいつ、あのコッペルという奴が悪いのよ! あたしをナメるから… お姉ちゃんとポピーは見ていてくれたかしら?) 三階の屋根裏部屋の破風の窓を見上げたが、明かりは消えたままで覗いている人影もなかった。 「残念ね…あたしが、アレイスターさんやサダルメリク君ですら追い払うのがやっとだったという怪人コッペルをやっつけたところを見て貰えなくて…」 「何が残念、なのでしょう?」 背中で声がした。デイジーは背筋に冷や水を浴びせかけられたような気がした。 「一体何が残念なのでしょうね?」 声はもう一度尋ね掛けてきた。ちっちゃなメイドさんは思わず数歩駆け出してそれからパッと振りかえると、修道士の黒いマントを羽織った小柄な人影が霧の中に立っていた。 「まさか… まぐれよ… まぐれに決まっているわ! そうでなければ同じ人物が何人もいるとか…」 デイジーはゲートをいくつもいくつも作って投げつけた。コッペルはその中に吸い込まれたが、ものの数秒もすると立ち戻っていた。 「無駄ですよ」 ちっちゃなメイドさんは腰を抜かして歩道に座り込み、ちびってしまった。 「し、信じられない…」 「だから、そんに怖がらなくてもいいんです。わたしは貴女のことをとても高く評価して、仲間になって頂けませんか、とお誘い申し上げているのです」 コッペルは懐から白い手袋をした華奢な手を出すと、マントの前身ごろの紐を次々に解きはじめた。 マントの中からは、お仕着せを着たメイドさんが現れた。 「メ、メイドさん…」 デイジーは開いた口が塞がらなかった。無表情な白い仮面で覆われた顔が不気味ではあるものの、コッペルはメイドの制服を着ていた。 「…わたしたちはこの国…イギリス…に昔から連綿と存在する『悪と戦う正義のメイド団』、力を貸して頂ければ、仲間になって頂けるのなら、悪を懲らしめる痛快無比な人生を保証します。…ブライディーさんにメイドであることを辞めて頂けるようにお願いしたのは、わたしたちの仲間と間違えられて悪の襲撃、奇襲を防ぐためです…」 「な、なんだ、そうなの… ぜひ寄せて頂くわ!」 デイジーは濡れたスカートを気にしながら立ち上がった。「正直あたし、そんなお誘いがないものかと、毎日毎日期待しながら暮らしていたの!」 「それは祝着。そうと心に決めているのなら、早速今夜からいらしてください。支度金も十分に用意しましょう。近くのアパートに義理の母上がおられるとか、わたしたちのうちの、使い走りのメイドを住み込ませましょう。もちろん、貴女も時々帰ってもらって構いません」 コッペルは仮面に描かれた眉を上げて言った。 「えっ、本当に? 有難う。至れり尽くせりじゃない!」 デイジーは胸の上で両手を組み、これ以上はないくらいに瞳を輝かせた。 「さぁ、決心が変ってしまわないうちに、一緒に行きましょう。夜遅くて恐縮ですが、アパートに寄ってお義母さんに事象を説明して荷物をまとめてください」 「はい!」 「ああ、それから時々はこの『英国心霊研究協会』に立ち寄ってもらっても構いません。カタブツのブライディーさんに『正義メイド団』の素晴らしさを語ってください」 「ええ。お姉ちゃんと言ったら、まるでシスターみたいにお金儲けや有名になることに対して淡泊なのよ。『お嫁に行って、子宝をたくさん授かりたい』とは言ってるけれど。シスター・セアラにいろいろ吹き込まれたからかな?」 「かもしれません。この世での命が終わり、召されて行く天国もそれは素晴らしいところでしょうが、わたくしたちはこの世でも一人一人の夢が叶えられるように、出来る限り努力しましょう」 「あたし、そういうふうに言ってくださるかたを本当に待っていたの…」 デイジーはうっすらと涙を浮かべた。 「それではブライディーさんや皆さんには、書き置きでも残しておいてください。わたしが言ったことをありのままに書き記してもらって結構です」 「はい。すぐに戻ります…」 デイジーは書き置きをしたためた後、屋根裏のメイド部屋のドアをそっと開けて覗いてみた。 ブライディーとポピーは、疲れているのか、それともそれこそ魔法にでもかかっているのか、デイジーが貸した「美剣士メイド」の貸本を傍らにおいて、すやすやと安らかな寝息をたてて眠っていた。 (本…貸本屋さんに返しておいてくれるわよね。ときどきは帰って、小説なんかじゃない、本当の大冒険談をするわね。…ドイル様や会員の皆様によろしくおっしゃておいてね。 ずっとお姉ちゃんと一緒にいたら、絶対に回ってこないような機会が回ってきたみたいなの… さようなら、お姉ちゃん!) ポロポロこぼれる涙をハンカチで拭う。 それから、反対側の屋根裏部屋に回って、窓の外を覗いた。安倍薫はまだ気を失って倒れていた。 「安倍さん、ごめんなさいね。…でもお陰で、あたしには新しい世界が開けそうなの…」 しばらくの後、「英国心霊研究協会」のお屋敷を振り返り振り返り去る小さなメイドさんの影と、その小さな肩を叩いて励ます影が、霧の彼方へと消え去って行った。 「う、う〜ん…」 フライパンで思い切り殴られた後頭部をさすりながら起きあがった安倍薫は、あたりに邪悪な気配がないことを確かめると、開けっ放しになっていた、デイジーが泊まるはずだった部屋わ覗いてみた。ベッドはきちんとしたままカラッポで、小さな書き物机の上には書き置きらしい手紙が置かれていた。 魔法の火で蝋燭に火を付けたアラビアの少年の顔色がみるみる変わった。 「ブライディーさん! ポピーさん! 申し訳ない! ぼくが不覚を取っているあいだに…」 メイド部屋のドアを激しく叩くと、ガウンを羽織った二人のメイドさんが出てきた。 「安倍さん、何か? もしかしてデイジーが?」 差し出された便箋を読んでいたメイドさんたちの顔から血の気が引いた。 「デイジー… なんてバカな子! 騙されているとも知らないで!」 大きなメイドさんはポロッと涙をこぼした。「おいし過ぎる話を… それも初対面の魔法使いの言うことなんか信用するなんて!」 「ええ、ぼくもそう思います。そんな『正義のメイド団』がこのロンドンで活躍している話なんか聞いたことありませんしね」 「じゃあデイジーは?」 「たぶん、詐欺師が金を巻き上げるように、デイジーちゃんの能力だけを搾り取って、抜け殻はそのぅ…命を奪ってしまうんじゃあないでしょうか?」 それを聞いて半狂乱になって泣き出したブライディーの両肩を、ポピーは必死で揺すった。 「ブライディーさん、そのぅ… 泣いている暇があったら、占いでデイジーさんの居場所を突き止めて連れ戻しに行ったらどうでしょう?」 「そうね… その通りだわ…」 涙を拭って「不思議の国のアリス」のタロット・カードを取りだして、書き物机の上に並べて占いはじめた。安倍とポピーは離れたところから固唾を呑んで見守っていた。 「だめ…」 ブライディーは陣の上に突っ伏してまた泣きはじめた。 「どうしたんですか?」 「いつもみたいに、占いで方角や距離がまったく出ないんです。強大な魔法使いが、もの凄い魔術で邪魔をしているみたいな感じで…」 「こ、これはえらいことです…」 ポピーは人差し指から小指までの爪を噛んだ。 「どうしましょう… どうしましょう…」 大きなメイドさんは取り乱すばかりだった。 「ブライディーさん、落ち着いて下さい! まだ手掛かりが途絶えた訳じゃあない。デイジーさんのことだ。お義母さんのことをきっとどなたかにお願いしていったはずです。その人をたぐって行けば、何とかなるかも…」 安倍はポピーとかすかに頷き合った。 ブライディーはガバッと顔を上げた。 「そうね… そうね… わたし早速、デイジーのお義母さんのアパートに行かせて貰うわ。 …その人、朝一番においでになられるかもしれないし、ポピーだって荷物をまとめて、挨拶をするためにいったん戻っているだろうし…」 「ええ。ぼくも同行します。けれどもまだ真夜中ですし、デイジーさんの母上はご病気がち、起こすとご迷惑でしょうから、少し離れたところに馬車を止めて、その中で待ちましょう」 安倍はトンビマントを羽織って言った。 「ええ。わたしも大急ぎで着替えます。やはり今夜は横になるんじゃなかった…」 「そんな… 最前線の将校じゃああるまいし…」 安倍薫はほんのかすかに目尻を下げて、ようやく、ほんの少しホッとした空気が戻ってきた。 「ポピー、ドイル様がいらしたら、すぐに事の次第をご報告申し上げてね」 「はい、濃いお茶をお持ちしましょうか?」 「お願い!」 「ぼくは持ち込ませて貰っている緑茶を…」 「かしこまりました」 心霊研究協会の屋敷のあちこちの窓が、まだらに灯が灯りはじめた。 皮肉なことに、何日何夜も続いた霧が、ようやく晴れてきた。デイジーと母が住んでいる古いが便利な場所にあるアパートから少し離れたところに止めた馬車の中で、ブライディーと安倍はまんじりともせず、見張りを続けた。 「安倍様、デイジーのお義母さんには、本当のことを申し上げても…」 大きなメイドさんは、一つとして灯が灯っておらず、シンと静まりかえっている煉瓦作りの建物を見つめながら言った。 「いや、それはしないほうがいいでしょう。病弱な母上がショックを受けられては… デイジーはおそらく『もっと給金がよくて楽なお仕事が見つかったから』とくらい告げて行ってるはずでしょうし…」 「そうですね…」 六月のロンドンの朝がしらじらと明けてきた。牛乳配達の馬車や、早出の勤め人も行き来をはじめた。 と、通りの向こうから、薄いショールで顔を隠した通いのメイドがコツコツと靴音を響かせながらやってきた。 「あのかたじゃあないでしょうか?」 「行きましょう!」 ブライディーと安倍は、少しあいだをあけてから階段を上がった。 メイドはデイジーと母の部屋に入っていった。 尾行していた二人は、廊下に立ち、安倍は壁に背をピッタリと付けて控えに回り、ブライディーがノックした。 「おはようございます。早朝、突然お伺いして申し訳ございません。わたくし、デイジーさんのメイド仲間のブライディーと申しますが…」 「どうぞ…」 やや元気のない声が答えた。ドアを開けると、やつれた感じの老女が、ベッドの上で通いのメイドに身支度を整えて貰っていた。髪を結っている、そのきつい目をしたメイドには見覚えがあった。 「キーラさん!」 それは「黄金の暁団」のメイドで、ブライディーがかつて、トリックを使ってインチキ霊媒をやっているところを見破ったキーラだった。 「何よ! ブライディー、また邪魔をしに来たの? あたしは、手間賃を頂いて、しばらくのあいだこの家のこのご婦人のお世話を頼まれただけですからね!」 「すみませんが、もしよかったらその依頼人の名前と住所を教えて頂けませんか?」 キーラは、しぶしぶと、いかにも嘘っぽい住所氏名を告げた。 「すみませんブライディーさん、あの子、デイジーがまたご迷惑をおかけして…」 老婆はやや憔悴しきった表情で、深々と頭を下げた。 「いえいえ、デイジーは、わたしたちにもちゃんと断ってから出て行っていますから…」 「あの子には、いつも『お世話になったかたがたに後ろ足で泥をかけることだけはしないように』と申してきたのですが…」 「ご心配なく、デイジーはわたしたちが必ず早く見つけ出して連れ戻しますから…」 そばでキーラが「フフン」と鼻を鳴らした。 「大変なことになりました…」 朝が過ぎ、昼近くになってもブライディーはそわそわと落ち着かず、英国心霊研究協会に集いはじめた会員や客たちの応接はポピーが一人で受け持って、てんてこまいだった。「ブライディー、気をしっかりと持つんだ」 ドイルは全力疾走する蒸気機関車のようにパイプの煙を噴き上げながら言った。「…そのうちいつか、百発百中であるはずの占いが通用しない相手が現れるかもしれない、ということは、前から予見できたことだ」 「そんな… そんなはずは…」 「コッペルは、デイジーさんのような『能力者』だけが扉を開きうる『次元の彼方』に連れ去ったのかも知れません」 サダルメリクは持参した古いアラビア語の巻本を紐解き調べながら言った。 「『ロンドンを拠点に悪と戦っている正義のメイド団』など、ぼくも聞いたことがない」 アレイスターもしきりに首をかしげた。「メイザースさんをはじめ『黄金の暁』団の誰に尋ねても知らなかった」 「一体どういうことなのでしょうか…」 安倍薫も頭をうなだれるばかりだった。 「確かな自信がある訳ではないが…」 ドイルが鋭い目で一同を見渡した。「…かすかではあるが心当たりがある」 「えっ!」 魔導師たちと、とりわけ大きなメイドさんが大きな目で探偵作家を見つめた。 「ブライディー、一緒に来てくれ! 他のみんなは引き続きそれぞれの心当たりを当たって欲しい」 「…ぼくは、失踪というか家出直前にデイジーがハマっていた本に、謎が隠されているような気がしてならない」 ロンドンの中心部、出版社が多く立ち並ぶ一角を走る馬車の中で、ドイルは再び口を開いた。 「この本ですか?」 ブライディーはデイジーから借りた『美剣士メイド』シリーズの一冊を取りだして開いた。 「ああ、まさしくそれだ。さっき彼女が会員だった貸本屋で調べたところ、三十冊近く出ているそのシリーズを、デイジーはことごとく読破していた」 「まぁ、すごい! 勉強の本もそれくらいの勢いで読んでくれたら…」 「君の言うとおり、そこが問題だ。デイジーがそのシリーズばかりを読みふけり、あげく、騎士道物語にどっぷりハマって武者修行に乗り出したラマンチャの老人のように、スーパー・ヒロインになろうとしたのも無理からぬことかもしれない。ちなみに『美剣士メイド・シリーズ』は、どの貸本屋でもベスト・レンタルの上位の常連で、販売のほうもベストセラーだ。芝居にして舞台にかけたいという興行主も多いが、作者のサンドマンが断り続けているらしい」 「サンドマン…」 ブライディーは繰り返した。「男性のかたでしょうか、女性の作家でしょうか? 年格好や経歴は…」 「それを今から調べに行くのさ」 御者が手綱を引いて、馬車は、とある新興出版社の建物の前で止まった。 「困りましたねぇ… いくらドイルさんでも、サンドマン先生の秘密をお明かしするわけには行かないのですよ」 分厚いレンズがはまった黒縁の眼鏡を掛けた編集長は、せわしなく個室の書斎を行き来しながら言った。 「ちっちゃい女の子に生命の危機が迫っている、と言っても過言ではないのです。そこを何とか!」 ドイルは彼の前に立ちふさがって見つめた。 「…いや、実は、わたくしどももサンドマン先生の姿を見たことはないのです」 「なんですって!」 「ですから、やりとりは全て、私書箱を利用した手紙と郵便だけなのです」 「まさか…」 「本当です。お疑いになられるのなら、我が社の社員の誰に聞いてもらっても構いません。 サンドマン先生は、どの公式の紹介文にもあるように、国籍も性別も年齢も、どこに住んでいるのかも分からない、まったくもって謎の作家なのです。その証拠に、税金の申告も我が社がやっており、納税後の印税は、スイス銀行に為替送金しています」 「バカな…」 ドイルは何度も目をしばたたかせた。「…信じられません」 「信じて頂けなくても結構です。わたくしどもとしては、出版した本が売れてくれさえすればそれでいいわけでして…」 「最初の一冊、 最初の原稿はどのようにして持ち込まれたのですか?」 「それも郵便でです。最初の二、三ページを読んで思わず引き込まれました。本当に面白かったんです。編集部員や、モニター読者の意見も一緒でした。『これは売れる!』と膝を叩きましたね。正直サンドマン先生が最初の投稿先にうちを選んでくれたことを感謝し『ツイてる!』と飛び上がりましたよ」 「なるほど…」 ドイルは棚にズラリと並べて飾られた『美剣士メイド』シリーズを一瞥した。「では、ここにいるどなたも、サンドマン氏に会ったことはないのですね?」 「ありません」 「私書箱の前で待っていると、誰が取りに来るのでしょう?」 「もちろんサンドマン氏の使いの者で、本人が来ることは絶対にありません。使いの者も、また別の遣いの者に渡して…」という感じです」 「怪しい、とは思われませんか?」 「いえ、別に。わたくしたちは何の法律も破ってはいませんから」 編集長はキッパリと言った。 デイジーの行方は、ふっつりと分からなくなった。書き置きには「ときどきはお屋敷に戻ります」と書いてあったし、母親にも同じことを言っていたのにもかかわらず、一度も姿を見せることはなかった。 ブライディー、ポピー、ドイルたちの心配は日に日に大きなものになっていった。 アレイスターやサダルメリクたちも、口に出しては言わなかったが、その言葉数はめっきりと減っていた。…おそらくその強力な魔術を使って探し回ったものの、手掛かりを得ることをできない焦りは目に見えていた。とりわけ安倍薫は二人の式神とともに心当たりという心当たりを当たったものの、結果はやはり同じだった。 ブライディーはまたまたメイドの仕事が手につかなくなった。料理は焦がす、皿や茶碗は割る、掃除は丸く掃くだけ、洗濯は汚れが落ちていない… 後始末はポピーがてんてこまいですることになった… 「ああ、デイジー デイジー… 一体どこへ行ってしまったのかしら? こんなことになるのだったら、日頃からもっとあの子の話を聞いてあげれば良かったわ… お義母さんだって、キーラがお世話をしているけれども、そのご心配、心痛はいかばかりでしょうか… もし帰ってきたら、もう二度と叱ったり怒ったりしないようにしましょう… でも、もしかして、ひょっとして、もう… ああ、神様!」 「そんなに心配するな。いま、クロウリー君やサダルメリク君、安倍君たちが魔導師仲間のツテを頼って一生懸命探してくれているんだ」 ドイルは厳しい顔で言った。「…もちろん、警察にも捜索を頼んでいる。大丈夫だ。きっと見つかるさ。もしもだいたいの居所が判明して、君の占いの力が発揮できるようになった時、肝腎の君が病気で倒れてしまっていたりしたら、どうするつもりだ?」 「すいません、ドイル様。すみません…でも…」 そこへ、ポピーが出先から帰ってきた。手に一冊の真新しい本を持っている。 「ドイルさん、ブライディーさん!」 「何か分かったの、ポピー」 「ええ。実はさっき、デイジーさんからお借りしていた『美剣士メイド・シリーズ』を貸本屋に返しに行ってきたのですが…」 「なんだ、そんなこと…」 大きなメイドさんは目を伏せ肩を落としたが、ポピーの瞳を輝かせていた。 「この本を見てください!」 テーブルの上に置かれた本の表紙には 「痛快大衆小説 サンドマン著 ロンドンの正義メイド団 シリーズ 第一巻」 と書かれてあり、仮面をかぶったメイドと、小さなメイドが描かれていた。 ブライディーは息を呑んだ。 「これは…」 「でしょう?」 とポピー 仮面のメイドはコッペルに、小さなメイドはデイジーにソックリだった。 ドイルは本を鷲づかみにして、立ったまま冒頭のところを読み始めた。 「まさか…」 パシャパシャとページを繰る音だけが応接間に響いた。 「ポピー、あれはどこで?」 ブライディーは、ドイルの邪魔をしないように声を潜めて尋ねた。 「貸本屋さんに山のように積んでありました。…なんでも『美剣士メイド・シリーズ』で人気絶頂のサンドマン氏の、待望の新シリーズなんだそうです…」 ポピーは答えてからお茶を淹れに行った。「ドイル様、どうか座ってお読みください。お身体に触ります!」 ブライディーに安楽椅子を勧められたドイルは、ページから目を離すことなく腰を下ろした。 ポピーがお茶を淹れてきたが、それにはついに口が付けられることがなく、読書の時はくわえるパイプも火が付けられることもなかった。 一時間後、ようやくドイルは巻を置いた。 「どうですか、ドイル様?」 「デイジーが… 『デイジー』という名前で本に出ている…」 「ええっ!」 「…大英帝国の国家転覆と、ヴィクトリア女王陛下と要人たちの暗殺を企む、黒魔術を操るケンブリッジ大学の学生『バレイスター・グロウリー』と、狂気のアラビア人『ヘルハザード』と、日本の怪人『芦屋道満』たちの陰謀を、『仮面のマジック・メイド、コッペリア』と『デイジー』のコンビが打ち砕く、痛快魔法冒険活劇だ」 「エンディングは、ハッピー・エンドなのですか?」 大きなメイドさんは畳みかけるように尋ねた。 「もちろんそうだ。ただ、グロウリーたちは倒されてしまわずに『ほうほうのていで逃げ去った』ことになっていて、『第二巻に続く』となっている」 「デイジーは… デイジーはエンディングではどうなっていますか?」 「悪役たちにかなりひどい目に遭わされているものの『あわや』というところをコッペリアに救われ、助けられている…」 ブライディーとポピーはホッとして肩を降ろした。 「デイジーは、デイジーは本の中へ?」 「かもしれない… もしそうだとしたら、恐ろしい魔術だ…」 ドイルは表紙を見つめながら言った。 数日後、ロンドンはまた霧が立ちこめた。 心霊研究協会の屋敷には、アレイスター・クロウリー、サダルメリク・アルハザード、安倍薫の三人の魔術師と、ドッジソン教授、ブライディー、それにコナン・ドイルが集まって、鳩首凝議が行われていた。 「本ね… 本…」 ドッジソン教授は「ロンドン正義メイド団」の第一巻の挿絵ばかりを眺めてつぶやいた。「…絵の中から偽りの恋人が出てきたり、絵に描かれたまやかしの天国の中に入り込めたりしたわけだから、本の中に封じ込めることもできるのだろうね、敵は…」 「道理でいくら真剣に占っても、居場所が分からなかったはずです」 ブライディーはしゃくり上げた。「デイジーはもう…」 「諦めるのはまだ早い!」 アレイスターは拳でテーブルを叩いて怒鳴った。「封じ込めることができるなら、封印を解いて再び実体化することもできるだろう?」 「そうだ。しかしぼくらのうちの誰も、その魔法を知らない…」 サダルメリクは身体を斜めにして椅子の肘掛けにもたれた。 「けれども、デイジーさんは一刻も早く救い出したほうがいいでしょう。なぜならば『ロンドン正義メイド団』の原作者サンドマンが、第二巻でデイジーさんが悪者の手にかかって殺されてしまうように書いたりすれば…」 安倍の言葉にブライディーはまたテーブルに突っ伏して泣き崩れた。 「安倍!」 「一体何を言い出されるのですか、安倍さん!」 アレイスターとサダルメリクは目を吊り上げて椅子から立ち上がった。 「みんな、落ち着きたまえ」 ドイルは「ロンドン正義メイド団」の第一巻のしおりをはさんだ部分と、覚え書きを開きながらパイプをふかし始めた。「…第一巻でデイジーは、悪者に捕まって、毒蛇がうじゃうじゃいる地下牢に閉じこめられ、廃坑の中で生き埋めになって窒息しかけ、乗っていた船が沈められて溺れかけ、幽霊たちに取り囲まれて呪い殺されかけ、半裸にされて慰みものにされかけ、炎天下の砂漠で置き去りにされ、氷河にとじこめられて、密林では猛獣の群れに襲いかかられている…」 「ああ、かわいそうにデイジー… 怖かったでしょう… 辛かったでしょう… だから、だからあんなに口を酸っぱくして言ったのに… でもしかし、それもわたしが、いままで数々の幻術使いをやっつけてしまってきたせいかも知れない… そうよ、みんなみんなわたしのせいかも…」 大きなメイドさんはハンケチを顔に押し当てて泣き続けた。 「ブライディーさん、せっかく皆様が智恵を出し合っているのに、泣いてばかりいては邪魔になりますよ」 ポピーがその肩を叩き、ようやく落ち着きが戻った。 「で、どうなのでしょう、ドイルさん。今度出版されるであろう第二巻では、デイジーさんはもっと大変な目に遭いそうなのでしょうか?」 安倍は慎重に言葉を選んで尋ねた。 「ああ、物語は、デイジーが危機に陥っているところにコッペリアが現れては救い出す、というパターンになっている」 「デイジー… デイジー… なにが『スーパー・ヒロインになる』よ! まったくピエレッタの役どころじやないの…」 「ブライディーさん、お気を確かにお持ちください!」 ポピーがブランディーをいっぱい入れたお茶を持ってきて、手つかずで冷め切ったお茶と交換した。 「…これは本当に危ないな。第二巻でデイジーに万一のことがあると、現実のデイジーはどうなるのだろう?」 アレイスターは珍しく声を潜めてサダルメリクに尋ねた。 「…分かりません。しかし、常に最悪のことを想定しておかないと…」 「サンドマンの執筆ペースで行くと、次の第二巻はいつ頃出版されるのだろう?」 と、ドッジソン教授。 「『美剣士メイド』シリーズは二ヶ月に一冊、一年に六冊のペースで出ていた。このシリーズは完結したわけではないので、次が『美剣士メイド』なら、約四ヶ月の余裕があると言えるだろう。ただし、『美剣士』を休んで次も『ロンドン正義メイド団』なのだったら、二ヶ月しかないことになる」 ドイルは傍らに積まれた『美剣士メイド』シリーズの数冊を示した。 安倍は先ほどから第一巻を黙々と読み続けている。 「で、どうなのですかねドイルさん。『美剣士メイド』シリーズでは、ヒロインのミミ以外の、いわゆる『引き立て役』が、悪役に殺されて死んでしまうようなシークエンスはあるのですか?」 アレイスターは遠慮無く尋ね、ブライディーはまたまた泣き始めた。 「それは、言いたくないが、『美剣士メイド』シリーズは、第二巻以降、ヒロインのミミの親友と言うべき大切なキャラクターが、一人ずつ、悪役になぶり殺しにされて、怒りに燃え上がったヒロインたちが復讐を成し遂げるのがクライマックスになっている」 「すると、第一巻では奇跡的に…というかご都合で助かり続けたデイジーさんが、第二巻のクライマックスで、悪人の手にかかって…ということもあり得るわけですね?」 サダルメリクはそう言って立ち上がった。 「ああそうだ。十分あり得る」 「これはゆっくりはしていられませんね」 三人の魔導師は互い促し合うようにして出て行った。 「ブライディー、君も腹をくくって欲しい」 ドイルは重々しく言った。「…もしも今度、コッペルことコッペリアが現れて、君も仲間になるように誘ったとしたら、そして君がデイジーを助け出したかったら、仲間になったフリをして、隙を見てそうするしかない」 「はい」 それまでぐずっていた大きなメイドさんは、ピタリと泣くのをやめ、顔を上げてはっきりと答えた。 しばらく収まっていた夜霧が、また乳のような濃さで立ちこめはじめた。大きなメイドさんは人けのなくなったお屋敷の戸締まりと火の用心をして回り、応接間では暖炉の上に掛けられているサーベルを、書斎では鍵のかかる抽斗にしまわれている拳銃を持ち出してから屋根裏のメイド部屋に戻ってきた。 「気を付けてくださいね、もしもコッペリアが霧が好きなのだったら、今夜あたりまた現れそうです」 ポピーは「美剣士メイド・シリーズ」の第二十何巻かを読みながら言った。 「ポピーにもその話は面白い?」 「面白いです! サンドマン先生が僅か五、六年で書いたなんて、ドイル様に匹敵する才能だと思います」 「確かに一度読み始めたら巻を置かせないけれど、そこまで持ち上げることはないわよ。ドイル様のホームズ・シリーズのほうがよっほど面白いわよ」 メイドさんはお仕着せのままベッドに横になった。 「着替えないんですか?」 「何者かは分からないけれど、とにかく何が何でもこの制服が好きな作家がいるわけでしょう? だったら、ずっとこの恰好でいてみるわ」 「わたくしはジャンヌ・ダルク様のように、細身の鎧兜に身を固めているほうが凛々しいと思いますが…」 ポピーは最後まで読み終えてようやく本を閉じた。「…ロビン・フッドの親友でメイドの、美剣士ミミの女友達が悪者にさんざん鞭打たれるシーンでは、思わず身体が火照って生唾を飲み込んでしまいましたわ」 「ポピー、貴女、危ない性癖じゃないの?」 「デイジーさんがいまごろ本の中でこういう目に遭わされてなければいいのですが…」 「デイジーは小さいから、鞭打たれても、ただ折檻されているようにしか読者の眼には映らないと思うけど…」 「では、ブライディーさんが本の中に攫われて行ったら、間違いなくそういう役どころをやらされるかもしれませんね」 鞭の痛さや傷がずっと残り続けることを知っているブライディーは身震いした。 と、下の歩道にコツコツと単調な、聞き覚えのある靴音が響いた。 ベッドからガバッと跳ね起きた大きなメイドさんは、立てかけてあったサーベルと、サイドボードに置いてあった拳銃をつかむと、燭台を手に、早足で、しかし慎重に階段を降りていった。 「ブライディーさん、やっつけてしまってはいけませんよ! デイジーさんが羨ましいフリをして…」 「分かっているわ。ポピー、貴女はそこにいててね!」 サーベルと拳銃は玄関の靴箱の上に置き捨てた。 「いえ、もしも予想に反してコッペリアが襲いかかってきたら、わたくしも加勢申し上げますわ! それに、デイジーさんを心配されるあまり物が見えなくなっておられますし…」 コッペリアはもう、黒い修道士のマントに身を包んではいなかった。彼女は、ブライディーのとよく似たメイドのお仕着せを着て、霧の中、心霊研究協会の屋敷の玄関にスックと立っていた。 (デイジーを返して!) 叫び掛けたとき、後ろから寝間着姿のポピーが囁いた。 「デイジーさんを返して、とは言ってはいけませんよ!」 ゴクリと言葉を飲み込んだ。 時々霧で途切れる相手の姿を、まっすぐに見つめ続けるるうちに、コッペリアのほうが仮面の口元を歪めた。 「サンドマン先生の『ロンドン正義メイド団』シリーズの第一巻、読んで下さったかしら?」 (貴女がサンドマンでしょう?) そう言いかけると、またポピーが囁いた。「『貴女がサンドマンでしょう?』なんて訊いたりしてはいけませんよ! 人質をとられていることを忘れずに!」 「拝読しました。とても面白かったです」 これ以上はないくらい顔をこわばらせた作り笑いを浮かべて答えた。 「デイジーちゃんが大活躍していたでしょう?」 「『ええ、すごく出番が多くって』とか何とか答えて下さい!」 今度は自分自身が考えるよりも先に指示が飛んできた。 「ええ。活躍する場面がとても多くて… 羨ましいと思いました」 (実際には活躍ではなくて、ひどい目に遭う場面だけれど) 心の中ではそうつぶやいていた。 「そう思って頂けるのなら話は早いです。貴女もデイジーちゃんと一緒に『ロンドン正義メイド団』の一員になりませんか?」 「すぐに首を縦に振ってはいけません。一回『わたくしなんかとても』とか、遠慮するそぶりを見せたほうがいいでしょう」 「わたくしなんか足手まといではないでしょうか?」 「そんなことはありません」 コッペリアは仮面の下の顔をにこやかに崩して語りはじめた… 「そもそも、人間の一生なんて、短くてはかないものです。それに比べると、本の中のヒーローやヒロインたちの活躍は、ほぼ半永久的です。貴女の尊敬しているコナン・ドイル様のシャーロック・ホームズやワトソン博士の名前はいまでは世界中のほとんどの人が知るところになっているでしょう?」 ブライディーはコックリと頷いた。 「…文才があれば、ドイル様のように、著者としても名前が残るでしょうけれど、残念ながらわたくしたちにはその方面の才能はないし、かと言って男性のように戦争でお手柄を立てたり政治や学問などの分野で偉業を成し遂げ、伝記を書いて貰えるということもないと思います。それなら、物語の登場人物として人々の記憶に残り、刻みつけるしか永遠の命を得る方法はないのではないでしょうか?」 「神様が授けて下さる永遠の命以外に、滅びない命というものがあるのでしょうか?」 つい質問してしまった。 「そんな誰一人見て確かめて戻ってきたことのない世界は全く当てにはなりません。それに比べて、本は図書館にも書店にも貸本屋にも古書店にもいっぱいあります。その中で脈々と存在し続けられることは、嬉しいことです。 貴女も本が大好きなら、この気持ちが分かるのではないか、と…」 「分かります」 「ブライディーさん、貴女は占いという特別な力があり、英国心霊研究協会という当代一流人士が集うお屋敷のメイドをしていて、いままで数々の冒険をされてきました。けれど、それらの冒険は関係者のかたがたのプライバシーの問題もあり、世間に発表するわけにはいかなかったことだろうと思います」 (そうよ、アイルランドの深い森での出来事は、会員さんたちだけの会報でしか発表しなかったのにも関わらず、ヒューゴー卿様に大変なお願いをされてしまって、新たな事件を生じるきっかけになってしまったわ…) 「ですからブライディーさん、永遠に生き、永遠に若くいるために、本の中…『ロンドン正義メイド団』の冒険譚の中に行きましょうよ!」 「は、はい。…それで、万一その世界が気に入らなかったら、また出てくることもできるのでしょうか?」 コッペリアは初めて少し考えていた。 (コッペリア自身がこうやって本の中と現実の世界を行き来している以上、方法はあるし、できる者にとっては簡単なのに違いない。できることなら、いま何としても聞き出しておかなければ…) 「ちょっとした手順や条件を踏まなければなりませんが、簡単です。このわたくしがこうしてここにいるのが何よりの証拠です」 「コッペリアさんも、元は現実の世界のメイドさんだったのでしょうか?」 「いいえ、わたくしは…」 また口ごもる。「…わたしはもともと、サンドマン先生によって創造された存在です。…ちょうどアダムとイヴが創造主の手によって生み出されたように…」 「すると、本の中だけの存在が、現実に出てくることもできるのでしょうか?」 (そちらのほうが恐ろしいわ。もしも狼男やフランケンシュタインが出てきたりしたら…) 「できます。お芝居の舞台などでは常に。が無論、完全に現実の世界に出るのは難しく、いろいろと条件をクリアしなければなりません。それに比べると、もともと血肉を備えていた者が行き来するのは比較的簡単です」 「そういうことなら、一度本の中の世界…『ロンドン正義メイド団』の世界に行ってみたいと思います」 ブライディーは少し震える声で答えた。 「それは良かった! そのお答え、その決心をお待ち申し上げていたのです。気が変わらないうちに、仲間のメイドさんやお身内のかたに書き置きか伝言をして、簡単な荷物を持ってきてください」 「いよいよですね、十分気を付けてくださいね。皆様にはわたしからちゃんと申し上げて、サポートが可能なようでしたら、手助けさせて頂きますね」 ポピーは、かねて用意していた旅行鞄の底のほうに布で包んだ拳銃を隠して手渡した。「ええ。今回の目的はあくまでもデイジーを連れ戻すことだから、成功したら無用な争いは避けて、戻ってくるわね。デイジーさえ無事に連れ帰ったら、アレイスター様たちにお任せしようと思うから…」 ブライディーは眉を引き締める。 「準備はできましたか? 用意が良ければ行きましょう! きっと気に入ってもらえると思います」 霧の中で待っていたコッペリアが手を差し伸べてきた。 「お願いします」 ペコリと頭を下げ、霧の中に一歩踏み出した… …それは馬車も汽車も船も、何も使わない霧の果てへの旅だった。 歩道を五分も歩くと、コッペリアはゴムのマスクのようだった仮面をかなぐり捨てた。 ブライディーは彼女の素顔を見るともなしにチラチラと眺めた。ガス灯に浮かんだ顔立ちは、シスター・セアラやフィオナ・ウォーターフォード男爵令嬢や、魔女グエンドリンやゼリューシャとはまた違う趣の「ロンドン正義メイド団」の表紙や挿絵にソックリな、金髪碧眼、鼻が高く、目元がぱっちりとして輪郭のハッキリとした典型的なアングロサクソン系の美少女だった。 「長いこと隠していてごめんなさいね」 コッペリアはすまなさそうに言った。「挿絵画家の人がなかなか描いてくれなかったのよ。だから、こうしているしかなかった」 (すると、いままで妖精や妖怪のように、ノッペラボーだったのかしら?) ブライディーはまた少し怖くなった。ただいまの顔が文句なく売れ線のそれで、整い過ぎていることも気味が悪かったが。 「さぁ、早くデイジーちゃんを助けに行きましょう!」 (えっ、デイジーはまた悪者に捕まっているの? それともそういう設定で始まっているの? …とにかく、コッペリアが先頭に立って助けに行ってくれるつもりなのだから、ご機嫌を損ねないようにしなければ… もっとも「正義の味方」だったら、必ずそうしてくださるでしょうけれど…) 「ええ、急ぎましょう!」 大きなメイドさんは駆け足でコッペリアを追い抜いた。 「待って!」 コッペリアが鋭い声で制する。 すると、向こうの霧の中から、黒い学生マントをはためかせたアレイスター・クロウリーが迫ってきた。ただし、その顔は、凶悪無比に歪んでいた。 (確か「第一巻」では、貴族の令嬢たちに「思いを叶えさせて上げる」とか言って黒魔術の媚薬を渡し、おのれの醜い欲望の毒牙にかけてしまっていた。ということは、この「第二巻」では倒さなくてはいけないのかな?) 「フフフ…」 アレイスターならぬ「バ」レイスターは、不気味に口をくぐもらせて笑った。 「コッペリア、メイドのままにしておくには惜しい美貌だ。だからもう一度だけ言ってやる。仲間になるか、今すぐに手を引け! さもなくば、魔物に犯されて嫁に行けない身体になるか、命を頂くことになるぞ!」 「何度言ってもわたしの答えは永久に変わらないわ!」 声は、仮面をはずしたせいか、それともここが彼女の世界であるせいか、前よりもよく、凛々と響いた。「絶対にあなたがたの仲間にはならないし、見逃しもしない!」 「そっちのメイドはどうなんだ?」 バレイスターは目を吊り上げ、牙を剥きだして言った。「おまえも、ごく簡単な損得勘定ができないほどの愚か者なのか? コッペリアに誘われたのならやめておいたほうがいいぞ。こいつは『枯れ木も山の賑わい』という諺が好きなだけなのだ。お人好しの同情心から、ちゃちな正義感からこいつの仲間になって、非業の最期を遂げた者は一人や二人ではないことは知っていよう?」 (「デイジーを助け出したら手を引いて帰ります」と言いたいところだけれども、そんなことを言ったらこの「世界」の調和を崩してしまうわよね… ここは、作者のサンドマンが思い描いているようなセリフを言わなければ…) 「知っているわよ! わたしは騎士でも軍人でもない、紳士ですらない、身分の低いただのメイドだけれども、それでも悪がはびこるのを見過ごしてはおけないのよ!」 自分でも惚れ惚れするような決め台詞が言えた。 「フフフ… 片腹痛い。そう言う以上は何かできるのだろうが、所詮は我等の敵ではない。骸を晒して果てるがよい!」 バレイスターがヒュウと鋭く指笛を吹くと、霧を煽りながら、飛行船ほどもある巨大な物体が夜空を裂いて舞い降りてきた。 「ブライディー、下がって!」 コッペリアは革の袋に入れて持っていたサーベルをスラリと引き抜いた。「貴女の出番は後よ! ここはわたしに任せて!」 「でも…」 「大丈夫、貴女は早くデイジーちゃんが囚われている場所を占って!」 「はい!」 建物と建物の細い隙間に隠れて、タロット・カードを取りだして並べはじめたものの、二人の戦いが気に掛かってしょうがない。 コッペリアは輝く白銀色の輝きをみなぎらせた剣を振りかぶり、切り下ろし、突き刺していた。 相手はとてつもなく大きなガーゴイルのような生き物だった。時々わさわと膜の張った羽根を羽ばたかせては金色に輝く一つ目をギロリギロリと輝かせながら、鋭いかぎ爪のついた前足でコッペリアを捕らえようと試みていた。 (あれに捕まったら、一ひねりで…) コッペリアはスカートの裾を翻らせ、懸命に右に飛んだり左にかわしたりして怪物の攻撃をよけていた。 (ああ、わたしも攻撃が、お手伝いができたら…) 怪鳥の床屋剃刀のような鋭い羽根がコッペリアのエプロンドレスとお仕着せをザックリと裂いた。 「コッペリアさん!」 ブライディーは思わずタロット・カードを撒き散らして飛び出した。 「大丈夫… わたしは大丈夫だから、貴女は隠れていて!」 コッペリアは美しい顔を苦痛に歪めながらも、片手は剣を手放さずもう片ほうの腕で傷口をかばった。が、ガーゴイルの再度の急降下に、両手で剣を持って受けざるを得なかった。先ほど切り裂かれたところがあらわになった。 一瞬眼を閉じかけたブライディーが、キッと目を見開くと… 破られた衣服、肌着の先には吹き出す赤い血も、傷つけられた肉も、何もなかった。 「!」 ブライディーも驚いたが、「バ」レイスターも眉間に多数の皺を寄せていた。 「何と!」 二人は霧の中、バサッバサッと羽根音、剣を振り降ろす音をさせながら戦う彼らに目をこらしたが、ガーゴイルがその羽根やくちばしでいくら衣服をずたずたにしても、歩道には一滴の血もこぼれず、飛び散りもしなかった。 だが、きっ先の航跡が銀色に輝くコッペリアの表情は、実際の傷を負っている者の如く、苦悶と苦痛に歪んでいた。 「おかしい… これだけダメージを与え続けているのに… もしかしたら『機械人形』か?」 バレイスターはしきりに瞳をキョロキョロさせたが、いくつもの斜めに走る傷口の向こうには、歯車もゼンマイも見えなかった。 ガーゴイルは(こうなったら、一撃で致命傷を与えてやろう)と、太刀先がまっすぐ正眼な構えられているところへ、とがったくちばしを突き出し、一直線に迫ってきた。 「コッペリアさん、逃げて下さい! もう十分です!」 「わたしは逃げられない。逃げてはいけないんです!」 化け物のくちばしは彼女の胸に深々と突き刺さり、風穴を開けた。コッペリアの剣は、相手の首をバサリと刎ね、それはブライディーのすぐ脇の壁にグシャリと鈍い音を立て、血糊を飛び散らせて潰れた。 「コッペリアさん!」 「来ないで!」 両腕で引き裂かれた胸元を隠した彼女は、悲痛な声で叫んだ。「来ないで! 見ないで!」 「機械人形ではない。生き物でもない。もちろん人間でもない。苦しみは受けるが物理的な傷は受けない。完全な幻影というわけでもなさそうだ。仏教で言うところの修羅か羅刹か…」 ケンブリッジの黒魔術師は歯がみし、ほんの僅かに首をかしげながら一歩一歩退きはじめた。「…とにかく相手の正体の手掛かりをつかんだだけでも収穫だ。ここはいったん引くか…」 白い霧と混じるように黒い霧が沸き上がり、若者の身体を包んだ。 「お待ちなさい、卑怯者! 男のくせに逃げるの?」 サーベルを杖代わりにつき、ぼろぼろのお仕着せをかばうようにしてよろよろと追いかけようとしたコッペリアは、歩道に躓いて転び倒れた。 「ふふふ… 今夜はこれくらいで勘弁しておいてやろう。次に遭ったときがおまえの命日になるだろうよ」 バレイスターは長い舌で赤い唇をなめ回しながら消え去った。 「おのれ、待て!」 「コッペリアさん、無理です! そのお身体ではとても…」 「やめて、お願い、ブライディー、近寄らないで、お願い!」 ブライディーは自分のエプロンドレスを脱ぎ、目をつぶりながら手渡した。 苦しそうな荒い息と、細い肩を上下に揺らせる気配だけが察せられた。 「わたしたちも出直しましょう」 ブライディーはコッペリアに肩を貸した。 年頃の女性らしい重さもあれば肉感もある。それなのに、衣服の内部がガランドウであるかのような、奇妙な感覚がした。 「デイジーちゃんを、デイジーちゃんを助けなければ… 今夜じゅうに助けなければ… どんな危害が加えられるか分かったものじゃあないわ!」 「こんな状態で突き進んでも、とても救出は難しいです! 敵は新手で、しかもバレイスターよりもさらに上手かもしれません。待って下さい。鞄の中にマントがあります。それを羽織ってください。わたしは馬車をつかまえてきます」 「ロンドン正義メイド団」の本拠地は、とある「メイド斡旋所」の隠し部屋にあった。 扉を開けると、安物の香水と、石鹸と、女の匂いがして、さまざまなお仕着せを着たさまざまな背丈と髪の色と瞳の色のメイドたちが出迎えた。 「お帰りなさい、コッペリア様!」 「もしや、またお怪我を…」 「大丈夫、少し休めばよくなります。…この子はブライディー、新しい仲間です。仲良くしてあげてくださいね…」 コッペリアは駈け寄ろうと科する仲間を制し、足を引きずりながら団長室に消えた。後には、椅子の背もたれに両手をかけて後ろ前に座ったり、階段の手すりに横座りするなど、思い思いの姿勢で、猫の集会のようにらんらんと無数の瞳を輝かせるメイドたちがいた。 「ブライディーって言うの? だめじゃないの! コッペリア様をお守り申し上げなければ!」 「一体何をやっていたのよ!」 「ロンドン正義メイド団」のうちの数人はが早速駈け寄って、囁くような小さな声でなじった。 「それがその… コッペリア様が『隠れていなさい。出てきてはいけません』とおっしゃられて…」 ブライディーはうつむいて答えた。 「貴女バカね。そう言われてそうしていたの?」 「え、ええ…」 「で、相手は誰だったの?」 「ケンブリッジの学生で黒魔術師の『バ』レイスター・『グ』ロウリーという人で…」 「まぁ、グロウリー!」 団員メイドたちは頬を染め、顔を見合わせた。「貴族のご令嬢からメイドまで、これと目を付けた若い娘は媚薬や魔術を使って片っ端から孕ませているケダモノじゃあないの! そんな奴とコッペリア様が戦っているというのを黙って見ていた、というの?」 「え、そのぅ…」 「コッペリア様に万一のことがあったら、どうするつもりだったのよ!」 (それだけはないわ…)ブライディーは思った。(コッペリア様のドレスの下は、重さや質感はあるけれどもガランドウのようだった。 このかたたちはそのことを知らないのだろうか?) しかしもちろん、口に出して言うことはできなかった。 (…このメイドさんたちもまた、中身のない存在なのかな? それとも、わたしやデイジーのように、現実の世界からスカウトされてきたのかしら?) 「ところで新入りさん、貴女の『能力』は何なのよ?」 メイドたちはブライディーの回りを囲んで下から覗き込むような目で見つめた。 「わ、わたしは… 占いをちょっとだけします…」 (「正義メイド団」というよりは「不良メイド・グループ」のような… でも「第一巻」は貴族のご主人たちの隠れた悪行を見過ごせずに立ち上がった行動的なメイドたちのエピソードが多かったから、こんなものかも… それこそ「ロビン・フッドとその仲間たち」の物語みたいに、これから少しずつ悪と戦いながら結束を固めていく、のかも…) 椅子に小さくなって座っているブライディーの目の前に、一組のタロット・カードが差し出された。 「ふうん、じゃあ早速占って下さるかしら? 実は、少し前にやってここに来たデイジーという子が悪者にさらわれたきり行方不明なのよ。その子の居場所を占い出して下さったら、わたくしたちが助けに行きましてよ」 「デイジー!」 大きなメイドさんはハッと我を取り戻した。「わたし、自分の愛用のカードを持ってきています!」 ブライディーはみんなが見つめる中「不思議の国のアリス」のタロットカードをテーブルの上に並べた。 この世界のロンドンの地図が広げられ、赤鉛筆が持ってこられた。 「…ソーホー街のはずれの、インドや東洋から来た人が多く住んでおられるところ… 大きなお屋敷… インドのかたでも、中国のかたでもない… おそらくは日本のかた…」 カードを次々とめくって並べ、陣を形作りながら、地図の該当箇所を絞っていく… 「すごいわ! 本当に当たっているのかしら?」 「もし当たっているのなら、失踪人はどんどん見つけられるし、家出人も探せるし、その気になればいくらでもお金儲けもできるわ!」 メイドたちは小鳥が囀るように囁きあった。「さあさあ、みんな、静かにする!」 さっきからブライディーをいじめていたリーダーらしい、黄色い肌、大きな黒い瞳、鴉の濡れ羽色お団子髷を深紅のリボンでくくったメイドが叫んだ。「新入りさんが頑張ってくれているのよ!」 しばらく目を閉じて心を静めていたブライディーが目を開き、ゆっくりと口を開いた。「庭に大きな池があって、錦鯉が泳いでいて、灯籠や茶室が建っている日本ふうの立派なお屋敷です」 「それだったらきっと、芦屋道満さまのお屋敷ですわ! わたくし、お使いで行ったことがございます!」 メイドの一人が両手を胸の前で組みながら名乗り出た。 「遙か日本から、西洋の黒魔術の研究に来たという道満… 相手に取って不足はないわ」 お団子髷のメイドが腕組みをした。 「紅梅様、どうかわたくしたちもお供を…」 下っ端のメイドたちがすがる。 「いえ、とても貴女がたが歯の立つ相手ではないわ。わたし一人で行く! コッペリア様も起こさぬようにな」 「わたくしがご一緒しないと、もしもデイジーが複雑な迷路の果てに囚われていたら、どうしようもありません」 「ええい、仕方がない! 足手まといは目に見えているが…」 団子髷のメイドはブライディーに手を差し伸べた。 「紅梅だ。大清国の都、燕京から来た。よろしくな」 「ブライディーと申します。アイルランド人です。よろしくお願いします…」 紅梅が両手を袖口に入れたまま頓首すると、ブライディーも膝を小さく曲げて会釈した。 夜霧に包まれた、まるで博覧会の日本館から移築したかのような白壁土蔵の屋敷。 「中国や日本から来た金持ちは、西洋ふうの屋敷と、自国ふうの屋敷を持ちたがると言うが、これは徹底しているな」 紅梅は漆喰の白壁や道路に耳を当てて気配を確かめた。「…それなりに警備の雑魚たちもいるようだが、居眠りをしている者もいる…」 「そのような気配まで…」 ブライディーは目を丸くした。 「わたしはこれでも紫禁城の後宮で皇帝陛下のご息女たち…即ち王女様がたの警護を任されていてな。たまたま高貴なかたのご不興を買い当地まで流れてきたが、腕は鈍らせてはおらぬぞ。…わたし一人なら塀を乗り越えるのだが、おまえはどうする?」 「わたくしは、警備の手薄な出入り口を占うことができます」 ダウジングの棒を取りだし、また心を静めて占った。 「…まもなく、ホワイトチャペルの娼館に遊びに行っていた使用人が、少し離れたところで辻馬車を降りて帰ってきて、裏口から入れてもらうようです…」 「なにッ! おまえこそそんなことまで分かるのか?」 「デイジーのために必死でやっています」 やがて、言葉通り、疲れた表情のフロックコート姿の日本人が裏口にやってきた。 「オレだ。開けてくれ」 「いい加減になさったらどうですかね」 中から声がして、木戸が開く気配がした。 まるで一陣の疾風のようだった。 紅梅は木戸の外で目をしょぼつかせ、あくびをかみ殺している男に向かって、エプロンドレスの裾を大きく翻らせ、ペチコートもドロワースも丸出しにして大きく右足を振り上げると、相手の顔面を革靴の横で鋭く蹴った。顔を原型を留めないほど大きく歪ませながら、ドサリと倒れた。倒れても崩れた顔は元に戻らなかった。おそらく一生戻らないだろうと思えるくらいに。 「おい、どうかしたのか? 早く入ってこい」 ハッピ姿の小者が顔を覗かせた途端、紅梅の手刀がうなじを鋭く直撃した。気絶して倒れ掛けた小者を支え、木戸の内側に一人目ともどもしゃがませて座らせた。 「こ、紅梅さん、凄いです!」 「卑怯な飛び道具と高度な幻術以外、わたしの敵ではない」 紅梅はニヤッと唇を小さく歪め、周囲の気配を伺いながら中に入った。裏庭とあって植え込みも地味で、気配も特に感じられないようだった。 ブライディーはさっそく目の前の雨戸を引いた廊下が続く棟に向けて棒を掲げた。 「どうだ? デイジーがどこにいるか、分かるか?」 紅梅が囁く。「普通、日本家屋には地下室などないはずなのだがな」 「…母屋の奥座敷の、座敷牢のようです… 宿直の者も警備の者も何人かいるようです…」 「やむを得ないな。この屋敷に仕えるメイドのフリをして、だませるところまでは欺いて進み、もしもバレたら、そこからは戦おう」 「そ、そんないい加減な作戦でよいのでしょうか?」 「ひるむな、たじろぐな! わたしたちは『ロンドン正義メイド団』だ!」 紅梅は第一巻でコッペリアが語っていた決め台詞を語った。 肩を張り、胸を突き出し、シャッシャッというエプロンドレスの衣擦れの音をさせながら廊下を歩いていくと、厠の帰りか、キモノの寝間着姿の日本人の男とすれ違った。 「おはよう、早いね。もう仕事かい?」 男は寝ぼけまなこで二人を眺めた。 「ええ」 「雨戸を開けて回るのはもう少し待ってくれよな」 「はい」 すれ違って通り過ぎようとした時、寝間着男はピタッと立ち止まった。 「ちょっと、それならおまえたちはなぜ起きているんだ?」 「そろそろ、朝食の準備をしようかと思いまして。なにしろかなりの人数ですから…」 紅梅は何食わぬ顔で答えた。 「台所はそっちじゃない、あっちだろう?」 「主人、道満様より『人質の様子を見てこい』と言われまして…」 「そうか…」 生あくびをしながら行き過ぎようとした寝間着男の足が再び止まって振り返った。 「座敷牢への通行は、古くからの信用のある部下か使用人しか許されていないはずだが、おまえたちは見かけない顔だな…」 「失礼ですね。わたくしたちは数年前からこのお屋敷で奉公させて頂いております」 「何年前からだ?」 「三年… いや、四年前からです」 寝間着男は口に指を当て「ピーッ! ピーッ」と指笛を吹いた。 「出合え! 出合え! 曲者だ!」 途端にそこここの襖がガラッ ガラッと開いて、手に手に日本刀や長押の槍を構えた男たちが取り囲んだ。 「尻尾を出したな『ロンドン正義メイド団』! 道満様がロンドンに来られてからまだ二年しか経っておらぬは!」 ブライディーは顔をくしゃくしゃにして紅梅の背中にすがりついた。 「ですからぁ、ここの人たちは『ロンドン正義メイド団』と敵対して、その一員であるデイジーを人質に取っているのですから『メイドの恰好をしているのは一番危ない』のではないか、と…」 「誰もがそう思うでしょうから、かえって意表を突いてバレないと思ったのよ」 紅梅はニヤリと不敵な微笑を浮かべながら胸元で両腕を構えた。 「うつけ者で浅はかなメイドども、なます斬りに切り刻んで、簀巻きにしてテームズ川に沈めてやる! …皆の者、拳銃は使うなよ! 警察に飛んでこられては面倒だ」 「おう!」 寝間着姿の男たちはいっせいに日本刀や槍をぎらつかせた。 「お先に御免!」 最初に斬り込んできた者の手首を、紅梅はハッシとつかむと、ゴリッとひねりつぶして簡単に刀を奪い取った。彼女はお団子髪のリボンをはためかせ、ブライディーを背中にかばいながら八双に構えた。 「遠巻きにして見逃すならばよし、掛かってくる者は痛い目に遭うぞ!」 「しゃらくさい!」 紅梅は目にも止まらぬ立ち回りで、斬り込んできた者の額を峰打ちで割り、頬をえぐり飛ばし、顎をたたきつぶした。 相手の槍の穂先を斬り飛ばし、柄だけにしたものを奪い取ってブライディーに渡した。 「貴女も適当に振り回しなさい!」 「はい!」 紅梅はカキーンと打ち込んできた新手の刀を奪い取って、二刀で構えた。 「ええい、面倒臭い!」 少しずつ移動しながら、次々と打ち込んでくる敵の膝を潰し、足先で足を払って廊下から転がり落とし、襖越しに潜んでいる者を襖ごと突き倒した。 気がつけば、雲霞のようにいた郎党たちも、いまでは数えるほどに減っていた。 「ええい! 一度にかかれ!」 三人、四人と大上段で襲いかかってくる者たちを風車のように剣をあやつり、池に突き落とし、灯籠にはりつけた。 「紅梅さん、すごいです…」 「フッ、雑魚はいくらいても雑魚。問題ではない。…早くデイジーを探しましょう!」 「はい!」 ブライディーが道案内をした。 「そちらはいけません! 釣り天井か、仕掛け弓か、落とし穴か、罠があるようです!」 「なに、そんなことまで分かるのか。重宝だな…」 二人はたやすく座敷牢に辿り着いた。 術が使えないように封印のお札がいっぱい貼り付けてある格子の向う側では、やつれ、憔悴した顔のデイジーがこちらを見上げていた。 「お姉ちゃん! お姉ちゃん! 助けに来てくれたのね!」 「デイジー、良かった! 無事だったのね!」 格子越しに両手を握り合っているあいだに、紅梅は裂帛の気合いとともに大きな南京錠を蹴った。 次の瞬間、錠は壊れてけし飛んでいた。 デイジーは牢から出てきてブライディーとしっかりと抱き合った。 「お姉ちゃん、怖かったよぅ…」 「だから言ったでしょう!」 「話は後だ。とりあえず引き揚げるぞ!」 紅梅の声にせき立てられて、二人は立ち上がって歩きかけた。 と、その時… 羽織袴姿の相撲取りほどもある人影が一行の前に立ちふさがった。 「何だ? 何やら騒々しいが…」 淡い黎明の光に照らされた顔は、テカテカとテカる油で覆われた蝦蟇ガエルそっくりだった。 「何よ、あんた。いまごろ出てきて! 道満に怒られるわよ」 紅梅は相手がただ者ではないことを察して、ブライディーとデイジーを下がらせた。 「それは大丈夫だ」 蝦蟇男は頬をピンポン球のように膨らませながら言った。「…なぜなら、このわしが道満だからだ」 「道満、相手をしたいのはやまやまなれど、きょうはデイジーを貰い受けて帰らせてもらう…」 「おまえとデイジーは帰っていいぞ」 道満はアッサリと言った。「…汗くさい肉弾戦バカ娘などに用はない。また、次元の扉はわしも開くことが出来る…」 「そ、そうか、では、言葉に甘えて一度帰らせてもらうぞ…」 「だが!」 道満の言葉に、通り過ぎようとした三人はピタリと立ち止まった。 「…代わりにその赤毛の小娘を置いていけ! 世界じゅうに五人とはいない占術師と見た。 おまえがいれば、このわしは無敵にして最強の存在になることができる」 ブライディーはすくみ上がった。 「断る!」 紅梅が叫んだ。 「おや、断ったりしていいのかな? 我ながらかなり寛大な条件を申し出てやったつもりなのだがな」 道満はせせら笑いながらゆっくりと印を結び、口の中で何やらブツブツと呪文を唱えはじめた。 「気を付けてね! 道満はアレイスターやアルハザードと同じ『術使い』よ! このあたしの『ゲート・キーパー』の術も通用しなかったんだから!」 デイジーはブライディーのスカートの後ろに隠れた。 「まずいな。わたしの一族も洪秀全たちには手こずったのだ」 ゆっくりと後じさって逃げる機会を窺う紅梅たちの足下に、次第に黒い虫たちが集まりはじめた。湿っぽいところにある岩や石をひっくり返したら、その裏でビッシリと貼り付いて蠢いているダンゴ虫や芋虫や、ムカデたちだった。 虫たちはアッという間に、絨毯を敷き詰めたように集合し、メイドたちの足首からスカートの中へと這い登ろうとした。 「キャーッ! 助けて!」 デイジーとブライディーは背中を追って両手で足首の虫たちをはたこうとした。 「助けて欲しくば、条件を飲め!」 道満はくぐもった声で言った。 「断るわ!」 紅梅はきっぱりと叫び、その名に恥じない深紅のオーラを燃え上がらせながら、拳で目の前の地面を叩いた。 地面はたちまち、すり鉢状にへこみ、集まった虫たちはまるで蟻地獄に吸い込まれるようにザザザーッと滑り落ちていった。 「ほぅ、ちょっとはやるようだな。ならばこれはどうだ?」 道満が新たな呪文を唱えると、天井から何十本、何百本もの、先に小さな蜘蛛を付けた蜘蛛の糸が降りてきて、まるでごく細い紙テープのようにメイドさんたちの髪の毛や肩にふりかかった。 「嫌ーっ!」 「何よ!」 三人は必死で払いのけようとしたが、後から後から降り注ぎ舞い降りる蜘蛛の糸にどうすることも出来ず、とうとう三人とも蜘蛛の巣に絡め取られてしまった。 「まだまだ、何のこれしき!」 紅梅が再び気合いを入れると、またしても光が走り、蜘蛛の糸と蜘蛛を焼き尽くした。 「なるほど『ただのメイドだ』と思って甘く見ると、痛い目に遭う、という訳だな」 道満はのしりのしりと歩み寄りながら三度目の呪文を唱えた。 すると、壁を食い破って数え切れないほどのカイコが現れて、ブライディーたちにまたしても糸を吐きかけた。 「だめよ! これじゃあキリがなくて、そのうちに力尽きてやられてしまうわ! ブライディー、道満を一撃で倒せる方法が占えないかしら?」 紅梅は身をよじりながら叫んだ。 「だめだよー お姉ちゃんは、カードとか棒とか、道具がないと占えないんだよー」 デイジーは泣きながら言った。 「道具があったらできる人は、道具がなくてもできるのでは? わたしも、剣や棒があれば助かるけれど、なくても素手で戦えるのだから…」 (そうだ、その通りかも知れない…) ブライディーは思った。(…棒は、突き詰めればただの棒だし、タロット・カードも突き詰めればただの紙切れよ。木の実など、代わりのもので占ったことだって何度もあったはず…) 目を閉じ、心を静めると、目の前の暗闇の中、床の下に大きな馬車の屋根ほどもある巨大な油虫がカサカサと、黒茶色の羽根をこすり合わせながら走り回っているのが見えた。 「ブライディー、早くして! もうわたし一人が脱出するくらいの『力』しか残されてないわ!」 「そんな、紅梅姉ちゃん、見捨てないで!」 一番小さなデイジーがまず繭玉に覆われてしまった。 「ぐふふ、腐れメイドども、思い知ったか! 日本の妖術を甘く見るではないわ!」 眼前の人の姿の道満は、顔の汗をテカらせながら笑った。 「紅梅さん、目の前の道満は幻です。本体は、この床の真下にいる大きな…そのぅ…ゴキブリです!」 「何ッ! 床の下…」 紅梅は最後の力を振り絞って、赤い光の炎をまとい、全身を覆い尽くしかけていた繭玉を焼き払った。そして拳を床に突っ込んでたたき壊すと、床ごとベリベリと剥がし去った。 白い黴と白蟻の巣に覆い尽くされた床の下には、ブライディーの見立てたとおり、おぞましいほど巨大な油虫がいた。 「おのれ、こいつか!」 紅梅が目にも止まらぬ速さで、剥がした床でバシリと叩き、その上から乾坤一擲の飛び蹴りで蹴りつけた。 ほどなく、はみ出てもぞもぞと動いていた触角は動きを止め、板の下からは濁った茶色の体液が流れ出してきた。 「そ、そんな…」 目の前の人の姿の道満は残った床の端っこをもだえ苦しみながら転がっていたが、やがて床の下に落ち、汚い液体だけになった。 攻撃し続けていたカイコたちも消え去り、ブライディーやデイジーたちをいましめていた繭玉も溶け去った。 「有難う紅梅さん!」 「有難う、紅梅お姉ちゃん!」 ブライディーとデイジーは走り寄って抱え起こした。 「いや、ブライディー、貴女がいなければ絶対に勝ててはいなかった。道満は、術を使って実に巧妙に気配を消して潜んでいたからな。…まさか真下にいるとは…」 空手メイドは、さすがに息を荒げながら立ち上がった。「…二人とも、道満どもは簡単に倒したことにしておこうな。コッペリア様が心配される」 「はい」 三人は笑顔に戻って頷き合った。 「良かったわ!」 実は「ロンドン正義メイド団」本部のメイド斡旋所に戻った三人を、コッペリアや他のメイドたちが出迎えた。 「紅梅、わたくしに黙って行ったのですね。今回は上手く行ったようですが、万一のことがあったらどうするつもりだったのですか?」 コッペリアは美しい顔をくしゃくしゃにし、中国から来たメイドさんを抱きしめて出迎えた。 「ご心配をおかけして申し訳ございません。けれども、団長がお疲れの時は、副団長のわたくしが頑張るのが当然だ、と思ったものですから…」 紅梅は照れ笑いしながら、彼女を気遣う部下たちに囲まれて別室に下がった。 「デイジー、すぐにわたくしが行かなくてごめんなさいね」 コッペリアはしゃがんでデイジーを、まるで妹のように抱いて頬ずりした。 「いいえ、コッペリア様。あたしは信じていました。それに、あんな芦屋道満みたいな奴は、わざわざコッペリア様の出る幕じゃあございませんよ。紅梅様が簡単にやっつけて下さいました」 「そうですか、そうですか… でも、もう貴女には絶対に危ない目はさせませんから、貴女も危ないことはせず、ずっとここにいて下さいね」 「いえ、あたし、これからも栄えある『ロンドン正義メイド団』の一員として、はびこる黒魔術師たちと戦います! わたしたちのロンドンを、闇の都にはせず、光の都にしてみせます!」 「わたしたちもです!」 「わたしたちも! ちっちゃなデイジーちゃんの意思がこんなに固いのだから…」 他のメイドたちも口々に言った。 「みんな、有難う。本当に有難う…」 コッペリアは流れ落ちる涙をハンカチで拭いながら、最後にブライディーを強く抱擁した。 「…ブライディーさん、いくら知り合いのデイジーさんを助け出すためだとは言え、本当に申し訳ありませんでした」 「いえ、とんでもない! こちらこそデイジーを助けて頂くために、紅梅さんに無理をして頂いて…」 抱きしめられながら、大きなメイドさんは奇妙な感じがしていた。 それまで空虚で中身がないような感じがしていたコッペリアが、完全に本物の人間のようではないとはいえ、つい数時間前とは比べものにならないくらいに「リアルな人」になっているような気がした。 (もしかしたら、このロンドンにいる悪者を倒せば、本当の人間ではないコッペリア様が、まるで善行を重ねたピノキオのように、人間に近づいて、ついには人間になれるのではないかしら?) とも思った。 「…わたくしが『ロンドン正義メイド団』の一員になってください、などと我が儘を言って、本当にすみませんでした。どうか、デイジーちゃんとともに、本来貴女がたがいるべき世界へ帰ってください」 と、途端に他のメイドたちの顔が曇った。 「えっ、ブライディー、来たばかりだと言うのにもう帰っちゃうの?」 「デイジーも帰ってしまうの?」 「貴女やデイジーがいたら『ロンドン正義メイド団』は無敵だというのに…」 「帰ってしまったら、いくらコッペリア様や紅梅様でも、危険にさらされてしまうかもしれないわ」 「どんな敵が襲いかかってくるか、分からないもの…」 「みんな、無理を申し上げてはいけませんよ」 コッペリアは涙声で続けた。「ブライディーさんやデイジーさんには帰るところがあって、待っておられるかたもいるのです。例え短いあいだでも、ご縁を結べたことを感謝しましょう』 『そうなんです。どうか皆様許してくださいね』 頭の中では確かにそう言おうとしていた。なのに、口をついて出た言葉は違っていた。 「ええ、デイジーの心を聞いてから、そうさせて頂きたく思います」 「デイジーちゃんは帰らないわよ!」 「『もうどんなことがあっても帰らない』と言っていたもの」 下っ端のメイドたちが叫んだ。 「さぁさ、みんなそんなふうに、物事を決めつけるようなことを言ってはいけませんよ。 …きょうは、勝利のお祝いに、盛大にご馳走にしましょう!」 「はい!」 コッペリアの指示に、メイドたちはいっせいに散っていった。 仮眠後、ブライディーは宴の調理を手伝おうと厨房に行った。 「ブライディー様、貴女は料理などしないでください!」 「洗濯も掃除もしないでください!」 「デイジーちゃんと行水でもしてください。お湯はわたしたちが運ばせて貰います」 生まれて初めて「様」付けで呼ばれ、大いに戸惑った。まるで貴族の大きな屋敷のメイド頭になったような待遇だった。 宴は本当に楽しかった。 「メイドたちによるメイドたちだけのご馳走を食べる会」 それは、シャーウッドの森の、ロビン・フッドたちの食事のように賑やかで、ワインやビールなどの酒が酌み交わされ、どこの誰に遠慮することなく大声で語り合い、笑い声が沸き起こるものだった。 子豚の丸焼きや、丸ごとの鶏に詰め物をした料理が次々と運び込まれ、切り分けられ、たちまちのうちに無くなった。 「そこでだな、こうやって、ああやって密かに潜入したんだ」 紅梅は老酒をあおり、点心の皿から肉まんじゅうや餃子を箸で取ってパクパク食べながら、自らの武勇伝をメイドたちに語り聞かせていた。「…次々と襲いかかる雑魚どもを投げ飛ばし、蹴散らし、峰打ちで叩きのめしてだな…」 「素敵ですわ、紅梅様…」 「ぜひ、その場にいて御手助けしたかったですわ…」 「次回は絶対お仲間にお加えください…」 紅梅ファンのメイドたちは、彼女の回りを取り囲み、自分たちは飲み食いそっちのけで頬を紅潮させ、話に聞き入っていた。 「…屋敷の主人、道満はさすがに強敵だった。 目の前の人の姿をした奴は幻影。わたしが戦いに疲れ果てて難渋しているところ、ブライディーが見事に、おぞましい本体が床下に術で気配を消しているのを見破ってくれたのだ」 メイドたちはいっせいにブライディーのほうを見た。 「へぇー、ブライディーさんって凄いんだ!」 「占いとか、透視とか、迷路を突破する能力を持っている人は、いままでわたしたちの仲間にはいなかったから、これから先ずいぶん戦いが楽になりそうね…」 「さぁさぁ皆さん、ブライディーさんはデイジーさんを助けるために来て下さったんですよ。仲間になることを強制してはいけませんよ!」 団長のコッペリアは柔和な笑みを浮かべて言った。 「えーっ!」 「ブライディー、帰っちゃうの?」 「せっかく友達になれそうなのに…」 「ずっとここにいてよ。もう意地悪していじめたりしないから!」 メイドたちはナイフとフォークを持つ手を休めて、ある者は立ち上がり、ある者は走り寄ってきた。 「ええ、いえ、まぁ、その…」 ブライディーは言葉を濁すしかなかった。 「ねぇお姉ちゃん、とっても楽しいところでしょう?」 その晩、相部屋にしてもらった寝室に戻ったブライディーに、デイジーが話しかけた。「…みんなメイドばっかりで、ご主人みたいな人はいなくって、気を遣うことがなくて…」 「そうね、でも道満に捕まって、とても怖かったでしょう?」 大きなメイドさんはそっとカーテンを開けて外を覗いてみた。馬車や人々が行き交い「英国心霊研究協会」の窓から見るのとほとんど変わらない風景が広がっていた。 「うううん…」 手早く寝間着に着替えたデイジーは、ベッドに潜り込んで大きくかぶりを振った。「コッペリア様や紅梅様、それにお姉ちゃんたちが必ず助けに来てくれる、と信じていたから…」 「お義母さんがとても心配されていたわよ。一回帰って安心させて上げたらどうかしら?」 ブライディーも持参した旅行鞄から寝間着や着替えを取りだしてベッドの上に並べた。「それがね… あたしね… 『ここ』へ来てからまだ一つもお手柄を立てていないの。あたしの、自分では結構凄い術だと思っている『ゲート・キーパー、ゲート・オープナー』の術は、『バ』レイスター・『グ』ロウリーにも、芦屋道満にも通用しなかったの… とってもショックだわ… バレイスターの時はコッペリア様に、道満の時は紅梅様やお姉ちゃんに助けてもらって…」 うっすらと涙が浮かびかけたちっちゃなメイドさんは、頭から毛布をかぶって鼻を啜った。 「バレイスターも道満も、名の知れた黒魔術師で強敵、ツイてなかったのよ…」 「…だからね、次こそ、一回お手柄を立ててから帰りたいのよ。でないとお義母さんに自慢話をすることも出来ないし… それに、ここのお友達になったメイドさんたちに格好悪いし…」 毛布から再び顔を出したデイジーは、赤く腫らした目をこちらに向けた。 (お義母さんは、貴女のお手柄話なんか聞きたくない、貴女の無事で元気な姿さえ見られればいいとおもっておられるわよ。仲間のメイドたちに笑われたっていいじゃない。命を落としてしまったら、何もかもなくなってしまうのよ…) ブライディーがそう言おうとした時、デイジーは安心したのか、もう目を閉じて、スヤスヤと寝息をたてていた。 (早くデイジーを説得して、わたくしたちが暮らしている、ドイル様や皆様がいらっしゃる「現実の」ロンドンに帰らなくてば…) 「ロンドン正義メイド団」で暮らしながらも、ブライディーはずっとそう思い続けていた。(とにかくデイジーを帰る気にさせないと、そのうちについに、取り返しのつかないことが起きてしまうような気がするわ… でも、その前に、コッペリアさんから「元の世界に戻る方法」を聞き出しておかないと、気が変わってしまうかもしれないし…) 気持ちは焦りに焦るものの、どうしようもない。 ぐずくずしているうちに、この世界でまた奇怪な事件が勃発した。 それは、古書店で遠い昔の魔導書の写しを買った好事家や、研究者が、一人でいたところを次々に惨殺される…という恐ろしい事件だった。 「お姉ちゃん、真犯人がいるところを占ってよ! 今度こそ、今度こそあたしが大活躍して敵をやっつけて『ロンドン正義メイド団』シリーズの中に、確固としてこのあたしの名前を、スーパー・ヒロインとして刻みつけて残すのよ!」 デイジーにせがまれたブライディーは、大変嫌な予感がしていた。 (冒険の数とタイミングからして、次が「第二巻」のクライマックスになるはず… 作者のサンドマン氏は、それぞれの巻の大団円では、正義の味方の重要な脇役が必ず一人、悪人の毒牙にかかって殺されてしまう… 主人公のコッペリアさんは、何があっても死ななくて、悪の最後の敵を倒す役回りだろうから、このままだとやられるのは紅梅さんか、デイジーか、それともわたしか、ということになってしまうわ… 何としてでも阻止しなければ… でもデイジーは「お手柄を立てるまで帰らない」と言い張っているし、困ったわ…) 「コッペリア様、紅梅様! またでございます!」 メイドたちが赤鉛筆で囲まれた新聞を数種類運んできた。そこには 「古書蒐集家惨殺される」とか 「黒魔術クラブ会員、おぞましい死を遂げる」 などのセンセーショナルな見出しが踊っていた。 「コッペリア様、これはもう放っておけません!」 紅梅がテーブルを叩いて立ち上がった。「ぜひともブライディーに、真の敵の居場所を占ってもらって『ロンドン正義メイド団』が出動すべきです!」 「そうですね…」 細長いテーブルの短い辺の席…団長席に浅く腰掛けたコッペリアは、眉をひきしめた。「そうですね… そうするべきでしょう…」 椅子の背もたれが大きく分厚く見えるほどの華奢な身体を乗り出す。 「ブライディーさん、占いというものが大変精神力を消耗し、疲れさせるということをわたしはよく存じております。ましてや、相手が術で身を隠している魔導師であれば、なおさら見つけ出しにくいことと思います。ですが、使い立てて申し訳ないのですが、敵の正体と居場所を探り出して貰えないでしょうか?」 「はい、喜んでそうさせて頂きます」 ブライディーは声を震わせて答えた。「ですが、そうする前に、私からもお願いがございます」 「なんですか、申してみなさい」 「もしも首尾良くこの戦いに勝利することができたなら、デイジーとわたくしを、一度元の世界へ帰らせてください」 居並んだメイドたちがざわざわとざわめき、隣の者と私語をはじめた。 「なんだって!」 紅梅が顔を真っ赤にして叫んだ。「戦う前からへっぴり腰でどうする? それにそんな約束、皆の士気にもかかわる!」 「そうよお姉ちゃん、何てことを言い出すのよ!」デイジーも唾を飛ばしていきり立った。「そんなことを言い出すんだったら、わたし、この戦いに勝っても帰らないわよ!」 「皆さん、いい加減にしなさい!」 今度はコッペリアが珍しく怒った。「敵は残虐非道の者、一人の犠牲も出さずに勝てるという保証はどこにもありません」 あたりは水を打ったようにシーンとなった。「…しかしブライディーさんの力がなければ、敵の正体も居所も分からず、どうすることもできません。ですから約束しましょう。この戦いに勝利すれば、ブライディーさんとデイジーさんには、一度帰って頂きましょう」 「嫌です!」 デイジーがむずかった。 「これは団長命令です。デイジーさん、よろしいですね? 紅梅さんも」 コッペリアの鋭い口調に、二人は黙ってうつむくしかなかった。 「さて、そういうことでブライディーさん、改めてお願いします」 大きなメイドさんは団長室でコッペリアと二人きりになり、目の前に「不思議の国のアリス」のタロット・カードを並べはじめた。 「…犯人は、千年数百年生きているアラビアの狂える魔導師、ミイラのような顔をしていて、かぎ爪のある皺だらけの手を持っているアブドゥル・アルハザードで、潜んでいる場所は… コンタクトする方法は…」 ブライディーは淡々と述べた。 「…居所は定まらず、常に時空を彷徨っているために、こちらから出向いていって対決することはまず不可能です」 「何ですって!」 コッペリアは目を見張り息を呑んだ。 「こちらがアルハザード自身か、彼の持っている魔導書に興味を持ち、彼が訪れてくれるのを待つしか方法はあないと思います」 「ロンドン正義メイド団」の団長コッペリアの部屋は、「英国心霊研究協会」のお屋敷の書斎と同じく、本棚にはビッシリと書籍が並び、飾り棚にはコッペリアの趣味なのか、ヨーロッパやアジア、アフリカ、南北アメリカの呪術用と思われる人形が何体も飾られていた。質素なマホガニーの机の上はきれいに片付けられ、本棚の縁にも、人形たちも少しも埃は積もっていなかった。 「貴女はもう薄々と気がついていると思いますが…」 コッペリアは錫の人形を取り上げて見つめながら切り出した。「…わたしは人間ではありません。人形でもありません。正直言って、わたしはわたし自身が何者であるか分からないのです」 ブライディーは押し黙ったまま、団長の翳りを帯びた瞳を見つめた。 「…もし叶うことならば、わたしは人間になりたい。好きな殿方を真剣に愛してみたい、強敵と戦う時、恐怖というものを感じてみたいのです…」 「敵に恐れを感じたら、コッペリア様はスーパー・ヒロインではなくなってしまいます。この、いまわたくしたちがいる本『ロンドン正義メイド団』シリーズの世界が狂ってしまうと思います…」 「それでも構いません。わたくしの人生はわたくしの人生。わたくしの命は…それが真の命と呼べるものであるかは分かりませんが…わたくしの命です。わたしが人間になる方法は、さすがに貴女の占術でも分からないでしょう。しかし…」 「『しかし』…」 ブライディーはインディアンの木彫りの人形や、中国の絹の衣装を着た人形、南米のインディオの素焼きの土偶に目を落としながら繰り返した。 「狂気のアラビア人アブドゥル・アルハザードだったら、その方法や、現在のわたしが何者であるかを知っているかもしれません。わたしが上手くアルハザードに発信できたら、なおかつ彼から返信が来たらそのことを尋ねてみましょう」 「つまり、コッペリア様がわたくしたちを裏切ったように見せかけられる、ということですね?」 「ええ、そうです。貴女だけはだませそうにないので打ち明けますが…」 「上手く行く、でしょうか?」 「やる以外にないでしょう…」 コッペリアは哀しそうな瞳で見つめた。 「どうして… どうして、コッペリア様は来たばかりのお姉ちゃんを大切にするのかしら?」 床に箒をかけながらデイジーは、通りがかった紅梅に言った。「…そりゃあお姉ちゃんは来た早々お手柄を立てたのだけれど、この世界ではあたしのほうが先輩だし、アルハザードと戦うにはあたしのほうが役に立ちそうだ、というのに…」 「それを言ったら… どうしてコッペリア様はわたしも他の者も交えて相談を続けられないのだ?」 紅梅も眉間に皺を寄せた。「…それは確かにブライディーの占術は強力だから、コッペリアさまが諸葛孔明のように思われるのも無理はない。しかも彼女は『貴女と手柄を立てたら、一緒にいったん帰る』と言っている。いったん帰ったら最後、ブライディーはもちろん、貴女もここへは二度と戻って来てくれないかもしれない…」 「そんなことないもん!」 デイジーはつま先で立ち、唇を尖らせてムキになって言った。「…疑うんだったら、あたしはもう、何があっても二度と帰らないわ!」 「そうだろう、そうだろう…」 紅梅は重々しく頷いた。「帰ったところで一体何があるというのだ? それは『ドイル様やドッジソン様』をはじめとするご主人がたは『いい人』ばかりだろう。しかし、『貴族は貴族、郷紳は郷紳、金持ちは金持ち、貧乏人は貧乏人、メイドはメイド』それらは永久に変わらない。働いて働いて働いて、いくら働いても大金は簡単には貯まらず、もしも病気やケガをしたりしたら… それに比べて『ここ』はむかしむかしの男子の騎士修道会のように固い絆で結ばれている。万一のことがあってもみんなが交代で面倒を見てくれる。最悪、戦いで命を失ったとしても、心の底から悼んでくれる。それに、何よりも増して世のため人のためであり、活躍の様子が広まるに連れて、期待し、支援してくれている人々の数も増えている。そうなると、さらに団員も増えるに違いない…」 デイジーは感激のあまり、目にうれし涙をためた。 「するとあたしたちは、『ロビン・フッドたち』や『テンプル騎士団』のように、歴史に名前を残せるのですね」 「ああ、そうだ。だから今度のアルハザードとの戦いの肝腎な局面では、ブライディーさんにはどこかで静かに休んでいて貰おう」 紅梅の提案にデイジーはさらに大きくうなづいた。 「おかしいなぁ、コッペリア様は…」 「この頃あまりお姿をお見せにならないなぁ…」 「まさかあたしたちをお見限り、お見捨てになったのではないでしょうか?」 「ロンドン正義メイド団」の団員のメイドたちの話の中にそんな話題が増え始めていた。 「正直言って、この『正義メイド団』はコッペリア様と紅梅様の二人だけで持っているようなものですし… 他の者は、ほとんど『正義』のためには役に立っていないように思うのですが…」 「もしもアルハザードのような恐ろしい魔導師がここを攻撃してきたら、あたしたちはただの足手まといにしかならないような気がしますわ」 通りがかった紅梅が、ひそひそ話を聞きとがめた。 「おまえたち、そこで何をつまらない話をしている?」 メイドたちはすくみ上がった。 「いいか『ロンドン正義メイド団』に価値のない、いてもいなくても関係のないメンバーは誰一人としていない! コッペリア様のお世話をする者、お屋敷の管理、街へ出て不審な噂の収集、仲間を通じての研鑽、自身の修練、相互扶助、どれも重要な役目ではないか?」 「は、はい。そうでした、紅梅様…」 メイドたちは平身低頭した。 「…『このロンドンをシャーウッドの森にすること』『メイド団をテンプル騎士団のような豊かで慈愛に満ちた集まりにすること』こそ、コッペリア様のお望みでした」 「そうだ。まったくその通りだ。分かっているのなら自分の持ち場で勤しむように!」 紅梅はさらに声を大にした。 「分かりました」 「失礼致しました」 けれどもメイドたちは逃げ散りながらポソリポソリとつぶやいた。 「…でもそれだったらどうして、コッペリア様はずっとここにおられて、あたしたちに声を掛けたり、励ましたり、戦いかたを教えてはくださらないのかしら?」 「シャーウッドの森のロビン・フッドは、集まってきた半端者たちと、いつも武術の稽古をしてると言うのに…」 「きっと、占術以外に術のないブライディーさんも習いたいと思うわ」 「そうよ、彼女が『帰りたい、帰りたい』と繰り返すのは、そのあたりが物足りないと思っているからに違いないわ」 同じ頃、ブライディーは、あてがわれた廊下の端の落ち着ける部屋で、一心不乱に占っていた。 全てのカードを並べられる広い黒檀の机。正位置、逆位置で組まれた陣を紐解くと、次のような光景が浮かんできた… 鏡の向こうには、黄ばんだターバンを巻き、大きな濁った目をぎらつかせた皺だらけのアラビア人が、長く曲がった鬼爪を振りかざして怒鳴っていた。 「何! 人間になりたい、とな?」 「はい」 コッペリアは白い清楚な表情を少しも崩さずに言った。「わたしは本当に人間の女性になりたいのです。真実の恋もしてみたいし、心からの愛も交わしてみたいし、赤ちゃんも授かりたいのです」 「あのな…」 狂気の魔導師はごま塩の眉毛をぴくぴくさせた。「…普通の人間の暮らしを望んでいる者が、どうして『正義のメイド団』のような集まりを組織し、団長に収まっているのだ?」 「あくまで知識と情報を集めるだけのためです。人外の者が人間になることができる術など、浅学ながら見たことも聞いたこともございません。藁にもすがるつもりで、好きでもないのに大勢の者と和を結び、聞き漁り続けて参りました。しかし、結果はまったく出ませんでした。もっとも、こうしてこのようにアルハザード様と知り合うことができたのは、いままでで最大の成果ではないか、と…」 「ふむ、部下など何とも思っておらぬ、ということだな?」 曲がった爪の先で、汚らしい顎ひげを撫でさする。 「はい。その証拠に、才能のありそうな者にもわたくしの術を何一つ教えてはおりません。…もしもアルハザード様が望みを叶えて下さるのであれば、五十人の乙女全員の魂をお捧げしても構いません」 「その言葉、本当か?」 鏡の中から手を伸ばし、頭を突き出してきた。 「本当です。ご存じなのですか?」 「知っていなく無いこともない」 魔導師は褐色と灰色が混じった肌をこころもち上気させた。「教えてやることもやぶさかではない。ただし、そちらが先にいまの部下全員を葬って、魂をわしに差し出すことが条件だ」 「あら、あんな煩わしいだけの連中、どうでもよくってよ」 コッペリアは赤い舌で赤い唇を舐めた。「でも、その前に、貴男が本当にその術を知っている、という証拠を見せて頂かなくては…」 しばらく間があった。 「どうかされましたか? それとも、さしものアルハザード様も…」 「うるさい黙れ! …よかろう。おまえの部屋の飾り棚にある世界各国の呪術人形のコレクション。そのうちの一つにいますぐ、真の人間としての真の命を与えて進ぜよう」 アルハザードは自信たっぷりに言い放った。 「では、大魔導師アルハザードの力を試させて頂くようで悪いのですが…」 コッペリアは、飾り棚には入っていない、しかし埃もまったくかぶっていない、非常に美形の、ロシアのコサック兵の隊長の制服姿のよくできた木彫りの人形を抱き上げて示した。 「このブーリバ隊長を、後数十年間、人間としての寿命が尽きるまで、まこと血と肉を備えた男にして頂きたい!」 「ふむ、いいだろう。目をつむれ。そして十数えてから再び眼を開いてみろ。もったいをつける訳ではないが、この術はさすがのわしにも荷が重く、疲れる。しばらくは会えぬだろうから、約束のこと、くれぐれも忘れるなよ。そのあいだ、せいぜいそのブーリバ殿と親睦を深めておくことだな。わしの術がいかに真に迫っているものか…いや、まことに真なるものか、とくとご覧じるがよい」 真っ黄色の歯を覗かせ、これ以上はないくらい嫌らしい笑いを浮かべると、アラビアの魔導師は鏡の中からその姿を消した。 コッペリアは鏡に覆いをかぶせ、コサック兵士官のりりしい詰め襟の制服を着たハンサムな人形を机の上に置いてしばらくジッと眺めていたが、やがて、祈るときのようにしずかに目を閉じた。 タロット・カードを広げていたブライディーの目の前の光景が淡い光に包まれたかと思うと、しばらくゆらゆらと揺らめいて見えにくくなった。 再びそこそこ見えるようになった時、団長室の長椅子に座ったコッペリアの傍らには、コッペリアよりも頭一つくらい背が高い、ロシアの軍服をビシッと着こなした、お芝居の役者のような美形の若い男が座っていた。 「コッペリア様」 「ブーリバ様! 本当にブーリバ様なのですか?」 はしたなくも自分のほうから男の逞しい手に触れてしまう… 「…いくら願っても、いくら望んでも、このような日は、永久に訪れぬものと諦めておりました」 士官はメイド団団長の細く白い指を握り返した。 「わたくしも、です。もとより人間ではないわたくしが、このように人間のように振る舞い、おまけに人間たちの上に立っているというだけでも奇跡だと言うのに、こうして人形の貴男と、真実の恋人のように向き合っているというなんて、なんと言う奇跡でしょう! いえ、これは神様に祈った結果ではなくて、悪魔にお願いをしたゆえですから、奇跡と呼んではいけないのかも知れません。…そう、『禁断の果実』なのでしょうか…」 「いつも、ぼくを抱きしめ、キスをして頂いて有難うございました」 ブーリバはそう言ってコッペリアの背中に両手を回し、いきなり唇を奪った。最初は浅く、じょじょに深く、熱い接吻が続いた。 すぐにタロット・カードの陣を崩して光景を打ち消そうとしたものの、ブライディーは元から人の子「見届けるのも任務のはず」とか、自分で適当に勝手な理屈をつけて、見つめ続けていた。(…そう、コッペリア様は、メイド団を裏切るフリをして、アルハザードの信用を得て、一気に叩く、という段取りなのよ。だから、術中にはまって肉欲に溺れたフリを演じておられるのだわ。そうよ、内心はきっと、嫌で嫌でたまらないはずなのよ!) ブーリバの手のひらがエプロンドレス越しにコッペリアの形のいい胸に触れ揉みしだいた。 「ぼくも、ぼくも、まさしく夢のようです」 ブーリバはエプロンドレスの紐を解いて脱がせ、お仕着せもめくり上げて脱がせて、肌着の胸元に顔を埋めた。 「…や、やめてください! すぐ外にメイドたちが大勢います!」 コッペリアは顔を真っ赤にして抗った。 「いいえ、もう一刻も待てません! 待ちすぎるほど待ったのです」 士官はペチコートもドロワースも脱がせ、ほっそりとした形のいい脚があらわになった。後はシミーズ一枚だけになった。「貴女の着替えも、何度も何度も見ています! だからもう、見つめるだけでは到底我慢ができません!」 コッペリアは体じゅうを桜色に染めて、最後の一枚にすがりついた。 飾り棚の、他の人形たちが二人の艶めかしい行いを、ガラス玉の瞳でじっと眺め続けていた。 顔を真っ赤にして生唾を飲み込んだブライディーも、さすがに、ついにタロット・カードの陣をぐしゃぐしゃにした。目の前の光景は。カーテンを開けた幻灯会のように、おぼろになって消えた。 「お姉ちゃん、どうしたの? お顔が真っ赤よ。熱でもあるんじゃないの?」 少しふらつく足取りで自室から出てきたブライディーを、デイジーが見とがめて言った。「いえ、いえ、大丈夫よ」 壁にもたれて髪をかきあげ、乾いた声で答える。 「本当に?」 「本当に大丈夫よ」 「紅梅様が『コッペリア様のお部屋の様子がおかしい。どなたかと話し合っておられるようだ。誰もご一緒ではないはずなのに』とおっしゃるのよ。ノックしてみようか?」 「だめ! それはダメよ!」 慌てて団長室のドアの前に立ちふさがる。 「どうしてだ?」 紅梅が近寄ってきて尋ねた。 「そ、それは… アルハザードとコンタクト中だからよ。いま、とても大事なところなの。奴を上手くおびき出せるかどうか、という瀬戸際なの」 「しかしわたしには、他に誰か人がいて、何かもみ合っているような気配が感じられるぞ。 もしや、コッペリア様は、アルハザード本人かその刺客に口を塞がれて…」 紅梅がまたドレスのスカートの中を丸出しにして、ドアに大きな回し蹴りを放とうとした先に両手を広げて邪魔をした。 「大丈夫です。わたし、分かるんです」 「貴女の能力は、隣の部屋がどうなっているかも分かる、とても便利なものなのね」 紅梅は吐き捨てるように言った。「仲間だからって、決して油断はできない訳だな。なぁ、デイジー?」 「ええ、どんな不始末をしでかしてもお姉ちゃんには隠しておくことも秘密にしておくこともできない。…とっても怖い人なのよ。だから、そういうこともあってあたしは、あたしがいたロンドンから逃げてきたのよ」 ブライディーの心は痛んだ。 (「心霊研究協会」のお屋敷では、そんなふうに思われていたなんて…) そして、こう思った。 (今度のアルハザードとの戦いに勝利したら、もうデイジーのことは諦めて、わたしだけ元のロンドンに帰ろう… こんなに嫌われていたなんて、ショックだわ… 無理をしなくても、彼女も時間がたって懐郷病にかかったら、ひょっこり帰ってくることでしょう… もともと、それまで待てばいいことだったんだわ。いまはちょうど、面白くて面白くて、お手柄を立てたくて立てたくてたまらない頃でしょうから…) 口論していたところ、ドアが開いてコッペリアが顔を出した。髪が僅かに乱れ、衣服も慌てて着たような感じがするのを一同見落とさなかった。 「他人の部屋の前で一体何を騒いでいるのですか、騒々しい!」 (コッペリア様は出向いてきたアルハザードに抱かれていたのかもしれない…) かすかに男性の匂いをかぎ取った紅梅はそう疑った。(…おいたわしや。強敵を倒すためとは言え、女性としてもっともむごく辛いことを… でも待てよ。アルハザードは何百年も生き続けている醜い爺のはず… いくら何でも… しかし、大魔導師だから、その気になれば若い男前にも化けられるのかも…) 猜疑の念は留まるところを知らなかった。「先ほど、お部屋の中で喘ぎ声のような声と物音が聞こえたような気がしました」 デイジーが代わりに言った。 「気のせいです。そうですよね、ブライディー?」 「は、はい。そうです。わたくしもそう申し上げたのですが…」 「みなさい。この子もこのように申しています。いい加減に下がらないと怒りますよ」 紅梅とデイジーは渋々下がった。 「面白くないな。本当に面白くない!」 紅梅は舌打ちしながら低い声で囁いた。「コッペリア様は… いや、団長はどうして、あれほどまで来たばかりのブライディーを重用するのだ?」 「お姉ちゃんは、誰でも上の人に取り入るのが上手いのよ」 デイジーが囁き返した。「英国心霊研究協会のお屋敷にいた時も、ドイル様や、ドッジソン教授や、他の重鎮のかたがたに上手く取り入って、よく一人だけ旅行のお供に連れて貰っていたりしたわ」 「うむむ、それならますます重要な行事の際には部屋に閉じこめておかなければ…」 「そうよ『帰る』とか殊勝なことを言っているけれども、万一居座られたら副団長の座が危ういわよ、紅梅様」 デイジーはやぶにらみっぽくなった目で上目遣いに見上げた。 数日後「ロンドン正義メイド団」本拠地の「メイド斡旋所」の、団員たちだけが見る掲示板に、きれいな花文字の、イラスト入りのポスターが張り出された。 「正義メイド団、第一回小旅行 日頃の慰安と、研修を兼ねて、六月×日、団員全員で、イングランド南部ソールズベリのストーンヘンジに小旅行を行います。 諸費用一切団長持ち。 必ず全員参加すること。 詳細や役目の分担については別記 団長 コッペリア」 それを見たデイジーや紅梅や、その他大勢のメイドたちは飛び上がって喜んだ。 「やっぱりコッペリア様はあたしたちのことを考えていて下さっていたんだ!」 「ひょっとしたら、術の一つも教えて下さるのかも知れないな」 「みんなで行くなんて! 本当に楽しそうですわ!」 他のメイドたちもキャーキャーと騒ぎながらはしゃぎ回った。 そんな中で、ただ一人ブライディーだけはカチカチに緊張していた。 (とうとう、皆さん全員を囮にして、アルハザードを呼び出す話がまとまったんだわ。 コッペリア団長は、紅梅さんやデイジーにはもう計画を話されているのかしら? 狂気のアラビア人相手に戦力になるのは、このお三方だけだと思うし… 待ってよ。わたしも『アルハザードの弱点を探す』とか、微力ながら御手助けしなければならないはず…) 「楽しみだな、ブライディー?」 紅梅は意味深な微笑を浮かべつつ、馴れ馴れしく肩に手を回してきた。 「は、はい…」 「いい天気だといいのにな」 「はい」 「ストーンヘンジは、お姉ちゃんもあたしも一度、ドイル様たちと行ったことがあるのよ」 デイジーも久しぶりに微笑みかけた。「…時々、とっても不思議なことが起きる、とされているところなのよね」 「え、ええそうね…」 ブライディーはみんなに危険が及ばずにアルハザードを倒せるかどうか、気が気ではなかった。 (でもこれは「やりかけた計画」なのだから、是非やり通して成功させなければ… たとえ本の中の世界とは言え、極悪非道のアブドゥル・アルハザードは放ってはおけないし…) そうこうするうちに小旅行の当日がやってきた。空は曇っていたが、まあまあの天気だった。 この日のためによそ行きのドレスをメイドたちは、手に手にお弁当の入ったバスケットを持って走り回っていた。 「駅まで乗っていく馬車が到着しました!」 「二台でピストン輸送してくれるそうです」 「誰から先に乗るの?」 コッペリアの声。お仕着せではない、花柄の木綿のドレスに身を包んだ彼女は、いつもにも増して一層美しかった。 「かなり前にくじ引きで決めました」 紅梅は薄いピンクのドレスを、仕立てのできる子に作らせていた。 「決めたけれど、みんな気の合う子と隣同士に座りたくてクジを交換し出したものだから、大変だったのよね」 デイジーは左右両手に身に余るバスケットを抱えてうろうろしていた。「…しっかり親睦を深めて、アルハザードと戦う団結心を培わなくては…」 (あれっ、おかしいな…) ブライディーは思った。(デイジーは自分たちが囮であることを知らされていないのかしら? それともお芝居? まぁ「敵を欺くにはまず味方から」という言葉もあるし、コッペリア様には深いお考えがあるのかも…) 「とっておきのワインを何本か持っていきましょう! ブライディー、すまないけれど、取ってきて!」 「はい、かしこまりました」 副団長の紅梅に命令されて、地下のワインセラーへと降りていった。 「紅梅様、このワインは一体どのあたりにあるのでしょう?」 蝋燭の明かりでワイン棚が並ぶあなぐらを照らしながら、ドアのほうに向かって叫ぶ。「そのへんに並んでいるだろう。まだ時間はあるから、ゆっくり探してくれ」 「はい…」 少し上等の赤ワインと白ワインを、ようやくすべて探し出してさらしを巻いて籠に入れ、出口に向かおうとすると… ドアはピタリと閉じられ、かんぬきが下ろされていてビクとも動かなかった。 「すいませーん! わたし、まだここにいるのですけれど!」 扉を叩き、呼べど叫べど、返事はなかった。(あらら。コッペリア様はわたしを置いて出発されたりはしないはずだけれど…) 「コッペリア様、ブライディーが『急に身体の調子が悪くなって、申し訳ないけれどきょうは留守番をさせて欲しい』と…」 「そう、それは残念だけれど、仕方ないわね」 紅梅の報告を受けて、コッペリアはかすかに唇を歪めた。 ワイン蔵に閉じこめられたブライディーは、しばらく 「誰かー!」 「出して下さーい!」 「わたし、ここにいます!」 など叫びながら、扉を叩いたりしてみたが、誰も助けに降りてきてはくれなかった。 そのうちにとうとう、階上のざわめきもなくなって、みんなが出かけてしまったらしいことが分かった。 (おかしいなぁ… どうしてコッペリア様は、こんな大切な、みんなを巻き込んでの乗るかそるかのアルハザードとの大決戦の日に、わたしがこんなことになっているのを不審に思って、みんなに探させないのかしら? ご自身と、紅梅様やデイジーがいれば勝利できる、と思っておられるのかしら? それだったらそれでいいのだけれど…) しかしとうとう諦めて、蝋燭を手にして結構広いワイン蔵を見物して回ることにした。 暗く、ひんやりとし、適度に湿度のあるあなぐら。ブライディーは退屈しのぎにずらりと並べ寝かされたワインのラヴェルに蝋燭の光を当てて文字が読めるものは読んで回った。 フランスのボルドーや、ドイツのモーゼルなどの地名は読むことが出来た。イタリア語やスペイン語らしいもののほかに、ロシア語や東欧のものらしい文字が書かれたワインも数多くあった。 図案も、ジプシーの踊りを描いたものや、西欧のものではない、エキゾチックな建築の修道院の建物を描いたものなどがあった。 (コッペリア様って、もしかしたら、ポーランドか、ルーマニアか、ハンガリーか、東欧のご出身なのかなぁ… ニューナム女子大で知り合ったゼリューシャ様も…お名前からして…そうだったし… セアラ様やフィオナ様がいらっしゃったら、全部の国の名前や地名や由来書きを読んで下さるのになぁ… …みんないまごろは駅に着いた頃かしら? それとももう汽車に乗っているかしら…) とりわけ大切そうな棚には、一七○○年代や一六○○年代の年号が記された木版刷りのラヴェルが貼られたワインが寝かされていた。 (…こんなの、ウォーターフォード男爵様のお屋敷でも見たことがないわ。きっとお高いのでしょうね…) さらに進むと、一五○○年代や一四○○年代の年号が記された、手書きのラヴェルの貼られたワインが… (えっ、まさか!) あわてて一番古い年号が記された瓶を探すと、一一○○年代の、「レンヌ」の地名が読みとれるテンプル十字が記されたラヴェルの貼られてあるワインや、一二○○年代の、羽ばたく鳩が描かれ「モンセギュール」の地名が記されたワインもあった。 (まさか! まさか! いくら何でも八百年も前のワインが? もしかして、コッペリア様はそれくらい昔から生きておられるとか…) 何気なく持ち上げて、瓶の中のワインが蒸発してしまわずに残っているか、蝋燭の明かりに透かして見ると… 案の定、ワインは一滴もなく、書面のようなものが入っていた。 その他の「超」年代物の瓶はすべて中身は書類だった。 「ごめんなさい。でもこうするしかないわね」 ブライディーは瓶の一つを苔の生えた石畳の床に叩きつけて割った。 黄ばんだ羊皮紙を広げると、すっかり錆色になったラテン語の文字がずらりと並んでいた。 (ラテン語かぁ… フィオナ様が習われているのを「門前の小僧」したのだけれど… ああ、フィオナ様やシスター・セアラ様がいらしたらペラペラなのに…) 仕方がないから読める単語だけ読んでみた。 英国心霊研究協会のお屋敷にはラテン語の本がいっぱいあって、掃除の時に「いったい何の本かな?」興味を持って、時折ポケット辞書で調べたりしていたのが役に立った。 『神が宇宙のすべてを統べるのか、それとも宇宙の真理の中には神すら含まれるものなのか? 我等は宇宙の真理の中には神すら含まれるという「グノーシス…智慧派」である。 カトリックは我等を異端として排斥するが、我等から言わせれば、カトリックこそ異端である。 我等は、宇宙を超える至高神と人間の本来的自己との本質的同一性の「認識」を救済とみなす。 即ち、我は宇宙であり、宇宙の力を正しい方法で引きだし、我が力として使用する。いろんな神もまた、その力の具現の一つに過ぎない… 「魔法、魔術、呪術… これらは宇宙の力を我等人間のものにする手だてである。 遠くない将来、馬が牽かなくても走る車や、空を飛ぶ乗り物、自由自在な形を作り出せる物質、無限に燃え続ける炎、すべての問いに答える機械などが考え出されるであろう。 死者の身体を利用して、別の死者を生き返らせることや、一瞬にしてに一国を滅ぼしてしまうほどの威力を持った兵器もまた然り、である。 我等には「父祖」といわれるシモンとその派をはじめとして、ウァレンティノス派、バシリデス派、ナハシュ派、オフィス派、パルベロ派、セツ派などがある。「ナハシュ」はヘブライ語で、「オフィス」はギリシア語で、それぞれ蛇の意味である』 (要するに、人間がもっともっともっと賢くなったら、何でもできて、神様も要らなくなる、と考えているかたがたなのね…) さらに試しに、もう一つ瓶を割ってみた。 『我等が優れた預言者の出現を危ぶむのは、神の不在を預言されることを恐れるにあらず。神の確かな存在を預言されることを恐れるからである。神は「神をも畏れぬ所業」と称し、いろいろな科学の発達を妨害してきた。最終兵器で戦争を根絶し、技術の進歩で各種事故をなくし、医学の発達で障害を持って生まれてくる赤ん坊を皆無にできれば、どんなに素晴らしいことであろうか? 我等は世界中のいろんな宗教に潜り込み、信者の仮面をかぶり、他の敬虔な信者たちを利用し、秘匿された知識を持ち出してきた… 正義も、また然りである…』 証拠の品を目の前にすると、にわかに真実みを帯びてきた。 (ということは、コッペリア様は『智慧でなんでもどんなことでも行える、智慧派の理想の世界を』少なくとも八百年間信奉し「正義メイド団」を組織してきた、ということ?) さすがに信じられなかった。 (八百年間、本当の人間になる方法を探し求め続けてきた、ということ?) それは十分あり得る話だった。「さまよえるユダヤ人」のように、何百年…いや、何千年生き続け、旅をしてきた。 (だけど、その長い間にも、アルハザードなどごく一部の破格の魔導師とは巡り会うことが出来ず、このたびようやく「現実の世界」からわたしをスカウトすることによって、発信することができ、返事が来た…) ブライディーはハッとした。 (まさか、まさか、まさか! コッペリア様は本当にアルハザードの条件を飲んで、紅梅さんやデイジーや、みんなの命と引き替えに、人間にしてもらうつもりなのでは?) 一瞬疑いが脳裏をよぎったものの、すぐに打ち消された。 (…あり得ないわ。「ロビン・フッドのメイド」の「美剣士ミミ」シリーズの作者で既刊三十冊のベストセラー作家サンドマン氏の新シリーズの「ロンドン正義メイド団」ヒロインのコッペリア様が、そんな悪いことをされるはずがないじゃない… 読者が呆れてもう買わなくなって、シリーズが途切れてしまうわ… そんなこと、ないわよね! そんなこと、絶対にないわよね!) ホッと肩を降ろしたところへ、ワイン蔵の扉をトントンと叩く音がした。 「お願い、開けて!」 あわてて駈け寄って叫んだものの、外からの返事はなく、鍵を開けるのもずいぶん手間取っているようだった。 「早くしてね!」 カシャリと鍵が外れる音がして、ようやく開いた扉の向う側には、ロシアのコサックの青年将校の朽ち果てかけた人形が横たわっていた。 「ブーリバさん!」 ブライディーはボロボロになった大人の腕くらいの大きさの人形を拾い上げた。 「ブライディーさん、コッペリアさんを止めてくれ! アルハザードの術は不完全で、とても本当の人間になんかになれるものじゃない…」 「すると、コッペリアさんはやっぱり…」 「確かなことは分からないが。…それと、文書の入った瓶を片っ端から割って、道々読んでおくんだ。きっと、きっと役に立つはずだ…」 コサック人形は何かを言いかけたかと思うと、グッタリと崩れ去って、二度と何も言わなくなった。 (どうしよう? とりあえずみんなを追いかけなければ!) ブーリバの言うとおりに瓶を割って何枚かの羊皮紙をかき集めてから駅に急ぎ、切符を買ってみんなより一本遅い汽車に乗った。発車までの時間が長く長く感じられたものの、食事をしにいくこともなく、弁当を買うわけでもなく、コンパートメントの中で一心不乱に文書を読みふけっていた。 空は黒く不気味な雷雲がたなびき、時おり稲妻がキラッキラッときらめいてた。 汽車が汽笛をあげ、がたんごとんと走り出しても、気が気ではなく、心はすでにソールズベリの草原に飛んでいた。 (…とんだ取り越し苦労よね。コッペリアさんがみんなを裏切るなんて、考えられない、あり得ないことですもの。だって、コッペリアさんは、『この』『ロンドン正義メイド団』という『物語』のなかの『スーパー・ヒロイン』でしょう? そんな登場人物が、みんなを裏切るなんて、あり得ないわ。…重要な脇役とかだったらあり得るし分かるけれども…) 最寄りの駅に着いて、駅員に尋ねると、 「若くて美しい、華やかな女性たちばかりの一団が、馬車の分乗してストーンヘンジへと向かったよ」 と教えてくれた。 ブライディーも早速、馬車を雇った。 「お嬢さん、いまからだったら、確実に雨に降られますよ。明日にされてはどうです? 先に行かれた人たちも、きっともうじきこの駅に戻ってこられますよ」 御者はそう言って諫めたが、これは聞き入れることは出来なかった。 「とりわけ特別な、大切な事情があるのです。チップをはずみますから、どうか行ってください」 「そうですか…」 御者は渋々馬車を出した。 ほどなく雨が降り出し、瞬く間にザーザーと音を立てて降り始めた。 一足先に、ストーンヘンジに到着したコッペリアに紅梅、デイジー、それに大勢のメイドたちは、にわかに曇り始めた空に少しあわてていた。 「皆さん、雨具の用意をしてきていますか?」 コッペリアは問いかけたけれども、その口調にはなぜかあまり心配が込められてはいなかった。 手を挙げたり、華やかな色柄の雨傘や晴雨兼用傘を取りだして示したメイドたちは半数くらいだった。 「くそう、せっかく初の遠足なのに、持てばいいのだが…」 紅梅は次第に真っ暗に染まり行く空を恨めしそうに見上げた。 「お弁当を食べている時に降り出したら困るよね」 デイジーは哀しそうにつぶやいた。 (ふふふ… いまにそれどころではないことが起きるわよ) コッペリアは内心ほくそ笑んでいたが、もちろんそんなことはおくびにも出さず澄ましていた。 「…皆さん、この大きな石は、ブルーストーンと呼ばれていて、遠くウェールズから運ばれてきたものです。支柱のことはサーセン、左右に二本の支柱、上に渡された石と合わせて三つ一組のものはトリリトンと呼ばれています」 と、稲妻が走り、すぐに大きな雷鳴が轟いた。 メイドたちは口々に「キャーッ!」と悲鳴を上げて、両手で頭を覆ったり、逃げまどったりした。 ふと気がつくと、トリリトンに渡された横に長い岩の上の一つに、アラビアふうの民族衣装に身を包んだ、褐色の顔にぞんざいにターバンを巻いた険悪な表情の老人が降り立っていた。 「よく来た。腐れメイドども…」 「アブドゥル・アルハザード!」 「アルハザードが現れた!」 紅梅は身構え、デイジーは『ゲート・オープナー』の術を放つ構えを見せた。 「コッペリアさま!」 「どうか…」 他のメイドたちはみな団長の後ろに隠れるように下がった。 「ふふふ、哀れな者たちよのぅ… 母の如く、姉の如く慕っている者に裏切られるとはな…」 アルハザードはしわだらけのまぶたを半眼に閉じて一同を見下ろした。 「降りてこい、卑怯者!」 紅梅は徒手空拳で手足を振り回した。 「阿呆か。『降りてこい』と言われてのこのこと降りていく者がどこにいる?」 デイジーは「次元の球」を作ると、「エイッ!」とばかりに相手に向けて投げつけた。 魔導師はシャボン玉のような球の中に閉じこめられ、空の彼方に飛び去って消えた。 「やった! デイジー凄いぞ!」 「なんだかんだと言っても、ものの一発じゃないの!」 「初お手柄ね!」 紅梅やメイトたちがはしゃいでいるところに、黒い影が覆い被さった。 「何が一発だって? わしはいつもこの方法で時空を移動しているのだ」 「キャー!」 「みんな、一カ所に固まって! 紅梅、デイジー、みんなを守って上げて! わたくしが何とかします!」 コッペリアはみんなをかばうかのように両手を大きく広げて下がらせた。 (ふむ、なかなか上手い芝居をするじゃないか) アルハザードはニヤニヤしながらコッペリアの前に立ちふさがった。 (で、どうするんだ? おまえもみんなに恨まれたくなかったら、適当に戦って、わしにやられて、死んだふりをしている、というのがいいかもしれないな。そうすれば万一打ち漏らしたメイドが出て、そいつがあちこちでペラペラ喋っても、おまえの名誉はいささかも傷つかないという寸法だ。いや、わざと一人か二人逃げさせて、わざと喋らせる、という手もあるな。そう、それが面白いかも知れないな) 魔導師は黄色く濁ったやにだらけの目で問いかけてきた。 (そう。それじゃあそれでお願いしようかしら?) コッペリアはすみれ色の瞳をしきりにまばたきさせた。 吹き降りの嵐の中、アブドゥル・アルハザードが指をパチリと鳴らすと、次元の隙間から次々と、象ほどもあるガーゴイルや、黒い山羊に似た魔獣や、あるいはぶよぶよとしたゼリー状の生き物が現れてメイドたちに襲いかかった。 「コッペリア様、助けて下さい!」 化け物たちに囲まれたメイドたちは悲鳴を上げて押しくらまんじゅうのように縮まり、固まるだけだった。 紅梅が強烈な蹴りを入れてもびくともせず、デイジーが一、二匹を元の次元の彼方に送り返しても、後から後から現れてキリがなかった。 「もうダメ!」 「コッペリア様!」 アルハザードと対峙しながら部下たちの絶体絶命を眺めていたコッペリアは (これはあらかじめ取引きをしておいて本当に良かったわ。まともにやり合っても、勝てたかどうか分からない…) といった表情で間合いを計るふりをしながら、少しずつ後じさっていた。 「どうだ、呪文よりもお祈りでもしたほうがいいんじゃあないかな、コッペリア」 アルハザードは憎々しげに新たな呪文を唱えはじめた。 「お母さん!」 「ごめんなさい!」 触手たちにからめとられ、がんじがらめにされ、持ち上げられ、面妖な軟体生物の体内に取り込まれそうになったメイドたち…紅梅やデイジーたちも…髪を振り乱して泣き叫んだ。 「死にたくないよぅ…」 と、その時、ブライディーがドレスのスカートの裾を翻らせて、ストーンヘンジの丘を駆け上がってきた。 「ブライディー、逃げろ! 近寄るな! とてもおまえの歯の立つ相手ではない!」 アメーバ状の生物に胸から下を飲み込まれていた紅梅が叫んだ。 「お姉ちゃん、助けて!」 「デイジー!」 ブライディーは手早く両手で印を描くと、ラテン語の呪文を唱えはじめた。 すると、豪雨に混じって、小さな光の粒がキラキラと舞い落ちてきて、それを浴びた化け物たちは、さながら塩を掛けられたナメクジのように溶け始めた。 「なにッ!」 魔導師の皺だらけの顔が大きく引きつった。 (…これは一体どういうわけだ? 話が違うではないか?) アルハザードがテレパシーで尋ねた。 (あの子は占術以外の術はできないはずなのです。それがどうして!) コッペリアも大いに戸惑っていた。 「すいません! コッペリア様、ワイン蔵の古い貴重なワインを何本か割ってしまいました!」 ブライディーは溶け去りゆく化け物たちの中から紅梅やデイジーや、他のメイドたちを引っ張り出しながら叫んだ。 「!」 コッペリアの顔から血の気が引いた。 (おい、あいつは一体何のことを言っているんだ。よく分からぬぞ?) (「グノーシス」 …智慧の文書を見つけ出して読んだようなのです…) (なんじゃと? あの小娘は「読んですぐに理解した」というのか? おまえが何百年もかけて修行してきたというものを?) 「すいません! それで中にあった文書をいくつか、読んでしまいました。本当にすみません!」 ブライディーは重ねて叫んだ。 「へぇー、それでお姉ちゃん、コッペリア様みたいにこんなすごい術を使えるようになったんだ!」 デイジーの表情に輝きが戻った。 「凄いぞ、ブライディー!」 紅梅も、他のメイドたちも互いに助け合いながら立ち上がった。 コッペリアは目尻を下げて肩を落とした。 (アルハザード、悪いけれど、このお話はなかったことにしてくれないかしら?) (なんだと?) 今度は「狂えるアラビアの魔導師」が慌てはじめた。 (おい、いまさらそれはないだろう? 本当の人間になりたくはないのか?) (貴男よりも、あの子に頼ったほうが有望なように思えてきたのよ。そうすれば、メイド仲間も裏切らずに済む。つまり、後味の悪い思いもしなくてすむし…) 一転してジリッジリッとにじり寄りだしたコッペリアをアルハザードは恐ろしい目で睨んだ。 (よく考えるんだコッペリア。いまわしとおまえの連合軍であの小娘をやれば勝てるのではないか?) コッペリアはその言葉を無視してブライディーのほうに走った。 「ブライディー、二人であの凶悪な魔導師を倒しましょう!」 「もちろんです! もちろんですとも、団長!」 ブライディーはコッペリアをかばうように前へ出た。 ブライディーとコッペリアはストーンヘンジの上部に横に渡されている岩を指さした。 すると、岩はまるで飛行船のようにフワッと持ち上がり、ものすごいスピードでアルハザードの真上から落下した。 「!」 アラビアの魔導師は間一髪、飛び退いてよけた。 次の岩も、その次の岩も、アルハザード目がけて落下した。 「莫迦な! コッペリアはともかく、そこの小娘までもがなぜ、こんな高度な術が使えるのだ?」「わたくし、思ったんです…」 ブライディーは答えた。「ここは『本』の中の世界だから、現実の世界とは違って『努力は必ず報いられる』…つまり、わたしが魔法の勉強をしさえすれば、使えるようになるのではないか、と…」 「それは、わしとしたことが、ぬかったな!」 アルハザードは雨に打たれ、泥だらけになりながら歯がみした。「是非もあるまい。出直すことにしよう…」 魔導師の姿は、おぼろになって消えた。 「待て!」 追いかけようとする紅梅をコッペリアが制した。 「コッペリア様、良かったです!」 「ブライディー、有難う!」 走り寄ってきたメイドたちが二人を取り囲んだ。 「さぁさぁ、皆さん、大変な目に遭わせてすみませんでした。風邪を引かないように早くロンドンへ帰りましょう! …その前にブライディー、この岩を元通りにしましょう!」「はい!」 「ロンドン正義メイド団」のお屋敷に帰ってきて、着替えをすませたブライディーは、団長室でコッペリアと向き合っていた。 「ブライディー、どうやらわたくしの正体も気がついたようですね」 コッペリアは、無惨に朽ち果てた姿で飾り棚に戻されたブーリバ隊長を愛おしそうに触りながらつぶやいた。 「はい。コッペリア様は物質でもない霊魂でもない中間の存在なのですね。ワインのボトルの中にあった文書の中に、そのようなことを記したものがありました」 ブライディーは羊皮紙の束を、団長の机の上に返した。 「…かもしれませんね。他にどのようなことを知りましたか?」 「グノーシス派は『智慧は信仰に勝る』と考えておられるとか… …実はわたくし、清浄派すなわちカタリ派(「カタルシス」の…)の完徳者の友人がおりまして… 『肉体は霊魂の牢獄である』などは存じておりました」 「清浄派、ですか… 『この世は堕天使が作った地獄で、堕天使たちは泥をこねてその中に天使の霊魂を閉じこめて、死すべき運命の者にしてしまった』という考えを信じている人々ですね。わたくしたちも『この世は悪魔…偽神…が創世した』と考えています。皮肉なことに『異端』ということではわたくしたちの仲間ですね… 他に『宇宙…神との同化を救いとする』ところや『救いをもたらす究極の智慧は人間の技術ではなく、啓示である』とするところなんかも似ていますが…」 「お願いします、コッペリア様。どうか、わたしを、デイジーとともに元の世界に帰らせてください」 深く頭を下げたブライディーが再び顔を上げると、目の前に一本のワインのボトルが差し出されていた。 「ボトルの中の文書には、『誰もが読むだけで使える魔法』が書いてあるわけではありません。『読むだけで啓示を得ることが出来る者が、使える魔法』が書いてあるのです。つまり、貴女ならば『読むだけで元の世界へと戻れるはず』です…」 「有難うございます…」 ブライディーはうやうやしく瓶を受け取った。 「…しかしデイジーは一緒に帰るつもりがあるかどうか、わたしには分かりません」 「あたし、帰らないよ、お姉ちゃん。もう少しここにいるよ!」 いつのまにか傍らに立っていた小さなメイドさんが言った。「…ここは素晴らしい世界だから、もう少しここにいるよ」 ブライディーはしゃがんでデイジーを抱きしめた。 「身体に気を付けて… そして、いつでも帰ってきてね…」 涙がポロポロとこぼれた。 デイジーもまた、泣いていた。 「さようなら!」 次に霧が白く深く立ちこめた夜「ロンドン正義メイド団」のコッペリアや紅梅、デイジーや他のメイドたちは、斡旋所の玄関に立ってブライディーを見送った。 「元気でね!」 「また遊びに来いよ!」 「お姉ちゃん、ポピーや心霊研究協会の皆さんによろしくね!」 ブライディーは振り返って手を振った。 「さよなら!」 一寸先も見えない霧の中を歩きながら、ブライディーは考えた。 (…おそらく、三十冊を越える人気シリーズ「美剣士ミミ」シリーズのヒロイン・ミミも、新しく始まった「ロンドン正義メイド団」シリーズのヒロインのコッペリアも、もともとは「実体のない、かと言って全く空想でもない」例えるのなら「器だけ」の存在だったのに違いないわ… …きっと、読者のメイドたちの「ああなったらいいな」「こうなったらいいな」という思いが流れ込んで、本の中の世界を形成していたのよ。 だから、作者のサンドマンさんは、存在していない。グノーシス派の魔導師が作り出した架空の人物よ。 「もう現実の世界は嫌! 掃除はいや! 洗濯も嫌! 料理は面倒臭い! 何もかも嫌! そんなもの何もかも放り出して、胸もすくような活躍をしたい」とものすごく強く願う気持ちが「ロビンフッドのメイドのミミ」という「器」を作り出し、「ミミさんはずいぶん昔の人だから」という気持ちがコッペリアさんを作り出した…」 霧が煙のように流れる足下に目をやると、はき慣れた靴と、石畳が途切れ途切れに映った。 (…でも、読者の思いが詰まり詰まったコッペリアさんは「人間になりたい」という度はずれた夢を抱いて、魔が差してしまった。でも… これからはそんな邪念にとらわれることもなく、ミミと同様に立派にスーパー・ヒロインとしての勤めを果たしていかれることでしょう。 コッペリア様を盛り立てる「脇役」が命を落とすことがある、というのは気がかりだけれど、デイジーが選んだ道だし…) 考え事をしながら歩いていると、ドンと何かにぶつかった。 ハッとして目を上げると、目の前にポピーがいた。 「あれっ、ブライディーさん、どうしたんですか!」 ポピーはひどく驚いたように目を見張った。「ポピー、ポピー、良かった! わたし、帰ってこれたのね!」 ブライディーは思わずポピーを抱きしめた。 霧の晴れ間からは、懐かしい「英国心霊研究協会」の屋敷がかいま見られた。 「『帰ってこれた』って、コッペリアと一緒に行かれてから三分…いや、一分とたっていませんよ!」 「ええっ!」 「いましがた、出かけられたばかりですよ! コッペリアはどうしたのですか? デイジーは?」 翌日、ブライディーは「心霊研究協会」の屋敷の食堂で、コナン・ドイルやドッジソン教授、アレイスター・クロウリー、サダルメリク・アルハザード、安倍薫たちに、長い冒険の物語を話した。 「うーむ、面妖な… こんなことが本当にあるのか…」 ドイルはこれまでで一番、眉間に深く皺を寄せながら、パイプの煙を工場の煙突のようにふかした。 「向こうの、本の中の世界で身につけた術の数々は…当たり前ですが…この現実の世界ではまったく使えません…」 「デイジーが心配だ。ぼくの『アリス』は、どれも無事に現実の世界に帰ってきて終わりになっているのに…」 ドッジソン教授も顔を伏せた。 「…そうか、物語の中ではやはり、ぼくは悪役だったか…」 アレイスターは苦笑いを浮かべた。 「ぼくのご先祖様は、期待に違わず極悪非道だったようですね」 サダルメリクは溜息をついた。 そこへポピーが一冊の真新しい本を持って駆け込んできた。 「皆さん『ロンドン正義メイド団』シリーズの第三巻が出ています!」 一同は他の者の頭の上から覗き込むようにして、新刊書をむさぼり読んだ。 「ブライディーが出ているぞ! …がしかし、何だこれは、まるで書き殴りじゃないか!」 と、ドイル。 「デイジーも!」 と、ドッジソン教授。 「コッペリアがみんなを裏切ろうとする下りは、あくまでメイドたちを囮にアブドゥル・アルハザードをおびき出したことになっている…」 と、アレイスター。 「調子のいいやつだ!」 と、サダルメリク。 「デイジー… 無理矢理にでも連れて帰れば良かった…」 ブライディーはまた泣き出しはじめた。 「大丈夫ですよ」 安倍薫だけがニコニコと微笑みながら言った。「デイジーちゃんのことだから、そのうちひょっこりと帰ってきますよ。第三巻のゲスト・キャラクターはブライディーさん、ということもなっていますし、これからは脇役が死ぬ、んじゃなくて、田舎に帰る、というふうになるんじゃあないですか?」 (次のエピソードに続く) KIJISUKE@aol.com