ブライディー・ザ・マジックメイド 「アリスと死の世界」 その頃、ロンドンの上流社会では不思議な絵を描く絵描きの噂が囁かれていた。 クラレンスと名乗るその画家の「天国のありさまを想像して描いた」とされる作品を寝室に掛けて眠ると「夢の中で天国に行ける」というのだ。 もしも能書きの通りの効果があるのなら、こんな結構なことはない。 (「一家に一枚」と言うよりも「家族一人一人に一枚欲しくなるのでは?) (しかし、さぞかし吹っかけられるのでは?) といった憶測は正しい。 クラレンスはせっせとソヴリン金貨をかき集めては、胡散臭い外国に送っていた。 おまけにその絵、特別な絵の具で描かれていて、日に日に色あせていくのに従い、夢の中の天国も購入した当初の鮮やかさを失っていく、らしい。つまり「クラレンスが描く天国の絵」は「消耗品」なのだった。 「高かった…」 金縁の額に入れられて英国心霊協会本部の応接間に仮に掛けられた、美しい花園と池の油絵を見上げて、デュード侯爵がポツリと言った。「…おまけに、ずいぶんと待たされた」 「これが、そうですか…」 あわててパイプの火を消したドイルは、しみじみと見つめた。 色とりどりの花園は印象派のように輪郭を消して描いてあり、池の水面も幾段階もの青や水色が塗り重ねられている。 「わしには道ばたや蚤の市で、二束三文で売られている風景画と変わりないように見えるが…」 老クルックス博士は自慢のヒゲを撫でながら、椅子から立ち上がらずにこちらを見つめていた。 「どなたか、試しにご自分の寝室に掛けてみられるかたはいらっしゃいませんか?」 ウォーレス博士は眼鏡の奥の瞳をしばたたかせた。 「あの、デュード侯爵様ご自身は、どうしてお試しにならないのですか?」 「絵の魔力には使用回数があって、減っていってしまうんでしょ? もったいないです。 もしもご自分が試さないうちに効き目がなくなっちゃったりしたら…」 お茶とお菓子を運んできた大きなメイドさんと、小さなメイドさんの言葉を、侯爵は遮った。 「気味が悪いのだ! …クラレンスの絵を買って寝室に掛けた者は、阿片患者が阿片に魅入られたように、日にちを置かずして、すぐに二枚目の絵の予約している。無論、高価な画料を前払いして、だ。中には三枚目、四枚目を予約している者もいると聞く。金の問題ではない。人をそのような行動に走らせるのは魔力のような気がしてならないのだ」 「だったら、厚かましくて恐縮ですが、わたしにお貸し頂けませんか?」 ドッジソン教授がおずおずと言った。「…この頃どうも病気ばかりしますし『お迎えが近いのでは?』とも思います。『天国の予告編』のようなものがあると言うのなら、一目見ておくのも悪くはないのではないか、と考えます」 「何をおっしゃいますやら、ドッジソン先生」 ウォーレス博士が目を丸くした。「そういうことだったら、このわたくしが『この絵の最も必要性のある人間』ということになりますが…」 「ウォーレス先生は根がお元気なかたですからな。お若い頃から何度も遠くアジアの島々に探検旅行に行かれて… それに比べてわたくしは…」 「健康と寿命とは別物では?」 クルックス博士は軽く咳払いをしてから言った。 「…希望者が複数出たら、クジでも引いて貰おうと思ったが、お一人ならばその必要もあるまい。 ドッジソン先生、どうぞ合点が行くまで、お貸し申し上げましょう」 「有難うございます、デュード侯爵」 「それでは済まんが、約束があるので…」 デュード侯爵は、いつものように最後まで仏頂面を崩さずに出て行った。 「わしも失礼する」 クルックス博士がすぐ後に続き、 「せっかくだから、一口だけ頂いていくよ」 椅子に腰を下ろして文字通り紅茶を一口だけ啜ったウォーレス博士もほどなく辞去した。 ブライディーが玄関まで送りに行った。 (これがねぇ… 『天国』ねぇ… いかにも、っていう感じしかしないけれど…) うるさいお偉がたがいなくなると、デイジーは思い切り額に顔を近づけて穴が開くほどジロジロと眺めた。 「あたしは、同じことだったら遊園地みたいなところのほうが楽しいけれど…」 「ブライディー、ドッジソン教授は今夜からしばらく、この屋敷の客間に泊まられるが、気を付けて差し上げてくれ。去年難儀した『絵の中の恋人を夢の中に現れさせることができる』術と同類の術かもしれない」 教授が手洗いに立った間に、ドイルは小声で言った。 (そう言えば去年はパリで、ローレンスとか言う魔導師の画家が描いた「お兄ちゃん」の絵に、大変な目に遭わされましたわ…) デイジーと二人がかりで「天国の風景画」を、ドッジソン教授が泊まる予定の部屋に運びながらブライディーは思った。 (…ローレンスは仲間に口封じされて亡くなったけれど、同じような術を使う者が復讐に現れたとすれば…) 「ねぇ、お姉ちゃん、もっと考えて持ってよ!」 「ごめんなさい」 大きなメイドさんはニコッと笑って答えたものの、心は胸騒ぎに揺れていた。 クラレンスが描くところの「花園と池」の絵は、手洗いから一番近い客間の、ベッドからよく見える位置の壁に掛けられた。 「ねぇお姉ちゃん、あたしも泊まろうか? この絵、何となく嫌ぁーな予感がするわ」 デイジーは両手のひらをエプロン・ドレスで拭きながら言った。 「ありがとう。でも大丈夫。ポピーもいるし…」 「そうかなぁ… 一度アレイスター・クロウリー様か、サダルメリク・アルハザード君か、安倍薫君か、シスター・セアラ様に見て頂いてからのほうがいいんじゃあない?」 「もっともだけれど、この種類の術は、しっかりとかかってあげないと分からない、かかる前に焼き捨てたりすると、何も分からない、ということもあるから…」 「魔導師のかたがたが『悪いことは言わない。実験なんかするな。ただちに焼き捨てろ!』とか仰ってもそうはいかないわよねー なにしろ高いお金を払っているし…」 デイジーは両手を越しに当て、少し背中をそらせて絵を見上げた。 (ドッジソン教授が心配だわ…) 教授は、夕食を普段と同じくらい平らげた。 「ブライディー、君の料理はいつも絶品だねぇ… 少しだけ読書をして、今夜は早く寝ようかなぁ。デュード侯爵が大枚を払った絵が楽しみだし…」 「ドッジソン先生、ぜひ十分お気を付けください。もしも何か異常が起きましたら、すぐにベッドの横の紐を引いてください。飛んで参ります」 「その時は頼むよ、ホーホー、ミネルヴァのフクロウさん!」 爽やかな乾いた風が吹く夜だった。 デイジーがお義母さんが待つ近所のアパートに帰り、ポピーが眠りについた後、ブライディーはお屋敷じゅうの戸締まりと火の用心をして回った。部屋や壁の蝋燭を消して回り、これからやってくる陰鬱な霧と雨の季節に備えて部屋部屋をじゅうぶんに乾かしておくために、風取りの小さな窓は少し開いておく… 寝間着に着替える前に、ドッジソン教授が泊まっている客間のドアに耳を当ててみた。 しばらく当ててみても、何の気配もしないのをたしかめてから、メイドさんは聞こえるか聞こえないかのノックをして「ドッジソン教授」と囁いた。「…もうお休みになられましたか?」 ドアをほんの少しばかり開いてみた。 寝台の布団が人の形に盛り上がっていて、教授の年輪をきざんだ顔が、安らかそうに目を閉じ、壁に掛けられた絵のほうに向けられているのが見えた。 念のため、燭台の蝋燭の明かりを「天国の絵」の方にも向けてみた。美しい花園と池が、灰色の色調の中に照らし出される… (いくらなんでも、そんなにすぐに何かが起きるわけはないわ…) 燭台を下げようとした時、絵の真ん中あたりに、何か黒い点のようなものが動いたような気がした。 (虫かしら?) そう思ってそぉーっと部屋に入り、改めて蝋燭の絵を照らすと、虫ではなく、黒いフロックコートを来た、やや猫背ぎみの見覚えのある人影が、絵に描かれた森の奥に向かって走っていった。 (ドッジソン教授!) メイドさんは危うく叫びそうになり、あわてて口元を手のひらで押さえた。振り返って寝台を見ると、教授はかすかな寝息をたてて静かに眠っていた。 (でも確かにあれは教授の後ろ姿だったわ!) そう思って絵に手を伸ばしてみた途端、メイドさんの身体はその中に引っ張り込まれた。 気がつくとそこは、色とりどりの花園の真ん中だった。 (ここは? もしかして、あの絵の中?) あたりを見渡すと、キラキラと輝く池があり、森へと続く道も見えていた。 明るい日差しが降り注ぎ、よい陽気だった。 (ローレンスが描いた絵の中からは、恋人が実体を持って現れた。だから、わたしが絵の中に吸い込まれたとしても、不思議ではないかも知れないわ…) 「天国」は予想と期待に違わず、美しく楽しいところだった。 いたるところに清水が湧き出し、小川が流れ、見上げれば美味しそうな果物がたわわに実っていた。 (地獄の食べ物は一口でも食べたら、もう二度と現実の世界には戻れないそうだけれども、ここは天国だから構わないわよね) メイドさんは葡萄の房に手を伸ばし、一粒食べてみた。甘酸っぱい味は、いままで食べたどの葡萄よりも美味で、気がつくと下草に腰を降ろして一房丸ごと食べてしまっていた。(あれっ、わたしは何をしに来たのかしら?…そうよ、ドッジソン先生を捜しに…) 「先生! ドッジソン先生!」 あたりを見渡すと、少し先にドッジソン教授らしきフロックコートを着た人影が見えた。 なぜか、デイジーよりもまだちっちゃい女の子たちと一緒だ。 メイドさんはドレスの裾をつまんで走った。近寄ってみて驚いた。教授とともにいる小さな女の子たちは、みんなルノアールの絵から抜け出たみたいな完璧に可愛い子ばかりだった。 「糸かけ、糸かけ、糸かがり… からころ、からころ、ところてん… かんから、かんから、缶蹴り遊び…」 教授は少女たちの輪に交じって手を繋ぎ、心から楽しそうに歌っていた。 輪は広がり、せばまったり、遊びは永遠に続くかと思えた。 「ぴょんぴょこぴょんぴょんウサギのダンス ぴょこぴょこぴょん ぴょんぴょこぴょん お花のあいだを駆けめぐる 白いウサギに茶色のウサギ ブチウサギ、黒ウサギ…」 ドッジソン教授はメイドさんがいままで見た中で、一番幸せそうな顔をしていた。 (あんなに楽しそうにしておられるのに、呼びかけたりしたら、不機嫌になられるのではないかしら?) そう思えて仕方ないくらいの熱中ぶりだった。 踊りはやがてあやとり遊びに変わった。 少女たちは教授からロンドン端やエッフェル塔を教えて貰って顔を輝かせていた。 あやとりが飽きると、小石を使ってのオハジキ遊びが始まった。それが終わると謎々、その次はしりとり、教授お得意のお話しに聞き耳を立てる少女たち… お腹がすけば果物… (いけない… このまま待っていたら、いつまでも終わらないわ…) そう思って今度こそ声を掛けようとするものの、疲れを知らず、いつにも増して元気に生き生きととしてる教授の姿を見ると、どうしても呼び止めることができなかった。 (もしかして、呼びかける必要はないのかも知れない…) ついに、そんなふうにも思えてきた。 (わたしが絵の外に戻る。朝になったら先生は普通に目を覚まされて『昨夜は久しぶりにとても楽しい夢を見られたよ』と嬉しそうにおっしゃるのでは? 何もここで買わなくてもいい恨みを買わなくても…) 「蛙ぴょこぴょこ お魚すいすい 鳥はぱたぱた 猫にゃんにゃん…」 (だめよ、ブライディー! 本当の天国ならともかく、ここはクラレンスさんとおっしゃるかたが描いた絵の中なのよ。かりそめの世界… こんなところにずっと居続けたりしたら、どんなことになるか分からない…) 決心を固めて一歩歩み出したメイドさんの肩を軽く叩く者がいた。 振り向くと、そこには、いつも「会いたい、会いたい」と思い続けている人の姿があった。 「お兄ちゃん!」 「やぁブライディー、ほったらかしにして悪かった。仕事が忙しかったんだ」 「お兄ちゃん! お兄ちゃん!」 メイドさんは「お兄ちゃん」の胸の中に飛び込んだ。 「もう、アメリカなんかに行かないよね?」 「ああ、幸せに暮らして行くためにはたくさんお金が要る、と思ったのは間違いだったと悟ったよ」 「有難うお兄ちゃん! もうどこにも行かないよね!」 ブライディーはもう一度「お兄ちゃん」をきつく抱きしめた。 「花嫁さん、花嫁さん… 天国の花嫁さん… お花がいっぱい夢いっぱい… 虹がかかって小鳥が歌う…」 気がつくと、少女たちとドッジソン教授が二人を輪で囲っていた。 「有難うみんな! 有難う先生!」 うれし涙を流すメイドさんを、どこからかから邪悪な瞳が眺めていた。 「『人は幸福のみにて生きる者にあらず』…愚弟ローレンスの仇、いまこそ晴らさせてもらうぞ…」 「いやあ、ぼくはいまのいままで、年を取ることは辛く寂しく哀しいことだとばかり思っていたけれど、天国がこんなに楽しいものだとは…」 この世のものとは思えないくらい可愛らしい、エプロン・ドレスの小さな女の子たちと手を繋いで踊るドッジソン教授は、至福の表情で言った。 「天使は薄物なんか着てないわ。 天使は羽根なんか生えてない。 天使はエプロン・ドレスを着ているの。 天使はリボンをしているの。 赤、黄、青、色とりどりのリボンをしているの…」 メイドさんも「お兄ちゃん」の胸に埋もれたまま、幸せを満喫していた。 「わたしたちはまだ若いから、こんなふうになるまでは、結婚して、何十年もしてからでないと無理なのかしら?」 「その前に、現世で幸せな家庭を築きたいものだね」 「お兄ちゃん」は快活に言った。 「そうね。子供もたくさん欲しいし…」 メイドさんは顔を赤らめる。「…ところで、天国に行ったら、年取って召された、としても若返れるのかな? わたしたち、こうして若いまま、いま『お試し』の天国にいるみたいだけれど…」 「そりゃあそうだろう」 『お兄ちゃん』は首をかしげた。「…でないと、年取って、身体が不自由になったまま天国に来てもつまらないだろうしな」 二人の会話を聞いていたドッジソン教授は、ハッとしてダンスの足を止めた。 「そうだ! ぼくは年をとっているが、ここが天国だとしたら、若返りたいと思えば若返れるはずだ!」 すると、不思議なことに、顔や手の皺はなくなり、背筋はしゃんとして、髪の毛は黒く最新の若者の髪型になった。 「そうそう、天国にお年寄りは似合わない!」 「お年寄りの姿のままを選ぶ人もいるけれど…」 「ドッジソン先生は若いほうがカッコいいよ!」 少女たちは口々に囃したてた。 「そうかい? そりゃあそうだろうね。…ところでみんな、『年取っているほうが喜ばれるもの』ってなぁんだ?」 教授が片目をつむって問いかけると、少女たちはリボンを揺らせて考え込んだ。 やがて、一人が意を決して手を挙げた。 「王様!」 「どうして王様なんだい?」 「だって、白く長いおひげがないと、王様じゃあない感じがする」 「そうだ! 王様だ! 王様だ!」 「王様の白いおひげ、中から二十日鼠が現れた!」 「小人たちが顔を出す!」 少女たちは背をかがめ、膝を折って輪を描いて踊り始めた。 「王様だって、若くてカッコいいほうがいいんじゃないかい?」 輪の真ん中で教授は男性のバレエ・ダンサーのようにくるりと一回転してみせた。「そぉんな理由だったら、魔法使いのほうがよっぽど尊敬されると思うけどなぁ…」 「魔法使いのお爺さん…」 「魔法で若くなったけど…」 「魔法を全部忘れちゃう…」 「ただの若者になったとさ…」 みんなが騒いでいるなか、メイドさんは立ち上がって両手でメガホンを作って叫んだ。 「みんな、答えは『ウイスキー』よ! ウイスキーは、古いものほど値段が高いでしょう?」 「だめだよブライディー、大きな君が答えちゃあ…」 教授は節をつけて言った。 「あら、小さい子たちにこの答えはちょっと無理。わたしが答えてあげないと…」 メイドさんも節をつけて応じた。 「邪魔邪魔、君には『お兄ちゃん』がいるだろう? あっちの麦畑でいいことしておいで!」 「そうだそうだ、しておいで!」 「お兄ちゃんとお姉ちゃん、いいことしておいで!」 若い二人は赤らめた顔を見合わせた。 「でも、天国でそんなことをしたら、神様や天使に怒られるのでは?」 「バカ言え! 審判のふるいにかけられて残ったからこそ、ここにいるんだろう? 二回も最後の審判をする神様なんか、聞いたことないぞ」 「お兄ちゃん」は笑いながら言った。 「そうね! そうよね!」 手を繋いで駆け出したメイドさんだったが、ハッと気がついて立ち止まった。 「そうだ… 教授のことが…」 「だからぁ、天国で果たさなければならない仕事なんかないってば…」 眉をひそめる「お兄ちゃん」の手を振りほどいて、ブライディーは駆け戻った。 教授と、少女たちの姿は忽然と消えていた。 (おかしいわ。目を覚まされて現実の世界に戻られたのかしら? …でも、あんなに喜ばれていたのだから、ご自分で『これは夢だ。夢なんだ』と疑われるというのも考えにくいし…) 辺りを見渡すと、小高い緑の丘の斜面に、フライパンくらいのウサギの穴がいくつもいくつも開いていた。 (さてはこの中かしら?) そう思ってそのうちの一つを覗くと、果たして、どれかの穴から少女たちの歌声が響いてきた。 「ウサギの穴だよ ウサギの穴だ 穴だと言ったら穴なのよ 入り口たくさん 出口もたくさん 入り口と出口は一緒だもん だから数も一緒なの 中はこんがらがって 入り組んでて 誰にも 誰にも分からない ウサギさんにもわからない」 と、ドッジソン教授の歌声も聞こえてきた。 「通った道にし印をつけろ! 出入りした入り口にも印をつけろ! それぞれみんな違った印にしておかないと、 同じ印だらけになっちゃって それこそ訳が分からない…」 (教授!でもどうして大人の教授がこの穴に入り込めたのかしら?) メイドさんは首をかしげた。自分が入ろうとすると、頭が入っても肩はくぐれない… 「ちっちゃい子供ははいれるよ ちっちゃかったらはいれるよ」 (そうだ。ここは「天国」なのだから、善き願いは願うだけでそうなるのに違いないわ!) 心を静かにして、静かに念じた。 「デイジーよりもずっと小さなわたしになぁれ!」 すると、不思議なことに身体がメイドのお仕着せとともに半分ほどに縮んで、半分くらいの背丈になった。 (さぁて、これでくぐれるわよ!) 「ウサギの迷路は難しい モグラの迷路も難しい…」 歌が囃したてるものの、小さなメイドとなったブライディーは落ち着いていた。 「エヘン、こっちにはこれがあるものね」 懐からダウジングの棒を取りだして「最初に入るべき穴」を占った。 「そんなのずるいよ反則だ! 迷路は迷うためにあるんだよ」 歌にも構わず、メイドさんは顔と髪とエプロンドレスを土だらけにしながら、腹這いでずんずんと先へ進んだ。 (きっと教授も小さな男の子になっておられるはずよ! 間違わないようにしなければ!) 出口の明かりが小さな点となって見えてきた。小さな人影が待っている… 「ドッジソン先生! …じゃあなかったドッジソン君!」 ところが待っていたのは、小さくなった「お兄ちゃん」だった。 「だめじゃないか、ブライディー! また怖ぁいシスターの先生に怒られるよ!」 「お兄ちゃん! 大丈夫だよ! 院長先生かセアラ様だったら見て見ぬふりをなさってくださるわ!」 遠くからまた、小さい子供たちの囃したてる声が聞こえてきた。 「フリフリのフリルのついたエプロンドレスが泥だらけ」 「お顔も髪も泥だらけ…」 (ちょっと待って! くどいようだけれど、ここは天国のはず。汚れ物なんか、願うだけできれいになるはずよ!) 小さな小さなメイドさんが目を閉じて、しばらくして再び開くと、エプロンドレスも顔もきれいになっていた。 「ほらね?」 「すごいよ! だったら早速木登りでもしようよ、ブライディー。木の枝で服を破いたって、またすぐ元にもどるはずだよ」 「お兄ちゃん」はそう言うなり、近くの大きな木の幹に登り始めた。 「ちょっと待ってよ。わたし、用事があるんだけれど…」 「だからぁ、天国でやらなければならない用事なんて、あるものか!」 「お兄ちゃん」は下のほうの枝から順に足がかりにして、ずいぶん高いところまで登っていた。 「人を捜さなければならないの!」 「だったら、高いところに登ったほうが見つけられるんじゃあないかい?」 「もう!」 小さな小さなメイドさんは意地になって「お兄ちゃん」の後を追いかけて登りはじめた。 「おい、ブライディー気を付けろ。下から見たら丸見えだぞぉ…」 ブライディーは慌ててスカートの裾を気にしたが、下には誰もいなかった。 「お兄ちゃん」は木のてっぺん近くの枝に腰を下ろして、遠くを眺めていた。 ようやく登ってきたブライディーが、肩によりかかるようにして同じように眺めると、緑の野原と、ところどころにある花畑と池、点々とある農家や池が見えた。 「天国とは、こういうところだったね… これだったら、生身のわたしにいつ万一のことがあっても安心ね。一年じゅう、アイルランドの春か初夏みたいなところなのね… ところで、神様はどこにいらっしゃるのかしら?」 「ここは神様の御国で、悪いことをする人なんかいないから、よっぽどのことがない限り、お出ましにはならないんだよ」 「そ、そうかなぁ… じゃあ、教会はどこにあるの?」 「だからぁ、教会なんかある必要がないんだってば」 「お兄ちゃん」は面倒臭そうに答えた。 「そうだ! ここが天国だったら、わたしのお父さんとお母さんに会いたいわ!」 「それはもっともだ。ぼくの親父は飲んだくれで、いつもおふくろを殴ってばかりいたし、おふくろは泣いて愚痴ばかりこぼしていたから、会いたいとは思わないし、例え思ってもここにはいないだろうから会えないだろうけれど、君のご両親はとても優しい人たちだったからね」 そんなことを話し合っていると、人が乗ることができる籠をぶら下げた、大きな黄色い気球がふわふわと飛んできた。 気球の下には猫くらいの大きさの火吹きトカゲがいて、たえず炎を吐き、それを強よめたり弱めたり、向きを変えることで高度や方向を操っていた。 「へい、お待ち! おいらはここ天国の辻馬車…ならぬ辻気球だよ。どこでも行きたいところがあったら言ってくれよ!」 メイドさんは「お兄ちゃん」に手を貸してもらいながら気球に乗り込んだ。 「ブライディー、行ってきなよ! ぼくはいつでもこのあたりにいるからさ!」 「で、お嬢さん、どちらまで?」 火吹きトカゲが急かす。 ブライディーは大いに悩んだ。 (せっかく生きながら天国に来たんだから… …でもドッジソン教授を捜さなくてはいけないし…) 「天国じゃあ時間はたたないから、本当にやりたいことからしたらどうだい?」 トカゲが言った。 「本当?」 「本当だよ。現に君はちっちゃくなっているだろう? もしも大きくなったら、またちっちゃくなるように願えばいいんだ」 「そうかぁ… じゃあ、わたしのお父さんとお母さんがいるところをお願いね」 「合点だ!」 トカゲが威勢良く火を噴くと、黄色い気球はふわふわと木のてっぺんを離れ、眼下に広がる景色を見下ろしながら飛行を続けた。 「あの… 運賃はどれくらいなのでしょうか?」 小銭入れしか持ってきていないことに気がついて、メイドさんは慌てた。 「タダだよ! 天国でお金のいることなんてあるものか! 食べるものも家賃も、そのほかあらゆることがみんなタダ! 『富める者も貧しき者も…』と述べられているのはそのせいさ。だから、お金も預金通帳もないし、請求書も領収書も税務署もないんだよー」 気球はときどき吹いてくるそよ風に揺れながら、ふわりふわりと飛行を続けた。 「おいらは飛行船屋…」 安定飛行に入ると、トカゲは火を噴くのを休めて歌を歌いはじめた。 「…雨の日は休み。 でも天国じゃあ、誰かがそう望まない限り降らないけれどね。 ふんわりふわふわ お届けするぜ…」 地上の風景がブライディーにとって、とても懐かしいものに変わってきた。 アイルランドの、海岸に近い鄙びた村… 懐かしい小さな家が見えてきた。 気球が近づくと、家の中から小さな黒い人影が走って出てきた。 ちっちゃなメイドさんは気球が完全に着地するのを待ちかねて、籠から飛び降りた。 「お父さん! お母さん!」 「ブライディー、妙に来るのが早いじゃないか! まさか!」 てっきり(喜んでくれる)と思っていたブライディーは戸惑った。 「いいえ、違うんです、お父さん! お母さん! わたし、とあるかたをお守りするために、生きたままここに来たんです!」 「何だって!」 両親の顔色が変わった。 「するとおまえは神様のお許しがないのに、勝手に来たのかい?」 「え、ええ…」 「そりゃあ大変だ! 守らなければならない人も生きたまま来たのなら、早くその人を連れて現世に戻るんだ!」 父親は険しい表情で言った。 「えっ?」 「神様のお許しなく勝手に来た者は…」 あとは恐ろしい言葉が続いた。 ブライディー・ザ・マジックメイド(412) 「アリスと死の世界」(七) 「お父さん、お母さん、ごめんなさい!」 メイドさんはペコリと頭を下げると、火吹きトカゲの待っている黄色い気球に戻った。「おや、ずいぶん早いんだな。もういいのかい?」 「え、ええ。お願いだから元の場所に戻って! ある人を捜さなくてはならないの!」 「いいけど、尋ね人って誰だい? まさか生きたまま来ている人間じゃあないだろうな?」 トカゲはとも綱を解きながら尋ねた。 「実はそうなの」 「なんだって! この頃魔導師が描いた絵の中に入り込み、日帰りで天国にやってくる連中がやけに多い、と思ったらあんたもその口かい?」 トカゲはのけぞり、目玉を飛び出させた。 メイドさんは黙ってうなだれた。 「あのなお嬢ちゃん、神様の許可なしに勝手にに天国に来た者は、ある一定の時間がたつと消えてしまうんだ。さっき『天国では時間はたたない』と言ったのは、あくまで『召されて来た人』のことだ。勝手に来た者は現世のように時間がカウントされて、タイムアップすると、消えて元の現世に戻ってしまう」 「なんだ。それくらいだったらいいじゃない」 「よかぁない!」 トカゲはまた目を剥いた。 「一度天国で消え去った者は、現世に戻って、年老いて寿命が尽きたとき、決して天国に来ることはできないんだ!」 気球は再びフワリと空に舞い上がった。 「えっ、ということは地獄に…」 「行ければいいんだが… お仲間がいっぱいいて退屈しないからな。だが、地獄にも行けない。『無になって完全に消滅』するんだ」 「それって怖いことなの?」 「怖いなんてもんじゃない。神様からは完全に切り離され、悪魔からもかまって貰えず、文字通り消滅するんだ。つまり、生前極悪非道だった人間でさえ、地獄で神様を恨むなり呪うなり、現世の者に祟るなり化けて出るなりして結構面白おかしく過ごせるというのに、消滅したらそれすらできない。つまり、『救いようのない殺人鬼』よりも厳しい罰が下される」 メイドさんは震え上がった。 『地獄よりもまだ悪い』 『完全に消滅』などの言葉が頭の中をぐるぐると駆けめぐった。 (早く、早くドッジソン教授を連れて、夢の中から現実に戻らなくては…) 少年に戻った教授はすぐに見つかった。 (さすが天国! 願いがすぐに叶うというのはいいところね!) 着地した気球の籠から飛び降りると、ブライディーはまっしぐらに、少女たちと戯れている教授のそばまで走った。 「先生、ドッジソン先生!」 「おやぁ、ブライディー、君もちっちゃくなったのか? やっぱり誰でも年を取っているよりは若いほうがいいのかなぁ… 女性は特にそうかもね」 夢中になって遊んでいたところを邪魔された教授は、案の定少しご機嫌が悪くなったように見えた。 「教授、大変なの!」 メイドさんはたどたどしい言葉で、両親から教えて貰ったこの世界の陥穽ことを話した。 「大変だー 大変だー 天国の『大変』はどんな『大変』?」 ちっちゃな、お人形のように可愛い女の子たちはまた囃したてた。 「…分かった、ブライディー、君の警告の内容はよく分かったよ」 小学生の、おませな上着を着たドッジソンは、ボーイソプラノで答えた。「…だけど、ぼくは消えても構わない!」 「ええっ!」 「いま、こうやっていることがとても楽しければ、現実の世界で寿命が尽きて死んだとき、完全に消滅しても悔いはない!」 「ど・う・し・て?」 「だってさ。ここは魔導師の画家クラレンスが作り出したお芝居の描き割りの天国だろう? そんなまやかしの天国のルールが、本物の神様の救いを凌駕できるはずがないじゃないか? こけ脅しだよ、こけ脅し! ぼくらはじゅうぶんこの幻の世界で遊んでいていいんだよ。クラレンスは、きっとここでぼくらを無理矢理タイムアップさせて、『ぼくらが実際に死ぬまで』『本当に天国には行けなくなったと思わせて』苦しめさいなむつもりなんだ。ぼくは老い先短いから、悩む時間は短い。実際に死ねばどうなるのか、もうすぐ分かるからね。だけどブライディー、君は現実の世界でも若いから、この先ずっと悩み苦しむことになる。確かめたくても実際に死ぬまでは確かめられない、っていう寸法さ。それこそが魔導師画家クラレンスの『術』の正体さ! だから、帰りたければ君だけ帰ればいい! ぼくは止めない。だから、君もぼくのことを止めないでくれ!」 「そんな… そういうふうに仰られると脅かしかもしれないとは思いますけれど、万々一本当だった時に困ります!」 小さなブライディーは、少年に戻ったドッジソン教授の上着の裾を引っ張った。 「万々一ってどんなこと? 蟻の穴から堤大二郎 仏の顔もサンダーバード 飛んで飛んで飛んでイスタンブール 明日は今日の次の日のジョー 死んだらどうなるえの世界…」 少女たちが歌い始めた。 (教授…じゃなかった、ドッジソン君の言うことも一理も二理もあるわ。まず、この天国の人の数。教会では「悔い改めれば誰でも天国に入れる」と教えているのに、ロンドンのような都会はもとより、地方の村に比べてもほとんど人がいなくて、閑散としているのはどうして? デュード侯爵によると、クラレンスの絵を買った人は結構多い、というのに、その人たちに出会わないというのは? その絵を買えるはずのない「お兄ちゃん」に出会っているのはなぜ?) メイドさんが考えていると、小さなドッジソンがステッキの先から花束を出しながら近づいてきた。 「クラレンスの絵の中の天国は、だんだん効き目がなくなるんだろう? そんな天国どこにある? クラレンスの目的はあくまでお金、お金だけなのさ。この天国にお金のようなものがまったくないのは『お客さん』にそのことを思い出させないためでもある。…ここは究極の遊園地。どうせ朝になって目が覚めたら元に戻るんだから、払ったお金の分だけ遊ばないと損損さ!」 「そ、そうかなぁ…」 小さなブライディーが思わず人差し指を舐めようとすると、色とりどりのつぶつぶがパラパラパラっと降ってきた。 「キャーッ!」 思わず頭を押さえかけた少女たちが恐る恐るそのうちの一つを舐めてみると、もの凄く美味しいキャンディーだった。 「雨雨降れ降れキャンディーの ついでにお菓子もケーキも ケーキは地上にぶつかって クリームが飛び散らないように ゆっくりふわふわ綿毛のように ちゃんと砂糖漬けのサクランボのほうを上にして マロングラッセを上にして 干したアンズを上にして お皿に乗って、小さな銀のフォーク付きで落ちてきて!」 少女たちが歌うと、ロンドンの盛り場のケーキ屋さんに並んでいるようなショート・ケーキがふわふわと舞い降りてきた。 「でもでも、やっぱり怪しいと思うようなところに居続けるのは良くないような…」 「だから、そう思うのだったら君だけ帰りたまえよ! 君のイメージしている天国が、どんなところか知らないけれど、それがこんなにハッキリと具現化したことなんかないだろう?」 小さなドッジソンが目の前の空間をひと撫ですると、真っ白いテーブル・クロスを掛けた十何人掛けの細長いテーブルと、人数分の椅子が現れた。 テーブルの上には花柄のお茶碗のセットが乗っていて、紅茶のポットからは淹れたてのダージリンの香りが立ち上っていた。 少女たちは思い思いに席に着くと、お祈りをしてケーキを食べ始めた。 その美味しそうなことと言ったら! 小さなブライディーも思わず野いちごのジャムのかかったケーキを受け止めると、空いている席に座って食べた。 「みんな可愛いね。…そうだ、写真だ! 写真を撮ってあげよう!」 次の瞬間、小さなドッジソンの傍らに三脚の上に乗った最新式の写真機が現れた。 レンズが向けられると、小さなブライディーも他の子たちとともにポーズをとっていた。「ちょっと待って! みんな唇にクリームが…」 メイドさんがみんなの手元に手鏡を望むとすぐに現れた。 「あー、そのまま、そのまま、そのままのほうが可愛いよ!」 踏み台の上に乗って暗幕をかぶった小さなドッジソンがレンズキャップを外した。 (おかしいな… 何かを考えようとしているのだけれど、なかなか考えられない。考えがまとまらないわ… そう… 天国にも地獄にも行けない人の魂はどうなるのかしら? そのまま黄昏の国を漂い続ける? それとも何者かが集めているんだったっけ?) 小さなブライディーは、だんだんと自分が自分でなくなって、いっぱいいる女の子たちの中に埋没していくような感じがしていた。「そうだみんな! ちょっと暑くなってきたから、少し休んでから水浴びでもしないかい?」 「わーい、水浴び! 水浴び!」 少女たちははしゃいだが、小さなブライディーはぼんやりとぼやけていく頭の中で (ダメっ!) と叫んでいた。(確か、お噂に聞いたところによると、ドッジソン教授は小さな女の子たちの水浴びの写真をたくさん写したけれど、保護者のかたに怒られて、みんな燃やされてしまったとか… 今度もし同じことをしてしまったら…) 小さな女の子たちは次々にエプロンドレスとドレスを脱ぎ、スリップも脱ぎ、ペチコートもドロワーズも脱いで岸辺のテーブルくらいの大きさの岩の上に並べて置いて、胸を髪の毛で隠し、キャッキャとはしゃぎながら小川の中に入った。 ドッジソンは彼女たちに向けてしきりに写真機のレンズを向けて撮影していた。 年老いた教授が写していたのなら、まだそんな感じは少なかっただろうが、若返った彼がそうしていると、天国であるにもかかわらずブライディーは嫌らしい感じを受けた。 けれど少女たちはまったく頓着していない。水を掛け合って遊んだり、泳いだり潜ったり、文字通り天使のように遊んでいた。 「もうちょっと向こうのほうに行くと、川幅も広いから、競泳もできるよ」 誰かが叫び、少女たちはゆっくりと川の中の移動を始めた。 「みんなー 川幅が広くなると、深さも深くなって危ないからだめよ!」 人数分のドレスや下着を山のように抱えた小さなメイドさんは、川岸を追って走りながら言った。 「バカだなぁ、ブライディー、ここは天国なんだよ! 決して溺れたりしないし、まして命を失ったりするものか! 一度召されて天国に来ている者が、再び召される、なんておかしなことだろう?」 小さなドッジソンも、三脚に付けた写真機を肩に背負い、息を弾ませながら反対側の川岸を走って追いかける。 川幅は急に広く大きく、サッカー場の幅くらいに広がった。真ん中あたりでは流れが作り出す渦が渦巻いている。 「みんなー 早く上がってらっしゃい! 本当に危ないわよ!」 ドレスの束を投げ出したブライディーは、両手でメガホンを作って叫んだ。 「大丈夫 大丈夫 すいすいすい お魚みたいにすいすいすい ここは天国すいすいすい みんな泳げる すいすいすい」 女の子たちは時おり胸の小さな桜色の蕾や、白い磁器のようなお尻を水面から現しながら歌い泳いだ。 「みんないいよー ものすごく可愛いよ」 小さなドッジソンは大層興奮しながら写真を写し続けていた。 と、急に中央の渦が大きくなったかと思うと、二、三人の少女たちが飲み込まれた。 「キャー!」 「助けて!」 ボーッとしかけていた頭がいっぺんに醒めた。 小さなメイドさんは素早くドレスを脱いで肌着姿になると、頭から川に飛び込んだ。 「他のみんなは早く岸に上がって!」 大声で怒鳴ると、少女たちは怯えきった表情で岸に上がった。 小さなドッジソンはどうしていいか分からずに、ただおろおろしている。 ブライディーは一際大きく息を吸い込むと、波に呑まれ沈んでしまった子たちを追って川底に向かった。 潜って驚いたのは、ついそこまで小川だったというのに、まるで外海みたいに底なしの深さだった。 目をこらすと、一人、二人、真っ逆さまに底に向かって沈み続けているちっちやな人影が見えた。 意を決し、水を蹴って追いつき、ようやくぐったりしている一人を捕まえた。 さらにもう一人、沈み続けている子がいたが、もうとても余裕がなかった。 とりあえずその一人だけを抱えて水面に浮かび上がり、岸に上がった。 「ルーシー!」 「ルーシーは大丈夫?」 裸のままの少女たちが心配そうに駈け寄ってきた。小さなドッジソンもここへきてようやく事の重大性を悟ったのか、まっ青な表情で彼女たちの後ろから覗き込んでいた。 ブライディーはルーシーの唇に口を付け、懸命に人工呼吸を始めた。 二度、三度、四度… ルーシーは息を吹き返さない。 「おかしいな… ここは天国のはずなんだけれどな… 願いは何でもかなうはずなんだけれどな…」 小さなドッジソンは呟いた。 「ごめんなさい!」 メイドさんはついに顔をそむけた。 「ブライディー、ルーシーはどうなったの?」 「ミリーもいないけれど?」 「みんな、ルーシーに服を着せてあげて」 「どうしてルーシーは目を覚まさないの? まだこんな明るいのに? 長いお昼寝なのかな?」 「そうだ、おかしい! おかしい!」 「みんなよく聞いて! ルーシーもミリーも死んだのよ! つまり、ここは本当の天国じゃあないの! 何者かが幻術で作り上げた偽物の天国なの! みんながどこからやって来たか知らないけれど、ここで軽はずみなことをして命を落とすと、たぶん元の現実の世界でも、永遠に目を覚ませなくなるのよ!」 「知らなかったんだ! 本当に知らなかったんだ! ごめんなさい…」 小さなドッジソンは膝をついて泣き出した。「さぁ、ドッジソンさん、これでよく分かったでしょう? 早くここから逃げましょう! どうしたら元の世界に帰れるのか知らないけれど、とにかくここに居続けていてはいけないわ…」 小さなメイドさんが差し伸べた手を少年は払いのけた。 「嫌だ! 君が言うこと…ここがどういうところかはよく理解できた。だからこそ、ここにもう少し、いや、できることだったらずっと居続けたい」 彼はそう言うなりまた駆け出した。 「待ってください、ドッジソンさん!」 追いかけようとした小さなメイドさんのドレスに少女たちが群がった。 「ねぇブライディーどうしよう?」 「ルーシーはどうしたらいい?」 「ミリーは浮かんでこないの…」 「神様にお願いしてみようか?」 ブライディーがちらと目をやると、少女たちはルーシーの亡骸の上に、いっぱい花を飾っていた。 (このままにはしておけないわ。ちゃんと埋めてあげて、お墓もつくってあげないと。…天国にお墓があるなんておかしいけれど、仕方ないわ。ミリーだって、探してあげないと…」 けれども(スコップが欲しい)と願うと、少女たちの人数分の小さなスコップが現れた。 メイドさんがまた肌着姿のまま川に潜ると、何度目かに変わり果てた姿になったミリーを引き揚げることができた。 少女たちは仲間を葬り、改めて花をいっぱいに飾り、神に祈った。 「ブライディー、本当にこれでいいの? もしも神様があたしたちのお願いを聞き届けてルーシーとミリーを生き返らせて下さったら、こんなに土をかぶせてしまったら起きあがれないよ」 「二人は死んで、どこに行ったの?」 小さなメイドさんはしばらく考えてから答えた。 「二人は、本当の神様がいらっしゃる、本当の天国に行ったのよ」 「『本当の天国』?」 「ここは本当の天国じゃあなかったの?」 「これだけ願ったことはかなうというのに…」 女の子たちはすがるような目で見つめた。「…みんなも、もしどこからからやって来ているのなら、早くお家へ帰るのよ。そうでないと…」 ブライディーは見つめ返しながら言った。「『そうでないと』…」 「一体どうなるの?」 「ごめんね、みんな! わたし、ドッジソン君のところに行かなければならないの…」 メイドさんは引き留め続ける子たちを振り切って、もう後ろは振り返らずに走り出した。 「ドッジソンさーん! お兄ちゃーん! 火吹きトカゲさーん!」 懸命に呼びかけると、黄色い気球がフワフワと飛んできた。 「へい、お待ち。今度はどちらまで?」 「何度も呼び付けてごめんね。ドッジソンさんを探して欲しいの」 小さなメイドさんは教授の趣味を説明した。 「ふーむ。それだったら『アリスたちの天国』にいる可能性が強いな」 トカゲは火を噴いて気球を上昇させながら言った。 「『アリスたちの天国』?」 「ちっちゃい、可愛らしい少女たちがいっぱいいる国さ。男性は国王が一人だけ、そんな国がいっぱいあるのさ。ほら、見えてきた!」 水かきのついた指の先を見ると、欧州の中世の城塞都市のような城壁に囲まれた街が、いくつもいくつも、地平線が続く限り何十何百、もしかしたら何千と果てしなく続いていた。 「こんなにたくさん!」 ブライディーは呆れかえって叫んだ。「神様は無制限にお許しになられているの?」 嫌でも胡散臭さが増す。 「…ここは天国だからねぇ…」 トカゲは溜息まじりに答えた。「…ちなみに、もちろん、美少年ばかりの国もあるよ」 「ええーっ!」 「行ってみる?」 「いえいえ…」 「さてと、いかに天国だとは言え、特定の誰かの居場所を探すのは難しいんだよなぁ、これが…」 「それは大丈夫です!」 小さなブライディーは、懐からダウジングの棒を取りだして胸を張った。 「なんと! 君は魔法使いだったのか?」 火吹きトカゲはのけぞってまたまた両方の目玉を飛び出させたが、小さなメイドさんは構わずに棒を構えて目を閉じ、占いを続けた。「…このあたりじゃあないわ。もっと、もっと先に行って!」 「了解。飛ばしていいかい?」 「ええ」 トカゲはぬめぬめとした胸と腹をプウーと膨らませたかと思うと、景気よく火を吐いた。 黄色い気球はビューンと大きく風を切って飛び続けた。 ブライディーが占いを止めて、目を細く開くと、赤い色の気球や、青、紫、空色、白、縞模様、水玉模様の気球とすれ違った。気球の形も普通の球形だったり、枕型だったり、ラグビー・ボール型だったり、魚型だったりした。大きさも二人乗りのような小さなものから、十数人は乗れそうな大きな客室をぶら下げたものもあった。 「気球はたくさんあるのね」 「ああ。天国はもの凄く広いから、鉄道なんかじゃあ目的の場所まで行くのに何日もかかってしまうんだよ。大きな海のところは船もあるけれど、移動はもっぱら気球か飛行船だね」 (じゃあ、クラレンスの天国の絵の中を毎晩訪れている人たちは、広い場所に点々と散らばっている、のかもしれないわね。…でも、この天国でも『死』がある、ということは、魂は絵の中に入ったまま、ベッドで亡くなってしまう、ということもあり得る、ということだわ。つまり、この世界は間違いなく高度な幻術によって築かれたもの。とりあえず早くドッジソン教授を見つけて連れ戻さなければ…」 気球はいくつもの「アリスたちの天国」の上を飛び越えた。 「あの、『アリスたちの天国』がある、ということは『美少年ばかりの天国』もあるの?」 「あるある。『もっと成熟した大人の男女の社交』が楽しめる天国もあるし、『いつも戦争ばかりしている軍人たちの天国』もあるよ。 でもやっぱりなんだかんだ言っても『アリスたちの天国』は人気があるんだ。『セレブで超豪華なお金持ちたちの天国』といい勝負かな? とにかく『本人は死んでいる』ということになっているから、少女たちの親から訴えられることもなく、借金を返す必要もなく、やりたい放題さ」 「でもわたし、さっき、この世界で川で溺れて息を引き取った子を葬ってきたんだけれど…」 「ああ、それはたぶん、不治の病気の娘さんを持ったご両親が『天国とはこんなきれいなところだよ』と安心させるために、絵を買って上げたんだよ」 「じゃあ、その絵を見ているうちに亡くなったその子は、やっぱり消滅?」 「ああ、かわいそうだけれども…」 「『軍人の天国』で戦死しても、消滅するの?」 「いや、そこでは『本人には決して弾丸が当たらない』ことになっているから、よほどのことがない限り大丈夫だ」 小さなメイドさんは気を取り直して、もう一度棒を掲げて占った。 「…速度を落としてください… そろそろと…」 トカゲの火加減が上手なのか、気球は一度もガクガクと激しく揺れることなく、じょじょに速度を落とし、ゆっくりと、城を見上げる城下町の広場に着陸した。 すると、たちまちエプロンドレスの小さな可愛い女の子たちがわらわらと走り寄ってきた。 「わぁー お客さんだ! お客さん!」 「お客さんもかわいい子!」 「お客さんはお城へ!」 「国王陛下にご挨拶するのがしきたりよ!」 少女たちはブライディーの回りを取り囲んで、半ば押しくらまんじゅうするように城へと連れて行った。衛兵も、小さな女の子がおもちゃ(と思われる)小さな槍を持って立っていた。 「やぁブライディー、一体何をしに来たんだい?」 数人の、飛びきりかわいい女の子たちに取り囲まれ、玉座に座ったたドッジソン少年は、困惑した表情で尋ねた。「君は『お兄ちゃん』と幸せに暮らす天国』で、あんなことやこんなことをして過ごせばいいんだ。 『迷惑だから訪ねてこないでくれ』と言わなかったかなぁ…」 「教授! いえ、ドッジソン君、こんなところに長居をしてはいけないわ」 小さなメイドさんは必死で訴えた。「変でしょう? おかしいでしょう? どう考えても?」 「いや、おかしいことはない」 小さなドッジソンはメイドさんがいままで見たことのない自信をたたえて言った。 「そうよおかしいことはない おかしいことなんかないわ…」 可愛い少女たちが横一列に並んで白いレースのペチコートのフリルをフリフリさせて踊った。 「お菓子がおいしい おかしいくらいオイシイ…」 「神様はぼくらに『天国では何でも夢を叶えてあげる』と言う。 ぼくの夢はかわいいちっちゃな女の子たちに囲まれて、毎日面白おかしく暮らすことだ。 いま、ぼくはここでそのようにしている。 ぼくだけではなく、ぼくのように願うものには一つずつのお城が与えられるみたいだ。 それぞれのお城にはアリスたちがいて…」「そうよ、アリスがいっぱいいて…」 「あの子もアリス、この子もアリス…」 「オーストラリアは人の数より羊の数のほうが多い!」 「『アリスの国』では、他の誰よりもアリスが多い!」 「だから、アリスがいっぱいいるの…」 少女たちがまた踊り始めた。 「邪魔するヤツは、首をちょん切るぞ!」 小さな教授がステッキを振りかざした。 「お酒のみがお酒の海に浮かんでる そんな天国あるかしら?」 小さなブライディーは節を付けて歌って踊り返した。 「回りはお酒。それも舌も身も心もとろける美酒。 呑んでも呑んでも無尽蔵 気球みたいに膨れたおなか ぐでんぐでんに漂うの…」 「ぐでんぐでんの天狗さん」 少女たちが歌い返した。 「…天狗天国、田楽半額。監獄見学…」 (だめだわ、埒があかないわ) 小さなメイドさんはまた目が回ってきた。(…この術を破るにはどうすればいいの? まさか、お城はお芝居の描き割りで、つかまってぶらさがって引っぺがしたら薄い板が剥き出しになる、とか…) やけくそになった小さなブライディーは、助走して勢いをつけて、お城のバルコニーにぶら下がると、体重をかけて引きはがすと、案の定ベリベリと破れて剥き出しの木の骨組みが現れた。 少女たちの表情から生気がじょじょに消え、まるで人形のように無表情さが覆い始めた。「…この天国はつくりモノ お城はハリボテ、女の子たちも、元を正せばお人形…」 「人形なんかじゃない! みんなれっきとして生きている、かけがえのないぼくの宝物なんだ」 小さなドッジソンが少女たちのあいだをかいくぐるようにして行き来すると、人形に戻りかけていた子たちが、再び生気を取り戻しはじめた。 「生きてるような人形と、死んでるような人間と、人形みたいな人間と、人間みたいな人間は、どれが本当に人間で、どれが本当の人形か?」 「死者の国の死人。死人の国の生きてる人間。生きている人間が生きている国。現実の世界に生きている人間。どれが生きていてどれが死んでいる?」 (だめよ! ダメよ! だめだわ!) 小さなメイドさんは頭を抱えた。(「中から幻の恋人が飛び出す絵」を描くローレンスは、絵の外にいる術者ローレンスを倒しても、根本的に解決はしなかったわ。本物の恋人を連れてきて、夢の世界を彷徨う娘と結婚式を挙げさせなければ術は解けなかった。 もしそれと同じ種類の術だとすると「本物のアリス」を連れてきて、「ここにいるのはあたしじゃない。ここにいるのはあたしの傀儡。ここはあたしの世界じゃない。ここにあるあたしの世界はツクリモノのあたしの世界」と言ってもらわなければ… でもでもアリスはもともと教授の空想に中の女の子。想像上の女の子が、ツクリモノのニセモノを否定することなんて、できるのかしら?) 「ニセモノ、ニセモノ、みーんなニセモノ」 またまた女の子たちが両手を上げたり下げたり振り回したりして、お遊戯をはじめた。「…もともとの子が生きていない。当然その子のツクリモノも生きてない? それとも生きてない子のツクリモノは生きてるの?」 (ドッジソン君…もといドッジソン教授を説得し得るのは、ホ・ン・モ・ノのアリス・リデルをおいて他にはいないと思うわ!) 小さなメイドさんは閃いた。(…本物のアリスに「この子たちはみんなよく出来たニセモノで、この『天国』もツクリモノよ!)と言ってもらうことができたら! ホンモノのアリスは「ここ」にいるの?) メイドさんは懐からダウジングの棒を取り出すと、可愛く踊り続ける少女たちを無視するようにして占い始めた。 「メイドさんメイドさん、今度は誰を捜しているの? ドッジソンさんは目の前にいる。自分は『ここ』にいる。それとも『ここにいる自分じゃない本当の自分を捜しているの?』 女の子たちは何とか邪魔しようと、取り囲んだ輪を狭め始めた。 (ドッジソン教授のアリスはどこ?) ダウジングの棒はくるくる回り続けるだけで一向に止まる気配がない… 「回る 回る 棒がくるくる回る… 針金のバレエ・ダンサー 地上の釣り針 天に打つ釘 空き巣の親友」 少女たちがまた歌い始めた。 小さなメイドさんは珍しくイライラし気が散って仕方なかった。だけど、棒がいつまでも止まらないのは、そのせいではないようだった。 「アリスはどこ? アリスはだあれ? ここにいる一人一人がみなアリス この子もアリス あの子もアリス ここ以外の子もみんなアリス アリスだらけ だらけるアリス 単語の勉強そっちのけ みんながアリス ホンモノは一人もいない みんながホンモノ」 くるぶしまでの長いスカートを揺らせながらちっちゃい子たちが踊った。 「…男の人と踊りましょ 紳士と手をつなぎましょ まずは向かい合ってご挨拶 いえいえそれはまだ早い それはもっとお姉さんになってから あたしたちはまだまだ 女の子だけで遊びましょ 男の人と話すのは 面白いお話しを聞かせて頂く時くらい 花の冠首飾り…」 小さなブライディーはとうとう諦めた。 「あっ、やめちゃった! 倒れた針金兵士 壊れた時計 空想の魚を釣る釣り針 存在しない鍵穴に入れる鍵…」 少年の姿のドッジソンは、ふんぞり返るわけでもなく、アンニュイな様子で椅子の肘掛けにもたれかかった。 「ああ、無駄な努力だったね。まるでこの世界の全てを理解してやろうとするかのような、空しい空回り…」 「ドッジソン君、わたし、もう頭がおかしくなってしまいそう! ドッジソン君もそうでしょう?」 「なにをおっしゃるウサギさん…」 少年がそう言った途端、少女たちの頭にウサギの耳が生えてきて、お尻のところに丸いフワフワの尻尾が生えてきた。 「春のウサギは忙しい 恥ずかしいことで忙しい うさうさ うさうさ 気が付くと もこもこ もこもこ 子ウサギたちが 向こうの丘まで駆け比べ…」 (ああ「お兄ちゃん」は簡単に出てきてくれたのに、どうしてアリスは出てきてくれないのかしら? それとも「お兄ちゃん」と違ってアリスは架空の子だから、いくら天国でも出てきてはくれないのかしら?) 小さなメイドさんは青い空を見上げた。 「あらちっちゃなメイドさん 一体何を探しているの 空色の鳥は空にいても見えないわ 緑色の鳥は森にいても見えないわ 煉瓦色の鳥は煉瓦屋根では見えないわ アリスは、小さな女の子たちの中では見えないわ…」 (そうよ、アリスはアリスたちの中にいる…) 「アリス! アリスはどこ?」 ブライディーは少女たちを見渡して問いかけた。 「アリスは死の国 つまりここ アリスは無の国 つまりここ」 少女たちの歌がいきなり短調になった。 「すべてが生まれ すべてが消える アリスの子宮に抱かれた 教授は本当にお幸せ…」 (そうなの、ここはアリスの内側… だからアリスは見えないのね。 ちっちゃなアリスたちはアリスの卵 だから不幸な目に遭って死ぬ者もいる…) 「ブライディー、どうやら分かってしまったようだね」 小さなドッジソンは前髪を掻き上げながら言った。「念願がついに叶って、ぼくこの上もなく幸せさ。だから君だけ去りたまえ! 出口は、今度こそその堕胎手術に使うような針金が教えてくれるだろ?」 「分かった以上は、ますます絶対に連れて帰ります! 教授はアリスとその世界を生み出されたおかた。そのかたが、ご自分が造られた世界に囚われてどうするのです?」 「じゃあどうするブライディー、いまからノアみたいに箱船でも造るかい? 造って救うに値する者だけを押し込んで船出するかい?) 「ホンモノの箱船はすべての種類の動物が一つがいずつ… 『ここ』の箱船は美少女だけ… 美少女と教授以外は乗船お断り…」 ちっちゃい子たちは一列縦隊で軍艦に乗り込む仕草をしながら歌った。 (もはや、占いなんかは役に立たない… いくら親しくても他の者の忠告は耳に入らない… なんとか教授ご自身にここが偽物の天国であることを悟っていただかないと…) 小さなメイドさんは懸命に考えた。 (「人間は感情の生き物だ」というけれど、理性を取り戻して頂かないと… そうだ! 数学よ! 教授の本職である数学のことを思い出して頂ければ、冷静になって頂けるのでは?) 「ねぇ、ドッジソン君。ここにいる子たちにも、わたしにも、算数を教えてもらえないかしら?」 「算数?」 ドッジソン少年の眉がピクリと動いて、瞳がわずかに曇った。 「そうよ、算数よ。算数ってとても大切でしょう? お釣りの計算、畑の大きさ、滑り台の角度…」 「そうだよ、とても大切だ」 「嫌だ!」 ちっちゃな子たちはいっせいに頬を膨らませてむくれた。 「難しいことは大嫌い!」 「考え事をすると頭が痛くなるわ!」 「何もかも忘れて遊びたいわ!」 「そんなことはないよ」 少年は飛びきり優しい笑顔になって玉座から降り、輪の中に入っていった。 「おはじきの数、輪投げの得点、キャンディーやクッキーを分ける時、数はとっても大事だよ。 面積…お互いのチームの陣地の大きさが一緒でなくっちゃゲームは公平じゃあないだろう?。 少女たちはコックリと頷いたが、中の一人が叫んだ。 「天国じゃあ神様がすべてを公平にして下さるから、算数は必要ないと思うわ!」 「とんでもない! 算数は神様が人間だけに下さったものだから、大切にしなければならないし、美しい公式は神の御技なのよ」 小さなブライディーが反論した。 「その通りだ!」 小さなドッジソンが眉根を寄せた。「まん丸のケーキ、十二人の子で分けたら、十字に切り分けた四分の一をさらにもういくつに切ったらいい?」 少女たちはしばらく頬杖をついて考えていたが、一人が「はーい」と手を挙げると、残りの子たちも「はーい」「はーい」と次々に手を挙げ、つま先で立って背伸びした。 「三つです! 三つが四つで十二切れになります!」 「正解だよ。みんな賢いメイドさんになれるよ!」 と、少年の姿だったドッジソンの背が伸び、髪の半分が抜けて半分は白くなり、顔は皺だらけに、背はやや猫背に戻った。 ブライディーも元の大きなメイドさんに戻った。 お城はゆらりと揺らぎ、空には暗雲が立ちこめ、稲光が走り始めた。 「怖い! 助けて!」 少女たちは走って城に駆け込んだ。 「おい、待ってくれ! 置いて行かないでくれ!」 追いかけようとする教授をメイドさんが抱きついて引き留めた。 「教授! もう気が付かれたでしょう? ここは本物の天国じゃあありません。予告編でもありません。一回何ペンスかの木戸銭を払って入る見せ物小屋の天国に過ぎないんです!」 ドッジソン教授は怯えたような黒い小さな瞳をメイドに向けながら振り返った。 「やっぱり… そうだったのか?」 ブライディーはそんな教授の瞳をまっすぐに見つめ返して大きく、大きく頷いた。 「…生きたまま、眠っているあいだに行ける天国。そんな都合のいい天国なんか、あるわけがございません」 「しかし、ブライディー、人は弱いものだ。生活の苦労が重なったり、年老いてお迎えが近くなったりすると、つい、自分が『こうであったらいいのにな』という天国を思い描いてしまう。先だった両親や優しかった人々に再会できたらいいなぁ、と思う者は多いだろうし、好きなものたちだけに囲まれて暮らせたらいいな、と願う者もいるだろう…」 「『羊の檻に門より入らずして、他より越ゆる者は盗人なり』(ヨハネ10.1) それは素晴らしいところだと想像するのは自由でしょうが、勝手きままに本当の姿を推し量って良いものでしょうか? また、推量可能なものでしょうか?」 黒い雲がますます黒さを増したかと思うと、まるで安物の劇場の宙づりの仕掛けのように、白い寛衣をまとい、白い、目と口のところに穴を開けた白い仮面をかぶった長身の男が、ゆっくりと降りてきた。 ブライディーとドッジソンは、呆れかえって口をポカンと開けたまま男の「降臨」を見つめ続けた。 「少女たちよ、恐るることはない。出てくるのだ!」 白衣の男は荘厳な、くぐもった声で言った。 城に逃げ込んでいたちっちゃな子たちは、一人、また一人と門や窓の内側から顔を覗かせると、恐る恐る現れた。 「わたしは神。この世界、この天国を造った神だ。早く出迎えるように!」 男は中空に浮かんだまま、大きく両手を開いた。 少女たちは城の広場に出てきて「神」を見上げた。 「みんな、だまされちゃいけないわ! あんな人が神様なんかであるわけがないでしょう?」 メイドさんは少女たちのほうを振り向いて叫んだ。 「そこなるメイド、何を申すか! 我は神なり! 神を畏れよ! この天国、この国はことごとく我の造りしものなり!」 「嘘よ! あなたは魔導師で絵描きのクラレンスでしょう? 一体何が目的? 天国の絵を売りつけてお金儲けをする。それだけ?」 神は仮面の内側の額と頬を引きつらせた。「罰当たりのメイドよ! 神を疑うのか? ならば神の力を見せるのみ!」 男が手を振りかざし、集まったなかの一人を指さすと、その子は白い煙を立てて消えた。 「キャーッ!」 少女たちは悲鳴を上げて逃げ出そうとした。「動くな! …見ただろう? 次は誰がいい? …おまえか? おまえか?」 男が指さした子は次々に消えた。 「やめろ! やめてくれ!」 ドッジソンが歩み出て懇願した。「こんなことはやめてくれ!」 「…せっかく天国に招いてやったというのに、我と我が世界を疑う者たちよ! その罪、許し難い。よって、この場での処刑を命じる!」 「えっ?」 メイドさんと教授はさらにあっけに取られた。 気がつくと二人は少女の衛兵が手にした槍で小突かれながら、山のように積み上げられた柴の上に突き刺された十字架に両手を水平に伸ばし、両足を揃えて縛られていた。 「死刑よ、死刑! 神様に逆らう者は 十字架の上で火焙りなの!」 少女たちはあかあかと燃えさかる松明を持って十字架の回りをぐるぐると回った。 「ちょっと待ってよ! わたしがどんな悪いことをしたというのよ!」 ブライディーは身体をよじり、両手首足首に力を込めてロープを引きちぎろうとしたが無理だった。 「おまえは魔女だ!」 白衣の男が指さして罵った。「神を信じているフリをして、その実は信ぜず、疑い、己れの占いのほうを信じて、それを『力』として使っている!」 「そうよ そうよ! 占いなんか、するのは魔女かジプシーよ」 松明を手にした少女たちが、柴の回りでジプシーの踊りを踊った。 「神様にお任せしない 神様を信じない 自分の占いのほうを信じる 異端者 背徳者 ジプシーの女王 神様に逆らった罪で 永遠に地上を彷徨う…」 「違うもの… わたし、ちゃんと神様を信じているもの…」 眼下でチラチラと揺れる炎が、にじみぼやけてきた。 「嘘よ、嘘! 聖人たちよりタロットカードの偶像を信じている異端者よ!」 「わしも人を傷つけたり、盗んだりしていないぞ!」 同じように十字架の上に磔にされた教授が叫んだ。 「黙れ! おまえこそ若い頃からの罪の山積をいまこそ償うがよい!」 白い仮面の男が糾弾した。「目で犯す者は心で犯す者である。大人の女性に対しても大罪であるのに、年端もいかぬ少女に対して行うのは、もっとも深い地獄に堕ちても余りある罪、いや、魂消滅の刑に処すべき罪である!」 少女たちはぐるぐると回るのを止め、燃えさかる松明を柴の山に近づけた。 「天国で死刑になるなんて…」 メイドさんは歯がみし、悔し涙を流しながらつぶやいた。 「天国で死刑になると、現世の肉体はどうなるんだろう?」 教授がつぶやき返した。 「さぁ、ろくなことにならないと思うわ…」 「さぁ、柴に火をつけろ! 魔女と罪人を焼き払うのだ! そうすればこの天国も元通りの真の平安の場所に戻ろうぞ!」 白い仮面の神が大きく手を広げて指図すると、少女たちが手にした松明をいっせいに柴の中に投げ入れた。柴はたちまちのうちに燃え上がり、煙が舞い上がった。 「ゴホッ ゴホッ…」 メイドさんも教授もたちまちむせ返った。 炎が足下に迫ってきた。 「助けて! 本物の神様! 助けて、お兄ちゃん! お嫁に行く前に死にたくないよぅ…」 と、その時、ナイフをきらめかせた若い精悍な男が炎の中に躍り込んだ。 「大丈夫か、ブライディー!」 若い男は十字架の上のブライディーのいましめを解いて助け降ろした。 「お兄ちゃん!」 お兄ちゃんはメイドさんを火吹きトカゲに託すと、教授の救出に向かった。 「ええい! なぜだ? なぜ幻影の貴様が助けに来たりするのだ?」 白い仮面に白い寛衣の偽神はうろたえて地上に降りてきた。 「おまえの術が出来すぎていた、素晴らしすぎたんだよ、クラレンス!」 ブライディーと教授をかばうように立ちはだかると、ナイフを構えた。 「そうだ、そうだ、素晴らしすぎた あたしたちは、みんな現実 この世界の現実 何でも叶う天国だもん お兄ちゃんだって助けに来てくれる!」 少女たちがいっせいに囃したてた。 「おい、早まるなよ。俺はこの世界の創造主だ。その俺をどうかしたら、どんな恐ろしいことになるか、分かるだろう? いま、天国の絵の中に入り込んでいる百人近い金持ちたちが目を覚まさなくなるぞ!」 白い仮面をかなぐりすてると、パリの魔導師画家ローレンスによく似た、顎ひげの顔が現れた。 「そんなこと知るか、この野郎!」 お兄ちゃんはナイフを真っ直ぐに構えて突進した。 「ブライディーをひどい目に遭わせた奴は、ナマスにしてやる!」 「ちょっ、ちょっと待て! 暴力反対! 君が傷害犯や、そのぅ…殺人犯になって刑務所に入ったりなんかしたら、そこのメイドさんが悲しむぞ!」 「構わないね。おまえみたいな、ど悪人を生かしておくことを思ったら、ぼくらカップルの幸せなんかどうなっても。百人の金持ちが目を覚まさなくても構うものか!」 お兄ちゃんはナイフを振りかぶった。 「くそぅ!」 クラレンスは白衣も脱ぎ捨てると踵を返して逃げ出しながら何やら呪文を唱えた。 すると目の前に、たくさんの、カンヴァスを載せたイーゼルが並んだアトリエのような部屋が見えてきた。 「出口だ!」 画家に続いて、教授とメイドさんが狭まり往く円を飛び越えた。 ブライディーがふと振りかえると、お兄ちゃんと火吹きトカゲが寂しそうに、天国の側に留まっていた。 「ごめんよ、ぼくらはそちら側へは行けないんだ…」 「お兄ちゃん…」 「アメリカに出稼ぎに行っている本当のぼくと、どうか幸せに結ばれてくれ!」 メイドさんは少しずつ狭まって、顔しか通らなくなった空間に顔を近づけて、熱いキスを交わした。 次の瞬間、出入り口は完全に閉ざされた。 そのアトリエは、体育館みたいにとても広く、ゆうに百を超える大小のカンヴァスが適当な間隔で、まるでカフェテラスの椅子みたいに置かれていた。 「何よこれ? わたしたち、まだ不思議の国にいるのかしら?」 片っ端から覗き込んでみると、カンヴァスに絵は描かれてはおらず、ベッドで眠っている老若男女のリアルタイムの姿が、幻灯のように映し出されていた。 「これはまやかしの天国から眺めた『お客さんたち』の姿だ…」 ドッジソン教授が目を見張った。「見ろ、ぼくたちだ!」 とある一枚のカンヴァスには、「英国心霊協会」のお屋敷の客間のベッドで、悪夢にでもうなされているのか、額に脂汗を浮かべ、輾転反側している教授と、壁の絵の前の絨毯の上に倒れて同じようにもがいてた。 「あちらが本当のわたしたち。すると、いまここにいるわたしたちは?」 「まだクラレンスが操る夢の中にいる、ということだ。いわば、現実と天国の中間。橋渡し地点なのかも知れない…」 二人は用心深く身構えながらクラレンスを探したが、どこかに逃げたのか、それとも潜んでいるのか、どこにも見あたらなかった。 「…せっかく天国に、心持ち良く葬ってやろうと思ったのに、逆らい、あがらい続けるとはかわいげのない者たちだ」 とある一枚の絵の中から声がした。それは遠近法によって、画面のはるか奥まで灰色の壁で仕切られた迷路が描かれた絵だった。 「クラレンス、お待ちなさい!」 「ブライディー、やめておけ、罠だ!」 メイドさんは教授の制止を振り切り、声を追って迷路の中に飛び込んだ。 「クックックッ… かかったな! こうなった以上は地獄で葬ってやる!」 「何をおっしゃいますやら! このわたしに迷路は通じませんでしてよ!」 ダウジングの棒を取りだして掲げると、棒の先はくるりと左を指した。次の十字路では右、その次の分かれ道ではまっすぐを指した。 そんなふうにいくつもいくつもの角を曲がったが、灰色の壁は途切れることはなく、さらに続いた。 (…おかしいわ。方向は合っているはず。それなのに、どうして出口に辿り着かないの?) 息を切らせながら立ち止まった。 気を取り直して、また占いを続け、歩き続けたが、行けども行けども出口はなく、ただ単調な壁に囲まれた通路が続くだけだった。 足は棒のようになり、これ以上は一歩も歩けなくなって、床に座り込んでしまった。 (どうして? 偽の天国ではちゃんと教授のいらっしゃる場所を当てることができたというのに…) 壁に身体をもたせかかるようにしてよろよろと立ち上がって耳を澄ませても、どこからも何の音も聞こえてはこなかった。 ただシーンと、しじまが満ちているだけだった。 「教授! ドッジソン教授! ドイル様! デイジー! お兄ちゃん!」 叫びはこだまとなって迷路の隅々にまで響き渡ったものの、何回か、何十回かの反響を繰り返すと、次第に消え入り、やがて静まりかえった。 (…どうして、どうして出口を当てることができないの? 棒はちゃんと方向を指しているというのに… …もしかして、偽の天国で占いが当たったのは「当てさせてくれた」からで、本来この絵の中は、占いも何も通用しないのでは? …過激なデイジーの真似なんかしたくはないけれど…) メイドさんは棒を逆手に持って、ドレスのスカート越しに突き立てた。太股にキリキリと痛みが走った途端、灰色の壁はいっせいに消えて、砂漠に似た白い床が果てしなく続く無限の空間が現れた。 (いくら占ってもダメだったはずだわ…) 再びヘナヘナと座り込み、耳を床に当てるようにして倒れ伏した。 (…もうダメ… やはりナメたのがいけなかったんだわ… 「天国を具現化する」なんて言う甘いイメージに惑わされて… 「大した敵ではなさそう」なんて、勝手に考えて… 幻影のお兄ちゃんに恐れ怯えるところを見てすっかり安心してしまって… 相手そのものは臆病で卑怯な生身の人間で、恐れるものではなかったにしろ、その術は、十分に人の命を奪うことのできる恐ろしいものだったのよ… アレイスター様か、サダルメリク・アルハザード君か、安倍君が相手すべき奴だったのよ…」 涙を流していると、床につけた耳にぴたぴたと、何かが近寄ってくるような足音が聞こえた。思わずガバッと身を起こすと、首から懐中時計をぶら下げた白ウサギがたたずんでいた。 「よう!」 「ウサギさん!」 「もう気がついている、とは思うけれど、ここはかなりレヴェルの高い魔法使いによって造られた『無の世界』だ。いわゆる天国にも地獄にも行くことが出来なかった者の魂が墜ちると言われているところさ。…本人以外の生き物は何もいない。地獄と違って仲間とつるむこともできない。『術の目録』によると、かかったが最後、決して脱出は出来ないテリトリーのはずなんだけれど… ただ一つ、行き来のできる存在がある。ぼくや、チェシャ猫や、ハンプティダンプティといった『ナンセンスな存在』さ」 「えっ?」 メイドさんは座り直して居住まいを正した。 「『どこにもありえない』ということは『ナンセンス』と同じ意味。寒い親父ギャグのようなものなら難しいだろうけれど、素晴らしくナンセンスな考えは、術を打ち破ってくれる…かもしれない…」 (「ナンセンスな考え」って?) ブライディーは戸惑った。 「難しく考えちゃあダメだ。意味のない、カラッポな考えが、カラッポを打ち破ることができるんだ」 メイドさんはドッジソン教授が普段呟いているダジャレを懸命に思い出した。 「カラッポ カラカラ カラカラ浴場 ハルク・ホーガン投げ シャンシャンシャンプー 手拍子足拍子 手拍子よくない よく見るよろし」 とりとめのないことを考えていると、笑う猫や、手足のついた巨大な卵が現れては消え、馬にまたがった首なし騎士が横切った。 「騎士起死回生 快晴にわか雨にかわで足がくっついた…」 ピンという、熱いお湯を入れてガラスのポットが割れたような音がして、白い空の一部がめくれ落ちたかと思うと、あちこちの空が次々に剥がれ落ちはじめた。 「ナンセンスなことを考えている人の天国は、やっぱりナンセンスが充ち満ちているのかしら?」 「おかしい! どうして私の術が破られるのだ?」 カンヴァスがいっぱい並んだ幻の世界のクラレンスはうろたえはじめた。「弟のように、現実の世界での居場所を突き止められた訳ではない。ドッジソンには望みの天国を与え、メイドは無限地獄に落としたはずなのに…」 大きな、真っ白なカンヴァスを内側から破いてブライディーが現れた。 「よくも… よくもひどい目に遭わせてくれたわね?」 「ちょっと待ってくれ! 私は何も君たちをどうこうしようなどとはまったく思っていない。死後の世界に興味を持ってくれた君たちが、高いお金を出して私の天国の絵を買って、寝室に掛けてくれて…」 クラレンスは、真後ろにある、やはり大きな絵を背中で隠そうとしながら後じさった。 「よくも何度もぬけぬけと… 許さないから! …ところで、ドッジソン教授はどこへやったの?」 「知らない! そもそも絵の中に人を閉じこめたりできるわけがないだろう?」 「人の肉体は閉じこめることはできなくても、魂を閉じこめることはできるのでしょう?」 メイドさんは突進して画家に体当たりして払いのけた。 隠していたカンヴァスには、黒いフロック・コートの老人が、エプロン・ドレスの少女たちによって絞首台に上げられて、いままさに死刑になりかけている光景が描かれていた。 「早く! あのちっちゃい子たちに止めるように命令しなさい!」 「だからそんなことはできない! 絵の外にいる者が絵の中の人物たちに命令なんかできるわけがないだろう?」 そう言いながらもクラレンスは、隙を窺って油絵の具を落とす溶剤を床にぶちまけてマッチで火を付けながら、ニヤリと白い歯を見せた。 たちまち背丈よりも高い紅蓮の炎が燃え上がる… 「ククク… おまえも教授も、金持ちたちも、地獄の業火に焼かれて、眠っているうちに焼け死ぬがいい!」 「どこまでも卑劣な!」 メイドさんは近くに立てかけてあった箒で火を消そうとしたが、無駄な努力だった。 「ざま見ろ! もっと燃えろ燃えろ! 証人は一人のこらずくたばって、証拠の絵は一枚残らず焼け落ちてしまえ!」 さらに溶剤を撒こうとした時、足を油で滑らせて、自分が描いた地獄の絵…煮えたぎる溶岩がポコリポコリとと泡を立てている絵の中に真っ逆さまに落ちていった。 「うわーっ!」 思わず目を背けるブライディー。けれど彼がどうなったかはよく分かった。 「教授! みなさん!」 一面火の海の中を箒を振り回して走り回っていると、まだ何も描かれていない真っ白なカンヴァス何枚か見つけた。 (…もしかして、絵の具やクラレンスの画家としての腕には意味がなくて、このカンヴァスが魔法のカンヴァスなのではないかしら?) とっさに閃いたメイドさんは、パレットに絞り出してあった青やコバルト色の絵の具でヘタクソな海の絵を描いた。 次のカンヴァスには池を、その次は池を描いた。 (お願い!) 最後にそれらのカンヴァスの後ろに回って、イーゼルごとゆらゆらと揺らせた。 (お願い! ここはもう天国じゃあないかもしれないけれど、最後にもう一度だけ願いを叶えて!) すると、それらのカンヴァスから潮や水がとうとうとあふれ出した。 水はアッという間にアトリエじゅうに満ちて、火を鎮火させた。 「う、うーん…」 気がつくと英国心霊研究協会の客間の壁を前にして、汗びっしょりになって胎児のように身体を丸めて横たわっていた。 「ハッ! ドッジソン教授は!」 立ち上がると、教授はベッドの上に座って起きあがりかけていたところだった。 「ブライディー、なんか、もの凄く悪い夢を見ていたような気がするのだが…」 「あれは夢じゃありませんわ!」 メイドさんは教授の眠そうな目を見つめた。 「そうかな?」 教授は目をしょぼつかせながら見つめ返した。 何気なく壁にかかった絵を見上げた二人はともに「アッ!」と小さな叫び声を上げた。 美しい花畑と、キラキラと水面を輝かせた池は、瘴気を漂わせた一面の毒沼の風景に変わっていた。 翌日の朝のお茶の時間、謎の天国の絵の提供者であるデュード侯爵と、コナン・ドイルがドッジソン教授と、大きなメイドさんを取り囲んだ。 「どうだね、ドッジソン教授。天国の夢は見られましたかね?」 侯爵は相変わらず眉間に何本もの皺を寄せて尋ねた。 「え、ええ。見れることは見れましたが…」「どんな天国でしたか?」 ドイルはデイジーが淹れた香り高いダージリンを啜りながら言った。 「それはもう… とても美しい花園と、澄んだ池で…」 「それだけかね?」 言葉が終わるのを待たずに、侯爵が畳みかける。 「いえ、わたしはご承知の通り、ずっと長いあいだ独身ですので、家族や、亡き両親には会わなかったのですが…」 教授は口ごもりを振り払うように咳払いをした。 「…デイジーのような可愛い子には大勢出会いました」 デュード侯爵の表情が険しいものになった。 「まぁ、いいではありませんか。天国では、自分の一番好きな人々に会える、ということでしょう」 ドイルは半ば無意識にパイプに火を付けた。 メイドさんたちには侯爵の機嫌がますます悪くなったように見えた。 「その後、二人揃ってまったく同じ悪い夢を見ました」 大きなメイドさんが言葉をつないだ。「…夢の中で、つづけさまにとても危ない目に遭いまして… …クラレンスと名乗る、天国の絵の作者にも会いまして…」 「ふむ、それは大変興味深いな」 煙がもくもと吹き上がる。 「…お陰様でなんとか、抵抗というか、悪あがきを試みて、クラレンスも倒して無事に目を覚ますことができたのですが…」 「いやはや、もしブライディーがおらず、わたし一人だったら、危ないところでした」 「わたくしこそ、教授がいらっしゃらなければどうなっていたことか…」 「ふむ…」 侯爵は変わり果てた姿になった天国の絵をまじまじと見つめた。「…確かに、人為的にすり替えられたのでなければ、大変に面妖なことだ」 「ぼくは絵は素人ですが、絵の具の種類やタッチは間違いなく同一作者…クラレンスのものですな。…それに、こういうこともあろうかと、きのうコッソリとカンヴァスの裏に鉛筆で、目につかないように小さな印を付けておいたのですが、この絵のカンヴァスの裏にちゃんとそれがありました。奇怪至極なことですが、絵は一夜にして不気味なものに変わった、と認めるしかありません」 「そうか…」 「でも、絵に描かれた天国は明らかにニセモノ…幻術のそれでした。けれども悪事に使わずに『死を待つ人の家』に飾られたら、救いになった、かもしれません…」 大きなメイドさんは断言した。 「それはそうだろう。最近は大量の麻薬をあおって、一時的に仮死状態になり『天国を見てきた』と言う輩もいるが、言語道断なことだ」 侯爵は吐き捨てるように言った。 「あー、あたしも行きたかったなー」 デイジーが小声でボソリと呟いた。「…思い切りお金持ちになった夢を見てみたかったなー」 とそこへポピーが遅版の新聞を銀の盆に乗せて持ってきた。何気なく社会面を広げたドイルの顔色がサッと変わった。 「これを…」 示された見出しと記事には以下のようだった。 「新進人気画家怪死。 昨夜、美しい天国の絵を描くとして一部のファンに支持を得ていた画家のクラレンス氏が、自宅のアトリエで死亡しているのが発見された。死因は心臓麻痺と見られる。 奇々怪々なことに、使用人の証言によると、『昨晩まで美しい天国の絵が描きかけだったカンヴァスのすべてが、マクベスの魔女の森のような、醜い風景に変わっていた』という… 当局は鋭意原因を究明中である…」 (次のエピソードに続く) KIJISUKE@aol.com