2005.05.25 澁澤さんのアドヴァイスで、幼い兄弟を見て、ブライディーが「お兄ちゃん」のことわ思い出すシークエンスを三カ所追加…


 ブライディー・ザ・マジックメイド
 「深淵のクラリオン」

 それは、不思議なトランペットの音色だった、この土地の民謡のようなものではない。もちろんクラシック音楽ふうのものでもない。どこか遠い遠い異国の隠れ里の住民か、妖精たちが戯れ踊る旋律だった。ラッパの音は、大小の湖沼や海の水面を波立たせ、森の梢を震わせ、最後には風と混じり合って消えていった。
 きちんと音楽の勉強をした者が、なんとか一部分でも写し取ろうとして五線譜を取りだして身構えても、手を動かすことも、一時頭の中に覚えておくこともできなかった。曲が異様なくらい早く、不可解なコード進行を持った調べだから、というのは理由にならない。 その曲はなぜか人の頭の中からいろんな努力…人為的な「意思」を残らずこそぎ取ってしまうかのような妖力があった。
 近くにいっぱいあるピクト人の住居遺跡である風穴洞窟が太古から奏で続けている自然の演奏だ、という者もいる。あるいは地元の住民の誰かが戯れに吹くラッパの音に過ぎない、という者もいる。真相は永遠に分からない…と言いたいところだったが、そうでもなかった。
 話は少し以前にさかのぼる…
 スコットランドの辺境に住む幼い兄妹のうちの兄が、昨夜の大嵐のとき、落雷でまっぷたつになった樹齢数千年の巨木を見るために、深い森に分け入っていた。嵐は茶色の地面のところどころに深く濁った水たまりを残しそのうちのいくつかはひどくぬかるんで、まるで小さな底なし沼のようになっていた。
「マーカス兄ちゃん、やめようよ! 道に迷ってしまうよう」
 昼食のパンとジャムが入った小さな籐のバスケットを下げた六、七歳の金髪の女の子が二つ三つ年長の兄の、ズックのリュックサックを背負った背中に向かって叫んだ。
「大丈夫だよ、シェリー。ちゃんと木にナイフで傷を付けながら歩いているよ」
 マーカスと呼ばれた兄は、進む速度を落として妹が追いついてくるのを待った。
「この森は、ピクト人の『呪われた森』なんだよ。あんまりうろうろしないほうがいいって、お父さんやお母さんや、近所の人にも言われているじゃない」
「でもあの落雷はもの凄かったじゃないか。真っ黒な夜空が一瞬昼間みたいに、いや、昼間よりも明るく、まるで家族みんなで写真を撮ったときのマグネシウムの閃光みたいにまぶしく輝いてさ。気が付くと森の中で一番高かった木が真っ二つになってめらめらと真っ赤な炎に包まれていた…」
 マーカスは夢にうなされているかのような口調で言った。
「木の燃えかすなんか見たって仕方ないじゃない」
「そんなことはないさ。間近で見たらきっともの凄い有様だよ。破片を持って帰ってみんなに自慢するんだ!」
 ところが、問題の二つに裂けて焼けこげた木は、ついもうすぐそこに見えているにもかかわらず、なかなか真下に辿り着くことができなかった。
「おかしいなぁ…」
 マーカスがふと傍らの木の幹に目をやると、自分がかなり以前につけた印があった。
「お兄ちゃん、さっきからずっと同じところをぐるぐると回っている気がするよ」
 妹は不安そうな表情で兄の腕を引っ張った。
「大丈夫だよ。大丈夫。もしも妖精たちが邪魔をしているのだったら、これで抜け出られるはずさ」
 兄は懐から板金を曲げて作った音階も怪しい小さな手作りのブリキのラッパを撮りだして、パッパラパーッパパーと魔除けの曲を吹いた。
 すると、いままでいくら歩いても全く近づくことができなかった焼けた天をつく巨木が、まるで向うのほうからグイッと動いたみたいに突然目の前に現れた。
 落雷の焼けこげた跡も生々しい巨木は、回りにかすかに茶色の樹皮を残しているだけで、残りは真っ黒か灰色の炭のようになっていた。
「すごいなぁー ほとんど燃え尽きちゃっているよ」
 マーカスは残骸に手を掛けてよじ登りはじめた。
「お兄ちゃん、危ないよ。もう得心したでしょう? 帰りましょう」
 妹は、何気なく兄が置いていったリュックの中からラッパを取りだしてたどたどしくプップップーと「おうちへ帰りましょう」という曲を吹き始めた。すると…
 奇妙なことに木の内部の灰の中から、かすかに似たような音が聞こえてきた。
「!」
 兄は池に飛び込むように、足から灰の中に飛び降りた。もうもうと舞い上がっていた灰が静まってくるのを見計らって細く目を開き、口にハンカチを当てて息を再開すると、灰の底にかすかにキラリと金色に輝くものがあった。
 恐る恐る手を伸ばし、それを拾って灰を息で吹き飛ばして見ると、自分が持っているのと同じような形の、弁がいくつかついた小さな黄金のラッパだった。
「こいつはすげえや!」

「お兄ちゃん、持って帰らないで! 置いて帰ろうよ。それはきっと妖精の楽器だよ。他人のものを黙って持っていったら泥棒だよ」 妹は、燃えた木のウロから出てきたマーカスに向かって心配そうに言った。
「バカ言え! これは昔むかしの人のものだったけれど何百年…いやひょっとしたら何千年、この木の中にあったんだ。もう誰のものでもないさ。金だぜ金! 古道具屋に売ったら、さぞかし高い値段で引き取ってくれるのじゃあないかな。父ちゃんや母ちゃんに親孝行ができるぜ。…でもその前に…」
 少年は唇をつけて息を吹き込んでみた。
 スースーと空気が漏れて通る音がするだけで音はまったく鳴らなかった。
「何よ、ちっとも鳴らないじゃない!」
「シーッ!」 マーカスは妹の言葉を遮った。「…耳を澄ませてくれ。どこか遠くの湖か、あるいはもっと遠くの…海のほうで何かが鳴ったような気がしないか?」
 そう言って彼はもう一度力いっぱい息を吹き込んだ。
 なるほど、そう言われれば、遙か彼方でラッパの音が鳴ったような気がした。
「気のせいよ! そのラッパ、やっぱり壊れているんだわ。…ちょっと見せて」
 妹は手にとってまじまじと眺めた。表面には濃淡のデザインらしい模様が付いていて、どことなく貝殻をモチーフにしたような感じがした。リードに口を付けてみると、かすかに潮に似た海の香りがした。シェリーは思い切り頬を膨らませて吹いてみた。マーカスが両耳に手のひらを添えてみると、やはり海や湖のほうからラッパの音が聞こえてきたような気がした。
「持って帰ろう!」
 兄は妹からラッパを取り上げてリュックサックの中に隠した。
「やめておこうよ、お兄ちゃん。あたし、とても嫌な予感がするわ」
「この木に雷が落ちて燃え上がったことは村のみんなが知っているんだ。噂が広まれば物見高い町の連中もやってくるだろう。そうなったら誰かに見つけられて拾われてしまうだけだよ」
 リュックサックを背負うと、せっかく持参したお弁当も食べることなく一目散にその場を後にした。

 海岸沿いの漁村の、小さな漆喰造りの家に戻ると、二人の父親は珍しく上機嫌だった。
「マーカスにシェリー、お帰り。きょうはいい知らせがあるぞ。大漁だったんだ! いつもほとんどとれない岩礁のあたりが妙にさわさわと波立っているから仲間の船と一緒に行って網を投げてみると、とれるわとれるわ、久しぶりに生け簀が溢れて船がひっくり返りそうになったよ」
「そうかい、父ちゃん、良かったね!」
 マーカスは何度も、森での冒険のことを切り出しかけたものの、父と母があまりにも嬉しそうだったので、ついに言い出せずじまいだった。
「やっぱりこのラッパは幸運のラッパなんだよ!」
 夜更け、子供部屋の二段ベッドに座り、月明かりに輝く黄金のラッパを見つめつつマーカスはつぶやいた。
「だといいんだけれど…」
 シェリーのほうは相変わらず不安そうだった。
「…そうさ、このラッパはきっと、『マーマン』のクラリオンなんだ!」
 兄は、上半身は魚で、下半身が人間の男性の人魚が、月光に照らされながら、海から突き出た岩の上で小さなラッパを吹いている光景を想像した。
「もし本当にそうだったら…」 妹は毛布を引き寄せて言った。「マーマンたちが『返してくれ』とか言ってきたら、返してあげるの?」
「…そうだなぁ、『確かにもともとそいつらのものだった』という確かな証拠があったら、返さなくっちゃならないかもな。…でもその前に、儲けさせてもらわないと…」
 マーカスはラッパを布で丁寧に磨きながらぽつりと言った。

 数週間後、スコットランドのとある小さな漁村の駅に停車する汽車の中に、コナン・ドイルと二人のメイドさんの姿があった。
「『男性の人魚』だなんて、あまりゾッとしませんわ」
 ブライディーは古い本の挿絵に描かれた不気味な銅版画を見つめながら言った。
「その村では、最近ちょくちょく、それらしい生き物が目撃されているらしいんだ」
 ドイルは最新式の写真機を、列車の左右の車窓に写る灰色の海と、深い森に、代わる代わる向けてみながら言った。車両の客はまばらで、空いていた。
「人魚だろうと、ネプチューンだろうと、ぜひ見つけて写真に撮るか、できたら捕まえてスクープにしましょうよ!」
 大人気の見せ物小屋のことを思い出したデイジーはいつもにも増して意気軒昂だった。

「ねぇお父さん、『海蛇亭』に何日か前から泊まっているロンドンから来た人たち、あの人たちって、何者なのかな?」
 マーカスは、魚や貝やら海藻のシーフード・スープにパンを浸してかぶりつきながら尋ねた。きょうはその上にローストビーフが付いていた。
「ああ、ロンドンから来た有名な作家とメイドたちらしい。なんでも最近のこのへんの噂に興味を持ったとか」
 タートルネックのセーター姿の父親は小さな貝殻を吐き出し、少し上等のジンを飲みながら答えた。
「噂って、あれですかねぇ。マーマン?」
 母親は新しく入れ替えてピカピカになった窓ガラス越しに、嵐がやって来そうな雲行きの空と海を眺めた。
「マーマンって、本当にいるの?」
 ちっちゃなシェリーは本物のバターをパンに塗りながら真剣な表情になった。
「ああいるさ。漁師仲間で見た奴も多い」
「お父さんも見たことがあるの?」
「チラッとだけな。本当にそうだったかどうかは自信はない。神様にかけては証言できないけどな。ただ、奴らがマーマンだろうと、似たようなそれらしい魚だろうと、ちょくちょく目撃されるようになってから大漁が続いていることは確かで、喜ぶべきことだな」
 父は残りのジンを飲み干した。
「夏物の麻のドレス、買ってくれる?」
「ああ、買ってやるぞ」
「ぼくらもマーマン見られるかな?」
「ああ、縁があったらな。だけど危ないことをしちゃあだめだぞ」
「分かってるよ、お父さん」
 マーカスはちらっとあのラッパのことを思い浮かべた。吹いてもちっとも鳴らないラッパ。その代わり海や湖や沼のほうから音が聞こえてくるラッパ…
(あのラッパがマーマンたちと魚群を呼んだのかな? ロンドンから来た人たちがうろうろして彼らを追い散らしてしまわないかな? もしそうなったら大漁も続かなくなってしまうかもしれない…)
 子供部屋に戻ってからマーカスは、ボール箱の中のゴムまりや絵本やブリキの兵隊たちの底に隠してあった小さな黄金のラッパを撮りだした。
「お兄ちゃん、今夜も吹くの?」
 妹は立ちすくんで言った。
「ああそうさ。でもな、都会から来た連中がマーマンを写真に撮ったりなんかしたら、物見高いのがどっと押し寄せてきて、ややこしいことになってしまうかもしれない。だから、このラッパで『恐ろしいマーマン』を呼び出せたら、いいかな…みたいな…」
「『恐ろしいマーマン』だったら、あたしたちにも怖いことをするのじゃあ?」
「地元の者とは仲良しなんだよ。脅かすのはよそ者だけさ」
 兄はそう言ってラッパをくわえると、窓ガラス越しに真っ黒な海に向かって、なにがしかの旋律を吹いた。二人は海の彼方から、あるいは陸側の沼や湖から、ほんのかすかに、それらしい音が聞こえてきたような気がした。

 ドイルとメイドさんたちはそれぞれ大きめのランプを掲げて夜更けの岸壁を歩いていた。 寄せては返す波、吹き寄せる潮風にはもう寒さや冷たさは感じられなかったものの、なにかゾッとするような感じが漂っていた。
「さすがに夜は無理かなぁ…」
 立ち止まって首からぶら下げたフラッシュバルブ付きの写真機と双眼鏡を。かわるがわる覗き込んで、入り江の対岸を覗いてみていたドイルが呟いた。
「いま何かラッパの音のようなものがしませんでした?」
 ブライディーが言った。
「ラッパ?」
 ドイルとデイジーは耳を傾けたものの、聞こえてくるのはザーッザーッ、ドップーンと寄せては返す波の音と、ヒューヒューと吹く風の音だけだった。
「あっ、また鳴りました」
「本当に? どこから?」
「遠くの海のほうから… じゃあなくて、距離は近いけれど、深い海の底のほうから聞こえてくるような気がします」
「バカねぇ、お姉ちゃん。海の底で鳴っている音が聞こえてくるはずがないじゃない」
 デイジーは溜息混じりに肩をすくめた。
「ずーっと鳴っています。海だけではなくて陸の森の、湖や沼からも聞こえてくるような気がします」
「そう言えば、何かそのような音が鳴っているような気がするな」
 ドイルは点々と灯りが灯っている村のほうを振り返った。
「あたしには何も聞こえないわ」
 ぬめぬめとぬめる波打ち際の岩伝いに歩いていたデイジーが立ち止まって暗い波間を覗き込んだ。と、その時、突然大きな波がザップーンと打ち寄せたかと思うと、中から、人のような、魚のようなねズラリと並んだ牙を剥いた者が、両手のような、鰭のようなものでデイジーの両足首をつかんで引きずり込もうとした。ランプがガシャーンと割れた。
「ギャーッ!」
 ドイルが間一髪、後ろから羽交い締めにしてくいとめた。

「助けてぇ!」
 デイジーは絶叫した。自分のカンテラを岩の上に置いたドイルが力まかせに後ろへ引っ張ると、鱗だらけの手にガッシリとつかまれた靴が左右ともスッポリと抜け落ち、奪った者は濁った灰色の海にドプンと転がり落ち、奪われた者はぬめる地面に尻餅をついた。
「大丈夫?」 ランプを掲げたブライディーは叫びながら駈け寄った。「大丈夫ですか、ドイル様?」
「ああ」 ドイルは汚れてしまった背広を無意識にはたきながら立ち上がった。「相手の顔や姿を見たか?」
「思い出したくないよぅ」 小さなメイドさんは、尻餅をついたまま暗い水面を眺めながらしきりに後じさりを試みていた。「…忘れたいけれど忘れられないんだろうな…」
「言ってくれ! ぼくらはそのためにわざわざやって来たんじゃないか。化け物のように見えて、案外観光客を脅かすのが趣味の地元の人間かもしれない」
「違う! 違うわ! あれは『手』じゃなかった。ウォーレス先生の言う『何かの器官』だった」
「マーマン、本当にマーマンだったのか?」
 デイジーはそこで初めてブルブルと小刻みに震えはじめた。
「ハゼのような、オコゼのような、ケラのような…」
 その時、また海の彼方と森の奥から、プップップーというラッパの音が流れてきたのをブライディーは感じた。
「シーッ! またラッパの音が…」
「ラッパの音なんかどうでもいいじゃないか!」 ドイルは珍しく興奮して大声を出した。「…いや、失礼。関係あるのか? いまの奴と、ラッパの音が? 海の中で音が聞こえるのか?」
 目の前の海面がバシャバシャと波立ちはじめた。魚群にしては、このあたりの海にはいるはずのないかなり大型の魚の群れだった。
「聞こえるんです! 音であって音じゃないんです! 聞こえる人には聞こえるんです。聞こえるモノには聞こえるんです」
 何を言っているのか分からないブライディーの言葉が山彦のようにこだました。
「聞こえるんです…きこえるんです… キコエルンデス…」
 音はねじれ、曲がり、歪曲してうめきのようになった。
 ドイルは片膝をついて、激しくざわめき続ける水面に向けて写真機を構えた。
「ドイル様、おやめになったほうがいいです!」
「何を言う!」
「ドイル様、やめて! お願いです!」
 しかしレンズは向けられ、閃光が走った。
 その瞬間、海の中から一本の鞭のようなものが伸びて、首からさげた写真機に巻き付いてもの凄い力で引っ張った。写真機ごと海に引っ張り込まれそうになった彼を、今度は二人のメイドさんが抱きついて支えた。
 ブライディーは素早くストラップを外した。 写真機はカシャンカシャンと何度も岩に打ち付けられながら、最後はパシャーンと海の中に没した。
 プップップー パッパラパー
 勝ち誇ったラッパの音が響いたような気がした。
「一体何者だ? どうしてラッパの音が聞こえるような気がするんだ?」
 ドイルは懐から拳銃を取りだして、いまや小型の潜水艇が浮上してきそうなまでのゴボコボとした泡立ちに銃口を向けて引き金をひいた。
 バーン バァーン バァァーン!
 射撃は的を得ず、泡立ちは静まるどころか、ますます大きく高くなった。
「いったん引き揚げましょう!」
「バカを言え! 目の前に、目の前で怪異が起きているというのに…」
「わたくし、いろいろ経験してきて分かるんです。『これ』は危険です! 普通の幽霊や、悪霊や、そんなものじゃないです! 何か古い、古い、古い、龍よりも古くからいた…」
「ドイル様、あたしもそんな気がするわ。…ヤバいよぅー」
 メイドたちは泣きじゃくった。
 パッパッパッパァー
 どこかで吹かれている、そしてどこからか水のあるところの深みから響き渡るラッパの音はでたらめな、いや、不可解な「音」を奏で始めた。
「おおかたの人間には聞こえず、『音楽』じゃない、意味も成さない『あの音色』は、『あのものたち』にとってはとても大切なものなんです。正体が分からないうちにどうこうしてしまったら、取り返しが付かないことになると思います」
 拳銃を構えたまま後じさりを始めたドイルの靴がグシャリと何かを踏んだ。置きっぱなしのカンテラが足下一面にもぞもぞとうごめく、ヒトデやエビやカニなどの生き物を写しだした。不気味な色のナマコやウミウシたちもいて、ラッパの音に合わせて小さな触角をクルクルと回していた。
 素早くデイジーをおぶったドイルは、ブライディーのカンテラを目標に、グシャグシャッと生き物を踏みつぶしながら集落のほうに逃げた。後には、ワサワサと勝ち誇った連中と、プップクプーという勝利の凱歌らしきメロディが流れ続けていた。

「海蛇亭」は田舎のさびれた宿屋の例に漏れず、黴臭くすたれた、町からやってくる物好きなどはほとんどいないところだった。
 それが、ロンドンから成功した…ということは金持ちの作家と、そのメイドたちが来てからは、明るく、賑やかに「あか抜けたメイドたち」を一目見ようとする地元の男たちや女たちも押しかけてきて、何代か前に開業した時の明るさと希望を取り戻し掛けていた。が、その朝の「裕福な紳士」の瞳は輝きを失い、メイドたちの顔からは血の気が失せてしまっていた。
「くそぅ… くそっ!」 ドイルはいつものようにパイプをふかそうともせず、脂で煤けた窓の外に遠く広がる海を眺めていた。「あれだけ目の当たりにしておきながら…」
 小さなメイドさんは、自分たちの泊まっていた部屋で、そんなにたくさん荷物がある訳でもないのに、早々と荷造りを始めていた。
「相手が悪かった… どんなに不可解な存在でも、一つ、二つ、十、二十…と数えられるようなものだったら何とかなるんだけれど、あいつらは無尽蔵にいるのよ。海の中に。そしていまでもボコボコと卵を産んで、ネズミ算式に増え続けているのよ」
 そんな様子を、建物の外、埃まみれのカーテンの影に隠れて眺めていたマーカスは、ニヤリとほくそ笑んでいた。
「ロンドンから来た人たち、昨夜はよほど怖い目にあったらしいな」 ラッパの入ったズックの道具袋を後ろ手で弄び、タンタンとスキップした。「紳士はともかく、メイドたちは今日じゅうに逃げ出すに違いないよ」
「何か、気の毒みたい…」 シェリーは目を伏せた。「ずっと留まり続けていたら、海蛇亭のおかみさんは儲かったのに…」
「だめだよ。よそ者が居座り続けるとせっかくのツキが逃げていくよ」
 残した朝食を年取ったテリアの餌皿に入れてやっていた大きなメイドさんは、何気なく見た窓の外に、そばかすだらけの男の子と女の子がこちらを眺めているのに気が付いた。
 二人はさっと逃げ去ったけれど、男の子の唇が、かなり腫れぼったくなっているのを見逃さなかった。
「あの子たちは?」
「ああ、マーカスにシェリーですよ。マーカスは元気のいいいたずらっ子でしてね」
 女将さんは溜息まじりに答えた。
「マーカス君は、ラッパか何かを吹かれるんですか?」
「いえ。特にそんなことは。どうしてですか?」
「いえ、何でもありませんわ。マーカス君たちの家を教えて頂けませんか?」

 その村のはずれに建つ家は、数人の大工職人たちが入って、トンカントンカンと建て増しをしている最中だった。見たところ、出来上がれば二つ目の子供部屋になるような感じだった。
(ここでラッパを吹いたら、ここから音が聞こえてくるはず… だけど待って。『電話』みたいに話しているところと聞こえるところが別なのだったら?)
 部屋の中ではマーカスが、袋に入ったラッパを慌てておもちゃ箱の中に隠していた。
「あれっ、あのロンドン・メイド。どうしてここにいるんだ? まさか、感づかれたのかな?」
「お兄ちゃんが余計なことをするからよ! あの紳士は『シンレイケンキュウ』なんとかって言う専門家なのよ。あのお姉ちゃんたちだって、メイドさんってことになっているけれど、ただのメイドさんじゃあないかも…」
「うるさいな! そんな簡単にこのラッパの秘密を嗅ぎつけられてたまるものか。脅かして逃げ出して行かないのなら、かわいそうだけれど…」
「だめよお兄ちゃん! ラッパのこと、パパやママに相談して、あの紳士の人にも見てもらおうよ」
 シェリーは兄の耳元に囁いた。
「嫌だ! うちにもようやく運が向いてきたんだ。誰にも渡さないぞ!」
 そこへ、両手いっぱいに土産ものの袋を抱えた父親が帰ってきた。
「お父さん、お帰りなさい!」
「お帰りなさい!」
「おお、マーカスにシェリー、お土産があるぞ。きょうもまたまた大漁でな。船がひっくりかえるところだったよ。…いや、実は、馬と小さな荷馬車を買おうかと思ってな」
「えっ、本当?」
 兄妹は顔を輝かせ、飛び上がった。
「いつでもどこでも好きなところに行くことが出来るし、使わない日はお金を取って人に貸すこともできるぞ」
「ぼくでも御者ができるかな?」
「ああ。少しずつ練習すればいい」
 しばらく親子の弾む会話を聞いていたブライディーは(仲の良い兄妹… まるでダブリンの貧救院時代の「お兄ちゃん」とわたしみたい…わたしたちは血のつながりはないけれど)と思い、一人ほんのかすかに頷いてから釘を打つ音がやまないその家を後にした。

 タコやイカがはき出す墨のような、まっ黒な雲が天を覆いはじめた。
 海蛇亭のおかみは窓ガラスを覆うように、窓枠に板を打ち付け始めた。その隙間からドイルが覗いていると、自分の旅行鞄だけを持ったデイジーが、ガックリと肩を落としひきずるような足取りで駅のほうから引き返してきた。
「嵐が接近しているから、きょうの列車は運休なんですって」
 小さなメイドさんは鞄をドサッと床に置いて言った。
「大丈夫。嵐なんか一日で過ぎ去るさ」
 ドイルは勤めて明るく言ったが、デイジーの顔は晴れなかった。
「だけどドイル様、汽車が来るのは火曜日と金曜日だけ。つまり三日後よ」
「ドイル様、わたくし、ちょっと気になる子供たちを見かけました」
 ブライディーは、マーカスとシェリーの兄妹のことを話した。
「すると何か、そのマーカスという少年が、犬笛のような音のしない魔法のラッパを吹くと、マーマンが現れて大漁になる、ということかね?」
「ええ。そんな気がします。その子は最近どこかで、魔法のラッパを見つけて拾ってきたのではないか、と…」
「で、そのラッパを使い続けるとどうなるんだ?」
「相手がいい妖精だったら、これからずっと少年の家族や漁村の人々に富と幸せを与え続けるでしょうが、悪いそれだったら、いつかまとめて大きな代償を請求されると思います」
「悪い奴に決まっているじゃない! 現にあたしたちは大変な目に遭ったじゃない!」
 デイジーは目をむいた。窓の外はゴォゴォと風が吹き荒れ始め、バラバラッと大きな雨粒が落ちてきた。
「でもそれだったら『もしもしこんにちわ、ちょっとお伺いしたいのですが…』と切り出しても、塩を撒かれて追い返されるのがオチだろうな」
 ドイルは首をひねった。
「だからもう知らないフリをして、三日後の列車でロンドンに帰りましょうよ」
 デイジーは旅行鞄の上にチョコンと座って目を吊り上げた。
「そんな訳にはいかないわ。利益を受けているのはこの村全体みたいだし、そうなると…」
 ブライディーは溜息混じりに言った。
「要するに、何か悪いことが起こってからでは手遅れだけれども、起きる前では誰も信じてくれない、ということだな」

 嵐は一日と一晩中続いた。海蛇亭をガタガタと揺らせ、建てかけの子供部屋をグラグラと揺すり、漁村全体をゆらゆらとゆらめかせて。
「お兄ちゃん、きょうはやめておこうよ。こんな日にラッパを吹いたって、お父さんも、村のほかの漁師さんたちも漁は休んでいるんだし…」
 シェリーはラッパが隠してあるおもちゃ箱を背中で隠した。
「だからその目的じゃあないんだ、あくまであいつらを追い返すためさ」
 少年はヒョイと素早く手を伸ばして、箱の中からラッパを取りだした。
「もう十分だってば! 小さいメイドさんは駅に向かったけれど、汽車が運休で乗れなかったらしいし…」
「だから、あとの二人の大人たちはまだ懲りていない、ってことだろう?」
 大きく息を吸い込んだマーカスは、ラッパをくわえて吹き始めた。まったく鳴らないラッパを…
「やめておこうよ。みんなお金が儲かるようにというんだったらともかく、そんな目的だけで使うのは…」
 ザーザーという激しい雨音にまじって、パッパッパーという無音のラッパの響きが海に、湖沼に、海蛇亭に流れていった。
「ラッパの音です! また聞こえます!」
 ブライディーが言い終わらないうちに、宿屋を降りたところの砂浜にズザザザザーンと何か大きな船が座礁したような音が轟いた。
 ドイルがまた板の隙間から覗くと、半分透き通った、数百年前の、ボロボロの髑髏の旗と穴だらけの灰色の帆をはためかせた朽ち果てかけた海賊船が乗り上げていた。
「あわわ…」
 デイジーと女将は唇に拳をあてがってあとじさった。
「おのれ、またあやかしか!」
 ドイルはゴム引きのレインコートを羽織り、頭巾をすっぽりとかぶって、灯のついたランプと軒先に置いてあった薪割り用の手斧を持って出て行こうとした。
「やめてください! 昨夜と同じ、あやかしです!」
 立ちふさがろうとした大きなメイドさんの脇を駆け抜けて、ドイルは一寸先も見えない雨の中に消えた。
「お客さん! どこへ行かれるんですか? 責任持てませんよ!」
 ブライディーも手早く同じレインコートを羽織ってその後を追った。

 幽霊海賊船は確かに目の前にあった。手を突き出して触ろうとすれば、突き抜けてしまうような幻影や霊体などではなく、昔の人々が建造し、乗り組んでいた船だった。船底にはフジツボがビッシリと付着し、ところどころに穴が開いて海水が浸水し、どう考えても嵐のせいで浮き上がってきたものだとは信じられないものだったが…
 ドイルは土砂降りの雨の中、手斧を振り上げて船底の横腹を打ち壊した。ほとんど腐り果てていて、長時間水に漬かったままのウェハースみたいにぐずくずになっていた板は、グシャッと鈍い音を立てて新たな穴が開いた。
 中に入ると、船室にあったはずのものはほとんど流れ出してしまった後のような感じだった。
 ランプを掲げて照らすと、やはり穴あきではあるものの上の船室の屋根で雨が遮られて、視界は少しだけだが開けた。
「ドイル様、帰りましょう!」 追いついてきた大きなメイドさんは、主人のレインコートをつかんで強く引っ張りながら叫んだ。「…どうしても調べたいのでしたら、嵐が収まってから、村の人々と一緒に調べるべきだと思います!」
「何を言う! この船は、どこか人目につかない島に座礁していたものが嵐で打ち寄せられたものに違いない。またじきに波にさらわれて今度こそ深い海底に沈んでしまうかもしれない。そうなったら、もう二度と機会はない!」
「ですから危険なのです。いま次の瞬間にもわたくしたちともども… ということだって」
「ブライディー、君の占いで、あと何分くらいこのままでいられるか占ってくれ」
「わたしの占いは、そんなことをするためのものでは…」
 ドイルはぐんぐんと歩いて、各部屋を物色した。
「船長室か、宝物室を見つけられれば何か残っているかもしれないのだが…」
 船室と甲板、甲板と操舵室やブリッジに掛け渡された梯子や階段は、ほとんどが欠け落ちて登れなくなっている。
 登れそうな階段を見つけては上へ上と上がる… 途中、閉じられたままの扉に行き当たると、用心深く、次々と開いていった。
 そのうちの一つ、片手でランプを掲げ、片手で手斧を振り上げ、足で蹴破ると、ボロボロの服をまとった骸骨がどぉーっと倒れかかってきた。
「キャーッ!」
「心配ない。骨になっている人間に災いが成せるものか」

 同じ頃、嵐に揺れる漁師の家の一つでは、マーカスが懸命に、その場では音の鳴らない黄金のラッパを懸命に吹いていた。
「お兄ちゃん、一体どんな方法であの人たちを脅かしているの?」
 妹のシェリーは両手を祈るように組んで尋ねた。
「沈没していた海賊の難破船を打ち上げてやった」
 兄はラッパを吹く手を休め、両目を閉じて夢見た。
「ええっ! すると、いまごろサーベルを手にした骸骨の海賊たちが…」
「いや、それは無理みたいだ。人間や人間だったものはどうこうできないみたいなんだ。このラッパは…」
「すると…」
「心配するなよ。もっと他の、もっともっと怖い方法で脅かしてやるんだ」
 マーカスは再びラッパに口をつけて吹き始めた。プップップー プップクプーと、嵐の風音や雨音に、かすかにラッパの音が混じり始めた。

 ドイルがいくつめかのドアを蹴破ると、そこは船長室らしかった。裾の長い立派なコートを羽織った骸骨と、部下らしいいくつかの骸骨が床に倒れていた。
 航海日誌や本のたぐいは全て溶けてしまったらしく、跡形もなかったが、宝箱らしい頑丈な樫の木箱がいくつか置いてあった。
「やったぞ!」
 ドイルは、壁やドアの時とはうって変わった慎重な手つきで箱の南京錠がかかった部分を手斧をカチンと当てて壊した。
 蓋を開けると、そこには、なんと、さまざまな形の小型のラッパがいくつもいくつも入っていた。ブリキや銀製だったものはまっ茶色に錆び付いていたが、黄金のものは往時の輝きを放ち続けていた。
「なんだ、これは? この船の船長は、船員たちにラッパの楽団でもさせていたのか?」
「それにしては、みんな少しずつ形が違いますが」
 船が再び海に引きずり戻され始めたのだろうか、グラグラと激しく揺れだした。

 ブライディーはそのうちの一つ、小さな黄金のラッパを手に取った。それはまるで、どこかの国の王様が、幼い王子のために作らせたもののような、精巧なものだった。
 恐る恐る口をつけて空気を吹き込むと、プーと音が鳴った。すると、不思議なことに、二人の脳裏に、欧州の、とある海岸沿いの古城で、幼い皇太子が広がる星明かりを映す夜の海に向かって、『この』ラッパを吹いている光景が思い浮かんだ。
「これは…」
 ドイルはやや上ずった声で言った。
「もしかしてドイル様も?」
「ああ。たぶん君と同じイメージが…」
 プップップー
 メイドさんは適当にピッチを押してメロディを奏でてみた。
 古い城の塔のバルコニー。眼下の波間がパシャパシャと波立って、裸の胸元を長い髪の毛で隠した少女が現れた。王子と少女は顔を見合わせて微笑み合った。
(もっと吹いて下さい!)
 少女は白魚のような指を組み合わせて、バルコニーの少年を見上げた。
 パッパラパー
 王子はラッパの先を星々に向けて、誰も聴いたことのない異国の旋律を演奏した。星々は一斉にグッと落ちてきて、二人の顔を明るく照らし出した。
 パッパッパー
(ぼくもそっちに行きたいよー)
 王子は石の柵の上に飛び乗って、ラッパを吹きながら目もくらむ断崖の下の海を覗き込み、矢眼の切れ込みをヒョイヒョイと乗り越えた。
(わたくしもそちらにお伺いしたいです)
 人ならぬ存在は、ラッパの音に合わせてバシャバシャと波を切った。しっとりとぬめった肌をあらわにして…
 星はチカチカと七色にまたたき始めた。
 プップップップッー
 ラッパの音は波間を遙かに渡り、七つの海まで響き渡って、そこに棲んでいるもろもろのものたちの耳なき耳に心地よい夢を与えた。
(いいや、君はこちらの世界では暮らすことはできない。ぼくのほうが、そちらへ行くよ!)
 王や王妃や兵隊たちが階段を駆け上がってきた。
「王子!」
「王子様!」
 うろたえ、立ち止まり、手を差し伸べた。
「王子よ。そなたはあやかしにだまされておるのだ。そこから飛び降りたら身体じゅうの骨は砕け、血潮を飛び散らせて絶命するだけだ!」
 しかし、王子は狂ったようにラッパを吹き続けた。もはやその音は音楽とは言えず、常人には全く意味の成さない音の羅列になってしまっていた。
 と、海面に黒く巨大なものの影が映った。
「鯨か?」
「大王イカか?」
 兵士たちは思わず弓矢を構え、槍を掲げたものの、とてもそのようなものでは傷つけることはできない存在だった。
 とてつもなく大きな影は、直径何十フィートもの水柱を巻き上げて立ち上がった。王子が恋い焦がれていた人ならぬ女性とともに。
 人魚の姫は、両手を大きく広げて王子をさし招いた。王子はラッパを握り締めたままその手の中に飛び込んでいった。
「王子!」
「王子様!」
 後に残された人々は、慄然とした光景を目の当たりにした。
 人魚の姫は、その巨大な「もの」の器官の一部だった。「それ」は、自分の躯の一部を、相手が望む形状に、自由自在に変えられるのだった。
「それでも構わない。それでも構わないさ!」
 抱きあった姫の花の顔が溶け出し、身体が腐り落ちはじめてさえ、王子は至福の表情を浮かべ続けていた。
『マタ一ツ、取リ戻シタゾ。我等ヲ統ベ従エル、深淵ノくらりおんヲ…』
 王や兵士たちは、ほんのわずかにキラッと光るきらめきを残して黄金のラッパがその「もの」に吸い込まれていくのを見た。

「やはりこの世のものならぬラッパが、この世界にいくつかあるのだな」
 ガタガタと揺れ続ける難波船の中、ドイルは一つ二つ頷いた。
「アレイスター様やサダルメリク様のような魔導師ならいざ知らず、とても普通の人間に御せる代物ではない楽器が」
 メイドさんはラッパをそっと宝箱に戻しながら言った。

 嵐は相変わらずビュービューと吹き荒れ、かすかなかすかなラッパの音はパパパァーと流れ続けていた。
「しかし、伝説と真実が入り交じっていた遠い遠い昔においては、それを求め欲しがる人間もいた、ということだ」 ドイルはレインコートの裾を翻らせながら、さらに船内の探索を続けた。「…君の言うとおりだったら、この船の船長は海賊にして魔導師だったのかもしれない。けれど、何番目かの相手の力が上回っており、ついにやられてしまった」
「曲がりなりにもあれだけのラッパを集めていたのです。そのうちの一つのラッパの力は、わたしたちがたったいま見た通りです。ハッタリやこけおどしではなくて… それを手に入れた船長さんだったけれど、さらにもっと凄いラッパを求めて航海を続け、ついに返り討ちにあってしまった、というところでしょうか」
「すると『そいつら』は、遅かれ速かれマーカスの家にラッパを取り戻しに来るな」
「ええ、でも『彼ら』は陸地が苦手ですから、おいそれとは無理でしょう。危ないのはマーカス君がラッパを持って、海なり湖なりに出かけた時ではないかと思います」
「よし、もうめぼしいものはないみたいだ。引き揚げよう!」
 ドイルが踵を返そうとした時、プップップーというファンファーレのような旋律が響き渡り、難破船はグラグラッと縦横に揺れたかと思うと、引き潮に攫われてズザザザーッと目にも止まらない勢いで走り始めた。
 なんとか丈夫さを保っている柱の一つにしがみついたドイルは、メイドさんをかばうように抱きしめた。
 船底にも横腹にも、ところどころに大きな穴が開いている難破船が、どうして再び沈没しないのか不可解だったが、とにかく目には見えない猛烈な力で引っ張られて、まるで水面から浮かび上がって飛ぶように進んだ。
 数分後か十数分後か、ガガガガッーと激しく岩をこすり、ようやく止まった。
「怪我はないか、ブライディー?」
「ええ、ドイル様こそ…」
 二人は用心深くあたりを伺いながら甲板に上がった。
 そこは、北海のどこかの島の、光苔か、海蛍か、洞窟全体がぼんやりと輝いている大きな洞窟だった。
 プップップー
 パッパッパァー
 プップクプー
 ほんのかすかに、何本ものかすかなラッパの音が響き渡っている。
 メイドさんはドイルに手を取られて、ぬるぬるとぬめる岸壁に上陸した。
「誰が吹いているのでしょう?」
「出来うることならば確かめて帰りたいものだ」
 二人はランプを掲げながら、ドイルはその上に拳銃を懐に隠し持ちながら進んだ。洞窟は途中迷路のようにいくつも枝分かれしていて、漂着した者たちか、宝物目当てでやってきた者たちか、いくつもの白骨が行き倒れていた。
「ドイル様、どうしましょう、出口ですか? それとも…」
「もちろんラッパが鳴っている場所だ。出口を探すのはそれからだ」
 ブライディーはダウジングの棒を取りだして、心を静めて占った。
「こちらだと思います…」
 いく又もの分かれ道を次々に選び進み、どんでん返しの隠し扉をくぐって、ようやくたどりついた先は、天井から数え切れないほどの鍾乳石が垂れ下がり、地面からは石筍が伸びる海神の広間だった。
 二人は「ハッ!」と息を呑んだ。
 いくつかある楽器掛けのような石筍の上に、さまざまな奇妙奇天烈な形の黄金のラッパが掛けられていて、吹き抜ける潮風に人のものならぬ音楽を奏でていた。
 ホラ貝の形をしているものがあり、太古の妖花の形をしているものがあり、異世界の銃の形のようなものなど、さまざまなラッパが面妖ではあるが均整のとれた曲を合奏していた。
「ポセイドンの楽団だ…」
「海神はどこにいるのでしょう?」
 メイドさんは怖々辺りをみわたしたが、あるじらしき者は見あたらなかった。
「…おおかた、兄のゼウスのところに喧嘩を売りに行ったか、北極の氷山の散策にでもでかけているのだろう…」
 ドイルは呆然としてつぶやいた。
 石筍の上には、明らかに引っかける棒のような支柱が伸びているにもかかわらず、ラッパが掛かっていないものもいくつかあった。
「ドイル様、あれは…」
「ああ、盗まれたか、散逸して、まだ取り戻していないものがあるのだろう」
 ふと見ると、二人が難破船の船長室の宝箱の中で見つけ、以前の持ち主の王子の幻影を見た黄金のラッパが、いつのまにか石筍の一つにちゃんと戻っていた。
「マーカス君が手に入れて吹いているラッパも、ここから持ち出されたものだと思います…」
「早く元の場所に戻さないと、どんな祟りがあるか分かったものではない、という訳か…」
 ドイルは眉を引き締めた。

「…とにかく、まずはとりあえずはここから逃げ出さなければな。頼むぞブライディー。できたら気色の悪い海の生き物がわさわさしていない通路を通って脱出したいものだが」
「わかりました、ドイル様」 大きなメイドさんはダウジングの棒をかざして一心不乱に占いはじめた。「…外の世界へと抜ける道はいくつかあるようですが、どのコースもまがまがしい生き物たちで充ち満ちているようです」
「困ったな。襲われるのは嫌だな。たとえ小さな奴らでも、噛まれたり刺されたりもされたくない。毒などを持っていたら大変だしな。…何とか方法はないのか?」
「あります。この広間に飾ってあるたくさんのラッパのうち、どれかがどれかの生き物を従えるものです。脱出路に居座っている生き物をどかせるラッパを見つけて拝借し、それを吹けば…」
「いつものことながら、君がいてくれて本当に助かるよ」
 ブライディーは目を閉じて再び心を静めて、それからゆっくり再び開いて、とある石筍の上に掛けてあったチューブの部分がくねくねと奇妙にねじ曲がった小さなラッパを取り上げた。
「ポセイドンさん、ちょっとのあいだだけお借りしますね。すぐにお返ししますので、怒らないでくださいね…」
 そっと口を付けて、静かに息を吹き込むと、プゥーと、異世界の音色が響き渡った。
「曲は、曲は知らなくても大丈夫なのか?」
 ドイルはメイドさんが手にした黄金のクラリオンを見つめて尋ねた。
「曲はもちろんあると思います。ですけれど、わたくしは知るよしもないので、ぶっつけ本番で吹くしか仕方がないと…」
「すると、そのマーカスという少年もでたらめに吹いて、海の生物を操っているつもりになっているという訳か?」
「はい」 メイドさんはコックリと頷いた。
「滅茶苦茶に吹いてもある程度ことができるのですから、然るべき曲を知っている魔導師がこのラッパを手に入れたなら、海軍の大艦隊にも匹敵する力を手に入れられるのではないか、と…」
「ううむ、それほどまでに価値のあるものだとは…」
「さぁ、参りましょう!」
 ブライディーはラッパがいくつも飾ってある広間を名残惜しそうに眺めている主人の手を引くようにして、いくつもある分かれ道の洞窟の一つに飛び込んだ。
 息が出来ないくらいに生臭い臭いがたちこめる横穴の先には、とてつもなくまがまがしいものが横たわっている気配が感じられた。
 グチョグチョネチョネチョという巨大な軟体動物が蠢く音がした。そこから発せられるまがまがしい邪気が、巨大な鮹やイカではないことを示していた。
「あいつの前を通り抜けるのか? 横切れるだけのスペースはあるのか?」
 メイドさんはコックリと頷いた。
「行くしかありません。門番の横を人間がすり抜けられそうな出口はここだけです。…それとドイル様、いくらご興味を持たれても、あの門番の姿をランプで照らして姿を見てみよう、などとは思われませんように」
「なんだ。それはどういう意味だ?」
「あれはきっと、普通の人間が目の当たりにするには耐えられない姿形をしていますから…」
 言い終わるとメイドさんは、持ち出してきたラッパをプップップップッーと吹き始めた。
 すると、あなぐらの前方に居座っていた「それ」は、まるで子守歌を聴かされた赤ん坊みたいに、グニャリとしまりのない音を立てて洞窟の脇によけた。
「さぁ、ドイル様、早く!」
 ブライディーはドイルの手を取って一気に駆け抜けた。途中ドイルはランプをその「もの」のほうに掲げようと試みたものの、灯りが照らし出したのはメイドさんの青ざめた横顔だった。
「いけません!」
 何度も足を滑らせて転びながら、なんとか突っ切ると、前方に小さい針の穴のような明かりが見えてきた。
「出口だ!」
 その時、後方から象の鼻に似た物体がブワーンと襲ってきた。それは間一髪で空を切り、洞窟の壁にバシーンと当たった。命中して背骨がへし折られなかったのは、ただの幸運だった。
「ほら、返すわよ!」
 メイドさんは振り向かずに、くだんのラッパを放り投げた。

「あんたら、あの洞窟から抜け出て来たのかね?」
 二人を助けてくれた島の漁師たちは目を丸くして言った。
「あそこは海神の住処でな。お宝目当てに入って生きて帰ってきた者は、いままで一人もいなかっただ…」

「あの洞窟に棲んでいる海神は、一体どのようなものなんだ?」
 島でただ一軒のパブ。あかあかと燃える暖炉の火にあたり、ウイスキーをすすりながらドイルは人々に尋ねた。幸い、外の風と雨は次第におさまって、「遭難者」を一目みようと集まってきた島の人々は次第にその人数を増しつつあった。
「さぁ、分からねぇな。とにかくピクト人やヴァイキングやらよりも、もっと古いことだけは確かだな」 酒場の主人はメイドさんに、卵酒をつくって差し出しながら言った。「昔むかしの大昔、オーディンやロキやトールたちが闊歩していた神代の昔からいると言われているもんだ。…ほらよ、お嬢ちゃん」
「有難うございます。…時に、あの洞窟からラッパのような音が聞こえてくるようなことはありませんでしょうか?」
「あるある」
「あるともさ」
 島の人々は一様に頷いた。
「洞窟の迷宮を吹き抜ける潮風の音だ、ということになっているが、海神がお気に入りの貝で作った小さなラッパを吹いているんだ、と信じている者も少なくないよ」
 メイドさんとドイルは思わず頷きあった。

 島々と本土を結ぶ小さな蒸気船に乗せてもらって、船に揺られること一、二時間、ドイルとメイドさんが「マーマン伝説」の漁村に戻ると、デイジーや、海蛇亭のおかみや、マーカスとシェリーの両親や、村の人々が血相を変えて走ってきた。
「大変よ、ドイル様!」
「どうしたデイジー?」
「あの兄妹が、嵐の日から行方不明なの。ドイル様やお姉ちゃんが、幽霊船に乗って消えたから、同じように乗り込んだんじゃあないか、と思って…」
 デイジーは息せき切って言った。
「一緒ではなかったのですか?」
 父親は二人をすがるように見た。
「いえ、一緒ではありませんでした」
「あなたたちは難破船に乗って、一体どこにいらしていたのですか?」
 母親はメイドさんの肩をつかんで尋ねた。
「それは…」
 また幼い日の自分と「お兄ちゃん」のことを思い出した。勝手に遠くへ出かけて、よくシスターたちに怒られことを…
「ここからそう遠くない『海神の島』です」 ドイルが代わって答えると、人々は一様に顔を見合わせた。
「海神島だって!」
「あの島の迷宮の洞窟に迷い込んで出てこれた者は一人もいない、って言うぞ」
「ああ、マーカスにシェリー…」
 母親は桟橋に泣き崩れた。
「皆さん、落ち着いてください。まだだめだと決まったわけじゃあありません。現にぼくたちはこうして無事に帰って来れたじゃあないですか?」
「そうだそうだ。さっそく捜索隊を編成して海神島に渡ろう。向こうの島の連中にも協力してもらって…」
「島には一緒に渡りましょう。しかし、洞窟内の調査は、ぼくらに任せてもらえないでしょうか? 皆さんもよくご承知の通り、あの島の洞窟は非常に危険なのです」
 ドイルは真剣な目でみんなを見た。
「ちょっと待ってください。確かにドイルさん、あなたは屈強そうだが、二人のメイドさんはどうなんだ?」
 兄妹の父親が食い下がった。
「彼女たちは…」 ドイルは口ごもってから続けた。「…無論、ただのメイドではありません。ぼくの重要な助手たちです」
 ざわめきが起きた。
「…そうよ、あなたたち、不思議だとは思わないの? 『いままで、迷い込んだ者が誰一人出てこれなかった洞窟の迷宮』から、いとも簡単に脱出できたことを…」
 低い鼻をツンと上に向け、背中をそらせたデイジーの口をブライディーが押さえつけた。
「そ、そう言えば…」
「確かに妙だな…」
 村人たちは互いに顔を見合わせた。
「もしかして、こちらのメイドさんは『魔女』なのでは?」
 ざわめきはさらに大きくなった。
「違います!」
「違うってば!」
 大きなメイドさんと小さなメイドさんは目を吊り上げたが、ドイルはしれっとして言った。
「そうです。ハッキリ申し上げてこの二人は、ロンドンでは…いや、イングランドでは名うての魔女です。皆さんの目には若く映っているでしょうけれど、実はヘイスティングスの戦いの頃から生きているのです」
「ドイル様!」
 二人はますます顔を真っ赤にした。
「シーッ! こうでも言っておかなければ、みんなを危険に巻き込むだろう?」
「この村は最近大漁続きで儲かっていたのよね。兄妹を無事に救出した暁には、たんまり報酬を請求しましょうね!」
 デイジーは頬を膨らませて言った。
 気のせいか、海神島のある方向の水平線から、まるで招くかのようにほんのかすかなプップップーとラッパの音が聞こえてきた。

 話は再び少し前にさかのぼる…
 大嵐の中、紳士と大きなメイドさんが、打ち上げられた幽霊海賊船に乗り込んだとたん、船が海に戻っていったらしいことを噂に聞いたマーカスは、ほくそ笑むような、泣き出しかけるような複雑な表情で、黄金のラッパを撫でさすった。
「ざまを見ろ! はるばるロンドンからやってきて、余計なことに首を突っ込むからだ」「だけどお兄ちゃん、もしもあの人たちが帰ってこなければ、あたしたちは人殺しになってしまうかも…」
 妹は一筋、二筋、涙をこぼした。
「ばかを言うなよ。あいつらはあの船に勝手に乗り込んだそうじゃないか。海蛇亭のおかみさんが止めたのにもかかわらず。だから、ぼくらには責任はないよ」
「そうかなぁ… あの人たちは、この村の出来事を調べに来ていたわけだし、そこにあんな恐ろしい船が打ち上げられたりしたら、乗り込むだろうということは分かっていたと思うけど」
「うるさいな。おまえの部屋を増築してもらえたのも、荷馬車を買ってもらえそうなのも、ぼくがこのラッパを見つけたお陰なんだぞ」 マーカスはうやうやしくラッパを掲げた。「あたし、お部屋も、荷馬車もいらない… 欲しくない…」
 シェリーは涙を拭いながら、居間を横切って外へと駆け出していった。
「おい、どこへ行くんだ?」
「シェリー!」
 両親は椅子から跳ね上がるように立ち上がって、開けっ放しにされたドアから後を追った。その後からラッパを懐手に隠し持ったマーカスも出て行った。

「シェリー! おおぃ、シェリー!」
 収まったとはいえ、霧のように視界を遮る小雨が降り続く中、家族の声が響いた。
(このラッパは、ずっとぼくらの願いをかなえてきてくれた)
 岩陰に隠れたマーカスはラッパを取り出すと、海に向かって吹いた。
 プップップップッー
 かろうじて聞き取れるか聞き取れないかという音が、灰色の水平線の彼方から聞こえてきた。
(…海のものどもよ、深きところから来たりしものどもよ。もう魚はいい。魚は要らない! その代わり、妹のシェリーを見つけて返してくれ!)
 プップップー
 マーカスも驚くほどの速さで反応があった。 霧雨の中、海坊主のような、雲を突く黒い大きな物体が、ぬううーっと現れた。
 少年はそいつの腹というか、胸のあたりに密生しているカブトガニの足に似たわさわさと蠢いている触手に、シェリーが捕らえられているのを見た。妹はぐったりとして目をつむり、ピクリとも動かない。
「シェリー! シェリー!」
 マーカスはじゃぶじゃぶと波打ち際に駆け出して絶叫したが、シェリーの目は開くことはなかった。
 プッププー プププ…
 狂ったようにラッパを吹いてみたものの、「それ」はまったく従う気配はなかった。
「待てよ! 待ってくれよ!」
 兄はとうとう服を着たまま、抜き手を切って泳ぎ、ゆっくりと遠ざかっていく大入道を追いかけようとした。片手にはしっかりとラッパを掲げ持ったままで。
「どこへ行くんだ! どうして言うことを聞いてくれないんだ!」
 しばらく暗い波間に見え隠れしていた小さな頭と細い手足と、黄金のクラリオンだったが、やがてそれも次第に見えなくなった。
 叫び声とラッパの音に気が付いて、二人の両親が駆けつけた時には、霧の彼方に誰も何もまったく見えなくなってしまっていた。

「それで、二人は海神島にさらわれたとして、まだ生きているものかしら? 生きているものだとしても、下僕に姿を変えられてしまっているのでは?」
 デイジーはブライディーの耳に囁いた。
「でもしかし、仮にわたしが占って、よくない結果が出たからと言って、再度の潜入調査をやめる訳にはいないような…」
「ブライディーの言う通りだ」
 ドイルは拳銃に弾丸を込め直した。
「ああ、それだったらどうして、お姉ちゃんたちが海神の洞窟で失敬したラッパを出口のところで返しちゃったりしたのよー」 デイジーは顔をくしゃくしゃにした。「…頂いて帰れば、再び潜入する時にどんなに便利だったか知れないのに…」
「マーカスとシェリーがどこかで拾ったラッパと違って、海神のコレクション・ルームから拝借したクラリオンを、そのまま持って帰ろうとしたら、それこそ逆鱗に触れてその場で執拗な追っ手がかかったかも知れないわ」「またしてもブライディーが正しい」 ドイルは撃鉄を起こして海の彼方に狙いをつけた。「あのラッパは、我々人間が使うのはもちろん、決して頼ったりしてはいけないものなんだ」

 きのう嵐が吹き荒れた、というのが嘘のような、カラリと晴れ上がった凪の海を渡り、一行は海神島に上陸した。
「あんたら、どうしても行く、というだがね? いっぺんなんとか帰って来られただけでも奇跡だというのに、やめておきなされ」
 島の漁師たちは真顔で見つめてくれて言った。
「子供たちが行方不明なんだ。それにはぼくたちがロンドンからやってきたことが多少なりとも関係があるらしく、責任がありそうなんだ」
 ドイルは島の反対側に広がるいくつもの風穴を眺めながら答えた。
「メイドさんたちは魔女らしいが、わしらに言わせたら心許ない。知り合いに魔術師がいるのなら、ぜひ腕の立つ者を頼んでから行っても…」
「ご忠告有難う。しかしいまから一度ロンドンに戻っている暇はない。時間がたてばたつほど、ということがあるからね」
 また風が出てきた。
 パパパー
 プププー
 またあの奇怪なラッパの音がかすかに聞こえ始めた。マーカスとシェリーの両親は胸の前で腕を組んで祈っていた。
「…そうですか、マーカスはわたしたちや島のみんなに大漁をもたらせたくて、魔法の海神のラッパを… そのことに気が付かなかったなんて… いまから思い返すと大漁があんなに続くというのは不思議なことでした…」
「ご自分をお責めになりませんように。それにお二人を叱ったりしてあげないでくださいね」
 ランプや水や簡単な食料、ロープや火薬、方位磁石などの装備品を点検していたブライディーが顔を上げた。
「お姉ちゃんいいの? そんなに安請け合いして? 難破船や洞窟の中は、みーんな骸骨ばっかりだったのでしょう?」
 デイジーが囁く。
「大丈夫よ。必ず助け出すわ」
「どうしてそんなことが言えるのよ?」
「よく耳を澄ましてごらんなさい」
 プップップー
 プップクプー
「…村に居るとき、海のほうから聞こえてきたラッパのメロディが聞こえるでしょう。きっとマーカスが吹いているのよ」
「分かったわ」 小さなメイドさんは肩をすくめた。「でもあたしは、できるなら一緒に行きたくないわ。それでなくても魚や貝やエビを捌いて料理するのはヘタクソなのに」
「前回はわたしたちも海神のラッパを拝借して脱出できたけれど、続けて同じ手が通用するとは思えないわ」
「分かりました。分かりました。次の汽車に間に合うように頑張りますとも。…無事救出の暁には、お志をよろしくお願いしますよ」
 二人の両親に向き直って言いかけたデイジーの口をブライディーは慌てて押さえつけた。

「くそぅ! 返せ! 妹を返せ!」
 苔か、ホタルイカの明かりがぼんやりと照らし出す、礼拝堂のように天井の高い洞窟。
 マーカスは、壁…ではない、何か途方もなく大きな生物、マッコウ鯨を立てたほどの大きさのある生き物の腹の触手に捕らえられて磔にされたシェリーを見上げて叫んだ。
「おーい、シェリー、大丈夫か? 目を覚まして返事をしてくれ!」
 妹はグッタリとうなだれたままだった。
 プップップー
 プップクプー
 マーカスは必死で、手にした黄金のラッパを吹きまくった。が、魚たちを呼び集められるラッパも、怪物に対しては何の効き目もあらわさなかった。
 妹は次第に、そいつが分泌する粘液に浸され、覆い尽くされそうになっていた。すでに腰から下は塗り込められてしまっていて、上半身や顔にもドロドロの液体がかかりはじめていた。
 バシャリ
 後方の洞窟の入り江で何かが跳ねる気配がして振りかえると、妹によく似た可愛らしい女の子が、海面から顔だけを出してこちらを見つめていた。
「君! 君は誰だ! 助けてくれよ! それが無理だったら助けを呼んできてくれよ!」
 マーカスは走り寄って叫んだ。
 女の子は悲しそうな顔をしたままで何も答えなかった。
「どうしたんだよ! 何か言ってくれよ!」
 バシャリと跳ねたその子の下半身を見てマーカスは息を呑んだ。
 プカリプカリ
 何人かの少女たちが次々に海面から顔を出した。
「…そんな、嫌だ! 嫌だよぅ!」
 囚われの身の妹を再び見上げて、マーカスは絶叫した。

「ブライディーの力があれば、二人がいるところまで行くのはたやすい」 ドイルは人々が貸してくれた銛と爆薬を肩に背負っていった。銛のほうは、害を成した鮫やシャチを仕留めてきた伝説の銛だった。「…問題は、助け出すことができるかどうかだが…」
「大丈夫だよ。あたしの能力があれば、帰りは一気に地上に…」
 デイジーはそう言いいながらも、周囲の洞窟の不気味な生き物に震えていた。
「デイジー、いくらあなたの能力が素晴らしいものでも、五人もいっぺんに脱出するなんて、とても無理だと思うわ」
 ブライディーは片手にダウジングの棒をね片手にランプを掲げて次々と分かれ道を曲がっていった。
「すると、帰り道もやっぱりこの道を通って帰るの?」
「さぁそれは… 着いた先に、抜け道があるかもしれないわ」
「そうであって欲しいわ…」
「要は海神がどうしてラッパを必要としているか、だ。単なる娯楽だろうか? ぼくは違うと思う。ウォーレス博士ふうに言うと、この地球がまだ海だけだった何億年も昔、宇宙のどここからやってきて、最初に『神』として君臨した存在が、海に棲んでいるものを下僕として従えるために作り出した、いわば『指揮棒』のようなものだと思う」
 ドイルは眉間に皺を寄せて言った。
「すると、ほとんどのラッパの指示を無効にして、改めて最優先の命令を出すことが出来る『最上位のラッパ』のようなものがあるはずよ! それを手に入れなければ!」 ちっちゃなメイドさんは勢い込んだ。「…それを頂戴したらもう怖いものなしよ! ドイル様とお姉ちゃんが見つけた『コレクション・ルーム』の大広間にあるのでは?」
「いや、他のものと一緒に、ぞんざいに飾ってあるとは思えないな。おそらく、最高のラッパだけは、海神が肌身離さず持っているのではないだろうか」
「シッ!」 ブライディーは棒を懐にしまった。「声が聞こえます!」
 ドイルとデイジーが耳をすますと、かすかに「助けて! 誰か助けて!」 という男の子の声が聞こえてきた。
「マーカス君だ。こっちのほうから聞こえるぞ!」
「ドイル様、相手はこだまを利用してわたくしたちを迷わせるつもりです。引き続き占いながら進みましょう!」
 棒は声が聞こえてくる方向とはまったく逆の方向を指し示した。
「えーっ! 信じられない!」
 デイジーが目を剥く。
「ブライディーを信じよう!」
 ドイルは拳銃を取りだした。

「おーい!」
「おーい!」
 呼び合う声が近づいたり遠ざかったりしているうちに、ついに重なり合った。
「マーカス君!」
「ロンドンから来た人たち!」
 マーカスは三人の懐に飛び込んだ。
「ドイルだ」
「デイジーよ!」
「ブライディーです」
「あれを見て! 妹を、シェリーを助けて!」
 指し示された先、岩壁に塗り込められてグッタリと目を閉じている小さな女の子を見て三人は息を呑んだ。
「もうこのラッパではどうにもならないんだ!」
 兄は黄金のラッパを差し出し、手に入れたいきさつを手短に話した。
「…ごめんなさい。ぼくは、おじさんやお姉さんたちを追い払いたくて、ラッパを…」
「そんなことはもういいのよ、もういいの」
 ブライディーはマーカスを抱きしめた。
「うーむ、このラッパではだめなのか。他のラッパが要るのか? …まさかこの状況で爆薬を使う訳にし行かないだろうしな…」
「しかしもう、別のラッパを取りに行ったり、他の方策を講じている間はないと思います」
 その時、入り江で様子を窺っていた人魚たちが一斉に「アーアーアー ムームームー」と声を揃えて、不思議な旋律を口ずさみはじめた。
「な、何よ、あいつら!」
 デイジーは腰を抜かした。
「このラッパで、あの旋律を吹け、とでも言っているのだろうか?」
 ドイルは少年から受け取った黄金のラッパを見つめた。
「う、嘘よ! さっきのこだまだって嘘だったじゃない!」 デイジーはわめいた。
「いえ、あの子たちは『そのラッパでこの曲を吹け』と言っているみたい… 『あたしたちのような悲しい存在をこれ以上ふやさないで』と…」
 ブライディーはドイルからクラリオンを受け取ると、たどたどしく人魚たちが歌う旋律を真似て吹き始めた。

「アーアアアー ララララァー ムームムムー」
 長い髪で胸元を隠し、瞳をうるませた少女たちは、入り江の水面をかすかに震わせながら、人ならぬ声で歌い続けた。
 ブライディーはマーカスのクラリオンで同じメロディを吹いた。
 プープププー プププププー プーププププー
 すると、シェリーを閉じこめていた粘液の泥壁がずるずると崩れ落ちはじめた。
「シェリー!」
 マーカスは入り江に飛び込むと、泥がポタポタと落ち続けているあたりで待ちかまえた。「ラァラァラァー ムァームァームァー ヌーヌーヌヌヌー」
 マーメイドたちの唱和が調子を変えた。
 プァープププー プァープァープァー プープープププー
 妹を救おうと無我夢中になっているマーカスの姿に「お兄ちゃん」を重ね合わせたメイドさんは必死でその後を吹いた。
 するとついに、岩壁の触手たちはついにヌニヌニと少女を手放した。
 真っ逆さまに落ちてくる妹を、マーカスはしっかりと受け止めた。
「でかしたぞ、ブライディー! マーカス君!」
 ドイルは妹を抱えて泳ぎ着いたマーカスの手を握って引っ張り上げた。
 岩壁の剥離と落下は続き、この洞窟の天井自体がいまにも崩れ落ちそうになってきた。 人魚たちは蜘蛛の子を散らすようにそれぞれ違う方向に逃げ去った。
「みんな、ありがとう!」
 ブライディーの叫びは、崩落の轟音にかき消された。
「さぁ、早く脱出しよう。デイジー、頼むぞ!」
「もうやってますよ、ドイル様」
 自慢げに言うデイジーの前には、黒い次元の渦巻きがぐるぐると動き始めた。
「マーカス君、ブライディー、先に行きたまえ! …ブライディー、そのラッパは置いて行くんだ」
「もちろんです」
 大きなメイドさんがクラリオンを埋まりつつある入り江に投げ込もうとする手を、マーカスがつかんだ。
「嫌だ! そのラッパは…」
「妹と、命なきラッパとどっちが大事なんだ?」
 ドイルが一喝すると、しぶしぶ手を離した。 ポチャリ…
 クラリオンは一瞬のきらめきを残して深淵に没した。
「ドイル様、続いて下さい! 術者のあたしが殿です!」
 デイジーにせき立てられて、ドイルも渦に飛び込んだ。すかさずデイジーもその後に続いた。
 直後、洞窟全体がガラガラと崩れ落ちて、生臭い腐臭を漂わせた汚泥に埋まった。
 うねうねとうねる歪んだ時空の中、一行は見たこともない景色を見た。
 瘴気が立ちこめ、絶え間なく泡立つ海面。 そこからヌッとばかり突き出た、巨大な鱗木に似た太古の「神」が、無数の触手を巧みに操って、同じように大きなノーチラスのクラリオンを吹いていた。
 すると、無数の様々なクラゲやイソギンチャクがわさわさと現れて、臣従の踊りを踊った。
「ドイル様、あれは?」
「龍よりもむかしに、この世界に君臨していた海神だろう。…ウォーレス博士がいたら喜ぶだろうが…」
 その光景もアッという間に終わり、気が付くと五人は海神島の砂浜にいた。
「お兄ちゃん、ありがとう…」
 シェリーは目をぱっちりと開いて言った。
「いや、お礼ならこのロンドンから来た人たちに言ってくれ」
「マーカス、シェリー」
 二人の両親や、島や村の人々が駈け寄ってきた。
「やれやれ、用意した武器はついに使わずじまいだったな」
 ドイルは笑顔でホッと溜息をついた。
「そうだ! お志を頂戴しなければ!」
「デイジー!」
 人々の輪に向かおうとするデイジーの襟首をブライディーがつかんだ。
 海神島の洞窟からは、風向きによっては現在でもラッパのような音が聞こえる、という…
     (次のエピソードに続く)





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