ブライディー・ザ・マジックメイド 短編集「一八九六 ロンドン新たな春」 「ブライディー。のど自慢に出る」 「ブライディー、看護婦学校を受験する」 「メイドさんたち、チャーリーの代演をする」 「狐の大家と狸の店子」 「シスター・セアラの宝物」 「ブライディーの子守歌」 「パリから来た兄弟」 「魂の幽閉者」 「ブライディー、のど自慢に出る」 ロンドンの日差しが明るさを増し、小鳥たちの囀りが賑やかになる頃、お屋敷の玄関をほうきで掃くメイドさんたちも、料理や洗濯などの水仕事が辛くなくなったことや、吐く息が白くなったことや、バケツからひしゃくで水を打つことができるようになったことで、深い森の木々の芽吹きを思い出し、 花屋の馬車の荷台からこぼれるような色とりどりの花。敷石で跳ねた拍子にそのうちの数本、ピンクのスイートピーや、紫色のストック、早咲きの赤いバラがこぼれると、メイドさんはあわててそれを拾って追いかけようとするけれど、花屋の御者は振り返りざまに「いいよ、あげるよ!」と叫んで走り去ってしまう。 その小さな花束の爽やかに甘い匂いに、メイドさんは、遙か故郷の小さな花々で満開の野原に思いを馳せてみたりする春の朝。 三月十七日の聖パトリックの日も近い。 (お気に入りの緑色のドレスは、直さなくても着られるかしら? 昨年はロンドンに来たばかりで、聖パトリックの日のお祭りにも行けなかったけれど、今年は参加してみようかしら?) アイルランドからやってきたメイドさんが、心を弾ませながら「英国心霊研究協会」のお屋敷に戻ると、チラシ集めの大好きなデイジーが、緑色のクローバーをいっぱいに描いたチラシを手にして走ってきた。 「お姉ちゃん、これもう見た?」 大きなメイドさんが横から覗き込むと、 「ロンドン・聖パトリック・デー記念 アイルランド民謡のど自慢大会。 参加費無料。豪華賞金賞品。 職業歌手・素人不問。生演奏付き」 と、書かれていた。 「…楽しそう… でも、アイルランド系で歌の上手な人はいくらでもいるし、それにプロの歌手のかたも出られるのでしょう? とてもかなわないわよ」 「そんなの出てみないと分からないわよ、お姉ちゃん」 ちっちゃなメイドさんはチラシをパタパタと振りながら言った。 ブライディーはチラシの隅に小さく印刷された「実行委員」の名簿の中に、ロンドンに来てからしばらく働いていたアイリッシュ・パブ「白詰草亭」の店主オマリーさんの名前があるのを見つけた。 (オマリーさんにご相談してみようかしら…) 「のど自慢に出たら、風のうわさでアメリカの『お兄ちゃん』にも伝わるかもしれないよ。『お兄ちゃん』の好きだった歌を歌ったら、思いだって伝わるかもしれないよ」 デイジーは上目遣いに大きなメイドさんの顔を覗き込んだ。 (デイジーもたまにはいいことを言うような…) そう思ったブライディーは、次の瞬間から「お兄ちゃん」が好きだった歌はどんな歌だったか思いだそうと試み始めた。 (「ケルト神話の伝説の英雄の物語を歌った歌」…これは「男歌」よね… 「イングランドとの闘いをそれとなく歌った歌」…これはだめよね。「故郷を捨てて新天地に赴く歌」「故郷を思い出して歌う歌」…お祭りにはふさわしくないかも… そうなってくると、あとは「恋の歌」か「子守歌」くらいしかないような…) 「エヘヘ… 考えてる、考えてる… お姉ちゃん、出るつもりなんだ!」 「いえ、やっぱりやめておくわ。長いこと歌なんか歌っていないし…」 「まだ少し日にちもあるから、練習すれば…」 「だって練習するところが…」 「公園は?」 「ロンドンの公園には『高歌放吟ヲ禁ズル』といういかめしい立て札が…」 「歌の練習なら、ここでやればいいじゃないか?」 いつの間にかやってきていたドイルが、安楽椅子に座りパイプに煙草を詰めがら言った。 「そうそう、休みの時間に。わしたちも楽しみにするよ」 ドッジソン教授も目を細めた。 「…もっともゲール語の歌だったら、わしたちには一体どんなことを歌っているのかは分からないけどね。…マザーグースだったら得意なんだけれど…」 「そ、それは…」 「ブライディーさん、ぜひわたくし手作りののど飴を試してみて下さい」 ポピーが小さなキャンデーの缶を持ってやってきた。 あっという間に三月十七日の聖パトリックの日がやってきた。 ロンドンじゅうのアイルランド系の人々が緑色の衣装やアクセサリーを身につけて広場に集まって、フィドル・ヴァイオリンの演奏をバックにジグやリールを踊り、黒ビールで乾杯し、ジャガイモ料理に舌づつみを打った。後でパレードも予定されている、とのことだった。 「オマリーさん、お久しぶりです」 お気に入りの緑色の、木綿の晴れ着のドレスに身を包んだブライディーが挨拶に行くと、執行部席のオマリーさんは、日頃赤い顔をますます赤くして、上機嫌だった。 「やぁブライディー、元気そうで何よりだよ。また一層きれいになったんじゃないか?」 「まぁ、オマリーさんたら!」 「まだお嫁には行っていないのかい? いまも…何とかと言ったな『英国《幽霊》研究協会』で…ドイル様のところで働いているのかい?」 「はい」 「きょうは『のど自慢』に出てくれるんだってね。すごい人数で覚悟しておいたほうがいいみたいだよ。わしらも前もって予選会をしておいたほうが良かったかなー、と思っているぐらいで…」 オマリーさんは舞台の脇に積み上げられた賞品のビールの樽や、小麦粉やじゃがいもの入った袋、夏服の生地などを示して言った。 オマリーさんの言ったとおり、のど自慢の出場者は数十人…百人近くにのぼった。 お爺さんやお婆さんはブライディーも聞いたことがない珍しい民謡を歌い、おじさんやおばさんたちはオペレッタの中の曲や端唄を、若いお兄さんたちは恋人に捧げるバラードを熱唱し、小さな子供たちは遊びの歌を合唱した。 判定の鐘に歌を打ち切られて怒り出す人もあり、判定の鐘がなっているのに歌い続ける人もあり、バックの生バンドは交代し、司会者も交代するくらいに延々と続いた。 メイドさんと同じ年頃の少女たちも、民謡や恋の歌を歌った。どの子もみんな上手かった。 昼過ぎになって、ようやくブライディーの順番が回ってきた。 借り物のアイリッシュ・ハープを抱いて舞台の上に上がったブライディーは深呼吸を一つすると、客席を見渡した。 すると、うしろのほうにドイルと、写真機を構えたドッジソン教授がいて、デイジーがちぎれんばかりに手を振っていた。 メイドさんは手を振り返すと、椅子に腰掛けて小さなハープをつまびくと、静かな歌を歌い始めた… ああ、愛しいあなた、あなたは風になって、鳥になって、遠い異国に渡ってしまった。 「必ずすぐに返ってきて、君を幸せにするよ」と言い残して… でも、わたしは何もいらないの… あなたがそばにいてくれさえすれば… 歌い始めてすぐ、酒を飲んだり、ものを食べたり、ざわめいていた会場はシンとなった。 それまでにも会場をシーンとさせた出場者は何人かいたけれど、にも増して、まるで水を打ったかのように静まった。 わたしは春の風になって、鳥になって、雲になって、ひとひらの花びらになって、あなたのあとをおいかけていきたい… だけどそうしたら、あなたはもっと遠いところに行ってしまうような気がするの… 鐘の係はすでに「合格」の鐘を鳴らそうと身構えていたものの、まるで魔法にかかったみたいに凍り付いていた。 聴衆たちもまた、同じだった。 ドイルも、ドッジソン教授も、デイジーも… わたしはただ、待ち続けるほかはないの… あなたはついに帰ってこないかもしれないというつらい思いをいつも抱きながら… 春の雨はわたしの涙。春の霧はわたしの心。 そして、春の嵐はわたしの心… 鐘の音は万雷の拍手にかき消された。 賞品のビール樽を馬車に積み込む時も、ドイルたちは夢うつつだった。 そしてブライディーにとっては、春の宵、一番ビールを酌み交わしたい人は、この場にいなかった… 「ブライディー、看護婦学校を受験する」 「えっへっへ、お姉ちゃん、いよいよね!」 めっきり暖かくなった朝、デイジーが冷やかすように笑いながら、お弁当のサンドイッチの入ったバスケットを渡した。 「ブライディーさん、これ、お守りです…」 ポピーが乾燥花で作った小さな花輪を渡してくれた。「…筆箱に入れておくと、いいと言われています」 「ブライディー、いよいよだね」 ドイルはまるで自分が試験を受ける時の前であるかのようにせわしなくパイプを触りながら言った。「…国語(英語)は大丈夫だよ。君は本当にたくさん本を読んでいるし… ただ、入学試験の時は自分の感想を書いてはいけないよ。問題を出題している者がどういう答えを求めているかを考えて書くんだ。例えば『ナイチンゲールは偉いと思います』じゃあだめなんだ。『わたくしもナイチンゲールのような立派な看護婦になれるように努力を惜しまず頑張りたいと思います』というふうに書くんだよ」 「はい、ドイル様…」 大きなメイドさんは答えたものの、その声も身体も固くこわばっていた。 その頭上に、まるで追い打ちをかけるみたいにクルックス博士の声が響いた。 「『二つの物体の間に働く万有引力は、両物体の質量の積に比例し、距離の平方に逆比例する』分かっているだろうね? わたしが書いた初心者向けの物理学の本をプレゼントしたんだ。必ず合格してくれなければ困る…」 「まぁまぁ、クルックス先生、そんなにプレッシャーをかけてあげたら逆効果ですよ」 ドッジソン教授はニコニコと笑いながら言った。「…いいかい、数学に限らず、出された問題を最初から解いていくことはないんだよ。簡単そうだと思う問題から手を付ければいいんだ」 「はい、そうします…」 「学校の門をくぐったら、そこにいるあいだは自分がメイドさんであることを忘れるんだ。『やりたいことをやるために来た』と自分に言い聞かせるんだ…」ウォーレス博士はメイドさんの耳に囁いた。「…ぼくもはじめは土地測量や建築を仕事にしていたんだけれど、機会に恵まれて好きな生物学を学ぶことができた」 「はい…」 ブライディーはまるで機械人形のような足取りで「英国心霊研究協会」のお屋敷を出て行った。 受験場にはいっぱい女の子たちが来ていた。 准看護婦の受験資格は、義務教育を終えていることだから、ブライディーより年下の子もいれば、年上の者もいた。単語帳や公式帳を繰っていくっている子もいれば、問題集を解いている子もいる。友達とお喋りしている子たもいれば、ぼんやりと窓の外を眺めている子もいた。 時間が来て、先生が前列から問題を配りはじめた。一時間目は国語の試験だった。 ボズウェルの「ジョンソン博士伝」から、ジョンソン博士が健康についての洞察を語っている部分だった。 (きっちりとしたきれいな文章…) メイドさんはそう思いかけて、あわててかすかに首を横に振った。 (いけない、感心している場合じゃあないわ…) 教室には鉛筆を走らせる音や椅子をずらす音、かすかな咳払いや息づかいだけが聞こえた。 筆箱に目をやると、ポピーから貰ったお守りの小さな花輪が覗いている。 (みんなが応援して下さっているんだ。失敗してガッカリさせてはいけないわ!) ブライディーはまなじりを決して問題に挑みはじめた… 数日後、お屋敷に、郵便配達のおじさんがいつもと同じ分厚い郵便の束を届けてくれた。 二、三日前からハラハラしながら仕訳をしていたブライディーは、とある薄っぺらい封筒に思わず手を止めた。 台所のドアの隙間から、デイジーとポピーが覗いている気配がありありと伺えた。 封筒を紙ナイフで開ける手が震えた。 引き出した便箋を広げると… 「サクセス」 と印刷されていた。 メイドさんの顔が上気して、春の花のようにほころんだ。 「ド、ドイル様! 皆様! デイジー! ポピー!」 うわずって裏返った声がお屋敷にこだました。 「メイドさんたち、チャーリーの代演をする」 日曜日、英国国教会の礼拝に参列した後のデイジーの楽しみは、広場のそここで行われている曲芸師の、いくつものボールやバトンや独楽を使った演技や、道化師や女道化師のパントマイムや、特に扮装はしていないコメディアンのおどけた一幕劇を、他の大勢の通りがかりの人々…親子連れや恋人たちにまじって見たり、辻音楽師たちのヴァイオリンやアコーディオンや手回しオルガンの演奏を聴いたりすることだった。 倹約家…というか節約家のデイジーが、前に置かれた帽子の中に小銭を投げ入れることはめったになかったけれど、例外があった。 それはぶかぶかのズボンをズボン吊りで吊った七、八歳のひょろひょろに痩せた少年で、あひるのように歩いてみたり、威張ってふんぞり返っている大人の物まねをしてみたり、トンボを切ったり逆立ちをしたり、一連の動作が他の似たような芸をする大人たちや子供たちよりもセンスがずば抜けていた。 その少年…チャーリーがパフォーマンスをやり終えると、最前列で眺めていたデイジーは、他の観客たちとともに手が痛くなるほど拍手をし、銅貨を何枚か奮発するのだった。 その日はあいにく朝から曇り空だったが、昼前からポツポツと雨が落ちてきた。 大道芸人たちの中にはさっさと道具をしまって立ち去る者も多かったが、そのまま続ける者もいた。 観客たちはいっせいに持参していた黒いこうもり傘や、婦人物の明るい色の雨傘を差し始めた。 チャーリーはとっさに「慌てふためいて軒先や屋根の下を求めて右往左往する人の形態模写を滑稽に演じてみせた。観客のあいだからは笑いが漏れた。チャーリーはそれを受けて、水たまりに足をとられて転ぶ大貴族や大金持ちなどを真似してみせた。 見物客たちはさらに爆笑した。 雨はバラバラと少し激しく落ちるようになり、ご老人やご婦人がたをはじめとして何人かが銅貨や銀貨を帽子の中に投げ込んで立ち去った。 しかし、残る何人かの人々は、雨の中、傘を差してチャーリーの熱演を見続けていた。 雨はますますザーザーと激しくなり、チャーリーを除いて大道芸人たちはみんな立ち去ってしまった。けれどもチャーリーはまったく動きと止める様子はなく、降りしきる雨を逆手にとって、「箱船を作って、いろんな動物たちをその中に乗せて、嫌がる動物は押し込んで、最後にタラップを閉じながら自分も乗り込むノアをやってみせた。 デイジーをはじめ、傘を差して見ているお客たちは大満足の大喜びだったが、チャーリーはずぶ濡れになって普通に歩くのも大変になってきた。それでも彼は、吹き止まない嵐の海で箱船を操舵するノアを演じ続けた。 だが雨はついにゴウゴウと滝のように落ちてきた。最後まで我慢強く見物していた紳士たちもついに、銀貨や、そして金貨を水が張った洗面器のようになった帽子の中に、水紋とともに投げ入れると、足早に、散り散りに去っていって、最後に「おばさん用」の大きな傘を差したデイジーだけが残った。 「チャーリー、チャーリー、もういいんじゃあないの?」 デイジーが叫びながら駆け寄っても、チャーリーはまるで何かに取り憑かれているように演じ続けることを止めなかった。 「チャーリー、チャーリー、お客さんはもう誰もいないわよ!」 小さなメイドさんが傘を置いて駈け寄り、抱きしめて耳元で叫ぶと、小さなコメディアンはようやくハッと我に返った。 「…さぁ、早くかたづけて! 着替えは持っているの? 傘かレインコートは?」 「いや、きょうはまだ帰れないんだ。昼から行かなきゃならないところがあるんだ」 そう言うチャーリーの身体は小刻みに震えていた。 「この雨はそう簡単には止まないわよ」 「…昼からは久しぶりに屋根の下でやってくれ、という依頼なんだ。孤児院からの…」 お金を小さな革袋に入れて身につけ、水浸しの帽子をタオルのように絞って再び形を整えてからかぶり直したチャーリーは、歩きかけてよろめいて倒れた。 「チャーリー、どうしたの? 大丈夫?」 デイジーがチャーリーの額に手のひらを当ててみると、燃えさかる石炭のように熱かった。 「大変! すごい熱じゃないの! すぐに身体を乾かしてベッドで横にならないと! あたし、すぐにお屋敷からお薬も持ってくるわ!」 「いや、これくらい平気だよ。いつもこれくらいだったらやっているんだ」 降りしきる雨の中、立ち上がろうとしたチャーリーの膝が再びガクリと折れた。 デイジーは思わず手を振って、「稼ぎ時」とばかりに走っていた辻馬車の一台を止めた。 「馬車なんか… もったいないよ…」 チャーリーはつぶやいたものの、その声はもはや途切れ途切れだった。 「早く連れてきてくれて良かったよ。肺炎を起こしかけていた…」 背広の胸に聴診器をぶら下げたドイルは、薄いクレゾール石鹸液で丁寧に手を洗いながら言った。 「ドイル様、チャーリーは?」 いまにも泣き出しそうな顔をしたデイジーが乾いたタオルを差し出しながら尋ねた。 「ああ、大丈夫だ。二、三日したら治るよ。手当が早かったからね。ただし、それまでは絶対安静だ」 「…それは困ります…」 額の上に氷嚢を乗せたチャーリーがうわごとのように言った。「…ぼくのショーを楽しみにしている子たちが大勢いるんです…」 「やむを得ない事情なんだ。断りなさい」 「…そんな… ドタキャンは芸人の最も恥ずかしいことです…」 「では、芸人の友達に代演を頼みなさい」 チャーリーはベッドの脇のサイドテーブルに置かれた地味な時計にチラリと目をやった。「…いまからではもう間に合いません。公演先にたどり着くのもいっぱいいっぱいです…」 「あたし、やります!」 デイジーがいきなり素っ頓狂な声で叫んだ。「あたし、いまから馬車で出かけて、チャーリーの代わりにパントマイムをやります!」 「無理だよデイジーちゃん…」 チャーリーは重たそうなまぶたを無理矢理開いて言った。「ぼくがやっている芸は、こう言っては何だけれど、そう簡単にできることじゃあないんだ。夜遅くまで、誰も見ていないところで、姿見を前に置いて、一所懸命稽古をして、それでもなかなか満足できないんだ…」 「転んだり、ひっくり返ったりするくらいは出来るもの!」 「ヘタに転ぶと怪我をして、メイドさんの仕事ができなくなるよ…」 「やりましょう、デイジーさん!」 暖炉に石炭を足していたポピーが振り返り様に言った。「…わたしたち二人で、たとえ学芸会のような芸でも…」 「有難う、ポピー! あたし、馬車の中であたしたちにもできるパントマイムの振り付けと脚本を考えるわ! …ドイル様、二人で出かけることをお許しください!」 「いいとも。そのあいだこの子はぼくが見ていてあげよう。…しかしそれならば、ブライディーも一緒に行ったほうがいいんじゃないか?」 「は?」 着替えを持って入ってきた大きなメイドさんが立ち止まった。 「もしも客席がしらけそうになったり、ざわつきかけたりしたら、ブライディーに歌を歌ってもらうんだ」 「それはいい考えです!」 ポピーが飛び上がった。 「お姉ちゃん、お願い… 一緒に来て…」 デイジーはすがるような目でブライディーを見上げた。 「は、はぁ…」 「ブライディーさんって、そんなに歌がお上手なのですか?」 と、曇っていたチャーリーの目がにわかに輝きだした。 「上手いなんてもんじゃないわ。このあいだも喉自慢大会で…」 「それだったら心強いよ」 チャーリーはそう言うと目を閉じてスヤスヤと眠りに落ちた。 「そうと決まれば早く出発しましょう!」 デイジーはブライディーとポピーを代わる代わる目配せした。「…ドイル様、すみません。それではお言葉に甘えて… 夕方までには戻って参ります!」 小降りになったものの、雨はまだ降り続いていた。 「やれやれ、冬のコートをしまってしまわなくてよかったわ」 いただき物の生地から自分で仕立てた冬のコートの襟を立てて馬車から降り立ったデイジーの回りを、吹き降りの中、つぎはぎだらけの服を着た、自分と同じ年格好の男の子や女の子たちが、手に手に使い古した傘をさして取り囲んだ。 「あれっ、チャーリーじゃない!」 「女の子だ!」 「それにいいコートを着て、馬車なんかで来たよ!」 「チャーリーは?」 子供たちのうちの二、三人が馬車の中を覗き込んだが、さらに降りてきたのがブライディーとポピーだったので、口を半開きにしたまま目をぱちくりさせて、そのまま立ち止まってしまった。 「あれっ、チャーリーがいない…」 「チャーリーは?」 「チャーリー君は、風邪を引いて『みんなに移してはいけないから』来られないの」 大きなメイドさんは飛びっきりの笑顔で言ったものの、出迎えた子供たちは全員いまにも泣き出しそうな顔になってしまった。 「えーっ!」 「あのいつも元気なチャーリーが?」 「もしかして、寝込んでいるんじゃあないですか?」 「大丈夫よ。パントマイムの練習をしているわ。本当に『もしも移してしまったら』ということを心配して来なかっただけ」 「本当に?」 子供たちの顔に不安の色がよぎった。 「本当よ。次は必ずチャーリー君本人が来るから…」 「で、今日は?」 「まさか…」 子供たちの顔はこわばり、足は一歩退いた。 「そう、あたしたちが素敵なショーを見せてあげるわ」 デイジーが思いっきりのつくり笑顔で言ったものの、お客になるべき子たちは顔に一層の不審の色を浮かべて、さらに一歩退いた。 「お姉ちゃんたちのショーも、とーっても面白くて楽しいわよ」 デイジーは「お婆ちゃん」に変装した狼よろしく近づいた。 「…なんか、嘘っぽい…」 「チャーリーは絶対に自分で『面白いよ』とか『楽しいよ』とか言わないもん… 「このクソガキ! 面白いか面白くないか、 見てみなくちゃあ分からないでしょう!」 いきなり髪の毛を逆立てて拳を振り上げかけたデイジーを、ブライディーとポピーが羽交い締めにして取り押さえた。もちろん子供たちは孤児院の中に逃げて隠れてしまった。 「…失礼しました。…あの子たちは毎月チャーリーが来る日を、首を長くして待っているんです」 年老いた国教会のシスターは、窓に流れる雨のしずくを眺めて言った。 「チャーリーはボランティアで?」 ブライディーは出された紅茶が、値段の安い葉っぱながらとても上手に淹れてあるのに感心した。 「ええ。わたくしたちのところだけではなく、他にもいくつかの施設を回っているみたいです。あの子自身、まだ年端もいかない少年なのに、とても立派なことだと… わたしたちは何度か、ほんの気持ち程度のご祝儀を渡そうとしたのですが…」 「…きょうはあたしたちがやらせて頂いてもいいですか?」 デイジーが身を乗り出して言った。 「もちろんとても嬉しいお申し出なのですが…」 「『ですが』?」 老シスターは居住まいを正してキッパリと言った。 「わたくしから言うのも何ですが、うちの子供たちは恐ろしく目が肥えています。日頃チャーリーの芸を見慣れているせいで。ですから、普通の…例えば町の商店主さんたちのボランティアの劇団や日曜コメディアンや素人手品師のかたたちをお呼びした時など、よそ見や私語が止まらず、結局大変申し訳のないことに…」 三人のメイドさんたちは三人ともゴクリと生唾を飲み込んだ。 「や、やっぱりやめておきましょうか?」 ブライディーとポピーは思わず顔を見合わせた。 「何を言っているのよ! さぁ、頑張ってやりましょうよ!」 デイジーは二人の背中を押すようにして舞台をしつらえてある部屋に出て行った。 期待の拍手もなく、ざわざわとざわめきが止まない客席の前で、デイジーはズボンをはいた男の子の扮装をして、タンタンタンと靴音を響かせてチャーリーに時々教えて貰ったタップダンスを踊った。 素人としてはかなりの腕前だったものの、いかんせんチャーリーには遙かに及ばなかった。ちっちゃい子たちはほとんど見てくれなかった。 焦りだしたデイジーは、身体を独楽みたいにクルクルと回した。これには子供たちも視線を向けた。 「デイジーさん、大丈夫でしょうか。あんなに勢いよく回る練習なんかしているところを見たことありませんが…」 ポピーの心配は的中し、回転を止めたデイジーはすっかり目を回しフラフラになってしまっていて、その場にバッタリと倒れた。 「デイジーさん!」 「デイジー、大丈夫?」 ポピーとブライディーは慌てて舞台に飛び出してデイジーを助け起こした。皮肉なことに、その時はじめて子供たちがクスクスと笑った。 次に、「泥棒猫」に扮したポピーを、メイドのデイジーが追いかける、というコントをやったものの、これまたさっぱり受けなかった。 その次はポピーが出て、日本からの留学生である安倍薫に折を見て習った「折り紙」をやってみせた。 「帆掛け船」、「兜」、「鶴」、「紙風船」… 子供たちも配られた「折り紙」を折って真似をしたものの、お手本のように上手く折れる子たちと、どうやっても上手くいかない子たちに分かれた。 そこでポピーは客席を回って順番に個人指導をしなければならないはめになった。 「あたしにも教えて…」 「えーん、うまく折れないよー」 ベソをかく子、泣き出してしまう子に教えるのにてんてこまいだった。 最後にブライディーがマザーグースや童謡、子供の遊び歌などを簡単な振り付けを交えて歌うと、ようやくショーらしくなって、一時間ほどの時が無事に過ぎていった。 「あたし、もう一回出る! もう一回やらせて!」 ブライディーがアンコールで「さよならの歌」を歌っている時、舞台の袖でデイジーが、ポピーの目をすがるように見上げた。 「もうこれくらいで十分なんじゃあないでしょうか? みんなも喜んでくれていますし…」 「やだ… やだ… このままじゃあカッコ悪くて帰れないよ…」 「ドイル様にはデイジーさんもとても上手くやられたと申し上げておきますから…」 「嘘なんかついて欲しくないよ…」 デイジーは、たくさんの小さな手のひらの拍手を浴びながら下がってきたブライディーと入れ替わりに、もう一度舞台に上がった。 「なぁんだ、またあの子か…」 「またくるくる回ってひっくり返るだけなんだよ」 「引っ込めー!」 容赦のない野次とブーイングが飛んだが、デイジーはもう一度タップダンスを踊り始めた。子供たちはまたよそ見や私語をしはじめた。 デイジーは顔をくしゃくしゃにし、涙を流しながらも踊り続けた。 「あいつ、踊りながら泣いてる…」 「辛くて悲しいんだったらやめとけばいいのに…」 と、その時、 涙で曇ったデイジーの目に、自分のすぐ隣で誰かが一緒に踊っている影が映った。 ざわめきはいつしか消えて、たくさんの視線がじっとこちらのほうに向けられているのを感じた。 手で涙を拭うと、熱を出して寝込んでいるはずのチャーリーが、ニッコリと微笑んでいた。 「チャーリー!」 「デイジー、ありがとう…」 チャーリーはウインクした。 チャーリーはデイジーに合わせ、盛り立てるように巧みに踊ってくれた。 最後に、二人揃ってうやうやしく挨拶すると、子供たちの大きな、大きな拍手がいつまでも鳴りやまなかった。 「狐の大家と狸の店子」 「ねぇブライディー、貴女の不思議な力は、お金儲けのために使ってはいけないそうだけれど、友達のために、ちょっとだけ使うくらいはいいわよね?」 去年までホワイトチャペルの場末も場末の劇場で踊り子をしていたものの、一念発起して写真の勉強をはじめた、ダブリンの貧救院にいた頃からの女友達のケリーが、ニコニコしながら言った。 「えっ、ええ…」 ブライディーも微笑み返したけれど、ほんの少しこわばっていた。 「…実はあたし、アパートを変わりたい…引越をしたいのよ。もうちょっと広くて、きれいで、便利なところに… そのために小金も貯めたし…」 「だったらデイジーに訊いてみたらいいわ。あの子、不動産屋さんのチラシを見るのが趣味だから」 大きなメイドさんにホッとした表情が甦った。が、それもつかの間だった。 「…でも、当たり前のことだけれど、少しでも利口に立ち回りたいのよ。そこで、『幽霊が出る』と噂されているんだけれど、『噂だけで実際には出ない』を借りたいの。貴女の力…霊視…を使えば…」 「いえ、わたしはそれはあまり得意ではないわ」 ブライディーは両手の手のひらを横に振りながら退いた。「…そういうことはどちらかと言うとデイジーのほうが得意で…」 「デイジーちゃんでもいいんだけれど、ギャラを吹っかけられそうで…」 「お姉ちゃんの友達は、あたしの友達だから、激安爆安にしておくわよ」 二人がキョロキョロっとすると、デイジーが、まるで瞬間移動を使ったようにすぐそばに立っていた。 「そういうことだったら任せて! 『出ると言われているんだけれど、実際には出ない』アパートを判定すればいいだけなんでしょう?」 「そ、それじゃあお言葉に甘えてお願いできるかしら?」 今度はケリーの顔が、ほんの少しだが凍りついた。 数日後、ケリーとデイジーは、少々築年数がたっているものの、窓が大きくて明るい光が差し込んでいる、下町の小さな下宿屋にいた。 「…どう、デイジーちゃん、いる?」 ケリーは口元を手のひらで隠し、声を潜めて囁いた。 「どのような住宅でも、ある程度年数を経ていれば、なんらかの事件は起こっているものだと思いますが…」 かたわらでは女将が、やきもきしていた。 ちっちゃなメイドさんは、もったいをつけているかのようにゆっくりと、日焼けした壁紙や、建て付けが悪くなってきている押し入れをジーッと眺め、睨み渡した。 「どう、なんなら今晩、試しに一緒に泊まってみてくれる?」 「はぁああーッ!」 眉間を歪めたデイジーがいきなり悲鳴を上げ、ケリーと女将はすくみ上がった。 「…それには及ばないわ。ここには『いる』わ… やめておいたわほうが賢明よ」 ケリーはホッと肩を降ろし、女将はヘナヘナと椅子に座り込んだ。 「…やっぱりいますか?」 「除霊できないことはないみたいだけれど、除霊すると、その費用を取り戻さなければならなくなって、普通の相場の家賃に戻ってしまうでしょうしね…」 二軒目の新しいけれども自殺者が出たというアパートの部屋でも、三軒目の殺人事件があったけれども完全に改装して牧師様にお祓いをしてもらった小さな借家ででも、デイジーの目は「幽霊・亡霊」の気配をとらえた。 「…やっぱり『出る』とか『いる』とかいう噂の立っているところには、大抵本当に『いる』ものなのね…」 ケリーは歩きながら溜息をついた。 「必ずしもそういうことはないとは思うけれども…」 一軒目からずっと眉間に皺を寄せたままのデイジーは、いつもにも増して真剣な眼差しでキッと前方を見つめながら言った。「…いる、出ると言われているところには、いるものなのね、やっぱり…」 四軒目のいかにも陰気くさい古ぼけたアパートの管理人室の鐘を鳴らすと、ボッシュの地獄絵から抜け出てきたような、頬のこけ、背中の曲がった年齢不詳の男がぬーっと現れた。 「お嬢ちゃんたち、悪いことは言わない。やめておいたほうがいいよ…」 相手は、こちらがまだ何も切り出さないうちからつぶやいた。 「ちょっと待ってよ! あたしたちは広告のチラシを見てきたお客なのよ!」 ケリーはチラシを突きつけた。 「それはオーナーが刷らせたものだ。わたしは管理人だからよく知っているんだ」 「とにかく一目、見せるだけは見せてよ! こっちが気に入らなかったら、すぐに退散するから…」 食い下がるデイジーに、不気味な男はしぶしぶ二階へと案内した。 埃が積もった部屋、雨戸をパァーンと開くと、ロンドンの街並みが広がり、明るい太陽の光が差し込んだ。ま下の通りには馬車や人々がせわしなく行き交い、活気に溢れるたたずまいを見せていた。 「どう、デイジー、何か居そう?」 ケリーは小声で訊ね、ちっちやなメイドさんはまた壁の漆喰や天井や押し入れを入念に眺め渡した。 「うーん、いまのところ、霊とかそのようなものの類はいないような気がするけれど…」「わたし、このお部屋気に入ったわ!」 ケリーは晴れ晴れとした表情で言った。「…掃除をして、きちんとすれば…」 管理人の細い眉がピクリと動いた。 「夜の様子も見てみたいから、簡単に片づけて今夜一晩泊まってみるわ! それで何も起きなければ、ここを借りるわ! デイジーちゃん、今晩一晩一緒に泊まってくれるでしょう?」 「それは構わないけれど…」 管理人の頬がピクピクと引きつった。 「『泊まって怖い目に遭ったから、慰謝料を払ってくれ』と言っても知りませんよ」 「もちろん。何なら一筆書きましょうか?」(いないことはいない。けれど何かあるような…) デイジーは小首をかしげたが「まぁいいかぁ…」と独り言を言って一人で頷いた。 その夜、ケリーとデイジーは簡単に掃除をして簡易ベッドを持ち込み、毛布をかぶって押し合うようにして横になった。 なま暖かい春の風にまじって、ほんのかすかに東洋の香のような匂いが漂いはじめた。「ねぇ、何か…」 ケリーが囁くと、デイジーは寝間着の裾を翻らせてベッドから出て、素早く蝋燭に灯りを付けてあたりの様子を窺った。 耳を澄ませると、これまたかすかに怪しげな笛の音や、呪文をつぶやくような音が聞こえてきた。 「やっぱり出るのかな? やっぱり…」 「シッ!」 デイジーは両耳の回りに両手のひらを当てて気配を探った。 「何か来るような、来ないような… 間違いない。誰かが物の怪を呼んでいるわ」 「あの、管理人さんかな?」 「たぶん間違いないわ」 「どうしてあたしたちを追い払おうとするのかしら?」 ケリーも起き出してガウンを羽織った。 「ドイル様の小説にこんなのがあったわ。近所の銀行までトンネルを掘って押し入るために、住んでいる人を追い払おうとするの」 デイジーは蝋燭の明かりで近所の見取り図を調べた。 「あっ、そのお話、あたしも読んだことがあるわ」 「…でもおかしいな。『この家』の回りには銀行も郵便局も、すごいお金持ちの家もないみたい…」 「じゃあ単に邪魔だからかな?」 「なんで? もしも秘密の実験か儀式をやりたいのなら、自分のほうが田舎の一軒家に引っ越せば、誰にも邪魔されずに好きなことができると思うけれど…」 二人と壁のあいだの空間に、次第に白い煙のようなものが湧き出たかと思うと、空洞の両目と口を備えた亡霊の姿をとりはじめた。 「キャーッ!」 ケリーは悲鳴を挙げたが、デイジーは落ち着き払っていた。 「昼間はまったくいる様子がなかったのに、いまになって現れた。…と言うことは、間違いなく誰か…おそらくあの人が呼んだんだ。だから何のために?」 「そんなことどうでもいいから追い払ってよ!」 「オッケー、次元の空間を開けてそこに吸い出すわ」 ゆらゆらと揺れる幽霊をキッと睨み付けていたデイジーが、さらに心を集中させると、部屋のもう片方の隅にサッカー・ボールくらいの黒い渦巻きが現れて、幽霊はそこに吸い込まれるようにして消えた。 「もういいわ。ここは諦めるわ! いや、部屋を安く借りる計画自体を諦めるわ」 冷や汗をびっしょりとかいたケリーは、デイジーにすがりついた。 「分かった。でも、それはこの部屋とあの管理人の謎を解いてからよ。このままスゴスゴと逃げ帰ったのでは、あいつの思うつぼでしょう?」 デイジーは唇を舌でペロッとなめながらうそぶいた。 翌朝はカラリと晴れ上がった暖かく爽やかだった。 管理人は、朝日と同じようなバラ色の頬をして起きてきたデイジーとケリーを見て、一瞬意外そうな表情を見せた。 「どうです? 『出た』でしょう?」 「いいえ、何も…」 デイジーはケロッとして答えた。 (おかしいな、そんなはずは…) 管理人の唇が動きかけて止まった。 「ああ、でもやはり残念ながら、ここはもう一つ気に入らなかったわ」 ケリーは腰に両手を当てて、窓の外を眺めながら言った。「もっといいお部屋を、安く借りる方法はないかしら?」 「その方法、ないこともないですよ」 管理人がボソリとつぶやいた。「…お嬢さんたち、口は堅いほうですか?」 「その方法とやらによるわね」 デイジーは半分目を閉じながらうそぶいた。「…借りた部屋にネズミやらゴキブリやらを放して家賃を負けさせる、みたいな陳腐な方法だったらお断りよ」 「さすがにそれはないですよ」 管理人は古ぼけた棚に錆び付いた鍵を差し込んで開け、中から手のひらに乗る、ミルク壷くらいの大きさの素焼きの壷を取りだした。 「それは?」 ケリーとデイジーは顔を近づけて見つめた。 「…中に正真正銘の幽霊が入っています。ネズミやゴキブリよりは家賃を負けさせることができるのではないか、と… どうです? お安くお譲りしますよ。もちろん、何回でも使用可能。壷を割ってしまわない限りね。嫌な男を追い払いたい時なんかにも使えます。もしも効果がまるでなければ、返品にも応じます」 デイジーが値段を訊くと、ちょっとした借家の一、二ヶ月分の値段で、決して手が届かない金額ではなかった。 「どうしよう?」 「これで仮に、家賃を三割負けさせることができれば、一年でもとが取れるという勘定になるけれど…」 二人は迷っているフリを続けた。 「分かりました。一割、おまけしましょう…」 デイジーは肩をすくめて帰り支度をはじめた。 「二割引で…」 デイジーとケリーはもう一度部屋の隅で相談した。 「どうする? 買う?」 「でも、ドイル様や『英国心霊研究協会』の皆様、アレイスター・クロウリーさんたちにバレたら… ブライディーにも申し訳ないし…」 ケリーは口ごもった。 「『研究資料のために購入しておいた』と言い訳する手があるわ。もちろん領収書もちゃんと貰っておいて」 「『あの人』が領収書を出してくれるかしら?」 「領収書は出せません。が、二割引にさせて頂きます。これ以上はおまけできません…」 「買った!」 デイジーがパチンと指を鳴らした。 「でも何か気になるわ…」 怪しげな下宿屋を辞去したケリーは、手のひらの上に乗せた小さな壷をしげしげと見やりながらつぶやいた。「あの管理人、この壷を売りたいから、わざわざ貸すつもりなんかさらさらない部屋を『…訳ありで家賃お安くします』というチラシを配って下見客を集めていたような…」 「商品の売り主の思惑なんかどうだっていいじゃない」 デイジーは胸を反らせて言った。「…買ってしまった以上は、役立つように使わせてもらうまでよ! 『これ』を使って三割安くしてもらうとして、予算よりも三割高い家賃のお部屋を探しましょう!」 二人はじっくりと、あちこちの借家を見て回り、やがてようやく、テームズ川沿いの、「訳あり」でも何でもない、「申し分のない」部屋を見つけ出した。 おかみはよく太った、とても気のよさそうな人だった。 「さぁどうぞどうぞ… 『女性写真家』を目指しておられるかたですか? わたしも一枚写してもらおうかしら」 案内された部屋は、川を見下ろす見晴らしと日当たりのよい部屋で、行き交う川船が手に取るように見えた。 「あんな良さそうなかたを騙すなんて、気が引けるわ…」 ケリーはデイジーの耳に囁いた。 「何を言っているの。いまさら引き返せないでしょう? 商売人ならとりあえず買ったり仕入れたりする商品にケチをつけてまけさせるのは当たり前でしょう?」 「だけど、その原因はわたしたちがいまから作るのよ。これって犯罪じゃない?」 「じゃあこうしましょう。もしもこの方法で上手く行きかけたら、おかみさんに正直に打ち明けて、その代わりにことの顛末を記事に書いて『こういう手口に気を付けましょう』と新聞社に売り込みましょう」 デイジーは腕組みをして、一人で頷いた。 その晩、なま暖かい春の宵、おかみさんたちが寝静まるのを待ったケリーとデイジーは、自分たちも寝間着に着替えていったんベッドに横になってから、もぞもぞと起き出して例の小さな壷を取りだして、しげしげと眺めた。 「本当にこんな中に、『こちらの言うことを聞いてくれて、大家さんやほかの店子の人たちを適当に脅かしてくれる幽霊』が入っているのかしら?」 壷の口をつまんで持ち上げてみたデイジーは、まだ半信半疑だった。 「『何回でも使用可能』だなんて、そんなのだったらあのモグリの魔法グッズ屋、儲からないんじゃないの?」 ケリーも目をしばたたかせた。 「開けるわよ…」 「うん」 デイジーは壷に嵌められた小さな木の実くらいの大きさのコルクの栓を抜いた。 また栓…二重栓…が、と思ったら、メモ用紙を細かく折りたたんだものが現れた。それを広げて皺を伸ばすと、呪文のようなものが細かくビッシリと書かれていた。 「何よこれ! ラテン語? 使い方がずいぶんと難しそうじゃない! そんなこと聞いてなかったわよ。お姉ちゃんの知り合いのフィオナ様や、セアラ様なら読んで唱えられるかもしれないけれど…」 デイジーは眉をひそめた。 「あたしたちじゃあ無理?」 と、ケリー 「いいや、そんなことはないでしょ。こんなの適当に読めばいいんじゃないの?」 ちっちゃなメイドさんはそう言って、呪文らしきものをアルファベットのまま、でまかせに抑揚を付けながら、たどたどしく読み上げはじめた。 しばらくすると、気のせいか部屋の中の空気が次第に重苦しくなりはじめて、どこからともなくあの管理人の下宿で聞いた笛の音がかすかに聞こえてきた。 「いまごろ『幽霊さん』が、ほかの部屋に現れて、おかみさんやほかの下宿人のかたがたを脅かしているのかな?」 ケリーは寝間着の胸元をかき合わせた。 「あたしたちの部屋にも出たことにしておかないと、三割まけてもらえないわよ」 デイジーは声を潜める。 「で、どんなのが出ているのかしら? 『同じもの』が出たことにしておかないと、辻褄が…」 ケリーは自分のま後ろに、何かが蠢いている気配を感じた。恐る恐る振り返ると、両目と口のところに穴の開いた、痩せたような太ったような霊体がいくつもいくつも、分裂して増えたり、くっつき合って減ったりしながら、覆い被さって包み込もうとしていた。 「キャーッ!」 「ギャーッ!!!」 勢いで小机は倒れ、蝋燭は消え、壷は落ちて粉々に砕けた。 悲鳴を聞きつけて、おかみさんや、他の下宿人たちがドアを蹴り破って来てくれた。 が、物の怪はうようよと部屋に満ちている。 「これは大変だ!」 「大丈夫、拙者、対策グッズを持っております」 老人の下宿人が言った。 「わたしも!」 「俺もだ!」 「皆さんどうか落ち着いて!」 ほかの下宿人や、おかみさんたちまで手に手に例の小さな壷と同じ壷を取りだして、栓を開け、説明書の呪文を取りだしてたどたどしく読み上げはじめた。すると、部屋じゅうに充満していた幽霊たちはたちまちそれぞれの壷に吸い込まれて消え去った。 一同は素早く栓を閉めて、ホッと溜息をついた。 「な、何よ! どういう訳?」 息を弾ませていたデイジーは、みんなに助け起こされた。 (ど、どうやらあの壷は『量産品』だったみたいね…) ケリーはそう確信したけれど、もちろん口には出さなかった。 結局ケリーは、その部屋を当面借りることに決めた。 「だって、みなさんがプチ魔導師だったら安心じゃない?」 というのがその理由だった。 「どう、ケリー、いいお部屋は見つかった?」 ブライディーは明るく尋ねた。 「え、ええ…」 「デイジーはお役に立てた?」 「ええ、とても…」 デイジーは雲隠れし、ひたすら作り笑いを浮かべるしかないケリーだった。 「シスター・セアラの宝物」 ある麗らかな春の午後、手紙も、電報も、電話も、何の前触れもなく、ブライディーが本当の姉のように慕っているシスター・セアラが、白磁のような頬を朱に染め、息を荒く切らせて尋ねてきた。 「ブライディー、ブライディーはいますか?」 「セアラ様、一体どうなさったのですか?」 セアラが慌てふためいているところなど一度も見たことがなかった…今日たったいま初めて見たメイドさんは、つられて足をもつれさせ、転びそうになりながら尋ねた。 「至急… 大至急占って欲しいことがあるのです…」 「一体何なんでしょう?」 セアラとブライディーが二人きりで小さなほうの応接間に引きこもってしまったのを見て、ポピーが小首をかしげた。「…お茶も何も持ってこなくていいなんて…」 「いよいよお姉ちゃんがヴァチカンに召命される日が来たんだわ」 デイジーが唇をへの字に曲げて言った。 「ええっ、すると… ブライディーさんはもうお嫁には行けない…」 「そうよ。『お兄ちゃん』との仲もこれでいよいよ終わりね。生木を裂くように別れさせられて… ああ、だから早く国教会に改宗しておけばよかったのよ…」 「ちょっと待ちたまえ。セアラさんはブライディーに『占って欲しいことがある』と言っていらっしゃったんだろう? だったらそれだけの用件ではないのか?」 大きなほうの応接間で「ナツメの木が枯れたことを嘆くヨナ」よろしく、髪の毛が抜け去っていくことをぼやいていたクルックス博士が、ぶらりと出てきてつぶやいた。 「ただの用件ではないでしょう」 ドイルが珍しく倍年上の博士に反論した。「セアラさんは身分の低い尼さんながら、ヴァチカンでは重要な手紙や文書の下読みを任せられているかたなんですよ。ハッキリ言って、ブライディーなどよりも遙かに魔力の優れた占い師を、他に何人も知っているはずなんです。…と言うよりもそれらの占い師たちに指図できる立場にある人なんです」 「すると何か、『公には訊くことができないことを尋ねに来た』とでも?」 と、クルックス博士。 「…きっと聖杯の行方が知りたくて、居ても立ってもいられなくなって来られたのだわ」 デイジーはポピーの耳に囁いた。「…でなければ『聖書の下書き』がどこにあるか知りたくなった、とか…」 「昔話のメディチ枢機卿台下ならいざ知らず、シスター・セアラがそのようなものを欲しがられるとは到底思えませんけれど…」 ポピーがまた首をかしげた。 「聖パトリックが妖精たちに預けたという『この世でもっとも美しい本』と言われる四冊の福音書を探しているとか…」 ドッジソン教授が写真機のレンズを拭く手を休めて言った。 「ああ、それだったらぼくも見たいな」 ドイルがしみじみと言った。「…確か一目見るだけで『真に愛する人と結ばれて』『子孫に恵まれ』『少しも苦しむことなく天寿を全うできて』『天国に行ける』という四冊だろう?」 十数分後、シスター・セアラは来たときと同じくらいのせわしなさで、ドイルたちへの挨拶もそこそこに、風のように去っていった。 「お姉ちゃん、どう、何だったの?」 デイジーが中を覗くと、大きなメイドさんが崩されたタロットカードを前に、キョトンとして座っていた。 「ブライディー、一体何を占って欲しいと頼まれたんだ?」 ドイルと博士たちはメイドさんのそばに駈け寄って耳元に囁いた。 「もちろん絶対秘密なんじゃろうな。一言でも喋ったら…」 「いえ、別にそのようなことはおっしゃってませんでしたが…」 「聖堂騎士団の財宝の在処とか…」 「聖遺物の真贋とか…」 「いえ違います。歴史に名を残す有名な学者様や魔法使いのかたですら分からなかったものごとが、どうしてわたくし如きに…」 「じゃあなんだったんだ?」 「無理をして答えなくてもいいんだよ、ブライディー」 「お姉ちゃん、黙っていて! もしも言ったら、訊いたわたしたちも呪われてしまうような気が…」 みんなはそんなことを言いつつ、なぜか囲みを解こうとはしなかった。 「ですから、そのような大層なことではなくて…」 大きなメイドさんは散らかったタロット・カードを揃えて箱にしまった。 「…実は…」 「いや、いいんだ。言わなくていいんだ!」 みんなはゆっくりと後じさりをしながら出て行った。 「そうですか? 『孤児院から家出したちっちゃい子の行方を占って欲しい』と頼まれただけなんですけれど…」 ブライディーは一同が去った後の、半開きのままのドアに向かって答えた。 「ブライディーの子守歌」 「英国心霊研究協会」の会員さんたちは、裕福な者が多く、たとえば例会や総会の時などに小さな子供を連れてくる人はほとんどなかった。皆、家に子守を雇っているか、半日、一日と預かってくれる女性がいるところへ立ち寄って預けてくるのだった。 ところがその日、ある市民の若夫婦の会員さんが「雇っている子守が急な風邪で休み、初めての者に頼んだり探したりする時間がありませんでした…」ということで、協会に可愛らしい赤ちゃんを連れてきた。 「すみません。どうしても夫婦で出席しなければならない堅苦しい会合があるのです。夕方までには戻りますから、この子、ルーシーを預かってくださいませんでしょうか?」 ドイルの目配せを受けて、ブライディーはピンクのおくるみにくるまれた女の赤ちゃんを抱き上げた。 「はいはい、ルーシーちゃん、お姉ちゃんでちゅよー 仲良くしましょうねー」 「あたしにもだっこさせて」 ところが、デイジーがだっこした途端、ルーシーは火がついたように泣き出した。 「ど、どうしよう、おむつかな?」 おろおろするデイジーから、ポピーが受け取ってほ乳瓶を飲ませると、ピタリと泣きやんだ。 「お乳ですよ、デイジーさん」 「どうしてあたしが抱くと泣くのよ…」 デイジーはそっぽを向いてむくれた。 「どうかよろしくお願い申し上げます」 母親は立ち去るまぎわ、なぜかハンケチを取りだして目頭を拭った。そして何度も振りかえるのを夫に促されて出て行った。 「半日だったら、おむつ、こんなに多くなくていいし、着替えもいらないのに…」 ブライディーは母親が置いていったものを数えながら言った。 「お姉ちゃんは子守をしたことがあるの?」 デイジーは、ブライディーが手際よくおむつを変えるのを横から見学しながら言った。 「ええ、貧救院にいた頃はずっと…」 「実は、お姉ちゃんはすでに産んだことがあったりして…」 「デイジー!」 大きなメイドさんは目を吊り上げた。それが赤ん坊…ルーシーにも伝わって、顔をしかめたかと思うとぐずりはじめた。 「はいはい、ルーシーちゃん、悪かったわねー、みんなデイジーが悪いのよ」 「そんなことないもん! あたしが泣きやませてみせるもん!」 ちっちゃなメイドさんは唇を左右の人差し指で広げたり、目を大きく見開いたりして、百面相を試みた。ルーシーは手足をばたつかせて火がついたように泣き出しはじめた。 「おい、メイドたち、何をやっているんだ? まさか、赤ん坊をつねったりしているんじゃあないだろうな?」 廊下の向こうからクルックス博士の叱責の声が飛んできた。 「も、申し訳ございません…」 「ど、どうしよう… 外であやして来ようか?」 ブライディーは揺りかごから赤ちゃんを抱き上げると、小さな耳に囁きかけるように、低い声で歌いかけた。 「小鳥がおうちに帰るように リスがおうちに帰るように、 あたしたちもお家に帰りましょう 暖かい暖炉がパチパチはぜる 外はしんしん深い雪 テーブルの上にはおいしいシチューと焼きたてのパン ベッドはふかふか、みんなの笑顔…」 語りかけているうちに、赤ん坊は次第にまぶたを閉じて、すやすやと安らかな寝息を立て始めた。 「ブライディーさんすごいです!」 ポピーが小声で感嘆の声をあげた。 「…その子守歌、曲は知っているのだけれど…」 ドッジソン教授がどこからともなくやってきて、揺りかごを覗き込んだ、「…歌詞が違うような気がするのだけど… ぼくが知っているのは、 「坊や、坊や、わたしの宝物 お母さんの宝物 もうどこにも行かないわ これからずっと、ずっと一緒よ だから坊や、 あなたもどこにも行かないで」 という歌詞なんだが…」 「ああ、それはイギリスで付けられた歌詞ですわ」 ブライディーがほんのかすかに微笑むと、赤ん坊も微笑み返したように見えた。 「…アイルランドの貧しい家の女の子は、少し大きくなると、口減らしのために子守奉公にだされることが多かったので、わたしが歌ったのはそのオリジナル版の歌詞なんです…」 暖かかった陽も少しずつ西に傾いて、ひんやりとした空気が漂いはじめてきた。 「はいルーシーちゃん、もう少しの辛抱でちゅよー もうじきママが帰ってきまちゅからねー」 ブライディーはおしめを変え、ミルクを飲ませながらあやしていた。 「デイジー、貴女もお稽古しておかない?」 「いえいえ、遠慮しておくわ」 ちっちゃなメイドさんはそう言って別の仕事に向かった。 「本当にかわいいですね。それにブライディーさんは赤ちゃんのお世話が本当にお上手ですね」 ポピーが赤ん坊の頬をそっと撫でた。 ところが、約束の夕食の支度をする頃になっても、ルーシーの父母は引取に来なかった。 「道が混んでいるのかしら?」 ルーシーをねんねこに包んで胸に抱いたまま料理の下ごしらえをしていたブライディーはポツリとつぶやいた。 「超過料金のお心付けを頂きましょうね」 この時はまだデイジーもにこにこしていた。 ところが… 夜の帳が降り、夕食の時間が過ぎても、ルーシーの両親は戻ってはこなかった。 「おかしいな、何かあったのじゃないかな…」 ドイルが首をかしげ、メイドさんたちの顔に不安の色が浮かびはじめた頃、ドカドカと急ぎ足で帰ってきたクルックス博士が、コートを放り投げるように掛けながら言った。 「おい、大変だぞ、ドイル君」 「は? 何でしょうか?」 「××君が経営していた会社だが、どうやら不渡りを出して倒産したらしいぞ」 「ええっ!」 ドイルをはじめ、メイドさんたちの顔色が変わった。 「…自宅も借金取りたちが取り囲んでいるという噂だが、家はもぬけのからで、どうしても連絡が取れないらしい」 「ルーシーちゃんのお父さんとお母さんが…」 ブライディーは揺りかごで寝ていた赤ん坊を思わず抱き上げた。 「これは早く、しかるべき施設に連絡して、引き取っておいてもらったほうがいいかもしれない…」 クルックス博士はひげを歪めて言った。 「まぁまぁ、そんなに急がなくても、今夜一晩くらい…」 ドイルは博士とメイドさんのあいだに割って入った。 「普通に考えて、時間がたてばたつほど戻ってくる可能性は少ないんじゃないかね? メイドたちだって普段の仕事があるのだから、迷惑だろう?」 「そんなことありません… そんなことありませんわ… こんな可愛い子を置き去りにしてどこかへ行ってしまわれるなんて…」 雰囲気を察したのだろうか、赤ん坊は火がついたように泣き出しはじめた。 ブライディーはルーシーを抱きかかえてそのまま屋根裏のメイド部屋に上がってしまった。 「ブライディー!」 「お姉ちゃん、立場を考えて! お姉ちゃんにはその子をずっと育てることなんか、とてもじゃないけれどできないでしょう?」 デイジーが追いかけたものの、ブライディーはかんぬきを下ろして閉じこもってしまった。 「しょうがない。今夜のところはこのままそっとしておこう。デイジー、君は帰りなさい。ポピー、後をよろしく頼むよ」 「坊や、坊や、わたしの宝物 お母さんの宝物 もうどこにも行かないわ これからずっと、ずっと一緒よ だから坊や、 あなたもどこにも行かないで」 ブライディーは赤ん坊に添い寝しながら、知っている限りの子守歌を歌い続けた。 外はいつしか春の嵐になって、窓を打つ雨粒が歌をかき消していた。 広間の大時計が真夜中を告げてしばらくした頃、玄関の鐘が鳴った。一階のメイドの控え室で寝ていたポピーが飛び起きて出てみると、倒産して夜逃げしたはずの夫婦が、ずぶ濡れになりながら立っていた。 「すみません。遅くなりました」 赤ん坊を抱いてゆっくりと階段を降りてきたブライディーは、少し逡巡してから赤ん坊を母親に返した。 「ルーシー… ごめんなさいね… ごめんなさいね…」 母親は頬ずりをした。 「あの、お泊まりになって行かれては…」 「いえ、馬車を待たせておりますので… このたびは本当に有難うございました。お礼は後日改めて…」 夫婦は深く会釈をして立ち去った。 メイドさんたちが親子を見たのは、それが最後だった。 「パリから来た兄弟」 ことさらに赤く染めたガラスや青く染めたガラスを使ったいくつものオイルランプやランタンが怪しく揺れるロンドンの場末のホワイトチャペルの娼窟街にも、再び乳のように濃い霧が立ちこめる季節がやってきた。 よその店以上に、小さい女の子たちが客の相手をするということで悪名が轟いている大きな店の前には、顔を仮面や高い襟で隠した紳士たちが、新しく入った子目当てに次々と馬車で乗り付けていた。 「これはこれは○○様、××様、ようこそお越し下さいました。もうお見限りか、他店にお心移りかと思っておりましたよ」 身体じゅう安物の宝石で飾り立てた年増の女将が、白粉にヒビが行くくらいの作り笑いを浮かべて出迎える。 「早速だが、新しいまず写真帳を見せてくれ。 …いや、古いのはもういい」 「その… 金はいくらでも出す。『はじめての子』はいないか?」 「おりますとも! おりますとも! この冬も不作や不景気で、親が借金を返せなくてここへ来た子たちが大勢やってきましてね」 「ハハハ… 不作・不景気さまさま、というところだね」 「ぼくら貴族には関係ない話だね」 「…ということは、安くしておいてくれるんだろうね」 「おや、旦那がた、もしや、はしごをなさるおつもりで?」 一同が揃って野卑た笑いを浮かべたその時、 霧の合間、窓が少ない建物の白い壁に、十字架に打ち付けられた血まみれの基督の姿が浮かび上がった。 『まだ遅くはない。汝ら悔い改めよ。悔い改めて引き返すならばよし、さもなくば裁きの日は近いと思え!』 夜空から声が響いた。 男たちと女将は息を呑み、息を止めた。 『…どうするのだ。帰るのか、それとも地獄の門をくぐるのか?』 男たちはまっ青になって逃げ出した。 『女将よ、ちっちゃな女の子たちを家に帰してやれ。ソドムとゴモラの町の末路は知っているであろう?』 「ど、どうかお助けを! おっしゃる通りに致します…」 女将はひざまずいて懸命に祈った。 そして恐る恐る再び顔を上げたとき、基督の姿は忽然と消えていた。 数日後、明るい太陽の下、「売り宿屋」の掛札がかかった大きな元・娼窟だった建物の前にやってきた三人の人影があった。 「英国国教会の『奇跡判定委員会』のかたがたが、いち早くやって来られて、徹底的に調査をされたそうですが、真に主の御姿だったかどうかは、ついに分からなかったそうです」 シスター・セアラは、あふれんばかりにたくさんの花や蝋燭が捧げられ、新たに見事な十字架が描かれた白い壁をじっと見つめながら言った。 「…道の幅はそんなに広くはないようだな。エジソンたち多くの発明家や技術者がやっきになって改良を繰り返している『シネマトグラフ』を使って… つまり、クルックス博士が持っておられるような強力な発電装置と電球を使って、向こうの建物の屋根からフィルムを投影すれば… 夜ならいくらでも思うままの映像を映し出せるだろう…」 ドイルは、いつものようにパイプをふかした。 「でも、たとえそうでも『奇跡』ということにしておけば、世の中は少しでも良くなるのではないでしょうか…」 ドイルの大きな調査用の鞄を手に提げたメイドさんはポツリと言った。「…ちっちゃい女の子たちが、辛い思いをしなくて済んだといのは事実ですから…」 「そうね、ブライディー、わたしもそう思うわ」 セアラはひざまづいて、何もない壁に向かって祈りはじめた。「…例え人が作った偽りの神であったとしても、それが罪なき者を救うのであれば、真の神もお許しになられるのではないでしょうか」 「ブライディー、ぼくらはもう少しここで調査をしてみたいと思うから…」 ドイルは写真機を取りだして現場を撮影しながら言った。「…きみはそのへんを聞き込みしてきてくれ」 メイドさんは、とある一軒のパブに入って、ポートワインを注文し、娼婦たちに化粧品や小間物を行商して歩く商人たちがカウンターに肘をつきながら話を交わしているのを立ち聞きした。 「女の子たちの中には、自分とこの店の壁にも神様が現れて、自分たちを助けてくれないか祈っている子も少なくないそうだ」 行商人の一人がビールを飲み干しながら言った。 「その気持ちはわかるなぁ… こんなところで客を取らされていたら、じきに身体をを壊して…だからなぁ…」 もう一人の商人は安物のウイスキーをちびりちびりとやっていた。 「でも、そういう子が増えて、潰れる店も増えたら、俺たちの商売もあがったりになってしまうなぁ…」 隅のテーブルでは、兄弟らしい顔がよく似た三十歳くらいの鳥打ち帽をかぶった男たちが、フランス語で何事かを話し込んでいた。 「旦那がた、フランスからいらっしゃったんですか? …きょうは羽根を伸ばしにこられた、ってわけですね。なんなら安くていい店を紹介しますぜ」 ワインを運んできたバーテンが、にやけた笑いを浮かべながら言った。 「そういうところかな。こう見えてもぼくらはパリでは少し顔が売れているのでね」 兄と思しき男がフランス語訛りのたどたどしい英語で言った。 「分かりますよ。…せいぜいここロンドンでやりたい放題していって下さい」 バーテンはテーブルの上にズラリと、地図をあしらった派手な名刺大のカードを並べた。「…どうぞ取っておいてください」 「…そう、その… 小さくて可哀相な子がいるところはどことどこかな?」 弟らしき男が言いにくそうに尋ねた。 「『可哀相な子』…いいですねぇ… 『小さくて可哀相な子』だったら、たいがいの言うことを聞きますからねぇ…」 バーテンはカードの中から何枚かを抜き出した。「…ここらあたりがお勧めですかねぇ…」 兄弟は目配せを交わすと、せっかくのワインをほとんど口を付けもせず、代金をテーブルの上に置くと、そそくさと出て行った。 ブライディーは何かピンとくるものがあって、同じように代金を置いて二人のあとをつけようとすると、先ほどのバーテンが目の前に立ちふさがった。 「お嬢ちゃん、まとまったお金が要るのかい? だったら俺がいいところを紹介してあげるよ」 「いえ、わたしはその…」 「分かっているよ。細かい事情を話してくれる必要なんかまったくないんだ。こっちも聞きたくなんかないしね」 「ですから違うんです」 ブライディーはバーテンの手を振りほどくようにして店の外へ出たが、先ほどの兄弟の姿はもう通りのどこにも見あたらなかった。 同じ頃、ドイルとセアラは、壁に基督の姿が現れたとされる娼家の向かいの空き家の二階に上がって、足下の木の床を入念に調べていた。 と、問題の壁に対してちょうど正面に位置する窓辺のあたりに、何かを設置したようなかすかな痕跡があった。 「間違いない… ここに最新鋭のシネマトグラフの投影機を設置して、あそこの白い壁に基督に扮した役者の像を投影したんだ」 ドイルは天眼鏡で床についたほんのかすかな傷を指し示した。 「しかしドイル様。シネマトグラフはエジソン電球を光らせる多大な電力が必要なのでしょう? その電気はどうやって?」 シスター・セアラは向かいの壁の下に供えられた花束と蝋燭を見下ろしながら言った。 「わずかな時間だ。なんとかしたのでしょう。それに、声はちゃんと像のほうから聞こえてきたそうですから、投影する者と、声を演じた者と、最低二人はいたはずです」 「二人組、ですか…」 「そう、それも屈強な男性の二人組でしょう。シネマトグラフの投影機材を、空き家とはいえ人に見られないように階段を上げ下ろしするのは大変でしょうし、主の声を演じてみせたのも男性のはずですからね」 ドイルとセアラのところに戻ろうとしていたブライディーだったが、途中でまたしてもしつこいスカウトマンに捕まってしまっていた。 「お嬢ちゃん、迷ってるんだったら早くうちに決めなよ。祝い金の額はホワイトチャペルで一番だし、ドレスや必要な品はほとんど支給。休みは確実。ノルマなし。…ただ、その赤毛はブロンドに染めたほうがいいかなー」 「やめてください! わたしは違うんです!」 腕を掴まれそうになった時、フランス語訛りの英語が響いた。 「きみ、しつこいんじゃないか?」 スカウトマンは「チッ」と舌打ちして立ち去った。 ブライディーが顔を上げると、さきほど酒場にいたフランス人の兄弟が、一人は自転車に乗って、もう一人はその荷台にもたれかかるようにして立っていた。 (やれやれ)と思ったら、助けてくれたのが酒場で許し難いことを語っていたフランス人の兄弟だったので、メイドさんは思わず目をそらせた。 「きみ、大丈夫かい?」 「早く行きなさい」 (何よ、変態の癖に、もしかしたら『お助け詐欺』じゃあないかしら?) 身構えて駆け去ったブライディーだったが、兄弟がどんな背徳の行為をするのか気になったので、踵を返して(見失っても、もともと)と、かなり距離を置いて後をつけはじめた。 兄弟はバーテンに貰った店のカードを繰りながら、とある一軒の娼家の玄関を伺える通りの角にやってきた。折しも、デイジーのような小さい女の子たちが、泣きながら馬車から降ろされているところだった。 「嫌だよー お家に帰りたいよ…」 「お父さん、お母さん…」 女衒が鞭をピシリと鳴らす。 「こらっ、何度言い聞かせたら分かるんだ? おまえらは売り飛ばされたんだよ。さっさと金を稼がないとひどい目に遭わせるぞ!」 「神様、マリア様助けて!」 「ずっと毎日お祈りしてきたのに、どうして助けて下さらないの?」 「そう心配すんな。神様はおまえらがどんな商売をやっても救ってくださるさ。マグダラのマリアみてぇにな」 その様子を物陰から眺めていたフランス人の兄弟は鳥打ち帽のひさしを下げて互いに目配せをし合った。 「…次はここでいいか、弟よ?」 「ああ、兄者。神の怒りを受けるのにふさわしい店だと思うよ。…幸い、またしても向かいは空き家だし、ツイてるぜ」 兄弟はあたりの建物の簡単な見取り図を書くと、店には入らずに、そのまま自転車でいずこへともなく去った。表では客引きがしきりに甘い言葉を並べ立てて客を引いているのにもかかわらず、だ。 (おかしい… あの二人、そのまま帰っちゃったわ… どういうことかしら? 今晩出直してくるつもりかしら? もしかしたら、今晩ここでまた何かが…) 素早く空き家の裏口のある路地に回ったメイドさんは、大きな木の空き箱の中に身を潜めた。人通りはあまりない。 宵闇が迫り、そここの店にまた派手な色ガラスのランプの灯りがともりかける頃。しかし客たちはまだチラホラとしかやってこない頃、空き家の裏口にくだんの兄弟が、一人は自転車をゆっくりと漕いで、一人はそれに遅れないように早足でやってきた。 自転車の荷台には、漕ぎ手の頭よりも高い、ボール箱に入った荷物が積まれていた。 (やっぱり来た! あの荷物はやはり『シネマトグラフ』? 神様を壁に映し出したのはあの二人?) メイドさんは木箱の隙間から目をこらした。 兄弟は人目をはばかって、素早く荷物を空き家の中に入れ、続いて自転車もその中に入れた。荷物をかついで階段を上がっていく足音が聞こえた。つづいて自転車も肩に担いで屋上へ持って上がる気配がした。 (自転車も? 自転車なら物陰に隠しておくだけでいいのでは?) 隙を窺って箱から出て、場所を変えようとしたブライディーの前に、ドイルとシスター・セアラが立ちはだかった。 「おお、ブライディー、ご苦労さん。きみもここが今夜の標的の店、と睨んだのか? …向かいが空き家で二階建て。どうやら神様は空き家の二階がお好きのようだな。…おや、幻術師たちは早々と来て、すでに陣取っているみたいだな」 「ドイル様! どうかあのパリから来た幻術師たちを見逃してあげてください! 彼らのシネマトグラフが成功して、店の経営者たちが恐れおののいてくれたら、きょう店に連れてこられた子たちが家に帰して貰えるかもしれないんです!」 ドイルとセアラは顔を見合わせた。 「そんなに続けて上手く行くかな? もしも店の経営者や用心棒たちに見破られたりしたら、袋叩きにされ、大切な装置も粉々に壊されてしまうかもしれないよ。彼らはすでに『空き家不法侵入』と『威力業務妨害』の罪を犯している。たとえ相手がこの上なくいかがわしい店であっとしても、だ…」 「セアラ様、どうか…」 メイドさんはシスターの衣にとりすがった。 セアラは何も答えなかった。 「トリックを用いた犯行は、同じ手口を繰り返したら、そのうち必ずバレる。相手だってバカじゃない。それなりに疑って、対策も立てているだろうからだ」 ドイルは険しい表情になった。 あたりにはさらに闇が迫り、派手なランプも鮮やかさを増した。 「兄者、そろそろはじめようか。さもないと今夜の商売が始まってしまいそうだ」 「分かった。では…」 兄は胸の上で両手を組んでひとしきり祈った。弟も兄に習って祈った。 「神様、ぼくらが発明したシネマトグラフは人々に素晴らしく楽しい娯楽を提供するものだとは思いますが、遠くない未来、健全な風俗を乱す道具としても使われてしまうことでしょう。しかしそんな先の将来、ぼくら兄弟は天に召されて、もうこの世にはいないかもしれません。ですから、いまのうちに先んじて罪滅ぼしをしておきます…」 かすかに霧がたなびきはじめた。 「兄者、霧だ。このあいだは霧の中でもそれなりに上手くいったけれど、続けて成功するかどうかは…」 「承知した。弟よ、急ごう!」 弟はスタンドで立てた自転車に飛び乗って、まるで自転車競走の選手のように猛然とこぎ始めた。自転車のチェーンは長く引き出され伸ばされて、別の機械に巻き付けられていた。 しばらくすると、兄が覗いているエジソン電球が、白くまばゆく輝きはじめた。 「そろそろ行くか…」 兄はレンズを塞いでいた黒いレンズ・キャップを取り外すと、階下へと降りて行った。 娼家の玄関では、辻馬車から降り立った客たちを、年老いた女将が出迎えていた。 「ようこそいらっしゃいました」 「女将、今夜は新しいちっちゃい子が入っている、というのは本当だろうな?」 「ええ。本当でございますよ…」 「いつものように、金は言い値を払ってやるぞ」 「有難うございます」 と、その時、青いランプ、赤いランプをかすめるようにして、主の御姿が映し出された。「汝ら、今からでも遅くはない。今すぐ悔い改めよ!」 下の客たちは一瞬ギョッとしてすくみ上がった。しかし、女将のほうは一向に驚いていなかった。 「旦那がた、驚かないでください。どこぞの矯風会が雇った幻術師の幻術です」 「な、なんだ、そうか。…それにしてもよく出来ているな」 「いま、うちの若い者を向かわせてひどい目に遭わせますので、安心してお遊び下さい」 女将が指をパチリと鳴らすと、黒いコート姿のいかにも「ならず者」といったふうの男たちが四、五人が二手に分かれ、一手は向の空き家に、もう一手は声のした方向に向かった。 空き家の二階で懸命に自転車を漕いでいた弟がハッと気づくと、いつのまにか三人のならず者たちに取り囲まれていた。 「なるほど。これが『神様』の正体か」 「『機械仕掛けの神様』って訳だ」 「むかしから神を騙る者には、天罰が下るはずだが…」 男たちが囲みを狭めると、弟は怯えて自転車から飛び降りた。エジソン電球の明かりが消えるのと同時に、壁に映し出されていた主の似姿もかき消えた。 「おい、手足の二、三本へし折ってやれ!」 「合点だ。…ところで、このへんてこりんな機械はどうします?」 「頂いておこうぜ。俺たちには使いかたは分からんが、きっと高く売れるぜ。…こいつには警察にタレ込む勇気はなさそうだしな…」 チンピラの用心棒たちが、逃げだそうとする弟の前に回り込んで立ちふさがった。 が、その時、風の如く現れたドイルが、チンピラたちの腕をねじ伏せ、投げ飛ばし、肘打ちで打ち飛ばした。 「くそっ、まだ仲間がいたのか」 用心棒たちはフラフラと立ち上がりながらつぶやいた。 「貴男は?」 弟はドイルに尋ねた。 「ただの通りがかりの者だ。…さぁ早く、その機械と自転車を持ってお逃げなさい。できたら明日のカレー行きの船にお乗りなさい」 ドイルは柔術の構えで男たちを睨み付けながら言った。 「どこのどなたかは分かりませんが、有難うございました。しかし兄が…」 「心配ない。別の者が向かっている。さぁ、ここはぼくに任せて、早く!」 「はい…」 弟は機械を手早く自転車の荷台に縛り付けると、その自転車を担いで階段を降りていった。 「おのれ! よくも邪魔をしやがって!」 男たちは手に手にジャック・ナイフを取りだして構えた。闇の中、白い刃がキラリと光る… 「そっちがそうなら、やむを得まいな…」 ドイルも懐から回転式拳銃を取りだした。 「それはこっちのセリフだよ」 チンピラの頭は、もう片方の手で同じように銃を取りだして、ドイルに銃口を向けた。 一対一、いや、たとえ一対三でも自分一人だったらドイルは撃ち合いも辞さなかっただろうが、用心棒の仲間の一人が、物陰に身を潜めていたメイドさんを見つけ出して、喉もとにナイフを突きつけた。 ドイルはまだ何も言われる前に、拳銃を足下に置いた。 「物わかりはいいようだが、助かろうとは思わないことだな」 チンピラたちはドイルたちを後ろ手に縛り上げて、床に座らせた。 「すみません、ドイル様…」 メイドさんが囁いた。 「心配するな。次の手は打ってある」 ドイルは囁き返したものの、兄弟の兄のほうも、別の用心棒たちに捕らえられて連れてこられてきた。 「よくもよくも、商売の邪魔をしてくれたわね!」 娼家の女将は、きつい香水と白粉の臭いをプンプンと振りまきながら言った。 「女将さん、こいつは人気作家のコナン・ドイルですぜ。黄色新聞の写真で見たことがあります。どうします?」 「人気作家だろうと、誰であろうと、男は簀巻きにして重しを付けてテームズ川に沈めてしまうしかないだろうねぇ… そこのメイドは働いてもらいましょ。さっそく今夜からでも…」 と、その時、空き家の壁に、二本の長く曲がった角を生やした、不気味な山羊の姿が映し出された。 「…そんなに簡単に人の命を奪うことを思いつくとは、汝らも人ではないようだな…」 用心棒たちは目を見張り、数歩退いた。 「…我が地獄は、汝らのものであるぞ」 山羊の後ろには針の山で串刺しにされたり、血の池で溺れ続ける悪人たちの姿が映し出された。 「ええい、怖じ気づくでないわ! また幻灯に決まっているでしょう!」 女将は金切り声を挙げた。 「…しかし女将さん、こいつらの映写機にはもう電球は灯っていないし、部屋には他に映写機はないですぜ」 チンピラたちの顔に恐怖の翳りが宿りはじめた。 「…一度だけ、待ってやる」 山羊は真っ赤な目を爛々と輝かせながら、ゆっくりとこちらに迫ってきた。「この者たちを放し、おまえたちはいまの商売を畳んで正業に就くがよい! そうすれば、おまえたちの神もおまえたちを救ってくれるのではないか?」 炎は熱く、部屋には硫黄の臭いが立ちこめはじめた。 「お、女将さん、こいつ、幻影じゃあないですぜ!」 「ええい、ビビるな!」 女将はくすんだ金髪を留めていた髪留めを引き抜くと、自らの手のひらに何やらまがまがしい印を描いた。印からにじみ出た血は不気味な光を放ち、地獄と山羊の姿を打ち消しはじめた。 「お、女将さんって、魔女だったんですか?」 用心棒たちの顔はさらに恐怖に引きつった。 「魔女として立派に大成していたら、こんなところでこんな商売なんかしてないさ」 立ち上がろうとしたドイルが、気を取り直した悪人たちに殴り倒された。 「ドイル様!」 メイドさんは叫んだが、何もできない。 女将が染みだらけの壁紙の一角を剥がすと、潜んで呪文を唱えていたシスター・セアラの姿があらわになった。 「やはり矯風会の回し者ね! こっちはもう長いあいだここで商売をしてるのよ。そんなちょこざいな、あざとい手で脅かされたりするものですか!」 女将は勝ち誇った。 「セアラ様!」 結局セアラも縛られて、みんなと一緒に転がされてしまった。 「ひい、ふう、みい… 四人、五人… どうします、女将さん、いくら何でも五人もいっぺんに…しかも旧教の尼さんをどうにかしたりしたらヴァチカンが黙ってはいませんぜ」 「ええい、やると言ったらやるんだよ!」 「すみません、女将さん。あっしは辞めさせてもらいます…」 「俺も…」 「はした金じゃあ割に合わねぇ…」 チンピラの用心棒たちは一人、また一人と立ち去っていった。 「ええい! しょうがない!」 「幻影の基督や、悪魔なんかよりも、あんたのほうがよほど恐ろしい!」 「ええい、今回だけは見逃してやる! 今度商売の邪魔をしたら承知しないからね!」 女将はドイルたちに唾を吐きかけて、そのまま立ち去った。 ドイルはすぐに縄を解いて他の者たちのいましめも解いた。 「どうも有難うございました」 フランス人の兄弟は頭を下げた。 「さてと、これからが重要だ。みんなで小さい子たちを助けに行こう! そろそろ警察も到着する頃だ」 ドイルが服の埃をはたくと、シスター・セアラも大きくうなづいた。 「魂の幽閉者」 ロンドンのはずれにある、とある国教会の古い教会が取り壊されて、新しい建物が建てられるというので、ある日差しの明るい春の朝、シスター・セアラとブライディーがやってきた。 「…ご承知の通り、五百年ほど前、ヘンリー八世が国教会を宣言、修道院を解散させるまでは、ここはカトリックの女子修道院だったのです…」 温厚そうな国教会の老シスターがとつとつと語った。「…従って、壁の内側にある壁、台座の下にある台座は、あなたがた旧教のかたがたのものです。心の眼を使って、もしもまだ何か大切なものが残されているのが見えるようでしたら、どうかご自由にお持ち帰りになってください」 「お気持ち、深く感謝申し上げます」 セアラは頭を下げた。 「…ただし、この建物、すでにいつ自然に崩壊しても不思議ではないほどボロボロに傷んでおります。万一、あなたがたが調査中に倒壊したとしても、こちらとしても責任は持てませんので、十分にご注意ください」 「歩むところに心致します」 セアラはメイドさんを招いた。「…さぁ、ブライディー、行きましょう!」 ギイッと扉を開けた途端、早くも粉のような漆喰がサーッと二人の頭上から降りかかった。黴臭い饐えた臭いが鼻をつき、ブライディーは思わずハンカチで口元を押さえた。 礼拝堂の内陣からは、すでに聖像や聖具はすべて運び出されていて、ポッカリとだだっ広い空間があるだけだった。セアラたちが歩みを止めて耳を澄ますと、何もしていないのにミシミシという梁が折れかけているような音が聞こえてきた。 「これは本当に危ないですね…」 セアラはまるで人ごとみたいに呟いた。「壁を拳で叩いてみたりもしないほうがいいでしょうね…」 ブライディーはコックリさんの棒を取りだして、目を閉じて心を静めて祈ってみた。 「セアラ様、ここにはもう何もないようです」 「そうですか。では…」 二人は、かつては修道女たちが集団で生活していたいくつかの大部屋や、個室の小部屋、織物や編み物、刺繍などの作業をする部屋、台所などを見て回った。 窓から差し込む淡い光が、舞い上がる塵や埃を照らし出す… 「とりたてて何もないようです…」 「それもまた神様の思し召しでしょう。後は地下を残すだけですが、どうしましょう? ブライディー、貴女が嫌なら断ってくださってもいいのですよ」 「セアラ様とご一緒ならば、わたし、怖くはありません」 二人は燭台をかざしながら腐臭が漂う地下への階段を降りていった。ぬるぬると滑る濁った湧き水が、地下の床や壁全体を覆って、さながら鍾乳洞のようになっていた。 「このあたりは禁を破ったり、罪を犯したりした修道女を閉じこめておくための部屋だったのでしょうね」 赤茶色に錆び付いて、ところどころ歯抜けになった鉄格子のはまった小部屋の前で、セアラは瞳を伏せた。 「セアラ様!」 と、ブライディーが小声で鋭く叫んだ。 コックリさんの棒がほんのかすかにだが、震えて揺れていた。 「この中ですか?」 セアラが声を潜め、鉄格子の扉の取っ手に白く細い手を掛けた。と、途端に鉄格子はまるで砂糖細工のそれのようにバラバラになって床に散らばった。ゴゴゴ…という低い地鳴りのような音と、ミシミシ、メキメキという建物全体が壊れかけている音が響いてきた。 「ブライディー、引き返しましょう! これ以上は危険です! 命を粗末にすることは御教えにも反します」 「しかし、ここで引き返せば、この奥にあるものを二度と目にすることはできませんけれど…」 「…人は、必ずしも全てを知り、全てを手にする必要はないと思います。神様は、要るものは必ずお与え下さいます。それ以上は、貧欲というものです!」 「わたしは、その… とても気になります」 メイドさんは魅入られたように奥へと一歩踏み出した。「ここまで来て引き返せとおっしゃるのは、それこそ道理に反するように思います。そんなことなら、最初からここへ来なければ良かったんです」 ゴゴゴ… という音はさらに大きくなり、地下の、ぬるぬるの苔に覆われた岩壁にピキピキと亀裂が走り始めた。 ガラガラと崩れ落ちた岩壁の奥には、さらに牢獄のような、一層古い岩壁に囲まれた独房のような部屋が広がっていた、 「大昔の『隠し牢獄』ですね。でも、これ以上はどう考えても危険です。戻りましょう」 シスター・セアラが両腕を踏切の遮断機のようにまっすぐ横に伸ばした。 とその時、窓も何もないその部屋の奥に、しゃがんでいるような人影が見えた。シスターもメイドさんも、最初それを崩れかけた骸骨か何かだと思った。しかし次第に目が慣れてくれるにつれ、古い様式の見習い尼僧の服に身を包んだ小さな少女であることが分かった。 「シスター・ロザリンド様ですか? もう出てもいいのですか?」 女の子は古い英語でそう尋ねた。 「危ない、早くこちらへ!」 メイドさんが駈け寄ろうとするのを、セアラは手をつかんで押しとどめた。 「シッ、ブライディー、あの子は幽霊です」 「『幽霊』? あんなにハッキリと見えているのに?」 「おそらく本人も、自分がとうの昔に死んでしまっていることに気づいていないのでしょう…」 セアラは鋭く囁いた。 「…貴女はシスター・ロザリンド様ではありませんね? シスター・ロザリンド様のお許しがなければ、わたくしはここから出てはいけないことになっています。どうか、お願いですから、シスター・ロザリンド様を呼んできてください」 少女は碧玉のような両眼で、まっすぐにこちらを見つめた。 「『シスター・ロザリンド』とはどなたのことでしょう?」 メイドさんはセアラの耳に耳打ちするように尋ねた。 「きっと自分にも厳しく、他人にも厳しい尼僧だったのでしょう。ですが彼女もとうの昔に土へとかえっていると思います」 「するとここへお連れしてくることは?」 「到底無理です」 セアラはほんのかすかに首を横に振った。「…それこそ降霊術でも使わない限り…」 「わたし、毎日毎日、十分に悔い改めました。ですから、どうかもうお許しください…」 少女は両手を組んでひざまづいて懇願した。 「あの子、一体どんな悪いことをしたのでしょう?」 「…分かりません。わたくしの感じでは、厳しい罰を受けなければならないようなものではないように思います。しかし、それが何だったのか、長い長い時の果てに、もう本人もすっかり忘れ去っているのではないかと…」 「だったらもう、出てきてもよいのでは?」 「彼女に『ここに入っているように』と命じた非常に厳格なシスター・ロザリンド自身が『もうよろしい』とお命じにならなければだめでしょう」 「しかし、そのシスター・ロザリンドはもう…」 メイドさんの鳶色の目が不安に曇った。 「その通りです。彼女を許して、あそこから出してやれる者はもういません」 「このままあの子を放っておくと、どうなるのでしょう?」 「『いつになったらここから出してくれるのだろう』『いつまで待てば許してもらえるのだろう』と思い続けながら、瓦礫と土砂に埋もれることでしょう。そしいその思いは、地中に深く埋もれても消えはしないのではないか、と…」 「そんな! かわいそうです! 何とかして差し上げたいです!」 振りほどいて駈け寄ろうとするブライディーの腕をセアラはしっかりとつかみ直した。 「ここはまもなく崩れます。貴女にもしものことがあったら、それこそわたくしは悔やんでも悔やみきれません。ここはわたくしが行きます」 「しかし、セアラ様も…」 「わたくしは主にお仕えする身ですから、たとえどのような存在でも見捨てるわけには参りません。…ブライディー、貴女は早く建物の外へ出て、安全なところで待っていてください。わたくしもすぐに必ず参りますから…」 シスターはそう言い残して、ゆっくりと小さな見習いの尼僧に近づいていった。 「…もう何の心配もありません。主も『恐れるな』とおっしゃって下さっているではありませんか?」 少女は激しくかぶりを振り、背後の暗い岩壁に背中を押しつけて後じさった。 「たとえ主のお許しがあったとしても、シスター・ロザリンドのお許しがなければ…」 「そんなことはありません。シスター・ロザリンドは立派なかたでしょうが、所詮は誤り多き人の一人に過ぎません。主はすべてを許し賜れるおかた。主のお許しがあれば、他の者の許しは必要ありません」 (シスター・ロザリンドを探し出してくればいいのよ!) ブライディーはそう思った。(たとえお墓の中で骨になっていても…) メイドさんはそう思って、建物の外へと駆け出して行った。 ブライディーは修道院に隣り合ったさびれた墓地の一角の、尼僧たちの苔むした墓を探した。 何百年も以前から連綿と綴られた年号の古さが、歴史の古さを感じさせる。 (えーっと、シスター・ロザリンド。シスター・ロザリンド…) ところが、ざっと見回っただけだが、「シスター・ロザリンド」と刻まれた尼僧の墓は見あたらなかった。 (おかしいな。「シスター・ロザリンド」はこの修道院では亡くならなかったのかしら?) 建物のほうからは、さらにゴゴゴ…といういまにも崩れそうな音が響いている。メイドさんがさらに焦り慌てはじめた頃、案内してくれた国教会の年老いた尼僧がやってきた。 ブライディーは訳を話して「もしやご存じありませんか?」と尋ねた。 「残念ながら…」 尼僧は目をしばたたかせながら答えた。「…むかし、ここがカトリックの女子修道院だった頃、数多の戦乱に巻き込まれて、修道女全員が敵の軍隊によって皆殺しにあって火をかけられたことも何度かあったと伝え聞いております。おそらくその幽霊の見習い修道女は、懲罰を受けて閉じこめられたのではなくて、敵襲を察したシスター・ロザリンドによって『隠し懲罰房』のようなところにかくまわれて、塗り込められたのではないでしょうか」 「しかし少女は『自分が罰を受けている者だ』と信じ込んでいます」 「これから虐殺が始まろうか、という時です。『どんな音や悲鳴が聞こえても、貴女は絶対に物音を立ててはいけません』と命じられたのでは?」 (どうしましょう…) メイドさんは困惑した。(…シスター・ロザリンドは、ほかの尼僧たちと一緒にその時、敵の軍隊に殺されてお墓も作って貰えなかったんだわ…) 「たとえお墓はなくても、シスター・ロザリンドの顔や姿がどんなものだったかが分かれば、似た人を連れてきて、ということができるのでは?」 「ここに所蔵されていた資料や文書は、すべて早くにしかるべきところに運び出しました。 場所は分かっていますが、幌付きの荷馬車に何台もの厖大なものでした。だからそれこそ何か凄い魔法でも使わなければ、シスター・ロザリンドに関する文がその中のどこにあるのかなどとても分からないと思います」 (そうよ、魔法よ!) メイドさんは飛び上がりそうになった。(なぜそのことに気づかなかったのかしら? セアラ様は「凄い」魔法をお使いになれる。読心術であの亡霊の少女の心を読みとって、その心の中にあるシスター・ロザリンドの姿を、また別の魔法で出して、お許しを出させればいいのよ!」 「有難うございました!」 ブライディーはペコリと一礼して、再びいまにも崩れそうな建物の地下へと戻った。 「何故戻ってきたのですか!」 セアラは鋭い語気で言った。ブライディーは初めてセアラが怒ったのを見た。 「…それぐらいのことはわたくしも考えました。しかし残念ながら、この子の思念の中には、もうシスター・ロザリンドの姿や声の記憶は、すっかり忘れ去られていてないのです」 「えっ?」 「…長い年月の風雪の果てに、この子の心に残ったのは『シスター・ロザリンドのお許しがなければ、ここから出てはいけない』ということだけです」 「…そんなに… そんなに怒らないでください…」 女の子は顔をくしゃくしゃにした。 「あたしはシスター・ロザリンドのお言いつけの通りに、ずっとここでじっとしています。だから…」 「あの…」 ブライディーはセアラの目をまっすぐに見つめた。「この子がシスター・ロザリンドの姿や声を忘れてしまっているのなら、どなたでも良いのでは? どなたか尼僧のかたをお連れしてきて、『シスター・ロザリンドです』と名乗っていただければ、この子は信じるのでは?」 「それは試してみないことには分かりません。成功の確率は低いでしょう」 「ゼロでなければやってみる価値はあるのでは?」 「こんなところに来てくださるようなおかたがいらっしゃるでしょうか? それもいますぐに」 メイドさんはすぐにまた地上に出た。 そこには例の国教会の老いた尼僧が祈りながら立ちつくしていた。 「お願いです、やっては頂けないでしょうか?」 しばらく間があった。 「いいでしょう。わたしもお迎えが近い身、そんなわたくしでお役に立てるのなら。…ただし、貴女はここにいてください」 「いえ、そんな訳には…」 「貴女が一緒に来ると言われるのなら、お断りします」 ブライディーは仕方なく外に残った。 老尼僧はセアラと亡霊の少女がいるところにやってきた。 「…覚えていますか? シスター・ロザリンドです。謹慎を解いてあげましょう」 少女の瞳に不安の影がよぎった。セアラはつい見習い修道女と年老いた国教会の修道女を見た。 「シスター・ロザリンド。シスター・ロザリンド? 貴女がシスター・ロザリンド。…いや、そんなはずはないわ!」 「疑うのも無理はないわ。あれからずいぶん長い長い年月が流れたのですもの。貴女はそのままの姿なのに、わたしは年老いてしまった…」 老修道女は、両方の眼から涙をあふれさせた。セアラにはとても、にわかな芝居とは思えなかった。 「貴女が本当にシスター・ロザリンドだとおっしゃるのなら、どうしてわたしにここに入っているように言われたのか、その理由を言って下さい」 「…それはもう忘れました。何度も言いますが、とてもとても長い時間が過ぎたのです。そんなことはもうどうでもいいことでしょう?」 「よくはありませんわ!」 少女はガタガタと揺れ続ける岩壁に背中をついて叫んだ。「…そのために、わたしはずっとずっと『ここ』にいたんですもの!」 「思い出すとお互いに不幸になるような気がします」 「それでも構いません! 思い出して頂かないと、貴女がシスター・ロザリンドであるという証しがありません」 老修道女は、まるで自分が慈悲と哀れみを乞うているかのようにセアラを見つめた。 (どうか、かりそめのことでも、まったくの嘘でもいいからおっしゃってください) セアラはそう言いたそうに、ほんのかすかに頷いた。 「貴女は恋人に…男性に『ここからわたしを助け出して下さい。救い出して駆け落ちしてください』と手紙を書いて、出入りの商人にことづけようとしたのが発覚して、罰を受けたのです」 「わたしが… わたしがここから抜け出したがっていた?」 少女は懸命に思いだそうと試みていた。 「そうです。さぁ、これで納得したでしょう?」 老修道女は少女に皺だらけの手を差し伸べた。 「いいえ、それは違うと思いますわ」 少女は後じさり、背中をさらに壁に押しつけた。 「…そんな強烈な、恋の思念を持っていたのなら、たとえシスター・ロザリンドがいくら『ずっとここに入っていらっしゃい』とおっしゃっても、手のつま先で壁や床を少しずつ掘ってでも、ここから抜け出していたように思いますわ!」 「では、訂正しましょう。貴女は、大切な人に裏切られて、何もかも嫌になってこの修道院へとやってきた。しかし『ここ』でも他の誰にも打ち解けることができなかった。そこで、自ら進んでこの中に入り、鉄格子にも自分の心にも固く鍵を掛けてしまったのです。 わたくし…シスター・ロザリンドは怒って『そんなにそうしたいのなら、身体が朽ち果て、魂が少しずつ削られて消え去るまでここにいなさい! 自分が好きこのんで『ここ』にいるのと、命じられて閉じこめられているのとでは全く苦痛の度合いが違うことを思い知りなさい!』と言ったのです」 「嘘よ、嘘! わたしが自分で閉じこもったのなら、こんなにまでシスター・ロザリンドのお許しを待ちこがれるはずなんかないわ! 自分で勝手にしたことなら、鉄格子が腐った時点で、勝手に出入りするはずよ!」 老修道女は困り果てた表情でセアラを見た。 (真実を言い当てないことには、この子は決してここから出ない…) 一方、外で待っていたブライディーは、いくら待ってもセアラも老修道女も出てこないことにじりじりしていた。建物は不気味な音を立てていまにも崩れ落ちそうだった。 彼女はとうとう業を煮やして、再び地下へと降りていった。階段の端は欠け落ち、何度も転びそうになりながら二重になった地下牢に戻ると、セアラと老修道女が身じろぎもせずに奥にいる少女を見つめていた。 「セアラさま!」 「ブライディー、来てしまったのですね。仕方ありません。こうなった以上は、この子がどうしてこうなってしまったのか、大至急占って下さい!」 「分かりましたセアラさま。そうおっしゃるのを待っていました!」 ブライディーは手にした小さなバスケットの中から『不思議の国のアリス』のカードを取り出すと、しゃがんで一枚ずつ床に並べはじめた。 …敵軍の包囲の輪はさらに縮まった。味方軍の獅子奮迅の斬り込みが敢行され、カシャーン、カキーンという剣戟の音が絶え間なく鳴り響き、馬はいななき、ブルンと震えるような弓弦の震えと、ヒョウ、ヒョウと無数の矢が飛びかって空気を切り裂く気配があたり一帯を覆い尽くしていた。生臭い血の臭いが漂い、鎖帷子や鎧が裂かれる音とともに悲鳴や絶叫、勝ち鬨の声が挙がっていた。 「ロザリンド、ロザリンド、貴女はお姉さんなのだから、最後の最後までみんなを守ってあげてくださいね」 母代わりのシスターが、五、六人の小さな女の子たちをロザリンドと呼ばれる少女に預けて言った。ロザリンドの瞳は外の阿鼻叫喚に反応して、つい何日か前に、両親や兄妹たち、一族郎党が全員惨殺された光景を重ね写しだしていた。 「あたしが… 守る…」 ロザリンドはうわごとのように呟くと、両手に握っていた幼い妹たちのか細い腕を、跡が付くくらい強く握り直した。 「そうです。貴女が守ってあげてください。主も必ず守って下さいます」 シスターは膝を折ってロザリンドをまっすぐに力強く見つめた。「大丈夫です。何があっても大丈夫です。地下の、懲罰房の奥の、隠し部屋のことは知っていますね? 貴女がよく隠れん坊の時に隠れていた場所です」 少女はコックリと頷いた。 「あそこに、みんなで隠れるのです。…みんなで、隠れるのです。声を出してはいけません。外が再び静かになって、しばらくするまで辛抱するのです。分かりましたか? もう誰もいない。何の音もしない。シーンと静まりかえって、それからさらにしばらく待ってから、出てくるのです。分かりましたね?」 ロザリンドはまたコックリと頷いた。 「あの、シスターは一緒に来て下さらないのですか?」 「わたくしは一緒には行けません。でも、また必ず会えます。約束です。…さぁ、早く!」 ロザリンドは仕方なく小さな子たちを引き連れて地下への階段を降りて行った。 「さぁさぁ、みんな早くしましょう!」 階上の石畳の床を激しく踏みしめて、兵士たちがなだれ込んでくる物音がした。男たちの絶叫にまじって、絹を引き裂くような悲鳴が聞こえたような気がしたが、やがてそれは聞こえなくなった。 少女の前には、じめじめと湿った懲罰房があった。鉄格子の鍵穴には鍵が差し込んだままになっていた。彼女は中に入ると、奥の壁に両手をついて、全身の体重をかけるようにして壁を押した。二度、三度試すとようやく壁はゴゴッと音を立てて擦り動いて、子供が一人ようやく通れるくらいの隙間が開いた。 「さぁみんな、隠れん坊をしましょう! 中に入って静かにしていましょう。見つかったら、見つかったら… その子が鬼にならなければいけないのよ」 少女たちは先を争うようにして隙間をくぐり抜けた。最後にロザリンドが入って中から壁によりかかって体重をかけると、壁は何事もなかったかのように元通りになった。 隠し牢獄の中は、真っ暗だった。小さな子たちは、最初のうちこそ黙ってじっと大人しくしていたものの、数分もたたないうちにもぞもぞと身体を動かしはじめた。 「ロザリンド、あたし、もうこんな暗いてところ嫌よ! お外へ出るわ」 「あたしも!」 「鬼になってもいい!」 「みんな、何を言っているの! もうしばらくの辛抱よ。いま出て行ったらわたしたちの組が負けてしまうわ」 「負けたっていいもん!」 「怖いよー!」 とうとう、一人の小さな女の子が「えーんえーん」と泣き始めた。 ロザリンドは考えた。 (このままだと、この子のためにわたしたち全員が見つかってしまう!) 幸い、まだ外に何の気配も感じられなかった。 「そんなに出たかったら、あなただけ出ればいいでしょう!」 再び岩の扉を開けた。その子が泣きながら外へ出ると、他の子も雪崩を打って出て行ってしまった。 「みんな… ええい、もう勝手にしなさい!」 再び壁を閉じるのと、ガチャガチャといういくつもの剣と鎧が擦れ合う音が階段を降りてきたのとはほぼ同時だった。 それから、いくつもの鶏を絞めるような音と、絶叫と、牛肉や豚肉の固まりの包丁を突き刺すようなブシュブシュという音がひとしきり続いたが、やがてそれも聞こえなくなった。 「そう、わたしが、わたしこそが、わたしを閉じこめたシスター・ロザリンド自身だったのね…」 少女は泣き濡れていた。「…わたしもあの時、みんなと一緒に召されていればよかったのよ…」 「いいえ、それは違います」 シスター・セアラが穏やかに言った。「例え貴女一人だけでも戦火から逃れ、生き延びたことは、神様の思し召しだったと思います」 「そうでしょうか…」 「ええ、だから早く出てきて、こちら側へ来て下さい。この建物はもうじき跡形もなく消え去るでしょう。そうなる前に…」 「行ってもいいのですか? そちら側へ?」 少女は濡れた瞳でセアラたちを見つめた。「もちろんよ。もう全て終わったことなの。だから一緒に帰りましょう」 メイドさんは石の床の上に並べ置かれた「アリス」のタロット・カードを一枚一枚拾って手の上に揃えはじめた。 「そうはいかないわ!」 それまで静かにたたずんでいた国教会の老いた尼僧は、突然に激高して、残りのカードを拾い集めようとしていたブライディーの手を靴で踏みにじった。 「痛ッ!」 「何をされるのですか!」 セアラが二人を引き離した。 「おまえのせいじゃっ! おまえのせいでわしたちは、敵兵たちに口では言えないほどのひどい目に遭わされたんじゃ!」 老尼僧の衣装をかなぐり捨てると、真っ黒な三角帽子をかぶり、漆黒の衣をまとったかぎ爪の老婆が現れた。 「ロザリンド! おまえがいま言ったことは大嘘じゃ! おまえは自分一人が確実に助かりたいがために、泣き出してしまう可能性が高かったわしら小さな子を、放り出して閉め出したんじゃ!」 セアラはブライディーをかばいながら少し退いた。 「違うわ! 貴女たちはあたしが懸命に引き留めようとしたにも関わらず、勝手に外に出て行ってしまったのよ! あたしに責任はないわ!」 ロザリンドは叫んだ。 「セアラ様、一体どちらの言い分が正しいのでしょう?」 ブライディーはセアラの耳に囁いた。 「分かりません… もはやわたしの力を持ってしても。アレイスターさんたちの黒魔術を使えば真実を知ることができるかもしれませんが、主はわたくしたちが神の如く全てを知ろうとすることを良く思われてはいないような気がします」 「お二人が幽霊や妖婆であることが分かった以上、わたしたちは退散しても良いのでは?」 メイドさんはシスターの衣の袖を引っ張った。 「ブライディー、貴女は一刻も早くお逃げなさい! わたくしは、放っておくことはできません。このままあの二人が罵りあいながら瓦礫に埋もれてしまったなら、このあたり一帯は強烈な怨念と執着に囚われた場所になってしまって、近づく者全員に祟りをなすことになるでしょう。そうなってしまってからではさらに一層解決が困難になってしまいます」 「しかしくどいようですがセアラ様に万一のことがあったら…」 「『くどいようですが』わたくしにとって悪霊退治は神様から授かった『使命』です」 セアラはニッコリと笑った。「ブライディー、貴女のお仕事はメイドさんでしょう?」 「ええい、そこ! さっきから何をこそこそごちゃごちゃと言っている! わしに加勢をする、と言うのでもなければ、まずおまえたちからかたづけてやる!」 妖婆はどこからともなく先の曲がった長い樫の杖を振りかざした。「…おっとその前に長年探し求めてもついに自力では見つけ出せなかった我が宿敵ロザリンドを、いとも簡単に見つけ出してくれたことの礼だけは述べておこう…」 杖の先がまっすぐに、セアラとブライディーのほうに向けられた。 「お待ちください! 貴女が、ロザリンドを恨む気持ちは分からないではありませんが、いまさら復讐してもどうなるというものではないのでは?」 セアラは背中を曲げて懇願した。 「あたしは、あたしは絶対にみんなを閉め出したりなんかしていません! そこのメイドさんの素晴らしい術をご覧になったでしょう? みんな勝手に出て行ったのです!」 ロザリンドも反論した。 「うるさい! 『見て見ぬふりをした』ということは、見殺しにしたということと同じことだ!」 妖婆はそう言い終わると、目を伏せて口の中で呪文を唱えはじめた。 「セアラさま、もう逃げましょう! こんな分からず屋のお二人は、もう放っておきましょう!」 メイドさんはまたシスターの衣の袖をきつく引っ張った。「亡者たちの怨念のとばっちりで、どうにかなったら割に合いません!」 セアラは、あろうことか、ロザリンドの幽霊と、妖婆のあいだにすたすたと割って入った。 「お二人とも。このまま永劫に怨念の地獄をさまよい続けるよりも、主のおられる天国でゆっくりと穏やかに憩おうとは思われませんか?」 「セアラさま!」 メイドさんの顔からはさらに血の気が引いた。 「おのれ! まだこの上に邪魔立てするか!」 妖婆は杖の先から黒い邪気に満ちた煙を放った。煙はセアラに取り憑き巻き付こうとしたが、セアラが手のひらを立てただけで雲散霧消した。 「悪魔の手先としても修行が足りませんね。その程度では、望み通り地獄に堕ちても到底出世は望めませんでしょう」 「くそぅ… ならばこれでは…」 石畳の床に黒いポッカリとした虚空の穴が開いたかと思うと、鱗に覆われた人のような、獣のような腕が何本も現れて蛇のようにセアラの全身に巻き付いて引っ張り込もうとした。「無駄です」 セアラが目を閉じ、再び開くと、それらはたちまち塵となって崩れ落ちた。「…わたくしの手番のようですね」 白い、さわやかな香りのする霧が妖婆を包み、消え去ると、そこには中世のデザインのドレスに身を包んだ幼い可愛い女の子が座り込んでいた。彼女の後ろには縫いぐるみや人形を手にした同じ年頃の女の子たちが不安に満ちた目をして従っていた。 「ロザリンドお姉ちゃん!」 ロザリンドは弾かれたように牢獄の隅から立ち上がって彼女たちに歩み寄った。 「みんな!」 「ロザリンドお姉ちゃん! やっとまた会えたね」 少女たちはロザリンドを取り巻き、手や袖やドレスのスカートを引っ張った。 「さぁ、みんな、早くお外へ出なさい! 怖い敵の兵隊たちはもういません」 「本当?」 「本当にもういないの?」 「もうお外へ出てもいいの?」 小さな子たちは不安そうにロザリンドの顔色を窺った。ロザリンドは元の寂しそうな表情でセアラの目をみつめた。 「さぁ、どうするかはロザリンド、貴女がお決めなさい。このまま以前と同じように、この暗いあなぐらに留まり続けるか、それとも外へ出て行くか」 ロザリンドはためらっていた。 「ねぇ、ロザリンドお姉ちゃん、どうするの?」 「早く決めてよ!」 地下室の天井の梁が緩んで、土砂が落ち始めた。 「分かりました。早くお外へ出ましょう!」 ロザリンドはみんなをせき立てて階段を上がっていった。 「さぁブライディー、今度こそわたしたちも逃げましょう!」 セアラとメイドさんは手に手を取って少女たちの後に続いて階段を上がった。 一階に着いた直後、ドドトッと地盤が崩れ落ち、地下全体が埋め尽くされた。 「お外だ!」 「お外よ!」 ロザリンドと少女たちが太陽の光を浴びると、次第に姿が見えにくくなった。 元は老修道女だった少女は、教会の庭に咲き乱れていた春の花をいくつか摘むとロザリンドに渡した。 「はい、ロザリンドお姉ちゃん!」 「有難う…」 笑顔で受け取ったロザリンドは、さらに見えにくくなって、やがてみんなが消え去った。 ほどなく、ガラガラッともの凄い音を立てて教会全体が崩れ去った。 「セアラさま…」 メイドさんはその場にへなへなと座り込んでしまった。 「やれやれ、危ないところ間に合ったようですね」 セアラは微笑んだ。その微笑みにはまだかなりの余裕があるように、ブライディーには見えた。 (次のお話しに続く…) KIJISUKE@aol.com