ブライディー・ザ・マジックメイド
「ジキルとハイドのルーレット」

 ルーレットのディーラーのことを、正確には「クルピエ」と言うそうですが、この小説ではディーラーのままにさせて頂きます。

「あのお二人が、またお揃いでいらっしゃるなんて…」
 ドイルから紋章をすき込んだ手漉きの便箋に、流れるようなペンマンシップで書かれた手紙を見せられたブライディーは、途方もなく嫌な予感がした。

『…また、どうしても依頼したき件が持ち上がり、後日連絡の上お伺い致しますので、よろしく…   かしこ
    オクタヴィア
    フィオナ・ウォーターフォード』

「またきみの活躍が見られるんだろうねぇ…」
 ドイルはにこやかに言ったが、メイドさんは恐れおののいていた。
(オクタヴィア姫の影武者をやらせて頂いたときは、途方もない陰謀を企むバッキンガム宮殿の悪い人達にもう少しで殺されるところだったし、女子大生に化けてケンブリッジのニューナム女子校に潜入した時は、呪術の試験で危うく永遠に常世の国をさまようことになってしまうところだったし…)
「…次で三度目。今度こそ間違いなくお陀仏よ…」

「くっくっくっ…」 戸口の影ではデイジーが、声を押し殺してほくそ笑んでいた。「…お姉ちゃんもとうとう年貢の納めどき。いままで人に助けて貰ったり、運の強さだけで、何とかのらりくらりと乗り切ってきたけれど、そういうのもそろそろ使い切ったはず…」
「デイジーさん、貴女は一体どちらのお味方なのですか? 悪いやつらの肩を持たれるのですか?」
 あっけに取られたような表情でポピーが言った。
「もちろん…」 デイジーは深呼吸をして言った。「…お姉ちゃんの味方よ。でもそうやすやすと持ち込まれた事件を解決して欲しくはないわけ。吊り天井でペシャンコにされそうになったり、身の毛もよだつバケモノの群れに襲いかかられたりして欲しいな…」

 ほどなく、オクタヴィア姫とフィオナが四頭立ての馬車でやってきた。
「…今度の件は、以前のよりもさらに高貴なご息女の、きわめて微妙な問題に関することなので、すべて仮名で語らせて頂きます」
 オクタヴィア姫は前二回にもいや増しておごそかな口調で切り出した。「…名門ジキル子爵の御年十八歳になられるご息女、ミス・ジキルは、性格はきわめてお優しく、これまでご家族はもちろん、友人や使用人にも怒ったり当たられたりしたことは一度もなかったのです」
「…ところが最近になって、時折突然理不尽に怒り出されたり、当たられたりすることが多くなり…」 フィオナが後を引き継いだ。「…夜な夜な抜け出されて、それまで行ったことのない賭博場や、他の怪しげな場所に出入りされるようになったのです。それだけだったら、よくある手合いの『人がお変わりになった』という話なのですが、不思議なことに、翌朝になったら、もとのお優しいミス・ジキルに戻っておられるのです。まるで、あのスティーブンソン氏の小説、『ジキル博士とハイド氏』のように…」
 メイドさんはゴクリと生唾を飲み込んだ。 ドイルは半分目を閉じながら黙ってパイプをくゆらせている。
「…ただし、『ジキル博士とハイド氏』のように、怪しげな薬を飲んでいる気配はありません。その代わり…」
「『その代わり』…」
 ブライディーは繰り返した。
「その代わり、ミス・ジキルが度々奇妙な道具を使っているところを、メイドや小間使いによって目撃されているのです…」
「『奇妙な道具』?」
 パイプを持ち替えながら、今度はドイルが繰り返した。
「…それは、ちょうど手のひらに乗るぐらいの、ジャムの壷の蓋くらいの大きさの、円盤だそうです。円盤の中には、さらに小さなつまみが付いていて、回転するようになっているらしいのです。…まるで、カジノのルーレットを小さくしたもののように…」
「ルーレット、でございますか?」
 メイドさんは再び繰り返した。
「で、その正体不明の謎の道具にも、円周にそって本物のルーレットに付いているような、小さな仕切がいくつも付いているそうなのです」
 紅茶を一口啜ったオクタヴィア姫がつぶやいた。
「それはまさにルーレットなのではないですか?」
 ドイルは小首をかしげた。
「父上、母上をはじめ、ご家族のかたも、一人娘のことを大変心配しておられます。そこで、ブライディー、貴女の今回の任務は、メイドとしてミス・ジキルに近づいて、彼女の様変わりと、そのルーレットらしきものとの関係について、調べて報告し、解決することです」
 オクタヴィア姫はおごそかに命じた。

 ジキル子爵家のお屋敷は、ブライディーがいままで行ったことのあるお屋敷…ウォーターフォード男爵邸や、ヨーク公邸、シェフィールド伯爵邸に負けず劣らず広く壮麗なものだった。
「この子が、新しくお側にお仕えすることになったブライディーという子です…」
 年寄りのメイド頭に紹介されて、ブライディーは下げていた顔を上げた。
 目の前には、淡い紫色の冬物のドレスを着た、薄い金髪の儚げな美少女がいた。
「どうかよろしくね、ブライディー」
「どうかよろしくお願い申し上げます」
 ミス・ジキルが別の小間使いとともに外出しているあいだ、ブライディーはメイドたちとともに彼女の私室を掃除したが、フィオナ・ウォーターフォードとほぼ変わらない調度や所持品で、不審なものは何もなかった。
(お衣装、化粧品、人形、小物類… どれも貴族のご令嬢としては普通のものだわ。本の数はフィオナ様の蔵書とは比べものにならないくらい少ないけれど、フィオナ様の読書量、蔵書量は特別よ。おそらく女性のかたでは当代一ではないかしら。それに比例して眉をひそめるような本もたくさんお持ちだし…)
 オクタヴィア姫やフィオナが言っていたルーレットらしきものも、ポーカーチップも、影も形もありはしなかった。あるのだったら、どこか秘密の場所に厳重に隠してあるか、それとも常時持ち歩いているか、だった。
 その夜、ブライディーははじめて一人でミス・ジキルの入浴のお世話とお着替えを手伝った。
「…ブライディーと申しましたね。アイルランドの生まれだそうですが?」
「はい…」
 子爵邸には贅沢な西洋風呂があった。その湯気の中、ブライディーは白いほうろうの湯船にもたれながら垂らされたミス・ジキルの長い見事な金髪を丁寧に洗いながら答えた。
「歌とか、歌えますか?」
「少し…」
「歌ってくれますか?」
 ブライディーは、静かなバラードを歌った。街に出稼ぎに行って、そのまま帰ってこない恋人のことを偲ぶ乙女が歌う歌だった。
「素敵な歌ですね…」
「有難うございます」
 ブライディーが髪をすすぎ終えると、ミス・ジキルは湯船から出た。ブライディーは白磁のような彼女の身体にバスタオルをかけた。
 髪を乾かして梳る時、たまたま櫛が枝毛に引っかかって髪の毛を数本抜いてしまった。
「も、申し訳ございません…」
「構いませんよ」 ミス・ジキルはにっこりと微笑みながら答えた。「…わたくしの髪の毛は、外見とは裏腹に、かなりの癖毛なのです。覚えておいてくださいね」
「はい」
 寝間着を着せてもらって天蓋付きの寝台に横になったミス・ジキルは、下がろうとするブライディーの手に握った。その冷たさにブライディーはドキッとした。
「貴女の特技はタロット占いだそうですが、どういうことを占うのですか? よく当たりますか?」
「…いろいろと… 『当たるも八卦当たらぬも八卦』というところでしょうか…」
「わたしのことも占ってくれますか?」
「ええ。いずれまた機会を見つけて…」
 ブライディーはミス・ジキルに羽毛の掛け布団を着せかけながら言った。
「子守歌を歌えますか?」
「は、はい」
「お願いします。わたくしが眠りにつくまで…」
 ブライディーは貧救院で覚えた子守歌を何曲か続けて歌った。ミス・ジキルはそれを聞きながら安らかな眠りに落ちていった。
「あの棚の本をもってきて」とか「この本を元あったところに戻しておいて」とか、深夜まで使いたてたフィオナ・ウォーターフォードよりは、ずっと仕えやすい主人のように思われた。

 子爵邸のメイド部屋の二段ベッドの上の段で、ブライディーは奇妙な夢を見ていた。
 その夢の中では、丸薬くらいの大きさの小さな象牙の球がカラカラ、カラカラと音を立てて、いくつもの小さな区切りで仕切られた灰色の円周をぐるぐると果てしなく回っていた。
 しばらくして回転している台の部分のスピードが落ちてくると、灰色の部分は、実は白い部分と黒い部分に染め分けられていた。
 それも白が八か九に対して、黒が一か二くらいの割合だった。
 スピードはさらに落ちて、象牙の球は白く塗られた仕切の上に止まった。するとすぐにまた、台は勢いをつけて回りだし、球もまたカラカラ、カラカラと音を立てて回り出した。 次もまた、白く塗られた仕切の上に止まった。その次も、またその次も…
(圧倒的に白の割合のほうが多いのだから、白の上ばかりに止まって当然だわ)
 夢の中でブライディーは、そんなふうに思っていた。
 しかし何回目かに、ついに黒に止まった。
 どこかで悲鳴のような叫び声が聞こえて、ブライディーはガバッと跳ね起きたが、相部屋のメイドや小間使いたちは皆、寝息やいびきをかいて眠っていた。

 翌日、ブライディーはミス・ジキルの朝食の給仕をした。真っ赤なバラの花柄紅茶のポットの取っ手は、ちょっと複雑な形で、事前に十分練習したのにもかかわらず、少しテーブルクロスの上にこぼしてしまった。
「も、申し訳ございません…」
「いいのですよ。このポットはわたくしのお気に入りのポットなのですが、持ちにくいのか新しく来たメイドは、最初の何回かは必ず失敗をします… 気にしないでください…」
 午後からは馬車でロンドンの町の中のお屋敷に、知り合いの令嬢を訪ねていくお供を仰せつかった。
 ところが相手の令嬢は、約束のことをすっかり忘れて別のところに出かけてしまっていた。
「せっかく来たのですから待ちましょう」
 ミス・ジキルはそう言って応接間のソファーに腰を下ろした。
「すみません。いま使いの者に呼びにやらせていますので…」
 相手の令嬢の家族は、申し訳なさそうに言った。
 一時間、二時間…
「あの、後日お詫びに上がらせますので、きょうはどうかいったんお引き取りください。これ以上お待ち頂くのは…」
 相手の母親や姉たちはおろおろしはじめたが、ミス・ジキルは悠然としていた。
「もうそろそろお戻りになることでしょう…」
 ミス・ジキルはブライディーのように本を開いて読むでなく、「屋敷内の画廊をご案内致しましょう」という当主の言葉も断って、ただ、窓の外の庭園の冬景色をぼんやりと眺めながら、人形のように待ち続けた。
 それからさらに一時間、夕食の時間間近になって、あたふたと相手の令嬢が帰ってきた。 令嬢の家族も、ブライディーも、(ミス・ジキルが絶対に何か一言言うに違いない)と思い、身体をこわばらせた。
「ごめんなさい、ミス・ジキル。貴女とのお約束のことをすっかりと忘れてしまっていて… …本当にどうしましょう…」
 ところが、ミス・ジキルはまるで、教会のステンド・グラスのマリア様のような笑顔を浮かべてこう言った。
「お帰りなさい。きょうはこうして貴女の無事で元気そうなお顔を見れただけでも満足よ。…さぁブライディー、お暇しましょう。家の者が心配をしはじめますわ…」
「…本当にごめんなさいね、ミス・ジキル。一体どう言ってお詫びしてよいものやら…」
「いえいえ本当に気にしないでね。貴女がいないことが分かって、すぐにお暇しようとも思ったのだけれど、じきに帰ってこられるような気もしたものだから… ついずるずるとお邪魔し続けてしまって… 謝らなければならないのはわたくしのほうかも知れないわ」

 ミス・ジキルとブライディーは、平身低頭する相手の令嬢と家族に見送られて、馬車の車中の人となった。
 ところが、さらに悪いことに、同じように長いあいだ待たされていた御者が、御者だまりで酒を飲んでいた。
 ブライディーは、ミス・ジキルが御者に注意するか、怒るか、さらには御者を変えるかと思ったが、彼女は見て見ぬふりをしていた。 馬車は少しずつ左右に振れる。
 角を曲がる際に(危ない!)と思った瞬間、案の定よその馬車と軽い接触事故を起こした。
「どこを見ていやがるんだバカヤロー!」
 相手の御者が鞭を振りかざしながら降りてきた。危うく喧嘩になりかけた時、ミス・ジキルが馬車から降りてきて、すかさず丁寧に詫びた。
「ブライディー、お財布を…」
 ブライディーが財布を渡すと、ミス・ジキルはその中から金貨を二、三枚とりだして相手の御者に渡した。
「これで、直りますかしら?」
「十分ですが、気を付けてくださいよ」
 相手の馬車が行ってしまうと、ミス・ジキルは自分の御者のほうに向かった。御者は顔をうつむけて、小刻みに震えていた。
「申し訳ございません、お嬢様。お嬢様のお戻りが遅かったので、つい…」
「そうですね、わたしの責任です。あなたは悪くありません…」
「えっ?」
 御者はキョトンとした。
「父上には、わたくしから上手く申し上げておきます。だから、安心しなさい…」
 ミス・ジキルは、またあの聖母のような微笑みを浮かべながら言った。

 ブライディーががジキル子爵邸に上がって数日が過ぎたが、ミス・ジキルが面妖な第二の顔をみせたことは一度もなかった。まだ入ってから日が浅いので、仲良くなったほかのメイドたちにそんな立ち入ったことを訊くのもはばかられた。
 はじめての公休日、「英国心霊研究協会」のお屋敷に帰ったメイドさんは、、用事のついでに来訪していたフィオナと打ち合わせた。
 「…そうですか。それはわざわざ潜入したかいがありませんねぇ…」
 男爵令嬢は小さな溜息をつき、少し肩を落とした。
「ひょっとしたら、フィオナ様とオクタヴィア様が最初にご相談に上がられたことは、単なる思い過ごしではございませんでしょうか。 おっしゃるようなルーレットは一度も目撃しませんでしたし、他のメイドたちが話をしているところも一度も耳にしませんでした。 何かあったとしても、それはすでに過去のものになっているのでは? …ですが…」
「『ですが』?」
 フィオナは眉をひそめた。
「…ですが、ルーレットの夢はよく見るのです。たぶん、フィオナさまたちから言付かった使命のことが気に掛かっているために、夢の中に現れているだけに過ぎないと思うのですけれども。夢の中に現れるルーレットは、普通の赤と黒の互い違いの、零から三十いくつまでの数字が並んだものとは違って…」
「えっ、普通のルーレットではない?」
 フィオナは、デイジーが注いだ紅茶はそのままに身を乗り出した。
 安楽椅子に座って新聞を読んでいたドイルも新聞を畳んでやってきた。
「デイジーもポピーもこちらに来なさい。心あたりがあれば話してくれればいいし、なければアレイスター君やサダルメリク君、安倍薫君が来たときに訊いてみてくれ」
 ブライディーは、ときどき夢に出てくる、「赤と黒」ではない「白と黒」に染め分けられた…それも白の格子が大部分で、黒の格子がごく僅かのルーレットのことを話した。
「わたくしもたいがいたくさんの書物を読んでおりますが、そのようなルーレットのことを聞くのはいまが初めてです」
「ぼくもだ」
 フィオナとドイルは小首をかしげ、デイジーは肩をすくめた。だが、ポピーは何かを思い出そうとするように目をしばたたかせた。
「どうしたポピー、何か心当たりがあるのか?」
「いえ、はっきりとは… しかしその白と黒のルーレット…どこかで…」
「頼む、いますぐでなくていいから、思い出すように努力してくれ」
「わたくしからもお願いしますわ」
 ドイルやフィオナたち、それにブライディーもポピーを見つめた。
「わたくしはこれからどう致しましょう?」 ブライディーはおずおずと言った。
「すみませんが、もう少し潜入を続けてみてください。そうです!」
 フィオナは小さく手を打った。ブライディーはビクッと身をすくませた。
「…いい考えを思いつきました。ミス・ジキルをわざと怒らせるのです。さっき貴女の話に出てきた、『ミス・ジキルが大切にしているという紅茶のポットかお茶碗』を割ってみるのなんかどうでしょう?」
「えっ!」
 メイドさんたちは思わずたじろいだ。
「そんなことをすれば、きっと殺されてしまいますわ!」
「やりなさい! いえ、やるんです。思わぬ反応が見られるかも知れません」
「ドイルさま…」
 メイドさんはすがるような目でドイルのほうを見た。
「それは見ものかもしれない…」
 ドイルはパイプを手に持ってニコニコしながら言った。
「…きっとそのお嬢様、頭から角が生えてきて、口が耳まで裂けて、お姉ちゃんを丸飲みしてしまうのに違いないわ!」
 デイジーはポピーの耳に囁いた。
「お願いします。それだけはどうかご勘弁を…」
「やるのです! やって、何としてでも夢の中だけに現れるという『あやかしのルーレット』の正体を暴くのです!」

 ジキル子爵邸に戻ったメイドさんに、また硝子張りのテラスでミス・ジキルに十時のお茶の給仕をする当番が回ってきた。
 あらかじめお湯を入れて暖めておいた、ミス・ジキルお気に入りの、真っ赤なバラの花柄のポットに薫り高いセイロンの紅茶の葉をいれてお湯を注ぎ、揃いの柄のお茶碗に丁寧に注いだ。
「ありがとう」
 ミス・ジキルは砂糖とミルクを少しずついれると、しばらく銀の匙でかきまわし続けていた。

(やっぱり… やっぱり、ミス・ジキルをわざと怒らせることなんてできないわ) ブライディーはポットをそっともとに戻しながら思った。(いくら… いくら皆様のお指図でも…)
 そう決心したとたんに、心が楽になって、小刻みな手の震えが次第におさまった。
 ところがその瞬間、ブライディーはテーブルの上の、紅茶茶碗と、ポットと、ケーキを乗せた皿のまわりに、ルーレットを見た。
 それは、「そこにはあるはずのないもの」だった。ルーレットは、夢に出てきたものと同じ大人の手のひらに納まるくらいの、「赤と黒」ではなく、「白と黒の…それも白のほうが多く、回転中は明るい灰色に見える…」ルーレットで、丸薬くらいの象牙の球を乗せてカラカラと回っていた。
「うん、何か、どうかしましたか、ブライディー?」
 ミス・ジキルは啜りかけていた紅茶茶碗を置いて言った。
(これはわたしの目の錯覚だ。こんなところにこんなものがあるはずがない。オクタヴィア姫様やフィオナ様、皆様があまりにもルーレットのことをおっしゃるので、寝ているときの夢にも出てきたし、いまこうしてこのテーブルの上に、ありもしないのに見えているのに違いない…)
 ブライディーは部屋の周囲を見渡したものの、あいにく他のメイドはいなかった。
「どうかしたのですか、と訊いているのです」
「すいません。別に何でもありません…」
 そう答えたものの、ルーレットは相変わらず目の前にあり、勢いを落とすことなく回り続けていた。
(ミス・ジキルには、このルーレットがお見えにならないのかしら?)
 とっさにルーレットとミス・ジキルの顔を代わる代わるに見た。
「どうして何でもないのに、わたくしの顔をジロジロと眺めるのですか?」
「いえ、そんな…」
「いま、睨むように見たでしょう?」
 ミス・ジキルは眉をひそめ、頬を引きつらせた。
「いえ、滅相な…」
 見つめている時間は、テーブルの上の、いまも回り続けているルーレットのほうがずっと長かったはずだったが、まさかそのことを言うわけにはいかないようだった。
「わたくしの顔に何かついていますか? 何かおかしなことになっているのですか? 正直に答えなさい!」
「いえ、ですから何も…」 ブライディーはミス・ジキルの視線の中に、いままではまったくなかった刺して射るいるような恐ろしい輝きが宿りはじめるのを見た。「…いま手鏡をお持ちします」
 ブライディーはそう言いながら、ルーレットも放ったまま一礼して下がろうとした。
(仲間のメイド一人を引っ張って、すぐに戻ってくれば、テーブルの上のルーレットが幻かそうでないかも確かめることができるのでは…)とも考えた。
「お待ちなさい! 誰も『鏡を持ってきて』などとは申していません!」
 ルーレットはまだ回り続けていて、止まる気配はない。
「しかし…」
「わたしは貴女に、何も付いていないはずのわたしの顔を、なぜ見つめるのか、と尋ねているのです」
(ですから、わたしが気になるのは、わたしだけに見えて、お嬢様にはお見えになっていない、テーブルの上のルーレットで、それは確かにおっしゃる通り、いまも見ていますが…)
 言葉が喉まで出てきたが、口に出して言うことはできなかった。
「ですから、そのようなことは決して… 申し訳ありません!」
 ブライディーは、顔がエプロンドレスの腹にひっつくくらいに頭を下げ続けた。
(こうしていれば、いくら何でも、もう「見ている」とは言われないはずだわ)とも考えた。
「いいでしょう。いまはもう見ていない。しかし、さきほどはなぜ見ていたのですか? 最初の質問に答えなさい!」
 ミス・ジキルはすごい剣幕でいきなり椅子から立ち上がった。膝がひどくテーブルにぶつかり、紅茶茶碗と赤いバラの花柄模様のポットがひっくり返り、紅茶はこぼれ、ポットは転がって床に落ちガシャーンと音を立てて粉々に砕けた。
 ブライディーはさらにびっくりし、反射的に顔を上げた。目の前には激高したミス・ジキルと、割れたポットと、ひっくり返ってこぼれた紅茶の水たまりがあった。
 そして、テーブルの上にあったはずのルーレットは、忽然と消え去っていた。

 ミス・ジキルは暖炉まで走って、立てかけてあった火掻き棒を持ってブライディーに向かって大上段に振り上げた。
「およしになってください、ミス・ジキル!」
 ブライディーは悲鳴のような声をあげながら、それを取り上げようとしてもみ合いになった。騒ぎを聞きつけてほかのメイドたちも走ってきた。
「ミス・ジキル、どうか落ち着いて下さい!」
「どうかお静まりを!」
 二、三人のメイドたちがミス・ジキルを取り押さえているあいだに、別の一人がブライディーの手を引っ張って、メイドたちの控え室ではなく、屋敷のはずれの裏庭の茂みの影に連れて行った。
「ああ、恐ろしかったわ…」 ブライディーはポロポロと涙をこぼした。「…でも、どうして、あんなルーレットが見えたのかしら?」
「シーッ!」
 仲間のメイドは自分の手のひらでブライディーの口元を覆いかけ、それから離した。
「…まぁ、お嬢様とこれだけ離れていたら、『あの』話をしても大丈夫だとは思うけれども…」
「『あのお話』って、一体何のお話しですか?」 ブライディーはしゃっくりあげながら尋ねた。「もしかしてルーレットのことですか?」
「そうです…」
 仲間のメイドは辺りをうかがってから、伏し目がちに話し始めた…

…貴女も見たのですね? あの白と黒に染め分けられた小さなルーレットを?
 貴女も分かったと思いますが、あのルーレットは実体はありません。この世にありはしない「幻のルーレット」です。
 あのルーレットは、もともとは臆病者が思い描く亡霊のように、本来現実には存在しないはずのものなのですが、「いつかでる」「いつ出るか、いつ出るか」と思い続けているうちに、夢の中に現れ、ついには現実の視覚の中にも現れ出てくるものなのです。
 最初にあのルーレットを見たのは、ミス・ジキルの、ちっちゃい頃からずっと十数年以上にもわたってお仕えしていた小間使いでした…
 ブライディーさん、貴女もお仕えして分かったと思いますが、ミス・ジキルは大変お優しいかたでいらっしゃいます。わたくしたち使用人たちが多少の… いえ、どんな失敗をしても、滅多に怒られたり、咎められたりすることはなかったのです。最近までは…
 その小間使いも、ずっとそう思って、安心してお仕えしていたのですが、ある時、別のお屋敷で働いていたメイド友達から、次のような話を聞かされたのだそうです。
「自分の主人も、貴女の主人のミス・ジキルと同じように、ずっと、とても優しいかただと思っていた。ところが十年目か、二十年目かに、たまたま、ごく些細な粗相をしてしまったところ、激怒し、激高し、打擲され、お暇を取らざるをえなくなってしまった。自分ではそんなにひどい失敗をした訳でもない上、女主人が普段から怒りっぽい人でもなく、むしろ大変優しい人だったので、非常なショックを受けた… で、スティーブンソン先生のあの有名な作品を思い出し、(自分はたまたまご主人の、「千に一つの顔」いや「万に一つの顔」をを見てしまったに過ぎない)と思うことにした。ただ、奇妙なのは、その時に、テーブルの上にそれまで見たことのない白と黒のルーレットのあるのが見え、事が収まると消え去っていたいたことだ」と…
 友人からそうした話を切々と訴えられたミス・ジキルの小間使いは、
(自分の主人ミス・ジキルも、大変お優しくて、怒ったところは見たことがないくらいだ。だけど、それは「見たことがない」だけの話で、いつかは「見てしまうことになるかもしれない」)と考えはじめたそうです。
 そう思い始めてミス・ジキルのおそばにいると、ある日突然、それこそ「それまで見たことのない面妖なルーレット」が、ミス・ジキルの目の前のテーブルの上に見えたそうです。
 自分にははっきりと見えているのに、ミス・ジキルや他のメイド仲間には見えている気配がありません。
(さては自分の頭のほうがおかしくなったのか)と思って、先に別の屋敷でクビになった友人に恐る恐る相談すると、友人は血相を変えてこう言ったそうです。
「貴女にも見えたの、あの白と黒のルーレットが? …するときっと貴女も、もうじきミス・ジキルのにわかには信じられない面を見ることになって、おそらくお暇を取らせられることになるわ」」
 小間使いは衝撃を覚えました。ルーレットは次第にいつもミス・ジキルのそばに見えるようになり、当然小間使いの態度もしどろもどろになり、後はブライディー、貴女がいま体験した通りです…
 さらに恐ろしいことには、いままでごく一部の使用人にしか見えなかったルーレットが、次第にほぼ全員に見えるようになりつつある、ということです。いまでは、ミス・ジキルのいらっしゃらないところでそのうわさ話をしただけでも現れる、という始末…
 十分な距離をとっていれば大丈夫らしいことが分かったので、いまここでこうして貴女に打ち明けていますが、貴女は、わたしたちの代表が思いあまってご相談申し上げたオクタヴィア姫と、フィオナ・ウォーターフォード男爵令嬢が使わしてくださった魔法使いなのでしょう?」
 メイド仲間の問いに、ブライディーはポツリと答えた。
「いえ、魔法使い、というわけではないのですが…」

「そもそも、あの幻のルーレットは、どうしてみんなの前に出現するのか、広い世界のどこかあちこちには、あんなルーレットが現れ出ているのか、そもそも、あのルーレットの正体は一体何なのか、ぜひ調べて、消し去って、元の、まったくお優しいミス・ジキルに戻して差し上げてください」 メイド仲間はブライディーにすがりついた。「お屋形様も奥様も、わたしたち使用人一同も、そのことを強く望んでおります」
「そうおっしゃられても、わたくしもたったいま見たばかりで、雲をつかむようで…」 ブライディーも首を振るばかりだった。「とにかく一度、持ち帰って、ドイル様や皆様に相談したいと思います」

 再び「英国心霊研究協会」のお屋敷に戻ったブライディーは、ドイルがオクタヴィア姫やフィオナ・ウォーターフォード、クルックス博士やウォーレス博士、アレイスター・クロウリーや、サダルメリク・アルハザードや安倍薫を集めてくれていたのにホッとした。
「ふーん、とうとうお姉ちゃんも見てしまったんだ。その問題のルーレットを…」 デイジーは、みんなの前にそれぞれ好みの飲み物を置いて回りながら言った。「…でもいきなりひどくぶたれたり、殺されたりしてしまわなくてよかったわね、お姉ちゃん」
「もしもメイド仲間のみなさんが駆けつけて下さらなかったら、そうなっていても不思議ではない状況でしたわ」
「ゴホン…」 ドイルが咳払いをした。「…それでは、先生がたから順番に、ご意見を言って頂きたく存じます」
「エヘン! そのミス・ジキルという令嬢は、その名の通り二重人格なのだ」 心霊研究協会のクルックス副会長が口火を切った。「精神科の医者に診て貰ってちゃんと治療すればよくなると思う。ルーレットはいわゆる『集団妄想』というやつだ。幽霊屋敷に出る幽霊や亡霊と一緒で、『出る、出る、出るに違いない』と信じ込んでいると、実体はまったくありもしないのに、全員がそこにあるように見えてしまうのだ」
「しかし何ゆえルーレットなのでしょうね?」 ウォーレス博士は首をかしげた。「幽霊屋敷で幽霊が現れたり、ジャングルで探検隊が、実際にはいない恐ろしい獣の幻影に怯えたりするのは分かります。けれども、ミス・ジキルの邸宅がかつてカジノだったということはないみたいですし、ご本人も、ご両親も、一度もカジノに行ったことなどないと言われる。『二重人格の集団妄想』なら、『先が鉤のように尖った小さな黒い悪魔』でも、他の何かでも構わないはずなのに、どうしてルーレットばかりなのでしょうか?」
「それはきっと、そのミス・ジキルが持っている『スタンド』というものですよ」
 ケンブリッジの学生で、眉目秀麗な青年魔導師のアレイスター・クロウリーが後を引き継いだ。
「『スタンド』?」
 みんなが異口同音に聞き返した。
「ええ…」 アレイスターは大きくうなづいた。「…乱暴に言ってしまうと、一種の『守護霊』か『背後霊』です。つまり『本人を守ったり、あるいは害を成したりする、本人の霊以外の憑き物』なのではないでしょうか?」
「すると、アレイスター君は、例えばシスター・セアラに悪魔払いか除霊をやってもらうと、ミス・ジキルのあやかしのルーレットは消える、と?」
 みんなが身を乗り出した。
「可能かどうかは分かりません。ルーレットのスタンドと、ミス・ジキルが一体となっているものなら、きわめて難しいか、不可能かもしれません」
「わたし、さっそくセアラ様に問い合わせのお手紙を書きます」
 ブライディーが言った。
「サダルメリク君、君の意見は?」
 ドイルをはじめ、みんなは一同の中でただ一人コーヒーを啜っているアラビア人の少年を見つめた。
「水を差すようで申し訳ありませんが、『スタンド』というものは大抵『ヒトガタ』か『動物型か魔物型』か、つまり『なんらかの生き物の形』をしているものなのですよ。ルーレットはもちろん、もともと命のないモノの形をしている『スタンド』を、ぼくは見たり聞いたりしたことがありません」
「ではおまえはそのルーレットのことを何だと考えているんだ?」
 アレイスターは目を吊り上げた。
「分かりません。ただぼくは『スタンド』のような結びつきはあっても別個の存在ではなく、『心の中の短剣』みたいに、ミス・ジキルの心が生み出しているもので、お祓いなどで取り除くことは出来ず、もしも無理やりに取り去ろうと試みたら、ミス・ジキルの命をも危うくしてしまうような気がしてなりません」
「安倍君、君はどう思う?」
 日本からやってきた陰陽師は、暖炉を背にコックリコックリと居眠りをしていた。

「ブライディー、きみの占いの力で、そのルーレットの正体を暴くことはできないのかね?」
 みんなの視線がいっせいに、いまもって小刻みに震えている大きなメイドさんに注がれた。
「…もちろん、占ってみようと試みました。けれど、タロット・カードを繰って並べていこうとすると、あの『カラカラ・カラカラ』というルーレットの盤上で小さな象牙の球が回る音が小さく聞こえてきて、どうしても心を集中することができないのです。耳を塞いでも聞こえてくるし、無理にカードを並べようとすると、その音はますます大きくなって、邪魔をするのです」
 ブライディーは両手で顔を覆って、テーブルの上に突っ伏した。
「どうしよう? ブライディーは一応お暇を取らされたことになって、もうミス・ジキルのお側に近づくことはできなくなってしまったが…」
 独り言のようなドイルの言葉に、デイジーが高らかに手を挙げた。
「いよいよ、久しぶりにあたしの出番みたいよね。あたしの能力『ゲート・オープナー』で、そのあやかしのルーレットの正体を暴いてやるわ!」
 一同から「おおっ」というどよめきが漏れた。
「デイジーちゃんの特別な力をもってすれば…」
「…できるかも知れない」
 アレイスターとサダルメリクが口々に言った。
「やめておいたほうがいいかも知れない」
 居眠りをしたままの安倍薫がうわごとのようにポツリとつぶやいた。「…そのルーレットは、みんなが想像しているような生やさしいものじゃあないような気がする…」
「では、デイジーをジキル子爵のお屋敷に、新しいメイドとして上がらせることにして、ブライディーも密かに、後方支援として子爵邸の離れに戻ってくれ。メイド仲間も、ミス・ジキルの父上母上も、みんな味方なのだから、よもや取って食われてしまうようなことはないだろう」
 ドイルはそう言い終わると、パイプをくわえて深く椅子に座り直した。
「あたし、頑張ります。必ずお手柄を立ててご褒美を頂きます!」
 デイジーの決意に、クルックス博士や、アレイスターやサダルメリクは大きく頷いたが、ウォーレス博士や安倍薫、それにポピーはうかぬ顔だった。
「…なにかこう…呪われた密林の奥地に先遣隊を出さねばならないような、嫌な予感がする…」
 老生物学者は眼鏡の奥の眼をしばたたかせた。
「これは、ぼくら三人の魔術師が、顔に白粉をぬりたくって、両胸にテニスボールを入れて、メイドのお仕着せを着て行っても、難しいと思うよ。きっと…」
 安倍はぶつぶつと呟き続けた。
「ああ、もうここまで出かけているのに…」 ポピーは指先を喉もとに当てて言った。「…どうしても思い出せない…」
 と、その時、どこかからかすかに、「カラカラ、カラカラ」という、二十日鼠が輪を回すような音が聞こえてきた。
「ドイル君、誰かがそのへんの窓に風速計でも取り付けたのかね?」
 クルックス博士がわざと大声で尋ねたが、その声はかすかにこわばっていた。
 アレイスター・クロウリーはすばやくドアを開けて廊下を見回した。サダルメリク・アルハザードは窓を開いて外を見渡した。冷たい冬の風がピューピューと音をたてて吹き込んできたが、その中でも「カラカラ、カラカラ…」という音は鳴り続けていた。
「どこだ? どこから?」
 ドイルは走り回り、デイジーは近くにあった箒を構え、ポピーはその後ろに隠れた。
 ブライディーは椅子に座ったまま耳を塞いだ。
「どこを探しても音の出どころなど見つからないと思うぞ」 ウォーレス博士は誰に言うともなく言った。「…夜の密林の、幻の獣の吠える声のように…」
「すると、この音は、我々が集団で聴いている幻聴だ、とおっしゃるのですか?」
「いや、幻聴ではない。『それ』はある、と言うか、確かにいる。しかし実体はないんじゃ」
「と、おっしゃいますと?」
 ドイルが眉をひそめると、安倍薫が代わって答えた。
「『人智を越えるもの』ですよ。たとえば悪魔とか…」
「悪魔なら悪魔祓いで祓えるはずよ!」
 デイジーが箒を振り回した。

「カラカラ・カラカラ」という不気味な音とともに、どこかでおもちゃの風車が回っているような、回転から生じるような風が吹いてきた。
「おのれ! どこだ!」
 アレイスター・クロウリーはいきりたった。「アレイスターさん、これは実体のあるものじゃあないですよ」 サダルメリクはメイドさんたちやドイルたちを守るように素早く動きながら言った。「…本体は別の所…ジキル子爵のお屋敷かどこかにあるものですよ…」
「そこにあるのも実体ではなかったりして…」
 安倍薫が重い腰を上げて、陰陽術の印を切りながら呪文を唱えると、「カラカラ」という音と、小さな風車が巻き起こすような風は次第次第に遠ざかった。
 アレイスターはマントをひっつかんでまとい、サダルメリクはアラビアの寛衣を翻らせていちおう後を追った。
「大丈夫か、デイジーにポピー、それにブライディー?」
 ドイルはメイドさんたちの肩を抱いて尋ねた。
「大丈夫です。ドイル様」 デイジーだけがきっぱりと答えた。「…たかがルーレットです。どうかお任せください!」

「いい、デイジー。ミス・ジキルはいきなり怒り出して火掻き棒を振り上げられたりするの。だから十分気を付けるのよ」
「はいはい」
 ジキル子爵邸の離れ、心配顔のブライディーやほかのメイドたちに見送られて、デイジーは意気揚々とミス・ジキルのもとに赴いた。
「あなたがデイジーさん? 少しちっちゃいですね」
 ミス・ジキルはいつものように優しい微笑みで出迎えた。
「あたし、ほとんどのことが出来ます。だから、何でもお申し付け下さい」
 胸を張って答えつつデイジーは、ミス・ジキルの部屋の様子を窺ったが、怪しいものはなく、そんな気配もまったく感じられなかった。
(…おかしいな。「ここ」とは違う世界への通り道があったり、そういうものがつい最近開いたり閉じたりしていたら、あたし、感じることができるはずなのに、そんな気配はまったく察せられないわ…)
 食事やお茶の給仕、片付けや掃除、ドレスの整理などをデイジーは無難にこなした。ミス・ジキルはずっと優しいミス・ジキルのままで、両親や家族や他の使用人たちの前でも、怒ったりすることは一度もなかった。
 そんなある寒い夜、ミス・ジキルはデイジーを呼びつけて耳元に囁いた。
「デイジーさん、わたくし、行きたいところがあるのです。ちょっとお供をしてくれませんか?」
「えっ? こんな夜遅くですか? でもどうやって他の使用人たちの目をごまかすのですか?」
 問い返しながらもデイジーは(しめしめ…)と思った。(そろそろミス・ハイドの正体を現すつもりよ! きっと問題のルーレットも出現するのに違いないわ!)
「わたしは普段、使用人たちの失敗を見てみないふりをしています。だから、わたしがお忍びで出かけても、見て見ぬふりをしてくれます」
「分かりました。お供致します…」
 分厚いマントと頭巾を着込んだデイジーは厩舎から馬を引き出して馬車につないだ。
 つなぎながらカンテラを離れのほうに向かって振った。
 離れの召使い部屋で服を着たままうとうと横になっていたブライディーは飛び起きると、壁伝いに馬車まで走って、荷物を入れておくところに隠れた。
「お姉ちゃん、窮屈じゃあない?」
「シッ、ミス・ジキルが来られるわ!」
「お姉ちゃん、気を付けてね」
「デイジー、貴女もね。お供したメイドはみんな目的地にいるあいだじゅうの記憶があいまいだったりなかったりするそうだから…」
 デイジーが内側からも開くように軽く蓋をしたところへ、コートを羽織ったミス・ジキルがやってきた。
「寒いのに、本当に申し訳ないですね…」
 ミス・ジキルは本当に済まなさそうに言った。
「いえ、あたし、馬車を御するのも上手いですし、夜も平気ですし…」
「そう、それじゃあ言うとおりに進めてね。場所は毎回違うところだから、道順を覚えながら走る必要はないわ」
「はい」
 馬車はひづめの音を響かせて夜のロンドンを駆け抜けた。
 繁華街から少し離れた、どちらかと言うと場末に近いところに近づくにつれて、御者台のデイジーにも、荷物室のブライディーにも、頭上の、冴え冴えとさえ渡った冬空に「カラカラ、カラカラ…」という小さな象牙の球が回転するような音が聞こえてきた。
 ブライディーはブルッと身を震わせながらも、打ち合わせの通り、荷台の隙間から持参した砂袋の砂を撒き続けた。デイジーは(お化けルーレット、見てらっしゃい。いま正体を暴いてあげるから!)と唇を噛みしめていた。
 馬車は、白い仮面をかぶったドアボーイのいるクラブの前で止まった。
「これはこれは、ミス・ジキル。今宵もようこそいらっしゃいました」
 ドアボーイはミス・ジキルの手を取って馬車から降りるのを手伝い、最敬礼した。
「御者のかたはどうぞこちらへ。おいしい夜食をご用意しておりますよ…」
 ドアボーイはミス・ジキルから貰ったチップをしまいながらデイジーに言った。

 御者だまりに案内されたデイジーは、二十数人の御者たちが軽く酒を飲んだり、料理に舌鼓を打っているのを見た。女主人たちを乗せてきたのか、女性の御者も数人いて、デイジーもその仲間に寄せてもらった。
「ご主人たちは、こんなに夜遅く、広間で一体何をやっているんでしょうね?」
 デイジーはもぐもぐとサンドイッチに食いつきながら尋ねた。…そのサンドイッチのおいしいこと! ロースト・ビーフもレバーのパテも、チキンのフィレもとろけるわようだった。
「さぁ、わたくしたちも本当に知らないのですよ」
 年配の女性の御者は首をかしげた。
「カジノかな?」
「カジノはここイギリスじゃあ非合法のはずでは。…モナコやモンテカルロにでも行かないと…」
「だから毎回開催場所が変わるのよ。あなたがたのご主人たちはお金の使いかたが荒くなったりしていない?」
「そんなことはありません」
 みんなはてんでに首を横に振った。
「…変なことを聞くけれど、あなたがた、ルーレットの夢を見たり、お仕えしている時に幻のルーレットが見えたりしない?」
 女性の御者たちの顔から血の気が引いた。 頬がひきつり、激しくまばたきする者もいた。
「いえ、そのようなものはまったく。どうしてそんなことを訊かれるのですか?」
「いえ、特に何も…」
(嘘よ! あなたたちもきっと見ているんでしょう? 不気味なルーレットを… あたしがいまから、お手洗いに行くふりをしてここから抜け出してその正体を暴いてあげるから!)
 デイジーが張り切って立ち上がろうとした時、どうしようもない眠気が襲ってきた。
(…お、おかしいな… 今夜はこのお仕事があるから、昼間のお仕事を仲間のメイドさんにかわってもらって、たっぷり昼寝をしたというのに… どうして…)
 足下がふらついて定まらないのもおかしいと思ったが、その時はもう遅く、そばにあったソファーに倒れ込んで、そのままバタンキューと眠り込んでしまった。
「どうぞゆっくりとおやすみなさい… 心配しなくても、あなたも参加させてあげますよ。夢の中でね…」
 何者かがそう言いながら毛布を掛けてくれた気配がしたが、もはやデイジーにはまったく聞こえなかった。

 その頃、馬車の荷台に身を潜めていたブライディーは、ひとけがなくなったのを見計らって、そっと扉を少しだけ開いてみて、きょろきょろと周囲を伺った。誰もいないのを確かめてから、荷台から飛び降りた。ブルッという馬たちのいななきに、思わずビクッと身を震わせる。
 コックリさんの棒を取りだして、鍵をかけ忘れている扉を占った。素晴らしい力を持っていた「黄金のコックリさんの棒」は無くしてしまったけれど、この程度のことならありふれたもので十分だった。
(だけど、やっぱりあんまり気は進まないわ。以前にもこんなふうに潜入して、大変な目に遭ったし… 早くデイジーと合流したいわ… 棒よ! デイジーがいる所を教えて!)
 少しだけ曲がった棒の先端は、煌々とろうそくの灯りが漏れ、おいしそうな料理の匂いが流れてきているている御者だまりを指した。(デイジー、早く出てきて!)
 しばらく物陰に隠れて様子を伺っていたものの、料理の上げ下げをする使用人や、手洗いに立つ男性の御者が出入りするだけで、デイジーは一向に出てこなかった。
 意を決して扉に近づき、そっと覗いて見ると、デイジーは女性の御者たちのグループの端っこのソファーで毛布を掛けられてグゥグゥといびきをかいて眠っていた。
(もう、デイジーったら、大きなことを言って、かんじんな時に役に立たないんだから…)
 眉を吊り上げかけて、ふと思い直した。
(もしかして、わたしたちの目的を気付かれてしまっているのでは… ああ、早く砂の後を追って皆様が来てくださらないかしら…) とは言うものの、屋敷はかなり広く、仮に皆が駆けつけてもミス・ジキルがいる場所を占えるのはブライディーだけだったから、とりあえず一人で進むしかなかった。
 壁の蝋燭の灯りもまばらで薄暗い、使用人たちも行き来しない複雑に入り組んだ廊下を進むと、その先に広間と思しき部屋の、かすかに弱い灯りが漏れている大きな扉があった。その向う側からは、人々のざわめきとあの「カラカラ、カラカラ」というルーレットが回る音が聞こえてきていた。

 恐怖のあまりガタガタと震える手で、そっと扉を開いてみると、馬車でやってきた身分のある人々が、目や顔を隠す仮面をかぶって、大小のテーブルの前に座ったり立ったりして囲み、ときおりどよめきや歓声を上げていた。
(ここロンドンでは、イギリスでは、ご禁制のカジノ?)
 そう思いながら、扉を開いて恐る恐る中に入ってみた。普通、カジノというところは、何百本、何千本の蝋燭が明々と輝いているはずだったが、このカジノはまるで貧救院のように暗かった。そして、数えることができるくらいの数少ない蝋燭の灯りに照らされた緑色のフェルトが貼られたカード・テーブルやルーレット・テーブルの上には、ただの一枚のトランプ・カードも、零から三十六までの数字を書いた布も、ポーカーチップもサイコロもサイコロ壷なかった。
 人々はただ、何もないテーブルの上を見つめ、虚空から見えないカードを引いたり、見えないカードを捨てる仕草をしたり、見えないポーカーチップの山を積み上げたり崩したり、見えないサイコロ壷を振るする仕草をし続けていた。
(どうして… 何もないのに、こんなに熱中できるのかしら?)
 しかし薄明かりに浮かび上がった仮面越しの紳士や淑女たちの瞳には、確かにカードやポーカーチップが写っているらしく、「やつたぞ! 来たぞ! 入ったぞ!」といった喜ぶ声や、「くそっ、何てツイてないんだ!」という不運を嘆く声が、そこここから聞こえてきた。
 人間と、酒の入ったグラスと、煙草と煙草の煙しか見えないカジノのほぼ中央に、大勢のギャンブラーが取り囲んでいるものの、肝腎のルーレットがさっぱり見えないルーレット台があった。
 台のほぼ真ん中からは、「カラカラ、カラカラ」という象牙の球が回る音と、固唾を呑む気配が察せられた。
 それはブライディーがミス・ジキルの部屋で見た手のひらに乗るような小さなルーレットではなく、本当のカジノにあるような、かなり大きなルーレットである雰囲気だった。
 だが、見えないことは別にして、怪異なことがもう一つあった。
 一分、二分、三分、五分… 何分待っても幻のルーレットは止まる気配を見せなかった。 なのに取り囲んだ人々は、一向にイライラしはじめることもなく、ディーラーに文句を言うふうでもなく、ただただじっと血走った目を見えないルーレットに注ぎ続けていた。 そしてその人垣の中に、ミス・ジキルの姿もあった。
 ミス・ジキルは、普段の貴族の令嬢のしとやかさをかなぐり捨て、まるで贔屓の俳優の芝居を天井桟敷から観劇する下町娘のように、キャーキャーと騒ぎ、球が止まるのを待ち続けていた。
 が、「カラカラ、カラカラ」とルーレットが止まる音はいつまでも続き、いつまでも勝負がつくことはなかった。
(どうしよう… あんなに熱中して楽しんでおられるところを呼びかけたりすれば、また激怒されるだろうし、そもそも、お暇になったはずのわたくしが、この秘密の場所まで尾けてきたことが分かったら、また逆鱗に触れてしまうかもしれない… ああ、早く皆様が来られないかしら…)
 三十分、一時間、呆然とただ立ちつくしていた気がしたものの、実際には十分か十五分くらいしか経っていなかっただろう。ルーレットは相変わらず回り続け、他のカードやサイコロなどのギャンブルを続ける物音も止むことがなかった。
(もう我慢できない… 一晩中続くのかしら? ミス・ジキルをはじめ、ここにいらっしゃる皆様方は平気なのかしら…)
 少しずつ後じさって、その場から立ち去ろうとした時、じっと見えないルーレットを眺め続けていたミス・ジキルがふいに顔を上げ、まっすぐにブライディーのほうを見た。
(もうだめ! 殺される!)
 ところがミス・ジキルは、恐ろしい形相から破顔一笑、いつもの穏やかな表情に戻って、メイドさんを手招いた。
「まぁ、ブライディーじゃないですか。何を遠慮しているのですか? 普通のカジノは身分のある人々の社交場ですが、ここは特別です。遠慮は要りません。こちらへいらっしゃい!」
 ミス・ジキルの言葉に、ルーレット台の人々も、他の賭け事に打ち高じていた人々も、いっせいに仮面越しの視線をブライディーに向けた。
 ここで逆らって逃げ出せば、それこそ八つ裂きにされそうな殺気が立ちこめた。

「あの、わたくしのようなメイドでも、同席させて頂いてよろしいのでしょうか?」 ブライディーはおずおずと尋ねた。「…後になって叱られては…」
「わたくしは前言を翻らせたりはしません。なんならここにいる皆様が証人です。…ねぇ皆様。皆様がたも、わたくしのメイドが同席しても構いませんよね?」
 ミス・ジキルはそう言って周囲を取り囲んだ仮面の紳士淑女たちを見渡した。
「おお、もちろんですとも!」
「もちろん構いませんよ!」
 人々が少しずつ椅子を譲り合い、立っている場所を詰め、ブライディーはミス・ジキルが座っている椅子のすぐそばに立った。
 皆は相変わらず、永遠に回り続けている「見えないルーレット」を見つめている。
「さぁ、何をぐずくずしているのです、ブライディー、あなたもさっさとチップを賭けなさい!」
 ミス・ジキルはメイドさんの右手の手のひらを開かせて、その上に何枚かの、見えないポーカーチップを置いた。その賭札は、ブライディーには見えないばかりではなく、重さもまったく感じられなかった。
「おおっ、良いのですかミス・ジキル。メイドにそんなにたくさん張らせて?」
 近くにいた片眼鏡の紳士がのけぞって見せた。
「よいのです。この子は案外わたくしや、皆様がたよりツイているかもしれません。…さあ、ブライディー、早く賭けなさい! 皆様のご迷惑です」
「あの… ルーレットはすでに回っていますが、置いてもよろしいのでしょうか? それに一度に全部賭けてよろしいのでしょうか?」
 ミス・ジキルの顔から微笑みが消え、急激に憮然とした表情になった。
「何を言っているのです! そんなこと決まっているでしょう?」
 メイドさんはビクッとした。ミス・ジキルが一カ所に全部賭けるのが好きなのか、それともあちこちにばらまくように賭けるのが好きなのかなど、知る由もなかった。得意の占いで占えば分かりそうだが、とてもそんな余裕はなかった。
 そこで渡されたと思しき全てのチップを、回転中の見えないルーレットとともに、皆が代わる代わる眺めている、目には見えない「数字を書いたフェルト」の上に置くふりをした。
「おおっ!」
 するとまた取り囲んだ人々から小さなどよめきが漏れた。
「あそこに全部… うーん、なんて度胸がいいんだ!」
 すごいですね、ブライディー。わたくしもあなたの思い切りの良さには感心しました」 ルーレットは相変わらず、「カラカラ、カラカラ」という音だけを響かせて回り続けている。
(ミス・ジキルをはじめ、この場の人々は、こんなに結果のでないルーレットを囲んでいて楽しいのかしら? もしかしてこれは一晩中結果の出ないものなのではないかしら? かと言ってついにルーレットが止まって結果が出てしまうのも恐ろしいような… 他の、トランプ・カードやサイコロなども、みんな何も見えず、勝負はずっと結果が出ないままに続いているのかしら?)
 いずれにしろ、メイドさんは生きた心地がしなかった。ミス・ジキルをはじめとする参加者は、ほとんど私語や雑談も交わさずに、じっと見えないルーレットを見続けている… しかしとうとう、ルーレットの回転の速度が落ち始めたかして、「カラカラ、カラカラ」という音が「カラ… カラ… カラ…」と球が止まりかけている音に変わりはじめ、やがてついに音がしなくなった。
「おおっ…」
 三度目のどよめきが起こり、ミス・ジキルをはじめ一同は、満面の笑みを浮かべながらブライディーのほうを見つめた。
「おめでとう、ブライディー!」
「おめでとう、メイドさん!」
「大当たりよ!」
「こんなこと滅多にあるものじゃあない!」
「シャンパンを持って来させよう!」
 ルーレットも、数字表も、何も見えないメイドさんは何かとてつもなく嫌な予感がした。 シャンパンが運ばれてきて栓が抜かれ、次々にとシャンパン・グラスに注がれた。
 ディーラーは長いひしゃくのような棒を駆使して、外れた賭け札を回収し、ブライディーの前に当たりの分を配る仕草をした。
「有難うございます」
 ブライディーはペコリとお辞儀をしたが、気が気ではなかった。
「さて、もう一度やりましょう!」
「そうだそうだ。勝ち逃げは許されないぞ」
 と、片眼鏡の紳士。
「では皆さん、お賭けください!」
 ディーラーの声に、ミス・ジキルをはじめ紳士淑女たちはまたしても見えないチップを見えない番号表の上に置き始めた。

「さあ、早く、貴女もお賭けなさい!」
 ミス・ジキルはブライディーのかすかに震えている肩に手を置いて言った。
「早く早く、貴女の置いたところに置こうと思っている人も少なくないのですから」
 人々も口々に言った。
 メイドさんは仕方なく、自分の目の前に積み上げられているらしい見えないポーカーチップをつまむふりをして、それを皆が置いているあたりに置くふりをした。
「おおっ、そこですか!」
「次はそこに来るのですか!」
「それだけしか賭けないのですか?」
「まだまだ余っていますよ!」
 ブライディーはギャラリーの声に追い立てられるようにして、次々に見えないチップを見えない数字表の上に置き続けた。
「さぁ、もういいですか。回しはじめますよ」
 黒いチョッキに蝶ネクタイ姿のディーラーは、見えないルーレットの取っ手を持って、「えいっ!」とばかりに身体をひねって回した。それから、見えない球を手のひらの上に乗せて、その中に投げ込む仕草をすると、不思議なことにカランという音がして、それからは「カラカラ、カラカラ」というあの音がしはじめた。
 ミス・ジキルや人々の血走った目は、見えない数字表から見えないルーレットのほうに移った。
(これって、外れたらどうなるのかしら? さっきはたまたま「当たった」らしいからいいようなものの、続けて当たるとはとても思えないわ。…ああ早くドイル様や皆様が来てくださらないかしら! デイジーも目を覚まして欲しいし…)
 ブライディーの身体の震えは次第に大きくなった。

 同じ頃、サダルメリク・アルハザードが御する馬車に乗り込んだドイルと、アレイスター・クロウリーと、安倍薫とポピーは、ジキル子爵からの電話を受けて、子爵邸の中からずっと続いている砂の跡を追っていた。
「これを尾けて行けば、ミス・ジキルがどこに出かけていくのか分かるはずだ」
 ドイルは馬車の車窓、後ろへ後ろへと飛び去るガス灯の明かりを眺めながら言った。
「ブライディーさんとデイジーさん、大丈夫でしょうか?」
 ポピーがかすれた声でつぶやいた。
 そのうちに、馬車のスピードが次第に落ちて、ついには止まってしまった。
「おい、どうした?」
 アレイスターが真っ先に飛び降りると、サダルメリクは先に御者台から降りていて、地面に目を落としながら道の先をうろうろしていた。
「それが…」 アラビアの魔導師はうわずった声で答えた。「…目印の砂が途切れています…」
「何だって!」
 アレイスターも前方を眺めたが、確かにそれまでずっと続いていた砂が、ふっつりと途絶えていた。
「相手に気づかれてしまったのだろうか?」
 ドイルも表情を曇らせた。
「だとしたら、危ないですね…」
 サダルメリクは顔を伏せてその場にしゃがみ込んでしまった。
「皆様がたの魔法で探せないのでしょうか?」
 ポピーは両手を胸の上で組んで言った。
「『黄金のコックリさんの棒』の事件の時もそうでしたけれど…」 サダルメリクは伏し目がちに言った。「相手の魔法のほうが強力な場合、ぼくら三人が束になっても探し出すのは難しいのですよ。もちろん、ブライディーさんがここにいれば話は別ですが…」
「英国心霊研究協会の屋敷で聞こえていたルーレットの回る音が、ここでは聞こえないのは、我々に音の出所をたぐられては困るからか…」
 アレイスターは歯がみして言った。
「こうなったらブライディーとデイジーだけが頼りか…」
 ドイルは腕組みをした。
「しかしこのままじっと座して待っている訳にもいかないし、いろいろやってみましょう」
 安倍薫が石畳の道にチョークで魔法陣を描きはじめながら言った。
「それはもちろんそうですね。寒いですからポピーさんとドイルさんは馬車の中で待っていてください」
 サダルメリクは薫が描いた陣の外に、もう一つ大きな陣を描きはじめた。
「そうだな…」
 アレイスターは二人のあいだを行き来しながら陣と陣を結ぶように線を書き加えはじめた。

 見えないルーレットは「カラカラ、カラカラ」と、まるで目の前で骸骨たちが踊りを踊っているような音を立てて回り続けていた。(どうしよう… そんなに続けて当たるはずがないわ。外れたら、今度こそ何を言われるか知れないわ…)
 意外なことにルーレットは、今度は先ほどとは比べものにならないくらい早く速度を落としはじめた。
「おおっ、止まるぞ!」
 人々は見えないルーレットのほうに向かって身を乗り出した。
「カラ、カラ、カラ…」
 ルーレットは踊り疲れた骸骨たちがバラバラになって地面に散らばるような音を立てて止まった。
「おーっと、メイドさん、今度は残念だったね」
「そうそう当たる訳はないよね」
 人々が仮面越しに駱駝のような眼を向けたので、ブライディーは自分が全部スッてしまったことを察した。ディーラーが無情にも、ひしゃくのような棒を自在に操って、見えないチップを取り上げ、当たった者に配り直した。
「申し訳ございません、ミス・ジキル」
「いいのですよ、ブライディー。所詮はギャンブル。当たることもあれば外れることもあります」
 ミス・ジキルは例の聖母か天使のような微笑みを浮かべてメイドさんの肩を撫でてくれた。
「しかし、多大なご損をおかけしたのでは?」
「そのようなことは気にしなくても良いのですよ…」
「メイドさん、申し訳ないと思うのだったら、次は自分のお金を掛けて、それでもし当たったら弁償する、というのはどうですか?」
 片眼鏡の男が囁いた。
「あら、そんな必要ございませんことよ。わがジキル子爵家は、メイドに損害を弁償をさせるようなことは致しません」
 ミス・ジキルは広げた扇子で笑っている口元を隠しながら言った。
(そう言えば、この人たちは一体何を賭けているのかしら? お金? 魂? ほかの何か?) メイドさんはまるでアイルランドの森の泉のように、ふつふつと疑問が湧いてくるのを感じた。(わたしは、そういうようなことを調べるために、ここへ潜入したはず… 仮にドイル様たちが駆けつけて、魔物をやっつけて下さっても、「ルーレットの正体」などが分からないままになってしまうかもしれない…)
「あの… わたくし、次は自分のお金を賭けてみたいと思うのですが、あいにくと小銭しか持ち合わせておりませんが、それでもよろしいでしょうか?」
「ああ、それなら…」 ミス・ジキルや片眼鏡の紳士、他の客たちが口々に、カジノの入り口のすぐそばにある賭け札の交換所を指さした。そこには、ディーラーたちと同じチョッキと蝶ネクタイのお仕着せを着た交換係がいた。が、普通のカジノでは山のように積み上げられているいるはずの色とりどりのポーカーチップは、どこにも見えなかった。なのに、当てた客、すってんてんになったのに、さらに突っ込もうとする客たちが、ひっきりなしに行き来していた。
 小走りに走って、さして長くない列の末尾に並んだブライディーは、「見えない賭け札」を小さな銀の盆に乗せてカジノに戻っていく人々が、「お金」らしいものをまったく差し出していないことに気が付いた。
(いったい何を元手にここの賭け札を貰っているのかしら?)
 ドキドキするうちにメイドさんの順番がやってきた。
「あの、お金はほとんど持っていないんですけれど…」
「お金? そんなもの要らないよ」 交換係は無表情、ぶっきらぼうに言った。「で、賭け札はいくら要るんだい?」
「皆さんと、同じくらい…」
 交換係は一瞬、ジロリと射るような視線をメイドさんに向けた。が、少しして盆の上に丁寧に見えないポーカー・チップを置く仕草をして、丁重に差し出した。
「どうぞ、ごゆっくりお楽しみを。ご幸運をお祈り申し上げております」
「有難う」
 盆を受け取ったメイドさんは、もともとの盆の重さに何も加わっていないのに、いまさらのことながらどっと冷や汗が吹き出した。「おやブライディー、ずいぶんと軍資金を調達してきたのですね」
 ミス・ジキルは、メイドさんがしずしずと持って帰ってきた盆にチラリと目をやると、さらに一層穏やかな微笑みを浮かべて言った。

「さて、そろそろ回したいと思います。皆様、どうかお賭けください!」
 ディーラーの声に合わせて、ミス・ジキルや人々が透明のチップをそこここに置き始めた。ブライディーもまた、人が置いたところの上に重ならないように、注意深く賭け札の三分の一くらいを置く仕草をした。
「よろしいですか。それでは回しますよ」
 ディーラーは姿なきルーレットの棒を手に持って身体をひねる仕草をした。するとまたあの「カラカラ、カラカラ」という音が鳴り始めて、人々は固唾を呑み始めた。
 初めて自分が持っていた「何か」と引き替えて手にした無色透明のチップ、それを見えない数字表の上に置いた時から、メイドさんの心の中には、何か言いようのない、もやもやとした感情が少しずつ、少しずつ、まるで地面から何かがしみ出すように湧きあがってきた。
(…どうして皆様、目には見えない、重さも感じないものに、「何か」を賭けておられるのかしら? それとも、皆様にはちゃんと見えていて、重さもあって、「意味」もあるものなのかしら? つまり、わたくしだけが感じることのできない「とても重要なもの」が、いまこの目の前で賭けの対象にされているのかしら?)
「ミス・ジキル…」
 メイドさんは、蝋人形のような乾いた微笑みを浮かべながら音以外は何もない地獄の回転盤を見つめている雇い主の顔を見上げて切り出した。
「うん、何ですか、ブライディー?」
 ミス・ジキルは確かにそう答えてくれたが、メイドさんの目には不気味なことに、唇がまったく動かなかったように見えた。
「…お楽しみの最中に、このようなことを申し上げてはなはだ失礼なのですが、皆様は一体何を賭けておられるのでしょうか?」
「何も失礼な質問ではないですよ、ブライディー」
 また唇は動かず、身体も蝋人形のように冷えて固まっていくように伺えた。
「では、教えてください、ミス・ジキル」
「ブライディー、人にものを尋ねるときは、せめて自分でいくばくかの努力を払って、いろんなことを様々な角度から調べてから尋ねるものですよ」
 片眼鏡の紳士をはじめとする周囲の人々も、まるで枯れ木のように、次第に生気のないものに変わりはじめていた。
「わたしもこうやって、自分の何かを賭け札に変えて、参加しています。なのに、その賭け札も、ルーレットも、数字表も、何も見えないんです。皆様には見えておられるのでしょうか?」
 言ってしまった後で、メイドさんは自分の無謀さにあきれ果てた。
(わたしはここへ、「潜入」しているのよ。ドイル様や皆様がたが駆けつけてくださる前に、それこそミス・ジキルがおっしゃるように「ろくに調べたり考えたりもせずに」騒ぎを起こしてどうするの? 皆様がお楽しみの時に、邪魔をしたりなんかしたら、それこそ怖い人たちが出てきて、別室へ連れて行かれて、そこで殺されたりしても、文句は言えないはず… それがカジノでは?)
「見えてはいません。何も見えてはいませんよ」 ミス・ジキルの声は、もはやその口からではなく、薄暗い天井のどこかか、壁のじこかか、空間のどこかから聞こえてきた。「ルーレットも、賭け札も、数字表も、何も見えてはいませんよ」
 その声はまだあくまで柔和で、優しいものだった。
 なのに、今度は逆に、ブライディーの頭の中に、いままで感じたことがないくらいの、まるでヴェスヴィオス火山から吹き出る溶岩のような怒りが湧き出てきた。
「何も見えていないもので遊んで、一体どこが楽しいのですか? 何番に入ったということがどうやって分かるのですか? そもそも、こんなことをやり続ける意味があるのでしょうか?」
 それまでなったことがないくらいにカッとなったメイドさんは、見えないルーレットを持ち上げて放り投げ、両手でチップを床に撒き散らした。すると、その時初めて、ガシャーンと何かが壊れる大きな音が響き渡り、パラパラ、バラバラとチップが床に散らばる音がした。
 なのに、ミス・ジキルをはじめルーレットを囲んでいた人々は、メイドさんを取り押さえようとするでもなく、まるで蝋人形館の人形立ちのように、ただ冷ややかな視線を注ぎながら立ちつくしていた。カジノのほかの客…カードやサイコロで遊んでいた客たちも全員が凍り付いてしまったかのように動かなくなった。ディーラーたちやチップの交換係、飲み物を配る役目の娘たちや、煙草売りの娘たちも凍り付いた。
『長ク続イタげーむモ、ヨウヤク終ワリダ』 どこからともなく、男性のもので女性のものでもない不気味な声が響いてきた。
『めいどヨ。オマエノ一人負ケダ…』

 その頃、御者だまりの部屋でご馳走をたらふく食べて、くーくーといびきをかいて眠っていたデイジーは、主人たちが用事を済ませて帰宅するのか、男女の御者たちがカチャカチャと皿を重ねて立ち上がり、ガサゴソと椅子を元に戻す音と気配で目を覚ました。
「あれっ、あたしいままで一体何をしていたまのかしら?」
 誰かが着せかけてくれていた毛布を跳ねのけて飛び起きた。
「どうやらお開きになったみたいよ。急いで馬車に戻らないと、ご主人様に叱られてよ」
 仲間の女性の御者に背中を叩かれて立ち上がると、ドイルから借りてきた懐中時計を見た。
(「午前三時」…いけない! あたし、真夜中から三時間も寝ていたの?)
 ばたばたと、すっかりひとけが無くなって、もぬけの殻になってしまった薄暗い大きな屋敷を右往左往して、ようやく広間に行き当たった。
 広間の扉は観音開きに開けっ放されていた。
 廊下も部屋も、すべてがほの暗い中、「お姉さん格」のメイドさんが、いくつかある大きなテーブルの一つの下にうずくまるように倒れていた。
「お姉ちゃん!」
 デイジーは全速力で駆け寄って、ブライディーを抱え起こした。
「デイジー…」
「よかった、大丈夫?」
 大きなメイドさんはデイジーの顔と姿を認めるなり、目をこれ以上はないというぐらい吊り上げ、いきなり平手打ちしようとした。
「デイジー、あなた一体いままでどこで何をしていたの? あんなに大きなことを言っていた癖に! あなたが来てくれないから、あたしは一人でとっても怖い、恐ろしい目に遭って…」
「ごめんよ、お姉ちゃん。一口、お愛想で食べた夜食の中に眠り薬が入れられていたみたい… それよりか、どんな目に遭ったの?」
「ルーレットよ! あなたにはきこえないの、デイジー、あの『カラカラ、カラカラ』という音が?」
「聞こえないよ、そんな音はどこからも…」
「回っているのよ、ルーレットが!」
 ブライディーはその短い赤毛を逆立たせて、両手でデイジーの首を締め上げた。
「く、苦しいよ、お姉ちゃん! ごめんよ! 許して! 寝ちゃったあたしが悪いけれど、死にたくない…」
「許せないわ、デイジー、あなたはもともと決して許せない存在だったのよ!」
 デイジーが白目を剥いて唇の端から泡を吹き出しかけた時、何人かの人影が猛然と走り込んできて、張り飛ばすようにして二人を引き離した。
「何をしているんだブライディー! おかしくなってしまったのか?」
 ブライディーがハッと我に返ると、目の前に非常に険しい表情をしたドイルが立っていた。
「ドイルさま…」
「一体何がどうしたと言うのだ? 君はいままでただの一度も、デイジーにこんなことをしたことなんかなかったじゃないか? 敵の術に操られているのか? いや、きっとそうに違いない!」
「デイジーさん、大丈夫ですか?」
 ポピーはむせ返って咳をしているちっちゃなメイドさんの背中をさすり続けた。
「こ、これは…」 安倍薫はいくつかあるテーブルを回って、まるで匂いでも嗅ぐように調べていた。「…引き払ってからもうかなり時間がたっているにもかかわらず、何というもの凄い邪気なんだ!」
「安倍君、アレイスター君とサダルメリク君は?」
 ドイルが怒鳴るように尋ねた。
「アレイスターさんはあやかしのルーレットの気配を追っています。サダルメリクさんは三々五々帰宅した貴族たちがどういう人々だったか調べています…」
「こんなに… こんなに魔術師のかたが何人もいらっしゃるのに…」 ブライディーはまたしてもメデューサのような凄まじい形相になって、ドイルのフロック・コートの襟につかみかかった。「どうして! どうして、わたしを助けて下さらなかったのですか! わたしが死ぬか、どうにかなったら面白いとでも思っておられたのですか?」
「落ち着くんだブライディー、君は悪魔の術…催眠術のようなものにかかっているんだ。ぼくらが必ず解いてあげるから、落ち着いてくれ!」
「ドイルさん、おっしゃる通りです」 安倍が珍しく逼迫した口調で言った。「一刻も早く解かないと、ブライディーさんはこれから一生、そんなふうなままの性格になってしまいます!」
「それは大変だ!」
 ドイル、デイジー、ポピーの顔色が変わった。

「どうしたら元へ戻るんだ?」
 ドイルは持参してきた診察鞄の中から鎮静剤を取り出し、大きなメイドさんに飲ませながら言った。
「ぼくも自信はないのですが…」 安倍薫が声を潜めて語り出した。「ブライディーさんは見えない物の怪が開催するカジノで、自分の心の中にある何かをポーカーチップに変えて、姿のないルーレットに賭けて、スッたのだと思います。そのポーカーチップを取り戻さない限り、元の優しいブライディーさんに戻すことはできないかと…」
「すると、次に冥界のカジノが開催されるまで、待たねばならないの?」
 デイジーは泣きそうになって尋ねた。
「ぼくらがこうして乱入してしまいましたからね。それも難しいかと…」
 と、その時、ポピーがハッと目を見開いた。
「思い出しました! 幼い頃に母か祖母から聞いた話で、いまのいままで何か靄か霞がかかったように思い出せずにおりましたが…」

…ヨーロッパのどこかに「夜の輪」と呼ばれる怪異なものが存在するそうです。悪魔や悪霊、亡霊幽霊、妖精や精霊、妖怪といった、もともとこの世やあの世にいるものではなくて、「人の心が作り出したもの」です。
 それは、本当に心の優しい人が作り出してしまうものだとか。わたしが寝物語のおとぎ話で聞いた話では…

 あるところに、それはそれは立派な修道士がいたそうです。修道士はまだイエス様の教えが伝わっていない、辺境の蛮族が住んでいるところに赴いて、一所懸命福音書の教えを説き、自らも実践していました。
 修道士は、喧嘩の仲裁に入って自らがひどく殴られても、せっかく立てた庵を焼き払われても、いつも微笑みを浮かべ、いつも激しい争いを繰り返していた蛮族の民に農耕を教え、箴言の「怒りを遅くする者勇者に勝る」という精神や、イエス様が説かれた「七を七度するまで許しなさい」という教えを説いて回ったそうです。
 ところが、修道士も人の子、いくら平和と寛容の心を語っても、何度も石を投げられ、弓矢で射られ、刀で斬りつけられるうちに、その信仰も揺らいできました。
(彼らは、どうしようもないくらいに愚かなのではないか? いくら素晴らしい神の教えを説いても無駄なのではないか)と。
 一方では、(いや、これは神が我に与えた試練なのに違いない。ここで疑問を抱いては、いままでの苦労も水の泡だ)とも思いました。 疲れ果て、すっかり自信をなくしかけていた修道士の目に、ある夜更け、夢の中に奇妙なものが現れました。
 それは、時おり町や村に回ってくる興行師が木に掛けて回す福引き「幸運の輪」に似ていました。いくばくかの小銭を賭けて輪を回し、矢印のところで止まった日用品…ざるや籠、鍋や釜、ナイフや包丁、大当たりの場合は立派な馬や牛が自分のものになるというあれです。
(賭け事を嫌っているわたしに、なにゆえこのようなものが見えるのだろう?)
 近寄ってよく見ると、その幸運の輪の数字の部分は、白と黒に塗り分けられていて、それも白がほとんどで、黒がごく僅かだったそうです。
(なんだこれは? 「当たり」ばかりじゃないか)
 そう思った修道士は、ついその輪を回してみました。当然、矢印は白の数字を指して止まりました。次も、その次も…
 回し続けているうちに、修道士は自分でもとても幸せな気分になっていくことに気づきました。
(何度やっても当たりばかりだ。わたしは貧しい修道士で、銭もほとんど持っていないけれど、この輪だったら当たり続けて、豊かになることができ、教会を建てたり、荒れた土地を開墾したり、治水や道路を造ったすることができるに違いない。それくらい神様もお許しくださるだろう。…とは言っても所詮賭けるものがないからなぁ…)
 すると、夢の中で微笑んだ修道士の目の前に、突然色とりどりに塗り分けられた賭け札が現れました。
(いいか。どうせこれは夢の中の出来事なんだ。一つ長者になった夢でも見させて貰おう!)
 修道士は賭け札を白のところに置いて輪を回しました。…ところが…
 その時に限って、矢印は輪全体からすると数えるほどしかない黒い部分に止まり、修道士が賭けた賭け札は幻のように消え去りました。
(これは偶然だ。こんなことは滅多にあることではないだろう) 修道士は続けて白に賭けました。ところが次も黒に止まって、賭け札は消え去りました。
 修道士はたまらなく不愉快な気分になりました。と、その時、こつんこつんと、蛮族の少年たちが、庵の塀や木窓に石を投げる音が聞こえたそうです。

 修道士は、何かいい知れない気持ちがこみ上げてきて、思わずカーッとなり、近くにあった鋤を取り上げて飛び出しました。
 戸口の外には蛮族の少年たちがニヤニヤとさげすむような笑いを浮かべて立っていました。
(おのれ!)
 修道士はいつも片時も離さず抱いていた「怒りを遅くする者勇者に勝る」や「七を七度するまで敵を許せ」などの聖句を忘れ、持っていた鋤で、一人の少年の頭を叩き割ってしまいました。
 その途端、ハッと我に返った修道士が、血まみれになって倒れている少年をまじまじと見つめると、毎朝朝食を持ってきてくれていた優しく信心深い子であったことに気が付きました。そう、遺体のかたわらには、けさの分のパンや卵などが散らばっていたのです。
 修道士は殺人の罪で絞首刑になりました。
 処刑のための木に吊される前に、それまで何も語らなかった彼は、まるでうわごとのように、こう語ったそうです。
「夢の現れた地獄の輪と、悪魔の賭け札のせいだ」と…

「それだ! その夢の中に現れたという輪が、この世紀末のロンドンに跳梁跋扈しているのに違いない!」
 ドイルは拳を握り締めた。
「でもその『夜の輪』…ルーレットは結局何だったのかしら?」 デイジーは首をかしげた。「…やっぱり悪魔の一種なのかな?」
「かもしれず、あるいは『より正しく、もっと優しくありたい』という人の心が生み出した幻なのかも…」安倍薫がポツリつつぶやいた。「ぼくたち人間は、自分たちが想像している以上に、あるいは思いもよらないくらいに多面的な存在かもしれなのだと思います。温厚で柔和な人が、心のどこかに残忍性を忍ばせていたり、謹厳実直な人が突然色情に狂ってみたり…」
「とにかくルーレットを退治しなくっちゃぁ!」 デイジーは寒いのに腕まくりして言った。「寝てしまっていた分を挽回しなくっちゃあ! …って、それはどこにいるのよ? どこに逃げちゃったのよ?」
 と、そこへ、追跡に出ていたアレイスター・クロウリーとサダルメリク・アルハザードがあわただしく戻ってきた。
「残念ながら取り逃がした… というよりも逃げ出したやつは幻で、本体はまだこの近くにいるような気がしてならない」
 アレイスターは息を切らせながら言った。
「仮面を付けてカジノに参加していた人々は、どの人もごく普通の人々…貴族や郷紳のかたがたのようです。互いに特別なつながりもないようです…」
 サダルメリクは寛衣の乱れを直した。
「それじゃあデイジー、いよいよ君の出番だ。頑張ってブライディーさんの心の奥の奥、過去の思い出だとか、未来への希望憧憬や不安といった表層のものじゃあない、もっと奥の扉への道を開いてみてください…」
 安倍薫が、まるで日本の料理でも所望するみたいに、あっさりと頼んだ。
「分かった、やってみるわ」
 デイジーは静かに目を閉じると、広間の奥の壁に向かって両手を胸の前で組んでスックと立ち向かい、静かに、静かに、心を静めて祈りはじめた。
 すると、僅かな蝋燭の炎の灯りに照らされた先に、ぽっかりと黒い闇が現れた。
「ではまた、赴くことにするか」
 アレイスターはコートを脱ぎ捨てて大股で歩み始めた。
「ドイルさん、ブライディーさんとデイジーちゃんをお願いします」
 サダルメリクは小走り気味にケンブリッジの学生の後を追った。
「分かった。頼むぞ」
 ドイルは二人が消え去った先をジッと見つめたまま言った。
「必ず、なんとかしたいと思います」
 安倍薫は閉じかけた空間に、まるで動き始めた汽車に飛び乗るように身を躍らせて消えた。

 闇の中、まるでロンドン塔の大時計の内部のように、無数の歯車のようなものが回っていた。ただ、ぼんやりと薄明かりに照らされているのは歯車ではなく、無数のルーレットや、富くじの抽選に矢を放って使われる「幸運の輪」だった。
 大小幾十、幾百もの、さまざまな形のルーレットや「幸運の輪」が、まるで風車みたいに、右回りに、あるいは左まわりにくるくる、ぐるぐると回っていた。
 それぞれのルーレットには、それに見合い、釣り合った象牙の球が乗っていて「カラカラ、カラカラ」と音を立てながら、白い残像を引きずりながら回っていた。

「時計台の歯車なみの大変な数ですね」
 サダルメリク・アルハザードは片方の眉をしかめながら周囲をぐるりと見渡した。
「おそらくほとんどは幻影で、本物はたった一つなのだろうが、どれも本物に見える…」
 アレイスター・クロウリーは細く鋭い眼をさらに細く絞った。「どれもこれも片っ端からぶち壊してやりたいが、そういう訳には行かないだろうな…」
「落ち着いて考えれば、そのうちきっと見極められると思いますよ」 安倍薫がつぶやいた。「とりあえず、三人固まっていても仕方がないので、散らばりませんか?」
 アレイスター・クロウリーは返事しないままにフッとかき消えた。
「それではぼくも、適当に…」
 サダルメリクも小さなつむじ風をまとったかと思うと姿を消した。
「お気を付けて」
 後には安倍だけが残された。

 アレイスター・クロウリーがやって来たのは、まるでトンネルか地下道のような、ほの暗い一本道だった。数歩ずつの間隔を置いて、富くじの抽選に使われる「幸運の輪」が、まるでオランダの風車のようにくるくると回っていた。 どれも白っぽい、明るい色をしていた。
(どこまで続いているんだ?)
 何気なく歩き始めた時、ヒョウと空気を切り裂く音がした。頬に何か液体がつたうのを感じたアレイスターが手のひらを押し当てて見ると、赤い血が付いていた。
「危ない、危ない…」
 ふと振り返ると、歩き出した地点の「幸運の輪」が止まっていた。ほとんどが白の升目、一カ所だけ黒い升目がある、その黒の升目の上に矢の柄も矢羽根も黒い矢がまっすぐに突き刺さっていた。
 またヒョウと空間を乱す気配がしたので、反射的に首を引っ込めた。黒い矢はまたしても、たった一カ所しかない黒の升目に的中していた。
「またかよ。偶然にもほどがある」
 アレイスターが口の中で呪文をつぶやくと、「幸運の輪」が掛かっている白い壁に、ドイルや、クルックス博士や、ウォーレス博士や、デイジーやポピーや、シスター・セアラら、ブライディーの知人たちの顔や姿が、まるで幻灯の絵のように次々と浮かび上がった。
 その中には、アレイスターやサダルメリクや安倍薫たちの姿もあった。
 矢が次々と飛んでくる中を、アレイスターは疾風のように駆け抜けた。振り返るとどの矢も、「幸運の輪」のたった一つしかない黒い升目に当たっていた。
「偶然にしても、インチキにしても、出来すぎているぞ」
 アレイスターは来ていた黒い背広を脱いで、次の矢をはたき落とそうとした。が、矢は上着をすり抜けて、「幸運の輪」の、たった一つの黒い升目に命中した。
「何が何でも全部、たった一つの黒い升目に当てるつもりなんだな…」
 トンネルは、果てしなく続いているように思われた。
 壁には相変わらず、ブライディーの友人や知り合いが、まるで写真帳のコラージュのように明滅している。
「これではきりがないな。一体どうすれば?」
 アレイスターは立ち止まり、静かに目を閉じ片膝をついて矢をよけながら考えた。
 再び眼を開いたとき、かなり先の「幸運の輪」の壁に、ブライディー自身の似姿の幻影が写った壁があるのを発見した。
「あれだ!」
 彼は飛び交う矢を巧みによけ、息を切らせながらようやく、その場所の前に立った。
 壁に映った大きなメイドさんは、デイジーをこっぴどく叱っていた。デイジーがどんな失敗をしでかしてしまったのかは分からない。
 それが現実にあった過去の記憶かどうかも定かではなかった。
「こいつがこの場所に無数にある、『夜の輪』の本体かな?」
 アレイスターは精神を統一すると、難しいラテン語の呪文を懸命に唱えた。すると、ブライディーが過去に怒った場面が、ゆっくりと、まるでスライドショーのように映し出された。が、その数は数えることができるほどで、非常に少なかった。
「…特に我慢や辛抱をして、こらえにこらえていた訳ではない。なのにいっぺんにそれを失ってしまうということがあり得るのだろうか? まるで、それまでギャンブルなど一度もしたことがなかった人が、全財産をいっぺんに相場や賭け事ですってしまうみたいに…」
 魔導師がもう一度瞑目して短くはない呪文を唱えると、目の前の「幸運の輪」は下のほうから細かい塵と化して消え失せた。

 サダルメリク・アルハザードは風が吹き、風紋が刻一刻とその模様を変化させる茫漠とした砂漠を歩いていた。遠くから、ゴゴゴ…と地鳴りのような、流砂が流れる音が聞こえてきたかと思うと、どんどんと近づいてきた。 目の前には、石炭か宝石の露天掘りに似た直径何ヤードもの巨大なすり鉢状の穴がぽつかりと開いていた。
 目の前の砂地もアッという間に崩れたので、アラビアの魔導師は懐から紙で作った始祖鳥のを虚空へと投げた。すると途端に模型は本物の空飛ぶ恐竜となって、間一髪のところでサダルメリクをすくい上げて大空へと舞い上がった。
 上空から穴、と言うか蟻地獄を見下ろすと、ぐるぐると回っている底の底の部分は、白と黒に染め分けられ、回すときのための取っ手の付いたルーレットのようなものが見え隠れしていた。
「これがそうなのか。はて、どうすれば良いものやら… ご先祖様の書いた書物に書かれてはいないものだろうか…」
 懐の中から一粒の豆本を取り出し、短い呪文を唱えると、豆本はたちまち普通の本の大きさになった。
「『外なる神』…この星…地球…が火の玉として誕生する以前より命を持っていて、この星、この世界を住処と定めた旧き神たち旧き支配者… 違うな。彼らではない。
 ああ、偉大なるご先祖アブドゥル様。どうか卑賤なる子孫のこのぼくに良き智恵をお授けください!」
 すると目の前に、乳香の香りを漂わせた、鷲鼻に鉤爪、白いひげに囲まれた皺くちゃの顔のアラビア人の老人が現れた。
「このたわけ者が! 何でもかんでも本などを頼りにしおって! ちょっとは自分の頭で考えろ!」
「申し訳ございません!」
「『内なる神』は我が興味の外にあったので、さすがの儂も詳しいことは知らぬ。が、人の心もまた一つの宇宙。または幾重にも重なったさまざまな次元であろう。そこにいかなる怪異なる神や支配者が住みついていたとしても不思議ではなかろう。決して『たかが卑小な人の心が作り出したもの』と侮るではないぞ」
「分かりました。強力無辺な『外なる神』と同じように考え、倒すことなど夢にも考えず、封印できれば良しとすることを旨とします」
「くどいようじゃが、『人の心が生み出したものゆえ、人の能力をもって封じられること能う』などとは思うなよ」
 七世紀に生きていたサナアの老魔導師は、そう言い残して消えた。
「…すると、ルーレットのように見えているのは、ぼくらが勝手にそう思い込んでいるだけのことで、実際はルーレットでも『幸運の輪』でも、『夜の輪』でもないものかも知れないな…」
 サダルメリクを乗せた始祖鳥は、しばらく蟻地獄の上を何度もゆっくりと旋回した。
「どれも言葉には尽くしがたい姿形をし、無尽無窮の力と不死身の体を持った『外なる神』旧き神、旧き支配者たち… しかし、しかしそれ以上に輪をかけて、不可知で、同じ人間であっても到底伺い知ることがはなはだ難しいか出来ない『内なる神』…封印する方法はおろか、鎮める手段さえ見当もつかない… はてさて、一体どうしたものやら… アレイスター・クロウリーさんはどうしただろう? あのかたのことだ。力づくで消し去ったかな? けれど、いったん消え去ったように見えても、まるで吹き出ものの如く現れ出てきたらどうする? いや、吹き出ものではなく、癌だっとしたら、どうする?」
 アラビアの少年魔術師は決心した。
 ゆっくりと弧を描き飛ぶ始祖鳥の胴の上にすっくと立ち、つぶやくように呪文を唱え始めた。
 すると、蜘蛛の巣のような糸が空間に現れると、ぐるぐると蟻地獄の上を半球状のフェンスのように取り囲んだ。
 糸と糸に囲まれた平面はしゃぼん玉のような膜で覆われて、キラキラと光を反射した。 何回か往復するうちに、ゆらゆらと揺らめくドームが完成した。
「これで当分、少なくともこの『ルーレット』に近づくものは、何でもはじき返されるか、追い返されて、蟻地獄の中に落ちたり、はまりこんだりするものはいないだろう…」 彼はそう言い残すと、今度は一直線に飛び去った。
(「封印」などと言うと、いかにもカッコいいけれど、突き詰めれば「触らぬ神に祟りなし」といった囲いを作ったに過ぎないし、もっと突き詰めたら「どこかのはずれに倉庫を作って厳重に鍵をおろした」に過ぎない。つまり、そういうことだ…)

 ブライディーは夢の中で、ミス・ジキルのお供をしながら、ヨーロッパのとある下町の、家具指物の職人の街を歩いていた。それぞれ屋号のシンボル・マークを表した小さな木の看板を吊したあちこちの仕事場からは、のこぎりを引いたり、金槌で釘を打ったりする音が響いている。
「ミス・ジキル。どうしてわざわざこのようなところに出向かれたのですか? お気に入りの家具を探されるおつもりなら、完成品を売っているお店に行かれたらよいと思いますが… 仮にオリジナルの家具を注文されるおつもりでも、完成品を展示しているお店なら、専門の家具デザイナーが、イメージの通りに絵を描いて下さるでしょうに…」
「わたくしの欲しいのは、テーブルや椅子や、ベッドや箪笥といった普通の家具ではないのですよ」
 ミス・ジキルは小振りのレースの日傘をくるくると回しながら、いつもの穏和な微笑みを浮かべながら言った。
「『普通の家具ではない』?」
 大きなメイドさんはキョトンとした。
 子爵令嬢は、軒先までカンナ屑が散らばっている指物職人の店の前で立ち止まり、店の中をまっすぐに見据えた。
 ブライディーも真似をして店の中を覗いてみると、その壁には、大小のルーレットやダーツの的などがずらりと並べて掛けてあり、真ん中の仕事場には製作途中の、まだ大きなすり鉢にしか見えない、木目もそのままのルーレットや、回る部分の円盤が置いてあって、その回りには大小のノミや木槌が、木屑とともに散らばっていた。
「いけません、お嬢様! ルーレットはここイギリス…ロンドンではご禁制です。どうしてもおやりになりたかったらモナコかモンテカルロにでも行かれて…」
「ブライディー、どうか安心してください。わたくしはお金…チップ…を賭けてするルーレットが欲しいのではありません」
 ミス・ジキルは片目をつむると、日傘を折りたたんで、すたすたと店の中へと入っていった。
「これはこれはお嬢様、きょうは何の御用でしょうか?」
 店の奥から現れた片眼鏡をかけた店主に、メイドさんは見覚えがあった。…そう、あの夜、薄暗い秘密のカジノで、ミス・ジキルや自分と一緒に見えないルーレットを囲んでいた片眼鏡の紳士だった。
「もちろん、ルーレットが欲しいのです」
 ミス・ジキルは柔和な笑みを浮かべていった。
「ルーレットなら、ご覧の通りいっぱいございますが…」
 片眼鏡の店主は、灰色の眼をしばたたかせた。
「あら、これらはどれも素晴らしいルーレットですわ。ですけれどわたくしが求めたいのは、こういうようなルーレットではございませんことよ」
 子爵令嬢は、ピカピカに磨き上げられた黒いニスや濃い茶色のニスで塗られたルーレットの前に立ち、円盤の部分の金メッキや、赤と黒に塗り分けられた数字の部分をじっと見つめながら、羽根扇子を取りだしてゆっくりとあおいでみせた。
「ではどういったルーレットで?」
 店主は眼を細めて尋ねた。
「おとぼけはなしにしましょう。『あの』ルーレットです」
「お生憎でございますが、お嬢様。貴女のおっしゃっておられるのが『あの』ルーレットのことなのであれば、あれは売り物ではございません」
「分かっています。ですが、どうしても欲しいのです」
「差し上げたいのはやまやまなのですが…」 その時、大きなメイドさんは、それまで木屑とカンナ屑しかなかった作業台の上に、大人の手のひらに乗るくらいの、黒い小型のルーレットが忽然と現れたのに気が付いた。
 そのルーレットの円盤は、赤と黒の互い違いではなく、きれいな七色に塗り分けられていた。
「お嬢様、お嬢様がお探しなのは、これではございませんか?」
 そう話しかけた瞬間、ルーレットは誰も手を触れていないのにくるくると回転し、象牙の球がカラカラと乾いた音を立てて回り始めた。文字盤の七色は溶けあって白く輝きだした。
「これです! わたくしが自分のものにしたいのは! ブライディー、貴女にも貸してあげますよ。店長さん、早くチップを持ってきてください!」
「チップならばこちらに…」
 片眼鏡の紳士は、ただちにどこからともなく、七色に輝く賭け札を取りだして、ミス・ジキルの両手のひらに積み上げた。
 ルーレットの傍らには、いつのまにか七忌めに染め分けられたフェルトの数字表が置かれていた。
「さぁブライディー、貴女にもチップを貸してあげます。好きなところに賭けてみなさい」
 ミス・ジキルはいっそうニコニコしながら言った。

 まるで小さな花束を受け取るように、うやうやしくチップを受け取ったメイドさんは、それらを、同じく七色に染め分けられたフェルトの数字表の上に、撒き散らすように置いていった。
(こんなにきれいなフェルトに、こんなにキラキラしたチップなのだもの。きっといい目が出て、いいことが起きることが約束されるのに違いないわ)
 花畑の上に花を撒いたみたいな数字表。それと同じく色とりどりのルーレットの数字表。わくわくとした期待感が湧いてきた。
「さぁどうぞ。いつもはディーラーが回すのですが、きょうはどうか特別に、貴女がたお二人がお回しください…」
 片眼鏡の店主はそう言いながら一歩退いた。
「さぁブライディー、早く!」
 ミス・ジキルはまるで幼い女の子みたいに飛び跳ねつつルーレットの取っ手を握った。
「はい」
 ニコニコと残りの取っ手をつかみかけた大きなメイドさんの耳に、ほんのかすかに聞き覚えのある声が響いた。
『回しちゃあだめだ!』
(あら、どなたの声かしら?)
『そのルーレットを回しちゃあいけない。もちろんチップを賭けても…』
「ブライディー、何をぐずぐずしているのです! 早く一緒に回しましょう!」
 ミス・ジキルのの声は責めなじっているようだったが、表情はまだ女神のようだった。
「はい」
 もう片方の取っ手を持ったブライディーは、子爵令嬢と一緒に身体を傾けて体重を乗せて回転盤を回した。たちまち数字と色は混ざり合った。
『ああ、やってしまった! それは決して回してはいけない…けれど回っているのが自然な、それでもそうしないほうがいいルーレットだったのに…』
 メイドさんはハッとして声の主を思い出した。
(…この声は、ときどき「英国心霊研究協会」のお屋敷に来られる、日本からの留学生で魔術師の、安倍様… 安倍様、どうしてこのルーレットを回してはだめなのですか?)
『詳しいことはよく分からない。ただ、このルーレット」は「一見テーブルの上に乗っているルーレットに見えているけれども、実はぼくたちの心の内側の内側、もっとも内側にあるものの一つらしいんだ。だから、たとえ壊したとしても、普通はすぐに新たなものが出来てくるし、封印したとしても、ただ単に蓋をしただけになってしまうものなんだ。
 チップ…賭け札も、それが何なのかはまったく分からない。分かっているのは、そのチップが、「お金なんかにはとても変えることができない、とてもとても大切なもの」だ、ということだけなんだ。だから、当たり続ければいいけれど、もしも外してスッてしまうことがあったら、とても恐ろしいことが起きる、と考えられているんだ』
(まぁ、どうしましょう! わたしもミス・ジキルも大枚のチップを賭けて、回してしまいましたわ!)
 目の前のルーレットは、「カラカラ、カラカラ…」という乾いた骨が擦れ合う音を立てて、ぐるぐると回り続けている。
 ミス・ジキルはるつぼの中を覗き込む錬金術師に似た至福の表情で、渦を眺め続けていた。
『このたびは当たって、賭け札は増えるかもしれない。けれど、外れてスッてしまう可能性も考えれば、方法はただ一つ。そのルーレットが永久に止まらないように、永遠に回し続けることだ!』

「おのれ、黄色い肌の小僧、よけいな、よけいな智恵を!」 虚空から片眼鏡の店主の声がした。「エデンの園にいた蛇」…「外なる悪魔」なのか、それとも「内なる悪魔」なのかは分からない。「…まぁいい。小娘たちにそれができる訳はなかろう… 知ったとしても同じことだ。それよりか貴様、邪魔だぞ!」
 黒い雲が湧き出て渦巻く空に、激しい稲妻と閃光が走り、まがまがしい炎が燃え上がり、煙がもくもくと全天に広がった。
「メイドさん、どうか、どうか頑張って! ぼくはこいつを止めておく!」

 ルーレットは、いままでのどのそれよりも急速にスピードを落として、象牙の球は「カラ…カラ…カラ…」と数字の升目を跨ぎ乗り越えるようにしてねいまにも止まろうとしていた。
 もう一度取っ手を持って回し直そうとしたメイドさんの腕を、ミス・ジキルがハッシと掴んだ。
「ブライディーさん、回し直すのは反則でしてよ!」
 その顔は恐ろしいことに、まだ場違いな笑みをたたえていた。

 運命のルーレットは、終着駅に着いた汽車のように、さらにガクンと速度を落とした。
「カラッ… カラッ… カラッ…」
(止まっちゃダメ! このルーレットは止まるたびに、たいていは回した人、見ていた人、賭けていた人に良くないことが起きているのよ! でも、どうしたら…)
 もう、どうしようもない。ルーレットに近寄ろうとすると、ミス・ジキルに邪魔される…
(どうか神様… どうかルーレットよ、止まらないで! このままずっと、わたしたちの寿命が尽きて天に召されるまで、ずっと回り続けていて!)
 大きなメイドさんは心の中で懸命に「回り続けるもの」のことを思って祈った。
 空気の澄んだ、霧の立ちこめる深い静かな者の中で、ゴットンゴットンと音をたてて回る、苔むした水車小屋の水車のことを…
 お屋敷の柱時計の蓋を開けた時の、ぎっしりと詰まった歯車のこと…
 屋根の上の風見鶏や風速計のこと、ドンキホーテが突撃した遠い遠い国の風車のことを…

 じっと祈り続けているうちに、いまにも止まりそうだった象牙の球が、「カタ…カタ…カタ…」と再び少しずつスピードを増して動き始めた。
 気が付くと、数字の並んだ円盤自体が、まるで馬に鞭を当てた馬車の車輪のように再び速度を上げはじめた。
「あら、おかしいわね。一体どうしたのかしら?」
 ミス・ジキルはキョトンとしたが、あながち気分を害した様子ではなかった。
(回れ! 回れ! このままずっと回り続けていて!)
 祈り続けながらブライディーは、ふとあることを悟った。
(ほとんどの人は、普段、起きている時も眠っている時も、自分の心臓がトクントクンと打ち続けていることなんか気にかけてはいない… このルーレットのようなものも、誰もまったく気にしてはいないのだけれど、誰にでもあるものなんじゃあないかしら? そしてたまたま素晴らしい目に止まった時は、日頃評判がかんばしくない人でも立派な行いをするし、良くない目に止まったら、たとえ非の打ち所のない紳士でも、いわゆる「魔が差して」やってはいけないことをしてしまう…のではないかしら?)
 ルーレットの円盤は、もはやその数字も、塗り分けられた色も分からないくらいの速さで、象牙の球は「カラカラカラカラ…」と小気味良い音を立てて回っていた…

 目が覚めるとブライディーは、ドイルとかかわりのある病院のベッドの上に寝かされていた。
 回りでは、ドイルやデイジーやポピーや、アレイスター・クロウリーや、サダルメリク・アルハザードや、安倍薫や、依頼人のオクタヴィア姫やフィオナ・ウォーターフォードたちが心配そうな顔をして覗き込んでいた。
「おおっ、ブライディー、気が付いたかい? 大丈夫か? 気分は悪くないか?」
 ドイルが堰を切ったように尋ねた。
「はい、大丈夫みたいです」
「よかった…」 みんなはいっせいにホッと溜息をつき、胸をなでおろした。
「ミス・ジキルはどうなりましたか?」
「いつもと変わりないようです」
「クロウリー様たちのお話によると『もう急に豹変したり、メイドたちが幻のルーレットに悩まされることもないだろう』と…」
 オクタヴィア姫とフィオナが静かに述べ、三人の魔導師たちはかすかに頷いた。
「そうですか。頑張った甲斐がありました」 と、その時、どこかで「カラカラカラカラ…」とルーレットが回る音がした。
 ブライディーはもちろん、みんなの顔から血の気が失せた。
「…アハハ、驚かせちゃった? あたし、ついに一度も見ずじまいだったから、友達のご用聞きの男の子におもちゃを借りてきたの」 病室の隅ではデイジーが、手作りのルーレットで遊んでいた。


     (次のお話しに続く…)





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