ブライディー・ザ・マジックメイド
 ショートショート
「ブライディーの初夢」
「魔導師たちの新年会」
「デイジーの初夢」
 それに続いて…
「知る者と知らざる者」


「ブライディーの初夢」

 それは、もう十年近くむかし、ブライディーがダブリンの教会の隣にあった貧救院にいた頃のことだった。
 ちっちゃい女の子は、掃除や洗濯や皿洗いや料理の下ごしらえなどの手伝いをしながら、少しずつ、病気で身体が不自由な、あるいは寝たきりの人々の世話をするように院長先生からお達しが出ていた。
 最初は比較的元気な人、次はもうよくならないかもしれない人、そして大きな女の子たちが力のいる仕事で持ち場を離れられない時は、ごくたまに、召されるのが近い人に、麦わらでお水を飲ませたり、額のタオルを変えたりもしていた。
 両親が病気で亡くなった時のことを思い出すので、ちっちゃなブライディーはその当番が回ってくると、嫌で嫌で仕方がなかった。
 しかしなぜか、そういう人々からはブライディーは慕われていて、いよいよ、という時になると「あの子に看取られたい」という危篤の病人も少なくなかった。そういう人はほとんど皆、まるでもう一度生命のかけらを拾おうとするかのように、干からびた力のない手でブライディーの小さな手を握りながら、あるいはふわふわのリンゴのような赤い頬にもう一度触れようと試みながら召されていった。
「なぜ人は、生き物は、亡くなる時は病気で苦しんで召されるのでしょう?」
 ちっちゃなブライディーが、姉のように慕っていたシスター・セアラに尋ねると、見習いの修道女は目を伏せてこう答えた。
「わたくしも修行が浅いのでよく分かりません。ただ、人もほかの生き物も、その一生のほとんどはしんどく、つらいことの連続なので、最後の試練もそうであることが多いのではないか、と考えています。また、この世に生まれ出てくる時が苦しいので、召される時もそうなのでは、とも…」
 ブライディーは幼かったので、とても納得できなかった。
 そんなある日、またそういう人のお世話の当番が回ってきた。
「息と、胸の鼓動と、脈がなくなったら、儀式を施さねばならないのですぐに呼んでくださいね」
 セアラはそう言い残して、ほかの苦しんでいる人々のところに戻ってしまった。
 壁に掛けられた小さな基督の磔刑図がみおろす「死を待つ人の部屋」ちっちゃなブライディーの前には、亡くなった父を思い出させる、まだ若い男が横たわっていた。骸骨のように頬が落ちくぼんだ男の土色の顔には幾筋もの古い傷があり、神を畏れぬ放蕩無頼な生を送ってきた感じがした。
「やあ… ブライディーちゃん、ブライディーちゃんみたいに可愛い子に見て貰えるなんて、ツイているぜ」
 男は膜が張って濁った目で彼女を見つめようと顔を歪め、骨と皮だけになった手を差し伸べようとしながら言った。
「…ロンドンのどこかに… とあるさびれ、崩れかけた教会がある。その教会の庭には、鐘楼よりも高いイチイの木が立っていて、その下は小さな墓地になっている。その中にただ一つだけ、苔むしたケルトの十字架が立っている。 その下を掘ってみろ…」
 そう言い残し、大きな息を一つ吐くと男はもう再び息をしなくなった。ブライディーが恐る恐る毛布を下げ、肋骨が浮き出た胸にそっと耳を当ててみても、鼓動の音はしなかった。怖々枯れ枝のような手首に触れてみても、脈はなかった。
「セアラさま! シスターさま!」
 ちっちゃなブライディーは叫びながら廊下に飛び出した。バケツを下げた男の子や、汚れ物を抱えた女の子たちが右往左往しながらシスターたちを呼びに散ってくれた。

…それから十年あまり、ブライディーはその時のことはもうすっかり忘れていた。当時はロンドンなんて、一度も行ったことのない遠い外国の、文字通り「夢の都」だったし、自分がアイルランドを離れてメイドとして出稼ぎにでることになるなんて、これっぽっちも思っていなかったからだ。
 新年を迎えて数日後、ドイルの使いで、とある東欧の貴族の屋敷に稀覯書の返却に赴き、無事所用を果たして受取をもらい、辻馬車を拾おうと通りを目指したときのこと、迷路のような路地に迷ってしまった。
 道を尋ねようにも通りがかる人はなく、周囲は人が住んでいる気配のない廃屋敷ばかり。
(こうなったら)と、ポケットからコックリさんの棒を取りだして、ふと何気なく顔を上げると…
 目の前に、大きな大きなイチイの木があり、その梢のあいだには潰れたまま荒れ果てた教会の、蔦にからまった鐘楼がそびえていた。
 その瞬間、メイドさんの脳裏に電光のように、遠い昔、ダブリンの貧救院で、訳の分からないことを言い残して召されたヤクザな男の言葉が鮮やかに甦った。

(あの人が、あの人が言い残したのと同じ光景だわ…)
 壊れたままの門をくぐり、枯れた雑草を踏みしめて、誘われるように中に入ると、果たしてイチイの巨木の下には、その冬なお緑の枝に覆い尽くされるようにして小さな墓地があった。ほとんどは普通の十字架か石板だったが、中に一つ、苔で覆われ、十字の部分を円で囲まれたひときわ古いケルト十字架が立っていた。
 墓碑銘も年代も、分厚い苔で覆い尽くされていて読むことはできなかった。
(…どうしよう? あの人は泥棒か海賊で、この下に盗品か宝物が隠してあるのかしら?
…とにかく一度「心霊研究協会」のお屋敷に帰って、ドイル様たちにご相談しましょう…)
 そう思って踵を返しかけた時、どこからともなく心の中に不思議な声が聞こえた。
『いまここから立ち去れば、この場所は二度とおまえの前に姿を現さないぞ』
 ハッとして墓のほうを振り返っても誰もいなかった。
(でも、勝手に掘り返すなんてよくないことだし、道具もないし…)
『道具ならある。教会の中に…』
(しかし…)
『自ら運を切り開く気はないのか?』
 ブライディーは仕方なく教会の納屋を覗いてみた。蜘蛛の巣と埃だらけの小屋の中には、シャベルやつるはしが置き捨てられたままになっていた。
『それで掘ってみろ』
 メイドさんは舞い上がる埃にむせながら蜘蛛の巣だらけのシャベルを取り上げると、ケルト十字架のところに戻った。
(でも、安らかに眠っておられるのに…)
『そのようなことは余人の測り知れることではない』
 シャベルを振り上げても、なかなか振り下ろす勇気はなかった。
(もしも、ご遺体が埋まっていたら…)
『ならばそれこそねんごろに弔ってやる必要があるのではないか?』
 ブライディーは仕方なくシャベルを苔に突き立てた。
 苔も土も、まるでずっと掘り返してくれる人を待ち続けてくれていたように、柔らかかった。
 一フィート半ほど堀り、そろそろ嫌になってもう止めようとした時、シャベルの先がカチンと固い金属の、小さな箱のようなものに当たった。
 注意深く掘り出して見ると、すっかり錆び付いた、渦巻き模様らしい装飾の付いた昼食用のバスケットくらいの大きさの青銅製の宝箱だった。
 力を込めて開けて見ると、中には、ボロボロに朽ち果ててはいるものの宝石箱のそれような天鵞絨の台…に嵌め込まれた、箱と同じ渦巻き模様の装飾の付いた、編み棒のように先がほんの少しだけ曲がった黄金のコックリさんの棒のようなものが一本入っているだけだった。黄金としては、金貨一枚のほうが価値がありそうだった。
 メイドさんは棒をとりあげてまじまじと見つめたが、何も起こらず、もう声も聞こえてこなかった。
(でもせっかくだから…)
 箱をスカーフに包んで持ち、土を丁寧に埋め戻してシャベルを元に戻すと、イチイの巨木のある朽ち果てた教会を一目散に後にした。

(これって、一体何をするものかしら? 上等のコックリさんの棒かしら? それだったらやはり、占いとかに使うのかしら?)
 通いのデイジーが帰り、相部屋のポピーがスヤスヤと寝入った夜半の「心霊研究協会」屋敷の屋根裏のメイド部屋、ブライディーがまじまじと棒を眺めていると、奇妙なことが起こった。
『ブライディーさん、ブライディーさん…』
 それは確かにいま目の前で寝息をたてて眠っているポピーの声だった。
『…貴女が料理書を見かけるたびに探しているポール・デュ・サリュー・チーズの作り方ですが、わたくし、知っています。どうしてわたくしに一言、尋ねて下さらないのですか?』
「だってまさか、ポピーあなたがそんな細かいことを知っているなんて夢にも思わなかったから」
 思わず答えながらブライディーはハッとした。
(…普通のコックリさんの棒は「探しているもの」しか探すことはできない。この黄金の棒は、「そのことを誰が知っているか、知っているのは誰か」を探すことができる棒ではないかしら?)
 どうやら、まさにその通りのようだった。

「魔導師たちの新年会」

 ロンドンの裏町も裏町、普通の市民であれば昼夜を問わずまず絶対に出入りしない、泥棒強盗掏摸盗賊団故買屋が次に踏むヤマの打ち合わせをする酒場や、ホワイトチャペルよりもいかがわしい行為が売り物の娼窟や阿片窟がひしめき合って立ち並ぶ一角。とあるトランプ遊びの貸し卓屋に、そんな場所には全く似合っていない澄んだ瞳に端正な顔立ちの三人の青年が、カード遊びをするていで手垢にまみれたカードを伏せて適当に並べた、ところどころフェルトの剥げたテーブルを囲んでいた。
 一人は漆黒のフラノの背広に、漆黒のネクタイをウィンザー結びに結んだイギリス人の大学生。一人はアラビアの寛衣に頭布をまとった肌の浅黒い青年。もう一人はキモノの上からとんびマントを羽織った肌の色の黄色い童顔の東洋人の若者だった。
「ブライディーさん、何かすごいものを手に入れたらしいね」
 ケンブリッジ大学の学生、アレイスター・クロウリーがカティ・サークのストレートを手酌でショット・グラスに注ぎながら言った。
「占いの才能の上にそれがあれば、もしかして本人がその気になれば世界を手中に収めることもできるのでは?」
 アラビア人の魔導師、サダルメリク・アルハザードはモカのコーヒーを啜りながら言った。
「そういう訳にはいきませんよ」 日本人陰陽師、安倍薫は持参した五合徳利から黄桜の特級酒を織部焼の猪口に注ぎながら囁いた。
「…いいですか、ギリシア神話のミダス王の例を引くまでもなく、いかに素晴らしい能力といえどもただ私利私欲のために使うと恐ろしい結果を招いてしまうんです。ましてやブライディーさんは神を畏れ敬う敬虔なカトリックの信者です。よほどのことがない限り、その力を使ったりはしませんよ。姉と慕うシスターやドイルさんからもそういうふうに申し渡されているそうですし…」
「もったいない!」 アレイスターは吐き捨てるように言った。「…ぼくにその力があったら、この世で最高の呪文は何かを突き止め、手に入れるのに…」
「『この世で最高の呪文』って何ですか? 一応興味はありますね」
 サダルメリクが口を挟んだ。
「分からない… 『死者の復活』だ、という者はいるが…」
「基督がラザロを甦らせた、あれですか?」
 安倍薫は声を潜めた。
「そうだ。古来、多くの魔導師や錬金術師たちが試み、ことごとく失敗した…」
「フランケンシュタインやブゥードゥー教のジャンビーは?」
 安倍はたたみかけた。
「あんなものは論外だ。そうだろう?」
「ブライディーさんがその気になれば、どうすれば死者を生き返らせるか、もしくはその方法を知る者を突き止められる可能性がある訳ですか?」
「その通りだよ安倍君。君だって陰陽道の最高の奥義を知りたいだろう? サダルメリク君、君だって祖先が極めようとした、封印された邪神を目覚めさせ、意のままに操る術を極めてみたいだろう?」
 アレイスターは血走らせた目を剥いた。
「そんな大層なもの、遠慮しておきますよ」
 安倍は溜息をつきながら言った。
「ぼくもです。『知りたくない』と言えば嘘になるけれど、きっと持て余してしまうでしょう…」
 サダルメリクもかぶりを振った。
「ぼくは知りたい! 死者を復活させられるということは、全ての悲しみから解き放たれる、ということじゃあないか? 自分だって不老不死になれるだろうし、金や権力はいくらでも入ってくるだろうし、自分の気に入らない者は甦らせなければ、それこそ神の如く君臨できるに違いない…」
「さすがにそこまで行くと莫迦げてますよ」 サダルメリクは肩をすくめた。「…野望をかなえるのは大勢の人間の魂だ、という説があります。だから、悪魔は常に人間に戦争とか争いをさせていて、魂を集めているのだ、と… そっちのほうがまだ説得力がありますよ」
「ブライディーさんの力があれば、『神は本当にいるのか?』とか、『悪魔は本当に魂を集めているのか?』などを占えるし、どこの誰がそのことを知っているかを知ることが出来るのではないか?」
 アレイスターは食い下がる。
「悪魔も地獄も、たぶん元々は存在しないんです。生みだし、作り出し、眠っているものを起こしさえしなければ…」
 サダルメリクはまばたきを繰り返して言った。
「まぁ、その力、ブライディーさんに預かってもらっていたら安心なのでは? 仏教の弥勒菩薩、文殊菩薩という位の高い仏たちも、普段は中国のとある山深い寺で掃除などの雑用をしているそうですし…」
 安倍はそう言って銀貨をテーブルの上に置き、五合徳利をとんびマントの肩に背負い、猪口を懐にしまいながら席を立った。


(幕間)「デイジーの初夢」

「ねぇお姉ちゃん、楽にお金儲けをしたくない?」
 新年早々、デイジーが妙に明るく言い出したので、ブライディーは思わず身構えた。
「…アメリカの、エジソン電気会社の株を買わない? 年に数割の値上がりは確実よ!」
「えっ、年に数割!」
「お姉ちゃんもエジソンさんは知っているでしょう? 電話や、蓄音機や、映写機や、電灯を次々に発明して、すっごく儲けている大天才の発明家よ!」
「それはもちろん知っているけれど…」
「だったら、ヘソクリを銀行なんかに預けておくよりも絶対に『買い』よね」
「でも…」
「うまい話には必ず落とし穴があるぞ」
 通りがかったドイルが苦笑いをしながら言った。
「…エジソンは確かに立派な発明家だが、助手のアイデアを横取りして、裁判で訴えられているそうじゃないか?」
「それに…」 珍しくクルックス博士も口をはさんできた。「エジソン君が送電方法として提唱しているのは『直流』なんじゃ。直流では遠くまで電気を送ることはできない。先へ行くほど弱くなってしまうんじゃ。だから、将来の送電方法については必ず『交流』が採用されるだろうと言われておる」
「エジソンさんが… エジソンさんが間違うはずがないもの…」
「デイジー、もう買ってしまったのね?」
 ブライディーが尋ねると、ちっちゃなメイドさんはコックリと頷いた。
「悪いことは言わないから、多少損をしてもいいから、早く売却して現金に戻しておいたら?」
 大きなメイドさんが言うと、その後ろでドイルもクルックス博士も「うんうん」と頷いた。
「五年、十年のスパンで投資するのなら立派な会社だろうが、半年一年の短期決戦をするつもりなら、大火傷するかもしれないよ」
「そ、そんなことはないと思います!」
 ブライディーやドイルたちの心配とは裏腹に、エジソン電気会社の株式はぐんぐんと値上がりを続けた。
 デイジーはお屋敷に届けられる新聞の株式欄を見てニンマリとすることが多くなった。
(皆さんあんなことをおっしゃっていたけれど、大丈夫じゃない!)
 すでに持っている分と値上がりした分を担保にお金を借りて、さらにエジソン電気の株を買い足した。
 お屋敷にある電話にデイジー宛ての電話がちょくちょくかかってくるようになったが、それは何と証券会社からのものだった。
 ちっちゃなメイドさんはポピーやご用聞きに来る少年にも「絶対値上がりを続けるから」と、折れ線グラフなどを示してエジソン電気の株を買うように勧めた。
 エジソン電気はさらに値上がりを続けた。
「ねぇデイジー、投資というものは一社だけに偏って行うのはとても危険なことなんだよ。機関投資家と呼ばれる銀行や保険会社から、相場師や個人投資家まで、みんな必ず分散していろんな業種のたくさんの会社に投資している。そういうふうにして急激な値上がりや値下がりのリスクを防いでいるんだ。これは数学的に見ても、正しく常識的なことなんだよ」
 ドッジソン教授がやんわりと意見しても、デイジーの鼻息は一向に静まらなかった。
「『天才とは、99パーセントの努力と1パーセントの閃きである』…なんて素晴らしい言葉なのかしら。あたしもかくありたいわ…」
 そうこうするうちに次第に、「掃除は丸くしかしない」「料理は雑」「洗濯は夢うつつ」になってきた。
「デイジー、ちょっと…」
 ドイルが珍しく小言を言うと、
(ふん、ドイル様はあたしに投資の才能があるのを妬まれているんだわ)
 と、逆にむくれる始末だった。
(こんなお屋敷、もう少ししたら辞めてやるわ!)
 ところが…
 ドイルやクルックス博士たちが予想した通り、エジソンが助手に訴えられ、合衆国政府が交流を採用しそうな雲行きになってくると、エジソン電気の株の値はどんどん下がり始めて、あっという間に買値を下回ってしまった。
(ど、どうしよう…)
 誘った友達は鬼のような顔でねじ込んで来たが、もはやデイジー本人がそれどころではなかった。

「デイジー! デイジー!」
 休憩時間に屋根裏のメイド部屋で仮眠していたちっちゃなメイドさんが、脂汗を浮かべてうなされているのを見つけたブライディーは、慌てて揺り起こした。
「よ、良かった… 夢だったみたい…」
 目を覚ましたデイジーは、ホッとした表情で言った。
「一体どんな夢を見ていたの?」
…もちろん、答えられるわけはなかった…



「知る者と知らざる者」

「デイジー、新年早々、仕事を怠けちゃだめよ」
 ちっちゃいメイドさんが、卵や野菜や果物や、その他の配達品を包んであった黄色新聞の皺を伸ばして一心不乱に読みふけっているのを見かけた大きなメイドさんは、眉を吊り上げて言った。
「ねぇお姉ちゃん、この話、本当かな?」
 デイジーは紙面から顔を上げずにつぶやいた。
「『本当』って、何が?」
「いや、その… 『結核や梅毒の特効薬は、実は発見されているのだけれど、ごく一部のお金持ちだけが飲むことが出来て、治っている』と書いてあるのだけれど…」
「まぁ、『梅毒』だなんて!」 ブライディーは顔を赤らめた。「…黄色新聞の、それも埋め草に書いてあることなんて、信じちゃあいけないわ。そんな素晴らしいお薬があるのなら、とっくの昔に広まっているわよ」
「でもね… デイジーは唇を尖らせる。「…たとえば調合するのにものすごくお金がかかるお薬だったら、お金持ちしか服用できないでしょう? けどそんなお薬があることが広く世間に知れ渡ってしまったら、病気の身内のために悪いことをしてでもお金を手に入れようとする貧しい人々が増えるかもしれないから、秘密にしてあるんですって!」
「それだったら、有名な貴族や大金持ちで結核で亡くなる人はいないはずなのに、新聞の死亡欄を見たら、そんな高貴なかたがたの中にも若くして結核で召される人も多いでしょう?」
 大きなメイドさんは諭すように言った。
「うん、だからぁ…」 デイジーは引き下がらない。「…この記事によると、『お金のあるなしだけではなくて、たとえばフリーメイソンのような、特別な団体か秘密結社に入っていないと分けて貰えない』と書いてあるのだけれど…」
「まぁ! 『フリーメイソン』だなんて! 会員様たちがいらっしゃるところでは、そういう特別な団体の名前を口に出してはだめよ!」
「分かってるって、お姉ちゃん。でも…」
「さぁさ、早く仕事に戻りましょう!」
「…でもね。もしもよ。お姉ちゃんが時々なくしたものをコックリさんの棒で占って探しているみたいに、そういうことを知っている人を棒で捜せたら、警察に捕まえて問いつめてもらって、お薬の作り方を白状させたら、ドイル様の奥様をはじめ、結核で苦しんでおられる何千人何万人というかたがたを救えるのではないかしら?」
 ブライディーはハッとした。
(…あの、イチイの木がそびえる荒れ果てた教会の墓地で手に入れた黄金のコックリさんの棒があれば、黄色新聞の記事がやっぱり根も葉もない嘘っぱちか、それとも… ということを確かめられるのではないかしら?)
 しかし、口から出た言葉はまったく違うことだった。
「仮にそんなお薬を調合された素晴らしいお医者様がいたとしても、何も悪いことをしていないのに捕まえてどうこうはできないわ」
「大勢の、困り苦しんでいる人を救うことができるのに、それをしないのは罪じゃあないかしら?」
 デイジーの言葉は透明な短剣のように大きなメイドさんの胸に突き刺さった。
(…すると、そういう人がいるかいないか、確かめられる力があるこのわたしが、それをしないで放っておくというのは、やはり同じ罪?)

 夜、くたくたに疲れて屋根裏のメイド部屋のベッドで横になっても、ブライディーはなかなか寝付かれなかった。
 頭の中では、病院や、療養施設や、貧救院のベッドで横たわっている老若男女や子供たち、富める人々貧しい人々が次々に思い浮かんだ。
(あの棒は、こういうことを確かめて、安らかに眠るために、神様がわたくしに下さったものじゃあないかしら?)
 そう思って毛布をめくって跳ね起きると、ベッドの下のスプリングの間に渡すようにして隠してあった編み棒のように先がほんの少しだけ曲がった黄金の棒を手に取った。
 隣のベッドではポピーが、いつものようにすやすやと寝息をたてて眠っている。
(遠い外国ならいざ知らず、このイギリスのこのロンドンに、そんなアトランティスの魔法使いみたいなお医者様がいらっしゃるわけがないじゃない! ちょっと占って、何も起こらなければそれで安心して眠れるし、デイジーにだって断言してあげられるじゃない…)
 メイドさんは寝間着のまま、不思議な渦巻き模様のついた黄金の棒を両手の手のひらにはさんで破風の窓際に立って、ちらちらと街の灯りがまたたきを眺めながら、心を静めて祈った。
(結核の特効薬を密かに発明して、密かに限られた人だけに分けておられるお医者さまが、このロンドンにいらっしゃるのでしょうか?)
 黄金の棒は、まるで生き物のようにくるくると勝手に回って、とある方角を指し示した。
(まぁ! まさか!)
 別の屋根裏の窓でもう一度試しても、棒は同じように動いて、同じ方角を指した。

 一月の最初の公休日、厚手の黒いフードの付いたマントをすっぽりとまとったブライディーは「お芝居を見に行かせて頂きます」と言ってお屋敷を出た。本当は、黄金のコックリさんの棒が指し示す「結核の特効薬を発見した人物」がロンドンのどこに住んでいるどのような人物かを確かめるつもりだった。
(一人じゃあ心細いわ… でもデイジーにこの棒のことを話す訳にはいかないし… ただでさえもデイジーは、宝探しの話には色めき立つし…)
 風は寒く、時おの小雪やみぞれがちらつく中、メイドさんは辻馬車を拾って、マントの前身ごろで隠すようにして棒を見つめて念じ、それが指し示す方向を御者に指図した。
「お嬢さん、これから先は行かないほうがいいですぜ」 御者は手綱を引いて馬車を止めながら言った。「…どうしても行きたければ、屈強な殿方に同行を頼むことですな」
 ブライディーがふと窓の外を見ると、そこは話でしか聞いたことのない、ホワイトチャペルよりもさらに場末の、娼家や阿片窟がひしめきあっている地区の入り口だった。
(こんなところが? まさか?)
 とりあえずお金を払って馬車を降りた。
(そんなすごいお薬を発見されるのは、きっと立派なお医者様でしょう。だったら、お屋敷街か、大学街に家か研究する場所があるはず。それがどうして?)
 しかし、少し考えるうちにハッと思いついたことがあった。
(もしかして、スティーヴンソン先生の「ジキル博士とハイド氏」の、精神が正常ではない科学者だったら、研究する場所は、普通のお屋敷なんかには設けずに、悪の巣窟のようなところを本拠としても不思議ではないわ…)
 メイドさんはためらった。
(…どうしよう。やはりドイル様や、クロウリー様や、サダルメリク君や、安倍さんたちに相談したほうがいいかしら? でもそうすると、この不思議な棒のことを打ち明けなければならないし、そうなると… ああ、こんな時に「お兄ちゃん」がいてくれたら、何も聞かずに一緒について行ってくれるのに…)
 悩みに悩んだ末に、もう少しだけ棒が教える場所に向かって進むことにした。
 安酒に酔いつぶれ、阿片で目がうつろになって階段に倒れているような者たちを横目で伺いながら、棒を握った両手でマントの前をかき合わせるようにしながら、まるで使い走りの魔女のように、堕落した街を駆け抜けた。
 どれくらい時間がたっただろうか、ふと立ち止まると、そこは人通りが少ない廃屋が軒を連ねる一角で、年老いてうらぶれ果てた物乞いが一人、呆れるほど重ね着をして軒の下に座っていた。吹き散る雪が、毛糸の帽子と肩にかすかに積もっている…
 その男の顔は皺と灰色のひげだらけで、目が見えているのかいないのかも分からなかった。
(どうして、こんな人通りの途絶えたところで物乞いをしているのかしら?)
 それがブライディーが最初に思ったことだった。そしてもう一度黄金の棒をマントで隠すようにして見てみると、棒ははっきりとその物乞いの男のほうを指していた。
(まさか!)
 数歩斜めに後じさったり、わざと背中を向けたりしても結果は同じだった。黄金の棒は物乞いの老人のほうを指した。
(…とてもお医者様や学者様には見えない。…でも待って。いまはこんな姿になっているけれど、昔…というか若い頃は立派な先生で、何か失敗かつまずきがあって、いまはこんなふうになられているとしたら…)
 貧救院で育ったブライディーは、そういう人には慣れていた。もしかすると自分もそうなっていたかも知れなかったからだ。
 一ペニー銅貨を二、三枚、老人が前に置いているガラスの器にそっと入れた。ブライディーが入れる前には、お金は一枚も入ってはいなかった。
 そのガラスの器を見て、ハッと驚いた。
 それは間違いなく、ドイルやウォーレス博士が研究に使っているシャーレだった。
 老人は相変わらず生きているのか、死んでいるのかすら分からない… うんと顔を近づけてみて、ひびの入った唇からかすかに白い息が出ているのを見て、はじめて死んではいないことが分かった。
「あの…」
 メイドさんは恐る恐る声をかけた。
(…どうしよう? こんなふうにお辛い姿になっているかたに対して、「あなた様はむかし、立派な先生だったのではありませんか?」などと、とても訊けはしないわ…)
 男からは返事はなかった。
「あの…」
 もう一度、今度はもっとはっきりと声をかけた。
 と、男は突然顔を上げながら目をカッと見開いた。
「なんじゃい?」
 メイドさんはフードとマントの肩に積もった粉雪を散らしながら飛びのいた。
 その声は、理性とか知性にはほど遠い、粗野で乱暴な感じだった。
「あの、あなたは『何かを知っておられるのではないですか?』」
 やにだらけの男の目が、(こいつにしらばっくれるのは無駄なようだな)と言わんばかりに、野獣のようにキラリと輝いた。
「ああ、いかにも知っとるよ。あんたこそ、そのことをよく知っとるな!」

(本当だったんだ! やはり…) メイドさんは黄金のコックリさんの棒をマントの内ポケットに隠してしっかりとボタンを留めた。(でも、慌てちゃあいけない。この人は、結核の特効薬を作り出した人の友人…その人を知っているだけの人かもしれない。…いや、きっとそうよ!)
「何をもぞもぞやっているんだ? どんなに金を出しても、分けたりはしないぞ」 男は、しわがれた聞きづらい声で言った。「…しかしよく分かったな。おまえは魔女か? いや、きっとそうに違いない」
「いえ、違います。わたしはただのメイドです」
「メイド?」 頬にひびを走らせて顔を歪める。「…まあいい。何でもいい。とにかくやらん。さっさと帰れ!」
(この人は「やらない」と言っている。つまり、お薬であれ何であれ、この人が見つけるか考え出したんだ。…偉いお医者さんの友達とか、知り合いとか、そういうのではなくて…) ブライディーは懸命に考えを巡らせた。
(…ここで「分かりました。お邪魔してすみませんでした」などと言って帰ったら、来た意味がないわ。なんとか、そのお薬を分けて頂かないと…)
「おい、聞こえたのか?」 老人はガラリと声を変え、まるでハデスのように威厳を込めて言った。「帰れ! そして二度と来るな!」
「お願いします!」 ブライディーは市民が王族の前でするように、地面に両膝をつき、両手を胸の前で君で懇願した。「どうしたら、何を持ってくれば、何をすれば分けて頂けるのか教えて下さい!」
「まったくの初対面のおまえに対して、そんな義理はないはずだ」
「あの…」
「何だ?」
 男の表情は刻一刻と険しくなる。
「わたくしは占いをやります。いまここで、どうすればあなた様がそれを分けて頂けるのか占ってみたいと思います。よろしいですか?」
「だめだ! 目障りだ!」
「当たると困られるからですか?」
 相手の黄色く濁った目がボゥッと一瞬輝き、唇がさらに歪んだ。
「いいだろう。そこまで言うのならやってみろ!」 老人は懐からところどころ錆び付いたナイフを取りだして、いぼだらけの曲がった手でメイドさんの目の前の地面にグサリと突き刺した。「…ただし、一項目でも間違えたら、そのナイフを喉に突き立てろ。いいな?」
「えっ?」
 ブライディーはナイフに目を落とした。
「どうした? 自信がないのならやめておけ!」
 また、病気で苦しんでいる大勢の人々が脳裏を横切った。
「やります! その代わり、合っているのに『間違っている』と嘘を付かないで下さい」
「…いいだろう。イスカリオテのユダにかけて約束しよう」
 メイドさんはマントの別の内ポケットから愛用の「不思議の国のアリス」のタロット・カードを取りだして慎重に切り、しゃがんで軒下のセメントの地面に並べかけた。ところが、風が強くて、一枚目から手を離すことが出来なかった。
(神様お願いします! どうか五分間だけ風を止めてください!)
 ニューナム女子大で、ゼリューシャたちからほんの少しだけ教わった風を操る術の呪文を心の中で唱えると、不思議なことに風は弱まった。素早くカードを並べて陣を作った。「まず名前だ! わしの名前を当ててみろ!」
 いつもと同じ調子なら、いろんなことが簡単に見えてくるはずだった。だがなぜか、この時ばかりは、絵札の並びがまったく意味を成さず、読み解きもできなかった。メイドさんの目に地面に突き刺された錆びたナイフが写った。
「どうした? だめなのだったらこちらの約束を守ってもらうぞ!」
(…この人はいま「イスカリオテのユダにかけて」と言った。おそらくイエス様を信じている人じゃあないんだ。ユダヤ人でありながらユダヤ人の神エホバを恨んだことのある人だ。ヨブ? それとも鯨に飲み込まれたヨナ?」
「時間切れだぞ。お嬢さん!」
「ヨナ… ヨナス」
 消え入りそうな声でそう言うと、老人の顔は凍り付いたように動かなくなった。
「まさか!」
「あの… どうでしょうか?」
「合っている」
 ヨナス老人は抑揚のない声で認めた。

 メイドさんは「ふぅー」と大きく白い息を吐いた。
(次はどうすればお薬を分けて頂けるか、だわ…)
 もう一度、カードを並べると、こんどはちゃんと読み解けた。
「…ヨナス博士。あなたは立派な医科大学を卒業されたお医者様です。以前は聡明で財産も持っておられた。ところが、人との関係で少しずつつまずかれて、いまこのような境遇に陥られている。だから、結核の特効薬を発見されても、おおやけに発表せず、世間から見捨てられ、病気で苦しんでおられる貧しい人に、無料で分けておられる…」
 ヨナス博士は頬を大きく歪ませた。
「小娘、おまえは魔女か? それともあらかじめわしのことを、大勢の助手を使うなどして徹底的に調べ上げ、からかうためにやってきたのか?」
「いえ、いま占わせて頂きました」
 ブライディーは毅然としてカードをしまいながら言った。
「すると、やはり魔女だな! いかなる事情があろうと、魔女のたぐいには分けてやらないからな!」
 英国心霊研究協会の会員の科学者たちと違って、ヨナスは理論理屈で説明できないものには極めて苦手な様子で、小銭の入ったシャーレもそのままによろよろと立ち上がって廃屋の中に逃げようとした。
 と、そこへ、ぼろぼろのコートをまとい、両手にそれぞれ小さい男の子と女の子の手を引いて、胸にもう一人赤ん坊を抱いた、やせてやつれた若い母親がやってきた。
「先生、有難うございます。お陰様で子供たちもこのように元気になりました」
 母親は、まるで神か大天使を見るような輝く瞳でヨナスを見つめて言った。
「そうか、よかったな」
 ヨナスもいままでの険しい表情とは打って変わった穏やかな微笑みを浮かべて子供たちの頭を撫でた。
「元気になって、本当に良かったな」
 子供たちを眺めるヨナス博士の表情はとても優しく、どこから見ても患者の全快を喜ぶ医者のそれだった。
「先生、どうか召し上がってください」
 母親がバスケットに入ったパイを手渡すと、子供たちも嬉しそうに繰り返した。
「ヨナス先生、どうか召し上がってください」
「有難う。…しかしあまり気を遣わんようにな…」
 何度も振り返り、そのたびに深々と礼をしながら彼らが立ち去ると、ヨナスは錆びたナイフでパイを切り、傍らに置いてあった安酒で流し込んだ。
「どうだ、おまえも食うか?」
 メイドさんは差し出されたパイの一片を恐る恐る食べた。肉も、何も入っていない、一番安い粉を使って、塩と野菜の芯だけが入ったものだったが、不思議においしかった。
(ヨナス先生は、むかし何かとても嫌な目に遭われて、すべての人間を救おうという気持ちを無くされたんだ…)
 ブライディーはそう思った。
 ブライディーが少し、残り全部をヨナス博士が平らげたあと、さすがに人心地がついたのか、博士に僅かずつ、知性の輝きが戻ってきた。
「薬が欲しいのか? 誰か助けたい特別な者がいるのか?」
 ヨナス博士は口の回りについた食べ物を着ぶくれした上着の袖で拭って尋ねた。
「わたしが大変お世話になっているかたの奥様が、結核で療養中なのですが…」
「そうか。だがそいつがもし地位も名誉もある金持ちなら、どこの馬の骨が作ったかもしれない怪しい薬など、おいそれとは飲まないぞ。そうは思わないか?」
 メイドさんは小さく頷いた。
「わしの作った薬を飲んでくれるのは、本当に困って悲しんでいる者だけだ」
「でも、そんな人たちの声なき声を集めたら?」
「難しいな…」 老人は灰色の髪を掻き上げながら言った。「…わしが、いくばくかの金をその者たちに渡して、いいように言わせているのだろう、と思われるかも知れない」
『お薬の効用のあるなしを正式に調べてもらうように申請されたら?』
 言いかけて言葉を飲み込んだ。
「…小娘、おまえの名前は何という?」
「ブライディーと申します」
「よかろう、ブライディー、薬は分けてやろう。ただし条件が二つある。一つ、ここで見聞きしたことは誰にも言ってはならぬ。二つ、おまえのその不思議な力で、どうすればわしの心を変えることが出来るか絶対に占ってはならぬ。どうだ、守れるか?」
「守ります」
 一瞬、間をおいてから答えた。
 ヨナス博士は、もし自分で包んだとしたら驚くほどきれいに、きちんと薬包紙に包まれた薬を数日分、手渡してくれた。
「有難うございます」
 深々と礼をしたメイドさんは、先ほどの親子と同じように、何度も老人のほうを振り返りながら、その路地を後にした。

「英国心霊研究協会」の屋敷の屋根裏のメイド部屋に帰ってから、ブライディーはヨナス博士からもらった薬の薬包紙の包みを一つ開き、まず匂いを嗅いでみた。すると、ほんのかすかにパンに付く青カビのような臭いがした。次に、数匹の金魚が泳いでいる金魚鉢に入れてみたが、金魚は元気に泳ぎ続けた。それからしばらくしてから人差し指の先に唾をつけて、ほんの少しなめってみた。かなり苦かった。
 そして薬包紙の半分を水で飲んでみた。
 半日たっても何も起こらないので、もう半分飲んでみてもどうもならなかった。
(わたしは病気ではないので、何も起こらないんだ…)
 次の公休日、メイドさんは「貧救院の奉仕に行ってきます」と告げてお屋敷をでた。
「休みの日に奉仕活動とは、感心だなぁ…」 ドイルはしみじみと言った。
「『ブリっ子』なだけすよドイル様」 デイジーは眉をひそめた。「…周りの人に『よいこ』だと思われたいからしているだけなんです」
「それにしたって感心なことじゃないか」

 ロンドンの片隅にある小さな小さなカトリックの教会の隣にも、ダブリンのそれほどではないものの、本当に困っていたり、行き倒れた人のための施設があった。メイドさんはその部屋部屋の床をモップで掃除をして回った。結核で咳き込んで血を吐いたりしている患者たちは、一つの部屋に集められていた。
(相部屋にいる人には、あげられないわ)
 そう思って「死を待つ人の部屋」の前に行って、そっと覗いてみた。
 そこには、ちょうどブライディーと同じ年頃の少女が、母親らしい女性の看病を受けていた。
「お母さん、ごめんなさいね。あたし、うんと働いて、お母さんに楽をさせてあげるつもりだったのに… もういいから、うつるから、帰って…」
「何を言うんだい、おまえ。きっと神様が治してくださるよ…」
 母親は前掛けの端で涙を拭った。
「…だって、ここは、この部屋は…」
 壁の高いところからは、十字架の基督が無言で見つめている。
「あの…」
 ブライディーはそっと中に入って話しかけた。
「何か、御用でしょうか?」
「お薬は足りていますか?」
「足りています。しかし、よくならないんです…」
 母親が答えた。
「このお薬を試してみられませんか?」
 ブライディーはヨナス博士にもらった薬を差しだして言った。
「失礼ですが、あなたはどなた様ですか?」
「お母さん、あたし、飲んでみる」 少女が青白い手を伸ばして起き上がろうとした。
「たとえ毒薬だとしても、それで楽になれるのですもの…」
「何を言うんだいおまえ!」
「下さい…そのお薬を下さい…」
 少女は最後の力をふり絞って起きあがった。ブライディーは走り寄って包みを渡すと、彼女は震える手で包みを開き、一気に傍らの水で飲み干した。
「ふぅっ… 何か効くような気がするわ…」 少女は再びベッドに横になりながら言った。
「…一日朝晩二回飲んで下さい。もし効いても、このお薬のことは、誰にも…シスターにも…秘密にしてください」
 ブライディーはそう言って残りの薬を渡すと、逃げ出すように施設を後にした。

 一月の三度目の公休日、ブライディーは再び施設を訪れた。「待つ人の部屋」に行ってみると、そこには一人の老婆がベッドに横になっていた。
(あの子は、やはり召されたのかな…)
 重苦しい気持ちになって、女性ばかりの相部屋の前を通りがかると、なんと、このあいだの少女が、ほかの女性の看護をしていた。
「あっ、あなたは! 有難うございます!」 少女は腰をま二つに折って礼を述べた。
「お疑いして、すみませんでした」
 母親はメイドさんの両手を取って言った。
「あなたは、マリア様の化身です…」
「いえ、そんな…」 ブライディーは思わず手を軽く振りほどいて後じさった。「…あのお薬のことは、誰にも言わないでください!」
「どうしてですか?」 少女が目を見張った。
「あたしたちに授けて下さった奇跡と、同じ奇跡を、どうか皆さんにもお授け下さい!」
「それは…」
「ぜひ…」
 ヒソヒソと話していた声がつい大きくなり、相部屋の女性たちがいっせいに彼女らのほうを見つめた。
「や、約束を守ってくださったら、考えましょう…」
 ブライディーはそう言うと、脱兎のこどく施設から走って出た。

 それからというもの、ブライディーはロンドンの冬の日のような、鬱々とした日々を過ごした。
(…病気で苦しまなくてもいい、死ななくても言い大勢の人々が、いまこのあいだにも苦しみ、召されていっているんだ。ご家族の人が悲しんでいるんだ。…なんとか、ヨナス博士の気持ちを変えさせて、結核の特効薬の調合方法を世間に発表する気になってもらえればいいのだけれど… 博士がなぜそんなにかたくなになってしまったのかは占わない、と約束してしまったし… でも、でも… 大勢の人々を救うためには、幸せになってもらうためには、わたし一人くらいが約束を破って地獄に堕ちても構わないのでは…)
「お姉ちゃん、この頃一体何を考え事をしているの?」
 デイジーが小首をかしげて覗き込んだ。
「ああ、いえ、別に何もないのよ」
「あの『秘密のお薬』って、本当にあるのかなぁ?」
「まだそんなことを言っているの?」 作り笑いを浮かべたものの、大きなメイドさんの心の中は嵐の北海のように荒れ狂っていた。
「…そんなこと思ったところで、誰にもわかりはしないじゃない?」
「そんなことないわよ。少なくとも発見した本人は知っているだろうし、なにかの拍子でそのことを知ってた人だって知っているはずだから」
 デイジーはむくれて言った。ブライディーは胸をしめつけられたような気がした。
(…もしも、もしも万一ドイル様や心霊研究協会の皆様や、デイジーやポピーが結核にかかってしまったら… いや、自分がそうなってしまったら… その時になって、もうヨナス博士が見つからなかったら? いやいや、寒い中、あんな不摂生な生活を続けていたら、ふいに蝋燭が消えるように命終わられることだってあるかも…)
 そう思い始めると、いてもたってもいられなくなってきた。
(たとえどんな罪をおかすことになっても、ヨナス博士の心を変えるしかない! でもおそらく、毎日あの路地に日参して土下座をしても、博士の心はそんなことでは変わらないでしょう。やはり『どうすれば博士の心を変えることができるか』を占うしかないわ…)

 その夜、オリオン輝くしじまの中で、大きなメイドさんは「不思議の国のアリス」のタロット・カードを取りだして、自分の小さな書き物机の上に並べた。ポール・デュ・サリュー・チーズの作り方を丁寧に教えてくれたポピーは、いつものように安らかに眠っている。
(…もしも、もしもヨナス博士が、「物乞いの姿に身をやつした神様だったら、神様との約束を破ったら、永劫の地獄の火に焼かれるだろうけれども… その時は、仕方がない…)
 震える手で占った。結果はあっけないくらいに早く出た。
『ヨナス博士の考えを変えさせる方法はない』
 もう一度やり直しても同じだった。
『ヨナス博士の心は、すっかり壊れてしまっていて、審判の日まで元に戻ることはない』
(こうなったら… こうなったらヨナス博士の心の中の過去を調べそこに赴いて、どうにかするしかないわ…)
 ブライディーは、自分がニューナムの女子大生になりすまして「清浄派」の「完徳者」の試験を受けて失敗し、魂が宙ぶらりんになってしまった時のことに思いを馳せた。
(あの時は、アレイスター・クロウリー様が、わたし愛用のこの『不思議の国のアリス』のカードを通じてわたしの心の中に入り込んで、過去と未来を駆けめぐって何とか助け出してくださった。クロウリー様なら、博士の心の中に入り込んで、過去の心の深手を消し去ることができるかもしれない… だけど、そんな凄い魔法は、わたしなんかにはとても…
 そのような危険なことを、再びクロウリー様に頼むわけにもいかないし、第一、やったところで必ず成功するとも限らない… わたしだって、本当に危ないところだったとお聞きしたし…)
 道は完全に行き詰まった。
(ああ、最初からこんなことなんか占わなければよかった。お墓を掘り起こしてこんな棒なんか手に入れなければよかった…)
 黄金のコックリさんの棒を手にとって、そうしみじみと思った。
『そんなに簡単に諦めるのか?』 またあの時の声がした。やはりこの黄金の棒が話しかけていたのだ。『「アレイスター・クロウリーにできて、自分にできないはずはない」とは思わないのか? 彼も人の子、汝も同じ人の子ではないのか?』
 メイドさんは棒を投げ出すように書き物机の上に置いて目を見張った。

「そんな、とんでもない! アレイスター・クロウリー様はケンブリッジ大学の学生とは言え『黄金の暁』団にも所属して、日夜魔術に関する本を読み、研究をされています。だから、わたくしがニューナムで窮地に陥った時も、助けてくださることができたのです。 占いしかできず、風をちょっと止めたり吹かせたりすることができるくらいでは、到底人の心の中などには…」
 大きなメイドさんは顔を小刻みに横に振りながら言った。
『ヨナス博士の心を変えられれば、老若男女、金持ち、貧乏にかかわりなく、大勢の人間をとその家族を救い幸せにすることができるのだぞ』
「それはそうでしょうけれど、シスターから『召された人が甦えるように祈ってはいけません。不老不死を願ってはなりません。呪術で人の心を変えたいと思ってはだめです』と教えられました。そのことを題材とした紙芝居も、何度も見せて頂いて…」
『愚かなり! シスターや神父の言うことを聞いていて、何の魔法使いぞ。彼らは天上での幸福を願う者ども。我らは地上の幸福、即ち現世の幸福を願う者である。イスカリオテのユダが、なにゆえ基督に失望して裏切ったか知っておろう?」
「ユダは、地上で、みんなが幸せに暮らせるように、イエス様が地上に君臨して幸せにしてくださると思っていたのに、イエス様はそうしては下さらなかったので…」
『汝ら魔法使いは大なり小なり皆ユダの末裔であろう。神を畏れていて何の魔法ぞ!』
「そんな… わたくしは…」
 思わず大きな声を出したせいか、ぐっすり眠っていたはずのポピーが目をしょぼつかせながら目を覚ました。
「…ブライディーさん、まだ起きていらっしゃったんですか?」
「あの… いえ、その…」
 ポピーはそのまま手洗いに立った。ブライディーは棒をベッドのスプリングに渡すようにして隠すと、手早く着替えて毛布に潜り込んだ。

 翌日、冬休み中のアレイスター・クロウリーが、ケンブリッジにもない稀覯書を返却し、新しいのを借りるために「英国心霊研究協会」を訪れた。
「おや、ブライディーさん、少し元気がないようだけれど、風邪でも引いたんですか?」 アレイスターは紅茶を淹れながらも、いつものように微笑まないメイドさんを見て言った。
「…お姉ちゃんは、休みの日に、お芝居みたいな人混みに行くから…」
 デイジーは「毒味」と称してアレイスターに出すお菓子をこっそりつまみ食いしていた。
「あの… 唐突ですけれど… アレイスター様は、神様が禁じていても、自分や自分の身近な人が幸せになるためだったら、魔法を使われますか?」
「愚問だ」
 青年魔術師はその秀麗な眉をピクリとも動かさず言い放った。
「…例えばブライディーさん、きみがぼうっと歩いていて馬車にはねられて死んだとしよう。そしてぼくに『まだ腐敗していない死者を蘇生する術』が使えたとしよう。ぼくはためらわずに君の息を吹きかえらせるだろう」 アレイスターは新しく借りだした古いラテン語の本のページから顔を上げずに答えた。
「もしもアレイスター様が万病に効くお薬を発見されたら?」
 大きなメイドさんは重ねて尋ねた。
「無論、それを使って世界に君臨する」
「そういうお薬の作り方を知っているけれど発表しない人と偶然知り合ったら?」
「そういうのはその時になってみないと分からない」 アレイスターは相変わらず読書に没頭しながら言った。「…『呪術で他人の心を変える』というのは、もしかすると『死者を復活させる』よりも難しくて、神を信じる人々にとっては冒涜的なことなんだ。薬を発見した者がなぜ世間にそのことを発表しないか、それは彼が思うところがあってそうしているだけで、彼の自由だろう」
「けれど、ニューナムではわたしを助け出して下さって…」
「あの時は突然で、自分でも無我夢中だったからね。それに…」
「『それに』?」
「『常世の国』に行ってしまったのが君だったから。もしも赤の他人だったら、たとえ世界を救うためでも引いていたかも」
 ブライディーは顔を赤らめた。
「すると、たとえばアレイスター様が外国を旅されていて、『明日大地震が起きる』と予感されたら?」
「もちろん自分だけ逃げ出すさ。誰にも言わずにね。ぼくには予言の才能はないけれど、預言者の言うことが信じられて、受け入れられた例はほとんどないからね。クルックス博士やウォーレス博士たちのような秀れた科学者でさえ、天気の予想はしても、地震の予報を出したりはされないだろう?」
「このロンドンで天変地異が起きることを予感されたら?」
「家族と、君だけには言うよ、ブライディーさん」
 アレイスターは始めて本から顔を上げ、片目をつむった。

 ブライディーはせっかく買ってきた「看護婦学校の入学試験の問題集」そっちのけで、「魔法の本」を読みあさった。
(看護婦さんになるのも立派なことだろうけれども、いまここでヨナス博士の考えを変えられれば、一気に何千何万という人の病を癒すことができるかもしれないわ)
 しかしそこは急に思い立った者の悲しさ、どのような本をどんなふうに調べていけばよいかも分からず、実践のためにはいかなる修行をしていけばいいのかもさっぱりだった。
(早くしないと、冬はますます寒くなる。あの感じでは、ヨナス博士の身体が多分もたないわ…)
 しかしこればかりはいくら焦っても、どうにもならなかった。
「ブライディーは偉いなぁ、あんなに勉強するなんて…」
 何も知らないドイルをはじめ、「英国心霊研究協会」の会員たちは口々に感心した。
「…もしもお嬢様に生まれていたら、きっとニューナムあたりを立派な成績で卒業していたに違いない」
 しかしデイジーだけはいつものように唇をとがらせ、そっぽを向いてうそぶいた。
「ふん、おおかた問題集の下は占いの本でしょうよ。横着なお姉ちゃんは問題を解くよりも、次回はどういう問題が出るか、せっせと占っているのに違いないわ!」
 で、それは半分以上当たっていた。
(…ヨナス先生、もしも万一身罷られることがあったら、お薬の作り方を書いたメモかノートでも残してくだされればいいのだけれど…」
 それも望み薄だった。
 半ばやけくそになって、自ら「結核の特効薬の調合法」を占ってみたら、
『あまりにも複雑なために占い不能』と出た。
(こんなことで解決したら、誰も苦労はしないし、何千年前にユダヤ王国の滅亡を予言した預言者たちも「滅亡を避ける方法」を占って、歴史はすっかり変わってしまって、旧約聖書も書かれていなかったでしょう…)
 大きなメイドさんの脳裏に、ヨナス博士と、施設でいまも病に苦しんでいる大勢の人々がかわるがわるよぎった。
 知らず知らずのうちに、いらいらが募り、
(ヨナス博士は、「人殺し」よ)
 ふとそんな考えが思い浮かんだ。
(救える方法を知っているにもかかわらず助けないのは「人殺し」よ。目の前に浮き輪があるのに溺れている人に投げてあげないのと一緒じゃない?
 人殺しは大罪で、大罪人との約束なんか守る必要はないのでは?)
 大きなメイドさんはついに、ベッドの下から「黄金のコックリ」さんの棒を取りだして占った。
(ヨナス博士の過去を知る者がいる場所を我に示せ!)

 一月の半ば、ブライディーは珍しく半日休暇を願い出た。
「看護婦学校の雰囲気でも見に行くのかい?」
 ドイルがそう尋ねたので、できるだけ明るく「はい」と答え、最初に学校を見学して、帰りにダブリン以来の幼なじみのケリーが女性写真師として働いている新聞社に立ち寄った。
「ある人の過去を調べたいの。ヨナス博士というお医者様なんだけれど…」
 メイドさんの頼みに、ケリーは索引カードを引っかき回し、古手の記者たちを片っ端から捕まえては尋ねてくれた。
 するととうとう、引退間近の古参の記者の一人が、くわえ煙草で染みだらけの天上を眺めながら思い出してくれた。
「…ヨナス、知っとるよ。四十年近く前、わしが記者になりたての頃、天才と呼ばれ将来を嘱望された精神科の医者じゃった」
「精神科の、ですか?」
「そう。裕福なユダヤ人の名家の跡取りのお坊ちゃんじゃったが、とんでもない薬を二種類作り、その実験に失敗して立ち直れなかった、と聞いている」
「お薬を二種類?」
「一つは誰もが夢見る『過去の心の傷を癒す』薬だった。じゃが、動物で試したところ突然死する副作用があったために、協力を申し出る患者がいなかった。『人間なら大丈夫だ』と信じていたヨナス博士は、もう一つ別に、『過去の、針ほどの嫌な思い出を、棒くらいの大きさに拡大する薬』を調合して自ら服用。最初の薬で元に戻れるかを試した。が、戻れなかったらしい…」
 ブライディーもケリーも開いた口か塞がらなかった。
「すると、自分が蒔いた種子で、ひどい状態に?」
「そう… じゃから、誰からも同情してもらえなかった。本人は『最初の薬が認められれば、大変な人助けになって、自らの名声も揺るぎないものになる』という野心に燃えていたらいが…」

 新聞社を辞去したメイドさんは、途方に暮れていた。
(…ヨナス博士の心が壊れた原因が、自分が作った心の病のためのお薬にあったなんて… これはもしかすると、たとえアレイスター様が操られるような強力な魔法を使って博士の心の中に入り込めたとしても、元に戻すことはできないかもしれない… もっと、もっと手掛かりを集めたいわ。それも早く!)
 一度約束を破ってしまったら、後はなし崩しだった。
「黄金の棒よ。博士がなぜあんなふうになってしまったのか、もっと知りたい。あの記者以外に、博士がつまづいた時のことを知る者があったら、その人の居所を示して!」
 棒は祈りに応えてゆっくりと回転し、ロンドンではカトリックの教会以上に珍しい、とある小さなユダヤ教の教会(シナゴーグ)を指した。

「…未来と、いろんな秘密の物事をかいま見れる眼を持った小娘、何用じゃ?」
 床まで届く白く長い顎髭の律法学者(ラビ)が、白く濁った両目を何とか開けようと試みながら言った。
「ヨナス博士というお医者様のことを覚えておられますか?」
 場数を踏んで少しずつ度胸が付いてきたメイドさんは、それでもやはり時おり床やロウソクの炎が揺らめく七枝燭台の置かれたテーブルのほうに目をそらせながら尋ねた。
「ヨナス… ヨナス… はて? …そうか、思い出したぞ、あの罰当たりの若造のことか!」
「『罰当たり』?」
「そう、遠い遠い昔、一人の若い医者が突然やってきて…いまのおまえのようにな…こう尋ねた。『師よ、わたしはこの世を天国にするためには、過去の大きな悲しみを忘れさせる薬を作ればよいと思うのですが、如何でしょうか?』
『このうつけ者が!』
 わしは一喝し杖で叩いた。
『試練は自分で乗り越えなければならんのじゃ。それを忘れさせてどうする?』と。
『しかし現実に乗り越えられる者は少なく、辛かった出来事の記憶に押し潰されてしまう者が少なくないのです』
 奴はそう口答えをした。ますますもって救い難い大莫迦者じゃ。
(このラビのお爺さんのせいだ!) メイドさんの心の中にふつふつとした怒りが湧いてきた。(このラビのお爺さんが、若きヨナス博士に向かって「おお、おまえの考えはよく分かる。思うとおり存分に研究してみなさい」とか何とか言っていれば、博士は自分自身の身体を使って無茶な人体実験をすることもなく、それなりに研究成果を上げるか、あるいは潔く諦められたはず…)
「こら、そこの夜店の占い小屋の小娘! わしのことを『心の狭い爺い』じゃと思ったであろう! あの時のヨナスと同じように!
 じゃがそれは違うぞ。『過去の心の傷を忘れさせる薬』そんなものを作ってみろ! たとえば我がユダヤ民族の、二千年に及ぶ放浪の歴史を、皆ころりと忘れて、ますます現世の享楽に耽るようになるであろう。先祖や祖父母、両親の恩や苦労もどこへやら、じゃ。 忘れたい記憶は、また失いたくない教訓でもある。天災や戦争の悲劇を消し去ってしまったら、防災の備えや平和への努力を怠ってしまうようになるじゃろう」
「ですが、心が押し潰されるほどの悲しみに沈んでしまった人々には、お薬が必要だと思います」
「酒と同じで、世の中に広く出回れば出回るほど、誰もが簡単に手を出して頼るようになる」
 ラビは、まるでメイドさんのことをヨナス博士の使いか何かだと思い込んでいるみたいに『遠い遠いあの日の怒り』を再現してみせた。
「先生、あまり興奮されてはお身体に触ります。…さあ、貴女ももういいでしょう」
 お付きの、これまたかなりの年寄りの弟子が、ラビをかばうようにあいだに入って、メイドさんに目配せした。
「…これが言わずにはおられるか! あのヨナスはいまどこで何をしておる? まさか数十年の時をへて、また何か別のろくでもない薬を作り出したのではあるまいな?」
(今度は文句なしに、人々の役に立つお薬を作られたんです!)
 言いかけてブライディーは言葉を飲み込んだ。
「…ああいう手合いは、何でも小手先だけでチョイチョイと片付けてしまいたがる。医者というよりは安手の魔法使いじゃ。小娘、おまえも同類じゃ。ここに訪ねてきたところを見ると、何かできるらしいが、預言者気取りでいい気になっていると必ずしっぺ返しに遭うぞ! …偉大なる我が祖先のイザヤやエレミアは…」
 お付きが抱えるようにしてラビを奥へと下がらせた。後に残されたメイドさんは、胸ポケットの黄金の棒にそっと手を当てた。
(何を言われても、もう後には引けないわ…)

 数日後、ブライディーが使いに出ている時、「英国心霊協会」の屋敷では、ドイルがメイドさんたちの勤務表を眺めながら小首をかしげていた。
「どうかなさいましたか、ドイル様?」
 デイジーが灰皿を新しいものに交換しながら覗き込んだ。
「何かご不審な点でも?」
 ポピーも紅茶を淹れながら同じように首を傾けた。
「…いや、ブライディーさんのことなんだけどね。昨年のいまごろここに来て以来、いままでほとんど有給休暇をとっていなかったのに、今年になってから、飛び飛びではあるけれど急に昼からの半休を多く取っているので、どうかしたのかな、と思って… 看護婦学校の受験のためだとしても、奇妙なとりかたをしているようなので…」
「分かりました。それはですね…」 デイジーは心持ち背中をそらせて言った。「…お姉ちゃんはきっと『取り残した年休は繰越できない』と思っているんですよ。それで『余したらもったいない』と考えて…」
「でもデイジーさん、それだったら朝から丸一日取ったほうが休み甲斐があるし、早く消化できるのでは?」
 ポピーが口をはさんだ。
「『昼から半日』というのはお芝居を見に行っているか…」 ドイルは紅茶を一口だけ啜った。「…それとも昼からしか会えない誰かに会いに行っているか、だ。…それも、おそらくは毎回違う相手に。なぜならば、同じ相手と会うのなら、それこそ朝から会ったほうがまとめてじっくりと話し合えるだろうからだ」
「一体誰と誰に…」
「会っておられるのでしょうね?」
 デイジーとポピーは異口同音に言った。
「…もしかしたらブライディーさんは、ここにいる誰にも相談できないような悩み事を抱えてしまったのかもしれない。そこでデイジーにポピー、君たち何か心当たりがないか? …特にポピー、君は相部屋だし…」
 二人のちっちゃいメイドさんたちは互いに顔を見合わせた。
「そう言えば…」 ポピーが両手の指を組んだり放したりしながら切り出した。「…ブライディーさんはこのごろ、夜遅くまで起きておられます。てっきり看護婦学校の入学試験の受験勉強のためだ、と思っていたのですが…」
「他に気になったことはないか? どんな些細なことでもいいんだ」
「夜中、窓辺に立っておられることが増えたような…」
「夜中、窓辺に?」
 ドイルは眉をひそめながらパイプに火を付けた。
「はい」
「それはどういう感じで?」
「遠くを見ておられるような…」
「遠くを?」
「きっとアメリカにいる『お兄ちゃん』のことを思っての恋煩いですよ」
 デイジーが声を大きくして言った。
「それ以外に、変だと思った立ち振る舞いはないかい?」
「あの… 夜中にご自分のベッドの脇にしゃがんでおられたことがあります。わたしはてっきり小銭か小物をベッドの下に転がされたのだと…」
「それだ! 二人ともついてきなさい!」

 屋根裏のメイド部屋、ブライディーのベッドの脇に立ったドイルは、言いにくそうに指図した。
「…我ながら心苦しいのだが、これもブライディーさんのためだ。デイジー、ベッドの下を調べてくれ」
「はいはい、分かりました。お任せください」
 デイジーはもみ手しながら腹這でベッドの下に潜り込んだ。
「…何も置いていませんし、落ちているものもありません…」
「スプリングのほうも見てくれ」
「何も… あっ、何か棒のようなものが引っかけてあります」
「触るな! 引っかけてある場所を覚えてくれ」
「手前から三列目、頭のほうから五列目です」
「直接手で触らないようにそっと取り外してみてくれ。どんなふうに引っかけてあったか覚えてから…」
 ドイルは自分のまっさらのハンカチを渡した。デイジーはそれで棒をつまんで渡した。
 ドイル窓辺の明るいところに持っていってじっくりと見た。
「これは… コックリさんの棒…ダウジングに使う棒だな。…たぶん黄金製だ…」
「えっ、金ですか?」
「ブライディーさんは一体どこでこんなものを…」
 メイドさんたちは息を呑んだ。
「…それもかなり古い、年代物だ…」

 ドイルはハンカチの上に乗せた黄金の棒を窓辺にあるブライディーの勉強机の上に置いて天眼鏡で観察した。
 デイジーもポピーも興味深そうに覗き込んだ。
「…模様か装飾のようなものが彫り刻んであるが、文字のようにも見えるな。…ポピー、写真機を二台、持ってきてくれ。接写のできるやつを頼む。ドッジソン教授が置いておられるものをお借りしよう」
「かしこまりました」
 ポピーはすぐに小さな写真機を二台持ってきた。
 ドイルは棒の横に紙巻き煙草の箱を置いて慎重にピントを合わせ、角度を変えて何枚かを撮影し、写真機を取り替えてさらに写した。
「デイジー、この棒を元あった場所に、元あった通りに戻しておいてくれ」
「はいはい、お任せください!」
 デイジーは今度は仰向けでベッドの下に入って、棒を元通りに差し掛けた。
「二人とも、言うまでもなくこのことはブライディーさんには内緒だぞ。写真をよく調べて何もなければ、それでいいんだから」
 ドイルは珍しく険しい表情で小さなメイドさんたちに申し渡した。デイジーとポピーは生唾をごくりと飲み込みながら大きくうなずいた。

「おーいポピー!」 玄関の電話機の受話器を置いたドイルは、雑誌大の茶封筒をポピーに渡しながら言った。「…すまないがこれをウォーターフォード男爵令嬢のフィオナさんに届けてくれ。いま電話で確かめたんだが、幸運にもニューナム女子大は冬休み中で、ロンドンの上屋敷にいらっしゃるようだ」
「分かりました、ドイル様」
 ポピーは封筒の中身が、さっき写した黄金の棒の写真であると察したけれど、そんなことは口に出さず、エプロン・ドレスの裾を翻して風のように出て行った。

 広い居間の安楽椅子の周辺が、ドイルのパイプの煙でうっすらと靄がかかったようになった頃、玄関の電話のベルがけたたましく鳴った。
「ドイル様、フィオナ・ウォーターフォード様からお電話です」
 デイジーが告げるよりも先に、ドイルが受話器をひったくった。
「フィオナさん、使い立てて申し訳ありません」
『いえ、お安い御用です』
「で、どうでしょう?」
『これはルーン文字ですね。もちろんご存じでしょうが古代の北欧のヴァイキングたちが使っていた文字です』
 電話の向こう、フィオナは顔が見えないのをよいことに、一人の時にしか掛けない小さな鼻眼鏡をかけて写真を眺めながら言った。
「何と彫ってあるのでしょうか?」
『「決して…続けて…使っては…ならない…」というような意味のことが彫ってあると思います』
「えっ、何と?」
 ドイルは電話台の上の鉛筆を握りしめ、メモ帳を引き寄せた。
『「連続使用厳禁」と彫ってあります』
「それはおそらくダウジングの棒ですよね、金鉱とか、宝石などの原石を探すための?」
『だと思います。古代人にとっても金銀銅宝石などの鉱脈がどのあたりに走っているかは大変貴重な情報だったでしょうから…』
「それが続けて使えないのなら、現実問題役に立たないのでは?」
『材質が黄金ということですし、荒れくれ山師たちが使う実用品ではなくて、シャーマンが呪術の儀式のために使ったのでは?』
 フィオナはさらに、誰も見ていないのをよいことに、器用に右手だけで紙巻き煙草をくわえてマッチを擦って火を付けた。
「呪術!」
『儀式…』
「魔法?」
「魔術…」
 ドイルも、フィオナも、そばでコッソリと立ち聞きしていたデイジーやポピーたちも、思わずつぶやいた。
「ブライディーさんはこの注意書きが…ルーン文字が読めますか?」
『いえ、読めないと思います。ゲール語とはまったく違いますから…』
「『続けて』って、一体何回くらい続けてですか?」
『分かりません。とにかく「絶対に続けて使ってはならない」と読めます』

 その頃、ブライディーはヨナス博士の特効薬で「死を待つ人の部屋」から「相部屋の病室」に戻った少女がいる施設を覗いていた。
(お薬が終わってしまって、また悪くなってしまっていたら…)
 しかし、少女はさらに元気になって、看護婦の白いエプロンをかけて総室の女性たちを励ましていた。
(よかった… たったあれだけのお薬ですっかり良くなったみたい!)
 そっと歩み去ろうと廊下の角を曲がったところで、当の少女と鉢合わせしてしまった。
「あっ、あなたは!」 少女はすっかりバラ色になった頬を輝かせて言った。「…本当に有難うございました。ぜひ少しだけお話しを伺わせてください」
「いや、それは…」
「二人だけで話したいんです。十分、いや五分でいいですから…」
 ブライディーは仕方なく案内されるままに、隣の小さな教会の懺悔室の小部屋に入った。
「教えてください! あのお薬は、貴女が作られたものですか?」
 少女は穏やかに訊いてきた。
「いえ、わたしが作ったものではありません」 大きなメイドさんは(これくらいは教えて上げても差し障りはないでしょう)と思って答えた。「…貰ったものなんですけれど、わたしも周りの人もお陰様で健康だったから…」
「どこのどなたに頂いたのですか? …教えて頂けないでしょうけれど…」
「それはちょっと…」
 カチリと小さな音がした。
 扉の外に気配を感じて覗き窓から覗くと、寝間着姿の大勢の結核の患者たちが懺悔室の回りを十重二十重に取り囲んでいた。
「そうおっしゃらず、どうか教えてください!」
「わたしたちだって治りたいんです!」
 患者たちは必死の形相だった。
「…約束を破ったのね!」
 ブライディーは格子の向こうの少女をなじった。
「…でも …でも 言わずにはいられなかったんです。わたしだけが治って、いい目をして… 素晴らしいお薬を持っておられるかたがいて、ここにちょくちょく来られている、というのに…」 少女は顔をくしゃくしゃにして言った。「…教えていただけるまで、ここから出しません!」
「そうだそうだ、誰が出すものか!」
 患者たちは教会の、木製の折りたたみ椅子を持ってきてメイドさんが入っている懺悔室の扉に幾重にも立てかけた。
「ちょっと待ってください! あまりではありませんか?」
「あまりなのはあなたのほうです!」 少女や患者たちは口々になじった。「こんなよい薬のことを黙っているのは大罪だ!」
「助けられるかもしれない人を見殺しにするのは人殺しと同じだ!」
「そんな!」
 三十分、一時間、ブライディーは責められ続けた。責める患者たちの中には気分が悪くなって病室に戻る者もいた。寒さと緊張でブライディーも手洗いに行きたくなってきた。「あの、お手洗いに行かせてください!」
「教えてくれるまではだめよ!」 少女は盗賊団の女首領のような険しい表情で言い放った。「…早く言わないと確認に時間がかかれば、そこでしてもらうから!」
(この人たちは本気だ…)
 そう観念したメイドさんは、ついにあの薄汚い通りとヨナス博士のことを白状してしまった。
「わたしが馬車を捕まえて行ってくるから! 戻ってくるか電報が届くまでは、絶対に出しちゃあだめよ!」
 少女はそう言って飛び出して行った。
 それから小一時間、メイドさんが顔を真っ青にして我慢していると、突然取り囲んでいた患者たちからどよめきが起きた。
「…会えなかったけれど、あの子が言っていることは本当らしい」
「もういいでしょう、出してあげましょう!」
 扉の外に置かれていた折りたたみ椅子が次々と取り払われる気配がした。
 ブライディーは扉を開けると、手洗いに走った。背中に人々のせせら笑いを聞きながら…

 施設からほうほうの体で逃げ出したメイドさんは、辻馬車を捕まえて、あの裏町に向かった。もちろん、もうその場所にはヨナス博士はおらず、少女が腕組みをして立っていた。
「あなたがどうやってヨナス博士と知り合ったかは知らないけれど…」 少女は唇を噛んだ。「…わたしもきっと見つけるわ! あなたが『英国心霊研究協会』のお屋敷で働いているメイドのブライディーさんだ、ということも分かったし、あなたを見張るか、あなたのご主人様に訴える、という手もあるわ」
「そんな… やめてください…」
 薄暗い厳冬の昼下がりでもともと明るくはなかったが、メイドさんの目の前は真っ暗になった。

 逃げ帰ってきたブライディーは、屋根裏のメイド部屋のかんぬきを下ろして、自分のベッドの上にどさりと腰を落として両手で顔を覆った。
(…どうしましょう! あんなに大勢の人にヨナス博士のことが知れ渡ってしまって… もうわたしがヨナス博士に会うことはできないわ。第一ヨナス博士は姿をくらましていることでしょう。もういくら探してもあの街にはいらっしゃらないでしょう… ああそれに、もしもドイル様にご迷惑がかかったら… あの少女、せっかくわたしがあげたお薬で治ったというのに、何という恩知らずなのかしら!)
 情けないやら悲しいやらで、涙がポロポロとこぼれた。
(…そうだ! このピンチを何とか助けてくださるかたがないか、あの棒で占ってみよう!)
 メイドさんはベッドの脇にしゃがんで、スプリングのところに隠してあった棒を取りだした。
 と、その時、何となく誰かが触ったらしいような感触がした。場所はまったくそのまま… けれど、自分以外の誰かが何かしたような感じを、まるで静電気のようにピリピリと受けた。
(誰かが触ったのかな? それとも気のせい? そうだ! それこそこの棒で占ったら一発よ!)
 ブライディーは棒を胸のところに押し当てて念じた。
(もしもわたし以外に、触った人があったら、指し示して!)
 そして忍び足で階下へと降りていった。

 居間では安楽椅子に座ったドイルがデイジーやポピーと世間話をしていた。三人はまだこちらに気づいていない。そこで大きなメイドさんはそっと棒を上に掲げた。
(もしもデイジーやポピーだったら仕方ないわ。デイジーは小銭目当てにベッドの下を莫迦丁寧に掃除する癖があるし、それでなくても出歯亀だし… ポピーなら偶然、ということもあり得るし…)
 予想通り棒は、ふらふらとデイジーとポピーを代わる代わる指しかけた。が、二人のところで留まらず、なんと安楽椅子に座って笑っているドイルをピタリと指して止まった。
(ドイル様が? 屋根裏のメイド部屋のベッドの下を? まさか! 最低! 地位も名誉もあり、奥さんも子供さんもいらっしゃるかたなのよ! その気になれば高級娼婦とおつきあいすることだってできるかたなのよ! そんなかたがしがないメイドのベッドの下を!)
 しかし黄金の棒は、これまで一度も誤った情報をもたらしていないことも思い出した。
(地位や名誉、奥さんや子供さん、そんなものは関係ないわ。男の人の下半身に人格はない、というもの… あの切り裂きジャックの正体は、ヴィクトリア女王陛下のお孫さんのクラレンス公爵様だ、という噂だってあったくらいだもの…)
 そう思うと、いままで押さえに押さえていたものが一気に吹き出した。
(…パリでは淫魔のおとりにされてひどい目に遭わされたし、ネス湖では危うく怪獣の餌にされかけるし、優しくして頂いているようで、そうでないことも… ドイル様も心の奥底では、わたしのことを「どうなっても関係のないただのメイドの一人」としか思っておられないのだわ!)
 胸の高鳴りとは反対に、ブライディーはそおっと屋根裏に上がった。

「おや、ブライディーさん、帰ってきてたんじゃあないか?」 ドイルはドアのほうに首を伸ばして言った。「あの棒の腹に書かれた警告文のことを教えてあげなくてはいけないんじゃあないかな?」
「しかしドイル様、そうしたら無断でベッドの下のことを覗いたことがバレますよ」
 デイジーは眉をしかめた。
「それは仕方ない。警告文のほうが大切じゃあないかな?」
「まだ取り立てて何も起きていないし、もう少し様子を見られては?」

 再び屋根裏のメイド部屋に上がったブライディーは、旅行鞄に肌着を詰めるべく箪笥の抽斗を開けた。気のせいか、そこもドイルが開けて触ったような気がした。
(不潔なご主人様に、お仕えすることはできないわ!)
 買ってもらったりした数着のドレスは置き捨て、机の上の便箋に
「一年間お世話になり、有難うございました。一身上の理由でお暇させて頂きます。ちゃんとご挨拶をせず、申し訳ございません」と走り書きすると、声を押し殺して泣きながら勝手口から走り出た。

 帰ってきたはずのブライディーがなかなか仕事に戻らないのを不審に思ったポピーは、屋根裏のメイド部屋の机の上に残された置き手紙を見つけ、あわてて持って降りた。
「ドイル様、これを!」
 ドイルの表情が見る見る変わった。
「一体どうしたというのだろう? やはりあの棒が原因だろうか?」
「わたしたちが棒を触ったことに気づかれたのでは?」
 ポピーがおろおろしながら言った。
「置き手紙をして自分の意思で勝手に出て行ったのだから、探す必要なんかないですよ」
 デイジーは憮然として言った。。
「そんなわけにはいかないぞ。ブライディーさんはやはり、あの棒にまつわるなんらかのトラブルに巻き込まれたんだ。…正直言ってこれは我々の能力を超える超自然の不思議な事象か、魔術魔法がからんでいると考えてままず間違いないだろう。ポピー、すまないがアレイスター・クロウリー君とサダルメリク・アルハザード君と、安倍薫君に、この事態を説明して手助けを乞う電報を打ってくれ!」
「分かりました、ドイル様」
 ポピーはスカートの裾をつまんで走って出て行った。
「…ブライディーさんがいたら、家出人を捜すことなんか朝飯前なんだが、このたびはそのブライディーさんが行方不明だ…」

 後先を考えずにお屋敷を飛び出したブライディーは、寒風が吹きすさぶテームズ川の岸辺のベンチに一人ポツンと座り、黄金の棒を手に持ってぼんやりと眺めていた。
(…どうしてこんなことになってしまったのかしら? 思い返せばこの棒を手に入れたせいなのかもしれない… もしかして、ドイル様がメイド部屋に入られたのも、この棒に関わることで、かしら?)
 そう思うと、棒に対してふつふつと怒りがわき上がってきた。
(こんなもの! こんなもの…)
 大きなメイドさんは右手を振り上げて、棒をテームズ川に投げ込もうとした。
(…でも、これがあれば、例えば素晴らしいものを見つけたり作り出したりしているのに、世の中に発表しようとしない、偏屈な人を捜し当てたりすることができる。ヨナス博士はもう無理でも、他のそういう人を捜し出したりできるんかもしれない…)

「ブライディーさん家出」の電報に応えて、まずアレイスター・クロウリーが漆黒の丈の短い学生マントを翻らせてお屋敷にやってきた。
「…いや、(おかしいことを訊くなぁ)と思っていたんですよ。確か『たとえ禁呪であっても使わざるを得ない状況に陥ったら試してみられますか?』とか…」
「で、君は何と答えたんだ?」
 ドイルは小さな溜息まじりに尋ねた。
「『もちろん試す』と…」
 ドイルは手のひらで顔を覆った。
「で、他には?」
「もしも『万病に効く薬を作り出せたらどうするか』とか…」
「それには何と?」
「『世界に君臨することを考える』と…」
「他には? 思い出せることは全部言ってくれ」
「『そういう薬を作り出した人と知り合ったけれど、その人が発表する気がなかったら、どうするか?』と。ぼくは『人の心を変えるのは死者を蘇らせるより難しい』と答えました。
「うーむ。ブライディーさんは棒を使って、そんな薬を作りながらも、世間には発表しない人を捜し出したのだろうか?」
 ドイルはさかんに首をかしげた。
 その時、玄関の来客を知らせる鐘が鳴り、ポピーが走っていった。
「サダルメリク君か、安倍薫君かな?」
 だが、走って戻ってきたポピーは
「ドイル様、結核療養院の院長とおっしゃるおかたが、ブライディーさんに会わせてください、と… 『あいにくただいま不在です』と申し上げますと、『ならばここの責任者のドイル様に会わせて欲しい』と…」
「やっぱりそうらしいな… あいにくわたしもいまはそれどころじゃあないんだ。『わたしの不在だ』と申し上げておいてくれ」
「そう申し上げたのですが、『どちらかが帰られるまで待たせて頂く』と…」
 デイジーは肩をすくめた。
 そこへ今度は勝手口の鐘が鳴った。今度はデイジーが走って出て、寛衣姿のサダルメリク少年を招き入れて戻ってきた。アルハザードの末裔は、脇にハトロン紙に包んだ分厚い古い写本を抱えていた。
「ドイルさん、クロウリーさん、お久しぶりです。何か大変なことになっているみたいですね」

 サダルメリク・アルハサード少年は持参した写本の包み紙をていねいに取り去って、しおりのクスノキの押し葉が挟んであるページを開いた。
 そこには、ブライディーのコックリさんの棒とそっくりな、表面に一見装飾ふうにルーン文字が刻まれたコックリさんの棒のイラストが、ほぼ実寸大で描かれていた。
「こ、これは!」
「ベッドの下にあったお姉ちゃんのとそっくり…」
 ドイルとデイジーは目を見張った。
「…頂いた電報に、『ルーン文字で連続使用厳禁と書かれた、黄金製のコックリさんかダウジングの棒』とあったので、ちょっと調べてから来たんですよ。これでも一応ぼくのところは古本屋で…」
 サダルメリクは穏やかに言った。
 ドイルは天眼鏡で、その上から覆い被さって覗くようにしてイラストを見た。「…ベッドの下にあったブライディーさんの黄金の棒とは、書かれている文章が違うような…」
 ドイルは自分が写した写真と念入りに見比べた。
「ああ、その本の挿絵の棒には『使ったことによって起きることの責任は、使った者にある』と刻んであるんですよ」
 サダルメリク少年は、ポピーが淹れてきた珈琲を啜りながら言った。
「素敵だわ、サダルメリク君… あんなにたくさんある本の中からどれに載っていたかすぐ思い出せる上に、フィオナさんみたいに古代文字が読めるなんて…」
 デイジーはぽっと頬を赤らめた。
「これでも一応魔導師ですから…」
「この本の、古いラテン語の説明によると『これはもともと古代のヴァイキングのコックリさんの棒で、おそらくはあと二本の同じような黄金の棒と、それで支える薄い黄金の皿が存在するであろう』と書かれているぞ」
 アレイスターが怒っているような声で言った。
「そのうちの一本がブライディーさんが持っている棒で、あと棒がもう一本と、皿が存在するらしい、というわけだ」
 ドイルは早速イラストを書き写し始めた。「残りの一本の棒にも、何か刻まれているのでしょうか?」
 と、ポピー。
「ええ、おそらくそこに刻まれているのも『警告文』…つまり『使用上の注意』ですよ。ひょっとしたら皿にも…」
 サダルメリクはドイルが写した写真をじっと見つめていた。
 その時、また勝手口の鐘が鳴った。
 ポピーが案内してきたのは「どてら」に山高帽姿の安倍薫だった。
「皆さんお揃いで… ドイルさん、留学の諸手続では大変お世話になって恐縮です」
「安倍君、君も東洋の魔法を操るらしいことは薄々感づいていた。…頼む、みんなと一緒にどうかブライディーさんが出て行った先を突き止めて欲しい!」
「いまうちの式神の…じゃあなかったメイドの比良と伊吹に探させています」
「メイドに? 東洋の魔法を使ったほうが早いんじゃあないのかね?」
「ドイルさん、お焦りになるお気持ちはよく分かりますが…」
 サダルメリクが割って入った。
「ブライディーさんは黄金の不思議な棒を持っている。あの棒を持っていたら、魔法では探せないかもしれない」
 アレイスターがさらに目を血走らせる。
「『棒』って、やっぱりその黄金の棒のことですよね?」 薫はテーブルの上に置かれた写真と開かれた写本に目をやりながら尋ねた。「…それに、玄関につめかけている人々は?」
「安倍君、君は電報をよく読まなかったのか?」
 アレイスターがなじる。
「すみません。そう言えばそんなことが書いてあったような。だからぼくは」
 みんなが寄ってたかって説明した。
「…なるほど。ということは、ブライディーさんが持っている棒以外の、あと二本はあるだろう黄金の棒のうちの、少なくとも一本が手元にあれば、呼び合って探し当てることができる、かもしれない…ということですよね」
 薫は屋敷の台所に預けてあった酒粕をもとにポピーが作ってきた甘酒をすすりながら言った。
「莫迦な! 残り二本の棒がどこにあるかなんてさっぱり分からないと言うのに…」
 アレイスターが拳で机を叩いた。
「間違っていたらごめんなさい。こういうもの…じゃあありませんか?」
 薫がどてらの袖に手を差し入れたかと思うと、ドイルやデイジーやポピーたちがつい数時間前見て触ったのと同じ、黄金のコックリさんの棒を取りだした。
「安倍! どうしてこれを!」 薫の手から棒をひったくったアレイスターは、それをまじまじと見つめた。「『これは人を捜すための棒である』と彫られているぞ…」
「でも残念ながらそれはレプリカなんです。本物は三百年ほど前に日本を訪れたポルトガルの、イエズス会の宣教師が、天草の美少年の魔導師に贈ったものの…」
 しかし一同は薫をまったく無視して、レプリカの棒を代わる代わる奪い合うようにしてブライディーさんの行方を占い始めた。

「とにかく早く探すんだ! デイジーはシスター・セアラが回ってこられる教会や、女友達のケリーのところや、白詰草亭などに電報を打ってくれ!」
 ドイルが切羽詰まった口調で命令した。
「分かりました。…本当に世話の焼けるお姉ちゃんね! 文面は馬車の中で書きますね」
 ちっちゃなメイドさんは、白紙の電報の申込用紙を何枚かを鷲づかみにして、勝手口から飛び出して行った。
「…ポピーは、アメリカ行きの船を出している船会社に電話だ。『ブライディー』の名前で予約を取った者がいたら教えてもらうんだ。偽名を使った場合も考えて、年齢欄に十六〜七〜八歳と記入した一人旅の女の子も教えてもらえ! この屋敷の電話は使うな。電話局へ行ってかけてきてくれ」
「承知しました」
 ポピーは船の時刻表を手にして出て行った。「サダルメリク君は、玄関に押しかけてきている連中から『うちのブライディーが何をして、あなたがたは何のために押しかけて来ているのか?』を聞き出してくれ。そして、それがもし根も葉もない噂などに基づくものだったら、その部分だけ上手に記憶を消し去ってくれないか?」
「心得ました。人数が多いので、多少時間もかかるし難しいとも思いますが、何とかやってみます」
 アラビア人の魔法使いはゆっくりと落ち着いた足取りで玄関に向かった。
「クロウリー君は…」
「言われなくても必ず探し出しますよ。この棒を使ってね!」
 アレイスターは安倍薫が持ってきた二本目の黄金の棒を、ダウジングする時のように両手の手のひらにはさんで胸の前で捧げ持って言った。
「ぼくはこれからロンドン警視庁と有力新聞社に赴いて、ありったけのコネを使って、ロンドンとイギリスじゅうの警官と新聞関係者にブライディーさんを探して貰えるように頼んでくる!」
「ふっ、どちらが早くブライディーさんを見つけることが出来るか競争しましょう、ドイルさん」
 アレイスターが言い終わる前に、ドイルは勝手口から飛び出して行った。
「…さてと、ぼくも出撃するとするか。表にはサダルメリクがいるんだったよな。だったら堂々と玄関から出て行くか」
 アレイスターはこれ見よがしに黄金の棒をふりかざしたまま歩み去った。
「あの… クロウリーさん、ですからそれは…」
 呼び止めようとする安倍薫の声は、少しかすれてしまってアレイスターの耳には入らなかった。
「で、ぼくは何をすればいいんだろう?」 薫は独り言をつぶやいた。「…そうか、電話番だ。電話と来客の番をしていればいいんだ! そのうちにサダルメリク君も待機部隊に加わってくれると思うし…」

 しかしサダルメリクは意外に手間取っていた。押しかけてきた少女と結核療養施設の患者たちの想念が異常に強かったからだ。
「あなた、ブライディーさんの何なのよ!」 少女はアラビア人の少年に食いついた。
「あなたがたこそ、一体何の用なのですか?」
 サダルメリクが軽い催眠術を混ぜて問いかけると、少女と患者たちは次々にわけを話した。(…なるほど… ブライディーさん、かわいそうに… 善意でやったことなのに、逆にえらい目に遭ってしまって… たぶんあの棒のせいだな)
 そして心を静めて術を放つことにした。
「あなたがた、お気持ちは大変よくわかりますが、治ったかたは別にして、そうでないかたがたは施設に入っていなければいけないのでは? それにそのヨナス博士なる人物、ブライディーさんも通りすがりにちょっとだけ知り合って…優しいブライディーさんのことだ、博士に何か親切なことをして、一人分だけ薬を分けてもらったんじゃあないでしょうか?」
「そう言われたらそうかも知れないけれど…」
 少女は玄関の敷石に目を落とした。
「…ブライディーさんはただのメイドです。そのメイドが持っていたものを貰ってよくなったからと言って、『もっとください』といのはちょっと厚かましいのでは? そのお薬、もしかしたら非常に高価なものかもしれないし、仮にヨナス博士が見つかったとして、目玉が飛び出すような高い費用を請求されたらどうされるつもりですか?」
 金銭の話をすると、人々はかなりシュンとなった。
「…ブライディーさんに貰った薬で治った、というあなた。治ったのは薬のせいではなくて、神様の思し召しだとは思いませんか? あなたが『必ず効くんだ』と思って飲んだからこそ、本当に効いて治った、と…」
 相手が一瞬(そう言われたらそうかも知れない)と思った瞬間、サダルメリクの両の瞳が妖しく輝いた。
「あれ? わたしたち、どうしてこんなところにいるのかしら?」
「結核療養所維持運営の寄付金を集めに来られたのですよ」
 魔術師が少なくないお金を封筒に包んで渡すと、少女たちは目配せしあって帰っていった。
(やれやれ。ご先祖様、ぼくの術もまんざらではないでしょう?)
 アルハザードの末裔は肩を下げた。
「ブライディーさんは一体何をやらかしたんですか?」
 部屋に戻ってきた少年に安倍薫が尋ねた。サダルメリクが押しかけてきていた人々の心を読んだ結果を話すと、薫は
「あー、それはあかん…」と手のひらで顔を覆った。
「ダメでしょう?」
 アラビア人の魔導師がさらに肩を落とした。

「それにしてもクロウリーさんはどこへ行ってしまったのかな? ぼく、ちょっと探しに行ってきます」
 サダルメリクは安倍薫にそう告げて、砂漠のつむじ風のように出て行った。
「ま、待ってください。クロウリーさんが持って出た、ぼくのコックリさんの棒はレプリカなんです。だから、それで探そうと思ってもだめだと思うんですけれど…」
 青年陰陽師の忠告は、今度もまた相手には届かなかった。
 とそこへ、彼の式神である比良と伊吹が帰ってきた。比良は百年前のロンドンに合わせてシックなドレスを、伊吹のほうはそういうことにはお構いなく、百年先の日本で起きる「バブル」な時代の、本物のお姫様でも着ないようなゴージャスなドレスをまとっていた。
「…街の隅々、路地という路地ももしらみつぶしに探したのですが、ブライディーさんは見つかりませんでした」
 比良は申し訳なさそうに瞳をうるませた。
「おそらく、『天狗の隠れ蓑』のような、強力な魔法の道具を身につけているんだ」 伊吹はつま先で床を蹴った。「だから、普通に探しても絶対に見つからないだろう」
「…ところでわが主、どうして一人でポツンとしておられるのですか?」
 比良はほぼカラッポになってしまった心霊研究協会の屋敷を見渡して言った。
「それがどうも、ぼんやりしているあいだに、みんなに置いて行かれてしまって…」
「ふん、不義理をやらかして平気な連中のことを、これ以上心配してやることもないだろう。帰ろうぜ」
 伊吹はまた家具を蹴った。
「しかし、留守番がいなくなるし、電話番も…」
「由緒正しい安倍晴明公の子孫が、なにゆえ時も所も遠く離れた異郷の地で、電話番をしなくてはならないのだ?」
 伊吹は主人の首根っこを捕まえて締め上げた。
「く、苦しい… 帰りたかったら君たち先に帰ってくれ。ぼくはもうしばらくここにいててみるよ」
「情けない…」 伊吹が手を離すと、主人は木偶人形のように長椅子に倒れた。「…天才陰陽師の子孫ならば、たとえ相手が強力な西洋の魔法で身を隠していたとしても、西洋人やアラビア人の魔法使いたちに先んじて見つけ出してこそ、日の本の陰陽術を世界に誇ることができるのではないか?」
「そんな大それたことを… 彼らが見つけてくれるのならそれで十分では…」
「おまえには大和魂というものがないのか?」
「そんな大層なもの…」
「いいか、あのアレイスターなんとかという奴よりも、サダルメリクなんとかという奴よりも、おまえが先に見つけ出さなければ、我らの縁もこれまでだからそう思え!」
「別にいいけれど… ぼくは自炊もできるし…」
「いま何と言った? よく聞こえなかった」
「いや… でもやっぱり外は寒いから… 風邪を引いてもつまらないし…」
「何だって? 男だったらもっとハッキリと言え!」
「いや、古来より大将というものは、陣幕な奥でどっかと落ち着き払っているものではないかと…」
 青年陰陽師はしまりなく目尻を下げ、作り笑いを浮かべて言った。
「我等を… そして世間を舐めて、舐めきっているのでは?」
 伊吹の仮面のように塗り重ねた厚化粧の顔からさらに血の気が引いた。
「分かった! 分かりました。行きます! 行けばいいんでしょう?」
 安倍は蹴飛ばされた野良猫のようにスゴスゴと勝手口から出て行った。

 その頃、ブライディーは、風がますます冷たさを増したテームズ川の川岸で、秋から引き揚げられたままの遊覧用のボートや、閉ざされたままの出店をぼんやりと眺めながら、岸辺の、柵のない箇所に歩み出て、揺れる川面を見つめていた。
(お正月、日本の振り袖を着たり、飛行船に乗ったりしていた頃まではとても幸せだったのに… やっぱりこの黄金のコックリさんの棒は貧乏神だったのかしら? 捨ててしまおうかしら… でも…)
 大きなメイドさんは、二、三歩あとじさった。
(あと一回、あと一回だけ占ってみよう! そうよ、わたしをいま、本当に幸せにしてくれる人がいるところを! きっとアメリカを、『お兄ちゃん』がいるところを指してくれると思うわ。そうしたら、もうためらわずにニューヨーク行きの船に乗ろう!)
 メイドさんは、黄金の棒が西のほうを、大西洋を隔てた合衆国の方向を指すことを祈りながら心を静め始めた。

 ところが棒は、今度ばかりはなぜか、狩りの銃声に震える森の小さな動物のように、かすかに揺れ続けるだけで、アメリカのほうも、他のどの方向も指し示してはくれなかった。
(どうして? どうして急に…)
 もう一度、最初からやり直しても同じだった。
(そうだ。きっと寒さでわたしの手が震えているからよ! いくばくかのお金もあることだし、お店でホットワインでも頂いて、占いなおしたら、きっとアメリカの方角を指すのに決まっているわ!)

 一方、安倍薫が持参した二本目の黄金の棒を持って飛び出したアレイスターは、それがレプリカであることを聞いていなかったので、棒がブライディーの行方を指し示さないことに業を煮やしていた。
(なぜだ? なぜぼくがやったら上手く行かないんだ? もしかして、棒は術者を選ぶ…ブライディーさんのような特別な能力を持った者が占わない限り、威力を発揮しないのだろうか?
 しかし例えばこの状況をサダルメリクや安倍に相談に帰ったりしたら、やつらは俺のことを腹の中でせせら笑うに違いない。だから方法は何であれ、必ずやつらに先んじてブライディーさんを見つけ出さなければ…
 そうだ! 怖がらせてしまったらブライディーさんがかわいそうだが、最近覚えたばかりのあの黒魔術を試してみよう!)
 ケンブリッジの学生はちょっとほくそ笑むと、人けのない薄暗い路地の奥に入った。
 そこでポケットに持っていた、魔法の香を焚き、短い呪文を唱えると…
 穴の開いた壁や破れた塀のそこここから大きなドブネズミや、小さな家ネズミたちが一匹、また一匹と現れ始めた。アレイスターがさらに呪文を唱え続けると、ネズミたちの数はさらに増えて、ついにはガサガサガサと地を摺る音をたてながら路地一面を埋め尽くすまでになった。
(こんなこともあろうかと、デイジーさんとポピーさんに頼んで借りてきたんだ。もっとも彼女の衣装箪笥の中は、もうほとんどカラッポだったそうだけれど…)
 彼はそう思いつつ、一枚の刺繍も何も付いていない質素なハンカチをネズミたちに放り投げた。ネズミたちは入れ替わり立ち替わりそのハンカチの匂いをかいだ。
『魔王サタンの名において命じる! その持ち主の人物を捜し出していぶし出してくれ! ロンドンじゅうの仲間たちにも協力を求めてくれ! 以上だ。ただちに散ってくれ!』
 そう念じるとネズミたちの大群は先を争うようにして、まるで潮が引くようにいなくなり、香が終わる頃には一匹も見あたらなくなった。
(やれやれ、「俺の手柄だ」と言い張れないのがはなはだ残念だが、ドイル氏がコネを使って、警察や新聞関係に捜索願を発したのなら、ネズミたちに追われて飛び出してくるメイドさんを、彼らがきっと保護してくれるだろう…)

「心霊研究協会」の屋敷では、捜し疲れてへとへとになって、いったん帰ってきたサダルメリクと安倍が所在なげにぼんやりとしていた。
「何か、ぼくら、暇ですね…」
 日本の陰陽師はポツリと言った。
「日本の魔術師のかた、何か凄い術を使ってくださいよ」
「砂漠の神秘の国アラビアの魔術師のかた、どうかおたくからお先に…」
「そうですか… 偉大なる先祖のアブドゥル・アルハザードだったら、たとえ相手が強力な『隠れ蓑』アイテムを持っていたとしても、そんなことはなんのその、一発で探し出してみせると思うのですが、ぼくには… まぁしかし、世界に誇るアラビアの魔法の名誉にかけて…」
 サダルメリクが指をパチリと鳴らすと、目の前に忽然と小さな枕が現れた。
「これは?」
「ブライディーさんがずっと使っている枕ですよ。取りに行くのが面倒だったもので…」 アラビア人の少年はテーブルの上に置いた枕の回りに丸やら三角やら四角やらを組み合わせた独特の魔法陣を描き、アラビア語で呪文を唱えた。
「どうなるんですか?」
「ブライディーさんが今晩、宿のベッドで眠りに就くと、『みんながとても心配している』旨の夢を見ると思います」
「それはいいじゃあありませんか!」
 安倍は顔を輝かせた。
「だといいのですが、例の黄金の棒が邪魔をするか干渉するかして、こちらの思いが正確に伝わらない可能性がありますね」
「と言うと?」
「…いや、まぁ、大丈夫でしょう。多少ジャミングが入ってもブライディーさんはきっとぼくらのことを思い出してくれると思いますよ」

 ロンドンに冬の、夜のとばりが降りはじめ、急に冷え込んできた頃、ブライディーはちっちゃい頃に暮らしたことのあるダブリンの貧しい裏通りに似た、ロンドンの裏町の安宿の食堂で、夕食代わりの安ポートワインをちびちびと啜り続けていた。
(…ヨナス博士は人でなしよ! あの、お薬をあげた少女も、命を助けてあげたというのに、あの態度は何よ! それに何よりも許せないのはドイル様! 何が「ベストセラーの推理作家」よ。そこらによくいる助平な変態オヤジじゃないの! いままで尊敬していたのに、本当にだまされたわ。
 ロンドンにはろくな人がいない。よく分かったわ。わたしは絶対アメリカに渡ってやるわ。指輪を贈ってくれた小荷物のリターン・アドレスの町まで行って、この黄金のコックリさんの棒を使って「お兄ちゃん」のいる場所を探し当てて結婚するのよ!
 その前に、ドイル様が警察のコネを頼って、わたしを「家出人・行方不明者」として届け出ていたら困るから、またこの棒で「こっそりとニューヨーク行きの船に乗せてくれる人」を探し出して頼まなければ…)
 ワインとはいえ、慣れない酒をがぶがぶ飲んで、頭がボーッとしてきた。
「もっと、もっとお酒を持ってきて!」
「お嬢さん、それ以上は身体に毒だよ。今夜はそれくらいにして、部屋で横になったらどうだい?」
 宿のおかみさんが自分の娘のことのように心配して眉をひそめた。
「わたしが、しがないメイドをして頂いたわたしのお給金で飲んでどこが悪いのよ、えっ?」
 からのコップをテーブルに叩きつけながら怖い目つきでおかみさんを睨みつける。
「あなたのことを思って言ってあげているのよ」
「うるさいわね。わたしはもうこのロンドンには愛想が尽きたのよ」
「ロンドンに愛想を尽かしても、自分に愛想を尽かしてはいけないわ」
「わたしはね、わたしには占いの才能があるのよ! その気になれば、競馬でも株でも片っ端から当てて、アッという間に億万長者にもなれるの!」
「はいはい。よく分かりました。とにかく今夜はもうお休みなさい」
 おかみさんとその亭主は、ぐでんぐでんに酔っぱらってしまったメイドさんの両肩を支えて、苦労して二階にひっぱり上げた。
「ふん、ただの木賃宿のおかみのくせに、偉そうに人に説教垂れて…」
 そのあいだもブライディーはくだを巻き続けた。
(何よ! 寄ってたかってみんなでわたしをバカにして! もう我慢できないわ。 この黄金のコックリさんの棒さえあれば、一緒に組んでどんどんお金儲けができる人なんか、いくらでも見つけられるんだから!)
 服のままベッドに薄っぺらい毛布をかけられて寝かされたブライディーが、霞のかかった目で漆喰の剥げ、ところどころしみの浮き上がった壁を眺めながらその下のほうにある拳くらいの穴から、灰色のネズミが顔を出し、床の上を走り回った。
(…ネズミなんか怖くないわよ! 貧救院にもいっぱいいたんだから…)
 同じ穴からもう一匹別のネズミが顔を覗かせ、壁の床つたいに動いた。
(…一匹でも二匹でも同じことよ…)
 さらにもう数匹、ちっちゃい子ネズミや親ネズミが現れた。
(…この宿、ネズミがいっぱいいるじゃない! 明日の朝、宿賃を半分取り返してやる!)
 だんだんまぶたが重くなり、眠りに落ちた。

 夢うつつの中でメイドさんは、宿の枕の違和感に辟易していた。
(…いまさらながら、枕も持って出ればよかったわ… でも、さすがに枕まで持ち歩くというのは…)
 その、あまり寝心地のよくない宿の枕の下では、ハンカチに包んで隠した例の黄金のコックリさんの棒が、まるで大きなミミズか、小さな蛇のように、ほんのかすかに、かすかに身をくねらせ始めた。
『てれぱしーガ、送ラレテ来テイルヨウダ。…ナニナニ「ぶらいでぃーサン、ミンナ君ノコトヲ心カラ心配シテイル。早ク帰ッテ来テ」ダト? 洒落臭イ! 邪魔ヲシテ、正反対ノ内容ニ変エテヤロウ…』

 ブライディーは夢を見ていた。そこは「英国心霊研究協会」の居間で、彼女の親しい者たちが険しい表情で語り合っていた。

「…わたしたちがこんなによくしてやったのに、ブライディーは恩知らずなやつだ」
 ドイルはパイプの灰を灰皿にたたき出しながら言った。(注、ふつうパイプの掃除は人前でしてはいけないというのがエチケット)

(ふん、何よ! そっちこそこっそりとメイドの部屋を覗き回る恥知らずの癖に…)

「やっぱりアイルランド人は心のどこかでイギリスに恨みを持っているんですよドイル様」 デイジーが言った。「…今度新しくメイドを雇う時には、イギリス人にしましょうね!」

(ちっちゃいのにがめついデイジー。わたしがいなくなったら、さぞかしお屋敷の蝋燭とか花紙をどんどん家に持って帰ると思うわ…)

「ブライディーさんが出て行く時の駄賃にお屋敷の備品をくすねて持ち逃げしていないか、わたくし、確かめて参りますわ!」
 ポピーはそう言いながら部屋から出て行った。

(まぁ、ポピーまで! 優しくて大人しい子だと思っていたのに、案の定皮をかぶっていたのね!)

 そこへ、フィオナ・ウォーターフォード男爵令嬢がやってきた。
「…ブライディーはどこかうさん臭いところがありましたわ。わたくし、早く暇を出して正解でしたわ。それをドイル様が仏心で拾い上げたりなさるから…」

(フィオナ様のわからず屋! わたしが黙っていたら、あのままずっとインチキ霊媒師にお金をたくさんだまし取られ続けているところだったのに! 行かず後家のまま、ウォーターフォード男爵家なんか断絶してしまえばいいんだわ!)

 ダブリンの貧救院の頃に世話になったシスター・セアラも加わった。
「…ご迷惑をおかけして本当に申し訳ございません…」

(セアラ様、何を謝っておられるのですか?
 悪いのはみんなあの人たちのほうなのですよ!)

「…例え理由がなんであれ…」 セアラは続けた。「ブライディーが皆様に不愉快な思いをさせたことは事実で、このことを皆様が何かの機会にどこかで語られるにつけて、またアイルランド人全体の評判が落ちることは疑いありません。アイルランド人の多くは、イギリスのかたに雇って頂かなくては立ち行かないというのに、あの子は何と言うことをしてくれたのでしょう! もしもわたくしが見つけたなら、マグダレン女子修道院に閉じこめて、一生出てこれないようにしたいと思います…)

(…セアラ様だけは、何があってもわたしの味方をして下さると思っていたのに…) メイドさんは眠りながら涙をこぼした。(そんなふうに保身して、小ぎれいなヴァチカンの宮殿詰めになられたのに違いないわ… わたしや、貧救院のみんなを見捨てて! セアラ様も心の底ではきっと、病気で薄汚くて貧乏な者を嫌っているのでしょう…)

 さらに、アメリカで働いているはずの「お兄ちゃん」までが現れた。
「…やれやれ、つきまとわれてうっとうしかったからアメリカへ渡ったんだけれど、いつ大西洋を渡って追いかけてこないかヒヤヒヤし続けていたんだ」

(「お兄ちゃん」まで!) ブライディーは目の前が真っ暗になった。(わたしのことをそんなふうに思っていたなんて、信じられない!)

「ちょっと待ってよ…」 デイジーが肩を片方だけ怒らせながらしゃしゃり出た。「あなた安心しているけれど、お姉ちゃんはいまからあなたのところへ行こうと思って、船の切符を買ってるところかも知れなくってよ」
「おっと、そいつはヤバいぜ!」 「お兄ちゃん」は大げさに背中をそらせた。「あのベタベタの腐れメイドがやってくる前に、西部に行くことにするか」

 暗闇の中、ブライディーはまっ青になって目を覚ました。
(…夢? …よかった… でも、もしも本当だったら… 本当にみんながわたしのことをあんなふうに思っていたら…)
 暖房はなく頭はズキズキと痛み、胸はむかむかして背筋に悪寒が走った。
(バカね…そんなはずはない… そんなはずがないじゃないの!)
 ふと気が付くと、「チュチュチュチュ…」という音とともに、狭い部屋の床一面をがさぞそがさごそと無数の何かが這い回る音がした。
(ネズミ? まさか! いくら何でもこんなにたくさん…)
 ベッドから身体を起こそうとしたメイドさんは、頭がずきずきしてがくんと肘をついた。
それでも何とか起きあがって、靴を探そうとした裸足の足の先が、毛むくじゃらの、たくさんの動き回る生き物に触れた。
「ヒャーッ!」
 メイドさんは慌てて足を引っ込めた。そして、ベッドの脇の小さなみすぼらしい机の上にあったはずのマッチ箱を手探りで探し出して、燭台の蝋燭に火を付けようとした。
 シュッと摺られたマッチの火が照らし出したものは…
 床一面、壁のそこここ、ドアの戸板にも這い回る無数のネズミだった。
「キャーッ!」
 メイドさんはすくみ上がった。冷静に考えればこれだけたくさんいるネズミたちが、どうしてベッドの上にだけは這い上がってこないのか不思議に思えるはずだったが、とてもそんな余裕はなかった。
「た、た、助けて!」
「どうしたんですか、お客さん! 何かあったんですか?」
 宿の亭主やおかみさんたちがドアをドンドンと叩く音が響いたが、ドアとその周辺一面にへばりついたネズミたちが、かんぬきを壊して開かれるのを阻止していた。
「助けて! 助けて! 助けて!」
 ブライディーは叫び続けながらガクガクと震える手で再びマッチを擦ろうとした。何度も失敗したのちに、ようやくランプに灯を灯すことができたものの、はっきりと映し出された光景は、さらに恐ろしいものだった。
 魔女狩りで捕まった娘たちが、異端審問に引き出されるまでに入れておかれるような、ネズミだらけのあなぐら…よりももっとひどい、状況だった。
 あまりの恐怖にメイドさんは手にしていたランプを床に落とした。ランプはガシャーンと音を立てて砕け散り、火の手が上がったかと思うと、たちまちのうちに燃え広がった。
そのせいでネズミたちはたじろいだ。
 メイドさんは無我夢中で、炎を楯にするようにして立ち上がると、ドアへの方向はまだネズミで埋め尽くされていたので、こけつまろびつしながらガラス窓のほうに向かって逃げ出した。
 古くなって建て付けが悪くなっていた窓はなかなか開かなかった。そこでメイドさんは近くにあった椅子でガシャーンと窓を叩き割った。たちまち冷たい北風が吹き込んで、炎が一層勢いを増した。いったんはひるんだネズミたちも、じりっじりっと迫ってきた。
「嫌よ! 嫌よ! こんなところでこんな死にかたをするなんて!」
 ブライディーは頭から窓をくぐろうとした。 割れ残ったガラスが、手足を切り裂いた。 やっとの思いで窓の桟の上にしがみつくと、異常に気が付いた近所の人々や通行人たちが心配そうな顔でこちらを見上げているのが見えた。火事を知らせる鐘の音が響き渡り、メイドさんはチラリと振り返った部屋がごうごうと燃えているのを見て桟の上にヘナヘナと崩れるように倒れた。

 いっぽう、寒風をものともせずに、ロンドン塔のてっぺんでネズミたちから届くであろう報告に耳をそばだてていたアレイスターは、とある裏町の一角から異様な気配が発せられるのと同時に火の手が上がったのを見て取った。
「あそこか!」
 黒い大きなマントで身体を包んだかと思うと、彼はフッと姿を消した。

 同じ気配はやがて「英国心霊協会」の屋敷にも届いた。ドイルやデイジーやポピーが服を着たまま暖炉の前の椅子でこっくりこっくりと居眠りをする中、サダルメリク・アルハザードと安倍薫は、互いに大きく目配せをし合った。サダルメリクは無言のまま席を立ち、そのままフッとかき消えた。安倍はデイジーたちが目を覚まさないようにそっとドイルを揺り起こした。
「どうした、見つかったのか?」
 ドイルは囁くように尋ねた。
「はい。これから二人で行きましょう。サダルメリクさんが先に向かってます」

 安宿の火の勢いは次第に大きくなり、メイドさんがしがみついている窓の外の桟にまで炎の舌が伸び始めた。ポンプを乗せた消防馬車や、警察の馬車がやってきた。
「窓のところに女の子がいるぞ!」
「早く大きな網かテントの布地を持ってこい!」
「あの女の子、ドイル氏から家出人捜索願いが出ている子にソックリだぞ!」
 警官の中で目のいい者がドイルの名前を出したので、メイドさんはますますすくみ上がった。
 それで、せっかく数人の屈強な男たちによって大きなキャンバスが広げられても、なかなか飛び降りることができなかった。
「どうした! 早く飛び降りろ!」
「もうじきに二階が焼け落ちるぞ!」
 炎はメイドさんのドレスにも燃え移りかかり、髪の毛が焦げはじめた。
(もういいわ… わたしなんかどうなっても… 地獄に堕ちても仕方ないわ…)
 ブライディーはその場にうずくまった。
「あの子が悪いんだ。仕方ない、諦めよう!」
「崩れるぞ! 逃げろ!」
 キャンバスを放り捨てて、男たちも逃げ出した。
 遠巻きに見守っていた野次馬たちも、潮が引くようにそこからさらに数歩退いた。
「かわいそうに、もうだめだろう…」
 見守っていた人々のうち、女性は手のひらで顔を覆い、信心深い者は十字を切った。
 ごうごうと燃えさかる建物がめきめきと音を立てて倒壊し始めたちょうどその時、一人の黒い影がメイドさんの身体を抱き上げて、素早く消え去った。

 メイドさんが恐る恐る目を開くと、そこは天国でも地獄でもなく、安全な物陰で、目の前にはアレイスターがいた。
「何も言わないで。ぼくが悪かった。謝るよ。…宿屋のほかの客や亭主やおかみさんは皆逃げ出して無事だ。あとはドイルさんが上手く話をつけてくれるだろう…」
「しかしドイル様は…」
「ドイル様のことを悪く言っちゃあいけないよ。みんな君のためを思ってしたことなんだ。それはぼくが保証するよ…」
「大変! あそこにあの棒と、わたしの荷物が…」
 振りほどいて再び火の手が上がっている場所に向かいかけたメイドさんをアレイスターは取り押さえた。
「戻ってはだめだ。あの棒が諸悪の根元だったんだ!」
「嘘よ! そんなはずはないわ! あの棒があれば…」
 ブライディーは泣いた。
 とそこに、ドイルが息を切らせながらやってきた。
「ブライディー… よかった…」
 彼は用意していたガーゼで、彼女の傷口を押さえながら言った。
「ドイル様…」
「確かにぼくは君の部屋を触った。謝るよ…」
「ドイル様!」
 メイドさんは主人の胸へと飛び込んだ。

 その頃、サダルメリク・アルハザードは燃えさかる炎の中を、あたりを見渡しながら歩いていた。
(…おかしいな。さして大きくない宿屋だというのに、あの棒はどこにもない。黄金の棒だから溶けてしまったのだろうか? いいや、そんなはずはない。ということは、すでに何者かに先を越されてしまったのだろうか? そっちのほうがあり得るな。もしもあの棒が誰か悪の魔法使いの手に渡ったとなると、大変なことになるぞ…)
 どおっと梁が落ちてくるのを念力で弾き飛ばしながらなおも粘って探し続けたものの、やはり見つけ出すことはできなかった。
 そうこうするうちに、急にばらばらと激しい雨粒が落ちてきた。消防隊の放水にもなかなか火勢が衰えなかった炎も、次第に小さくなり始めた。
(残念だが、時間切れか…)
 降りしきる雨すだれの向こうに人々の影がぼんやりと見え始めると、アラビアの魔導師はフッと姿を消した。

 サダルメリクはドイルとブライディー、それにアレイスターがいる場所に合流した。
「クロウリーさん、サダルメリク君、お願いです! 魔法を使って焼け跡からこれくらいの長さの黄金の棒を探し出して来て下さい!」
 メイドさんは寛衣の胸にすがりついた。
「そう頼まれると思って、一所懸命探してきたんですけれど…」
 少年は肩を落とした。
 とそこへ、安倍薫もやってきた。
「安倍! 一体何をしていたんだ!」
 アレイスターがなじった。
「す、すいません…」
 安倍は頭を掻くだけだったが、サダルメリクは雨が降ったのが火事場一帯だけだったことに気が付いた。

 ブライディーは元の「英国心霊研究協会」のお屋敷に戻った。
 ドイルをはじめとするみんなは口々に「きみは悪くないよ。すべてはあの黄金のコックリさんの棒のせいだったんだ」と慰めてくれた。デイジーとポピーは、火事で焼け落ちた大きなメイドさんの身の回りの品々を買い揃えて、もとあった場所にきっちりとしまってくれた。けれどもブライディーは、まるで見せ物小屋の自動人形のように、黙々と仕事をこなすだけで、口数はめっきりと減り、微笑みは消え、誰かが面白いことを言ってもほとんど笑わなくなってしまった。
「お姉ちゃん、よほどショックだったのね」 デイジーは両手を組んで首をかしげ、溜息をついて言った。
「無理もないですわ。火事で焼け落ちた宿屋は、ドイル様が裏から手を回して、全部示談に収めて、新築するためのお金を弁償されたらしいんですもの…」
 ポピーは口元に手のひらを当てて囁いた。
「やれやれ、いったいいくらの金額になったことやら… あたしたちへの心付けが削られたりしなければいいんだけれど…」
 デイジーも出るのは溜息だけだった。

 ある寒い冬の朝、大きなメイドさんが勝手口の回りを箒で掃いていると、うらぶれ果てた年寄りの物乞いが通りがかった。
「メイドさん、どうかお恵みを…」
 その物乞いの姿と声、そしてそっと差し出されたシャーレは、はっきりと見覚えがあった。
(ヨナス博士…)
 ブライディーはうろたえ、思わずエプロン・ドレスのポケットから数枚の銅貨を取りだしてシャーレの中に入れた。
「お恵み有難うございました。貴女に神様の祝福がありますように…」
 物乞いはそう言って、くるりと踵を返し、トボトボと足をひきずるようにして歩み去りかけた。
「待ってください!」
「辛い思いをしたようじゃな… わしなんぞを無理矢理に探し出して見つけたりするからじゃ」
 ヨナスは背を向けたまま言った。
「…お願いします! あなたが若い頃に作られたという『心の傷…嫌な思い出だけを消し去るという薬を、ぜひ譲ってください!」
「やれやれ、まだ懲りとらんようじゃな。どうしてそんなにモノや薬、そして命にこだわって頼る?」
 振り返った博士の、濁った瞳は濁ったままらんらんと輝き、深い皺が刻まれた顔は赤鬼のように上気していた。
「便利なモノや、良いお薬は人間を幸せにすると思います! 馬車はとても便利な乗り物ですし…」
「で、メイドさん、あなたはいま幸せか?」
「それは…」
 メイドさんは伏せていた顔をますますうつむかせた。
「どうした、真面目にこつこつ働いておるのなら、時々は辻馬車に乗って芝居見物に行けるくらいの給金はもらっておるじゃろう」
「…それが… ご主人様に莫大な金額を立て替えて頂いていて… 請求されないのです…」
「では、ご主人がおぬしにその莫大な金額とやらを請求したら、幸せになれるのか?」
「それは…」
「見たところ健康そうじゃし、いまのところどんな薬も飲む必要はなかろう。…さらばじゃ、今度こそもう二度と会うこともなかろう…」 ヨナス博士は、見知らぬ街に捨てられて彷徨う野良犬のように、背中を大きく丸めて角を曲がって消えた。
(待って下さい、ヨナス博士!)
 メイドさんは叫ぼうとしたが声は出ず、追いかけようとしたが足は凍り付いてしまったかのように動かなかった。

     (次のエピソードに続く)



 友達が「後半ちょっと、登場人物も増えてドタバタに流れる」と言って、ぼくも「それはもっともかもしれない」と思うので、次回からスペアとして考えていた二番目のエンディングをやらせもらいますね。

。

 お話を…
 ブライディーさんが結核の患者さんたちによって教会の懺悔室に閉じこめられ、ヨナス博士のことを白状させられて、「英国心霊協会」のお屋敷に逃げ帰ってきたところ
…に戻します…


「英国心霊協会」のお屋敷に逃げて帰ってきたブライディーは、屋根裏のメイド部屋のかんぬきを下ろして、自分のベッドの上にどさりと腰を落として両手で顔を覆った。
(…どうしましょう! あんなに大勢の人にヨナス博士のことが知れ渡ってしまって… もうわたしがヨナス博士に会うことはできないわ。第一ヨナス博士は姿をくらましていることでしょう。もういくら探してもあの街にはいらっしゃらないでしょう… ああそれに、もしもドイル様にご迷惑がかかったら… あの少女、せっかくわたしがあげたお薬で治ったというのに、何という恩知らずなのかしら!)
 情けないやら悲しいやらで、涙がポロポロとこぼれた。
(…そうだ! このピンチを何とか助けてくださるかたがないか、あの棒で占ってみよう!)
 メイドさんはベッドの脇にしゃがんで、スプリングのところに隠してあった棒を取りだした。

☆☆☆ と、ここまで本編と同じ ☆☆☆

(…どうか、どうか、いま一度、ヨナス博士の居場所を教え賜え!)
 棒は彼女の手の中でほんのかすかに震えたたかと思うと、新たな方角を指した。

 そこは、ユダヤ教の律法学者がいたシナゴーグのすぐ近くにある、ユダヤの人々のための「貧救院」だった。
「あの、すいません。こちらにヨナスというお年寄りのかたがいらっしゃいませんでしょうか?」
「いるけれど面会謝絶だよ」
 長い顎髭に山高帽をかぶった医者らしい男が、メイドさんのことをうさん臭そうにジロジロ眺めながら言った。
「えっ? 『面会謝絶』?」
「ああ。行き倒れているところをかつぎ込まれたんだ。あの年だ。元からの持病も多い。それにこの寒さ。もう二度と目を覚ますこともないだろうし、先も長くないだろうね」
「お願いします! 一目会わせてください! お世話になったかたなんです!」
「…そう言って来た人は何人かいたんだよ。しかし本人が意識を失う前に『もう誰にも会いたくない。もしも訪ねてくる者がいても、すべて断ってくれ』と言っていてね。
「でも、お世話する人は必要でしょう?」
「貴女、ユダヤ人ではないね?」
「エホバもニネヴェの人々を許されたではありませんか?」
「ええい、仕方ないな。ほんの少しだけだぞ」
 そこは、ブライディーがよく知っている、かすかに消毒剤の「死を待つ人」の部屋によく似た小さな部屋だった。違うのは、壁の高いところにあるはずの磔刑像がないことと、ベッドサイドに置かれた聖書が、旧約聖書だけしかないことだけだった。
 ヨナス博士は眠っていた。いつこときれても不思議ではないくらいのかすかな、とぎれがちの息をしながら… その両目はにじみ出したやにで固く固められて、あの医者が言っていたように、二度と開かれることはないように思われた。
(ヨナス博士、結核の特効薬のお薬も、嫌なことだけ全部忘れることができる素晴らしいお薬も、ぜんぶ天国…それとも地獄に持って行かれるおつもりですか? もしも、それらのお薬の調合の仕方を書いた書き付けをどこかに隠しておられるのなら、一言どこにあるのか教えてください… この棒は、モノを捜すことはできないし、わたくしの占いをもってしても、強い思いとともに隠されたものを見つけ出すのは極めて難しいのです…)
 どんなに心の中で呼びかけても、博士は答えてはくれなかった。
(博士が召されてしまっては、もうどんな方法でも、ものすごく難しくなってしまうわ。いまのうちに、博士の心の中に入って、訊いてみないことには… …ニューナム女子大で、アレイスターさんがわたしの心の中に入って助けて下さったように。幽霊屋敷でサダルメリク君やデイジーたちが助けに来てくれたみたいに…)

 飴色になるまで使い込まれた小さな背もたれ付きの椅子に座ったブライディーは、持参した黄金のコックリさんの棒を取りだして、誰にも内緒で、こっそりと勉強していた呪文を低く小さな声で唱えた…
(棒よ、お願い! どうかヨナス博士の、心の奥底に連れて行って!)

…気が付くとそこは、暗く狭い屋根裏部屋で、老若男女十数人の人々が、肩を寄せ合うようにしてひしめきあって床に座っていた。窓はあったようだが、板で×印に打ち付けられている。身体を伸ばしてその隙間から外を覗くと、エッフェル塔が見え、しばらくすると、ノートルダム寺院の鐘の音が聞こえた。
「あの、すいません…」
 ブライディーが言いかけると、暗闇の中から憔悴しきったたくさんの顔がいっせいに彼女のほうに向いて「シーッ!」と言った。
「貴女、イギリスのかた?」
 人々のあいだをかきわけるようにして、メイドさんと同じ年格好の可愛い少女がやってきて、英語で囁くように話しかけてくれた。メイドさんはその子の髪や瞳の色、顔つきが誰かに似ているように思った。…そう、あのヨナス博士に…
「わたし、アイルランド生まれで、ロンドンでメイドとして働いているブライディーと言います。ヨナス博士というかたを探しているのですが」
「ドクター・ヨナスはわたしの曾祖父です。もうとうの昔…五十年くらい前に亡くなったと聞いていますが…」
 少女はいぶかしげな顔で言った。
「えっ、五十年も前に? するといまは?」
「一九四一年ですけれど?」
 少女はますます眉間に皺を寄せた。
(一九四一年! 四十五年も先の未来だわ… 未来の日本の東京に飛ばされたときのように、飛んできたのかしら? でも、いま目の前にいるのがあのヨナス博士の子孫だというのは上々だわ。彼女に訊けば…)
 メイドさんは居住まいを正した。
「…あの、いきなりですけれど、ヨナス博士が作られた結核の特効薬のことをご存じでしょうか?」
「ええ。ペニシリンのことですね。曾祖父が若い頃に研究していた、と伝え聞いておりますが、結局ものにすることができず、およそ三十年あと、つまり今から二十年ほど前にフレミングという人が発見しました」
「えっ、するといまでは、患者さんは誰でも処方してもらえる?」
 メイドさんは顔をパッと輝かせた。
「ええ。そのはずですが、いまは戦争中なので…」
「戦争中?」
「ええ、ナチス党に率いるドイツ第三帝国がヨーロッパのほとんどを占領し、支配しているのです。彼らはわたしたちユダヤ人や、障害のある人、それに自分たちに反対する人々を捕らえては収容所に送って命を奪っています」
「そんな、ひどい…」
「だから、貴女もわたしたちに関わっては危険です。イギリスのロンドンも毎日ドイツ空軍の爆撃にさらされているそうですが、ここよりは安全でしょう。早くイギリスへ、できたらアイルランドにお帰りなさい」
「分かりました…」
 ブライディーはゆっくり考えてみた。
(ここは一八九六年、ロンドンのユダヤ教会に付属した施設の「死を待つ人」のベッドに横たわっているヨナス博士の頭の中のはず… もしかしたら、博士は大昔のユダヤの預言者たち…イザヤやエレミアのように、未来を見通すことができたのかもしれない。だから、はるか未来で起きる戦争で傷ついた人々の心を癒そうと、心の傷を和らげる薬を作ろうとした。それが認めてもらえないと悟ると、次は結核の特効薬を作り出したけれど、何らかの理由で人類の行く末に深く絶望して、発表することをやめてしまった…)
 ちょっとのあいだだったがぐずぐずしているあいだに、陽は西に傾き、隙間から見下ろす通りには、腕に鉤十字の腕章を巻いたドイツ軍の兵士たちや親衛隊の隊員たちが集まりだした。
「ちょっと待って。いま出て行ったらまずいわ。貴女はもちろん、わたしたちまで危険にさらされる… 後でわたしが安全な逃げ道を案内するわ」
 ヨナス博士のひ孫の娘は、メイドさんの腕を掴んだ。
「有難う、その…」
「エステルよ。エステル・ヨナス」

 東京のときと違って、ブライディーはここにぐずぐずしているつもりはなかった。
(それは、ユダヤ人の人たちはお気の毒だけれど、わたしたちアイルランド人も、長くイングランドに弾圧と抑圧を受けてきたのだし…
 エステルに会えて、ヨナス博士の気持ちもだいたい分かって、あっけないくらいに目的を果たしたのだから、もう長居は無用のはずだった。
(彼女の言うとおり、早くおいとましましょう… だけどしかし、この屋根裏から出たとしてどこへ行けば元の世界へ…ヨナス博士の頭の中から、ユダヤの貧救院の「死を待つ人」の部屋の椅子に座っているはずのわたしの肉体に戻ることができるのかしら? この時代のロンドンに帰ったとしても、東京のときと同じように、もうドイル様もどなたもいらっしゃらないでしょうし…)
 困り果てたメイドさんは、懐から例の黄金のコックリさんの棒を取りだして眺めてみた。(…これは「人を捜す時の棒」で、こんな時どこへ行けばいいかまでは教えてくれないし… 「来たときに着いた場所」つまりこの屋根裏部屋にいなければならないのだったら、うかつに動くことのほうが考えものだし…)
「その棒は?」
 長い単調な潜伏生活で目新しいものに飢えていたのだろう、エステルが興味深そうに見つめながら尋ねてきた。
「見ての通り占いの時に使う棒よ。普通は大事なものをなくしたり、山師が鉱脈が走っていそうなところを占うための棒なんだけれど、この棒は特別で、どこにいるかが分からなかったり、行方がさだかではない特定の人を捜すための占いの棒なの。わたしも『ヨナス博士の子孫がいらっしゃるところ』を占って、ここを探し当ててきたのよ」
 言ったあとでブライディーは(しまった)と思った。が、時すでに遅く、エステルは顔をくしゃくしゃにした。
「本当ですか? …本当ですよね… わたしはこうしてずっとここに隠れているのに、あなたはちゃんとここを探し当てて来られたのだから…」
 あまりに大きな声を出してしまったので、ほかの人々がまた「シーッ!」と制した。
「あ、いえ… 当たる時もあれば外れる時もあります」
 嘘だった。棒はこれまで皆目見当はずれで外したことは、ただの一度もなかった。
「お願いします!」 エステルは両膝をついて頭を下げた。「…ぜひその棒で、わたしの許婚者のイサークがいる場所を占ってください。まだこのパリにいるのか、それともはるか東方の収容所に送られてしまったのかを…」
「ちょっ待ってください! 仮に占いでその場所… イサークさんがいらっしゃる場所が分かったとして、貴女はそこに行けないのでしょう? ここから出たらすぐにドイツ軍に捕まってしまうんでしょう?」
「捕まっても構いません。もうその時はその時です。ですから、どうか占って下さい!」 エステルはすがるような目でブライディーを見つめた。「…このままここでじっと身を潜めていても捕らえられて収容所に送られてしまうかもしれません。そうなってしまうくらいだったら…」
「そこまでおっしゃるのでしたら… そのイサークというかたの、写真か何かがありますか?」
 エステルはすぐに、ソルボンヌ大学の徽章のついた黒い角帽をかぶり、卒業のときに着るマントに身を包んだハンサムな青年の写真を取りだした。メイドさんはホッと小さな溜息を一つつくと、黄金のコックリさんの棒を両手の手のひらで挟んで占い始めた。
「…イサークさんは…まだパリにいらっしゃいます。それもここからそう遠くないところに…」
「本当ですか! わたし、そこへ行ってみます!」
 エステルは回りの人に聞こえないように、そっとブライディーの耳に囁いた。
「そんな無茶な! 偽の身分証でもない限り、たちまち捕まってしまいますよ」
「その棒は『人を捜すための棒』なのでしょう? でしたら逆に『人がいないところ』も教えてくれると思うんです。ナチスの兵隊や秘密警察がいない道を…」
「ちょっ、ちょっと待って下さい。この棒は、いまのところわたしにしか扱えないんですよ」
 エステルは懐から折りたたみ式のナイフを取りだしてメイドさんの首筋に突きつけた。「大丈夫。万一見つかったら、わたしに脅かされて仕方なく付き合わされた、と言って下さい。貴女はアイルランドの人なのだから、きっと見逃してもらえると思います」
 断ることもできたはずだったが、エステルとイサークを、『お兄ちゃん』と自分に置き換えたブライディーは、ふと「分かりました。行けるところまで行ってみましょう」と答えてしまった。

 夜になった。屋根裏に隠れているユダヤの人達は、ほんの僅かずつの黴臭い乾パンと水だけの食事をとった。ブライディーも仕方なくそれを食べた。が、そのあいだに自分の分を早々と食べ終わったちっちゃい子が近寄ってきて、指をくわえて見つめていた。
「申し訳ないわ。皆さん、少しずつしかなさそうなのに…」
「気にしないで。さぁ、そろそろ行きましょう!」
 二人は抜き足差し足、二階に下り、反対側の部屋の窓から桟を伝って、くっつくようにして立っている隣の建物の桟に飛び移った。
 そこは、かつては商店だったらしく、商品のまったくないカラッポの棚がずらりと並んでいた。
「兵隊が見張っていない場所を占って!」
 メイドさんが念じると、棒は意外にも正面の、開け放たれた一番大きな出入り口を指した。
「おかしいわ。もう一度やり直して…」
「そんな時間はないわ。あそこから出ましょう!」
 エステルに促されて、メイドさんも通りの左右を伺いながらそこから出て、通りの反対側の路地に隠れた。
「すごい! その棒すごいわ! きっとナチスの連中(まさか正面玄関から出てくるはずはないだろう)とたかをくくって、ここは裏通りだけを見張っていたんだわ…」
 二人は棒が指し示す通りに、蜘蛛の巣のように入り組んだ路地裏を右に折れ左に折れ、まっすぐに進んだ。
 たどり着いたところは、元警察署か憲兵隊の屯所のようだったが、いまは巨大な鉤十字の旗が貼り付けてあって、電灯の下ドイツ軍の兵士や、まっ黒な軍服に身を包んだ親衛隊の隊員がさかんに出入りしていた。
「イサークさんはここに捕らわれていらっしゃると思うけれども、ここから先はさすがに無理よ。諦めて帰りましょう!」
「お願い! わたし、どうしても彼に一目会いたいの。一目会えたら、後はもうどうなってもいいと思っている。どの道、このままあそこの屋根裏に隠れていても、遅かれ早かれ見つかってしまうでしょうし…」 エステルは瞳をうるませて言った。「…初対面の、ましてユダヤ人ではない貴女に、こんなことをお願いするのは、大変厚かましいとは思うのだけれど…」
「…分かったわ。ヨナス博士に約束を破ってご迷惑をおかけしているし、ここでその借りをお返しすることにするわ…」
「えっ? いま何と?」
「いえ、別に何も…」
 ブライディーは再び念入りに建物の中のイサークがいる場所を占ってエステルに教えた。
「…たぶんこのあたりに地下に降りる階段があって、そこを降りて、つきあたって左へ… でも看守が見張っているわ」
「構わない。一目会って、ひとこと話ができるのなら、それでもう思い残すことはないわ…」
 警察署の正面の幅の広い歩道に出たメイドさんは、思い切り明るい作り笑顔を浮かべて、両足を軍隊の行進のように高く上げて行ったり来たりしながら、でたらめなハミングを口ずさみ、時おりスカートの中を見せながら歌い踊り始めた。
「そこの娘、何のつもりだ! 邪魔だ!」
 衛兵の一人が血相を変えて銃剣を突きつけながら近づこうとするのを、もう一人の衛兵がニヤニヤしながら押しとどめた。
「まぁ待て! かわいいじゃないか。たぶん、ドイツ語はできないけれど、『夜が更けて交代になったら、遊びに来てくれ』とでも言いたいのでは?」
「そ、そうかな?」
 兵士や、親衛隊の隊員が一人、また一人と回りを取り囲み始めた。
 ブライディーがここぞとばかりに胸のボタンを一つ二つはずしてはだけて見せると、彼らは目尻を下げてやんやと囃したてた。
 何か恐ろしい状況のほうが、かえって滑稽な真似ができる、そんな感じだった。
 と、バーンと銃声が轟いた。
 ブライディーは凍り付き、他の者とともに銃声がしたほうを振り向くと、左右の詰め襟の襟元に稲妻の徽章をつけ、目深にかぶった軍帽に髑髏の帽章を輝かせたナチス親衛隊情報部の大尉が、細く硝煙のたなびいているワルサーを星空に向けながらこちらを睨み付けていた。

「貴様ら、何をしている。バカ者ども、早く持ち場に戻れ!」
 衛兵や兵士たちは蜘蛛の子を散らすようにして早足で駆け去った。ブライディーもこそこそと逃げ去ろうとした。
「ちょっと待て、そこの娘!」
 大尉はきついドイツ訛りの英語で命令した。メイドさんは思わず、背中にワルサーの銃口が向けられている気配を察してピタリと立ち止まった。
「ふん、どうやら思った通り、フランス人ではない、イギリスのスパイのようだな」

「おまえはイサークに会いに来たエステルとかいうユダヤ人の娘の仲間だろう?」
 取調室で大尉は小さな鞭を後ろ手に隠し持って椅子に座らされたブライディーの回りをぐるぐると回りながら言った。
 メイドさんは(いまさらしらを切っても仕方ない)と思って、コックリと小さく頷いた。
「…なかなか正直でよろしい。ユダヤ人ではなく、なおかつ我々に協力すると約束すれば、すぐに釈放してやることもできる。…そこで、問題は、おまえたちが、角角にいる歩哨の目をくぐり抜けて、どうしてこの建物までたどり着けたのか? ということだが… …いや、頑張って黙秘し、仲間をかばう必要はないぞ。あのエステルとかいう娘、男のほうをちょっと痛めつけたら、簡単に白状したぞ。おまえは特定の人間を捜し出すことができる不思議な黄金のコックリさんの棒を持っているそうだな。ここに出してもらおう。…さっさと出せ! なんなら素っ裸にしてもいいんだぞ」
 メイドさんはしゃくり上げながら、黄金の棒を取りだして机の上に置いた。大尉はその棒を手にとって、鉄格子のはまった窓に透かしてみた。
「ううむ… 黄金であるという以外、ただの棒だ。これでこちらが望む人間を誰でも見つけ出すことができるのか? ヒトラー総統閣下も、ヒムラー親衛隊総監閣下も大のオカルト好き… 献上すれば、さぞかしお喜びになられるだろうが… たぶん『特別な能力』を持った者…つまりおまえのような者…が使わなければ用を為さないのだろうな?」
 メイドさんは再びコックリと小さく頷いた。「なかなか協力的でよろしい。…で、ユダヤ人狩りやレジスタンスの掃討といったつまらぬ任務はゲシュタポの連中に任せておくとして… 実は、おまえが連れてきてくれたエステル・ヨナスは、我々が長年探し求めてきた、『最重要・要・身柄確保ユダヤ人』の一人だったのだ。ちなみに残念ながらアインシュタインらはさっさとアメリカに亡命してしまったがな。なぜ科学者でもないエステル・ヨナスが重要なのか分かるか?」
「分かりません」
 メイドさんは蚊の泣くような声で答えた。「エステルの曾祖父、ヨナス博士は結核の特効薬のほかに、『心の傷を癒すことができる薬』という結構なシロモノを考え出していたという… そこで、その作り方を知っている者を探し出し、大量に生産して、栄光ある我がドイツ軍兵士たちに支給すれば、例えば戦友の死も、自らの死もまったく恐れない最強の兵士にすることができるだろう…」
「…そんな、恐ろしいことを…」
「そこでブライディー、おまえはいまからこの棒で、それを知る者を探し出すのだ。首尾良く見つけ出せれば、後は我々がやるから、おまえは釈放してやる」
「お、お断りします…」
 大尉は鞭でビシッと机を叩きつけた。メイドさんはビクッと震え上がった。
「おまえを痛めつけたいところだが、ポックリ死なれても困るし、代わりにエステルを連れてきて痛めつけることにするか…」
「あの… 待って下さい… 占います。…でも、本当の本当に、『そのことを知るものは、もう誰一人いない』ということもあり得ますが…」
「その場合は、…さっきはつまらない任務だと言ったが…毎日、隠れ潜んでいるユダヤ人を十人ずつ見つけ出してもらう。…さっそく今からやってもらうぞ」
「『ヨナス博士のゆかりの人物』の居場所を占えばよいのですね…」
 メイドさんは身体を小刻みに震わせ続けながら黄金の棒を取って、占い始めた。
 黄金のコックリさんの棒は、彼女の手の中で左右に揺れて、やがて一定の方角を指した。「どこだ、どこにいる?」
「ここ、パリから北北西に遠く離れた島国…イギリスです」
「なんだと、イギリス? イギリスのどこだ?」
 大尉は顔を歪めた。
「そこまでは… ロンドンの近くでもう一度占ってみないことには…」
「いいだろう。一緒にイギリスでも、どこへでも行こうじゃないか。エステルを連れて行って目の前いたぶってやれば、そいつもきっと我々の言うことをきくに違いない」

(これが、飛行機というもの?)
 目の前にずらりと並んだメッサー・シュミット戦闘機などの大小さまざまの機体を見せつけられたメイドさんは、目を見張った。
(「英国心霊研究協会」のお屋敷で見せて頂いた本の挿絵では見たことがあるけれど、これが実際に空を飛ぶの? わたしも商店街の富くじに当たって、飛行船に乗せて頂いたことはあるけれど…)
「どうした小娘。飛行機がそんなに珍しいか? それこそアイルランドの深い森の奥から出てきたばかりような顔をしているぞ」
 大尉はニヤニヤと笑いながら言った。
 やがて、プロペラが回って、夜間灯が点灯している機体の狭い座席に押し込められ、ゴオッと音を立てて離陸を始めると、メイドさんは目を固く閉じて前の座席の背もたれにしがみついていた。

 その夜のうちに、パリ近郊の空軍基地を飛び立った一機のユンカース爆撃機は英仏海峡を渡り、前もって潜入していたナチス・ドイツのスパイが灯す臨時の誘導灯に導かれて、ガクガクと土煙を上げてロンドン郊外の平地に着陸した。
 メイドさんは座席で身体を丸めて、ひたすら神に祈っていた。
 その飛行機には、ブライディーの他に大尉と数名の部下と、エステルが乗っていた。
 飛んでいるあいだも、降りてからも、二人は引き離されていた。しかし、草原に降り立ったとき、二人は、かなりの距離を置いてだが目を会わせることができた。
『ごめんなさい。わたしのせいで、何の関係もない外国人の貴女をこんな目に遭わせて…』
 エステルの目はそう言っていた。
(いいのよ。わたしもまったく関係のないことはないの。気にしないでね)
 メイドさんも目でそう言い返した。
 スパイがあらかじめ用意していたローヴァーの乗用車が、まだプロペラが止まりきっていない機体に横付けされた。
「よいのですか、大尉殿。戦況は、我がナチス・ドイツが大いに優勢であるものの、ここはイギリスのまっただ中。ロンドンもほとんどは焼け野原になっているとはいえ、万一敵軍にとり囲まれたら… …着陸したのは目撃されているでしょうし…」
 背広姿のスパイは、あたりをキョロキョロと見渡しながら言った。
「おまえの言うことはもっともだが、ヨナス博士の秘薬は、危険をおかす価値が十分すぎるほどあるものだ。何が何でも手に入れてパリに帰るぞ!」
 夜がしらじらと明けてきた。
 メイドさんは思わず深呼吸をした。五十年未来の、それものっぴきならない状況とはいえ、イギリス独特の、湿気を帯びた朝靄の空気は心を落ち着かせた。
「さあ娘、占え! ここからどっちの方角だ?」
 大尉は取り上げていた黄金のコックリさんの棒をメイドさんに渡して言った。
 と、その時、林のそこここから、「前込め鉄砲」のような古い装備に身を固めた民兵のようなイギリス軍の、中年以上の兵士たちが鬨の声をあげてよたよたと突撃してきた。
「ドイツ軍だー! ついにドイツ軍が上陸してきたー!」
「ふっ、イギリスの田吾作どもが! 栄光あるナチス・ドイツ武装親衛隊の情報部をなめるなよ!」
 大尉が「撃て」と命令すると、四、五名の部下たちがタンタンタン…と一斉に機関銃を発射した。狙いは正確でイギリス兵は夜店の射的屋の標的のように次々に倒れた。
 メイドさんとエステルは思わず目を覆った。
「だめだ、手強い! 援軍を呼べ」
「呼びました。もうじき来ると思います!」
 向こうの草むらから英語で叫び合う声が聞こえたが、大尉がワルサーをバックルから抜いて一発二発発砲すると、シーンと静かになった。
「これでしばらく邪魔は入らないだろう。さぁ早く車に乗ってもらおうか。行き先の占いは車の中でしてもらおう」
 ユンカース爆撃機の留守番に数名の隊員たちを残した大尉と残りの部下たち、それにメイドさんとエステルを乗せた二台のローヴァーは、猛スピードで田舎道を駆け抜けた。
「…次の分かれ道を左へ… その次の十字路を右に…」
 ガタンガタンと揺れる車の中でブライディーは必死に、黄金のコックリさんの棒で占い続けた。
「もっと飛ばせ! さっき片づけた連中の援軍がやってくる前に、ヨナス博士の秘薬の手掛かりをつかんで飛行機に戻って飛び立てなければ、すべては水の泡だぞ!」
「了解!」
 車はやがて、森の中の古い小さな一軒家に着いた。車から降りた部下たちは家の回りを取り囲む。大尉はメイドさんの、スパイはエステルの手を引っ張って、それぞれ拳銃をかざしながら、民家の樫の木のドアを蹴破った。

 そこは、クルックス博士やウォーレス博士「英国心霊研究協会」の会員の科学者の先生たちが共同で使っている実験室よりも、もっと散らかった、フラスコやビーカーや、シャーレやアルコールランプや冷却管などの器具で埋まった実験室だった。いろんな種類の化学薬品の匂いが混ざり合って、思わず息を止めて鼻をつまむ瘴気に充ち満ちていた。
「だれじゃ?」
 林立する複雑怪奇な装置の向こうからしゃがれた声がした。
 大尉やメイドさん、それにエステルたちが振り向くと、そこには恐ろしく年取って、まるで地霊(ノーム)のような小柄な老人が立っていた。ガラスの器具のジャングル越しで歪みに歪んでいたものの、ブライディーはその老人の顔が、さらに一層年を加えてはいるものの、ヨナス博士その人であることに気が付いた。
(ヨナス博士ご本人? まさか! 仮にあの時、病気が治られて生き続けたとしたら、一二〇歳くらいになっているはず… でもオールド・パーの例もあるし、一二〇歳でも不思議ではないかも…)
「ヨナス博士本人か?」
 大尉は細い眉をピクピクさせながらワルサーを抜いて老人に近寄った。
「いかにも。わしに何か用か?」
 博士は手にしていた試験管を試験管立てに戻して言った。
「大おじいさま、逃げて下さい!」
 スパイに拳銃を突きつけられていたエステルが叫んだ。
「…小娘、確かブライディーとか言ったな…おまえは少しも変わっておらぬな…」
「ヨナス博士、あなたは本当にヨナス博士ご本人なのですか?」
 メイドさんは大尉にがっしりとつかまれた手を振りほどいて身を乗り出した。
「いかにも。…四十五年前の嘘つきメイド、よくもあの時は約束を破ってくれたな…」
「すいません… どうか許してください…」「わしが許しても、おまえの神とおまえの良心が許すかどうかが問題じゃ」
「おまえたち、二人で何をごちゃごちゃと話している? …ヨナス、生きていたとは祝着。一緒に来て我々に協力してもらうぞ!」
 大尉が目配せをすると、部下たちが博士の回りを取り囲んだ。
「そこのドイツ人、こんなよぼよぼのもうろく爺いにいまさら何の用じゃ? 結核の特効薬ならばフレミングが発見したじゃろう?」
「それはもういい。我々が欲しいのは、『他の記憶は全部そのままで、心の傷だけをきれいさっぱりと忘れさせる薬』だ」
「…ずいぶんと昔のことをよく覚えている連中じゃな。あれは副作用がきつくて、服用者が死ぬ恐れがあるので、いくら頼まれてももう二度と作らん」
「十人に一人…いや、五人に一人が死んでも構わないのだ。金だったらいくらでも出すし、他の褒美も望みのままだぞ」
 大尉は猫なで声で言った。
「大おじいさま、協力しないで。彼らは…」 言いかけたエステルの口を、スパイが押さえつけて遮った。
「そんなことぐらい言われなくとも分かっておるわい。わしだって新聞も読めばラジオのニュースも聴いておる」
「ふっ、だったら話が早い」 大尉はたちまち元の冷たい表情に戻った。「…従わなければ、おまえの大事なひ孫娘が痛い目に遭うぞ」
 ヨナス博士は「カカカカ…」と一笑した。「阿呆どもめが! わしがどうしてこんな田舎の一軒家に実験室を構えていると思う?」
「な、何だと?」
 大尉や部下たちが襲いかかるよりも一瞬早く、博士は手にしていた試験管の中の薬液を目の前の、アルコールランプの炎で煮立っている薬液の中に注いだ。途端に白い煙が巻き上がって、アッという間に部屋中を満たした。
「しまった!」
 大尉も部下たちも、スパイも、喉や胸をかきむしって床の上に倒れてのたうち回った。 ブライディーもエステルも、息をすることができなくなって気が遠くなっていった…

 目をゆっくりと開くと、ブライディーとエステルはお互いにもたれかかりあうようにして、大きな木の下に座っていた。木漏れ日はまぶしく、青空は爽やかで、風は澄み切っていた。
 メイドさんは何かを握らされていた。手のひらを開くと、一回分の薬の包みとメモだった。メモには、
『念のため、もう一度だけ解毒剤を飲んでおくこと』と書かれていた。
 ブライディーはそれをいったんポケットにしまってエステルを揺り起こした。


「エステルさん! エステルさん!」
 メイドさんの呼びかけに応じて、少女はまばたきしながら目を覚ました。
「よかった!」
「大お爺さまは?」
 二人はきょろきょろと辺りを見渡したが、ヨナス博士の家はなく、地形もまったく変わってしまっていた。
「ドイツの兵隊たち、どうなったんでしょう?」
「きっと全員、大お爺さまがイギリス軍に引き渡して下さったと思いますわ」
 エステルは晴れ晴れとした表情で、ドレスの埃をはたきながら立ち上がった。
「ヨナス博士は?」
「大お爺さまはナチス・ドイツからはもちろん、かばってくれるはずのイギリスからも追われる身。きっとまた素早く身を隠されたことと思いますわ」
「よかった…」 ブライディーはホッと胸を撫で下ろした。「時にエステル、貴女は解毒剤をもう一回分貰わなかった?」
 メイドさんは自分の分を示して尋ねた。
 エステルはそれらしきものを探したが、どこにもなかった。
「半分ずつしましょうか?」
「いえ、ブライディーさん、貴女が一人で飲んでください。…きっと倒れたときは、貴女のほうが症状がきつかったのだと思いますわ」
「そうですか…」
 ブライディーは薬包紙に包まれた散剤を口の中に入れて飲み干した。無味無臭だった。「…これからどうしましょう?」
 メイドさんは自問自答した。
「わたしは、もう一度パリに戻って、イサークやみんな助けたいと思いますわ」
 エステルは胸を張って言った。
「えっ? でも恐ろしいドイツ軍がいっぱい…」
「わたしだけが安全なところに逃れてのうのうと暮らすことなんか、絶対にできませんわ。レジスタンスに入って…」
「やめてください、エステルさん! 大お爺さまがせっかく助けて下さったというのに…」
 押しとどめようとしたメイドさんの目に靄のようなものがかかり、足下がふらつきはじめた。
(あれ?)
 目をこすっても靄は晴れず、足下はますますもつれるばかりだった。
「ありがとう、過去からやってきたブライディーさん、どうかお幸せに…」
 涙を流しながらそういうエステルの顔が次第にぼやけて見えなくなった。

 気が付くとブライディーは、一八九六年のロンドンの、ユダヤ教の教会の「死を待つ人」の部屋の、飴色にてかった古ぼけた椅子に戻っていた。
(夢? 未来ではあんなに恐ろしい戦争が起きるの?)
 メイドさんがあわてて目の前のベッドに目をやると、危篤の床にあったはずのヨナス博士の姿は消え、しわくちゃの毛布だけがあった。
(ヨナス博士はどこ? 亡くなられた? でもそれだったらバタバタして、気が付くはず…)
 とそこへ、白衣姿でひげもじゃのユダヤ人の医師がやってきた。医師もまた、からっぽのベッドを見て驚き、「おい、きみ、ここにいたヨナス老人は?」とメイドさんに尋ねた。「申し訳ございません。わたくしも居眠りをしていて…」
「なんだって! そんなバカな! あの患者はまかり間違っても自分で歩けるような状態ではなかったのだぞ!」
 医師は慌てて出て行った。
 ブライディーがポケットを探ってみると、黄金のコックリさんの棒は消えており、かわりに薬包紙だけが一枚出てきた。さらに立ち上がって探ると、メモが一枚出てきた。そこにはヨナス博士の筆跡でこう書かれていた。「棒や、クスリや、そして命に頼るな。愚か者が!」

(今度こそ本当に…次のエピソードに続く)





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