2005/02/14 ケアレス修正

 ブライディー・ザ・マジックメイド
「ブライディーのクリスマス」
 それに続いて、ショートショート四本
「お屋敷に電話がやってきた」
「ブライディー、新年の志を立てる」
「ブライディー振り袖を着る」
「ブライディー空を飛ぶ」

「ブライディーのクリスマス」

「お姉ちゃーん、お姉ちゃん宛に荷物が届いているわよー」
 普段にも増してぶっきらぼうなデイジーの声に、ブライディーが小走りにやってくると、メイド控え室の質素なテーブルの上に、茶色のマニラ紙で包まれ、麻紐でくくられた文箱くらいの小荷物が置かれていた。遠目にその結び目を見た途端、大きなメイドさんの胸は高鳴りはじめた。
(「お兄ちゃん」からだ!)
「エヘヘ… 一体誰からだと思う?」
 ちっちゃなメイドさんは、舐めるような視線でブライディーを見上げた。
「デイジー、有難うね」
 胸のあいだに小荷物を抱きかかえるようにして駆け上がって屋根裏のメイド用寝室に入ったブライディーは、改めて差出人の住所氏名に目をやった。
 もちろんそこには、「お兄ちゃん」の名前と、前と同じアメリカはニュー・イングランドのとある州の、小さな町の名が記されていた。 懐かしい独特の結び目を解くのは惜しい、と思って紐を切り、結び目を自分の小さな机の隅っこのほうにさりげなく飾った。
 丁寧に包装を開くと、馬小屋の聖母子を礼拝する東方三博士と羊飼いたちを描いたきれいな木版刷りのクリスマス・カードと、トナカイたちがひくソリに乗ったサンタクロースと、クリスマス・ツリーの柄の包装紙に包まれたプレゼントが入っていた。
『大切なブライディー、元気かい? オレはお陰様で元気にやっているよ。…暖かいセーターをどうもありがとう。もしかして君の手編みなのかな? そうなら着るのがもったいないなぁ… でもすっかり気に入ってもう着させてもらっているよ。少し遅れたかもしれないけれど、贈り物を贈るよ。実は同じものをぼくはもう持っているんだ。気に入ってくれるといいんだけれど… じゃあ、風邪なんか引かないように…』
 大きなメイドさんがきれいな包み紙を破いてしまわないように、そっと丁寧に開いてみると、紺色のビロード張りの小函に入った銀の婚約指輪だった。指輪の内側にはちゃんと「お兄ちゃん」とブライディーの名前が刻んであった。小刻みに震える右手で左手の薬指にはめてみると、サイズもピッタリだった。
(「お兄ちゃん」って… こんな高い大切なものをこんな荷物で送ったりして…)
 思わず目頭が熱くなった。
 鼻歌を口ずさみながら再び階下へ降りていくと、たちまちデイジーに見つかってしまった。
「あーっ、お姉ちゃん! そんな夜店のおもちゃみたいな指輪をはめていたら、もう二度と玉の輿のお話は来なくなるし、それどころか若くてカッコよくてお金持ちの男の人から声をかけて頂けなくなるわよー!」
「いいんです。それが目的の半分でもあるのだもの…」
「あーっ、ブライディーさん、おめでとうございます! お式はいつのご予定ですか? ロンドンでされるのでしたら、ぜひお招きくださいね」
 ポピーはまるで自分のことのように喜んでくれた。
 続いてドイルや、クルックス博士やウォーレス博士やドッジソン教授も次々に気づいた。「おーっ、これはめでたい!」
「長生きして良かったと思うことの一つは、めでたごとを一つでも多く見られることですな」
「世話役はぼくがやらせてもらうよ」
「…いえ、二人とももうちょっと落ち着いて、お金も貯めてから、と相談しております…」
 大きなメイドさんは顔を赤らめながら言った。
「ふん、だったらそれまで抽斗の奥にしまっておけばいいのに…」
 デイジーはそっぽを向いてつぶやいた。

 秋から仕込んであるクリスマス・プディングの様子をチェックしたり、デイジーやポピーたちとともに「英国心霊研究協会」のお屋敷にツリーやオーナメントを飾り付けたり、あれこれ忙しくしているうちに、一八九五年もあわただしく終わろうとしていた。
 ソーホー街で演じられているお芝居もほぼいっせいにクリスマスをテーマにした演目に変わり、街角には聖歌隊のコーラスと、救世軍のブラスバンドの音楽が響きはじめた。
 ホワイト・チャペルで踊り子をやっている幼なじみのケリーや、かつての主人、フィオナ・ウォーターフォード男爵令嬢、バッキンガム宮殿のオクタヴィア姫、アレイスター・クロウリーやサダルメリク・アルハザード、それに留学生になりすましてロンドンに来ている安倍薫たちにクリスマス・カードを出し終わると、ブライディー個人の仕事はほぼ片づいた。遠くの友達には前もって早めに投函してあった。
 後は…この世界に星の数ほど大勢いるメイドさんたとともに、毎年のようにメイドさんとしての一大仕事…というかイヴェントをデイジーやポピーたちとともに乗り切ればよいはずだった…

「英国心霊研究協会」のクリスマス・パーティは、本当のクリスマスに先立つ一週間前の日曜日に決まっていた。もちろん、クリスマス・イヴとクリスマスその日は、みんなそれぞれの教会で祈ったり、家庭の団らんを楽しんだりするからだ。ずっと独身のドッジソン教授ですら、ケンブリッジの近くに住んでいる親戚のちっちゃな女の子たちとともに過ごすことを楽しみにしていた。
 で、その前倒しのパーティの日曜日、ブライディーやデイジーやポピーたちは文字通りてんてこ舞いだった。
 なんと言ってもきちんと正装した貴族たちや紳士淑女がたが大勢集まられ、着席されて歓談される正式のディナー。それもよくあるフランス料理ではなくて、イングランドなり、スコットランドなり、ウェールズなり、アイルランドなり、つまり英国の伝統料理の片りんを少しずつ反映させたものでなければ、コックの腕が疑われてしまう…
 もちろん七面鳥やプディングやブッシュ・ド・ノエルといった定番も、ちゃんと作らなくてはならない…
 ブライディーはところどころにカモや子ウサギ、冬場ではあるものの入手できたハーブを使って、お客様たちが少しでも故郷のことや遠い昔の少年少女の頃を思い出して穏やかな気持ちになれるような料理の数々を、心を込めて出した。
「うまい! 死ぬほど忙しいんだが、転がり込んで正解だったよ!」
「生き返った! さぁこれでクリスマスまで乗り切れるかな?」
 お客の貴族の紳士たちのお褒めの言葉を聞く度に、ブライディーは少しずつ肩の荷をおろせたのだった。
 ポピーが得意とするチーズや乳製品を使った料理も、ほとんど残らなかった。デイジーの盛りつけも子供離れしていた。
 無論、三人では足りなくて、その時は「白詰草亭」から数人の調理助手やウェートレスさんが助っ人に来てくれた。
 デザートの時、ブライディーを先頭に歌心のあるメイドさんたちが整列してキャロルを歌うと、しばらく拍手が鳴りやまなかった。
「やぁ、みんな、本当によくやってくれてありがとう…」
 お客さんたちや助っ人さんたちたちがほぼ帰り、山のような皿や鍋などもそれこそ魔法のようにかたづけられた後、ドイルはブライディーやデイジーや、ポピーたちに心付けとクリスマスの薪炭代を包んだ花紙を渡しながら言った。
「…クリスマス・ツリーや、他の飾り付けは、しばらくこのままにして、二十五日がすんでから手の空いている者でちょっとずつ片づけることにしよう」
「みんなイヴの日はどうするのかな? …デイジーはお義母さんと過ごすんだね」
「はい」
 デイジーは「心付け」のコインの種類を重さと、花紙越しに指先でこすって確かめて、ニンマリしながら思った。(「金」よ!「金」!)
「ポピーは?」
「ロンドンの片隅にある小さなカトリック教会でブライディーさんとお祈りをしたあと、わたしは『アルプス人協会』で知り合ったメイド友達の家庭に泊まって故郷ふうのクリスマスを過ごそうかと…」
「そうか、いい友達ができてよかったね。…ブライディー、君は?」
「わたくしは… このお屋敷でお留守番をさせて頂こうと思っております…」 大きなメイドさんはうつむきながら答えた。「クリスマスとはいえ、この大きなお屋敷に誰一人いないというのはいかにも不用心ですし、急な電報や手紙がくるかもしれませんし… 寄付や施しを求めるかたがたがいらしたら、お気持ちだけはして差し上げたいと思いますし…」
「どうだい、ブライディー。良かったらぼくの家に泊まらないかい? 子供たちもいることだし…」
 ドイルは、メイドさんの鳶色の瞳を覗き込むようにして言った。
「ありがとうごどいます。でもしかし、年に一度のご家族の団らんを… わたくし、やはりこのお屋敷にいることにします」
「そうかい。じゃあ無理に、とは言わないから、もし気が変わったらまた…」
「はい…」
「さあさあ、ツリーの前で記念写真を撮ろう!」
 ドッジソン教授の一言で、みんなの口元がゆるんだ。

 この日のパーティが終わってからは、心霊協会を訪れる会員たちの数も急にめっきりと減った。ブライディーとデイジーとポピーは送られてくる荷物や手紙を片づけたり、いつにも増してていねいに掃除をしているあいだに、クリスマス・イヴが近づいてきた。

 一八九五年十二月二十四日。クリスマス・イヴの夜。
 ロンドンの片隅の、小さなカトリック教会には、人々が詰めかけ、建物の外にまで溢れていた。
 派遣されてやってきた司祭さまが、英語でクリスマスのお弥撒を執り行われた。侍童たちのその脇にシスター・セアラがひっそりと共に祈っているのをチラリと見かけたブライディーは、回りに揺れるたくさんのクリスマスの華燭の炎とも相まって、キャロルを合唱する頃には胸が熱くなった。
…そう、ダブリンの貧救院のクリスマスにも、ツリーと基督生誕の場面を描いた人形が飾られ、ひとかけらずつながらも、みんなにケーキとちょっと上等の葡萄酒や、肉料理が出たのを思い出した。
「ブライディー、今年一年、よく頑張りましたね。来年も身体に気を付けて、そして、来年はいいことがあるようにお祈りしていますよ」
 弥撒の後、駆け寄ったブライディーをラテン式に固く抱きしめてセアラが言った。
「…ポピーさん、貴女はブライディーよりも遠いところからやってきたそうですね。貴女にも来年はよいことがありますように。きっと神様がお守り下さいますよ」
「はい」
 予めセアラとの関係を聞いていたポピーは、かなり羨ましく思った。
「それじゃあ、またあさって!」
「アルプス出身者協会」の建物の前でポピーはにこやかに手を振った。
「えっ、あさって?」
「はい。わたくし、ドイル様に藪入りのお休みを頂けるようにお願いしています。その際にフランスのお山に帰らせて頂かせて頂こうかと」
(なぁんだ。するとわたしがひとりぼっちなのはたった二日ほどのことなのね…)
 馬車が心霊協会の屋敷に戻ると、帰り支度をしたデイジーが玄関で待っていた。
「お帰りお姉ちゃん! いいクリスマスをね! ドイルさまが『客間を使って』って、暖炉はチロチロ燃えているから暖まっていると思うよ」
 いつも必ず憎まれ口を叩くデイジーだったけれど、この日ばかりはニコニコしながら、ブライディーが乗って帰ってきた馬車に飛び乗って、お義母さんの待つ近くのアパートへと帰っていった。
(とうとう一人ぼっちになってしまったわ。貧救院の頃も、白詰草亭の頃も、ウォーターフォード男爵様にお仕えしている頃も、いつも回りに大勢人がいて、一人でクリスマス・イヴを過ごすことはなかったのだけれど…)
 パンもバターもマーガリンも、ジャムもマーマレードなども沢山残っていた。
 寝間着に着替えてベッドに入ったブライディーは、かすかに燃え続ける暖炉の灯りに「お兄ちゃん」からもらった指輪を照らしてみて、窓辺から聞こえてくる鐘の音を聴きながらようやく眠りにつこうとしたその時…
 勝手口に来客を告げるチャイムが響いた。(いまごろ一体誰かしら? 予定を変更してポピーが帰ってきたのかしら?)
 そんなことを考えながら、あわててガウンを羽織って階段を駆け下りて、鍵ははずさないままに
「どなたですか?」と尋ねた。
「すまない…」 それは、若い男の声だった。寒さのせいなのか、それとも他の理由なのか、声は震え、歯をガチガチと鳴らす音が聞こえた。「…君がブライディーさんか?」
「はい」
「俺は… ぼくはアメリカに行った『お兄ちゃん』の同志で、キースというものだ」
「同志」確かに彼はそう言った。
「『お兄ちゃん』は、『どうしても、それこそどうしても困ったことができてしまったら、ここの勝手口を尋ねてくれ』と行ってくれていた。俺はもちろんそれは社交辞令だと思っていた。どんなことになっても訪ねていくつもりなんかなかった。だが…」
 相手が言い終わるよりも先にメイドさんは鍵をはずし、ドアを開けていた。すると、降り出した雪を点々と血に染めて、「お兄ちゃん」とよく似た感じの、痩せこけた鋭い目の青年が、手で血だらけの腹を押さえながらうずくまり、メイドさんをすがるように見上げていた。
「まぁ大変! すぐに上がってください!
…お医者様もお呼びしなければ…」
「待ってくれ! 俺はお尋ね者だ。捕まったら間違いなく死刑だ。君の『お兄ちゃん』が、アメリカに渡る前、沖仲仕のかたわらここロンドンで何をやっていたか、少しぐらいは話を聞いているだろう?」
「はい…」
 答えてからブライディーは歯と唇を噛みしめた。
 遠くから警察の呼び笛が聞こえてきた。
「早く入ってください。傷ついたお友達を追い返したとあっては、わたしは『お兄ちゃん』に顔向けができません…」
「本当にいいのか? 大英帝国に対する反逆だぞ。それこそその場で撃ち殺されても文句は言えない大罪だ。もしもかくまったことがバレたら、君もただではすまないんだぞ」

 ブライディーはキースの肩を担いで、とりあえず唯一暖まっている客間へと連れて行った。新年を迎えるためにきれいに掃除された絨毯の上にまたぽたぽたと血がこぼれた。
「じっとしていて下さいね。わたし、ドイル先生の応急手当の鞄を取ってきますからね!」
 キースをいま自分が横になろうとしていたベッドに寝かせると、鞄を取りに行ってすぐに戻った。肩の下あたりの傷口をランプで照らしてよく見ると、どうも銃弾が入ったままのようだ。とてもではないが、素人の手に負える状態ではない。
「…いいんだ。どの道、ぼくはもうだめだ」 キースはさらに息を荒げて言った。「ここへやってきたのは、召される前にもう一度、誰かとアイルランドの話ができたら幸せだ、と思ったからだ…」
「とにかく、血を止めなければ…」
 メイドさんは脱脂綿に消毒用のアルコールを浸して傷口の回りを清めた。キースの顔が苦悶に歪んだが、うめき声は出さなかった。 後は包帯で巻こうとしたが、なかなかうまく巻けず、下からもう一つ枕を差し入れてきつく巻くことが出来た。が、血管が破れているらしく、それも見る見る血に染まった。
「痛み止め」と「止血剤」と書いた薬を飲ませると、安心したのか、キースの顔にほんの少しだけ穏やかさが戻った。
「有難う… よもやベッドの上で死ねるなんて、思わなかった」
 相手はゲール語で話し始めた。
「死ぬなんて、縁起でもないことを言わないで!」
 ブライディーもゲール語で答えた。
「息が止まったら、秘密を守ってくださる司祭様を呼んで終油の儀式を頼んで欲しい。せめてくたばった時くらいは、自分の宗教で葬られたい…」
「セアラ様なら…」
「そのシスターなら、知っている。大変お美しいかただ…」
「シスター・セアラをご存じなのですか?」
「もちろんだ。法王猊下から悪魔祓いの許可証も頂いておられる、というもっぱらの噂だろう?」
「はい」
「『お兄ちゃん』のこともよく知っているぜ。ヤツの大好物は、クズ・ジャガイモをふかしたのを、キャベツの芯と一緒に牛脂か豚脂で焼いて塩を振ったものだ。そいつを黒ビールでガブカブ流し込む…」
 その通りだった…
「…それから、俺が知る限り、ヤツはまだ女というものを知らない。…笑っちまうだろう? 二十歳の、元気ビンビンの沖仲仕がだぜ。…俺からも頼む、ヤツがアメリカから帰ったら早く結婚してやってくれ。誠実で温厚この上ないいヤツだ」
「はい…」
 ブライディーは顔を真っ赤に火照らせた。 苦しんでいるキースの顔に「お兄ちゃん」の面影が重なり、「助けてあげたい」という気持ちが次第につのり始めた。
(いまここに横たわっているのがお兄ちゃんの友達ではなくて、お兄ちゃん本人だったら、わたしはどうするだろう?)
「あの… どの道助からないのであれば、わたくしが手術してみたいと思うのですが…」
「ああ、何でも気が済むようにやってくれ。こっちはもうまな板の上の鯉だ」
 メイドさんは走ってドイルの寄贈書である何巻もの医学の教科書の中から、「銃創の治療」が載っている分厚い一巻を引っ張り出してきて、泥縄のおっとり刀で目を通した。
 すると、まず麻酔を適量を使用。銃弾が摘出できれば摘出し、そのあと血管が破れていれば素早く縫合し、最後に傷口を縫い合わせれば完了。いずれの段階でも消毒を忘れずに… と、図版入りで解説されていた。
(やるしかないもの… どうしてもやるしかないんだもの…)
 お湯を沸かして運んできて、注射器やピンセットや針などを消毒。見よう見まねで「麻酔薬」と書かれた液体を注射器に移して注射してみた。キースの二の腕をまくり上げて恐る恐る注射して見ると、コトンと眠りに落ちた。
 改めて包帯をほどいて、傷口を確かめてみると、やはり当たり前だが恐ろしい状態は変わっていない。
(目をそらさないでブライディー、戦地に従軍されている看護婦さんたちのことを思うのよ! 彼女たちが毎日やっていることを、あなたは一晩頑張るだけでいいんだから…)
 傷口をピンセットで探っていくと、カチンという音がした。注意深く掘り出してみると、やはりそれが銃弾だった。
 破れて血がどんどんと流れ出している血管も確認したので、両端をつなぎ合わせて「およそ一ヶ月後に溶ける糸」というので手早く縫い合わせた。最後に、傷口そのものを「溶けない糸」というので縫い合わせて、ほぼ教科書が教えてくれている通りに無事完了した。

「患者」の麻酔が効いているあいだに、ブライディーは、まず勝手口から歩道に続いている足跡と血痕をホウキではき清めた。周囲に注意しながら一ブロックほど遠くから始めて、後じさりしながらはくと、足跡も血の跡も人間の目には分からなくなった。
(ドイル様は「ドイツ帝国などではともかく、ここイギリスでは警察犬はまだまだ広まっていない」とおっしゃっていた。ということは、これで一応大丈夫なはず…)
 それから「心霊研究協会」の廊下に点々とついた血痕も丁寧に拭い去った。
(やれやれ、これで一安心…)
 ホッと一息ついて、キースの様子を見に戻ろうとした矢先、今度は正面玄関のチャイムが鳴った。
(来た! たぶん警察だわ!)
 メイドさんは寝間着とガウンの胸元をかき合わせて走って降りた。
「はい。どちら様でしょうか?」
「ロンドン警視庁のブレード警部だ。少々訊ねたいことがある。ここを開けろ!」
「ブレード警部」という名前にブライディーの心臓はキュッと縮んだ。今年の春に、デイジーがうんと小さい頃に目撃したという「切り裂きジャック」の正体を巡って対立した、かなり高度な催眠術を操ることができる刑事だ。
(あの人、強引な捜査が祟って左遷されたはずでは…)
 思いつつ扉を開けると、帽子と肩に雪をうっすらと積もらせた警部が、屈強な部下たちを引き連れて立っていた。
「貴様、あの時のメイドだな、確かブライディーとかいう。その節は世話になったな」
 警部はメイドさんをジロリと睨んで言った。
「こちらこそ… クリスマスおめでとうございます」
「…時に、この屋敷に、こういう奴がやってこなかったか? おそらく、手負いのはずなのだが…」
 示された写真には、キースの顔が大きく写っていた。
「いえ、このかたが何か?」
「クリスマスの礼拝で満員の、英国国教会の教会を爆破しようとしたんだ。幸い、未遂に終わったがね…」
「えっ!」
「何か知っているのか?」
 相手は靴先でぐいと掻き分けるようにして玄関のホールに入ってきた。
「いえ。何も知りません。あまりのことに驚いたまでで…」
「本当か? 念のため、この屋敷全体を調べたい。言うまでもなく、もしもかくまっていたのが分かったりしたら貴様も同罪だぞ、メイド。…いま話せば、貴様だけは見逃してやるが…」
「いえ、本当に何も知りません」
「寝ていたところを起こされて、ガウンを羽織って階段を降りてきただけにしては、息が荒いな。いままで何かしていたのか?」
「いいえ。何も…」
「それではこちらも気楽に家捜しをさせてもらうぞ。『クリスマスでドイルらうるさい連中が一人もいない屋敷に、アイルランド人のメイドが、負傷したアイルランドのテロリストをかくまって』いても不思議でも何でもないからな…」
 警部の目配せを受けた部下の警官たちは、いっせいに階段を駆け上がったり、廊下の奥に進んだりして散っていった。
(ああ、もうだめだわ! キースさん、ごめんなさい! ドイル様、申し訳ございません…)
 思いつつ、メイドさんは階段をゆっくりと上がった。警部もついて上がろうとしたが、たまたま外から報告の伝令が来て話し込んでしまった。
(しめた! まだチャンスはあるかも…)
「鍵がかかっている部屋が多いと思います。わたしが開けるか、マスターキーをお貸し致します!」
 警官たちは定法通り、廊下の手前の部屋部屋から調べようとしていた。
 ブライディーは彼らを追い越して、キースが眠っている客間…自分が寝るはずだった客間のドアにかかっていた魔除けのひいらぎの飾りを、手前隣のカラッポの部屋のドアに掛け替えた。
 警官が飾りの付いたカラッポの部屋を調べ終えた時、ブライディーは廊下の窓から通りを見下ろして叫んだ。
「あっ! あれは?」
「何だ?」
 警官たちが窓の外を見ようと駆け寄ってきた隙に、メイドさんはひいらぎの魔除けの飾りをキースがいる部屋のドアに戻した。
「おい! いつまでかかっているんだ?」
 そこへ警部が上がってきた。
「どこまで調べたんだ?」
「飾りの付いた部屋、までであります」
「早くしろ! 本官は物置などを調べる」
「はい」
 警官たちは飾りの付いた部屋を飛ばして、改めてその次の部屋から調べ始めた。

 警部はブライディーを従えて物置や納戸などの戸を開き、ランプの光を当てて舐めるように調べたが、無論何も見つけられなかった。
「よしっ、引き揚げるぞ!」
 苦々しげに叫んで部下たちを呼び集めると、絨毯に汚れた靴跡を残して帰っていった。
 ブライディーはすぐにでもキースのいる部屋に戻りたかったが(誰もいなかったはずの部屋にすぐに灯りが灯ると、外から見張られていた時にバレる)と思って、とりあえず台所で、薬草を煎じて熱冷ましの薬湯をつくることにした。(アスピリンの発売は一九〇〇年。ペニシリンはさらに約三十年後)あれだけ大怪我をしていたら、熱が出ることはよく分かっていた。

 案の定、外から屋敷全体の様子を見張っていたいたブレード警部と部下たちは、台所の灯りだけが付いたのを見てイライラしていた。「あの小娘、この夜中に一体台所で何をしているのだ?」
「おおかた小腹がすいたので夜食でも作っているのでは?」
「ええい、いまいましい! 他を当たるぞ!」

 外の気配がしなくなったと思ったブライディーは、出来上がったばかりの薬湯を客間に持って上がった。
 キースはやはり、痛みと熱のせいでうなされていた。
「キースさん、お薬ですよ。飲んでください…」
「有難う…」
 青年はゆっくりと、差し出された薬湯を飲み干した。
「…懐かしいな… ガキの頃、母親が飲ませてくれた薬と同じ味だ…」
「わたしも亡き母親が作っているのを見て覚えました」
「ブライディーさん、君の故郷はどこだ、良かったら教えてくれ」
 メイドさんは、ウォーターフォード近くの断崖の上の小さな村の名前を言った。
「同じアイルランドでも南のほうだな。俺は北部のベルファストの町育ちさ」
「わたくし、ベルファストは行ったことがこざいません」
「結構工場とかもあって、アイルランドでは豊かなほうだった。…あいつら、イングランド人の連中の締め付けが強くなるまでは…」
「あの… こんな時に何ですけれど、キースさんには好きな女性のかたがいらっしゃるのですか?」
 しばらく沈黙があった。
「…いるよ。上着の懐中時計をもってきてくれ…」
 言われたとおりにすると、キースはその蓋を開けて蓋の内側を見せた。そこには、セアラやフィオナと甲乙付けがたい美しい少女の写真が貼り込まれていた。
「キースさん、お願いします」 ブライディーは大きく目を見開き、相手の瞳を見つめて言った。「…このかたのために、どうか死なないで、生き延びてください! そして、もう他の人を傷つけようなどとは考えないようにしてください!」
 前よりも長い沈黙があった。
「…それは、難しい…」
「なぜですか?」
「失礼だがブライディーさん、君にきょうだいはいる?」
「わたくしは一人っ子です…」
「ぼくにはきょうだいがいっぱいいた… クリスマスの時はみんなが集まって、それはそれは賑やかで…」
「わたくしも貧救院にいた頃は賑やかなクリスマスを…」
「そうか。済まなかった、謝る。…そう言えば『お兄ちゃん』もチラッとそんなことを言っていたな。…だが、家主がイギリス人に変わった途端、家賃も税金も値上げしやがって、おまけに一日も待って貰えず、みんな寒空に追い出された… あいつら、ベルファストを自分たちと、自分たちに尻尾を振る犬だけの街にするつもりなんだ」
「……」
 ブライディーはつい数日前にここで行われた華やかなパーティのことを思い出した。
 オクタヴィア姫の影武者を引き受けて、バッキンガム宮殿のダンス・パーティに潜入したことも…
「ちっちゃいきょうだいたちも、働かなくてはやっていけなくなってあっちこっちに奉公に出たり、出されたりした。みんな『クリスマスにはまた家族みんなで集まろうね』と約束を交わしたんだけれども…」
 キースの目に光るものが溢れた。
「さぁさ、今夜はクリスマス・イヴですよ。お互い辛いこと悲しいことを思い出すのはお休みにして、ゆっくり休んでください。わたしも、この部屋で休ませて頂きます」
 ブライディーは、ドアの近くに簡易ベッドを持ち込んで設営して、ようやく再び横になった。
(お兄ちゃん、わたし、やれるだけのことはやったわ… でも、明日からどうしたらいいのかしら?)
 まるで繭のように毛布にくるまったメイドさんの脳裏に、福音書の一節が浮かんだ。
『明日は明日が思い煩う』
 くたくたに疲れていたのだろう、ことりと眠りに落ちた。

 翌朝、ブライディーは目を覚ますと一番にキースの様子を見に駆け寄った。キースは安らかな寝息をたててぐっすりと眠っていた。 そっと額に手を当ててみると、熱も引いているようだった。おしぼりを交換しても目を覚まさなかった。
 窓の外は一面の銀世界がガス灯に照らし出され、時おり屋根に雪をためた馬車が雪道に蹄鉄と轍の跡を残して行き交っている…
 素早く着替えて先日のパーティーの残り物で朝食を取り、キースのために卵入りのパン粥を作り、会員様買い置きの新品の肌着を持って客室へ戻ると、彼はまだすやすやと寝ていた。
 そこで、メイドさんは郵便受けにクリスマス・カードを取りに行った。手早くそれぞれ会員様宛のものと、自分やポピー宛てのものを仕分けた。
 シスター・セアラからは、召命者に、身分に応じて枚数が支給される一八九五年ヴァチカン法王庁公式のクリスマス・カードで、ルネサンスの著名な画家によるベツレヘムにおける基督生誕の様子が、古典的な手刷りの石版画で刷られていた。
(セアラ様は、貧救院を出てから、毎年下さる…)
 フィオナ・ウォーターフォード男爵令嬢のは、ウォーターフォードの職人の作によるガラスの母子像の着色写真だった。
 オクタヴィア姫からはバッキンガム宮殿の立派なクリスマスツリーの着色写真。
 幼なじみのケリーは、天使に扮した自分の写真…
(とてもきれいに写っているわ。自分で写した…自写像なのかしら?)
 ブライディーは思わずしげしげと見とれてしまった。
 アレイスター・クロウリーからはケンブリッジのクリスマス風景。サダルメリク・アルハザードからは「東方三博士の礼拝」
『東方三博士はそれぞれバビロン、ペルシア、イエメンの出身で、このうちのイエメン出身の博士バルタザールは、ぼくの遠い祖先らしいです」と書き添えられていた。
 安倍薫のカードは、「みずら」という奇妙な髪型の昔の日本の王子が、馬屋でお姫様に抱かれている図だった。
『日本の聖徳太子も、厩舎でお生まれになったのです…』
 この春にデイジーの身代わりを頼んだアンジェからはブルターニュのストーン・ヘンジの真上に輝く太陽の様子、ネス湖に行ったときに知り合ったネッティからはクリスマスでライトアップされたインヴァネスの街並み、そしてニューナム女子大学で知り合ったゼリューシャからは、東欧の東方正教会かロシア正教会秘蔵のイコンのカードが来ていた。
(大変! このお三人にはお出ししていないわ!)
 焦ったものの、ネッティ以外の二人は、署名だけでリターン・アドレスは書かれていなかった。ゼリューシャのカードにはルーマニアの切手が貼ってあって、消印はブカレストと読みとれた。
 ブライディーはそれらのカードを屋根裏のメイド部屋の自分のベッドの壁に手早くピンで留めて飾ると、卵入りのパン粥を温め直してキースのところに戻った。
 今度は、キースは起きていて、すっかり明るくなった歩道を、子供たちが雪玉を転がして雪だるまを作っていた。
「メリー・クリスマス、ブライディーさん」
「メリー・クリスマス、キースさん、具合はいかがでしょう?」
「お陰様で… 本当に迷惑をかけてしまったね…」
 メイドさんが熱いタオルを出すと、彼は気持ちよさそうに顔を拭い、パン粥をきれいに平らげた。
「おいしかったよ、ごちそうさま。何か『お兄ちゃん』がつくづく羨ましく思えてきたよ」
 ブライディーはまたうつむいて顔を赤らめた。
「…時に、クリスマスのミサには行かなくていいのかい?」
「わたくしは昨夜のイヴの御弥撒に参らせて頂きましたので、今日は静かにここで祈らせてもらおうと思います…」
「ぼくは、今年のクリスマスこそは、ついに一人ぼっちで迎えるんだと思っていたけれど、それがこんな天使みたいな人と…」
 キースはぽつりと言った。
「わたくしも、今年のクリスマスは一人だと… しかし…」
「どうだろう? これだけいろいろしてもらってその上にとても厚かましいのだけれど、今日一日、いや、昼までの半日、ぼくの妹になってもらえないだろうか?」
 メイドさんは、ほんの少しためらってから言った。
「いいですよ。『お兄ちゃん』は何人かいたほうが心強いです」
「だったら、トランプか何かをして遊ぼう!」

 キースとメイドさんは遊戯室から持ってきたトランプで、ひとしきり七ならべやババ抜きをして遊んだ。しかし、なぜかメイドさんはカード・ゲームにめっぽう強く、何度やってもなぜか勝ってしまうのだった。
…そう、ブライディーは日頃からデイジーやケリーから、トランプ・ゲームの対戦相手としては嫌われていたのだ。
「やっぱりトランプは二人じゃああまり面白くないな」
 キースは負け惜しみともとれなくないようなことを言った。
「メイド仲間のポピーが、『学習双六』というものを買っていたので、それを持ってきてみます」
 ブライディーは新聞を広げたくらいの大きさの双六をベッドの上に広げた。
 そこには平版で、ヨーロッパやアメリカの地図が描かれていて、主な都市を回ってきてまた振りだしのロンドンに帰ってくる、という趣向の双六だった。
 しばらくのあいだ、二人は交互にサイコロを振って駒を進めて楽しく遊んでいたが、やがてメイドさんの駒が太平洋を渡って、アメリカのボストンや、ニューヨークや、フィラデルフィアのあたりにさしかかると、駒を進める指先が小刻みに震えた。
「うん、どうかしたのかい?」
「いえ、『お兄ちゃん』はいまごろ、アメリカの、ニューイングランドで、どんなクリスマスを送っているのかと…」
「大丈夫だよ」
 キースは片目をつむってみせた。
「いずこも同じクリスマスだよ。ニューイングランドは、プロテスタントが八、九割だが、カトリックも大勢いるし、教会だってある。 そのうちの一つで、きっと君の幸せを祈っていると思うよ」
 励ましたつもりだったが、メイドさんの瞳からはポロポロと涙が流れた。
「…俺、何か悪いことを言ったかな? それだったら謝るよ…」
「いえ、違います… ごめんなさい…」
 ハンケチで涙を拭い、気を取り直したメイドさんだったが、今度は、キースの駒がリヴァプールやグラスゴーやマンチェスターといったイギリスの大都市にさしかかると、駒をつまんだ手が動かなくなってしまった。
「どうかなさいましたか、キースさん?」
「いや、グラスゴーには、二人のきょうだいが働きに出ているんだ。リヴァプールやマンチェスターにもひとりずつ…」
 そして、とうとうベルファストに止まったとき、キースは「くそっ!」と叫んで駒を地図の上にねじ込んだ。そのせいで、ベルファストの上に穴が開いてしまった。
「キースさん!」
 メイドさんは思わずその手をつかんだ。
「すまない… 俺もつい、離ればなれになっている身内のことを思い出してしまって…」 せっかくの楽しい気晴らしのはずだったが、二人とも、もうそれ以上遊び続けることはできなかった。
 昼食のハムと卵のサンドイッチと、サラダ、スープ、それにリンゴのデザートは、キースとともに客間で食べた。彼がほとんど残さなかったのを見て、メイドさんは一安心した。
 食事のあいだ、ブライディーはドイルたちとともにこの一年、アイルランドや巴里や、ネス湖を旅して大冒険をした話をした。
 キースは時おり頷きながら、メイドさんが語る話をじっくりと聞いてくれた。
「…時にブライディーさん、そんな大冒険の話は『お兄ちゃん』にもしているのか?」
「いえ、ちょっとは話したり、手紙に書いたりしているんですけれど、あまり詳しく書くと『お兄ちゃん』が心配すると思って…」
 皿を下げて洗って、再び戻ってみると、キースが上着に着替え、ふらつく足取りで立っていた。
「キースさん!」
「すまない、ブライディーさん、これ以上君に迷惑をかける訳にはいかない…」
「それでしたら、せめて日が暮れるまで待ってください。まだ警察がそのへんにいるかもしれませんし、陽が落ちれば、わたくしに策もございます」
「ブライディーさん」 キースはメイドさんの肩をつかんで言った。「…こんなにいろいろお世話になって、親切にしてもらって、本当に有難う。…だけど、いまのぼくにはそれに少しも報いることができない」
「そんなことはいいんです」
「そこでブライディーさん、これから先、万一、君や君の親友に危害を加えるような者が現れた場合、遠慮なく『この』新聞の三行広告で俺を呼んで欲しい。俺は、すみやかに、君を脅かすそいつを…たとえそいつが何者であっても…消し去る…」
 メイドさんは最初、キースが一体何のことを言っているのか分からなかった。

「あの、それはどういう意味でしょうか?」
「いま言った通りの意味だよ。もしも…」
 キースの顔つきは急に、いままでとは打って変わった厳しい鋭く、険しいものに変わった。「…ブライディーさん、君はとてもやさしく穏やかで親切な人だ。だから、今はそんなことはとても思いもよらないだろうし、ばかげた恐ろしいことにしか聞こえないだろう。しかし、いつか、万一、その思いも寄らない恐ろしいことが目の前に迫ったら、その時は俺のことを思い出してくれればいいんだ」
 それを聞いたメイドさんは、サッと客間から走り出た。
 キースが何気なく上着の、銃弾が当たった部分に目をやると、きれいに染み抜きがしてあって、よく似た生地で、ぱっと見ただけでは分からないように継ぎが当ててあった。
(よく気が付く子だなぁ…)
 キースはまた「お兄ちゃん」が少し羨ましくなった。
 彼がゆっくりと部屋から出て行こうとすると、とって返してきたメイドさんと鉢合わせをした。メイドさんの両手には、ドイルのものらしい拳銃が握られていた。
「…お願いしますキースさん、どうかごきょうだいのために、『お兄ちゃん』のために、そしてわたしのために、これ以上人を傷つけないと約束してください! これ以上危ないことはしないと約束してください!」
「だから、それはできないんだ…」 キースは立ち止まって目を伏せた。「…きょうだいたちは、まだまだ自分が生きていく分を自分で稼ぐことができない。せいぜい半分くらいだ。足りない分は、俺が足してやらなければならない… 『あいつら』もこんな俺を頼りにしてくれている… 拳闘士として、夜な夜なリングに立って稼いでいると信じてくれているんだ…」
「もし、貴男に万一のことがあって、ごきょうだいのかたがたが、貴男の真実の姿を知ってしまったら、その悲しみはいかばかりでしょう?」
 メイドさんは拳銃の引き金を引き絞りながら叫んだ。
「よすんだブライディーさん。貴女には、たとえ天地が逆さまになっても撃つことなんかできない…」
「わたくし、二度ほど撃ったことがあります。二度とも、デイジーやドイル様を守るためでした。…キースさん、貴男がいまの所業を続けていれば、いつか必ずその累が、愛するごきょうだいに及ぶことでしょう。ですから、いますぐそういうことは止める、と約束してください!」
「じゃあ、言わせてもらうが、君の『お兄ちゃん』はどうなんだ? アメリカで、君のためにかなり危ない橋を渡っていると聞いたが、どうして君もアメリカに渡って、その銃口を『お兄ちゃん』に突きつけて同じことを言わないんだ? 『たとえどんなに苦労をしても、二人で静かに平和に暮らしましょう』と…」
 メイドさんの瞳が潤んだかと思うと、また涙がどっと溢れてしまった。
 キースは素早く駆け寄ると拳銃をひったくった。弾倉を見てみると、弾丸は一発も入っていなかった。
「どうか、気にしないで欲しい。世の中には、どうしようもないことというものがたくさんあるんだ。例えどんなに深く愛し合った仲でも、いや、深く愛していればいるほど、それをいつまでもいつまでも保ちたいがために、何か形のあるものが必要だ、と思えてくるのも無理はない。福音書の教えには反するけれども… そう、『マリアとマルタ』の話の通りに…」
 ブライディーはクリスマスのプレゼントとして「お兄ちゃん」から贈られてきた銀の婚約指輪に目を落とした。
 キースは銃口のほうを握って、拳銃をメイドさんに返した。
 曇ってきた、とばかり思っていた空は、いつしか暮れかけて、長い冬の宵闇が迫っていた。
「お待ち下さい、キースさん!」
 メイドさんは今度はいろんな付けひげやドーランなどがセットになったドイルの変装用の鞄を持ってきた。
 二人はときどき手鏡を覗き込みながら、キースの顔を皺が寄ったひげもじゃのリア王のような感じに変えた。

「有難う、ブライディーさん。今年のこのクリスマスのことは、一生忘れないよ」
 キースはそう言い残して、新たに粉雪の舞い始めた通りに出て行った。
 しつこく見張っていたブレード警部たちも、老人の姿はほんの一瞥しただけだった。
「ただいま帰りました、ブライディーさん」 キースとほとんど入れ替わるようにしてポピーが帰ってきた。「お寂しくはなかったですか?」
「いえ」 メイドさんはポピーを抱きしめて言った。「…そんなことはなかったわ。そんなことはなかったわ…」

「お屋敷に電話がやってきた」

 クリスマスも終わって、ロンドンの街にも再び活気が戻ってきた。二、三日休んでいた官公庁や会社、大小の商店もいっせいに再開されて、いろんな物事が再び動き出した。
「ブライディー、きょうは電話局の工事の職人さんがやってくるから、もし何か頼まれたら手伝ってあげてくれたまえ」
 ドイルは家族からクリスマス・プレゼントに贈られたらしい、ま新しいブライアーのパイプをふかしながら言った。
「『電話』でございますか?」
「そうだよ。とうとう我が『英国心霊研究教会』にも引くことになったんだ」
 ブライディーはウォーターフォード男爵の屋敷で、男爵様や令嬢のフィオナが電話をかけていたり、かかってきた電話に出ているのをよく見かけた。だが、ブライディー自身は、生まれてこのかた電話に出たこともなければ、ましてやかけたこともなかった。
「えーっ! ついにうちにも電話が来ることになったんだ…」
 さすがにいつも進取の気構えに溢れているデイジーも口をポカンと開けて、あっけに取られていた。
「玄関から少し入ったところ、メイド控え室から走って出られそうなところに取り付けてもらおうと思っているのだが、どうだろう?」
「はい。わたくし、ベルが鳴ったら走って受話器を取るように致します」
「うん、頼むよ」

 ドイルが言ったとおり、昼前に工事の職人たちがやってきて、通りから電話線を這わせて、玄関奥、メイド控え室から少しのところにクランクと、黒い受話器がかかった木箱を設置した。
「電話をかける時は、受話器を取ってクランクを回して電気を起こし、交換手が出たら話したい相手の番号を言って下さい。かかってきた時は、ベルが鳴るのでそのまま受話器を取って話してください」
「はい…」
 職人たちが帰ったあと、ブライディーもデイジーもポピーも、しばらく少し離れたところからしげしげと眺め続けていた。
「本当にこんなもので、遠く離れたところの人とお話ができるのかしら?」
 デイジーは半信半疑の視線を送り続けていた。
 とその時、目の前の電話がジリリーン、ジリリーンとけたたましく鳴った。メイドさんたちは思わずビックリして飛び上がってしまった。
「ブライディーさん、出て下さい!」
 ポピーが叫んだ。
「そうよお姉ちゃん! たかが電話じゃないの!」
 デイジーに促されて、ブライディーは受話器をとった。
「もしもし…」
 向こうからは聞き慣れた声がした。
『やぁ、ブライディー、聞こえるかい?』
「ドイル様!」
『その様子だと、工事は無事に完了したみたいだね。…いま、ロンドン郊外の、さる貴族のお屋敷からかけているのだけれど、とうだろう?』
「まるで、隣のお部屋にいらっしゃるみたいによく聞こえます」
『そうか、よかった。これからはずっと、電話がかかってきたら、相手の名前と用件をしっかりと承っておいてくれたまえよ』
「はい。かしこまりました」
『じゃあ、もう切るよ』
「はい」
 受話器を置いたあと、ブライディーは早速メモ用紙と鉛筆を二、三本持ってきて電話機の横に置いた。それから、椅子にも脚立にもなるアイデア家具を運んできて脇に置いた。
「この一段目に乗ったらデイジーも楽に受話器を取れるし、会員さんにはお年を召したかたも多いので、座って電話をかけたり出たりできると思うのだけれど、どうかしら?」
「いい考えだと思いますわ!」
 ポピーは賛成し、デイジーは実際に脚立に乗ってみた。
 ブライディーはさらに、割り振られた電話番号を大きな数字で書いて、それを電話機の上に立てかけた。
「どうしてわざわざ自分のところの電話番号を貼り付けるの?」
 デイジーは首をかしげた。
「こちらから掛けた時に、もしも目的の相手がお留守で、例えば使用人のかたが出られたら、『恐縮ですが、戻られたら折り返しこちらに掛けてください』と、番号と一緒に言えるでしょう? それでなくてもこの電話、大勢のかたがご利用されそうだし、自宅にも電話を持っておられるかたは誤って自宅の電話番号を言ってしまうミスを防げると思うのだけれど…」
 デイジーもポピーも、感心して頷いた。

「ブライディー、来年の志を立てる」

 真冬の澄んだ空気を響かせて、人々や馬車が行き交うロンドンの通り。
 冬用のウールのお仕着せを着たメイドさんが、両手をこすりあわせて白い息をはきかけながら誰かをじっと待っていた。
 しばらくすると、自転車に乗った郵便屋さんが紐でくくった分厚い葉書や手紙や印刷物の束を持ってやってきた。
「いつも有難うございます」
「はい、ブライディーさん、きょうもたくさんあるよ」
 郵便配達が行ってしまうと、メイドさんはいつものように郵便を抱えてすぐに屋敷の中には入らずに、自分宛のパンフレットの入った大きな封筒をいくつか抜き取ると、それをエプロン・ドレスの内側に隠してから、中に入った。
「デイジー、ポピー、ごめんなさい。郵便物の仕訳をお願いね」
 束をちっちゃいメイドさんたちに押しつけると、ブライディーは胸のあたりを押さえ持つようにして屋根裏のメイド部屋に上がった。
 恐る恐る封筒を取りだして封を開けた。
 パンフレットにはロンドンの「○○看護学校入学案内」と書かれていた。
(「春から一緒に学びましょう。夜学、単位制度あり。仕事を持っていても好きなときに学べます。修了までの期限は特にありません。成績優秀者には奨学金制度もあります。国家試験合格率、就職率抜群、通学交通至便…」)
 そう、ブライディーは、クリスマスのキースとの出会い以来、(何か、准看護婦さんの勉強でもしていれば、「お兄ちゃん」のためにも、将来家庭を持っても、社会のためにも自分のためにも役に立つのではないかしら?)と思い立ったのだった。
 学費も、メイドをやってこつこつと貯めてきた貯金を使えば、払えないほどの金額ではなかった。
(…でも、ドイル様たちは許してくださるかしら? それに、「義務教育の卒業証明書が要ります」と書いてあるけれど、貧救院でシスターたちから読み書きを習ったわたしは、そんなものもらっていないし…)
 ちょっと悲しい気分になって、パンフレットを小さな書棚に隠してから階下へと降りて行くと、デイジーがニヤニヤと笑いながら後ろ手に隠していた大きな角封筒を渡してくれた。
「はい、お姉ちゃん、お姉ちゃん宛のをまだ忘れているよ」
 それは、また別の看護専門学校のパンフレットだった。…そう、近所にある二、三校のを取り寄せたのがいっぺんに来てしまったのだった。
「エヘヘ… お姉ちゃんもついにとうとう本気でやる気になったんだ! 結婚とか子育てほどツマラナイものはないからね。これからの女性は、ずばり、キャリアアップによる自立よ!」
 デイジーはこれまでになく親しげな視線を送ってくれた。
「いや、これはその… そういう訳じゃあなくて…」
「それならどういう訳?」
「ドイル様や皆様や、デイジーやポピー、あなたたちのお許しも得なければならないし…」
「それだったらぼくも大賛成だよ」 ドイルがパイプをふかしながら現れた。「…仮にだよ、准看護婦の免許取得には至らずに、途中でやめてしまうことがあっても、それまで学んだことは決して無駄にはならないはずだ」
「しかし、このお屋敷のお仕事が…」
「なあに、若いから頑張れるさ。逆に少しでもやる気になった時に頑張っておかないと、年を取るほどに難しくなると思うよ。なんなら学費を半分出してあげよう。デイジーもこの春から中学校に上がってもらう予定だし、ポピーも学校に行ってもらう予定だからね」
「有難うございます…」
 ブライディーは目頭を拭った。
「そうだよお姉ちゃん、遠慮することなんかないよ。あたしだって、ドイル様に商業簿記の通信教育の学費を出してもらうんだよ」
 デイジーもまるで自分のことのように興奮していた。
「…しかしわたくし、この募集要項に書いてある『義務教育の修了証明書』がありません…」
 大きなメイドさんは悲しそうに目を伏せた。
「それだったらこのぼくが、『義務教育修了と同程度の学力有り』という証明書を書いて上げよう」
 ドイルは優しくメイドさんの肩を叩きながら言った。
「わしも書いてやろう」 クルックス博士が難しい顔をして言った。「…これでも理学博士だからな」
「わたしも書いて上げよう」 ウォーレス博士も言った。「…これでも生物学博士だからね」
 さらにドッジソン教授も続いた。
「ぼくも書いてあげよう。これでも数学の教授だからね」
「有難うございます、皆様。有難うございます…」 ブライディーは身体を折るようにしてお辞儀をし続けた。「…でも、こんなにして頂いて、もしも専門学校の入学試験に落ちてしまったりしたら…」
「大丈夫、君なら必ず合格するさ。それにもしも不安なら、過去の問題集を取り寄せて受験勉強をすればいいんだ」
「はい。そうします!」
 大きなメイドさんは、晴れ晴れとした表情で言った。
(これでわたしにも目標ができたんだ!)
 まだまだ「取らぬ狸の皮算用」だったけれども、晴れて准看護婦の免許を取得できた時の、ドイルたちや、シスター・セアラや「お兄ちゃん」の喜ぶ姿がまざまざと目に浮かんだ。

「ブライディー、振り袖を着る」

 一八九六年、一月一日がやってきた。
 ブライディーたちは、百年先の日本からやってきた多少いい加減なところのある陰陽師、安倍薫から「日本ふうのお正月を楽しみませんか?」という招待状をもらっていた。
「行っておいで。明日からまた頑張ってもらうんだから」
 ドイルの言葉に背中を押されて、三人のメイドさんはよそ行きのコートを着込んで辻馬車に揺られて、ロンドン郊外の小さな一戸建てにやってきた。
 門の前には左右一対の、竹を切って松などを飾ったものが立っていた。
「これは、何かしら?」
 デイジーが首をかしげる。
「さぁ、彼の国のクリスマス・ツリーのようなものじゃあないかしら?」
 ブライディーは首をかしげながら答えた。
「やあやあ、あけましておめでとう!」
 刀は差していないし、ちょんまげではないものの、サムライふうの羽織袴姿の薫が、派手なドレスの伊吹と、空色地に花柄小紋の振り袖姿の比良の、二人の式神を従えて出迎えてくれた。
「日本人は元旦には初詣に行くんだけどねぇ、さすがにロンドンに神社はないから、代わりに遊ぼうよ」
 メイドさんたちは、お鏡餅を飾ってあるテーブルの椅子に座って、目を白黒させながら、お屠蘇に「おせち料理」にお雑煮をご馳走になった。デイジーは危うくお餅を喉につっかえるところだった。
「漫画家を目指しておられるアキコさんも、いまごろ東京で、このようなお料理で新年を祝われておられるでしょうか?」
 ブライディーは、東京で世話になった友達のことを思い出して訊ねた。
「うん。そうしているかもしれないし、トーストにジャム、マーガリンを塗って済ませているかもしれないな」
 薫は苦笑しながら答えた。
「どお、貴女がたも、わたしが着ているような振り袖を着てみない?」
 比良が勧めてくれた。
「でも、着るのが難しそうで…」
 ブライディーは口ごもったけれども、デイジーとポピーは大いにそそられた様子だった。
「お姉ちゃん、着せてもらおうよ! 異国の民族衣装を着る機会なんて、そうそうないわよ!」
 かくして小一時間後、振り袖姿のメイドさんたちが勢揃いした。日本髪は無理だったので、ショートヘアをなんとかそれらしく髪飾りで飾って。
 ブライディーのは薄いピンクの桜の花柄、デイジーのはその名の通り可愛らしいひな菊の柄、ポピーのは虞美人草の柄だった。フェイクのウサギのショールを首に巻くと、見事な出来映えだった。
「おおっ、三人ともよく似合っているよ。写真撮影会をしよう!」
 薫がにわか写真師になって伊吹や比良とともに記念写真に納まった。
(焼き増しをドッジソン教授に差し上げたら、きっと喜んでもらえるわ)
 コルセットと同じように、きつく絞った帯が苦しかったけれども、ブライディーの顔からはひとりでに微笑みがこぼれた。
「あの… アキコさんもいまごろ東京で、着物を着て初詣に行かれているのでしょうか?」
「どうだろう… 彼女、テレビ局をクビになった吉沢君と仲良くなったみたいだから、想像の通り、着物を着て明治神宮あたりに行っているかも…」
「まあ、それは良かったですわ!」
「いや、それともジーパンにジージャン姿でテレビの前であぐらをかいて、ジャンクフードのやけ食いをしているかも…」
「さあさあ、せっかくだから羽子板で遊びましょう!」
 比良が羽子板と羽根をもってきた。
「バドミントンなら負けないわよ!」
 メイドさん組は、デイジーが腕まくりをしながら先鋒を買って出た。で、アッという間に薫をやっつけた。伝説の陰陽師の子孫も、頬に大きく墨で×印を付けられてさんざんだった。
「おのれこしゃくな!」
 ドレスの裾をくくった伊吹が主の仇を討とうと息巻いたが、あえなく返り討ちにあってしまった。
「後は貴女一人だけよ、比良さん!」
 だが比良は、天女のような優雅な動きでデイジーが次々と打ち込む羽根をことごとく打ち返し、さすがにちっちゃなメイドさんも、ついに返しそこねた。
「無念…」
 鼻の回りを墨の○印で囲まれながら、デイジーは下がった。ポピーもまた、比良の敵ではなかった。
「申し訳ございません…」
「さてと、双方残り一人か…」
 比良の羽子板が目にも止まらぬ速さで一閃したものの、ブライディーは板を逆手に持ち替えて見事に式神の胸元に打ち返した。
「やったあ! 勝った! これで今年も幸先がいいわ!」
 デイジーは大はしゃぎだった。

「ブライディー、空を飛ぶ」

「あ、当たってしまったわ…」
 年の暮れも押し詰まった頃、近所の商店街の売り出しでもらった福引きの宝くじの番号を、張り出された番号に照らし合わせていたブライディーは、思わず息を呑んだ。
「五等…石鹸
 四等…砂糖十ポンド
 三等…薪炭一ヶ月分
 二等…ツイード生地一着分」
 そして一等はなんと、「ペアで、飛行船でロンドンとロンドン郊外を上空から周遊」だった。

「どうしましょう! 『飛行船』だなんて! 二等に変えてもらえないものでしょうか?」
「心霊研究協会」の屋敷に帰ってきた大きなメイドさんは、おろおろして言った。
「せっかくなんだから、乗ってみればいいじゃないか」
 ドイルはニコニコして言った。
「ドイル様、一緒に乗って頂けますか?」
「ぼくはロンドン〜パリ間の定期便に二、三度乗っているからいいよ。デイジーかポピーと一緒に行ってきたまえ。それはそれは、言葉では言い尽くせない景色が見られるよ」
「あ、あたしは遠慮するわ!」
 いつでもどこでも一緒について行きたがるデイジーだったが、この時ばかりはなぜかかぶりを振って後じさった。
「…だって、落ちるかもしれないでしょう?」
「デイジー、貴女もしかして高所恐怖症じゃないの?」
 大きなメイドさんは腰をかがめ、顔をにやつかせながらちっちゃなメイドさんを見つめた。
「そ、そんなんじゃないよ! ただ、馬車や汽車や船とかと違って、好かないだけだよぉ」
「じゃあポピーと乗ってくればいい」
「わたくしはアルプスの山育ちで、峠から麓の村々を見下ろす光景は、よく見ておりましたが… それはそれは箱庭のようで、とても美しい風景でございます」
「山と、都市の光景はまた違うよ。ぜひ行ってきたまえ」
 結局、新年早々、ポピーと一緒に行くことになった。

 その日は、遊覧飛行にふさわしい、キリッと冷え込んでカラリと晴れ上がった上天気だった。
 ヨークに「ご養女修行」に行ったときに仕立てたコートやケープでめかし込んだブライディーとポピーが指定されたテームズ川河口近くの川岸に赴いてみると、そこには汽車二、三両ほどもある大きな葉巻型の飛行船が何本ものとも綱で繋留されていて、おそらく福引きの宝くじとは関係はなさそうな貴顕淑女がぞくぞくと乗り込んでいた。
「やっぱり、やめておきましょうか?」
「何をおっしゃるんですか。ここまで来て…」
 尻込みするブライディーだったが、ポピーに背中を押されるようにして乗船した。
 定刻になると汽車のようにベルが鳴り、扉が閉じられてとも綱がいっせいに解かれた。 飛行船は文字通り船のようにぐらっと揺れたかと思うと、ふわりと浮き上がった。
「どうしましょう、飛んでいますわ!」
 窓際の席に座ったブライディーは、次第に遠ざかっていく地上と、小さくなっていく手を振る見送りの人々を見下ろしながら言った。「大丈夫ですよ。せっかくなんですから楽しみましょう!」
 ポピーは山育ちらしく、「耳鳴りよけ」のキャンディーを渡してくれた。
 飛行船は、「鳥のように」早くはないものの、ゆっくりと高度を上げ、ロンドン塔やロンドン橋、国会議事堂やバッキンガム宮殿やロンドンの街並みをはるか下に見ながら移動した。
「本当! すごいわ! 箱庭みたい!」
 最初は小刻みに震えていたブライディーだったが、慣れるに従って窓から下を覗き込んだ。
「『英国心霊協会』のお屋敷や、ホワイトチャペル街はどのあたりかしら? …あっ、あの放射状の通りがピカデリー広場だわ。馬車も人も、おもちゃみたい! あのお家やお屋敷の一軒一軒にいろんな人が暮らしておられて、喜んだり、悲しんだり、笑ったり、泣いたりしておられるのですね…」
「きょうは晴れてよかったですね」
 ポピーも目を細めた。
「アイルランドやアメリカは見えないかしら?」
 ブライディーは遠くを眺める仕草をした。 飛行船は工場地帯にさしかかった。煙突からもくもくと上がる煙に、視界がさえぎられた。
 そこを通過して、郊外に出ると、緑の田園地帯が広がった。移動する羊や牛の群れが絵巻物のようだった。
 遊覧飛行を終えて再び地上に降り立ったブライディーは、息を弾ませ、口元をほころばせていた。
「その様子だと楽しかったみたいだね」
 ドイルが微笑みながら言った。
「楽しかったです。本当に楽しかったです!」
 大きなメイドさんは珍しくはしゃいでいた。「今年も嬉しいことや楽しいことがいっぱいあったらいいね」
 ドイルはパイプに新しい煙草を詰めながら言った。

     (次のエビソードに続く)





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