「ブライディーのハロウィン」(約90枚)に続いて、「東京のブライディー」(約65枚)

 ブライディー・ザ・マジックメイド
「ブライディーのハロウィン」

「ブライディーさん、その仮面は一体何なんですか?」
「英国心霊研究協会」晩秋の昼下がり、ポピーは大きなメイドさんがボール紙と紙粘土で、角の生えた悪魔や、かぎ鼻の魔法使いや、魔女の仮面を作っているのを覗き込んで尋ねた。
「ああ、これはハロウィンの仮面よ。アイルランドの古いお祭りなの」
「ええ…」 ポピーは怪訝そうに言った。「…話には聞いたことはあるのですが、実際に見るのは初めてで…」
「そうかぁ… ポピーはアルプスの出身だったわね。アイルランドやスコットランドのケルト人が住んでいた地域では有名なお祭りなのよ。古代ケルトでは十一月一日が新年で、十月三十一日は大晦日なのよ。大晦日にはもろもろの悪魔や悪霊が徘徊するの」
「へぇー なかなか面白そうですね」
 隣にちょこんと腰を下ろしたポピーは、見よう見まねで器用に、欧州の伝説にある狼男の仮面を作り始めた。
「やぁ楽しそうだなぁ…」 パイプをくゆらしながらやってきたドイルが、思わず仮面を手にしてしげしげと眺めた。「ロンドンに出てきてからは、子供たちにも出来合えを買ってやるだけだったからなぁ…」
「ドイル様、何かご希望がございましたら作らせて頂きますが?」
 ブライディーはドイルの顔を見上げて訊ねた。
「そうだなぁ…」 頬杖をついたドイルは、しばらく考え込んでから言った。「じゃあ牧神の仮面なんかはどうだろう。難しいかな?」
「うっ…」
 ブライディーは言葉に詰まった。
「あたし、何でも作れますわ。ドイル様」
 ブライディーとは違って絵心のあるデイジーは、入ってくるなり紙粘土つかんで作り始めた。そしてあれよあれよという間に見事に、牧神の仮面を作り上げた。さらにそのあたりにあったい藁屑をハサミで細工して糊でくっつけ、パンフルートらしきものも作った。
「すごいぞデイジー、メイドさんにしておくのはもったいないみたいだぞ」
 ドイルはその人形を手にとって眺め渡して言った。
「エヘヘ… そうでもないですよ。これぐらい大したことないですよ」
「いや、凄いと思うよ」 ドイルの後ろから声がした。顔を上げるとソーホー街のアラビア語の書籍の本屋の店番兼配達係のサダルメリク少年が、荷物を持って立っていた。
「これはこれは、いつもご苦労さん」
 ドイルは受取の伝票にさらさらとサインをして返した。
「…デイジー、ドイルさんのおっしゃる通り、きみのは素人離れしているよ。台所にあった、瓜(ウリ)で作った亡霊のランタン、あれも君が?」
「そうよ。お姉ちゃんが作ると、くりぬく時に全部壊しちゃって…」
 ブライディーはデイジーのお尻をつねった。

「そぉ、有難う…」
「もし余裕があったら、ぼくらで悪魔と魔女の仮面のコンテストでもしないか」
「それは面白そうね」
 デイジーは顔を輝かせた。
「ぼくも寄せてくれ」 父親が妖精画家だったドイルも言った。
「デイジー、また資料の悪魔の挿絵で満足しないで、本物の悪魔を呼び出して騒動を起こしたりしないでよね」
 ブライディーはちっちゃなメイドさんの耳元に囁いた。
「大丈夫よ! いくらわたしでもそこまではしないわ…」
「本当に?」
「約束するわ」
 その時、ドイルがはたと手を打った。
「ただコンテストをするというだけではつまらないから、ぼくが金一封を出そう」
(『金一封』…)
 デイジーの瞳が一瞬キラリと光ったのをブライディーは見逃さなかった。
(ああ、ドイル様、余計なことを…)
 大きなメイドさんは眉間に皺を寄せた。
「どうしたブライディー、何か都合の悪いことでもあるのか?」
「あ、いえ、とんでもございません! 素晴らしいアイデアだと思いますわ」
「じゃあ決まりだ。ぼくも紙粘土を買ってきて子供たちと作ってみるよ。賞金を出さなくても済むようにね」
 ドイルはニコニコ顔で出て行った。
「ぼくも作ろうかなぁ… アラビアの魔神(ジン)の仮面を…」
 サダルメリクも思案げな顔をした。
(サダルメリク君も余計なことを…)
 ブライディーは両手で顔を覆いかけた。
「サダルメリク君も作るの?」 デイジーは眉を吊り上げて腕まくりをした。「よぉし… あたし、絶対に負けない!」

 その日の夜からデイジーは、お屋敷の本箱や書架書棚にある図版挿絵付きの悪魔について書かれた本を片っ端から読みふけった。
(うーん、どれもこれも通り一遍、月並みで平凡でイマイチよねぇ…)
(ちょっとこれはいいんじゃないか)と思う絵を、デッサンの練習かたがた自分なりに少し変更を加えてノートに写してみたものの、描き上がると、とても満足にはほど遠い出来なのだった。
(やっぱり本物よ! 本物に勝る迫力は、どこにもありはしないわ…)
 ちっちゃいメイドさんは本をバタンと閉じると、一人で何度も頷いた。
(アレイスター様をモデルにするというのも良さそうだけれど、皆様、アレイスター様のことをご存じだし… ここはやっぱり…)
 デイジーは挿絵を眺めるのをやめて、「悪魔の召喚法」やそのための魔法陣をせっせとノートに写し始めた。
(いきなり超高等な魔術を駆使して、大魔王を降臨させる、というのも難しいでしょうし、今夜は一つ、使い魔の小悪魔を召喚してみるわ…)
 術に必要なものを参照したところ、マンドラゴラや蝙蝠の羽根など、都会ではおいそれとは手に入らないものが列挙してあった。
(困ったなぁ… サダルメリク君に頼んだら分けてくれるかなぁ…)
 悶々としていると、窓辺から声がした。
「悪魔を呼ぶのに、複雑な手続きなんか要らないよ」
「えっ?」
 デイジーが顔を上げると、垂れ目の黒い子猫が、まるで自分の家のように堂々と入ってきた。
「ぼくはネロ。よろしく。早速だけれど、君の煩悩は、『ハロウィンの悪魔の仮面作りで優勝して、ドイル様から金一封をせしめたい』だよね?」
 黒猫は前足で器用に小さなノートをめくりながら言った。
「うん」
「『そのためにはできるだけリアルな悪魔の仮面を作りたい』?」
 デイジーはこっくりと頷いた。
「『普通の本に載っているような挿絵では満足できない』?」
 ちっちゃいメイドさんは大きく頷いた。
「魔導師でありながらエントリーしようとしているサダルメリク君にも負けたくない?」
「そう」
「では簡単だ。サダルメリクの先祖、アブドゥル・アルハザードが執筆し、サダルメリクも一冊所持している『死霊秘法』という秘本を紐解いて、そこに描かれている挿絵を参考にすればいい」
「そんな大事な本、おいそれとは貸してくれないよぅ…」
「借りるんじゃない。ちょっと見せてもらうだけさ」
「きっと鍵のかかる本棚にしまってあると思うし…」
「その点はなんとかなりそうだ」
「本当?」
「きみは次の休みの日、いつものように簡単な魔法を教えてもらう体で、お菓子を焼いて持っていくだけでいいんだ」
「でも万一盗み読みしているところがバレたら…」
「その場合は、『ちょっと興味があったから…』と可愛く笑ってごまかせばいいんだよ。
 リスクなくして成果は望めないよ」
「分かった。やってみるわ。無理っぽかったら諦めたらいいだけのことだから…」
「そうそう…」
 今度は黒猫が頷き返した。
「デイジー、早く帰らないとお義母さんが心配されるわよ」
 眠そうな顔をしたブライディーが、ランプを片手に図書室まで見回ってきた。
「はーい、分かりました」
 ちっちゃな明るく答えて本を元の棚に戻し、一階に降りていった。
「メイド控え室の火の始末を頼むわね」
「はーい」

 メイドさんたちが立ち去るのを待ちかねるように、黒猫は透明なような、半透明なような、どろどろの原形質の物体に崩れ去った。(クソッ マダマダナガイジカン カタチヲタモツノハムリダナ… ソレモコレモミンナアノイマイマシイエモノノセイダ… コンドコソ… コンドコソ…)
 大きなナメクジのようなそのものは、ぬめぬめと這いながら下水溝に、人間とは比べものにならない、不味い夢しか見ない下等な獲物を探し求めて降りていった。

 不思議な模様に囲まれた古代の鏡の中には、でこぼこの岩山と、ところどころに開いたクレーターの光景が映し出されていた。
「これがお月様? なんか何もなくて、退屈そうで、とても行ってみたいとは思えないところねぇ… あたし、巴里には連れて行ってもらったことがあるけれど、巴里のほうがよっぽどましだわ」
 ソーホー街にあるうなぎの寝床のようなアラビア語の書店の二階、一階の店舗には入りきらなかった本や巻本がうずたかく積み上げられている中にポツンと置かれた机を前にして座ったデイジーは、床まで届かない両足をぶらぶらさせながら言った。
「でも、こんな短い時間稽古しただけで、月の世界を写して見られるようになるなんて、すごいよデイジー」
 傍らからサダルメリク・アルハザードが覗き込みながら囁いた。
「大したことないわよ」 ちっちゃいメイドさんは肩をすくめた。「サダルメリク君、貴男は、遠い宇宙の果ての、想像を絶するような不思議で怪奇な光景でも写して見られるんでしょう?」
「ああ、見せて上げられなくてごめんよ。そういうことをしようとすると魔力をもの凄く使ってしまうし、下手をすると彼の地に棲むものどもがこちらへやってきてしまう可能性だってあるからね」
「つまんないの…」
 デイジーは唇を尖らせた。
「遠からずきみ自身が、自由自在にできるようになると思うよ。また、画家や小説家の中には稀にそういう力を持っている者もいるから、絵画や小説の中で、そういうことを見聞きできるだろう」 サダルメリクが浅黒いけれど華奢で美しい手で鏡を一撫ですると、月の景色はスッと消えた。「…さぁ、きょうはもうこれくらいで止めておこうか。君も疲れただろう。モカの港からおいしいコーヒーが届いたんだ。一杯どうだい? それともやはり紅茶のほうがいい?」
「嫌だ! あたし、もっとやりたい!」
「デイジー、勉強でもスポーツでも、やりすぎるとかえって身に付かないんだよ。ぼくの姉アルテアも、君の年にはほとんどまだ何もできなかったんだよ」
「こんなこと言ったら何だけれど… あたしは貴男のお姉さんに並んでやがて越えたいの! 貴男はもちろん、貴男のお姉さんにも一目置かれる魔導師になりたいの」
 ちっちゃなメイドさんは立ち上がって地団駄を踏んだ。
「ああ、君なら夢でも野望でもないよ。だけど、またこんどにしよう」
「分かった。分かったわ… じゃあその代わりに『死霊秘法』を一目みせてちょうだい…」
『死霊秘法』と聞いて、サダルメリクの彫りの深い顔に影が浮き上がった。
「触らせてもらえなくてもいい。本物の『死霊秘法』をこの目で見たいの」
「分かった」
 アラビアの少年は腕を伸ばすと、机の上の棚から一冊の羊皮紙の本を取り出した。
「そんなところに? 魔法の鍵は掛けていないの?」
 デイジーは目を丸くした。
「この本は、そんな必要はない」
「まさか、もしかして、オリジナル?」
 答えはない。
「ギリシア語とか、ラテン語とか、英語とか、そんなんじゃあなくて、アラビア語の?」
「嘘! 信じられないわ。どのページでもいいから、中身をちょっとでも見せて貰えないと信じられないわ」
「信じて貰えないのなら、それでもいいよ」
 少年は本を元あったところに戻しかけた。
「ちょっと待って! あたしには何も分からないだろうと思って、適当に他の本を見せてごまかしたんでしょう?」
「そんなこと、していないよ」
「じゃあ一生の思い出に、あの伝説の魔導師アブドゥル・アルハザードの筆跡をちょっとでいいから見せて」
「悪筆だよ。古いアラビア語に堪能な者でも、読み下すのは困難だ」
「優秀な人ほど字は上手くないものよ。ケンブリッジに行っていたお姉ちゃんが、『すごい学者さんほど、黒板に書かれた字が読めなかった』と言ってたもの…」
 デイジーはすがるような目で少年を仰いだ。
「お願い…それともあたしにはその資格はない?」
「いや、そんなことはないよ」
 サダルメリクはもう一度本を取り出して、パラパラとめくって見せた。

 デイジーはジッと目を凝らしてちょっとでも読もうとしたけれど、さすがによく見えなかった。
「どう、得心したかい?」
 デイジーはかすかに首を横に振った。
「そのうちにゆっくり見せて上げるよ」
「ぜひお願いね」
 渋々納得したものの、不満足であることに変わりなかった。

(どうしたら、図版だけでも本格的にジックリ見せて貰えるのかしら?)
 数日後、デイジーが「英国心霊研究協会」のお屋敷の窓の戸締まりを手伝いながらふと顔を上げると、くだんの黒猫ネロがまた桟の所に寄ってきた。
「いい線まで行ったんだけれど…」
 ちっちゃいメイドさんがぼやくと、ネロは励ますように頷いた。
「サダルメリク・アルハザードは君に気があって、かなり心を許していると思うよ」
「本当?」
「そうでなければ、たとえチラッとでも見せてくれたりはしないよ」
「それはそうかも… でもその程度では意味ないかも…」
 デイジーは拳の上に顎を乗せてうつむいた。
「そんなことはないよ。サダルメリク君が君に気を許しているなら、試す価値がある作戦がある」
 黒猫ネロの琥珀色の目がキラリと光った。
「えっ、そんな方法があるの?教えて!」
「普通こんなことをやってもしもバレたら、タダでは済まないはずだけれど、君がやったことだったら笑って『エヘヘ、ごめんなさい。シャレでした』と言えば『しょうがないなぁ』許してもらえるかもしれない…」
「あたしやる! やってみるわ!」
 デイジーは改めて両手の拳をギュッと握り締めた。

 サダルメリク・アルハザードがいつものようにルルイエの海底や無名砂漠や北極の氷山の奥底などこの世界の各地に封印されている邪悪な存在がそのままおとなしくしているか確かめて帰ってくると、姉のアルテアが二階の小部屋で『死霊秘法』を読んでいた。
「やぁ、姉さん、来るのなら言ってくれれば良かったのに…」
「ちょっと度忘れしたところがあって、読み返したくなってね」
 アルテアは少しどぎまぎしながら言った・
「姉さんはこの本を読む必要なんかない、と思っていたけれど…」
「『学びて時にこれを習う、また楽しからずや』というやつよ」
「そうかなぁ… 時に姉さん、きょは余り魔力が感じられないけれど… いつもは『寄らば斬るぞ』みたいなオーラをたなびかせているのに?」
「アフリカのサハラ砂漠の南、マリとニジェールの境のトンブクトゥーあたりに棲む、時間を自在に操るドゴン族の呪術師に手こずって、いま底をついているのよ」
 アルテアは灰色の寛衣をまとい直して苦笑いした。
「そうかい? 姉さんだったらそんなやつチョイチョイだと思うけれど…」
「そいつ、時間を戻す秘術を使って、何度も甦ったの。それで、もっと楽に倒せた方法があったのではないか、と…」
「そりゃあ大変だったね。でもどうせだったら自分の本を読んだらどうなんだい?」
「置いてあるところまで戻るのも大変なくらい消耗したのよ…」
 答えがだんだんとしどろもどろになってきた。
「『置いてあるところ』って、それは変だよ」
「どうして?」
「なぜなら…」
 サダルメリクは目をつむって短い呪文を唱えた。すると、アルテアが読んでいた『死霊秘法』からもくもくと白い煙が上がった。
「キャーッ!」
 アルテアは驚いて本を投げ出した。
 煙が晴れると、机の上にもう一人のアルテアが腕組みをして胡座していた。
「自分が自分を見て驚くなよ、愚か者め!」
 新しく現れたほうのアルテアが指をパチリと鳴らすと、本を読んでいたほうのアルテアはちっちゃなメイドさんの姿に戻った。
「あわわ… これって…」
「知らなかったのかい? アルテア姉さんの正体は『オリジナル版の死霊秘法』なんだよ。だからアルテア姉さんがその本を読んでいる、というのはあり得ないことさ」
「ひっ、ご、ごめんなさい!」
 デイジーはガバッと引き下がって土下座した。
「脳みそを取りだして金属製の容器に入れて、冥王星に棲む者たちに下等生物の資料として提供してあげましょう…」
 本物のアルテアが複雑なな印を切り始めた。
「待ってくれ姉さん、まだ子供じゃないか」
「お黙り、莫迦弟のサダルメリク。おまえを含めて世の中には屑のような者どもが多すぎる!」

「子供の出来心なんだ。どうか許してやってくれ。ぼくからも頼む! この通りだ」
 サダルメリクも深々と頭を下げた。
「…おまえはハロウィンの怪物の仮装大会で優勝したいがために、『死霊秘法』を読もうとしたのだな?」
 デイジーは涙でぬれた顔をこっくりと傾けた。
「そんな理由で…」
 サダルメリクが少しのけぞった。
「…そのような大それた考えは、とてもおまえ一人の智恵ではあるまい。おおかた、先日おまえたちがゴーストバスターに出かけた屋敷に住みついていた我等の眷属の残党から吹き込まれたのだろう」
「そ、そんなことまで知っているの…」
 デイジーは消え入りそうな声で言った。
「おまえはその残党を、欲しがっている魔導師に売り飛ばそうとして連れ帰り、結果屋敷はひどいことになってしまったらしいが、それでもまだ懲りないのか?」
「ごめんなさい…」
「このデイジーはゲートキーパーの素質がある。だから、いろんなことに大胆なんだ。だからもう少し見守ってやってくれないか、姉貴?」
「それほどまでに言うのならいいだろう。…おまえらにやられてしまうような眷属なら、どうせ大したものたちではあるまい。おおかた、太古の昔に仕えていた『彼らの…即ち我等の支配者、即ち我等の神』を召喚して元の姿を取り戻そうと思っているのだろうが、そんな料簡は数億年早い!」
「有難うございます。アルテア様とサダルメリクさんには生涯恩義を感じて忠誠をお誓いします…」
「いいだろう。ただし条件が一つある」
「は?」
「我等が神、我等が支配者でなくてもよい。ハロウィンまでに異界のものをひとつ、召喚してゲートキーパーとしての能力を我に示せ!」
 アルテアは両眼を吊り上げて命じた。
「そ、そんなことをして、もしもそれを元の世界に戻せなければ、もしも人間や家畜を襲ったりしたら大変なことに…」
 デイジーは蚊の鳴くような声で言った。
「ならば脳髄を冥王星送りにする。我はどちらでもいいのだぞ」
「ひっ、やります。召喚してまた元に戻します」
「…それから、当たり前のことだが、いかなる他者の助力も仰いではならぬ。所持所有していない魔導書の閲覧も禁ずる。もちろん他言は一切無用。分かったか?」
 サダルメリクやアレイスターの助力を仰ごうと思っていたデイジーはしおれた。
「サダルメリク、おまえも分かったな?」
「了解しました。姉上」
 弟が答え終わると同時に、アルテアは元の本に戻っていた。
「どうしよう?」
 デイジーはサダルメリクにすがった。
「難しいな…」 少年は顔を曇らせた。「要は、この世界にとって害のない存在を召喚し、用が済んだらさっさと元の世界に帰ってもらえばいいのだが、『こんにちは。お安い御用です。お役に立てて幸せです。さようなら』などという概念を持っているような存在は、稀というか、まずいないだろう」

「どうだい? 上手く行ったかい?」
「英国心霊研究協会」の屋敷に出勤してきたデイジーに、黒猫のネロが声をかけた。
「ばかばか! また大変なことになってしまったじゃないの!」
 ちっちゃなメイドさんは黒猫の目を見つめてわめいた。
「『大変な』って、どんな?」
 答えかけて、慌てて口をつぐむ。
「もういいわ。今度という今度こそ、自分一人の力でやってみる!」
 浮かない顔で働いているちっちゃいメイドさんを見て、ブライディーとポピーが声をかけた。
「ねぇデイジー、浮かない顔をして、一体どうしたの?」
「サダルメリクさんと喧嘩でもされたのですか?」
「いえ、そんなんじゃあないのよ。なんでもないの…」
「でもここのところ顔色が悪いわよ。ハロウィンの仮装大会で優勝しようと思って、根を詰めすぎているのでは?」
「本当に何でもないの」
 一見したところはきびきびと動き回りながら、デイジーは必死で方法を考えていた。
(あたしは、巴里では亡くなった青年の霊を降霊させたし、ネス湖の怪獣を召喚したらしい… お姉ちゃんの夢の中に潜ってまた帰ってきたし、ストーンヘンジでも似たようなことをしたことがある。大丈夫、落ち着いてやればきっとやり遂げられるわ!)

 その夜は、ロンドンでは珍しく冴え冴えと澄み切っていた。地方辺境の夜空、とまではいかないものの、月は照り輝き、いくつもの星々が輝いていた。
 デイジーは会員の一人が屋敷の物置に持ち込んでずっとそのまま放置されていた天体望遠鏡を持ち出して、屋根裏のメイド部屋とは違う部屋の破風のある窓にセッティングした。
「デイジー、きょうは帰らないの? お義母さんには言ってあるの?」
 寝間着に着替えたブライディーがあくびをかみ殺しながら言った。
「ちゃんと言ってあるよ」
「寝なくていいの? あとできちんとするのなら、お客様用の部屋のベッドで寝てもいいわよ」
「うううん。今夜は寝袋にくるまってお星さまを観察しようかな、と思って…」
「デイジー、貴女そんな趣味あった?」
 大きなメイドさんは目をこすりながらちっちゃなメイドさんが両手で抱え込むようにして持っている型の古い望遠鏡を見た。
「クルックス先生や、ウォーレス先生にいろいろ教えて頂いて、興味を持ったのよ」
「そお? 風邪を引かないように気を付けてね」
「はい」
 ドアを閉め、固くなっていた窓を力を入れて開けると、寒い空気が入ってきて思わず身震いをした。予め作って持ってきてあった熱々の卵酒を飲むと、人心地が戻ってきた。
 早見盤を片手に星座を探すと、かすかにフォーマルハウトやアンドロメダを確認できた。(さて、普通の星なんか見ていても退屈なだけよね)
 プリマス・ジンをたっぷり入れた卵酒を一気に飲み干すと、デイジーはちょっと前にサダルメリクに習ったゲート・キーパーの呪文をゆっくりと唱えた。
 それからあらためて望遠鏡を覗くと…
 一面深紅の溶岩が煮え立っている海で出来ている世界が見えた。それだけだったら博士たちから聞いたよくある若い星に過ぎないのだろうが、溶岩流の中を鯨のように波を切って泳いでいる存在が見えた。
(どうして… どうして溶け去らないの?)
 デイジーはあっけにとられた。
 さらに目をこらすと、その生き物は、透明なような、半透明なような、原形質状の巨大な蛸かイカのような姿をしていた。
(幽霊屋敷にいた、「あいつら」の親玉かな?)
 考えたものの、じっと眺めているうちに気分が悪くなってきた。
(でも、どのみち、とてもじゃないけれどあんなものをロンドンに連れてきたりできないわ)
 望遠鏡を少し横にそらすと、風景は氷に閉ざされた世界に変わった。また少しそらすと写真で見たギアナ高地の世界のような、鱗木に囲まれ、図鑑で見た恐竜が闊歩する世界が見えた。そこには、大きな鷹か鷲くらいある巨大なトンボが飛んでいて、犬か猫くらいある大きなゴキブリが這い回っていた。
(あれにしようか? 万一の時、殺虫剤をたっぷりとかけたらやっつけられそうだし…) けれど、やはりゾッとしてやめた。
 また望遠鏡をずらすと、ウォーレス博士に見せてもらったカンブリア紀の生物に似た、三葉虫や海綿やクラゲに似た、触手や目のようなものが出鱈目な方向に突出している奇妙奇天烈な生き物がうようよしている海の中が映し出された。
(この中の一匹にしようか? でも大きさが分からないし… アルテアさんに「そのあたりの海で捕まえてきたのだろう?」と難癖を付けられそうな気もするし…)
 あれこれ迷って、どれもこれも尋常一様ではない不気味な姿を見続けているうちに、体じゅうにじんましんが出てきて痒くなってきた。
(早く決めないとヤバいわ。こいつら、じっと見ているだけでこちらの頭がおかしくなってきそう…)
 デイジーはまたほんの少しだけ望遠鏡を動かしてみた。
 すると、どこか古代ギリシアかローマの神殿に似た円柱が並んだ回廊と、そこをゆっくりと歩いている寛衣を着た肌の色の黒い一人の青年の姿が映し出された。青年の顔はこれ以上はないというくらい端正で麗しく、優雅だった。覗いていたデイジーが思わずうっとりとしてしまうくらいのものだった。
(ああ、あの人… きっと地球で言うとアフリカの王子様、いえ神様に違いないわ! あのようなおかたは、きっと紳士でしょう。あのかたに来て頂ければ、アルテアさんもあたしの能力を認めて、納得して下さるでは!)
 デイジーはそう思って、固く目を閉じて、
(あのおかたをこちらへ!)と念じた。
 そして再び目を開いたとき、その黒い高貴な青年は、デイジーの目の前に立っていた。
「あの… あの…」
「我を呼んだのはお前か?」
 その者は威厳に満ちあふれた声で訊ねた。「…普通は、人間如きの呼ぶ声などには絶対に応じないのだが、お前とお前の仲間はほんの少し興味が持てたので来た」
「あ、有難うございます」
 ちっちゃなメイドさんは思わず平伏した。

「あの、あたしはデイジーです。貴男は何とお呼びすれば…」
「この星に棲む猿から進化した下等な生物は…」 褐色のマーキュリーはよく通る声で言った。「私のことを『這い寄る混沌』とか『顔のない神』とか、好きなように呼んでいるようだな」
「じゃあ神様とお呼びしていいですか?」
 デイジーはおずおずと訊ねた。
「いいだろう。その通りなのだから」
「あの、神様、とりあえず一つだけ願いを聞き届けてはもらえないでしょうか?」
「下等生物の願いなど聞く耳持たん」
 ちっちゃなメイドさんは心臓が縮み上がった。
(それだったら一体何のために召喚したのよぉ…)
「だが、今夜は格別に気分がいいので、聞くだけは聞いてやる」
「と、遠い星から神様を一人連れてこないと、あたしの脳みそを抜き取るという悪い女魔導師がいるのです。どうか助けて下さい。一緒に来てくれるだけでいいんです」
「その者の名は?」
「アルテア・アルハザードです」
「何、アルハザード?」 神の秀麗な眉がピクリと動いた。「そのような者がまだいるのか?」
「あの、手荒なことはしないでくださいね。もしかしたらあたしの義理の姉さんになるかもしれない人で…」
 次の瞬間、その場の空間というか次元がズズッとすべるように動いた。デイジーがハッと気がつくと、回りの景色がソーホー街のアラビア語書店の二階に変わっていた。
 蝋燭の灯りで本を読んでいたサダルメリクは、デイジーと神を見るなり、サッと引き下がって、さながら教主に謁見する外国の大使のように両手を投げ出して頂礼した。
「何をしてるデイジー、早くこっちへ来い! そのおかたは…」
 サダルメリクはしきりにデイジーを手招いた。
「狂える魔導師の末裔よ、控えろ!」 神様はおごそかに言った。「下らぬ約束をさせたのはこいつか?」
「いえ、この人の姉さんで、普段は本の姿をしているんです」
 神は本棚から迷わずに『死霊秘法』を抜き出すと、少しだけ念を込めた。途端に本は、アルテアの姿に戻った。状況を察したアルテアの顔は、この前の傲慢そのものの顔からは打って変わって紙のように蒼白になって「どうかお許しを…」と蚊の鳴くような声で言った。
「どうか許して上げてください」
 デイジーは無邪気に言った。
「いいのか、我が帰ったら、この者はそなたに何をするか分からぬぞ」
「そんなことはしません!」 アルテアは床に額をすりつけて言った。「すべての旧き神々の名にかけて、誓います!」
 デイジーはその隙に「あかんべー」をした。
「その言葉、しかと聞いたぞ。約定を違えたら、あの、何とか…確かアブドゥルとか言ったうつけ者ように、白昼に見えない魔物に全身貪り喰わせるから、忘れるなよ」
「決して忘れません!」
「ならば良いだろう。我自らがゴミ屑に手を掛けるというのも汚らわしいし…」
「有難うございます」
 アルテアもサダルメリクも、その場に穴を掘って潜ってしまわんばかりに頂礼平伏を続けた。
 デイジーは少し背を反り返らせて、そんな二人を見下ろした。
「これでいいのか、デイジー?」
「上等よ」
「次は?」
「ハロウィンというお祭りがあるのだけれど、そこで思いっきり恐ろしい怪物の姿をした者が名誉を得るの」
 はるか下手に下がったままのサダルメリクがしきりに『デイジー黙るんだ。それ以上お願いをしてはいけない』といった素振りをした。
「で、おまえが怪物に変身したいのか?」
 デイジーはこっくりと頷いた。サダルメリクは音を立てないように拳で床を叩きまくった。
 デイジーはまたコックリと頷いた。
「…でも、元に戻れないと困るんだけれど」
「何、元の姿に? 脆弱な毛のない猿の姿に?」
「うん」
 デイジーはさらに大きく頷いた。
「おまえたち下等生物と我等が恐れる者…たとえば我等が主神や、太古の昔に我等の一統の多くを封印せし者…とは、姿形はもとより本質も違う。故に何をもって最も恐ろしい姿とするのか?」
「そうねぇ…」 デイジーは指先で頬を掻いた。「…たとえば、見た人全員が石になって、固まってしまうような…」
「なんだ。そんなものでよいのか。つまらぬ… …まぁ、いいだろう。いまからこの星が一回りするあいだだけ、望む姿にしてやろう。では、我も星々を滅ぼし回るのに忙しい故…」
 神はそう言うなり次元の狭間から消え去った。
 デイジーがふと我に返ると、望遠鏡を据え置いた屋根裏部屋に帰り着いていた。

(上手く行った! アルテアさんに謝らせた上に、『金一封』も貰えそうよ!)
 デイジーは小躍りしながら望遠鏡を片付けて納戸にしまった。
 途中、閉め忘れた窓のところに黒猫のネロがいるのを見つけた。
「こんばんはネロ君。聞いて。すべて上手くいったのよ!」
 ところが、話しかけられた黒猫は、琥珀色の両眼をカッと見開いたかと思うと、見る見る灰色の砂岩のような石になって、ゴトンと音を立てて床に落ちた。
「あれっ、どうしたの、ネロ君?」
 ちっちゃなメイドさんが駆け寄って拾い上げると、猫はまるで彫刻のようにカチカチに固まっていた。デイジーはハッと思い出した。(も、もしかすると、あたしはいま、もの凄く恐ろしい姿になっていて、それを見た人や動物は、みんな石になってしまうんじゃあないかしら?)
 そこで、屋根裏のメイド部屋の前に戻ってドアをノックした。
「お姉ちゃん、起きてよ、お姉ちゃん…」
「どうしたの、デイジーいまごろ?」
 ブライディーの寝ぼけた声と、マッチを擦って蝋燭に灯を灯す気配がした。
「お姉ちゃん、近くに鏡はある? あったら、ドアを開けるから、絶対にあたしの姿を直接見ないで、鏡に写してみてちょうだい!」
「何よそれ。どうしてそんなことしなくちゃいけないの?」
「とにかく絶対にそうしてね!」
 大きなメイドさんは渋々手鏡を手に持って、ドアのあたりを写した。やがてドアが開いて、髪の毛が無数の毒蛇となってうねうねと蠢いているデイジーが映った。
「ハロウィンの仮装ね。よくできているわ、デイジー。…でも何もこんな夜中にしなくたって…」
 ブライディーはあくびをかみ殺しながら言った。
「本当に、お姉ちゃん? あたし、本当にそんな姿になっているの?」
「よく出来ているわ、デイジー。ドイル様の賞金はきっと貴女のものよ…」
 と、物音と気配に気がついたポピーが、いきなり起きあがった。
「皆さん一体どうされたんですか? まさか泥棒?」
 途端にポピーは、両手に毛布を持って上半身だけ起きかけた姿勢で見る見る石になってしまった。
「ポピー!」
 ブライディーは鏡を投げ出し、毛布をめくって跳ね起きた。デイジーは慌ててドアを閉じた。
 ポピーは彫像のように、完全に石になってしまっていた。
「デイジー、まさか貴女!」
 ドアの向こうに聞こえるように怒鳴った。 向う側からはシクシクと泣く気配がした。「どうしよう、お姉ちゃん… あたし、いろんなことをやっているうちに本物の怪物になってしまったみたいなの…」
 ブライディーはポピーに駆け寄ってそっと触ってみたり、コンコンと指先で叩いてみたりしたが、誰がどう見てもまったく石になってしまっていた。
「大変よー ポピーが… どうしたら元に戻るのかしら?」
 ブライディーの瞳にも涙がこみ上げてきた。
「あたしのこの姿も、一時的なものらしいの。だから、石になってしまった人も、時間がたったら元に戻る、とは思うんだけれど…」
 再びドアを、紙が通るくらい細く開けてデイジーが言った。
「そんなこと言って、もしも元に戻らなければどうするのよ! ポピーはまだ若いのに!」
「大丈夫だと思うよぉ…」
 ブライディーは自分が寝ていたシーツを引きはがすと、ハサミとともに、目をつむってドアの隙間からデイジーに手渡した。
「とにかくそのシーツを頭からかぶって! 眼のところはハサミで穴を開けて!」
「分かったよぉ…」
 しばらく廊下でごそごそと作業する気配がした。
「お姉ちゃん、シーツかぶったよ。もう入っていい?」
 言いながらデイジーはメイドさんたちの寝室に入ってきた。
「ほ、本当だ! ポピーが石に…」
 ちっちゃいメイドさんも言葉を詰まらせた。
「ど、どうしましょう、ドイル様にご相談申し上げましょうか…」
「サダルメリク君やアレイスター様だったら元に戻せるかも…」
 ブライディーとデイジーはしばらくそのあたりをおろおろと歩き回るしかなかった。

「とにかくわたし、サダルメリク君をたたき起こして来てくれるようにお願いしてみるわ」
 ブライディーは手早く寝間着から街着に着替えながら言った。
(お願いするのがあたしじゃなくて、お姉ちゃんだったらいいわよね…)
 デイジーはシーツをかぶったまま頷いた。「…デイジー、貴女は何があってもこの部屋から出てはだめよ! ああ、こんな夜遅くに辻馬車がつかまるかしら!」
 大きなメイドさんは一張羅のフードのついたウールのコートを羽織ってそそくさと階段を降りていった。
 しばらくまんじりともせず、石になったポピーを見つめていたデイジーだったが、時計が真夜中を過ぎたとき、メイドの寝室の鐘が鳴った。
 正面玄関の扉まで降りていくと、
「ブライディーか、すまないね。手違いで宿が満室で、帰ってきたんだよ」 というドイルの声がした。
「デイジーです」
 とりあえず名乗りながらかんぬきを開けた。
 ドイルや、クルックス博士やウォーレス博士が白い息を吐きながら入ってきた。
「おや、デイジー、その恰好はどうしたんだい? 今夜がハロウィンだったかな?」
 と、ドイル。
「ええ、そんなところで…」
 とりあえず笑ってごまかした。
「デイジーすまないね。ホット・ウイスキーとシャワーの準備を頼む」
「わたしは熱いお茶を頼む」
 博士たちはめいめい一人で帽子や外套を脱いで、外套掛けに掛けた。
「かしこまりました」
 デイジーは緊張して答え、とりあえず台所に行って、ガスでお湯を沸かし始めた。
「えーっと、紅茶の葉っぱは… この際だからブレンドでいいのかな?」
 シーツをかぶったままそろそろと紅茶茶碗を出したりしていると、クルックス博士がやってきた。
「おいデイジー、いくらハロウィンでもそんな恰好で調理していると危ないぞ」
「クルックス博士、何か御用ですか?」
「いや、実は腹が減ってしまってな。何か残り物があったら食べたいのだが…」
「いろんな賄いの残り…野菜スープなんかと、パンならございますが…」
「見て選ばせてくれ。…これでいいよ」
 デイジーがスープ鍋をコンロにかけ、ガス栓をひねってマッチをすった拍子に、炎がシーツの端に燃え移った。
「危ない! 何をやっているんだ! だから言わないことじゃない!」
 デイジーのかぶっているシーツの頭の部分をつかんで勢いよく引きはがしたクルックス博士は、うねうねと蠢く毒蛇の固まりを見てしまった。
「こ、これは…」
 博士はシーツを持った姿勢のまま、砂岩のような石像に変わった。
「ク、クルックス先生…」
「おーい、デイジー、どうかしたのか?」
 食堂のほうからドイルの声がした。
「いえ、別に何も…」
 デイジーは博士が持っているシーツを必死で取り戻そうとしたものの、引き離すことはできず、仕方なく料理ハサミで博士の手のところから切り離してかぶり直した。
 そして、石像になってしまった博士を隅に動かそうとしたものの、梃子でも動かなかった。
「デイジー、お茶はまだかい?」
 また声がしたので、ちっちゃなメイドさんは慌てて二人分のお茶を持って戻った。
「おや、クルックス博士は?」
「あの… お台所で、賄い料理の残りの好きなものを勝手に食べる、と申されて…」
「それだったらここで食べればいいのに…」
 ドイルはつぶやきながらお茶を啜った。
「あたし、シャワーの準備をして参ります」
「ブライディーとポピーはどうしたんだ? そもそも君は通いで、家に帰っているはずじゃあ?」
「いや、実はお二人とも風邪をこじらせて寝込んでいて、急にあたしが…」
「何、風邪? それはいけない。ぼくが診察してあげよう」
 ドイルがさっと立ち上がった。
「いえ、そこまで悪くないんです。二人ともいまは置き薬を飲んでぐっすりと眠っていますから…」
「それじゃあわたしも風邪を引かないよう、気を付けてシャワーを浴びることにしよう」
 紅茶を飲み終わったウォーレス博士は、浴室に向かいかけた。
「ではお湯を張って参ります」
 博士を追い抜いて浴室に向かいかけたデイジーは、廊下の途中で勢い余り、シーツの端を足の先にひっかけて転んだ。
 シーツが脱げ、後から続いていたウォーレス博士は、ちっちゃなメイドさんの頭に群生している蛇たちの姿を見た。
「あれはコブラ… あれはアナコンダ…あれはバイソン… サイドワインダー…」
 思いながら博士も石になってしまった。

(どうしよう… クルックス先生に続いてウォーレス先生まで石に…)
 デイジーは拳で口元を押さえながら小刻みに震えた。
(…でも、でも大丈夫よね。いまお姉ちゃんがアレイスター君を呼びに言っているし…)
 まなじり決して気を取り直し、立ち止まった姿勢のまま石像になってしまったウォーレス博士を廊下の端に動かそうとしたが、これまたびくともしなかった。
「おーい、デイジー、すまないがもし残っていたらぼくにも軽食を頼むよ」
 ドイルは食堂の机にきょうのフィールドワークのノートや資料を広げながら言った。
「はーい、ただいま! パンはトーストにされますか?」
「ああ、軽く焼いてくれ」
 シーツをかぶり直して、クルックス博士が食べ損なった賄いの残りを皿に盛り、お盆に乗せてドイルの前に差し出した。
「やぁ、おいしそうだ!」
 パンをちぎり、野菜スープの残りで流し込みながら、ドイルはシーツをかぶったデイジーの頭がもぞもぞと動いているのに気がついた。
「デイジー、その頭、それもハロウィンの仕掛けか何かなのかい?」
「え、ええ、そうなんです、ドイル様」
「シーツだけでも十分なのに、さぞかし凝った仕掛けがしてあるのだろうね。動力源は何だい。電池か? それとも振り子か何かかね?」
「え? まぁ、そんなところです」
「当日が楽しみだねぇ」
「楽しみになさっていてください…」

 深夜、ようやくのことで辻馬車を捕まえ、ソーホー街のサダルメリクのアラビア語の書店に乗り付けたブライディーは愕然とした。
『申し訳ございません。現地アラビアに古書の買い付けに行くため、数ヶ月ほど店を休ませて頂きます。サダルメリク』
「そんなぁ…」
 メイドさいはヘナヘナとその場に座り込んだ。
(めげちゃいけない! ポピーを…石のままにしてはおけないわ! こうなったらケンブリッジのアレイスター様に… もうじき始発の列車も出る時間じゃない? 途中長く停車するところで、アレイスター様とデイジーに電報を打って…)
 ブライディーは待たせてあった辻馬車に再び乗り込むと、駅まで行ってもらうように頼んだ。

「ああ美味しかった」
 ノートを眺めつつパイプを吸い終わったドイルは、ゆっくりと食卓から立ち上がった。
「ぼくもシャワーを浴びてこようかな。浴室はもう空いているかね?」
 デイジーは、浴室へ行く途中の廊下でウォーレス博士が石になっていることを思い出した。
「あっ、いえ… まだウォーレス先生がお入りになっているようです」
「いつもより少し長いんじゃないか。先生も年だし、心配だから覗いてきてやってくれ」
「はい」
「じゃあ、ぼく台所で顔を洗うだけにしておこう…」
 台所ではクルックス博士が石になっている。
「あの、台所ではクルックス博士がまだお食事中です。こちらに洗面器とタオルを持って参ります」
「そうかい。悪いねぇ… 君だって眠いはずなのに…」
 ドイルはフィールド・ノートと資料を鞄に戻して言った。
「いえ、滅相もございません…」
(お姉ちゃん遅いなぁ… ソーホー街だったらもうとっくの昔に帰ってきてもいい頃なのに… 辻馬車が捕まらないのかしら? それともサダルメリク君に断られたのかしら? お姉ちゃん、人にものを頼むのが下手だからなぁ…)
 結局、その夜はドイルだけがいくつかある客用の寝室の一つで寝た。両隣の客用の寝室ではクルックス博士とウォーレス博士も寝ていると信じながら…

 まんじりともしないうちに夜が明けた。
 新聞配達の少年に続いて、牛乳配達の少年がロバが引く小さな馬車でやってきた。この少年は、ときどき自分で夜釣りで捕った新鮮な食材を売り込んで小遣いを稼いでいた。
「おはようデイジー おや、きょうはハロウィンかい? おいらもアイルランド人も端くれだから、遊びたいなぁ… …ところで、今年の秋はわりと暖かいだろう? ゆうべ友達と一緒に郊外の沼地で、アメリカからやってきてわいた、おいしそうな食用蛙をいっぱい捕まえてさぁ…」
 少年はガラス製の小さなガラスの水槽にかけてあった布を取り去った。

 下一インチだけ水を入れた水槽の中には大きな蛙がいっぱいひしめいていた。
「どうだい? 安くしておくよ」
 少年はその中から丸々と太った食用蛙を一匹、足をつまんで持ち上げた。
「で、でも、あたし、お料理のやり方を知らないから…」
 デイジーはもぞもぞと動き始めた頭を慌ててシーツの上から押さえた。
「ブライディーさんなら知っているんじゃあないかな。貴族や金持ちのあいだじゃあ評判の美味珍味なんだぜ」
 少年はもうかたほうの手でさらに一匹つまみ上げて見せびらかした。
「お、お姉ちゃんはいまいなくて、分からないから…」
「脂肪分が少なくて、お年寄りがたにはいいんだぜ。捌きかたが分からなかったら、料理の本を見てやればいいじゃないか。大丈夫、魚と同じか魚より簡単なはずさ」
「でも…」
 とその時、デイジーの頭の上の蛇たちは、我慢できなくなってシーツを払いのけ、一斉に蛙に襲いかかって丸飲みにした。
 少年は驚く間もなく、石になった。
「あわわ…」
「どうしたデイジー、何かあったのか?」
 朝の支度を終えて出かけるところだったドイルが走ってきた。ちっちゃなメイドさんは大急ぎでシーツをかぶり直そうとしたものの、間に合わなかった。
 ドイルも勝手口の近くで固まってしまった。
「ド、ドイル様まで…」
 さすがに顔から血の気が引き始めた。
(大丈夫よ。神様は「この星が一回りするあいだだけ」と言っていたし、それまでにお姉ちゃんがサダルメリク君を連れて帰ってきてくれるだろうし…)
 デイジーは懸命に気を取り直そうとしたものの、蛙たちを次々に飲み込んでうわばみ状態になった蛇たちの重量がズシッと頭にかかってきて、歩くことはもちろんじっと立っていることさえ難しくなってきた、
「た、助けて…」
 折悪しくちょうどその時、正面玄関の鐘がなった。
「はーい、ただいま!」
 デイジーはシーツをかぶり直し壁伝いによろよろとよろめきながら玄関の扉を開けた。 やってきたのはドッジソン教授だった。
「おや、デイジー、ハロウィンかい? かわいいね。…どなたかいらっしゃらないかね?」
「いえ、いまはたまたまどなたも特に…」
「そうかい。そりゃあ残念だな。じゃあ少し休みながら待たせてもらうよ」
 屋敷に入って洗面所に向かったドッジソン教授は、廊下で石になっているウォーレス博士を見つけた。
「ウォーレス先生はご自分の彫像を刻ませたりするのはお嫌いかと思っていたが…」
「これはですね、ロンドンに新しく設立された彫像製作の会社が『見本として、どうか受け取ってください』と言って、無理矢理に置いていったんです」
 デイジーは必死になって説明した。
「ふーん、結構良くできているじゃないか。いまにも動き出しそうで…」 教授は石像のあちこちを触ってみながら言った。「…でもそれだったら、一応どこかちゃんとしたところに飾っておいたほうがいいんじゃないか?」
「それが、ウォーレス先生は、先生がさっきおっしゃった通り、余りお気に召さないご様子で…」
「ならばちゃんと覆いをかけて、納戸か物置にでもしまっておいたほうがいいと思うよ」 教授は試しに像を持ち上げてみようとしたがびくとも動かなかった。
「重いなぁ、誰がこんなところまで運んだんだろうなぁ…」
 ぶつぶつ言いながら諦めて手洗いに向かった。
(どうしよう… ウォーレス先生も、クルックス先生も、ドイル様も、牛乳配達の子も、ポピーも、みんな石像になってしまったことがもしバレたら…」
 デイジーは焦りつつも台所で紅茶を淹れていた。目の前には石化したドイルと、クルックス博士と、少年がいた。
「おーい、デイジー、君のために可愛い鍋つかみを買ってきてあげたよ。いまのはずいぶん傷んでいただろう?」
 デイジーは「だめーっ!」と叫びかけたが手遅れだった。花柄のミトンを手にしたドッジソン教授は台所にやってきて、そここで固まっている仲間たちを見つけた。

「おや、ドイル君の彫像もあるぞ。もしかして『サー』の称号授与が近いのかな?」
 ドッジソン教授は彫像になるにはいささか早すぎるようなドイルの石像を眺めて小首をひねった。
「いえ、違うんです先生、これも彫像屋さんが勝手に置いていったもので…」
 顔を上げたドッジソン教授は、さらにコンロの近くにクルックス博士の石像を見つけた。「…クルックス博士のも。その石屋さんはずいぶんたくさんの見本をくれたんだねぇ…」
「え、ええ… 『英国心霊研究協会』の皆さんにご贔屓にして頂けた暁には、商売の手を広げられるから』と…」
「なるほど、それは至極もっともだね。『損して得取れ』というやつかな。でもこんなところに置きっぱなしにしておいたら、先生がたの品位品格が下がってしまうよ。くどいようだが、気に入らなかったのなら、布で包んで物置にでもしまっておかなければ…」
「このあいだの幽霊騒動の時に、家具なんかを元通りにするのにお世話になった白詰草亭の若い衆に頼みますわ」
 デイジーは勝手口の軒先で石になってしまっている少年が教授の目に入らないように、両手を伸ばしてシーツを広げ、あいだに入って遮りながら言った。
「鍋つかみ、どうも有難うございました。ちっちゃくて使いやすそうです。大切にします。…使うとどうしても汚れたり焦げたりするから、しばらく飾っておこうかしら…」
「だったら写真にとっておいてあげよう」
 ドッジソン教授はどこからともなく携帯用の乾板写真機を取りだした。
「いまだったら光もじゅうぶんに差し込んでいるし、お鍋を持ってポーズをとってくれたら、きっといつものように可愛く写せると思うよ」
「いえ。いえ、いいです!」 デイジーはシーツをすっぽりとかぶった頭を激しく横に振った。「いま忙しいですし、先生にお茶などをお出しなければ…」
「この写真機は最新型だからすぐすむよ。手に持って写せるということで三脚も要らないんだ」
「でもいいんです」
「ぼくは鍋つかみを活用して欲しいんだ」
「使わせて頂きます…」
「だったら汚れてしまう前に写しておこうよ」
「実はいま、ハロウィンの仮装をしているんです。お芝居用のドーランとか塗って、とても怖い顔をしてますんで…」
「それこそ一生の思い出じゃないか!」
 教授はますます色めき立った。
「魔女の仮装をするブライディーお姉ちゃんと、人狼をやるポピーたちと一緒でないと嫌です」
「ぼくだっていきなり本番じゃなくて、予行演習をしたい」
(ああ、もうだめ! 仕方ないわ、ドッジソン先生、ごめんなさい…)
 デイジーはのろのろとシーツを脱ぎ始めた。 教授も手早く新型写真機の、覗き窓を覗き込んで、レンズキャップを外した。
「これは怖い! まるで本物のちっちゃなメデューサみたいだ!」
(あれっ?) デイジーは驚いた。(どうして石になってしまわないのかしら? …そうか、鏡と一緒でいま先生は逆さまに映ったあたしの影を見ているだけだから…)
「よし、もういいよ。有難うお疲れ様」
 教授が顔を上げるなり、デイジーはシーツをかぶり直した。
「さっそく現像してみよう! お茶はその後でいいよ」
 教授はマザーグースを鼻歌で歌いながら立ち去った。デイジーはホッと肩をなで降ろした。

 昼頃、ケンブリッジに到着ブライディーは、人けのない図書館の隅の机にアレイスター・クロウリーを見つけた。
「どうしたんだい、ブライディーさん」
 彼は読んでいた古い陶片の文字を書き写した写本を置いて言った。
「アレイスター様!」
 大きなメイドさんは顔をくしゃくしゃにして泣きながら事情を説明した。
「何、それは大変だ!」
 青年が端正な眉をしかめながら立ち上がると、机の上にうず高く積まれた古文書の山が崩れた。
「どうか一緒にロンドンに戻って下さい!」
「もちろんそうするが…」 アレイスターは目を伏せた。「…通常、そういった、もの凄く強力な魔法は、最初にそれをかけた者しか解けないことが多いんだ」
「えっ!」
「…もしくは、その術者を倒すかしないと…」

 夕方、ブライディーとアレイスターが「英国心霊研究協会」に帰ってくると、まるで彫刻の美術館みたいに、そこここに会員や出入りの業者の石像が立っていた。
「クルックス博士! ドイル様!」
 大きなメイドさんは石化したドイルにすがりついた。
「これは早くデイジーを見つけないと、下手をするとロンドンじゅうの人や動物が石になってしまうかもしれない…」
 像を調べていたアレイスターがつぶやいた。
「デイジー! どこにいるの?」
「デイジーなら白詰草亭に行ったよ」 ドッジソン教授がいきなり現れて言った。「…何でも、『ちょっと人に聞きたいことがある』って言って…」
「ドッジソン先生、よくぞご無事で…」
「ブライディー、君こそ風邪はもういいのかい?」
「は、はい…」
「急ごう! もしもシーツが飛んでしまったりしたら、大変なことになるぞ」
 アレイスターが耳打ちした。
「ええ…」

 アイリッシュ・パプ「白詰草亭」の前では、ゴブリンの扮装をした店主のオマリーさんが、入店者をチェックしていた。
「やぁ、ブライディー、すまないが今夜は仮装していないと入れないんだ。用意がなかったら紙のお面を貸すよ」
「有難うございます、オマリーさん。でも一応持ってきています」
 ブライディーとアレイスターは目配せをし合って、それぞれ魔女と悪魔の仮面をかぶった。
 店の中に入った二人は目を見張ってたじろいだ。店内は妖精や、魑魅魍魎の扮装をした客たちで満員で、酒を飲んだり、料理を食べたりして騒いでいた。シーツをかぶった者だけでも十数人いた。
「どうしましょう? 一人ずつ聞いて確かめましょうか?」
「いや、それじゃあとても埒があかないぞ」
「わたくしが占いで…」
「みんな動き回っているから難しいだろう。ぼくがやる」
 アレイスターは近くにあったインドかアラビアの、両側に曲がりくねった取っ手のついた壷を取り上げて呪文を唱えた。
 すると、仮装した群衆の中の、シーツをかぶったちっちゃい子が、頭を壷に吸い寄せられるようにして寄ってきた。
「蛇は…」 アレイスターは壷から頭を引き離してやりながら言った。「狭い筒状のものが好きなんだよ」
「痛いよー」
 デイジーは懸命にシーツが引きがされるのを防ぎながら言った。
「デイジー、貴女こんなところで一体何をしているの? お屋敷が大変なことになっているのを見たわよ!」
 ブライディーはがっしりとちっちゃなメイドさんの肩を押さえ込んで言った。
「そ、それは… ここに来れば石になってしまった人を元に戻す方法を知っている人がいるんじゃないかと思って…」
「気持ちは分かるけれども、街なかでシーツが脱げてしまったらどうするつもりなのよ!」
 とその時、一人の酔っぱらいがふらふらと近寄ってきた。
「そこのちっちゃいのはデイジーちゃんだな? どうだい、達者でやっているかい?」 言うが早いか、シーツを引きはがした。
 途端に悲鳴が上がった。ブライディーとアレイスターは素早く目を閉じたが、店にいた残りの者たちは、悲鳴につられて頭の上に蛇の群れを乗せたデイジーを見た。
 悲鳴の輪が広がりながら、客たちもウェイトレスたちも次々に石像になった。
「何だ? 一体どうしたんだ?」
 駆け込んできたオマリーさんも石になってしまった。
「あわわ…」
 デイジーはすぐにシーツをかぶり直したものの、文字通り「後の祭り」だった。
「だ、大丈夫だよね。きっとみんな元に戻るよね」
「そんなこと、わたしが知る訳ないでしょう?」
 ブライディーは目を吊り上げた。
「街なかでシーツが脱げてしまわないように、紐でくくっておいたほうがいいかもしれない…」
 アレイスターが真顔で言ったので、デイジーは「てるてる坊主」のような恰好で馬車に乗り込むことになった。

 英国心霊研究協会に戻った三人は、改めてあっちこっちに石像が立ち並ぶ風景に思わず顔を背けた。
「やれやれ、ソドムとゴモラから逃げ出したロトの一族のうち、ロトの妻と一部の人々はエホバの言いつけを破って火の玉が降り注ぐ街を振り返り、みんな塩の柱になってしまったそうだが、こういう有様だったのかもしれないな」
 アレイスターは溜息まじりに言った。
「違います! ロトの妻たちは神様の罰が当たって塩の柱になってしまったんですが、ドイル様をはじめ先生がたは何も悪いことをしていらっしゃらないのに…」
 ブライディーはまた涙を浮かべた。
「フッ、伝説によると、後世、とある徳の高い、高度な魔法も修めた修道士が、何千年も前に塩の柱にされたロトの妻をはじめソドムとゴモラの人々の呪縛を解いて元の人間の姿に戻そうと死海のほとりに向かったらしい。 そして己の術を駆使して人の姿に戻したものの、甦った彼らの瞳に映った堕落退廃の街の姿を見て、自分が塩の柱になり、甦らせてもらった人々も、じきに元の黙阿弥になってしまったというが…」
「するとアレイスター様、下手をするとわたくしたちもその修道士のように…」
「ああ、その可能性はじゅうぶんにあるね。善き神にしろ、悪しき神…悪魔にしろ、怒らせると恐ろしい」
 二人が話し込んでいるのを聞いたデイジーは、こそこそと逃げ去ろうとしたものの、ブライディーに首根っこをつままれて連れ戻された。
「デイジー、今度という今度こそは、髪の毛全部剃ってちっちゃい尼さんになってもらいます!」
「だ、大丈夫だよ。『神様』は『この星が一回りするあいだだけ』と言っていたし…」
「『神様』じゃない、悪魔よ!」
 ブライディーはピシャリと言った。
「正確には『邪悪なる神、邪神』だ。回教徒たちが言う『アラーがしろしめす以前に、砂漠に君臨していた三百六十の魔神魔物のうちの一人』だろう」 アレイスターはネクタイを緩めながら言った。「そいつは『この星が一回りするあいだだけ』と言ったそうだが、それは一日のことだろうか? それとも一年のことだろうか?」
 シーツから覗いていたデイジーの眼がさらに血走った。
「い、一日のことよ!」
「だったら、別に何もしなくても、今夜の夜半を過ぎればすべてが元にもどるはずだが…」

 ブライディーはドイルや、クルックス博士や、ご用聞きの少年が石になってたたずんでいる台所で、食用蛙を捌いてシチューを作った。
「美味い! このあっさりとした風味! フランスのカタツムリが美味しいのは知っていたが、アメリカの蛙もこんなにおいしいなんて!」
 アレイスターはケンブリッジの学生に戻って、健啖ぶりを見せつけた。
 ところが、せっかくシーツの口の回りを丸く切り抜いてもらったデイジーは、まってく手を付けなかった。
「デイジー、大変なことをしてしまって食事が喉を通らないのは分かるけれども、食べないと身体に良くないわ」
「蛙なんか… 食べたくない…」
「何ですって!」
 大きなメイドさんは椅子を蹴ってシーツ越しにつかみ上げた。
「痛いよぉ…」
「まぁ待て!」 アレイスターが素早くあいだに入って二人を分けた。「仲間割れなんかをしている場合じゃあないだろう? ぼくが白詰草亭にかけた『今夜一晩貸し切りドンチャン騒ぎ中』の結界呪文も、一晩が限界だ。明日の朝になれば、心配した家族たちが押し破って石像を見てしまうだろう。それまでに何とかしなければ…」
「食料品屋の親方にも『この子はうちで急に熱を出して倒れて』と伝えておきましたけれど…」
「大丈夫よ! 今夜の真夜中になれば…」
 デイジーは勝手にコンビーフの缶詰を開けてぱくぱく食べながら言った。
「ああ、いい匂いだ。もうたまらない…」
 ドッジソン教授は、現像室から出てきて言った。
「ドッジソン先生、まだいらしたんですか?」
「もちろんだとも。ブライディー、君やデイジーの仮装をしっかり撮影するんだ」
「生憎ですが…」 大きなメイドさんは懸命に笑顔を作って言った。「このお屋敷の仮装大会は、今年はまことに残念ながら、諸般の事情により中止です」
「えっ!」 ドッジソン教授は気の毒なくらいガッカリとした顔になった。
「そ、それは残念だねぇ…」
「わたしたちは故あって、一晩中起きているつもりですが…」
「そうかい? それだったらぼくもそうしようかな…」

 ハロウィンの夜はゆっくりと更けていった。
 ブライディーは日頃は滅多に掃除しないところを少しずつかたづけていた。デイジーは頭からシーツをかぶったままコックリコックリと船を漕いでいた。アレイスターは濃い紅茶を啜りながら、屍食鬼について書かれてた古い写本の写しを読んでいた。ドッジソン教授は書斎でプリントした写真をアルバムに貼る作業をしている…
 広間の大時計の針がてっぺんで重なる少し前、アレイスターは本を静かに閉じて台所に向かった。ブライディーも手早く雑巾を洗って干してアレイスターに続いた。気配に気づいてデイジーも頭を振りながら目を覚まして立ち上がった。
 台所のドイルとクルックス博士と少年の石像は、三人の力をもってしても動かすことはできず、そのままのところに立っていた。
「もうじきだな…」
 アレイスターは臙脂色のチョッキのポケットから銀の懐中時計を撮りだしてチラリと目をやった。
 ブライディーはその場に跪いて十字を切った。
「神様、どうか…」
 広間の時計がボーンボーンと真夜中を告げた。
 すると、石像になっていたドイルに、薄い膜のようなものがかかって、元の人間に戻り書けた。
「ドイル様!」
『ブライディー!』
 石像の唇がほんのかすかに動いたように見えたものの、またすぐに元に戻ってしまった。
「ドイルさまぁ!」
 大きなメイドさんは悲鳴のような声を上げたがだめだった。アレイスターが彼女の肩をそっと抱いて引き離し、かすかに首を横に振った。
「…やはり、デイジーの『神様』の言った『この星が一回りするあいだ』というのは、『一年』のことのようだ」
「すると、一年、大切に置いておけば…」
「だめだ。ちゃんと修行した魔導師ならそういうこともあり得るだろうが、普通の人間は三日もすれば、身体の芯まで石化して、そうなってしまったらもうマーリンを十人連れてきても二度と元には戻らない…」
「ドイル様… 皆様…」
 ブライディーはわんわん泣き始めた。
「そうすると、あたしも… あたしも… 死ぬまでずっーとこの姿でいなくちゃあいけないの?」
 デイジーもしゃくりあげ始めた。
「ああそうだ。それも数日で心もメデューサになってしまうだろうが…」
「そんなの嫌だぁ!」
「落ち着け! まだ方法はある!」
 アレイスターはブライディーとデイジーの肩をつかんで揺すった。
「と申しますと?」
 メイドさんたちはすがるような目でアレイスターを見た。
「デイジーにもう一度『神様』を呼び出してもらって、元に戻してもらうようにお願いするんだ。もはやそれしかない!」
「でも、『神様』が再々呼び出されたことで怒り出して、もっとひどいことをしたら…」
「そうなってしまうかもしれない。しかし、このまま放っておくことはできないだろう? …そう言う訳だ、デイジー。君は失うものがないからやるだろう?」
 ちっちゃいメイドさんはシーツをかぶったまま鼻水を啜って頷いた。
「お姉ちゃんも付き合うわ」
「ぼくもだ」

 屋根裏の空き部屋に、昨夜に続いて天体望遠鏡が設置された。
「さぁ、デイジー、頑張って『神様』を探すのよ!」
 ブライディーに促されたちっちゃなメイドさんは心を静めて望遠鏡を覗いた。すると、前夜と同じように、異世界の不気味で奇妙な生き物たちが見えた。望遠鏡を少しずつずらして見ると、世界の風景も次々に変わった。
 しかし、いくら探してみても、あの黒い端正な顔の『神様』は見つからなかった。
「だめだよう… どこにもいないよう…」
 デイジーは泣きそうな声を出した。
「分かったわ」 ブライディーはお仕着せのエプロンドレスのポケットから『不思議の国のアリス』のタロット・カードを撮りだした。
「わたしがその人の居場所を占って上げる!」
「よすんだブライディー! たとえ邪神とはいえ、神を占ってはいけない。永遠に地獄に堕ちるかもしれないぞ!」
「皆様が救われるかもしれないのなら」 メイドさんはきっぱりと言った。「わたくし一人がどうなろうと構いません…」

 星明かりに照らされて、タロット・カードが、奇妙な形の陣に並んだ。アレイスターはキッと夜空を睨んだままでいた。
「少し上… ちょっと左…」
 デイジーは指示の通り望遠鏡を動かした。「…大きな赤い星の近くの灰色の星を探して!」
「あったわ! お姉ちゃん凄い! 何も見ていないのに!」
「無駄口叩かない!」
 デイジーはゲート・オープンの念を込め始めた。ブライディーはカードをそのままに、両手を胸の前で組んで祈った。
 もう一度ゆっくりと望遠鏡を覗くと、溶岩を噴き上げて火山が噴火し、激しい地震が起き、白い寛衣姿の群衆が逃げまどう阿鼻叫喚の光景が映し出された。宙空には、あの黒い肌の整った顔立ちの邪悪な神が浮かんで、その世界が滅んでいく様子をジッと無表情で眺め続けていた。
「あの神様、本当に星々を滅ぼして回っている神様だったんだ…」 デイジーがつぶやいた。「もう一度呼びつけたりしたら、今度こそ腹を立てて、この地球を滅ぼしてしまいはしないかしら?」
「そんなこと言っていたら、ドイル様も皆様も永久にあのままでしょう?」
「分かったわ」
 デイジーはもう一度祈り始めた。
 すると、望遠鏡の傍らの空間がゆらゆらと揺らめいて、「邪悪なる神」が再び姿を現した。
「お願いです神様! どうかあたしと、あたしを見て石になってしまったかたがたを元に戻して下さい」
 デイジーはすかさず言った。
 ブライディーはジッと相手を見つめた。
(なんという神だ。まるで宇宙じゅうの邪悪さを凝縮してかためたような気を放っている。やつが、この世界…地球…を滅ぼしたいと思ったら、数分で滅ぼしてしまうに違いない。それをやらないのは、この星に、やつの仲間や眷属が多く封印されているからだ。が、少なくとも人類を滅ぼしてしまうのは簡単なはずだ。それもしないのは、人類が戦争好きで、互いに争い殺し合うのを見て楽しんでいるからだろうか?)
 アレイスターは余りの迫力に、金縛りのようになりながらも(このような存在をこの目で見ることができたのは幸せだ)と思った。
「なんだ、もう飽きてしまったのか? …いいだろう」
「有難うございます」
「だが、条件がある」
「えっ?」
「そこの赤い髪の女、おまえには未来を含め、あらゆることを占う力があると見た。しかも、それは群を抜いて強力なものだ。我の下僕となって、我の仲間が何時目覚めるのかなどを、占い続けて欲しい。そうすれば、願いは叶える」
「えーっ!」
 デイジーは叫んだ。
「わたし、行きます…」 ブライディーは静かに言った。「…ドイル様や、皆様を元の姿に戻して頂けるのなら…」
「よすんだブライディー、他の方法を探そう。邪神の一日は、ぼくらの数年数十年に相当する。仮に満足させてお役ご免で帰らせてもらえても、ドイルさんやデイジーや、君の知っている人々はみんな死んでしまっていて、世界の様子もガラッと変わってしまっているだろう」
 アレイスターはメイドさんの手をしっかりとつかんだ。
「他の方法があったら、とっくの昔に試しているのでは?」
「それはそうだが…」
「わたし一人で済むのなら、やむを得ません」
「よく言った。赤毛の女」
 ブライディーはゆっくりと歩を進めて黒い邪神の傍らまで行った。
「お姉ちゃん!」
「ブライディー!」
 デイジーとアレイスターは思わず手を差し伸べた。
「では、こちらから先に約束を果たそう」
 邪神がそう言うと、シーツをかぶったデイジーの頭がパサッと平たくなった。アレイスターがサッとシーツを取り除けてみると、ちっちゃなメイドさんの頭は元通りになっていた。
「デイジー、下に降りてドイル様たちが元通りになっているか確かめくるんだ」
 アレイスターが命令した。
「分かったわ」 シーツがとれて身軽になったちっちゃなメイドさんは飛ぶように階段を降りていった。

「ぼくはいままで何をしていたんだ? それにどうして、いきなり夜になっているんだ?」
 石から元に戻ったドイルは、台所を見渡して言った。
「わしもだ」 クルックス博士は首をひねった。「…確か夜遅く帰ってきて、台所に軽食を食べに行ったら…」
「おいらは? …いけねぇ、日が暮れてしまっているじゃないか!」 ご用聞きの少年は慌てふためいた。
「皆さん、ごめんなさい。皆さんはあたしのせいで、いままで石像にされていたんです」
 デイジーはそれぞれの相手のところまで走っていって深々と頭を下げた。
「まさか! この科学の世の中に人間が石になることなどありえん」 クルックス博士は苦虫を噛みしめたような顔で言った。「時間が一日過ぎていると言うのなら、それは時間の軸が少しずれたのだろう…」
「ドイル様、お姉ちゃんが大変なんです! 皆さんを元に戻すために、邪悪な神様に攫われて行かれそうなんです!」
「なんだって!」
 ドイルはちっちゃいメイドさんに促されて、オリンポスに向かうヘルメスのように階段を駆け上がった。
 浴室へ向かう廊下の途中で固まっていたウォーレス博士も甦った。
「…そう言えば、一度にたくさんの種類の、生きている蛇を見たような気がするなぁ… ずいぶんと珍しいやつもいたような…」

「さぁ、赤毛の少女よ、我と一緒に来るのだ」
「千の顔を持つ」「顔のない」黒い邪悪な神は、メイドさんに命じた。
「分かったわ」
 ブライディーは火刑台に向かうジャンヌ・ダルクのようにしっかりとした足取りで歩み出した。アレイスターは音が聞こえるほど歯がみして見守っている。
 そこへ、ドイルとデイジーが戻ってきた。
「ドイル様!」
 振り返ったブライディーの頬にポロポロと涙が伝った。
「ブライディー、行くな!」
 ドイルが近寄ろうとすると、目には見えないガラスのような壁に、したたかにはじき返された。
「ドイル様!」
「ブライディー! …アレイスター君、君の力で何とかならないのか?」
「残念ながら… いまのぼくの力では… 力をつけて、必ず取り返しに行きます」
「人間の分際で、そのようなことを言っていた者がいたな…」 邪神はアレイスターに負けず劣らない涼しげな目を細めた。「…あれは確かアブドゥル・アルハザードとか言った… 我等を召喚し、従え、統べるとか、大きなことをぬかしておったが、その末路は哀れなものだったぞ」
(サダルメリク君やアルテアさんのご先祖様だ…)
 デイジーは拳を握り締めた。
「そんなもの、待っていられるか!」
 ドイルは懐から拳銃を取り出すと、いきなり邪神に向かってバーンバーンと数発発射した。邪神が黒曜石のような手のひらを開くと、かすかに硝煙のたなびく銃弾がパラパラと床の上にこぼれた。
 
「くそっ! シスター・セアラさんがいたら…」
 言いつつドイルはなおも狙い続けた。
「こいつは… こいつだけはセアラさんでもだめだ」
 アレイスターが低い声で言った。
「では失礼するしよう。…おまえたちには二度と遭うこともあるまい…」
 邪神がブライディーの肩を抱いた。決してぎゅっと握ったりした訳ではなかったが、大きなメイドさんは鷲か鷹の爪に捕まえられた兎のように、もう決して逃げられないような気持ちになった。
「ドイルさま!」
「ブライディー!」
 二人は手を差し伸べ合った。
 邪神とメイドさんの足下の床に、誰も見たことのない…魔導師のアレイスターですら始めて目にする複雑怪奇な魔法陣が浮き上がった。
 その時、「待て、ナイアーラトテップ!」窓の外から声がしたかと思うと、アラビア人の少年が寛衣のマントを翻らせて躍り込んできた。
「サダルメリク君!」
 ブライディーもデイジーも、ドイルもアレイスターも、異口同音に叫んだ。
「ふん、一度はコソコソと逃げ出した者が、一体何の用だ?」
 邪神はサダルメリクに突き刺さるような視線を向けた。

「ブライディーさん、よく聞いてくれ。ここで君を守り抜くことは難しい。そこで付け焼き刃だけど新しく身につけた術でどこか違う世界へと飛ばす。必ず迎えに行くから、それまで落ち着いて行動してくれ!」
 サダルメリクは両手の指先をピタッと揃えて空間をポッカリと切り取った。
「分かりました!」
「さぁ、早くここへ!」
 サダルメリクは素早くメイドさんを抱えると開いた空間に投げ込み、扉を閉じた。
「おのれ、貴様までも、愚かな先祖と同じように裏切るのか!」
 邪神が後を追おうとするのをアレイスターがさらに次元を幾層にもずらせて阻止した。「ええい、ウジ虫どもめ! 踏みつぶしてやりたいのは山々だが、いまはあの女を追いかけるほうが先だ! 何としてでも我等のうちの封印されたものたちの行方や、復活の日や、方法を占わせなくては…」
「そんなことすら知ることができない貴男は神ではなくて、ただの旧い旧い時代の支配者の一人にしか過ぎない、ということですね?」
 アレイスターは白い歯を見せた。
「黙れ! おまえたちは後で絶対に許さないから覚悟しておけよ」 黒い邪悪な者が両目を閉じると、床の上に古代人の洞窟の絵のような、摩訶不思議な文様が浮かび上がった。「…我にも、たったいままでここにいた者の行き先くらいは定めることができるぞ。たとえそれがどんなに複雑に攪乱され覆い隠されていてもだ」
 ドイルはデイジーをかばって、ただ成り行きを見守っていた。
「まずい、後を追われてしまう!」
 アレイスターが叫んだ。
「やはりダメだったか! ブライディーさん、すまない!」
 サダルメリクはうつむいてしまった。
 とそこへ、ドッジソン教授がひょこひょこと階段を上がってきた。
「さっきからやたらと騒がしいが、一体みんなで何をやっているのかね? ハロウィンのパーティは中止になったはずじゃあ?」
「危ない、ドッジソン先生、近寄ってはいけない!」
 ドイルもサダルメリクもアレイスターも口々に叫んだ。
「おや、この図式はとても興味深いねぇ。リーマン面におけるベクトルかテンソルを表しているようだが…」
 ドッジソン教授はフロックコートのポケットからチョークを取り出すと、邪神が浮き出させた魔法陣の上に何本かの直線や曲線を描きたした。
「…ここにこういうふうに補助線を引くとだね…」
「おいぼれのくそ爺、何をする!」
 邪神は術を放とうとしたが一瞬遅く、ゆらゆらとさざ波を立てて揺らめいた次元の狭間に吸い込まれて消え去った。
「やった、教授、お手柄です!」 アレイスターはドッジソンの手を取ってはしゃいだ。「これであいつはブライディーさんの後を追うことは出来なくなりました。いや、それどころか、いまのこの世界に戻ってくることもかなり難しくなったと思います!」
「はぁ?」
 ドッジソン教授はきょとんとした様子でケンブリッジの学生の顔を見つめた。
「何か、タイミングがものすごく良かったです。邪神も虚を突かれて…」 サダルメリクはホッとしながらも用心深く気配を伺い続けながら言った。「…どう言ったらいいか、まったく予期していない感じでした」
「はぁ?」
 ドッジソン教授はまだ何が何だか分からない楊子だった。
「どうなんだ? ぼくらにはブライディーの行き先が分かるのか?」
 ドイルはサダルメリクと鼻をつき合わせて訊ねた。
「非常に難しいのは同じですが」 サダルメリクは次第に消え去っていく魔法陣を術を使って覚えながら答えた。「こちらにはデイジーちゃんがいるので、先に取り戻せるかと…」

 ブライディーが気がつくと、そこはとても奇妙な場所だった。
 何か、とても大きな体育館のような建物の中で、中国の人のような黄色い肌の若い男女が、大勢うろうろしながら訳の分からない言葉を交わしていた。一番に驚いたのは、ズボンをはいている女性が多いことと、スカートをはいている女性はその丈がとても短いことだった。
 彼らは、ずらりと並んだ小さく仕切られた店に積まれた本や、絵を描かれたシャツを品定めして買っている様子だった。
 と、人々にまじって、怪物や怪人の着ぐるみを着た者や、仮面をかぶった者、軍服軍帽姿の者たちがいて、さながらハロウィンのようだった。さらに、スカートの丈は短いがメイドのお仕着せに身を包んだ少女たちもいた。


 ブライディー・ザ・マジックメイド
「東京のブライディー」

(良かった! スカートの丈は短いけれど、この世界にも、メイドさんたちがいるみたい!)
 ブライディーは少しホッとした。それで、言葉が通じない不安はあったものの、勇気を出して近寄って話しかけてみた。
「アノ、コンニチワ」
「英語よ! 外国の人だ! コミケも年々国際的になるわね」
 とても幸いなことに、メイドさんのコスプレをした子たちの中に英語の話せる者がいた。
「ドウカ、ナサイマシタカ?」
「ココハ 何処デスカ?」
「ッテ、日本ノ東京ノ…」
(「日本」!)
 名前だけは聞いたことのある国だった。
(たしか、中国の東隣にあるちいさな島国で、留学生のかたとかがロンドンに来ていらしてて、清国と戦争をして勝った国?)
「イマハ、西暦何年デスカ?」
「ッテ、二〇〇四年ダケレド…」
 相手はキョトンとしていた。
(一一〇年も未来じゃない! どおりで、クルックス先生が「未来の照明器具はみんなこれになるんだ」とおっしゃっていた「蛍光灯」がぶら下がっている訳ね…)
「ろんどんハ?」
「ろんどんハ、成田カラ飛行機ニ乗ッテ…」
(よかった! 大英帝国もロンドンもあるんだ! …先生がたに「未来の乗り物」として絵だけ見せてもらった「飛行機」が実用化されているようね。…これで万一、アレイスター様やサダルメリク君が迎えに来てくれなくても、ロンドンには帰れるわ!)
 さらに安心すると同時に、空き腹がグウーと鳴った。イギリス人の(正確にはアイルランド人の)メイドさんは、リンゴのような頬を赤らめた。
「オ腹ガ空イテイルノ? 私タチト一緒ニれすとらんデ昼食ニシナイ?」
「有難ウ デモワタシオ金ガ…」
 ブライディーはエプロンドレスのポケットから何枚かの大英帝国のコインを取りだして手のひらに並べた。
「アア 両替シテクルノヲ忘レタノネ。…イイワ、奢ッテアゲル」
「イエソレハ…」
 ブライディーはコインの中から半シリング銀貨を渡そうとしたが、日本人の少女は受け取らなかった。
「ワタシアキコ。貴女ハ?」
「ぶらいでぃー、ヨロシクネ」
 一同はホールに隣接したレストランでケーキ・セットを食べた。出てきたケーキも紅茶も美味しく、ブライディーは人心地をつかせることができた。
「日本ニモめいどハイルノ?」
 おずおずと訊ねる。
「サァドウカナァ… イラッシャルと言エバイラッシャルデショウシ…」
 ますます安心した。
(ということは、迎えが遅れた場合、働きながら待っていることもできるはずだわ)
「貴女タチノソノ恰好ハ?」
「アアコレハこすぷれヨ。仮装大会。知ッテイルト思ウケレド、ココハ自分デ印刷シタ漫画ノ本ヲ売ル会場デ、仮装ハ余興。ワタシタチハ本物ノめいどサンジャナイノ」
 ブライディーは少しガッカリした。
(なんだ、仲間じゃあないのか… 漫画というと、テニエル様らが描かれていて、新聞に載っているポンチ絵のようなもの? 退廃貴族やお金持ちの俗物や、悪徳政治家や神風将軍じゃあなくて、メイドを主人公にしたポンチ絵があるわけ?)
 会場に戻ってよく眺めてみると、なるほど、軍人や機械の怪物のポスターと並んで、いろんなメイドさんのポスターがあちこちに張られていて、その表紙の漫画の本が売られていた。
(男性の軍人さん、凛々しい少年将校さんが人気があるのは分かるけれど…
 どうして女性の軍人がいるわけ? …そうか、アメリカやこの国には女性の軍人がいるのかも…)
 ちょうどその時、声が大きくなって伝わる不思議な伝声管を通じてアナウンスがあった。
「いまからメイドさんのコスプレ大会を始めます。エントリーされるかたはステージにお急ぎください…」
「メイド」「コスプレ」「エントリー」「ステージ」という言葉が聞き取れた。
(英語がずいぶん使われている。ポスターや売り物の商標にも英語が多いし、アキコは英語を話してくれるし、もしかしたら日本も、アイルランドやインドやアフリカの国々みたいに、大英帝国の植民地になったのかしら?)
 妙な自信らしきものが湧いてきた。
「ぶらいでぃー、ワタシタチ、めいどサンのこすぷれニ参加スルケレド、貴女モドウ? 賞金一万円ガモラエルノヨ」
「一万円ハ何ぽんど位デスカ?」
「サァ、五十ぽんど位ジャア…」
 五十ポンドと聞いてブライディーは色めき立った。
(五十ポンドもあれば、当分お金は安泰だわ!)

 ステージにズラリとならんだ日本人のメイドさんたちの中で、ブライディーはかなり目だった。
 ブライディーはみんなに習って一生懸命一回転などのポーズをとり、会釈をし、見物客の中から抽選で当たった若者たちにお茶を注いだりしてみせた。
「おおー、本物みたいだ!」
「きっとイギリスから来た本物のメイドに違いない!」
「なんて可愛いんだ!」
「あの赤毛はきっと地毛だぞ、地毛…」
 観客の中からどよめきが漏れた。
 そして、優勝者が発表されると、もちろんブライディーだった。
「おめでとうブライディーさん!」
「サンキュー ベリーマッチ!」
 ブライディーは涙を浮かべながら一万円の入った祝儀袋を受け取り、みんなと一緒に記念写真におさまった。
「良カッタハネ、ぶらいでぃー」
 アメリカの農家の娘のようなジーパンにジージャンに着替えたアキコが肩を叩いてくれた。
「アリガトウ、アキコ」
 そろそろ陽が傾きはじめ、混雑していた会場も次第に空き始め、若者たちは後かたづけをし始めた。
「ぶらいでぃー、着替エハ?」
「アノ… イエ… ソノ…」
「マサカソノ恰好デ、外ニ出ルツモリジャアナイデショウネ?」
 メイドさんは泣きそうになった。
「待ッテ、イマ安イ服を買ッテキテアゲルカラ…」
 しばらくして、アキコは安い化繊のブラウスと長目のスカートを買ってきた。
「今夜泊マルトコロハ決メテアルノ?」
「安イ宿屋ニ泊マロウト思ウノ。コノ国ノ宿代ハドレクライカシラ?」
「サァ、安イトコロは二十五ぽんど位カラアルノデハ?」
「エッ!」 ブライディーは思わず叫んだ。
「ドウシテソンナニ高イノ! 貴族様ガ泊マラレルヨウナほてるジャナイノヨ!」
「分カッタ分カッタ。今夜ハワタシノあぱーとニ泊メテアゲル」
 ブライディーは「煙の吐かない列車」に乗って、アキコの住む町に降り立った。そこは、アメリカのニューヨークのように、高いビルディングがいっぱい建ち並んでいた。
 途中、大きな駅の売店で英字新聞を買った。もらったばかりの一万円札で払うとすると、またアキコが小銭で払ってくれた。そこで改めてパンなどをを買った店で両替を頼み、アキコに借りていたお金を返した。
 新聞には…
「テキサス出身のアメリカの大統領が再選」「アメリカ、アラビアとの戦争続く」「サッカーJリーグ今夜の試合予想」などの見だしが踊っていた。
(アメリカがアラビアと? イギリスとイラクの間違いじゃあないの?)
 ブライディーは首をかしげた。
 駅前には「馬車」ならぬ「自動車」がひしめいていた。「石炭自動車」は見たことがあったものの、よもや馬車を押しのけてこんなにうじゃうじゃと増えていようとは思わなかった。
 アキコのアパートは、びっくりするほど散らかっていた。本や雑誌が所構わず積み上げられ、足の踏み場もないくらいだった。「英国心霊研究協会」の先生方の書斎に慣れているブライディーも、自分と同じ年頃の女の子がこんなふうにしているのに驚いた。
 アキコは一人暮らしで、雑誌に載せるポンチ絵の画家ならぬ「漫画家」を目指しながら、「先生」のところに「アシスタント」に通っているのよ、と言った。
 ブライディーが残っていた食材でシチューを作ると、アキコは「サスガ」と褒めてくれた。
「氷冷蔵庫」ではない「電気冷蔵庫」と「テレビ」には仰天した。冷蔵庫の中には、明らかに傷んでいる食べ物も多くあったので、断りを入れながら丁寧に片付けた。しばらくすると、とりあえず冷蔵庫の中だけは見違えるようにきれいになった。
「アリガトウ」
 アキコは照れ笑いして頭を掻きながら言った。
「トニカク、明日カラ働カナクテハ…」
 メイドさんは寂しげに言った。
「あしすたんとノ仕事ナラ紹介スルワヨ」
「ワタシ、絵ガ下手ダカラ…」
「分カッタ。英語ノ求人雑誌ヲ探シテキテアゲル。旅券ト査証ト就労許可証ハ?」
「ろ、ろんどんノオ屋敷ニ置イタママ…」
「エーッ、ダメジャンソレ!」 アキコは両手の手のひらで頬を押さえてのけぞった。「不法入国ヨ、不法入国! 至急英国大使館ニ相談シナクテハ…」
「チョット待ッテ、アキコ!」 ブライディーは「携帯電話」なる通信機器を耳にあてがったアキコにしがみついた。「モウジキ、知リ合イガ迎エニ来テクレルハズナノ」
「本当ニ?」
 日本人の漫画家の卵は、うさん臭そうにメイドさんをみつめた。
「本当、信ジテ… ソノ時、モシモ牢屋ナンカニ入レラレテイタラ、困ルノ…」

 夜、アキコは「テレビ」で「外国を取材して、その国の自然や風習などを紹介し、クイズ形式にしてゲストたちが答える」という番組を見はじめた。その回はたまたま「イギリス編」だった。
「ワタシネ、十九世紀ノいぎりすノめいどサンヲ主人公ニシタ漫画ヲ描イテイルノ。ダカラ、いぎりすヲ取リ上ゲタ番組ハ必ズ見テ録画スルノ」
 ものすごく鮮明な、色つきの幻灯機に、バッキンガム宮殿の衛兵の交代や、ロンドンのパプの様子や、貴族のお屋敷の執事やメイドたちが次々に映し出されると、ブライディーの両頬に涙が伝った。
「バカネ。ろんどんナンテ、飛行機ダッタラ半日ジャナイ!」
 アキコはブライディーの背中をどんと叩いた。

 アキコは、ブライディーがシャワーを浴びているあいだに、「コンビニ」と称する、夜中も開いているよろず屋にパジャマと肌着を買いに走ってくれた。
「一万円、カナリ使ッチャッテゴメン」
 アキコは、品物とお釣りを差し出して言った。
「明日カラ働クハ」
 脱衣かごにきちんと畳まれて置かれている肌着を見て、アキコは仰天した。
(ババシッツにカボチャパンツにペチコート… まさかイギリスのメイドさんは、いまでもこんな恰好を?)
「何? 何カオカシイ?」
「イエ、さいずハコレデ合ッテイルト思ウケレド」
 差し出された肌着を広げてみて、バスタオル姿のブライディーは目を丸くした。
 三角形のちいさい布切れに、二つカップが付いた胸当てのようなもの、さらにそれを簡単にした胸だけの肌着…
 じっと眺めているうちに、せっかくシャワーを浴びたばかりの身体に冷や汗がどっと吹き出てきた。
(でも、「ローマではローマ人のするように振る舞え」と言うし、着るしかないわ… …それにしても、こんなちっちゃい下穿きが一枚一ポンドもするなんて、高い、高すぎるわ… でもジパングは黄金の国と言うから、何でもモノが高いのかも…)
 アメリカふうのパジャマを着て、アキコのシングルベットに横になってからも、まんじりともしなかった。
 アキコは「ワタシハ仕事ガアルカラ、貴女ハ遠慮ナシニ眠ッテネ」と言って、書き物机に向かい、明るい「蛍光灯」の下で「漫画」を描き始めた。「今日一日遊ンジャッタカラ」
(日本人は働き者なんだ…)
 ブライディーは思った。
(長い間鎖国をしていたたらしいけれど、開国してからは西洋の文化や習慣を取り入れて、瞬く間に列強の仲間入りをしたくらいだから…)
「ネェぶらいでぃー、貴女ハいぎりすデハドンナ仕事ヲシテイタノ?」
 アキコはベタを塗りつぶしながら尋ねた。
「めいどデス」
「ナルホド。いぎりすハイマデモ貴族様タチガイラッシャル階級社会ナノネ。…デ、ドウシテ日本ニ来タノ?」
(どうしよう?) ブライディーは悩んだ。(正直に「悪者に追われて一時的に逃げてきた」なんて言ったら、アキコは警察を呼ぶのに違いないわ)
「ゴ主人様ト、世界旅行ヲシテイル間ニハグレテシマッタンデス」
「ソウカ、旅券トカハゴ主人ガ持ッテ下サッテイルノネ」 アキコはスクリーントーンを貼りながら言った。「デ、ゴ主人ハ、ドンナオカタ?」
「有名ナ推理小説作家デス」
「ソレハ凄イ! オ名前ヲ訊イテイイカシラ? ワタシ、読ンデ知ッテイルカモ」
「こなん・どいる様デス」
「エッ?」
 アキコは持っていたトーンナイフを落とした。
「イエ、こなん・どいる様ソックリノ本格推理小説ヲ書カレルカタデス」
「ソウカァ『うえくすふぉーど警部しりーず』ノヨウナ?」
「ソ、ソレデス」
「マサカ、貴女ノご主人ハこりん・でくすたー様?」
 アキコは本棚にズラリと並んだペーパーバックを示して言った。
 メイドさんは必死で首を横に振った。
 寝付かれないブライディーは水を飲もうとベッドから起きあがった。何気なくアキコが描いている漫画に目をやると、十九世紀イギリスのメイドさんがお仕着せで外出するシーンの下絵を描いていた。
「違ウ違ウ、アキコ! ワタシタチめいどハご主人ノ付キ添イトカ、ヨホド急イデイル時以外ハオ仕着セデ出歩イタリハシナイワ。オ医者様ハ白衣デ街ヲ歩イタリナサラナイデショウ?」
「ソウカァ…」
 アキコは照れ臭さそうに苦笑いし、髪の毛を掻きながら言った。
「ネェぶらいでぃー、ワタシガココマデ描イタ下絵ヲ見テ、モノ凄ク間違ッテイルトコロガアッタラ教エテクレナイ?」
「デモ、『漫画』ナノダカラ、絵ニナルホウガイイトモ思ウワヨ。大英帝国ノ大勲章ニハ靴下ニ付ケルモノがアルケレド、ぽんち絵ノ勲章ハ、ミンナ胸ニ付ケテイルワ」
「ソウネ、ソレダト胸カラ上の絵ジャ偉イ人トイウコトガ分カラナイシ…」
 言いながらも、ブライディーはアキコの漫画を読み始めた。

 なんか、今朝、寝ぼけて再掲してしまいました。ごめんなさいm(_ _)m
 新しい、本来の続きを…

「ココハ違ウワヨ。かまどヤおーぶんハコンナ感ジ。台所全体モ… 貴女ガ描イテイルノハ一八〇〇年代中頃ノオ台所ヨ」
 ブライディーは上手くない絵を描きながら懸命に説明した。
「ソウカァ… 『しゃーろっく・ほーむず』ノびでおジャア映ラナイトコロモ多イカラナァ…」
 真夜中過ぎになって、二人はようやく小さなベッドに実を寄せ合うようにして眠った。

 翌日の日曜日、アキコは早くから起き出して、洗濯機に驚いているブライディーを尻目に出かける支度をしていた。
「今日モこみけ?」
「ウン。今日ハ自分ノ本ヲ売リニ行クノ。仲間モイルカラ、貴女ハココデ休ンデクレテイテイイワヨ」
「ワタシモ行ク。オ手伝イスルワ」
「ソォオ? 貴女ミタイニ可愛イ外人サンガぶーすの店番ヲシテクレテイタラ、足ヲ止メテクルオ客サンが増エルトハ思ウケレド…」
 二人は連れだって、またコミケの会場までやってきた。ブライディーは昨日アキコが買ってくれた普通の服を着ていたが、それでも十分目立っていた。
 アキコが言った通り、ブライディーが看板娘をやると立ち止まる人や内容を見てくれるお客も増え、本も少しずつ売れた。
「有難ウ、ぶらいでぃー。オ弁当ヲ食ベテ。ワタシハオ先ニ失礼シタカラ…」
 アキコは菓子パンの入った袋と缶紅茶を渡して言った。
 衝立の陰でおいしく食べ終えた後、何気なくテーブルを眺めると、売り物なのか、見本なのか、この世界…「二〇〇四年の日本」の人気のある美少女キャラクターをあしらったタロット・カードが置いてあった。
(わたし、本当に元の世界に帰れるのかしら? デイジーやアレイスターさんやサダルメリク君は迎えに来てくれるのかしら? それは何時のことかしら? どこで待っていればいいのかしら?)
 いろんなことを思い出し、落ち込んだ拍子についそのカードに手が伸びて、心配事の数々を占い始めた。結果は…
「いましばしの辛抱。たとえ何処にいても、きっとデイジーたちが見つけ出してくれる」と、嬉しい卦が出た。
「良かったぁー」
 思わず目を閉じて神様に感謝の祈りを捧げている時に、衝立が開いてアキコが入ってきた。
「ぶらいでぃー、貴女たろっと占イガデキルノ?」
 アキコは並べたままの本格的な陣を見てしまった。アキコの後ろ、ブースの通路側にいた何人かの若いお客さんたちも…
「外国人のお嬢さん、タロット占いができるのですか? だったら、本を一〇冊買って友達に売りますから、ぜひ占って下さい!」
「わたしも!」
「あたしも!」
 あっという間に行列ができた。
「すいません! 時間の関係もあるし、本の残りの冊数もあるので、ここまでくらいしか占えません。ごめんなさい。並んで頂いてもできませんので… 隣のブースのかたにもご迷惑ですので…」
 アキコとアキコの日本人の友達が必死で断り、予約時間を手書きした予約票を配ってようやく落ち着くことができた。
「かたことでも英語ができるかたは直接どうぞ! 通訳が必要なかたは、僭越ながらわたしが…」
 ブライディーは急に忙しくなった。
「進路について悩んでいるのですが…」
「告白したいんですが、相手は自分のことを好いてくれているでしょうか?」
「ケンカした友達と仲直りしたいのですが、できますか? どんな方法ですればいいでしょうか?」
「両親が不仲で…」
「父親の仕事が上手く行ってなくて…」
 次から次へと持ち込まれる悩み事の数々に、ブライディーは誠心誠意占い続けた。
(ああ、百年たっても、国が変わっても、いろんな便利な機械が発明されていても、人間の心配事は尽きないみたいだわ…)
 最後の一人を占い終えた後に、ブライディーはしみじみと思った。
 アキコの本も、店じまいまでの時間もまだかなり余っていたのに、占ってもらえるかと期待して待っていたお客さんもいたのに、アキコは「はいはい、ごめんなさい。これでもうおしまいです」と宣言してしまった。
「有難ウ、ぶらいでぃー。大変ナ目ニ遭ワセテゴメンナサイネ」
(こと、お金儲けのことになったら行けるところまでとことん行くデイジーとはえらい違いだわ…)
 メイドさんはホッと胸を撫で下ろした。

 こうしてコミケの二日目も無事に終了した。 予定していたよりも本をたくさん売ったアキコは満足そうだった。
「ヤリ方ニヨッテハ、全部売リ切ッテシマウコトモデキタノニ」
 と、ブライディーが言うと、アキコは
「ぶらいでぃーノ占イハ、言ワバ『オマケ』デショウ? 確カニ今ノ日本ニハおまけの方ガめいんノオ菓子ガ売ラレテイルケレド、ワタシハ自分ノ本ヲ、ソンナ風ニハ売リタクハナイノ」
「占イガ当タッテイレバイインデスガ…」
 ブライディーは電車の窓から沈む夕陽をみつめながらしみじみと言った。
「チョット、ぶらいでぃー、隣ノ車両ニ移リマショウ」
 アキコは袖を引っ張った。
「ドウシテ?」
「気ノセイダトハ思ウケレド、アノ顎髭ノ男性、会場カラズット私タチノ後ヲ尾ケテイルヨウナ気ガスルノ。痴漢カモシレナイ」
「痴漢?」
 二人が車両を移っても、その三十台の男はついてきた。途中の駅で降りると、その男も同じように降りた。
「ドウシヨウ、ぶらいでぃー、明ラカニ貴女ガ目当テダト思ウワ」
 プラットフォームの人混みの中でくるりと踵を返すと、アキコはその男の前に立ちはだかって睨み付けた。
「ちょっとあなた、一体何のつもりですか?」
「す、すいません…」 男はうろたえながら名刺を取りだした。そこには、とあるテレビ局のディレクターの肩書きに続いて、「吉沢…」と印刷されていた。
「テレビ局?」
「あの、ぼく、今度『心霊特集・行方不明者を捜せ』を作るんです。何人かのレギュラーの占い師さんは決まっているんですけれど、ゲスト占い師さん一名の枠が、なかなか『この人』といったかたがいなくて… 新宿の占い横町なんかも回ってみたんですが、オーラを感じる人は見つけられなかったんです」
「それでブライディーを?」
「ええ。外国人の若くて可愛らしいかただったら、人気つまり視聴率アップも期待できます。それに、レギュラーのかたは、筮竹占いや、コンピュータ占いをされるかたで、タロット占いのかたはいないんです」
 アキコはブライディーが「知り合いが迎えに来る」と言っていたことを思い出した。
「ネェ、ぶらいでぃー、てれびニ出テミナイ? 貴女ヲ探シテイル友達ガイタラ、一発デ見ツケテクレルワヨ」
 メイドさんは考えた。
(テレビというみんなが見ている幻灯。あれに出演すればシェークスピア劇の中の登場人物のように有名になって、ドイル様やアレイスター様やサダルメリク君やデイジーが見つけてくれる可能性は高まるだろうけれど、あの黒い邪神だって、テレビくらい見ているかもしれない。どうしよう? でも漫然と待ち続けていても仕方ないし…)
「アノ、こみけデ着テイタめいどノ衣装ヲ着テ出テモイイノナラ…」
「良かった…」 吉沢は微笑みながら言った。「亜希子さん、あなたも通訳として出て下さい」
「えっ?」
 アキコはぽかんと口を開けた。
「ギャラはお二人で一組、ということで…」
 アパートに帰ったアキコは、「パソコン」というものに接続された自動謄写版のような機械で、自分の描いている漫画の主人公を印刷し、それを電気アイロンでトレーナーに転写した。
「タトエ通訳デモ、コレヲ着テてれびニ出演スレバ宣伝ニナルカナ?」
 ブライディーはアキコに続いてヴィクトリア時代のくるぶしまで隠れる長い裾のメイドのお仕着せに、丁寧にアイロンをかけた。

 テレビのスタジオは、大仕掛けな宙づりなどがあるお芝居の舞台よりも、実にいろんなものがあった。何台かのカメラ、いくつものライト、そして天井のキャットウォーク…
 犬の散歩に出かけたきり、数年間行方不明のままの女子高校生について、筮竹を使う全身宝石だらけの中年の婦人は、ひとしきり筮竹で占い続けたあと、
「まことにお気の毒ですが、お嬢さんはすでに亡くなられていて、ご遺体は富士の青木ヶ原の樹海に…」と告げた。そして「樹海のこのあたりを山狩りしてもらったら…」と地図を指し示した。
 依頼人の家族は泣き崩れた。
 二人目の「亀の甲占い」の、お爺さんの占い師も「生きてはおられません」と言った。
 三人目の「陰陽コンピュータ占い」の安倍薫というビジュアル系の青年は、ひとしきりキーボードを叩いた後「…生きていて、東京に住んでおられます」と述べた。
 ブライディーの番がやってきた。

 まぶしいライトに照らされ、固唾を呑んで見守るスタジオ見学客が見守る中、ブライディーは「絵になるから」と渡されたトートのタロット・カードで真剣に占いはじめた。
 リハーサルでそのカードを手にしたとき、ブライディーは何か、とても特別な感じを受けた。そこで、
「スミマセン、このかーどハ?」
 と訊ねた。
「オヤ、知ラナイノカイ? コノかーどハ有名ナあれいすたー・くろうりーガ晩年ニ編ミ出シタシタたろっと・かーどダヨ」
 ディレクターの吉沢がなんとかたどたどしい英語で答えてくれた。
(アレイスター様が… アレイスター様が見ておられるのなら、失敗して恥をかくわけにはいかないわ)
 ドッジソン教授が集めているのよりは、ずっとメカニカルな感じのするハンディ・カメラが近くで回り続けていて、気が散らないと言ったら嘘になったが、一生懸命、全身全霊を込めて、カードを引いて並べた。
 目の前には、行方不明になったままの女子高生の引き伸ばされた写真と、英語に翻訳されたプロフィールが置いてある。
 ひとしきり、もう一度心を静めたあとで、ブライディーは静かに言った。
「コノ方ハ、生キテイテ、イマ東京ノ、コノすたじおノスグ近ク… 一まいる以内ニオラレルト思イマス」
 アキコが通訳すると、見物客たちはドッとどよめき、吉沢をはじめとするスタッフたちも目を大きく見開いた。
「本当ですか、ブライディーさん! 間違いありませんか?」 番組の司会者のタレントもにじり寄ってきた。「…もっと詳しく占って頂けませんか? どんな姿をして何をしているか、とか?」
「分カリマシタ」
 ブライディーは再びタロット・カードを並べて占った。
「コノ方ハ、イマ馬車…失礼…自動車デオ弁当ヲ売ッテオラレマス」
「おいみんな! いますぐすぐに局周辺で屋台を出している弁当屋を当たるんだ!」
 吉沢は命令した。
「しっかしディレクター、局周辺に来ている弁当屋さんは、結構数があるっスよ!」
 吉沢から司会者メモが渡された。
「ブライディーさん、彼女が、どんなお弁当…サンドイッチか、ライスアンドデリカか、お寿司か、おにぎりか、分かりますか?」
 ブライディーはまた占った。
「ワタクシガ見タコトガナイモノデス」
 ブライディーは困った表情で言った。
「お願いします!」 行方不明者の家族が、演出ではなく、本当に思いあまって走り寄ってきた。
「…ぬーどるデス。いたりあノすぱげってぃニ似タ、すーぷニツケテ食ベル…」
「そばかうどんですね!」
 司会者が派手なジェスチャーを交えて叫んだ。
 携帯用カメラを持って中継機材を背負ったスタッフが走って出て行った。家族や吉沢もそれに続いた。
「録画番組とはいえ、もしも… もしも、劇的な再会場面を撮影できたら凄いぞ!」

 ハンディカメラが、ブレながら屋台のミニバンを次々に写しだした。
「うどんかそばだそうです!」
 すると、サンドイッチと幕の内系を売る車にはさまれて、軽トラックを改造した、手打ちの麺類を蓋付きのプラスチックの丼に入れて売るトラックが止まっていた。
 そこでうどんを捌き、つゆや薄揚げやかまぼこや天かすを盛りつけている二十歳くらいの女性を見たとたん、両親の顔色が変わった。「おまえ…」
 若い女性は思わず手にしていた丼を取り落とした。
「お父さん、お母さん! どうしてここが?」

「凄イハ、ぶらいでぃー」
 アキコはブライディーに抱きついた。
「ヤラセだ! ヤラセに決まっている!」
「関係者が予め娘を捜し出しておいて、アノ外国人の少女に花を持たせたんだ!」
「そうだ、そうに決まっている!」
「死んでしまっている」と占って外した占い師たちや、一部の見物客が立ち上がって騒ぎ出し、スタジオは騒然となった。
「違います! ヤラセじゃありません。本当です、信じて下さい!」
 アシスタント・ディレクターは叫び続けたが、場内は静まらなかった。
「ぶらいでぃー、何ダカやばソウニナッテキタワ、逃ゲマショウ!」
 アキコはブライディーの手を引っ張って非常口へと向かったが、その前に「ターゲットは生きていて東京にいる」と、コンピュータ陰陽術で占った冷徹聡明そうな青年・安倍薫が立ちはだかった。
「ボクハ信ジマスヨ。…ダケド、アナタハコノ世界ノ人ジャアリマセンネ。一体何者デス?」
 安倍は眼鏡をキラリと輝かせながら訊ねた。

「えー、あー、この子は、イギリス…じゃあなかった、アイルランドからやってきたメイドの子で、世界旅行の途中ご主人とはぐれてしまって…」
 亜希子はしどろもどろになった。
「嘘をついても分かりますよ」 安倍は優しく言った。「…ぼくはこれでも、安倍晴明の血を引く陰陽師でしてね」
「ゴメンナサイ…」 ブライディーはペコリと頭を下げた。「アキコ、コノ人ハ騙セナイワ。あれいすたー様ヤさだるめりく・アルハザード君ト同ジおーらを感ジルノ」
「何? アレイスター・クロウリーやアルハザードと知り合いなのか? ますます貴女が何者なのか、知りたくなってきたよ」
 安倍は興奮してにじり寄りかけた。
「ワタシハ、一時避難ノタメ百十年前カラヤッテ来マシタ。モウジキ迎エガクルト思イマス」
「スルト、時空ヲ越エテ来タ、ト言ウノカ?…羨マシイ! ソノ術ヲ是非教エテクレ! 僕ハ、先祖タチガ活躍シタ、鬼タチヤ魑魅魍魎ガ跳梁跋扈シタ平安や鎌倉ノ昔ニ行ッテミタイ!」
 薫の回りに白い霧のようなものが渦巻き始めたかと思うと、キマイラのような奇妙な怪物たち…彼の式神たちが顔を覗かせはじめた。
「ナ、何ヨアレ… ドウシテアンナモノ出セルノ? …ぶらいでぃー、貴女モ超能力者ナラ、あにめミタイニ派手ナ『すたんど』ヲどどーんト出シテ、ヤッツケチャッテヨ!」
「ゴメン、アキコ。ワタシノ力ハ占イダケナノ… げーとヲ閉ジタリ開イタリデキルノハでいじーヤさだるめりく・あるはざーど君ダケデ…」
「ナルホド。ソレデ貴女一人デハ帰ルコトガデキズニ、ソノ者タチガ迎エニ来ルノヲ待ッテイル、ト言ウ訳カ…」
「分かったでしょう? テレビに出演したのは、居所を明かにするためよ!」
 亜希子はブライディーをかばうように前に出て言った。
「ほほう、すると『向う側』にいる仲間の中には高精度の占いの出来る者はいない、ということかな?」
 薫はちょっと唇を歪めた。
「…………」
「…もう目的はじゅうぶん達成されたと思うから、二度とあなたがたの営業妨害はやらないと約束するわ。だから、さっさとここを通して!」
 薫を睨み付ける亜希子の腕をブライディーが羽交い締めにした。
「ダメ! コノ人ハ術ヲ使ウノヨ。あれいすたー様カサダルメリク君デナケレバ勝テナイハ…」
「面白い! ぜひあの有名なアレイスター・クロウリーや、アルハザードの一統と近づきになって、術比べをしてみたいものだな!」 式神を従えた薫がジリッジリッと詰め寄ってきた。
「ダメヨ! 二人トモワタシノ大切ナオ友達ナノデスカラ!」
「君トズット一緒ニイレバ、近イウチニ嫌デモゴ対面デキルトイウ訳ダナ…」
「そんなことしたらストーカー行為で訴えてやるわよ!」
 亜希子は叫んだ。
 安倍薫は一瞬にして美しい蝶々に変身してブライディーの赤い髪の上に、まるで髪飾りのように止まった。
「セクハラよ! セクハラ!」
 亜希子は近くのゴミ箱から缶ジュースの缶を拾ってきた。それから素早くその蝶をつまんで缶に入れるとプルトップを元に戻して閉じこめた。
「コノママ捨テテシマイタイノハ山々ダケレド、モシマタ似タヨウナ奴ニカラマレタラ、
ワタシタチノ為ニ戦ッテモライマショウ…」 亜希子がしれっとして言ったところへ、ディレクターの吉沢が走ってきた。
「ブライディーさんに亜希子さん、こんなところにいらっしゃいましたか! …ご存じでしょうが、見学者が携帯であっちこっちに電話して、『もしもヤラセでないと言い張るのなら、警察や政府が困っている行方不明者をどんどん占ってもらえ』という意見が殺到しています。…せっかくですが、ただいま収録した番組も、とても放送はできません…」
 吉沢はいまにも泣き出しそうだった。
「えっ、放送されない?」
 亜希子はガックリと肩を落とした。
「お願いします、ブライディーさん」 吉沢はその場に土下座した。「もうじき警察と政府から『どうしても占って欲しい重要行方不明者』のリストが届くと思います。どうか、どうか、その人々の生死と居所を占ってください!」

「そんな勝手な!」
 亜希子はブライディーをかばうようにして、一歩二歩後じさった。
(守られていたんだ…) ブライディーは心臓が飛び出しそうになるのを感じた。(…ロンドンにいた時は、ドイル様や、クルックス先生や、ウォーレス先生や、ドッジソン先生や、そのほか大勢の立派な先生がたに守られていたんだ… 大英帝国の偉い人たちだって、探して欲しい人々はいっぱいいたのに違いないわ。それなのに、捕まえられて無理矢理占いをさせられたりすることはなかったのは、ドイル様たちが庇護していて下さっていたからだわ…)
「お願いします! この通りです!」
 吉沢はさらに平伏を続けた。
「だったら…」 亜希子も蒼白になりながら言った。「…どうして警察や政府の偉い人が出てきて直接頼まないのよ? どうして、テレビ局の一局員であるあなたが頼むわけ?」
「イイワ、アキコ、偉イ人トイウノハ頭ヲ下ゲルノガ嫌ナノヨ。いぎりすデモソウダワ。…分カリマシタ。デキル限リオ手伝イサセテ頂キマス…」
「ダメヨ、ぶらいでぃー。一度協力シタラ最後、二度ト自由ノ身ニハシテモラエナイワ。あめりかノ情報機関ダッテ『貸セ』ト言ッテクルデショウシ…」
「その通りだブライディーさん」 缶ジュースの中の薫もテレパシーで叫んだ。「吉沢さんには悪いが、『あれはヤラセだった』ということにしてもらうしかない」
「そんなぁ…」 吉沢はこれ以上はできないというくらい両目を大きく見開いた。「そんなことを言えば、ぼくは懲戒免職です…」
「いいじゃない! まだ若いんだから、新しい勤め先を探せばいいだけじゃない!」
 亜希子は吉沢の背中をどーんと叩き、吉沢はよろよろと前につんのめった。
「異国から来て、途方に暮れている女の子のために一肌脱ぎなさい!」
「分かりました… 分かりました… いまのは…あれは…ヤラセだったということにしておきましょう… しかし、警察などがそれで黙って引っ込むでしょうか。どちらにしてもブライディーさんの正体を知りたがるのでは? 亜希子さんの住所も、私の住所も、いまごろ押さえられていると思います…」
「ぼくは、現住所のほかに隠れ家を持っている」 缶ジュースの中の薫が言った。「そこならたぶん当分大丈夫だ」
「そんなことを言って、出して上げたら敵対したりチクッたりするんじゃあないでしょうね?」と亜希子。
「そんなことはしない、率直に言ってぼくも、自分の『力』のせいで、いままでいろんな目に遭ってきたんだ。いまの君たちの苦労と同じような辛い目だって沢山してきた。だから、そんな卑劣なことはしない」
「コノ人の言ッテイルコトハ本当ヨ、アキコ。…コノ缶ニシテモ簡単ニ出テコレルノニ、大人シクシテクレテイルノヨ!」
「ソウカナァ…」
 亜希子が空き缶のプルトップを再び開くと、小さい黄色い蝶々が羽ばたきながら飛んで出たかと思うと、元の美青年の姿に戻った。
「えっ、こ、これは!」
 吉沢は腰を抜かした。
「イリュージョンですよ、イリュージョン。吉沢さん、あなたの番組枠で、外国人の魔術師が、ジャンボ・ジェット機を丸ごと消したり再び出したりしていたでしょう?」
「そ、そうですか、そう言われればそうですね…」
 事後処理のために吉沢を後に残し、亜希子とブライディーは、東京二十三区の、とあるところにある薫の隠れ家にやってきた。
 そこは、古い日本料亭のようだったが、屋敷も庭園も、まるで幽霊屋敷のようにボロボロに荒れ果てていた。
「まるで、平安の昔、京の都に住んでいた安倍晴明の屋敷みたいねぇ…」
 亜希子は蜘蛛の巣を払いのけ進みながら言った。
「何カ結界ノヨウナモノガ張ラレテイマスシ、霊的ナモノモ感ジマス」
 ブライディーもしきりに目には見えない気配を感じ取ろうとしていた。
「…マルデ、あいるらんどノ深イ森ノ、呪術的ナ場所ノヨウニ…」
「ここにいれば、俗世のどんな権力者も、その配下も追っては来られない。ブライディーさんはここで仲間が迎えに来るのを待っていればいいだろう…」
「しまった!」 亜希子は頭を抱えた。「…漫画の〆切があったんだ! 仕事道具一式、取りに帰れればいいんだけれど…」

「それは諦めたほうがいいと思う」 安倍薫は小首をかしげて言った。「君も、ブライディーさんが無事に元の世界に帰るまで、行動を共にする覚悟をしたほうがいいだろう」
「ゴメンナサイ、アキコ。ワタシノタメニ…」
 メイドさんは顔を伏せた。
「そうとなったら早速食べるものも要れば着替えもいるわね。またわたしが買ってくるわ。…安倍さん、ここはどのあたりで買い物をすればいいのかしら?」
 亜希子は、自分の財布の中の残りの金額を確認しながら訊ねた。
「いや、くどいようだが、この一件が片づくまで余りうろうろしないほうがいいだろう。普段の買い物は、式神にしてもらっているのだけれど…」
 臙脂色のタイトスカートからスラッと長い足を伸ばした二十歳くらいの、メッシュのチリチリパーマに風鈴みたいなイヤリングをぶら下げた猫科の猛獣のようなきつい目をした美女が、破れ障子の影から現れた。
「薫、何よ、この子たちは?」
「あ、伊吹、いや… その… この子たちは、トラブルに巻き込まれて… 赤毛の西洋人の子のほうは、百年ほど過去から来た子なんだ。もうじき迎えの者が来るらしい。もう一人の子は、その友達で…」
「なんですって!」 伊吹と呼ばれた女性の両目が鬼女のようにつり上がった。「うまいことを言って、またどこかで引っかけてきたんでしょう?」
 伊吹は薫の首根っこをひっつかんでぐらぐらと揺さぶった。
「本当です、伊吹さん!」 亜希子があいだに割っては言って二人を引き離した。「安倍さんは、その時が来るまで、わたしたちをかくまって下さろうと…」
「その時までとは一体いつまでなんだ?」
 伊吹は薫の襟元を締め上げた。
「苦しい… 助けてくれ…」
「今日明日アサッテノウチダト思イマス…」
 ブライディーは吉沢ディレクターに返すのを忘れてそのまま持ってきてしまっていた「トート」のタロット・カードを示して言った。
「占いの絵札! するとおまえは、我が主と一緒で、占術ができるのだな?」
 伊吹は息も絶え絶えになった薫を、なまもののゴミ袋のように地面に投げつけた。
「ハイ。ソノコトガモトデ色ンナ事件ニ巻キ込マレテ…」
「だからさっきからそのように言っているだろう、伊吹?」
 薫はテレビ出演用のジャケットとスボンにこびりついた泥を払い落としながら言った。「うるさい! おまえには訊ねていない!」 伊吹は深紅のハイヒールのかかとで主を足蹴にした。…そう、安倍晴明の末裔は、なぜか己の式神の尻に敷かれていた。
「あの、やっぱりわたしが買い物に行ってきます」
 亜希子がハンカチで額の汗を拭いながら言った。
「いえ、いいですよ。わたくしが行きます」 伊吹は亜希子とブライディーのほうに向かって、これ以上はないというぐらいにこやかに微笑んだ。それからもう一度薫を引きずり起こして有無を言わさずに言った。「貴男も一緒に来るわね、薫?」
「も、もちろんだよ伊吹、君との買い物はいつもとても楽しいからね。…お二人さん、今夜の献立はなんでもいいかい?」
「え、ええ… できたらブライディーさんが食べられそうなものを…」
「カレーライスなんかどうかな?」
「有難ウゴザイマス」
「全部貴男が作るのよ、分かっているわね?」
 伊吹が念を押した。
「ああ、もちろん。後かたづけもみんなぼくがするよ」
 そんな訳で、薫と伊吹は出て行き、後には亜希子とブライディーだけが残された。
 雲がかかった月、枯れ残ったすすきの穂、庭を埋め尽くした枯葉を眺めて、亜希子は溜息をついた。
「ああ、庭だけは本物の安倍晴明の屋敷の庭のようなんだけれど… 残念ながらあの人もあんまり頼りにはならなさそうね…」
「ソンナコトハナイヨ、アキコ」 ブライディーは珍しくニコニコしながら言った。「アノ薫トイウ人、ヤル時ハヤル人ダト思ウワ」
「えーっ、マサカ?」
「実力ノアル日本人ハ、西洋人ノヨウニ、自分ノ力ヲヤタラトヒケラカサナイのが美徳ナノデショウ?」
「ソレハ昔ハ、『侍』トカ、ソウイウ人タチガイタラシイケレド…」
「イマモイルノヨ…」
 ちょうどその時、石灯籠の向こうの小さな太鼓橋の上にまがまがしい黒い渦が渦巻いたかと思うと、何者かが姿を現した。
「ぶらいでぃー、貴女ノ友達カナ?」
「イイエ、違ウミタイ…」
 メイドさんは亜希子をかばうように前に出身構えた。

 黒い次元の渦から現れたのは、魚のような顔をした、手の先には水かきのようなもののある不気味な怪物だった。
「な、なによ、あいつ!」
 亜希子は庭先にあった竹箒をつかんで構えた。
「多分ワタシヲ追ッテル邪悪ナ神ノ手下ヨ!」
「ヤレヤレ。ヤット見ツケタゾ。早クご報告申シ上ゲナケレバ…」 魚人は鰓をゴホゴボと鳴らし、腐りぬめった水をしたたらせながら近寄ってきた。「…コノ女ダト思ウガ、万一間違ッタ報告ヲスレバただデハ済マヌ…」
 亜希子が前に出て持った竹箒を振り下ろすと、魚人はそれを奪い取ってまず真っ二つに折り、束ねて四つに折り八つに折って、最後は粉々の粉末にしてしまった。
「おのれ!」
 亜希子は高枝切りはさみをみつけて、槍のように突いたものの、これも奪い取られて知恵の輪のようにぐにゃぐにゃに曲げられてしまった。
「だ、だめだわ…」
 亜希子の顔から血の気が引いた。
「けいたいデ警察ヲ呼ンデ!」
 ブライディーは亜希子の肩を揺すった。
「それはだめ! 仮に警察があいつをやっつけてくれても、ブライディー、貴女が束縛されることには変わりないわ!」
 とりあえず荒れ果てた屋敷の中に逃げ込もうと振り返ると、魚人の仲間たちが数人、彼女たちの回りを取り囲んでいた。
「御方様ガ必要ナノハ赤毛ノ白人ノ女ノホウダケダ。日本人の女ノホウハドウデモイイハズダ。始末スル前ニ楽シマセテモラオウ…」
「ダメッ!」
 ブライディーが金切り声を上げると、屋敷の奥のほうから、古い日本屋敷には著しく場違いな鮮やかなレモンイエローのイヴニング・ドレスに身を包んだ背の高いワンレンの美少女が現れた。
「なんだ、騒々しい!」
「あの、貴女も薫さんの式神のかたですか? だったら助けてください!」
 亜希子はすがるような目で巫女を見た。
「そうだ。比良という。良かったら覚えておいてくれ。…で、こいつらは、要するに雑魚か?」
「何ダト!」
 いきり立った魚人たちの回りに、いきなり深紅の炎が燃え上がったかと思うと、瞬く間に全員焼き尽くした。後には、魚を焼いた臭いだけが残った。
「有難うございます!」
 ブライディーと亜希子は目を潤ませながら頭を下げた。
「いや、なに、薫が招いた客人以外は、皆不法侵入者だ。…それよりもそこの占術師、連中の報告が奴らの親玉に行っていないか、占ってくれ」
「ハイ…」
 ブライディーは縁側に手早くトートのタロットを並べて占い始めた。
「…報告ハ行ッテイマス。ドウシマショウ?」
「デートの邪魔をされたら、伊吹のやつは怒るだろうが…」
 比良は携帯電話を取りだして、短縮ボタンを押した。
 ほどなくして、伊吹と、両手にいっぱいスーパーの袋を持たされた安倍薫が帰ってきた。
「またお客人が来るらしいから、比良と伊吹は料理を作り出してくれ」
「何を言う、料理をするのはいつものように貴男だ、薫。とりあえず様子見の先鋒はあたしに任せろ、いいな?」
 伊吹がモビールみたいな派手なイヤリングを揺らせて言った。
「いいや、伊吹、次のお客は貴女でも荷が重いと思う。ぼくが応対申し上げる」
「新たな客人は男だろうな?」
「ああ、そうらしい」
 薫は眼鏡を消費者金融の宣伝用のポケット・テシューで拭きながら言った。
「いままでわたくしの炎で焼き尽くせなかったものはありませんが」
 比良もドレスを翻らせた。
「ぼくもたまにはひとが作った料理が食べたいよ」
「ワタシタチガ作リマス。比良サント伊吹サンハドウカ薫サント一緒ニ…」
「さすがに百年前の女は良いことを言う」
 伊吹は日本人離れした豊かな胸を揺らせて言った。
「千年前の女が何を言う…」
 比良がポツリと呟いた。
「いや、比良も伊吹も、このたびは足手まといだ。料理が嫌なら、テレビでも見ていてくれ」
「うるさい、薫、初代の晴明様ならいざ知らず、貴男如き末裔の末裔に、とやかく命じられる我等ではない」
 伊吹はチリチリパーマのメッシュのミディアムヘアを後ろに投げ上げた。

 ほどなくまた、灯籠の向こうに、今度はより一層まがまがしい黒い次元の渦が巻き始めた。
「さぁ、早く、貴女がたは隠れていて絶対出てこないでください。『知らぬ存ぜぬ』で押し通してみようと思います」
 薫は眼鏡を持ち上げて言った。
「は、はい…」
 亜希子とブライディーは手に手を取って屋敷の中に入った。
 渦の向う側から、寛衣に身を包んだ肌の色の黒い、精悍な男が現れた。
「あー、伊邪那岐命と伊邪那美命が世界を作られる前に追い払われた旧き神… こいつは難儀な…」
 薫は髪の毛をかき上げた。
「ふん、黄色い肌の色の魔導師と、物の怪が二匹…」 黒い邪神は三人にチラッと目をやった。「…さっさとどけ。おまえたちに用はない!」
「そっちになくてもこっちにあるのだ」
 イケイケの衣服の伊吹が印を切ると、晴れていた空が一転にわかにかき曇り、雷雲が湧き出て稲妻が走ったと思うと、そのうちの何本かがつづけさまに黒い邪神を直撃した。
 だが、煙が晴れると邪神は元のままの姿勢で立っていた。
「何っ!」
 伊吹はさらに何度も雷撃を繰り返した。うち一つが誤って石灯籠に落ち、石灯籠は木っ端微塵に砕け散った。が、相手はビクともしなかった。
「おのれ!」
 今度は比良が、先ほど魚人どもを一瞬にして焼き払った炎の数倍の炎を邪神に見舞った。 しかし、相手はやけど一つしないで立ちつくしていた。
「もう一度だけ言う。どけ!」
「あの、卓越した占術のできる者を探しておられるみたいですが、それだったらこの比良と伊吹を連れて行かれたらどうでしょう?」 薫は揉み手しながらおずおずと言った。
「何をおっしゃいます、我が主!」
「薫、何のつもりだ?」
 比良と伊吹は細い眉を吊り上げた。
「…この二人も占いができます。…おまえたちも、ぼくのような頼りない主に仕え続けているよりは、このかたにお仕えしたほうが術も一層磨かれるだろうし、充実した日々を送れるのではないだろうか?」
「生憎だが、我は従者を必要とするような存在ではない。下僕ならば別だが…」
「でも、ものには押し出しというものも必要ですよ」 薫はさらにへりくだって言った。「下等な人間どもは、そういうつまらないことに圧倒されるのです」
「貴様も人間のくせに…」
 邪神は何か汚いものでも見るような目で薫を見た。
「薫! とち狂ったか?」
「まさか本心では御座いませんよね?」
 伊吹と比良は薫を睨み付けた。
「比良に伊吹、この御方のために、いろいろ占って差し上げろ。さっきこの御方の配下の者たちが占い師を捜しに来ていらしただろう?」
「そして、貴様らが可愛がってくれた…」
 邪神は鋭い目で三人を射た。
「貴神ほどの御方が、そんな些細なことは気になさらずに…」
「いいや、気になるな」
「報告で送られた占術師というのは、この比良と伊吹のことです。どうか、連れて帰られて煮るなり焼くなり、どうかお好きなようにしてください…」
 薫は真顔で言った。
「薫、この場を切り抜けることができたら、ただで済むとは思うなよ!」
 ファンキーな指輪だらけの拳をかためた伊吹が歯ぎしりしながら言った。
「薫様、悲しゅうございます…」
 比良はポロポロと涙を流した。
「我が探し求めているのは、このような低い位の物の怪ではなく、人間の、白人の赤毛の女の占い師だ!」
「どうしてそんなにその者にこだわるのですか?」
「我にすら出来ぬことができるからだ。…ええい、これ以上邪魔立てすると、考えがあるぞ」
「どんなお考えですか?」
 薫は相手には見えないように顔を背けつつニヤリと頬を引きつらせた。
 その時、三たび、石灯籠のあった場所の時空がぐにゃりと歪んで、三人の人影が現れた。 一人はイギリス人の大学生の青年。一人はアラビアふうの寛衣の少年、もう一人はちっちゃなメイドさんだった。

「お姉ちゃん! お姉ちゃんはどこにいるの? やっと探し当ててきたんだよ!」 デイジーは駆け出そうとして、自分が一番最初に呼び出した邪神が、先に着いているのを見てはたと立ち止まった。
「我をみくびるな」
 アレイスター・クロウリーとサダルメリク・アルハザードは歯がみしたまま間を詰められずにいた。
「また面倒なことにならないうちに、先に叩いておくことにするか…」
 黒い邪神が目をカッと開くと、強烈なかまいたちがアレイスターを襲った。アレイスターは背広ごと全身を切り裂かれて倒れた。
 攻撃を受けようとしたサダルメリクは吹き飛ばされて土蔵の白壁に激しく叩きつけられた。土蔵の壁と瓦が崩れ落ち、サダルメリクはその中に埋まった。
 その光景を見ていたデイジーは、ちびってしまった。
「アレイスター様、サダルメリク君…」
「心配するな、簡単に生命を奪ったりはしない… 下等な連中には、何度でも根気よく思い知らせてやる」 それから邪神は薫のほうを振り返った。「…さて、見ただろう? さっさと赤い髪の西洋人の少女を渡せ!」
「分かりました」
 薫は作り笑いを浮かべながら答えた。
「薫、何と根性のない…」
 伊吹は地団駄を踏んだ。
「ご先祖がご覧になられたら、どう思われるか…」
 比良はドレスの胸元を持ち上げて瞳を拭った。
「ごめん。ぼくは勇気のない男なんだ」
 薫はデイジーのほうを向いて深々と頭を下げた。
「そんな… 日本の人は、みんなサムライだと思っていたのに…」
「それは昔の話だ」
「なかなか物わかりがいいな、気に入ったぞ。
さぁ早く差し出せ」
 邪神は瞳を細め、輝かせた。
「分かりました。こっちです…」
 薫は背を丸め、揉み手しながら歩き出した。
「薫、情けないぞ!」
「そんなかただったとは思いませんでした…」
 伊吹は、デイジーを守るように前に回り込み、比良はズタズタにされたアレイスターを助け起こし、不思議な光を出して治療しながら言った。
「そんなことを言ってもさぁ、たとえどんな超能力があっても、人間には命は一つしかないんだよ。人間以外のものについてはよく知らないけれど…」
「よく言った。貴様は人間のわりには賢いぞ。
我の祭司にならぬか?」
「有難うございます。しかしぼく如きがおこがましい…」
 薫はますます卑屈になって言った。
「そんなことはない。いにしえより我等に忠誠を誓う人間は少なくない。貴様ならその者どもの頂点に立ち、束ねることもできるだろう」
「そうでしょうか…」
「我等とともに未来永劫の命を得、果てしなき時空を自在に飛び回ってみないか?」
「それは魅力的な話ですねぇ…」

「ブライディーさんを渡してたまるか…」
 比良に傷を治してもらったアレイスターはよろよろと、サダルメリクも瓦礫を払いのけて立ち上がった。
「貴様ら、まだ懲りないようだな! いいだろう。何度でも叩きのめしてみじめさのどん底に突き落としてやる!」
「あー、ここです。この中ですが…」
 薫は、庭のはずれにあった古井戸の覆いを開けて示した。
「どれ…」
 邪神が井戸の底を覗き込んだ瞬間、薫は邪神の背中を思い切り押して突き落とし、陰陽道の結界を開閉する呪文を真剣な表情で唱えつつ両手で素早く、大きく、複雑な印を切り続けた。
「やれやれ、これで当分戻ってはこれないかなぁ…」
 薫は拳で額の汗を拭いながら、井戸の端にヘナヘナと座り込んだ。
 アレイスターとサダルメリク、デイジー、それに比良と伊吹はポカンと開いた口が開いたままになっていた。
「だってぇ… こんなやつ、まともにやり合ってどうこうできる訳がないでしょう? 一発勝負に賭けるしかないでしょう?」
 男前の陰陽師は頭を掻きながら照れ笑いした。
 その時、台所のほうからブライディーと亜希子が走り出てきた。
「何があったんですか? 何の物音ですか?」
「台所の扉がなかなか開かなくって…」
「お姉ちゃん!」
「デイジー!」
「迎えに来てくれたのね!」
 大きなメイドさんと小さなメイドさんはしっかりと抱き合った。
「悪い奴も来たんですが、こちらの…アレイスターさんとサダルメリク君が追い払ってくれたんですよ」
 薫は肩をすくめながら説明した。

「アレイスター様、サダルメリク君、大丈夫ですか?」
 ブライディーは膝をつき、息を荒げながらロングドレスの式神の手当てを受けている友達に駆け寄った。
「ブライディーさん、良かった」
「どうやら無事だったようですね」
 アレイスターとサダルメリクはときどき眉を引きつらせながらも微笑んだ。
「有難うございます」
 大きなメイドさんは深々と頭を下げた。
「さぁ、お姉ちゃん、早く帰ろうよ! お姉ちゃんもあたしたちも、この世界には場違いなのよ。余りに長く居すぎると、それこそ前と全く同じ、一一〇年前のロンドンには戻れなくなってしまうわ!」
 デイジーが急かせる。
「アキコ、短イアイダダッタケレドモ、本当ニ有難ウ…」
 鳶色の瞳にたまった涙が頬を伝った。
「マタ… マタ遊びニ来テキテクレルワヨネ!」
 アキコも声を詰まらせた。
「モチロン、モチロンヨ…」
 日本人の漫画家の卵と、西洋人のメイドさんは、まるで古く長い友人のように、肩を合わせて抱き合った。
「皆サンニモ、大変オ世話ニナリマシタ。御恩ハ一生忘レマセン…」
 ブライディーは安倍薫と、比良と伊吹たちにもお礼を述べた。
「お姉ちゃん、その日本の魔術師の人には、そんなに丁寧にお礼を言うことはないわよ。何かかなりアヤシイわ」
 デイジーが囁いた。
「さぁ、早く!」
「ぐずくずしていると、またどんなことが起きるか分かりません!」
 アレイスターとサダルメリクは、少しよろめきながらも立ち上がって、石灯籠のあったあたり、小さな太鼓橋の上から手招きした。 デイジーも小走りに走って位置についた。「かれーらいすガ…」 亜希子が叫んだ。「ぶらいでぃーサント、ワタシガ作ッタかれーらいすガ出来テイマス。ミンナデ食ベマセンカ? 是非アナタ方ノ世界ノコトヲ、モウ少シ聞カセテクダサイ!」
「あたしたちも見たいわよ、未来の、日本の…」 デイジーが両手の指を組んだり放したりしながら言った。「お姉ちゃんだけ、楽しんでずるいとも思うけれど…」
「とても残念ですけれど…」
 アレイスターは、一目会ったときから自分のことをずっと見つめてくれている、ロングドレス姿の式神を見つめ返して言った。
「お世話になりました。日本の魔術師のかた…」
 サダルメリクも安倍薫に、瞳で何かを伝えた。
「ぼくも陰陽師の端くれ。あなたがたがどこのどなたがたなのか、おおよその見当はつきますよ。できたらこのたびの友誼を末永く大切にしたいものです」
 安倍薫は太鼓橋の近くまで駆け寄って、アレイスターと握手を交わした。
「もちろんです。もちろんですとも!」 ケンブリッジのハンサムな学生は、差し出された手を強く握り返した。「…それでなくても、ぼくは、東洋の神秘にとても興味があるのです」
「何をくどくどごちゃごちゃと… そんなに帰りたいのなら、さっさと帰れ! …まったく突然に現れたくせに勝手な…」
 伊吹は枯葉の固まりを蹴散らした。
「ソレジャア本当ニ、サヨナラ…」
 ブライディーは振り返り振り返りしながらみんなのところまで歩いた。
「ネエ、ぶらいでぃー、貴女ニ手紙トカめーるトカヲ書ク方法ハナイノ?」
 両手で顔を覆って泣き出す大きなメイドさんを、ちっちゃなメイドさんが腰を抱えるようにして連れ戻した。
「さぁさ、お姉ちゃん、別に死に別れる訳じゃあないんだから、泣かないで!」
「縁があったら」
「また会えると思います」
 アレイスターとサダルメリクが言った。
 時空の渦が巻き始め、イギリス人の三人とアラビア人の一人は、その渦の中に吸い込まれるようにして消えた。

 秋が深まるにつれ、ロンドンの空気も冷たく冴え渡り、人々や馬たちの吐く息も白くなり、暖炉の薪がはぜる音や、石炭の燃えるにおいが恋しくなり始めた。
「ブライディー、きょうは日本からの留学生のかたがお見えになるから、夕食の献立はカレーライスにしてくれないか?」
 厚手のフロックコートからかすかに樟脳の香りを漂わせながらドイルが言った。
「カレーライス、でよろしいのでございますか?」
 ブライディーは箒をかける手を休めて問い返した。
「先方のご要望なんだ」
 馬車が止まる音と、チャイムの音がした。「はい、ただいま!」
 正面玄関の扉を開けた大きなメイドさんは、大きく目を見開いたまま、言葉が止まってしまった。
「やあ、このあいだはどうも…」
 そこには、蝶ネクタイに丸眼鏡の安倍薫が、ドレス姿の比良と伊吹を従えて立っていた。「…君の置きみやげのカレーライスが、余りにも美味しかったので、つい、こちらに…」「料理を食べるだけだぞ。ここの女に色目など使ったらただでは済まさないぞ」
 派手なドレスの伊吹が薫の耳に囁いた。

     (次のエピソードに続く)





KIJISUKE@aol.com