2004/10/28 ブライディーが夢から覚める瞬間のシーンと、オーラスの戦闘シーンを若干加筆、ほんの心持ちですが補強しました。 ブライディー・ザ・マジックメイド 「ゴーストハンター・ブライディー」 裏が白い包み紙を適当な大きさに切って作ったメモ用紙の束に、デイジーがちびた鉛筆でがまた一本、短い棒を引っ張った。 「デイジーさん、最近よく何かをメモしておられますけれど、その棒は一体何のしるしですか?」 英国心霊研究協会が借りているお屋敷、脚立の上に乗って、カーテンを冬用の厚手のものに取り替えていた三人目のメイドさんのポピーが訊ねた。 「シーッ!」 デイジーは隣の部屋とのドアをそっと閉めた。「ブライディーお姉ちゃんの溜息の数よ。あたしは通いにしてもらっているから、夜は数えられないから、実際はもっと多いはずよ」 「ええっ、デイジーさん、そんなことを数えていたんですか!」 ポピーは呆れかえって、脚立の上からカーテンごと落ちそうになった。 「あたしと一緒にお使いに行っても、心ほとんどここにあらずといった感じなのよ。それで、通りでお姫様たちや、女子学生と思しき子たちや、若いカップルを見かけると、まるで姥捨て山に捨てられたお婆さんみたいな長く大きな溜息をつくのよ…」 「ブライディーさんはいま何をなさっておられますか?」 ポピーは顔が隠れるほどカーテンをたくさん抱え持って言った。 「フランスの、リモージュの伯爵様から頂いたビスクドールを夏服から冬服に着替えさせているわ。…仕事はきちんとしているし、ドイル様たちの前では溜息なんかつかないからバレないのよ」 「このところいろいろと続け様でしたからねぇ… お休みを取られて、小旅行かお芝居か買い物にでも行かれればいいのに…」 「小旅行もお芝居も買い物も、目に付くのはバカップルばかりじゃない。お姉ちゃんの行きたいところはアメリカなのよ、アメリカ。『お兄ちゃん』のいる…」 「でもしかし『いますぐ行ったところで』というお話しでしたよね」 「ああもう、どうしてそんなに結婚なんかしたいのかしら? アイルランド人でカトリックだったら、毎年毎年お腹が空く暇がないくらいボコボコ子供を生まされて、自分はブクブクに太るかよれよれに痩せるかして、寝る間もないくらい旦那やガキンチョの世話をしなければいけないというのに… ここでずっと働いていたら、誰のやっかいにもならずに、ちょこっと欲しいものは買えるし、小金も貯められるし、年金の掛け金だって払えるし、ずーっと気楽なままでいられるのに…」 デイジーは次のカーテンをむしり取らんばかりの勢いで外しながらつぶやいた。 ポピーはブライディーが背中と胸に赤ん坊を抱いて、両手に何人かずつの子供の手を引いて所帯やつれして悲惨な姿になってしまったところを想像してみようとしたものの、どうにも思い描いて見ることはできなかった。 むしろ、一ダースほどの子供たちに恵まれても、まったく年を取らず、美しいままだったという、おとぎ話の「妖精の花嫁」の姿をしたブライディーが目の前に浮かんだ。 (そんなことを言う子に限って、いざ自分に好きな人ができたら、「生きるの、死ぬの」と泣きわめくのよね) そう思ったポピーだったけれど、口にした言葉は別の事柄だった。 「ブライディーさんは幼い頃にご両親と死に別れているし、ご兄妹もいらっしゃらないので、人一倍家庭というものに憧れておられるのではありませんか?」 「かもしれないわね」 デイジーは渋々認めた。「…そういう意味では、育ての親とは言えお母さんがいて、アパートとは言え、帰る家もあるあたしは幸せかも…」 「でしょう? あたし、ブライディーさんを励ましてあげたいわ。…そうよ! クリスマスに向けて、『お兄ちゃん』に手編みのセーターかマフラーを編んで送って上げるように勧めてみる、というのはどうかしら?」 「お姉ちゃんが作りたいと思っているのは、ふわふわのチュールを重ねたウエディング・ドレスだと思うけれど」 デイジーは肩をすくめた。 「そんなことありませんよ。何事によらず『段階』というものが… そう、船便は一ヶ月以上はかかるから、勧めるのだったら早くしないと… 万聖節までには発送しないと間に合わないわ」 ポピーがそーっとドアを開け、隣の部屋を覗いてみると、窓を拭いていたブライディーが、虚ろな目で時おり秋の風に吹かれてはらはらと舞い散る落ち葉を眺めて、「ほーっ」と長い溜息をついていた。 (これは、デイジーさんが言うように重症だわ) ポピーは一人で小さく頷き、(やはり、このままにしてはおけない)と思った。 「ねぇブライディーさん」 デイジーが公休日でお義母さんと一緒に、有名なお医者さんが来ているという病院に行った日、ポピーは、お茶とお菓子を前にしてボーッとして黙ったままのブライディーに話しかけた。 「あ、ごめんなさい、ポピー、いま何か言った?」 「あのね、月日のたつのは早いもので、もうなにやかやしていたらクリスマスでしょう?」 「そうね。わたしもこのお屋敷に来て初めてのクリスマスだから、早めにドイル様たちに飾り付けをしまってある場所をお聞きしておかなければいけないわね。国教会の飾りかたやしきたりはデイジーに訊くとして…」 ブライディーは大きなお屋敷のメイド頭が持っているような、布張りの表紙の付いた家事手帳を取りだして書き付けた。 「いえ、そうではなくて、プレゼントです」 「あら大変、すっかり忘れていたわ! ドイル様たちや皆様がたや、デイジーや、貴女にも… ポピー、貴女はどうするの?」 「あたしは故郷の村に伝わる、『大変よく効くハーブののど飴』を考えております。デイジーさんは絵がお得意なので、お花を描いた自作の木版刷りの卓上カレンダーを配られるとか…」 「どうしましょう… 貧救院では、福音書の御言葉を書いたしおりを交換したりしましたが…」 「ブライディーさんは歌がお上手なので、キャロルを歌われたら、皆様きっとお喜びになられるのでは?」 「そんなので良いのかしら…」 「でも、ブライディーさんにはとても特別なかたがお一人、いらっしゃいますでしょう?」 ポピーはウインクしながら言った。 「『お兄ちゃん』… ここ何年かはお休みを頂いてから、二人で連れ立って歩いたりしていましたが…」 「ブライディーさん、それは『デート』と言うんじゃあありませんか?」 ブライディーの頬が赤くなった。 「でも今年はそれは難しいかもしれませんでしょう?」 「『お兄ちゃん』が、クリスマスに、帰ってくる…」 「アメリカに渡られたばかりだし、もしも帰ってこられない場合、早めにプレゼントをお送りしてあげたら、『お兄ちゃん』もさぞかし喜ばれるのでは?」 ポピーは身を乗り出して言った。 「でも、いまアメリカのどこにいるのか…」 「そういうことこそタロット占いで占うんですよ。失礼ながらアイルランドのかたのつながりは、ユダヤのかたがたや、イタリアのかたがたのように緊密だと伺っております。占いでだいたいの見当をつければ、きっと届きますよ」 「もし贈るとすると、何がいいかしら?」 「もちろん手編みのセーターとかマフラーです。スコットランドの北の海に浮かんでいるシェットランド島の漁師の女たちは、夫や恋人に、家紋の入ったセーターを贈るそうではありませんか。万一の場合それで身元も分かるそうですし…」 言ってしまった後でポピーは思わす手で口を押さえた。 案の定ブライディーの瞳にうっすらと涙が浮かんだ。 「だ、大丈夫、そういうのはあくまで万々一の話ですよ。大きな本屋さんへ行けば、『魔除けのデザイン』なんかを解説した編み物の本もでていますし、そういうので…」 「アレイスター様は、『普通の本屋さんに並んでいるような魔術の本は、たいていがいい加減なものだ』と、おっしゃってられましたけれど…」 「じゃあドイル様か、フィオナ様に訊いてみられれば? アレイスター様に手紙を書いて推薦して頂いてもよいかと…」 ケンブリッジのアレイスターに手紙を書き、新品の毛糸を買い揃えたあたりから、ブライディーさんにいつもの明るさと活気が戻ってきた。 「お勧めしてしてよかったです」 ポピーはホッとした表情で言った。 「フン、つまんないわ…」 デイジーは「ブライディーの溜息の数」を付けていたメモ帳を放り出した。 ほどなく、ケンブリッジのアレイスターから分厚い返事が来た。 『…そういう頼みなら嫌とは言えないな。ぼくが集めた有効なデザインの覚え書きを貸すよ。その中で君が気に入り「お兄ちゃん」にも似合いそうなのを編み込んで作ってみればいい。完成の暁にはまず…サイズの問題があるとは思うが…君がそれを着て、ロンドンの近くで実験をしてみよう。もちろんその時は、このぼくも責任があるから同行しよう。 アレイスター・クロウリー』 ブライディーはその日から暇を見て、クリーム色の毛糸玉から毛糸を繰り出し、編み棒を巧みに操ってセーターを編み始めた。 デイジーだったら編んでいるところをしきりに覗き込んで、下手をすれば留守の時に袋から引きずり出されて見られてしまうところだったが、屋根裏のメイド部屋の相部屋の相手がポピーに変わっていたので、そういう目には遭わずに済んだ。 「どうか、お兄ちゃんを守ってくれますように… どうか、お兄ちゃんを助けてくれますように…」 もしもポピーの耳が良くて、おまけに人の独り言に耳をそばだてる癖があったら、切ない祈りを聴いたかもしれない。 おそらく寝る時間を削ったのだろう、万聖節をかなり前にして、セーターは完成し、メイドさんはその旨をケンブリッジのアレイスターに手紙を書いた。 折り返し、アレイスターから返事が来た。「ずいぶんと早く完成したんだね。…ちょうど良かった。ぼくも今度の週末ロンドンに戻るついでがあるんだ。土曜日の夜、暇はもらえないかい? 『英国心霊研究協会』に『幽霊亡霊が出るようなので、ぜひ退治して欲しい』という依頼が来ているお屋敷に、二人で『心霊協会の会員』を名乗って乗り込もう」。 最初のうち、ブライディーは、(ドイル様に事情をお話しして、ちゃんと許可を取った上で、ロンドン市内か、ロンドン近くの調査の依頼状を分けて頂こう)と思っていた。 しかし日にちが近づくにつれ、また、ドイルや他の会員たちの顔を覗き込むにつれ、(そんな危険なことはやめておくんだ、ブライディー。いままでいろんな怖い目に遭って、まだ懲りないのか?」と言われる気がして、なかなか言い出すことができなかった。 (アレイスター様はもう予定を入れて下さっている。わたしも『見たいお芝居があるから』とお休みを頂いている。いまさら『実はお芝居ではなくて、幽霊退治がしてみたいのです』とは言い出しにくいわ…) メイドさんは出来上がったセーターの袋を抱きしめて悩み続けていた。 「ブライディーさんが魔除けのセーターを編み上げたらしい」という噂は、ポピーからデイジーに伝わった。 「ふーん、いかほどの効き目があるものやら、大いに疑問ね」 デイジーは鼻を鳴らしながら言った。 「たぶんどこかの幽霊が出ると言われているお屋敷で、ブライディーさんご自身がそれを着てテストをなさるのでは?」 「お姉ちゃんが一人でそんなことをする度胸はないわよ」 「それが、危険防止のため、アレイスター・クロウリー様が同行されるようなんですけれど…」 「何ですって!」 デイジーはスペインの闘牛の牛みたいに鼻息を荒げた。「アレイスター様は、もしかしたら幽霊亡霊のたぐいよりも危ない奴かもしれないのよ。…そりゃあ曲がりなりにもケンブリッジの学生だから、一見紳士を装ってはいるけれど、悪い噂も結構あるのよ、あの人… そんな人が夜遅くにお姉ちゃんと、人けのない幽霊屋敷で二人きりになるなんて、絶対に見過ごせないわ!」 「じゃあ、どうすれば…」 ポピーはおろおろした。 「あたしもお暇を頂いて、こっそり後をつけるわ。ポピー、貴女は留守番をお願いね。それと…」 デイジーは合い鍵を取りだして、「心霊研究協会」会員専用の書斎に入り込んだ。 そして、ブードゥー教の干し首の中に隠してある別の鍵束の中の鍵を使って、書類の入ったロッカーを引き開けた。 そこには、これから会員たちが分担して調査に赴く予定の依頼状が、怪奇度や切迫度によってAからCまでに分けられていた。Cは比較的解明解決は容易、と思われるもの。Aは非常に難しいのではないか、と思われるもの。そしてBはその中間だった。 デイジーは虫も殺さぬ顔で、その時たった一通しかなかったAの書類袋にあった依頼状をCの袋に、何通かあったCの袋の手紙を全部Aの袋に移し替えた。 「デイジーさん、一体何をなさっておられるのですか?」 ポピーはさらに一層うろたえた。 「決まってるじゃない。根性のないお姉ちゃんのことだから、アレイスター様と行く幽霊屋敷は『たぶん解決は容易』の袋の中から選ぶでしょう。世の中はそんなに甘くないということを教えてあげるのよ」 「そんな… そんなことをしてもしも万一のことになったら…」 「大丈夫。アレイスター様がご一緒なのよ。幽霊や亡霊じゃない、アレイスター様に悪さをさせないためには、Aでちょうどいいのよ…」 「英国心霊研究協会」の会員たちが皆いなくなり、デイジーとポピーもお使いに出て、たまたま自分一人だけになった昼下がり、ブライディーは小さな鈴の付いた「メイド頭用の合い鍵の鍵束」を取りだして、書斎に入った。 カーテンと窓を開け、机の上や棚の上の埃を丁寧に拭き、絨毯の上をホウキをかけた。 その後、窓とカーテンを閉めて、ブードゥー教の干し首をじっと見つめた。 (だめよ、ちゃんとドイル様たちのお許しを頂かなくては…) 「天使のブライディー」が右の耳元で囁いた。 (貴女莫迦じゃない? いくらお優しいドイル様でも、そんなお願いは「だめだ」とおっしゃるのに決まっているわ!) 「悪魔のブライディー」が左の耳元で囁いた。(…さあ、その干し首の中から、書類戸棚の鍵を取りだして、さっさと戸棚を開けて、「幽霊退治の依頼の手紙」を一通、ちょっとのあいだだけお借りするのよ! Cに分類されているものだったら、そんなに危険はないはずよ。おまけにアレイスター様が付いてくださるのよ。そのへんの幽霊なんて、アレイスター様にかかればチョイチョイのチョイでやっつけてしまわれるわ) メイドさんはコックリと頷いて、干し首の中に手を突っ込み、鍵を取りだした。書類戸棚を開くと、Cと大きく書かれた袋を取りだして、たった一通しか入っていなかった手紙を取りだした。 (一通しかないものを、このまま持ち去ったら、騒ぎになってしまうわ。写しましょう…) ブライディーは差出人の住所氏名をメモ帳に写してから、依頼の手紙を読んだ。そこには、 「夜中になると床が鳴り、家全体が揺れ、窓が勝手に開き、物の怪が闊歩する気配が立ちこめる。いままで数多の霊媒や除霊師たちに依頼したが、みな五分と持たず逃げ去ってしまった。私は家主だが自分で住むこともできず、ましてや他人に貸すこともできず困っている…」と窮状が切々と綴られていた。 (大したことはなさそうじゃない。いざとなったら逃げることだってできるみたいだし…) 「悪魔のブライディー」が耳の上に乗っかって足を組んだ。 しかし、そのあとに気になる一文が… 「…逃げ出した霊媒や除霊師たちが新聞や専門雑誌に載せていた広告が、その後ぱったり載らなくなっている。みんな恐れをなして廃業したのだろうか? …いや、それは奇妙だしあり得ないことだ。私のところ一軒くらいで失敗しても、廃業するまでに落ち込むことはないし、また別の簡単な依頼をこなしていけば良いと思うのだが…」 (大丈夫、もし失敗した場合に呪いか何かがあるのだとしても、呪われるのはアレイスター様よ。貴女じゃないわ) 「悪魔のブライディー」が自信たっぷりに言った。 (これ、本当にCクラスの依頼なのかしら?) メイドさんは一応疑った。で、念のためAとBの袋を探してみた。すると、Aの袋もBの袋もぷっくりと膨らんでいた。 (AとBはこんなに多いのに、Cはこれ一通だけ? それはいくら何でもおかしいのでは? どなたかが入れ間違ったか、それとも…) いまのを止めにして、沢山入っているBの中から選び直そうとした時、「悪魔のブライディー」が鉤の付いた尻尾をくねらせながら目の前を飛び回って言った。 (貴女は愛する『お兄ちゃん』にモノを送るとき、手抜きと言われても仕方のない簡単なテストしかしないの? 例えば、「地獄じゅうの鬼・悪魔と戦っても傷一つ負わない」…そんなセーターを贈ってこそ、真に相手に役立つモノを贈った、といえるのじゃあなくて? Cの袋に入っていたけれど、実はA…上等じゃない? 最悪の事態になっても戦うのはアレイスター様、貴女じゃないわ) メイドさんはコックリと頷いてしまった。 しばらくしてデイジーとポピーがお使いから帰ってきた気配がした。ブライディーはゆっくりと鍵をかけ直して書斎を出た。 物陰からその様子を窺っていたデイジーはこみ上げてくる笑いをこらえることができずに、手のひらで口元を覆った。 「デイジーさん、いいんですか? 本当にこんなことをして?」 「いいのよ。あたし、アレイスター様の実力をこの目で拝見したいの」 「しかし、万々一、アレイスター様が敗れることがあったりしたら…」 「その時も大丈夫。なぜなら…」 「なぜなら?」 ポピーが聞き返した。 「あたしにはサダルメリク・アルハザード君が付いていってくれるという約束を取り付けているから」 土曜日は朝から冷たい雨が降りしきる陰鬱な日になった。 「良かったねぇブライディー、お芝居で。そのバスケットにはお弁当が入っているのかい? たまのことなんだから、向こうのを買えばよかったのに…」 ドイルは、暗くなりかけてから、傘や雨用の帽子やバスケットを用意しているメイドさんに言った。 「はい」 ブライディーは伏し目がちに答えた。 「帰りは遅くなるらしいね。必ず劇場の前からこの屋敷の前まで、馬車に乗るのだよ」 「はい」 メイドさんはますます伏し目がちに答え、バスケットを持って通りへ出た。その中には一ヶ月以上かけて編んだセーターが、油紙に包んで入っていた。 約束の角に、ケンブリッジの学生用のマントを羽織ったアレイスターが、馬車に乗ったまま待っていた。 「アレイスター様、すみません…」 ブライディーはペコリと頭を下げた。 「着替えは、着いてから馬車の中で?」 「はい」 「出してくれ…」 アレイスターはそう言って腕と脚を組み直した。 馬車が、寂しい通りにあるその屋敷の玄関先に着く頃には、日はもうとっぷりと暮れていた。 ブライディーが馬車の中で着替えているあいだに手持ち式のランプを二つ付け、蜘蛛の巣が張った樫の扉を照らしたアレイスターは、思わず目を見張った。 (なんと、まがまがしい妖気に満ちた屋敷なんだ。扉から、まるでガスでも漏れているように黒い邪気が漏れ出ているじゃないか! いつからかは知らないが、ずいぶん前からいままでずっと漏れていて、それでも尽きないものだとしたら、ほとんど地獄なみの無尽蔵、ということになるが…) とそこへ、男の子用の古い上着を着てズポンをはき、古い鳥打ち帽をかぶったブライディーが馬車から降り立った。上着の下には、ケルトの渦巻き文様を縦に何列にも編み込んだ、ぶかぶかの暖かそうなクリーム色のセーターを着込んでいた。 「なかなかよく似合っているよ。きっと『お兄ちゃん』が着たらもっと似合うだろうし、喜ぶと思うよ。しかし…」 「どうかなさいましたか、アレイスター様?」 「この屋敷だけはやめておいたほうがいいかもしれない…」 アレイスターは屋敷の、ところどころ痛んで崩れ落ちかけている破風や屋根の上に広がる黒と濃い灰色に染め分けられた雷雲や雨雲を見上げて言った。 「えっ!」 「これは、ぼくの手にも余るかもしれない。いや、君のお姉さん代わりのシスターでも祓えないだろう。…文字通りキャメロットのマーリンでも連れてこない限り… とりあえず、すぐにここから去ろう。馬車は?」 と通りを見ると、二人を乗せてきた馬車は影も形もなく消え失せていた。 「わたしが着てきたドレスなどをしまってあるバスケットが…」 メイドさんは慌てた。 「大丈夫、ちゃんとした組合の馬車だったし、鑑札番号も覚えているから戻ってくると思う。…仕方ない、歩いて帰ろう…」 アレイスターが男の子の恰好をしたブライディーを促して歩き出そうとした途端、滝のような雨が降り出し、二人はやむなく玄関のひさしのあるところに戻った。 「これは、いけないかもしれない…」 アレイスターはコートのポケットからチョークを取りだして、手早く複雑な魔法陣を描いた。 「さぁ、ブライディーさん、早くこの上に立って!」 「アレイスター様、貴男は?」 「この陣は一人用だ。ぼくの力をもってしても、一人守りきるのがやっとだ」 言い終わるか終わらないうちに、固く閉ざされていた扉がいきなりバアーンと開いたかと思うと、小さな竜巻のようなつむじ風がアレイスターを屋敷の中に引きずり込んだ。 「ブライディーさん、動くな! 絶対にその陣から出てはいけない!」 「しかし!」 ブライディーは陣の内側から扉の中に向かって手を差し伸べた。腕の先の、陣から外に出ている部分が、もの凄い力で吸い寄せられる… 「早く手を元に戻すんだ! 陣のま真ん中から動くな!」 「ですが!」 ブライディーは言うことを聞かずにアレイスターを追いかけようとして、彼と同じく屋敷の中に吸い込まれた。 その様子を通りの斜め向かいあたりから眺めていたデイジーは大いに慌てて、サダルメリク・アルハザード少年のアラビアの寛衣の袖を引っ張った。 「大変だ! どうしよう? 助けに行かなくてもいいかな?」 サダルメリクはほんのかすかに一度だけ、首を横にかしげた。 「これはぼくでも危ないな…」 「えっ?」 「先祖の、アブドゥル・アルハザードや、莫迦姉貴のアルテアでもどうか…」 「…すると、この世界がまだ火の海だった頃、神様として君臨していた『旧き神』のうちの何者かかな?」 「そのままそうでなくても、それに近い奴だな。宇宙的規模の邪気、底知れない深淵、人間など蟻のように一瞬かも…」 「すると、お姉ちゃんは?」 デイジーは顔を丸めた紙くずみたいに皺だらけにして尋ねた。 「アレイスターを信じるしかないな。彼なら何とか… 五分五分くらいで逃げ帰れるかも…」 「お姉ちゃんは?」 デイジーは重ねて訊いた。 サダルメリクは大きく首を横に振った。 「難しい。法王様から悪魔祓いのお墨付きを頂いているシスター・セアラや、清浄派の『完徳者』の試験官のゼリューシャくらい『力』があっても難しいだろう…」 闇に吸い込まれたブライディーがゆっくりと目を開くと、そこは懐かしい、アイルランドの片田舎の村の、石造りで板葺き屋根の我が家だった。 「やあブライディー、やっと目を覚ましたかい?」 「ずいぶんと心配したよ…」 痩せてやつれた父と母が、ホッとした表情で覗き込んでくれていた。 「お父さん! お母さん!」 ブライディーは起きあがって、二人の胸に飛び込んだ」 「良かった! よく帰ってきたね!」 両親は彼女を代わる代わる抱きしめて、背中を叩いてくれた。 夕食はジャガイモや他の野菜クズをすじ肉で煮込んだシチューと、同じくジャガイモの粉を混ぜて焼いたパンだった。 お父さんは、儀式用のとっておきのワインを取りだしてグラスにつぎ、三人でお祈りをしてから飲んだ。 「…ところでブライディー、長いこと帰ってこなかったけれど…」 「一体いままでどこに行っていたんだい?」 ブライディーは堰を切ったように話し始めた。 貧救院で苦労をしたこと、シスター・セアラが母代わり姉代わりになってくれたこと、そのセアラはいま、ヴァチカンに召命されて活躍していること… 「えっ、ヴァチカンに? 司祭さまだったらダブリンの司教座の司教様、いや、枢機卿様になられたくらいの大々出世だよ。おまえはそんな姉様に見てもらっていたのかい?」 母は、まるでブライディー自身のことであるかのように驚いていた。 「ええ。たくさんのお金を寄進している貴族の娘でもないのに… とても異例のことなんですって。それに、セアラ様はいまでも時おりわたしのところに会いにきてくださるんです…」 「まぁ、そりゃあ大変! 家の中をもう少しきれいにしておかなくては…」 「いいのよ、お母さん。セアラ様はそんなことを気にされるかたではないのよ」 「貧救院にいた、だって? かわいそうなことをしたなぁ…」 父は涙を浮かべて言った。 「いいえ、いいのよ、お父さん。行き倒れた吟遊詩人に歌を習ったり、ジプシーの人にタロット占いを教えてもらったり、クリスマスや復活祭の時にはご馳走が出て、とても楽しかったわ」 「そうか、それだったらいいんだが…」 「お友達もたくさんできたのよ。ケリーという子は、いまロンドンで踊り子をやりながら写真術の勉強をしているの。『お兄ちゃん』はいまアメリカに出稼ぎに行っているの」 「そうかい… みんなアメリカへ渡ってしまうんだねぇ…」 母は寂しそうにつぶやいた。 「それからね…」 ブライディーは鍋の中のシチューが残り少なくなっていたのを思い出して、スプーンを置いて言った。 「どうしたんだい? 残りは全部おまえが食べていいんだよ。お父さんもお母さんも、もうお腹がいっぱいだから…」 皿に半分も食べてはいない父が言った。 「いえ、そんな…」 「そんな立派なシスター様がいらっしゃる貧救院だったら、きっとひもじい思いはしなくて済んだだろうね」 母がすりきれたエプロンの裾で目頭を拭って言った。 「ええ。少ない費用で大勢の人がおいしく食べられるお料理も、いっぱい覚えてきたわ。明日から一つずつ作るわね」 「ああ、楽しみにしているよ。母さんだって楽になるだろうし…」 「後かたづけだってするわ! もちろん掃除も洗濯も …そうそう、貧救院で一通りのことを教わって働いていたある日、ウォーターフォードの男爵様が一人娘のフィオナ様とともに、新たにメイド兼小間使いをお雇いになるためにやってこられたのよ。 わたしはフィオナ様のお目に止まって、お屋敷で雇って頂けることになったの」 「へえー、それは夢のような話じゃないか!」 両親は顔を輝かせ、粗末な木のテーブルから身を乗り出した。 「…なんでも、みんなが子守をしているところを陰からこっそりとご覧になっていて、赤ちゃんやちっちゃい子を叩いたりつねったりしない子を選ばれたんですって」 「良かったねぇ…」 「お屋敷では、フィオナ様が家庭教師からいろいと学ばれているそばで、お茶やお菓子を給仕したりするあいだなんかに、いろんなことを習ったわ。でも…」 「『でも』?」 父母の表情がかげった。 「ある時、フィオナ様がご贔屓にされていた霊媒師がインチキであると、それとなく申し上げたことがきっかけで、お暇を出されてしまったの…」 「莫迦だねぇ、おまえ! そんな時は、たとえ本当にそうだとしても黙っているものなんだよ!」 母が涙をこぼしながらなじった。 「まぁまぁ、よその国の人間ならともかく、アイルランド人は、そんな時は黙っちゃあいられないものなんだ。俺だってもしブライディーと同じ立場だったら、きっと言っていたと思うよ」 どんな時でもかばってくれる父に、なぜか「お兄ちゃん」の面影がかぶさった。 「でもせっかくのご奉公先を…」 「男爵様はわたしに落ち度がないことを分かって下さって、過分な当座の費用を下さった上に、ロンドンにあるアイリッシュ・パブで働けるように推薦状を書いて下さったの」 「良かったねぇ… やっぱりおまえはマリア様がお守りして下さっているんだよ」 母はロザリオを両手で握りしめて祈ってくれた。 「…そのアイリッシュ・ハブ『白詰草亭』っていうところなのだけれど、ご主人のオマリーさんご夫妻がとても親切なかたで…」 「やっぱりマリア様と聖パトリック様がお守りして下さっているんだ…」 父も、母と一緒に目を閉じ、両手を組んで祈ってくれた。 「そこで、アイルランドの歌を歌ったり、踊りを踊っている時に、コナン・ドイル様がいらっしゃって…」 「『コナン・ドイル』? もしかしてスコットランド人か? 生粋のイングランド人ではなさそうだな」 父親が首をかしげた。 「…イギリスじゃあ、とても有名な作家さんなのよ、イエズス会の寄宿学校を出られたあとエジンバラの医科大学で学ばれたお医者様で、そのかたのお誘いで『英国心霊協会』のお屋敷で、住み込みで働かせて頂くことになったの…」 「じゃあいまはロンドンで…」 父母の表情がまた不安なものになった。 「ええ。だからお父さんもお母さんも、わたしと一緒にロンドンに来て! わたし、いいお給金も頂いているし、少しだけれど貯金もあるの。親孝行をさせて… わたしと同じ『英国心霊協会』のメイドで、わたしよりちっちゃいデイジーという子がいるんだけれど、アパートを借りてお義母さんと住んで、通いにしてもらっているの…」 「でもなぁ… 俺たちはここで生まれて、ここにずっと住み続けてきたからなぁ…」 「ここに住んでいたら、食べものや着るものや薪を買うお金だって稼げないし、何もいいことがないじゃない!」 ブライディーは涙を浮かべて言った。 ヒョウやみぞれがまじる寒風が吹きすさぶ中、ブライディーは懸命に鍬を振り上げては振り下ろしていた。しかし、岩のように固く固まった痩せた土地は、まったくといっていいほど掘り起こすことなどできなかった。 (だめだわ、こんなところ… とても春までに耕し終えて種まきすることなんかできないわ…) つぎはぎだらけのショールを胸元にかきよせて家に戻ると、父と母はベッドで横になって苦しそうな息をしていた。 暖炉の火はとうの昔に消え去り、外と同じくらいに寒かった。 「ブライディー、すまんな。せっかくおまえが帰ってきたというのに、十分なことをしてやれずに…」 「本当にごめんね。…せめて薪と食べるものでもあれば…」 「うううん、待っていてね。いま食べるものを買ってきて、ついでにお医者様もお呼びしてくるから…」 「しかし…」 ブライディーは戸棚の奥に隠してあったドイルや、シスター・セアラや、フィオナ・ウォーターフォード男爵令嬢や、デイジーやケリーに宛てて書いた窮状を訴える手紙の束を取りだした。 (出そう出そうと思って、いままで出さずにおいた…いや、恥ずかしくてとても出せなかった手紙を郵便局から投函すれば、きっと、皆様が助けて下さる… せめて春までもつだけのお金があれば…) 外は吹雪になっていた。ブライディーは道を急ぐ余り、凍っていた地面で滑ってころんだ。手にしていた手紙の束を離した瞬間、突風が吹いて手紙は崖の上から飛び散って、怒濤が荒れ狂う波の上に舞い散った。 (ああ、とても苦労して何度も書き直したのに…) 彼女は目の前が真っ暗になった。 額が、頬が熱っぽく、めまいがして足もともふらついた。 それでも何とか街へとやってくると、通りにあった商店のほとんどは潰れて玄関のドアに板がX字の形に打ち付けられていた。 そんな中でただ一軒、うらぶれた古着屋だけが店を開けていた。割れたガラスをちぎった紙で貼り付けたショーウインドーを何気なく覗き込むと、顔のないマネキンが、どこか見覚えのあるセーターを着ていた。 (あれは… そうよ、わたしが編んで、いつか「お兄ちゃん」にプレゼントしようと思っていたセーターよ。ずいぶん前に、このお店に売ってしまったものよ… まだ誰も買っていないんだわ…) じっと見つめているうちに、どうしようもない眠気が襲ってきた。 ブライディーは「お兄ちゃん」がそのセーターを着ているところを思い浮かべた。 「有難う、ブライディー、こんなのが欲しかったんだ。とても暖かいよ」 「良かったわ…」 メイドさんはセーターを着た「お兄ちゃん」の胸に飛び込んだ。なるほど、とてもふわふわとして暖かかった。 髪に、肩に積もり始めていた雪が、やがて体じゅうを覆い始めた。 (もうだめだわ… お父さん、お母さん、ドイル様、セアラ様、デイジー、ごめんなさい…) 意識がどんどんと遠ざかりかけたちょうどその時、懐かしい声がした。 「ブライディー、だめじゃないか!」 思わず閉じかけていた目をかすかに開くと、あのセーターを着た「お兄ちゃん」が彼女の身体に積もった雪を払い落とし、頬を軽く叩きながら抱き起こしてくれていた。 「お兄ちゃん! お兄ちゃんなのね!」 メイドさんはいっぺんに元気を取り戻して、「お兄ちゃん」の胸に飛び込んだ。「お兄ちゃん」は自分が着ていたセーターを脱いで、着せてくれた。 「『お兄ちゃん』、そんなことをしたら、『お兄ちゃん』が寒いじゃない?」 「何を言っているんだ。ブライディーこそ大変な熱があるじゃないか。すぐにお医者様に診てもらおう。…金のことは心配いらない。沖仲仕をして貯めた金があるんだ…」 「わたしはいいから、お父さんとお母さんのところへ、お医者さんを呼んで上げて! ずいぶん具合が悪いの。栄養のあるものを食べて、暖かくしていれば良くなると思うわ!」 「お兄ちゃん」は悲しそうな顔をした。 「ブライディー、きみのお父さんとお母さんは、おまえがずっとちっちゃい頃に召されたんだろう?」 「そんな…」 ブライディーは思わずニッコリと微笑んだ。「そんなことないよ、『お兄ちゃん』… お父さんとお母さんは、あの崖の近くの家にいて、わたしが食べ物を買って、お医者さんを連れて帰ってくるのを待っているの。…そうだ『お兄ちゃん』わたしの診察はいいから、お父さんとお母さんのためにお医者さんを連れて帰って上げて…」 「お兄ちゃん」は眉を深く寄せた。 「あの崖の近くにあったおまえの家は、徴税吏たちに焼かれて、瓦礫しか残っていないはずだ」 「『お兄ちゃん』どうしてそんなことを言うの? わたしがいままで一度でも嘘をついたことがある? どうして信じてくれないの? …そうだ、ついてきて! ついてきてくれたらわたしの言っていることが嘘じゃないって分かってもらえるから!」 ブライディーは「お兄ちゃん」の服の裾を持って引っ張った。 「ブライディー、天国で安らかにしておられるご両親を目覚めさせるようなことをしてはいけない。シスター・セアラ様や院長先生がいらしても、同じことをおっしゃるだろう…」 「嫌だ! なぜ信じてくれないの『お兄ちゃん』! わたしは、つい一、二時間前、家を出るときにお父さんとお母さんと話しをしてきたのよ。『食べ物を買って、お医者様を呼んできます』って …どうしてその通りにしてくれないの?」 「ブライディー! ブライディー!」 彼女を呼ぶ声が、「お兄ちゃん」のものからアレイスター・クロウリーのものに変わった。 「アレイスター様、どうしてこんなところに? ケンブリッジで勉強をされておられたはずでは?」 荒涼としたアイルランドの辺境の町の風景が、まるで幻灯の絵が切り替わるように、黴臭い蜘蛛の巣だらけの荒れ果てた屋敷に変わりかけた…が、またすぐに元に戻った。 「『お兄ちゃん』!」 「お兄ちゃん」がそのまま目の前にいたので、ブライディーは安心した。「一緒に家に来てくれるよね!」 「分かった。おまえがそこまで言うのなら、言うとおりにしよう…」 二人は食料品店で売れ残っていた食べ物を買い、薪屋で薪と石炭を買って、医者に前金を払って往診を頼んだ。 「本当に有難う、お兄ちゃん…」 「お兄ちゃん」と一緒に、痩せた馬がひく小さな馬車の御者台に乗り、『お兄ちゃん』の肩にもたれたブライディーは、うとうとしながら言った。もう寒さもひもじさも苦にはならなかった。 (手紙、出さなくてよかったわ。だって、これからはずっとお兄ちゃんが一緒にいてくれるのだもの…) 行きがけに借金を頼む手紙の束を飛ばした崖の近くを通りがかったブライディーは、そう思った。 崖の上に、みすぼらしい家が建っているのが見えてきた時、「お兄ちゃん」は思わず我が目をこすった。 (まさか…) 家の中に入ると、さらに仰天した。十数年以上前に亡くなったはずのブライディーの両親が、ところどころ藁のはみ出た寝台に伏せっていたからだ。 ブライディーは暖炉に薪を起こし、台所で買ってきた食材で料理を作り出すなど、まめまめしく働きだした。 「過労と栄養失調で身体が弱っています。…しかしまぁ、このように婿殿も来てくれたので、美味しいものを食べ、暖かくして養生していれば春までにはよくなるでしょう」 医者はそう言うと、自分が馬車を御して帰っていった。 「よかったわ、『お兄ちゃん』、きょうからずっとここに住んでくれるわよね」 「あ、ああ…」 「ふつつかな娘ですが、どうかよろしくお願い申し上げます」 両親は「お兄ちゃん」に深々と頭を下げた。 蜘蛛の巣の張った暗闇の中で、その物体はもぞもぞと蠢いていた。透明のような、半透明のような、伸びたり縮んだり、広がったり固まったり、大きさすら定かではない「それ」は、中心部にあるいくつかのぼんやりと輝いては消える光を明滅させながら、「持ってはいないはずの自らの意識」を、しきりに創造しようと試みていた。 「ねぇ、サダルメリク君、早く助けに行かないとヤバくない?」 降りしきる雨は、サダルメリクの「魔法の傘」で跳ね返されていた。デイジーは身体をゆすりながら、アラビア人の少年の端正な浅黒い顔を見上げた。 「ヤバいと思う」 サダルメリクはポツリと答えた。 「お兄ちゃん」は何代も何代もに渡って使い込まれた暖炉の前で、毛布にくるまって横になった。 「二人のためにも、早く結婚式を挙げてやったほうがいいんじゃないか?」 「あの子が言っていたセアラさんというシスターにお願いすれば、挙げてくださるのでは?」 「逞しい男手が欲しかったんだ。これであのあたりの痩せた土地も、何とかジャガイモくらいは植えられるようになるかもしれない」 「早く孫の顔が見たいわねぇ…」 「そういうことなら、この家も早めに建て増しするとか、近くに一軒新築することを考えたほうがいいな…」 隣の部屋で両親が小声で話し合う声を、ブライディーは顔を火照らせながら気恥ずかしい思いで聞いていた。 (ああ、これでやっと、安心できる。何もかも…) 古い、つぎはぎだらけの毛布をかぶり直しながらも、ブライディーの心は幸せでいっぱいだった。 (来年の春が待ち遠しいわ…) 「ねぇ、サダルメリク君、本当に早く何とかしてあげてよ! 貴男あのアルハザードの子孫なんでしょう?」 デイジーは涙と鼻水で顔じゅうをぐしゃぐしゃにしながら、アラビア人の少年の寛衣の袖を千切れんばかりに引っ張った。 「いいか、デイジー、よく聞いてくれ…」 両目を閉じ、たぶん千里眼のような術なのだろう、屋敷の中の一室をじっと心を静めて見つめていたサダルメリクは、その目を静かに開いて言った。 「…ブライディーさんと、アレイスターさんは、いまとてもとても幸せこの上ない夢を見ている。その夢は、普段は心の奥に厳重に鍵をかけてしまってある、現実にはもう絶対に叶うはずのない夢だ。夢を見させてくれているのは、もちろん人間ではない。…いや、もともとぼくらの世界の生き物ですらないだろう。たぶん太古の昔に、宇宙の果ての果てからやってきた名状し難い生命体の欠片だと思う。クトゥルーのような、旧き神の一統かもしれない。 とにかく『それ』は、人間の心の奥の奥にある『過去に深く願っていて叶えられなかった夢や希望』というものを影絵芝居のように大きく映し出してくれるんだ」 「ブライディーお姉ちゃんだったら、『子供の頃、貧救院なんかじゃなくて、お父さんとお母さんともっと幸せに、もっと豊かに暮らしたかった』…みたいな夢かな?」 「その通りだ」 「あたし、住み込みだった時にお姉ちゃんが夢でうなされているので目が覚めて、よく起こして上げたわ。…その時みたいに起こしてあげることはできないの?」 デイジーはまたすがるような目でサダルメリクを見上げた。 「普通の夢は起こすと現実に立ち返るが、ここでそれをすると、彼らが見ている夢の中で不幸が起きて、幸せが壊されてしまって、十中八、九、悲しみに耐えられず心が壊れる。かと言って放っておくと永遠に夢を見続け、やはり心が壊れる… あくまでも自分自身の力で目覚めないと、天才詐欺師に引っかかった金持ちがいくらでもお金をつぎ込んでしまうように、どんどん生命力を失ってしまう…」 「じゃあ、その『太古の名状し難い生き物』をやっつける、というのは?」 「それが難しいんだ…」 サダルメリクはまた腕組みをして首をかしげた。「奴のテリトリーに入ったら最後、こちらまで夢を見させられてしまう。奴はその気になれば、一度に何十万人何百万人の人間に夢を見させることができる。大昔から大きな戦争や、独裁者の出現は、奴の仕業だという説だってあるくらいだ。時空を越えて探し回っている魔導師もいるという噂だ。だけど、一度でも奴の術中にはまったら、もはやこれまで… もしかするとぼくの偉大な祖先、アブドゥル・アルハザードですら『自分ならクトゥルーなど旧き神々を操ることができるのではないか?』という夢を見せられて、ついに醒めることがなかったのかもしれない…」 「すると、アレイスターさんも…」 「ああ、夢の中でイスラム教の行者ダルウィシュや、ヒンドゥー教の行者サドゥーの、もの凄い魔術を見せてもらって、性格が変わってしまったかもしれない…」 サダルメリクは溜息をついて肩を落とした。デイジーは、そんな彼を見るのは初めてだった。 「本当に方法はないの?」 「先の理由で倒すのも困難だし、仮に倒せたとしても、やはり夢を見ている者に障りがあっても困る。がしかし、奴が夢を見せられるのはたぶん『生き物』だけだ。従って、こちらに忠実な強力な機械人形がいれば、なんとかすることができるかもしれないが…」 「そうだ! お屋敷にあるあのお人形だったら!」 デイジーははたと手を打った。 「そういえばそんなものが置いてあったな!」 サダルメリクが指を立てると、雨の闇の中、一羽のフクロウが現れたかと思うと、手紙をくわえて飛び去った。 アイルランドに遅い春がやってきた。 「お兄ちゃん」は馬にひかせた犂で土地を耕し、じゃがいもの種芋を植えていった。 ブライディーは牛小屋で雌牛の乳を搾っていた。 母屋からはブライディーのお母さんが作る料理のおいしそうな匂いがたなびいている。 お父さんは、新しく建てた離れにペンキを塗ってくれていた。 「おーい、ブライディー、無理をするなよ」 「お兄ちゃん」が声をかけてくれた。 ブライディーは乳搾りの手を休めて、ふくらみが目立ち始めたお腹をそっと撫でてみた。 (そろそろ赤ちゃんのための服や揺り籠や、いろんなものを作り始めないといけないわ…) 彼女がそれぞれに牛乳が一杯入ったバケツを両手で持って母屋に行こうとすると、「お兄ちゃん」が走ってきてバケツを奪い取った。 「ダメだと言っているだろう? もしものことがあったらどうするんだ?」 「でも…」 「力のいる仕事は、全部ぼくがするから…」 雨の中、何もできずにただ呆然と立ちつくし、それぞれ通りの先と幽霊屋敷を見つめていたデイジーとサダルメリクのそばに馬車が近づいてきて止まり、御者台から黒い紡毛のケープを羽織ったポピーが降り立った。 「ポピー、遅かったじゃない!」 デイジーが腰に手を当ててなじった。 「どうぞ、メイドさん…」 サダルメリクは魔法の傘の範囲を広げて、ポピーも入れるようにしてやった。 「…これでも飛んで来てみたのよ」 ポピーが包みを開くと、中から前にリモージュの伯爵からもらった不思議なビスクドールのイリスが現れた。 「これだこれだ!」 サダルメリクは拳を作って言った。「…この人形なら、夢に侵されることなく、なんとかできるかもしれない!」 「ポピー、早く来てくれて有難う!」 デイジーは一転顔をくしゃくしゃにしてポピーに抱きついた。 「このお人形、夜寝るときに持たせてあった豆本が、朝起きたときには違う豆本になっていたり、特別な感じがしましたから、きっと期待に応えてくれると思います。…それよりかブライディーさんはそんなに危ないんですか? アレイスターさんはどうなさったんですか?」 「この屋敷に巣くっている化け物は、生き物に幸せな夢を見させて心を壊してしまう。二人ともいまは夢うつつの中だと思う。これからぼくがこのお人形さんと計って何とかする。…やあ君、君の名前は何というんだい?」 「わたしはイリス。どうかよろしく、サダルメリク・アルハザード様」 サダルメリクが何か術のようなものをかけたか、それとも何もしないのに人形は青い目をぱちくりさせながら、ドレスの裾をつまんで貴婦人のように挨拶をしながら喋った。 「よし、イリス。君はこれかに屋敷の中へ入り、倒れているであろうブライディーさんの夢の中に入り込んで、状況を報告してくれ」 「分かりました」 「頑張ってね!」 「必ず何とかしてください!」 デイジーとポピーの励ましを背中に受けながら、イリスはよちよちとひとりでに屋敷の中へと入っていった。 「お兄ちゃん」や父が建ててくれた離れの箪笥の上に、ロンドンの「英国心霊協会」の飾り棚の上に置いてあったフランスはリモージュ製のビスクドールがあるのに気が付いたブライディーは、少し奇妙な感じにとらわれた。 (懐かしいな… このお人形。ドイル様か、デイジーか、ポピーか、誰かが贈ってくださったのかしら… クルックス博士やウォーレス博士、ドッジソン教授はお元気でいらっしゃるのかしら?) (ブライディーさん、なにかとても大切なことをお忘れではないですか?) 人形のイリスはそう言いたげに、窓から吹き込む春の風に、かすかに小首をかしげてみせた。 (この子の服は最初から付属品として付いていた それで春夏秋冬の着替えもさせていた。そう言えば、「お兄ちゃん」にセーターを編んで上げたこともあったっけ… あのセーターはどうしたかな? 確か、お金に困って一度は町の古着屋さんに売ったんだけれど、また買い戻して、「お兄ちゃん」は冬じゅうずっと着てくれていて、でもよく働くものだから一冬でところどころすり切れてしまって… そうだわ。いまのうちに痛んだところを直しておいてあげよう! できたら新しいのも編んで上げなければ… そうよねお父さんやお母さんのぶんも… お母さんにはカーディガンのほうがいいかな?) ブライディーは箪笥にしまってあったセーターを取りだして、痛んでいるところを調べた。 (とても凝った柄ね。我ながらとても自分で編んだものとは思えないわ…) (そうです、ブライディーさん! 早くすべてを思い出してください!) イリスは箪笥の上で身体を揺すった。 (凝った柄… 古いケルトの模様ね。魔除けの… そう、事故やそういうものに遭わないように願いを込めて編み上げたものだと思うわ。「お兄ちゃん」はリヴァプールで沖仲仕をしていたから…) ブライディーは愛おしそうに、痛んだセーターに頬ずりをした。 (違うでしょう、ブライディーさん! 沖仲仕だったら、とてもじゃあないけれど、この若さで『離れ』を建てたり、雌牛や馬を買ったり、お医者様をお願いするお金を貯めたりはできないわ。貴女の「お兄ちゃん」は、もっと危険なことをして短期間にお金を稼いでいたのよ。それもアメリカで、貴女のために! 思い出して早く目を覚ますのよ!) イリスは懸命に話しかけたものの、夢の中のブライディーはぼんやりとした目で人形を見つめ返すだけだった。 (…そうだ、わたし、お屋敷にいた頃はタロット・カードで占いもしていたのよ。あれはどこにしまったのかしら? 生まれてくる赤ちゃんが男の子か女の子かが占えたら、おくるみも早く準備ができるわ) ブライディーは箪笥の抽斗を次々に開けてタロット・カードを探し始めた。 (ああ、だめよブライディーさん、貴女はいま夢を見ているのよ。これ以上引き込まれたら、二度と目が覚めないことになってしまうわよ!) イリスは必死でブライディーの心の中に話しかけたが、いま一歩というところで届かない様子だった。 「このお人形、何か話しかけてくれているような感じね。『英国心霊研究協会』のお屋敷にいた頃は、誰にも言えないことをお話ししたような記憶があるけれど…」 (そう、そうよ。貴女はいまもロンドンにいるのよ。どうか昔のように心を集中して、あたしに話しかけてみて!) 願いも空しく、「不思議の国のアリス」のタロット・カードを手にしたブライディーは、子守歌を鼻歌で口ずさみながら立ち去ってしまった。 同じ頃、アレイスター・クロウリーはアメリカやメキシコや、日本や中国やセイロンやインドを旅して、いわば世界中の凄い魔術に触れていた。 アメリカのインディアンの呪術師からは、文字通り秘術中の秘術とされる「死者の復活の術」を見せてもらった。日本の禅僧からは「完全に自己を無にする方法」を、中国の仙人からは、女性を喜ばせる房術のあの手この手を教えてもらった。セイロンではたった一個のレモンの中に入っている悪魔悪霊の一軍団を見、インドでは体じゅうに何本もの太い針を刺している行者を見た。 (これは凄い… 世界中の高度な魔術から比べると、西洋の魔術は氷山の一角にしか過ぎない… ましてや、キリスト教の道徳など、動物園の檻か鎖のようなものだ。アフリカやアマゾンの密林を駆け回っている本当の獣にとって、そのようなものはただの枷のようなものかもしれない…) 打ちのめされたアレイスターが、何処か名もない小国の蚤の市でふと立ち止まると、胡散臭い壷や皿などにまじって、どこかで見たことのあるリモージュ製のビスクドールが目に止まった。 (おや、あの人形、見覚えがあるぞ…) (アレイスター様! アレイスター様!) イリスは、じっとアレイスターを見つめながら呼びかけた。 (思い出した! 確か「英国心霊研究協会」の飾り棚の上にいた人形だ。それがどうしてこんなところに? 泥棒にでも盗まれて売り飛ばされたのかな? いや、あの人形はそんなただの人形ではなかった感じだったぞ…) (そうです! さすがはアレイスター様!) (…そうだ! ぼくはブライディーさんが編み上げた魔除けのデザインのセーターのテストをするために、幽霊屋敷にやってきたんだった! すると、いままでのは夢?) (そうです。アレイスター様) (おい人形、ブライディーさんはどうなった?) (ブライディーさんは、ずっと幸せこの上ない夢の中で、貴男様と違って、まったく目覚める気配がありません。とりあえず貴男様だけでも、速やかにお戻りください。外にサダルメリク様と、デイジー様とポピー様がいらっしゃいます…) (そんな訳にはいかない! ブライディーさんを助けなければ… この夢を見させているのは何者だ?) イリスは手短に事情を説明した。そいつを倒してしまってはいけない、ということも…(そうか、それは難儀な… しかし早く何とかしなければ…) (やっぱり生まれてくる赤ちゃんが男の子か女の子かというのは、神様の思し召しなのだから、タロット・カードなんかで占ったらバチが当たるわ…) ブライディーは「不思議の国のアリス」のタロット・カードを元の箪笥にしまいに行った。 すると、「英国心霊協会」の飾り棚にあったビスクドールが、さらにいっそう何かもの言いたげに彼女のほうをじっと見つめていた。(本当にこの子、何か言いたそうねぇ… 一体なにが言いたいのかしら?) ブライディーは人形に覆いかぶさるようにまじまじと眺めてみた。 (そう言えばこのお人形、白いレースの襟が付いた深紅の天鵞絨のドレスを着ているわねぇ。これは秋のお衣装よ。まだロンドンにいた時、わたしが薄い白の木綿のポプリンのサマードレスから、着替えさせて上げたものよ。いまは春、どうして冬服に着替えさせてあげなかったのかしら? 頂いた時、一緒に付いていた赤いメルトンのウールのコートに… そうよ、絹のピンクのスプリング・ドレスに着替えさせてあげなくちゃあ… あれがこの子には一番似合うんだから…) ブライディーは箪笥のあちこちを探した。(そうよ、ブライディーさん、早く気が付いて!) 人形のイリスは思わず両手を胸のところで組んだ。 (なぜ着替えがないのかしら? ドイル様たちからお人形を頂いた時に、着替えのドレスも一緒に頂かなかったのかしら? 手紙で問い合わせるのも変だし…) ロンドンの蜘蛛の巣だらけの幽霊屋敷、透明のような、半透明のようなゼリー状の生き物は、身体の中の明滅の速さを早めた。 (獲物ガ一ツ逃ゲタ… モウ一ツモ逃ゲヨウトシテイル…) 始源の感覚で「それ」はそんなふうに感じていた… (秋の服を着ているのに、冬じゅうおかしいとは思わなかったのから? でも、お父さんやお母さん、それに「お兄ちゃん」と一緒にクリスマスのお祝いもしたし、シスター・セアラ様に結婚式も挙げて頂いたし…) 「それ」はたちどころにブライディーの記憶の中にある貧救院でのクリスマスや、貸衣装を着て出席した他の女の子の結婚式の思い出から、両親と一緒のクリスマスや、ブライディー自身の結婚式の記憶を作り上げた。 (…やっぱりわたしの思い違いね。お人形さんの服は、ロンドンに忘れてきたのよ!) タロット・カードをなおして、箪笥の抽斗を閉めかけたとき、例の「お兄ちゃん」のために魔除けの模様を編み込んだセーターが目に入った。 (この模様… どうしてまたこんな面倒くさい模様を編み込んだのかしら? 働くためだけだったら、丈夫なセーターを二着分は編めるのに…) (そうよ、ブライディーさん。もう少しよ、思い出して!) とそこに、アレイスターの声が響いた。 『ブライディーさん、それはぼくが教えて上げた魔除けのデザインだ』 (あれ、おかしいなぁ… いま、ロンドンにいる時や、ケンブリッジの女子大で学ばせて頂いていた時にとてもお世話になったアレイスター・クロウリー様の声が… 気のせいよね… それにしても、どうして魔除けの文様なんか編み込んだのかしら? 赤ちゃんのおくるみにも渦巻き模様のような魔除けのデザインを付けたほうがいいかしら? きっとお父さんやお母さんは勧めるのに違いないわ) すり切れたセーターの模様…無限曲線…を何気なく眺め続けているうちに、新築したばかりの離れの空間に裂け目ができ、暗くて黴の臭いのするロンドンの古い屋敷の光景が現れた。 (嫌! 何よこれ!) ブライディーはおもわずたじろいで身を引いた。 先にチラチラと輝くランプの灯りがある。目をこらすとランプを手にしたアレイスターが思い切り手を差し伸べていた。 「ブライディーさん、そっちは夢の世界だ。早くこちらへ!」 「嫌です! わたしはお父さんとお母さん、それに『お兄ちゃん』と一緒に暮らしていてとても幸せなんです。赤ちゃんだって生まれるし…」 人形のイリスが素早くブライディーの後ろに飛び降りて両足のすねを押そうとするのをアレイスターが激しく首を横に振って止めた。 『だめだ! 無理やりに目覚めさせると心が壊れる』 イリスは仕方なく引いた。 「くそぅ、あともう少しのところだったのになぁ…」 屋敷の外、魔法の傘の内側でサダルメリク・アルハザードは舌打ちした。 「焦らずに、イリスがお姉ちゃんのところまで行ってるし、アレイスター様は目覚められたし、じっくりゆっくり粘りながら、お姉ちゃんが自分で目を覚ますように持っていけばよいのでは?」 デイジーは無理に笑顔を作りながら言った。 「それがそう呑気に構えている訳には行かないんだ。ブライディーさんの夢の中では、現実よりも何百倍も早く時間がたっている。事実、彼女は半年以上先の春の夢を見ている。 このままもし夢の中でお産をするようなことがあれば…」 「『夢の中でお産をするようなことがあれば…』」 デイジーは繰り返して、ごくりと生唾を飲み込んだ。 「…いまこの屋敷の中で倒れているであろう現実のブライディーさんは、出血して死んでしまうかもしれない…」 「そんな…」 デイジーの顔から血の気が引いた。「本当のお産で命を落とすのなら、本人も納得できるでしょうけれど(注、百年以上前のおはなしです)夢の中でそんなになって死ぬなんて、かわいそうすぎるわ!」 「それまでに自分で目覚めることができなければ、心が壊れてしまう恐れがあっても、無理矢理たたき起こすしかないだろう。…いまのは聞こえたましたか、アレイスターさんにイリスさん?」 『了解しました!』 即座にイリスから返答があった。『…もしもブライディーさんが夢の中で陣痛を起こすようなことがあれば、ただちに行動します!』 『世界中の素晴らしい魔術を見せてもらったというのに、何とかならないものだろうか?』 いまだに屋敷の中…夢の中に留まり続けているアレイスターは、唇を噛みしめた。 「アレイスターさん、あなたが夢で見たのは、貴男の潜在意識の中にある『あったらいいなぁ』と思っている魔術や、どこかの本でチラリと読んだものが誇大妄想として拡大されたものです。それこそ夢、本気にはしないように…」 『ああ、分かった。分かったが…』 「ううっ…」 また顔をくしゃくしゃにしたデイジーが、わんわん泣きじゃくり、鼻水をすすり上げながら語り始めた。「…みんな、みんなあたしが悪いのよ! 『英国心霊協会』の書斎の書類棚の、ゴースト・バスターの依頼の手紙の、「難しい」と「簡単」を入れ替えたから、こんなことになったのよ! もしもそんなことをしなかったら、お姉ちゃんもこんな目には遭わなかったのよ!」 「落ち着くんだデイジー!」 サダルメリクはデイジーの頬を平手で軽く叩いた。「それとこれとは関係ない!」 『そうだデイジー、きみのせいじゃあない!』 アレイスターも言った。『あくまでもぼくが至らなかったせいだ…』 「…ロンドンでも屈指の、素晴らしい魔導師のかたが二人もいらっしゃるのに、何もできないなんて!」 デイジーはさらに「えーんえーん」と泣きじゃくった。 「方法はある…」 サダルメリクは振り絞るように言った。 「えっ?」 デイジーが泣きやんだ。 「デイジー、きみにはゲートキーパーの素質がある。巴里では亡くなっている青年の霊を降霊させて、心が壊れたシスターを元に戻したと聞いているし、ネス湖の怪物を召喚したのも実はきみらしいという噂も小耳にはさんだ。だから、人形のイリスに続いて、きみも『名状し難きもの』が作り出している夢の中に入って、ブライディーさんに、これが夢であることを気づかせるんだ」 『莫迦な!』 アレイスターが眉を吊り上げた。『上手く行けばいいが、失敗すると犠牲者が二人になってしまうぞ!』 「やるわ! あたし、やってみる!」 デイジーはきっぱりと言った。 「デイジーさん…」 ポピーがデイジーのお仕着せの袖にすがりついた。「もともとブライディーさんに『「お兄ちゃん」に魔除けの模様を編み込んだセーターを贈ってみたら』と申し上げたのはわたしです。わたしが行きます…」 「その魔除けの模様、全然効かないじゃない! 心がこもっていなかったのかしら? ドジで間抜けなお姉ちゃん!」 「それだ!」 サダルメリクがパンと拳を打った。「魔除けの模様は呪術的で複雑だ。きっとどこかが僅かに間違っていて、呪術を発動できないのかもしれない!」 ちょうどその時、人形のイリスから報告がきた。 「大変です! 夢の中でブライディーのお腹が気球みたいにふくらんで、いまにも生まれそうです! お医者様と看護婦さんが駆けつけて、お父さんとお母さんと『お兄ちゃん』が心配そうに見守っています!」 「もう時間の猶予はないみたいね…」 デイジーは唇を一文字にして、一歩一歩ゆっくりと、しかし、しっかりとした足取りで屋敷の中へと入っていった。 「デイジー、イリスやアレイスターさんと協力するんだぞ」 サダルメリクが彼女の背中に向かって声を掛けた。 「分かったわ!」 デイジーは振り返らずに答えた。 当然、デイジーも夢を見た。 ロンドン郊外の、小さいけれど庭もあるこじんまりした中古の家… お義母さんはすっかり元気になって、花を植えている。 「お義母さん、そんなことをしていいの? 無理しないでね」 「花をさわっていると、調子がいいみたいなんだよ」 「そう、それはよかったわ…」 デイジーは自分の寝室へ行くと、戸棚の隠し抽斗に銀行の預金通帳をしまった。実はきょうも預金してきたところだったのだ。 なおす前に、もう一度通帳を開いてみた。 大金とは言えないが、末尾には一応自分としては満足のいく数字が記されているのを見て、にんまりと微笑む。 通帳はほかに何冊かあり、さらに別に年金の証書もあった。 「ああやっぱりお金があるというのは有り難いわ…」 普通の人間だったら、ブライディーやアレイスターに続いて、幸せこの上ない夢を見続けるところだったが、二人とは違う特別な『力』があるデイジーは、すぐに棚の上のリモージュ製のビスクドールに気が付いた。 「デイジーさん、お願いしますね!」 人形の声はデイジーにはっきりと届いた。 「はいはい、分かりました。でも、惜しいなぁ… あの通帳と年金の証書…」 「デイジーさん、何を言っているんですか? いまさらですけれど、ここにあるものはすべて幻なんですよ。それにブライディーさんがどうなってもいいんですか? もちろん貴女自身も?」 「はいはい、分かりました。分かりましたとも。やればいいんでしょう、やれば?」 デイジーは、降霊術をやった時のように心を研ぎ澄ました。 しかし、何も起きなかった。 (巴里の修道院でやった時も、なかなか上手くいかなくて、最後には手のひらにナイフを突き立てたっけ… ここでもそうしなければダメかな?) 彼女はそう思いながら、抽斗の中から果物ナイフを取りだした。 (ここで切るとどうなるのかな? ええい、ままよ!) デイジーは右手に持ったナイフで左手の手のひらを十文字に切り裂いた。 デイジーはブライディーと「名状しがたき生物」が共同で作り上げた夢の中へとやってきた。…アイルランドの辺境の村の、農家の離れへと… 手の傷は治っていた。上手く「世界」を移動すると、前にいた「世界」での傷などはなかったことになるらしかった。 (これはいい兆候よ。…と言うことは、お姉ちゃんを救い出せば、それまでのいろんなこともチャラになるってことよ!) 「ブライディー、しっかりおし、いまロンドンから、あなたと一緒に働いていたデイジーという子が来てくれたわよ!」 母はブライディーの顔の汗を拭いてやりながら言った。 「デイジー…」 医者や看護婦の姿の向こうに懐かしい人影を見つけたブライディーは、少し気が紛れた。 「デイジー、遠いところをどうも有難う…」「いいえ、ドイル様たちに言われて… 『しばらくは女手が多いほうがいいだろう』って…」 「そう、ドイル様が… お元気にしていらっしゃる?」 「もちろんよ」 いったん下がったデイジーは、箪笥が置いてある別の部屋へ行った。 そこにはすでにアレイスターとイリスが待っていた。デイジーは抽斗を引いて、魔除けの模様を編み込んだセーターを取りだして見つめた。 「アレイスター様、正しい図柄は?」 「ああ、ここに持ってきている。夢の中だからな、『持っていないもの』は『持っているもの』にできるし、『持っているもの』はいつでも『持ち歩いていたこと』にできるみたいだ…」 アレイスターはブライディーに貸した「魔除けのデザイン集」をデイジーに渡した。 「ああー、ここと、ここと、ここと、ここと… いっぱい間違っている…」 デイジーはセーターをつかんだまま天を仰いだ。「これじゃあ魔除けになるはずがないわよ…」 「きっと疲れていたり眠かったりしていたのに仕上げるのを急いだのだろう… かわいそうに…」 「かわいそうなことなんかないってば! …でも困ったわね。いまさら修正するなんてできないし…」 「大丈夫だ、デイジー。何か重要なことを忘れていないか?」 「はてな? 何だったかな、アレイスター様?」 「ぼくらはいま、夢の中にいるんだ。それも『願えばその通りになる夢の中』に…」 アレイスターはそう言って片目をつむってみせた。 「そうだ! そうだったんだ!」 二人はともに(セーターの魔除けの図柄が正しいものになりますように)と祈った。 再びゆっくりと目を開くと、間違っていた箇所は正しく直っていた。 「よしっデイジー、さっそくこれをブライディーさんのところへ持っていってあげてくれ…」 「分かったわ!」 デイジーはそれをひったくって走った。 ブライディーは正視できないほどうめき声をあげて痛がり、苦しがっていた。 「ブライディー… ブライディー…」 「お兄ちゃん」はぽろぽろと男泣きに泣きながら手を握ってやっていた。 ブライディーの父母も泣いていた。 「これ、ブライディーさんが『お兄ちゃん』のために編んだセーターよ。魔除けの模様が編み込まれているから、掛けてあげたらもしかして…」 「わかった」 「お兄ちゃん」はすぐにブライディーの胸元にそのセーターをかけてやった。 正しく修正された、流れるような渦巻き模様がぐるぐると回り出す… 蜘蛛の巣が張った暗闇の中、透明なような、半透明なような、ゼリー状の生き物は当惑した。「それ」にはもちろん「眼」はなかったが、眼の代わりをする器官は付いていた。 「それ」は自分が生まれた星の、いつまでもいつまでも永遠に渦を巻き、ポコリポコリと泡立っていた溶岩のことを思い出した。 『キケン キケン ニゲロ…』 そいつは始源の感覚でそう認識した。 『コノエモノハ キケン…』 そしてブライディーの意識の中から願望を取りだして拡大するのをやめた。 「ブライディー、行ってしまわないでおくれ! ずっとここにいておくれ! 父さんや母さんを見捨てないでおくれ!」 「お父さん、お母さん、分かったわ。わたし、ずっとここにいる… ここがどんな世界だとしても…」 (でも、でもおかしいな… このセーター、アメリカにいる「お兄ちゃん」のところへ贈ったはずなのに、どうしてこんなところにあるの?) ブライディーがそう思った瞬間、周りの光景が揺らぎ始めて、暗闇を照らすランプの光だけに変わった。 次第に焦点が合うと、アレイスターとデイジーが心配そうに覗き込んでいた。 「大丈夫、お姉ちゃん?」 「大丈夫ですか、ブライディーさん?」 「ええ、すいません… デイジー、貴女も来ていたの?」 そう言いつつ、髪の毛に引っかかった蜘蛛の巣を立ち上がりかけたブライディーは、思わず両足を揃えてしゃがみ込んで、顔を真っ赤にした。 「お姉ちゃん、本当に大丈夫?」 「え、ええ…」 「それ」は明滅する点の数を減らしながら、大きなナメクジのように、広間から台所へ、台所から下水溝へと移動していた。 『ヒサシブリノ エモノダッタノニ… ツヅケサマニ、ニガシテシマウトワ…』 「それ」は満腹にはほど遠い、「心のエネルギーを貯めておく器官」を揺すりながら、原始的な本能で動いていた。 『コレハキット バショガワルイカラニチガイナイ… バショサエカエレバ マタウマクイクハズダ… イママデモズット ソウシテキタジャナイカ コノホシニ セイメイがメバエタコロカラズット…』 「それ」は下水溝から下水の流れに乗って、下流へと向かった… ブライディーと人形のイリスを手にしたデイジー、それにアレイスターはすぐに屋敷を出た。屋敷の外ではサダルメリクとポピーが心配そうに待っていた。 「このたびは、我ながら不覚だった」 アレイスターが苦々しい顔をして言った。 「みなさんくれぐれも、夢で見たことは本気にしないように…」 サダルメリクがぽつりと言った。 雨はあがり、東の空がしらじらと白みかけていた。 ブライディーは間違った魔除けの模様が入ったセーターをほどいて編み直すことにした。クリスマス・プレゼント用のアメリカ行きの船便の〆切に間に合わせるために、少し気が引けたがデイジーやポピーにも手伝ってもらうことにした。 二人はお休みの日、ブライディーがメイドとしての仕事をしているあいだ、お互いに間違いがないか調べながら、代わる代わる交代して編み続けてくれた。 「ひとめ、ふため…」 デイジーは小気味よく編み目を数えながら、ポピーは故郷の編み物をするときの鼻歌を口ずさみながら… その甲斐あって、二着目のセーターは、アメリカへのクリスマス向けの船便の〆切の前に完成した。 折良く、ブライディーに「お兄ちゃん」から手紙が来た。 「お姉ちゃん、手を切らないように気を付けて!」 レターナイフを持つブライディーの手がかすかに震えているのを見て、デイジーがニンマリしながら言った。 差し出し地は、とある東部の、そこそこ大きな町からで、「当分、この町のこの家の二階に間借りしている」と書かれていた。仕事の詳しい内容などはぼかしてあったけれど「とても元気で頑張っている。お金もかなり貯めたよ」と書いてあった。 懐かしい、無骨な筆跡に、何度も読み返していたブライディーは思わず涙ぐんだ。 「早くお返事を書いてセーターと一緒に送ってあげようよ」 デイジーはブライディーの背中を叩いて言った。 「そうね… そうするわ…」 「時にお姉ちゃん、この新しい二着目のセーターの魔除けの効力のテストだけれど…」 「わたしは… わたしはもう懲り懲りよ!」 ブライディーは赤毛を振り乱してかぶりを振った。 「でも一着目も、アレイスター様からおっしゃって下さったこととは言え、テストしてよかったでしょう? 魔除けの模様でも何でも、苦労して作ったものが間違っていたら、何の意味もないでしょう?」 大きなメイドさんはちっちゃなメイドさんの言葉にコックリと頷いた。 「…だからぁ、今度はわたしがテストしてきてあげる。もちろん、十分安全を確認した上で、全然大したことのない低級の幽霊がいるところで…」 『でも、わたしだって、書斎の書類棚の依頼状のCの封筒の中にあったところに言ったのよ!』 言いかけて思わず口をつぐんだ。 「…だから、次のあたしのお休みの日に、一晩だけ貸して! 必ずいま言ったとおりにすると約束するから…」 「本当に大丈夫? サダルメリク君と一緒には行かないの?」 「これ以上彼には迷惑をかけられないわ」 「そう言えば、あの晩、よくあのお屋敷を突き止めて助けに来てくれたわねぇ…」 ブライディーは宙を仰いで小首をかしげた。 「サ、サダルメリク君が訪ねてきてくれたのよ。『いまロンドンの、とあるお屋敷から、恐ろしい気配が立ち上ってる。心霊協会として調査に行かなくてもいいのか?』って。あいにく会員の皆様は誰もいらっしゃらなくて、サダルメリク君とあたしが… そうしたら、お芝居に行ったはずのお姉ちゃんと、アレイスター様が…」 「そう、本当に心配と迷惑をかけてごめんなさいね…」 ブライディーは深々と頭を下げた。 「でも分かるわ、その気持ち… 『お兄ちゃん』に贈る前に、魔除けの効き目があるかどうか、ドイル様たちには内緒で自分で確かめてみようという女心… アレイスター様とご一緒だったら、誰でも大船に乗ったつもりになるわよね」 デイジーは腰に両手を宛てて胸を張り、背中を反らせて言った。 「ぜひお願いするわ、デイジー… このお礼は…」 ブライディーが渡す編み直したセーターを手にしたデイジーは、明るく笑った。 「なに水くさいことを言うのよお姉ちゃん」 ほどなく着替えて出てきたデイジーの、ぶかぶかのセーターを着た滑稽な姿を見ても、ブライディーは笑わなかった。 「任しておいてよね、お姉ちゃん」 「せめて行き先だけでも… 万万一時間がたっても帰ってこなかったら、今度はわたしが皆様と助けに行くわ」 「大丈夫大丈夫。万々一そうなったら、お姉ちゃんお得意のタロットカードで占って来てくれると嬉しいわ」 デイジーの瞳が一瞬曰くありげにキラリと輝いたのに、ブライディーは気づかなかった。 ぶがぶかのセーターを普通に着るのを諦めて、袖を年の割には大き目の胸のあたりでくくって肩掛けのように着たデイジーは、その晩、ブライディーとアレイスターが大変な目にあった「あの」幽霊屋敷にやってきた。 片手にはランプを、片手にはなぜかウォーレス博士から黙って拝借してきた、標本採取用の大小のガラスのシャーレや三角フラスコの入った、写真機のレンズ入れに似た頑丈な手提げ鞄を下げていた。 「うっしっし…」 デイジーは屋敷に入ったところでそれらの持参物を確認しながら、思わずこみ上げてくる笑みを手のひらで押し殺した。 (サダルメリク君によれば、その『名状しがたい』『太古の昔に』『宇宙の彼方から飛来した』生き物は、ナメクジのような、ウミウシのような姿をしている、とか… 『時空を越えて探し回っている魔導師も多い』とか… 上手く捕まえればきっと高く売れて、一躍億万長者になれること請け合いよ! あたしはゲート・キーパーの能力者。このあいだもすぐに目覚めて、人形のイリスとコンタクトが取れたじゃない? つまり、『あたしは奴の術にはかからない…』のよ! おまけに完全版の魔除けのセーターだって着ている… 見つけたらこのピンセットでちょいとつまんで、ガラスの入れ物に入れる… 販売のほうは、何割かのお礼を渡して、サダルメリク君にやってもらう… なんて完璧なのかしら!) デイジーはランプで染みが浮き出た部屋の壁や、朽ちかけている階段を照らしながら注意深く探した。すると、台所を中心として、まるで鉄道模型の線路のように、幅数インチの、何かぬめぬめととしたものが各部屋に移動したり戻ってきたりしたような跡を見つけた。 (見つけたわ! 移動した跡を気にしないなんて、しょせんは原始的な生き物ね! この跡をつけていけば…) その跡をしらみつぶしにたどって見ることにした。 書斎、寝室、食堂、客間、客用寝室、メイド部屋… よほど暇だったのか、何度も何度も行き来した跡が幾筋も重なって残っていた。(おかしいなぁ、逃げちゃったのかなぁ… 残念だわ…) ちっちゃなメイドさんはピンセットを短剣のように天井や壁のほうに向け、唇を尖らせた。 だが、いったんは逃げ去った「それ」は、余りの悔しさに戻ってきていた。しかも、別の能力を持った仲間を連れて… そう、頼もしい仲間たちがいるのは、メイドさんたちだけではなかった… (アイツダ アイツ… クエナイヤツ… セナカニ ヨウガンノ ぽこぽこセオッテイル…) (マカセロ…) 大きなナメクジのような姿形はよく似ている物の、体内で明滅している明かりの色が違うもう一体がテレパシーで言った。 (アノエモノハ オレガクッテヤル… モチロン ヤツノナカマモ…) なかなか諦めきれないで、もう一度あちこちを探し回っていたデイジーは、新たに台所の排水溝のハンカチを広げたくらいの大きさの錆び付いた鉄格子に、ぬめぬめした跡を見つけた。おまけにその跡は、他の場所にあったものと違って、まだ新しく、乾ききらずに湿っていた。 (ここから逃げたのかな?) デイジーは一インチ角の細かい鉄格子の落とし蓋に手を掛けて、何とか持ち上げてみようとした。が、いくら力を込めても、元から重いのか、それとも錆び付いて固まっているのか、びくとも動かなかった。 (こうなったら、サダルメリク君に習った魔法を使ってやる!) デイジーは心を集中して蓋を見つめた。 (蓋よ! 持ち上がれ!) (シメタ! アノエモノ ココロノチカラヲツカウゾ…) (テハズノトオリニ シヨウ…) 二体の「それ」は光り合った。 デイジーが祈るにつれて、蓋はガタガタと震えだし、ひっついていた錆が剥がれ、蝶番を曲げて開き始めた。 「やった! 開いたわ!」 飛び上がって喜んだデイジーが、ランプを掲げて覗き込むと、臭気とともにバラバラに崩れたゼリー状の物体がいくつか、ドブの壁にこびりついているのが見えた。 「これよこれこれ! これに違いないわ! ちょっとバラバラになってしまってはいるけれど、これを持って帰れば…」 デイジーは胸を高鳴らせながら、手にしたピンセットでそれらを次々につまみ上げると、シャーレの中に入れてガラスの蓋をかぶせた。 大小のシャーレに分散して入れたナメクジのような生き物の欠片を『英国心霊協会』の屋敷まで持って帰ってきたデイジーは、勝手口ではたと立ち止まった。 (どうしよう? 中に持って入っていいものやら、どうやら… 会員さんの中には勘の鋭いかたも多いし… かといってお義母さんのいるアパートには持って帰りたくないし…」 悩んでいると、外から薪・石炭を入れられる半地下室が目に入った。 (あそこの棚が空いていたはず…) ちっちゃなメイドさんは、シャーレのうちで一番小さなかけらの入ったものをお仕着せのポケットに隠すと、残りは鞄ごと半地下の薪・石炭室の棚の上に放り上げた。 「お姉ちゃん、この編み直したセーター、ちゃんと魔除けの威力を発揮したわよ。早くアメリカの『お兄ちゃん』に送って上げて」 デイジーはちゃんと埃をはたいて、油引き紙に包んだセーターをブライディーに返した。 「そぉ、手間を取らせてごめんなさいね」 「いえいえ」 「ところでどんなところでテストをしてくれたの?」 「ちゃんと幽霊の出るところでだよ。でも全然平気だったわ。奴らはわたしには手出しはできなかった」 「有難う。お仕事が片づいたら、すぐに荷造りして郵便局に持っていくわ」 ブライディーはホウキをかけていた手を休めて言った。 「じゃあこれ、上に持って上がって、お姉ちゃんの机の上に置いておくね」 「本当に有難う…」 屋根裏のメイド部屋に上がってセーターを置いたデイジーの目に、ブライディーのものと向かい合ったポピーの机と小さな箪笥もの入れと、ベッドが目に入った。 箪笥にはスイスの山や風景だろうと思う小さな銅版画や、高山植物らしいきれいな花の着色写真が何枚か貼ってある… ポケットに手を入れると、例のナメクジにような怪物の欠片の入ったシャーレが… (あたしは寝ているときに夢を見ても常に「これは夢なんだ」と分かる。一見便利なようで実は面白くない能力よ。この、怪物の欠片の入ったシャーレをポピーのベッドの下に入れておいて、明日出勤した時に、ポピーに「昨夜何か夢を見た?」と訊いて、「見た観た」とか言ったら、この欠片はとても高くで売れるわよ! お金持ちの物好きって多いんだから! かけらだったらそんなに危なくないでしょうし…) デイジーは腰をかがめると、そのシャーレをポピーのベッドのマットのスプリングのあいだに隠した。それからベッドの上に寝そべってみた。特に違和感はしない… (よしよし、これでいいわ…) カヴァーの皺を直すと、何喰わない顔で下に降りた。 その晩、ブライディーはセーターと、前もって書いてあった「お兄ちゃん」への手紙を入れて丁寧に荷造りした。 「無事に届くといいですね」 ポピーは寝間着に着替えながら言った。 「ええ、でも今回も皆さんに迷惑をおかけして…」 「そんなこと、いいんですよ。…それでは失礼して、お先に休ませて頂きますね」 「どうぞ。わたしはもう一度火の元と戸締まりを確認してくるわ」 屋敷を一巡りして、最後に半地下に降りたブライディーは、薪・石炭室でカタンコトンという物音がしたのを聞いた。 (きっとまた野良猫が住みついているのよね。かわいそうだから聞かなかったことにしましょう…) その小屋がボウッと不気味に、いろんな色に明滅したのは、メイドさんが去った後のことだった。 その頃、ポピーは故郷フランス・アルプスの麓の村の家で、両親や弟、妹たちと楽しく食事をしていた。 「お帰り、ポピー。イギリスでメイドさんをしていたんだって? 辛くはなかったかい?」 母親は心配そうに訊ねた。 「うううん… 『英国心霊研究協会』の皆様や、同僚のメイドさんたちはとてもいい人たちばかりだったわ。…それまでお仕えしていた奥様は、そうではなかったのだけれど…」 「そうかい、それはまあまあ良かったね」 「お姉ちゃん、イギリスのお土産、有難う!」 「あたし、こんなお人形が欲しかったの!」 近衛兵たちの人形や、熊の縫いぐるみを手にした弟や妹たちがはしゃぎながら言った。 散歩に出た谷間では、薬草屋に持っていけば高く売れるハーブの茂みを見つけ、岩陰では、これまた月に一度くらい回ってくる商人に見せれば鑑定して買い上げてくれるかなり大きな水晶の原石を拾った。 (今夜は特別にいい夢を見ているのね…) 火の元と戸締まりのチェックから戻ってきたブライディーは、微笑みを浮かべているポピーの寝顔をそっと覗き込みながらニッコリとした。 ポピーはいい夢を見続けて、朝になったら自然に目覚めた。 「ねぇ、ポピー、つかぬことを聞くけれど、貴女夢とか見る?」 次の朝早く通ってきたデイジーは、ポピーと一緒に各部屋の暖炉に火をおこして回りながら訊ねた。 「わたしは余り夢を見ないんです」 ポピーは石炭の上に薪を置き、その上に古新聞紙を乗せてマッチで火を付けながら言った。 「…でも、昨夜は見ました。とてもいい夢を…」 「そう、それは良かったわねぇ」 デイジーは(しめしめ…)と思った。(やはり、あのナメクジの欠片のようなものは、その力があるのよ…) その日は、屋敷に大勢の「英国心霊研究協会」の会員たちが集まった。 ドイルにウォーレス博士にドッジソン教授… 人々は紅茶のカップや好みの酒の入ったグラスを片手に和やかに談笑し、ブライディーとデイジーとポピーは飲み物や食べ物やお菓子やおつまみの入った銀の皿を片手に忙しく走り回っていた。 クルックス博士は「みんなに新しい放電管の実験を見せる」と言って、複雑な実験装置の設置に忙しそうだった。 「やあ、ドイル先生、…そのぅ…奥様のお加減は如何ですか?」 「お陰様で小康を得ております。やはりスイスのきれいな空気が、ロンドンの汚い空気よりもずっと身体には良いのでしょう」 ドイルはいつものようにパイプをふかしながら答えていた。 「クルックス博士、準備中にすみません。ダイナマイトを発明したノーベルが、『自分の死後は人類に貢献した科学者に賞金を遺贈する』という遺言を書いたというもっぱらの噂ですが、もしも本当だったら誰が貰えると思いますか?」 「レントゲン博士だと思いますよ」 クルックス博士はひげを撫でながら言った。「彼が今年発見した未知の光線は、実に素晴らしいものです」 「クルックス博士、あなたではないのですか?」 「いゃあ、わしは…」 「ウォーレス博士、もしも…もしもですよ、ダーウィン学派の人々があなたの功績を認めて、和解を求めてきたらどうされますか?」 「和解もなにも…」 ウォーレス博士はずり落ち掛けた眼鏡を元に戻しながら言った。「わしは元々ダーウィンさんのことを悪く思ったりしていませんよ。誰が重要な発見をしたか、というのは枝葉末節のことです。文字通り重要なのは、その発見が正しいかどうかということでありまして…」 「ドッジソン教授、もうじき、今年の暮れに巴里で、フランス人の技師たちによって『動く写真』の上映・興業の計画があるらしいですが、そんな写真機がもし出回るようになったら、どんな『動く写真』を撮ってみたいですか?」 「それはもちろん…」 教授は答えかけたものの、お茶を濁した。 (ちっちゃい、可愛い女の子たちが元気に走り回る様子ですよ…) 屋敷の半地下の薪・石炭小屋では、透明なような、半透明なような、身体の中に明滅させる光の点を持つゼリー状の「名状し難きもの」がシャーレの蓋を持ち上げ、あるいは落として叩き割って、バラバラだった欠片を合体させ、隙間を通じていったん屋敷の外へ出ていた。 新たに玄関のチャイムが鳴ったので、ブライディーは走って出た。 「はい、ただいま!」 ドアの向こうには、旅行鞄を手にした三十台半ばの、少し痩せてはいるものの上品な婦人が立っていた。 「失礼ですがどちらさまでしょうか?」 メイドさんはにこやかに訊ねた。 「わたし、コナン・ドイルの妻でございます。 婦人はためらいがちに答えた。「…実は奇跡的に結核が全快致しまして、スイスの療養所から退院して参りました…」 「えっ!」 ブライディーはすぐに(変だわ)と思った。 (もしも本当だったら、前もって電報を打って迎えにきてもらうはずだわ…) 「夫はこちらだと伺いまして…」 「おーい、ブライディー、どうかしたのか? 早く戻ってデイジーやポピーを手伝ってやってくれ!」 玄関の階段のところからドイルの声がした。 「あなた!」 偽のドイル夫人が勝手に入ってこようとしたので、メイドさんは慌てて玄関の扉を閉めて閂を降ろした。 「はーい、ただいま!」 「どうして… どうして閉めるの! わたしはドイルの家内ですよ!」 (この人は偽者だ。ドイル様ならたちどころに見破られるでしょう。…けれど、けれどドイル様も人の子、いちばん会いたい人、一番病気が良くなって欲しい人の、元気になった姿を見せられたら、判断が狂ってしまわれるかもしれない…) 奇異なことに、扉の外の偽のドイル夫人はそれ以上騒ぐことなく、去ったようだった。 しかし、しばらくしてまたもや玄関のチャイムが鳴った。ブライディーがそぉっと開けてみると、フロックコートにシルクハットの紳士が立っていた。 「ごめんください。わたくしはスウェーデンのストックホルムから参りました…という学者です。実は友人のノーベルが、『世界中のすぐれた科学者に奨学金を送りたいのだが、英国のクルックス博士におかれましては賛成と、授与者のご推薦いただけますでしょうか?』と申していて、ぜひクルックス博士のご意見を…」 (どうしよう、本物っぽい…) ブライディーは拳で口元を押さえて思った。 (…クルックス博士に取り次げば、すぐにでも飛んでこられるでしょう。でも、この人もどうして前もって手紙や電報をよこさないの?) 「悪い冗談はおよしください!」 メイドさんは身体を重しにするようにして扉を閉めた。 すると数分もしないうちに、またまたチャイムが鳴った。 「どちらさまでしょう?」 ブライディーは今度は扉を開けないまま訊ねた。 「故・チャールズ・ダーウィン氏の弁護士兼遺言執行人の…という者です。実は、ダーウィン氏の遺品の中から、ウォーレス博士宛の手紙が出て参りましたので、ぜひ受け取って頂きたく…」 (この人も偽者よ!) メイドさんもまたまたすぐに扉を閉めた。(ダーウィン様ご自身が亡くなられたのは、いまから十年以上も前のことじゃない! どうしていまごろ手紙なんかが出てくるのよ!) さすがのブライディーもだんだんと腹に据えかねる思いがこみ上げてきた。 (ここは夢の中じゃなくて、現実の世界。それなのになぜ、お屋敷の中に居られる先生がたの思いを実体化したような存在が、現実の姿を伴って現れたりするわけ?) メイドさんはエプロンドレスの中からコックリさんの棒を取りだして立ててみた。 棒はくるくると回転していたが、やがて薪・石炭小屋を指してピタリと止まった。 (あの中に何かかいそうね…) デイジーやポピーやドイルたちに加勢を頼もうとしたけれど、ちっちゃいメイドさんたちはてんてこ舞いで走り回っていたし、ドイルは恐ろしく身分の高い貴族と、時おり頬を引きつらせながら談笑していた。 (わたししかいないわけね。…でも、事が起きてからでは手遅れ…) メイドさんはモップを槍のように持って、薪。石炭小屋に入った。 透明なような、半透明なような、大きなナメクジのような「名状し難き」存在は、数が増えた色とりどりの明滅の速度を速めた。 (シメシメ タベソコネタエモノガヤッテクルゾ…) 半地下の薪・石炭室の扉をそぉーっと開けたブライディーは、背の高い人影が立っているのに驚いた。 「アレイスター様!」 「シッ、ブライディー、何かまがまがしいものがこの中にいる」 「さっきから何度もおかしな人がお屋敷を訪ねてこられて…」 メイドさんは思わずアレイスターの学生コートの陰に隠れた。 「そうだろう。復讐のつもりなのか、何なのか、夢の中で取り憑くことを越えて、現実の世界に進出してきたようだ…」 「それが、夢の中では完璧だった模倣が、現実ではかなり稚拙で…」 「なるほど… 相手もかなりやっきになって無理をしてきたようだな。任しておきたまえ。今度こそぼくがやっつけてあげるから」 アレイスターは少し唇を歪めて言った。 「さぁブライディー、占いで相手のいるところを突き止めてくれ」 「アレイスター様…」 ブライディーはゆっくりとあとじさりしたかと思うと、バタンと半地下室の扉を閉めて、すかさず閂を降ろした。「…貴男もアレイスター様ではございませんね」 お仕着せを着た華奢な身体をバリケードにして扉に貼り付く… 「おい、ブライディーさん、どうしたんだ?ここを開けてくれ」 「貴男も偽者です! いま分かりました」 「なぜだ? 占いでか?」 ハンサムな学生の顔がじょじょにドロドロに溶けて崩れ始めた。 「いいえ、本物のアレイスター様なら『手伝え』とはおっしゃいません。必ず『ぼく一人で十分だ。君は下がっていなさい』とおっしゃる誇り高いかたです!」 (クソッ ソイツハヌカッタナ…) 「それ」は元の原形質に戻りながらテレパシーで言った。 (モウイイ… コウナッタラヤムヲエナイ…) 「英国心霊研究協会」が借りている屋敷の、扉という扉、窓という窓、カーテンというカーテンが一斉に、ひとりでに閉まった。 「どうしたんだ?」 「一体何が?」 ドイルや博士たちがノヴを手に開けようと試みたがびくともしなかった。窓もカーテンも同じだった。 窓は全部閉まっているというのになま暖かい突風が部屋部屋に吹き荒れ、書類が木の葉のように舞い、食器棚からはグラスや茶碗や皿が飛び落ちて粉々に砕けた。 「皆さん、安全なところへ! 机の下などに隠れて下さい!」 大声で叫んだドイルは、逃げ遅れた会員たちを会議用のテーブルにしている大きな食卓の下に誘導し、自らも隠れた。何か目には見えない太くて長い袋状のものがいっぱい飛び交う気配がして、その直後、大きな重い食器棚や本棚が、食器や本を撒き散らしながら巨木のように倒れかけてきた。 台所でも同じようなことが起きていた。 掛けてあった鍋やフライパン類がひとりでに外れて土間に落ちたかと思うと、姿なき何者かに持ち上げられて再び舞い上がった。 (もしかして、あいつらかな? あいつらが増殖して暴れているのかな?) デイジーの顔から血の気が引いた。(もしそうだったらどうしよう…) 「デイジーさん、早く隠れましょう!」 抽斗が勝手に開いて、中にしまってあった包丁からナイフが、スーッと浮かび上がってこちらに切っ先を向けて狙いを付けているのを見て取ったポピーは、デイジーの首根っこを捕まえて大きなかまどの中に放り込んで自分も入り、素早く扉を閉めた。 飛んできた包丁やナイフは次々にかまどの扉に当たって跳ね返った。 中のデイジーとポピーには、ドクンドクンという巨大な透明の海蛇が立てているような脈動が聞こえた。 まるでここだけ大地震に見舞われたような屋敷の中では、エーテル体のようなおぼろげな存在が奇声をあげつつ伸びたり縮んだりしながら跳梁跋扈していた。 飾り棚の定位置に戻してあった人形のイリスにも、エーテル体が迫ってきた。 (クソニンギョウメ コノアイダのカリヲ カエサセテモラウ…) ちょうどその時、よろめき、壁に身体をもたせかけながらブライディーが一階に上がってきた。 (オマエモユルサナイ…) 顔を恐怖に引きつらせたメイドさんがふらついた瞬間に、クルックス博士が実験に使っている石油発電機のスイッチが入った。ぶるんぶるんとモーターが回り始め、メーターが次第に触れ始め、放電装置に電気が流れた。 電極と電極のあいだを勝手に横切ろうとしたそれは感電し、水たまりに落ちた油のような、ギラギラ輝く虹色の姿を現した。電気に触れ続けた「もの」たちは「ギャッーッ!」と悲鳴を上げてかすかな、しかしまばゆい閃光と白煙を上げて消滅した。 「神様、ご加護を有難うございます。どうやら… どうやらクルックス先生のこれが苦手のようね…」 ブライディーはコードを伸ばせるだけ伸ばすと、部屋の中を飛び回っているそれらを次々に切り裂いた。 台所では、「そいつら」がかまどを取り囲んで火を付けようとしていた。 (めいどノマルヤキ… めいどノマルヤキ…) それらは、まるで大蛇がとぐろを巻くようにかまどに巻き付いて、赤く火照った熱を放ち始めた。何もないのに炎のようなものが上がる様子は、まるで地獄のそれを思い起こさせた。 かまどの中ではデイジーとポピーが抱き合って震えていた。 「もうだめだよー」 「大丈夫です。きっとどなたかが助けに来てくれます…」 そこへ、さらにコードを伸ばしたブライディーがやってきた。メイドさんは右手に電極、左手にもう一つの電極を持って、近づけたり離したりしながら、まるで二刀流の使い手か植木職人のようにかまどに取り憑いていたものたちをずたずたに切り裂いた。 「大丈夫? デイジーにポピー?」 「有難う、お姉ちゃん…」 デイジーは泣きじゃくりながらメイドさんの胸に飛び込んだ。 「待ってね。ドイル様たちをお助けしなくては…」 食堂の会議用の机の下に隠れていたドイルたちは、何度も何とか打って出ようと試みていたが、その都度、目に見えないいくつもの手が放つ大小のいろんなものが飛んできて、手で顔を覆って身を潜めているのがやっとだった。 そこへ、放電装置を振りかざし、デイジーとポピーにコードを引きずてもらったメイドさんがやってきた。 「ドイル様! 皆様!」 「ブライディー、それは?」 「クルックス先生の実験装置です。偶然にスイッチが入ってしまって…『彼ら』はこれから発せられるものが嫌いなようです!」 「おおっ!」 クルックス博士が目を見張った。 「…そいつは空気中に電気を放電してみせる実験装置だ! 手元のダイヤルで強弱が調節できるぞ!」 ブライディーはダイヤルを目一杯上げると、姿は見えないのに、大きな古道のような気配を撒き散らし、飛び交う気配だけがする、濃い空気のような存在に向かって振り下ろした。 見せ物小屋の電気の火花よりも凄まじい火花がバチバチと飛んで、見えない存在を切り裂き、七色の輝きだけを残して消滅させた。 メイドさんたちは大きく息を弾ませながら、ヘナヘナとその場に座り込んだ。 騒動が収まったあとの「英国心霊研究協会」の屋敷は、まるでポンペイの大地震と、カリブ海のハリケーンに一度に見舞われたような惨憺たる有様だった。 「ブライディー、怪我はないか?」 ドイルはメイドさんを抱き起こしながら尋ねた。 「ええ、何とか… ドイル様こそ…」 「ぼくは大丈夫だ」 「やれやれ、わしらはいつも幽霊やら悪霊と呼ばれているものを調べて正体を見破っているものじゃから、とうとう奴らのほうから反撃を開始したのじゃろうか?」 ウォーレス博士が服に付いた埃を払いながらゆっくりと立ち上がった。 「かもしれません。あり得ることですね」 ドイルが真顔で言った。 「とりあえずけがの功名とは言え、わしが開発していた実験装置が役に立って良かったわい…」 クルックス博士は床の上に放り出されたままの放電装置を愛おしげに取り上げて、傷んだ箇所がないかを調べ始めた。 「そうだ。ぼくも写真機がどうにかなっていないか調べなくては…」 ドッジソン教授もよろよろと立ち上がった。「写真機といえば、どなたかいまの出来事を撮影されたかたはおられますか?」 それぞれ隠れていた場所から現れた他の会員たちを見渡してドイルが尋ねた。 皆は(それどころじゃあなかった)と言いたげにかぶりを振った。 「ふだんはポルターガイストやら何やらに遭遇したがっているくせに、いざ本当に行き当たってみると、なかなかとても撮影とかできるものではありませんね」 ドイルは溜息まじりにつぶやいた。 「ごめんなさい… ごめんなさい… あたしが… あたしが…」 デイジーは泣きじゃくった。 「デイジー、たとえ貴女が何をしたとしても…」 ブライディーはしゃがんでちっちゃなメイドさんの目を見つめた。「いまは何も言わなくていい。言ってはいけないわ」 傍らでポピーが「うんうん」と頷いた。 「言ってしまうと、ブライディーさんやわたしにも類が及ぶような気がしますわ」 「でも、あたしが…」 「僭越ながらわたしは、このお屋敷に集われるかたがたは、貴族や市民やメイドといった身分の壁を越えて、みんな仲の良い友達か、家族のように思っているのよ。わたしもよく失敗をするし、それをいつもフォローして下さるドイル様や皆様や、デイジー…貴女やポピーにとても感謝しているわ。つまり、多少のことはお互い様。伝道之書にも『汝正しきに過ぐるなかれ』と書かれているでしょう? だからデイジー、もしも貴女が皆様にとても済まないことをしたと思うのなら、心を痛めておいて、二度と同じ失敗をしないようにしてちょうだい…」 「そんなこと… そんなこととても約束できないよぅ…」 デイジーは泣きやまなかった。 「分かった。じゃあ貴女の教会の牧師様にだけ打ち明けてちょうだい。…ただし、これを全部片付けたあとで…」 ブライディーが示す先には、床一面に割れた陶器の破片が散らばり、ズタズタに引き裂かれたカーテンが舞い、箪笥や本棚が全部倒れて中の本などがぶちまけられていた。 「これを… 全部…片付けるの?」 デイジーははたと泣きやんだ。 「そうよ」 「とても無理だわ…」 デイジーはポツリと言った。「…正直に懺悔して、クビにして頂いたほうがマシだわ…」 「クビになるだけだったらいいけれど…」」 ブライディーは微笑みながらちっちゃなメイドさんの肩をポンポンと叩いた。「もしも弁償なんていうことになったら…」 「『弁償』…」 デイジーは青ざめた顔からさらに血の気が引いた。 「ああ、夢だったら醒めて欲しいわ…」 デイジーは自分の頬をつねってみた。 (次のエピソードに続く) KIJISUKE@aol.com