ブライディー・ザ・マジックメイド
 ブライディー「お姫様」になる

「これは依頼ではありません。命令なのです」
 ある暑くけだるい夏の日の午後、フィオナ・ウォーターフォード男爵令嬢とともに「英国心霊研究協会」を四頭立ての馬車で訪れた、よく太り、全身を満艦飾に宝石で飾り立てた某・公爵夫人は居丈高に言った。
「しかし公爵夫人。うちの大切なメイドのブライディーが、なぜそのような危険なことをしなければならないのでしょうか?」
 パイプを吸いたいのを我慢しながら、ドイルは額に皺を寄せた。
「写真です。私はそのような卑猥な写真は一度も見たことがありませんが、たまたま見た召使いたちの話によると、そちらのブライディーとやらは、畏れ多くもわたくしが後見させて頂いている姫様と、顔はもとより身体つきまでソックリなのです」
 ドイルの傍らでブライディーは、身体を縮めてうつむき震えながら懸命に泣くのをこらえていた。
「…これ、ブライディー! そなたは下賤の生まれの上、両親とも早く死に別れ、天涯孤独の身とか。それなら我が姫様の身代わりとなって、場合によっては暗殺者に討ち果たされても、そのことを光栄に思いなさい!」
「伯母様、いくら何でもそれは余りな言いようでは?」
 いつも強気なフィオナがおずおずと小声で口をはさんだ。
「フィオナ、貴女も『大学に進みたい』などと何を世迷いごとを申しているのですか? 早くよいお相手を見つけて、ウォーターフォード家の世継ぎである男の子を産んでこそ、我が弟の男爵を安心させ親孝行することができるのではありませんか?」
 オリンポスのヘラもかくやと思う大音声の一喝に、さすがのフィオナも頭を垂れた。
「…ですが貴女は私のかわいい姪。姪の夢をかなえて差し上げるのにやぶさかではありません。貴女もこの計画に助力してくれるのなら、ケンブリッジ大学ニューナム女子校への学資その他、援助を惜しまぬことを約束しましょう」
 一転した猫なで声に、フィオナは笑顔をとり戻した。
「本当ですか、伯母様?」
「わたし、やります… お姫様の替え玉になります…」
 メイドさんは蚊の泣くような声で言った。
「よくぞ申しました。それでこそ大英帝国の臣民です。女王陛下に連なる王族のかたのために一命をお捧げ申し上げるのです」
「いいのかブライディー、今度という今度こそは、本当に命を失うかもしれないのだぞ」
 ドイルはメイドさんの耳に囁いた。
「ドイル殿、貴男も『卿』の称号授与も近い身でありながら、なにゆえかような端女のことを心配しているのですか?」
「それはその…」
「それでは早速きょうからこの子をウォーターフォードの屋敷に引き取って、フィオナ、貴女がこの娘に貴族の娘の言葉遣い所作その他もろもろを教えて上げなさい。
「はい、伯母様! …ブライディー、貴女はいまから炊事も洗濯も掃除も、メイドの仕事は一切してはいけません。まずその荒れた手から何とかしなくては…」
「姫様がお使いのドレスや化粧品など身の回りの品は、早急に届けさせます」

「ええーっ!」
 その様子をドアの隙間から立ち聞きしていたデイジーは顔をくしゃくしゃにした。
「なんで… なんでお姉ちゃんなの? どうしてあたしじゃないわけ?」
「デイジーさん、何をそんなに悔しがられているのですか?」 ポピーが不思議この上ないといった表情で訊ねた。「ブライディーさんは殺されてしまうかもしれないし、あの公爵夫人はむしろそれを期待されているのですよ…」
「殺されても構わない…」 デイジーは手にしたテーブル拭きを振り絞った。「あたし、死んでもいいから一度、本物のお姫様になりたかった…」
「何を莫迦なことを言うんですか。どんなに身分が高くても、お金持ちでも、死んでしまったらそれまでなのですよ」
「それでもいい」 デイジーはきっぱりと言った。「お姫様になれるのなら、断頭台にかけられてもいい…」
 ブライディーはデイジーたちと別れの挨拶をすることも、屋根裏のメイド部屋に私物を取りに行くことも許されず、そのまま待たせてあった、リリーが御者をしている馬車に乗せられた。
「ってことは…」 デイジーはポツリと言った。「明日から当分、お姉ちゃんの分もあたしたちがやらなくっちゃならないってことよね?」

「もっときつく、もっときつく締め上げなさい!」
 公爵夫人は自分の小間使いたちがブライディーのコルセットの紐を引き絞るのを見て命令した。
「そんな… 肋骨が折れてしまいます…」
 ブライディーは一筋の涙をこぼしながら言った。
「何を申しているのですか? メイドならこの程度でもいいでしょうが、王族の姫君ともなれば、ウエストは21、22インチ(およそ五十数センチ)が理想です。また、姫様は床まで届く立派な御髪ですから、貴女にはカツラをかぶって頂きます」
 着付けがすめば挨拶の仕方、歩きかた、それが終われば食事の作法、フランス語の特訓に本物の姫様と面識や交友のある貴族たちの写真を見て覚えるという難行苦行が続いた。
 そんな中で楽しかったのは乗馬と音楽、社交ダンスだった。
 アイルランドの田舎育ちのブライディーはもともと馬に乗れた。もっとも貴婦人のように両足を揃えて婦人用の鞍に横座りするのは大変だったけれども…
 音楽はシューベルトの歌曲を見事に歌いこなし、初めて公爵夫人の頷きを貰った。公爵夫人のピアノ演奏と、フィオナをお相手の殿方役に見立てての社交ダンスもみるみる上達した。
 そして数日のちには、残る問題はピアノだけになった。本物の姫君はピアノの名手だった。
「そこまで期待するのは無理というものでしょう。もしも目上のかたから一曲所望されたら、『あいにく手首を痛めていますので、ご容赦ください』と言いなさい」
「いえ、できるだけやってみます」
 というわけで、ウォーターフォード男爵の屋敷では連日連夜、下手なバッハの練習曲が流れることになった。

「稽古よく頑張ってくれました、大儀でした」
 すべて付け焼き刃ではあるものの、だいたいのことが一通りできるようになった頃、公爵夫人とフィオナは口を揃えて言ってくれた。
「…これからがいよいよ本当の舞台です。貴女に成りすましていただくお姫様の名前を教え、ご本人にお引き合わせしましょう」
 扉が開くと、自分なんかとは比べ物にならないくらい上品なたたずまいの少女がお付きを従えて現れた。
「こんにちわ。わたくし、オクタヴィアと申します。貴女がブライディーさんですか?」
 顔を上げたメイドさんは驚いた。いつも鏡で写している自分自身がそこにいたからだ。
「身代わり役、どうかよろしくお願いしますね」
 非常に身分の高い姫君であるにもかかわらず、はかなく憂いを帯びた表情、優しい言葉遣い。メイドさんはいっぺんにオクタヴィア姫に魅了され、(このかたのためにできるだけのことをしてあげたい)と思った。
「全力を尽くして、お勤めさせて頂きます」
「二人だけで話がしたい。おまえたちはしばらく外しなさい」
 オクタヴィアが命じると、小間使いはもちろん、公爵夫人もフィオナも深く一礼して下がった。下がり際、「くれぐれも失礼のないように…」と耳打ちして。
「本当にわたしたち、そっくりですね」
 お姫様はメイドさんに椅子を勧めてから言った。
「恐縮です…」
「わたくしに合わせようと、外国語やダンスやピアノも練習してくれているそうですね」
「はい…」
「きっと、貴女にできて、わたくしにはできないこともたくさんあるのでしょうね」
 オクタヴィアは目を伏せながら言った。
「それは…」
「貴女にも、貴女の日常生活があったでしょうに、公爵夫人やフィオナが無理を申して、誠に申し訳ありません…」
「そんな… お顔を上げて下さい…」
「わたくしの小間使いのオリーヴには、しっかり申し送りしてありますので、どうか安心なさい」
「有難うございます」
 オクタヴィアの、とても一朝一夕には真似出来ない気品に打たれたメイドさんはただただ身を縮めていた。
 しばらくして公爵夫人とフィオナが戻ってきた。
「オクタヴィア姫、過分なお言葉は増長を招きます。アイルランド人のメイドなど、後から後から湧き出してくるようなもの。たとえどのようなことになりましてもお心を痛めたりなさいませんように…」
 公爵夫人は冷たく言い放った。
「そんな! そのような物言い、再び繰り返したら許しませんよ」
 オクタヴィアはいままでの会話とは打って変わった凛とした声で言った。

 ブライディーの身代わり初仕事は、さる郊外の荘園のお屋敷で開かれた狩りと、そのあとのパーティだった。オクタヴィアはもとより小さな動物の命を奪うのが大嫌いとのことだった。
「いいですか。狩りということは皆さん鉄砲を持っておられますから十分気をつけて」
 大勢の客たちとの挨拶のあいだじゅう、フィオナはずっとブライディーのそばにいてくれて、写真を見て覚えたはずなのに思い出せない人々の名前を、そっと耳打ちして教えてくれた。
「…狩りがはじまると、わたしと貴女とは違う組なので、一緒にいるわけにはまいりません。それではくれぐれも、狩られる動物を見て楽しそうにはしゃいだりしないように…」
「わたくしも無益な殺生は嫌いです」
「ならよいのですけれど…」
 角笛が吹き鳴らされ、勢子が犬たちを放って狩りが始まった。
 枝が揺れて鳥たちが飛び立ち、枝や茂みがざわめいてウサギやタヌキたちが飛び出した。
 何発もの銃声がこだまし、犬たちの吠える声が響いてきた。
「まったくイギリス人は動物を可愛がるいっぽうで、なんでこのような残酷なことをするのでしょうね?」
 鞍上ふと横を見ると、写真帳に一番数多く写っていた、ロジャー卿という、若いハンサムで医学を修得したという貴族がいた。
 ロジャー卿はオクタヴィア姫に気があるらしいのだけれど、姫のほうはいま一つと思っているので、「つかず離れず、適当にあしらっておくこと」という指図がでていた紳士だった。
「何百年、何千年と続いた慣例だから、仕方のないことなのでは」
 ブライディーの声は緊張で少し震えていた。「お互い格式や義理というものから逃れることができなくて大変ですよね」
 ロジャー卿は猟銃の手入れをしながら、ざっくばらんに言った。メイドさんの目にはこの青年貴族がいい人のように映った。
「ええ…」
「時に噂… あくまでも噂なのですが、オクタヴィア様、貴女のお命を狙っている者がいる、というのはほんとうですか?」
「そのような噂をどこで?」
 ブライディーは公爵夫人やフィオナたちと練習した通りに慎重に聞き返した。
「いや、とあるところでチラッと… 仮に噂が本当だとしても、こうしてぼくが一緒にいる時は、一命を賭けてお守り申し上げますよ」
「それは有難うございます…」
 また銃声がこだました。ブライディーはびくっとして身を縮めた。
「大丈夫です。ずいぶんと遠いところじゃあありませんか?」
 ブライディーは、こんな大層な役を務めるよりも、「本当にオクタヴィア姫の命を狙っているものがあるのなら、自分の占いでその者たちの正体を明らかにするほうが簡単なのではないか?」と考えていた。
 公爵夫人やフィオナに何度も提案しかけたものの、「いまから悪事をしそうな者を占ったりするのは、やはり良くない」と思って、ついに言い出せずじまいだった。
(やはり、実際に狙われていることが明らかにならないと… もっともそれを待っていたら、最初の襲撃で自分がやられてしまうかもしれないのだけれど…)
「きょうはあまりお話しになられませんね。もしやご気分でも…」
「あ、いえ…」
 と、そこへはぐれたウサギが一匹飛び出してきた。ブライディーはもちろん、ロジャー卿も見逃して撃たなかった。
 バァーン!
 間近で大きな銃声が轟いたかと思うと、ロジャー卿はいきなりブライディーの身体を馬からひきずり下ろして地面に伏せさせた。
「何をなさるんですか?」
「ただの暴発だったのならいいのですが…」 彼が指さした木の幹には弾痕があった。
 そこは、ついさっきまでブライディーが馬上でたたずんでいた場所だった。
「すいませんでした。有難うございました」 メイドさんは一礼した。
「いいえ、気をつけて下さいよ…」 ロジャー卿はドレスに付いた土をはたいてくれながら言った。「…ところでオクタヴィアさま、少し痩せられたのでは?」
「あ、いえ、そのようなことは…」
「心労のし過ぎにも注意してください」
「はい…」
 やがて自分の組の仲間も、フィオナも戻ってきた。
「どうです、うまく勤まりましたか? 続けてしばらくできそうですか?」
 フィオナは小声で訊ねた。
「ええ、何とか頑張ってみようと思います」

 その日は、例年、貴族の令嬢たちだけで海水浴に行く日に当たっていた。
 海水浴とはいっても、現代のものとはかなり違って、プリマス海岸の白い砂の波打ち際に合戦の時に張るような陣幕を延々と張って目隠しをし、「男払い」をし、真っ黒でぶかぶかの水着には着替えるものの、実際に遊泳したりするのではなく、波打ち際で潮干狩りをしたり、パラソルの下で談笑社交したり、女性のパティシエがその場で作る氷菓子を賞味したりして時間を潰す、というものだった。
「いいですかブライディー、いえオクタヴィア姫、貴女が水練の名人であることはよく知っていますが、きょうは泳いではいけません。下々ならともかく、高貴な身分の令嬢は、はしたないこととされているのです」
 フィオナはメイドさんのスタイルをジロジロと容赦なく眺め渡しながら言った。
(メイドって長いことやっていると、手も足も太くなるはずなのにおかしいわねぇ… そう、「番茶も出花」というものでこれからどんどん崩れていくのよね…)
「オクタヴィア様、素敵だわ…」
「どうしたらあんなふうになれるのかしら」
「やはり努力されているんだわ」
 貴族の娘たちの囁きに顔を赤らめながら、一人ポツンと少し離れたところでアサリやシジミやハマグリを集めていた。
「ブライディー、一体何を採っているのですか? そんなどこにでもあるようなものを集めるのではなくて、子安貝や宝貝のような、安産のお守りとされているきれいな貝を拾って自慢するのです」
 フィオナがあわてて駆け寄って耳打ちする。
「はあ…」
 そうこうしているうちに、とある令嬢が一艘の素晴らしいディンギーを侍女たちに運ばせてきた。
「これは兄のヨットなんですけれど、きょうは特別に借りてきました。実はあたくしも操船できましてよ」
 皆の注目は純白の麻の帽子をかぶったその令嬢に集まって、ブライディーはホッとした。
 令嬢は言葉通りにディンギーを操り、しばらくして帰ってきた。
「…帽子を飛ばしてしまいました。おまえ、泳ぎが上手かったはずよね、探してきて」
 彼女は小間使いの一人に命じた。その小間使いは「はい」と答えてぎこちない泳法で沖に向かって泳いでいった。
 パティシエがノミを振るって氷を刻み、白鳥やギリシア彫刻を刻んでいた。ブライディーがその見事に出来上がっていく様子をボーッと眺めていると、突然沖のほうから絹を引き裂くような悲鳴があがった。
「鮫です! 助けて下さい!」
 それを聞いた令嬢や小間使いたちも悲鳴を上げて一斉に陸のほうに逃げ出した。
「早く、男の人を呼んできて!」
 取り乱す声がそこここで飛んだ。
 そんな中でブライディーはただ一人、氷細工に使うノミを持って波打ち際に向かって走った。
「借りるわよ!」
 片手に打ち捨てられていたディンギーのマストを掴み、もう片手に大きなノミを、小さなノミを口にくわえると沖に向かって風を背にした。
 鮫のヒレはその子に向かってぐんぐん近づいていた。間一髪のところでディンギーは鮫に体当たりをした。大きな鮫でヨットのほうがひっくり返りかけたが、何とか持ちこたえた。
「早く乗って!」
「オクタヴィア様、危のうございます!」
 ブライディーは大きなノミで鮫の頭を一撃した。
 ところがその時、小間使いが小さなノミをひったくると、それで自分の腕に傷をつけて再び飛び込んだ。
「オクタヴィア様、お逃げ下さい! 姫様に万一のことがあれば、あたしはもとよりあたしの家族も生きてはおれません!」
 血の臭いを嗅ぎつけた鮫は、態勢を整えて小間使いに襲いかかった。
 骨が砕かれるような嫌な音がしたかと思うと、波間が見る見る血に染まった。
「バカなことを…」
 ブライディーは泣きながら岸辺に戻った。
「ヨットは… ヨットに傷はつきませんでしたか? それに帽子は見つかりましたか?」
 走り寄って来た件の令嬢をメイドさんは張り飛ばした。
「貴女は自分の小間使いが亡くなったというのに、ヨットや帽子のほうが大事なのですか?」
「痛い! 何をなさるのですか? 小間使いの代わりはいくらでもいますが、このヨットは兄が大切にしているものだし、帽子は母からの贈り物でかけがいのないものなのです!」
 メイドさんは身体の震えが止まらなかった。

「まったく… 貴女が平手打ちしたご令嬢はオクタヴィア様より身分が下だったからまだ良かったようなものの…」 「姫様たちの海水浴」での顛末を聞いた公爵夫人は、頭から湯気を立てた。「おまけに泳いだりして、カツラが外れたりしたらどうするつもりだったのですか? …フィオナ、貴女がついていながら…」
「伯母様、事故はあっという間の出来事だったのです…」
 ブライディーは一時間ほど前からずっと立ちつくし、うつむいたままで、延々と続く公爵夫人の小言を聞かされていた。
「…いいですか、小間使いやメイドなど、十人が溺れようと、百人が鮫に食われようと眉一つ動かしてはいけません。貴女は、ひとたびいくさが起きれば、何人の兵士が帝国に命を捧げるのか知っているのですか? 兵の一人を救うために、本陣を離れる将軍がどこにいますか?」
「申し訳ございません…」
「もうそれくらいでよろしいのではありませんか、公爵夫人」
 ふと我に返って顔を上げると、本物のオクタヴィア姫がすっくと立っていた。
「これはこれは、オクタヴィア様。しかしこのような行儀知らずな者には、しっかり言い聞かせておかないと…」
「ブライディー、貴女がしたことは正しいことで、何一つ恥じることはありません」
「な、何をおっしゃいます、姫様…」
 公爵夫人はのけぞった。
「わたくしがその場にいて、貴女と同じく水練の名人だったとしたら、同じことをしただろうと思います」
「姫様…」
 公爵夫人は卒倒しかけ、フィオナと小間使いたちがあわてて支えた。

 その晩、薄絹の御簾に囲まれた、ゆうに六畳はある寝台でなかなか寝付かれずにいたブライディーは、少し離れた控えの間で召し使いようの寝台で寝ている本物のオクタヴィア姫がごそごそと起き出すような気配で目が覚めた。
 何か尋常でない、不吉とも言える予感を感じて覗きに行こうとすると、小間使いのオリーヴに押しとどめられた。
「ブライディー様、何度申し上げたら分かって頂けるのですか? 高貴なかたは夜中に厠に行ったりすることはありません。どうか備え付けの…」
「オリーヴ、貴女オクタヴィア様の秘密を何か知っているわね?」
「そんなものはありません。つまらぬ詮索などなさいませんように…」
「おかしいではありませんか」 メイドさんは本物の姫が乗り移ったみたいに毅然として言った。「わたしのような者に替え玉を頼まなくても、大陸には貴族のかたがたの影武者を引き受ける特別な人々がいるそうではありませんか? なぜその人々に頼まないのですか? その人たちだったら、幼い頃から貴族としての素養を培われているであろうというのに? 頼めない理由があるのですか? それとも断られた、とか?」
「そ、それは…」
 小間使いがひるんだ隙にあいだをすり抜け、オクタヴィア姫の後を追った。

 星明かりに浮かび上がったオクタヴィア姫は、なんとメイドのお仕着せに身を包んでいた。厩舎へ馬を引き出しに行っている間に、ブライディーは姫がどの馬車で出かけるのかを手早く占った。結果、一頭立ての地味な馬車と出た。そこで寝間着のまま、素早くその馬車の荷台に潜り込んで幌をかぶった。
 馬を連れてきたオクタヴィア姫は、ブライディーが隠れている馬車にその馬をつなぎ、素早く馬車を出した。
(お姫さまが、夜中にたった一人で、メイドの衣装を着ていったいどこへ行こうというのかしら?)
 息を潜めて馬車に揺られていること数十分、やがて馬車は、意外と人けのある、ランプの灯りもある場所で止まった。
 メイド姿のオクタヴィア姫は馬を杭につなぐと、どこへともなく走っていった。
 ブライディーはその足音がじゅうぶん遠ざかってからそっと幌を横にずらせて顔を上げてみた。
 そこは、とある大きな屋敷の車寄せで、すでに大小数台の馬車が止められており、主人を待つ御者や馬丁たちが酒瓶を片手に下馬評を話し合っていた。
「まったく、うちのご主人様は、こんなに夜遅く、秘密の寄り合いで一体何をやってるんだろうね?」
「覗きに行こうか?」
「よせよせ、口封じにどうにかされてしまうかもしれないぜ」
 ブライディーは、別の馬車の客席に積まれてあった女物の夏コートを黙って拝借し、寝間着の上からきちんと羽織った。
 帽子も失敬してかぶった。

 パーティと同じように、正面玄関には黒の正装の執事頭が立ち、招待状を確かめていた。
 老若男女、貴族と思しき招待者は全員が仮面舞踏会でかぶる仮面で顔を隠していた。
 だから執事頭も失礼がないように慎重に確かめ、曖昧なものは仕方なくそのまま通している様子だった。メイド姿のオクタヴィア姫は自分あての招待状に「手伝いを乞われた」と書き足すなどして、すでに通用口から中に入ったらしかった。
(どうしよう? わたしは招待状は持っていないし、例え持っていたとしてもこの服装、とても入れてはもらえないわ)
 ブライディーはいくつかある通用口にそーっと回ってみたが、どの扉の前にも番人が立っていた。
(なんでこんなにものものしいのかしら? 政府転覆の陰謀? いいえ、もしもそのようなものだったら、オクタヴィア姫が荷担されるはずは… いえ、もしかしたら姫は、貴族たちの何らかの陰謀を暴くために、身の危険を顧みず、自らの貴族の特権を使って潜入されているのでは? そうだ。きっとそうに違いないわ!)
 そう思うと俄然勇気と責任感が湧いてきた。
(本来そのような危険な駆け引きは、替え玉のわたしがするべきことのはず… ここはぜひ、本来の使命通り、わたしがその任を果たし、もしも万一姫様が危地に陥られるようであれば、姫様をお逃がしして代わりに討たれないと…)
 近くにあったトネリコの木の枝を折って、(このような大きなお屋敷、鍵をかけ忘れている扉か窓はない?)
 と占った。
 枝は彼女の手のひらの中でくるくると回転し、二階のとある窓を指した。
(二階…)
 ブライディーはコートと寝間着の裾を端折って、白い脚を剥き出しにすると、靴を手に持って手近な木を登り始めた。
 二階の桟に飛び移って靴を履き、窓辺に寄ってみる。部屋には灯りはなく、誰もいない様子だったが、ものものしい警備のことを思い出して念のために占ってみた。
(誰かいる…)
 占術はそう告げていた。
 もう一度ゆっくりと、わずかな星明かりで部屋を見渡すと、使用人用の寝台の上に、両手両足をしばられ、さるぐつわを噛まされた可愛らしい少女が転がされていた。
 ブライディーはそっと駆け寄って少女の頬を叩いた。目を覚ました少女が暴れてもがいた。「助けてください」と言っている様子だった。
 いましめをほどき、さるぐつわをはずすと、彼女はブライディーの胸に飛び込んできた。
「シーッ! 一体どうされたのですか?」
「何かの儀式の生け贄にされるところだったのです」
「早くお逃げなさい! 木を伝って降りれますか?」
 少女はコックリと頷いた。
「その前に服を交換して、わたしを引っ張ったら解けるように縛ってください。貴女がいなくなったら、追っ手がかかるでしょう?」
「分かりました。有難うございます」
 ブライディーと服を交換した少女は、ブライディーを縛り始めた。
「あの… 解けるようにしておいて下さいよ…」
 さるぐつわがきつく噛まされた。
「ばーか! まだ罠だということに気が付かないの、オクタヴィア姫様?」
「えっ?」
 と叫んだ時はもう手遅れだった。新たなさるぐつわには薬がしみこませてあって、ブライディーはすぐに気が遠くなった。

 人々のざわめきで目が覚めると、ブライディーは自分が何かしら小さな祭壇の上に寝かされていることに気が付いた。そっと目を開けると、いくつもの仮面の貴顕淑女が自分のほうを見つめていた。
「皆さん、お静かに!」 聞き覚えのある声がした。「今夜こそ、必ず成功させてみせます」
(ロジャー卿…)
 ブライディーとは狩りで初めて出会ったロジャー卿が、黒いだぶたぶの衣装を着、黒い三角の目出し帽をかぶって傍らに立っていた。「本当に大丈夫なんだろうな、ロジャー卿」「また前のように無駄足を踏まされてはたまりませんわ」
 貴族たちが口々に叫ぶ。
「今度こそ病死したわが妹の霊を、肉体のある身体に永遠に降霊させてみせます。いままで失敗したのは、十分に霊力のある生け贄を用意できなかったからです」
 さるぐつわが外された。取り巻きから「えっ目」とか「アッ」とか言う叫び声が漏れた。「普通の服を着ているがオクタヴィア姫にソックリだぞ」
「姫ではないのか?」
「確かによく似ているが、姫ではありません」 ロジャー卿は唇を歪めた。「姫によく似た天涯孤独の少女です。この術が上手く行けば、皆さんも身寄りのない者を土台にして、死別した大切な人と、再び幸せに暮らすことができると思います…」

「ちょっと待ってください! それは余りなのではないでしょうか!」 ブライディーは懸命に訴えた。実験の材料にされるほうにも、夢もあればやりたいこともいっぱいあるのです」 寝ころばされたまま、参加者たちのほうを向いた。「貴族も市民も同じ人間です。つまりこれは犯罪で、ただ見学しているだけでも、もしも露見したら、悪魔崇拝の儀式に列席したのと同じくらい、家名や名誉に傷が付くと思います」
「オクタヴィア姫、とても残念ですが…」 ロジャー卿はブライディーの耳元に囁いた。
「ここに集まられている貴族や富豪のかたがたは、みんな愛する人と死別して、甦らせることに大いに興味を持たれているかたがたばかりです。多少のリスクは厭われないでしょう…」
 ブライディーは身もだえしながらも、(奇妙だわ…)と思った。
(ロジャー卿は、わたしのことを人々には「ただの少女だ」と言い含めた。てっきり替え玉の正体がバレてしまって始末されるのだと覚悟したら、わたし本人には「オクタヴィア姫」と呼びかけている。つまり彼はわたしのことをいちおう本物と見てくれているんだ…)
 そこで必死になって、写真帳に写っていたロジャー卿のことを思い出そうと試みた。
『卿には美しい妹御がおられましたが、花のつぼみの頃に病魔に冒されて亡くなられたのです』
『卿がオクタヴィア姫に惹かれておられるのは、姫に亡くなられた妹の面影があるからよ』
 公爵夫人とフィオナが口々に説明してくれたことが脳裏を駆けめぐった。
「ロジャー卿、貴男は大変な錯覚をされておられる」 ブライディーは、本物の御姫様の口調を真似て、凛とした声で囁き返した。
「わたしがいなくなれば、イギリス国じゅうが大騒ぎになって、貴男はもちろん、ここにこうして集っておられるかたがたもただではすみませんよ」
「ふふふ、そのことならご懸念ご無用です、姫様。なぜならば、姫様後見役の公爵夫人は、姫様に万一のことがあった場合、自らの責任を問われるのが怖くて、替え玉を雇ったからです。それも、全て金銭で引き受けるお定まりの影武者や替え玉の専門集団ではなくて、それこそメイドか何か、身寄りのない、足が付かない者を… だからもしもの場合はその者がこれより永遠に姫様の代役を演じる手はずになっているのです」
(なんですって!) ブライディーは驚愕した。(それじゃあ万々一の場合は、わたしは死ぬまでオクタヴィア姫のままで、もう絶対もとのメイドのブライディーには戻れない、ということ? ちょっと待って、それじゃあお兄ちゃんとの結婚はどうなるの?)
 命の危険が迫っているというのに、頭の中は他のことで埋もれていった。
「…だからご安堵して、天国に行って下さい」
 ロジャー卿は注射器に毒薬を吸い取って、空気を抜いた。
「貴女が亡くなられた後には、わが妹の霊に宿って貰わねばならないので、空気をしっかり抜いておかないと…」
「嫌です! どうしても、と言うのなら、舌を噛んで死にます!」
 ブライディーは姫様が当然国教会だったことを下敷きにして叫んだ。
「どうぞご自由に… 舌くらいぼくがこの場でつなぎ合わせてみせますよ」
 ロジャー卿が指さすテーブルの上にはキラキラ光る銀の手術道具一式の入った鞄が開かれていた。
「あの、わたし、白状します…」 袖をまくり上げられ、注射針が刺される寸前、ブライディーは、悲鳴のような声を上げた。「実はわたしがその替え玉のメイドなんです。ですから、お姫様の教養も、何もかも見せかけだけなんです。わたしなんかを降霊術の土台、生け贄にしたら、妹さんが可哀相ですよ…」「もしもそうだとしても、それはまったく関係ないから構わない」
 ロジャー卿は冷たく言い放った。「魂がソックリ入れ替わる訳だから、元の魂が卑しくさもしいものであっても問題はない」
「あの… わたし、処女じゃありません。それでもいいですか?」
 メイドさんは顔を真っ赤に染めて言った。 これにはさすがにロジャー卿もあわてた。「何だって?」
「ですからわたし…」
 卿は注射器を投げ出して、大急ぎで別の液体の飲み薬を小さなグラスに調合した。
「自白剤だ。飲め。さっき言ったことが本当だったら、飲めるだろう? 本当だったら実験は残念ながら中止だ」

「飲みます… 飲みますけれども、仮に実験台をお許し頂いても、これだけ秘密を知ってしまったのなら、どっちみちわたしという人間は抹殺されてしまうのでは?」
「なかなか察しがいいな。まあ、そういうことだ。せめての情けで始末する時は楽に死なせてやる。…さぁ飲め!」
 ブライディーは顔を背けた。見学の客たちがざわめきだした。
「おい、何をくずぐずしているんだ?」
「夜が明けてしまうぞ!」
 と、その時、客席で飲み物を配っていた仮面を付けた一人のメイドさんがすくっと立ちはだかった。
「ロジャー卿、もういい加減でやめられたらどうですか? いま止めてくださるのなら、なにもかも見なかったことにして忘れて上げます!」
 ロジャー卿の顔から血の気が引いた。
「…その声『も』オクタヴィア姫? すると、ここにいるのはやはり替え玉? またはその逆で本物を替え玉が救いに来た?」
 いましめられて転がされているブライディーも狼狽した。
(本物のオクタヴィア姫? これはえらいことですわ! もしもロジャー卿の興味が本物の姫様のほうに移ってしまったら…」
「ええい、こうなったら二人とも捕らえてやる!」
 ロジャー卿は手下たちに目配せした。手下たちはさっとメイド姿のオクタヴィア姫を取り囲んだ。姫は暖炉の上に交差してかけてあったサーベルの剣をつかんで身構えた。客たちは
「なんだこれは?」
「トラブルに巻き込まれるのはごめんだ」
「ロジャー卿、実験費用の融通話はなかったことにしてくれ」
 などと口々にわめきながら、我先に出口から逃げた。
「おのれ…」
 黒い三角の目出し帽をかなぐり捨てたロジャー卿は、手術道具の中から一番大きなメスを取り出すと、ブライディーの喉もとにあてがった。
「剣を捨てろ! 捨てないと…」
「逃げてください! わたしはどうなっても構いませんから!」
 ブライディーが叫んだ。
「ははん。これで分かった。こちらが替え玉。あちらが本物という訳だな。しかしこうなったらどの道ふたりとも見逃すわけにはいかん」
 カシャーンと床に大きな音を立ててサーベルが捨てられた。手下たちが走り寄ってメイド姿のオクタヴィア姫の仮面を剥ぎ、椅子にしばりつけた。
「おいたわしや… 何もかもわたしの不手際のせいで…」
 ブライディーはぽろぽろと泣いた。
「良いのですよ。悪は必ず滅びます」
「何をしゃらくさい! …しかし客が皆逃げてしまったな。まぁいいか、予定通り実験を行ってやる。本物の姫のほうは人質としての価値もありそうだから、まずこの替え玉のほうで…」
 事態は姫が立ち上がる前に戻ってしまった。違うのは見学客たちがいなくなってしまったことだけだ。
「さてと、とんだ邪魔が入ったが、薬を飲んでもらおう」
 メイドさんは腹をくくってグラスの中の液体を少しずつ飲んだ。予想に反してそれはとても甘かった。
(こんなことをしているあいだに、公爵夫人かフィオナ様か誰かが、二人ともいないことに気付いて探して見つけ出してくれたら…) それがかすかな一縷の望みだった。
 アルコール度の強い酒のように、次第に頭に靄がかかってきて、ボーッとし始めた。
「早速だが、おまえが初めて経験を持ったのはいつ、どこで誰とだ?」
「今年の春、パリで、お兄ちゃんのふりをしていた淫魔(インキュバス)と、夢の中で。でも実は、危ないところを助けて頂いて…」
「何だと? もしかしてそいつは絵から抜け出てきた奴か?」
 ロジャー卿の顔が見る見る朱に染まった。「そうです」
「我が親友のローレンスをやったのはおまえだったのか!」
「いいえ。ローレンスさんは、何か大切なことを話そうとして、お仲間のかたに弓矢で射られて亡くなられました」
「同じ事だ。…こうなったらすぐに息絶えてもかまうものか! いつもの倍の量の薬で試してやる」
 ブライディーの目の前に、また違う薬液の入ったグラスが差し出された。今度は水のようにまったく味がしなかったが、それは先の薬のせいだったかもしれなかった。

 ブライディーはだんだんと意識が朦朧としてきた。
「こんばんわ。わたくし、ロジャーの妹です」
 夢かうつつか、何者かが大変恐縮したような声で話しかけてきた。
 目を見開くと、自分自身やオクタヴィア姫によく似た少女が立っていた。
「妹さん? …ということは、もうこの世のかたではない?」
「ええ。天国でも地獄でもない、『黄昏の国』にいるところを、何度も呼び出されて困惑しております」
「あの…」 ブライディーはおずおずと言った。「そのことをお兄さんに申し上げられましたか?」
「それがなかなか言い出せなくて…」 ロジャー卿の妹は消え入りそうな声で言った。「兄は、再びわたくしと、ひっそりと幸せに暮らすことをとても楽しみにしています。おまけに、その術のことを少なくない人々に言いふらし、稀覯本の魔導書購入のための資金など、多額の借財をしていて、もはや引っ込みがつかない状態に陥っています」
「でも、人の命を奪うことは、罪なのでは?」
「兄の理屈では、『一人が亡くなって、すでに亡くなっていた者が一人甦るのだから、罪にはあたらない』らしいのですが…」
「それは詭弁だと思います」
「わたくしもそう思います」 ロジャー卿の妹は頷いた。「…わたくしもそうまでして、再びの命を得たいとは思いません。今宵、実験を見に来られていた貴族のかたがたの愛しい人も、みな同じ気持ちでしょう」
「なのにどうして…」
「憶測想像ですが、兄以上に、この術の完成を首を長くして待ち望んでいる人がもっとほかにいるからではないでしょうか? 兄も最初は純粋に、わたくしを甦らせることだけを考えていたのでしょうけれど、そのかたから金銭や門外不出の書物の提供を受けているうちに、やめられなくなってしまったのでは?」
 ブライディーはいままで戦ってきた奇妙な術を使う術者たちのことを振り返った。殺人狂の切り裂きジャックは別にして、特定の空間にいる限り永遠の命を与えることができたグエンドリンや、自分自身が人形の傀儡卿、淫魔(インキュバス)を呼び出せたローレンス、変幻自在のミレディに、ネス湖の怪物を操れる「名無しの男」など、全員が特異で凄い術を使った。
(あの人たちは一体何者だったのでしょう? ローレンスと友達だ、と言っているロジャー卿も一味なのかな?)
「そこで、虫の良いお願いなのですが、兄が目指す術の通り、ブライディーさん、貴女の身体…肉体をしばらく、いや、一時間でいいからわたくしにお貸し頂けないでしょうか?
 お貸し頂けたら、わたくしが全身全霊を傾けて、兄を説得してみます」
 メイドさんは真剣に考えた。(それはそうしてもらって、ロジャー卿に思いとどまってもらうのが一番よ。でも…)
「ちょっだけ待ってね」
 ヘアピンを抜き取り、手のひらの上に倒して占ってみた。
『嘘だ! 貸したら最後、二度と返してはくれない』
 占いはそう告げていた。
「あの、ごめんなさい。わたしがいまここでこうして貴女に出会って、貴女がそう言っていたと言ってみるわ」
「それでは兄は信じてはくれないと思うわ。わたくしの仕草や癖が再現されていないと… ね、ぜひお願いするわ」
 明確な根拠を示さないで断るのは大変なことだ。理由がないということは、頭から相手を疑っているに等しいからだ。
「すみません。それだけは…」
 後じさりして逃れようとすると、かかとが階段のふちのようなところにかかった。チラリと振り返ると、崖っぷちの黒い奈落が広がっていた。
「もう一度お願いします。必ずお返ししますから…」
 にじり寄ってくる相手の美しかった顔が、まるで炎に当たった蝋人形のそれのようにわずかずつ溶け出してきた。
「嫌です!」
 ついに飛びかかってきた相手をブライディーは必死に引き離し、突き落とした。
「おのれ、末代まで呪ってやる!」
 ロジャー卿の妹は肉が剥がれ落ち、骨と皮と髪の毛だけの姿になり、骨だけの手を差し伸べながら地獄に吸い込まれていった。

 眠りから覚めるように目覚め、薄目を開けると、目を血走らせ歯ぎしりするロジャー卿の姿が目の前にあった。

「なぜ断った? 妹が可哀相だとは思わなかったのか?」
 ロジャー卿は顔を真っ赤にした。
 ブライディーもまさか(わたしの能力である百発百中の占いで、裏切られることが分かったからお断りしました)などとは答えられる訳がなかった。
「そうか… おまえが占いの名人で、ローレンスのパリでの居場所などを一発で当てたブライディーなんだな?」
 図星だった。
「オクタヴィア姫に似ていたから、替え玉を引き受けた。…いや、引き受けさせられた。…その能力があれば、十分やり遂げられるであろう、と… だからここにも潜入できた。もちろんそれも予想して罠を用意していたら、見事にかかってくれたのだが」
 その通りだった。
「ローレンスたちの仇、もっとよく写真を揃えるなどして研究しておくべきだったな… まぁいい、いますぐ始末すれば同じことだ」
 再びメスがきらめいた。
「お待ちなさい!」
 椅子に縛り付けられていたはずのメイド姿のオクタヴィア姫が、縄をほどいて立ち上がり、隠し持っていた髪留めの形をした刃物を投げた。
 刃物はロジャー卿の白い手に突き刺さり、卿はメスを取り落とした。
 姫は紺色のスカートの裾をつまんで電光石火で壇上に上がると、落ちていたメスを拾ってブライディーのいましめを切り落とした。「何をしている! 相手は女二人、さっさと取り押さえろ!」
「ブライディーさん、わたしの背中に隠れていて!」
 襲いかかってくる手下たちを、姫はドイルが学んでいる柔術に似た技で背負い投げ、腰に乗せて投げたりして次々に床に叩きつけた。(お姫様がこんなことを? まさかとても信じられない! ひょっとしたら、この人も替え玉?)
 ブライディーがあっけにとられているあいだにメイド姿のオクタヴィア姫は、フリルの付いた純白のエプロンドレスを翻らせて、ナイフを振りかざして迫ってきたロジャー卿から凶器をもぎ取り、腕をねじり上げた。
「痛い… おまえが姫なんかのはずがない! やっぱりおまえが、その替え玉のメイドで、背中にかばっているほうがオクタヴィア姫だったんだな?」
「お好きなように想像してください」
 メイド姿の姫は、さらに腕を締め上げた。ボキリと鈍い音を立て折れ、悲鳴が響いた。「…ロンドンの、夜の闇に巣食って邪悪な意思を引き継ごうとする者は、このわたし、英国心霊協会住み込みメイドのブライディーが許さないわよ!」
 メイド姿のオクタヴィア姫は片足を踏み出し、スカートの裾をまくりあげ、ペチコートとドロワースをチラリと見せて大見得を切った。
 騒ぎを聞きつけてか、遅れ馳せながら警察の馬車が到着し、警官たちが蜘蛛の子を散らすように逃げまどう手下を捕縛した。が、何人かの雑魚は取り逃がした。ロジャー卿は逮捕された。
(これでやっと、少しでも相手の正体が分かるかもしれないわ)
 ブライディーはホッと肩を撫で下ろしたが、災難はこれで終わった訳ではなかった。
 メイド姿のオクタヴィア姫がツカツカと歩み寄ってきて、ブライディーにこう耳打ちした。
「さぁ、早くドレスを交換してください。『大立ち回りの末、オクタヴィア姫を助けたのは貴女、メイドのブライディー』『助けられたのはわたし、オクタヴィア姫』ですからね。上手に口裏を合わせてくださいよ」
「ええっ!」
 ブライディーは仰天した。
「でも、わたしはあのような格闘技はできません!」
「あれは『サンボー』と言うロシアの格闘術です。…今度暇なときに、ドイル様に日本の柔術を習っておくといいでしょう」
「そんな… そんなふうに発表したら、またわたくしのほうに敵が群がってきます…」
「それが替え玉本来の役目でしょう?」
 オクタヴィア姫は穏やかに言った。
(わたしなら、仮に敵をやっつけたとしても、絶対にあんな見得なんか切らないわ…)
 メイドのお仕着せ姿に戻ったブライディーはそう思ったものの、お姫様相手にとてもそんなことは言えなかった。

「ブライディーさん大変よくやってくださいました」 数日後、英国心霊研究協会を訪れた公爵夫人は、ハンケチ片手に泣きながらブライディーのエプロンドレスに飛び込んできた。「…オクタヴィア姫様の絶体絶命の危機を、間一髪のところでお助け頂いて…」
「ブライディー、貴女は護身術もできたのね」 フィオナは珍しく輝く畏敬のまなざしでメイドさんを見つめていた。「…できることを黙っているなんて、奥ゆかしいと言えば奥ゆかしいけれど、人が悪いと言えば人が悪いですわ」
 もうこうなってしまったらいよいよ『潜入して捕まって生け贄にされかけていたのはわたしで、助けて下さったのはメイド姿のオクタヴィア姫のほうなんです』などとはとても言い出せなかった。
「オクタヴィア姫には、後見役のわたくしどもからきつくきつく叱っておきました」
「はい。…ところで、オクタヴィア姫さまは、どうして深夜に、あのような場所にお出かけあそばされていたのですか?」
 メイドさんはおずおずと訊ねた。
「それは、わたくしのほうから説明いたしましょう」 フィオナが小さな花柄の手帳を開いた。

「…イギリス、特にここロンドン一円で、身分の上下をとわず大流行の降霊会や、心霊研究ですが、そのほとんどは金銭的利益が目的のインチキであることは、ドイル様をはじめ英国心霊研究協会の皆様の日頃のご活躍から明かだろうと思います。
 特に貴族や郷紳、お金持ちの人々には、連日のように、貴族名鑑や紳士録などを見て、有名無名の降霊会への招待状が送りつけられます。多くは封を開かれることもなくごみ箱に捨てられますけれど、中には開いて読む人もいるのです。特に、差出人がロジャー卿のような地位も名誉もあるおかたでしたら。
 手紙にはだいたい次のようなことが書いてあります。
『降霊会へのご招待。近年、病気で亡くなったわたくしの妹の降霊の儀式を行います。しかしそれは、霊媒の口づてによる会話だけではありません。契約と同意を得た、妹ソックリの女優の卵に、妹の霊を降ろすのです。この実験が成功すれば、今後よりリアルな降霊が実現することでしょう』
 当然、興味を持った人々が集まります。
 何度か会を繰り返した後、秘密が守れそうで、資金の寄付をしてくれそうな人を見定めて、『実験台に、永遠に魂を降ろしてみせます』という招待状を送るのです」

「その一つが、あの夜の集いで、招待状がオクタヴィア姫の元にも送られてきたのですね?」
 ブライディーは頷いた。
「…オクタヴィア姫もご幼少の頃に父上と母上を亡くされています。だから、手紙で指定してあったように、お一人お忍びで。…その後はブライディー、貴女の知る通りです。逆に己の欲望を満たすためにオクタヴィア姫を呼び出そうとしていたロジャー卿は、さぞかし『しめしめ』と思ったことでしょう」
「まったくブライディー、貴女が機転を利かして馬車の荷台に潜り込まなければ取り返しの付かないことになるところでした。繰り返し感謝申し上げますよ」
 公爵夫人はメイドさんの両手を取って握りしめた。
「いえ、そんな。…ところで、ロジャー卿は留置場で洗いざらい白状したのでしょうか?」
「それはぼくのほうから答えよう」
 ドイルがパイプをふかしながら入ってきた。「…警察はロジャー卿をぎゅうぎゅうと取り調べたのだが、彼が喋った資金や資料提供者は、みんな架空の人物だったらしい。つまり、糸はそこでプッツリ、ということだ。パリのローレンスと知り合いだったことも言っていたが、承知の通り彼もすでに亡くなっているし…」
「すると全てはロジャー卿一人の仕業、ということになってしまいそうなのですね?」
「心配しなくても、やつは当分鉄格子の中だろう。…ああ、それから新聞の取材は全部丁重に断っておいてあげたからね。」
 ドイルもやはり不満顔だった。
「有難うございます」
 メイドさんはペコリと頭を下げた。
「でもカッコよかったんだよね、お姉ちゃん」
『メイドさん大活躍、人体実験降霊術主宰の貴族をやっつけ、お姫様を救い出す』といった派手な見だしの新聞を片手に、紅茶茶碗を下げに来たデイジーが言った。
「本当に素晴らしいですわ。こんどあたしにも簡単な護身術を教えて下さいね」
 ポピーも顔を輝かせた。ただ、ブライデーが格闘術なんかできないことを知っているドイルだけが、顔を曇らせていた。

「お姉ちゃん、お姉ちゃんにお手紙が来ているよ。オクタヴィア姫様からだよ」
 玄関を掃除しに行ったデイジーが、ホウキを手にしたまま戻ってきた。
「…あの時のお礼状かな? 別にお礼の品物か何かが送られてくるのかな?」
 呑気そうなデイジーの間延びした声とは裏腹に、ブライディーの心は嵐の海のように波立ち始めた。レター・オープナーで封を切るときに危うく指を切りかけた。
 手紙はとてもお姫さまのものとは思えない、えらくそっけないものだった。

『親愛なるブライディーさん、
 先日はいろいろお世話になり、有難うございました。
 つきましては、七月…日の夜、英国心霊協会をお暇頂いて、また一晩わたくしの替え玉をお願いできませんでしょうか? 寝所で寝ているだけで結構です。
 お願いしますね。  かしこ』

 ブライディーはピーンときた。
(オクタヴィア姫様ったら、また「メイドのブライディー」になりすまして、大立ち回りをなさるつもりなんだわ。そもそも姫様が身代わりを求められるのは、ご自分が狙われているというのは二の次で、夜分、自由に街を徘徊なさりたいからじゃない? だから、身代わり専門のプロ集団に頼まずに、わざわざわたくしのような素人に頼まれたんじゃない? いい加減に止めさせなければ、今度こそ返り討ちにされてしまうわ)

「ねぇねぇ、お姉ちゃん、何て書いてあったの? 招待状か何か入っていなかった?」
 背伸びして覗き込もうとするデイジーを無視して、思わず手紙を握り締め、その手をわななかせた。

 その夜は蒸し暑い、夜空に薄く靄がかかった重苦しい宵だった。
(この前は、不覚にも気づかれないうちに馬車の荷台に隠れられたみたいだった。今度はそんなことがないようにしなければ…)
 メイドのお仕着せに着替えたオクタヴィア姫は、日本の柔術や、中国の空手について図版入りで解説した独習書を立派なマホガニーの本棚の分かりにくいところに隠すと、二度三度、型を姿見に映してみた。
(今夜は後をつけられないように気をつけるわ)
 馬車に馬をつなぐ時も、出発する時も何度も確認し、尾行されていないか後ろを振り返った。しかしオクタヴィア姫は誰からも、たとえばフィオナからも聞かされてはいなかった。ブライディーは、素晴らしい占いの能力を持っていることを。

(お姫様、今夜はどこへ行こうとなさっているのかしら?)
 蝋燭の明かりの下、ロンドンの地図を広げたブライディーは、本格的にコックリさんの三脚を組み、小さく薄く丸い板の盆を乗せて占いを始めた。
 しばらくすると、風はほとんどないのにもかかわらず、三脚に乗せた盆がかすかに震え始めた。震えはだんだんと大きくなり、三脚はまるで三本足の生き物のように少しずつ地図の上を移動し始めた。
(頼むわよ。これが当たらなくて、オクタヴィア姫様に万一のことがあったら、大変なことになるのよ!)
 やがて、ラップのようにテーブル全体がカタカタと動き始め、コックリさんの動きも激しくなった。
(どこか、教えて!)
 ブライディーが強く念じると、三本の棒のうち、印をつけた一本が地図上のとある場所を、あたかも指さすような仕草を見せて、すべてがピタリと止まった。
(バッキンガム宮殿!)
 メイドさんは息を呑んだ。
(どうしよう? 広すぎてとても宮殿のどのあたりか絞り込めないわ)
 無論、宮殿全体の見取り図など、よほどの地位の者しか所持していない絶対の機密だ。
(仕方ないわ。こうなったら…)
 お姫様のドレスの上からマントと頭巾をすっぽりとかぶったブライディーは、ダウジングの棒を懐に忍ばせて、自ら小さな一頭立ての馬車を御して宮殿へと急いだ。
(この前もこれでひどい目に遭ったのだけれど)
 そう考えつつ占術を続け様に使った。
(宮殿の鉄柵が、錆び付くか、別の悪い人に切れ込みを入れられるなどして、外れるようになっているところはどこ?)
 天下のバッキンガム宮殿。そんなところはないかも…と思いながらダウジングの棒に願うと、果たせるかな、棒はクルクルと回ってから鉄柵のとある一角を指した。

 人通りが途絶えたのを見透かして、鉄柵の棒を両手でぐらぐらと揺らしてみると、果たせるかな、たまたま両端の付け根がひどく錆びて腐っていてポキリと外れた。
「ご、ごめんなさい…」
 一人でそうつぶやきながら中に入り、壊した棒を一見元通りに見えるように立てかけると、緊張した表情で外に面した庭の小径を歩き始めた。
 その夜は、夏場には珍しく夜会が開かれていた。南仏や海岸沿いの避暑地にバカンスに出かけない、いわば「実務派バリバリ」の貴族たちや、フィオナのように大学進学などを目指している貴族の娘たち、それに「居残り組み」と称して抜け駆けの社交商談を試みる郷紳たちが、外国から大勢の招待客を招いて、さかんにインドや南アフリカなんかの世界情勢について語り合っていた。
 楽団がセレナーデを演奏し、大勢着飾った男女がそれに合わせて踊っている。カクテルやオードブルを乗せた銀の盆を持ったボーイやメイドたちがこまねずみのように、走り回っていた。
(オクタヴィア姫さま、メイドの恰好で一体どこへ行ってしまわれたのかしら? 宮殿のメイドなんて、掃いて捨てるくらいいるから、もう一度真剣に占わない限り、とても見つけ出せないわ)
 何かよく分からない、きれいな色のリキュールの入ったグラスを手にしたブライディーが、隅っこのほうの小さなテーブルに一人ぼつんと座っていると、ちょっとだけ「お兄ちゃん」に似た田舎の貴族の三男坊か四男坊と思しき青年が手を差し伸べてきた。
「踊って頂けますか?」
(そら来た! どうしよう?)
 ブライディーは息が詰まりそうになった。
 それはもちろん、フィオナを男役に見立てて繰り返し入念に練習はした。しかし、実際のお相手と踊るのは初めてだった。
『お姉ちゃん、何をビビっているのよ? アイルランドのフォークダンスと同じじゃない?』
 もしもこの場にデイジーがいたら、鼻をとがらせてそう言いそうだった。
「そうよ。フォークダンスと一緒じゃない」 腹をくくって、懸命に覚えたステップを思い出しながら、相手のリードに合わせてくるくると身軽に踊った。
「次はぼくとお願いします」
「その次はどうかぼくと」
 お相手は次から次へと現れ…それはそうだそうだろう。ブライディーはオクタヴィア姫に扮していたのだから…尽きることはなかった。
(どうしよう? みんなのお相手をしていたら、一体何のためにここに忍び込んできたのか分からないわ)
「すいません。ちょっとお化粧をなおしてきます」
 順番を待って長蛇の列を作っていた男たちのガッカリした顔といったらなかった。

 華やかなパーティの会場とは裏腹に、宮殿の黴臭い図書館のうちの「貸出はもちろん閲覧も禁止」の小さな書庫では、地味な灰色のドレスのフィオナ・ウォーターフォード男爵令嬢が、いくつもの鍵を使って開けられた本箱の、革張り金の背文字の蔵書群と、目録とを照らし合わせていた。
 フィオナは時々長く手を休めたり、小さく首をかしげたりして作業は遅々として進まなかった。
「これは、下手をすると幾晩か徹夜になってしまいそうですわね。いや、単に何日か徹夜してそれで片づくのならそれでよいのですけれど」
 そんな独り言を呟きながら、およそ誰も読むことが出来ないであろう判じ物のような文字で書かれた書物や、何百年何千年も前に滅び去った国の本を並べかえていた。
「ええっと、『死霊秘法』も『ナコト写本』も『屍食教典儀』も、もうすでに全部ここより、より警備が厳重な大英博物館の禁書庫に移されたのよね。一安心だわ。…そう言えば、ソーホーに新しくできたアラビア語の本屋さんのサダルメリク君。彼も姓は『アルハザード』と言っていたけれど、まさかね。きっとアラビアのほうではよくある姓なのでしょうね。そんなことより…」
 フィオナの手がまた止まった。
「えーっと、『完徳者の書・写本』、記録にある最後の閲覧者は大法官トマス・モア卿、一五二十何年?」
(この本、誰かは知らないけれど、つい最近読まれた形跡があるわ。ご丁寧に埃なんかふきかけてあるけれど… 一体だれが?)
(『英国における魔女裁判の記録集』…これもだわ)
 フィオナは心を静めて、ゆっくりと『完徳者の書』を開いてみた。羊皮紙に手書きの写本は、不思議な力で最後に開かれていた頁が再び開かれた。
 その見だしには、流麗な筆跡のラテン語でこう書かれていた。
『死者の霊魂を生者の肉体に召還する法』

(これって、逮捕されたロジャー卿が研究していた禁呪じゃない? でも、ロジャー卿にはここにある本を自由に閲覧する権利はなかったはず… 誰かがこっそりと写本して見せたか、それとも読んで口伝えで伝えたのか… とにかく、宮殿の中にそういうものに通暁した者がいたって不思議ではないわ」
 フィオナは密かにそういうことに興味を持ち、学んでいそうな人物を脳裏に描いた。
「フィオナ、なかなかはかどらないようですね」
 聞き馴染みのある声に振り返ると、夜会を抜け出した公爵夫人が、いかめしい古い鍵束を持って立っていた。
「…どうですフィオナ、貴女もお喋りをしたり踊ったりしたいでしょう? 代わってあげましょうか?」
「いいえ伯母様、わたくしは賑やかなところよりもここのほうがずっと好きですわ」
「そうですか、だったらよいのですけれど、あまり根を詰めると身体に触りますよ」
 公爵夫人は眉を曇らせた。
「わかりました。今夜は早くしまわせて頂きますわ」
「そうしなさい。別に本は逃げては行きませんから」

 真夜中を告げる荘厳なビッグベンの鐘の音が、ややよどんだ空気に響き渡った。バッキンガム宮殿のパーティの客たちも、それぞれの馬車で三々五々家路についた。後には厖大な後かたづけをするボーイやメイドたちがこまねずみのようにグラスや皿を下げ、テーブルクロスをめくり、絨毯の床にホウキをかけた。

「フィオナ、まだやっているのですか?」
 再びの公爵夫人の声に、フィオナは思わず掛けていた眼鏡をはずして隠した。
「ああ、伯母様、すみません」
「あまり度が過ぎると目を悪くして眼鏡をかけなければならないようになりますよ」
「ええ、気をつけますわ」
「ここももう鍵を下ろそうと思いますから、今夜はここまでにして貴女も寝なさい」
「はい… 伯母様」
 フィオナがしぶしぶ席を立ち、蝋燭を吹き消して廊下に出ると、公爵夫人はガシャリと真鍮の鍵を掛けた。

 女官たちの部屋の一番奥の来客用の寝室で寝間着に着替え、寝台に潜り込んだフィオナは、読みかけの「失われた言語」に関する本を開こうとして、はたと気が付いた。
(眼鏡を、禁書庫の机の上に忘れてきた…)
 傍らの天使の置き時計に目をやると、二十五時を回っていた。
(諦めて寝ようか)とも考えたが、妙に心が騒いで、仕方なく起きあがり、同じ並びにある公爵夫人の部屋の扉をノックした。
「伯母様、夜分恐れ入ります…」
 扉に向かって囁いていると、たまたま通りがかった、両目の下に隈を作った女官の一人があくびをかみ殺しながら言った。
「公爵夫人なら、さっき書庫に通じる廊下ですれ違ったわよ」
「有難うございます」
 フィオナは寝間着のまま書庫へと急いだ。 廊下の角を曲がると、果たせるかな、「禁貸出・閲覧は許可制」の書庫から、ぼんやりと黄色く蝋燭の明かりが漏れていた。
(伯母様? でもどうして? 伯母様だったら、昼間いくらでも出入りができるのに…) 恐る恐る近づいてそーっと扉の隙間から覗いて見ると、公爵夫人が憑かれたようにノートにペンを走らせていた。写している本にも見覚えがあった。
「完徳者の書」
 一瞬、一体どうしたらよいかが分からなくなって、無意識に一歩退いた時にかかとが寝間着の裾にひっかかり、派手に尻餅をついた。
「誰ですか?」
 素早く立ち上がった公爵夫人が扉を開け放った。
「フィオナ、貴女でしたか」
「すいません。眼鏡を忘れまして」
 公爵夫人は机の上の隅から婦人用の黒縁の眼鏡を取ると、フィオナに渡してやった。
「有難うございます。失礼致しました」
「お待ちなさい!」
 立ち去り掛けた足下が、まるで金縛りにあったようにピタリと動けなくなった。
「見ましたね?」
「いえ、特に何も…」
 フィオナは振り返らないままに答えた。
「黙っていて、それから協力してくれるのなら、これまで通りに致しましょう」
「一体何の話ですか、伯母様?」
 フィオナはまだ背中を向けたままで答えた。

「何を遠慮しているのですか。この部屋にいた時間はわたくしなどより貴女のほうがずっと長いでしょう?」
 公爵夫人は本と大学ノートを閉じ、立ち上がって招いた。
「伯母様、わたくしたちは、この書庫の整理と片付けと目録作りを任されているだけです」 フィオナは勧められた椅子に座ろうともせず、顔をやや朱に染めて言った。「いくら伯母様とは言え、勝手に読んでいいはずがありません。ましてや写本をするなど…」
「フィオナ、まぁお座りなさい。貴女はまだ若く、青春の真っ盛りで、いまから言うようなことは毛の先ほども思わないかもしれないでしょうが、わたくしのように、すでに人生の晩年にさしかかった者にとっては、『いつまでも元気で長生きをしたい』『もし出来得るのならば、百年、千年の時を越えて生き、世の移ろいゆく様を確かめ、もっともっといろんな、ありとあらゆることを楽しみたい』と思うようになるものです。
 例えばわたくしは、貴女の父上とともに貴女の花嫁姿を見たい。貴女が産んだ赤ん坊を抱いてみたい…
 しかし、人には定められた寿命というものがあり、それに逆らうことは神に逆らうに等しいこととされています」
 フィオナは固唾を呑んだ。
「古来より、天才と呼ばれる魔導師や錬金術師など、多くの者が試み、その一部は近づくことができたという『不老不死』それを追い求めることは、果たして悪いことでしょうか?」
「しかし、伯母様…」
「才媛の貴女なら分かっていることでしょう。真理への到達には、数え切れない試行錯誤や失敗が避けられないということを。研究や実験のためには、莫大な金銭以外のものも必要になってくるということを。
 フィオナ、貴女はたくさんの国の言葉や、滅びた文明の文字を読み書きすることができます。すでに、わたしたちの集まりの仲間になる資格を持っています」
「『集まり』? 何と言う名前の集まりですか?」
 訊ねる声がかすかに震えだした。
「名前はありません。貴女が出入りしている『英国心霊研究協会』などのように、会長や副会長がいて、名前や住所を登録して会費を納めるような会ではないのです。…そう、強いて言えば『無名の会』、『無貌の神を崇める無名の会』でしょうか。来る者は拒まず、去る者は追わず、どこの誰と誰が会員であることも分からず、けれども、この地上におけるいかなる集団よりも古い歴史を誇る集まりです。ムー大陸を一夜にして沈めた魔導師サントゥー、『炎の洞窟』の祭司ナシュトとカマン・ター、古代ペルシアのマギたちやユダヤの小預言者たち、わが国キャメロットのマーリン、千年前のローマ法王にして魔術師のシルヴェスター猊下、大陸の希代の錬金術師パラケラスス、アラビアのアルハザード、彼らがそれぞれ横のつながりがあったかなかったかは分かりませんが、『本』を通じてのつながりはあっただろうと思います」
「『ここ』や大英博物館にある禁書を通じて、ですね…」
 フィオナは書庫の天井まで棚をずらりと埋め尽くした黴臭い書物を眺め渡して言った。「悲しいかな、わたくしには貴女のような、並はずれた語学力もなければ、ましてやもちろん大した魔力もありません。しかし、そんなわたしでも、ほんの時折、若かった頃の健康や美貌を保ったまま、自分が『もういい』と思うまで長生きをしてみたい、と思うことがあるのです」 公爵夫人は溜息をついた。
(もしや、ロジャー卿に資料の写しを渡していたのは伯母様では?)
 当然疑ったけれども、とても口に出しては言えなかった。
「フィオナ、返事はすぐでなくても構いません。女子大生になってから、十年後、二十年後、あるいはもっと年老いてからでもよいのです。規約も会則も、会長も何もない会の仲間になりませんか?」
「お言葉に甘えて、考えさせて下さい」
「いくらでも考えてもらって構いません。ただし、もしも貴女が結婚して子供をもうけて、その愛しい子供たちが不治の病におかされてから慌てても、それは知りませんよ。どんな物事でも準備は周到でないと…」
「分かりました。では、今夜はこれで…」
 フィオナは一礼して引き下がった。
 長く薄暗い廊下を戻る途中、向こうからやって来る人影を見つけてギクリとした。歩幅が小さくなり、身体は壁側にそれた。
 人影は宮殿のメイドのお仕着せを着ていた。
(よかった、メイドなら伯母様を見かけてもとても咎めたりできないでしょう)
 しかし、そのメイドには見覚えがあった。
「ブライディー!」
「こんばんわ、フィオナ様。どうしたんですか、そんなに驚かれた顔をされて?」
 フィオナは気が付いた。目の前にいるのはブライディーではなく、オクタヴィア姫のほうだということを。
「ブライディー、貴女こそ、どうしてこんなところに?」
「決まっているじゃないですか。捕らえに行くのですよ。淫祠邪教の徒を、ね」
 メイドさんは背筋を伸ばして言った。

「ちょっと待ってください。『淫祠邪教の徒』とは、誰のことですか?」
「いま禁書庫で、自らの特権を利用して、悪魔の書の写本をしているであろうかたですよ」
「一介のメイドに過ぎない貴女に、そのような権限はないでしょう? そういう疑いをお持ちなら、衛兵隊を通してまず調べて頂くのが筋合いでは?」
 フィオナは偽メイドの前に立ちはだかった。
「そのようなまだるっこしいことをしていては、逃げられてしまって、後には証拠も何も残っていないでしょう」
 偽メイドはフィオナを振り払って通り抜けようとした。
「貴女、メイドのブライディーじゃなくて、オクタヴィア姫様のほうでしょ? 『おいた』が過ぎましてよ! わたしたち後見が身代わりを雇って差し上げたのは、こんなことをさせるためではありませんでしてよ」
「何をおっしゃいますフィオナ様。わたくしは、かつて貴女に雇われていて、いまは『英国心霊協会』のドイル様たちのところでお世話になっているブライディーです。ドイル様たちのご支持も得て、この世に仇を成すインチキな自称魔術師を捕らえに回っているのです」 偽メイドの姫様は、隠し持っていた取縄を取りだして言い張った。「…相手がいかに高い身分であろうと関係はなく、容赦もしません」
(なるほど…)フィオナは合点した。(姫様のままだと、幼少の頃より世話になってきた伯母様に縄をかけることなどは気が引ける。だから「メイドのブライディーが『白い正義』をふりかざす」体にしておきたいのですね…)「いいでしょう」 しばし息を整えてから言った。「しかし貴女にできるでしょうか? 公爵夫人…伯母様は、このあいだ貴女が捕らえたロジャー卿なんかより遙かに手強いですよ」
「そんなこけ脅しに誰が引き下がりますか。この先の部屋にいるのは、年老いて死ぬことを恐れているだけの、ただの年寄りです」
「ではご自由にどうぞ。一通りの忠告はしました。いかなることになってもわたくしは一切関知しません。例え明朝、ロンドンの場末でメイドの死体が発見されても哀れみもしません」
「フィオナ様、もしかして貴女もすでに公爵夫人たちの共鳴者ですか?」 取縄を手にしたままつかつかと歩み寄ってきた。「…ならば、残念なことですが、まず貴女も捕らえておかなければなりません」
「お待ちなさい」 うしろから、しゃがれた声がした。偽メイドが振り返ると、背筋をピンと伸ばした公爵夫人が立っていた。「貴女、何か勘違いをしていませんか? メイドの分際で、フィオナやこのわたくしを捕らえるですって?」
「ええ。女王陛下のものである宮殿の貸出閲覧禁止書庫の書物を勝手に写本し、仲間に渡すことは重罪ですわ」
「ホホホ…」 公爵夫人は皺だらけの手を口元に当てた。「貴女も若いですね。…いいでしょう。せっかくメイドからオクタヴィア姫様の替え玉まで抜擢してあげたのです。ついでにさらに引き揚げてあげましょう」
(伯母様はメイドがブライディーではなくて、メイド姿の姫様であることを承知の上で誘っていらっしゃる…) フィオナはさらに(この駆け引き、とても勝負にはならない)と思った。(ロジャー卿と公爵夫人では格が違う)とも。
「…メイドさん。どうです。この際貴女も、いつか年老いて病を得て亡くなることを念頭に置いて、わたくしたちの集まりに加わっておきませんか?」
「買収だったらお断りします」 偽メイドの姫様はキッパリと言った。「生楽病死は神様の定め。それに逆らうことは、神に逆らう悪魔の所業です」
「ホホホ… 何をおっしゃいますやら。神は科学を認めています。あと数年もしないうちに電灯が輝き、自動車が走り、遠く離れたところの人と電話で話すことができるようになるでしょう。さらに飛行船に代わって飛行機が空を飛び、動く写真が人々の娯楽になり、蓄音機で音楽が聴けるようになるでしょう。
 労咳の治療薬ができ、さらに例えば亡くなった人や生きた肉親などから健康な臓器を頂き、あるいは臓器に代わる機械を埋め込んで、不治の病の人がさらなる寿命を得ることも、絵空事ではないかと考えますが…」
「そのようなことが…」
 偽のメイドさんはたじろいだ。
「悪いことはいいません。時代の流れ、科学の進歩に逆らうのは愚か者です。たとえそれが論理に準じていない、いわゆる宗教や魔法のようなものであっても同じことでしょう。
 科学者の閃きは、いわば魔法のようなものです。どうです。お互い今夜のことはなかったことにしませんか。貴女はいま持っている以上の素晴らしいものを得ることが出来ると確約してあげます」
 公爵夫人はいつものようにヘラのごとく、鶏ガラのようなメイドの前に立ち塞がった。

「お断りします」 メイド姿の姫様はまなじりを吊り上げた。「貴女たちお二人を、宮殿の書庫の禁書を盗み読んだ横領と反逆の疑いで捕らえさせて頂きます」
 巻いた取縄を手にツカツカと歩み寄った。
「ホホホ… 愚かな。わたくしが単なる趣味や暇つぶし、他の人へのボランティアのために、毎晩遅くまで本を写していたとお思いですか?」
 公爵夫人は自らの両の瞳を猫のように巴旦杏の形に絞ると、メイド姿の姫様はいともあっけなく、膝を折るようにしてパタンと床に倒れてすやすやと寝息を立て始めた。
「素晴らしいですわ。伯母様」 フィオナは思わず感嘆の声を上げた。「…しかし、どうすればよいのでしょう? 目が覚めたら騒ぎ出すことは必定でしょうし…」
「本当に、薄っぺらく安っぽい正義を振りかざす人が後を絶たないのには辟易しますね」
 公爵夫人とフィオナはそれぞれ、メイド姿の姫様の両手と両足を持ってソファーに寝かせた。
「そうですね。しかしあまりなことをすると、わたくしたちの寝覚めも悪くなるので、ここは穏便に『今夜の記憶を消す』くらいに留めておきましょうか?」
「ええ、わたくしもそれが最善かと…」
「問題は、わたくしはその術を一度もかけたことがないことです」
 公爵夫人は目の前の禁書のページをめくりつつ重々しく言った。
 フィオナはかなり不安になってきた。
(もしや、わたくしたちは『悪役』になりつつあるのではないかしら?)と…
「まあ、とりあえずやってみましょう」
 公爵夫人はノートのとあるページを開いて、偽メイドさんの前に立って、たどたどしい口調で、何百年も前に滅びた国の呪文を唱えた。
「大丈夫ですか、伯母様? わたくしが代わりに唱えてみましょうか?」
 フィオナが横合いから囁いた。
「大丈夫です。これはオクタヴィア姫のことを心底心配してすることなのです。身内のようなわたくしたちが相手ならともかく、縁もゆかりもない恐ろしい魔導師が相手なら、何をされるか、それこそ命を奪われるか、怪物の姿に変えられてしまうかもしれません」
 フィオナは伯母の言葉に頷き、発音が分からなくて詰まったところでは代わりに読み上げてやった。呪文があるところにさしかかると、メイドにみをやつしたお姫様はバッと両目を大きく見開き、公爵夫人とフィオナを見つめ返した。
「あら大変! あたし、こんなところで一体何をしていたのかしら?」 オクタヴィアがガバッと起きあがったので、二人は思わず身を引いた。「お掃除をしなくっちゃ! お皿を片付けなくちゃ! 戸締まりの確認は? もうすぐ夜が明けてしまうわ!」
 公爵夫人とフィオナは共に顔を青ざめさせた。
「伯母様、何か様子が変なような…」
「そ、そうですね…」

「これは公爵夫人、フィオナ様、大変失礼致しました」
 メイド姿の姫様はペコリと深く頭を下げると、そそくさと引き下がった。
「よいのですか、伯母様、姫様をメイドにしておいたままで?」
 フィオナは無意識のうちに開かれたままだった禁書を閉じて本棚の定められたところに戻し、写本も鞄にしまった。
「よくないとは思いますが…」 公爵夫人も狼狽の色を隠せなかった。「どうすればよいのでしょう?」

 同じ頃、化粧室に引きこもったまま、じっとパーティがお開きになって、後かたづけも済んで、使用人たちもそれぞれの寝所に下がるのを待っていた「お姫様姿のブライディー」は、完全に人の気配がなくなるのを確認してから、そーっと出てきた。
(さぁて、今度こそわたしが、お姫様を捜し出して、危ないことは絶対にやめさせなくては…)
 ドレスの胸元から携帯用のダウジングの棒を取り出すと、手早く占った。
 真夜中の、ガランとした広い立派な廊下を小走りに走って別のやや質素な棟にさしかかると、当然のように夜番の門番衛兵が立っていた。
「おや、貴女は?」
「オクタヴィアです。この先にちょっと用事が…」
「『用事』って、この先は『下働き』のメイドたちの寮ですよ」 衛兵は目を丸くした。「もしも『その他大勢の』メイドの誰かに用があられるのなら、姫様ともあろうおかたなら、たとえ真夜中だろう何だろうと呼びつけられればよいのでは?」
「ほほほ、そうですね…」
「ブライディー姫」は笑ってごまかした。

(困ったわ。オクタヴィア姫、わたしに身代わりを頼んで勇躍邪宗退治に行ったのはいいけれど、間が悪かったのか、成り行きなのか… それだったらお屋敷に戻ってくればよいものを、どうして『臨時雇いのメイド』の寮なんかに?)
 ブライディー「姫」は頭を抱えたものの、さすがに「心配が的中して返り討ちにされた事情」まで占うことはできなかった。
(でも早く連れ戻さなければ、わたしが「いつものメイドのブライディー」に戻れないじゃない! 下手をすると、明日あさって、これから当分ずっと「オクタヴィア姫」としてのご公務を勤めなければならないかも…)
 気持ちは焦りに焦るものの、どうしようもなく、しかるべき馬車を一台と御者を二人雇って未明に屋敷に戻り、自分がこっそりと御してきた馬車も屋敷に戻させた。

「伯母様、どうしましょう?」 フィオナと公爵夫人は結局しらじらと夜が明けてくるまで一睡もせずに策を練っていた。「…情報によると『メイドのオクタヴィア様』は、ほかの下働きのメイドたちにまじって、カーテンを開けて回ったり、掃除をしたり、朝食の準備をしているようです。もしかして、このままずっと一メイドで過ごされるおつもりなのかしら?」
「もうそれだったらそれでもかまわないのですが…」 公爵夫人は冷たく言い放った。「…こちらにはブライディーがいます。あの子だったらきっと喜んで、終生『オクタヴィア姫』の役どころを演じつづけてくれるでしょう。メイドなんかに比べると、貴族の生活はずっと楽で華やかで楽しいはずでしょうから」
「果たしてブライディーが首を縦に振るでしょうか伯母様?」 フィオナは首をかしげた。「ブライディーにはブライディーの生活があります。『お兄ちゃん』と称する恋人もおれば、ドイル様たちにもなついています」
「フィオナ、貴女はまったく分かっていませんね。まぁ、貴女やわたくしのような生まれついての貴族には分からなくて当然でしょうけれど、毎日朝から晩まであくせく働いていた市民が、いったん貴族の生活の味を覚えると、二度と元の暮らしには戻りたくはなくなるそうですよ」
「それだったらよいのですけれど。…しかし伯母様の術は失敗だったのですね」
 公爵夫人は咳払いをした。
「まぁいいではありませんか。結果は違えど目的は達せられたのですから」

 その日も、翌日も、翌々日もブライディーはオクタヴィア姫としてのスケジュールをこなした。地方からロンドンにやってきた遠い親戚との会談。競馬見物に観劇、音楽会に夜会、乗馬にテニス、孤児院や病院への慰問訪問。各種書類への署名。サインもなかなか堂に入ってきた。
「あの、そろそろメイドに戻りたいのですが、いけませんか?」
「貴女にはもう少し身代わりを勤めていただきます」 公爵夫人は抑揚のない声で言った。「…姫様を狙っている者がいるという、信頼できる情報がもたらされているのです」
(それは嘘でしょう。オクタヴィア姫はメイドになったまま元に戻れなくなってしまったのでは?)
 言い返したいのを懸命にこらえた。
(その程度のことだったら、元に戻してくれる術者はいるでしょうけれど、頼むについては事情を話さなければならないし、秘密を知る人がさらに増えるし… それにしてもオクタヴィア姫さまは、一体どこの誰にそんな奇妙な術をかけられたのかしら? 占ってみようかしら?)
 しかし、「ブライディー姫」はあれこれと忙しく、とてもそこまでしている余裕はなかった。

 幾晩目かの夜、今日もくたくたに疲れて足下もおぼつかなくなった「ブライディー姫」が寝る支度をしていると、「オクタヴィア姫」の小間使いを長く務めているオリーヴが寄ってきて耳打ちした。
「ブライディーさん、貴女、失礼ですが、このままずっと永久にオクタヴィア姫様になりすまされるおつもりですか?」
「いいえ、とんでもない! もういい加減に辞めさせて頂きたくて、いつ申し出ようかと…」
 レースとフリルだらけの絹の寝間着に着替えたブライディーは、困惑しきっていた。
「だったら、『メイドのブライディーさん』として、宮殿のメイドたちの寮に行って、とりあえず姫様を連れて帰ってきてください!」

(早くみんなが元の状態に戻らなければ、いろんなことが「既定の事実」になってしまって、どうしようもなくなるわ)
 両頬一面にそばかすを描き、オリーヴが用意してくれた「バッキンガム宮殿の夏場だけの臨時雇いのメイド」のお仕着せを着たブライディーは、「身分の低い使用人」の出入り口から、ほかの使用人とともに宮殿に入った。
「あの、ブライディーを知りませんか?」
 自分の名前を口に出して聞くのは、なんとも変な気分だった。
「ブライディーなら仲間とともにご不浄の掃除をして回っています。ところで貴女は?」
 年取ったメイド頭が恐ろしい視線でジロリと睨み付けた。
「わ、わたくしは、臨時雇いの何でもするメイドでして…」
「名前は?」
「オクタヴィアです」
「姫様にあやかった名前ですね。年の頃も同じだし… 少々不敬っぽいですが、まぁいいでしょう。で、紹介状は?」
 メイド頭は、昨夜オリーヴと二人で、オリーヴが以前の雇い主だった貴族からもらって持っていた本物を参考に必死に偽造した書面を穴のあくほど見つめた。
「ああ、夏場は休暇を取って郷里に帰るメイドが多いために補充された者ですね。早速、洗濯と掃除とゴミ出しと料理の下ごしらえなどを手伝って下さい」
「はい…」
 洗濯物を入れた籠は外部の下請けに出されるのだが、その仕訳と受け取りが大変だし、人の往来の激しいところでは、三十分に一回ホウキをかけなければならない。皮を剥かなければならないジャガイモや捌かねばならない肉や魚は山のよう…
「ちょっとあんた、あっちを手伝って!」
「なんでも屋さん、こっちに来て!」
「何をボヤボヤしているの?」
「お給金の分はしっかり働いてよね!」
 なまじ一通りのことはそつなくできるために、いたるところでさんざんこき使われ、その建物の端から端まで、陸軍の突撃練習のように行き来させられ、ようやく夜になったころにはみんなと一緒に賄いの夕食を口にすることができないくらいヘトヘトになってしまっていた。
 それでも何とか、一度横になった質素な寝台から起きあがって、占いの棒を取りだした。
(オクタヴィア姫様のいらっしゃる寮に行かなくては…)
 ふらつく足取りで入り口まで行くと、またあの衛兵がいた。
「なんだ? 何か用か? メイド友達に貸した金を取り立てるつもりなら、もう門限は過ぎているぞ。明日にしてとっとと自分のねぐらに帰れ!」
「どうしてもお会いしなければならないんです」
 ブライディーは息も絶え絶えに言った。
「だから、明日にしろと言っているんだ」
「明日も朝から晩まで仕事がいっぱいで…」
「当たり前だ! メイド同士油を売らせるような職場がどこにある? 公休日まで待て」
「わたしは夏場じゅうの雇いなので、秋になってお暇するまで公休日はありません」
「じゃあ秋になってから会いに来い!」
 ブライディーは鼻をすすり、しゃくりあげながらその場を去った。
(お姫様のきまぐれのせいで、なぜわたしがこんな目に遭わなければならないのよ… 身代わりなんか引き受けなかったら、いまごろは『英国心霊協会』のお屋敷で、ドイル様や、ドッジソン教授やウォーレス先生や、デイジーやポピーたちと、夜食のスコーンを食べながら楽しいお話しに花を咲かせているのに…)
 寮の庭の古い木の質素なベンチに腰を下ろすと、さらに新たな涙があふれ出てきた。
(こうなったらもう、覚悟を決めて、オクタヴィア姫として人生を送ろうかしら? 誰からも偉そうに言われることはないし、こき使われることもないし、お金の心配や、もしも病気になった時の心配はしなくてもいいし…… 公爵夫人も内心薄々わたしがオクタヴィア姫の役割を演じ続けることを望んでおられるようだし…)
 涙に濡れた瞳を閉じると、次から次へと据え膳で出てくるご馳走の数々や、屋根裏のメイド部屋の数倍はある衣装室いっぱいに掛けられた高価なドレスのことを思い描いた、
(お姫様も、悪くはないかも…)
 そんなふうに考えるとホッとして、ついうとうとと船を漕いでしまった。
 次から次へと現れる由緒正しい家柄の、財産は有り余るほど持っている求婚者たち。ウェストミンスター寺院での、ヴィクトリア女王陛下以下皇族貴族のかたがたに見守られての結婚式。花嫁が花束を投げようとすると、フィオナをはじめとする貴族の未婚の娘たちがいっせいに手を伸ばす…
(そうよ、こんなにいいお話。わたしの人生で二度とあるとは思えないわ)
 そう決心してチラリと横の市民たちの列に目をやると…
「お兄ちゃん」やドイルをはじめとする英国心霊協会の会員たちやデイジーが、この上ない蔑みの視線を送っていた。
「ちょっと待って! わたしはそんなつもりでは…」

「大丈夫、あなた?」
 冷や汗をびっしょりかいて目を覚ますと、自分ソックリのメイドさんが心配そうに覗き込んでくれていた。

「気分がお悪いのでしたら、お医者様を呼んで上げましょうか?」
「あ、いえ、疲れてうとうとしていただけです」
「そうですか、それだったらよいのですが… ご自分で寮まで戻れますか?」
「はい…」
(オクタヴィア様は、ご自分がお姫様だったことも、過去のことも、きれいさっぱり記憶をなくされているみたい… 一体誰がこんなむごいことを… でもしかし、考えようによってはとても幸せなことかも。このまま庭師か御者か、本当に好きな人と巡り会って結婚して静かに暮らせば… 「悪い魔法使いをやっつける」みたいな無謀なことも、もう思いつかれないだろうし、そしてわたしはお姫様として一生安楽に…)
「あの、もしも普通にご奉公していて、それでもなおかつ仕事がきついようでしたら、一緒にメイド頭に言って上げましょうか?」
(なんてお優しいオクタヴィア姫様なの)
 ブライディーはちょっと胸が熱くなった。
(…ご自分がメイドに変えられても、ほかのメイドのことを心配して下さって… こんな人にこそ、人の上に立って頂ければ…)
「…いえ、わたくしたち、顔つきも体つきも双子の姉妹のように似ているので、他人とは思えなくて」
 メイドのオクタヴィアは続けた。
「オクタヴィア様」
 ブライディーは真顔で姫の瞳を見つめた。
「は?」
「貴女の本当のお名前はオクタヴィア様で、この宮殿のお姫様のお一人です」
「え?」
 姫はキョトンとした。
「悪い人に魔法にかけられて、ご自分がメイドだと思い込まされているのです」
「まさか、そんなおとぎ話のような…」
 姫は口元を手のひらでクスクスと笑った。
「本当です。…わたしはメイドのブライディーで、貴女自身に、貴女の身代わりとして雇われた者です」
「それは違うでしょう。仮にわたしがお姫様でも、わたしはわたしの身の安全のために、影武者を雇って的になってもらうような卑怯な真似はしません」
「ですから、替え玉を雇われたのは、夜な夜な宮殿やお屋敷を抜け出して『悪い魔法使い』をやっつけるため、で、数日前もそのようにして出かけられたときに…」
「そうですか?」
 オクタヴィア姫は相変わらずキツネにつままれたような顔だった。
「待って下さいね。わたしがいまから、姫様がどこでどのようにして術にかけられたか占ってみますね。たぶん、この宮殿のどこかだ、と思うのですけれど…」
 ブライディーはエプロンドレスのポケットから一回り小さな携帯用のタロットカードを取りだしてベンチの上で手早く占った。
「『賢者』『愚者』『法王』… オクタヴィア様、この宮殿に図書室か書庫のようなものがあるのをご存じですか?」
「立派なものがあります。案内します」
 オクタヴィアはブライディーの手を引いて、階段を登り、降り、また登り、渡り廊下を渡って図書室に向かった。
「この廊下の先には衛兵がいますから、少々回り道をしますよ、いいですか?」
「ええ」
 十数分うろうろした挙げ句、二人はついに図書室書庫の前に辿り着いた。
 メイド姿のオクタヴィア姫も、さすがにハッとして何かを思い出し掛けた様子だった。
「ここは…」
「姫様…」
「わたくしはこの禁書の書庫の中で…」
「だめです。鍵がかかっています」
 扉のノヴに手をかけたブライディーは首を横に振った。
「それでしたら…」
 オクタヴィアは懐の胸元深くの肌着の隠しポケットから、一本の、非常に複雑な形状をした銀の鍵を取りだした。
「それはもしや、宮殿のマスターキー」
 うやうやしく鍵を受け取ったブライディーが鍵穴に差し込んで回すと、カチャリと涼しい音を立てて鍵が外れた。
 公爵夫人がお姫様の身体検査をして鍵を取り上げておかなかったのは失敗だった。
「さてと、ここの蔵書に魔法の解き方を書いた本があるのでしょうか」
 コックリさんの棒は、とある禁書庫を指した。それも鍵を使って開け、もう一度棒を傾けると、その先は一冊の古い写本を指した。

「『完徳者の書 写本』 原本は一二三〇年、『清浄派』ジャン・デ・ルジオ記す。…これに載っているのかしら?」
 ブライディーはパラパラと本をめくってみた。と、あるページに、鳩が羽根を広げたような、二本の櫓か櫂のような、奇妙な紋章を見つけた。
(こ、これは、パリでローレンスが死の間際に描いて見せた印に似ている。「清浄派」ってどんな人たち? 「完徳者」って誰? どこかで聞いたことがあるような…)
 ブライディーは懸命に思い出そうと試みた。

「『完徳者の書』序文…」
 メイド姿のオクタヴィア姫は、ブライディーなんかにはとても読めないラテン語の文章をゆっくりと読み下してくれた。

 …世界には善き神と悪しき神即ち悪魔がいる。我等は、一切の物質的存在、現実世界そのものを悪魔に属するとみる。人間は、善き神の天使(霊魂)が悪魔に捕らえられて、牢(肉体)に閉じこめられているのだ。霊魂は輪廻転生する。
 我等はローマ・カトリック教会を悪魔の教会として攻撃する。旧約聖書は悪の世界の創造者たる悪魔の書である。
 十字架は、基督を処刑した人類最大の罪の印である。
 我等は、独自の教団を組織して基督の真の教会と称し、司教を戴く。按手礼を受けて教会の信者となり戒律を全うするとき、霊魂は悪魔の世界から解放され、天界に復帰できるものと信じる。肉食、殺生、性交、婚姻、所有など、いっさいの世俗生活を否定し、しばしば断食して苛烈な苦行を実行する。
 家族、誓約、権力など、一切の社会関係も否定される。「清浄派」の意味は「汚染されていない」ということである。 
 我等は、善神と悪神即ち悪魔という二つの神を信じている。つまり、全ての生命や教えは両者のうちのどちらかから創造されたということを前提にしている。ひとつは非物質世界の善であり、もうひとつは物質世界の悪である。
 魂は地上世界に墜とされ、捕らえられ、身体という悪の神の牢屋に閉じ込められてしまった。霊魂は物質的身体、即ち肉体の中に捕らえられている、そこからの救済は肉から逃れることである。生殖や、その生産品、例えば肉、牛乳、卵の消費は、悪の世界がしたことであり、善を熱望する人々は避けるべきことである。 
 我等は生まれ変わり…魂の再生…を信じ、罪人に対する永遠なる断罪を否定する。魂は人間の体の中で何回も寿命を送らされ、救済を待つ。我等の教えではこの世の肉体は邪悪なものであるから、神は肉体を持った人間にはなれない。そこで我等は、基督は神ではなく、神の使者であり、外見だけ人間の形を取ったと考える。カトリック教会が秘蹟(国教会などの新教では礼典と言う、両方とも、洗礼・堅信・聖餐・告解・終油・叙階・結婚の七つ)のとき、神への祈りを水、パン、ワインなどの物質を通して行うことは、我等はそれらを神への冒涜であるとする。婚姻も強く否定する。結婚は子供を生むことになり、悪の物質的肉体の中に魂が捕らえられることになるからである。 
 我等は洗礼、十字架のシンボル、個人の懺悔、全ての宗教的装飾品を認めない。教会の役割は簡素であり、どこにでも教会を開くことができる。そこでは福音書を読み、簡単な説教をし、祝福、主の祈りを行う。 

 悪魔とその一統は自分たちに奉仕させるために、地上の土(石灰)をとり、自らに似せて人間を作った。それから予め捕らえておいた天使たちにその土の身体に入ることを命じた。 
 天使たちは、自分たちが形の決まった、死ぬべき運命を避けられない器に封じ込められることを知って大いに泣いたと言う。 

「救慰礼」とは、悪魔の物質的拘束から逃れ、神の精霊、聖なる精霊に結合する力を与えるものである。儀式が行われるまでは言わば眠っている状態であり、儀式ののちは基督の愛によって解放される。
 魂がこのさまよい続ける霊魂の輪廻から逃れる唯一の方法は、「完徳者」になって「善良かつ清浄なる基督教徒」である身体に留まることである。

 我等「清浄派」は、悪魔は配下の墜天使たちを連れて天国へ行き、大天使ミカエルと善神に使える天使たちと戦い、善神に仕える者の内の何名かをさらっていったと考える。悪魔は彼ら…天使たちの魂を、人間や動物の身体に閉じ込め、晴れて天国に戻ることができるまで転生を繰り返すようにした。 
 我等はこれらの元々は神に仕えていた者たちを、「神の人々」とか「魂」や「イスラエルの羊」などという名前で呼ぶ。 

 我等は基督は聖処女マリアから生まれたという人間性を認めない。キリストは天使であって、食べたり飲んだり、処刑されて死んだり、埋葬・復活はなかったと信じる。

 アブラハム、イサク、ヤコブ、モーゼなどの予言者、全ての古代の神、そして洗礼者ヨハネもまた神の敵であり悪魔の使徒であると考える。ヨブ記、詩篇、伝道之書、イザヤ書、エレミア書、エゼキエル書、ダニエル書など、堕落前のエルサレム(我等はそこが天国であったと信じる)で書かれた書のみを信じ、それ以外の旧約聖書の全て…例えば創世記などは悪魔によって人間を欺くために書かれたものであるという立場をとる。 
 我等は、最後の審判は既に下され、それはもう二度と行われることはなく、従ってこの世に終わりは来ない、と考える。なぜならば他でもないこの世界がすでに地獄なのであって、永遠の炎、永遠の罰を受けているのだと信じているからだ。

 我等は一般の信者にも厳格な禁欲を求める。 例えば、肉食・卵や牛乳などの動物性の食物、飲酒の禁止、そして婚姻、性交の禁止。
 重ねて言うが結婚は子供を生むことになる、それは新たに魂を肉体の支配の下に置き、罪悪の原因となるからだ…

 オクタヴィア姫が人差し指でなぞりながら読んでいたその指先が文末で止まった。

「この『清浄派』の信者の人達は、どうなったのですか?」
 ブライディーはおずおずと訊ねた。
「もちろん、『異端』とされて、当時のローマ教皇庁から鎮圧のための軍隊が派遣されたと、歴史の本で読んだことがあります」 メイド姿のオクタヴィア姫が答えた。「それは、『アルビジョアへの十字軍』と呼ばれていて…
 一二〇九年、三万の騎兵と歩兵からなる軍隊が北ヨーロッパから南フランスのピレネー山脈北東山麓の山の多いアルビジョア地方、『清浄派』の本拠地ラングドックに攻め寄せたそうです。
 街並みは跡形もなく破壊され、畑には塩が撒かれ、全住民が虐殺された、と伝えられています。 
 これは近代欧州史上初の大量虐殺であったと言われています。
 ベジエという街だけでも、少なく見積もって一万五千人の男、女、子供を粛清したと鎮圧軍の司令官が報告しています。人々はほとんど『清浄派』の教会に逃げ込んだところを皆殺しにされたそうです」
「あの、『結婚もしない。子供も作らない』教義なら、そんなむごいことをしなくても、自然に信者の数が減って、最後には消滅するはずでは?」
「それがそうはならなかったらしいのです。なぜなら、『清浄派』は、女性で能力のある人に、教団の中で非常に高い地位を与えていたので、例えば夫の暴力に悩んでいた女性たちが駆け込んだり、男性でも才能がありながら、当時の体制の枠の中で低い地位に甘んじていた人を取り立てたりして、信者の数は増える一方だったらしいのです。一説によると、なぜか子供の数も増えた、と言われています。乱暴に言うと、教義はともかく、当時の社会からはじき出された人々が結集し、権力者が無視できなくなるくらいになった、というのが本当のところかもしれませんね…」
「でも、『完徳者』は魔法を使えたりしたわけではないのね…」
 ブライディーはポツリと言った。
「どうして?」
 メイド姿のオクタヴィア姫は怪訝そうに問い返した。
「だって『完徳者』が凄い魔法を使えたのなら、みんなを守れたと思うし…」
「さぁ、それはどうかしら。記録は最終的に勝った鎮圧軍のものしかないから、自分たちの被害損害や不利なことは書かれなかったかもしれません。ついでに申し添えると、『異端者』という呼称は、常に破れた勢力にかぶせられてきたものです」
「そうですか…」
 頷きながらブライディーは(オクタヴィア姫さま、もともとの「お姫様としての深い教養部分」はちゃんと残っているわ。こんな知識、メイドだったら逆立ちしても出てこないでしょう。この上は一刻も早く「自分がお姫様であること」も思い出して頂かないと)と思った。
 そこで改めて「完徳者の書」の目次を開いて言った。
「ここに『忘れさせられていた記憶を呼び戻す方法』とか書いてありませんか?」
「このあたりにそれらしいものがありますわ」 メイド姿のオクタヴィアは、とあるラテン語の一行を痛々しく荒れた指で指した。「『記憶は魂に由来するもので云々…』」
「貴女、その呪文を自分で唱えられますか?」
「え? ええまぁ、一応声に出して読むくらいなら…」
 だが、ちょうどその時、廊下の向う側から近づいてくる足音が聞こえた。
 ブライディーはすぐに蝋燭を吹き消し、素早く内側から図書室の鍵をかけ、オクタヴィアに一般の書棚と書棚のあいだに隠れるように手で指示し、自分も重なるようにして隠れた。
 足音は次第に近づいてきた。鍵を鍵穴に差し込む音がしたかと思うと、その人物はしずしずと図書室に入ってきた。窓から差し込む影から、ドレスをまとった立派な体格の貴婦人であることは分かったが、どこの誰かということまでは分からなかった。
 貴婦人は別の鍵で禁書の書庫を開くと、中から一冊の本を抜き取り、立ったまま持参した蝋燭の明かりでページをめくっていたが、やがてそのうちの一頁を紙ナイフで切り取って懐に隠した。
 ブライディーとメイド姿のオクタヴィアは思わず息を飲み込んだ。
 人影は本を元に戻し、改めて鍵を掛け、図書室全体をざっと見渡した。
 机の上にブライディーたちが持ってきた燭台があるのに気が付いて、指先で蝋燭に触れた。消したばかりの蝋燭の蝋涙はまだ固まりきっておらず、なま暖いのを悟られたようだった。
 ブライディーは縮み上がった。

 人影は燭台を掲げ、立っている位置からぐるりと書庫全体を照らし出したものの、それ以上踏み込んで調べることはせず、鍵をかけて去っていった。
 隠れ潜んでいた二人はホッと胸をなで降ろした。
 そして急いで、さきほど読みかけていた「完徳者の書」を取りだし、オクタヴィアの心をメイドから元のお姫様に戻そうとしたけれど、案の定、さきほどの人物はその方法が書かれていたと思われるページだけを破り去っていた。
「どうしましょう?」
 ブライディーは両手の手のひらで口元を覆っておろおろした。
「良いではありませんか」 メイド姿のオクタヴィア姫はしれっとして言った。「…これで宮殿の中に何しらか悪いことを企んでいる者がいることがハッキリしました。貴女の言うことによると、わたしはお姫様で、メイドの扮装に身をやつして悪い魔法使いをやっつけようとしていたそうですが、ただいまからは本当に、一メイドとして、このバッキンガム宮殿の中に巣喰い蠢いている闇を振り払おうと思います。…ブライディーさん、わたしは構わないから、貴女さえ良ければ、そのままお姫様になって頂いて構いません」
「ええっ!」 ブライディーはたじろいだ。
「…しかしわたくしにも、『英国心霊協会』という、本来戻るべきお屋敷が…」
 言葉は続かず、後は頭を抱えるだけだった。

 一方その頃、ウォーターフォード男爵の屋敷では、フィオナ・ウォーターフォードが、ブライディーたちが調べていたように、男爵家の厖大な蔵書の書棚のあいだを駆けめぐって、「清浄派」や「完徳者」のことを調べて回っていた。
(「清浄派」…ラテン語では「カタリ派」…「この世界は、悪魔が創生した」ということを説く「代表的な異端派の一つ」…「完徳者」と称する数名の指導者たちによって導かれていた。基督を処刑した十字架を嫌い、肉体的、物質的束縛からの脱出を象徴する「鳩の羽根、または二本の櫨または櫂」を紋章に戴く… 悪魔の目的は、「人間を増やして争わせて、欲望や憎悪や嫉妬、利己心などを自らの糧にするため」である。故に結婚や出産を良くないことと見なし、暴力を振るう夫から逃げてきた女性などを重用した。
 一二〇九年派遣された「アルビジョワへの十字軍」によって滅亡…)
 フィオナは薄暗い天井を見上げた。
(もしも、ブライディーが「アイルランドの深い森で出会った」と話していた「不完全ではあるものの永遠の命を持つ魔女」みたいに、たとえなんらかの欠点はあっても、メトセラのように長生きができるのだったら、子供の数は減るかもしれませんね…)
 そして伯母である公爵夫人が言っていたことも思い出した。
『もし出来得るのならば、百年、千年の時を越えて生き、世の移ろいゆく様を確かめ、もっともっといろんな、ありとあらゆることを楽しみたい』
(「清浄派」の「完徳者」たちが目指したもの… 当時のローマ・カトリックから「異端」の烙印を押され、滅ぼされた者たち… ドイル様や「英国心霊協会」の皆様たちが、もしもあるのならその存在を科学的に証明し、ないのならば、そのことも科学で証明しようとなさっている「魂」… 「人間は未来を知ってはいけない」とか「神や魂の存在など、科学的には『不確定なものを確定させてはいけない』ということの本当の意味は?)
「フィオナ様、もういい加減にお休みなさってください。まもなく夜明けですよ」
 小間使いのリリーの声にハッと我に返った。
 そう言うリリーも、まだお仕着せを着ていた。
「ごめんなさい。リリー、わたしが休まなければ貴女も休めないのよね」
(まあいいでしょう。このことはわたくしなりにゆっくりと時間をかけて調べましょう…)
「もういいですフィオナ様。クーフーリンを散歩に連れて行ってきます」
 リリーは目をしょぼつかせながら出て行った。

 ブライディーとメイド姿のオクタヴィアも眠い目をこすりながら、バッキンガム宮殿の図書室の窓からしらじらし明けゆく空を眺めていた。
「わたしはもともとメイドの姿で、邪教と戦うつもりだったそうですから、お姫様時代の記憶を取り戻せなくても関係ありません」
 オクタヴィアはキッパリと言った。
 ブライディーは目を丸くした。
「一番肝腎な『御意志』がオクタヴィア姫様本来のものが戻ってきている… おまけに語学や教養や、たぶんお姫様の作法はそのまま覚えておられる。あの本を開いたせいかしら? それとも相手のかけた術が不完全だったから? …ということは、後は「お姫様としての知り合いの顔など」を…わたしがやったように…写真帳などを見て学習されたら、無理に術を解かなくても、元のオクタヴィア姫様に戻れる、のでは?」

 数日後の昼下がり、公爵夫人は、宮殿の中のひっそりとした小部屋に、お姫様に扮したブライディーを呼び出して、お茶と、メイドにはもったいないくらいの豪華なお菓子を振る舞った。が、メイドさんは緊張してあまり手をつけなかった。
「このあいだから申し上げているお話、考えてくれましたか?」
「わたしがこのまま永久に、オクタヴィア姫様の役どころを演じる、というお話しのことでしょうか?」
「いかにも。…そろそろ答えを聞かせて欲しいのですが」
「まことに心苦しいのですが、お断り申し上げます」
 公爵夫人の眉がつり上がった。
「なぜ? くどいようですが、貴女にとってはこれ以上はないよいお話しのように思うのですが」
「伯母様、もう良いではありませんか」 フィオナが横合いから割って入った。「嫌と申している者を無理強いするのは… わたくしには時間を下さったのですから、この子にもどうか…」
「フィオナ、貴女はどちらの味方なのですか? もういいから出て行きなさい」
「失礼致します」
 フィオナは会釈し、扉を静かに閉めて出て行った。
「さてブライディー、たとえいくら嫌でも、貴女にはお姫様になって頂かなくては困るのです」
「なぜですか。夜な夜な宮殿の図書館にある禁書を写し、それらをロジャー卿のような者たちに提供するだけでは物足りないからですか?」
「貴女は… 貴女はブライディーではありませんね? 術が解けたオクタヴィアですね?」
 公爵夫人の顔が鬼女のものに変わった。
「いいえ。わたくしはしがないメイドのブライディーです。ですから、あなた様がいままでやってこられてきたことを悔いられて、二度とやらないと約束して下さるのなら、すべて見聞きしなかったことにしようと思っております」
「そうですか…」
 公爵夫人はすっくと立ち上がり、メイドさんにも立つように促した。
「どうでしょう? もっと風通しのよいところでゆっくり相談しませんか?」
「ええ。しかし人目についたら…」
「構いません」
 公爵夫人は長い廊下を何度も曲がってから、とあるバルコニーのある部屋に案内した。
「あそこで相談しましょう」
 夫人はメイドに、先にバルコニーに出るように勧めたが、メイドさんは部屋とバルコニーの境目からは一歩も進もうとしなかった。
 よく見ると、その先の空は、陽炎が立っているようにゆらゆらと揺らめいていた。
「この部屋には確か、バルコニーなどはなかったように思いますが」
「宮殿に上がって日の浅いメイドが、どうして…」
「お願いです、オクタヴィア。貴女はあの向こうの世界でおとなしく暮らしていてください」
 メイドさんの目の前に掛けられていた小さな鏡に、自分を突き飛ばそうとする腕が写った。
 メイドさんはひらりと身を翻らせて間一髪でかわした。
「いいんですか? わたしをこの世界とは違う世界に追放してしまえば、『お姫様は謎の失踪を遂げ、行方不明』ということで大騒ぎになってしまいますよ」
「大丈夫です。この上は『完徳者』様にお出ましを戴き、替え玉のブライディーに強力な術をかけてもらって永遠の代役を…」
 公爵夫人はさらに迫ってきた。メイドさんはその手をつかんでもみ合いになった。
 メイドさんがつま先で相手の足首を払った拍子に公爵夫人はバランスを崩してバルコニーのほうに出た。
 一瞬どこからか、男のものとも女のものともつかない不気味な声が響いた。
『貴女には失望しました。もうよろしい!』
 とたんにバルコニーは幻灯の絵のように消え去って、バルコニーを建て増すために開けてあった壁の穴に変わった。
 公爵夫人は長く鋭い叫び声を上げながら落ちていった。
 それを聞きつけてほかの人々が走ってきた。新たな黄色い悲鳴がこだました。メイドさんは素早く、駆けつけたメイドたちの中に紛れ込んだ。

 公爵夫人の葬式は、皇族や貴族の人々が多く出席し、ウエストミンスター寺院でしめやかに行われた。
 オクタヴィア姫も、フィオナ・ウォーターフォードも、その父の、故人にとっては弟のウォーターフォード男爵も、もちろん参列した。一般市民の、椅子なしの一角には貸衣装の黒いドレスのブライディーもいた。
 オクタヴィア姫は、献花の白薔薇を自分で切ろうとして怪我をされたとかで、手に白い包帯を巻いていた。
 フィオナは、あふれ出る涙をハンケチで拭いながらも、どことなくホッとしているように見えた。
「いいのか、ブライディー、国教会の葬式だぞ」
 一般席に参列したドイルが、メイドさんの耳に囁いた。
 メイドさんはハンケチで口元を覆ったまま答えなかった。
「お姫様になり損ねたな」
 ブライディーは、なおも無言だった。
 式が終わって人波が崩れた時、ウォーターフォード親娘とともに墓地まで従っていくはずのオクタヴィア姫が、なぜかブライディーのそばまで走り寄ってきて小声で耳打ちした。
「今後ともよろしくお願いしますわね、ブライディー」
 心霊研究協会の屋敷に帰ると、デイジーが「ああ、あたしにもどこかいい家から養女のお話がないかしら?」と溜息まじりに何度もうわごとのように繰り返していた。

     (次のエピソードに続く)





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