ブライディー・ザ・マジックメイド
 ショート・ショート
 「ひなげし頭のポピー」
 「さよなら、お兄ちゃん…」
 「ウォーレス博士と幻の蝶」
 それに続いて…
 「メイドさん対ネス湖の怪獣」


 ブライディー・ザ・マジックメイド
 ショート・ショート
  「ひなげし頭のポピー」

 英国心霊研究協会に三人目のメイドさんがやってきた。名前はポピー、髪の毛はなぜかピンク色に染めていて、伸びてくる地毛がなぜか白かったために、さながらひなげしのような感じだった。
 デイジーは近所にアパートを借りて、そこに病気がちのお義母さんを引き取って、自分はそこから通ってきたい旨を申し出て許可された。そこで屋根裏のメイド部屋はブライディーとポピーが使うことになった…

「朝早くに通ってきて、夜遅くに帰るから、ほとんどいままで通りだよ」
 お世辞にも環境がよいとは言えないホワイトチャペルを引き払って、さんざん不動産屋のチラシを見比べ、最後にはヤ○ザの姐さん顔負けの啖呵を切って敷金家賃を値切り倒して、自分が選んだ新居に引っ越したデイジーは上機嫌で言った。
「…ポピー、貴女も、気持ちはよく分かるけれども、いつまでも過去にこだわって、いじけていてはいけないわよ」
「はい、デイジーお姉ちゃん」
「声が小さいわよ、ポピー」
「分かりました、デイジーお姉ちゃん」
「まだ小さい!」
「デイジー、最初からあんまり…」
 横からブライディーがおずおずと割って入った。
「ブライディーお姉ちゃん、お姉ちゃんに説教する資格なんかあるの? 偽者に罠にはめられたくらいで、『これ以上ドイル様、心霊研究協会の皆様にご迷惑とご心配をおかけする訳には参りません』とかなんとか言って、縛り首になりたがっていたのはどこの誰かしら?」
「そ、それは…」
「いいことポピー、ブライディーお姉ちゃんを『命の恩人だ』とか思って、遠慮することなんて、ないからね」
「どうして…」 ポピーは珍しく自分から口を開いた。「…どうしてあたしの命なんか、救ったんですか?」
「ほら、言わないことじゃない!」 デイジーはブライディーのほうを指弾した。「よくない心根がうつってしまったじゃない!」
「ごめんなさい…」
 ブライディーは頭を下げた。
「だから、それが良くないと言っているのよ。例え何も悪いことはしていなくたって、神様は燃え上がるソドムとゴモラを振り返った人々を全員塩の柱にしてしまわれたことは、知っているでしょう?」
「…………」
「これからずっとそんな鬱陶しい顔でドイル様たちにお仕えするつもりなの?」
「そうね、デイジー、貴女の言う通りだわ」
「口先だけで『はい』と言えばいいだけだったら、誰でも言えるわよね」
 ブライディーはぎこちなく微笑んで見せた。
「さぁポピー、貴女も笑って!」
 ポピーはうつむいたまま顔を上げなかった。
「そんなに急には無理よ、デイジー。もしも貴女が同じ立場だったら…」
「甘い!」
 デイジーは低く唸るように言った。
「貴族のお嬢様だったら、何をしようと勝手でしょうけれど、一ペニーでもお給金を頂くからには、立ち振る舞いは明るく、きびきびと!」
 ポピーは「ワッ!」と泣き出して走って逃げた。
 ブライディーはあわててポピーの後を追いかけた。
「やれやれ、こりゃぁダメだわ…」 デイジーは両手を広げて両の眉を下げた。「…あの二人が相部屋だったら、抱き合ってテームズ川に身投げしてしまいかねないわ」

「ポピー、しばらくお仕事は何もしなくていいから、お食事だけは食べないと、身体に良くないわ」
 パンにジャム、それに牛乳を乗せた盆を手にしたブライディーが、階段下の納戸の扉を開いていった。ポピーは膝を抱くようにして積み上げられた箱の陰で震えていた。
「ブライディーお姉ちゃん、どうして、どうしてわたしがここに隠れていることが分かったんですか?」
「それはね…」 ブライディーは苦しい作り笑いを浮かべながら、お盆をちっちゃなメイドさんの前に置いた。「わたしも粗相をして叱られたら、ここに入って泣くからよ」
「本当に?」
「本当よ。でも、ここで隠れて食べる食事が意外とおいしかったりして」
 ブライディーは、自分が運んできたパンにジャムをつけて一口食べた。
「本当?」
「本当よ。炭坑夫さんなんかも、こんなふうにしてお弁当を食べているのかなー、とか思いながら…」
 ブライディーにつられて、ポピーも食べ始めた。
 二人は顔を見合わせて、ニコッと微笑みあった。


 ショート・ショート
  「さよなら、お兄ちゃん…」

「お兄ちゃんが乗る船は、無事にニューヨークに着く… お兄ちゃんが乗る船は、何事もなく、アメリカに着く…」
 お屋敷の用事を全部かたづけて、戸締まりをした深夜、ブライディーはメイド部屋のテーブルで、「不思議の国のアリス」のタロット・カードや「ケルトの神々のタロット・カード」を使って、何度も何度も同じことを占い続けていた。
「お姉ちゃん、莫迦じゃない? 貴族やお金持ちから、下々の人々まで、何百人も乗せた大きな客船が、沈没なんかするはずがないじゃない?」
 帰り支度をして、残り物の食べ物を詰めた籠を手にしたデイジーが眉をひそめながら言った。
「でも…」
「お気持ちはよく分かりますわ」
 先に寝間着に着替えたポピーが、蝋燭を手に降りてきた。
「なによポピー、貴女お姉ちゃんの肩を持つの?」
「デイジーさん、貴女も恋をされたら分かるようになると思いますわ」
 デイジーの顔は燃え上がった石炭のように赤くなった。
「何ですって!」
「支度ができたなら、早く帰られたらどうでしょうか。お義母さんがお待ちでは? 後はブライディーさんとあたしでやっておきますから…」
「恋煩いのメイド頭を持って、苦労するわよ貴女も」
 そう捨てぜりふを残して、デイジーは帰った。
「ブライディーさん、お気になさいませんように。あの物言いがデイジーさん流の愛情表現なんです」
「ええ、分かっているわ。あの子はいい子で、おまけにまだちっちゃいのにやり手で、わたしの占いでも『そのうち自力で家の一軒も建てる』と出ているの」
 ブライディーはカードをしまって立ち上がった。

 屋根裏のメイド部屋で、ブライディーも寝間着に着替えて、貸本屋で借りた「シェリダン・レファニュ全集」のしおりを挟んだところを開いた。
「明るくしていてもいいかな、ポピー?」
「ええ。あたしはどんなところでも眠れます。…ですが、今夜は早めにお休みになられてはいかがでしょうか?」
「どうして?」
 開いた本のページ越しに、デイジーのものだったベッドに座っているポピーに目をやる。
「あすの朝起きして、リヴァプールまでお見送りに行かれたらどうでしょうか?」
「無理よ。明日はお屋敷の用事がいっぱいで…」
「仕事は、デイジーさんとあたしでやっておきますわ。ドイル様には、あたしから申し上げておきますわ」
「でも…」
「お見送りに、行きたいのでしょう?」
「ええ…」
「それでしたら、行かれたら?」
「本当に、行ってもいい?」
 ポピーが頷いたので、ブライディーは本を置き、蝋燭を消した…

 リヴァプールの桟橋は、見送りの大勢の人々でごった返していた。すでにタラップは取り外され、色とりどりの紙テープが投げられ、汽笛が続け様に鳴らされていた。
(お兄ちゃんは、どこかしら?)
 息せき切ってやってきたブライディーは、船上の各デッキに鈴なりになった人々の中に、お兄ちゃんの顔を探した。しかしすぐに懐からこっくりさんの棒を取りだして、目を閉じて占った。
 再び目を開けて棒が指し示す方向を見上げると、船の後尾のデッキで、誰かを捜している様子のお兄ちゃんを見つけた。
「おにいーちゃーん!」
 声の限り叫ぶと、お兄ちゃんも気が付いてくれた。
「ブライディー!」
 お兄ちゃんは紙テープを投げ、それは見事にブライディーの手元に届いた。
「お兄ちゃん!」
 泣きながら、人々に負けないくらい手を振ると、お兄ちゃんもちぎれんばかりに手を振り返してくれた…

「いい夢は見られましたか?」
 ポピーの声でハッと目を覚ますと、窓の外はすっかり明るくなって、小鳥の囀りが聞こえていた。ポピーはすでにお仕着せに着替えていて、階下からはかすかに淹れたての紅茶の香りが立ち上ってきていた。


 ショートショート
  「ウォーレス博士と幻の蝶」

「せっかくここまでこられたのですから、その蝶の居場所を占ってみたいと思います」
 スコットランド、ハイランド地方の湖沼地帯の小さな森の中、聖ヨハネの日も近い初夏の日差しも、そろそろ傾きかける空を見上げながら、ブライディーはつばの広い白の木綿の帽子を直しながら言った。
「いいや、いいよ」
 ウォーレス博士は、若い頃、ボルネオやスマトラを探検し回っていた時からずっと愛用している「探検家の帽子」を脱いで、捕虫網と虫籠を傍らに置き、苔むした岩の上に腰を下ろした。
「しかし、博士は明日ロンドンにお戻りになられるのでは?」
「世間のしがらみと野暮用に引き戻されるのさ」 博士は錆が浮き、ところどころへこんだ水筒から、栓になっているコップをキュッキュッと取り外して水を注いだ。「…どうだい、ブライディー、君はもう、自分のは全部飲んでしまったんだろう?」
「め、滅相もございません! 博士の分を頂いたりなどしたら…」
「遠慮しなくて良いんだよ。わたしは暑いところには慣れている。…よく『水を飲んだら余計にへばる』と言う人がいるが、あれは間違いだ。喉が乾いたと感じる時は、水を飲んだほうがいい」
「そうでございましょうか?」
 博士からコップを受け取った小花模様の麻のドレス姿メイドさんは、博士からは少し離れた岩に座ってゆっくりと水を飲み干した。
「わたくし、やっぱり占ってみます」
 コップを返したブライディーは、懐から、ペン画に水彩で色づけされた美しい紫色の大きな蝶の絵を取りだしてもう一度眺めた。
「いいんだよ。そんなことをしてまで手に入れても、余り嬉しくない」
「なぜでございますか? デイジーは『苦労して手段を尽くして欲しかったものを手に入れる楽しさはまた格別だ』と申しておりますが…」
「それは人によるよ。わしは…」
 ウォーレス博士は言いかけて口をつぐんだ。
「あの、博士、前から一度お聞きしたかったのですが…」
「なんだね?」
 ウォーレスは数え切れないほど細かく皺の寄った目尻をしばたたかせた。
「わたくしのようなメイド如きがお尋ねするようなことではないと、重々承知していますが…」
「なんだろう?」
「世間では、多くの人が『進化論』のお手柄は、本当はウォーレス様のものだ。それを、ダーウィン様が横取りした、と…」
 ウォーレスは微笑んだ。
「やれやれ、ブライディー、わしは、君の口から出るのだから、もっと楽しい質問を期待したよ。『空はなぜ蒼いのか?』『花はどうして色とりどりできれいなのか?』『鳥はなぜ囀るのか?』…」
「すいません。やはり出過ぎたことをお尋ねして…」
 メイドさんは立ち上がってペコリと頭を下げた。
「では、答える前にわしから逆に訊ねさせてもらおう。…ブライディー、君は、君が洗うべき汚れた皿や洗濯の山を、デイジーが洗ってくれたら、どう思う?」
「『デイジーに仕事を取られた』と思います」
「わしなら、『誰が洗っても、皿や洗濯物がきれいになったことに変わりはない』と思うよ」
「わたしのする仕事がなくなって、お屋敷をお暇になるかと思って心配します…」
「やれやれ…」 博士はゆっくりと立ち上がって網と籠を持ち、辺りを見渡した。「そんなつまらないことを考える暇があったら、ここに咲いている花のうち、一番気に入ったものを摘んで押し花でもにしなさい」
「は?」
 ブライディーは、近くに咲いていた釣鐘草を摘んで手にした。
「ほほぅ、ドッジソン教授が来ていれば『ぜひ写真に撮らせて欲しい』と頼むことだろうなぁ」
「はぁ?」
「さぁて、そろそろ帰るとするか。ドイル君たちがそわそわし始めるぞ」
「蝶は、博士?」
 ブライディーは水筒のコップを返すために走り寄った。
「また今度探そう。その時はまた一緒に来てくれるね?」
「はい!」
 メイドさんに笑顔が戻った。
 下草を踏み分けながら二人は、心霊研究協会の面々が宿をとった村の方角に向かった。
 誰が吹いているのか、バグパイプの、ところどころ音の外れたアメージング・グレースの旋律が夕空に流れていた…


ブライディー・ザ・マジックメイド
  「メイドさん対ネス湖の怪物」

「今年の夏休みは、ひとつスコットランドのネス湖に潜んでいるという、巨大な生物を探しに行きませんか」
 温厚篤実で、生涯数々の未開の地域への探検に明け暮れたのに、およそ無茶という言葉が嫌いなウォーレス博士の口から、とんでもない提案が飛び出した。
 それ以上耳にするのも恐ろしくなって、厨房に戻ったブライディーだったが、デイジーとポピーは、もう用事もないのに、空の皿を盆に乗せたまま食堂に留まり続けていた。
「西暦五六五年の書物『聖コロンバの生涯』に記されていて、ネス湖周辺の人々が時々目撃する、という怪獣ですね。…いや、ぼくも興味があります。ぜひ探査に行きましょう」
 ドイルは食堂の壁際の本棚にずらりものものしく並んでいる書物の中から、装丁の皮がぼろぼろになった一冊を抜き出して、栞をはさんだ箇所を読み上げた。
「第六巻十一章二十七節…「『コロンバ師は湖の岸の渡し場に着き賜えり。此の地で、泳いでおりし時に、湖の怪物に食い殺されたる友の埋葬の支度をしている数名の者に出会われたり。聖コロンバ師は弟子の一人に湖の向こう岸まで泳ぐよう命じられたり。怪物は水音を聞いて従者に迫り来たれり。そこで聖コロンバ師は十字の形を作り賜い、怪物に去るように命ぜられたり。怪物畏れかしこみその命に従えり』…」
「面白そうです! ぜひ、このあたし、デイジーを探検のお供にお加えください」 ちっちゃなメイドさんがドイルの朗読を遮って叫んだ。「…お陰様で義母の具合もかなり良くなって参りました。暖かい気候が幸いしているものと思います。巴里に続き、ぜひ… あたしが、怪物をおびき寄せるための生け贄の餌にでも、何にでもなります!」
「よし分かった。一人はデイジーにしよう。もう一人連れて行きたいのだが…」
 クルックス博士は、分厚い計画書を最初から見直しながら言った。
 厨房で怖ろしさの余りに両手で耳を塞いでいたブライディーに、デイジーのとんでもない発言が聞こえてきた。
「ブライディーお姉ちゃんがいいと思います! お姉ちゃんは水練の達人ですから、もしも万一、皆様のうちのどなたかが誤って湖に落ちられても、すぐに肌着姿になって飛び込んで助けてくれると思います。現に、あたしも危ないところを間一髪助けてもらいました」
「あたしは、お屋敷に来てまだ間がございませんので、お留守番をさせて頂きます」 ポピーがペコリと一礼して下がった。
「よし、これで決まったな」
 クルックス博士が空欄を名前で埋める。
「ブライディーさんなら、息を止めて水の中に潜れるらしいし、もしかすると、湖底まで調べ見届けてくれるかもしれず、大いに心強いですぞ」
 ウォーレス博士は、湖底までの推定断面図を移動式の黒板に描き始めた。
「ちょっ、ちょっとお待ちください…」 ブライディーは厨房から脱兎の如く飛び出して、まずデイジーの耳に囁いた。「『生け贄の餌にでも、何にでもなる』って、デイジー、貴女カナヅチだったんじゃあ?」
「あっ、そうだった!」 デイジーは口にわざとらしく手のひらを当て、目を見張って見せた。「…じゃあお姉ちゃんが生け贄の餌になってね」
「い、嫌よ…」
 メイドさんは顔をくしゃくしゃにして、両手の拳を握り締めた。
「もう遅いみたいだわよ」
 デイジーは首をかしげて、白い歯を見せた。
「そんな…」
「じゃあブライディー、支度のほうをよろしく頼むよ」 ウォーレス博士は子供みたいにはしゃいで、メイドさんの小さな細い肩に手を置いた。「…もう何十年か若かったら、わし自身が潜って、と思うのだが…」
「とんでもございません。わたくしで間に合うことでしたら、何でもやらせて頂きます」
「そうと決まれば、お金を渡すから、ハロッズ百貨店にでも行って、『婦人用の水着』を買ってきたまえ」
 ドイルは小切手を切って渡した。
「『婦人用の水着』? それはいかなるものでございましょうか?」
「女の人が、海水浴に行った時とか、ヨーロッパの温泉や鉱泉に入る時に身につける、濃い色の身体の線を隠すぶかぶかの肌着のようなものだよ、お姉ちゃん」
 デイジーは背伸びしてブライディーの耳に囁いた。新聞に載っていたものを思い出したメイドさんの顔は見る見る赤くなった。
「デイジーを救出した時、肌着でもかなり潜れたそうだから、水着だと自由自在に泳げたりすると思うよ」
 ドイルはニコニコ顔になった。
「ドッジソン教授がいらしたら、きっと『行く前にぜひ写真を取らせてくれない天女?』とかおっしゃるわ」
「デイジー、貴女も買うのよ、水着を…」 ブライディーは唇を引きつらせて言った。「もしも百貨店にちっちゃい子用のが売っていなかったら、お姉ちゃんが作って上げるから」

 エジンバラの都もインヴァネスも生まれて初めてのメイドさんたちが、ドイルや博士たちに連れられて、ネス湖へとやってきた。
 エジンバラの街では、ドイルはまた現地のファンの人々に取り囲まれて大変だった。
「ネス湖って、細長い川のような湖だったんですねぇ…」
 湖を見下ろす丘の芝生の上に、三張りほどの天幕を建てるのを手伝いながら、ブライディーはしみじみと言った。
「長さおよそ二十マイル、幅およそ一マイル。はるか遠い大昔に氷河が削り取った跡にできた川のような湖で、外海ともつながっているらしいよ」
 ドイルはペグを持っているメイドさんの手を叩いてしまわないように、注意深く木槌を振り下ろし続けた。
「深さも二百フィート以上もあるらしいわ」 食料などの入った箱を開梱し、片付けていたデイジーは、難しい顔をして言った。「…これはいくらお姉ちゃんでも、底まで潜るのは無理だわよね」
「二百フィートも? わたしはせいぜい数フィートも潜れたらいいほうですわ」
 ウォーレス博士は最新式の写真機を触っている。
「やれやれ、ドッジソン教授がいたら、『現れ出た怪物を撮り逃す』ということもないだろうでしょうが、わしは自信がないですぞ」
「第一、怪物が夜に現れたらお手上げですぞ」クルックス博士は、自慢の石油式自家発電機と、投光器を組み立てながら言った。「…マグネシウムの光はもちろん、わしのこの投光器の光も、ぼんやりと照らし出せる程度で、とても写真を写せるほどでは…」
「いえいえ、ご謙遜でしょう」 ドイルは投光器の電球を興味深げに眺めた。「この電球のフィラメントは、やはり竹ですか?」
「そうじゃよ。わしは近々タングステンが実用化されると思っているのじゃが」 クルックス博士は、まるで宝物を扱うように電球を取り付けた。
「さぁ、ブライディーにデイジー、今度は君たちの天幕を建てよう!」
 三張り目を建てる頃には、一同だんだん慣れてきて、皺もたるみもなく完成した。
 メイドさんたちは天幕に入って、私物の荷物を広げ始めた。
「素敵! まるでジプシーになったような気分だわ!」 デイジーははしゃぎながらランプを吊した。「おや、お姉ちゃん、浮かない顔ね?」
「わたしはやっぱり屋根のあるところのほうが… 徴税吏に借家を焼かれて追い出されてしまった時のことを思い出すわ。…幌付きの荷馬車を持っていた人が、本当に羨ましくて…」
「ブライディーにデイジー、ぼくらはこれから探査の打ち合わせをするから、君たちは水遊びでもしてこないか?」
 外からドイルの声がした。
「えっ!」
「行こうよ、お姉ちゃん!」 デイジーは百貨店で買った水着の入った鞄を取りだした。
「あたしに泳ぎかたを教えてよ!」
「ぜひ教えてやってくれ。絶対のぞき見したりしないから」
「本当ですか?」
「紳士が覗きなんかするかね? …ついでにきれいな水を汲んできてくれ」
「…………」
 メイドさんたちは天幕の中で水着に黒いぶかぶか皺しわ、提灯お尻の水着に着替えて、その上からマントを羽織って外に出た。
「それではお言葉に甘えて… すぐに戻って夕食の支度をさせて頂きます」
 初夏だというのに、湖の水は冷たく澄み切って、かなり底のほうまで見渡せた。風は涼しく空気は爽やかで、強いて水遊びなどする気になれなかったブライディーは、マントを羽織ったまま湖岸にたたずんでいた。最初、膝のあたりまでのところで遊んでいたデイジーも、ゴム製の白い浮き輪につかまって上手に泳いでいた。
「お姉ちゃん、こんなのでいいの?」
「初めてにしては上出来だわ。万一浮き輪が破れたりしたら大変だから、あまり遠くへ行ってはだめよ」
(でもデイジーって、こんな冷たい水によく入れるわねぇ。水遊びがよほど珍しいのかしら? アイルランドのいま時分よりも、ずっと冷たくて寒いじゃない)
 と、ふと誰かに見られているような気がした。
(ドイル様? まさか! あのドイル様が… 地元の人かな?)
 メイドさんはマントの胸元をかき合わせて周囲を見渡した。
 アイルランドの森よりは木々の間隔が詰まっていない、林の葉ずれが聞こえるだけだ。
「デイジー、もうそろそろ帰らない? 夕食の支度をしなければ」
「お姉ちゃん、少しも水に入っていないじゃない?」
 数ヤード先の湖面に浮かんだデイジーがつまらなさそうな表情をしている。
「お姉ちゃんはまた明日にでも…」
 その時、浮き輪が急にしぼみだした。
「お姉ちゃん!」
「デイジー!」
 マントを脱ぎ捨てると、駆けだして飛び込んだ。
 抜き手を切って水しぶきを上げて泳ぐこと十数フィート、間一髪浮き輪の空気が完全になくなる前にデイジーを抱きとめた。
「お姉ちゃん、有難う…」
 空いている手で浮き輪の残骸を拾って確かめてみると、刃物で切り裂かれたような跡があった。
「まさか…」
 ハッとして水底のほうを覗くと、さながらさまよえる沈没船のような巨大な影とぼんやりと輝く大きな二つの目が見えた。驚くよりも先に、それの影は素早く身を躍らせて湖底へと逃げた。
(大きな魚かな?)
 デイジーを抱えて岸まで泳ぎ着いて振り返ると、やはり気のせいなんかではないような気がしてきた。

 キャンプに帰ると、ウォーレス博士が指揮をして石を組み上げたパン焼き窯と、普通のかまどが出来上がっていた。
「素敵ですわ」
 ブライディーは水着の上からマントを羽織ったまま、窯の中を覗き込んだ。
「いいだろう? これで明日から焼きたてのパンが食べられるよ」
「あたしの浮き輪が…」
 デイジーは破れて縮んだ浮き輪を手にしたままベソをかいていた。
「うーむ、浮き輪のスペアも持ってくれば良かったかもなぁ…」 ドイルは首をひねった。
「おそらくインヴァネスかエジンバラの街あたりまで行かなくては売っていないだろうし、湖の漁師さんからいらなくなったのを分けてもらえればいいのだけれど… デイジーにとっては重大問題かもしれないな」

 湖畔に薄闇が迫る頃、上着を脱いで蝶ネクタイをほどき、シャツの第一ボタンをはずしたドイルたちは、ドレスに着替えたメイドさんたちの給仕するネス湖の鱒のムニエルや焼き肉やサラダに舌鼓を打った。地元の醸造所で買ってきたスコッチ・ウィスキーが開けられて、ブライディーもほんの少しお相伴した。
「やれやれ、こんなふうにして外で肉や魚を食べていると、さながらピクト人やノルマン人、デーン人のようですな」
 クルックス博士も上機嫌だった。
 ランプやカンテラの他に、獣よけの焚き火や松明が燃やされ、さざなみが次第に濃い灰色に変わりいく湖面を眺めながらの晩餐は、また格別だった。
「さてと、明日からはブライディーとデイジーにも、ぼくたちと同じく、フィールドワークをやってもらおうか」
 ドイルは食後のパイプをくゆらせながら、白紙のノートを一冊ずつ渡した。
「『フィールドワーク』でございますか?」
「地元・現地の人にまじって、できたら生活を共にして、いろんなことを調べたり、聞き出したりすることだよ」
 ウォーレス博士は、自分が連綿と書きつづってきたノートをパラパラとめくってみせた。 ノートの表紙には百数十巻という通し番号があり、中身は、ノートのほか、珍しい動物や植物、昆虫やその生態を描いた絵がびっしりと描かれていた。
「君たちも珍しいものを見たり、聞いたりしたら、どんなつまらないことでもいいからそこに書き留めておくんだ。…この『フィールドワーク』という言葉はつい最近アメリカの学者・弁護士・実業家でニューヨーク州議会議員でもあるモルガンという人が、先住民イロクォイ族の人々の生活や文化を理解しようとして、彼らの村でいろんなことを調べて使い始めた言葉なんだよ」
「なるほど… 承知しました」
「あたし、絵には自信があるから、どんどん描くね」
 デイジーはドッジソン教授から誕生日のプレゼントに贈られた色鉛筆のセットとともに布の袋に入れて肩から掛けた。
「とりあえず、近くの村のよろず屋に肉や野菜や果物を買いに行った時に、ネス湖の怪物の噂や伝説を聞いてきてくれたらいいと思うよ」
「はい。…ところで皆様、『ネス湖の怪物』というものは、そもそもどのような姿形をしているものなのでしょうか?」
「それがまちまちなんだ」 ウォーレス博士は目撃者による再現スケッチを模写したページを広げて言った。「長さは数フィートから、数十フィート、数百フィートという人だった、という人もいる。大きな蛇だ、トカゲだ、魚だ、アザラシのようだった、という人もいれば恐竜のようだった、という人もいる」
「恐竜?」
 メイドさんたちは聞き返した。
「何億年も大昔にはこの地球上にいっぱいいたのだけれど、いまは絶滅してしまった巨大な生き物だよ」
 ウォーレス博士はそう言って、いままでに発掘された化石や、そこから推定されうる姿を記した図鑑を広げてみせてくれた。
 二本の手に二本足、または四本足、あるいはコウモリみたいに空を飛んで牙を剥いている恐ろしい生き物の数々に、ブライディーは思わず目を反らせてしまった。
「すみません。もう少しゆっくり見せてくれませんか?」
 デイジーはそう言って図鑑をまじまじと見つめ続けた。
「いいよ。もし良かったら貸して上げよう」
「ぜひ、貸してください! あたし、できるだけ写して名前も覚えます」
 デイジーはいつものように、何でもやる気十分だった。
 ここへ来て早々、なにやらとてつもないものに遭遇したような気がするブライディーだったが、さすがに言い出すことが出来ず、ノートに書き留めることも迷った末にやめて、その晩は疲れていたせいもあって、すぐに眠りに落ちてしまった。

 翌朝、ブライディーはまだ暗いうちから起き出してパン生地をこね、ウォーレス博士が築いてくれた石造りのパン焼き窯で食パンを焼いた。薪の火の加減が難しかったが、なんとかその日の全員の分のパンを焼くことが出来た。
 卵やベーコンを焼いていると、デイジーやドイルや博士たちも起き出してきた。
「デイジー、遅いわよ!」
「ごめんなさい、お姉ちゃん。ゆうべウォーレス先生からお借りした本を読んでいたら、余りにも面白かったからついつい夜更かしを…」
「興味深いだろう?」 朝食前に、早くも何匹かの魚を釣ってきたウォーレス博士は、釣り竿を立てかけながら言った。「遠い大昔には、その図鑑に書いてあるような恐ろしい生き物が、イギリスにもいっぱいいたんだよ。もちろんいまはみんな骨になって、地面の底深くに埋まってしまっているけれどね」
「それじゃあウォーレス先生、あたしたち人間も、いつかはみんな滅んでしまって、地面に埋まってしまうのですか?」
 デイジーは真剣なまなざしで訊ねた。
「デイジー、莫迦なことをお尋ね申し上げるんじゃありません!」
「いい質問だ。…ブライディー、君こそちっちゃな子の素朴な質問を、頭ごなしにしてはいけないよ」
 デイジーは博士に気づかれないようにさっと振り返ってお姉ちゃんに「あかんべー」をした。
「そうだね。人類もいつかはそうなってしまうだろうね。…けれどもデイジー、それは遠い遠い未来の話で、君が生きているあいだは大丈夫だから安心していいよ」
 デイジーはホッとした様子で組み立て式のテーブルにテーブルクロスを敷き、お皿やコップを並べ始めた。

 湖の水でお皿などを洗い、日当たりのよい場所に洗い物を干し、ウォーレス博士に手伝って貰って生ゴミを埋めると、メイドさんの仕事はほぼ片づいた。お屋敷にいる時と違って、掃除というものをほとんどしなくていいのが楽だった。
(ポピーはうまくやってくれているかしら? いろんな道具をしまってある場所は帳面に書き置いてきたけれど、ちゃんと見つけ出して使いこなしているかしら?)
 そんなことを考えながら、波の輝く湖面を眺めていると、片手に買い物籠を手にしたデイジーが手を引いた。
「お姉ちゃん、ドイル様が『近くの村に買い物に行ってきて』って。『野菜と卵と、できたらお肉も買ってきて』って」
 二人は湖面を渡る爽やかな風に吹かれながら、途中、食卓に飾る花も摘みながら村へとやってきた。
「へぇー、『湖に潜む怪物のことを調べに、はるばるロンドンからやってきた学者さんたちのメイドさん』ねぇ… 大変ねぇ…」
 村のよろず屋の奥さんは、野菜や卵を新聞紙に包んで大小ふたつのバスケットに詰め分けてくれながら言った。
「あの… おかみさんや村のかたがたは、怪物の存在を信じておられるのですか?」
 ブライディーは(ちょっと高いんじゃあないかしら?)と思いつつ財布を取り出して訊ねた。
「おばちゃん。品物が良かったら、ずっとここで買うからまけて!」
 デイジーは店中に響き渡るような声で言った。
「はいはい。じゃあ端数はおまけしますよ。…村の人でまともにそんな生き物のことを信じている人なんか、まずいないわよ。…だけども、ときどき、忘れてしまった頃に目撃者が現れるのよ」
 おかみさんは苦笑いを浮かべながら答えてくれた。

「お姉ちゃん、だめじゃない? 値切るのを忘れちゃあ」
 二人がバスケットを手にしてキャンプに戻ろうとしていた途中、道の真ん中に、つぎはぎだらけのドレスを着て、しみの浮いた帽子をかぶった、ブライディーと同じ年頃の、ややきつい目をした少女が立ちふさがっていた。
「貴女たちね、『ネス湖の怪物の調査に来た学者さんのメイド』というのは? 帰ったらご主人たちに言いなさい。『さっさと早く帰らないと、災厄が起きるわよ』って」
「貴女誰よ?」
 デイジーが踏み出そうとするのをブライディーが制した。
「だめよデイジー、地元の子とけんか腰になったりなんかしちゃあ。…すみません。失礼ですが、貴女はどなた様でしょうか?」
「あたしはネッティ。このネス湖の巫女よ! ネス湖の魔物は、このあたしの言うことだけを聞くのよ!」

「わたしはブライディー、こちらはデイジー。二人ともロンドンの『英国心霊研究協会』のお屋敷で働かせて頂いているメイドよ」
 ブライディーは微笑みながらネッティに近づいた。
「『英国心霊研究協会』? 何よそれ?」
 チラリとだけどよく見ると、ネッティの衣服はひどくすり切れていた。
「例えば、降霊術や妖精を写したという写真なんかを調べて、それがインチキなものだったら正体を暴く、科学者や小説家などの有志の皆さんの集まりよ」
「イングランドではどうか知らないけれど、ネス湖の守り神だけは本当にいるんだからね!」
 ネッティはむきになって言った。
「…それと、守り神が守っているお宝は、スコットランドのものだから、潜って探したりしないでね!」
「お宝」と聞いて、デイジー俄然色めき立った。
「ちょっとお待ちなさいよ、貴女。大昔の宝を見つけたら、見つけた人と、その土地を持っている人と、大英帝国政府で分けると思うのだけれど。…貴女、この辺り一帯の地主か、湖で漁をする権利を持っている網元の娘なの?」
「そ、そうよ! あたしはこの村の地主兼網元も娘なのよ。親が裕福だから、魔術や魔法の本もいっぱい買ってもらって、独学で勉強しているのよ」
「本当? 信じられないわ…」
 デイジーは上目遣いに少女の顔を覗き込んだ。
「…じゃあ予言をしてあげる。明日は次第に曇ってきて雨になるわ」
「ただの『観天望気』じゃない」
「デイジー!」
 ブライディーがあいだに入った。「ごめんなさいね、ネッティさん」
「とにかく、ネス湖の守り神を見に来たのなら、まずあたしに話を通してよね」
 ネッティは腕組みして胸を反らせた。
「『話を通す』って、どういう意味よ?」
 デイジーはなおも食い下がった。
「デイジー、わたしたちはただのメイドなのだから、とりあえずドイル様たちのところへ戻りましょう」
 相手の少女を睨み付けようとするデイジーをせき立てた。
「…じゃあまたね、ネッティさん。もしもわたしたちに何かお話しがあるのなら、ドイル様や博士様たちにお願いしますね」
 すれ違い様、籠の中を覗き込んだネッティのお腹がグゥーっと鳴った。
(デイジーがいなければ、少し分けて上げるのに)
 ブライディーはそう思ったけれど、デイジーが喧嘩を始めないようにさせるのに精一杯だった。
(きのうの夕方、デイジーの浮き輪を破ったのはあの子なのかしら?)
 そうも考えたけれど、(やたらと人を疑うのはよくないわ)と打ち消した。

 ブライディーたちと別れたネッティは、湖岸に建っている漁師の物置のような、粗末な掘っ立て小屋に戻った。
 破れた木窓のそばの、藁のはみ出た寝台には、寝間着姿の夫人が横になっていた。
「お帰り、ネッティ。ロンドンから来られた紳士方は、もう案内人を雇っておられたかい?」
「いいえ、お母さん、まだみたいよ」
 ネッティは、ブライディーたちと会った時とは打って変わった笑顔で、寝台の横にしゃがんで言った。
「そう、上手く雇って貰えたらいいね。おまえは民謡も上手いし、言い伝えもたくさん知っているし、ボートも漕げるし、アーカード城址や、魚がよく釣れるところも案内できるから…」
「みんな亡くなったお父さんと、お母さんが教えてくれたんじゃあない?」
「あの紳士方、しばらくいらっしゃるみたいだし、本当に雇って貰えたらいいのに…」
 ネッティの母はもう一度しみじみと繰り返した。
「難しいみたいよ、お母さん。だってあの人たち、ロンドンからメイドさんを二人も連れてきているんですもの」
「その人たちとも、仲良くなれたらいいのにねぇ」
「昼から、あのかたたちのキャンプを訪ねてみるわ。『魔物がよく出没する場所を知っている。お父さんも魔物に襲われて亡くなった』と言ったら、きっと雇ってもらえると思うわ」

 昼から、ネス湖のあたりには黒い雲が広がり始めた。湖面にはさざ波が立ち、湖の漁師たちは、仲間同士力を合わせて自分たちの船を湖岸に引き揚げ始めた。
(ああ、あたしが『出てこい』と念じたら、ネス湖の魔物がほんのちらりとでも、姿を見せればいいのになぁ…)
 見物や釣りを早々に切り上げてチャーターした馬車に戻るインヴァネスからの日帰りの貴族や郷紳たちの観光客たちを眺めていたネッティは、溜息をつきながら思っていた。
(出てこい、ネス湖の怪物!)
 試しに、湖面を見つめてそう念じてみた。 いままで何度、そんなふうに念じたり、民謡を歌ってみたことだろう。だけども、魔物は一度たりとも現れてくれたことはなかった。
(…あの紳士方の中には、ドイル様とか言う高名な小説家のかたもいらっしゃるみたいだし、もしも雇って貰えて、紀行文や雑文にあたしのことを書いて頂いて、それが大新聞や有名な雑誌に載ったら、これからここを訪れる有名人士のかたがたは、みんなあたしを案内人に雇ってくださるかもしれない。そうなったら、後から後から、仕事に不自由することはないでしょう。…いや、それどころか、お断りするのに苦労するようになるかもしれない。さらに、それらのかたがたが、素敵な若い青年の従者を連れておられたら、夢のような恋にだって…)
 ネッティの妄想は、留まるところを知らなかった。
(もう一度、もう一度念じてみよう)
 彼女は瞳を閉じて祈り、民謡の一節を口ずさんでみた。
(どうか、どうか現れて!)
 そおっと目を見開いてみて驚いた。闇が広がる水面の一角に、ほんのかすかにアザラシのような、いままで一度もみたことのない生物が姿を現したかと思うと、一瞬にして潜って消えた。
(エッ! まさか! 本当?)
 ネッティは目をこすり、もう一度あたり一面を眺めたが、もちろん、もうそのものは二度と姿を現さなかった。
(そうだ! 念じてみよう! もしかしたらあたしの歌に惹かれたのかもしれないから、歌も歌ってみよう!)
 彼女は、先ほどと同じように、真心を込めて念じ、気持ちを込めて歌った。
 そして再び目を開くと、先ほどの生物が湖の同じ場所のあたりに顔か胴体らしいものをチラリと見せて、また潜った。
(やった! 『あれ』はあたしの呼びかけに応じて、出てきてくれるんだ!)
 勇気百倍、ネッティは、つぎはぎだらけではあるものの、一番お気に入りのドレスに着替えて、「英国心霊研究協会」の面々とメイドさんたちのキャンプを訪れた。
「何よ貴女、まだ何か用なの?」
 デイジーが調理中のスープの御玉杓子を振り上げて立ちふさがった。
「貴女たちには用はないの。あたしは、紳士や博士がたに折り入ってお話しがあるの」
「それだったらまず、このあたしに話を通して貰わないと…」
 デイジーがエプロンドレスのちっちゃな胸をそっくり返らせてふんぞりかえった。
「だから、折り入って直接申し上げたいの」
「だから、それはだめ!」
 押し問答をしているところへ、籠いっぱいにキノコを採ってきたブライディーとウォーレス博士が帰ってきた。
「まぁ、朝、村はずれで会ったあの子… 一体何をやっているのでしょう?」
 ブライディーが取り次ごうとするよりも早く、ネッティはウォーレス博士の前に立ってスカートの裾をつまんで深々と会釈した。
「ロンドンからいらした博士様でいらっしゃいますね。あたし、ネス湖の怪物を念じて呼び出すことができます。もしもまだ案内人をお決めになっていらっしゃらないのなら…」
「すまないねぇ…」 博士は気の毒そうな表情で言った。「我々は探査に際して、原則として案内人は雇わないんだよ。…あくまで自分たちの目で確かめることを旨としているのでね」
「さあさあ、お帰りはこちら!」
 デイジーはネッティの肩をつかんでひきずりかけた。
「それでは、貴男がたは、あたしが呼び出した怪物を、仲間が扮した着ぐるみか、張り子かハリボテか、それとも本物か、見破れないとでも?」
「ネッティさん、いくら何でもその言い方は失礼よ!」
 ブライディーは顔を紅潮させ、デイジーに至っては後ろ手にキノコ包丁を隠し構えた。

「仕方ないなぁ、そこまで言うのだったら、君と懇意だという、その生き物を見せてもらうしかないなぁ…」
 ウォーレス博士はひげを撫でながら言った。「ウォーレス先生、騙されてはだめよ!」
 デイジーが叫んだ。「この子は、案内料の前金半金を取るつもりなんだわ!」
 ブライディーはそぉーっとデイジーの背に回り込んできのこ包丁を取り上げた。
「お金は… 案内料は、怪物を目撃されてからでいいです!」 ネッティの目にうっすらと涙がたまりはじめた。
「分かった分かった。案内してもらおう。わしはクルックス博士やドイル君たちと相談してくるよ。…ちなみに、もしも我々のうちの一人でも、問題の怪物らしきものを目撃し、なおかつそれが真と認めた場合や、真偽を確定できなかった場合の案内料金はいくらかね?」
 ネッティは、メイドさんたちの一週間分のお給金ほどの金額を言った。
「高いわ! 高すぎる!」
 デイジーは唾を飛ばして言った。
「…いいだろう。確かにボルネオやスマトラを探検したときに、原住民にプレゼントしたガラス玉や織物の布に比べたら高いかもしれないが、我々だっていつまでもキャンプしていられる訳じゃあない。もしも、謎の生き物が姿を現しやすいポイントを知っているというのなら、まして成功報酬でいいと言うのなら、あながちそう暴利でもあるまい」
「有難うございます!」
 ウォーレス博士の言葉に、ネッティは深々と頭を下げた。
「ウォーレス先生、こんなどこの馬の骨とも分からない子の言うことを信じていいんですか? …どうせ、着ぐるみを着た仲間か、水の上に浮くゼンマイ仕掛けのからくり人形を見せられるだけに決まっています!」
 形勢は逆転、デイジーの瞳のほうから先に涙があふれはじめた。
「デイジー、先生方やドイル様たちに失礼よ! もしもそんなのだったら、皆様がたちどころに見破ってくださいますって」
 ブライディーはデイジーを押さえているのに精一杯だった。
「そんなことに大切なお金を使われるぐらいだったら、あたしがお手当を頂いて潜るわ」
「デイジー、貴女泳げないでしょう?」
「あたしも、あたしも一緒に確かめて見破ってやるから!」
 デイジーはとうとう泣きじゃくりながら、そう言い捨てて天幕の中に逃げ込んでしまった。

 一同がキャンプを張ってからはじめて、雲行きが非常に怪しくなってきた。
 空は濃い鉛色に変わり、風はさらに一層強く湖面を波立たせ、木立を大きく揺らし、雨粒がポツリポツリと頬に当たり始めた。
 ネッティが案内した岩の上に集まった博士たちやドイルは、それぞれ自慢のカールツァイスの双眼鏡や望遠鏡を手にして、ブライディーとデイジーは両目の下にかまどの炭を塗って、まばたきもせず目の下の湖面を見つめていた。
「さぁ、呼び寄せてもらいましょうか。貴女の言うことを聞くという怪物を…」
 デイジーは腹から振り絞るような声で言った。
 ネッティは瞳を軽くとじ、両手を胸の上で組んで静かに祈り始めた。
 つづいて、ロンドンでは知られていない珍しいスコットランドの民謡を口ずさんだ。
 美しい旋律だったので、ブライディーはつい心の中で復唱し、担当する区域の見張りがおろそかになった。
 と、
「おい!」
「あそこを見ろ!」
「どこだ?」
「こっちだ!」
 と言った声が次々に発せられた。
 双眼鏡や望遠鏡が一斉にそちらの方向を向いた。
 ブライディーもあわててそのほうに目をこらした。
 すると、灰色の湖面に、ビール樽よりも太い、何フィートもある海蛇のような生き物がチラリと見えた。それは一瞬のことで、それはすぐに波の下に姿を隠した。
「ト、トリックよ!」
 デイジーはいきなりその場でドレスを脱ぎ捨てて肌着姿になった。
「あたしが潜って確かめてやる!」
「デイジー、莫迦なことをしないで! こんなに荒れていたら、わたしでも溺れるわ」
 ブライディーやドイル、博士たちが寄ってたかって止めた。そのために、せっかく現れた怪物の観察がおろそかになった。皆が再び双眼鏡などを手にした時、そのものの姿は完全に水面から消え去っていた。
 そばではネッティがただ一人、勝ち誇った笑みを浮かべていた。

 夕方、とうとう雨が降り出した。
 ネッティは博士たちから貰った、今回と次回の分の「案内料」の一部で卵や肉や、野菜や果物を買って、湖のほとりの小屋のような家に帰った。
「お母さん、喜んで! あたし、あの博士さんたちに案内人に雇って貰ったわ!」
「そうかい。おまえは愛想も気だても良いから、きっと雇って貰えると思ったよ」
 ネッティの母も寝台から起きあがった。
「明日の朝晴れたら、お医者さんも呼んでくるね!」
「明日の朝晴れたら、おまえはまた博士様たちを案内して差し上げなければならないんじゃあ?」
「そうね。そうだったわ!」
 はしゃぎながら薪に火を付け、料理を作り始めた。小屋に、久しぶりにご馳走の匂いが立ちこめた。

 小屋からこぼれる灯りを眺め、笑い声を聞いている、ボルサリーノの帽子をかぶり、ミラノ仕立ての灰色の背広を着た男がいた。 男は、帽子や上着が次第に雨に濡れていくのも気にせずに、母と娘の嬉しそうなやりとりを伺っていた。
「いまのうちにせいぜい喜んでいてもらおうか。私は、いましばらく、おまえが願い念じる通りに、いろんな姿形の怪物を、いくらでも出してやるから… ローレンスやミレディたちの仇、必ず取らせてもらう。…この陰鬱な湖を、やつらの墓場にしてくれよう」
 男は帽子のひさしにちょっと手をやった。
「ドイルにクルックス、ウォーレス、それにあのいまいましいメイドたち。おまえたちが、いい気になり、ついに人が知るべきではないことを知ってしまう前に、全員湖底に沈めてやるからそう思え!」

 クリスマスと復活祭がいっぺんに来たようなネッティの小屋とは裏腹に、英国心霊研究協会の天幕は沈んでいた。
 雨のせいで新たな料理を煮炊きすることができず、ブライディーは昨晩のシチューにキノコを入れて作り直したものとコーヒーをアルコールランプで暖め直して各々の天幕に配って回った。
「申し訳ありません。あの時、デイジーが騒ぎ立てなければ、もう少ししっかりと観察したり、写真に撮ることだってできましたのに… わたくしがきつく叱っておきますので…」
「余りきつく言ってはいけないよ」 ドイルはコーヒーを一口だけ啜った。「あまり言うと、あの子のことだ。誰も見ていない時に湖に小舟をこぎ出すくらいのことはするかもしれない」
「そんなことがないように、しっかり気を付けておきます。眠る時は、天幕の出入り口に鈴を…」
「そんなことをしたら、デイジーが用を足しに行く時にも目が覚めてしまっておちおち眠れないぞ」
 クルックス博士は腕組みをしたまま言った。
 ウォーレス博士は、先ほどネッティの召喚のもとに姿を現した生き物の一部分を懸命に思い出してスケッチし、持参した図鑑の図と照らし合わせていた。
「チラッと見ただけでよく分からなかったが、『あれ』には触角があったような… もしや、一八三六年、セジウィック博士がウェールズ即ちカンブリアで発見した、恐竜がいた頃よりももっと古い、石炭木が生えていた頃の奇妙奇天烈な生き物たちの生き残りだろうか?」
「ウォーレス先生、ご研究は後にして、どうか召し上がってください。万一お身体を壊されては、明日からの探検に差し障ります」
 メイドさんに促されて、博士はしぶしぶ夕食を食べ始めたが、正直、心ここにあらずといった様子だった。
「ウォーレス博士、真剣に考えられるのはまだ早いかもしれませんよ」
 早々と皿を空にしたドイルは、パイプに葉を詰めながら言った。
「デイジーの言うとおり、あの時、我々の前に姿を現したモノは、ネッティが仕掛けたなんらかのトリックである可能性もある訳です」
「しかし、あの天候。人が扮していたとは思えず、岸から糸で操られているような動きでもなかったですぞ」
「あのネッティという子の導きで、その生き物がもう一度姿を現したとき、今度こそ、しっかりと見極めましょう」
 天幕の中に料理やコーヒーやパイプの煙が立ちこめて、ようやく人心地がついてきた。
「命綱をつけたブライディーに水着で待機してもらっていて、今度怪物が現れたらすかさず飛び込んでもらうというのは?」
 誰かから、とんでもない案が飛び出した。

「わたし、絶対に嫌だわ…」
 ブライディーは天幕に当たる雨音を聞きながら、さっさと寝間着に着替えて寝袋にくるまって図鑑を読んでいるデイジーに向かって言った。
「でも、皆様がおっしゃっているように、ネッティが呼び出したという謎の生物の真偽を確かめるためには、やはりお姉ちゃんがすかさず潜って確かめるのが一番確実でしょう?」
 デイジーは続きのページから目を上げずに言った。
「ネッティがもう少し長く、謎の生物を湖面に引き留めることができれば、皆様が写真に撮ったり、正体を暴いたりできるのに…」
「無理無理、もしそうなったらあの子はもう案内人をお払い箱になるでしょ?」 デイジーは空いているほうの手を横に振って言った。
「仮にそれができてもやらないわ。思わせぶりに小出しにして、わたしたちがロンドンに帰る日が来ても、きっと全部は見せてはくれないわ。でないと、また次、来年の夏に来て貰えないもの」
「そうかなぁ…」
 メイドさんは頬杖をつきながら天幕の屋根を見上げてつぶやいた。
「そうそう。そういうものよ」
「ねぇ、デイジー。貴女、降霊術が得意だったら、魔物を呼び出したりもできるのじゃない?」
 デイジーはパッと目を見開いたかと思うと、読みかけの本を投げ出して、寝袋からガバッと身を起こした。
「そうね、そうよね! お姉ちゃんもたまにはいいことを言うわよね」
「でしょう? あの子にできることが貴女にできないはずはないと思うのよ」
 ブライディーは必死だった。
「その通りだわ! どうしていままでそのことに気が付かなかったのかしら」 デイジーにいつものようにやる気満々の表情が甦ってきた。「早速いまからドイル様や皆様の天幕を訪れて、申し上げてみるわ。…もしも明日の朝晴れれば、またあの子が来てしまうもの」
 デイジーはいまさっき着替えたばかりの寝間着を手早く脱ぎ捨てて、ドレスに着替えた。
「お姉ちゃんも一緒に申し上げてあげようか?」
「いえ、いいわ。これはあたしとあの子との勝負なのだから」
 仁王立ちになって両手の拳を握り締める妹分に、ブライディーはこれほど有り難みと頼もしさを感じたことはなかった。
「でもデイジー、こんなことを言っては悪いけれど、自信はあるの?」
「あるもないも、やってやり遂げるしかないでしょう、お姉ちゃん」
「でも万一、あくまで万一のことだけれど、うまく行かなかったら、ドイル様や皆様が失望なされるわ。だから、ここは満を持して、皆様には内緒で、試してみてから申し上げなくていいかしら?」
「お姉ちゃん…」 デイジーは哀れむような目でブライディーを見つめて言った。「練習してできなかったからと言って、それで諦めてしまうわけ?」
「いえ、決してそういう意味では…」
「だったらいきなり本番でも、同じことでしょう?」
「そう言われれば、そうね。…ところで、魔物が本当に潜んでいるのかどうか、もしそうだったら出現しやすい場所を占ってみなくていい?」
 ブライディーは持参した「不思議の国のアリス」のタロット・カードを取りだした。メイドさんは、水着姿で怪物を追って飛び込まなくていいのなら何でもしようと心に決めていた。
「ぜひお願いするわ、お姉ちゃん! あたしはネッティのはトリックだって信じているから」
 心を静め、カードを切り、ランプが照らし出す白い絹の布の上にゆっくりと陣を組んで並べ始めた。いつもは冷やかしの目でしかお姉ちゃんの占いを見たことがないデイジーも、今夜ばかりは真剣そのものの表情で、次々と表を向けられるカードを注視し続けていた。
 と、やや火照っていたお姉ちゃんの顔から血の気が引き始めた。
「どうしたの、お姉ちゃん? 怪物は伝説だけの存在で、本当はそんなものはいやしないの?」
「デイジー、悪いことは言わない。魔物の召喚はやめたほうがいいわ。…いや、それどころか、わたしたち、観光や物見遊山ならいざしらず、本格的な探検が目的なら、一刻も早く止めたほうがいいと思うわ」
「だからどうしたのよ、お姉ちゃん。ネッティをへこますアイデアを言い出したのはお姉ちゃんじゃない?」
「ネッティ… あの子もこんなことをこのままずっと続ければ、そのうちただでは済まなくなるわ」
 ブライディーは鞄の中から気付け薬のウイスキーの小瓶を取り出すと、一口、二口とあおった。

「ああ、どうしよう!」 ブライディーは寝袋の中で輾転反側を繰り返していた。「…このことをドイル様や、博士様たちに申し上げて良いものか、どうか… いやだめ。きっと『おまえは科学の発達を阻害する迷信論者なのか?』と言われてしまうわ。でも放っておくと、何もなければそれでいいけれど、もしもどこかで、ローレンスやミレディのような邪悪な意思を持った者が恐ろしいことを企んでいたら、取り返しがつかないことになってしまうわ」
「お姉ちゃん、さっきから一人で何をぶつぶつ文句を言っているのよ? 迷惑よ!」
 デイジーは寝ぼけまなこであくびをかみ殺す。
「ごめんなさい。でも… でも…」
「明日の朝はやろうね。もしもネッティが朝早くやってきても、あの子が呼び出す前に、あたしたちだって同じことができることを見せつけてやろうよ」
「だから、それが危険なのよ」
「どうして? 魔物が本当にいて、何度も呼び出しているうちに、ついに怒り出して暴れ出したりしたら困るから?」
「そう。そうよ…」
「だけども、あたしたちがやらなかったら、ネッティがやってしまうじゃない?」
「だから、そうなる前に、先に、怪物が暴れ出した場合、封じる方法を講じていなければ…」
「シスター・セアラ様は?」
「セアラ様にお願いしたいけれど、ヴァチカンからじゃあ、とてもじゃないけれど間に合わないわ」
 メイドさんはいまにも泣き出しそうな表情で言った。
「サダルメリク・アルハザード君ならできるかも…」
 デイジーがポツリとつぶやいた。
「あのソーホー街にできたアラビア語の本の書店の少年ね。貴女が電報を打ったらここへ来てくれるかしら?」
「無理よ」 デイジーはごそごそと寝袋からはい出して、雨が降り続いている天幕の外を眺めた。「…サダルメリク君は、あたしたち西洋人が十字軍を作って遠征して、さんざんひどい目に遭わせたアラビア人の子孫なのよ。そのあたしたちがスコットランドの湖に棲む魔物を勝手に呼び出して、滅茶苦茶にされたとしても『自業自得だ』とか言って高みの見物をしているのが関の山よ」
「じゃあ、あのかたはどうかしら。…『黄金の暁団』のアレイスター・クロウリー様」
「あ、その人の名前だったら、サダルメリク君が時々言っている。その人だったら、何とかできるかも…」
 デイジーは雨が降り込む天幕の出入り口をとじ合わせて、寝袋の中に戻った。
「デイジー、お姉ちゃん、明日夜が明けたらインヴァネスの街まで言って、クロウリー様に電報を打ってくるわ」
「えっ、『黄金の暁団』に? ドイル様や先生がたが気を悪くなされるわ」 ちっちゃなメイドさんは目を丸くした。「…第一お願いしたところで、引き受けて下さるかどうかも分からないし、もしも断られたら恥はかくわ、ドイル様たちからは裏切ったように思われるわ、いいことなしよ」
「でも、万一のことを考えるとそれしか方法が… あの子、ネッティにお願いしても止めてくれるとは思えないし」
「止めるわけないじゃん。あの子いまごろご馳走を食べて、村の古着屋さんで買ってきたドレスの裾を直していると思うわ。それに、もしもまかり間違って、説得を聞き入れて止めたとしても、このあたしは止めないもん」
「えっ?」
 今度はブライディーが自分の耳を疑った。
「…だって、そうでしょうお姉ちゃん。ネッティが止めても、あたしが止めても、いつかは誰かがやってしまうのでしょう? 『秘密を知りたい』という人の止むに止まれない気持ちはどうしようもないの」
「そんな…」
「お姉ちゃんが街に電報を打ちに行くのと同じように、ネッティとあたしは、どちらが先に魔物を呼び出すか、術争いをするの。このことは誰にも止められないの」
 言い捨ててデイジーはそっぽを向いた。

 翌朝はまだどんよりとしていたが、雨はほとんど上がった。メイドさんはデイジーに朝食の支度などを頼んで、朝靄の中、ぬかるみを踏みしめ、頭巾を浅くかぶって村への道を急いだ。
 村からは、早々にインヴァネス行きの乗合馬車が出るはずだった。
 小雨の中、朝市が開かれている村の通りで、ネッティとばったり出会った。彼女はデイジーの言ったとおり、きのうよりもずっといいドレスを着ていた。
「おや、きのうのメイドさん、どちらまで?」
「ネッティさん、お願いがあるの」
 ブライディーは深々と頭を下げた。
「『魔物を呼び出すのを止めて欲しい』でしょ? 絶対に嫌よ」
 ネッティは唇を歪めて言った。

「そりゃあ貴女がたは、ロンドンの立派なお屋敷に勤め口があっていいでしょうけれど、このあたりは本当にものなりも乏しいし、働き口もないの。釣りなどをなされる紳士方は男の案内人を雇われるし、あたしなんか、あたしなんか…」
 強気のネッティには珍しく、後は少しだが涙声になった。
「気持ちは分かるけれども、そのうちいつかきっとひどいことになってしまうわよ。脅す訳じゃあないけれど、そうなったらもう誰にもどうすることもできなくてよ」
 ブライディーもまた、瞳をうるませながら言った。
「『英国心霊研究協会』のメイドさんなら、きっと普通のメイドさんよりもいいお給金を頂いているのでしょうね。…貴女もきっとただのメイドじゃなしに、降霊術か、占いか、何かできるのでしょう? あたしは、それと同じようにネス湖の魔物を呼び出せるだけよ。…どうして、できること、能力を元手にしてお金儲けをしてはいけないの? 貴女だけはやってもよくて、あたしにだけやめろと言うのは不公平で理不尽だわ」
 あまりにもネッティが興奮して話すものだから、朝市の通りがかりのキルトを着た男達や婦人たちや農夫たちが足を止めて取り囲み始めた。メイドさんはだんだんといたたまれなくなってきた。
 しかし不思議なことに、彼女は土地の人間のはずなのに、誰一人として肩を持つ者も、仲裁に入る者もなく、それどころか、子供連れの夫人の中には、その子供の手をきつく引っ張って、さっさとその場から立ち去る者も少なくなかった。
 メイドさんは、ミレディがなりすましたシスター・セアラに言われたことを思い出していた。
『…もう二度と占いはやらない、と約束してください。お兄ちゃんと二人、静かにひっそりと暮らしていくのなら、またトラブルの原因になりかねないと思うからです』
 ボーッとしていると、乗合馬車の御者が叫ぶ声が響いた。
「インヴァネス行きの乗り合い馬車が出るぞ。もう乗る者はいないかね?」
「すいません、待って下さい。乗ります!」
 ブライディーは手を振って叫んだ。
「ちょっと待って。インヴァネスの街から電報でも打って、援軍を頼むの? ずるいわよ!」
 ネッティが両手両足を大の字に広げて立ちふさがった。言われたことも図星だった。
「乗るのかね? 乗らないのかね?」
 御者は両手でメガホンを作って再度叫んだ。
「だめよ。貴女には味方がいっぱい。あたしはたった一人。卑怯だと思わないの?」
(わたしは、いくら罵られても構わない… ドイル様や、先生方や、デイジーを守らなくては…)
 メイドさんは踵を返すと、人の輪の欠けたところをすり抜けて、ジグザグに乗合馬車を目指した。
「だからイングランド人ってずるいのよ!
 『多勢に無勢』でスコットランドの人間を袋叩きにして、せっかくつかみかけた幸せを奪ってしまうのよ!」
「わたしはアイルランド人です!」 ブライディーは振り返り様に言った。「だから、悪口を言うのなら、アイルランドの悪口を言って下さい!」
 メイドさんを乗せると、馬車はただちに出発した。
(まぁいいわ。きょうは晴れてきたらボートに乗って皆様を湖の上にご案内するつもりだから、あの子がいないほうがずっとやりやすいと思うわ)

 インヴァネスの電報局で、ブライディーはいらいらしながら電報も申込みの窓口の列に並んでいた。窓の外は雨は上がったもののまだどんよりとして、路面の水たまりそのままだった。
(早く戻らなければ、ネッティが皆様をボートに乗せて湖の真ん中に連れ出してしまうかもしれない… そうなったら、皆様のことを狙っている者にとっては、千載一遇のチャンスだわ…)
 順番が一つ進むごとに、祈る思い出書いた電報の文章を読み返してみた。
『「黄金の暁団」気付 あれいすたー・くろうりー様
 突然ノオ願イ オ許シ下サイ。ねす湖デ魔物ガ召喚サレヨウトシテイマス。私デハモウ止メラレマセン。何卒オ力ヲオ貸シ下サイマスヨウ伏シテオ願イ申シ上ゲマス。
「英国心霊研究協会めいど頭 ぶらいでぃー」』

 一方そのころ、湖畔のキャンプでは、デイジーがドイルや博士たちに食い下がっていた。
「あたしも、魔物の召喚をしてみせます。しかも、あのネッティという子のようにチラッとではなくて、ゆっくりと、納得がいくくらい十分に姿を留めさせてみせます。だからきょうは、あの子の前に、一度あたしに試させてください」
「そう言われてもねぇ、デイジー」 ウォーレス博士は眼鏡越しに目尻をうんと下げた。
「…もう案内はあの子に頼んでしまったからねぇ。君だって君に頼んだ仕事をブライディーが勝手に片付けてしまっていたら嫌だろう?」
「しかしもし皆様に危険が及んだ時、あたしだったらすぐに中止しますが、あの子だったら皆様を見捨てて自分だけ逃げてしまうかもしれません」
「やたらと人を疑うのは良くないよ、デイジー」
 ドイルはパイプをくゆらせながら言った。
「いいから君は、私たちがボートに乗って観察しているあいだ、ここで留守番かたがた昼食の準備をしていてくれたまえ」
 クルックス博士がきっぱりと言った。
「そんな… それではもしも万一、怪物が全身を現して暴れて、ボートがひっくり返ったら、大変なことになります。ぜひあたしもボートに乗せてください!」
「君を乗せていて万一に遭遇したところで、君は泳げないのだろう? ブライディーに頼もうと思ったんだが、勝手にどこかへ行ってしまっていないし…」
「お姉ちゃんは足りないものがあったので、インヴァネスの街まで買いに行ったんです」
「その『足りないもの』って、一体何だね? もしも納得がいくような物なのだったら、君を希望通りボートに乗せてあげよう」
 クルックス博士が威厳に満ちた声で言ったが、当然デイジーは答えられなかった。
「まあまあ、博士。ブライディーは水着姿で皆と一緒にボートに乗らなければならないのが恥ずかしかったんですよ」 ドイルが割って入った。「…いくら上からマントを羽織っているとはいえ、そこは年頃の女の子ですから…」
「そんなんじゃあありません!」
 デイジーは粘る。
「じゃあ、何なのよ?」
 一同の後ろから声がした。振り返ると昨日よりはずっといいドレスに身を包んだネッティが立っていた。
「…さぁ、それでは参りましょうか、皆様。ボートを借りて参りました」
 彼女の先導でドイルや博士たちは湖岸へと降りる道を下って行った。雨は上がったものの、湖には霧が立ちこめている。デイジーも、皆がいなくなると火の始末をしてコッソリと後をつけた。

「これに… 乗るのかね?」
 見せられたボートを見た心霊研究協会の会員たちは一様に顔を曇られた。
 まるで薪にするために陸にあげてあったものを拾ってきたような、あちこち板でつぎはぎを当てた、おまけに五、六人が乗り込むにはかなり小さく手狭な、下手をすると怪物が現れなくても自分でひっくり返ってしまいそうなみすぼらしい船だった。
「もっといいボートはなかったのかね?」
「あたしがここまで漕いできたのですから大丈夫ですよ」 ネッティが胸を張った。「いくらきれいで安全なボートでも、間近に魔物が現れなければ意味がない訳でしょう?」
「それにしたって…」
「良いボートを借りられるだけの十分な前渡し金を渡したはずだが…」
「では、止められるかたは、きのうのように陸から双眼鏡などでの観察を行って下さい。希望者だけご案内申し上げますわ」
「私は乗せてもらうよ」
 ウォーレス博士が穏やかな声で言いながら一番に乗り込んだ。
「ウォーレス君、本気で言っているのかね?」
 クルックス博士が血相を変えた。
「南洋の原住民の葦船も、このような感じでした」
「じゃあ私も、『虎穴に苛ずんば虎児を得ず』というところでしょうか」
 ドイルも後に続いた。こうなるとクルックス博士も引き下がれなくなった。
「皆様、どうかいましばらく、お姉ちゃんが帰ってくるまでお待ち下さい!」
 草むらの陰からデイジーが飛び出した。
「…こんな狸の泥船に… どうしても、とおっしゃるのならせめてお姉ちゃんが帰ってきてからにして下さい!」
「うるさい子ねぇ。ブライディーならインヴァネス行きの乗合馬車に乗っていたから、夕方まで帰ってはこないわよ!」
 ネッティはちっちゃなメイドさんを睨みつけた。

「デイジー、よさないか。私たちは納得の上で案内を頼んでいるんだ!」
 クルックス博士が怒鳴りつけた。
「しかし先生。船と船頭は別に雇われるという方法も…」
「貴女もしつこいわね。関わりのない人が一緒にいると、あたしが集中できないのよ」
 ネッティはそう言いながら、とも綱を解いて櫂を押して岸から離れようとした。
「先生方、思いとどまってください! これはきっと何かの罠です。湖の上に出られるとおっしゃるのなら、熟練した漁師さんを船頭に、このあたし、デイジーを術者に命じてこぎ出して下さい!」
「ふん。何を言いたいのかと思ったら、結局そのことが言いたかっただけじゃない。貴女は、ロンドンとかではそこそこの降霊術をやってのけたそうだけれど、生憎ここネス湖の魔物は『生きている』のよ!」
 ボートはどんどん遠ざかり、小さくなっていく…
 デイジーはボートを目で追って、湖岸から陸の上に上った。
「…皆様…」

 ボートの上のドイルや博士たちは、思ったよりも濃い霧と激しい波しぶきに、懸命にしがみついていた。
 それでもドイルはネッティに
「櫓を操っていたら魔物を呼び出しにくいだろう。代わろうか?」と声を掛けた。
「いえ、お客様にそのようなことをさせるわけには…」
「ドイル君、代わってあげたまえ。我々は湖の真ん中で揺られるために船に乗っているのではない」
「わかりました」
 ドイルは上着を脱いで櫓を受け取った。
「さぁネッティ、頑張って魔物を、わしたちの目の前に出現させてくれたまえ」
「承知しました」
 霧が流れる中、彼女は大きく揺れる船の真ん中に立って、両手を胸の前で組み、心を静めてからスコットランドの民謡を歌い始めた。

 その様子を対岸から双眼鏡で眺めているイタリア製の帽子をかぶった男がいた。
「…メイドたちは乗らなかったのだな。まあいいか。ドイルや爺いどもを沈めてしまえば、『英国心霊研究協会』は壊滅するだろう…」 彼が、およそ誰も聴いたことのない、太古の、失われた大陸の国の言葉で静かに呪文を唱え、両手で円や弧を描いて印を結ぶと、水面の荒れは一層激しくなって、湖の中から霧を裂いて、何かとてつもなく大きな生き物がゆっくりと、その鎌首をもたげ始めた。
「冥土の土産に、少し楽しませてやるか…」

 ボートの上のドイルや博士たち、それにネッティはただならぬ雰囲気にそれぞれ縁や椅子にしがみついた。
「いよいよ… いよいよ現れるのか…」
 ウォーレス博士は不安と期待に満ちあふれた目を輝かせ、あたりを見渡した。
 すると、一瞬、キリンの首のような長いものが水面から水しぶきを引きずって姿を現した。
「おおーっ!」
 霧のせいでハッキリとは見えなかったが、博士たちは一斉に驚嘆の声を上げた。ドイルは潜水艦か何かではないかと冷静に目を凝らしていた。
 クルックス博士は持参した写真機を構えようとしたものの、揺れが激しくてとてもそれどころではなかった。
 ウォーレス博士は、興奮を抑えることができず、ただじっとそのものの姿を追い続けようと試みていた。
「皆様、しかとご覧になられましたか? どうか、お心付けのほうをお忘れ無くよろしくお願い申し上げます」
 ネッティは、自分が祈った通りに魔物が姿を現してしまったことに焦っていた。紳士方が早々に魔物の正体を判別してロンドンに帰ってしまったら、それはそれで困るからだった。

 その様子を陸から眺めていたデイジーは息を呑んだ。霧のせいで影がゆらめいている程度しか分からなかったけれど、魔物はボートの何倍も何十倍も大きかったからだ。
(今度近づいたら間違いなく転覆して沈められてしまうわ!)
 でも助ける方法はない。
 たとえ自分が水練の名人であったとしても、こんな状態の湖に飛び込んで、大人を助けるのは不可能だった。
(神様… お姉ちゃん…)
 ひとしきり祈って、再びパッと目を開けた時、村のほうから、ドレスの裾をつまんで必死で走ってくるブライディーの姿が目に飛び込んできた。
「お姉ちゃん!」

「デイジー、ドイル様や皆様は?」
 ブライディーは息せき切って訊ねた。
「それが、それが、この霧にもかかわらず、ネッティの案内で湖にボートを漕ぎ出されて… いま、何者かに襲われているような様子で…」
「何ですって!」
 目を皿のように見開いて、霧の帳の向う側、湖の真ん中あたりを見ると、なるほど、何か大きな生き物がバシャーバシャーと波音を立てて暴れているような気配が感じられた。
 乳色の霧の中、湖の真ん中あたりで何か恐ろしいことが起きているのは、もはや明らかだった。耳を澄ませば、波や風の音にまじって、ほんのかすかに女の子の悲鳴や男性の叫び声のような音が聞こえるような気がした。
「どうしましょう! こんなに視界が悪ければ、命綱をつけて飛び込んでも、方向すら分からないわ!」
「ネッティが完全に魔物を操っているのだったら、自分が危なくなったら引かせるんじゃあ?」
 口元で両手を組んだデイジーは声を震わせながら言った。
「あの子の言うことを聞いて、素直に引いてくれたらいいのだけれど…」
「聞いてくれなかったら?」

 その頃、荒波の中、木の葉のように舞うボートの上ではネッティが必死になって叫んでいた。
「お願い! ネス湖の魔物よ! もういいから湖の中に帰って!」
 ドイルはクルックス博士やウォーレス博士が跳ね上げられて水中に没するのを懸命に守ろうとして、自らが重しとなって二人を押さえていた。が、それも限界だった。
 ボートに張られた板が次々に剥がれて浸水をはじめ、やがてボートそのものも何度も転覆しかけた。
(もうだめか…)
 ドイルは心の中でそうつぶやいた。

 ブライディーは手早くドレスを脱ぐと、続いてペチコートもシミーズも、ドロワーズも脱ぎ捨てた。
「お姉ちゃん! 全部脱いでしまったら寒いよ! おととい、あたしが水遊びしていた時もやせ我慢していたんだから!」
「すぐ近くならともかく、遠くまで行かなければならないなら肌着なんか着ていたらとても泳げないわ」
「だったら水着を取ってくるよ」
「いいわ。間に合わないわ」
 ブライディーはデイジーをはじき飛ばすようにして湖面に飛び込んだ。
「無理よ! 一マイルも泳ぐなんて!」

 メイドさんが裸になって飛び込んだ様子を見ていたボルサリーノの帽子をかぶった男の顔が思わずほころんだ。
「なんてツイているんだ! あの小賢しいメイドの一人も一緒に葬れるなんて…」

「どうしよう… このままではお姉ちゃんも一緒に…」
 顔をくしゃくしゃにし、涙をポロポロこぼしていたデイジーは、やがて意を決して、背筋を伸ばし、心を落ち着かせて、何事かを念じ始めた。
(スコットランドの聖地、ネス湖の精霊よ、太古に閉ざされた結界の扉を開き、そこに封じられ、永劫の眠りに就きし古き神を、なにとぞ顕現させたまえ。いま、我が仲間を脅かせている魔物が、もしも虚ろなる幻の存在であるならば、真の存在の栄光を示し賜まわんことを…)

 勇ましく泳ぎ始めたブライディーだったが、さすがに湖の水は氷のように冷たく、手足は吊り、身体は冷えて、数十ヤードも行かないうちに痺れて動けなくなってきた。
(いけない… こんなんじゃあとても湖の真ん中まで行って… まして皆様をお助けするなんて…)
 両目は次第に霞み、水面にたなびいている霧と相まって、方向も五感も定かではなくなってきた。
(だめだわ…)
 全身の力が抜けていきそうになったちょうどその時、湖の底のほうから水が巨大な渦を巻き始めたかと思うと、また別の巨大な生き物が水面を目指して泳ぎ昇ってきた。
(何よこれ… 一体どうなっているの?)
 メイドさんは本能的に渦の外、岸辺に戻る方向へと逃げた。

 一匹でも大変なネス湖の魔物が二匹も現れたものだから、枯葉のように弄ばれて揺れるボートの上のドイルや博士たち、それにネッティはますます生きた心地がしなかった。
「なんだこれは!」
 ウォーレス博士は驚いた拍子に、大切な携帯式の写真機をとうとう湖の中に落としてしまった。
「きみ、湖の怪物は複数いるのかね?」
 ドイルは博士たちも一緒に水面に落ちてしまわないように押さえ続けながら言った。
「そんなこと知らないわよ!」
 ついに櫓も櫂も放り出したネッティも、半狂乱になって泣き叫んだ。
 そんな中、ウォーレス博士だけは冷静に二匹の巨大な生物をしっかりと見極めようと目を見開き、観察していたが、霧はますます濃く、とてもその全体をつかむまでには至らなかった。
「もういい! もういいから早く二匹とも引き揚げさせてくれ!」
 クルックス博士がネッティに向かって命令した。
「分かりました。やってみます」
 ネッティは荒れる波しぶきの中、懸命にいままで唱えてきた呪文を言ってみた。
「ネス湖の魔物よ、速やかに湖底のねぐらに戻りて、静まりたまえ…」

 一方、二匹目の怪物に阻まれて仕方なく元の岸に戻ったブライディーは、素早くマントを羽織るとデイジーに詰め寄った。
「デイジー、二匹目を呼び出したのはまさか貴女じゃないでしょうね?」
「そうだよ。このままではドイル様や皆様も、お姉ちゃんも、全員やられてしまうと思って…」
 ちっちゃなメイドさんはまたお姉ちゃんにこっぴどく平手打ちされてしまわないように身を翻らせて走って逃げつつ、二匹目の魔物を操ろうと試みた。
「真なる魔物よ、どうかかりそめ幻の魔物を追い散らせて、皆を救い賜え!」
 マントの下は裸のブライディーは思うように追いかけることができなかった。
 そうこうするうちに、深い霧の中、二匹の魔物は暴れ動くのをやめ、ついに相対峙した。

「皆さん、いまのうちです。怪物たちが睨み合っているうちに、早く岸へ!」
 ドイルは素早く櫓を取ってこぎ始めた。
「しかしせっかく、あと一歩で巨大な生物の正体が分かるというのに…」
 ウォーレス博士は本当に残念そうな表情でためらっていた。
「ウォーレス君。出直せばまた、今度はより頑丈で大きな船でくることもできる。残念ながらこの霧では、何が何なのかさっぱり見えん」
 クルックス博士も手早く打ち捨てられていた櫂を取って懸命にこぎ始めた。
 ネッティはただ、シクシクと泣き続けるだけだった。
 やがて、怪物が動いたうねりがボートを勢いよく岸に向かって押し戻した。

 しかし誰よりも驚いたのは、湖岸からネッティに糸を引いて一匹目の魔物を動かしていたイタリア製の帽子の男だった。
(なんだと! 俺と同じ術を操れる者がもう一人いるだと? …まさか、とても信じられぬ!)
 ところが、どうやらそれは同じ術ではないような様子だった。
 一匹目の魔物の影は、二匹目の影を見るなりスゴスゴと後じさりをはじめ、やがて湖の中に姿を隠してしまった。
(なんと、同じ術ではないだと? もしも同じ術だったら、よほどの力量の差がない限り相打ちになるはず。それが…)
 眉をひそめ、帽子をかぶり直し、双眼鏡を覗き直しても結果は変わらなかった。
(よもや、二匹目は本物だ、というようなことはないだろうな。万一そうなのだったらこの俺も、早々にここから退散せねばヤバいぞ…)
 ところが、どうやらその「万一」が起きたようだった。

 ほうほうのていで岸にたどり着いたドイルや博士たちに、マント姿のブライディーが駆け寄った。
「皆様、ご無事で何よりでした!」
 ドイルは泣き崩れるメイドさんを抱きしめた。
「ブライディー、飛び込んで助けに来てくれるつもりだったのか…」

「ええ、でもとても近寄れませんでした」
 ブライディーは伏し目がちに言った。
「あの状況では軍艦でも難しかったと思うよ」
 ウォーレス博士が肩をそっと叩いた。
「ところで、あの二匹目の魔物は一体何だったのだろう?」
 デイジーはしばらく口の中でぶつぶつ言っていたが、やがて決心した様子で切り出した。
「あれは、皆様の危機を救うために、あたしが一か八か呼び出したのよ!」
「何だって!」
「何ですって!」
 皆の顔色が変わった。
「だってそうでしょう? 皆様は一匹目の魔物に襲われてボートは転覆しそうになっていた。お姉ちゃんは裸で泳いで駆けつけようとするし…」
 メイドさんの顔が真っ赤になった。
「…だから、湖の魔物に一所懸命にお祈りしてみたのよ」
「結果が良く、こうやって戻れたから良いようなものの、場合によっては我々のボートはデイジーが呼び出した怪物に沈められていたところだったのかもしれないのだぞ」
 クルックス博士は口をへの字に曲げた。
「まあそう責めてやらないでください」 ドイルは油紙に包んであったパイプを取りだしてマッチで火をつけ、うまそうに一服した。「…あの時、確かに僕らは絶対絶命だった。 もしもデイジーが機転を利かせてくれていなかったら、あのまま一匹目の怪物に沈められていたところだったと思いますよ」
「次は、周到に準備を整えて、全員が一度に出かけることはやめましょう」
 ウォーレス博士は穏やかに言った。
「あたしは… あたしはどうなるのでしょう? もちろん引き続き雇って頂けるのでしょう?」
 ネッティ鼻を啜った。
「貴女はクビよ!」
 つかつかと歩み寄ったデイジーは、いまにも突き飛ばさんばかりの目つきに睨み付けた。「どうして? 貴女が二匹目を呼び出しさえしなければ、あたしは無事に皆様を岸まで送り届けていたわ」
「嘘をおっしゃい!」
 デイジーが振り上げた手をブライディーが受け止めた。
「暴力はよくないわ」
「だって、この子のせいで皆様が殺されかかったのよ」
「もうよさないか」 とうとうドイルも怒った。「済んだことは仕方がない。過ちを繰り返さないことが肝要だ。仲間割れをしている場合じゃあないだろう?」

 その日はとうとう一日中、霧が引かなかった。
 ネッティが帰った後、メイドさんは腕を振るって、シチューを新たに作り、肉を焼き、サラダを盛りつけた。
 とてもキャンプの食事だとは思えない本格的な晩餐をとっているうちに、一同の気持ちも落ち着きと和やかさが戻ってきた。
 食事の前に、次の探査は「会員とメイドさん、またはネッティが、くじ引きで二人ずつ行う。残りの者は岸で待機」ということが打ち合わされてもいた。
「ブライディー、今夜の献立はいままでの中でも特に美味しいぞ」
 ドイルはお代わりを頼みながら言った。
「あの子、ネッテイにもお相伴させてあげれば良かったのに…」
 ウォーレス博士がポツリと呟いた。
「ふん、あんな田舎者に、とてもじゃないけれどお姉ちゃんの料理の味なんて、分かるはずがないわ」
 デイジーは次々と空になる皿を下げて回りながら言った。
「地主網元の娘ならば、我々より美味いものを食べているのではないかな?」
 クルックス博士の機嫌も戻ってきた。
 と、ブライディーは、大きな木の幹の影に見慣れた人影が見え隠れしているのに気が付いた。
 もちろん、ネッティだった。彼女は、こちらの笑い声や歓声が気になっている様子だった。
 メイドさんは、感づかれないようにして料理を少しずつ取ると、デイジーが湖に洗い物用の水を汲みに降りているあいだに、ネッティのところに運んでいった。
「一口どう? 美味しいわよ」
 ネッティはしばらくためらっていたが、やがて口ごもりながら言った。
「家に持って帰って、お母さんと一緒に食べてもいいかな? あたしももちろん、料理は作るけれど、いつも同じようなものばかりで…」
「ええ、もちろん。お皿はあした返してね」

 翌朝、霧はかなり薄くなったものの、まだ遠くまで見渡せるというほどではなかった。
 ブライディーがパンを焼いていると、ネッティがおずおずと昨夜の皿を返しに来た。
「おはよう、ブライディー。お料理、とても美味しかったわ」
 ネッティはおずおずと言った。
「おはようネッティ、よかったら作り方を教えて上げるわよ」
「教えて… もらおうかな…」
 きょう一日の分のパンの焼けるいい匂いがたなびき始めた。
「どう、良かったら朝食を一緒に…」
「でも…」
「皆様やデイジーには、わたしから申し上げてみるわ」
「本当にいいの?」
「わたしたちと一緒に、賄い料理でよければ…」
 メイドさんは焼きたてのパンを二つに割って、半分は自分が味見し、もう半分を相手に渡した。ネッティはそっとそのパンを食べてみた。
「美味しい! でもちょっと変わった味がする…」
「小麦粉の他に、ジャガイモの粉を混ぜたアイルランドふうのパンよ。皆様も喜んで頂いて下さるの」
「珍しいわ…」
「待っててね。少し余分に焼いたから袋に入れてあげるね」
 ブライディーは紙袋にいくつかパンを入れて、ネッティに渡した。
 と、そこへ、デイジーが起きてきた。生あくびをかみ殺していたちっちゃなメイドさんは、ネッティの姿を見つけるなり目を吊り上げた。
「貴女何よ? よくも顔なんか出せたわね? もしかしたらきょうは、皆様のお葬式を出さなければならないところだったのよ!」
 ネッティはなぜかもう言い返しはしなかった。
「…分かっているのなら、早く帰ったらどうなの? もちろん、きょうから貴女の案内はいらないのよ」
「デイジー、ネッティはじゅうぶん心を痛めているのよ。何が誰のせいかは分からないし、ドイル様や皆様がもう何もおっしゃっていないのだから、貴女も仲直りしたらどう?」
 メイドさんはデイジーの両肩に手を置いて、これ以上は下げられないくらいに目尻を下げて言った。
「嫌よ! あたし、もうちょっとで立派なかたがたを殺めるところだった子なんかと友達ななる気はないわ」
 それを聞いて、せっかく打ち解けかけていたネッティの表情が見る見る険悪なものに変わった。
「何よ! 貴女だって、第二の魔物を呼び出してそれっきりじゃない! もしもそいつが、漁師さんや、観光客や、地元の子供たちを襲ったらどうするつもりなの?」
「それは…」
「言っておくけれど、被害が出てからでは遅いのよ。あたしは、探究と冒険に使命と探求心を燃やされている英国心霊研究協会の皆様をご案内申し上げただけだけれど、何も知らない、知らされていない一般の住民がひどい目に遭ったら、それは貴女のせいですからね!」
 デイジーは目にいっぱいの涙を溜めたかと思うと、くるっと踵を返して、そのまま湖のほうに向かって駆けだした。
「デイジー、待ちなさい! そのことは、ドイル様や皆様も、わたしもちゃんと考えているから…」
 慌てて後を追おうとしたメイドさんは、草むらに足を取られて転んだ。そばではコンソメスープが煮立ち、残りのパンが漕げ始めていた。
「なにも… あんなふうに言わなくてもいいじゃない…」
 追いかけるのを諦めてネッティのほうを振り返ると、彼女も貰ったばかりのパンの入った袋を地面に投げ捨てて去った。
 入れ違いに、ドイルや博士たちが起き出してきた。
「ドイル様、デイジーが…」
「そうだな。あの子はぼくらの命の恩人だから、朝食は後にして、手分けして探してみよう」
 ドイルの言葉にメイドさんはほろほろと涙を流した。クルックス博士もウォーレス博士も愚痴や文句を言わずに、それぞれステッキを手に散ってくれた。
「デイジー! 早く戻りなさい!」
 声を張り上げながら湖岸を歩いていくと、きのうネッティが借りてきてそのまま打ち捨ててあったはずのボートが消えていた。
(あの子が乗って帰ったのかしら? いや、「もうとても使いものにならない」と言ってたっけ。…でも、デイジーはボートを漕げたかしら?) 考えているうちに、ケンブリッジに行った時にドッジソン教授に教わっていたことを思い出した。
 湖面に目をやると、霧が再び濃くなりだしていて、とても確かめることはできなくなっていた。

(もはや、占うしかないわ)
 メイドさんはエプロンドレスのポケットから、こっそり忍ばせていたコックリさんの棒を取り出すと、心を静めて真剣に念じた。
 両手の手のひらで挟んで立てたLの字形の棒はスッと湖の真ん中のあたりを指した。
(えっ、やはり、一人、あのおんぼろのボートで漕ぎだしたのかしら?)
 もう一度占ってみた。さらにもう一度…
 何度占っても結果は同じだった。
(どうしよう? ドイル様たちにこのことをお話しして、地元の漁師さんたちの協力も仰いで、大きな漁船で船団を組んで探してもらおうかしら。…いや、いけないわ。昨日の今日だというのに、皆様を続け様に危険な目に遭わせたり、まして地元の無関係な人々を巻き込んだりしては…)
 おろおろしながら歩いていると、ネッティが持ってきたのと同じくらい、ほとんど壊れて岸に打ち捨てられている二人乗りくらいの小さなボートが目に飛び込んできた。
(…まだそんなに遠くへは行っていないはずよ。わたしの力を使えば、たとえ霧がまた濃くなっても居場所は正確に割り出せるはず…)
 ブライディーは捨てられたボートを押して湖に漕ぎだした。

 その様子を離れたところから眺めていたイタリア製の帽子の男は、ニヤリと笑った。
「メイドが二人、おんぼろボートで湖へ…
 これは面白い。ドイル以外の爺いどもは、放っておいても片足を棺桶に突っ込んでいるのも同然。あの目の上の瘤のメイドどもを仕留めれば、大威張りで大陸へ帰れるだろう…」

 キャンプの周りを中心にデイジーを探していたドイルは、ちょうどほぼ一周してウォーレス博士やクルックス博士と鉢合わせした。「木のウロや茂みも丁寧に調べたがいなかったよ」
「わしもだ。ちゃんと声もかけ続けたぞ」
 博士たちは心配そうに言った。
「ぼくもです。後は湖に漕ぎ出したとしか考えられません。危険ですから村の漁師に大きな漁船を出して貰って、ブライディーに方向を占ってもらって探しましょう」
 ドイルは村のほうに向かって駆け出しながら言った。
「おおーい、ブライディー」
 声を張り上げても返事はなかった。
「おかしいな。どうしたんだろう? まさか…」
 さすがにドイルの勘は、見事に的中していた。

 その頃、デイジーは、ネッティのボートで、ケンブリッジの小川でドッジソン教授に教えてもらったことを思い出しながら懸命に櫂を漕いでいた。かたわらには、自分の写真機と、替えの乾板と、図鑑とフィールド・ノートがあった。
(あたしが… あたしが、魔物の写真をしっかりと写して、それから魔物に「もういいから湖の底深くに帰って」と頼んでみるわ。それで皆様は満足され、危険も去る訳でしょう?)
 しかし、気持ちが焦る割には、身体が小さく、漕ぐ力も強くはないのでなかなか先には進まない。霧の中、ようやく岸が見えなくなった程度だった。
(早くしないと… お姉ちゃんが占いで追いついてきて、連れ戻されでもしたら、またこっぴどく叱られて、さんざんお尻をぶたれるわ。そうなる前にやり遂げないと…)

 イタリア製の帽子の男は、ブライディーがボートを漕ぎだし、デイジーのボートに追いつきかけるのを待ちかねて、ゆっくりと現代のどの国の言葉でもない呪文を唱えて、手で印を結んだ。
(あのメイドどもさえ始末すれば、すべては丸く収まるのだ。あいつらをこのまま見逃しておけば、そのうちに、神は本当に存在するかを占ったり、太平洋の大海溝から、この世界のすべてがまだ火の海だった頃に君臨していた存在を目覚めさせたりしかねないからな)

 ブライディーはようやくデイジーのボートの影を見つけた。
「デイジー、戻りなさい! 魔物を封印する方法については、いま、ロンドンの本物の魔導師のかたにお願いしているから!」
「嫌よ! 自分でやったことは自分で片づけるわ! あたしはお姉ちゃんみたいな甘えん坊じゃないの!」
 デイジーがピッチを上げ、ブライディーも同じようにピッチを上げた。

 湖面はいつもよりひんやりとして、まるで一足先に秋がきたような感じだった。こんな冷たい氷のような水の中では、とても遠く長い時間を泳ぐことはできない。
 二隻目のおんぼろボートで漕ぎだしたブライディーは、簡単にほんの少しだけ先を行くデイジーのボートを見つけた。
(いつもながら、デイジーを探す時には、この能力は本当に役に立つわ) メイドさんはそう思った。
(ホワイトチャペルの時も、「人形の城」の時も、間一髪だったじゃない… きょう連れ帰ったら、ドイル様たちのお許しを得て、椅子に座ったり仰向けになって寝られないくらいお尻をぶってやる…)
 内心そう思いつつ、猫なで声で叫んだ。
「デイジー、いい子だから止まりなさい! そのボートはいつ沈んでもおかしくはないくらい痛んでいるのよ。皆様もわたしも、絶対に叱ったりしないから止まりなさい」
「嫌だ! 湖の真ん中で魔物たちを呼び出して写真に撮って絵に描いて、それからちゃんと封印するまでは」 デイジーはさらにピッチを上げながら叫んだ。「あたしはお姉ちゃんみたいに、何でも人に頼むような子じゃないの。自分のしたことは、自分で後始末をするの。だから、邪魔しないで!」
(仕方ない。こうなったら…)
 ブライディーもピッチを上げた。
 あと少しで追いつき、並ぶところで、水面にブクブクと大きな泡、小さな泡が泡立ち始めた。
「デイジー、早くこっちへ、また魔物が現れようとしているわ」
 手を伸ばしても、ちっちゃなメイドさんは無視し続けた。それどころか、両手で写真機を持って、ファインダー越しに泡を見つめ始めた。
「デイジー、いい加減にしなさい!」
 真下の波が大きく、小山のように盛り上がった。二隻のボートは木の葉のように持ち上げられたかと思うと、二隻ともアッという間にひっくり返り、デイジーもブライディーも水面に投げ出された。
 その瞬間、ブライディーは一瞬チラッとではあるが怪物の正体を見た。
 やはり、大きなアザラシや魚ではなかった。 それは、時り目撃され、噂されているように、巨大で細長い海蛇に似ていたが、ウォーレス博士が見せてくれた図鑑に載っていた「恐竜」とは違って、トカゲのような脚や足ヒレは付いていなかった。目もないようだった。その代わりに頭の部分とおぼしき位置に、チョウチンアンコウの提灯のような触手が二本垂れ下がっていた。身体全体も、巨大な蛇と言うよりは、化け物のような蛭のような感じがした。色はゼリー状の半透明で、これも蛭の一種に近かった。
(嫌よ! 溺れて死ぬのも嫌だし、蛭に食べられて死ぬのはもっと嫌よ!)
 メイドさんはドレスのポケットからナイフを出して鞘を抜き、ドレスも肌着も切り裂くようにしてすべて水の中に脱ぎ捨てた。
 素早く水の中を見渡すと、怪物はドレスのまま水中でもがき苦しんでいるデイジーを見つけ、鋭い歯がずらりと並んだ口を大きく開いて、ちっちゃなメイドさんを丸飲みしようとしていた。
(デイジー!)
 口にナイフをくわえた大きなメイドさんは人魚のようにすばしこく化け物の正面に回り込んでデイジーを抱えて逃げた。
 ドレスを着たままのデイジーは重く、スピードはぐんと落ちた。が、ナイフで切って脱がせている暇はなかった。
 目の前に、大きく開かれた怪物の口がぐんぐんと迫ってきた。
(もうだめ! 今度こそおしまい…)
 デイジーを抱きしめ、目をつむって短いお祈りを唱えた。
 と、その時、怪物の動きが止まって、新たな大きな水中波が来た。
 思わず目を開くと、自分たちを狙っていた怪物が、二匹目の、同じような怪物に尾に噛みつかれてもがき苦しんでいた。
 ブライディーはとりあえず水面に浮かび上がって息を継いだ。デイジーはぐったりとして息がなかった。
「デイジー、デイジー、しっかり!」
 頬をたたくと、ようやく息を吹き返した。「お姉ちゃん…」
「よかった! 二匹が争っているうちに、早く逃げましょう!」

 一方、湖岸ではネッティが、湖の真ん中あたりの水中から響いてくるただならない気配を感じていた。
(二人のメイドさん、魔物に襲われているのじゃあないかしら? …ふん、だとしてもいい気味よ! 二人とも怪物に食われて死んじゃえばいいんだわ! 特に、ちっちゃいほうはあたしのことをさんざんいじめたし… 大きいメイドさんは親切にしてくれたけれども…)

 ネッティが怪物に襲われているらしいのを見捨て、無視してネッティがその場から歩み去ろうとした時、自転車に乗った電報局の配達係が近寄ってきた。
「やあネッティ、このあたりでキャンプをしている紳士方のメイドさんを知らないか?」
「知らないわ。知るわけがないじゃない」
「そうかい。村のインヴァネス行きの乗合馬車の発着場の近くで、親しげに話していたじゃないのかい? 預かってくれないかな。早く帰りたいんだ」
 ネッティは半ば押しつけられるようにして電報をことづけられた。
 配達係の自転車が見えなくなってから、彼女は電報を開けてみた。
『怪物召喚、湖ヲ見渡セル人目ニ付カナイ所ニイルデアロウ術者ヲ倒セ。スデニ召喚サレテシマッタノナラ、二人以上ノ術者…君トでいじーの二人デ封印ヲ試ミラレタシ。あれいすたー・くろうりー』
(「湖を見渡せる人目につかない場所」…)
 ネッティは何気なく、小走りに走って、自分が知っているそのような場所を数カ所回ってみた。
 と、何カ所目かに、見知らぬ外国人らしい外国製の中折れ帽をかぶった胡散臭い紳士が、口の中でもごもごと呪文をつぶやき続け、両手は胡乱な印を結んだり開いたりしていた。
(何よあいつ、一体何をしているの? もしも魔物を操っているのなら… もしかしたら、あたしが呼び出したと思っていたのは、あたしが呼び出したんじゃなくて、あいつが操っていた…なんてことはないわよね…)
 思い切って正面に躍り出た。
「ちょっと貴男、一体何をやっているの?」
「すまんな、お嬢ちゃん、いまとても取り込み中なんだ。後にしてくれないか」
「『取り込み中』って、何の取り込み中なの? あたしには貴男がたった一人で突っ立っているようにしか見えないけれど…」
 男は片手を背広の内ポケットに手をやると、見たことのない外国の紙幣や金貨を取り出して草の上に投げ捨てた。
「持っていけ! くれてやる。君が手にしたことのないような大金だぞ。だから邪魔をするな!」
「何よ! バカにしないで! どうせオモチャのお金でしょう?」
「これ以上邪魔立てすると…」 男は懐から、今度は拳銃を取りだして撃鉄を起こしてネッティに突きつけた。「おまえから先に始末するぞ!」
「『おまえから始末する』って、どういう意味よ? ほかにも始末したい、始末しなければならない人がいる、ってわけ?」
 男はいきなり発砲した。銃声がこだまし、ネッティは馬車にはねられたように仰向けに倒れるとドレスの胸の部分が赤く染まった。

「なんだ? いまの銃声は?」
 ドイルやウォーレス博士、クルックス博士は思わず互いに顔を見合わせた。
「あちらの方向ですぞ!」
「行ってみましょう!」
「待ってください…」
 天幕に戻ったドイルは、荷物の奥底に隠してあった拳銃と、応急手当の道具が入った鞄を取りだして手にした。

 冷たく凍えるような湖の中で、デイジーを抱えて震えていたブライディーは、化け物たちがなぜか暴れるのを止めた隙に、幸運にも再び表を向けて漂っていたボートを見つけ出し、デイジーを乗せて重しにすると、自分も這うようにして乗り込んで漕ぎだした。
「お姉ちゃん、これ着て…」
 デイジーは自分の濡れたドレスを脱いで肌着姿になって、マントのようにブライディーに着せかけた。
 もちろん、サイズが小さく、大きなメイドさんの身体をすべて覆うことはできない…
濡れているので暖かくもない。しかし、怪物から逃げることに必死の彼女には、そんなことはどうでもよかった。

 ボルサリーノの帽子をかぶった男は、一瞬呪文をどこまで唱えたかを忘れて慌てていた。
 そこへ、ドイルたちが駆けつけてきて草の上に倒れているネッティを見つけた。
「おい君、しっかりしろ! 一体どうしたんだ?」
 ドイルは男が片手に硝煙たなびく拳銃を持っているのを見た。
「君が撃ったのか?」
 男は再び何も言わずに素早く銃口をドイルに向けた。
 こんどは二発の銃声がほぼ同時に響いた。
 ドイルは身体をかたむけてかわしたが、男は帽子を飛ばして崩れるように倒れた。
 素早く駆け寄って拳銃を奪った。
「おい、貴様! 何者だ? ローレンスやミレディたちの仲間か? なぜぼくらを狙う? いや、ぼくらだけじゃない。うちのメイドたちも狙うんだ?」
 男は血走った目でドイルを睨み付けながら何か言いかけて、そのまま事切れた。
「ドイル君、早く!」
 クルックス博士やウォーレス博士に呼び戻されて、ネッティのところに戻った。
「お母さん… あたし…」
 彼女は薄目を開けて手を伸ばした。
「大丈夫、傷は浅いよ…」
「…ドイル様、一匹目の魔物はあたしが呼び出したんじゃなくて… その男が操っていたようです… 嘘をついてごめんなさい…」
「謝らなくていいよ。そんなこと、もう誰にも分かるものか…」
「これを、ブライディーに渡してください。彼女宛の電報です…」
 ネッティはそう言って血染めの紙切れを差し出した。

 一方、湖の上で懸命にボートを漕いで逃げようとしているメイドさんたちの前では、二匹いた怪物のうち一匹が、あたかも霧に溶け込むんでいくかのように、印象派の絵の点描のようになって次第に消え去っていった。
「お願い! もう用事は済んだから、元の棲み家に帰って…」
 ブライディーとデイジーは胸の上で手を組んで懸命に祈った。
 二匹目はそれを確かめ終わると、ゆっくりと湖の中へと姿を消した。
(助かった…)
 ブライディーもデイジーもホッと胸を撫で下ろした。

 数日後、ネス湖湖畔に張った天幕をすべて畳んで雇った馬車に乗せた「英国心霊研究協会」の一同は、ロンドンに帰る前にもう一度、ネッティとその母親が一緒に入院しているインヴァネスの病院を訪れた。
「嘘をついていたと言うのに、こんなに親切にして頂いてどうも有難うございました」
 ネッティと母親は寝台の上に起きあがって頭を下げた。
「とんでもない。お礼を言うのはこちらのほうです」 ブライディーはお見舞いに買ってきた花束を花瓶に活けながら言った。「あの男はわたしたちを狙っていたのに、貴女を巻き込んでしまって…」
「貴女が見栄を張って魔物を呼び出せるようなことを言うからよ」
 ボソリと言いかけたデイジーの口をブライディーは素早く手でふさいだ。
「それで、皆様を狙い、あたしを撃ったあの男は一体何者だったんですか?」
「それが残念なことに分からないのです…」 ドイルは眉根を寄せた。「…旅券も査証もみな偽物、拳銃や帽子や身につけていたものはもどれも欧州ではありふれたものでした。
 ただ…」
「ただ?」
「帽子の折り返しに紋章のようなものが描いてありました」
 ドイルは、十字架を変形させたような奇妙な紋章を描いて見せた。
「パリでローレンスが描き残したのと同じ図柄よ」
 またデイジーがぽつりとつぶやいた。
「生憎ですが、あたしにはまったく心当たりがありません…」
「そうでしょう。貴女は本来無関係なのですから…」
 花を生け終わったブライディーはドイルの傍らに下がった。
「それでは、どうか良くなるまで遠慮なさらずに療養なさってください。お金のことは心配なさらずに…」
 ドイル帽子を取って会釈すると、メイドさんたちを促して出て行こうとした。
「あの… デイジーちゃん…」 ネッティが声をかけた。「二匹目の魔物は無事に無事に封印できた?」
「貴女が受け取ってくれていた電報の通りにお姉ちゃんと一緒にやってみた。上手く行ったかどうかは分からない」 デイジーはネッティに背を向けたまま答えた。「…でもそのほうがいいでしょう? 魔物が時々姿を現したほうが、貴女だって、また案内の仕事ができるじゃない…」
 ドアを閉める前になって、デイジーはようやくネッティを正面に見た。
「ネッティ、あの男を咎めてくれて、どうも有難う」
「そんな… あたしは…」
「次は… 二人で魔物の正体を絶対突き止めようね」

「ということで、霧が濃く、まことに残念なことにネス湖に生息する巨大な生き物の正体をしかと突き止めるまでには参りませんでした」
 ロンドンの英国心霊研究協会が借りている屋敷。夏ということで夜の会合でウォーレス博士は、かすかに微笑みを浮かべながら発表をはじめた。
「しかし、デイジーとブライディーが目撃した証言をつなぎ合わせると…」
 博士は黒板にかけられた白い布をめくって取り去った。そこには、触角のついた、節はあるけれども一見するところは蛭のような、半透明の生物が描かれていた。
「…これは、恐竜たちが現れるよりもさらに三千万年ほどむかし、およそ二億八千万年ほどむかしに生息していた無脊椎動物で、現在のイカの遠い遠い先祖と思われるタリモンストラム・グレガリウムという生物です。…デイジーにブライディー、きみたちが見た化け物は、これに似ていたんだね?」
 お茶を配り終わってお盆を腰のところに下げたメイドさんたちはコックリと頷いた。
「ちょっと待ってくれ、化石で発見されているそのタリモンなんとかという生き物は、せいぜい現在のイカくらいの大きさなんだろう? それがなにゆえそんなに大きいのだ?」
 人文系の古典学者のマイヤース教授が遮った。
「タリモンストラム・グレガリウムです。…すいません。まず彼らが生きていた二億八千万年前の二畳紀(ペルム紀)について説明させてください。
 二畳紀には、三葉虫、四放サンゴ類、腕足類など古生代の海生無脊椎動物は、急速に衰退しました。紡錘虫類やほかの多くの無脊椎も絶滅しました。一方、脊椎動物では、四脚を備え、陸上生活に適応した両生類と、両生類と爬虫類の中間的性質を有し進化上重要なシームリアをはじめとして、いろんなものが生まれました。植物では、石炭紀に栄えた鱗木や封印木などのシダ植物は姿を消し、かわりに…」

「すごいむかしの世界って、おとぎ話に出てくる竜や怪物たちだらけの世界だったのね…」
 デイジーはポツリと言った。ブライディーは想像しただけで怖くなって震えた。

「…それではなぜ、ネス湖のタリモンストラム・グレガリウムがかくのごとく巨大であったのかを推察しますと、アフリカ西海岸のモロッコ沖、スペイン領カナリア諸島のテネリフェ島で1861年11月30日に発見された巨大イカ…を描いた絵画。
 乗組員の証言よれば、尾の長さだけでも20〜24フィートあったそうではありませんか。 無脊椎動物は、骨による成長の制約がありません。つまり大人になると成長が止まるということはないのです。だから居心地のいいところでは…つまり環境に適応すれば驚くほど巨大になるものも実際存在するのです。海洋冒険物語にしばしば登場し、いまでもときおり引き揚げられる恐ろしく大きい、軍艦すら転覆させるというダイオウイカやニュウドウイカが良い例です。ネス湖は外海とつながっており、彼らの仲間が棲み家にしていても不思議ではありません」
 ウォーレス博士は熱っぽく語ったが、語り追えた頃、会員の何人かは居眠りをしていた。

「いや、素晴らしい発表でしたね」
 ドイルやクルックス博士が一番に拍手をすると、ほかの会員もつられて拍手した。
「デイジーにポピー、次の旅行はあなたがたで行ってね。お姉ちゃんはお留守番しているから」
 ブライディーはハンケチで顔の汗を拭きながら言った。
「なぁんだ、イカだったのか…」 デイジーは鼻を鳴らした。「怖がって損したわ」 

     (次のエピソードに続く)




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