ショートショート 「ブライディー、置き去りにされる」 「デイジーとケリーの大予言、または妄想」 「ブライディー、アメリカへ移民を計画する」 「ブライディー、自分の未来を占いかける」 「ブライディー、シカトされてしまう」 「デイジーの井戸端会議」 「恐怖のマグダレン女子修道院」 以上、ショートショート七本に続いて… 短編「ブライディーの『流出もの』」 それに続いて、 本編、「復讐者・偽ブライディー」 ブライディー・ザ・マジックメイド ショートショート 「ブライディー、置き去りにされる」 公休日、お兄ちゃんがちょっとばかり高級な喫茶店で会いたい、というので、ブライディーは張り切って、おろしたての薄青色の麻のドレスで出かけることにした。今日こそは切りだそうと思って、日頃からこつこつと集めていた安い、一間のアパートを紹介した不動産屋のちらしや、お兄ちゃんにもできそうな、陸の上の仕事の求人広告の切り抜きも、持っていくことにした。 …彼女には、それが最初、お兄ちゃんだとは分からなかった。なにしろお兄ちゃんは、男友達の冠婚葬祭の時に、貸衣装でしか着たことしかないバリッとしたサマー・ウールの背広に身を包み、臙脂色の蝶ネクタイをキリッと締めていたからだ。 「やぁ、ブライディー、俺にもとうとう運が向いてきたみたいだよ」 幼なじみのメイドさんにとっても、こんなに嬉しそうな顔のお兄ちゃんを見るのは初めてだった。「実は、とある、アメリカで成功したアイルランド人の実業家の人の、イギリス旅行中における鞄持ち兼ボディーガードの募集に応募したら、見事に採用されてね」 「お兄ちゃんは誠実だし、喧嘩も強いから…」 「『喧嘩が強い』じゃなくて『拳闘の名手』と言ってくれよ。…それはさておき、そのお金持ちが俺のことをいたく気に入ってくれてね。『私はこれからアメリカに帰るが、よかったら君も一緒についてきて、引き続き鞄持ち兼ボディーガードをしてくれないか』とおっしゃってるんだ」 「えっ!」 紅茶茶碗にさざ波が立った。 「…そのお金持ちは『もしよければ、公休日や非番の夜には夜学に通わせてやる』ともおっしゃって下さっているんだ。で、俺が『アイルランドが独立できるのに、少しでも役に立つようなことを学びたいです』と言うと、『アメリカには、アメリカ独立運動の歴史や、貴族や家柄といったものが一切関係ない社会制度の仕組みを教えてくれる学校がいくらでもあるし、大学も身分とか、宗教宗派に関係なく、成績が良くてお金を持っていれば誰でも入ることができる』とおっしゃってくれて…」 「すごい! 良かったじゃない、お兄ちゃん!」 メイドさんは椅子から飛び上がって喜んだ。 そして、てっきり次のような言葉が続くと予想し期待した。 『ついてはブライディー、俺と一緒にアメリカに渡ってくれないか。そりゃあドイル様たちやデイジーと別れるのは辛いだろうが、その分は、いや、それ以上、この俺がおまえを幸せにしてみせる。一緒にこの目で自由の女神を見て、パトリック大聖堂で結婚式を挙げよう』と… だが、実際に発せられた言葉は違っていた。 「腰を据えて、ゆっくり勉強して、アメリカ人の男友達もいっぱい作って、できたら金もたくさん稼いでから、きっとおまえを迎えに来るから、それまで待っていてくれないか? 俺はな、ブライディー、おまえがフィオナ様のところにご奉公に上がったり、英国心霊研究協会のメイドになったりしたことを、とても羨ましく、妬ましく思っていたんだ。多くの親切な人に囲まれて、いろんなことを教えて貰ったりして…」 少しのあいだ沈黙があった。ブライディーは「黄金の暁」団のメイザースに「君が占いの才能で多少の金儲けをしたところで、文筆の才能ですでに十分功なり名を遂げているドイルは、何も言えないはずだ」と言われて誘われた時のことを思い出した。その時は怖くなって、一回で逃げ出したのだけれども… 「ええ。わたし、待っているわ…」 メイドさんは壊れそうな微笑みを懸命に保ちながら言った。 「そうか。おまえなら必ずそう言ってくれると思ったよ」 「お兄ちゃんも、身体に気を付けて」 「おまえもな… それから、見送りには来なくていいぞ。おまえもしっかりとドイル様たちにお仕え申し上げて、恥ずかしくないようにしていてくれ」 「ええ…」 「それじゃあ俺は、いろいろと手続きがあるから」 お兄ちゃんはテーブルに硬貨を置くと、手も握らないままに席を立ち、風のように立ち去った。 「お姉ちゃん、莫迦じゃない? 一体何を考えてるのよ?」 しつこく食い下がって訊ねるデイジーに根負けして、仕方なく打ち明けると、デイジーは開いた口が塞がらないといった感じで、あからさまに軽蔑のまなざしで見下ろした。 「…どうして包丁の一本も突きつけて『一緒に連れて行って、でないと貴男を殺してわたしも死んでやる』くらいのことを言わなかったの?」 「そんな… お兄ちゃんの足手まといになったら…」 「ブライディー、貴女、阿呆と違う? 付き合い、考えさせてもらうわ」 ケリーも、呆れ果てて物が言えないといった表情でなじった。「…テームズ川にかかる橋の欄干に立って、『一緒に連れて行ってくれなければ、ここから飛び降りてやる』くらいのことは言わないと」 「でも、わたしには英国心霊協会のメイドという仕事が…」 いくら言い訳をしても、妹分も親友も、この件について、もはやまともに取り合ってくれることはなかった。 ショートショート 「デイジーとケリーの大予言、または妄想」 その一、デイジーの大予言または妄想 「ねぇ、お姉ちゃん…」 その夜のこと。ベッドに入ったデイジーは、ブライディーに背中を向けたまま言った。 「あたし、お兄ちゃんはきっと、アメリカでお姉ちゃんよりいい女の人を見つけて、その人と結婚してしまうように思うわ」 頭から布団をかぶって、声を立てずにポロポロと涙を流していたブライディーは、心臓が止まるかと思った。 「…だって、お兄ちゃんって、お姉ちゃん程度にはもったいないくらいの男前でしょう? おまけに逞しいし、恰好いいし… アメリカの若い女の子たちって、家柄とか、上品さとか、そういったものよりも、生活力というか裸一貫の時の実力とか、度胸に惹かれると聞いたわよ。お兄ちゃんはその両方とも持っているじゃない? 女の子の両親にしても、お婿さんにそういうものを求めるらしいわよ」 ブライディーは身体じゅうからどっと冷や汗が吹き出るのを感じた。 「…きっと、きっと言い寄ってくる若くてきれいな女の子たちは多いと思うわ。向こうの子たちって、みんな活発で明るいでしょう?アメリカじゃあ女の子から男の子に声をかけるのも平気だって、言われているでしょう? 遊びも、馬に乗ってピクニックに行ったり、開放的でしょう?」 (お兄ちゃんは、乗馬が上手だった。アイルランドの貧救院にいた頃、機会があったらよく後ろに乗せてくれた) ブライディーはますます心が押し潰されるように感じた。(お兄ちゃんって、頼まれたり誘われたりしたら断れない人なのよ…) 「ピクニックに行って、バーボンとか飲んで仲良くお弁当を食べながらお話とかしているうちに…」 デイジーはなおも続ける。「ついふらふらと…」 ブライディーは枕に顔を埋めて、懸命に泣き出したくなるのをこらえた。 「アメリカに渡ったアイルランドの人って、ものすごく多いし、立派な教会もたくさんあるって聞いたわ。だから、その… たとえ本人たちにお金がなくたって、結婚式も華やかに挙げて貰えるらしいって… 土地が広いから、家も広いし、子供が何人生まれても伸び伸びと…」 デイジーの想像は、留まるところを知らなかった。 その二、ケリーの大予言あるいは妄想 「ねぇ、ブライディー」 踊り子の公休日である月曜日の昼下がり、メイドさんの昼食時にふらりと覗きにきたケリーは、これ以上はない真剣な表情で言った。 デイジーはお弁当を持って小学校に行っている。 「貴女のお兄ちゃん、もしかして騙されているんじゃあないかしら?」 「えっ!」 パンの耳で作ったパン粥や、ローストビーフやハムの耳の入った野菜炒めの賄い料理を食べていたメイドさんは、思わず料理を喉に詰めそうになった。 「だって、怪しいとは思わない? そのアイルランド出身の実業家という人。もしかして、ギャングじゃないかしら」 「『ギャング』…」 「そう。そう。いわゆる『その筋の人』じゃあないかしら」 「『その筋の人』…」 「貴女のお兄ちゃんは、おいしい話に乗せられて、アメリカに連れて行かれて、『鉄砲玉』にされてしまうんじゃあないかしら?」 「『鉄砲玉』…」 「その実業家も、いきなり最初から『誰々をバラしてこい』なんて、無茶なことは言わないと思うわ。アメリカに着いてしばらくは、約束通り、鞄持ちと護衛だけの仕事で、公休日には学校に通わせてくれたりすると思うわ。でもね、二ヶ月くらいたって落ち着いたら、拳銃と弾丸を渡されて、きっとこう言われると思うの。 『アメリカは銃社会だ。わしを狙っている者たちもきっと、ナイフやそんなものじゃあなしに、銃で狙ってくるだろう。だから、済まないが暇を見て射撃の練習もしてくれないか?』って。 そうすると、律儀なお兄ちゃんのことだから、『分かりました』と言って、誰もいないところで空き缶やら、鳥獣を撃ってきっと言われた通り練習するでしょう」 メイドさんはコックリと頷いた。 「…それで、ある程度上手くなったときを見計らって、その実業家は、わざと毎日毎日、一日中、困り切って悩み事を抱えているような表情を、お兄ちゃんに見せるのよ。お兄ちゃんはよく気がつくから、こう訊ねるでしょう。 『社長、この頃ずっと浮かない顔をされていますが、何かあったんですか?』 でも、社長は何も語らない。お兄ちゃんは昔から困っている人は放っておけない性格だからこう詰め寄るはずよ。 『社長。このぼくを信用して下さらないのですか? ぼくは悲しいです。情けないです』ってね。すると社長は、お兄ちゃんの目をじっと見つめてからこう打ち明けるの。 『実はな、悪い奴に騙されて、わしの弱みを握られてしまったのだ。このままではわしは破滅だ。悪いのは相手のほうなのだが、警察や裁判所に持ち込まれれば、世間はわしのほうに非があるとみるだろう…』 お兄ちゃんはそういうことを聞くと、じっとしていられない性格だから、すぐに拳銃を握り締めて、その相手のところへ行くはずよ」 メイドさんは、心臓が早鐘のように打つのを感じていた。 「相手も当然『その筋の人』だから、大勢の腹心の子分とかに屋敷を守らせて、万全の態勢を敷いているわ。でもお兄ちゃんは身軽だし、一発で相手を殴り倒してしまうこともできるから、本丸に辿り着く… 『なんじゃい、おまえは?』ボスが訊ねる。 手下たちが一斉に銃口を向ける。でもお兄ちゃんはひるまない…」 ブライディーは思わず耳を塞いだ。 「炸裂する銃口。耳をつんざく銃声。そのあとは…」 ケリーの妄想もまた、半端なものではなかった。 ショートショート 「ブライディー、アメリカへ移民を計画する」 「成功者たちは語る。アメリカで一旗あげるには」 「アメリカ移民、その方法と手続き」 「自由と機会の国、アメリカの魅力」 「単身者のアメリカ移民、要領から費用まで」 「アイルランド人のためのアメリカ移民読本・最新版」 表紙に自由の女神や、ニューヨークの五番街、大農場などのイラストが描かれたそれらの本は、どれも平積みになっていて、たえず立ち読みの人々が群がっていて、その一番上の見本の本はボロボロに読み尽くされていた。 その人々を掻き分けて、ようやく手垢にまみれた一冊を手にしたブライディーは、むさぼるように読んだ。 手続きは、案外簡単なようだ。合衆国政府の許可も…過去に重大な犯罪歴などがない限り…現在のところ比較的簡単におりるようだ。費用は、ピンからキリまであるものの、決して手が届かない金額ではない。最初から英語が完全に話せたり、資格・特技・軍歴などがあったり、夫婦ものや家族単位の移民には特典がある。肝腎のアメリカでの働き口は…これが一番重要なことのはずなのだが…これもいまのところ「引く手あまた」のようなことがどの本にも書いてある。 夢中になって、いろいろ読みあさっていたので、自分に声が掛けられているのにまったく気づかなかった。 「ブライディー! おーい、ブライディーじゃないか? 一体何を読んでいるんだい?」 ハッとして振り返ると、人混みをかきわけてドイルが近づいてくるところだった。 「あっ、ドイル様…」 メイドさんは動転して、手にした本を元の場所に置くこともせず、立ちつくしてしまった。また、仮にすぐにそうしたとしても、そこは「ハウツー移民本のコーナー」だったので、無駄だっただろうけれど。 案の定、ドイルはちょっと肩を落とした。 「…デイジーから聞いたよ。お兄ちゃんがアメリカに行ってしまうんだってね」 (あのお喋りデイジーめ!) ブライディーは顔を紅潮させ、手にした本に爪を立てた。 「…君も行ってしまうのかい?」 「あ、いえ、決してそんな…」 「ぼくたち心霊研究協会の会員や、デイジーのことを思ってくれているのなら、そんな心配はしなくていいんだよ」 「いえ…」 言い訳をしようとすればするほど、逆効果のように思われた。 「無理をするのは良くない。…特に自分自身を欺き続けるのは」 笑顔でポンポンと肩を叩かれると、思わず涙がこみ上げてきた。 数日後、目深な帽子で顔を隠したブライディーは、アメリカ大使館に移民申請の用紙一式を貰いに行った。「旅行用査証申請」「一時出稼ぎ就労許可証申請」の窓口にも大勢の人々が並んでいたが、「移民申請」の窓口の人の列は、建物の外まで溢れていた。 「おや、お嬢さん、あんたもアメリカに渡るのかい?」 「あ、いえ… その…」 真剣そのものの表情の人々に尋ねられると、とても「とりあえず冷やかしで、用紙だけ貰いに来ました」などとはとても言えなかった。 「いまアメリカでは、イギリスのお屋敷にご奉公していたメイドさんが引っ張りだこなんですって」 「南部のアイルランド系の大農場主の荘園では、南北戦争の後も相変わらず、同じアイルランド出身の執事やメイドが求められているんですって」 「向こうの警官はアイルランド系が多くて、身体頑健で就職先未定の青年は、エリス島でスカウトされたりするそうだ」 噂が飛び交う。 ようやく用紙を貰って英国心霊研究協会の屋敷に帰ってきた。 (また一つ、隠し場所に困るものが増えてしまったわ) その思いは杞憂に終わった。なぜなら、ドアを開けた途端に、デイジーと鉢合わせしたからだ。 「お姉ちゃん、お帰りなさい。…その角封筒は何?」 「あ、いえ、デイジー、貴女には…」 慌てて隠そうとして、自分が角封筒の表裏どちらを向けて持っていたのか一瞬分からなくなってしまった。 「星と鷲の紋章が付いてる…『合衆国政府移民局』? お姉ちゃん、まさか…」 「いえ、これは…」 「お姉ちゃん、やっぱりアメリカに行っちゃうんだね」 デイジーは笑顔で言った。「頑張れ、お姉ちゃん! 『天は自ら助くる者を助く』だよ!」 ショートショート 「ブライディー、自分の未来を占いかける」 (お兄ちゃんにくっついて、アメリカに行くべきか、それともこのまま英国心霊研究協会に留まって、しばらく待つべきか…) メイドさんは一世一代の占いをやってみることにした。 (そう言えば、わたしはいままで、いろいろと占いをしてきたけれど、自分自身の未来について占ったことは一度もなかった…) 目の前のテーブルの上には、ドッジソン教授手作りの「不思議の国のアリス」のタロット・カードがきちんと揃えて置かれている。 (でも、でもブライディー、貴女は占いで出たから、アメリカに行ったり、ロンドンに留まったりするの?) どっちにしても、何かを得る代わりに何かを失うことになるのに変わりはない。 (いっそのこと、デイジーに占ってもらおうかしら。でも、あの子も割といい加減なところのある子だから…) 何もかもが悩ましげなことに思えてきた。 仮に誰かに相談しようにも、親しい人々はみんなブライディーが占いの名人であることを知っているし「どうして自分で自分のことを占わないの?」とはぐらかされるのは目に見えている。 ここは一つ、占う前に、普通に考えてみることにした。 まず、アメリカに渡る場合。 「お兄ちゃん、ごめんなさい。わたし、我慢できなくなって来てしまったの」と告白した場合… 「仕方ないな、じゃあ一緒に暮らそうか」となるのか、「何を考えているんだ。さっさと帰れ!」と言われるか、どちらかだ。 (どちらかか、占ってみればいいのよ) 指が何度もカードに伸びかけたものの、ついにつかむことはできなかった。 (もしもこのままずっとここで働くつもりなら、そんなこと、確かめなくてもいいことじゃない? 明らかに、結果を知るだけ不幸じゃない?) それで次に、心霊研究協会に残る場合を考えた。 「お兄ちゃん」は筆無精だ。手紙を書いても返事を貰えたことなんか一度もない。アメリカに手紙を書いても同じことだろう。 さらに、もしも自分がお兄ちゃんで、もう一人の自分が迫ってきたとして、思いを巡らせた。 (ダブリンの貧救院からロンドンに渡ったのはお兄ちゃんのほうが先だった。でも、仮に、わたしが先にロンドンに来ていて、お兄ちゃんがわたしを追いかけてロンドンに来たとしたら… やっぱり迷惑よ。地道に働いてお金を稼いで、とりあえず身の回りの品を揃えて、いくらかは貯金もしてからでないと「お兄ちゃんって何だったのよ? 愛想が尽きたわ」と思う可能性のほうが…) あれこれ悩んでいるうちに、ふと、ローレンスがいまわの際に言い残したことを思い出した。 「人間は、未来を知ってはいけない。不確定なものを、確定させてはならない」 (彼が言っていたのは、たぶんこういうことだったのでは?) なまじっか、多少占いの才能があるばかりに、悩んだ時は、その能力を使ってみようと思う。そんなものがなければ、たとえ未来がいかなるものであろうとも、自分が決心したままに歩めるのではないか? 「エヘヘ、悩んでる、悩んでる… お姉ちゃんが悩んでる」 ビクッとして振り返ると、いつのまにかデイジーが後ろ手に手を組んで覗き込んでいた。 「…自分で占いにくかったら、あたしが占って上げようか?」 「余計なお世話よ。占いの才能はないくせに…」 「おやー、そんなこと言っていいのかなー もしもアメリカへ行って、追い返されて戻って来ても、そのあいだに新しいメイドさんが補充されていたら、お姉ちゃんの帰るところは、もうここにはないんだよ、分かってる?」 痛いところを突かれたブライディーは、ただ黙ってテーブルの上に目を落とすだけだった。 「エイヤッっと占ってみたらいいじゃない。簡単なことじゃない? アメリカまで追いかけていった時のお兄ちゃんの態度。主に二つに一つでしょ? こんな大事な時に占わないで、一体いつ占いをするのよ?」 デイジーはまるでちっちゃい悪魔さながらに唇を歪めながら、メイドさんの右の耳と左の耳、代わる代わる囁いた。 「そうよね… ドイル様の文筆の才能のように、せっかくあるものは使わないと損よね」 「そうそう」 デイジーは大きく頷いた。「予め結果を知っていれば、無駄足を踏むこともなく、お金と時間の節約にもなるわよ、お姉ちゃん」 ブライディーの手が、またカードに伸びかけたけれど、ついに結局怖くて占えなかった。 ショートショート 「ブライディー、シカトされてしまう」 「ブライディー、ちょっと急ぎの買い物がたまってしまったんだが、行ってきてくれないかね?」 ドイルがメモに書かれたリストを渡しながら言った。 「しかしきょうは、会員の皆様も大勢お集まりで、デイジー一人では…」 ブライディーが目をやると、写真の印画紙や風邪薬やパイプ煙草など、確か買い置きがあったように思うものばかりだった。 「お姉ちゃん、あたし一人で大丈夫だよ。ゆっくり買い回ってきて」 お金を渡され、背中を押されるように屋敷を出たブライディーだったが、妙に胸騒ぎを感じて、途中で踵を返して帰ってきた。 するとやはり、よい天気だというのに、屋敷のいくつかの部屋にきっちりとカーテンが降ろされ、台所からは、ローストビーフやローストチキンを焼く匂いにまじって、ケーキを焼くような匂いも漂ってきていた。 (パーティかしら? でもそれだったらデイジー一人では荷が重いわ。どうしてわたしに…) 通用口から入ろうとすると、ドッジソン教授が立ちふさがっていた。 「からころからろこところてん。ブライディー、きょうはちょっと秘密主義の会員さんが謎の実験をしたいんだって。だからちょっとのあいだだけ遠慮してくれないかな」 「そうですか… それでドイル様がこんな言いつけを… しかし、デイジーは中にいるのでしょう? おまけに美味しそうな匂いも…」 「ほんの少しの辛抱だ。どこかで時間を潰してきておくれ。なんなら、そのお金でお芝居を観てきてくれたっていいんだよ」 「そんな…」 いったんは引き下がったメイドさんだったが、諦めずに、今度は正面玄関に回った。 ところがそこには、クルックス博士とウォーレス博士が見張っていた。 「おや、ブライディー、君は買い物に行ったんじゃあなかったのかね?」 「そうですが、ちょっと忘れ物をしたので、中に入れて頂けませんか」 「中はいま取り込み中なんだよ」 ウォーレス博士が本当に済まなさそうな顔をしてドアのノヴを背中で隠した。 「もしかして、わたくしがかつてご迷惑をおかけした警察関係のかたか、『黄金の暁団』のかたがいらしているとか…」 「うん、まぁそんなところだ」 クルックス博士が重々しく言った。 「やはり、そうなんですか…」 メイドさんは目を伏せてトボトボとその場を立ち去った。食堂の窓からはかすかに、 「ドイル様、それはそこと違います!」 と叫ぶデイジーのはしゃぐような声や、 「じゃあ、どこなんだ?」 というドイルの明るい声が聞こえてきた。 と、通りに出たところで、見慣れたウォーターフォード男爵家の紋章の入った黒塗りの馬車を見かけた。何か包みを手にしたフィオナお嬢様が、ちっちゃな女の子の御者に手を取られて馬車から降りてきたものの、ブライディーをチラッと見るなり目をそらし、そそくさと玄関から中に入ってしまった。 「フィオナ様…」 すがるような目を向けて声をかけたけれど、無視された。 (きっと、『ソーホー街に新しくできたアラビア語の書物の本屋さんに一緒に行って下さい』というのをお断りしたことを根に持っていらっしゃるんだわ」 もう一度、窓辺に戻ると、ドイルや博士たちや、教授、デイジー、それにフィオナお嬢様が、何事かああでもない、こうでもないと、楽しそうな声が絶え間なく聞こえた。 (わたしは… わたしは…) ブライディーはどっとこみ上げてきた涙をハンケチで拭いながら走り去った。 ふと気が付くと、ホワイトチャペル街の入り口のあたりをうろうろしていた。 「女の子募集。若くて健康で明朗なかた。お酌をするだけ。客筋一流。支度金支給・高給保証」とか、 「踊り子募集。初心者歓迎」といった看板が目に飛び込んでくる。 (わたしなんか… わたしなんか… やっぱりアメリカに行ってしまったほうがいいのかしら…) あてもなくさまよい歩き、足が棒になった。 空はすっかり暗くなりかけてきた。 (夕食の支度をしなければ…) そう思ったメイドさんは、仕方なく足を引きずるようにして心霊研究協会の屋敷に戻った。 玄関に心配顔で立っていたドイルとデイジーが心配顔が走って駆け寄ってきた。 「ブライディー、いったいいまごろまでどこに行っていたんだ?」 「お姉ちゃん、みんなが心配して待ちかねているよ…」 泣きじゃくるブライディーが肩を抱かれるようにして中に入ると、正装のクルックス博士やウォーレス博士、ドッジソン教授が、両手にバースディ・ケーキを抱えたデイジーが、プレゼントの包みを持ったフィオナが、みんな笑顔で押し合いへしあいしながら出迎えた。 「お誕生日おめでとう、ブライディー!」 ショートショート 「デイジーの井戸端会議」 「あのね、うちのブライディーお姉ちゃんったらね…」 毎朝ロバが引く荷馬車で配達に来る食料品店のご用聞き少年に、デイジーはあたりを伺いながらひそひそ声で言った。「幼なじみの、将来を約束したお兄ちゃんに捨てられちゃったみたいなの」 「ええっ!」 少年は思わず、少し垂らしていた鼻水をすすりあげた。「あのブライディーさんを振るような奴なんかいるのかい?」 「それが、アメリカへ行ってしまって、『一緒に来てくれ』とは言われなかったみたいなの」 デイジーはもう一度周囲を伺って、さらに一層声を潜めた。「これって、もうオ・シ・マ・イよね?」 「『がっぽり金を稼いで必ず帰ってくるから、しばらく待っていてくれ』とは言われなかったのかい?」 少年も同じようにキョロキョロして、囁いた。 「言ったらしいわよ。…でも、そんなの、完璧にあてにならない話だと思うわ」 「そうかな? 男の立場から言わせてもらうと、そのお兄ちゃん、結構マジかもしれないぜ」 「無理よ! アメリカの女の子たちって、はつらつとしてて、きれいな子が多いのよ。おまけにお兄ちゃんは男前だし…」 「そりゃあブライディーさんに釣り合う奴だったら、そこそこ以上だろう。性格もマブい奴で、約束を守り抜くかも…」 「そういう人だから、アメリカの女の子たちがきっと放っておかないって」 デイジーは野菜をぞんざいに片付けながら言った。 「そのお兄ちゃんは、ここロンドンにいる時からロンドンの女の子たちと浮き名を流していたのかい?」 少年は配達した野菜の行方を気にしながら、デイジーのほうを上目遣いに見た。 「いえ、それはその…」 「だろ? だったら安心じゃないか? ここロンドンにも、デイジー、君みたいにきれいな子はいくらでもいるじゃないか。なのに、噂もなければもちろん修羅場もなし、ということは、結構一途な奴なんじゃあ?」 「そ、それは…」 ややあってからデイジーは、痛んでいる野菜に文句を付けることも忘れて続けた。「お姉ちゃんも、お兄ちゃんも、同じロンドンにいたからよ。…つまりお互いに身を慎んでいたからよ。ロンドンにいる限り、二人とも派手なことはできなかったって訳。アメリカに渡ったら、…いや、もしかしたら行きしなの船の中で、いままで押さえに押さえていたものがバクハツして、タガが外れてしまうのに違いないわ!」 「デイジーちゃん、その野菜痛んでるから、交換させてもらうよ! …こんなことを訊いたら悪いかもしれないんだけれど、デイジーちゃん、あまり幸せとは言えない家庭環境で育ってない?」 「…………」 しばらく沈黙が流れた。 「…ごめん。俺、やっぱり悪いこと言っちゃったかな?」 「うううん」 デイジーは毅然とした表情で大きく首を横に振った。「あたし、そんな弱い子じゃないわ」 「デイジーちゃんは、自分がうんとちっちゃい頃に遭遇した悲しい出来事に重ね合わせて、お姉ちゃんのことを心配し過ぎているんじゃあ?」 「そんなことないってば! あたしはお姉ちゃんが長い長い待ちぼうけを食わされた末に『お局様』への道をまっしぐらに…いや、真っ逆さまに…」 「ブライディーさんは、たとえお局様になってもきれいだと思うけど」 「いいえ、お姉ちゃんはある時期を境に急激に身体が崩れちゃうタイプよ。いまだって、大西洋横断の客船に乗ろうと思っているかして、ゴミ箱食いを始めたものだから、お腹は二段に、お尻はでっかくなりかけてるわ」 「そんなの信じられないよ。…じゃあもう一つ訊くけれど、ブライディーさんって、いままでそんないい加減な、約束を守らない、信用できない奴が好きだったのかい?」 「それは…」 そう言われたら、そんなような気もしてきた。 ブライディーは、お屋敷の玄関に続いて、ロバの頭を撫でてやりながら勝手口にホウキを丁寧にかけていた。軒下には、お兄ちゃんが置いていった自転車がポツンと止められている。メイドさんは、お兄ちゃんが後ろに乗せて、その辺を一周してくれた日のことを思い出していた。 (自転車、どうしたらいいのかしら…) ホウキを持った手を休めて、ふと思った。 台所に戻ると、会員たちから下げ渡された昨日の新聞が広げられたままになっていた。 リヴァプールを出港するニューヨーク行きの船のリストが書かれた記事を切り抜いて、船と桟橋の名前をつぶやき、溜息をついた。 (お兄ちゃん、どの船に乗るのかしら? 鞄持ち兼護衛だったら、船底の三等船室じゃあなしに、ご主人様と一緒に、上等の船室で行けるのかな… 見送りに行ったら、分かるかな…) オーブンの中では、料理が焦げ始めていた。 ショートショート 「恐怖のマグダレン女子修道院」 「ブライディー、この頃君はどうかしているぞ」 ドイルは、眉根に皺を寄せて言った。 「お皿は割る、料理は焦がす、味付けを誤る、洗濯物はよく洗えていない、雨が降ってきているのに取り込まない、掃除は丸く掃くだけ、来客のベルがあっても出ない…」 デイジーがメモを見ながら読み上げる。 「…お兄ちゃんがアメリカに行ってしまうとかで、気がかりなのはよく分かるが、心ここにあらずというのはよくないぞ」 「も、申し訳ございません」 メイドさんは深々と頭を下げた。 「謝ってもらってもねぇ… すでにいままで何度も注意しているのに、一向に直らないし…」 クルックス博士はステッキをコツコツと鳴らす。 「そこで我々はいいことを考えた」 ドイルはきっぱりと言った。「…君にアイルランドにあるマグダレン女子修道院に一ヶ月ほど入ってもらうことにした」 「えっ!」 ブライディーは全身から血の気が引いていくのを感じた。 「たった一ヶ月だ」 「それで元のような真面目な働き者に戻れるのなら、有り難いんじゃあないかね?」 「ウォーレス博士とドッジソン教授は顔を見合わせて頷き合った。 「費用や交通費は、全部ぼくらが出して上げるから、心配しないように」 「い、嫌でございます!」 メイドさんは二、三歩退いて、首を激しく横に振った。 「か、堪忍してください!」 「ところがもう遅いんだ」 ドイルが目配せすると、ドアの影から、がっしりとした体格の、まるで男みたいな中年の修道女が二人現れて、あっという間にブライディーの両脇を抱え、引きずるようにして表に待たせてあった窓のない馬車に乗せた。 「堪忍してください! マグダレン女子修道院… それだけはお許しください! お慈悲を!」 声を限りに泣き叫んでも、警官は知らないフリをし、通りがかりの人々は互いに顔を見合わせて、ひそひそ話を交わした末に、そそくさと通り過ぎるだけだった… ドイルや心霊研究協会の面々、それにデイジーはみな唇をかみしめ、いつまでもうつむいたままメイドさんを見送った。 アイルランドの、人里離れたところにある、城塞のような高い石積みの壁に囲まれたマグダレン女子修道院。 その広い洗濯室では、何十人もの、鶏ガラみたいにやせ細り、頬のこけた少女たちが、まるで幽霊のように黙々と、汚れ物を洗っていた。 監視役の、仮面よりも無表情な修道女が通りがかると、中の一人がその黒い衣にすがりついた。 「お願いします、出してください! 一ヶ月の約束では?」 見るも無惨にやせ衰えたその姿は、よく見るとブライディーだった。 「何を言っているのですか! 出して上げるかあげないか、決めるのは私たちです。あなたではありません!」 修道女が振りほどくと、ブライディーは顔から洗濯桶の中に突っ込んだ。 「お願いします。せめて手紙を出させてください…」 よろよろと起きあがり、亡霊のような生気のない瞳で見上げる。 「最初に、いかなる手紙も私語も厳禁と申し渡したでしょう。忘れたのですか?」 「では、ではせめて、ごはんをもう少し…」 「贅沢です。あなたのように、さかりのついたメス猫みたいに、頭の中全部がいやらしい考えで埋まっている色情狂娘には、水だけでもいいくらいです」 「お願いします…」 なおもすがろうとするブライディーを修道女は足蹴にし、洗い終えたばかりの洗濯物の上に隠し持っていた汚物を撒き散らした。 「…おや、きれいに洗えていないみたいですね。もう一度やり直しです」 「そんな…」 気を失いかけた彼女を抱き起こしながら、仲間の、これまた骸骨のような少女が囁いた。 「何を言っても無駄よ。まだ分からないの? あたしなんか、レイプされた被害者なのに、相手が貴族のお坊ちゃんだったものだから、『貴女のほうが誘ったのでしょう?』と決めつけられて、ここに入れられたのよ。もちろん、相手はまるでお咎めなし…」 「嫌! わたし、こんなところで死にたくにない… こんなことだったら、さっさとアメリカ行きの船に乗っていれば良かった」 そのつぶやきを聞きつけた、先ほどの修道女が戻ってきた。助手の修道女たちがブライディーをつぎはぎだらけのドレスもシミーズもペチコートもドロワースも次々と手早く裸にしたかと思うと、俯せにして押さえつけた。その背中には幾筋もの無惨な赤黒いみみず腫れが走っている。修道女は手にした鞭を何度も何度も振り下ろした。 「…どうやら破廉恥な思いに取り憑かれた貴女の魂を清めるには、やはりこれしかないようですね」 激しく鞭打つ音と悲鳴が部屋じゅうに響き、周りの少女たちはみんな顔をそむけて目を閉じ、両手で耳を塞いだ… 「…お姉ちゃん、お姉ちゃん、どうしたの?」 目が覚めるとそこは英国心霊研究協会の屋敷の屋根裏のメイド部屋で、全身に汗びっしょりとかいて、デイジーが心配そうに覗き込んでいた。「…ずいぶんとうなされていたけれど、どこか具合でも悪いの? ドイル様を呼んであげようか?」 どうやら、貧救院にいた時からごくごくたまに見る…現実にはまだ一度も入れられたことのない…最近は長い間なりを潜めていたはずの…一番悪い夢をまた見てしまったようだった。 短編 「ブライディーの『流出もの』」 デイジーがお休みを頂いて、ホワイトチャペルのお義母さんの看病に行ってそのまま泊まった日、ブライディーは、もしもアメリカに渡ることになった時のために備えて、屋根裏のメイド部屋の自分の私物をぼつぼつとかたづけていた。すると、少し以前の幸せだったある日、踊り子をしている親友のケリーと「写し合い」をした「恥ずかしい写真」の束とネガを入れたマニラ紙の封筒が出てきた。 生まれたままの姿で花を持ったり、レースのカーテンにくるまって、文字通り恥ずかしそうにしている写真をチラチラと眺めていると、あの日ケリーが言っていたことを思い出した。 『もしも万一、貴女のお兄ちゃんが浮気をしそうになったり、遠くへ行ってしまいそうになった時は、「どうしても淋しくて我慢ができなくなったら開けてね」と言って渡せばいいわ』 (あの時は、悪い冗談としか思えなかったけれど…) メイドさんは真剣に、親友の提案を実行してみようと考えた。 それらの写真を黄褐色の封筒に戻し、しっかりと糊で封をして、翌朝の朝食後、玄関ホールに置いてある花瓶の瓶敷きの下に隠した。 (今日はわたしがお休みを頂いているからデイジーが帰ってき次第、一日つてをたどって、お兄ちゃんを捜してみよう、 お兄ちゃんがまだロンドンにいるのなら… 乗る船が分かったら、港で渡すこともできるでしょうし…) 瓶敷きの横には、一番に郵便局で投函しなければならない、会員さんたちが書かれて、宛先を書いて切手を貼った手紙や葉書の束が輪ゴムで束ねて置かれていた。 宛先は書かれているものの、切手が貼られていないものは、新聞社や出版社のメッセンジャー・ボーイが取りに来る原稿だ。 その朝のその時刻は、「ロンドン・イエロー・ニュース」という「恥ずかしい記事や恥ずかしい広告、恥ずかしい求人広告」が多い、お世辞にも一流とは言えない夕刊だけの新聞社のメッセンジャー・ボーイが自転車で原稿を取りに来る時間だった。 果たして、ボーイは、役目通りきっちりとやってきた。 「ちわっ! 『ロンドン・イエロー・ニュース』です。原稿、頂いて帰ります」 折悪しく、デイジーが帰ってきたら、入れ違いにすぐに出させてもらおうと目論んでいたブライディーは手洗いにいた。 「あれっ? 今朝は誰もいないのかな?」」 ボーイは手紙と原稿の束を探したものの、自社の社名が記された封筒を見つけることができなかった。それもそのはず、その回「髪の毛が伸びる人形の怪異を暴く」という原稿を執筆するはずだった某会員が、書くには書いたものの、玄関に出しておくのをコロリと忘れて、持ち帰ってしまっていたからだ。 夕刊の刷りだしに間に合うように、ここ以後も数カ所、回るところを抱えていたボーイは焦って辺りを探しまくり、ようやく花瓶敷きの下に、宛名のないマニラ紙封筒を見つけた。 (これだこれだ! これに違いない!) 「じゃあ頂いて帰ります! 玉稿、有難うございました」 ボーイは花瓶敷きを元に戻し、疾風のように去った。 「あれっ、いま誰かいらっしゃっていたのかしら?」 手洗いから出てきたブライディーは、文字通り「知らぬが仏」の出来事だった。 場末の雑居ビルに間借りしている「ロンドン・イエロー・ニュース」では、編集長が届けられたマニラ紙封筒の封を切って驚いた。 「おい、こりゃー何だ? 原稿じゃあないぞ!」 しかし、改めてそれらの写真を見て、固唾を呑んだ。 「きれいな子だね。…『お水系』でも『それもん』でも『あれもん』ない、本当に『素人』の子みたいだ…」 くわえタバコに無精ひげを生やした編集部員たちが次々に覗き込む。 「本当だ…」 「かわいい…」 「スレてない…」 「『髪の毛が伸びる人形の怪異を暴く』はどうします? 予告を打ってしまってるんですけど?」 「そんなもんはどうでもいい! こいつを載せろ!」 「いいんですか? 撮影者とモデルの許可取らなくても?」 「後で取ればいい!」 編集長は怒鳴った。 「ボカシはどうします?」 「…もったいないなぁ… だがやむを得まい。この子だったら、ボカシがあってもじゅうぶんだ。一面の目立つところに、この写真の見本とアオリを! …それと、五割増刷を印刷所に言っておけ」 「分かりました。アオリは何と?」 「そうだなぁ…」 しばし考えた編集長は、はたと手を打って言った。 「『アメリカに渡ってしまう恋人との別れを嘆く妖精』ってなのはどうだ?」 「そのアオリ、前に何度も使ったような…」 「構わん。この僅かに憂いを帯びた表情がいいだろう?」 (デイジー、なかなか帰ってこないわねぇ) メイド控え室と玄関を何度も行き来していたブライディーは、何気なく、「恥ずかしい写真」を隠した花瓶敷きをめくってみた。 当然、そこには何もなかった。 「あれっ?」 そしてはたと思い当たった。 (ロンドン・イエロー・ニュースのあの子が、間違えて持って帰ってしまったんだ!) 顔を真っ赤にしたメイドさんは、デイジーが帰ってくるのを待たずに玄関から飛び出した。 とそこへ、電報局の配達が来た。 「ブライディーさん、デイジーさんから電報です」 「わたし宛? デイジーから?」 そうなると置き捨てて行く訳にも行かず、慌てて封を切って読んだ。 『義母サンノ容態悪化。ゴメンナサイ帰レナイ。…出来タラ、オ姉チャン来テ。オ願イ。でいじー』 (一刻も早く恥ずかしい写真を取り戻さないと、大変なことになるかも知れない。けれど、デイジーが…) メイドさんは大きな声と身振りで辻馬車を呼び止めた。幸い、すぐに流しの辻馬車が止まった。 「毎度。どちらまで?」 「ホワイトチャペルへお願いします」 ブライディーはためらわずに言った。 ホワイトチャペルの安いアパートに着くと、デイジーが泣きながら胸に飛び込んできた。 「デイジー、泣いちゃだめよ。お医者様がゆっくり診られないし、お義母さんも休めないでしょう?」 ブライディーは彼女をやさしく抱きしめてやりながら囁いた。 ベッドの上では、デイジーの育ての母が、荒い息をしており、注射器を持った医者や看護婦が動き回っていた。 「先生、お金ならあるんです。あたし、この夏は協会のかたがたから『氷代』をたくさん頂いたんです!」 「分かっているよ、デイジー」 年老いた医師は、柔和な瞳をデイジーに向けた。「でもお金のことなんか、心配しなくていいんだよ。わたしが往診を断ったことが一度でもあるかい?」 「でも、お金があれば、高価ないいお薬を…」 「デイジー、そんなことを申し上げては失礼よ」 「いいんですよ。デイジーちゃんの気持ちはよく分かります。彼女が一生懸命働いて、部屋もきれいになったし、看護婦を訪問させることもできるようになりました。…大丈夫。きっと助けてみせます」 ブライディーは、アイルランドにいた頃、いまのデイジーよりもちっちゃかった頃に、両親を相次いで病気で亡くしたことを思い出した。 (あの時の部屋は、この部屋よりもずっとみすぼらしかったし、お医者様を呼んでも来てはくれなかった。そのことを考えると、デイジーはわたしよりもずっと偉い…) ブライディーはデイジーを励ましたり、看護婦を手伝ったり、お医者様にコーヒーを出したりしているうちに、写真のことを忘れてしまっていた。 (何かが起きても、それはわたしの軽はずみな行動が原因なのだから、仕方がない)と思った。 病状は一進一退が続いた。昼にさしかかり、ブライディーはあるものでサンドイッチなどの軽食を作った。医者と看護婦とブライディーは交代で食事を取ったが、デイジーは手を付けなかった。 「お願いデイジー、何か食べて。貴女に何かあったら、それこそ大変なことになってしまうのよ」 お姉ちゃんに促されて、デイジーも食事をした。食べかけると、それこそ堰を切ったように食べまくった。 夕方になって、義母の容態が少し落ち着いた。 「何とか峠は越えたように思います」 「有難うございます、先生」 デイジーはまた泣いて頭を下げた。 「まだまだ予断を許しませんが、私も疲れたのでいったん帰らせて頂くことにします。看護婦は残しますから、何かあったらすぐに呼んでください」 「じゃあデイジー、わたしも心霊研究協会のお仕事があるから…」 「うううん、お姉ちゃん、せっかくのお休みだったのに、本当にごめんなさい」 「そんなこと、まったく気にしなくていいのよ…」 後ろ髪を引かれる思いで辞去すると、ホワイトチャペルの新聞スタンドには、男達が群がって、夕刊紙を買っていた。ブライディーも並んで「ロンドン・イエロー・ニュース」を買った。恐れていた通り、一面の目立つところに、薄物を羽織り花束を手にした自分の写真が載っていた。続きのページを開く手がガタガタと震えた。 恥ずかしい写真は、一枚もボツにされることなく、「窓辺でレースのカーテン越し」のものも、「床に膝を抱えて座っているもの」も、「ベッドでシーツにくるまっているもの」も、「シミーズを着て水を浴びせかけられているもの」も、全部載せられていた。 さすがに大切なところは全部ぼかしがかけられていたが、それでもその大事なところは「ロンドン・イエロー・ニュース」編集部の関係者には見られてしまった訳だし、顔はロンドンじゅうの「イエロー・ニュース」の愛読者の知るところとなったのに間違いなかった。 (確か「白詰草亭」でもとっていたし、オマリーさんもお客様たちも眺めてニヤニヤしていた。…ケリーの小屋は定期的に出し物の広告を載せていたし、英国心霊研究協会の会員さんたちだって、こっそり読んでいらっしゃるかもしれない。デイジーだって、食料品店のご用聞きの少年が配達してくる野菜がくるんである分を引き延ばして見ていた。…もしかしたら、お兄ちゃんだって、もしもまだ陸の上にいたら、船員や沖仲仕の悪友が買ってきたものを回し読みしているかもしれない… ドイル様だって「風俗犯罪」の研究もなされているから、見られているかも… もうダメよ、ブライディー、もうとてもロンドンにはいられないわ。アメリカにでも渡らない限り、ずっと後ろ指を指され続けるわ。それどころか、もしも万一セアラ様の耳に届いたりしたら、あの恐ろしいアイルランドのマグダレン女子修道院に閉じこめられて、やせ細って病気にかかって死んでしまうまで出して貰えないかも…) 英国心霊研究協会の屋敷に、まるで女賊のようにあたりを窺いながら戻ったメイドさんだったが、勝手口のところに、「イエロー・ニュース」を鷲づかみにしたケリーが待ち伏せしていた。 「ブライディー!」 「ケリー」 貧救院以来の親友の姿を見ると、押さえていたものがあふれ出して、泣きじゃくった。「ケリー、わたし、もうだめ… アメリカに渡るしかないわ!」 「何を莫迦なこと言っているのよ。それだったらホワイトチャペルでいつも見せ物に出演しているあたしは、オーストラリアにでも流れていかなければならない訳?」 気まずい間が流れた。 「ごめんなさい… そういう意味では…」 「でしょう? それよりかこれを見て」 ケリーはブライディーの恥ずかしい写真のアルバムが載せられているページの隅のほうの囲み記事を示した。先ほどは、とてもそこまで気が回らなかったが… 『この写真のモデルと、撮影者には、弊社規定の原稿料をお支払いしますので、必ずお二人揃って請求に来てください』 「わたし、絶対に嫌よ!」 メイドさんは新聞を突き返した。 「あたしは欲しいわ」 踊り子はハッキリと言った。「貴女は英国心霊研究協会のメイドさんとして、いいお給金を頂いているでしょうけれど、踊り子のお給金はとても安いの。ホワイトチャペルの看板なんかには「高給」と書いてあるけれど、あれはほとんど嘘かハッタリなの!」 「じゃあ、貴女が十分と思うお金を、このわたしが払うから…」 ブライディーは蚊の泣くような声で言った。 「そんなの、それこそ絶対に嫌よ! あたしは、この『ロンドン・イエロー・ニュース』新聞社からせしめたいの。ガッポリとふんだくって、二人でホワイトチャペルでこっそりやっているらしい若衆道の見せ物でも見に行きましょうよ」 ポロポロ涙を流すばかりのメイドさんを無理やり辻馬車に押し込め、場末の新聞社の編集部の入り口まで来た。 「嫌! いくら貴女の頼みでも」 ブライディーは梃子でも動かなくなった。 「またまた、もしもフィオナ様みたいな、貴族のお嬢様だったらそりゃあ大変なことでしょうけれど、あたしたちは貧救院で育った『どこの馬の骨かも分からない下女』なのよ。それこそ、タダで貰えるものは例えパン一切れでも貰っておかないといけないの。それともブライディー、貴女、あの頃、二人で花売りをしようとして、貴女が客引き、あたしが見せ役をやったら、騙されたと怒ったお客がタレ込んで、シスターにさんざんお尻を鞭打たれたことは忘れたの? あの時は長い間、椅子に座ることもできず、俯せでしか寝られなかったでしょう?」 「………………」 「ふーん。じゃあパリに行ったとき、つい気が緩んでひどい目にあったらしいことをデイジーから聞いたけれど、そのことも恥ずかしくない訳?」 「デイジー、あの子、今度こそ舌を引っこ抜いてやるわ!」 メイドさんは顔を真っ赤にした。 「デイジーを怒るのは筋違いよ。貴女が外している時、あたしが『そのほうが儲かるから太夫(グラン・オダリスク)か天神(オダリスク)でも目指してみようかな』と冗談で言ったら『お姉ちゃん、そんな自分を卑しめるようなことしちゃあダメだよ。ブライディーお姉ちゃんだって、ボロボロになりながら必死でみんなのために頑張っているんだから』と言って、真顔で止めてくれたんだから」 ブライディーはケリーに背中を押されるようにして、まるで引き立てられる罪人のようにして、「ロンドン・イエロー・ニュース」編集部のドアをくぐった。途端に「オッサン臭さ」を漂わせている記者たちが、タイプライターを打つ手を休めたり、うろうろしていた足を止めたりして、二人の…とりわけブライディーのほうをジッと見つめた。中にはくわえていたタバコをポロリと落として、机の上の原稿を焦がした者さえいた。 「あの…」 口を開きかけたケリーを制して、編集長が下っ端たちの前に立ちふさがった。 「分かっています。きょうの夕刊のポートレートのモデルのかたですね?」 ブライディーはハンケチで顔を覆って、うつむいた。 「…あの、もう帰ってもいいですか?」 「して、撮影者のかたは?」 「あたしです」 ケリーが胸を張った。 「貴女? 疑って失礼ですが、本当ですか?」 「本当よ。何ならいまここで、ここの写真機を使って続きを撮影して差し上げましょうか?」 「嫌…」 ブライディーはまたシクシクと泣き出した。 「では、すみませんが服を着たままでいいから一、二枚撮影してみてください」 「嫌!」 「さぁ、ちゃんとして!」 ケリーは編集部にあった写真機のうちの、使いやすそうな一台を持って、メイドさんを椅子に座らせた。「パリの時は、セアラさんのお弟子さんのシスターを助けるために、すぐにちゃんとしたんでしょう?」 「それと、これとは違うわ…」 「あの時に比べたら、こんなの楽なものでしょう? さぁ、顔を上げて!」 ブライディーは仕方なく顔を上げた。 「怖いシスターから『以後悔い改めて、真面目に働くのなら、マグダレン女子修道院送りだけは、しばらく待って上げます』と言われた時のことを思い出して、笑って。…はい、『ウイスキー』!」 かすかな、ほんのかすかな微笑みを、マグネシウムの光が捕らえた。 「はい、終わりました。…どう、すぐに現像してみる?」 ケリーは編集長と編集部員たちのほうを見渡した。 「いえ、その必要はないでしょう。この乾板と、きょう掲載分のネガはお持ち帰りください。それと…」 編集長は彼女に茶封筒を渡した。「お約束のモデル料と撮影料です。安くて失礼ですが…」 ケリーはその場で茶封筒の中身を覗き込んだ。 「本当だ… これじゃあ乾板代と印画紙代がやっとだわ」 それを聞いたメイドさんがまたシクシクと泣き出した。 「…だから『わたしが払う』と言ったのに…」 ケリーはそれにもめげず、今度は自分が持参した角封筒を編集長に渡した。 「こちらの写真は、あたしがモデルなのだけれど、どうかな?」 一枚目だけ取りだしてチラリと眺めた編集長は、すぐに角封筒を返した。 「大変失礼ですけれど、たとえお美しくても『いかにも』というかたは読者のウケがイマイチなんですよ」 「そう… やっぱり…」 ケリーは初めてうつむき、唇を噛んだ。 「率直に言って、『あたしの恥ずかしい写真を載せてください』と言って持って来られるかたは結構数いらっしゃるんです。それらのかたみんなにお金を払っていたら、うちなんか、たちまち破産してしまいます」 「早く帰ろう…」 ブライディーはしきりにケリーの袖を引っ張った。 「少々お待ちください…」 編集長はケリーのほうを呼び止めた。「貴女、撮影者になってみませんか? …いえ、実は、我々がやっとのことで口説き落としたお嬢さんで、『撮影者と現像・修正者が女性だったらモデルになってもいい』というかたがいまして…」 足を止め、振り返ったケリーは、パッと瞳を輝かせた。 「それって、年をとってもできる仕事ですよね?」 「ええ、そう思いますけど」 「やってみます 是非やらせて下さい! 実は、あたしより若くてきれいな子が入ってきて、クビになりかけているんです!」 ブライディーは、帰りの馬車の中で、モデル料を貰った。彼女は「いらない!」と言って払い落としたが、ケリーは「どうしても折半する」と言って聞かなかった。 (あとで、教会のお賽銭箱にでも入れておこう…) そう思って、英国心霊研究協会の勝手口のドアの前に立ったものの、今度という今度こそは、どうしても「それからの一歩」を踏み出せなかった。 (そりゃあドイル様や、博士たち、ドッジソン教授なら「見てみないフリ」をして下さるかもしれない。けれども、もしもあの気むずかしいデュード侯爵様や、マイヤース教授が今日のことに気づいていたら、もうダメよ…) 彼女は、自分がトランクを下げて、この屋敷の勝手口から去っていく光景を想像した。(ドイル様が、「白詰草亭」で働いていたわたしを雇って下さった時、どんなに誇らしく、希望に燃えたことでしょうか… 貧救院からフィオナ・ウォーターフォード様のところへご奉公に上がった時以上に、(これから先は二度と大きな粗相はするまい)と心に誓った。 けれど、アイルランド旅行では魔女の慰みものにされるわ、パリではそれ以上のひどい目に遭うわで、まったく不本意の連続で、ご期待にお応えしていない…) それでも意を決して中に入り、いつものように、協会で夕食をとることを予約されている会員たちのために、料理を作り始めた。 その日はドイルや、博士たち、ドッジソン教授が、この夏の研究課題について、打ち合わせをすることになっていた。 「やぁブライディー、デイジーはどうしたんだい?」 メイドさんが帽子を受け取って帽子掛けにかけようとするのを断り、ドイルは自分でひっかけながら尋ねた。 「すみません。デイジーはお義母さんが危篤なので、昨日に引き続き、きょうもわたくし一人でお仕えさせて頂きます」 深々と下げた頭を上げかけて、息を呑んだ。ドイルの手には、あの忌まわしい夕刊が握られていた。 「お義母さんがご危篤? そりゃあ気の毒だね」 「いえ、何とか快方に向かわれて、デイジーも明日からは…」 「無理しなくていいよ、とデイジーに伝えておいてくれ」 ドイルは新聞を手にしたまま書斎に向かおうとした。 「あの、ドイル様…」 「うん、どうかしたのかね?」 メイドさんはそれ以上何も言うことができず、新聞に視線を注ぎ続けるだけだった。 「ああそうそう、『他人の空似』という言葉があるけれど、あれは真理だねぇ」 「は?」 ドイルは「ロンドン・イエロー・ニュース」の問題のページを開き、メイドさんは思わず両目を閉じた。 「…この子を見てご覧。ブライディー、君に顔がソックリだろう?」 「…………」 「この、うなじのところのホクロを除けば」 「えっ?」 ブライディーが恐る恐る覗き込むと、なるほど、印刷された自分の写真のうちの一枚の首筋には、かなり目立つ製版の時の傷が付いていた。 (ドイル様をはじめ、心霊研究協会の会員の皆様は、いつもネガを加工するなどしたインチキ心霊写真や妖精写真のトリックを暴かれているのに?) ほどなくしてドッジソン教授もやってきた。 何と、教授も問題の夕刊を小脇にはさんでいた。 「ブライディー、君と顔がうり二つの子を見つけたヨーヨーの空中一回転。でもでも、この子の首筋にはほくろがあるんだ納豆」 「そ、そうですか?」 ぎこちない作り笑いが、いつか本当の微笑みに変わった。 「本当、よく似ているわ」 「だろ?」 (神様、有難うございました!)「…でも、首筋のこの位置にホクロがあるのはよくありませんわ。薄幸の運命の象徴です」 夕食の後かたづけをしていると、デイジーが戻ってきて、お皿を下げるのを手伝った。 テーブルを拭こうと手を伸ばしたデイジーは、新聞の写真に気が付いた。 「デイジー、その『恥ずかしい写真』、お姉ちゃんによく似ているだろう?」 「糸かけ糸かけ糸かがり、どこが違うか分かったら、ご褒美に銀貨をあげる」 「首筋のほくろよ!」 デイジーは立ちどころに答えた。 「おめでとう。半クラウン獲得ッキー」 「でもこれ…」 ひとしきりしげしげとながめた後、『わざと加工したような…』 と言いかけて慌てて言葉を飲み込むデイジーだった。 「復讐者・偽ブライディー」 ロンドン、セント・ジェイムズ地区。一見瀟洒な屋敷が軒を連ね、ときどきは立派な馬車が行き交うにもかかわらず、家族思いで神を畏れる人々は、わざわざ回り道をしてでも避けていた。なぜなら、このあたりの屋敷の多くは有名な高級娼婦のものだったり、彼女たちを身請けした貴族や金持ちたちの別邸だったからだ。 湯上がりの一糸まとわない裸のまま窓辺の籐の椅子に足を組んで腰掛けた二十歳ぐらいの女に、デイジーよりもちっちゃな黒髪のメイドさんが黄色新聞の夕刊の束を運んできた。 「ミレディ奥様、他に御用事は?」 「ないわ」 女はそれらの新聞に載っている、妖精の衣装のような薄物の衣装をまとった女たちの写真だけを次々と見ては閉じていた。 「まったく、どの子もこの子も揃いも揃ってブスな上に樽に丸太棒と洗濯板をくっつけたような子ばっかり。よくもまぁこんな程度で殿方にお見せしようなどという気になるものねぇ、ポピー?」 「まったくその通りです。奥様」 「小銭とはいえ、お金を取って売っている以上は、もっと鑑賞に耐え得る子を載せなさいって言うのよ…」 「御意にございます、奥様」 「まぁ私も、それを確かめるために、こうしてわざわざ毎日時間の無駄を繰り返しているわけだけれども…」 と、最後の一部を開いた女の手がピタリと止まった。女の眉間に美しくも険しい皺が走り、殺気がみなぎった。 「この子確か、我が愛人にして同志のローレンスを死に追いやった英国心霊協会のメイドよ、ポピー、貴女もローレンスがパリで写真を見ながら描いていたから知っているでしょう?」 女はそう言って、ちっちゃなメイドさんに新聞の「今夜のわたしの恥ずかしい写真」を見せた。 「間違いありません、奥様」 「この子、きっと他のメイドたちよりはずっといいお給金を貰っているはずなのに、どうしてこんな写真を撮らせたのかしら?」 「たぶん恋人の男が借金まみれなのではないでしょうか、奥様?」 「かもしれないわね。…でも、いいものを見せてもらったわ」 女がそう言いながら、自分の顔の周りを手で撫でると、たちまちにして顔も、体つきもブライディーそっくりに変わった。 「いつもながら、見事な術でございます、奥様」 「この姿で悪いことをして回って、あの子も絶対に死刑台に送り込んでやるわ」 「しかしながら奥様、大切なところにボカシが入っております。例えば恋人や相部屋のメイドに見破られる、ということは?」 「もっともね、ポピー。新聞社の関係者に金をつかませて、ぼかしたところがどんなふうだったか、聞き出すことにするわ」 「名案でございます、奥様」 「ポピー、いつものあの写真帳をもってきてちょうだい」 メイドさんはしばらくはずしていたかと思うと、一冊の黒い革張りの写真帳を持ってきた。女がそれをゆっくりと開くと、中には大勢の淑女たちばかりの肖像写真がはり込まれていたが、そのほとんどに大きな黒く醜い×印が打たれていた。 「栄光の記録、でございますね、奥様」 「そんなことはないわ。残念ながら、仕留めた奴らのほとんどは雑魚よ」 ページをめくっていた手がぴたりと止まった。 そのページの肖像の、ほぼ全員に×印が打たれていたが、中にたった一人、×印が打たれていない若い修道尼がいた。 「…ヴァチカン外交省のシスター・セアラ…この修道尼が確か、このブライディーとか言う、ろくでもないメイドの魔術の師匠なのよ。 作家ドイル、ちっちゃいながら此岸彼岸のゲート・キーパーの卵のデイジーという子とともに、我が夫ローレンスの仇の片割れでもある。…しかし残念ながら、私の力では到底セアラには歯が立たない。それどころか、セアラの前では私の変身術も、たちどころに見破られてしまうでしょう」 「出会ったらヤバい、という奴ですね、ミレディ様」 「どうせ鉢合わせできないというのなら…」 女がもう一度、手のひらで顔を撫でると、ブライディーだった顔は、今度はセアラの顔に変わった。裸だった身体も、いつのまにか修道尼の制服をまとっていた。 「名案でございます、奥様」 「今夜は、お客様はなかったわね、ポピー?」 「はい、奥様」 「では、一緒にいらっしゃい」 ロンドンの夜も更けてきた。玄関から帰りかけたはずのデイジーが、息せき切って台所に戻ってきた。 「大変だよ、お姉ちゃん!」 「どうしたの、デイジー?」 「シスター・セアラが…」 「えっ!」 メイドさんの顔色が変わった。 (あの写真のことが早くもお耳に届いたのかしら? それとも…) 貧救院の女の子たちだけが見せられた「マグダレン女子修道院」のおどろおどろしくも下手くそな紙芝居の絵や、花売りをしようとしてお尻をさんざん鞭打たれた嫌な思い出が走馬燈のように脳裏を駆けめぐる… 「ブライディー、いきなり夜分にごめんなさいね」 玄関に出迎えに行くよりも先に、セアラが入ってきた。 「あたし、お茶を入れてくるね」 デイジーは半ばこそこそと台所に向かった。 「セアラさま。その後は?」 「お陰様でいまのところは特に…」 メイドさんにやっと少し微笑みが戻った。 「そうですか。それは何よりです」 応接間を勧めたのにもかかわらず、セアラはメイド控え室の粗末な椅子に腰掛けて居住まいを正した。 「今夜、突然お邪魔したのは他でもありません…」 正面に浅く腰掛けたブライディーはごくりと生唾を飲み込んだ。デイジーはお茶とお菓子を置いてから、今度こそ本当にそそくさと帰ってしまった。 「…お兄ちゃんがアメリカへ行ってしまうのですってね?」 何もかもすっ飛ばして「マグダレン女子修道院」という言葉が出てこなかったのには、正直ホッとしたメイドさんだった。 (けれど、この後の展開によっては…) 「…ブライディー、貴女もお兄ちゃんと一緒に、またはお兄ちゃんの後を追いかけてアメリカに渡りたい、と思っているのではありませんか?」 「それはその…」 メイドさんは早くも目をそらせた。 「実行するかしないかは別問題として、思っていることは思っているのですね?」 セアラは微笑みを絶やすことなく、膝や床の上を彷徨っているメイドさんの視線を追い続けた。 「わたくしは反対はしません」 シスターは穏やかに言った。 「えっ、本当ですか?」 メイドさんは大きく目を見開いて、身を乗り出した。 「本当ですよ。貴女の人生は、貴女の人生です。他の誰がどう思おうと、法律に触れるようなことをしない限り、好きにしていいと思いますよ。…それは、ドイル様たちやデイジーちゃん、ケリーなんかは寂しがるでしょうけれど、永遠の別れではなくて、また機会があれば再会もできるし、手紙のやりとりもできるのですから」 「有難うございます」 ブライディーは立ち上がって深々と頭を下げた。 「もしも渡航費用が足りないのなら、この私がお金を用立てて差し上げましょう。ルチアやほかの少女たちを救ってくれたお礼です」 「いえ、それは滅相もない! ところでルチアさんはその後お元気なのですか?」 「お陰様で大変元気にしていますよ」 セアラは懐から何枚かの写真を取りだした。 見せてもらうと、いかにも娘らしい可愛いドレスを着たルチアが、どこかの店の軒先で笑顔を浮かべて立っているところが写っていた。 「いま、田舎の小さなケーキ屋さんで働いています。 彼女は事情を知ってから、再びシスターに戻りたがりましたが、承知のように、一度結婚した女性はシスターにはなれません」 「とにかく、良かったですわ」 メイドさんはそれらの写真を何度も見直しながら言った。 「ところでブライディー。アメリカに行くのなら、一つだけ条件があるのですが、守れますか?」 「何でしょう?」 「もう二度と占いはやらない、と約束してください。英国心霊研究協会や、ドイル様のもとを離れるのなら、もう占う必要はないでしょうし、お兄ちゃんと二人、静かにひっそりと暮らしていくのなら、またトラブルの原因になりかねないと思うからです」 「そんな簡単なことですか!」 曇りかけていた表情が晴れ晴れと輝いた。 「簡単です。わたし、もう二度と占いはしません! 『不思議の国のアリス』のタロットカードはデイジーにあげて行きます」 「そうですか。そう言ってくれればわたくしも安心です」 英国心霊研究協会の屋敷を出て、辻馬車に乗り込んだセアラは、ゆっくりと変装術を解き、ミレディに戻った。 「首尾は如何でしたですか、奥様?」 御者のポピーが振り返って訊ねた。 「上手く行ったわ。ルチアの写真を手に入れるのに苦労した甲斐があったわ」 「術が解けて復活したルチアの写真は本物だったのですか?」 「あのブライディーとか言う小娘、筆まめらしいから、万一手紙でも出されてはかなわないと思って、八方手を尽くして手に入れたわ」 「さすが、奥様…」 「…一見賢そうででも、所詮ただの女の子よ。後はコロリと引っかかったわ。…それに、今夜は屋敷あの子一人だけらしいわよ」 「チャンスでございますね、奥様」 二日後にはリヴァプールからニューヨーク行きの大型客船ノーザンスター号に乗る、というロンドン最後の宵、「お兄ちゃん」は、ご主人の社長の言いつけで、ホワイトチャペル街への同道を命じられた。 「あの、社長。同じことでしたらセント・ジェイムズの女性と遊ばれたら如何でしょうか? 社長ほどの地位と財力があれば十分…」 お兄ちゃんは周囲に気を配りながら言った。 「君の言うことももっともだがね。わしは澄まして気取っている上、高くつく女は嫌いなんだよ」 「しかし、悪い病気でも移されたら…」 「それはどこでも一緒じゃないかね」 「そうおっしゃられるとそうですが…」 二人は時々通っている娼家の前にやってきた。事前に連絡してあったので、こてこてに化粧し、じゃらじゃらに着飾った「やり手婆さん」が、もみ手をしながら玄関の前に立っていた。 「これはこれは社長。いつもご贔屓有難うございます。二日後の船でアメリカに戻られるのですってね。皆寂しがっておりますよ」 「能書きはいい。新しい子が入ったんだったな?」 「はいはい。今夜が初の顔見せでございますよ」 スカートが膝までの、短いお仕着せを着たメイドたちが社長の帽子と上着を脱がせて預かった。お兄ちゃんは、絹のストッキングをはいた美しい足にみとれた。 「どうだい。今夜は一つきみも一緒に?」 社長はお兄ちゃんの目を覗き込んだ。「今夜遊んでおかないと、当分ずっと船の上だぞ。もっともきみがその気になれば、不自由することはないだろうが」 「いえ、自分はここでちゃんと護衛の仕事をさせて頂きます」 「お兄さん、そうおっしゃらずに。社長さんがせっかくああおっしゃっているのですから…」 胸のボタンを二つ三つ外した派手なドレスをまとった娘たちが近寄ってきて、甘い吐息を吹きかける。 「いえ、自分には将来を誓った許嫁がいますから…」 「そんな固いことをおっしゃらずに…」 「自分はその子のことを大切に思っていますから…」 娘たちは肩をすくめ、唇を尖らせて去った。 「じゃあせめてお酒でもお出ししましょう」 婆さんはそう言ってメイドたちに目配せした。 「いえ。確かに自分は酒好きですが、いまは要りません。何か軽食を頂ければ…」 「はいはい。見上げたかたですね」 「じゃあな、きみ。今夜は泊まるから、きみも仮眠をとってくれたまえ」 「いえ、起きています」 社長は少し憮然として、婆さんのほうを向き直った。 「今夜が初めて、って、どんな子だね?」 「それが、燃えるような赤毛のおかっぱの、とても可愛い、スタイルもいい子でして…」 それを聞いたお兄ちゃんのまぶたが一瞬ピクリと動いたが、またすぐに元に戻った。 ゆっくりと闇の帳が降りた。 魔窟には続々と帽子を目深にかぶった客たちがやってきて、それぞれ贔屓の娼婦の肩を抱いて個室に消えた。 客たちの中には、「社長」と同じように護衛を引き連れてきた者もあったが、その護衛たちも件のメイドたちといちゃつきながら、二回りほど小さな寝室へと消えた。 大きな応接間には、お兄ちゃん一人が取り残された。お兄ちゃんはランプの灯りで持参した「アメリカ移民案内」を読み返していた。 屋敷の壁は厚く、滅多なことでは声や音は聞こえない。ただ、置き時計が時を刻む音だけがコチコチと、かすかに響いているだけだった。 「退屈でしょう? 夕刊を持って来て差し上げましたよ」 (フッ、くだらん…) だが、婆さんが持ってきた新聞の表紙の一角に載っていた「今夜の恥ずかしい写真」を偶然に見て、お兄ちゃんはハッとした。 (まさか!) 中身も次々に確かめてみた。 「まさかな。いわゆる他人の空似というやつだろう。第一、ぼくはブライディーの裸を見たことなんかないじゃないか」 置時計が午前零時を回った頃のこと… 「うおおーっ」 という異様な男の悲鳴が響き渡った。 お兄ちゃんは本を投げ捨て、声がした部屋に駆けつけた。護衛たちも、腰にタオルを巻いただけの裸でメイド部屋から飛び出してきた。ほかの客や娼婦たちは自分たちの部屋のドアを細く開けて怖々覗いている。 「鍵がかかっている…」 お兄ちゃんは少し下がると、全身に力をこめてドアに体当たりした。ドアはビクともしない。二度、三度と繰り返すと、ようやく閂が緩み、ほかの護衛たちも手を貸して体当たりすると、ようやく鍵も壊れて開いた。 部屋に広がる光景を見て、お兄ちゃんも護衛たちも一瞬息を呑んだ。 絨毯の真ん中には血まみれの、胸に果物ナイフを突き立てられた社長が倒れていた。 「社長!」 窓の桟には、これまた全身に返り血を浴びた、赤毛のおかっぱ頭の全裸の少女が、鬼気迫る表情でこちらをじっと見つめて立っていた。 「ブライディー、まさか、君なのか? 信じられない!」 ブライディーはニヤリと唇を歪めると、窓からヒラリと身を躍らして逃げた。 「早く追いかけろ! まともに服を着ているのはおまえだけだ!」 ほかの護衛たちが口々に怒鳴ったが、お兄ちゃんは身体を凍り付かせて、その場から動くことができなかった。 夢の中で、来客を知らせるベルがけたたましく鳴っていた。ブライディーが寝ぼけまなこで、誕生日のお祝いにみんなが贈ってくれた、妖精の飾り文字板が付いた女性用の小さな銀の懐中時計の夜光文字盤を見ると、午前三時だった。 (こんなに夜遅く、どなたかしら?) ハッと目が覚め、がばっと跳ね起きてガウンをまとい、玄関まで走っていった。 「どなた様でしょう?」 「ブライディーか、ぼくだ。開けてくれ」 お兄ちゃんの声がした。 「お兄ちゃん! いま時分どうしたの? アメリカに行ったんじゃあなかったの?」 「警察のかたも一緒だ」 扉を開くと、お兄ちゃんと、「切り裂きジャックの亡霊」事件で地方に左遷されたはずのブレード警部が警官が二名を従えた立っていた。 「ブライディー、今夜の真夜中零時頃、どこで何をしていた?」 お兄ちゃんは、息せき切って、畳みかけるように訊ねた。 「今夜の真夜中? 零時頃? このお屋敷の屋根裏のメイド部屋で寝ていました」 「デイジーは『お義母さんの様子を見てきてあげたいから』と言って帰りました。明日の朝早く来てくれるはずです」 お兄ちゃんは一瞬暗い夜空を仰ぎ、警部と警官たちの額に皺が寄った。 「すると、一人だったのか?」 「一人でした」 お兄ちゃんは「ロンドン・イエロー・ニュース」の「恥ずかしい写真」が載った紙面を示した。 「ブライディー、まさかこれはきみじゃあないだろうな?」 長い間があった。 「…わたしです。ドイル様や皆様は『きみにうり二つの女の子だ』と言ってかばって下さったんですけれど…」 メイドさんは顔を真っ赤に染めて言った。「実は、ケリーとふざけて撮りあいっこしたものが…」 「嘘だろ? 違うと言ってくれ!」 お兄ちゃんは切羽詰まった表情で彼女の手を取って握りしめた。「きみはこんなはしたないことをする子じゃあない! どうか、別人だと言って欲しい!」 「わたしもそう言いたいけれど… ホワイトチャペルの芝居小屋にいるケリーに訊いてもらったら…」 警部は警官たちに目配せをした。警官たちは素早く彼女の両脇に回り込んで身柄を取り押さえた。 「ブライディー、お兄ちゃんのご主人である社長さんの殺人容疑で逮捕する」 警部は令状を示しながら重々しく言った。 「ちょっ、ちょっと待ってください! 殺人って、一体何の話でしょう? わたしは確かに写真を撮って貰って、それがふとした過ちから新聞に載ってしまいましたが、社長さん殺しただなんて…そんな悪いことはしていません。第一わたしは社長さんにお会いしたこともありません!」 「言い訳は警察で聞こう…」 警部が顎をしゃくると、警官たちが彼女を両側から持ち上げるように引き立てて、窓のない馬車に乗せた。 「待って下さい! ちゃんと事情をお話しすれば、行き違いであることが分かって頂けると思います。でも、その前に着替えさせてください」 「殺人容疑だからな。それはだめだ。着替えはそこのお兄ちゃんとやらに、留置場に持ってきてもらえ」 「ブライディー!」 お兄ちゃんは駆け寄ろうとしたが、警察拳銃を構えた警部に阻止された。 「おっと、邪魔立てすると、おまえも公務執行妨害で逮捕するぞ。そうでなくてもアイルランド独立運動に関わっている容疑で、いつでも逮捕できるんだからな。…しかしまぁ、今夜のところは殺人の容疑者の身柄確保のほうが重要だから見逃してやる。念のために言っておくと、面会の資格があるのは弁護士だけだからな。せいぜい英国心霊研究協会の会員で弁護士の資格を持っている者に頼み込むことだな」 悔しさのあまり、石畳の上で両手両膝をついたお兄ちゃんの前から、馬車は全速力で走り去った。 「わたし、やっていません!」 薄暗い警察の取調室で、ブライディーはもう何度も同じ言葉を繰り返していた。 「うそをつけ!」 ブレード警部は唾を飛ばし、机を拳で叩きつけた。 「おまえは、取り澄ましてはいるが、本当は露出狂で淫乱で、おまけに殺人犯なんだろう? 心霊研究協会のメイド、というのは世を忍ぶ仮の姿。その正体は夜な夜な娼窟で春を売り、ついにもめた客の命を奪ったんだ!」 「違います…」 メイドさんは机の上に泣き崩れた。 「いるんだよ。貴族の夫人や、良家のお嬢様の中にもごくごく稀に、表と裏があって、裏のほうでは信じられないことをする女が。ましてや、メイド風情が何をしでかしても不思議ではない。だから、早く白状してしまえ。…おまえはまだまだ子供なのだし、お上にもお慈悲はある。早く吐けば、『可哀相な病気』ということになって、死刑は免れ、鉄格子のはまった病院で生きながらえさせてもらえるかもしれないぞ」 「やっていません!」 悲痛な叫びがこだました。 翌朝、まだ夜がまだ明けやらないうちに、「英国心霊研究協会」専属の弁護士というスタインバーグという顔じゅう白いひげだらけの老人がロンドン警視庁の留置場に訪ねてきた。 「貴女がブライディーさんだね?」 「弁護士さんですか? わたし、もういいんです。死刑にでも何にでもなりますと、ドイル様たちにお伝えください」 メイドさんは藁のはみ出た簡易寝台に腰を下ろし、両手で顔を覆ったまま言った。 「…今度のことは、きっと、お兄ちゃんがアメリカに行って欲しくないと思う余り、わたしの分身(ドッペルゲンガー)が身体を抜け出して、社長さんを刺し殺したんだと思います…」 「何を莫迦なことを言っているんだ」 弁護士は看守たちの様子を窺いながら、ドイルの声で囁いた。 「ドイル様!」 ブライディーは目を見開いて鉄格子まで駆け寄った。 「シッ。こんなふうに、その気になれば他人になりきることなんか簡単なんだ。今度のことも、間違いなく黄色新聞できみの恥ずかしい写真を見た何者かの仕業だ。だから早く、パリの時のように、真犯人が潜んでいる場所を占って欲しいんだ」 ドイルは注意深く、コートの内側からロンドンの地図と鉛筆を取りだして、鉄格子越しに渡そうとした。 「ドイル様、わたくし、もう二度と占いはしないと神様に約束しました」 メイドさんは目を伏せながらそれらを押し返した。 「何だって?」 「また占って、その者を捕らえ、濡れ衣を晴らしたところで、また次の刺客が送り込まれてくるだけです。その者を倒せばまた、というふうにきりがありません。これ以上ドイル様、心霊研究協会の皆様にご迷惑とご心配をおかけする訳には参りません」 「お兄ちゃんはどうするんだ? 結婚の約束をしたんじゃあなかったのか?」 ブライディーはしゃくりあげはじめた。 「こんなわたしと一緒になったら、お兄ちゃんにも災いが及びます。どうかわたしのことは忘れて、もっときれいで優しい人と静かで平穏な家庭を築いてください、と申していたとお伝え下さい」 「本気で言っているのか?」 今度はドイルのほうが目を見張った。 「申し訳ありません…」 後はもう、鉄格子の前にしゃがみ込んで泣き崩れるだけだった。 心霊研究協会に戻ったドイルは、デイジーや、訪れていたケリーやお兄ちゃんと、カード室で策を相談した。扉のむこうでは博士たちやドッジソン教授が聞き耳を立てている… 「あたし、本人が首を吊られたい、と言っているのなら、縛り首にしてもらったらいいと思うわ」 デイジーは、空のお盆を持った左手を腰に当て、その腰を突きだして、右手の人差し指をまっすぐに伸ばしながら冷たく言い放った。 「デイジー、貴女、ブライディーに何度も危ないところを助けて貰っているのに、その言いぐさは何よ?」 ケリーは椅子に座り頬杖をついてつぶやいた。 「だって、簡単に自分で自分を助けることができる人がそうしないのに、どうしてわざわざあたしたちが苦労して助けてあげなくっちゃいけないのよ?」 デイジーは頬を膨らませる。「それに、これしきのことでへこんでいるようじゃあ、この先とても見込みはないと思うわ。早い話が、お姉ちゃんは泣けばどうにかしてもらえると思って甘えているのよ」 「とにかく…」 ドイルはパイプの煙をふかしながら重々しく言った。「…早くしないと、ブライディーを罠にはめたやつは、さっさと大陸とかに高飛びしてしまうかもしれない。そうなったらもう冤罪を晴らすことは不可能になってしまう」 お兄ちゃんは出された紅茶と菓子にはまったく手を付けないままに、すっくと立ち上がった。 「どこへ行くんだい?」 「自分一人でも真犯人を見つけて、ブライディーの無実を証明してみせます」 お兄ちゃんは鳥打ち帽子をかぶりつつ、低く静かな声で言った。「…ケリー、おまえも来い!」 「もちろんよ!」 「ぼくも行こう。手掛かりはまったくないことはない」 「ドイル様がいらっしゃれば迷宮なしよ」 ケリーにぎこちない笑顔が戻った。 「だといいんだけど」 デイジーは飲み残しの目立つティーカップを片付けながら肩をすくめた。 ドイルとお兄ちゃん、それにケリーは、馬車の中で打ち合わせを繰り返した。 お兄ちゃんが見ている前で、偽ブライディーがお兄ちゃんの雇い主の社長を殺したのは、間違いなく意趣返しに違いない。 その時、偽ブライディーは裸だった。 しかし「ロンドン・イエロー・ニュース」に載った本物のブライディーの「恥ずかしい写真」には、大切なところには全部ぼかしがかかっていた。もしもお兄ちゃんが本物のブライディーの裸を見て知っていたなら、偽者はどうするつもりだったか? 「ケリー、君がもし、本物のブライディーの裸を知らなかったとしたら、どうやって化ける?」 ドイルが尋ねた。 「本人の裸が見られない時は、見たことがある人に訊くと思います」 「この場合は?」 「『ロンドン・イエロー・ニュース』の編集部員か修正係だ!」 お兄ちゃんは低い声で言った。 ドイルが「イエロー・ニュース」の編集部員たちに心付けを配ると、案の定、奇妙なことを訊かれたという一人が名乗り出た。 彼によると… 昨日の宵、通用口から帰ろうとすると、帽子を目深にかぶって顔を隠し、けばけばしいドレスを着て、香水の匂いをぷんぷんさせた女が近づいてきた。 「ねぇあなた。ちょっと訊きたいことがあるんだけれど」 女はそう切り出した。 「何だい?」 「きょうの夕方、おたくの『今夜の恥ずかしい』写真に載っていた、おかっぱの女の子のぼかしのかかっていた部分がどうなっていたか教えてくれる?」 女はそう言って、いくばくかの金をちらつかせた。 「いいけれど、あんたも女なのに、なんでそんなことに興味があるんだい?」 「詳しいことは話せないけれど、あたしはあの子に、何一つ負けたくないの」 (何か納得できない、変な理由だな) 編集部員はいぶかしく思いながらも、 「普通だったよ」と答えた。 女はそれで得心せず、 「絵に描いて欲しいんだけれど」と頼んだ。 「だから、普通だってば」 そう言いつつ描いてやると、女はやっとその絵を持って帰った… 「もう間違いない、その女だ…」 お兄ちゃんたち三人は目を見合わせた。 「その女の似顔絵、描きましょうか? あたし、これでも似顔絵が結構上手いのよ」 ケリーが言い出した。 「有り難いけれど無駄だろう。相手は顔はもとより姿形までも自在に操る女だ。とても素顔だったとは思えない」 ドイルがつぶやいて、次はただちに社長が殺されたホワイトチャペルの、とある娼家に向かうことにした。 「ですから、その件についてはもう警察の旦那方に何度も…」 経営者の婆さんはあからさまに嫌な顔をした。 「そこを何とか…」 ドイルはここでも金を使って、どんな些細なことでもいいから聞きだそうとした。 「敵は何とかブライディーの弱みを握ろうと必死になっていた。おそらく、英国心霊協会の勝手口を、ブライディーの友達か、できたら恋人が現れるのを、手下を雇ってずっと見張らせていたことだろう… と、そこへ、お兄ちゃんが「社長さんと一緒にアメリカに渡航することになった」と告げるためにやってきた。 手下はお兄ちゃんを尾行して、社長さんのロンドンの定宿を突き止める。 それから、社長が時々、ホワイトチャペルのこの店に遊びにやってくることまで知った」 「くそっ、尾行されていたなんて、不覚だった!」 お兄ちゃんは床を蹴った。 「そして、社長さんがロンドンで最後の悪い遊びをしようとした夜に、『雇って下さい』と言って現れる… 婆さん、あなたのこの店は、その日やってきた女を、その日のうちから働かせるのかね?」 「いい加減な店で悪うございましたねぇ」 婆さんは腕組みしてふてくされた。「…支度金はいらない、と言った上に、可愛い子でしたからね。社長さんのロンドン最後の思い出に、と思った次第でね」 「どうしたらいいだろう、ドイル様」 お兄ちゃんとケリーはまたドイルを囲んで相談した。 「…手口は完璧に分かったけれど、相変わらず偽ブライディーの正体の手掛かりがまったくつかめない…」 「いいや、手掛かりはないようであるだろう」 ドイルは娼窟のメイドたちが運んできた紅茶を一口すすっただけでテーブルに返した。「…不味いな。早くブライディーを助け出さなければ…」 「『ないようである手掛かり』って何ですか?」 ケリーは頬杖をついて安物のシャンデリアがぶら下がっている天井を仰いだ。 「ドイル様。ぼくには何となく分かります」 お兄ちゃんは口元を覆っていた手のひらを下げて言った。「…まず、偽ブライディーは『ロンドン・イエロー・ニュース』を毎夕スタンドまで買いに行っている奴です。男ならごまんといるでしょうが、女性では珍しいと思います。次に、偽ブライディーの本職は娼婦の可能性が高いような気がします。なぜなら、凶行に及ぶまでの数十分間、社長に疑われることなく、娼婦として相手を務めていたからです。まったく素人の女性では難しいことでは? しかも、その娼婦は金持ちです。ぼくや、ケリーのような、ブライディーの友人知人を探り出すために、手下をずっと張り込ませていたのですから…」 「なかなか鋭いぞ、お兄ちゃん」 ドイルはまたパイプに火を付けた。「それにもう一つつけ加えるなら、偽ブライディーは完全主義者だ。必ずしも必要とは思えない、本物のブライディーの大切の部分をコピーするために、わざわざ貴重な時間をさき、多少怪しまれる危険をおかしてまで聞き出している」 「自分は…」 お兄ちゃんは頬を紅潮させて言った。「…ブライディーの裸を知りません。だから、その努力は無駄な努力だったと思います」 「以下は推理だけれど…」 席を立ったドイルは、婆さんに馬車を呼んで貰うように頼んだ。「それほどまで完璧主義者なら、罠を仕掛ける前に、誰かになりすまして、標的のブライディーに会って話をしているんじゃあないだろうか?」 お兄ちゃんとケリーは顔を見合わせた。 「大いにあり得ますわ、ドイル様」 「ブライディーが急に弱気になっているのも、きっとその時に何かを言われたからに違いない…」 「果たして誰に何を言われたか、だ。また弁護士に変装して聞きに行かねばならないかな?」 「ドイル様、あまりそれを繰り返すとかえって危険では?」 ケリーが瞳を曇らせた。「…そりゃあ、ブライディーは喜んで励まされるとは思いますが…」 「ところでドイル様、あのブレード警部というのは、左遷されたはずなのに、どうして舞い戻って来れたんですか?」 お兄ちゃんは首をかしげる。 「それがどこをどうしたものか、よく分からないんだ。彼には特に後ろ盾があるという訳でもなく、反則技の催眠術を使った気配もない。謎のブラックパワーとしか言いようがない」 ドイルがパイプの煙を噴煙のように噴き上げた時、くぐもった声が響いた。 「どこの誰がブラックパワーを使っている、だって?」 呼び笛が響き渡り、警官隊がなだれ込んできた。 婆さんや娼婦たちは慌てて逃げ出そうとしたが、あっという間に全員が捕縛された。お兄ちゃんとケリーが四方を見渡したとき、周りはすっかり警官たちに取り囲まれてしまっていた。 ドイルだけは、眉一つ動かさずにパイプを吸い続けていた。 「さて、皆さん、風俗営業法違反の容疑で大人しく一週間ほど豚箱に入って頂きましょうか」 噂をすれば、のブレード警部だった。「おっとお兄ちゃん、おまえは国家保安法違反容疑だからな。もっと長いこと臭い飯を食ってもらうぞ」 「フッ、それだったら慣れているさ」 お兄ちゃんは抵抗せず縛についた。 「さてと、ドイルさん、問題は貴方だ。おたくのメイド、ブライディーを社長殺害の真犯人と認め、この事件から手を引くと約束して頂けるのなら見逃しましょう。そうでないなら、そうでなければ『悪質な娼家を手入れしたら、客の中に人気探偵小説作家のコナン・ドイルがいたらしい』という噂を黄色新聞に流しますけれど、いいですか?」 「どうぞ、ご自由に」 ドイルは警部のほうを見ることもなく、しれっとして言った。 「強がりは分からないこともないが、後で後悔しても知りませんよ」 「後悔なんかしないよ。私は、ブライディーの無実を証明するために手掛かりを求めてここに聞き込みにきただけなのだから… ブレード警部、貴方はおかしいと思わないのか? ここで社長を殺し、その現場をお兄ちゃんや他の人々に見られたブライディーが、どうして心霊研究協会のメイド部屋に帰って、寝間着に着替えて寝るだろうか? もしもぼくが真犯人だったら、とっとと夜逃げすると思うがな」 「うるさい! あんたの可愛いメイドのブライディーは、ジキルとハイドのように、どこかがおかしいんだよ。だから俺が、何度も何度もそのことを教えてやったら、ようやく彼女も自分がおかしいということを納得したよ」 「なんてひどいことを…」 「ドイル様!」 お兄ちゃんとケリーが駆け寄ろうとしたが、娼婦たちとともに引き立てられて行った。 「では警部、せめて最新の科学的捜査方法である指紋を採取して、牢獄のブライディーの指紋と照合してもらえませんか?」 ドイルはなおもねばった。「ヤードも最近、指紋捜査法を導入するべく、専門官が配置されたのでしょう?」 「…ふん、インドでは、そういうのも証拠に採用しているらしいですが、ここイギリスではまだだ、ということをドイルさん、貴方ならよくご存じでしょう」 「なぜそうまでして真実に目をつむろうとするんだ、警部?」 紳士のドイルもついに声を荒げた。 「何とでも。とにかくたくさん税金を払っておいて良かったですな、ドイルさん」 警部はそう吐き捨てて、警官たちとともに引きあげた。 ドイル一人を残して誰もいなくなった娼家の前に、立派なオープンの二頭立ての馬車が止まった。御者台からちっちゃなオレンジ色の巻き毛、そばかすだらけの女の子の御者が飛び降りると、ドアを開けると、フィオナ・ウォーターフォード男爵令嬢が、一頭の見事な毛並みのアイリッシュ・セッターを連れて降りてきた。犬のリードのほうは、すぐにちっちゃな御者が預かった。 「…まったく、ブライディーはメイドの分際で、テンプル塔に捕らわれたマリー王妃様のようなことを言うなんて、一体何を考えているのでしょう?」 「これはこれは、フィオナ様、わざわざこのような場所までお出まし頂いて、恐縮の限りです」 あわてて出迎えたドイルに向かって、フィオナはにこりと微笑んだ。 「いいえドイル様、一度こういうところを見てみたいと思っていたところなので、楽しませて頂きますわ」 フィオナは物珍しそうに、けばけばしい屋敷の調度を見渡しながら言った。 「犬をお借りしてよろしいでしょうか?」 「ええ、リリー、ドイル様にクーフーリンをお貸しして」 「クーフーリンは見知らぬ人にはなつきません」 リリーと呼ばれたオレンジ色の巻き毛のちっちゃな御者は、セッターの頭を撫でてやりながら言った。犬は嬉しそうに少女を見上げながら尻尾を振っている。 (あのリリーとか言う子は、もしかしたらクーフーリンの背中にまたがって乗ることができるんじゃあないか?) 緊急事態の最中にもかかわらず、ドイルはそんな牧歌的な光景を想像した。 「で、ドイル様、クーフーリンに何をさせようとおっしゃるのですか?」 「このたび、ブライディーが罪に落とされたのは、ブライディーや他の者に自由自在に姿形を変えられる術使いの仕業と思うのです。けれど、そんな術者でも、身体の匂いまでは真似できないでしょう。だから、犯行現場で社長さんを殺した女の匂いをクーフーリンに嗅いでもらって、逃走先を突き止められたら、と…」 「なるほど。それは名案ですわ」 「いま、ヨーロッパ各国では、優秀な犬たちを警察犬として使役しようと、訓練の試行錯誤が行われています。ぼくの感じでは、ドイツ帝国が最初に実用配備を成し遂げるような気がします」 クーフーリンを先頭に、三人は犯行現場の寝室に入った。ドイルはハトロン紙に包んであった衣服の切れ端のようなものを取りだしてセッターに匂いをかがせた。 「それは?」 フィオナが訊ねる。 「偽ブライディーが着ていた衣服の切れ端ですよ。スコットランド・ヤードのコネを頼って、ブレード警部の目をごまかして、ようやく手に入れました。リリーだね? クーフーリンに、この匂いの主を追うように言ってくれ」 「かしこまりました。…クーフーリン、追え!」 ちっちゃい御者兼お犬番が命令した。 セッターはしばらく部屋中に残された偽ブライディーの匂いを嗅ぎ回っていたが、やがて閉じてある窓の外めがけてワンワンと吼え始めた。 ドイルは窓を開け放った。 「リリー、クーフーリンにこの窓から出ても良いから、引き続き追跡を続けるように命じてくれ」 「かしこまりました、ドイル様」 リリーが再び命じると、セッターは見事な跳躍で窓を飛び越えた。ドイルもそれに続いてヒラリと飛び越えた。リリーはいったん窓の桟に乗ってからちょこっと飛び降りて続いた。 「ドイル様、お気を付けて」 フィオナだけが窓辺で見送った。 クーフーリンは、ホワイトチャペルの薄汚い路地を進み、やがて小さな馬車一台が止められるような、四方に道が延びる車寄せで立ち止まってワンワンと吼えた。 「どうやら、ここからは馬車で逃げたようだな」 「すると、せっかくの手掛かりもここで…」 リリーがドイルの顔を見上げた。 「いや、諦めるのは早いぞ」 ドイルは近くで、長い煙管で煙草を吸いながら立っていた辻姫に近づいた。 「あら、お客さん、こんにちわ」 「ぼくは客じゃない。だけども、もし知っていたら教えて欲しいことがあるんだ」 少なくない金を渡すと、辻姫の顔がほころんだ。 「知っていることなら、何でも教えてあげるわよ」 「昨夜の真夜中頃、ここに止まっていた馬車を見なかったか?」 「見たわよ。例の事件の関連でしょう? 実は誰かそのことを聞きに来ないかな、と思って、きょうは昼間から立っていたの」 「どんな馬車だった?」 ドイルは色めき立った。 「何の変哲もない馬車よ。でも、御者がそこのちっちゃい子みたいに、ちっちゃい御者だった」 「その子の顔を見なかったか?」 「その時はまさかこんなことになるなんて思わなかったから、チラッと見ただけだけれど…」 ドイルは彼女が言う特徴を、懸命に似顔絵に描いた。 その日の夕方の、各有名新聞や黄色新聞のすべての「尋ね人欄」に、そのちっちゃな御者の似顔絵とともに、こんな広告が載った。 「この子をご存じのかたはぜひご一報ください。行き倒れているところを助けられたお年寄りが、お礼をしたがっています。 スタインバーグ弁護士事務所」 「奥様、今日の夕刊でございます」 清楚な旅用のワンピース姿のポピーが、いつものように黄色新聞の束をサイドテーブルに置いた。 「ご苦労様、ポピー。でも、きょうはもう読んでいる暇はないみたい」 と言いつつ、ついいつもの癖で「恥ずかしい写真」が載っているページを開いてみた。 「…やっぱりどの子も大したことはないわねぇ。 思えば、ロンドンの殿方も可哀相なものよね。…当分、誰の顔や姿も真似る気にはならないわ」 ミレディはこじんまりとまとめた旅行鞄に目をやって言った。 「ごもっともでございます、奥様」 「…これであのいまいましいメイドは確実に縛り首になるでしょう。ドイルやセアラたちが泣いて悲しむところを見られないのは残念だけれど、とりあえずいい気味よ。…そう、人間は未来のことを知ったり、確かでないものを確かにするべきではないのよ」 そんなことを呟きながら、ふと何気なく尋ね人欄を眺めると、いま目の前にいるポピーの、かなりよく似ている似顔絵が載っていた。「…………」 静かに閉じたミレディは、それらの新聞をまとめて片付け、捨てて行く新聞や雑誌類のあいだに隠した。 「ポピー、ちょっとお願いがあるの」 「何でしょうか、奥様」 「これからまたパリに戻らなければいけないというのに、あたし、またちょっと気分が良くないの。いつもの薬湯を作ってくれないかしら」 「かしこまりました、奥様」 しばらくして、ポピーが薬湯を作ってくると、今度は、 「忘れ物がないか、もう一度あちこち見て回ってきて」と頼んだ。 ちっちゃなメイドさんが去ると、ミレディは手早く懐から髑髏の印のラヴェルを貼った小瓶を取りだして、中身を全部薬湯の中に注いだ。 「忘れ物はございません、奥様」 「ポピー、せっかく作ってくれたこの薬湯だけれど、あたし、すっかり気分が良くなったわ」 「それはようございましたわ、奥様」 「ポピー、もったいないから貴女が飲みなさい」 「しかし奥様、あたしには乗り物酔いする癖はございません」 「いいから飲みなさい」 ミレディは厳しい目で睨み付け、茶碗を押しつけた。ポピーは仕方なく、一口、二口啜った。 「苦うございます、奥様…」 「全部飲みなさい!」 「飲め…ま…せ…」 ポピーの顔から血の気が引いたかと思うと、両手が震え、茶碗は落ちて粉々に砕けた。 ミレディは顔色一つ変えずに、旅行鞄を自分で持つと、出口に急いだ。ドアのところでチラッと振り返ると、ポピーは全身を小刻みに痙攣させながら床の上でのたうち回っていた。 「早く出して!」 馬車に乗り込んだミレディは、御者に向かって命じた。 「おや、ちっちゃいメイドさんは一緒じゃないのですか、奥様?」 「あの子は後で来るの」 彼女は抑揚のない声で言った。 「ここか?」 ミレディを乗せた馬車とすれ違うようにして、警察の馬車がやってきた。 「ここです、ドイル様」 警官二名を従えたドイルは、窓を銃把で叩き割って部屋の中に上がり込んだ。 苦しんでいるポピーを見つけると、走り寄って抱きかかえた。 「おい、しっかりしろ! …おまえたち、コップとバケツに水を汲んでこい!」 毒を吐かせても、心音は弱く、呼吸もかすかだった。 「警察病院へ運ぶぞ! 一名は先回りして、何の毒か調べる試薬と、ありとあらゆる解毒剤を用意しろ!」 ブライディーが出された夕食に手を付けずに、ぼんやりと留置場の染みだらけの壁を眺めていると、弁護士になりすましたドイルが小走りに走ってきた。 「ドイル様!」 メイドさんは嬉しそうな表情をした。 「シッ、静かに。急いで占って欲しいことがあるんだ」 ドイルは「毒物学」と書かれた分厚い書物を示して言った。 「ですから、わたしはもう占いはしないと誓いました。 「きみになりすまして社長さんを殺した女が、尻尾をつかまれそうになったので、足手まといになったデイジーよりもちっちゃなメイドに毒を盛って逃走した…」 「むごいことを…」 「まだ生きてはいるが、早く何の毒かを確定させて、解毒剤を飲ませなければ確実に死ぬだろう。試薬は、判定に数時間もかかるものがあり、とてもじゃないが間に合わない。その子は、正視できないほど苦しんでいる。最初におおかたの毒を吐かせてしまったことを後悔するくらい苦しんでいるんだ。頼む、ブライディー、これが最後のお願いだ!」 牢の中のメイドさんは黙って毒物学の本を受け取ると、しおりがはさまれた、大きな一覧表が載っているページを開いて、心を集中した。 それからゆっくり目を閉じ、とある項目を指さして爪の先で印をつけた。 「有難う、ブライディー、さっそく試してみるよ」 「誤って… いるかもしれません…」 「あの子は、普通の方法ではどうしても助からないんだ。もしも間違っていても、それは仕方のないことだ」 ドイルは警察の医者や薬剤師と相談して、ブライディーが占った解毒剤を調合した。 ベッドの上では、蒼白な顔にかすかに毒の斑を浮き上がらせたポピーがかすかな息を続けている。 「ドイルさん、医者であり、科学的検査法の信奉者であるあなたが、こんな方法で良いのですか?」 警察の医師や薬剤師たちが眉をひそめた。 「じゃあ他にどうすればいいとおっしゃるのですか? この病院にあるすべての解毒剤一式を全部飲ませろとでも?」 ドイルは処方された解毒剤を注射器で吸い上げると、死斑が浮き上がりかけている少女の細く白い腕に注射した。 「頼む、効いてくれ!」 祈りが天に通じたのか、数分後にはポピーの息は少し楽そうになった。三十分後には苦しみが収まり、顔には心持ち血の気が戻った。 「やったぞ! よかった! …ブライディー、きみの能力は素晴らしいものだぞ!」 投薬から一時間がたとうとする頃には、ポピーは目を開け、何かを語ろうと試み始めた。 「ポピー、もう大丈夫だ。きみは助かる。きみをこんな目に遭わせたやつを捕らえて罰したい。…きみのご主人は、どこへ逃げた?」 ドイルは少女の耳元で叫んだ。 「ドイルさん、無茶です。彼女はついさっきまで危篤だったんですよ!」 警察の医師や看護婦が引き離そうとするのを、振り払った。 「…ヴィクトリア駅… 夜行…」 唇に耳をつけるようにすると、かすかにそう聞き取れた。 「ヴィクトリア駅だな?」 飛び出して行こうとして振り返ると、ポピーの髪は真っ白になっていた。 「おい、この子の意識が戻っても、鏡だけは絶対に見せるんじゃあないぞ!」 「捕り物、でございますか、ドイル様」 群青色のドレスを一分の隙もないくらいに着こなしたフィオナ・ウォーターフォード男爵令嬢は、にこやかに笑いながら言った。 その後ろには、御者兼犬番のリリーと、クーフーリンが控えている。本日最終の夜行に乗るさまざまな人々や、その見送りでごった返す駅構内には、いつもより多めの警官がそここに配置されている。 「頼みの綱は、クーフーリン、もはやおまえだけだそ」 ドイルはしゃがみ込んで、しきりに尾を振っている精悍なアイリッシュ・セッターの頭を撫でた。 と、赤帽に旅行鞄を持たせ、自らも大きめの旅行鞄を持った一人の老嬢が通りがかった時、それまでおとなしく座っていたクーフーリンが全身の毛を逆立ててけたたましく吼え始めた。 「誰だい、こんなところに犬なんか連れてきたのは? 迷惑だよ」 リリーがリードを引っ張って懸命にクーフーリンを押さえるなか、老嬢は何食わない顔で通り過ぎようとした。 その時、一人のちっちゃなお仕着せを着たメイドが走り出て叫んだ。 「ご主人様。どうしてあたしを一緒に連れて行ってはくださらないのですか?」 その子の顔を見た老嬢の顔から血の気が引いた。 「ポピー!」 「あいつだ! 追え!」 ドイルは叫びながら、オイル・サーディン(油漬けのイワシ…もの凄く臭い…)の入った皿をその女に投げつけた。 「何をするの!」 「顔姿形は変えるかもしれない。臭いを追え!」 女は、とても年老いているとは思えない速さで、スカートをたくしあげながら走って逃げた。 しかし、クーフーリンとドイルと警官たちはそれを上回る速さで追いかけた。 女は逃げながら顔や姿を次々に変えたが、無駄だった。 「もういいかしら?」 そういいながらデイジーは、ポピーに化けていた変装を解いた。 「もういいわよ、デイジー」 フィオナは目の前で繰り広げられる追跡劇を眺めながら言った。 「それにしても、自分のメイドさんに毒を飲ませて殺そうとするなんて、ひどいやつだね」 デイジーはまなじりを決してつぶやいた。 「人間の命なんて、何とも思っていないかたがたなのよ。だからドイル様たちも手加減することはないわ」 フィオナはデイジーの肩に手を回した。 ミレディはだんだんと逃げ場所を失いつつあった。 ドイルと警官たちとクーフーリンは、じょじょに包囲を狭めた。 「何者か知らないが、もう逃げられないぞ!」 ドイルは大声で叫んだ。駅構内を行き交う人々は何事かと思って道を譲った。 「諦めて縛につけ!」 女は懐から小さな拳銃を取りだして、振り向きざまに発砲した。銃弾がドイルの頬をかすめた。 警官たちも拳銃を抜いた。 「やめろ、撃つな! 生け捕りにしろ!」 ミレディが逃げて走っていた対面のプラットホームから列車が、汽笛を鳴らしながら発車しかけた。彼女はそれに飛び乗ろうとして、 停車していた別の列車の車両の連結部分を横切り、さらに線路も横切ろうとした。 そこへ、ちょうど到着した列車の機関車が、速度は落としていたものの、入ってきた。女は大きく目を見開き、悲鳴を上げた… …それは、定まった顔と姿を持たない女にふさわしい最期だった。女が最後まで手にしていたバッグからは、一冊の写真帳がはね飛ばされた。その中身の×印の打たれた何枚もの写真が、宣伝ビラのように舞い散った。 「有難うございました」 留置場から釈放されたケリーとお兄ちゃん、それに誰よりもブライディーは深々と、ドイルやフィオナ、リリー、デイジーたちに頭を下げた。 「良かったな、ブライディー」 ドイルやお兄ちゃんたちは代わる代わるメイドさんの肩を叩いた。 「ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」 「死んだ女の覚え書きから、きみに占いを禁じたシスター・セアラは、あの女が化けた偽者だったことが分かったし、無実の罪で刑務所に入っていた女性たちも数多く救われて、本当によかった」 ドイルは安堵した表情で言った。 「でもねお姉ちゃんがドジなことをするから、お兄ちゃんのアメリカ行きがダメになってしまったじゃない!」 デイジーは唇を尖らせた。 「ぼくはアメリカに行くよ、社長さんが死んでも」 「えっ?」 ブライディーは息を呑んだ。 「…だって、そんな理由で延期や中止していたら、余りにも情けないじゃないか」 『だったら、わたしも…』 言いかけるよりも早く、ドイルがメイドさんたちの目を見つめて言った。 「ブライディーにデイジー、たっての願いがあるのだが、聞いてはもらえないだろうか?」 「何でございましょう?」 「実は、英国心霊協会でもう一人、ちっちゃなメイドさんを雇いたいんだ。その子はメイドとしての経験はあるんだが、大きな心の傷を負ってしまっている。楽しく働くことで、その傷を癒し、忘れさせてやって欲しいんだ…」 (次のエピソードに続く) KIJISUKE@aol.com