ブライディー・ザ・マジックメイド
  「人形の城」

「デイジー、早く、半分持ってちょうだい」
 行く春のロンドン、混み合うハロッズ百貨店の店内。英国心霊協会で使う雑貨品を買い回ったブライディーは、玩具売り場の飾り窓の前で、ほかの少女たちにまじって立ち止まったままのデイジーに向かって叫んだ。
「はーい、お姉ちゃん」
 生返事をしたまま動かないデイジーに、肩をいからせたブライディーが近寄る。飾り窓には貴族のお屋敷を正確に縮尺したドールハウスが飾られていた。家具も食器も、絵画や花瓶などの装飾品も、すべて精巧なミニュチュアで作られている家の中に、幸せそうなフランス人形の一家が暮らしている。
「あたしもあんな子が欲しいなぁ…」
 デイジーは瞳を潤ませ、じっと眺め続けていた。
「よし、お姉ちゃんが作ってあげる」
「本当に?」
「フィオナ様にお仕えしていた頃に頂いたドレスの端切れがいっぱいあるの」
「でも柄物は使いにくいよ。お人形は、お人形のために織られた特別の布で仕立てたドレスを着ているんだよ」
「無地だったら、なんとか…」
「襟や袖口なんかのレースだって、ミニチュアのすごく目の細かいレースなんだよ。お姉ちゃん編める?」 口ごもるブライディーの目に、救いのポスターが映った。
「創作人形コンテスト。応募されるかたは、ご自分とそっくりの人形を作って持参してください。造形や裁縫の上手い下手よりも、本人と似ているか似ていないかが審査の対象となります。入選者一名に最新モードのフランス人形(着せ替え可能)を進呈。佳作数名に…」

 その晩からブライディーは、デイジーが寝静まるのを待って、蝋燭の明かりのもと、メイドのお仕着せを着た縫いぐるみの抱き人形を少しずつこしらえた。 抱き人形自体は、貧救院にいた頃に、小さな子供達のためにいくつも作ったことがあったので、型紙から裁断、縫い合わせまで滞ることなく進んだ。肌色のフェルトや、お仕着せの紺色のフェルトも持ち合わせがあった。髪の毛には真っ赤な毛糸を使った。髪飾りだけは気合いを入れて思い切り細かいレースを編んだ。両目は茶色のボタンを使って、白い絵の具でハイライトを入れた。
「ねぇ、お姉ちゃん、遅くまで何をごそごそやっているの?」
 デイジーが目をこすりながら起きあがると、彼女はあわてて人形を背中に隠した。
「何か作っているの? それだったら見せてよ」
「出来上がるまで秘密よ」
 と言ったものの、実は、コンテストが終わるまで、というのが正しく、おまけに賞に入れなければ、永久に黙っているつもりだった。

 コンテストの当日、ブライディーはメイドのお仕着せを着たまま出来上がった人形を白い布で巻いて百貨店に出かけた。
 が、会場に近づくにつれ、足は次第に重くなり、ついには動かなくなった。と言うのも、参加者のほとんどが貴族や郷紳、良家の令嬢ばかりで、めいめいが高価なドレスで着飾り、自分とよく似た陶器の顔を専門の職人に焼かせて、自分で作ったのは衣装だけらしい、とても自作とは呼べない華やかな人形を手にしていたからだ。
「おや、メイドさん、誰かを捜しているの?」
「お人形を届けに来たの?」
「どなたにお仕えしているの?」
「あ、いえ… その…」
 彼女はいたたまれなくなって、その場を小走りに去った。
(そう、これはこういうコンテストだったのよ。よく考えれば分かることなのに、お莫迦さんね、ブライディー…)
 目が熱くて仕方がなかった。集まっていた子たちはみんな、賞品の人形くらい買って貰えることができる子たちだったというのも釈然としなかった。

 ドイルたち会員が誰もいない日、ブライディーは季節はずれの暖炉をおこし、炎が燃え上がるのを待ってその中に自分が作ったみすぼらしいメイドの縫いぐるみを投じようとしていた。
 だが何か、自分をどうにかしてしまうような気がして捨てきれずにいて迷っていると、気がつかずに半開きのままにしていたドアの向こうから声がした。
「お姉ちゃん、そのお人形どうしたの?」
 声の主はデイジーで、彼女の手から人形をひったくるようにしてもぎ取り、頬ずりした。
「お姉ちゃんが作ったのよ」
「ははん、毎晩作っていたのはこの子だったのね。もちろんあたしにくれるんでしょう? あたし、本当はこんな子が欲しかったんだ。ちょうだいね」
「可愛がって上げて」
 ブライディーはかすれた声で言った。
 再び、こんどはほのかに暖かい熱いものがこみ上げてきた。

 英国心霊研究協会が借りている通称「幽霊屋敷」にも、もちろん書斎と書庫がいくつかある。書斎のほうは、会長の応接間ということもあって、壁を埋め尽くす本棚には「古典文学全集」だとか数十巻の「英国史」「世界史」「聖書の解説本」といったおよそ誰も紐解くことがないであろういかめしい本がずらりと並んでいる。それに比べて書庫のほうは、前からあった本や、会員が寄贈した本、さらには何故こんなものがここにあるのかよく分からない本などが加わって、さながら伏魔殿のような形相を呈していた。
 ブライディーは天気が良くて暇がある日、この部屋に入って窓を開け、はたきをかけて埃を払う。ときどき一緒についてきて手伝うデイジーは、本箱の上に置かれた紙箱の中に、普通の本ではない、ミニチュアの、しかしページを開くとちゃんと文章が書いてあり挿絵も添えられている、いわゆる「豆本」がいっぱいあることを知っていた。
 彼女はあぶなっかしい体勢で脚立の上に乗ってその箱を降ろすと、中から数冊の豆本を取りだして、屋根裏のメイド部屋に帰った。そこには、ブライディーからもらった手作りの縫いぐるみのメイドさんの人形が、壁にもたれて微笑んでいた。
「さあさあ、ブライディーさん、あたしはこれから掃除と洗濯をしてくるわ。退屈でしょうから、本でも読んでいてね」
 デイジーはそう言って、適当な豆本を開いて人形の両手に持たせた。
(有難う、デイジー。わたし、本を読んでいるわ)
「本は何冊もあるから、読み終えたら取り替えてあげるね。お姉ちゃんも本が好きで、いつも貸本屋さんでいっぱい借りてきているよ」
(そう… わたしも見習うわ)
 しばらくして掃除を終えて戻ってきてみると、風で落ちただけかも知れなかったものの、メイドさんの人形は豆本をたたんで落としていた。
「面白かったですか、ブライディーさん。次の本も読みますか?」
 人形はコックリと小さく頷いたように見えた。
 豆本の中には、ミニチュアのタロットカードがセットになっているものもあった…ところをからすると、その豆本は占いの指南書らしかった。
「さあさあブライディーさん、占いをしてみますか? お姉ちゃんの占いはとってもよく当たるんだよ」
(そう。わたしもやってみるわ… ところでデイジー、わたしを箱の中に入れて、カーテンで覆いをしてくれないかな。本を読んだり、いろいろやっているところをお姉ちゃんに見られるのは恥ずかしいわ)
「これはこれは、気がつかないでごめんなさいね」
 デイジーは早速、大きめの空き箱に人形を入れ、端切れを紐で吊してカーテンにした。「開けるときは呼びかけるね」
(有難う、デイジー、これで落ち着いていろんなことができるわ)
 ほどなく人形は書庫の豆本を全部読破した。 デイジーが洗濯から戻ると、ミニチュアのカードが散らばっていることもしょっちゅうあった。
(ねぇデイジー、ラムネのビー玉を一つくれないかな。できるだけ澄んだ透明のものがあったら嬉しいんだけれど)
 デイジーは、いつもロバが引く荷馬車で食料品の配達をしてくれる少年が、いつもきれいなビー玉を見せびらかして帰ることを思い出した。「いいよ。心当たりがあるから頼んでみるよ」

「デイジー、お人形にお家を作ってあげたの?」
 その日の仕事を終え、エプロンドレスをほどき、お仕着せを脱ぎながらブライディーが言った。
「うん、そうだよ」
「人形なのに、自分の部屋があるなんて、お嬢様みたいで羨ましいわ」
 ブライディーは肌着のままベッドに横になって天井を見つめた。
「こんどドレスもおねだりされているんだよ」
「ドレスかぁ… 派手なフリルのやつ?」
「うううん。裾が長くて胸が開いていて袖のない黒のドレスが欲しいみたい」
「黒いドレス? 似合わないよ… おやすみ」
 ブライディーは毛布にくるまったかと思うと、すぐに寝息を立て始めた。
(似合うか似合わないかは着てみないと分からないのに、いくらお姉ちゃんでも失礼よね)
「そうそう、いくらお姉ちゃんでも失礼よ」
(それと、首飾りもお願いね)
「お姉ちゃんがコンタツ(カトリックの数珠)をいくつか持っているから、頼んでみるね」

 デイジーは食料品店の配達の少年から、きれいな透明のビー玉をもらった。人形のブライディーさんがそれを乗せる台を欲しがったので、あまり使わない紅茶茶碗に付いていた小さなミルク入れの上に乗せてやると、とても喜んだ。「お人形の首飾りにするから」とお姉ちゃんからもらった紫色のガラス玉のコンタツを首に掛けてやると、とてもよく似合った。
「ロザリオ(コンタツと同じものだが主に十字架の部分を指す)は要らないの?」
「要らないわ」
「そう、デイジー、あなたは国教会だから、お人形さんも国教会よね」
 お姉ちゃんから縫いぐるみの型紙集を借りたデイジーは、たびたび針で指を突きながらも、黒い厚手の絹の端切れでドレスを縫い上げた。メイドさんのお仕着せを脱がせて、そのドレスを着せると、占い師か、つば広の三角帽子はないものの、魔女のような雰囲気になった。
「こんなのでいいの?」
 コンパクトの鏡で姿を写してやると、人形はとても喜んだ。
(デイジー、あなたお裁縫の才能もあるわ)
 古道具屋で買ってきた、ままごとの椅子に人形を座らせ、テーブルの上にビー玉とミニチュアのタロットカードや豆本を飾ると、すっかり占い師の屋台のようになった。コンパクトの鏡も館の調度品になってしまった。
「…でもせっかく占いのお店を開店しても、お客さんがいないわねぇ…」
(ねぇデイジー、もう一つ… いや二つ、お願いがあるの。だんだん難しくなるけれど、聞いてくれる?)
「いいわよ、ブライディーさん。あたしにできることだったら」
(心霊協会の会員のかたがたが読み捨てられていかれるタイムズやガーディアンの、ロンドン都心版のページの下の三行広告を毎日注意して見ていて。それに『人形の城の集いのご案内』というような記事が載ったら、切り抜いて持ってきて欲しいの)
「それくらいだったら簡単だよ」
 デイジーはドイルたちやお姉ちゃんの目を盗んで、毎日三行広告を確かめた。
 すると、ほどなく、それらしき記事が載った。
「人形の城の集い。来月の月初めの日曜日の正午、ハイド公園の臨時大天幕(当局認証済)の下。我こそはと思う持ち主のみ、ご自慢の人形を持ってお集まり下さい。参加無料」
 デイジーはその記事をページごと切り取って、人形に見せた。
(有難うデイジー。わたし、この会にぜひ行きたいわ。この日曜日、お暇がもらえる?)
「さぁ… 日曜日は心霊協会でもいろいろあるから難しいんだけれど。お姉ちゃんに訊いてみるわ」
(もしもお許しが出なかったら、また三行広告を見ていてね)

「ねぇ、お姉ちゃん。来月の月初めの日曜日、夕方までお暇をもらっていいかな? どうしても見たいお芝居があるんだ」
 デイジーはじゃがいもの皮を剥いて、芽を取りながら話しかけた。
「予定は何もなかったはずだから、いいと思うけれど、ドイル様にお訊きしてみないと… どんなお芝居?」
 ブライディーはスープの味見をしながら言った。
「人形劇だよ」
「そう。だったらいいんじゃない。お姉ちゃんと一緒に行こうか?」
「いや、子供向けの人形劇だから、お姉ちゃんはきっと退屈するよ。それに日曜はよく人が来られるから、誰かいないと…」
「そう…」
 お姉ちゃんはちょっと肩を落とした。

「ドイル様がいいとおっしゃって下さったわ」 お姉ちゃんが戸締まりを確認しに回っているあいだに、デイジーは人形の箱のカーテンを開いて報告した。
(有難うデイジー、本当に嬉しいし楽しみだわ) ブライディーさんはボタンの瞳を輝かせた。(わたし、必ずあなたに幸運をもたらせてあげるわ)
「でもね、この広告には『我と思う持ち主』と書いてあるよ。きっとみんな、高価で立派なお人形ばかりもってきて、加わりづらいんじゃあないかな」
(大丈夫よ。そいういうような集まりはまた別にいくらでもあるのよ。この集まりはそんななんじゃあないの)
「じゃあ、どんな?」
(行けば分かるって)
 デイジーはいつものように人形を抱きしめて眠りについた。

 当日の日曜日。ロンドンは素晴らしい快晴に恵まれた。デイジーは教会へ行くときだけに着る一張羅のベージュ色のドレスを着て帽子をかぶり、人形を入れた紙箱を抱えて屋敷を出た。
「あらデイジー、お人形さんも一緒に連れて行ってあげるの?」
 お姉ちゃんが呼び止める。
「うん。アンコールで飛び入りができそうなの」
「気を付けてね。お金は持っている?」
「心配しないで、行ってくるね」
 ハイド公園というのは、もともと上流人士の散歩や乗馬道があって、デイジーのような小さな女の子が一人でうろうろするようなところではない。そこで、母親に手を引かれている同じくらいの年頃の少女の後について歩いていった。大天幕はすぐに見つかった。脇幕はなく、文字通り大きな天幕だけの下にはすでに五十人くらいの人が集まっていた。
 紳士淑女、職人、商人、大道芸人たち、老若男女さまざまな身分や階層の人々が、ビスクドールやフランス人形、操り人形や指人形、縫いぐるみを持って互いに人形を見せ合い、和やかに談笑している。
 戸惑っているデイジーの前に、片眼鏡をかけた一人の白髪の紳士が近づいてきた。
「おや、お嬢ちゃんも人形を持ってきたのかな?」
 紳士はフランス語訛りの英語で問いかけた。
「うん、この子が来たい、と言って。…でもだめだったらいいの。帰るわ」
 紳士は腰をかがめて黒いドレスを着たブライディーさんの縫いぐるみをしげしげと眺めた。
「…ほう、珍しい。占いをするお人形じゃね。どうか楽しんで行ってくだされ。わしはリモージュ伯爵。この集まりは、たとえば抱いて寝たら病気が早く治るなど、不思議な力を持った人形とその主人の集まりなのじゃよ」
「えっ、そんなお人形が本当にあるの?」
 デイジーは目を丸くした。
「抱いて寝たら良い夢を見ながらぐっすりと眠れる人形、幸運を招く人形、魔除けの人形、良くないことを忘れさせてくれる人形、陽気で明るい気分にさせてくれる人形…他にもいろいろあるよ。その子に案内してもらえばいい」
 デイジーはとりあえずいろんな人形を見て回った。どれがどのような能力を持ったものなのかは、人形のブライディーさんが説明してくれた。
「でもね、ブライディーさん、お人形には持っているだけで不幸になる、呪いの人形みたいなのもあるのでしょう?」
 デイジーは声を潜めて尋ねた。
(それはそれで、また別の世界のお話しよ) ブライディーさんは、仲間をいっぱい見つけることが出来て、心なしかはしゃいでいるように見えた。
 と、子馬が引く人形芝居の屋台舞台のところで、中年の親方が複雑に絡まってしまったパンチネロとパンチネラの操り人形の糸を解こうとやっきになっていた。
「どうしたの?」
「せっかくみんなの前でいいところを見せようとしているのに、何度やってもからまってしまうんだ。欧州のあっちこっちを公演してまわっているけれど、こんなことは初めてだよ」
 人形のブライディーさんはこっくりと頷き、道化の男女の言い分を聞いて、デイジーに伝えた。
 デイジーは頷き返して親方にこう言った。「パンチネロがあっちのきれいなフランス人形の事ばかり見ているから、パンチネラが妬いているのよ」
「えっ、本当に? でもそう言われればそんな感じも…」
「…仲良くしないと、古道具屋に売り飛ばされちゃうよ」
 デイジーは、道化たちに人形のブライディーさんの言葉を伝えた。
 親方は屋台の角度を変えて、パンチネロがフランス人形を見られないようにした。すると途端にあれだけ絡まっていた糸が解けて、無事に芝居を始めることができた。
「お嬢ちゃん、有難うよ。実は、こいつらも、もう古いからそろそろお払いにしようかと思っていたところだったんだが…」
 親方はホッとした様子だった。
 そろそろ太陽も傾き掛けてきた。跳ね出すように立ち去ろうとしたデイジーは、立ちつくしていた人に当たった。
「ごめんなさい」
 人影はリモージュ伯爵で、呆然としていた。
「もしや、この子は、人間の運命だけではなく、人形の運命をも占えるのか?」
「そうみたい」
「おお…」
 伯爵はうめいて思わずデイジーの手をつかんだ。
「ぜひ、ぜひこのわしに力を貸して欲しい。お礼はできるだけさせてもらう」
「お礼」と聞いてデイジーの心が動いた。ホワイトチャペルの借家で病気で療養している育ての母親の、医者への支払いが滞っていたからだ。

 デイジーと人形のブライディーさんは、リモージュ伯爵とともに紋章の入った黒い馬車に乗り、伯爵がロンドンに借りている邸宅に赴いた。
 玄関では執事を始め、召使いやメイドたちが一列に並んで深々とお辞儀をし、主の帰宅を出迎えた。デイジーは何か自分まで偉くなったような気がした。
 フランドル織りの絨毯を敷き詰めた応接間に招き入れられたデイジーは、壁一面に据え付けられた黒檀の飾り棚に、ずらりと飾られた数十体もの華やかできらびやかなビスクドールたちを見て、思わず息を呑んだ。
 当たり前のことだが、一人として同じものはない上品で麗しい顔立ち。絹や天鵞絨をふんだんに使ったドレス、精巧な細工のアクセサリーや靴。身につけた宝石類はみんな本物で、ほのかに香る香水も、最高のものばかりだった。
(デイジー、そんなに驚かないで。みんな伯爵様の御領地で生まれたかたがたよ。伯爵様にとってロンドンは外国。選り抜きの子たちを従えて来られているのは当たり前でしょう?)
 メイドがお茶と、お屋敷でお抱えのバティシェが作ったばかりのパリふうの生菓子を運んできた。デイジーは思わずむさぼるように食べた。
(デイジー、お行儀が悪いわよ。ほらほら、お口にクリームが付いているわよ。鏡を貸してあげるね)
 ほどなくして伯爵が、白い絹の布を掛けたガラスのケースを自ら抱えて入ってきた。
 ケースを棚と揃いの黒檀のテーブルの上に置き、布が取りのけられると、デイジーは心臓が止まるかと思った。
 果たしてこれが人形なのだろうかと思うぐらいの、神々しい顔姿のビスクドールが、優しい光に満ちた瞳でこちらを見ていた。
「この子がどんな経緯でわしのものになったかなどは、語る必要はないじゃろう。最近、一度も会ったことがない人物…仮に傀儡卿としておこう…から手紙がきた。それには、『この子の正統な所有者は自分であるから、速やかにご返却賜りたい。だが、貴殿もこの子を正当に入手されたことであろうから、購う金銭については、そちらの言い値をお支払いする』と書いてあった。
 じゃが、わしもまた、神のご加護か、いまのところ金には不自由しておらぬ。
 そこでデイジーさん、この子をいくばくかの金銭を代償として、傀儡卿に譲り渡した場合、この子がたどるであろう運命を、そちらのブライディーさんに占って頂きたいのじゃ」
 デイジーはブライディーさんと目配せをしあった。
「それじゃあブライディーさん、お願いね」
 人形の運命は、人形の占い師でないと占えないかどうかは、よく分からない。ただ、人間の高名な占い師に、人形の運命を占え、などと言ったら、誇りを傷つけられること千万かもしれない…
 ブライディーさんはボタンの瞳を輝かせ、少し小首をかしげて、相手の国宝級のドールに問いかけ、ビー玉の水晶玉を覗き込む仕草をした。シャンデリアの光がコンタツの首飾りにきらめき、ミニチュアのタロットカードが一陣の風に舞った。
(リモージュ伯爵、この子を絶対に傀儡卿に渡してはいけませんよ。渡したら最後、この子は口にはできないほどのひどい目に遭います)
「聞こえましたか、伯爵様」
 デイジーが恐る恐る尋ねると、伯爵はほんのかすかに頷いた。
「有難う、ブライディーさん、デイジーさん。これで決心がついたよ。さぁ、これは約束のお礼じゃ」
 伯爵はずっしりと重い白い繻子の小袋をデイジーに手渡した。中をそっと覗いてみると、ナポレオン三世陛下の肖像が刻まれた金貨が五、六枚入っていた。デイジーがいままでの人生で初めて手にした「大金」だった。
「わしの馬車で送らせよう。まっすぐ家に帰るんじゃよ」
 だが、デイジーは御者にホワイトチャペルに言ってくれるように頼んだ。そしてまず御者と一緒に両替商に入ってイギリスの紙幣に変え、育ての母親がかかってる医者や、世話になっている大家、食料品店、衣料品店、日用品店を回って溜まっていた付けを完済し、なおかつ多額の先払い金を入れた。
 一番に会って喜び合いたいはずの義母には会わなかった。金を手に入れた方法について心配をかけさせたくなかったからだ。
 最後の店を出て馬車に乗ったデイジーは、安堵のあまり、その馬車がいままで乗ってきた馬車と、よく似ているものの全く別の馬車で、御者もすり替わっていることに気づかず、ついうとうとと眠ってしまった。
(デイジー起きて! 大変よ!)
 人形のブライディーさんの声も、届かなかった。

「ここはどこ? お願いしたところじゃないみたい…」
 ハッと目を覚ましたデイジーは、周囲の風景がまったく見覚えのない場所だったので慌てて飛び起きた。
 日はとっくの昔にとっぷりと暮れ、馬車はガス灯も人通りもない、寂しい郊外の地道を走っていた。
「お嬢ちゃん、ごめんよ。なるべくだったら手荒なことはしたくないんだ。ご主人様がお嬢ちゃんを連れてこい、とのご命令でね」
 すり替わった御者が抑揚のない声で言った。
「嫌だ! お巡りさんに言いつけてやる」
「まあそう言わずに。話を聞いてもらうだけでいいんだ。お嬢ちゃん、お金が欲しいんだろう?」
「お金」と聞いて再びデイジーの気持ちが動いた。
(もしもリモージュ伯爵のお屋敷でしたように、ちょっと占って上げるだけで目もくらむようなお礼が頂けるのなら… メイドのご奉公をお暇頂いて、ずっとお母さんの看病ができるようになるかもしれない…)
(だめよデイジー、すぐに降ろしてもらいなさい! あなたはつい最近、とても怖い目に遭ったのでしょう?)
 人形のブライディーさんが眉を吊り上げた。
(お話しを聞くくらいいじゃない。もしもいけないことだったら、その時は適当な理由を付けてお断りすればいいだけよ)
(どうなっても知らないわよ!)

 馬車は沼地にポツンと建っている荒れ果てた小さな城館の外堀の跳ね橋の前で止まった。
「じゃあな、お嬢ちゃん。俺は通いの御者だから、帰らせてもらうよ。今夜はここで泊めてもらうんだな。傀儡卿は人間には悪いことはしないお方だから大丈夫さ。いい返事をしたら、明朝一番にもロンドンに送り届けてやるよ」
 御者は痩せた馬たちに一鞭くれると、何処か一目散に走り去った。
 デイジーは人形のブライディーさんを抱いて、恐る恐る跳ね橋を渡った。
 正面の扉は開け放たれていて、人の気配はまったくなかったものの、廊下の燭台という燭台には、高価な長い木蝋の蝋燭があかあかと燃えていた。掃除は久しくされた気配がなく、全体に埃が積もっている。
「ようこそ、デイジーさんと、人形のブライディーさん」
 どこからか、感情というものがまったくないくぐもった男の声が、伝声管らしいものを通じてこだました。
「あなたが傀儡卿ね?」
「いかにも。どうか、指示の通りに進んで欲しい」
 デイジーたちは言われるままにそう広くはない食堂に進んだ。端の主賓席にはパンやクッキーや牛乳が置いてあった。鼻を近づけ、触ってみると、パンは黴臭く、クッキーは湿っていて、牛乳は饐えた臭いがした。ここもまた一様に埃が積もっていて、主人の席には誰もいなかった。
 その隣には、古いオルゴール箱のような木箱が置いてあった。
「さて、デイジーさんと人形のブライディーさん、話は簡単に済ませよう。どうか、今後、人形の運命について占って欲しいという依頼があっても、一切断って占わないで欲しい。ついては、一年間ごとに二千ポンドずつ支払わせてもらおう」
 二千ポンドと聞いて、デイジーは目が回りそうになった。親子二人、何もしなくても悠々と遊んで暮らせて、おまけにメイドさんも一人雇える金額だ。
(だめよデイジー、絶対にだめよ。そんな後ろめたいお金を受け取っては)
 人形のブライディーさんは、デイジーの腕の中で身体をわななかせた。
「…どうか前の箱を開けてみて欲しい」
 デイジーが木箱を開けると、見知らぬ遠い外国の金貨がぎっしりと詰まっていて、鈍い輝きを放っていた。
「…約束してくれたら、それはいますぐ全部君たちのものだ」
 デイジーは中から何枚かの金貨を取り出して、一番奥にあった一枚を口に入れて噛んでみた。彼女の小さな柔らかな歯でも、かなり深い傷がやすやすと付けることができた。
(本当にだめよデイジー、きれいな可愛いお人形さんたちがひどい目に遭うのよ)
 人形のブライディーさんが叫んだ。
「…どうだろう。そのブライディーさん人形をぼくに譲ってくれないだろうか。譲ってくれたら、もう一箱、同じだけの金貨を出そう。…最初の一箱を受け取ってくれたなら、その子は延々と君のことを責め続けるだろう。そうなったらそんな鬱陶しい人形、もう要らないだろう? 代わりのが欲しければ、もっと立派な、もっと可愛くて素晴らしい、本物の宝石を身につけているようなお人形だって買えるはずだ」
「そうだよね」
 デイジーはつぶやいて、ブライディーさんをギュッと抱いていた腕をゆるめた。

 陽が落ち、夕餉の賄いの時間になってもデイジーが帰ってこないので、ブライディーの心はまた胸騒ぎにさいなまれていた。
(どうしよう。今夜はドイル様も皆様もいらっしゃらないし、また占ってみようかしら)
 愛用の「不思議の国のアリス」のカードと、アイルランド土産の「ケルトの神々のカード」をそれぞれ右手と左手に持って天秤にかけ、デイジーとの相性と今宵の月と星座との縁(えにし)を比べていると、壁に一列に並んだ鐘のうち、玄関の来客を知らせる鐘が鳴った。
 扉を開けると、夜会服を着た見知らぬ初老の貴族が、白布を掛けた箱を手にした従者を従えて立っていた。
「火急の用にて、挨拶は失礼。わしはリモージュ伯爵。デイジーちゃんは戻られておられるか?」
「いえ… まだ帰っていません。わたしも心配して…」
「やっぱり」 伯爵が白布を取ると、何かを語りかけているような、人形離れした存在感のあるビスクドールが現れた。
「…この子がどうしても確かめろと言って聞かないものじゃから、寄ってみた」
「するとデイジーは昼間、伯爵様のお屋敷に」
「うむ。くれぐれもまっすぐ家に帰るように言ったのに。傀儡卿に捕まってひどい目に遭っていなければよいのじゃが」
「傀儡卿? そのお方はどちらにお住まいなのですか?」
「分からぬ。住所はなく、手紙などにはただ名前だけが…」
「分かりました。お任せください。…ついては伯爵様、初対面なのに厚かましいお願いを申し上げて恐縮でございますが、その子の力もお貸し願えますか?」
「もちろんじゃとも。そのために連れてきた。この子の名前はイリスと言う。わしの知る限り、リモージュで一番の子じゃ」
 伯爵の表情が一瞬ほころんだ。
「イリス、わたしはブライディー。よろしくね」
(こちらこそ。あなたもカードで占うの? 良かったらこのカードを使ってみて)
 イリスは表に七色の虹の模様、裏にリモージュの名人たちが作ったいろんなビスクドールが描かれたタロット・カードを差し出した。

(デイジー、わたしを売り飛ばすなんて、そんな悲しいことを言わないで)
 朽ちかけた城館の漆喰の剥げた食堂。ブライディーさんの人形はボタンの両目にしずくのようなものを浮かべた。
「うるさいわね。あなたたち人形と違って、あたしたち人間は、生きていくのに食べるものや着るものや、そのほかにもいろいろいっぱい要るものがあるのよ。あなたを作ったお姉ちゃんだって、高いお給金で『黄金の暁団』に引き抜かれかけたことがあったんだから。あたし、夢でうなされているのを聞いちゃった。結局断ったらしいのだけれど、莫迦なお姉ちゃんよ。あれは絶対に引き受けなかったことを後悔してうなされていたのよ。あたしだったら二つ返事で行くわ。それに第一、あなたはあたしを幸せにしてくれるお人形さんなんでしょう? それだったら、もしあたしが幸せになるためだったら売られても文句はないでしょう?」
「デイジー、君は物わかりがいい賢い子だ。返事はすぐでなくてもいいから、今夜一晩ゆっくり考えてみてくれ。寝室は用意してある。いい決断をしてくれることを願っているよ」 そう言い残して、ふいに傀儡卿の気配は消えた。

 デイジーは主が用意してくれた部屋の寝台に横になったものの、頭の中をいろんな思いが駆けめぐって眠れなかった。何もしないことに対してお金が支払われる、というのは子供の頭で考えても大変に胡散臭いことだ。
(お姉ちゃんやドイル様たちはきっと猛反対するだろう。お姉ちゃんなんか、もしかしたら「人形のブライディーさんを返して欲しい」と言い出すかもしれないわ。それで返してしまえば、傀儡卿はもうあたしにお金を払う理由がなくなってしまう… まして売ってしまった後だったら、もうどうにもならないわ)
 輾転反側していると、館のどこかで、何か言い合う声が聞こえてきた。いや、正確には傀儡卿が一方的に何かわめいている、と言ったほうが正しいかもしれない。
 むっくりと起きあがったデイジーは、人形のブライディーさんを携えると、声のするほう、地下室に向かって黴の生えた螺旋階段を一歩一歩下りてみた。

(デイジー、やめておきましょう。もし見つかったらきっとただでは済まないわよ。夜が明けるのを待って、傀儡卿に耳触りのよい返事をして、無事にロンドンに帰らせてもらってから、お姉ちゃんやドイル様に相談すればいいのよ。悪い人との約束なんか守る必要はないんだから…)
「有難うブライディーさん。でもね、あたしお金も欲しいし、できることならずっとお義母さんのそばで看病をしてあげたいの。傀儡卿様が何もおかしなことをしていなかったら、誰にも相談しないでメイドのお仕事を辞めようかとも思っているの」
 壁から漏れ出す地下水に足を滑らせて転び落ちそうになったデイジーだったが、かろうじて踏みとどまった。
「なぜだ? どうして上手くいかないんだ?」 傀儡卿の声が地下室の一番奥の部屋から響いてきた。「どうしてぼくが作ると、だめなんだ?」
 彼はもう一度繰り返した。
 再び転ばないように壁伝いに進み、半開きの半分錆びて朽ちた鉄の扉の中を覗いてみたデイジーは、思わず「ヒッ」と声を上げそうになった。
 その部屋の床には、金槌でたたき割られた人形の頭部や眼球、銃で撃たれたような胴体、引きちぎられた手足や、引き裂かれたドレスが足の踏み場もないほどに散乱していた。
 いくつかある手術台か作業台ふうのテーブルには、リモージュ伯爵のお屋敷で見た可愛らしいビスクドールたちが座っていて、デイジーたちの目には怯えきってただ震えているように見えた。
 傀儡卿は黒い寛衣羽織り、頭の上から黒い頭巾をすっぽりとかぶって顔を隠していた。「…技術的には何ら問題はないはずだ。顔も姿も、何もかも、この世で最も素晴らしいと賞賛されている子たちと寸分違わぬものを作ることができる。名人の傑作と呼ばれる人形を壊して、陶土や釉薬、眼球のガラスやドレスの布地、アクセサリーや香水まで徹底的に調べ上げて研究したはずだ。なのに… なのにどうして、ぼくが作り上げた人形たちは…」
 デイジーは漏らしてしまいそうになるのを懸命にこらえながら、ゆっくりと後じさった。「ひどい目に遭う、という卦はこういうことだったのね…」
 が、廊下にまではみ出して散らばっていた破片を踏んで、カチャリと物音を立ててしまった。
「何故覗いた?」
 傀儡卿はテーブルの上にあった、刃に塗料がこびりついて斑になっている鋭利な刃物をきらめかせながら、デイジーたちに迫ってきた。

 ブライディーとリモージュ伯爵は、代わる代わる馬車の窓から身を乗り出して御者を急かせていた。
「傀儡卿の住処はこちらでいいのですか、ブライディーさん?」
「もしも間違っていたら、と思うと胸が張り裂けそうです」
(大丈夫よ、誤ってはいないし、きっと間に合うわ)
 伯爵の膝に抱かれたイリスは、美しい大きな目を見開いてそう告げた。

 デイジーは城館の地下深くの狭い水牢に、足を、壁から伸びた短い鎖につながれて閉じこめられていた。大人だったら膝くらいまでの腐ってぬめぬめした黒い汚水が、デイジーには腰まで濡らしている。人形のブライディーさんは取り上げられて持ち去られた。
(お姉ちゃん、ドイル様、助けて… あたしが悪かったよ… お金に目がくらんで… でも欲しかったんだよ…)
 それでも傀儡卿が、人間の少女には興味がない者だったので、そういう意味では助かった。デイジーは人形のブライディーさんが、あの地下室の床に散乱していた人形たちと同じように、ひどい目に遭っている光景を想像して泣いた。
(伯爵様がおっしゃった通り、あのまままっすぐお屋敷に帰っていたら、いまごろ屋根裏部屋でお姉ちゃんと一緒にぐっすり眠っていたのに… 金貨は逃げていかないのに…)
 四方のぬるぬるとした岩壁を叩いてみてもびくともしない。そのうち、両足にちくちくとした痛みが走ったので引き揚げてみると、黒い巨大なミミズのような蛭が何匹も噛みつき貼り付いていた。
「嫌だ!」
 蛭は、引きはがそうと伸ばしたデイジーの手にも次々と噛みついた。

 同じ頃、傀儡卿とともに地下室に残った人形のブライディーさんは、自らの命運はほぼ尽きたと悟っていた。
(こうなったら、デイジーちゃんだけでも何とか助けなければ。デイジーちゃんが夜になっても戻らなければ、きっとメイドのブライディーさんが心配して、占いでここを探し当てて、ドイル様たちと助けに来るでしょう。それまでわたしがこの人を引き留めておかなければ…)
 傀儡卿は、何かイライラとした様子で、ブライディーさんを置いた机の前をうろうろしたり、黒い頭巾のひさし越しにジロリと睨んだりしていた。
(どうして、どうして貴方はお人形さんにこんな酷いことをするの? 壊してしまったらもう真似して作ることもできないでしょうに…)
「この者たちは、人形なのになぜ特別な能力があるのか、何度尋ねても答えなかった」
(それはそうでしょう。人間でも、稽古や訓練で身につけたものではない、生まれつき持っていた特別な能力について、どうしてそれを持っているのか尋ねられても、自分で分かるはずがないわ)
「…おまけに、命乞いもしなかった。助けてくれと言ってくれたら、ぼくは助けるつもりだったんだ」
(皆こんなところで生かされていても、と考えたのでしょう…)
「君はどうなんだ、ブライディーさん、はじめての例外になってくれるのかな?」
 人形のブライディーは綿屑が詰まった頭で懸命に考えた。
(わたしも、「こんなところにいたくはないわ。早く壊して」と言ってそうされたら、相手の矛先はデイジーに向くかも知れない。そうならないように、できるだけ時間を稼がなければ…)
 そこで、居住まいを正してこう切り出した。(わたしをよく見て下さい。あり合わせのはぎれで作った、ひどくみすぼらしい人形でしょう? 髪の毛は古い毛糸だし、眼だってボタンを縫い付けただけ。おそらくここに連れてこられたお人形の中で、一番お金のかかっていない安物だと思うわ)
「だから何だと言うんだ?」
 傀儡卿は大きな裁ち鋏を手にして縫いぐるみ人形の首にあてがった。
「その安っぽい首をちょんぎってやろうか?」
(いえ、だから、わたし、お姫様ではないから、誇りとかにはこだわらないから、できることなら長生きしたいのです。もしも助けて頂けるのなら、わたしにできることなら何でもしたいと思うし、教えて差し上げたいと)
「ならば問おう。どうすれば君みたいな、例えば占いができるというような人形を作ることができるのだ?」
(作ろうと思ったら常に作れるものじゃあありません。生まれてくるのです)
「何だと? それはどういう意味だ?」
(作り手が真心や強い思い入れを込めて作った人形には、時として特別な力が宿るのです)
 人形のブライディーは訥々と語った。
「と言うことは、ぼくも真心や思い入れを込めて作れば、そういう人形を作れないことはない、ということだな?」
(そもそも貴方は、どんな特別な能力を持った人形を作りたいのですか?)
「心からぼくのことを大切に思ってくれる人形だ。ぼくの気に触ることは一切言わない、ぼくがどんなに非道なことをしても、『そんなことをするはずがない』とかばってくれる人形だ」
(そういうのは神様でもなければ、まず無理でしょう)
「なぜだ? 君は『強い思い入れを込めて作れば出来る』と言ったではないか?」
 卿は手袋をはめた両手で人形のブライディーさんの両肩を鷲づかんで揺らせた。
(人形のことを大切に思わない人が、人形から心を寄せられるはずがないでしょう?)
「どういう意味だ? 金で買ってきた人形などではなく、ぼくが作る人形だぞ。どうして作り主のことを大切に思ってはくれないのだ? ぼくがいなければ、その人形はこの世に生まれなかったのだぞ」
(人の子ですら、親の命のすべてには従いません)
「それでも敢えてそういう子を作りたいと思ったならば、どうすれば良いのだ?」
(心を持たない、虚ろな、ヒトガタを作るしかないかと…)
 人形のブライディーは静かに言った。

「心を持たない、虚ろな、ヒトガタ…」
 傀儡卿はゆっくりと繰り返した。
(そう、何でも言うことを聞いて、何に対しても逆らわないのは、人形ですらない、ただそういう「モノ」よ)
「不可能だ、というのなら、ぼくがいままでずっとしてきたことは何なんだ?」
 卿は白い絹の手袋をはめた両手で頭巾を抱え込んだ。
(でも、いまからなら取り返しが効くわ。とりあえずデイジーを助けてあげて)
「それはできないな。君はやはり何かを知っているだろう? 教えてくれなければ、水牢の水かさを増やすが、それでもいいかね?」 卿が壁のレバーを引くと、どこかでザーッと水の流れる音がして、かすかに「助けて!」という悲鳴が聞こえてきた。
(分かりました。人の命には代えられません。ですから、水牢の水を排水してください)
「それは実験がうまく行ってからのことだ」

 メイドのブライディーさんとリモージュ伯爵、それに占い人形のイリスが乗った馬車は、未明に城館に辿り着いた。月も星もなく、分厚い雲が夜空を覆い、堀からは時おりヒキガエルの鳴き声が聞こえるだけだ。
「ここか? 間違いはないか?」
 伯爵が象眼細工の飾りがついた拳銃に弾丸を込める。
(気を付けて伯爵、それは、たぶん役には立たないわ)
 ブライディーの腕の中、イリスが囁く。
 三人が跳ね橋を渡りかけようとすると、橋の真ん中に黒いドレスを着て、紫のコンタツの首飾りをした縫いぐるみがポツンと立っていた。
「あれは?」
 伯爵が尋ねる。
「わたしが作った人形です。どうしてあんなところにいるのでしょう?」
(気を付けて! とても邪悪な気配を感じます)
 イリスが囁いた。
(お母さん、それに伯爵、デイジーちゃんはここの住み込みのメイドとして働くことになりました。だから、さっさと帰るのが身のためよ)
「そんなこと、信じられません。そもそも貴方がどうしてわたしたちの前に立ちふさがっているのですか?」
 人形のブライディーがボタンの瞳を吊り上げると、急に強風が吹き荒れ、メイドのブライディーのお仕着せのスカートがめくれ上がった。
(貴方には恨みがあるんですよ、お母さん。貴方は最初、わたしをコンテストに出すために作って会場まで行ったけれど、結局気後れして逃げるようにして帰ってきた。そして、あろう事か暖炉にくべようとしたでしょう? あの時デイジーが見つけて「欲しい」と言わなければ、わたしは灰になっていたところだったのよ!)
「ごめんなさい。謝るわ」
 メイドのブライディーは胸のところで両手を組んで頭を下げた。
「謝りに来たのだったら、そこの拳銃を持った貴族と、白魔術の人形は一体何なのよ?」 人形のブライディーは元の穏やかな表情からかけ離れた悪鬼の如き形相になって、毛糸の髪の毛を逆立てて稲妻を呼んだ。
「お願い。元の優しいお人形さんに戻って…」
(無駄ですわ。彼女、作り変えられています)
 イリスはメイドのブライディーさんの腕からひとりでに抜けだし、吊り橋の真ん中に降り立つと、ゆっくりと歩き始めた。
(あの子を消し去ってもいいですか?)
 ちらりと振り返って尋ねるイリスの眼は、例えようのない寂しさをたたえていた。
 メイドのブライディーはこっくりと頷いた。
「…デイジーを救うためならやむをえませんわ」
 イリスは右手の人差し指を立てて稲妻を集めると、人形のブライディー目がけて振り下ろした。
 閃光が輝き、一瞬あたりは何も見えなくなった。ようやく目が慣れてきたリモージュ伯爵が眼にしたのは、お仕着せをボロボロにし、顔や手に血の筋をしたたらせて倒れているメイドさんのブライディーだった。
 人形のブライディーのほうは、何もなかったかのようにふてぶてしく薄笑いを浮かべている。
「大丈夫ですか、ブライディーさん!」 伯爵はメイドを抱き起こし、イリスを睨み付けた。「イリス、どうしたというのだ?」
「伯爵様、わたくしはちゃんと敵を狙いました。ブライディーさん、あなた、もしやあの人形に自分の髪の毛などを入れたりしませんでしたか?」
「入れました」 メイドは息も絶え絶えに言った。「真心を込めようとして、髪の毛や爪を入れました」
「何ということを…」 伯爵は皺だらけの額に手を当てて天を仰いだ。「あの人形を始末すれば、ブライディーさん、あなたの命も無くなりますぞ」

(さぁ、これでお互いの立場というものがよく分かったことでしょう) 人形のブライディーは冷たく言い放った。(命が惜しければ早々に立ち去ることね)
「デイジーを、デイジーを返してくれたら、一緒に立ち去ります」
 メイドのブライディーは息も絶え絶えに言った。
「例えデイジーちゃんを返してもらっても、あの人形をそのままにして帰れば、その力を使ってどんな邪悪なことをするかもしれず、まずいですぞ」
 伯爵はメイドの耳元で囁いた。
「では、どうすれば?」
「イリス、何か手だてはないのか?」
(作り変えた術者の傀儡卿を何とかすれば、ブライディーさんの人形もなんとかできるのではないか、と…)
「どうしたブライディー人形、連中は追い返したか?」
 城館のほうからくぐもった声がした。
「傀儡卿様ですね。どうか何卒デイジーを返してください」
 伯爵の肩につかまってなんとか立ち上がったブライディーがむせながら叫んだ。
「よかろう。ようやく、やっとのことでぼくの思い通りの人形を作りあげることが出来そうなんだ。一から十までぼくの手になる人形ではなくて、他人が作ったものを基にしているところが、かなり癪に触るけれども、そのあたりはまたそのうちに何とかする、ということで。そういう訳でどうだろう、リモージュ伯爵。そこにいるイリスとデイジーを交換する、というのは? イリスはもともとぼくが喉から手が出るほど欲しかった人形だし、互いに損はないはずだが?」
 傀儡卿は嘲笑った。
 メイドのブライディーはすがるような眼で伯爵を見つめた。
「お願いします、伯爵。デイジーを助けてやってください」
 リモージュ伯爵は長い溜息をついた。
「それはできない」
「なぜですか? 人形たちは後で必ずわたしたちやドイル様たちが取り返しますから…」
「あのブライディー人形だけでもこうして手こずっておるというのに、この上イリスまで渡したら、どんな恐ろしい悪事に使われるか分かったものではない。デイジーちゃんには気の毒じゃが…」
「相談はできたかね? それで良ければデイジーには溺れ死んでもらうか、蛭どもに血を吸い尽くされて木乃伊になってもらうことにしよう」
 どこかの堰が開いて堀の水がザーザーと流れていく音がしたかと思うと、地下のほうから小さな女の子のかすかな悲鳴が聞こえてきたが、すぐに聞こえなくなった。
「もう怒りました!」
 メイドのブライディーは一瞬の隙をついて伯爵から象牙の象嵌の付いた拳銃をひったくると撃鉄を起こし、自分をかたどった人形に狙いを付けて引き金を引き絞った。
「メイドさん、早まってはいかん! 本当にあんたも息絶えるぞ」
「構いません! それよりかイリス、あなたそれほど凄い力があると言うのなら、必ずデイジーを助け出してあげてね」
(分かりました。しかと承りました)
(ふふん。撃てるものなら撃ってみなさいよ。まだ若いのに、やりたいことだっていっぱいあるはずなのに、撃てるはずなんかないでしょう?)
 ブライディーの人形は鼻でせせら笑った。
 メイドさんは間髪を入れず拳銃を撃った。
 弾丸は人形の左腕に当たって、吹き飛ばした。同時にメイドさんの顔も苦痛に歪み、左手もだらりと垂らせて、銃を右手だけに持ち替えた。
「ちょっと待ちなさいよ! 貴方、莫迦じゃない?」
 人形は表情を引き吊らせ、たじろいで道を開けた。
「今よ!」
 拳銃を伯爵に返し、イリスを右手で抱き上げたメイドさんはその脇を素早くすり抜けた。
(申し訳ありません傀儡卿。通られてしまいました)
「役に立たない奴だな。…まあいい。戻ってこい」

 右手でイリスを抱えたメイドさんは、すぐに螺旋階段の下にある地下の一番奥の部屋を突き止めた。
 散乱した人形たちの残骸の中、不気味な形のレバーの前に、黒ずくめの寛衣に頭巾をすっぽりとかぶった人影が立っていて、そのさらに先に水牢に続いていると思われる扉があった。
「ようこそメイドさん。ぼくのために、もっと出来の良い人形をたくさん作ってくれないかな?」

「お断りします!」
 メイドのブライディーもまた、床一面を埋め尽くし散らばった人形たちの残骸にたじろぎ、進むのをためらいイリスをそっと床に置いた。イリスは仲間の遺骸を踏むことが出来ず、扉のところで立ち止まったままでいた。
「戦場の兵士たちは、戦友の亡骸を踏みしめて進まなければならぬと言う。君たちにはそれができるのかね?」
 メイドのブライディーは眉を引き締めると一歩を踏み出した。バリッという陶器が割れる音がして、ガラスの眼球がはじけて飛んだ。
 イリスはポーンと宙を飛んで、同じく人形のかけらが散乱している作業台の上に飛び乗った。
「きみは見れば観るほど素晴らしい人形だね、イリス。ぜひともぼくのものになって欲しいな」
 イリスは無言でガラスの両眼の瞳孔を開いたり狭めたりして間合いを計り、袖口にフリルの付いた両腕で弧を描き、印を結び始めた。
 部屋の中であるにもかかわらず、白い稲妻が天井近くに走り始める…
「見事だ… 人間の魔導師でも、ここまでできる者は滅多にいない…」
 傀儡卿が手袋を嵌めた指をパチリと鳴らすと、彼の前にブライディーの縫いぐるみが現れた。
(さぁ、あなたの得意な雷撃をやってごらんなさいよ、イリス。今度こそ、そこのお節介焼きのメイドが黒こげになるから)
「やってくれてもいいわよ、イリス。後で必ずデイジーを助け出してくれるのなら」
 メイドさんはそう言って、時おりガクッと片膝をつきながらも、一歩、また一歩相手方ににじり寄った。
「…わたしには、相手を直接攻撃するようなそんな凄いことはできない… わたしにできるのは、せいぜい占いくらいよ。だから、あの縫いぐるみだって、わたしたちを直接傷つけるようなことはできないはずよ!」
「チッ!」
 傀儡卿は舌打ちすると、肘で壁にもたれかかった。途端に壁が回転扉のように回って卿の姿は隣の部屋に消えた。
「イリス、あなたは傀儡卿たちを追って! わたしはデイジーを助けるわ」
 こっくりと頷いたイリスは、またふわりと宙を飛んで、扉から外へ出て、彼らのあとに続いた。
 ブライディーは卿が引いていたレバーを元の位置に押し上げようとしたが、怪我をしているせいもあってか、満身の力を込めてもびくとも動かなかった。卿がそのようにしてから去ったのかもしれなかった。
 レバーは諦めて、走ってさらに地下へ続く階段を下りた。滑る苔で足を踏み外し、頬と肘と膝をさんざんに擦り剥いた。ようやくのことで水牢の部屋に辿り着いた。そこにはいくつもの分厚い鉄製の落とし蓋がズラリと並んでいて、梯子掛けのところには、デイジーを降ろしたらしい長い縄梯子がナイフでずたずたに切られて投げ出されていた。
 メイドさんは心を静めて、デイジーが閉じこめられているあなぐらがどれか占った。
「デイジー、大丈夫? 返事をして!」
 叫びつつ、これと思う落とし蓋の取っ手を引いたが、これも主に右手だけではまったく微動だにしなかった。
 しかしよく見ると黒い水が隙間から少しずつ溢れてきている。彼女がそれに合わせて渾身の力を込めて引っ張ると、蓋はようやく開いた。
「デイジー!」
 ブライディーは素早くお仕着せとペチコートを脱ぎ捨てて肌着一枚になると、黴臭い空気を胸一杯に吸い込んでから、一寸先も見えないくらいに黒く濁った水の中に飛び込んだ。
 そして、どんどんと沈んで底と思しきところまで潜った。手探りで辺りを探ると、小さくて冷たい人形のようなものが半分泥の中にうずくまるような姿勢で沈んでいた。
(デイジー!)
 彼女はその動かない固まりを両手でしっかりと抱きかかえて浮き上がった。石の床の上に置いたデイジーは息がなかった。懸命に胸を押し、必死に口を押しつけて吸い出すと、デイジーはむせながら大量の水を吐いた。
「デイジー、良かった!」
 まだ手足や頬にへばりついている大小の蛭を引き剥がしていると、デイジーはようやくうっすらと目を開いた。
「お姉ちゃん…」
「デイジー、本当に良かった」
「お姉ちゃん、お金が… 金貨の箱が食堂のテーブルの上に置いたままなの…」
「そんなもの…」
 ブライディーはそう言ってデイジーを抱きしめたまま気を失った。

 その頃、イリスは懸命に傀儡卿と縫いぐるみのブライディーを追っていた。
(傀儡卿のほうはともかく、人形のブライディーのほうは必ず取り返さないと、メイドのブライディーさんの死命が卿に握られたままになってしまうわ)
 卿と人形は、城から外へ逃げ出したのではなく、城の地下に蜘蛛の巣のように張り巡らされている地下道を伝ってどこかへ隠れたらしかった。それは元からあったらしい天然の洞窟もあれば、人間によって掘られたトンネルもあり、両者はあちこちでつながったり途中で途切れたりしていた。
(困ったわ…)
 多く枝分かれしている岐路に立って、イリスは首を横に振った。(わたしには占いの能力がない。火炎か何かで燻し出せば、卿が縫いぐるみのブライディーに危害を加えるかも知れないし…)

 リモージュ伯爵はようやく水牢の並ぶ部屋に降りてきて、メイドさんとデイジーに自分のコートを着せ掛けて揺り起こした。
「しっかりしなされ!」
 うっすらと目を覚ましたメイドさんとデイジーは改めて抱き合った。
「助かったのね!」
「安心するのはまだ早いですぞ、メイドさん。貴女の似寄りの人形を取り戻さぬ限りは、危険は去りませんぞ」
「分かっています、伯爵。デイジーを馬車までお願いします」 メイドさんはお仕着せを羽織り直した。「元はと言えば、すべてわたくしが播いた種です。必ず何とかします。イリスの力をお貸しください」
「分かった。イリスの力と貴女の力があればどうにかできるじゃろう」 伯爵はコートに包んだデイジーを優しく抱き上げて言った。「…取り戻せることを祈っておりますぞ」

 ランプを右手に掲げたメイドさんは、光苔がぼんやりと光り、コウモリが飛び交う洞窟を駆け抜けて、イリスが宙空に止まって浮かんでいる場所までやってきた。
(メイドさん、大丈夫ですか? わたしには彼らを捜す能力がありません)
「彼らはまだこの地下道の中にいるわ。わたしが追い詰める。イリス、あなたは地上の高い木の上に立って辺り一円を見張って。もしも彼らが地上へ逃げ出そうとしたら、出口を塞いでくれませんか?」
(お安い御用です。しかし、わたしと別れてしまったら、貴女に危害が及ぼされませんか?)
「その時は…」 メイドさんはところどころ泥の付いた顔をハンカチで拭いながら言った。「…わたしが『それまでの子だった』ということよ…」
 メイドさんは分かれ道に差し掛かるたびに小さな木の棒を地面の上に立て、それが静かに倒れる方向に進んだ。
 一方、逃げる傀儡卿たちのほうは、はたと立ち止まって思案した。
(メイドさん、デイジーを助け出したみたいだわよ)
 縫いぐるみのブライディーが占って言った。「何だと? 小娘が右手一本であの鉄の落とし蓋を開けて、何フィートも潜ってか?」
 卿は地団駄を踏んだ。
(こちらへ来るわ!)
「やむを得ない。城館は捨てて、地上へ出て逃げよう」
(難しいわ。イリスが一本杉のてっぺんで見張っているみたいだから)
「本当か?」
 卿が地上へ続く落とし蓋を押し上げようとした。木の上のイリスの色付き水晶の眼球は、そのかすかな灯りを目ざとく見つけた。即座に雷撃があって二人とも階段を転がり落ち、ランプの火が消えた。
「くそっ!」
 思うまもなく、別のランプの灯火が揺れながら近づいてきた。
「よくも、よくもデイジーを酷い目に遭わせてくれましたね」
 メイドさんはランプを脇の岩の上に置いて静かに言った。
「この人形は返さないよ。ぼくがデイジーから買ったものだし、すでに造り変えてしまっているし…」
「ブライディー、何をしているの。さぁ、一緒に帰りましょう…」
 メイドさんは自らが作った人形に手を差し伸べた。
(嫌よ! あんな狭苦しい、屋根裏のメイド部屋の、段ボールの箱の中に戻るのなんて。わたしは、傀儡卿がお創りになる人形の王国で、女王として君臨するのよ)
「莫迦なことを言わないで! あなたも地下室のあの光景を見たでしょう? 卿に王国など築けるはずがないわ。…仮に築くことができたとしても、ろくなものではないはずよ」
「何だと、メイドの分際で…」
「そのメイドが創った人形を作り変えて悦に入っているのは誰かしら?」
 しばし睨み合っているうちに、メイドさんがポツリと呟いた。
「危ない… ここ、もうじき落盤で崩れるわ」
 そう言われれば、先ほどからほんのかすかだが地鳴りのような音が聞こえている。
(嘘よ! ただの脅しよ!)
 人形は首をがくがくと震わせた。
「おい、どっちが正しいんだ?」 傀儡卿は慌てた。「もしも本当なら、三人とも生き埋めになるぞ…」

(大丈夫です、卿。わたしを信じて!)
 人形は引きつった笑顔を作って黒い寛衣の首もとにすがりついた。だが、揺れは次第にますます激しくなった。
「卿、一緒に逃げましょう。そして警察に自首して、デイジーを酷い目に遭わせた罪を償ってください…」
 メイドさんは手を差し伸べた。
「嫌だ! 警察も、裁判も、牢も、まっぴらご免だ!」
(そうよ、卿はこの世で一番素晴らしいお方よ! こんなにみすぼらしいわたしを、こんなに大切にして下さっているのですもの)
 洞窟の壁や天井にヒビや亀裂が走り、土や岩のかけらが降り注ぎ始めた。
 メイドさんは一度静かに両目を閉じた。そして再び開くとランプを手に取り、ゆっくりと後じさり始めた。
「…わたしのお人形さん、そうしていつまでも傀儡卿と一緒にいて上げて。ひとりぼっちで寂しくないように…」
(貴女に言われなくても、そうするつもりよ)
 人形は心持ち顔を反らせて(ふん)と鼻を鳴らした。
「王と王妃、二人だけの王国の城主として…」
 メイドさんが駆け出すのと同時に、天井の土砂が堰を切って崩れ始めた。一瞬だけ後ろを振り返ると、自分の人形をしっかりと抱きしめている卿の姿が見えた。頭巾が脱げ、寛衣が解けかけた傀儡卿の身体は、木製のマネキンに似た、精巧な木偶だった。天井の岩が落ちてきて首がもげても、両手はしっかりしブライディーの人形をかき抱き続けていた。 が、その光景もすぐに土に埋まって遮られた。
 洞窟や地下道を支えていた地盤は、その一部が崩れると、城館は吸い込まれるように次々に崩れて消え去った。メイドさんも危うく飲み込まれるところを、最後の一歩を飛び蹴って、岩盤に根を下ろしていた大きな木の枝に右手で飛びついた。

「なんですと、ご自分の人形を取り戻すことができなかった、ですと?」
 ロンドンに帰る馬車の中、リモージュ伯爵は目を見張って天を仰いだ。
「構いませんわ。彼らはもう、悪いことは何もできないでしょう」
 メイドさんは自分の膝でぐっすりと眠っているデイジーの髪をそっと撫でながら言った。
「ならば、それで良いでしょうが…」
 伯爵は溜息をついた。
「…金貨 …金貨の詰まった箱…」
 ブライディーの腕の中で、デイジーはしきりにうわごとをつぶやき続けていた。

「イリスを下さるのですか?」
 左手を包帯でつり下げたメイドさんは大きく目を見張って、リモージュ伯爵の皺だらけの顔を見つめた。
「ああ、おまえたちのやることを見ていたら、危なっかしくて、とても放っては置けん。この子をお目付役として置いて行く」
 伯爵は瞑目した。
 当のイリスは、まるで何十年、何百年も前からそこが彼女の居場所であるかのように、英国心霊研究協会の食堂の紫檀の飾り棚の最上段に鎮座して微笑んでいた。占いは出来ないけれど、ブライディー人形のビー玉の水晶球や、豆本の本棚や、ミニチュアのタロットカードなども彼女が引き継いだ。
「本当に、よろしいのですか?」
「必要なときは、また一緒に冒険に連れて行ってくれたまえ」
「有難うございます。ぜひそうさせて頂きますわ」
「あたし、イリスの新しいドレスを縫ってあげる」
 デイジーはボール箱を開けて、中の端切れを選び始めた。
「ああ、ぜひお願いするよ、デイジー。ただし、この子は最高の生地でないと気に入らないみたいじゃから、後でリヨンから専用の反物を届けさせるよ。それから、雨上がりに虹が出たら、窓辺に置いて見せてやってくれ」
 伯爵はそう言い残して、馬車で去った。
 しばらくして、ドイルをはじめとする協会の会員たちが三々五々集まってきた。
「ブライディー、粗相をしたんだって? お転婆だなぁ。どれどれ、ちょっと傷口を見せてごらん」
 ドイルは包帯を解きかけた。
「いえ、ドイル様。お陰様でもう大丈夫でございますから…」
 メイドさんは苦笑いしがら身をかわした。
「これがリモージュ伯爵のご寄贈の人形の人形か?」
「素人目にも素晴らしい出来ですな」
 クルクッス博士とウォーレス博士はそれぞれ片眼鏡や天眼鏡を近づけて、しみじみと眺めた。
「ドレスも極上の物を召していますな」 ドッジソン教授はあちこち手で触れながら舐めるように眺めた。「…どれどれ、もちろん下穿きも…」
 教授がドレスの裾をつまんでめくりかけると、突然ピシッと電気のようなものが走って思わず手を放した。
「だめですよ教授、レディに失礼なことをしたら」
 デイジーが眉をひそめた。
「そうですよ。良くできたお人形には、ちゃんと魂があるのですから」
 ブライディーは目を細めてつけ加えた。
 
     (次のエビソードに続く)





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