ブライディー・ザ・マジックメイド 「デイジーの初恋」

  ショート・ショート「ブライディーお習字をする」
  ショート・ショート「ブライディー転職を誘われる」 …それに続いて
  「デイジーの初恋」

 ブライディー・ザ・マジックメイド
 「ブライディーお習字をする」

「ブライディー、聞いていたと思うけれど、来月に総会を開くことになったんだ」
 流行りの歌を口ずさみながら、ウエッジウッドの花柄の紅茶茶碗や受け皿を手際よく洗っているメイドさんに向かって、ドイルは済まなさそうに言った。「…君とデイジーだけで切り盛りできるかな?」
「いつもと同じくらいの人数でしたら十分ですわ。デイジーも近頃めざましく色んなことを覚えてくれて、プディングの焼きかたなんかはわたくしより上手なくらいです。もしもさらに人数が増えるようでしたら、白詰草亭からさらに応援を頼みますわ」
 メイドさんはキュッキュッと快い音を立てて皿を拭きながら振り返り微笑んだ。
「頼もしいな。その上になお押しつけて悪いんだが、いつも筆耕を頼んでいる子がとうとう手首を悪くしてしまって…」
 メイドさんの表情が一転して引きつった。「あの… わたくし、字は下手ですから… いえ、書くのが面倒くさくて申し上げているのではなくて、本当に下手なのです。嘘ではございません」
「そうだよ、ドイル様。姉ちゃんが書くと、招待状だか脅迫状だか分からなくなっちゃうよ」 茶殻で床を掃除していたデイジーが箒を動かしていた手を休めて言った。「…だからあたしなんかドッジソン教授に買ってもらったペンマンシップの練習帳で毎晩練習してるのよ。単語や決まり文句だって覚えられるし…」
「…わたくしが以前お仕え申し上げていたフィオナ・ウォーターフォード様は、父上の男爵様が催される晩餐会やご自身の誕生日の舞踏会の招待状を、宛名はもちろん中身もすべて手書きで認められておられました。水茎の跡も麗しく、というのはあのようなことを申すのではと思います。百枚以上の手紙をお一人で書かれるのは時に連日深夜まで及び、わたくしどもメイドも先に休む訳にはいきませず…」
「ブライディー、話題をそらせたつもりで、実は墓穴を掘ったようだね」 ドイルは笑いながら英国心霊研究協会の組み合わせ文字の透かしが入った封筒と便箋のそれぞれ分厚い束を渡した。「その気になれば執事や字の上手なメイドたちに代筆を命じられるフィオナお嬢様が自分で書いていたんだ。だからきみは男爵様のお屋敷で奉公しているあいだ、字が上手くならなかった。では、ここにいるあいだに一つ上手くなってもらおうじゃないか」
 それから彼女はせっせと封筒の宛名と、差出人の協会会長の肩書きまでと(もちろん署名と封蝋は本人がする)と、総会を行う旨の手紙を書いた。
「ひどーい、八百屋さん果物屋さん、魚屋さんの値札のほうがまだましだわ」
 床に箒をかけながら寄ってきたデイジーが覗き込んで言った。
「デイジー、手伝わせるわよ」
「あたし、昼から小学校に行かなければならないもの」
 ちょうどその時、メイド控室の壁の上のほうにずらりと並んだ大小音色の違う鐘のうちの、玄関の来客を告げる鐘がキンコンと鳴った。
「はーい、ただいま」
 ブライディーが走って扉を開けると、つばの広い帽子をかぶったフィオナ・ウオーターフォードが、春物の若草色のドレスの胸元にハトロン紙で包んだ書籍らしいものを持ち、金髪を風になびかせ、紋章の入った黒塗りの馬車を待たせて立っていた。
「ブライディー、お久しぶり。頑張っていますか?」
「フィオナ様… どうぞ… ただいまお茶を…」
「気を遣わなくていいわよ。きょうは買い物のついでに父上がドイル様にお貸しする本を持って参りましたの。必ず手渡ししてくださいね」 男爵令嬢はそう言って包みをメイドさんに渡し、帽子をデイジーに預けて、つかつかと入ってきて辺りを見渡した。「掃除はきちんとできているようですね。…お皿を割ったりはしていませんか?」
「フィオナ様、そこはメイド部屋でございます」
 立ちふさがろうとしたけれど、先を越された。フィオナは机の上に並べられた書きかけの招待状の束を見た。
「何ですか、これは?」
「あの… わたくしがドイル様から仰せつかって…」
 フィオナはいきなり書き上がった封筒や招待状の束を手に取ると、熾火がちろちろと燃えている暖炉にバサッと放り込んだ。たちまち手紙は赤い炎を上げて燃え上がった。
「な、なにをなさいます…」
「やり直しです」
 ドレスの裾をサッと優雅に引いて、書き物机の椅子に座り、スクッと背筋を伸ばしたフィオナは、鵞鳥の羽根ペンをインク壷に浸すと、ササッと走らせた。
 ブライディーが書いたものとは天地雲泥の、まるで女王陛下からの書状のような、麗しい草書の宛名が書かれた。
「分かりましたか? できるまでやりなさい」
「はい」 ブライディーは蚊の泣くような声で答えた。「あの… フィオナ様、シスター・セアラが法王猊下から拝領した覚え書で、
セアラ様も兄弟姉妹のかたがたにも読めない文字があるのですけれど…」
 渡された写し書きを見たフィオナはハッと一瞬大きく目を見開いた。
「セアラ様はわざととぼけておられるのです。
ブライディー、あなたが懸念するようなことではありません。では、馬車を待たせてありますので…」
 フィオナは、お茶を運んできたデイジーとすれ違うようにして、長い金髪をかすかに揺らせ、ブライディーが慌てて差し出す帽子を受け取って去った。


 ブライディー・ザ・マジックメイド
 「ブライディー、転職を誘われる」

 大通りに立ったブライディーは溜息をつきながら、ハロッズ百貨店の飾り窓を眺めていた。ガラスの向こうからはフィオナお嬢様が着ていたような春物の、若草色や藤色や、淡いピンクのドレスを着て、ドレスと合わせた帽子をかぶった蝋人形たちが微笑みを投げかけている。
「やあ、どこかであったと思ったら、英国心霊研究協会のメイドさんじゃないか」
 男の声に振り返ると、押し出しのいい中年の紳士が立っていた。
「メイザース様…」
「ドイル君は元気にしとるかね?」
「何か御用でしょうか」
「ちょっと話をしたいことがあるんだ。十分、いや、五分でいいから聞いてもらえないだろうか」
 メイザースは「立ち話も何だから」と近くの喫茶店に誘い、席に着くなりこう切り出した。
「…確かブライディーとか言ったね。いきなりで失礼だが、君はいまの境遇に満足しとるかね?」
「は?」
 メイドさんはきょとんとした。
「占いでシェークスピア俳優の恋人殺人事件の遺体を発見したことや、切り裂きジャックを目撃した幼い子の記憶を甦らせて、ジャックを呼び出したという噂を聞かせてもらったよ」
「それはドイル様が…」
「違うね」メイザースはピシャリと言った。
「ドイルのやつが、君の手柄を全部横取りしているんだ。あいにく彼は霊感に乏しい。霊視したのはいずれも君だ。そこで単刀直入に提案するが、どうだろう、わが『黄金の暁団』に来ないか。株式相場や競馬などの賭け事の予知は難しいとしても、人生問題に悩んでいる貴族たちの相談に乗ってやれば、団と折半したとしても破格の報酬が手に入るぞ。もちろん現在のメイドの『こき使われ人生』ともおさらばできる。人から偉そうに言われることもなくなる。欲しいものは何でも買えるし、買ってやることもできる。住むところだって…」
「それって、ウォーターフォード男爵のお屋敷でキーラさんがやっておられた『ニセ霊媒』のことですか?」
「違う、違う! キーラと違って、君は正真正銘の霊媒となって、合法的に金儲けをするんだ。
 ドイルを見てみろ。文筆の才能を生かして藪医者から一躍流行作家に成り上がったじゃないか。君だってメイドから、ノストラダムスみたいに国家を動かす占い師になったとしても悪いはずがない。そうだろう?」
「しかし… ドイル様と『人の生死に関わること以外は占わない』とお約束しましたし…」
「ドイルは君を占いの達者な便利なメイドとして、安い給金で引き留めておきたいだけなのだ」 メイザースは声を潜めた。「有名作家も、一流のスポーツ選手も、人気女優も、みんなその才能を生かして高額の報酬を手にして豊かで素晴らしい人生を送っている。君もその一角に名を連ねるんだ。良い客の紹介や、下調べ、その他の準備などははすべて『黄金の暁団』がする。これは人助けなんだ。メイドの仕事よりもずっと人の役に立って謝礼を手にするのだ」
「でも、アイルランドには『貧しいのは恥ずかしいことじゃない、食べるのに困ってする盗みなのだったら、それも恥ずかしいことじゃない。本当に恥ずかしいのは身内や友達を裏切ること、その一つしかない』という諺があって…」
「ドイルのもとから去るのは、決してドイルを裏切ることにはならない。メイド仲間を見渡してみろ。よりよい奉公先が見つかったら移って行く者も多いではないか? ドイルもいくら何でも自分が功なり名を遂げておいて、他人に成功するな、とは言わんだろう」
「けれど…」
「まぁいい。急な話で君も大いに戸惑ったのはよく分かる。もしも立場が逆だったら、わしだってうろたえるだろう。相応の支度金を用意しているから、ゆっくり考えて、よい返事をしてくれたまえ」
 ブライディーは、メイザースが名刺を渡そうとするのを振り切って席を立ち、後を振り返らずに走って店を出た。

 その晩、ブライディーは屋根裏のメイドの寝室で、天窓越しに月を眺めていた。傍らではデイジーが自分の肌着や靴下に継ぎを当てている。
「ねぇデイジー、どうして新しいのを買わないの?」
「病気のお義母さんに仕送りしているの。お姉ちゃんも知っているでしょう?」
 黙々と動かしていた針を止めて、デイジーは彼女を見つめた。
「偉いと思うけれど、自分に必要なものは買わなくっちゃ。メイドはある程度身だしなみも大切なのよ」
「あたしのお給金をあたしがどう使おうと勝手でしょ」
 言った後、デイジーは顔を伏せた。

「よく決心してくれたね。ブライディー。わしは嬉しいよ」 ロンドン某所にある「黄金の暁団」が本拠地を構える蔦の絡まる屋敷。その玄関の前に、人目を忍ぶかのように古い帽子を目深にかぶってやってきたブライディーを、メイザースは満面に笑みをたたえて迎えた。「さあさあ、これは支度金ときょうの分の謝礼だ。君の気が変わらないうちに先に渡しておくよ」 彼は小切手を彼女の手に無理矢理握らせた。「…帰りに銀行で現金に換金すればいい」
「メイザース様、わたくしまだ本当にお引き受けすると決めた訳では…」
「分かっている。『試しに一人だけ占ってみる』んだろう。きっと続けてやりたくなるのに決まっているさ。どこの莫迦か知らないが、いの一番に申し込んできた」
 玄関を入ったホールには、棺に入ったエジプトの木乃伊や、メソポタミアのマルドゥク神の像、インドの仏像や中国の兵馬俑、アフリカの原住民の仮面などが雑然と飾られ、床には虎やライオンの毛皮の敷物が敷かれていた。
 客間に続く廊下を進むあいだにブライディーは小切手の額面をこっそりと覗いた。そこには彼女がいままで手にしたことがないような金額が書き込まれていた。
「あの、わたくし、このような…」
 ブライディーが恐る恐る小切手を返そうとすると、メイザースは恐ろしい顔になった。
「受け取って、できたらすぐにでも全額使ってもらわないことには、このわしが困るんだよ。黄金の暁団の団員たちに対して示しがつかなくなるのでね」
 案内された客間にも、ボルネオの首狩り族の干し首の束や、猿の剥製、スペインの宗教裁判の拷問の道具などが所構わず置かれていた。
「さあさあ、いきなりで悪いが、早速着替えて占ってくれ。わしは客を案内してくる」
 メイザースがいったん去ってホッとしたのもつかの間、扉が開け放たれたままの控の間から厳しい声がした。
「何をぼやぼやしているの。こっちよ」 ふらふらと入っていくと、ウォーターフォード男爵邸で、フィオナの母の降霊を行っていたインチキ霊媒のキーラがメイドのお仕着せを着て立っていた。「…断っておくけれど、ここではあたいのほうが先輩なんだからね。ちゃんと言うことを聞くのよ」
 控の間の、衝立でぞんざいに仕切られた一角には、まるで芝居小屋の衣装部屋のように、ありとあらゆる衣装が吊されていて、棚にはいろんな種類のカツラがずらりと並んでいた。
「さあ、早く脱いでよね」
 ブライディーが凍り付いていると、キーラは女子刑務所の女性看守のような乱暴な手つきで衣服を脱がせ、代わりにインドの女性が着るサリーを巻き付けた。それから鏡の前に座らせると黒髪のカツラをかぶせ、顔じゅうと手に靴墨を塗り、安っぽい指輪や腕輪を着けさせて、さらに分厚いヴェールで目から下を隠した。
「あなたはこれから『インドから来た驚異のタロット占い師、インディラ』よ。分かった?」
「…はい」
「カードはこれを使って。『黄金の暁団』がこんど大々的に売り出そうとしているものの試作品よ」」
 と、渡されたカードは、表は鮫の鱗に似てギラギラと、見つめていたら気分が悪くなりそうなラメ模様で、裏の絵柄も淫祠邪教の教典ふうの、淫らな図柄が描かれていた。
「…まったく、あたいは、あんたのせいで男爵様のお屋敷を追い出されてからというもの、ずっと場末の見せ物小屋で毎日『木乃伊の解体ショー』の助手をやらされているのよ」
(『木乃伊の解体ショー』)
 内容を思い浮かべただけで、吐き気がこみ上げてきた。
 マヤの邪神をかたどった香炉に強烈な臭いのする安物の香が焚きしめられ、その煙が部屋中に充満して、いよいよ本当に目が回りそうになってきた。
「さあさあ、ここに座って」
 キーラは意識がぼやけかけているブライディーの手をきつく引っ張って、客間の、御簾で囲まれた奥の小さなテーブルの椅子に座らせた。
「ちゃんとやらないと承知しないわよ」
「…はい」
 部屋の窓にはすでに光を通さないカーテンが引かれ、手前のテーブルにある小さなジプシーの燭台に灯された黒い蝋燭の明かりだけがチラチラと揺れている。
 キーラが去ってしばらくしてから、ヴェネチアの謝肉祭の際に使われる顔じゅうを覆う、目のつり上がった道化の仮面をかぶった紳士が歩み出て、彼女の前の椅子に座った。

「ほう、インドのかたですか」 仮面の男はくぐもった声で言った。「インドのどの港から出港されましたか」
「デ、デリーです」
「デリーは海には面していませんよ」
 ブライディーは心臓が縮む思いだった。「…そうか分かりました。川船に乗られて、河口で大きな船に乗り換えられたのですね」
 「ええ、そうなんです」
「失礼だが、ずいぶんと手が荒れていますね。まるでメイドの手のようですね」
 背中に冷や水を浴びせかけられたような思いがした。
「では、よろしくお願いします」 紳士は仮面越しに彼女を見つめた。「…実はぼくには、胸の病でスイスの療養所に入院している妻がいるのです」
(ドイル様と同じだわ) ブライディーは思った。(ロンドンは大変空気が良くないから胸を病むかたが多いのね…)
「その妻が、あと何年生きられるものか、占って欲しいのです」
「えっ?」
「もしもあと一、二年の寿命なのならば、ずっとスイスの、妻のもとに付き添っていてやりたいのです。もしも長く生きておられるようならば、ロンドンで仕事に打ち込んで、折々に見舞いに行くようにしたいのです。時期が分かるのなら、至急電報の知らせにも怯えなくてすむとも思います」
「分かりました」 ブライディーはホッと胸を撫で下ろした。(人の生死に関わることだわ。ドイル様との約束を破らなくていい)
「それでは貴方と奥様の生年月日をお願いします」
 彼女はキーラから渡された鱗模様のカードを切り、相手にも切らせてから、精神を集中して陣に並べた。キラキラと輝くラメは目を痛くし、なかなか気を整えることが出来なかったが、それでも何とか形を成すことができた。
 手順に従って一枚ずつめくる。淫靡な図柄が胸を悪くさせたものの、いつも通り読み解くことができた。
「十年…」 彼女はかすれた声で答えた。「奥様はスイスの療養所でおおよそあと十年生きられます」
 長い沈黙があった。キーラが焚いた安物の香がいよいよ部屋に充満し、一寸先も見えにくくなり、息をすることさえ苦しくなってきた。
「そうか… 有難う」 紳士もまたかすれた声で言った。「…それが当たっているのなら、ぼくはロンドンで頑張らなくてはいけないな」
「お見舞いも、できるだけ行ってあげてください」
「いくらぼくが、できるだけのことをしているつもりでも、妻からすれば、たまにしか見舞いに来ないように思われているような気がして心苦しいよ」
「そんなことはないと思います」
「それからもう一つ、ぼくの、自宅のメイドではなくて、仕事先の会のメイドが、大変よくやってくれているのです。彼女に心の隙間以上のものを埋めてもらうことを望むのは悪だろうか?」
 ブライディーは心臓が飛び出しそうになった。
(もしや、目の前にいらっしゃるのはドイル様? いいや、ドイル様が「黄金の暁団」に占ってもらいに来るはずがないわ)
 いろんなことが頭の中を駆けめぐり、何が何だか分からなくなってきた。
「ごめんなさい。これ以上は占えません」
 ブライディーは紳士を残したまま席を立って控の間に逃げ込んだ。
「ちょっとあんた、何を考えているのよ?」
 なじるキーラを突き飛ばすと、キーラもブライディーのあまりの勢いにひるんで、たじろいだ。
「わたしの服を返してください!」
 サリーを脱ぎ捨て自分の服に着替え、小切手を細切れに破ってあっけに取られた表情のキーラの手に握らせると、顔と手のドーランを必死でハンカチでぬぐい取りながら、まるで泥棒のように勝手口から走って逃げた。

 息を切らせて英国心霊協会の屋敷に戻ると、デイジーがスコーンを焼き上げたところだった。ドイルはいつもの安楽椅子にかけてパイプをくゆらせながら本を読んでいた。
「おや、ブライディー、早い帰りだね。せっかく休みの日なのだから、もう少しゆっくりしてくればいいのに。お芝居は面白かったかね?」
「デイジー、ドイル様はずっとここにいらした?」
「お姉ちゃん何よ、変なこと聞いて。ドイル様は今朝からずっとここにいらしてよ」
 ブライディーはヘナヘナとソファーに座り込んだ。まさしく、いままでの人生で最も恐ろしい悪夢だった。
「ブライディー、大丈夫かい?」
「お姉ちゃん、しっかりして」
 ドイルもデイジーも驚いて走り寄ってきた。
「失礼しました。ちょっと疲れただけです」
 ブライディーは途切れ途切れに答えた。

 ブライディー・ザ・マジックメイド
 「デイジーの初恋」

「デイジー、二階の掃除、いつまでかかっているの? シーツを干すのを手伝ってよ」
 ロンドンには珍しくカラリと晴れた春の日の十時のお茶の前、ブライディーが二階に上がっていくと、デイジーは突き当たりの部屋のドアと窓を開け放して、床に箒をかけていた。埃は部屋じゅうに舞い上がり、ベッドのシーツや枕カヴァーなどが洗濯籠に入れられて廊下に置かれている。
「デイジー、何をやっているの? このお部屋はめったに使わないから、掃除はしなくていいし、寝具も時々手入れするだけでいいいのよ」
 ブライディーが腰に手を当てて目を吊り上げても、デイジーは手を休めずに箒をはたきに持ち替えて箪笥や本箱の上をはたき始めた。 傍らには石けん水の入ったバケツもあって、このあと雑巾がけもするつもりのようだ。
「お姉ちゃん、ごめんなさい。久しぶりにいい天気だから、ついでに、と思って…」
「気持ちは分かるけれども、そんなことをしていたら、やらなければならないことができなくなってしまうでしょう? ここは大きなお屋敷なんだから、全部きちんとやろうと思ったら、とてもわたしたち二人だけでは足りないの」
「もうちょっとで終わるから…」
 デイジーが雑巾がけを始めたので、ブライディーは仕方なくそのへんに置かれているものを書き物机の上に集めた。
 と、そこには子供向けに書き直された「アーサー王物語」や、ヴェルヌの「十五少年漂流記」や「海底二万哩」、スティーブンソンの「宝島」や「ジキル博士とハイド氏」「エドガー・アラン・ポー全集」が何冊か無造作に積まれていた。
「デイジー、あなたこんなもの読んでいるの?」
 次々に本を開くと、クリムトのしおりは全部最後のページに挟んであった。
「いけない?」
「いけないということはないけれど、もっと女の子が読むようなものから読みなさいよ。バーネット女史の『小公子』とか『小公女』とか… それに、読み終わったらちゃんと図書室に返しておきなさい。第一ここはあなたの部屋じゃあないでしょう?」
「ごめんなさい…」
 デイジーが顔をくしゃくしゃにしたので、ブライディーは長い溜息をついた。
「仕方ないわね。シーツはお姉ちゃんが一人で干すわよ。二人でやると楽なのに… それからこの部屋はすぐに閉めないで、夕方まで風通ししておきなさいよ」
「はい」
 デイジーは晴れ晴れとした声で返事した。

「デイジー、またいつまでかかっているの? 夏物のパーティ用食器類や花瓶は、すぐ目につくところにしまってあるでしょう?」
 ブライディーは昼食用の作りかけのサンドイッチを放り出して、物置部屋に向かった。 するとデイジーは、目的のものはそっちのけで、ブリキのオモチャの兵隊たちや、組み立てると城砦になる積み木のセット、ベンガル龍騎兵の木馬、子供用の小さなヴァイオリンを床に並べて、一つ一つ丁寧に布で拭いていた。
「デイジー、いったい何をやっているの? まさかあなたがこれで遊ぶつもりじゃあないでしょうね? お屋敷のもので勝手に遊んじゃあいけません。そんな暇もありません。まったくドイル様たちがお優しいのをいいことにして。ご厚意で小学校にも通わせて頂いているというのに…」
 さらに説教を続けるとデイジーはとても哀しそうな顔をした。
「ごめんなさい、お姉ちゃん…」
「白詰草亭に帰りたかったら、帰ってもいいのよ。あそこだったら気が散るようなものは何一つないんだから。何だったら花売りに戻ったって…」
 デイジーは声を上げずに涙だけポロポロとこぼすと、そのまま駆け去った。
「デイジー、お待ちなさい! お昼の賄いが出来ているのよ」
 ブライディーが追いかけようとした、ちょうどそこへドイルがやってきた。
「どうしたんだね?」
「ドイル様、デイジーの様子がまた少しおかしいんです。せっかく夜うなされるのは減ったというのに」
 ドイルは物置部屋の床に並べられたおもちゃをじっと見つめた。
「これには何か訳がありそうだよ。あまり頭ごなしに叱らないほうがいいかもしれない…」

 その日の昼下がりになってもデイジーは帰ってこなかった。玄関のチャイムが鳴ったので出ると、デイジーが通っている小学校の女先生が立っていた。
「これはこれは、いつもお世話になって有難うございます。どうぞ中にお入りください。デイジーはいま使いにでいるのですが…」
「いえ、あなたで結構です。それにすぐおいとましますので」
 二十歳過ぎの、師範学校を出たばかりのような眼鏡の女先生はレースの日傘だけをたたんだ。
「あの、デイジーが何か?」
「デイジーちゃんが、この頃授業中に居眠りばかりするのです。それで、失礼ながら、お屋敷で夜遅くまで働かせているのではないか、と…」
「そんなことはさせていません」 ブライディーはかすかに頬をふくらませて言った。「こちらのお屋敷のかたがたは、皆さんお優しいかたばかりです。でなければ、昼間に小学校に通わせて下さったりもしないと思います」
「そうですか… だったらいいんですけれど、余りグーグーと気持ちよさそうに眠られるものですから…」
「これには訳が…」
「どんな訳ですか?」
「いまから調べますわ」
 女先生は肩をすくめ、再び日傘を開いた。
「よろしくお願いしますよ、ブライディーさん、でしたね?」
 ドアを閉め、ホッとして振り返ると、いつのまにか戻ってきたデイジーがサンドイッチを食べ終えて、なに食わない顔で皿を洗っていた。
「デイジー、あなた…」
 眉を吊り上げかけたけれども、ドイルに言われたことを思い出し、ぎこちない笑顔を作った。

 その晩、ブライディーはダブリンの貧救院にいた時、容態の良くない人々の看護をする係の尼さんたちが眠気覚ましに飲んでいた薄荷入りの濃い紅茶を作り、ベッドに入ってからも薄目を開けて寝たふりをしていた。
 珈琲もあるにはあるし、心霊協会の会員で所望する人もいたが、自分が飲む気はしなかった。
(デイジーはとても聞き分けのいい子よ。我が儘でもないし、人に迷惑をかけるようなこともしない。そんな子が、命じられない部屋の掃除をし、申しつけられてもいない玩具を取り出すと言うのは…)
 いろいろと考えを巡らせているうちに、薄荷紅茶を飲んでいたのに、まぶたが重く閉じてきて、不覚にも眠ってしまった。
 夢かうつつか分からない境目で、隣のベッドで眠っていたデイジーはむっくりと起きあがり、燭台の蝋燭にマッチで火を付けた。いつもだったらお手洗いだろうと気にかけないところだったが…
(そう、デイジーはホワイト・チャペルにいた頃から、夜中に徘徊する癖があったのよ。
 何を何のためにしているのか確かめなくては…)
 デイジーが屋根裏部屋を出てから、音を立てないように起きあがって、静かに小さく揺れ動く灯火の後をつけた。
(デイジーが滅多に使わない部屋を掃除していたのは、「その部屋を使うから」と指示されたからよ。玩具を取りだしていたのは、その持ち主に「それで遊びたいから」と命じられたからに違いないわ。そしてそれは「嫌です」と拒めないことだった。なぜならば、その人物はデイジーに命令する権利を持っているおかただからよ)
 デイジーは手洗いのほうではなく、一階の物置部屋に向かった。そこで昼間取りだしていたブリキの兵隊たちや、城塞の積木や、子供用のヴァイオリンを身に余る大きな籠に入れて布巾を掛けると、再びゆっくりと階段を上がり始めた。ブライディーはとっさに踊り場に置いてあった騎士の甲冑の陰に身を隠し、息を潜めてやり過ごした。
 再び二階に上がったデイジーは、朝がたに掃除していた突き当たりの部屋に向かった。
 そして、誰もいないはずの部屋のドアをかすかにノックし、ややあって開けて中に入ってから音を立てないように静かに閉めた。
(いったい、誰と何をしているのかしら)
 素早く歩み寄って聞き耳を立てたブライディーの耳に、デイジーが誰かに向かって話しかけているような声が聞こえてきた。

「坊ちゃま、戦争をなさるのでございますか? ボーア人は、オランダ系ですけれども同じ白人でございますよ」
 デイジーの囁くような声がした。続いて積木を積み上げ、ブリキの兵隊たちを配置していく気配がした。
「…南アフリカ、トランスヴァール共和国のマジュバヒルの戦いでございますね。あたしは写真や挿絵でしか見たことがございませんが、このような感じでございましょうか?」
 耳を澄ますと、まるで芝居小屋のように、勝鬨の声や、鉄砲や大砲を撃ったり、剣や銃剣を交えたりする擬音が聞こえてきたような気がした。
「…ですが坊ちゃま、マジュバヒルでは、我が大英帝国軍が惜敗し、トランスヴァールはボーア人たちが取り返したのでございますよ。その後、近くで大金鉱が発見されたこととも相まって、重ね重ね残念なことでございました。…えっ、『このままには捨て置かぬ』ですって? けれどもトランスヴァールには同じくボーア人のオレンジ自由国という同盟国もあるのですよ。攻め落とすのは容易なことではございませんよ」
 盗み聞きしていたブライディーは、驚きのあまり唖然とし、はっきり目が覚めた。
(十歳の、それも女の子のデイジーがなぜ国際情勢のことを詳しく知っているの? まるで陸軍幼年学校の生徒みたいに… ドイル様やほかの会員のかたがたが「暖炉の焚きつけに」と、読み捨てていかれる「タイムズ」や「ガーディアン」を読んでいるのかしら?
…そもそも第一、いったいどこのだれと話しているの?)
 扉を開けたい衝動をぐっとこらえて、辛抱強く聞き耳を立てていると、やがて相手は戦争ごっこに飽きたのか、戦いの音は止んで、代わりにデイジーが本を朗読する声が聞こえてきた。
(アトス…ボルトス…アラミス…ダルタニアン…リシュリュー枢機卿…毒婦ミレディー? 「三銃士」じゃない? 「お坊ちゃま」はこういうのがお好きなかたなのね…)
 デイジーは銃士たちが王妃の首飾りを取り戻したところで本を置いた。積木やブリキの兵隊たちを片付ける気配がして、「おやすみなさい」という声がした。ブライディーはあわててリネン部屋に隠れた。
 デイジーは籠を抱えて一階に下りていった。ブライディーはすかさず、問題の部屋のドアノヴにそっと手をかけて、ゆっくりと回し、ほんのかすかに開いて中を覗いてみた。
 真っ暗で何も見えなかったが、ほんのかすかに、「何か」がいる気配がした。部屋の中に入ってもっとゆっくりと調べたかったものの、籠を物置部屋に戻したデイジーが戻ってくる靴音がしたので、先に屋根裏のメイド部屋に帰って毛布に潜り込んだ。

 翌朝、ブライディーはデイジーが使いに出ているあいだに、昨夜の出来事をドイルに報告した。
「うーん、そうか。やっぱり思った通りだったね」
 ドイルは眉間に皺を寄せて考え込んでしまった。
「ドイル様、デイジーが夜中に相手をしているものは、やはり、その、幽霊でございましょうか?」
「この屋敷は、英国心霊研究協会が借り受ける前に、当然のことながら何人も持ち主が変わっているんだ。協会が借りる前には、とある高級軍人の一家が住んでいたらしい。夫妻には目の中に入れても痛くないような、エリアスという一人息子がいたんだが、ちょうどデイジーくらいの年の頃に病気で亡くなったと聞いている」
「どうしましょう」 ブライディーは思わず両手を合わせた。「このままにしておいたら… だからと言って除霊などをしてしまうと、またデイジーに心の傷を残してしまうような気もしますし…」
「ぼくもメイドとしての仕事や、小学校での勉強に支障を生じないようにすれば、無理に引き離す必要はないと思うよ。デイジーに生きて実在しているボーイフレンドができたら、エリアスの姿は次第に見えなくなるだろうから」
「しかし、いまは、エリアス坊ちゃんの姿はデイジーにしか見えないようですし、声も聞こえないみたいなので…」
「それならやはり、デイジー自身に、例えば『一緒に遊ぶのは月も星もない夜だけにしましょう』と約束させるしかないだろうね」

 次の夜もデイジーは、隣のベッドでブライディーがぐっすり眠っているのを確かめると、むっくりと起きあがった。お手洗いに行くふりをして一階の物置部屋からブリキの兵隊などが入った籠を持ち、二階の突き当たりの部屋を小さくノックした。
「どうぞ」
 中には背広姿の、十二、三歳の快活そうな金髪の男の子が書き物机に向かって、インドの地図の上でチェスの駒とはまた違う、歩兵や騎兵、砲兵を表す駒を動かしていた。
「おのれ、セポイ(インド人の傭兵のこと)どもめ。こともあろうに雇い主の東インド会社を襲撃するとは不届き…」
「ですがエリアス坊ちゃん、彼らに装備させようとした新式のエンフィールド銃の噛み切って開ける弾薬包みには、ヒンズー教徒のタブーである牛の脂と、イスラム教徒のタブーである豚の脂の両方が入っていたそうではありませんか」
 デイジーは部屋のテーブルの上に積木の砦を建て、兵隊たちを配置し始めた。
「そんなことは枝葉末節のことだ、デイジー。彼らは、こともあろうに我が大英帝国の威光のもとにインドが栄えているという事実を忘れ、独立などという夢まぼろしに捕らわれた逆賊どもだ」
 エリアスは立ち上がってデイジーが兵隊たちを配置するのを手伝った。二人の手が思わず触れあい、デイジーはかすかに顔を赤らめた。
「あの、エリアス坊ちゃん。本当に陸軍幼年学校を受験されるのですか」
「もちろんだ」
「ずっとこのお屋敷にいて、あたしたちを守ってはくれないのですか」
「女性は… ましてメイドのきみたちは、この屋敷が世界のすべてのようなものだろうけれど、男に生まれたからには、世界じゅうをかけ巡って、帝国のため、女王陛下のために尽くしたいものだ」
「すると、晴れて士官学校を卒業されても、このお屋敷に戻られることは…」
「ない」
 エリアスはきっぱりと言った。
「ドイル様みたいに、ずっとロンドンで暮らそうとは思われないのですか」
「ドイル氏は紳士だが、はっきり言って軟弱者だ。金を儲けて好きなことができるのも、帝国が強固なものであってこそではないか。ユダヤ人たちを見ろ。国もなく、王や首相もおらず、哀れなものではないか」
 デイジーはますますその小さな胸をどきどきさせた。自分は「あの」ドイル様よりも男らしい殿方と話をしているのだ、と思うと。
 そして自分がメイドなどではなく、ときどきお屋敷に来られるフィオナ・ウォーターフォード様のような、貴族の令嬢であったなら、と、ほんの少しだけ空想した。
「それとデイジー」 エリアスは居住まいを正した。「きみと相部屋のブライディーのことだが」
「ブライディーお姉ちゃんが何かしましたか?」
「悪いことは言わないから、彼女のことを『お姉ちゃん』などと呼ぶのはやめたまえ」
「なぜですか」
 デイジーはかすかに首をかしげた。
「きみもブライディーがときどき、人目を忍んで『お兄ちゃん』と呼んでいる少年と会っていることを知っているだろう。『お兄ちゃん』なる少年が彼女と血のつながった兄か、単にそう呼んでいるだけなのかは知らない。だけど、彼は、アイルランドの独立運動にかかわっている」
「それは、何かいけないことなのでしょうか」
「当たり前だ」 エリアスは声を荒げた。「アイルランドは大英帝国の庇護がなければ成り立たない国なのだ。連合王国の一翼を担わせてもらっているという栄誉を忘れ、また、帝国によって口に入れるものを得ているというのに、独り立ちすれば生きてはいけない国だというのに、何が独立だ。そのような不埒なことを企むブライディーの兄は、土民のセポイどもと同じ逆賊であり、それと気脈を通じるブライディーは国賊だ」
 デイジーは震え上がった。
「それに比べてデイジー、君は誇り高いイングランド人だ」 エリアスは彼女の小さな肩を抱いて言った。デイジーは全身が風邪で寝込んだ時のように熱くなるのを感じた。「宗教も帝国の国教会。アイルランド人の多くがかたくなに捨てないローマの紐付きの旧教ではない。同じメイドでも君は一等国民なのだ。もっと誇りを持ちたまえ。だから間違ってもこれからは彼女のことを『お姉ちゃん』などと呼んではいけない」
「イエス、サー」 デイジーは敬礼した。「ほかに、あたしにもできることはないでしょうか」
「そうだな。もしもブライディーが『お兄ちゃん』なる少年と会う予定を知り得たら、すぐに誰にも黙って警察に通報するのだ。ぼくならそうする」
 エリアスも敬礼を返した。

「おはようございます、ブライディーさん」 デイジーの挨拶がいつもと違ってぎこちないのをブライディーは耳ざとく気がついた。 料理の指図を仰ぐ時も、洗濯や掃除のときも、何気なく話しかける時も、いつのまにか「ブライディーさん」になっていた。
「ねぇデイジー、もう『お姉ちゃん』とは呼んでくれないの?」
「だってお姉ちゃんは、あたしの本当のお姉ちゃんじゃあないんだもの」
 デイジーは口ごもりながら答えた。
「本当のお姉ちゃんでなくても、お姉ちゃんと呼んでいいのよ。お姉ちゃんもそのほうが嬉しいわ」(同級生か誰かに、あんまり顔が似ていないことでも言われたのかしら)
 ブライディーは何かしらちょっと不安になったけれど、(デイジーも大人になったのかもしれない)と気にかけないように勤めた。

 ある朝、ブライディーはデイジーとともに近くの市場に買い物に出かけた。こんな時、デイジーは『お姉ちゃん』がごくたまに、彼女に荷物の番をさせて人混みの喧噪の中に十分間ほど消えて、またすぐに戻ってくるのをかねがね不審に思っていた。
(きっと「お兄ちゃん」と会っているんだ。アイルランドの独立運動に関わっている「お兄ちゃん」に)
 デイジーはエリアス坊ちゃんに言われたことを思い出した。血がつながっているかいないかは分からないけれど「お兄ちゃん」と呼べる者がいることを羨ましく思い、その気持ちはやがて少しずつ嫉妬に変わっていった。(買い物を抜け出して、一体どこへ何をしに行っているのか、確かめてあげるわ)
「デイジー、お姉ちゃん、ちょっと忘れ物を思い出したわ。悪いけれど少し待っていてちょうだいね)
 エプロンドレスの背中の白い紐が見えなくなる前に、デイジーは意を決して荷物の番を近くの商店主に頼んで後をつけ始めた。ブライディーは大勢の大人や子供たちが集まっている小さな広場。幻灯覗きからくりの見せ物小屋の前で立ち止まり、小銭を払って頭から暗幕をかぶり、レンズに両目を当てた。
(お姉ちゃん、あんなことしている)
 デイジーが眉を吊り上げると、冷やかし客の中から鳥打帽にニッカーボッカー姿の、とてもハンサムな少年が現れて、同じように小銭を払い、彼女の隣の暗幕をかぶった。二人は覗きからくりはみないでお互いに何かを囁き合っているように感じられた。
(やっぱりそうだったんだ。「お兄ちゃん」に会って、うろんな計画の打ち合わせをやっているんだわ)
 デイジーはますます目を吊り上げた。自分のボーイフレンドは、いかに素晴らしくても他の人には見えないし声も聞こえないのに、「お姉ちゃん」のそれは、ちゃんと肉体を伴っていることも腹立たしかった。
 ふと目を移すと、広場には二人組の制服警官がいて、行商人や大道芸人たちのあいだをパトロールしていた。デイジーは迷った。
(ここで「怪しい人がいます」と訴えたら、「お兄ちゃん」だけではなくて「お姉ちゃん」まで捕まってしまうかもしれないわ。するとあたしは今夜から一人で英国心霊研究協会のメイドのお仕事をしなくちゃならない。ドイル様がまた白詰草亭からメイドを雇われるかもしれないけれど、その人が「お姉ちゃん」みたいに優しくていい人だとは限らない。もしも、意地悪で人使いの荒い人が来てしまったら…)
 しかし、「エリアス坊ちゃん」の命令に従わないのも恐ろしいことのように思われた。
「どうしてみすみす千載一遇の機会を見逃したのだ? その少年がもしも長じてアイルランド独立運動のリーダーになったりしたら、イギリス軍の将校や兵士たちの尊い命が奪われるかもしれないんだぞ。…ぼくの父上が南アフリカで戦死したみたいに」
 そう言われることは明かだった。
「あの、お巡りさん…」 決心したデイジーは、警官の制服の上着の裾を引っ張った。
「何だい、ちっちゃなメイドさん?」
「いま、あそこで覗きからくりを覗いているお兄ちゃんは…」
 警官たちは顔を見合わせ、頷き合った。
 つかつかとからくり小屋に歩み寄ると、暗幕を跳ね上げた。
 少年とブライディーは息を呑んだ。
「ちょっと聞きたいことがあるのだが、いいかね?」
 少年は脱兎の如く駆け出し、警官たちが追いかけた。見物人たちは海が割れるように道を開けた。後には呆然としたブライディーだけが残った。
 ブライディーは群衆の中に、荷物の番を頼んで待たせてきたはずのデイジーの姿を見つけて、すべてを悟った。
「デイジー、あなた… どうして…」

 ブライディーの目の前でデイジーはくるりと踵を返すと、小走りに走り去った。追いかけようとしたけれど、さらに巻き込んでしまってはいけないと思って止めた。
 心霊研究協会の屋敷に戻っても、デイジーは帰ってはいなかった。
(それはそうよね… 仕事で失敗をしたとかそんなのじゃあないんだもの)
 ブライディーは激しい胸騒ぎにとらわれて、買ってきたものもなおさないままに、ドッジソン教授にもらった「不思議の国のアリス」のタロット・カードで占ってみた。
(カードよ、教えて。デイジーはいまどこでどうしているの? 何か危ない目に遭ったりはしていないかしら?)
 すると、いままで占ってきた配置の中でも見たことのないような恐ろしく悪い陣が現れた。
「デイジー、デイジー待っていて。今すぐに行くから」
 彼女は書斎の鍵のかかる抽斗から、拳銃と弾丸を数発つかみ取った。取りこぼした弾丸がバラバラと音を立てて床にこぼれたのもそのままに、玄関の鍵もかけずに玄関から飛び出して辻馬車を呼び止めた。

 その頃、デイジーは生まれ育ったホワイトチャペル地区をさまよっていた。心霊協会の屋敷にも白詰草亭に戻る気はなかった。愛国心から出たこととは言え、あれだけ世話になり、親切にしてもらっていた「お姉ちゃん」にあわせる顔がなかったからだ。
「お姉ちゃん」とその「お兄ちゃん」がどうなったかということも気になった。
 ボーッとしたまま歩いているうちに、たとえ昼間でも、まともな女の子が一人で歩いてはいけないと言われている地区に踏み込んでしまっていた。
「あら、ちっちゃなメイドさん。一体どこへ行くの? そっちのほうは危ないわよ」
 薄物をまとい、安物の香水とジンの臭いをプンプン撒き散らしている辻姫の忠告も耳に入らなかった。
(どうしよう… どうしよう…)
 うつむいて歩いているうちに、昼なお薄暗い袋小路に迷い込んでしまっていた。
「嬢ちゃん、いくらだい?」
 突然、目の前に三人のチンピラふうの若者たちが立ちふさがって、ハッと我に返った時には、もう遅かった。
「いくらだ、って聞いてるんだよ」
 もう一人が、逃げ出そうとしたデイジーの腕を掴んでひねり上げた。
「痛い!」
「急にどうしても金のいることができて、ここへ来たんだろう。俺たちが払ってやるよ。いくらだ?」
「そんなんじゃあありません。違います」
「どう違うんだよ。…おい、おまえたち、先に払ってやれ。後でごちゃごちゃ言われないように」
 兄貴分が命令すると、ほかの二人はデイジーのメイドのお仕着せの喉のところを引っ張って、小銭を投げ込んだ。ひんやりと冷たいコインが、デイジーの胸や腹を伝って落ちた。
「さてと。金は払った。好きにさせてもらおうぜ」
 若者たちはデイジーのエプロンドレスの紐をほどき、お仕着せのボタンを外し始めた。
「嫌! やめて!」
 逃げだそうにも片腕を万力のような力で掴まれているので逃げられない。ボタンの一つがはじけて飛んだ。
「おい。丁寧に脱がせろよ。服代を弁償、というようなことになったら面倒だぞ」
「はい、兄貴。…おい、じっとしていろ」
 お仕着せを脱がされ、肌着に手がかかった。 先ほど服の中に投げ込まれた小銭が地面にバラバラとこぼれた。
「誰か助けて!」
 開いた口に汚いハンカチのさるぐつわが噛まされた。
「大きな声を出すな。近所迷惑だ」
 ペチコートを脱がされ、ドロワーズと上の肌着にごつごつとした手がかかった。
(助けて! 「お姉ちゃん」助けて!)
 デイジーの固くつむった両目からポロポロと涙がこぼれた。
「おい。肌着はちゃんとかためて置いといてやれよ。後で『なになにがない』とか言われて探す、なんてことがないように」
「はい兄貴。分かってます」
 手下のチンピラはデイジーからはぎ取った肌着を路地の隅に丸めて置いた。
 押し倒されたデイジーは懸命にもがいたけれども、もがくたびに頬や痩せた背中や尻が冷たい路地の地面にこすられて、ざらざらとした痛みを感じるだけだった。
「よし、おまえたち、念のために一人ずつ交代で角に見張りに立て」
 手下たちは互いに顔を見合わせ、一人が道に落ちていた一ペニー銅貨を拾うと、投げ上げて掌の上で隠した。
「表か、裏か?」
 デイジーはもう、何も考えることができなくなって、全身から力が抜けていった。

 と、バーンという銃声が響いた。見張りに向かいかけた手下が、こけつまろびつ戻ってきた。
「なんだ?」
 兄貴分がデイジーを突き飛ばして振り向くと、そこにはデイジーよりも一回り大きな、赤毛のメイドさんが銃口を空に向けてこちらを睨みつけていた。
「デイジー、大丈夫?」
 服を脱がされたデイジーをみつけて、ブライディーの血相が変わった。
「お姉ちゃん、助けて…」
「両手を上げて! 本当に撃つわよ!」
 銃身が水平に降ろされた。
「ちぇっ、…まあいいか、小銭の分くらいは楽しませてもらったことだし」
 チンピラたちはせせら笑いながら三方に分かれて塀を乗り越えて逃げた。
 ブライディーはデイジーに素早く服を着せて、しっかりと抱きしめた。
「もう大丈夫よ、大丈夫」
「お姉ちゃん、有難う。…誰も助けに来てくれなかったよ。金モールの兵隊さんも、お巡りさんも…」 デイジーは泣きながら言った。「助けに来てくれたのはお姉ちゃんだけだった」
「デイジー、良かった。本当に良かったわ」 ブライディーはさらに一層しっかりとデイジーを抱きしめた。

 心霊研究協会の屋敷に戻ったブライディーは、デイジーの身体をきれいに洗ってやり、衣服も新しい寝間着に着替えさせた。お湯で薄めたブランデーを飲まてベッドに寝かせると、じきにすやすやと安らかな寝息を立て始めた。一人で夕食の支度をしているうちに、ドイルも出先から帰ってきた。彼女は、きょうの恐ろしかった出来事は黙っていようと思った。
「ドイル様」 食後の紅茶を出しながら、おずおずと言った。「デイジーと、エリアス坊ちゃんのことはどうすればいいでしょう? デイジーは、坊ちゃんとわたしたちの板挟みになって悩んでいるように見えるのですが」
「ぼくもいろいろと考えてみたよ」 ドイルは読みかけの新聞を脇にどけて言った。「…エリアスの霊が寂しがるのは、家族がいないからではないだろうか」
「しかし坊ちゃんの父上は南アフリカで戦死されたそうですし、母上も坊ちゃんが幼い頃に亡くなられたと聞いていますが…」
「だから、呼び出すんだよ。降霊術で」
「どなたか有名な降霊術師を呼んで依頼するのでございますか?」
「いいや。デイジー自身にやらせるんだ」
 ドイルは真顔で言った。
「わたくしたちも参加するのでしょうか。エリアス坊ちゃんの姿や声は、わたくしたちには見えないし聞こえませんが」
「我々は、参加しない。あくまでデイジー一人に頑張ってもらおう。彼女も、いろんな意味でそろそろ大人になってもらわないと。きみみたいにね」
 微笑みながらドイルはパイプに火を付けた。

 数日後、月も星もない、湿った風がさわさわとざわめく夜更け。
 ちっちゃいながらも降霊術師らしい黒っぽいドレスに身を包んだデイジーは、二階の突き当たりの部屋のサイド・テーブルの椅子にちょこんと腰をかけて、ゆらゆらと揺れる燭台の灯火をじっと眺めていた。
 すでにメイン・テーブルの上には、エリアスお気に入りの積木の城塞が組み立てられ、ブリキの兵隊たちが配置されている。
「デイジー、本当に一人で大丈夫? 嫌だったら断ってもいいのよ。ドイル様にはわたしから…」
「いいや、お姉ちゃん。あたしやってみる。
エリアス坊ちゃんをお父様に会わせて差し上げるのでしょう?」
 ブライディーは小さく頷いた。
「そう。もしも何かあったら、すぐにベルを鳴らしてね。お姉ちゃんもドイル様も、すぐ隣の部屋にいるから。もちろんあなたが逃げてきてもいいのよ、デイジー」
「そんなに心配しなくてもいいよ。エリアス坊ちゃんは、悪いかたじゃないもん。…助けに来てはくれなかったけれど」
「じゃあデイジー…」
「ちょっと待って、お姉ちゃん。口紅とコンパクトを持っていたら貸して」
 デイジーは借りた化粧道具でゆっくりと上手に眉を描き、口紅を塗った。黴臭い部屋に白粉の香りがほんのりと漂った。

 サイドテーブルの上に置かれた、子供のために特別に仕立てられた背広を着たエリアスと、英国陸軍大佐の礼服に身を包んだ彼の父親のセピア色の写真をじっと集中して見つめていると、何者かが扉をすり抜けてやってきた気配がした。
「やあデイジー、きょうはとてもおめかしをしているけれど、どうして? とてもきれいだよ」
「有難うございます。エリアス坊ちゃん。きょうは坊ちゃんの父上に初めてお会いするので、身なりを改めさせて頂きました。
「ぼくの父上に?」 エリアスは嬉しいような、ちょっと困ったような複雑な表情をした。「そんなことができるのかい?」
「できないかも知れません。でも、一所懸命にやってみたいと思います」
 デイジーは大きく息を吸い込んだ。しかし燭台の灯火はその息でではなく、ドラゴンの飾りが付いた蝋燭消しをかぶせて、丁寧に消した。部屋に漆黒の帳が降りた。雨の気配を含んだ風は相変わらずガタガタとガラス窓と、雨戸や鎧戸に打ち付けている。
(エリアス坊ちゃんの父上、どうか、どうか坊ちゃんのところにいらして上げてください) デイジーは瞳を閉じ、心を研ぎ澄まして懸命に念じた。(坊ちゃんは、お一人でとても寂しがっておられます。どうか、たとえ僅かのあいだでもいいから、こちらの世界に戻られて、坊ちゃんにお声をかけてあげてください)
 闇が渦巻き、粉々に飛び散っていた情念のかけらが形を取り始めた。「それ」は玄関の扉の前に集って次第に人の形を成した。
 ギイーッときしんだ音を立てて扉が開いた。
「お帰りなさいませ、旦那様」
「ご凱旋、おめでとうございます」
 そんなものはもういないはずの執事や、メイドたちが一列に並んで頭を下げて主人の帰還を出迎えた。
 なま暖かい風に生臭い臭いがまじって、二階まで上がってきた。
 コツコツと軍靴が階段を上がってきた。腰に吊ったサーベルがカチャカチャと擦れる音が踊り場に響いた。
「嫌だ!」 エリアスは突然鋭い悲鳴を上げた。「父上には会いたくない」
「どうしてでございますか? 坊ちゃんがあれほど誇りにして、ずっと待ち続けておられた父上でございますよ」
「怖いんだ。怖いんだよ」
 エリアスは逃げだそうと試みたものの、金縛りにあったみたいに動けない様子だった。
「失礼ですが、幽霊の坊ちゃんが、どうして幽霊の父上を恐れられるのでしょうか?」
「そんなこと、分かるものか」
 階段を登りきった軍靴がゆっくりと廊下をこちらに向かって歩いてきた。腐臭がいっそう濃くなった。
「デイジー、もういい、止めてくれ。ぼくを守ってくれ」
「申し訳ありません。もうあたしにも止められません」
 靴音が突き当たりの部屋の前でぴたりと止まった。「それ」はエリアスと同じように、扉をすり抜けて入ってきた。
「エリアス、一人放っておいて、可哀相なことをした」
 南アフリカ、トランスヴァールの砂塵と、血と膿にまみれた英国陸軍大佐の制服をまとった「それ」は、地の底から響いてくるようなしゃがれ声で言った。
 黒一色の空間の中、デイジーは腐った肉片をところどころに纏った髑髏と、胸に溢れんばかりの略綬を着けた英雄の影が蠢くのを見た。
「愚息が大変世話になった。感謝する」 大佐はデイジーに一礼した。「迷惑をかけたことは、寛恕を乞う。…さあ、エリアス、行こう。ここはおまえが留まり続けられる場所ではない」
「嫌だ! たとえお父さんと一緒でも。ぼくはずっとここにいて、デイジーと遊びたいんだ」
「おまえも栄えある英国軍人の卵ならば、上官としての父の命令を聞けぬはずはあるまい」
 長い沈黙があった。大佐は軍靴の踵を合わせてデイジーに向かってビシッと敬礼した。
 デイジーも立ち上がって敬礼を返した。
 エリアスは父親の後をついて、彼女のほうを振り返り振り返りしながら、やがて長い廊下の闇の果てに消えた。

     (次のエピソードに続く)





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