ブライディー・ザ・マジックメイド 「ホワイトチャペルの亡霊」

2004/05/05 「不思議の国のアリスのタロット・カード」を「ドッジソン教授の手作り」、に修正…

  ショート・ショート「ブライディー・チェックメイト」
  ショート・ショート「ブライディーのお兄ちゃん」 …それに続いて
  「ホワイトチャペルの亡霊」

「ブライディー・チェックメイト」

 1895年の春、「英国心霊研究協会」が借りている「幽霊屋敷」のゲーム室で、ドッジソン教授が、チェスの世界チャンピオン、ラスカーとスタイニッツの試合の新聞の棋譜を一人で並べていた。
「うーむ、二人とも強いなぁ、ぼ、ぼくにはとてもこんなふうには指せないなぁ」
 そこへ、紅茶と手作りのビスケットを持ってブライディーがやってきた。
「昨夜の試合は大熱戦でしたね」
「ブライディー、きみはチェスができるのかね?」
「ええまあ、駒の動かしかたくらいは…」
「じゃあ一つぼくが教えてあげよう。ぼくは左の城(ルーク)と騎士(ナイト)を落とすよ。それで、もしきみが勝ったら、何でもきみの欲しいものをあげるよ」
「本当ですか!?」
「その代わり、もしぼくが勝ったら写真をとらせてくれないかな」
 と、横からドイルが、
「よせよせブライディー、恥ずかしい写真を撮られてしまうぞ。ケンブリッジの学生でも、同じ条件で教授に勝てる者は滅多にいないんだ」
「あの… わたし、先日教授が占っていらした『不思議の国のアリス』のトランプ・カードとタロット・カードのセットが欲しいです」
「ああ、あれね。あれはこのぼくの手作りの、この世にたった一セットずつしかないものなんだよ」
「すみません。そんな大切なものでしたらご遠慮します」
「…いいだろう。作り主はまだ数学の単位を全部取っていないことだし、あれをあげるよ。きみが勝ったらの話だけどね」
 ブライディーは声を潜めてドイルに訊く。
「ところでドイル様、『恥ずかしい写真』って、どこがどう恥ずかしいんですか?」
「ううむ… ぼくはよく知らないんだが、たとえば薄物を一枚羽織っただけ、とか、背中に天使の羽根をくっつけて、とか、デメテルみたいにいっぱいの果物の中に寝そべったり…」
「ええっ! それってもしかして『お嫁に行けなくなってしまう』ような…」
「かもしれない」
 そこへ、話を聞きつけてクルックス副会長とウォーレス博士がやってきた。
「ブライディー、わしが一手詰めの問題集を貸してやるから、ドッジソン教授との試合は少なくともこれを全部解いてからにしたまえ」
「一手指すたびに、盤上の教授の僧正(ビショップ)と騎士(ナイト)の利き筋を指先で押さえてみたほうがいいと思うよ。それに、この近所にチェスが強いおばさんがいるらしいから、習ってからやったほうが…」
 ブライディーはドッジソン教授の正面の古びた樫の木でできた椅子をさっと引き出すと、エプロンドレスの裾を直しつつ浅く前屈みにちょこんと座った。
「よろしくお願いします」
「おやおや、本当にやるのかい。嬉しいな」 教授は皺の寄った手で白の駒をつまんで、ゆっくりと並べ直し始めた。ブライディーはまず黒の王様(キング)を自陣に置いた。並べ終わったところで教授は自分の左の城と騎士を盤の外にどけた。
「では、ぼくから指させてもらうよ」
 そう言って女王の前の歩卒(ポーン)を二手進めた。ブライディーは小さく深呼吸をしてから右の騎士を自分の歩卒の上に上がった。 ドイルは眉間に皺を寄せ、立ったまま腕組みをして序盤の進行を眺めている。
(チェスは、日本の将棋と違って取った敵の駒を自分の駒として使うことはできない。だから、最初から重要な二枚の駒がないということは、相当にきついハンデだ。だけども、多くの初心者がその二枚を落としたグランドマスターやマスターに勝てない。なぜなら、強い者ほど駒を有効に使うすべを知っているからだ。だから、二枚足りないハンデはハンデではなくなる。ちょうどサッカーやラグビーの強豪チームが、一人や二人が退場になっても人数が少ないのを感じさせないのと同じように)
 やがて、駒と駒が当たり出した。
 すぐに交換されて盤の外に出された駒もあれば、ぶつかったままどちらからも交換されない駒もある。
 ブライディーは頬をかすかに紅潮させ、時おり小首をかしげながら、コンという駒音を立てて駒を進める。教授は冷めてしまった紅茶をようやく一口だけすすっただけで、終始無表情のまま、高みから盤上を見下ろしていた。
 クルックス博士とウォーレス博士は近くから椅子を持ってきてブライディーの少し後ろに腰掛けた。他の会員たちもやってきて盤を取り囲んだ。そして教授のほうが先に彼女の王様に王手(チェック)をかけた。
 ブライディーは王手をかけている教授の黒の僧正の利き筋をじっと見つめている。
「王手だよ。そんなに睨んだって、駒は溶けたり消え去ったりしないよ」
 教授は盤の外に出された駒を丁寧に並べ直し始めた。いまのところどちらにも駒損はない。
(順調に敵味方の駒が相殺されているということは、ブライディーが有利だ。なぜなら、王様以外の駒が全部相殺されたら、彼女に最初のハンデで貰った城と騎士が残るからだ。だから、教授の側に立てば相殺が進まないうちに…つまり、敵も味方もある程度の駒が残っているうちに勝負をかけなければならない)
 立ったまま観戦しているドイルは、腕を組み、形勢を読み直した。
 王手に対する応手はいくつもあった。逃げる手がいくつかと、合い駒。逃げる手のうちの、いかにも逃げ切れそうな手の中に、頓死筋があった。ブライディーはそこへ逃げようとしているのか、空いた升目をじっと眺めている。
「ブライディー、よく考えろ」
 彼女は一瞬、ドイルの顔を見上げた。ドッジソン教授は空咳をして苦笑いを浮かべた。
 盤面に視線を戻したブライディーは、頓死筋に気付いたのか、小さく口を開いたまま二度三度、ほんのかすかに頷き、もう一度読み直して正しい升目に逃げた。
 誰かが何本目かの紙巻きのロスマンに火を付けた。いったん薄れかけていた煙が再び立ち込めはじめた。
 そしてまた教授が、今度は女王で王手をかけた。ブライディーは熟考してから自分の女王をぶつけて王手を防いだ。
「駒を落としていなければ、迷わず相殺してやるんだけどね」
 教授は微笑みながら女王を逃げた。
 クルックス博士やウォーレス博士は椅子から身を乗り出している。
(マスターのほうに女王とあと数枚の駒が残っているうちは、ゆめゆめ油断は出来ないぞ。彼らは、いとも簡単に詰み筋を作ってしまうから…)
 ブライディーは教授の王様を詰めようとせずに、味方の歩卒を敵陣の一番奥まで進めて女王に「成る」作戦に出た。教授がそれを防ごうとすると、どうしても駒の相殺になってしまう。そうなるとやはり、最初のハンデの駒が彼女に残る…
 ブライディーはますます頬を染めて、額に指を当てて、かかってもいない髪の毛をかき上げる仕草をした。
「より、リスクの少ない方法を、という訳か。 やれやれ、このぼくともあろうものが、駒を二枚を落としているとはいえ、メイドさんに負けてしまうとはね」
 ドッジソン教授はそう言って、自らの白の王様をパタンと倒した。
「投げてくださるんですか?」
 メイドさんはパッと顔を輝かせた。
「自慢していいよ」
 教授はゆっくりと立ち上がり、隣のテーブルに置いてあった手作りのトランプとタロットカードを持ってきた。
 岡目八目の観戦者たちから、耳に聞こえるくらいの溜息が漏れた。
「約束通り、君のものだ。大切に使ってやってくれたまえよ」
「有難うございます」
 ブライディーはカードを純白のエプロンドレスの胸にひしと抱きしめた。
「占いかたを書いた本は、屋敷の図書室にあるはずだ」

 数日後、ブライディーがちょっとした暇を見つけて、指南書片手に『不思議の国のアリス』のタロットカードで占いの練習をしていた。そこへドイルがやってきた。
「どうだい、一つ占ってもらおうかな」
「いま占わせて頂いておりました。『シャーロック・ホームズ・シリーズは復活する』と出ております」
 彼女は、白兎やおかしな帽子屋たちがあしらわれた絵札が並んだ陣を読み解いて言った。「そうかい。それは当たる可能性が高いかもしれないね」
 ドイルはそう言って笑った。
「ああそれと… 教授が『今度は左端の城一つだけを落としてやろう』と言ってリターンマッチを挑んできても、絶対に受けてはいけないよ。今度こそ間違いなく『恥ずかしい写真』を撮られてしまうよ」


  「ブライディーの『お兄ちゃん』」

 1895年の、とある遅い春の朝、「英国心霊協会」の通称「幽霊屋敷」の玄関の階段や、外回りにホウキをかけていたメイドのブライディーは、隣のお屋敷との間の細い路地に、拳ほどの白詰草の固まりがいくつか落ちているのに気が付いた。
 それは、どこかの「ワレモノ」の運送業者の荷馬車が落としていっただけのもののようだったが、何かの記号、陣のように見えなくもなかった。
 彼女はあわててそれを片づけると、その後入念にバケツで水を打った。
 行き交う人々や馬車の御者や乗客は、そんなメイドさんの行動を、まったく気に留めなかった…

 その夜のロンドンも、濃い乳のような霧が立ちこめた。心霊協会の会員たちもみんな家路についた。
 大判のスカーフで顔を隠したブライディーは、朝がた詰め草が落ちていた路地に立っていた。
 人通りが絶えかけた頃、彼女は二、三本離れたガス灯の下に、鳥打ち帽をかぶり、すり切れたコートに身を包んだ若い男らしい影を見つけた。
「お兄ちゃん…」
 思わず両手を胸の上で組んでつぶやくと、影は走り寄って彼女を抱き寄せ、さらに路地の奥に隠れた。
「ブライディー、元気そうで何よりだ」
 闇の中、お互いの顔を確かめる。
「お兄ちゃんも」
 彼女は用意していた小さな巾着を彼に渡そうとした。
「金は足りている」
 彼は巾着を強く押し戻した。
「…おまえはそんな心配なんかしなくていいんだ」
「お兄ちゃん、絶対に悪いことはしないでね」
「『悪いこと』? 独立のどこが悪いことなんだ? アイルランドはもともと一つの国だったんだぞ。豊かではなかったかもしれないが、立派な独立国だったんだ」
 彼は声を荒げた。
 大通りを通りがかった酔っぱらいが立ち止まって怪訝な顔で二人のほうを眺めた。
 彼はブライディーを抱きしめてキスをするふりをすると、酔っぱらいは肩をすくめて通り過ぎた。
「でも…」
「元気だったらそれでいいんだ。じゃあな」 彼はそう言うと駆けだした。彼女が後を追おうとした時、すぐ近くで警官の呼び笛がけたたましく吹き鳴らされた。
 カツカツという靴音が近づいてきたかと重うと、警棒を振りかざした二人の警官が立ちふさがった。
「おい小娘、いまこのあたりで若い男を見かけなかったか?」
「いえ」
「本当か?」
「その人はどんな人で、何をやったんですか?」
 ブライディーは典型的なアイルランド訛りで訊ねた。
「おまえアイルランド人だな」
 再び呼び笛が吹かれて、そのあたりの警官が続々と集まってきた。
「ちょっと聴きたいことがあるから、一緒に警察まで来てくれ」
 警察の馬車に連行されそうになった時、「幽霊屋敷」の玄関の扉が開いて、一人の紳士が出てきた。
「騒々しい。一体何の騒ぎだ?」
「ドイル様…」
「その子はうちのメイドだ。連れて行かれると不便を被るんだがね」
「失礼ですが、あなた様は?」
「アーサー・コナン・ドイルだ」
 警官たちは顔を見合わせて声を潜めて相談した。
「ドイルだって? あのシャーロック・ホームズの作者の?」
「ヴィクトリア女王陛下もファンの?」
「高額納税者の?」
 彼らはブライディーを放した。
「何があったんだ?」
 ドイルが優しく訊ねた。
「いえ、別に何も」
「そう言っているぞ」
 ドイルは警官たちに向かって叫んだ。
「お騒がせして申し訳ありませんでした」
 警官たちは互いに目配せして頷き合うと、二人ずつ組になって散った。
「有難うございました、ドイル様」
 ブライディーはペコリと頭を下げた。
「連絡は…」 ドイルはパイプに火を付けながら言った。「新聞の三行広告などのほうが、まだ安全だ。もっともホームズの目からは逃れられないかもしれないが」


  「ホワイト・チャペルの亡霊」

「ブライディー、いったい何をそんなに熱心に占っているんだい?」
 厨房のテーブルで、メイドさんがドッジソン教授からもらった「アリス」のタロット・カードで複雑な陣を組み、伏せられた札をゆっくりと開いているのを見かけたドイルが訊ねた。
「ドイル様、ずっと昔に体験した怖い、恐ろしい記憶というものは忘れることができるものでしょうか」
「と言うと?」
「このあいだの研究発表会の時に、わたしの手伝いに来てくれたデイジーという子が、ときどき怖い夢を見てうなされるんです」
「ああ、あの無口な大人しい子」 ドイルは壁にいっぱいピンで貼り付けてある心霊写真や念写写真の歪みを直しながら首をかしげた。「メスメルやブレードらの催眠術療法は有名だし、方法はないことはないんじゃないかな。…で、どんな怖い夢を見るんだい。いつも同じような夢?」
「それが…」 ブライディーはしばらく口ごもってから、ようやく言った。「…あの切り裂きジャックの夢なんです。デイジーはホワイト・チャペル地区で生まれた孤児なんです」
「何だって!」
 ドイルの顔色が変わった。
「ドイル様も切り裂きジャックについては、いろいろと推理されておられますよね」
「ああ。ぼくはジャックは相当に経験を積んだ外科医だと睨んでいる。ジャックは女装した男性か、女性である、という可能性も捨ててはいない」
「わたしはデイジーがうんと幼い日に、本当にジャックの犯行を目撃したのか、それともいろんな報道や物語を読んだり聞かされたりしておののいているだけなのか、とりあえず占ってみようかと…」
 チェシャ猫やハンプティダンプティが描かれたタロットは、正位置、逆位置を織り交ぜてテーブルの上で整然と、その枝を広げていた。
「で、占いの結果は?」
 ドイルはカードが織りなす陣を覗き込んだ。
「それが、何度占っても『デイジーはうんと幼い頃に本物のジャックを見た』と出てしまうんです」
 ドイルは肩をすくめて破顔一笑した。
「どちらにしろ、ぼくの友人に優秀な心療療法の医師がいるから、一度話をしてみておいておくよ」
「よろしくお願いします」
 その時、玄関の、来客を知らせるチャイムが鳴った。ブライディーはカードをそのままに、お仕着せを翻し、石鹸の香りだけを残して走って出て行った。
「ドイル様、スコットランド・ヤードの…警視様が、火急の用件でお会いしたいと…」
「ああ、すぐに応接間にお通してくれたまえ」
 ドイルは、頭が禿げていてよく太った紳士と歓談をはじめた。ブライディーは暖かい紅茶を淹れ、手作りの菓子をだした。
 話はすぐに、とある政府高官が実はドイツの間諜らしい、という内密のものになり、ブライディーは一礼して下がった。警視の副官の、灰色の髪に灰色の背広、射抜くような目の青年も席を外し、彼女の後について厨房にやってきた。
「おや、メイドさん、恋占いですか?」
「いえ…」
「ここは幽霊屋敷と呼ばれているらしいけれど、本当に出るのかな?」
 青年は微笑みながら言った。
「皆さんが『出る』と申しておられますが、わたしはまだみたことはございませんわ」
 ブライディーは占いかけのタロット・カードをあわてて片づけようとした。
「ちょっと待ちたまえ」
 青年の言葉は、まるで呪文のように彼女の動きをぴたりと止めた。
「興味深いカードだね」
「ええ、手作りのカードなんです」
 青年は舐めるように、彼女が構築したタロット・カードの陣を眺めた。時間にすると一、二秒ほどだっただろうが、ブライディーはその場が凍り付いたように感じた。
「なるほど、手作りのカード、ですか…」
 彼は唇を少し歪めてそう言い残して上司のもとに戻った。 入れ違いに、珍しく慌てた表情のドイルが厨房にやってきた。
「ドイル様、御用でしたらベルを鳴らして頂ければ…」
「ブライディー、あの若者に、君がここに並べていたカードを見られなかっただろうな?」
「ご覧になられましたけれど、それがどうか…」
「しまった…」 ドイルは思わず目を閉じて天井を仰いだ。「…彼はアレックス・ブレード警部。さっき話した催眠療法の権威のブレード博士の親戚で、スコットランド・ヤードきっての催眠術の使い手で、おまけに魔術にも通じている。タロットカードの陣を見れば、どんな人間がどのようなことを占っていたかを推察するくらいは朝飯前の人物だ」
「まさかそんな… わたしが占っていたカードを見ただけで、恐ろしい夢を見て困っている小さな女の子のことが分かる、とおっしゃるんですか?」
「ホームズは相手を見ただけで、だいたいどんな人物か当てるし、変装だって見破るだろう? ぼくはいまからヤードに赴いて、…警視に、ブレード警部がこの件に立ち入らないように頼んでくる。君はいまからすぐに白詰草亭に行って、デイジーは当分のあいだ英国心霊研究協会が住み込みで雇うから、と言って連れてきてあげなさい」
 ドイルは自分でフロックコートを羽織り、ブライディーが差し出した山高帽とステッキをひったくるようにして玄関を駆け下りた。「さぁ、君も急ぐんだ。馬車に乗るんだよ。協会のお金を使って構わないから、多い目に持っていきなさい」
 ブライディーは言われた通り辻馬車を拾って白詰草亭に急いだ。アイルランド・パブは平日の昼間ということもあって、いつもよりはすいていた。と、彼女は、先ほどの灰色の髪の青年が、十歳くらいの茶色のポニーテールのちっちゃなメイドさんの肩を抱いて、店主のオマリーと話し込んでいるのを見て思わず息を呑んだ。
「おおっ、ブライディー、いいところへ来た。こちらの、スコットランド・ヤードのブレード警部さんがデイジーとゆっくりと話をしたいそうだ」
 オマリーは上機嫌だった。
「ああ、メイドさん。先ほどは素晴らしい情報を本当に有難う。そう言えば情報料を払い忘れていたっけね。なんならいますぐ払おうか?」
 ブレード警部は財布を広げて何枚かの紙幣を取り出した。デイジーはちっちゃな身体を小刻みに震わせて目にはいっぱいの涙を溜めている。
「お金なんか…」 ブライディーはぞんざいに差し出された金をはたき落とした。紙幣はひらひらと舞い落ちた。「要りません!」
「ブライディー、何をするんだ。警部さんは事件を解決されようと…」
「警部さん、オマリーさん、この子はまだこんな小さいんですよ。それを…」
 彼女はデイジーの手を取って奪い返した。
「お姉ちゃん…」
 デイジーはブライディーのスカートの後ろに隠れた。
「小さいかもしれないが、あの凶悪事件の鍵を握っているかもしれないんだよ。もしも事件が解決すれば、被害者たちも浮かばれる。
世間は安心し、再発の防止にもつながる」
 警部は鋭い眼で二人のメイドさんを睨み付けた。
「そして、それはあなたのお手柄になるんでしょう?」
「もちろん… もちろんそうだとも。ぼくは事件の解決者として、歴史に名が残る」
「デイジーの心の平安はどうなっても構わないんですか?」
「それにも十分配慮するつもりだ。君は正義という言葉を知らないのか?」
「そうだぞブライディー、おまえの大好きな小説では、いつも正義が勝つだろう?」
「オマリーさんまで…」
「さぁ早く、その子をこっちに渡すんだ」
 手を差し伸べながらブレード警部が迫ってきた。
「怖いよー」
「逃げるな!」
 泣き出したデイジーの手を引いて走り始めたブライディーの足がピタリと止まった。「…そう、おまえは逃げられない」
 彼女は足を動かすことができなかった。まるで靴を床に縫い付けられたかのように。
(催眠術?)
 彼女はデイジーと繋いでいた手を放した。「デイジー、あなただけでもお逃げなさい」「お姉ちゃん、足が動かないよ」
「…という訳だ。誰もぼくの術からは逃れられない」
 警部はゆっくりと近づいてきてちっちゃなメイドさんの手を取って、今度こそ連れ去ろうとした。
「おい、ちょっと待てよ、いくら警察でも、こんな小さい子をひどいんじゃないか?」
 白詰草亭で酒を飲んでいた何人かの男達が警部の行く手を阻んだ。
「邪魔をすると為にならないぞ」
「皆さん、気を付けて下さい。この人、催眠術を使います」
 ブライディーが叫んだが、時すでに遅く、男達の靴…というか足も床から剥がれなくなってしまっていた。
 警部とデイジーが開け放たれたドアから出て行こうとした時、電報局のお仕着せを着たメッセンジャー・ボーイが駆け込んできて、鉢合わせになった。
「至急電報です。皆さんの中にブレード警部というかたはいらっしゃいませんか?」
「ぼくだ」
 電文をひったくるようにして読んだ警部の顔に見る見る落胆と怒りの色に染まった。
「おのれ、ドイルのやつ…」
 電報をくしゃくしゃに丸めた警部はデイジーの手を放し、デイジーはブライディーの胸に戻った。
「このままでは済まさないからな!」
 警部がそう言い残し、扉を叩きつけて店を出たとたん、みんなに身体の自由が戻った。オマリーもまるで夢から覚めたみたいに辺りをきょろきょろ見渡している。
「おや、俺はいままで一体何をしていたんだ?」
「よかった…」
 へなへなとその場に座り込んだブライディーをデイジーが助け起こした。
「お姉ちゃん、大丈夫?」
「大丈夫、もう大丈夫よ」
 彼女は立ち上がってデイジーをしっかりと抱きしめた。

 英国心霊研究協会の「幽霊屋敷」に帰ったブライディーは、厨房のテーブルに突っ伏し、涙をぽろぽろこぼして泣いていた。
「本当にうかつなことをしてしまいました。デイジーを大変な目に遭わせ、ドイル様にもご迷惑をかけ、白詰草亭のオマリーさんや皆さんまで巻き込んでしまって…」
「仕方ない、相手が悪かった」
 ドイルは彼女の前にウイスキーのショット・グラスを置いて言った。
「でも、ここは心霊研究協会。わたしがもう少し用心していれば…」
「お姉ちゃん、もう泣かないで」
 デイジーが、湯気の立つ濃いめの紅茶を淹れてきた。「あたしなら、大丈夫だよ」
 ブライディーは角砂糖にショットの酒をかけ、マッチで燃やしてから紅茶に入れて一口すすった。
「ドイル様、催眠術にかからない方法というのはあるのでしょうか?」
「かかりやすい人間と、そうでない者がいるのは間違いないだろうね。しかし、ブレード警部はもともとその方面に才能がある上に、研鑽を絶やさないタイプの男だ。おそらくパブリック・スクールの頃から、友達の目の前で懐中時計を振り子のように振って見せるなどして遊んでいたんだろう。彼の術から逃れるのは、ぼくでも難しい」
「ホームズなら、ホームズならどのように渡り合いますか?」
「そうだなぁ…」 ドイルは首をひねった。
「ある人間に出来て、他の人間にできないということはないだろうから、ホームズならブレード警部よりも先に術をかけるかも知れないな」
 しばらく考えていたメイドさんは、やがて顔を上げ、ドイルの目を見つめて言った。
「わたしも、催眠術を学ぶことはできますか」
「できるだろうけれど、お薦めしかねるね」
「なぜですか?」
「ブライディー、ぼくはこうして君と一緒にいるとホッとする。君の姿を見かけるだけでも心が安らぐんだ。そんな君が、警部と同じ能力を身につけたりすると、それはそれで心強いだろうけれども、その代わりにいままであったものを失ってしまうような気がするんだ」 ドイルは紅茶を飲み干して立ち上がった。
 デイジーは、屋敷の小さな礼拝室で脚立の上に乗り、ブライディーが遠慮させてもらっている国教会の祭壇の手入れをしていた。
「ぼくは、カードで明日の天気を占っている君が一番好きなんだよ」
「占いは…」 彼女は再び声を詰まらせた。「…もう止めようかと思っているんです」
「どうして? 君の占いは本当によく当たる。
とりあえず、警部がこれで諦めるか、そうでないかを占ってくれないか」

 その晩、ブライディーは幽霊屋敷の屋根裏部屋で、タロット占いの練習をしていた。
 いままでずっとカラッポだった二つ目のベッドではデイジーがすやすやと寝息を立てている。寝返りを打って乱れた毛布を肩にかけ直した時、突然デイジーが顔を歪めた。
「助けて!」
「デイジー、何もないわよ。安心して。お姉ちゃんも一緒だし…」
「助けて! 助けて!」
 悲鳴はますます大きくなり、小さな手が虚空から迫る何者かを遮ろうと突き出された。
「助けて上げる。ドイル様や心霊研究協会の皆さんがきっと助けて下さるわ」
 ブライディーは小さな掌を取って自分の胸に強く押し当てた。
「お手洗いだったら、一緒に行ってあげる」
「ううん、大丈夫。ここは夜のほうが賑やかだよ、お姉ちゃん」
 ようやく譫言が治まった後、彼女は息を整え、夜のしじまに心を研ぎ澄まし、全身全霊を込めて、デイジーを悪夢の悪霊から救ってくれる人物は誰か、を占った。
 悪魔の逆位置、教皇の逆位置…
 完成した陣は、はっきりと「きょう初めて会った、魔力を持った男」と告げていた。

 数日後、ドイルとブライディーは、ロンドン郊外の、とある寂しい荒地に立っていた。
 春とは言え、まだ冷たい風がヒースの茂みや、ドイルのコート、ブライディーの肩掛けやスカートを揺らしていた。
 二人の後ろには、手に手にシャベルを持った十数名もの日雇いの男たちが従っている。
「すみません、ドイル様。もしも間違っていたら、お金を使わせてしまうことになって…」
「いいや、やってみるだけの価値はあることだ」
 ドイルの手には、一冊の比較的新しいスクラップ・ブックが握られていた。しおりを挟んだページを開くと、オセローとデスデモーナの扮装をした男女のセピア色の写真とともに、次のような記事の切り抜きが貼られていた。

「若手女優殺害容疑者自殺
 …日午後…時頃、ロンドン…間を結ぶ鉄道の列車に、…という若手の男性俳優が飛び込んで自殺した。男優は遺書を携えていて、その遺書には同じ劇団の女優に対して『取り返しのつかない、大変なことをしてしまった』旨が記されていた。女優はここ数日来行方不明で安否も不明、家族からは捜索願が出されている。
 警察は二人の目撃者や立ち回り先を捜査中だが、まだ発見には至っていない。
 最近二人らしい人物が目撃された場所は、
以下の数カ所である。より詳しい情報や新しい情報を知っている読者は、至急もよりの警察までお知らせ願いたい」

 記事は、リージェント公園や水晶宮など、幸せだった頃のいくつかのデート・コースで締めくくられていた。

「山査子の木の下、だな?」
「はい、ドイル様」
 ブライディーは小さく頷いた。
 ドイルが合図をすると、男たちは二人ずつ組になって荒地に散って、茂みをかきわけて、山査子の木の下が掘り返されていないかどうかを調べ始めた。
 風がまた、一段と強くなった。
「あの、わたしもお手伝いしたいのですけれど…」
「きみは何もしてはいけない。もしも占い師のきみ自身が何かを発見すれば、きみが前もって埋めておいた自作自演だと思われるかもしれない」
 ぼんやりとした太陽が雲に隠れ、また顔を出した頃、遙か遠くから呼び子が聞こえた。
「旦那ぁ、それらしい跡が…」
 ドイルは脱兎の如く駆けだした。ブライディーもスカートの裾を持って、遅れながら続いた。
 そこは、枝じゅうに可憐な白い花を付けた山査子の木の根本で、最近掘り返された跡があり、その近くには、一頭立てで二人乗りくらいの小さな荷馬車の轍の跡も残っていた。
「みんな、この轍の跡は踏まないように」
「分かりました。柵とロープで囲っておきましょう」
「メイフラワー、か… よし、丁寧に、少しずつ掘り返してくれ」
 男たちの中からも二人ほどが出て、シャベルの先のほう半分だけを使って、土をどけ始めた。
「きみは見ないほうがいい」
 両手のひらで口元を覆いながら小刻みに震えているブライディーの前に立ちふさがるようにして、ドイルが言った。
 と、まだ浅い場所シャベルが次々と、何か柔らかいものに当たった。
 男たちの堀りかたはますます慎重なものになった。
 やがて、土にまみれた若い女性のドレスが現れた。ブライディーは十字を切り、ポロポロと涙を流した。ドイルはしゃがんで、胸の上に組んであった左手の薬指に嵌められたままの指輪を見た。
「よし、誰か、警察に連絡だ。コナン・ドイルが科学的推理に基づいて遺体を発見した、と…」
 男たちの中から伝令が散った。
「山査子…メイフラワー、たぶん好きな花だったのだろうな。古代ローマよりの魔除けの花木でもある」
「けれど、棘のある木でもあります」
「ブライディー、どうか約束してくれ…」 ドイルは改まった表情で、彼女の鳶色の瞳を見つめた。「…その力、人の命に関わる場合を除いて、決して使わない、と…」
 風は低い樹木のあいだを吹き抜けて、花びらがはらはらと散った。
「主と聖母マリア様と、聖パトリックにかけて、お約束申し上げます」
 彼女は小さな銀のロザリオを握りしめて、じっとドイルを見つめ返した。
「人の力は、たとえそれがどんなに素晴らしいものでも、脆き剣、脆き鎧であることを忘れぬように」

 カーテンを閉ざした部屋の中、メイドのお仕着せを着て椅子に腰掛けたデイジーの、ゆるく閉じられた目の前に、燭台の蝋燭の炎がゆっくりと左右に振られた。
「よし、ディジー、しんどい思いをさせて済まなかったね。もうこれで終わりだよ。蝋燭を吹き消すと同時にきみは目覚める。そして、眠っていた時のことはすべて忘れる。いいね?」
 燭台を持っていた初老の紳士が蝋燭を吹き消すのと同時に、デイジーはぱちりと目を開いた。
「デイジー、気分はどう? 何ともない?」
 ブライディーが駆け寄るのを待たずに立ち上がったデイジーは、きょろきょろと部屋を見渡した。
 ドイルがカーテンを開き、窓を少し開くと、行き交う人々の話し声や、馬車の蹄の音が飛び込んできた。
「よしよしデイジー、ぼ、ぼくと一緒に散歩に出かけよう」
「ドッジソン教授、あたし、洗濯とかしなくていいんでしょうか?」
「きょうはお姉ちゃんが全部一人でするから、教授と遊んでいらっしゃい」
「本当に?」
「さぁさぁ、行こう行こう、何か買ってあげるよ」
 教授は、いぶかるデイジーの細い手を引いて部屋から出て行った。
「で、どうなのでしょう、メスメル先生」
 ドイルは静かにドアを閉めて尋ねた。
「ご覧の通りです、ドイル先生」
 メスメル医師は机に腰掛け、ウォーターマンの万年筆でカルテに長い覚え書きを書き込んだ。
「わたくし、お茶をお持ちします」
「いや、ブライディー、きみも一緒に先生のお話を聞いておきたまえ」
「…あの子、デイジーの恐ろしい記憶は、すでに何者かが封印してあって、我々普通の催眠療法医の、通常の診察では外に出すことができません」 メスメル医師はフランス語訛りのある英語で言った。「その封印が一見固いようで実は不完全なのか、それとも封印を施した人物が、わざと、時々無作為にその恐怖の記憶が漏れ出てくるような仕掛けを行ったのか、それが夜になると彼女を苦しめているのです」
「治す方法はありますでしょうか」
 ブライディーはすがるような目でメスメル医師を見つめた。
「もちろんあります。ただ…」
 診断を書き終えたメスメル医師がカルテを静かに閉じた。
「…難しいのです。そういうことができる人物は欧州に二、三人、米国に同じくらい、両方合わせても五人といないでしょう。はっきり言って、アフリカの奥地に分け入って、それができる呪術師を探して連れてくるほうがたやすいと思われるくらいです」
「なぜです? そんな一流の催眠術師なら天下に名前が鳴り響いているのでは?」
 ドイルは腕組みをほどいて、パイプに火を付けた。
「まず、あの子、デイジーの記憶を二重に封印することができません。最初の封印から漏れ出た恐怖の記憶が、我々が施す第二の封印とのあいだに蓄積し、風船のように膨らんでやがて爆発したらどうなるか、考えたくありません。ゆえに、最初の封印に開けられた穴はわざとである可能性が高いのです。だから、方法としては、わざと開けられた穴を通じて何とかするしかありません」
「だれがそんなひどいことを…」
「悪魔の術者でしょうな」
 メスメル医師は立ち上がって書類を鞄に詰めた。
「そんなことを突き詰めてやろうという人物は、良心というものを持っていない、ただ術のために術を学んでいる輩だけです。それも、究極のハイレベルの。だから、当然医者ではない。万一そうであってもまともな医者ではない。すなわち看板を掲げていない、一言で言うと、そんなことができるのは…」
 ブライディーは固唾を飲んだ。ドイルは平然とパイプをふかしている。
「…天才黒魔術師だけです」
 彼はそう言い残して、さっさと出て行こうとした。
「あの、お茶かお酒を…」
「いいや結構。このような術が使える者ならば、人間の一人や二人、遠く離れていても呪い殺すくらいわけないでしょう。いくらドイル先生の頼みでも、率直に言ってこれ以上関わりたくありません」
 後にはドイルとブライディーだけが取り残された。
「気にするな、彼の祖父なら何とかしてくれたと思うが、彼は残念ながら『売り家と唐様で書く三代目』だから。それに第一、呪い殺すよりも、銃で射殺したり、ナイフで胸を一突きするほうが、よほど確実だよ」
 ドイルはそう言って彼女の肩を軽くたたいた。

 ステンドグラスの微笑みを浮かべた幼い天使たちが赤や青や黄金色の光を落とす礼拝堂。
 万灯の蝋燭がゆらめき、乳香と没薬の香が立ちこめるなか、ヴェールで髪を覆ったブライディーは片膝を跪いて祈っていた。
 ロンドンでは極めて珍しいカトリックの小さな教会。装飾などは国教会とほとんど変わらないとはいえ、やはり落ち着く。
「ブライディー、ブライディーではありませんか?」
 懐かしい声と、衣擦れの音に振り返ると、マリア像から抜け出てきたと思うような長身の美しい修道女が立っていた。
「セアラお姉様…」 ブライディーははらはらと涙を流しながら彼女の胸に飛び込んだ。
「…ロンドンに来られていたのですね」
「おやおや、泣き虫なのは貧救院の頃から少しも変わっていませんね」
 セアラはブライディーより一回りほど上だろうか、本当の母のように姉のように抱きしめた。
「お姉様は立派です。貧救院からダブリンの枢機卿台下に召され、そこからさらにヴァチカンに召されるという、貴族の子女でない尼僧としては前代未聞の破格の大抜擢を受けられ、故郷の者全員の誇りです」
「ブライディー、わたくしは、もし許されるものならば、生涯あそこで働きたかったのですよ。しかし召命とあらば、お断りすることはできなかったのです」
 蝋燭の炎の林のなか、ブライディーはこれまでのことを語った。ウォーターフォード男爵とフィオナのこと、白詰草亭のこと、英国心霊研究協会のこと、そして、デイジーのことなどを、堰を切ったように。セアラはただ黙って頷くだけだった。
「…セアラお姉様、法王猊下から尼僧としては特例の、悪魔払いをしてもよいという勅許状を頂いた、というお噂は本当ですか?」
「そう言えば、このあいだ皆と一緒に謁見の栄に浴し、祝福を受けたときに、わたくしだけ文章を書き付けた小さな羊皮紙を賜りました」
 セアラは修道女の衣の内側の隠しポケットの中から、葉書ほどの大きさ一枚の羊皮紙を取りだした。
「わたくしやヴァチカンの兄弟姉妹には、何と書いてあるか読めないのです」
 前に広げて示そうとするのを、ブライディーはあわてて押し戻した。
「そんな、ラテン語でお弥撒を上げられ、ほとんど全ての欧州語を操られるお姉様に読めないものを、兄弟姉妹のかたがたさえも読めないものを、わたし如きが読める道理がございません」
「古代フェニキアのアルファベットに似ています。猊下の花押もあるし指輪の印も押されています。フィオナ・ウォーターフォードなら読めるかも知れません。あの子はこういうのが好きだから」
「フィオナ様は、ケンブリッジのニューナム女子校に進学しようと頑張っておられます」
「もともと釣り合うお相手が難しい子だったけれど、ますます縁遠くなってしまいそうだわ」
 セアラは淡い光が降り注ぐ天蓋の窓を見上げた。
「男爵様も頭を抱えておられました。…ところで、なにゆえ頂いた時に猊下に直接お尋ねにならなかったのですか?」
「わたくしたち下の者は、偉いおかたに『これは何ですか? 何のためですか?』などと問いかけることは許されてはいないのですよ。命を授かったら、ただ果たすのみなのです。従って『持っていなさい』と申されれば、肌身離さず持っているだけです」
 しばしの間があった。ブライディーはためらった後に、さらに尋ねた。
「デイジーが毎晩悪夢を見ないで済むように、術を打ち破ることはできないものでしょうか」
「ブライディー、人を大切に思い、人から大切に思われる以上の、最高の術や呪文はありません。あなたがデイジーのことを大切に思っているのなら、彼女にかけられた術や呪文は、時が経つに連れ、薄紙を剥ぐように消え去ると思います。出来ることならば、『いますぐたちどころに何とかしてあげる』といった誘いには乗らないことです。しかし万一、事態が急変するようであれば、ヴァチカン外交省まで至急電報をください。三日以内にこちらに参ります。きょうみたいに出張していれば、ただちに転送するように指示しておきます。わたくしがどうしても持ち場を離れられないときは、代りに信頼できる姉妹を遣わせます」
「きょうはドイル様が見て下さっているので安心して、半日お暇を頂いて参りました。相手は催眠術を使うのですが…」
「ブレード警部ですね。こちらの要注意人物表でも見かけたことがあります。とりあえず簡単な策を授けておきましょう」
 セアラが何事か彼女の耳に耳打ちした。
「有難うございます、お姉様」
「きょうこうして会えたのも神様の思し召しでしょう。けれどブライディー、その力、やたらに使ってはいけませんよ。さもないとわたくしみたいに後戻りができなくなります。
…祝福を…」
 囁く声に、蝋燭の炎が一斉にざわめき波立って揺れた。

(シスター・セアラもドイル様も、カードを使って未来を知る力は、よほどのことがない限り使ってはならない、とおっしゃった。その力は、例えるならばそれまで剣と弓矢でいくさをしていた兵士が、銃と大砲で戦争するのに似て、嫌でも後戻りをできなくさせる、と)
 ブライディーはドッジソン教授からチェスの賭けに勝って譲り受けた不思議の国のアリスの図柄のタロット・カードをロザリオの細い銀の鎖で固く十字に封印し、机の抽斗の奥にしまった。けれどもいまや、カードがなくても未来がぼんやりと見えるようになっていた。そう、英国心霊毛研究協会の玄関のベルの鳴りかた響きかたで、良い客か、いつもの客か、好ましくない客か、よい知らせか、いつもの知らせか、よくない知らせか、分かるようにもなっていたのだ。
「ドイル様に電報です」
 メッセンジャー・ボーイの声は元気で溌剌としてたにも関わらず、彼女は胸騒ぎを覚えた。
 案の定、封を紙ナイフで切って電文を読んだドイルの表情はたちまち険しいものになった。
「ドイル様…」
「ブレード警部が、とうとう警察上層部を説得、多数派工作と反対派の根回しにも成功して、デイジーを証人としてホワイトチャペル地区の現場検証に立ち会わせる特別の許可を得たそうだ」
「えっ、でもデイジーはまだあんなに幼い子供なんですよ」
「『特別の』許可だそうだ。現場検証には警部のほか、医師や看護婦、護衛の私服刑事たちも同行する。…ぼくらは、部外者だから立ち会わせてはもらえない…」
「そんな…」
 ブライディーは声を震わせた。
「残念だけれど、もうぼくや心霊研究協会の皆の力を結集しても、止めることは出来ない。
この上さらに止めようとすれば、あの凶悪残忍なジャックの肩を持っている、と思われてしまう」
「デイジーが可哀相過ぎます。もしも何かを思い出すことによって精神がおかしくなってしまったら、どなたが元に戻して下さるのですか? さらにもしもジャックが現れたら…」
「ブライディー、このあいだ話してくれた、シスター・セアラに至急電報を打ちたまえ」
 ドイルが言い終わるよりも早く、彼女はスカートを翻して玄関の階段を駆け下りた。

 シスター・セアラからは「いまどうしても手が放せない重要案件を抱えているから、代理として腕の立つ腹心を行かせる」との返電が来た。
 その人物、シスター・アンジェに「駅までお迎えに上がります」と電報を打つと、「出迎えには及ばぬ。馳走を用意して待て」と言ってきた。
 到着予定時間きっかりにベルが鳴った時も、ブライディーはその鳴りかたに何かとても不吉なものを感じた。
「初めまして、わたくしがブライディーです。遠路はるばる有難うございます」
 と言いかけて、彼女は思わず呆然と立ちつくした。
 身に余る古ぼけた大きな旅行鞄によりかかるようにして立っていたのは、デイジーとそう年恰好が変わらない、十歳くらいのちっちゃな尼さんだったからだ。
 一時間後、そのちっちゃな尼さん…シスター・アンジェは、ブライディーとデイジーが出す料理を次から次へときれいに平らげて、空になった皿を積み上げていた。
「妾(わらわ)が来たからには、切り裂きジャックだろうが、催眠術を操る魔導師だろうが、もう安心じゃ」
 ちっちゃな尼さんは、中世フランスのロマンス語の混じったお姫様言葉で言った。
「アンジェさん、ワインを飲み過ぎては… あなたはまだ子供なのですよ」
「うつけ者が。ロンドンの水など不味くて飲めるか」
「そんなに食べてお腹を壊されては…」
「妾が腹を壊せば、痛くなるのは妾の腹であって、そなたの腹が痛む訳ではない」
「あの、セアラ様は…」
「セアラ様はな、そなたたちが思っている以上に偉ーいかたなのじゃ。法王猊下も枢機卿たちも、いまやセアラ様なしでは公務がはかどらん。ゆえに妾がブルターニュからはるばると来てやったのじゃ。有り難く思え」
 ブライディーは泣きそうな顔をして、廊下で様子を窺っていたドイルの元に走った。
「見習い尼僧にしたら、珍しい言葉遣いだね」
「セアラ様によると、あまり豊かではないものの、家柄はブルターニュ屈指の名門貴族の十数人兄妹の、五女か六女か、とにかく末娘なのだそうです。たぶんおそらく体の良い口減らしで教会に…」
「おいそこ、何をこそこそとうわさ話をしておる。さっさとデザートを出せ」
「はい、ただちに…」
 ブライディーはまた走ってテーブルに戻った。
「たかがメイド風情が先のことを案じるでないわ」
 ブライディーが目にうっすらと涙をためながら再びドイルのところに逃げてきた。
「ドイル様…」
「そんな顔をするな。育ち盛りの子はあれくらい食べるほうが、見ていても気持ちがいい。
 きみもデイジーも食が細いから、あの子を見習ってもっと食べたまえ」
 デザートもきれいに平らげたアンジェは、口の回りを拭ったナプキンを食べ終わった皿の真ん中に投げつけた。
「料理の腕はまずまずじゃ、褒めてつかわすぞよ」
「それで、デイジーを連れての現場検証は何時なのだ?」
 アンジェはクッキーをぱりぽり食べながら尋ねた。ブライディーはアール・ヌーボーふうのペン画の妖精カレンダーに、鉛筆で薄く付けられた丸印を示した。
「もうすぐじゃな。時刻は夜か?」
「夜のはずです。ジャックの犯行はほとんど深夜か、未明か、明けがた近くでしたから」「それは良いかも知れぬな」
 アンジェは意味ありげに小さく頷く。
「どうして! デイジーが眠くなったら可哀相で…」
「昼間に寝かせておけば良いのじゃ」
 ちっちゃな尼さんは、切り裂きジャックが犯行を重ねた日時と場所を赤い×印で書き込んだホワイトチャペル地区の地図を広げた。
「雨天決行か?」
「だと思います。相当大がかりで入念な計画のようですから、延期することは大変なのでは」
「ロンドンはこの時期、雨が多いそうじゃが、雨が降ると良いのにの」
「そんな、デイジーが風邪でも引いたら…」
「羅紗の頭巾をかぶれば良い」
「あなたも小さいのに、一体どうやってデイジーを守ってくださるつもりなのですか」
 さすがにおとなしいブライディーも、まなじりを吊り上げた。
「だから案ずるなと申しておる。…ところでブレード警部がデイジーに会ったのは、白詰草亭での一回だけか?」
「そうです」
「それは祝着。でもできることなら、一度も会ったことがない、検証の日が初対面だったなら一番良かった」
「は?」
「妾はちょっと買い物に行ってくるから、対策金を預かっておるのなら貸せ」
 アンジェは椅子から立ち上がった。ブライディーはしぶしぶドイルから預かっていた金子を渡した。
「妾の鞄は、デイジーが寝泊まりしているという屋根裏部屋に運んでおけ。妾は今夜よりそこで寝る。鞄の中は絶対に見ないように」
「えっ、するとわたしはどこで寝れば…」
「ソファーか床にマットを敷いて寝ればよい。屋根があるだけでも有り難いと思え。それから妾がデイジーと一緒にいる時は必ずノックをして、許可を得てから入るように。そなたの身の回りの品は、いまのうちに部屋から運び出しておけ」
 アンジェはそう言い残して出て行った。
 ブライディーは泣きそうな顔で彼女の旅行鞄を屋根裏部屋まで持って上がり、代わりに私物を運び出した。
「ドイル様、わたくし心配です」
 だが、様子を見に来たドイルは、パイプをくゆらせながらニコニコと笑っていた。
「アンジェ・ド・ブルターニュ、シスター・セアラが推す子だ。信じてあげたまえ」
「ドイル様、ドイル様は何かご存じで、それをわたくしに隠しておられますね。教えて下さい。教えて下さらないと、わたくし、カードで占います」
「そんなことしなくても、勘のいいきみのことだから、分かると思うよ」ドイルは苦笑いしながら言った。「…試しにその旅行鞄の匂いを嗅いでみたまえ」
 ブライディーが言われた通りにすると、かすかに芝居小屋の楽屋のような匂いがした。
「化粧品? 尼さんが?」
 しばらくして、アンジェが大きな紙包みを二つ、両手に携えて帰ってきた。
「釣りは、あまりなかった」
 アンジェはブライディーの掌に巾着を返した。
「妾は今夜からデイジーと寝食を共にする。 デイジーにはなるべく緊張しないように伝えておけ。いつもと同じように喋り、いつもと同じように立ち振る舞ってもらえたら有り難い。それと、カレンダーの丸印は消しておくように」

 その晩は霧雨となった。ガス灯の明かりもぼんやりと靄に煙り、湿り気が肌に貼り付く。 ブレード警部は、表に警察の馬車を待たせたまま、しずくがこぼれる灰色のこうもり傘をさしてやってきた
「延期しようと思ったんだけどね。また何枚も書類を書き直して提出しなければならないのは大変だし。きみの占いだと、このあと天気はどうなるのかね」
「占いはもうよほどのことがない限りやらないことにしました」
「おいおい、そんな怖い顔をするなよ、メイドさん。今夜、あの謎に満ちた切り裂きジャックの面が割れるかも知れないんだよ」
 ドイルに手を引かれて、黒い古ぼけた頭巾を目深にかぶったデイジーが歩み出た。
「くれぐれもデイジーの身体と心の安全を第一にしてくれたまえよ」
 ドイルがピシャリと言った。
「大丈夫さ。警護は万全。医師と看護婦も同行する。第一わたしがいる」
「七年前、ジャックはヤードが十重二十重の非常線を張り、警戒を強化するなかで犯行を重ねたことを忘れないようにな」
「ドイル、おまえは来るなよ。おまえがいなくても警察は任務を遂行できる。…さあデイジー、協力してもらうよ」
 警部はデイジーの手を強く引っ張って雨粒がきらめく闇の中に消えた。
 蹄と車輪の音が遠ざかる。ブライディーはすがるようにドイルを見上げた。
「ドイル様…」
「そんな目で見るなよ、ブライディー。さぁ、われわれも出かけよう。ズボンや男の子がかぶるような帽子は持っているかな?」

 漆黒の夜空を引き裂く稲妻がロンドンの場末のうらぶれた街角を照らし出す。ブレード警部とデイジー、警護の警官二名、医師と看護婦を乗せた四頭立ての馬車は、いまを去ることおよそ七年前、すなわち一八八八年八月三十一日の午前二時半頃、最初の被害者が殺されたホワイトチャペル・ロードへと向かっていた。
 と、すぐ近くに落ちた雷鳴に馬は激しくいななき竿立ちになった。
「警部。今夜は無理です。引き返しましょう」
 マントをびしょ濡れにした御者が御者台から叫んだ。
「ここまで来て何を言う。最初の目的地はもうすぐそこではないか。そのあとハンバリー・ストリートやバーナー・ストリートにも回るのだ」
 ガシッと嫌な音がして、馬車ががくんと傾いた。
「車輪の軸棒が折れました」
 御者台から飛び降り、しゃがんでカンテラの灯りで調べていた御者が再び叫んだ。
「警部、これは何かの祟りではないかね」 診察鞄を抱きかかえた医師が言った。「幸いそこに終夜営業のパブがある。全員あそこで夜を明かそうじゃないか」
「夜が明けてしまったら意味がないんだ」
 警部は自ら灰色のマントを羽織り、デイジーにもマントを着せて馬車から飛び降りた。
「おまえたちも続け!」
「わしは遠慮するよ」と医師。
「契約違反だぞ」
「訴訟でも何でも起こしてくれ。命あっての物種だ」
 風雨はますます強くなる。めいめいカンテラを携えた残りの五名が何とか最初の現場にたどり着いたとき、どこからか女性の悲鳴が上がった。警護の警官たちは本能的にその方向に駆けだした。
「よせ、罠だ、行くな!」
 気が付けば、一行は警部とデイジーと看護婦の三人だけになってしまっていた。
「まあいいか。…さあデイジー、ここの街並みや風景に見覚えがあるかな?」
「見覚えが、あります」 デイジーは蚊の泣くような声で囁いた。「ずっと、ずっと、遠い昔の重苦しい夏のこと。夜中に胸騒ぎがして目覚めて、お義母さんを捜しに、パジャマのまま屋根裏部屋を抜け出して、近所の辻から辻へと彷徨っていたら、お義母さんじゃない、別の女の人が、誰かに切り裂かれていて… 黒い影法師の犯人の手には、ピカピカ光るメスのような、ナイフのような血の滴る刃物が…」
「そうか、その者の顔は見たか? 服装や体つきはどうだった?」
 警部はしゃがんでデイジーの瞳を見つめた。
「見ました。でもはっきり思い出せません。本当は見ていないのかもしれません。ごめんなさい…」
「よし、わたしがいまここで催眠術をかける。 おまえが本当に見ていたのなら、くっきりと思い出す術を…」
「衝撃的な目撃の記憶というのは、案外あいまいであることが多いのですよ、警部」
 それまで大人しく付き従っていた看護婦が、ぬめぬめとした野太い声で言った。
「曖昧でも結構。真相の究明に一歩でも近づければ…」
「そんなに知りたければ教えて上げましょうか?」
「何だと?」
 愕然として振り返った警部の頭上に、隠し持っていた金槌が振り下ろされ、警部はうめき声を上げて倒れ、カンテラはガシャンと割れて消えた。
「…久しぶりに切り裂きたいけれど、あいにく、男のはらわたを引きずり出す趣味はないのよね」
 看護婦は後じさりかけたデイジーの腕を掴んで放さなかった。
「ちっちゃい子をバラバラにするようなことにも興味はないんだけれど…」
 デイジーの目は大きく見開かれて看護婦を見つめた。
「あら、とうとう思い出させちゃった? 悪いことしちゃったわねぇ。そうよ、あの晩もわたしはドレスを着てたわよね。『お姉さん、お暇そうじゃない。病気のほうは大丈夫? いいお薬があるんだけれど』とか何とか言っちゃって… 『もう何もあれこれ悩まなくてもいいようになる飛びっ切りの方法もあるのよ』と言って近づいて…」
 看護婦は懐からこれ以上は研げないと思うくらいに薄く鋭利に研ぎ澄まされたメスを取りだしてデイジーの喉にあてがった。
「可哀相だけれど、バイバイ…」
 ジャックがメスを走らせようとした瞬間、デイジーはとても子供とは思えない、目にも止まらぬ速さで相手に鋭く肘鉄を打ち込んだ。ジャックは思わず手を放した。
 デイジーはすかさず呼笛を吹いたが、激しい雨音に打ち消された。
「あんた、ただのガキンチョじゃないわね。 あの警部もまるまるの莫迦じゃあなかった、って訳ね」
 ジャックは二、三回むせてよろめき、後じさった。デイジーも黙ったまま素早く弧を描くように動いて間合いを広げた。
「もう笛は吹かないの? あんなくらいじゃあ誰にも聞こえないわよ」
「聞こえたさ」 雨の中からドイルの声が響いた。「…ブライディー、警部を頼む」
「ドイル様、お気を付けて」
「なに、ドイル? あのドイル? 探偵小説がちょっとばかし売れたからと言っていい気になってたら怪我するわよ。いや、怪我するくらいじゃあ済まないかも」
 一寸先も見えない豪雨の中、ドイルは時折稲妻に反射してキラキラと光る刃物を持った相手との間を詰めた。その間にデイジーは何度も何度も呼笛を吹いた。それに呼応して、近くから、遠くから同じ笛が鳴り響いた。
「…ヨーロッパのどこかにある隠れ里に、ちっちゃな王子様やお姫様の影武者になることを定められて、訓練を受けた子供たちがいるって話を聞いたことがあるけれど、あの子はそれだったのね?」
「答える必要はなかろう」
 ドイルは懐から拳銃を取りだし、マントの胸元で雨から守るようにして黒い影に銃口を向けた。
「…世間では、王室の誰かが娼婦との醜聞を恐れて、変質者を装って殺人を重ねた、という者もいたが、ぼくそれは違うと思った。もしそうなのだったら、毒殺したり、事故に見せかけて消すほうがよほど理にかなっているからだ」
「何とでも好きなように推理しなさいよ」
 ジャックは銃口にひるむことなく、じりじりとドイルに迫った。
「警部さんしっかり!」
 ブライディーが激しく揺り動かすと、警部はうっすらと薄く目を開いた。そして彼女を乱暴に払いのけると、素早く立ち上がった。
「ドイル、撃つな! どうしても撃つのなら足を撃て!」
「そんな悠長なこと言ってていいのかしら」
 ジャックは左手にもメスを構えた。
「俺が催眠術をかける。ジャック、おまえはぬかるみに足をとられて、もう動けない」
 すると、目の錯覚か、看護婦の足下の石畳から泥が湧き出てきて、足首にまとわりついたように見えた。
「あらあら、ちゃちな催眠術。天下の切り裂きジャックもなめられたものね」
 ジャックは両足の靴をすっぽりと脱ぎ捨てて、ドイルと警部たちの前に躍り出た。
「冥土の土産に、わたしが本当の幻術というものを見せて上げる。…地下に眠る亡者たちよ。この者たちを捕まえて!」
 石畳が割れ、そこから幾本もの長い爪を持った干からびた腕が現れて、ドイルや警部やデイジーたちの足首やスネを捕まえて地の底に引きずり込もうとした。だが、ブライディーの足下からは、それは出現しなかった。
「ドイル様! デイジー! 警部!」
「ブライディー、撃て!」
 すでに胸のあたりまで地面に引きずり込まれたドイルが、最後の力を振り絞って拳銃を投げて渡した。彼女は撃鉄を起こして中腰に腰をためるや否や引金を引いた。バーンと銃声が轟き、ジャックは左肩を押さえてよろけた。
「なぜ? なぜあの子にだけ効かなかったの?」
「そこだ、逃がすな!」
「取り囲め!」
 呼び笛で集まってきていた警官たちがさらに輪を縮めた。
「まあいいわ。今夜はもうじゅうぶん楽しんだし、とりあえずはこれくらいで勘弁しといてあげる」
 ジャックは唇をちょっと歪めて、雨だれの中、かき消すように消えた。
 後には石畳の上に倒れ横たわったドイルとデイジーと警部が残された。
「ドイル様、デイジー、大丈夫ですか?」
 ブライディーは両耳から蝋でできた耳栓を取りだして尋ねた。
「ブライディー、耳栓をしていたのか」
「はい。セアラ姉様に、警部が白詰草亭で複数の人を一度に金縛りにしたことをお話ししたら『それはたぶん、長く馬車に揺られている時に、気分は悪くないかと訊かれたとたんに本当に気分が悪くなるような、聴覚を利用した術でしょう』と申されて…」
「なるほど。ジャックがいま使ったのも同じ種類の術だったんだな。とにかく有難う。きみは命の恩人だよ」
「妾も恩に着るぞ」
 デイジーの変装を解いたアンジェが言った。
 ドイルとアンジェはそれぞれコートを羽織直し、マントをまき直した。ブライディーは銃身のほうを握ってドイルに拳銃を返した。雨はいつのまにか小止みになっていた。
「逃がすな! 逃がしたらおまえたち全員左遷してやる!」
 足でもくじいたのか、警部はまだ腰をついたまま、介抱するために寄ってきた警官たちを怒鳴り散らしていた。

 ロンドンの街はからりと晴れ上がった。往来の水たまりだけが嵐の名残を留め、人々と馬車が行き交ういつもの風景が戻った。
「あら、アンジェさん、お疲れでも出たんですか? 急に食が細くなられて」
 ブライディーは食卓の篭にライ麦パンがたくさん残っているのに気がついて言った。
「妾は食したいのじゃが、次の依頼人の体型に合わせねばならぬ」
 ちっちゃな修道女はそそくさと立ち上がると、テーブルの下に隠してあった大きな旅行鞄をひきずって出て行こうとした。
「えっ、もうお発ちになるのですか。もう少しゆっくり滞在していってください。ジャックがここへやってこないかと思うと心配は消えません」
「それは確かに否定できんな。また別の新たな事件に巻き込まれんとも限らん。なにしろここは英国心霊研究協会の寄り合い場所じゃからな」 アンジェは旅行鞄にちょこんと腰を下ろして頬杖をついた。「デイジーには昨夜、あることを教えておいた。もしもジャックや他の凶漢が夜、押し込んできたら、教えた通りにして、そのあいだに逃げるか助けを呼ぶのじゃぞ」
「有難うアンジェ」
 デイジーはお弁当のサンドイッチの入った小さなバスケットを渡した。
「デイジー、かたじけない。たった数日間じゃったがメイドの生活も楽しかったぞ」
「あの、そのような危険なお仕事、辞める訳には行かないのでしょうか?」
 デイジーは、自分の身代わりになってくれた少女をじっと見つめた。
「辞めていたら、ここへ来ていない。おまえたちとも知り合えていない。では、重ねての依頼などないことを祈っておるぞ。さらばじゃ」
「あの、お見送りを… 馬車を呼びます」
 続いて玄関に出ようとするブライディーを押しとどめて、アンジェは玄関の扉を閉めた。
「見送り無用。達者でな」

 アンジェがいなくなって、屋敷の中は火が消えたようになった。
「ねぇ、デイジー、アンジェに何を教わったの?」
「それは、いくらブライディーお姉ちゃんやドイル様でも秘密」
「わたしはこれだけあなたのことを心配して上げているというのに。…いいわケチ、カードで占って言い当てて上げる」
 ブライディーはデイジーの額を小突いた。。
「今度のことだって、お姉ちゃんが放りっぱなしにしていたタロットを警部に見られたことから始まったんじゃない」
 デイジーは頬を膨らませた。

 しばらくしてドイルがヤードから戻ってきた。
「おやブライディー、アンジェはどうした?」
「次の仕事があるから急ぐ、と… ドイル様によろしくとおっしゃっていました」
「そうか。それは残念だな。…ところであの子への報酬はどうすればいいんだろう?」
「えっ?」
「まだ必要経費以外は何も払っていないぞ。額も聞いていない。後で請求書が来るのかな。きっとそうだろう」
 しかし、それはなぜかいつまでも来ることはなかった。ブライディーはシスター・セアラに丁寧に礼状を認め、その件を書き添えた。しかしその返事もこなかった。
 ブレード警部は地方の警察に転任になった。
 ホワイトチャペル地区など、かつてジャックが跳梁した裏町では、いまでもしばしば不審者を見かけたという情報が警察に寄せられ、その都度警官が出動しているという…


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