カナートの花嫁

                1

  その夜、サファヴィー朝の王(シャー)にして、都イスファファンの城主アッバース(回教初期の教主でアッバース朝の始祖とは無論別人。あやかった名前であろうが…)は、審判の日と思われる閃光と、轟音で目覚めた。
  同じ回教徒でありながら多数派=スンニ派のオスマン・トルコと戦をまじえた時も、英国人と組んでホルムズ島からポルトガル人を追い払った時も、こんな凄まじい砲声銃声は聞かなかった。
  夜着のまま、すぐさま愛用の偃月刀を帯びて廊下に出ると、不寝番の衛兵たちが五角形の窓の外、満天の星を従えた群青の夜空に浮かぶ一群の回教寺院を指さして言った。
「陛下、騒ぎは図書館のほうでございます」
  図書館とは、彼=アッバースがかつてのバビロンやアレクサンドリアや、バグダッドの図書館を真似て、一般の書籍はもちろん、古今東西の珍書奇書を集めさせた殿堂だった。
  模範になった図書館は、それぞれキュロスやオクタビアヌスやジンギス・カンによって焼き払われているので、規模の比較はできないものの、百万冊以上の蔵書を誇るシャー自慢のものだった。その中には宝石をちりばめた天文学的に高価な本や、中身が貴重なものも少なくない。
「すでに、図書館付きの衛兵が現場に向かっております」
  窓から身を乗り出して様子を伺っていたシャーは、図書館の光塔(ミナレット)の最上階からもくもくと黒煙が上がっているのに気がついて思わず目を見張った。
  最上階はいくつかの隠し部屋から成り立っていて、一般の学者には存在さえ知らされていない禁断の書物が多数所蔵されており、その管理責任者は他でもないシャー自身だった。
  とは言っても、数代前のシーア派最高僧(アヤトラ)によって、完璧かつ無敵の結界で封印されてからは、誰一人としてそこの書物を読んだものはない。
  階段を上がろうとしても、塔をよじ登ろうととしても、果ては空を飛んできても、結界に触れた途端、たちどころに蒸気となって消滅する。
  これまで数年に一度づつぐらい、結界破りを試みた異端の学者や魔導士がいるにはいたが、一人残らず骨の一かけら、血の一滴も残さぬいともあえない最期を遂げている。彼らはただ、タイルの畳や壁に引き吊った黯い影を留めただけだった。
「大丈夫ですよシャー・アッバース。誰が何度試みても、結果は同じに決まっておりまする」
  宿直(とのい)の衛兵隊長は自信たっぷりだ。
「しかし、あのような轟音、閃光ははじめてだ。余が直々に検分するぞ」
  図書館別館に近付くと、当直の衛兵たちがみな、強力な雷撃を受けて絶命していた。
  隊長をはじめ、アッバースも剣を抜き払った。鉄砲隊も到着した。
「陛下、危険でございます。鍵をお預け頂ければ、我々にて…」
「封印の間の鍵はサファヴィー家の当主−−即ち余にしか開けられぬことになっている」
  閲兵式の兵士さながら、ありとあらゆる本がぎっしりと詰まった本棚が、ずらりと並んでいる広間をさっと駆け抜けると、王は塔に通じている螺旋階段を三段飛びに登った。
  余りの速さと身軽さに、側近ですら誰も追いつける者はいない。
  まもなくてっぺんの封印の間、というところの踊り場で、王は親指ほどの金剛石を刻み磨いて造った鍵を取り出した。例え同じ大きさの原石が見つかったとして、細工には熟練の職人が三交替不眠不休で働いても百年はかかるという代物だった。
  王は即位前も即位後も、この鍵を使ったことがない。領地や城や家臣団と同じく、先王からの遺産として相続したものだった。その際、長老から若干の説明はあったが、当時はもっと覚えねばならない事柄が多々あり、正直言ってさほど真剣には聞いていなかった。(賊がまだ生きておれば、成敗するまで)
  最上階の踊り場に到着した王は、「アッ」と声を上げた。
  何と、ヒスイやめのうをちりばめた城砦の石垣ほどもある黄金の扉が、ドロドロに溶かされて壊されていた。表面に描かれていたはずの魔法陣もぐしゃぐしゃになっている。
  子供がやっと通れるぐらいの隙間が開けられて、時折り思い出したように激しく放電する稲妻越しに、部屋の中−−禁断の書物が並んだ封印の間が見えた。
  シャーは、(これだけ破壊されていたら、正しい継承者が正しい鍵を差し込んでも、果たしてちゃんと開くかどうか)と不安に駆られた。鍵穴もひどく歪んでおり、その近くに黒い邪気を帯びた電撃が走る。
  これだけでは賊が侵入に成功したものかどうか判らない。もしも扉を壊しただけで諦めて退散したのなら、無理に入る必要はなさそうだった。
  王が、重い武器や鎧をジャラジャラと響かせながら階段を登ってくる衛兵たちを待とうとして踵を返しかけたとき、書架の陰にかすかに動くものが見えた。
  華やかな衣装を身に纏った異国の子供だ。
  シャーは思わずダイヤモンドの鍵を鉤穴に突っ込んで回していた。ビリッビリッと小さくない衝撃を感じたものの、鍵を取り落としてしまうほどではない。鍵は壊された鍵穴の中で何度かひっかかりながらも、カチリと音を立てて外れた。
  据え付ける時は国じゅうから百人の強力(ごうりき)を集め、鋼で足場を組み、百本の鋼の鎖を結んだ百個の滑車で担ぎ上げた黄金の扉が、ギギギと嫌な音を立てて観音開きに開く。本来ならば、音もなく滑るように開くのだと聞かされていたけれど、これだけ損壊していては、それは無理というものだろう。
  自身が通れるぐらいになるのを待ちかねてシャーは中に飛んで入った。
  淀み饐えた空気は、かなりましになっていた。さもなくばまず黄金の窓(もちろん同じ結界が張られている。それも絶対に内側からしか開かない特殊なものが)を全て開いて、換気しなければいられなかっただろう。
  書庫用の香料も、シャーがこれまで一度も嗅いだことのない、甘く、ないしは鼻を刺す、強烈に目を覚まさせるものが使われている。
  子供は絹の道を遥か東に行ったところにあるキルギスタンか蒙古の人々が着る派手な模様の民族衣装を着ていた。
「おい、しっかりしろ!」
  王は子供を抱き起こした。その途端、子供はやや尖り気味の耳を震わせ、心もち吊り上がった大きな目を開いて、王の膝から飛びのいて、聳え立つ書庫の上に逃げた。
「おまえがここの封印を破ったのか?」
「だとしたら、何だ?」
  子供は鮮やかな声で答えた。
「ここに、王に無断で入ると罪に問われることは知っているか?」
「知っている」
  王は悲しくなった。それを認めるのなら、子供と言えども両手首斬手の刑に処さねばならない。−−いや、もしここが禁断の間であることも知っていたなら、首をはねた上、復活の日が来ても甦ることのないように、火葬の刑に処さねばならない。
「ここは王の書庫だ。王と王の許可した者しか入室閲覧できない。許可は王から出されるが、事実上、十人の回教シーア派最高僧(アヤトラ)の認証がいる。そしてただいま我が王国には最高僧が三名しかいない。つまり、どこの何者、いかなる大博士にも、名の通った学者にも、許可証は降りない」
「そんなごたくなど知ったことか!
  ここにある本のうち、我が祖先にして我が父、アブドゥル・アルハザードが著したものは、全てあたしのものだ」
(女か?)
  シャーは驚いた。
(賊が子供だったことだけでも度肝を抜かれたのに?)
  ちょうどそこへ、衛兵たちの先鋒がやってきた。
「陛下、お怪我は?」
「何ともない」
「お下がり下さい。賊は我らが速やかに成敗致します」
「よせ、サファヴィー家開闢以来、どこの誰もが破ったことのない扉をいとも易々と破ったのだぞ。とても剣や鉄砲で倒せるとは思えぬ」
  シャーの制止を振り切って、子供を見つけた数人の衛兵たちが、備え付けの書庫梯子を立てて登り始めた。
「陛下、敵はいたいけな姿形を装っておりますが、これこそ魔性の変装にございます。躊躇は彼(か)の思う壷にござります」
「そのようなことを申しておるのではない。おまえたちの手に負える敵ではない、と申しておるのだ」
  案の定、少女が瞬きした瞬間に、梯子は黒くぬめる双胴の蛇に変わり、衛兵たちを締めつけ、次々に臍のところで両断にした。
  鉄砲隊が構えて火縄に火を付けた鉄砲も一つ残らず毒蛇に変わって射手に咬みついた。「余はこの国−−即ちサファヴィー家の王、シャー・アッバースだ。その方、名乗る名があるなら名乗ってみよ」
  王は家臣たちの断末魔の悲鳴を聞いても、まなじりを微動だにせず訊ねた。
「あたしは…」
  少女は先が二叉に分かれた赤く細い舌で、同じく真っ赤な唇を舐め上げて言った。
「サナアの女魔導士、アルテア・アルハザード。父の著作『死霊秘法』の完全版を返してもらいに来た!」
「『死霊秘法』?  何だそれは?」
「おまえの知ったことではない」
  アルテアは掌の中で赤黒い光を作り、書庫めがけて投げ付けた。書物に当って八方に
散った光は、これまた細い蛇のように本の背をもぞもぞと這い回った。どうやら主に代わって目的の本を捜しているようだ。
  やがてすぐに、そのうちの数匹が、鍵のかかった  らでんの文机の抽斗の把手に集まったかと思うと、抽斗の内側から染み出した、さらに眩しい光に巻き込まれて蒸発した。
「どうやらあそこのようだな」
  アルテアは瞬間移動で文机の近くまで移動した。歩いたところで十歩もかからぬのに、だ。
「よせ、そこの鍵と封印はさらに厳重だ!」
  把手の向かった、爪をやや長目に伸ばした白く美しい腕に、さらなる強力な聖なる光が巻きつこうとしているのを見たシャーは、相手が賊であるのも忘れて叫んだ。
  回教シーア派最高僧(アヤトラ)が設けた結界は、唯一の慈愛溢れる正しき神を信じる者には無害だが、魔物はもちろん、悪しき心根の人間も見抜いて誅罰を与える。
  アルテアの美しい腕は、その光に包まれるにつれて、銀色に光る鱗で覆われている真の姿を現した。やがてそれの鱗がボロボロと剥がれ落ち、腕全体が腐敗して根本から落ちた。「なるほど。なるほど。アヤトラどももなかなかやるではないか」
  腕を失っても薄笑いを浮かべ続けている少女の魔導士が、無事なほうの手で失った腕をサッと撫でると、摩訶不思議、腕は元通りに甦った。
「腹をすかした下僕どもが、時々噛り喰ってしまうのでね」
  アルテアは腕を軽く動かしながら文机全体を観察し始めた。それは、背後の壁の煉瓦に複雑に組み込まれている。
「よせ、そんなに欲しいものならくれてやる!」
「おやめ下さい陛下!」
  シャーが女魔導士に金剛石の鍵を投げ与えようとした時、後方から重々しい声がした。
  こんな場合、シャーが誰よりも頼りにしている三名の最高僧たちが駆けつけてきたのだ。
  シャーに命令できる者と言えば、最高僧・アヤトラしかいない。
「−−その者に望むものをお与えになりますと、我が国だけでなく、世界中の国を破滅の淵に立たせることになりますぞ」
「鍵などいらぬ!」
  アルテアは文机に向かって、一言短い呪文を唱えた。
  途端に大きな見えない手が机の両端を抱え、壁の台座から引き抜こうと試みた。
「やめなさい。それを引き抜くと、この塔も図書館も崩れ去るようにできているのじゃ」
  顔じゅう白い鬚に覆われた別の最高僧が、穏やかに諌める。
「それがどうした?」
  女魔導士が細い眉を引き締めると、文机は音を立てずに壁から外れた。
  塔は不気味なきしみと響きを立てて、激しく揺れ、崩れ始めた。
  三人の最高僧は自らとともにシャー・アッバースを光の球に包んで、ゆっくりと地上に向かった。
  バラバラに落下する無数の煉瓦、ページをめくりながら降る何万冊もの本を横目で眺めながら、シャーと三人の僧侶は無事に地上に着地した。
  大勢の衛兵や家臣が駆け寄る。
  皆が、さながら大波に打たれた砂の城のようにひしゃげ、崩れ去る図書館を、唖然として見ていた。
「本当に、世界が破滅の淵に瀕してしまうのか?」
「大丈夫にございます、陛下。正しき者のみを護り賜う唯だ一つの正しき神が、かような事を易々と許し賜われるはずがありませぬ」
  一人のアヤトラが指さす砂漠の方向には、ごうごうと紅蓮の炎と煙を上げて燃え上がっていた。
「馬を引け!」
  即座にシャーの駿馬が引かれ、手に手に松灯を手にした一千騎の騎兵が蹄を並べた。

                2

  シャー・アッバースは夜の砂漠を矢となって駆けた。
  三角の旗挿しものをなびかせ、一団となって従っていた騎兵たちは、次第に遅れを取りはじめた。シャーの馬は国じゅうで最も早く、おまけにシャーは国一番の乗り手であったからだ。
  王は頬を打つ夜風に快さを感じていた。
  砂漠の国の王が早駆けや鷹狩りをするのは朝か夕方が多い。夜、星空の下、セピア色の砂を蹴って走るのは、戦の時以来、実に久しぶりだった。
  やがて、風の中に熱いものが混じり、火の粉が飛ぶのも見えた。
  砂丘を越えた窪地に、彼女は墜落していた。
  あの火柱の中でも文机のほうは傷一つつかずに、砂の中にめり込んでいるのに比べ、女魔導士は傷だらけになって座り込んでいた。
  本当はもっとひどいあり様だったのだろうが、自らの魔法で何とかここまで治したらしく、息も荒く、目はうつろだった。
「だから言わぬことではないではないか」
  近寄ろうとする王を制して、短剣を構えた。「それだけを言いにきたのか?」
「城に帰ろう。おまえはまだ子供じゃないか。手当をしてゆっくり休めばいい。異教徒ならば、無理に我等の神の礼拝を勧めたりもせぬ」
  差しのべられた王の手に向かって、短剣が一閃した。王の手のひらから鮮血がほとばしる…
「よけいなお世話だ。大魔導士アルテア・アルハザードがどうして光の神を崇める者共に救われねばならぬのだ?」
  その時、砂丘の一角が激しく盛り上がったかと思うと、海蛇に似た巨大な砂虫が数頭、牙を剥きながら迫ってきた。
  アルテアは掌で光球を作ろうとしたが、火付きの悪い蝋燭の如く、すぐに消えてしまう。
  シャーは彼女の華奢な身体を抱き抱え、素早く文机の上に乗って命令した。
「元の場所へ!」
  文机が空中に跳び上がるのと、巨大な砂虫たちが一斉に襲い掛かるのはほぼ同時だった。
  砂虫たちは文机のあったところに、首を突っ込んだ。
  文机はシンドバッドが乗った魔鳥よりも早く夜空を飛び、やがて王を追いかけてきた一千騎の騎兵たちのところまで舞い戻った。
「陛下、お怪我は?」
「大事ない。それよりも…」
  シャーは彼らを追って人の世界までやってきた砂虫を指して言った。
「あれを何とかせい。都はもちろん、人の世界に入れてはならぬ」
「はて、人外魔境の者共がこんなところまで追ってくるとは」
  騎兵の隊長はいぶかしみながらも、鉄砲隊に迎撃を命じた。
  火縄が火を吹き、何発かは砂虫の眼球に命中した。
  それでやっと、彼らははたと自分たちが光の神の領分を侵しかけていることに気が付いて、すごすごと戻っていった。
「この文机か、それとも陛下の捕らえられた女狐のせいか、ともかく、我々軍としては、剣や銃をもってしても手に余る難儀はご勘弁賜りたく…」
「まあそう言うな。机とその中身は王家に代々伝わりしものであるし、この子はまだ年端も行かぬ子供ではないか」
「魔導士にとって、実際の年齢を偽ったり、姿形を変えるぐらい朝飯前、というふうに聞いております。この小娘も、実際は一千歳を越える老婆かも、またこの世のものならぬ異形の化け物かも知れませぬ」
「疑いをかければきりも果てしもない。余は先に宮殿に戻って最高僧たちの意見を聞くゆえ、おまえたちは要所の警備を固めるように」「そ、そうでございますか…」
  不安げな騎兵を砂漠に残し、再び文机に乗った王は、図書館だった瓦礫の山が見えると高度を下げ、開いていた窓から正殿玉座の間に乗り付けた。
  すでに三人の最高僧は、その席に着き待っていた。
  なぜか、部屋の外、百官たちとの詮議の間ががやがやと騒がしい。
「何をもめておるのだ?」
「恐れ多くも陛下が魔導士の命を救い、事もあろうにこのイスファファンの宮殿に連れ帰ったことを、不安に思っておるのです」
「済みませんが、お一人行って、大臣たちを宥めて頂けませぬか?」
  シャーの命を受けて、最高僧の一人が肩をすくめながら詮議の間に下った。
「ご無理を申しますが、この者はまだまだ重傷に存じます。さらにお一人、この者を異教徒の賓客として、典医を呼び、安心して休める処で治療して頂けませぬか?」
  屈強の従僧に少女を抱かせたもう一人の僧が、違う扉から下がった。
「さてと」
  最後の僧と二人きりになったシャーは、懐から金剛石の鍵を取り出し、文机の抽斗の鍵穴に差し込んだ。
  鍵がするりと回り、カチッと音がして抽斗はなめらかに開いた。
  中は、魔力を持つ模様のアラベスクのタイル張りで、とても長年誰も開いたことがないとは思えないほど清潔な艶を帯びて輝いていた。どうやら、魔法の自浄作用があるらしい…
  抽斗の真ん中には、美しい写本が一冊あるだけで、他には何もなかった。
「これがあの娘が言っていた魔導書か…」
  シャーは部下から報告書を受け取るように何気無くその写本を手に取った。
  表紙には、古いアラビア語で『死霊秘法・アブドゥル・アルハザード著』とある。
  写した筆耕(おそらくは名もない奴隷)が記している写し取った年代は、回教暦元年から百年もたっていない。西暦に直すと七○○年代の後半になっている。場所はダマスカスとなっている。
  七、八○○年前の書物にしては、羊皮紙はまるで黄ばんでおらず、インクの跡も黒ぐろと鮮やかである。黴の臭いも虫喰いもなく、代わりに乳香と没薬の香りがして、たったいま写されたかのような印象だった。
(これも魔法の文机の成せる技か…)
  ページをぱらぱらとめくって見ると、本文と無数の脚注、魔法陣や星晨の並び、それに地図を中心とする図版がびっしりと書かれている。風景を思わせる絵は、どれもこれも王が見たことのないものばかりだった。
  呪文らしき意味のない文言も多々ある。
「これは何の本か?」
  王は、最後に残った鬚の最高僧に訊ねた。「あの小娘が言っていた通り、サナアの狂える魔導士アブドゥル・アルハザードの著した『死霊秘法』の、原著の忠実な写本に相違ありますまい」
  アヤトラは無意識に顎鬚の先をせわしなく触りながら答えた。
「『原著の忠実な著作』と言うことは、翻訳やいい加減な写しもあるのか?」
「御意にございます。
  原著は西暦にして七三○年代、ダマスカスで書かれたものですが、九五○年代にテオドール・ピレタスがギリシア語に翻訳、さらに一二二八年にはオラウス・ウォルテミスがラテン語に翻訳した、と伝えられております。
  二○○年ほど前にはゲルマンの髭文字の訳も出回り、つい最近、イタリアでもギリシア語版からの重訳版が出されたとか…」
「そんなにあちこちで流布されているものなら、買ったほうが早いのに」
  シャーは写本を元の抽斗に投げ入れながら笑った。
「とんでもない!
  翻訳版はほとんど九割五分までが、肝心要の重要箇所が削られた削除版なのです。この削除版には、太古に海中に没した幻の大陸の文明や帝国のことなど、他の文書や石板ででも知ることのできる記事や、それよりさらに大昔、星星の彼方より飛来した、不埒にも神を名乗る怪物どもの記述が、ほのめかし程度に書かれているだけです」
「で、削除された箇所には何が書かれておるのだ?」
「その、不遜にも一時神を名乗った化け物どもは、いまも星の彼方、深き海底、氷の世界、時のはざまなどに封じられているのですが、彼らを解き放ち、暴れさせる方法と呪文が記されているとか…」
「何と!  そんな恐ろしい書物が人の手で著述されるとは!」
  王は慌てて抽斗を閉め、鍵をかけた。
「ご安堵下され。著者のアルハザードは都ダマスカスの往来で、白昼、自らが召喚した邪悪なるものに、手足を引きちぎられ、貪り喰われて果てましてございます」
「安心はできん。現にそのアルハザードめの子孫を名乗る者がこうして現れ、当家に遺れる、おそらくは完全な写しを虎視耽々と狙っておるではないか」
  勇猛果敢を持って鳴るシャーが珍しく取り乱しかけているのに気付いた最高僧は、ゆっくりと、しかし複雑な言葉の組み合わせの呪文を唱えた。
  すると、文机はまるで生き物のように、玉座の脇の壁にひっついて、固定された。
「シャーと対等にして宗教の立場の最高責任者のアヤトラとして、陛下にご進言申し上げます。政治(まつりごと)の最高責任者として、あの小娘が、この宮殿を根こそぎ破壊できるまでに回復する以前に、何とかされますように…」
「そんな…  いかに伝説が凄い内容を伝えていようと、中身を読んだこともない本を理由にどうこうすることなどできぬ」
「『死霊秘法』は読みたいと望んだだけで罰を受けるに十分な書物にございます」
  アヤトラも頑として譲らない。
「では余が読んでみる!  本当にそんな内容を備えておれば、考慮しよう」
「おやめ下さい!  いかに陛下が優秀で信仰心が厚くとも、心の平衡を失う可能性が大にてございます」
「ではどうしろと言うのだ!」
「さよう…  盗賊として処刑するのがどうしても気が進まないとおっしゃるならば、最近我が国の辺境で多発しているいくつかの怪し事件の解決をお命じになっては如何でしょう。
  解決の暁には『死霊秘法』を貸与する、というお約束で」
「それで、もしもアルテアが見事に役目を果たしたら、貸してやるのか?」
  シャーの声は渇きかすれていた。
  回教では特に約束が重んじられる。たとえ相手が異教徒であっても、人間以外のものであっても、いったん堅く交わした約束を破ると、天国の門は閉じられてしまう。まして、シャー・アッバースは一国の王である。それに加えて相手から何と謗られるか、恨みを買うか、わかったものではない。
「『三日以上先のことは心配するな』と、
慈愛溢れるただ一つの神はおっしゃっておられます」
  アヤトラは落ち着いている。
(それもそうだ。そんな先のことをあれこれ思っても仕方のないことだ)
  シャーは決心した。この方法以外に、少女の罪を猶予する案はなかった。

                3

  シャーは厨房長に命じてアラビア半島先端のサナアの料理を作らせた。さすがに海の魚だけは(塩漬けを除いて)手に入らず、川の魚で代用した。棗ヤシや杏などの果物も、アラビア風に盛りつけ、それに苗木をわざさわ中国から取り寄せ、砂漠に合うように改良を加え育てた、特産品の水蜜桃をさりげなく添えた。
  台車に乗せた御馳走を宦官や女官たちに押させて、部屋に入ると、アルテアはよほど傷ついていたのか、ぐっすりと眠っていた。
  それでも、大勢の気配で目を覚ましたのか、歯を喰いしばりながら起き上がろうとした。「まだ痛むか?」
  魔導士は視線の定まらない目で王を見た。「できれば、何か食べたほうがいい」
  アルテアは顔をそらしたが、そこにも王が運ばせた、玉園の花束を生けた水晶の花瓶が置いてあった。
  シャーは従者を下がらせ、自ら桃の一切れを取って口に運んだ。
「この通り、毒は入っておらぬ」
「なぜ、こんなに親切にする?」
  目を伏せると、少女は同世代の女の子たちと同じくらい可憐だった。
「余も余自身が望んで王になったのではない。そなたを見ていると、そなたもまた自ら望んで現在の境遇を選んだのでないことがよくわかる。できれば罰するのではなく、理解しあって、互いに正しい道を示しあいたい」
「シャーは、王でなければ、何になりたかったのか?」
「千一夜物語のシンドバッドのような、七つの海を又にかける船乗りか−−」
  王は力こぶしを作って見せ、次に片目をつむって付け加えた。
「−−ランプの魔神を操る魔法使いだ」
「本当か?」
  アルテアの唇から白い歯がこぼれた。
「そなたも魔導士ならば、余の心を読んで確かめたらどうだ?」
「その必要はないだろう」
  彼女は椰子の実の果汁の入った切子細工のコップにぎこちなく手を伸ばして、一口飲んだ。
  一回遠慮が外れると、後は堰を切ったように料理を食べ始めた。
「そなた、許婚者はいるのか?」
  シャーの突然の問い棗ヤシの実を頬ばっていたアルテアは、思わず頬を赤らめた。
「なぜそんなことを訊く?」
「実は我が国の辺境で、近頃カナートの花嫁たちが次々と姿を消す、という事件が相次いで起きてな。
  知っての通り、カナートとはペルシアに古代から伝わる地下に張り巡らされた人工の用水路だ。比較的水の豊富な山岳地帯や緑地帯の水源から、土地の高低差を利用して砂漠周辺の村に潅漑を行っている。
 メディアのダリウス大王の頃に整備された、という学者もおれば、それ以前からあったという学者もおる。
  普段は滅多に不足することのないカナートの水も、さすがに日照りが長く続くと枯れることがある。
  そんな時、地元の村人は若い女性を一人選びだし、カナートと結婚させる。そうすればカナートがなだめられて、水が戻ってくる、と信じられているのだ。
「花嫁」とは言っても、実際は若くして夫をなくした貧しい未亡人などに白羽の矢が立つらしい。
  つまりは相身互い、ということで、我々の神も多目に見ている。カナートの花嫁の諸費は、その村の公費から支出しているからだ。
  カナートの妻は毎日定められた場所で儀式を行う。祭りの時は盛装し、水が乏しくなれば祈る…
  彼女たちが次々と失踪し、行方がつかめない。新たに選び直した新しい花嫁もまた、行方不明になってしまう…
  村村では『魔物の仕業』との噂が立ち、もはや新たななり手はない。それどころか、日が暮れてからは、日中でも一人では、慣れ親しんだ水汲み場にも近寄れぬ始末。
  女どもは懼れ慄き、男は仕事が手につかない。−−十年に一度、小さな窃盗事件が起きるか起きないかといったちいさな村に、頼れる軍の駐屯地もない。中央の者を出向させようにも事件は十数の互いに相当離れた村で起こっていて関連づけるのに大変だ。
  そなたのように瞬間移動ができる者ならば−−いや、魔法が使える者ならば、解決も早いに違いない」
  アルテアはバリバリと羊の骨を囓じっていた口をポカンと開けて、シャーの顔を振り仰いだ。
「−−どうだろう、この原因を突き止め解決してくれれば、今回のことは不問に付し、褒美という形で、望みのものを取らせるが」
「『死霊秘法』をくれるのか?」
「十分考える」
「本当にくれる、のだな?」
  アルテアの瞳が光った。
「将軍や大臣に与える国宝級の報奨についてはアヤトラの認証もいるのだが、いま国じゅうで密かに囁かれているこの不気味な出来事を解き明かせば、拒否できる訳がないであろう」
  シーツがサッと翻ったかと思うと、彼女は一瞬にして黒い寛衣に着替えていた。
「要はあたしがそのカナートの花嫁になってその辺りをうろついていればいいだけだ。
  簡単すぎて莫迦莫迦しいくらいだ」
「そうか。相手は邪悪で、大きくて醜い化け物たちかも知れぬぞ」
  シャーはその黒く澄んだ瞳で、アルテアの灰色の眼を見た。
「相手が何であれ、遅れを取るような者には『死霊秘法』を持つ資格はないと思うわ」
「しかしそなたの父上、アブドゥル・アルハザードは自らが召喚した邪神に八つ裂きにされて果てたとか」
  言ってしまった後で、シャーは「しまった」と思った。
  しかし少女の魔導士は一向に動じた気配がない。
「父上は『死霊秘法』を著したという以外特筆すべきもののない、二流の魔導士。
  あたしは恥じ続けています。アルハザード家の汚名を注ぐには、父を遥かに越える魔導士になる、これしかありませんこと?」
  黒い霧が彼女を包んだかと思うと、鮮やかに消えた。
  消えつつ、天井の裏側の空間から声がした。「お約束をお忘れなく、シャー・アッバース。くれぐれも」

                4

  サファヴィー朝ペルシア帝国、辺境の一寒村のたった一つの水汲み場で、一人の少女が泣いていた。
  よく見るとヴェールからのぞいているのは金色の髪だ。
  その娘−−ベリンダは、もうもうと砂煙が立っている細い街道の果てから、異国−−クルディスタンあたりのものなのだろうが、正しい教えの女の服ではない、派手な装に身を包んでいる娘が村にやってくるのを見た。
  自らも異国の血を引くベリンダは、
(ひょっとしたら)と胸を高鳴らせた。
(−−父の使いが迎えにきてくれたのかしら)
  枯れて渇いて一滴の水もない水場に立った異邦人の娘は、片膝を着き、涙に濡れた彼女の目を見詰めて言った。
  アレキサンダー大王の遠征以来、この国でも金髪や青い目というのは別段珍しくはない。
  それでも深い紫色というのは、遠い欧州でもなかなか見られないとされる瞳の色だった。「何を泣いているんだ?」
  紫色の瞳の娘は、乾いた声で尋ねた。
「水が枯れてしまったのです。旅の御方に差し上げたくても、一滴もありません」
「それだけか?」
「私はカナートの妻なので、責任を感じております」
「化け物は恐くないか?」
「化け物も恐いですが、村の人たちの白い目のほうが辛く思います」
  ベリンダは涙を拭って言った。
「泣くな!  たったいまからあたしがおまえの代わりにカナートの花嫁になってやる」
  アルテアが指をパチリと鳴らすと、その服装はベリンダと同じ、黒い地味なチャドルになった。
「あなたは…」
「心配するな!  あたしは都の国王陛下から命を受けた魔導士だ」
「魔導士!  そんな人がまだいたのですか?」
  ベリンダは目を輝かせて彼女を仰いだ。
「何か見たい魔法でもあるのか?」
「見せて下さい」
  アルテアは少女が、「指先から何もかも焼き尽くす業火を出す」とか、「全てを破壊する雷撃を呼ぶ」とか「灼熱の砂漠に吹雪を呼ぶ」「強力な邪神を召喚する」といった派手な魔法を見せてくれ、と言うを思った。だが、ベリンダの口から出た希望は意外なものだった。
「この村のカナートに一時でもいいから清らかな水の流れを戻して下さい」
  それは、簡単そうに見えて難しい魔法だった。数人分の飲み水なら、大気の精霊の力を借りて、簡単に作ることができるけれども、川を造るのは強力な魔法と、十分な魔力が必要だった。
  もっともいまさら断る訳にも行かず、アルテアは病み上がりの痛む身体を押して、呪文を唱えた。
(父アブドゥル・アルハザードは大陸を沈めてはまた浮かべ、海を溢れ返らせ大河の流れを変え、大氷山を艀(はしけ)のように自由自在に動かしたとか…
  カナートの水ぐらい、何だ!)
  疲労のせいか意識が遠のき、よろっとよろめいた時、さらさらという快い水音とともに澄んだ水が水路に戻ってきた。
「大丈夫ですか?  長旅の末にやっと到着されたばかりなのに、無理を言ってすみませんでした」
  ベリンダに抱き抱えられていた自分に気が付くいたアルテアは、ハッと瞬間移動で離れた。
  カナートを流れる水の音を聞いて、村の女たちが老いも若きも、頭の上に甕を乗せ、両手には桶を持って走ってきた。
「クッ、なんと現金な連中だ!」
(こんな卑賎な村人たちのために、調査に当らねばならないのは何と莫迦らしい)と思ったが、シャーとの約束だからやむを得ない。
  アルテアは彼女が呼び出した水を汲んで家家に帰って行く村の女たちを蔑みの表情で見送った。
「おい、おまえたち、カナートの妻−−ベリンダに礼は言わないのか?」
  よそものの女の一喝に、ちょっとは立ち止まり振り返った村の女たちだったが、すぐにそのまま行ってしまった。
「みんな、忙しいのです。貴女が魔法で出した水も、またすぐ枯れてしまうかも知れないので、家の甕に移したら、また来るつもりなのです」
  ベリンダの言う通り、女たちはまた戻ってきた。
「これじゃあきりがない!」
  アルテアがたまらなくなって術を解くと、水はたちまち干上がって日干し煉瓦の水場に幾筋ものひびが走った。
「原因を突き止めて水を戻すほうが早い…
−−おまえたち、アルテア・アルハザードが化け物退治をしてやるから、待っていろ!」
  彼女はベリンダとともに陽炎の中に消えた。

                5

  一口にカナートと言ってもいろんな規模と種類がある。
  大きいものは、文字通り水源地から、何人もの人間が通れるほどの大規模な暗渠を掘って引いたものから、近隣の村村の命の水として、ほんの小さな泉から網の目ように引かれた。畑の用水路より細いものもある。
  中でも最も長いものは、現代の距離にして全長七○キロ・メートル以上にも及ぶものもあるらしい…

「このあたりの水は、どこから引いているのか?」
  水場のすぐ近く、地下を走っている水路が地上に出るあたりに建てられた「カナートの花嫁」の小さな家の窓から、アルテアは遠く砂嵐にかすむ山々を眺めて訊ねた。
「遠くに見える山だと聞いております」
  砂で清めの儀式を済ませ、ただ一つの神への礼拝を終えたばかりのベリンダは、小さなコップに水を汲んでアルテアに差し出した。「地下水路へは入れるのか?」
「入れるところもあれば、細くなっているところもあるそうです」
「よし。あたしは今夜、化け物−−もし化け物がいたとしての話だが−−退治に出かけるから。おまえはいつもと同じじようにして、村人に怪しまれなくしろ」
  アルテアはコップをチラリと見た。
  古い汲み置きの水かして、かすかに濁り、ボウフラが浮いている。
「それから、これ以上あたしに気を使うな。あたしは魔導士だ。自分に必要なものくらい、望みの限りいくらでも、立ちどころに出せるのだ!」
  睨みつけられ、指さされたコップは、あっという間に、ピラミッド状に積み上げられ、それぞれに清浄な水が波波と満たされたシャンペン・グラスに変わった。
「そうは参りません!」  ベリンダは精一杯大きな声で言った。「私はカナートの妻です。妻は夫に、客人を取り次ぐ役目があると思います」
  その響きで何故か術が解け、シャンペン・グラスの山は、元の一個のみすぼらしいコップに戻った。しかも、中にあったはずの水はこぼれてしまったのか、なくなっている。
「やれやれ、おまえは自分の夫の姿形を見たことがあるのか?」
「ないですけど、もしも会えるものならば、この機会に是非−−」
「身の毛もよだつ醜い化け物かも知れんぞ」「本当のカナートの精霊は、田畑を潤し、人々の喉の渇きを癒してくれる良きものです。それがそんなふうだとは信じません」
「勝手にしろ!  どんな目にあっても絶対に助けないからな!」

                5

  陽が西の砂漠に傾き、晩祷の声も聞こえなくなると、村外れのカナートの水路の入口に、松明を持ったベリンダと、掌の先に魔法の青白く美しい炎を灯したアルテアの姿があった。
  その日はたまたまアルテアの魔力で、ほんの一時とは言え、いささか派手に水路に水が戻ったので、闇が帷を降ろすまで、自分の身体よりも大きな甕や桶を持って何度も訪ね返す女たちが後を断たなかった。
  不思議なことに、その誰もがベリンダと親しく話そうとはせず、幼い娘に至っては、逃げ出すように帰って行く始末だった。
「あんな村人たちのために、どうして文句も言わずにカナートの花嫁をやっているのだ?」「訳があるのです。いずれ時がくればお話しします」
  伏せられた目に、こみ上げるものが見える。(そんなもの待てるか。心を覗いてやる)
  アルテアは瞳を輝かせ、舌で唇を舐めて相手の心を読もうとした。ところが、その時に限って、まるで何も読めなかった。
  彼女はこれまで、暇潰しに全くの興味本意で、各国の権力者や、孤独に暮らしている化け物たちの心を読んで楽しんできたが、まるで何一つ読むことができなかったのはこれが初めてだった。
(疲れているのか?  …いや、そうじゃない。調子は上々だ。…どうもあの文机に触ってから、厄介な呪いに呪われたかな?)

  その村のカナートの入口は、人一人がやっと通れるぐらいの階段になっていた。
  十六段ほど降りたところで通路は水平に変わった。
  ここからさらに水汲み場まで緩く細めの登りの水路が造られていて、上流から十分な流れがある時は、つるべを降ろさなくても水を利用できるようになっている。
  水路は言うまでもなく完全に枯れ果てて、通路の先からは生暖かい風が吹いていた。
「上流のどこかで何ものかが水を堰止めて、悪さをしているだけじゃないか?」
  アルテアは満水時に通行するための側道ではなく、本来ならば水で満たされているはずの暗渠をどんどんと進んだ。
「それにしては、カナートの妻たちが次々に姿を消したのはどうしたことでしょう?」
  ベリンダは側道のほうを身を屈めながらついてくる。
「あたしには、みんな攫われたのに、あんただけが無事なのが解せない」
  アルテアが意地悪くなじると、白い肌の少女はまた悲しそうにうつむいた。
  もう一度、その心を読もうと試みたが、どうにもうまく行かない。何か白い靄が阻むのだ。
(まぁいい。いずれ化けの皮をひん剥いてやる!)
  しばらく進むと、最初の分かれ道に差しかかった。
  主な水路のほうはそのまま真っ直ぐに続いているが、支道のほうは長く使うものがなく、従って手入れもされていなくて、壁が崩れ、天井もところどころ落ちている。
「こっちはどこへ通じているんだ?」
「ずっと昔、戦争か飢饉か疫病で滅んだ、と言われている村へ、です。地上は建物も畑も影も形もありませんが、カナートだけはこうして残っているんです」
「面白いじゃないか。案外そういうところが化け物どもの巣窟になっているのかも知れない」
  アルテアは本道を外れて、そちらのほうにどんどんと進んだ。
  支道の入口には、水が戻ったとしても流れて行かないように、大きな石組と漆喰を組み合わせ堰で堰止められていた。が、それも大人の頭ぐらいの高さしかなく、上半分は透通しになっていて、奥へ通じる道の天井には、コウモリの大群がぶら下がっていた。
  アルテアは短い呪文を唱えた。すると彼女の身体は半透明になり、楽々と向う側へ通り抜けることができた。ベリンダは苦労して堰をよじ登り、反対側へ転がり落ちた。
  その道は、今回の干魃よりもずっと以前から水が通っていない様子で、苔らしきものに触れると埃となって舞い上がり、蠍蝎や砂漠の蜥蜴など、隙間から落ちてきたのか地上の生物がいた。それらは何代にも渡って地表に戻りたくても戻れなかったのか、皮膚は本来の色素を失って白子化しており、目も見えなくなっていて代わりに、本来はないはずの触角や肉髯が発達していた。
「コウモリは大丈夫でしょうか?」
  本物の松明を持っているベリンダは声を潜め尋ねた。
「大丈夫。いま話をした」
「話?  貴女はコウモリと話ができるのですか?」
「できるわ。コウモリとも蠍蝎とも」
「かれらは何と言ってました?」
「このさらに奥へは、そういったものたちも進んだことがない、と言っていた」
「なぜ行かないんですか?」
「ああいう下等な連中は、自分より強い敵や危険を未然に予知する能力を授かっているんだ」
  アルテアはどんどん先へと進む。道は水がまだ流れていた頃に山から運ばれてきて溜ったと思われる川砂になった。
  生物が死んでも、それを掃除する別の生き物がいるらしく、いたって清潔できれいなままだった。
「ここの砂、きれいな金色の砂が含まれていますわ」
  ベリンダは膝まづいて砂をすくった。
「それは砂金だ。大昔はこの辺り一帯で金が採れたんだ。それが元で愚かな人間どもは争いを繰り返し、幾多の文明が滅びていった。
  金は数多の勝者、征服者が運び去り、ろくに残ってはいない。ちゃちな欲望にまみれて狂った人間たちですら二の足を踏む禁断の地以外には」
  さらにしばらく進むと、落盤が起きていて行き止まりになっていた。この落盤も遠い太古の時代のものかして、落ちてきた岩自体が触ると石墨のように粉となって飛び散る代物だった。
「戻りましょう、アルテアさん。これを潜り抜けて何かがやってきたとはとても思えませんわ」
「相手もあたしのように楽々と瞬間移動をこなす奴だったらどうするの?」
  ベリンダの手を振り払ったアルテアは、落盤の向う側に人間一人が実体化できる隙間がないか調べ始めた。
「無理ですわ。仮に向う側へ行けたとしても、天井も壁もこれだけもろくなっていたら、実体化した衝撃でもちませんわ」
「普通の魔導士ならそうでしょう」
  アルテアは言い終わるより早く、空間をねじ曲げて消え去った。
「向う側」に着いて驚いた。
  そこには、地底の街があった。人間の造ったものではない街が…
  絵物語で見たバベルの塔に似た、先細りの積層の建物がいくつも聳え建ち、かつては人工の太陽だったと思われる黒い球体が天井と建物の間を漂っていた。
「やはり…  一番最初のカナートは人間が造ったものではなかったのか…」
  そう思った時、予期していたことが起きた。
  何万年−−いや、ひょっとすると何億年ぶりの思念の振動の衝撃で、天井も壁も、細かいヒビが走ったかと思うと、アッという間に崩れ落ちてきたのだ。
  アルテアは慌てることなく、再び元の場所へ瞬間移動を試みた。
  ところが何ということだろう。術はまるで効かなかった。
「しまった!  結界が生きているのか!」
  舌打ちした時はもう遅かった−−




      カナートの花嫁(承前)

                1

  何時間ぐらいたっただろうか、息苦しさを覚えて目覚めると、アルテアは幸運にも落石の直撃を免れて、岩と岩との間にできた空間に挟まれていることに気がついた。
  どうやら瞬間移動を始めとする魔法は一切使えない様子だ。それどころか、魔法を察知すると、岩が崩れるとか、他の罠が襲いかかる仕組みになっているらしい。
(どうやら、これまでか…)
  アルテアは涙を流した。悔しさのためか、身体のあっちこっちに感じる激痛のせいか、彼女自身にもわからなかった。
(普通の罠なら、簡単に逃れて、治癒の呪文で治せるのに…
  全てはあの文机の中の禁書、『死霊秘法』を読もうとしたせいなのか?
  ひょっとすると、シャーと最高僧のやつら、ここがこういう結界で阻まれていることを
知っていて、わざとあたしを始末しようとして命じたのかも…
  あれを読むことなくくたばるというのは、返す返すも残念だ。こんなことならシャーの言い出した条件など飲まずに、何が何でも奪ってやればよかった…
  ここを脱出することができたら、シャーもアヤトラたちもただでは済まさぬ。イスファファンは火の海に沈めてやる…)
  いろいろ思っても、もうどうすることもできなかった。今度何か「水が欲しい」とか、「新鮮な空気を吸いたい」とかささやかな呪文を唱えた途端に、先ほどを上回る崩壊が起きて、身体は完全に押し潰されるだろう…
(世界中の邪悪なるものよ。もしもあたしを助けてくれたなら、完全なる下僕になることを誓う!)
  普通の人間たちと同じように心の中で誓うだけでは、やはり駄目だった。強烈な思念として放射しなければ、すぐ隣にいる魔物にも届かず、いや、それどころか、ただの人間に間違えられて貪り喰われてしまうだろう。
  かといって、ここで精神感応を使えば、−−それは強力な魔法であるから−−結果は同じだ。
  アルテアは一番最後に、今回の探索行の仲間・ベリンダのことをふと思い出した。
(あんな女、助けにきてくれる訳がない。もしそう思っても手段方法がない)
  目を閉じた彼女は、最後の手段−−自らを仮死状態にして一千年でも、一万年でも眠りに就く呪文を試そうとした。
(しかしこれもいまいましい結界に阻まれて成功しないかも知れない−−たぶん無理だろう。岩が落ちてきて、終わりだ)
  唇を引き吊らせて呪文を始めた時、遠くのほうから声がした。
  声−−そう、確かに精神感応ではなく、人の肉声だった。
「アルテア、待っていてね。魔法は絶対に使ってはだめよ!」
「ベリンダ…」
  アルテアは返事をしようとしたが、精神感応に慣れていて大きな声が出なかった。
  岩を掘り、取り除いて進んでくるかすかな物音がした。その音は次第に大きくなる。
  霞んだ目に光が見えた。
  ベリンダが持っていた松明の炎の揺れが見えた。彼女は巨大な岩を、まるで張りぼてのそれのように軽々と持って、一つ一つ丁寧にどかして進んできた。
「ベリンダ、あなた…」
  アルテアの疑問はすぐに解けた。彼女の手の肉と思われていたものが全て剥がれ落ちて、鋼の指、手頚が露出していたからだ。
「大丈夫?」
  彼女はアルテアを抱きかかえて、安全なところ−−魔法が効くところ−−まで走って逃げた。
  本道に戻ってからすぐに、また大きな落盤が起きて、太古の幻の都市は、さらに地中の奥深く埋没した。
  アルテアは痛みに耐えながらも、怪我した箇所を次々に癒していった。どうにか立てるようになると、鼻を鳴らして言った。
「ちょっと待っていて。イスファファンの連中を思い知らせてやってくる」
「いけないわ、アルテア。陛下も誰も、あんな結界に阻まれた街があることなんか知らなくてよ。有史以来の魔導士たちも、行って生還したものはなくって」
「あたしはどうなる?」
  気合いを込めて訊きつつ、アルテアは破れてぼろぼろになっていた衣装をまっさらに戻した。
「助かったのは貴女が最初」
  アルテアは「チッ!」と舌打ちし、しばらく考えてから言った。
「わかったぞ。カナートの妻たちを次々と攫った化け物とは、実はおまえのことだな?
  その莫迦力があれば、女を攫うことなど簡単だろうし、おまえ自身が攫われなかった理由も合点が行く。
  それに、回教では、ただ一つの神が造られた人の形を司ることは、堅く禁じられているはずだ。禁断の人形(ひとがた)であるおまえは、その教えに逆らい、なきものにしようとしている魔導士の手になるものに違いない!」
  ベリンダは地面に崩れ倒れた。
「瞞されないぞ!  その手が何よりの証拠だ!」
「私は−−」
  彼女はふり絞るように言った。
「−−化け物ではありません。私の主は確かに魔法に秀でた魔導士でした。もう五○○年近くも前、乞われて十字軍の将となり、さまざまな幻術を用いて相当味方−−キリスト教軍−−に勝利をもたらしたそうです。
  手を焼いた回教軍の盟主サラディンは、和睦を持ちかけました。その時のさまざまな条件の中に、いくつかの封印された魔法を教える、というのもあったのです。
  主はサラディンに教えられた通りに人の形を作りました」
「それでおまえは白い肌に金色の髪の毛をしているのか?」
「ところが…」
  ベリンダは小さくうなづいて続ける。
「…その出来が余りにも素晴らしく、本物の人間そっくりだったのです。最初、兵士や端女にして利用するつもりだった主の心は変わりました。
『これを余の時代、余の国においてたくさん造れば、数々の計り知れぬ問題が生じる』と。
  そこで私に『時期が満れば必ず戻ってくる』と、固く約束されて、人間の家来と御供だけを連れて、ご家族や留守部隊の待つブリタニアへ帰られました。
  以来、私は、さまざまの人々の間や街を転々としながら、その主・リチャードが迎えに来るのを待っている、という訳です」
「その主というのは、まさかリチャード獅子心王のことではないだろうな?」
  アルテアの問いに、彼女は顔を輝かせた。「そうです!  その方はいまどこで何をしておられますか?」
「リチャード獅子心王ならば、確かに優れた魔法騎士だったが…」
「『だった』?」
  ベリンダの瞳を不安の色が染める。
「…奴ならば、人間そっくりの人形を造り、自ら不死の身となって、時空を駆けることもできただろうが…」
「そうはしなかったのですか?」
「彼としたことが、愚かにも坊主どもの甘言に乗せられて、人に定められた死を受け入れたのだ。『十字軍の際に失った部下たちを労いたい』というのが、理由だったと思う。
  だから、いくら待っても、もうリチャードは戻ってはこないぞ!  おまえは見事に騙されたのだ!」
  アルテアは心の中で、人形の娘がその主を恨み、呪う愁歎場を期待してほくそ笑んだ。
  ところが、彼女はそれを聞いて、かえってホッとした様子だった。
「そうですか。それは良かったと思います」「何だと!  リチャードはおまえを忘れ、見捨てたのだぞ」
「永遠の命ほど、辛く悲しいものはありません。私にはそれが身にしみています」
「何を世迷い言を!  それは、おまえがリチャードと一緒に暮らせなかったからだ。力も名誉もあって、何でも自分の思いの通りになれば、誰でも最後には永遠の若さと命が欲しくなるに決まっている。現にこのあたしも…」
「アルテアさんはそれで幸せですか?」
「まだ完全に手に入れた訳ではないからな。−−全てを手に入れれば、そういう存在になれるだろう」
「私はなれないと思います。いまの貴女はとても幸せには見えないし、カナートの化け物をやっつけて、シャーから望みのご褒美を受け取っても、いまよりもっと不幸になるかも知れません」
「何だと!」
  アルテアは掌の中で大きな城をも破壊できるほどの光球を造りこねて、念入りに狙いをつけた。
「鋼でも溶かす粘液の生き物でも出したほうがよくないですか?  そんなもの撃ったら、カナートも、村も、ひょっとしたら山まで吹き飛んでしまいますわよ」
  ベリンダが妙に覚悟を決めた表情なので、阿呆らしくなったアルテアは光球をたたんだ。「何故だ?  望みが叶ったら、なぜいまよりも不幸になる?」
「それを手にいれてしまったら、もっと手に入れるのが難しいものに興味が移ってしまうでしょうから…」
(でも、とにかく、いまは何が何でもそれを手に入れてしまうのが先決なんだ)
  アルテアは決心した。
(それまで、しばらくの辛抱だ。魔法の効かないところは手伝わせて、それからこの木偶を片付ければいいんだ)
  この女魔導士は、父に似て、何が嫌いと言って、他から忠告されたり説教されたりするのが一番嫌いだった。だから、どこまで我慢できるかまるで自信がなかったが、それでも損得勘定はちゃんとした。
「せっかくここまで掘り進んだんだ。突き抜けるまで掘り進んで、超古代の遺跡も調べてみようぜ」
(ひょっとしたら『死霊秘法』を手にいれなくてもいいぐらい、凄いものが手に入るかも知れない。すると、当然、カナートの化け物退治などする必要もなくなる)
「こちらは、何千年−−いや何万年、誰も足を踏み入れた者がないことがわかっています。伝説のムーやアトランティスの大魔導士ですら二の足を踏んだところなのです。魔法は全く効きませんし、罠もますます厳しくなることでしょう」
「ベリンダ、貴女は恐いの?  あたしは例えまるで魔法が効かなくても、全然恐くなんかないわ」
  アルテアは相手の瞳を下から覗き込みながら、意地悪く唇を少し歪めた。
「それだけの莫迦−−いや、怪力があれば、恐いものなどないはずでしょうに」
「私は…恐いです」
  そう言えばベリンダは先ほどからかすかに震えている。
(人形のくせに!)
  心の中で地団太を踏むアルテアだった。
(妙なところが精巧に出来ていやがる!)
「私はとても恐いです。封印都市はもちろん、これから貴女と協力して闘わねばならないカナートの化け物も恐いです。アルテア、貴女には恐いものはないのですか?」
「一つだけある」
  彼女は、この時だけは正直に答えた。
「−−それはあたしが偉大な魔導士として認められぬことだ。世界中の−−いや、全宇宙の魔導士、科学者から、『アルテア・アルハザードとは何者だ?  そんな名は聞いたことがない』と言われることだ。父のアブドゥル・アルハザードもそのことを最も恐れていた。
  アルハザードの名を聞くだけで、命あるもの、鬼や悪魔も畏れ慄き、神すら道を譲り、赤子は泣きやみ、王たちは平伏し、偽善者どもは許しを乞う…
  高い理想を望む以上、死や破滅を惧れるのは、それこそ虫が良いのではないか?」
「でも人の知らないところで空しく死んでしまっては、元も子もないのでは…
  まず、予定通りカナートの化け物を退治し、シャーから褒美を手に入れてから、封印都市を目指しても遅くはないのでは?」
「くっ…」
  アルテアはついに生まれて初めて折れた。(それも、事もあろうに人形にだ!)
  彼女の腸(はらわた)は煮え繰り返っていた。
  ベリンタの後を少し遅れて歩きながら、彼女の背中を何度も狙った。
(用事を済ませた後で必ず殺ってやる!)
  アルテアは誓った。
  任務を遂行した後で、信頼していた(はずの)仲間に裏切られ、驚愕の表情で命を失うベリンダの顔を想像すると、退屈な燧道の行進も楽しくなってきた。

                2

  二人それからも、いくつかの分かれ道に行き当った。そのどれもが、現在も人が住んでいる村か、もしくは村人たち全員が飢饉や貧しさに耐えかねて逃散(ちょうさん)してしまった村に通じていた。
  その日の夜はそういった村の一つに止まることになった。
  アルテアは朽ち果てたあばら家を、魔法で王女の別荘のように変えた。
「化け物はなぜ、カナートの妻ばかりを攫っていったんでしょう?」
  大理石の噴水越しに、流れる流星を数えながら、ベリンダがふと呟いた。
「そんなことあたしが知る訳ないじゃない」
  繻子の蚊帳の降りた天蓋付きの寝台に寝そべりながら、アルテアは中国の「紅楼夢」の続きを読み耽っていた。
「−−引きずり出して心を読めばわかるかも知れないけど、興味ないわ」
「もし人語を解するならば、話をしてみましょうね」
「嫌よ。そいつがもし後ろを向いていたら、バッサリやるわ」
  ベリンダは噴水に背を向けて考え込んだ。
  その噴水の水が、いつしかアルテアの定めた月並みな吹き上がりではなくなって、まるで形のないアメーバ状の生き物になっていることなど、知る由もなかった。それは何本かの触手を伸ばして、彼女を取り囲んだ。
  さすがに妖しい殺気を感じたアルテアが、本から顔を上げるのと、そのものがベリンダに襲い掛かるのとは同時だった。
「危ない!」
  ベリンダはアッという間にそれに包み込まれた。人形である彼女も空気がなければ生きられないのか、しきりにもがきあえいでいる。
  アルテアは味方がやられて苦しんでいようが、いつもの癖で敵の正体をゆっくりと観察していた。
(水の属性があり、形は自由に変えられる。知性もあるようだが、本体はこれとは別のところにあるらしい。…この心の波長は人間かかつては人間だったものだ。
  魔導士か?
  ならば絶対に負ける訳には行かぬ!)
  天空に雷雲を呼び、指先に稲妻を集める。「当代、最大最強の雷撃をお見舞いしてやる!」
  それを撃てば、襲われているベリンダもどうなるか保証できなかったが、そんなことはこれっぽっちも気にならなかった。
  腕を大きく振りかぶって術を放とうとした時、ようやくゼリー状の物体を取りのけて顔だけ出せたベリンダが叫んだ。
「待って!  これは−−」
「わかっている。人間か人間だったものだと言いたいんだろう?  しかし関係ない!  こいつをやっつけて帰れば、あたしは褒美に預かれるんだ!」
「−−攫われたカナートの妻たちよ!」
  ベリンダはその後、自分が親しかった隣村やそのまた隣村の巫子の名を上げた。
「なにッ!」
  指先に雷撃を溜めたまま、アルテアは指を下げた。術の力が強力過ぎて、指先がピリピリと痺れる。
(無害で無力だったはずの若後家たちが、どうしてここまで魔力を持つことができる?)
  彼女は雷撃の力を減らして加減をし、その代わりそれの走る速さを上げた。ふつうの稲妻の百倍。即ち光の速さの百倍に。
  アルテアは雷撃を撃った。
  案の定、敵はその形からは信じられない速さでベリンダの身体から離れ、稲妻はベリンダだけを直撃し、彼女は黒い煙を上げながら倒れた。
  ベリンダの身体から離れたものは、さっとその元の形−−チャドルとヴェールに身を包んだ敬虔な回教徒の婦人の姿になった。
  もっとも、色はなく、ゆらゆらと揺れ、向う側が透けて見える。
「あたしはサナアの魔導士、アルテア・アルハザード。名を名乗れ!」
(私たちはカナートの花嫁です)
  相手は穏やかに、思念で答えた。
「それはわかった。どうしてそのような姿になり、あやかしの力を得て、その力を使う?  カナートの流れを枯れさせたのもおまえの仕業か?」
  相手は答えない。
  図星だからだ。
  アルテアも再度の飛び道具による攻撃は諦めた。最も速い技がやすやすとかわされた以上、同じ類の攻撃はきっと無駄だ。
(たぶん、己の身体と、術を使う際に大量の水を使うのだ。こいつは水の化身で、水を魔力の源にして生きているからだ)
  カナートの妻は、アルテアの思考を完全に読んでいた。厳重に防御していたにも関わらず、だ。
(結構いろんな術に通じたかたでいらっしゃいますのね。  国王陛下や最高僧猊下たちに命じられてきた御方ですか?  それにしては少々…というか、かなりのお野心をお持ちのかたですわね)
  アルテアは歯ぎしりした。相手の様子からは驚くほど短期間に恐ろしいまでに魔力を上げた形跡が伺える。
(こいつ、おそらくあたし以上だ)
  そう悟ると、全身に冷や汗が浮かんだ。
(現在のあたしの術は、全部通じない…
  たぶん、逃げ切ることもできない…)
(頭もよくて、計算も速い御方でいらっしゃいますのね…)
  相手は顔をうつむかせ、ヴェールも下げたままで言った。
(そこの、私たちのかつての同僚で、人形であるが故に、現在の私たちの仲間になり損ねたベリンダに免じて、一つ、ご忠告申し上げますわ。
  私のことは忘れて、国王陛下が人参としてぶら下げた『死霊秘法』のことも忘れて、サナアに戻って船乗り相手の占い婆にでもおなりなさい。
  私は、貴女の父上−−アブドゥル・アルハザードが頭の線をズタズタに切らせてまで苦労して手にいれた以上の太古の知恵を身につけているのですから、たとえ『死霊秘法』を勉強してきたとしても、とてもかなわないと思いますよ)
「だまれ!」
  アルテアが両手を広げると、つむじ風が舞い、家の外から小さな竜巻に乗って多量の砂が運ばれてきた。砂はカナートの精霊に覆いかぶさり、その水分を吸い取ろうとした。
(無駄です、と申し上げたでしょう?)
  カナートの妻は、砂から、その結晶の中にある僅かな水分を吸い取って、水気の全くない塵にして返した。相手は心なしか大きくなった。
  アルテアは息つく間もなく、懐から透明のくらげの膜のようなものをとりだした。短い呪文で空中に静止させ、四隅を引っ張ると、それはベドウィンのテントよりも薄く大きく広がった。
「ヤッ」という気合いをかけると、それは水の人形を包み、たちまちのうちに縮まって、丸い団子状になった。
(もしかして、やったか?)と喜べたのは、ほんの一時だった。
  水の固まりは内部から強烈な炎を放射して膜を溶かし去った。
  炎の先端は壁に命中し、そこからさらに八方に広がって、炎の海にしてしまった。
(あいつ、水の癖に魔炎も使えるのか!)
  ベリンダを背負って逃げるアルテアは、舌を巻いた。
(私、もうじきティグリス・ユーフラテス川から海へ出て、世界中の海を力として取り込みますの。誰にも邪魔はさせませんことよ)
  カナートの精霊は別に追ってくる様子もなく、いつまでもケラケラと笑っていた。

「そうですか…  カナートの妻の一人が、ある日、あの封印都市への道に偶然に迷い込んで、そこで知識を身につけたのですね」
  アルテアに壊れた箇所を治してもらいながら、ベリンダは深い溜め息をついた。
「だからあたしたちも、行く必要があると思うんだ」
「もし太古の知恵が残っているのでしたら、彼女たちの警戒は厳しいでしょうし、ひょっとしたら、全部持ち去られた後で、いまや彼女たち自身が、その継承者となってしまっているかも」
「じゃあどうしろと言うんだ?  シャーに頼んで『死霊秘法』を先に見せてもらって、その召喚呪文で闘うのか?  クトゥルーを呼び出せば、奴に勝てるだろうか?」
  アルテアは眉を吊り上げる。
「仮にそれが出来たとして、いったん召喚した邪神を再び封印するのは、カナートの精霊をやっつけるより難しいのでは?
  貴女の父上や、古のラムウやサントゥーたち−−栄華を誇った自分たちの帝国−−大陸を海中に沈めてしまった愚かな魔導士たちの轍を踏むのが落ちかも」
「では、どうすれば?」
  アルテアが訊くより早く、ベリンダは元に戻った拳で、地面を思いきり叩き始めた。
  ドーンという地響きとともに亀裂が走り、アルテアは危うくそこから広がった地割れに落ちるところだった。
「源を叩き潰すのよ!」
  ベリンダは地面に鉄拳をめり込ませる。
  地震のような揺れが走り、ゴゴゴゴ…と地中の建造物が壊れる音がした。
「何をする!  人類以前の、貴重な遺産なんだぞ!」
  アルテアは怒り狂ったが、這い上がるのに精一杯だった。
  魔法を封じる封印の霊気が漏れ吹き上がってきて、空中浮揚や飛行、瞬間移動の術が使えなかったからだ。
  永劫の年月を経て、白い灰となった彼らの建材が舞い上がる。
  それらに混じって、象くらいの大きさの、巨大な透明な膜に包まれた芋虫が何匹も吹き上げられてきた。
「こいつは…」
  ようやく近くの丘に逃げたアルテアは驚いた。
「彼らこそ、あそこの住人だった生物の便利な下僕。
  街も造れば、水路−−カナートも掘る…」
  地面に月の隕石の落下跡に似た陥没を十ほど造ってから帰ってきたベリンダが言った。
  芋虫は、余りの年月にもともと寿命が来ていたのか、それとも砂漠の強烈な太陽に
ショックを受けたのか、次々に膜が破れ、体液を撒き散らせ、蒸発させて消滅した。
  当然、カナートの精霊が怒り心頭に発して現れた。
(何をする!  この愚か者ども!)
「あたしもそう思う」
  アルテアも同意した。
「なかったほうが良かったのよ、こんなものは」
  ベリンダは涼しい表情で言った。
(おまえも魔法の力で造られており、その素晴らしい力を享受している癖に…)
  カナートの精霊は先ほど襲撃した時ほど元気がなくなっていた。どうやらやはり、霊力を補充する源があの封印都市の中にあった様子だ。
  そうと決まればアルテアの変わり身も速かった。
(予定通り、こいつをやっつけて、シャーから褒美の『死霊秘法』を頂く。最初からその予定だったんだ!)
  彼女は追尾型の光球と雷撃の種を、後ろ手に組んだ掌の中で造り、パッと放った。
  ふいを突かれたカナートの花嫁は、命中の瞬間、体をいくつもの水球に分散させてかわそうとしたが、いくつかは至近距離での爆発の巻き添えを喰って破裂した。
  水球は弾けて飛び、荒地にこぼれ落ちた水はたちどころに蒸発して、二度と元の形には戻れなかった。かろうじて破裂を免れた水球も、もう一度集まって元の人の形になったものの、以前の力はなかった。
(アルテア、おまえだけはわかってくれると思っていたのに…  古の宇宙の神秘と知恵のいかに勝れているかを…)
「理解し、畏敬の念を抱いているさ。でも、おまえに胡麻をすり、心にもない世辞を言ってまで手にしたいとは思わないわ」
  彼女は次の攻撃を用意しながら言った。
「−−あたしは、あたし自身の力で手に入れてやる!」
  アルテアが次の光球と雷撃を撃つ前に、カナートの精霊は砕け散って逃げ去った。
「追跡して留めを刺すわよ!」
  アルテアはつむじ風に乗って消えた。
  魔法の使えないベリンダは、肩をすくめ、最寄りの階段から再び地下水路に入るしかなかった。

                3

  カナートはそろそろ終点の、山の麓に近付いていた。
  人間が掘ったという感じはじょじょになくなり、奇妙な段々がある洞窟、と言った様子が濃い。
  苔も、銀や白い灰色など、不気味に輝いており、毒毒しい色の胞子を飛散させている。
  相変わらず干上がった水路には、複雑な形の水クラゲや、海の生物とおぼしき軟体生物が、まるでもうじきそこが水で満たされるのを知っているかのように、くねくねと蠢いていた。
(こんな連中が水を得て大繁殖し、それがドッと下流の街や村に流れて押し寄せてきたら、えらいことよ)
  それらが、アルテアたちの生きているこの世界の創世の頃に、星星の間から降り注ぎ棲み着こうとしたものどもであると知ったアルテアは、俄かに敵愾心を抱いた。
  彼女や彼女の父アブドゥル・アルハザードが友としようとした古の邪神たちこそ、彼らの首魁に他ならないのに、だ。
(彼らを復活させ、召喚するのは、カナートの妻のような、全くの偶然に途方もない魔力を得た素人ではふさわしくないわ。
  それをやってのけるのは、才能に恵まれ、その名が称えられるのに足る偉大な魔導士でなければならない!
  見て、まだまだちゃちなこの連中。
  この大きさだったら、せいぜい、水に紛れ込んで村人の身体に入り込み、内臓や脳髄や血管を食い荒らして成長するのが関の山よ。
  人々を恐怖のどん底に落とし、何百何千もの触手を伸ばして軍隊を滅ぼし、都市を壊滅させるにはいささか役不足よ!)
  アルテアはやがて、五芒星、六芒星と古代の星座図が描かれた巨大な楕円形のマラカイトの扉の前に出た。大きさから察するに、人間の数百倍の大きな身体を持つ生物の造った扉らしい。
(この奥だな!  カナートの妻たちを化け物に変えた張本人は!)
  アルテアはいかなる扉をもたちどころに、その自の力で開けさしめる呪文を唱えた。
  ところが扉はびくともしない。
  ユゴス星に伝わる呪文、北極の氷柱宮殿に伝わるそれ、ルルイエやムーに伝わるそれも通じなかった。
(貴女の知っている太古の呪文は、みな通じないわ)
  後ろで声がしたので慌てて振り返ると、傷つき、身体じゅうから貴重な体液を滴らせたカナートの精霊が、勝ち誇った笑みを浮かべていた。
(−−この先におられる御方が、あの封印都市の文明を築き、擁護し、いままで守ってこられたのよ!  このかたがおられれば、そして下僕となり忠誠を誓うものが増えれば、あんな都市など簡単に元通りになるのよ!
…そう、よく考えればあんなにうろたえる必要などなかったの。我ながら早とちりだったわよね)
  アルテアはジリッと後じさった。
  カナートの精霊は完全に魔力を回復している。
(私はね、通ることができるのよ。ほらっ、この通り!)
  人形(ひとがた)は一瞬にしてバラバラになり、小さな粒となった。
  頑強そのものの扉が、粒子たちの一連の動きに合わせて、ゆらりと揺らめいた。水の粒子はその揺らめきと同調してサッと一斉に向う側へ通り抜け、いくばくかしてから、またサッとこちら側に戻ってきた。
  よほど強力な力を吸収したのか、粒の一つ一つは激しく放電し、中には金色の霊気の源がキラキラとまぶしく輝いている。粒たちはまた一つに固まって人形に整った。魔力はさらに強大になってる。−−そう、アルテアや他の人間の魔導士では、いくら修行を積んでも絶対に持ち得ないほどに。
(クトゥルーも、ナイアーラトテップも、シュブ・ニグラスも、ツトグアも、アザトースでさえも、古の邪なる神神は、全てこの奥にまします御方から生まれたのよ!
  従って、もしも貴女がラムウやサントゥー並みの、人間離れした魔力の持ち主で、彼らを自在に召喚できたとしても、私の敵ではない。−−まして、奥の御方の足元にすらたどり着けない!)
  言うより早く、カナートの精霊は全魔力を集中し、洞窟の幅一杯に、絶対零度の冷気と灼熱の熱風の混合弾を撃った。
  普通の魔法では、ある程度時間差を設けて撃たないと、混じって何でもなくなってしまうはずだが、冷気と熱気は互いに膜で包まれているらしく、命中するまで平気で飛び続けた。
  アルテアは目の前に大きな楯を何重にも造った。金剛石よりも硬い念波の楯だ。
  だが、冷熱波はそれに簡単にヒビを入れ、壊し、ついには貫通してアルテアを捕らえた。(やった!)
  まっ黒く炭化し、壊疽を起こして、バラバラになった五体を見て、カナートの精霊は勝ち誇った。
  ちょうどそこへ、ベリンダが走ってやってきた。
「アルテア!」
(遅かったようだね、木偶人形!  …でも心配はいらないよ。おまえもすぐに殺してやる!
  いや、破壊してやる!)
「カナートの娘たち、あなたたちも、元は人間でしょう?  それがどうしてこんなひどいことをするように?」
(私は知識を得たのよ!  偶然落ちた秘密の穴から、太古の封印都市へ!  いとも簡単に中心にたどり着き、それからここも知ったわ。
  そして力を得たの。もう二度と虐げられず、どんな我慢もする必要がないぐらいの力をね!
  私はそこで哀れな姿になっている莫迦娘が望んでいたもの以上の能力者になったのよ。
  私は誰の助力も協力も必要とはしない。
  だから、これからゆっくりと、愚かな人間どもを滅ぼしてやる!)
  カナートの精霊はアルテアに撃ったものと同じ混合弾を放った。
  ベリンダの衣装は粉々に破け去り、肌色の肉や黒い瞳も解け去って、銀色の金属の体が剥き出しになった。
(ほう。これをまともに喰っても消滅せぬとは、おまえはこの星のものではないな)
「私は、この星この世界の材料で造られたものではない。荒野や砂漠、あるいは海深く落下した星屑を一つづつ拾い、寄せ集め、私を造って下さったのは、偉大なるサラセンの魔導士サラディン様と、イングランドの魔法騎士リチャード様だ!
  貴女のような勘違いを起こす者が現れた時のために!」
(おまえもアルテアと同じうつけ者だ!  のこのことしゃしゃり出なければ、この世界最後の日ぐらいまでは長生きできたものを!)
  素早く詰め寄ったベリンダは、銀色の拳をねじりながらカナートの精霊の顔面を撫でた。指や拳全体から不思議な振動が起き、精霊の顔は大きく歪み、飛び散ったしぶきは光をこぼしながら破裂した。
  油断していて機先を制せられた精霊は、その後何発も特殊なパンチを受けて形を崩した。(おのれ!  その体の構造も、この星があと一千年しなければ獲得できないような知恵と知識でできているではないか!  ずるいぞ!)
  すっかりぐにゃぐにゃになった精霊は、先ほどと同じように、粒子化して魔法の扉を潜り抜け、向う側に逃げた。
「ずるくはない。魔法騎士リチャード様は時間を越えたのだ。十字軍を終結させる、無敵の兵士を造るために。
  ところが方法は知っていても実際に造るための材料が揃わなかった。
  流星にほんの少しだけ含まれる材料をコツコツ集めていたのは、魔導士サラディン様だ。
  二人は二度と無残な戦をすまい、と誓いを立てて、それぞれの最高のものを持ち寄った。
  そしてできたのが私だ!
  お二人は不死の体にもなれたのに、ならなかった。僅かな材料を全部私につぎ込んだからだ」
  ベリンダは乾坤一擲のパンチを、魔法の扉に叩きつけた。
  扉はびくともしない。
(愚か者め!  宇宙の彼方、次元の壁を越えてきた御方の扉だぞ。力づくで開けようとは片腹痛い!)
  ベリンダは殴るのを止め、目を閉じて扉の表に記された星図や五芒星・六芒星、その他の複雑怪奇  窮まりない記号や図符を銀の指先でなぞり始めた。
(判るものか、おまえ如きに!  星宸の神秘が。宇宙の命の秘密が。御方様の築かれた理の城の法則が!)
  カナートの精霊はからからと笑いながら、水球をこねた。その中にはどんなに硬い金属、合金をも溶かし去る飴状の酸が合成されている。
  ベリンダは光る指先で扉の文字や記号の意味を解読していった。普通の人間の賢者でも一千年、二千年をかかる計算や推論、洞察を彼女は頭の中に組み込まれた宝石にさせて、ほんの僅かな時間で解答を得た。
  薄肉彫刻の点や線を一定の順序でなぞると、ビシッとなにかが外れる音がして、重い扉が左右にするすると滑らかに開いた。
  カナートの精霊は愕然とし、立ちすくんでいた。
(まさか…  そんな莫迦な!)
  扉は何十億年ぶりに開いたとは思えないほど軽やかに開ききった。
  部屋の中は、襞のある円柱が続く廊下が
ずっと続いている。両側には水晶の多面体に封印された各種の細胞が、あるものはドクドクと脈打ち、あるものは明滅を繰り返しながら生き続けていた。
  さらによく見ると、奥へと続く廊下の足元も様々な形の多面体が埋め込まれていて、ここにはくらげや原生生物に似たいきものが集められていた。
  どうやら、ここの主は気の遠くなるほど宇宙を旅しているつれづれに、いろいろな生命やその卵、胞子にあたるものを集めて回ったらしい。「彼」にとって、太古の邪神のいくつかを創造するぐらいたやすいことだっただろう。ましてカナートを掘る奴隷生物を造るなど、朝飯前だったはずだ。
「おまえは神か?  おまえが神だったのか?」
  ベリンダはつぶやいた。だが、その答えはすぐにわかった。
  廊下のつき当り、洞窟の最も深いところに「彼」はいた。
  一際太く、鈍い白色に輝く神殿の柱。
  その中には、岩の中に輝く雲母のように、いろんな色や形をした原生生物が蠢いていた。
  ありとあらゆる意思と知性の寄せ集め、さまざま能力の同盟にして連邦体、それが「彼」だった。
「彼」は柱の下部に、臍の尾に似た触手をいくつも持っており、その先端からは途方もない力が溢れ漏れ出ていた。力を分けて欲しいと願うものは誰でも、回復や治癒に預かれる、「癒しの泉」だった。
(おそらくあの封印都市にもこいつのミニチュアがいたのだろう。落とし穴に落ちてカナートの迷路をあてもなくさまよい、疲労困憊で死の淵にあったカナートの花嫁が、「回復の泉」と思ってその身を委ねたのも無理からぬ)
  ベリンダは迫る触手を指先からの熱線で焼き切った。
  これだけ「生きている標本」を揃えているなら、ほどなくいかなる高温にも強い触手を合成して襲いかかってくるだろう。
(中枢生物群を爆破する、しかない…)
  ベリンダは決心した。
(これだけのものを破壊するには、私自身が自爆し、融合と分裂の反復エネルギーに賭けるしかない…)
  幸い、余りに長い間誰にもその存在を知られず、外敵にも脅かされたことのなかった中枢は、反応速度が遅くなっていた。とりあえず味方にした「カナートの精霊」以外は。
(この御方は全宇宙の宝だ。そのままにしておくのだ!)
  カナートの精霊は  思いきり伸び拡がり、膨張してわめいた。
(−−おまえにはその計り知れぬ値打ちが判らぬのだ!)
「判らない。判ろうとも思わない」
  ベリンダは銀色の胸の蓋を開けた。そこには0から9までのアラビア数字が並んだ文字盤があった。一連の長い暗号の数字を押すと、再び蓋を閉めた。
  カチコチと時計が秒を刻む音が始まった。(おのれ!  どうあっても自爆するつもりか!)
  カナートの精霊は再度あたりをぐるりと見渡した。標本の数は厖大で、とても持って逃げることは不可能だ。
  カナートの本体は、標本全体を従えている。管理すべき本体である悲しさ、この場所から動くことはできない。
  カナートの精霊の決心は固まった。
(おまえを外に連れ出して、イスファファンの上空まで運び、都の真ん中、王宮に放り投げてやる!)
  カナートの精霊は分裂し、流動体の粒子となってベリンダの身体にまとわりついた。
  半分は彼女の動きを封じ、もう半分は膨らんで宙空に浮き上がった。
「しまった!」
  焦り、慌てても、もはや手遅れだった。
  大抵の魔法及び物理攻撃が効かないことはわかり過ぎるぼどわかっている。
  神殿の内部を滑るように外へ出た球体は、扉の外を出たところで驚くべきものを見た。
  腐り、朽ち、干乾びた海面状になったアルテアの死体が、まだぴくぴくと動きながらゆっくりと這い前進していたのだ。
  ちぎれた手足とおぼしき円柱状のそれも、本体に続いて遅れまいとしていた。
(こいつ、やはりただの人間ではなかったのか!)
  カナートの精霊は止まって様子を見た。そのものは次第に移動の速度を上げている。
(−−身体に、人間のものではない、他の動植物のものでもない、禁断の細胞を組み込まれているのだ。だから、あんなふうになってもまだ生き続けているのだ)
「アルテア…」
  捕らわれのベリンダも、一抹の希望を取り戻した。
「貴女ならやれるわ!」
(何をたわけたことを!  奴は人間どもやこの世界を救うといった殊勝な考えで進んでいると思ったら大間違いだぞ。
  奴の心からは、もう人間のそれは姿を消している。いまあるのは、始源の生存と防衛の本能だ。
  この中に生き続けている御方と同じ段階となったものならば、欠損した部分を完全に修復し、さらにそれ以上の力を得て復活するのは、意思ある人形が部品の倉庫にいるよりも簡単なことであろう)
  カナートの精霊は不安そうに、内陣を振り返った。
  神神しかったはずの本体は、色とりどりの原色の細胞を激しく明滅させている。
(『そいつはよいから、こいつを先に片付けろ』ですか?  しかし…
  …御意。そのように致します)
  粘りのある水の粒子がベリンダから離れ始めた。球体も次第に薄くなった。
(自爆でも何でも勝手にしろ!)
「ずいぶんな慌てようじゃない?  イスファファン見物をするんじゃあなかったの?」
  ベリンダは人間の心臓にあたる炉の燃える速度を最大にした。
  磁場と重力場の力を増し、粒子はもちろん、標本は古いタイルのように次々と剥離して、土星の環さながら回り始めた。
「離せ!  私には、あの人間ならぬ人間を抹殺する任務があるのだ」
  カナートの精霊は懸命に離れようと試みたが、逆に周囲の標本体の数は増すばかりだった。
  いくつかの標本はケースが割れて、中身のえも知れぬ生物が床に落ちて散らばった。
  床に叩きつけられて蒸発し、あるいは燃え上がるものがあるかと思えば、封印が解かれたことを大いに喜んで早速もぞもぞと活動を始めるものもある。
  アルテアの残滓はそれらと喰うか喰われるかの組んずほぐれつを演じ、一つまた一つと勝ち続けた。
  カナート本体は怒り狂って、明滅の速さをさらに早く、目にも止まらぬぐらいにし、ついには生けるシャンデリアに見えるほどに、明るくまぶしく照り輝いた。
(御意は判っております。しかし、どうにもできぬのです!)
  弁明するカナートの精霊の目に、人形の炉が臨界点に達したのか、幾筋ものプラズマが走るのが見えた。
(そんな…)
  ベリンダはたおやかに笑った。
  それは明らかに機械のぎこちない笑いではなかった。
(待て!  待ってちょうだい!)
「誰に言っているんだ」
  廊下ではアルテアがかなりの標本を吸収して、すでにバラバラだった身体を一つにつなぎ、人の形すら取り戻しつつあった。
(いくらの力で攻めようと、おまえたちにあの御方を倒せるものか!)
  カナートの精霊は分子を引きちぎられ、並べ変えられて、寒天状の無様な滓となってぼたぼたと落下し、地上に落ちた途端に蒸発して消滅した。
  ベリンダが自由を取り戻し、ひらりと飛び降りた時、アルテアは完全に元の美しい姿を取り戻していた。
「自爆は中止できるのでしょう?」
  アルテアはいたずらっぽく笑いながら訊いた。
「−−あんなヤツぐらい、あたしが簡単にやっつけちゃうわ」
(その下僕にひどい目にひどい目に会わされていたのは誰なの?  都合よく欠損部分を補う材料がなかったらどうなっていたやら…)「まあそう言わないで。ツキがあったのよ。あたしたちに」
  アルテアが機械の心まで読んだので、彼女は仰天した。
「−−そう、魔力が増したのよ。あいつを喰えば、もっと増す。もう『死霊秘法』なんか全く必要ないぐらいにね」
  ベリンダは立ち止まって顔を背け、さらに後じさった。
「…そんなに恐がることはないじゃない?
  戦友同士、最後の敵は目の前。勝利は確実。
  どうして仲間割れをする必要があるの?
…あたしがあいつに勝った、として、今度はあたしがこの世界の脅威になる?  …心配は判るけど、あいつとあたしとだったら、あたしを信用してくれるよね?」
「信用できない」
  ベリンダは声を震わせて言った。
「−−以前の貴女だったら、信じていた。でも、いまの貴女は、あまりに判らないものを加えている」
「ま、取り込み中でもあるし、その件については、後でゆっくりと」
  アルテアは傲然と胸を張り、内陣の柱に向かって進んだ。
  柱も存亡の危機を悟ったのだろう、何億、何十億年ぶりに、境目のない透明の扉を開けて、自ら姿を現した。
  宇宙を永遠に旅する間に、役に立つものも立たないものも、炎に強いものも、冷気に強いものも、固体のものも、液体のものも、気体のものも、その他の形をしたものも、意思のあるものもないものも、取り込めるものは片っ端から取り込んで成長を続けてきたもの。
  それがいま、周囲にいくつもの星を従えた巨大な天球儀の形を取って二人の前に現れた。
  周囲に従えている星は、小さくても本当の星で、その星星もまたさらに小さな月を従えている。
  本体であるところの恒星の中で行われている活動は、本物の太陽をちぎってきたように凄まじく、炎の海が渦巻き、その中では、そんなところでも平気な生命体が、さながら炎クラゲや灼熱のイソギンチャクとなって蠢いている。
  ベリンダの目はとっくの昔に自動で真っ黒なフィルターが降りている。
  アルテアは…  −−彼女の目はそれを肉眼で見てもまるで平気な様子だった。
「いらっしゃい!」
  アルテアはその強烈な複合生命体に向かって大きく胸を広げた。
  ベリンダの背筋に冷たいゾッとするものが走った。
(これが「恐怖」というものか)
  最期の瞬間、彼女は妙に納得した。

                3

  その夜、シャー・アッバースは「カナートの源近くの山が、原因不明の大噴火を起こした」との子細な報告書を読んで慄然としていた。
  噴火は一日で収まり、水路には清浄な水の流れが戻った。その後には溶岩が固まったカルデラができている、という。
(勝ったのはどっちだ?  カナートに巣喰っていた怪物か、それともあいつか?)
  当然のことながら王は相打ちを祈った。
  目を上げると、あの日と同じ、異民族の正装のアルテアがいた。
「相打ちじゃなくて、残念だったな」
  シャーは褒美に約束していた『死霊秘法』のことを思い出してうろたえた。
「安心しろ、それはもういらない。−−だが気になると言うのなら、約束通りもらっておいてやろう」
  彼女が指をパチリと鳴らしただけで、それまでどんな攻撃にもビクともしなかった文机が燃え上がった。燃え尽きる瞬間、中の書物が顔を出したが、それも一瞬で炎の海に沈んだ。
「大儀であった」
  シャーは額の汗を拭った。
「これっきりにしたら、嬉しいか?」
「それは…」
  王は迷った。しかし、そういうことなら、彼女を惹きつけておくものが、この王国にはもはやない。
  答を待たずして、女魔導士は消えた。





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