弓と竪琴

   第六章

  翌日、ローマの街は収穫と豊饒の女神ダイアナの祭りで賑わっていた。
  狩りの獲物や畑の作物、女神に扮した少女を乗せたたくさんの車が通りを練り歩き、人々はやんやの喝采でそれに答えた。
  役人、軍人、職人は休みであり、街にあふれた家族連れは、祭り目当てに領内外一円から集まってきた様々な行商人の商品を冷やかすのに余念がない。
  闘技場では、特別に人気のある剣闘士どうしの試合が組まれ、木戸はすでに満員札止めである。
  日頃は眉間に小皺を寄せて、お互いの足の引っ張り合いばかりをしている元老院の連中も、高級官僚や将軍たちも、この日ばかりは地方の領地から上京してきている親戚一同を引き連れて、一年に一度のオール・チャンピオン戦を見にいってしまった。
  ローマの終身独裁官ジュリアス・シーザーの官邸では、ほとんどの使用人が暇を出されていないなか、平服のシーザー一人がテッサリアの紫檀で作られた独裁官の机に座り、決済文書を丹念に眺めていた。
  脇の水晶の鉢の中では、ヌビア(現スーダン)の王が献上してきた極彩色の熱帯の魚が悠々と泳いでいる。
  そこへ、寛衣の上からたいそうな元老院の飾帯をつけたブルータスが、同じくきらびやかな軍礼服に身を包んだキーファーとともに、慌てて駆け込んできた。
「剣闘士の試合、それも決勝戦の最中に呼び出したりして、一体何事だ。賓客たちもいぶかしむし…」
  ブルータスは太い黒い眉を寄せて言った。
「あんな愚民政策のどこが面白いのだ?」
  シーザーは書類からゆっくりと目を上げながら、親友の顔を仰ぎ見た。そしてキーファーには目もくれず、命令した。
「おまえは下がっておれ!」
  キーファーは軍人らしく、無表情のまま、かかとを打ち鳴らして一礼してから去った。
「ブルータス、ひとつ言っておきたいことがある」
  ブルータスは嫌な予感がした。
(まさか、昨夜の屋敷での悶着のことではあるまいな?  権謀術数渦巻くローマにあってはあの程度のこぜりあいは茶飯事のはず…)
「キミのこの、周辺諸国が差し出した人質の釈放計画は承認できない」
  ブルータスは、自分の気管支から胃にかけて、毒でも飲んだようなゾッとしたものを感じた。
  四年まえ、ガリアから凱旋してきたシーザーを、ルビコンの川岸で討とうと言ったポンペイウスたちに組し、敗れた時のことを思い出した。
  ポンペイウスは逃亡先のエジプトで殺された。
(一時は、自分もとても生きてはおられまい、と覚悟したが、シーザーは意外にも寛大な言葉とともに許し、なおかつ側近に加えてくれた。
  自分はそれに感謝し、四年間シーザーのために身を粉にして働いてきたつもりだ)
「まさか、占星術で決定したんじゃあないだろうな?」
  シーザーは立ち上がり、親友をを睨み付けて怒鳴った。
「いいえ」
  答えるブルータスの声は、腹の奥底で震えていた。
「人質を返したら、またかれらは戦争の準備をはじめるぞ。そうは思わないか?」
  シーザーの声も、ヴェスヴィオの地鳴りのように震えている。
「平和のためにはそのほうがいいだろうという、元老院とわたしの判断です」
  ブルータスは答えたものの、声は枯れていた。
(シーザーはそれまで盛んだった大小の政治団体を全面的に禁止し、地下活動には徹底的に弾圧を加えようという男だ。彼にこれ以上権力を集中させてはならない。加えてできるだけ反シーザーの勢力を結集したい…)
「キミはわたしが七年にわたる戦争で勝ち取った領土がどうなってもいいと言うのか?
  断じて承認などできない!」
  シーザーは握りしめた拳でクリスタルの鉢を叩き割った。
  水が流れ出し、美しい魚たちは残った水にすがるように集まった。
「聞こえているのか?  わたしはもっと金が欲しい。領土だってもっと欲しいのだ!」
  机までひっくり返しかねない勢いになってきた。
(以前の彼はこんな男ではなかったのに…) ブルータスは心の中でつぶやく。
(…終身独裁官になってからというもの、どうも気が立っているようだ…
  地中海とヨーロッパのほとんどを平定し、いまこそ怠惰な平和に身を任せるべきだというのに…)
「キーファーを小アジア方面の派遣軍司令官に栄転させよう。
  彼もまた戦争ができて喜ぶだろう」
  立ったまま、血のにじんだ手に署名用のペンを持ち、一転して穏やかな口調になった。「そ、それは…」
  ブルータスは思わず反論しかけた。
(キーファーは惜しくない。率直に言って彼くらいの将軍は、ローマではゴロゴロしている。問題はキーファーにくっついているヴェガだ。彼女は絶対に人手に渡したくない…
  がしかし、シーザーはすべてを知っていてこの話題をつなげたのかもしれない…)
「どうかしたか?」
「いえ、おおせの通り、奴も喜ぶでしょう」
  シーザーが目を細めた。独裁者の心の中で感情の天秤が激しく揺れ動いているのがわかる…  こっちの表情の動きを目ざとく察せられてしまったのだ。
  彼はゆっくり椅子に座った。
「感情的な言い方をしてしまったな…
  キーファーはしばらくローマ市憲兵隊付きにして遊ばせておいていいぞ」
「いえ、それは…」
  ブルータスは言い知れぬ不安を感じた。
(ジュリアスは、こう言った言葉は必ずと言っていいほど、相手の肩を抱きながら言ったものだった。
  それがいまでは距離がある。遠くから聞こえてくる…)
「すまない」
  ブルータスは頭を下げた。
  シーザーはかすかに小さくうなずいたが、それはブルータスがそう感じただけなのかもしれなかった。
(シーザーに謝るのは、きっとこれが最後だろう。おそらくもうこれ以上の拒否はできない。
  ヴェガなどいなくても、いまのシーザーの気持はオレにでも読むことができる)
  彼はそう確信して、窓のそとのトルコ石色の青空を見上げた。
  魚は、わずかに残った水の中で、あがいていた。

(ローマの空は、どうしてこんなに碧いのだろう?)
  場末の安宿のベッドに寝転がりながら、キアンは放鳥の儀式で放たれた伝書鳩たちが、弧を描いてそれぞれのねぐらに帰っていくのをぼんやりと見つめていた。
  ケルトの空の色はもっと薄く、冴え渡っていた…
(昨夜の男は勇気があったなぁ。
  自分がフラれているのにもかかわらず、女の前に身を投げ出した。
  きっとひどい傷を負っているだろう。その原因はほかでもない自分なのだ。それにしても…)と彼は考える。
(キーファーはいまのぼくには神のように遠い存在だ。
  これから一○年二○年、剣の修行をしてもまともに戦って勝てる相手とはとても思えない…
  そんなキーファーに敢然と斬りかかったあいつ、あのショーンはなんて勇気のあるやつなんだ)
  彼は同じケルト人として、恥ずかしさと羨望を抱いた。
(きっとショーンは、ティルナノーグ(ケルト人の天国・来世)を信じているのだろう…
  ああ、弓なんかではなくて、ローマ風に剣の稽古を積んでおくのだった)
  キアンはつくづく後悔した。
「剣は人をあやめるだけの道具だから、嫌いよ」と言った幼い頃のブリジットの言葉が、弓を選ばせたのだけれど。
(ルーは? ルーなら勝てるか? …もっともあいつも裏切り者だが… 彼ならいい勝負になりそうなのに…)
 彼はまたかつての友の幻影を振り払った。
  天井の漆喰を眺めているうちに、また腹が減ってきた。
  ケルトでは、獲物を逃して落ち込んだ狩人たちに、おばさんや女の子たちが特製料理や果物の差し入れを持ってきてくれたものだった。
  スピカはここで唯一の知り合いだが、彼女もショーンのことで、ずいぶんと昨夜のことがこたえていた様子である。
  そのショーンは、彼女の双子の姉のヴェガと何かあるのだから、これは複雑だ。
(よし、それじゃあそのスピカのために、ブリジットに作り方を習った、ケルトの狩人のシチューでも作ってやるか!)
  彼は勢いよく跳ね起きると、祭りの街のなかに駆け出して行った。
  郊外へ行くと、北から渡ってきた鴨が、列をなして飛んできている。
  キアンが矢を射かけると、それらは面白いように落ちた。
  市内に帰る途中の農家で、それらのうちのいくらかを野菜や地元のブドウ酒に交換し、スピカの店に戻った。
  スピカは祭りのせいでいつもより多い客に疲れたのか、それとも昨夜のできごとのせいか、いくぶん元気のなさそうな感じだった。「台所、借りるよ!」
  キアンは鴨の羽根をむしり、ワタを抜き、かまどに火を起こし、大鍋に湯を沸かして、野菜を切り刻んだ。
  このまま料理人になれるかも、と思うくらいの手早さである。
  しばらくして、シチューはできあがった。
  もっとも、キアン自身は途中の味見を繰り返しているうちにすっかり満腹になってしまっていた。
「スピカ、何か食べないと体に悪いよ」
  彼女は、大鍋にいっぱいのシチューに驚いた。
「キアン、こんなにたくさん、どうするつもり?」
  結局、祭りの夜でもあるので、にわか屋台を始めることにした。
  シチューは、香りがよかったので、飛ぶように売れた。
  鍋がようやく底を尽きかけたとき、三人のすでに半分酔っぱらった古参兵たちが通りかかって足を止めた。
「おや、懐かしい匂いだな」
「昔遠征した時のことをことを思い出すぜ」「これはケルト人の鴨料理だよ」
  キアンは愕然として立ち尽くした。
「さあどうぞ、たった銅貨三枚ですよ」
  キアンは顔を紅潮させながら勧めた。
「うまい!  確か三年前だったよなぁ」
「あのときさらった、とびっきりの美少女が得意としていた料理だぜ」
「そうそう、顔はきれいだし料理はうまいし、おまけに竪琴の名人だった」
(ブリジットだ!)
  キアンは確信した。はやる気持を必死で押さえて、なんとか平静を装って尋ねる。
「その女の子はいまでも元気にやっているのですか?」
「さあな、ケルトの村を焼き払い、竪琴の名人の女の子を捕虜にしたわれらがキーファー将軍閣下は、その女の子をブルータス閣下に献上し、ブルータス閣下はシーザー閣下に献上したと聞いているが」
  古参兵の一人は呑気に答えた。
「おまえ、何かそれと関係あるのか?」
  答えられないでいるキアンのまえに、一ふりの、細身の剣が天空から降ってきて、ぐさりと地面に突き刺さった。
  一同が驚いて振り返ると、神殿の屋根の上に、右手を吊り包帯で吊った、昨夜の暗殺者ショーンが仮面のような表情で立っていた。「おい、そこのケルトの少年、目の前の連中を斬れ!  間違いなく仇の片割れだ。伝説の大弓の伝承者なら、それくらいはやってみせろ!」
  キアンは地面に突き刺さった剣から思わず一歩引き下がった。
「ぼ、ぼくは…」
  一方スピカは、突然のショーンの出現に、パッと顔を輝かせた。
  兵士たちは反射的に各々の剣を抜いた。
  野次馬の人垣がザッと音を立てて、潮が引くように何歩か退く。屋台が倒れ、女たちの悲鳴が上がった。
「さてはきさま、あの時の生き残りだな?」
  古参兵たちの構えた剣が、徐々に殺気を帯びる…
  キアンは仕方なく剣を取った。
「人目が多い、一気にかたをつけよう」
  兵士の一人が言い、あとの二人がうなずいた。
  スピカはその能力で、こいつらの、略奪と暴行に明け暮れた過去を読み取った。
「キアン、早くその剣を構えなさい!」
  彼女の言葉は有無を言わせなかった。
  キアンは生まれて初めて持った剣を、見よう見まねで構えた。
  最初の一人が斬り込んできた。
  キアンはヒラリとかわした。
「すばしこいぞ、気をつけろ!」
  仲間の忠告に従って、残りの二人はゆっくりと輪をせばめる。
  次の一人が大上段に斬り降ろしてきたのももぐり込んでかわしたが、三人目の刃が目前に迫ってきた。
  斬られる!
  そう思った時、そいつはきき腕を矢で射抜かれて、剣を取り落とした。
  振り返ると、スピカが弓で援護してくれていた。
  見物人がヤンヤとはやしたてる。
「このアマっ!」
  キアンは真っ青になった。
  あわてて彼女をかばうため、その前に回り込んだ。
  そして相手の剣を受けようとして、逆にはたき落とされてしまった。
  空からまっすぐに降ってきた剣は、今度は竹トンボのように舞いながら空に戻った。
「ガキどもくたばれ!」
  兵士は自らの軍刀を「突き」の構えに持ち替えて、キアンとスピカを串刺しにしようとした。
  だが、勢いをつけてうしろに引かれた剣はそのままピタリと止まって動かなくなった。
  兵士の背中から、左手に細身の剣を持ったショーンがスクッと立ち上がった。いつの間にか神殿の屋根から飛び降りて、助太刀してくれていたのだ。
「まずい!」
  三人目の兵士は、矢傷を負った仲間を抱えて、逃げにかかった。
「さて、オレたちも逃げようぜ!」
  ショーンも言った。スピカもうなずいた。「憲兵隊は強いからな!」
  楯を構えた憲兵隊の一団が、祭りの人ごみをかき分けて、通りの角を曲がってくるのが見えた。
  キアンはスピカに手を引っ張られ、ローマの裏通りを、逃げて逃げて逃げ回った。
  しかし、憲兵隊の鋭い笛の音があちこちで上がったかと思うと、どの角を曲がっても、やつらの姿が目に写るようになってしまった。
  スピカの息が切れてきた。
  彼女はつまずいて転んだ。
  うしろから追っ手が迫ってくる。
  スピカはどうやら足をくじいたらしい。
「しかたがない」
  ショーンはくるりと振り返って、追っ手と向かい合った。
  左手でスラリと、愛用の細身の剣を抜く。「おまえら逃げろ!  オレが食い止める!」「昨夜ケガをさせてしまって、きょうは危ないところを助けてもらって、それはないよ」
  キアンも一緒に振り返って大弓を構える。「ショーン、わたしなんか放っといて、あなたこそ逃げて!」
  すがりつくスピカを、ショーンは派手に突き飛ばした。
「早く逃げろ!  無事に逃げおおせたら、
『力』を使ってチャンスをうかがい、助けに来てくれ!」
  スピカは泣き出しそうになるのを必死でこらえ、片足を引きずりながら必死で逃げた。「ショーンだ!  昨夜もブルータス閣下のお屋敷に乱入して、キーファー将軍の命を狙った札付きだぞ! 殺すな、生け捕りにしろ!」
  憲兵隊の叫ぶ声がだんだん大きくなる。
「さぁ、おまえも逃げろ!」
  ショーンはキアンのほうを横目で見て言った。
「嫌だ。昨夜のことも、きょうのこともぼくに責任がある」
「キアン、兵士を斬ったのはオレだ。
  なぜわざわざおまえをたきつけるようなことをしたのか教えてやる。それはおまえが伝説の大弓を持っているからだ!  おまえがケルト再興の鍵を握る一人だからだ!」
「この大弓は父の形見だ」  キアンは言った。「ショーン、おまえの言っていることがぼくにはよくわからない」
「そのうちわかるさ!  くれぐれもその大弓を大切にしなよッ!」
  押し問答をしているうちに、憲兵隊が回りを取り囲んでしまった。
  かれらは楯を前面に押し出しながら、ジリジリと輪をせばめてくる。
  ショーンは剣をグサッと地面に突き刺して自分はドカッとあぐらをかいた。
  キアンも大弓と短剣をそっと地面に置くと、ショーンのまねをして座り込んだ。

  ローマの牢獄は満員だった。
  シーザーに逆らって、いまだに自由な政治活動を復活させようとして捕まった者、ショーンやキアンのような少数民族の反逆者、無実の罪に落とされた者、それから本物の殺人犯に泥棒と、それこそ毎日いくらか闘技場のライオンの餌にでもしないと、すぐにはちきれてしまいそうだ。
  キアンの入れられた牢は、そのもっとも奥の、太陽の光のささない、暗くてひどい湿気に満ちたところだった。
  彼の正面の鉄格子の中には、白骨死体が無造作転がっている。
「どうやら、きょうは獅子の餌にならずにすみそうだな」
  遠くの牢のほうから、ショーンの声が聞こえてくる。
「すみませんでした。ぼくのために、大切な右手が…」
  キアンは言った。
「大の男が安っぽく謝るな!」
  ショーンが怒鳴り返す。
「キアン、キミもローマの滅亡とケルトの再興のために闘っているのだろう?  それならオレたちの仲間だ!」
「ぼくはいいなずけのブリジットの行方を捜し、部族の仇であるキーファーを討ちにきたんです」
「すると何か、キミは、もし仮にブリジットとやらを助けだし、さらに首尾よくキーファーを討ったら…」
  ショーンの言葉つきがあからさまな嫌悪感を帯びてきた。
「そりゃあローマを滅ぼして、むかしのように、部族連合の国を再興したいけれど、少ない人数ではとてもそこまでは無理だよ」
  キアンは弱音をはいた。
「バカーッ!」
  牢獄じゅうに響き渡る声だった。
「おまえを伝説の大弓の継承者と見込んだこのオレがあさはかだった!」
  声は怒りに震え、殺気さえ帯びていた。
「どうして…」
  キアンは泣き出したくなった。牢獄の中でたった一人の知り合いに罵られてしまうなんて。
「…なぁ、キアン、つらいことを言うようだが、ブリジットさんはきっともうローマ人どもに  めちゃくちゃにされている。オレたちとともに立ち上がって闘おう!  そして、ケルトの部族連邦を復活させよう!  ブリジットさんの悔しい、辛い気持を慰めるにはそれしかない」
  ショーンはキアンをたきつけようとした。「でもローマはあまりにも強大だよ…」
  キアンは蚊の鳴くような声で言った。
「なんという腐れ果てた根性だ。まだお会いする光栄に恵まれてないが、ブリジットさんはきさまなんかにはもったいない女性だ!
  きさまが同じケルト人だなんて、オレには到底許せない!
  待っていろ!  いますぐここを出て、その首をへし折ってやる!」
  鉄格子をガシャガシャと揺する音が聞こえてくる。
  キアンは体じゅうから冷や汗が吹き出した。
  牢番たちがすっ飛んできた。
「コラーッ!  やめろッ!」
「なんてやつだ。鉄格子をねじ曲げかけている。そんなに体もごつくないのに」
「手枷足枷をいちばん重いやつに取り替えて水牢に放り込め!」
「離せ、オレは八つ裂き刑でもいいが、その前にあの腐れ果てたヤツの頭をたたき割ってやるんだ!」
  憎悪に満ちた唸り声はだんだんと遠ざかり、ついには聞こえなくなった。
  キアンはホッとした。
  それにしても自分はなにか気に触るようなことを言っただろうか?
「やれやれ、ケルト人というヤツは、その場の感情に動かされやすい、とは聞いていたがまさかこれほどまでとはね」
  別の離れた牢から野太い声がした。
「キアン、とか言ったな。もっと冷静になれ。おまえさんの言っていたことは間違ってねぇ。
  大きいものには逆らわず、長いものには巻かれて、そのなかで自分自身のごく小さな幸せを見つけて、金を貯められるときはしっかり貯めて、愉快に暮らせばいいんだ」
「あなたは?」
「そのブリジットさんとやらは、きっとローマのお偉いさんに大事にしてもらってるさ。 無事見つけ出して駆け落ちできるように祈ってるよ。
  ただ、そのためには『駆け引き』が大切だ。ローマ人の大好きな駆け引き、がな」
「駆け引き、ですか?」
  彼は聞き返した。
「そうだ。おまえはケルト人だな?」
「はい」
「だったら、ローマ人とものを言うときは気をつけろ。それから、さっきのヤツみたいなやつは特にヤバいと思え」
「ショーンが、ですか」
「そうだ。かと言って両方ともバッサリ手を切るのはもっといけない。それはいちばんヤバい。付かず離れず、つねに適当な距離を置いて付き合うんだ。ブリジットさんを助け出すにはそれが一番近道だ。わかったな?」
「おじさんは?」
  おじさん、と呼ばれて相手は少し気を悪くしたようだった。
「オレはバルガス、ローマ人だ」
「バルガスさん、あなたはどうして捕まったんですか?  シーザーに逆らったんですか」「おれか…  オレはな…」
  答えにくそうだった。
「オレは物心ついたときから海賊だ」

  スピカの右足は、逃げる時にころんだ傷がもとでまだ痛んでいた。
  だが、ショーンが牢の中でひどい目にあっていると思うと、いても立ってもいられなかった。
  非力な自分がショーンを助ける手段は一つしかない。以前から、もしもこういう危機に陥ったら試そうと考えていた方法だ。
  スピカは、かねて用意しておいたキーファー愛用の黒いマントを羽織った。これで、どこから見ても彼女の双子の姉、ヴェガだ。
  ヴェガがキーファーにくっついて、政治犯の取り調べに当っているということは、ローマで知らない者はない。
  大胆にも牢獄の門まで出かけていって、衛兵に命令する。
「キーファー将軍麾下、占い師のヴェガです。将軍のご命令で、きょうはわたし一人です」
「いくらヴェガ様でも、将軍がご一緒でないと…」
  衛兵たちは案の定渋い顔をした。
「職務に忠実なのは結構なことです。しかしすぐすみます」
「そうですか…」
  衛兵が二人、彼女についてきた。
  スピカは『力』でショーンが地下牢に捕らわれていることを読み取った。
「ヴェガさま、わたしたちはこのままずっと、しがない牢番で一生を終わるのでしょうか?」
「そんなことはありません」
「本当ですか?」
  衛兵たちは嬉しそうな顔をした。
  ひとけのない通路にさしかかったのを確かめて、スピカは衛兵たちにアテ身を食らわした。衛兵たちは音もなく両脇にくずれ倒れた。「…あななたちはクビになるでしょう!」
  スピカはすばやく着ていた服を脱ぐと、衛兵の装束を奪って素早く身につけた。
  衛兵たちから読み取った通路をたどって地下牢にやってくると、拷問でぼろぼろにされたショーンが鎖でつながれていた。
「ショーン!」
「スピカ…」
  スピカはショーンを助け出した。
「キアンは?」
  ショーンに肩を貸しながらスピカが尋ねた。「あんなヤツ放っておけ!」
「どうして?」
「見損なったんだよ!」

  キーファー将軍は機嫌が悪かった。
  他でもない、ブルータスから「シーザーじきじきに東方派遣軍総指令官の話があったけれども、丁重にお断りした」という話を聞かされたばかりだったからだ。
(東方派遣軍総司令官といえば、なりたくて仕方のなかった役職ではないか。権力も小さくなく、総督への足がかりとしても十分である。自分はずっと以前から、一介の将軍で終わりたくはないと、自分自身に言い聞かせてきた。またとない機会だったのに…
  ブルータスしても、本当は自分の胸ひとつにしまっておきたかったのはやまやまだろうが、ヴェガが目の前にいては、隠しごとは不可能だから、言ってくれたに過ぎない。
  そのヴェガは、「ブルータスはいずれシーザーを倒して天下を取るから逆らうな」と予言している…
  だからこそ、政治犯の取り調べという、小役人がやるような仕事も嫌がらずに勤め上げていると言うのに、だ…)
  そんな訳で、キーファーはきょうも彼の大好きな大がかりな供揃えもなく、彼と揃いの黒マントに身を包んだヴェガをチャリオットの脇の乗せて、わびしく牢獄へとやって来た。
「おや、ヴェガさま…」
  とたんに衛兵たちは真っ青な顔になった。「どうした?」
  キーファーが鋭く尋ねる。
「ヴェガさまはさっきお一人で…」
「きっと妹のスピカでしょう」
  本物のヴェガは眉一つ動かさず静かに言った。
「…報告には、ショーンを捕まえた、とあるので救いにきたのに違いありません」
「門を堅く閉じろ!  ネズミ一匹出すな! 
…それはかえって好都合だ!」
  キーファーが命令した。

  ショーンは牢番の装束を奪い、スピカの肩を借りて逃げようとしていた。
  途中、不審に思った衛兵が尋ねられた。
「おい、どうした?」
「牢番どうしのケンカだよ」
「ちょっと待て!」
  ショーンは取り返したばかりの剣を抜いた。
  スピカも剣を抜いた。
「脱獄だ!」
  衛兵たちも剣を抜き、遠巻きに下がる。
「一人はショーンだぞ!  拷問で弱っているとはいえ、油断するな!」
「ちょっと待て、いまキーファー閣下が来られた。焦らず追いつめろ! 袋のネズミだ」
  キーファーと聞いて、二人の顔が歪んだ。
  牢番と衛兵たちに、少しずつ後退を余儀なくされたショーンとスピカは、キアンたちが捕まっている牢に閉じこもり、内側から鍵をかけ、バリケードを築いた。
「バカなやつらだ!」
  牢番の兵士たちの嘲笑う声が聞こえてくる。
  スピカはキアンの捕まっていた牢の鍵を開けてくれた。
「ありがとう、スピカ」
  礼を言ったものの、キアンは気が気でなかった。ショーンが憎悪に満ちた目でこちらをにらんでいる。
「姉ちゃん、オレも出してくれ!  自慢じゃないが終身刑なんだ!」
  バルガスが頼み込んだ。
「あんたはこのまま入っていたほうが長生きできるぜ」
  ショーンが言ったが、息も絶え絶えだった。
  キアンはスピカから、大弓と矢筒と短刀を返してもらった。
  バリケードを蹴破る音が響く。
  キアンは入口に向かって弓を構えた。
「関係ない者は許し、罪に問わない」
  キーファーの声が重々しく伝わった。
  ショーンは血走った目で、スピカは例の不不思議な光の宿った目で、それぞれキアンを見た。
  キアンは細く開いた扉の向こう目がけて矢を射た。
  突入してきた五六人の衛兵がが、次々と胸を射抜かれ、折り重なるように倒れた。
  その腕前のあまりの見事さに、統率のとれた兵士たちも思わず尻込みし、新手を繰り出すことを諦めた。
「矢はまだまだたくさんあるぞ!」
  キアンは大向こうに叫んだ。
「いいぞキアン!  その調子だ。ブリジットさんを救うことも、キーファーを討つことも、故国再興もきっと夢じゃない!」
  キアンにはそう言うショーンがニヤリと笑ったように見えたが、それは単に痛みのせいだったかもしれない。
「オレも出してくれ。恩に着るからさ!」
  バルガスが再び頼んだ。
「死ぬわよ」
  スピカが忠告した。キアンはスピカの持っていた鍵を引ったくると開けてやった。
「ありがてえ!」
  キアンは初めてバルガスの姿を見た。期待にたがわず、プロレスラーのような雲をつく大男だった。
  扉の隙間に黒いものがチラリと見えた。
  キアンは二の矢を放ちかけた。
「待って!」
  スピカはキアンの右腕にすがりついた。
「姉さんよ!」
  ヴェガは女一人がやっと通れるような隙間をかいくぐって、一人でやってきた。
  間近で見ると、その不思議な光を放つ黒い瞳は、妹そっくりだった。
「姉さん!」
「ヴェガ!」
  スピカとショーンが叫んだ。
「スピカ、おまえだけでも投降しなさい。命乞いをしてあげます」
「イヤです!」
  スピカは姉に向かって剣を構えた。
「キアン、伝説の弓の継承者ですね?」
  ヴェガの問いかけに、彼は思わず大弓を下げた。
「…ブリジットを探しているのですね?」
「そうだ。なぜあなたまで知っているんですか?」
  キアンは言い返したが、体が震え始めた。「ショーン、こんなことになって残念です。わたしは、あなただけには幸せになってもらいたかったのです」
「そのセリフ、そのまま返すぜ、ヴェガ」
  ショーンは剣を杖に死力をふり絞って立ち上がった。
「オレには何もないのかよ?」
  バルガスが言った。
  ヴェガは半ば無意識にバルガスの心を読んだ。
  スピカももしや、と思って彼の心を読んだ。
  そして二人ともさっと顔色を変えた。
  バルガスはキアンの入れられていた向かい側、例の白骨のいる牢に入ると、その拳で床の一部分を一撃した。
  床はバラバラに壊れて、穴が現れた。
「ここがオレの以前の別荘でさ!」
  バルガスは不敵に笑った。
「そしてこの骨ちゃんは、オレのかわいい子分で、根気だけが取り得だった男だ」
「キーファー、早く来て!」
  ヴェガが呼んだ。
  穴へはバルガスを先頭に、スピカ、ショーンの順番に逃げた。
「キアン、おまえも早く来い!」
  ショーンの促す声が響く。
  バリケードを蹴破って、キーファーが現れた。
  キアンは矢を射かけた。
  キーファーはキアンの矢をハッシと手掴みで受け止め、爪楊枝のようにへし折った。
「小僧、きさままでオレの出世の邪魔をするのか?」
  将軍は驚くほど穏やかな声で言った。
「おまえこそ、ぼくの大切なものばかりを…」
「キアン、早くしろ!」
  ショーンが戻ってきた。
「この不始末のことが知れたら、オレは百人隊長に格下げされるかも知れないんだぞ!」
  怒髪が天を突き、目が鬼のように吊り上がった。
  まっしぐらにキアン目がけて斬りかかって来る。
  キアンは渾身の力を込めて弓を引き絞った。
「おまえこそ、ぼくの一番大切なものを!」
  目にも止まらぬ早業で放たれた矢は、怒りに我を忘れたキーファーの右肩に命中した。
「小僧、何度も見させてもらったが、つくづくいい腕だな」
  相手は構わず迫ってくる。
「お待ち下さい閣下」
  ヴェガがさえぎった。
「あの大弓は確かに伝説のケルトの大弓です。閣下には帝国での出世以外に、もう一つ、ケルトの財宝を我が物にするという目的があったはずでは?  ならば、伝説の弓と竪琴をあいまみえさせるのもまた一興かと」
  将軍は左手で突き刺さった矢を抜き、唇を歪めた。
「そうか… そういうことだったのか…
 やはり持つべきものは優秀な占い師よ!
 小僧、ブリジットの居場所を教えてやる。ローマ郊外、シーザー閣下の別荘だ」
(シーザーの別荘!)
  キアンは飛び上がって喜んだ。
(彼女は無事で、いまもそこにいるんだ!)
「一つ警告しておく。オレはいままでオレの出世を邪魔したやつらは、一人残らず必ず葬ってきた。…いまはちょっと理由があって見逃してやるが、この次は必ずそうしてやるから覚えていろ!」
  キーファーは抜き取った矢をキアンに投げ返した。
  キアンが穴に潜り込むと、矢がえぐるようにして地面に深く突き刺さった。



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