弓と竪琴

   第四章


                8

  明けて欲しくない夜が、しらじらと明けてきた。
  二頭の馬に分乗したキアンとブリジットは、それぞれが白い旗を掲げ、ローマ軍の陣地に赴いた。
「ブリジット、ぼくはやはりこんなことは嫌だ!  降伏しても首をはねられるのに決まっている!」
  キアンは馬の背につっ伏した。
「ぼくらだけだったら…」
「わたしたち二人だけだったら身軽だから、逃げてみよう、というつもりなの?」
「それはやりたいけれどできない…」
「でしょ?」
  一時間後の命もわからないというのに、ブリジットはまるで平和だった日々、まるで狩りに行くみたいに明るく言った。
「キミはよくそんなふうにしていられるな」「だって堂々としていないと、代表には見えないでしょう?」
  ほどなく、かれらはローマ軍の陣地の前に着いた。二人がこちらにやってくるのを知っていたようでかして、百人隊長たちに囲まれた、一人の聡明そうな将軍が立っていた。
  二人は馬から降りて、キアンは震える声で降伏する旨を述べた。
「わたしはローマの将軍オクタビアヌスである。賢明かつ潔い判断、誉めてつかわそう」
  オクタビアヌスは威厳をもって言った。
「時にキアンとやら。おまえは戦士か?  戦士ならば降伏を受理した瞬間、首をはねねばならん。まだ子供ならば、ローマに送って人質として賓客扱いとなるが、どうだ?」
  ブリジットをはじめ、一同の視線がキアンに集まった。
「ぼくは、戦士です」
  キアンはキッパリと言った。かすかにうるんだブリジットの目は誇りと賞賛に輝いた。
「意地を張りたい気持はわかるが、そなたはどこから見てもまだ子供だ」
  オクタビアヌスは苦笑した。
「父親の名はなんと言う?」
「言えません!」
「なにッ!」
  隊長たちが殺気だった。
  オクタビアヌスがさっと手を差し出して制止する。
「で、降伏の条件は?」
  キアンは考えてきたことを言った。生存者全員の命の保証。奴隷にされない保証。土地を耕す権利の保証。その代わり政治…税金や徴兵の権利など…はローマに渡す。
  話しているうちに、隊長たちの間からクスクスという嘲りの笑いが起こった。
「とても飲めない条件だ」
  オクタビアヌスはキアンが語り終えるのを待って、静かに言った。
「戦士は全員死刑。女子供や老人は奴隷とする。土地や財産を含め、すべての権利はローマが没収する…これ以上は譲れないな」
  キアンとブリジットの瞳に激怒の炎が燃え上がった。
「戦士の助命はかないませんか?」
  ブリジットは渇いた声で尋ねた。
「一度も戦うまえならいざ知らず、おまえたちは一度戦っただろう?」  オクタビアヌスは射るような目でブリジットを見つめ返した。「例外を設けると、噂となって次の抵抗を生む…」
  ブリジットはハラハラと涙を流した。
「ローマの人々には心というものがないのですか?」
「なんだとッ!  小娘!」
「野蛮人の分際で何をぬかすか!」
  隊長たちは軍刀の柄に手をかけて、切りかかろうとした。キアンはとっさに彼女をかばった。
「待て!  使者に向かってなんということをする?」
  オクタビアヌス自らが止めに入った。
「閣下、使者を切って宣戦布告するのもわれわれの勤め!」
「バカなことを申すな。われわれにも心があるところを見せてやろうではないか」
  オクトーバーは合図を送って二人が帰る道を開けさせた。
「帰って皆と相談するがよい。相談がまとまれば狼煙を上げろ」
  キアンとブリジットはオクタビアヌスを睨みつけ、お互いに促しながら帰った。
「閣下、よいのですか。あの少女はまぎれもなくシーザー閣下がお捜しのブリジット!」「少年のほうも、現在アレシアに立てこもっている敵将の子息と思われますが?」
  詰め寄る部下たちを無視して、彼は一人の腹心の隊長を呼び寄せ、自分の指揮杖を手渡して命令した。
「あの子たちを無事に村まで送り届けろ」
  その様子を天幕の向こうから盗み聞きする、一つの大きな黒い影があった。
「甘い!  なんと甘い!  そのために昨日、三○○○騎の大半を失ったブリジットではないか!  どうしてすんなりと捕まえてしまわないのか!」
  影はそうつぶやくと、黒いマントを翻らせて、馬小屋に急いだ。
  対してオクタビアヌスのほうは、二人を送り返したことに満足していた。
『ケルトの人々は、決して野蛮人でもなければ、教養のない人々でもない。むしろ版図拡大のために、特にこれといった落ち度のないかれらに戦争を仕掛けたわれわれこそ、「野蛮人」であろう。しかし、歴史の水車が回りはじめた以上、ちょっとやそっとでは止められん…
  あの勇敢な子供たち、わたしの気持を悟って、無事に落ち延びてくれればいいが…』
 彼は長期戦を予測して造らせた水車小屋の水車を眺めて思った。
 水車は当時の発明品だったが、「水車は奴隷の仕事を奪い、暇になった奴隷は思想を学ぶ」という理由で、発明後しばらく禁止されていたものだった。

  キアンとブリジットはションボリと肩を落として、無言で村への帰路についた。そのあとを、オクタビアヌスの命を受けた隊長が一人、ピッタリと尾行してくる。
「あいつ、いったい何のつもりだろう?」
  キアンは馬を止めて振り返った。
「多分、あの将軍がわたしたちに付けてくれた護衛よ。コッソリと無事に逃げるように」「この後に及んで逃げるなんて、それこそ卑怯だ!」
  キアンの決意にブリジットもコクンと大きくうなづいた。
「その通り!  おまえらにはおまえらにふさわしい運命があるのだ!」
  そう声が響いたかと思うと、顔には覆面をした黒マントの将軍が飛び出した。
「その声は、キーファー将軍!」
  ブリジットはたちどころに相手の正体を見破った。
「さてと、キーファーとはだれのことかな」
  相手は馬上のまま、スラリとケルトの長剣を抜いた。
  馬上のまま、いつものようにサッと弓を構えようとしたキアンの右肩に激痛が走った。
  腱を斬られたことを忘れていた…
  護衛の隊長は、オクトーバーから預かった部隊の指揮杖を振りかざして三人の間に割って入った。
「キーファー、抜け駆けは許さん!」
「オレが本当にキーファーかどうか、腕づくで確かめて見ろ!」
  キーファーはそう言うなり、長剣をビュンと振るって、隊長の持っていた指揮杖をまっぷたつに斬った。
「おのれキーファー!  自分のしていることが分かっているのか?」
  激怒した隊長も剣を抜いた。
「邪魔するな、どけーッ!」
  鎧袖一触、キーファーは隊長を、指揮杖と同じように頭からまっぷたつに斬り捨てた。
「さてと、これで邪魔者は消えた。ちなみにこれは、野蛮なケルト人の仕業…キアン、きさまの仕業…だからな!  さぁブリジット、いい娘だからこっちへ来るんだ!」
  キーファーは血に染まった剣で手招いた。
  腱を斬られて弓は引けないはずのキアンは何もかも忘れて、死に物狂いで弓を弾き絞った。ビュンと弓弦を響かせて、乾坤一擲、矢が放たれた。キーファーはカシーンとそれをはたき落とし、同時に馬の腹に拍車を入れたかと思うと、サッとブリジットの馬に並び、彼女をその黒マントに包み込んだ。
「キアン!」
  彼の名を呼ぶ息づかいが聞こえる間、ブリジットは彼に手を差しのべた。
  が、こんな至近距離なのに、キアンは馬から泥の中にすべり落ち、二の矢を構えることすらできない…
「くたばれ!」
  キーファーは投げ槍を泥につかってピクリとも動かないキアンの背中に向けて投げつけようとした。その瞬間、ブリジットは彼の腕に噛みついた。間一髪、投げ槍は砂土の中にそれた。
「このアマッ!」
  キーファーは彼女の胸に当て身を入れて気絶させ、鞍の上に二つ折りにして置くと、キアンにとどめを刺すべく馬から降りかけた。
  とそこへ、味方を案じたローマ軍の騎兵の蹄の音がパカパカと聞こえてきた。
「チッ、まずい!  運のいいヤツめが!」
  キーファーは馬に鞭をピシリと当てると、そのまま森の中に逃げた。
「ブリジット!  ぼくは必ずキミを助けに行くッ!」
  キアンは泥の中を這いずるようにして、ようやくのことで林の中に身を隠した。
「おおっ、隊長がやられている!」
「あの恩知らずのケルト人どもめ!」
  騎兵たちの罵る声がかすかに聞こえてくる。「もう許せん。一人残らず皆殺しだ!」
  木陰に隠れ、息をひそめていたキアンは、よほど「違うッ!  これはッ…」と叫びかけたが、震えて声が出ない…
  いまは何を言っても信じてもらえないのは目に見えている。
「よーし、早速帰って戦闘準備だ!」
  騎兵たちはくつわを並べて急ぎ陣地へと戻っていった。
  キアンは一人、こみあげてくる涙をこらえながらトボトボと歩いた。途中、ブリジットがローマ軍の兵士たちになぶりものにされているところを想像しては、「ワーッ!」と獣のような声を上げて叫んだ。
『すべてを失ってしまったんだ!』という気持が頭の中に逆巻いて、『あの娘さんが言っていた通り、死んだほうがマシだったんだ』という考えが覆い尽くした。
  村の入口で茫然とつっ立っていると、彼に剣をくれた老戦士が走り寄ってきた。
「おお、キアン坊ちゃん。どうでした、談判は?  そのお顔の色ではやはり…」
  キアンはコックリとうなづいた。
「ブリジットお嬢さまは?」
「やつらに…」
  彼はやっとそれだけ答えた。
「坊ちゃんお気を落としなく。天が見放さなければ、また救い出すこともできましょう」「やつらが攻めてくる…」  キアンは乾いた声でつぶやいた。「戦の準備を。今度はぼくが先頭に立つ!」
「はい!」

「さぁてブリジット、いい子にしているんだぞ。黙っていれば、このキーファーが、村を攻める重装歩兵部隊に手加減するように言ってやろう。キミの惚れているキアンが助かる確率が高くなるぞ!」
  キーファーは部下に彼女の両手を後ろ手に縛らせながら、言った。
「…おい、あまりきつく縛るなよ!  大事な両手なんだからな!」
  しかしブリジットは、直感で相手の嘘を見破った。…キーファーにそんな権限も、黒幕としての力もない。ただのハッタリだ!
  準備が整うと、キーファーは彼女をシーザーやオクタビアヌスたちの前に引き出した。「見かけより頭の良い子でして」  キーファーはうやうやしく拝謁した。「わたくしめを頼って投降してきたのです。…そうだな、ブリジット?」
  シーザーの刺すような眼光と、ブリジットの挑戦的な視線が宙空でぶつかって火花が散った。
『これが…  シーザー!』
  彼女の瞳は怒りに燃え、取り押さえていた兵士たちを振り解いて迫ろうとした。
『おかしい。つい先ほどまであれほど誇りに満ちていたあの子が投降するなんて…』
  理性的なオクタビアヌスが疑問を深めるよりも先に、ブリジットは行動に出た。
「みんなの仇ッ!」
  慌てたキーファーは彼女の頬をぶった。
「閣下のご威光のまえに動転したのでしょう」「違うな」
  シーザーはポツリと言った。
「そなたがブリジットか?  わたしがローマの統領(コンスル)で終身独裁官のジュリアス・シーザーだ。すでに会ったらしいが、こちらはわが養子で副将のオクタビアヌス…」
「おまえがシーザーか!」
  キーファーがまた殴ろうとするのを、シーザーは制した。
  ブリジットは堰を切ったように訴えた。
「オクタビアヌスも!  いいことを教えてやる。おまえが見送りにつけてくれた隊長を斬ったのはケルト兵ではなく、ここにいるキー
ファーだ!」
  ゴクリと固唾を飲むキーファー。オクタビアヌスは『ああやっぱりな。ヤツならやりかねん』といった表情で顔をそらせた。
「痴れ言です!」
  キーファーは叫んだ。
「その通り。気丈なケルトの姫は、必死でわれらの仲間割れを誘っているのだ」
  シーザーは認めた。不満の表情で義父の眼を覗き込むオクタビアヌスー…  しかしシーザーの鋭い瞳はこう言っていた。
『義息よ、おまえは甘い!』
  ブリジットは眉一つ動かさずに、シーザーの目を睨み続けてからこう言った。
「早く殺せッ!」
「姫よ。そう命を粗末にすることはない。このシーザーも、若い頃シチリアの海賊の捕虜になったことがあるのだ。ヤツらはわたしを人質にして元老院から身代金を取ろうとした。その金額があまりにもみみちいので、わたしはこう言ってやった。『オレをだれだと思っている?  天下のシーザーだ!  ローマ中の金貨よりも値打のある男だッ!』」
  シーザーは台の上から降りてきて、彼女の髪をなぜた。ブリジットはまた思い切り身をくねらせて衛兵を振り解き、シーザーに噛みつこうとした。
「おまえを見ていると、ジュリアのことを思い出す…  老いぼれのポンペイウスなどにくれてやるのではなかった…」
  オクタビアヌスは、キーファーが一瞬『しめしめ』いった狡猾そうな表情を見せたのを見逃さなかった。
「本国ローマには、ケルトの族長たちから恭順のしるしに差し出された幼い子供たちが大勢暮らしている。ブリジットよ。そなたの竪琴で、その子供たちの気持を慰めてはくれまいか?」
  ブリジットはまばたきもせずシーザーの目を見続けた。そして振り絞るような声で言った。
「断ったら?」
「子供たちの中には望郷のあまり食事を摂らず、死にかけている者もおる」
「卑怯なッ!」
「もう一度訊く。どうだ?」
「ケルトの歌を歌ってよいのなら…」
  彼女は瞳を堅く閉じ、涙を飲んで譲歩した。「それはダメだ。こちらで許可するローマ風の歌に限る!」
「あなたはわたしたちをどこまで苦しめたら気がすむのですか?」
「ローマにもいい歌がたくさんあるぞ」
  シーザーはその無骨な指で彼女の頬をなぜた。が、もはやさすがの彼女も抵抗する力も気力もなくなっていた。
「好きになさい…」
  ブリジットの声についに絶望の吐息が混じった。キーファーは小躍りして喜んだ。
  オクタビアヌスは義父の、相手を完全に屈服させる力に改めて驚嘆した。

  キアンは村の入口の小高い丘の上で、くだんの老戦士ら、ほんの一握りの人々と共に、今度は大軍を率いて現れるであろうローマの軍団を、固唾を飲んで待ち構えていた。もはやすでに狼煙を上げる約束の時間はとうに過ぎて、薄日の太陽は天の真ん中から少し滑り落ちている。
  最初、それは地面が動いているかのように見えた。実際は地面を、蟻の入り込む隙間のないぐらい、正方形に埋め尽くした人間…兵士の集団が、一糸乱れぬスピードで、ゆっくりと歩いて来ているのだった。
「重装歩兵(ファランクス)だ…」
  老戦士は感極まった様子でつぶやいた。
  キアンが本当のローマ軍の進撃を見るのはこれが初めてだった。鈍い銀色に輝く麦を植えた畑のように、魔法の力で動く巨大な絨緞のように、それは刻一刻と動きつつ接近してきていた。絨緞は一枚ではなかった。凸の字状になった一反を真ん中にして右に二枚、左に二枚、そのそれぞれの後ろに後続があり、さらにそのまた後ろにも続いていることは間違いなかった。やがて、視野のすべてが蠢く兵士たちの密集隊形で占められた。
 いまもスポーツ大会のオープニングのエキジビションで行われる入場行進やマス・ゲームなどは、これらの示威行動…もともとは戦闘行動そのものの名残であると伝えられている。
 突然、ザックザックという地鳴りのような音が左右の耳から聞こえてきたかと思うと、脳髄の底まで響く重低音で、身体じゅうを駆け巡った。
  キアンは痛む腕で弱々しく構えていた弓矢をダラリと下げた。体じゅうの血が絶望で腐り、凝固してゆく気がした。
『あれがヤツらの正体だ。あのおびただしいほどの数の無機的でまるで人形のような兵士の集団こそ、シーザーの真の姿…いやローマの本当の姿なのだ』  キアンはくらくらとして、もうまともに考えることすらできなくなっていく頭で考えた。『力では、無論比較にならない。愛が通じるような連中なら、こんな無理無体なことはしてこない。すべては空しい抵抗だったんだ…』
  波のような軍団の中から、中央に突出していた絨緞の一枚から、まるで移動する兵隊蟻のような一列縦隊の兵士たちが、触手のように進み出て、細く長い横一列に並び、それぞれが同じ高さに長方形の盾をかざして進んできた。
  少しも急がずあわてない、悠然とすら感じるスピード…
  兵士たちの顔の表情がかすかに見えた。判で押したように、全員無表情である。ケルト兵のように奇声で威嚇するものもなく、戦う前から勝鬨を上げることもしない。ただ、何も考えず、そうしているのが一番楽であるかのように歩いてくる。
  呆然と眺めているうちに、第二、第三の横一列が発生し、さざ波のように押し寄せてくる…
「行くぞッ!」
  老戦士と残りのケルト兵士たちは、いまや津波のようにあたりを圧するまでに接近したローマ兵士の最前列に向かって突撃をかけた。「坊ちゃん、おたっしゃで!」
  ついて行くつもりが、キアンの足は動かなかった。まるで金縛りにあったかのように立ち尽くしていたキアンは、大きな岩の上に投げられて投げられて砕け散ったガラスのコップのように、最後の味方が撃破され、皆殺しにあったのを見た。それはまるで火打ち石の火花のようにあっけない最後だった。
  キアンはもう一度、夢遊病者のようにノロノロと弓を引き絞った。矢尻の先はブルブルと震え、一尋を飛ぶこともできない様子だった。
  太陽は翳り、冷たい北風が吹きはじめ、頭と体は依然として熱っぽく、計り知れない絶望が癌のように体じゅうに巣喰ってしまった。『ブリジット、ブリジット助けて!』
  彼は心の中でうわごとみたいに何度もつぶやいた。
  死刑執行人の列は、無表情のままいっせいに軍刀を振り上げた。黙って一歩前に歩み出せば、すべては終わり、永遠の安らかな眠りにつけるはずだった。
「イヤだッ!」
  彼はそう叫ぶと、二、三歩あとじさりし、それから敵の大軍に背を向けて逃げ出した。無論敵の列はうしろへと回り込んでおり、輪を狭ばめるようにしてキアンを取り囲む。逃げるところがないほどまでに追い詰められて、彼の心は不思議に変わった。もはや逃げる所は一寸もなく、戦う手立てもない。すべての神に見放され、祈りは一かけらさえ届かない。『こうなったら、最後に一つ、自分の好きなことをして死のう…』
  そう思ったキアンは無心に空を振り仰いだ。皮肉なことに、彼にしか見えない遥かな雲の合間には、一羽の白い鳩(古代より平和の象徴)が飛んでいるのが見えた。
「よし、あれでいい。何が平和だ! 何が幸せだ!」
  彼はそうつぶやくと、腱を切られた右腕で軽く矢をつがえた。兵士たちに向けていた時の心の乱れはどこへやら、矢尻の先はピクリとも動かず、あたかも天の星を狙うかのように張り詰めた。
「見てろよ、ブリジット!」
  矢はビュッという唸りを上げて、まっしぐらに天空へと消えた。
  剣の長さまで詰め寄った兵士たちは、からくり人形のようにいっせいに軍刀を振り上げた。しかしキアンはもはや目を背けることもなく、それらの白い輝きをジッと凝視していた。剣が振り下げられようとしたまさにその瞬間、空から何かが落ちてきて、剣の背に当ってバウンドし、地面に落ちた。
  驚いた兵士たちは一瞬本能的に引き下がり、その落下物を確かめた。
  それはキアンが狙った白い鳩だった。
  突撃隊の最前列にいたキーファーが、めざとく鳩の足に小さな伝書管がついているのを見つけた。
「待て!  早まるな!  殺すなよ!」
  彼は部下たちに向かって鋭く命令したあと、キアンに剣の林を向けさせておいたまま、サッとしゃがんでその鳩を取り上げ、まずキアンの矢筒の中にある矢と同じ矢かどうか抜け目なく確かめながら、その矢を抜いた。次に当然、伝書管の中の手紙を広げて読んだ。
「判じもの(暗号)だ。オクタビアヌス閣下に届ける」  キーファーは怒鳴った。「…こいつを殺してはならんぞ。あの高さの鳩を射れるとは大した腕前だ。続きも射落とさせよう!  先のオレの失態を帳消しにしてくれるような、重大な内容かもしれない!」
  キアンの全身から冷や汗が流れた。
『えらいものを射落としてしまった!  もし味方の、ケルトの鳩だったらどうしよう?』
  ほどなく彼は後ろ手に縛られ、槍で背中を突かれながら、再びオクタビアヌスの前に進み出た。
「いましめを解いてやれ」  オクタビアヌスは重々しく言った。「これは頼みではない」
「イヤだ!」
  一度、いや何度も死んで、とうとう覚悟の固まったキアンは、髪の毛を掻きあげて不敵に笑いながら答えた。
「もう一度この次の鳩を射落としてくれたら、自由と通行手形を与える」
  相手は辛抱強く言った。
「だますつもりだろう?」
「なんならそっちの条件を言え」
「ブリジットを逃がしてやってくれ」
「あの娘はシーザー閣下直々の賓客、もはやわたし一人の力ではどうにもならぬ」
「じゃあ断る!」
「おまえの自由を保証する、と言ってやっているんだ」
  オクタビアヌスの言葉の響きの中に、ほんのかすかに『機会をうかがって助けに来い』というニュアンスが加わった。自分に対す報償のことだけを考えていたキーファーは、まさかキアンが三度自由を手にするとは、夢にも考えていなかった。
「通行手形なんかいらない。ぼくは、あんたたちの文字を見たって分からない。それが本物の通行手形かどうか確かめる術がない。その代わりあんたの軍団きっての名馬を一頭もらう!  ぼくが選ぶという条件で」
「よかろう。おまえの理屈はもっともだ」
  オクタビアヌスは眉一つ動かさなかった。。
  キアンは廐舍の中から気にいった一頭を選び、再び先ほどの場所に戻った。彼が選んだ馬は、他でもない、オクタビアヌス自身の愛馬だった。
 いつのまにか北風の中に白いものがまじっている。村の燃えかすかと思って手に取ると、それは彼の手のひらに冷たい感触を残して溶けた。キアンは目を閉じて思った。
『もう少し早く降ってくれていたら…』
  そしてパッと目を開き、天を仰ぐと、粉雪が天を満たすように舞い始めていた。
  先ほどのように多くはないが、オクタビアヌス直属の六○名の精鋭の騎兵が、彼を取り囲んでいる。
  キアンはキッと空の一角を狙った。薄暗い太陽は西に沈まんとしている。
『あの伝書鳩がアレシアの父上のものだとしたら、もう一羽射落とすと、確実にこいつらに全文を読まれてしまう…』
  キアンはもう鳩が飛んでこないことを祈った。
  がしかし、雪空に鳥影がきらめいた。今度は兵士たちの中で目のよい者も見た。
「鳩だ!」
  槍ぶすまがいっせいにキアンに向けられた。「約束だ。射落とせ!」
  オクタビアヌスは叫んだ。
  キアンはサッと弓を引き絞った。傷口が開いて、新たな血が上着を染めた。
「やれッ!」
  瞬間、矢はヒュッと消えた。
  鳩が切りもみしながら落ちてきた。矢はささっていない。
  さらに鳩とその足の伝書管は空中で別れ、中の書面は飛び出して、空中を旗のように舞った。
「きさまッ!  わざと管を!」
  さすがの冷静なオクタビアヌスの顔も、かすかに朱に染まった。
「約束通り鳩は落とした。さらばだ!」
  キアンはヒラリと馬にまたがって鞭を当てた。駿馬は彼の指名に答えて、敵の囲みをひらりと跳び越えた。
  鳩は地上に激突する寸前、意識を取り戻したかして、急上昇で空に戻って行った。
「追えッ!」
「どっちを、ですか?」
  オクタビアヌスはしばし絶句し、それから息を吸い込んで命令した。
「少年…  いや、書面だッ!  書面を追えッ!」
  騎兵たちは雪の中を嘲るように舞っている書面をドカドカと軍靴の音を響かせて追った。
「よーし、落ちてくる…」
  キアンを諦めたオクタビアヌスは、落ちてくる書面に手を差しのべ、ニヤリと笑った。
  次の瞬間、火矢がシュッと飛んできたかと思うと、書面は風にあおられてボッと燃え上がった。オクタビアヌスは火傷するのも構わず手ではたいて消そうとしたが、ようやく消し止めた時にはあらかた燃えてしまっていた。
 ハッとして振り返ると、逃げたはずのキアンがまだ指呼の間にいて、弓矢を構えている。
「まさか… こんなことができるのか」
  オクタビアヌスが呟いた。
「閣下、感心している場合ではございません」
  馬を駆けさせつつ振り返ったキアンが笑っているのが見えた。
「追えッ!  絶対に逃がすな!  殺せッ!」
  オクタビアヌスは叫んだものの、もはや何も期待はしていなかった。あの馬は乗り手を選ばない、自らの軍団で一番の名馬だったからだ。
  書面は彼の軍人としては華奢な手のひらの中で黒い灰となった。
  
  易々と追っ手から逃げ切ったキアンだったが、すでに陽はとっぷりと暮れ落ちて、まっ暗な空には一面粉雪が降り続いていた。
  馬を乗り捨て、小さな洞穴を見つけて、そこで休むことにしたキアンは、ホッとした拍子にドッと疲れが出て、眠ってしまいそうになった。
「いけない。このまま眠ったら凍え死んでしまう!」
  彼は枯れ枝を見つけて焚火をおこした。
  腹も減っていた。すっかり困った。養父母の家での料理や、ブリジットのそれを思い出すと、また目頭が熱くなりそうだった。だが、とうとう我慢の仕方を覚えてしまった。そして死んだようになって眠った。

  翌日、彼は目が覚めるなりふらつく足取りで獣を取りに出かけた。痩せたリスでも、ウサギでもいい。もうとにかく一時言っていたような贅沢な考えはどこかに吹っ飛んでし
まっていた。
  緊張が解けた肩には、またひどい痛みが戻っていた。けれども、彼は何とか獲物を取り、料理し、捌いてむさぼり食った。
  やっと、人ごごちがついた。不安や恐怖は相変わらず時折ドッと襲ってきた。ホッとしたのはほんのうわべだけだった。
  夜が明けると、外は一面の銀世界になっていた。
『危ない、危ない…  もうちょっと冷え込んでいたら、たとえ焚火をしていても凍死するところだった』
  パンとか着るものも必要だし、何よりも人恋しくなった彼は、狐などの射止めた獲物を束ねて山を降りた。恐る恐るあたりを見回すと、ローマ軍の大陣地のあったところもただの雪野原と化していた。
  キアンは夜になってから、闇にまぎれて隣村のユダヤ人の商人の店に立ち寄った。
「キアン坊ちゃん、よくぞご無事で!」
  商人は低くささやくと、彼を衝立の陰に案内した。
「すみません、坊ちゃんはお尋ね者なので」「ぼくも迷惑がかかるのを承知で来た」
「いまでもなんだかんだと言っては因縁や難癖をつけてきているのに、全ガリアの征服を終えたら、ローマ軍は今度はわが祖国、ユダヤ王国に本格的に侵冦してくるでしょう。そうなったらえらいことです…」
  キアンはコックリとうなづいた。
「さぁ、これが当座の旅費です。これは偽造品ですが、本物の台紙を使った通行証と自由民であることの証明書です」
  彼はそう言って一連の書類を渡した。
「ありがとう…」
  キアンは心の底から礼を言った。正直言って彼もまた『ユダヤ人はよそ者である』という普遍的な偏見を持っていたのだが、この厚意でいっぺんに吹っ飛んでしまった。
 当時は、いまでいうような人種差別はなかった。あったとすれば、「勝ち組か負け組か?」ということだけで、出身や身体的特徴は二義的なものだった。その意味ではローマはアメリカよりも進化した多民族国家だった。
 さらに、ユダヤ人が「金に汚くなった」というのはこののち、ローマ軍に攻められ滅ぼされ、世界中を放浪して回るようになってからである。以後二○○○年間、祖国がなかったかれらにとって、金銭は唯一のよりどころとなったからだ。
「どうかシーザーたちの首ねっこを射抜いて下さい。そうすればエルサレムにいるわたしの一族も枕を高くして眠れます!」
「とても…  とてもそんな…」
  キアンは口惜しげに唇を噛みながら店の外へ出た。

  二、三日歩くと、最初の国境にさしかかった。そこはアルプスとピレネーにはさまれた天然の燧道(トンネル)で、冬場のアルプス越えは自殺行為だった時代の、ローマの警備兵たちが厳重に固めるかなめの関所だった。
「次ッ!」
  キアンの番がやってきた。いままで幸運にも証明書の提示を求められたことはなかったので、これが最初の関門だった。
「身分証明書と通行証を出せ!」
  キアンはできるだけ落ち着き払って証明書を渡した。受け取った隊長はそれを穴が開くほどジロジロ読み、それから「お尋ね者」の似顔絵をチラチラと眺めた。
  幸いなことに、流布された似顔絵はもともと余り似ているものとは言えなかった。
「フン!」
  相手は証明書を放り投げて返した。それを拾ったキアンは軽く一礼して出口に向かおうとした。
「ちょっと待てい!」
  キアンの前で衛兵たちが槍をガシャリと交差させた。目を見開いたキアンは、背筋にゾッとした感じが走るのを覚えた。
『あのユダヤ人め!』
  一瞬疑いの心がムクムクと湧き上がった。「その証明書には『職業・猟師』と書いてあるが、どの程度の腕前なのか?」
「大したことありません。食い詰めたので、ローマで仕事を捜そうと思って…」
  キアンはわざと卑屈な態度を装った。
「わしは一生のほとんどを検問官として捧げてきたが、『大したことない』というヤツに限って凄腕なのだ」
「本当に情け無いような腕でして…」
「情け無い腕で、どうしてそんなに大きな弓を持っている?」
「父から相続したものです」
「じつは昼から、人喰い熊の退治にいくのだ。そちも加勢して欲しい!」
  張り詰めていた緊張が急速にしぼんだ。
「お役に立てるかどうか…」
「小僧、わしは頼んでいるのではないぞ!
わしでなくても、ローマの人間は敗戦国の人間にものを頼んだりはしないのだ!」
  隊長の言葉に嘘はなかった。キアンたちが馳せ参じると、冬眠もせずに雪山をさすらっている巨大な熊が、怒りの形相凄まじく、犬たちを蹴散らし、兵士たちが突き出す槍を奪って頭を叩き割るなど、傍若無人の暴れかたをしていた。
  猟師たちがいっせいに矢を放つ。しかしそれらの矢は弱々しく、かろうじて熊の体に命中しても、簡単に引き抜かれるような浅い傷しかつけることができなかった。
  キアンはその熊に見覚えがあった。
「森の王ッ!」
  熊もその顔をキアンに向けた。
「わからないのか?  ぼくだ!」
  キアンは弓矢を構えずに歩一歩近づいた。熊もなぶりものにしていた猟犬の死体をごみのように放り捨てると、キアンのほうに歩いた。
「ぼくだよ!  忘れたのか?」
  手を差しのべようとするキアンに向かって、熊はいきなり、鋭い爪をむき出しにして張り手を繰り出してきた。
  キアンは間一髪首をすくめてそれをかわした。
「森の王!  ぼくだ、キアンだ!」
  とうとう自ら名乗ってしまった。
「フフフ、バカめッ!  こっちはその一言が聞きたかったのよ!」
  検問官が指をパチリと鳴らすと、熊にかかっていた兵士や猟師たちがいっせいに引いた。
「人喰い熊とキアン、ローマに仇なすものが互いに戦ってどちらかがくたばる。われわれは残ったほうをやっつける。これこそ一石二鳥よ!」
「『キアン』と聞いて森の王のこめかみがピクリと動いた。
「思い出してくれ、キアンだ!  ブリジットは捕まってローマに連れ去られた。助け出しに行きたいんだ!  手伝ってくれ!」
  熊の瞳から凶暴な炎が消え去り、穏やかな理性の光が戻りつつあった。振り上げた手をソッと下ろし、逆立たせていた毛を寝かせた。『キアン…』  相手は静かに語りかけてきた。『わたしを殺してくれ!』
「なぜ?」
『獣を、獣としか扱わない人々の前で、わたしはついに狂った。いつかも、頼んだことと思う。…人を襲うようになったら殺せ、と。いまのわたしはお世辞にも穏健とは言えない。だから、かつて友だちだったおまえに頼んでいるのだ』
「イヤだッ!」
  キアンは弓矢を捨てて叫んだ。
「あんなことがあった後だ。だれだっておかしくならないほうが変だよ!」
『繰り返して言う。どんなひどい世の中でも、優しさをなくした者に嘆き悲しむ資格はない…』
  予想していなかった事の成り行きに、検問官たちはあわてた。
「えーい、いまのうちにやってしまえ!」
  十人の猟師の十の矢尻がキアンと森の王に向いた。森の王はキアンをかばうかのように一歩前に出た。
  矢がいっせいに放たれた瞬間、キアンは森の王の前に出て、飛び来る矢を自分の弓でなぎ払った。
「もうかばってもらうのはたくさんだ!」
「しゃらくさい!  やれッ!」
  検問官は命令した。猟師たちは山刀を抜き、同じ数ほどの兵士は槍を構えた。
「キアン、おまえには目的があるのではなかったか?」
  森の王は冷静に尋ねた。
「ああ」  キアンはうなづいた。「ブリジットに『必ず助けに行く』と約束した」
「だったらこんなところで雑魚どもを相手にしている場合ではないはずだ。ここで奴等の全員を倒したところで、手柄にはならんし、かえって追っ手の追及が厳しくなるだけだ。逃げろ!  人間はわれわれとは違って大変適応力の強い動物だそうじゃないか?」
  敵がまた攻撃の輪を縮めたが、キアンはもう慣れっ子になっていた。
「そうさ、助かると思えば、どんなに卑屈にもなれるし、嘘もつけるんだ」
「ブリジットが耐えている屈辱を考えろ!
おまえに万一のことがあると、彼女の一条の希望も消えるのだぞ!」
  森の王は片手でキアンをつかんだかと思うと、自ら兵士たちの前に打って出て、槍を奪って暴れ、その隙にキアンを突き飛ばした。「さぁ早く走れ!  いまはただ何とか生き延びることだけを考えるんだ!」
「熊は猟師どもにまかせろ!  おまえらはあの小僧を追うんだ!」
  検問官は命令したが、暴れ熊はいまだに猟師たちを寄せつけず、それどころか大きな木を根こそぎ引き抜いて、キアンを追おうとした兵士たちに向かって投げつけた。二,三人はその下敷きになり、残りはそれにつまづいたり転んだりした。
  キアンがチラッと振り返ると、木を抜く時に防御ができなくなった森の王は、無数の矢と槍を受け、断末魔の咆哮を上げていた。キアンは涙を散らしながら駆けだした。国境を越えるということだけが一抹の希望を与えてくれた。…たとえどの国境を越えてもローマの息のかかった土地であったとしても。

  エピローグ

  一ヵ月後。
  彼は比較的ローマの影響力が薄い、とある寒村に、流れ者の猟師として住み着いていた。
  実の父たちがローマとの決戦場として選んだアレシアへ行って合流するつもりはなかった。もう戦争は懲り懲りだった。何か問題を解決しなければならないにしても、戦争だけは選んではならないと、骨身に染みた。
  彼は貂や鼬、兎、かわうそ、それに冬眠しない熊などを狩っては糊口をしのいでいた。
  猟師としての彼の腕は抜群で、北風がつらい掘っ立て小屋は冬至の祭りを待たずに丸木小屋に変わり、漆喰が張られた。暖炉では薪が赤々と燃え、貯金もたまりつつあったが、彼の心は寒々としていた。
  ローマから来た隊商や、反対にローマに向かう行商人に少なくない心づけを渡し、ブリジットの消息を調べてもらうように尋ねたが、いまのところなんの手がかりもなく、返事もなしのつぶてだった。
『ダメなのか、それとも調べあぐねているのだろうか?』
  さすがのキアンも心が弱り、村の行事や祭りに加わるでもなく、新しい友だちを作るでもなく、鬱々とした毎日を送っていた。
  ある暖かい雪の朝、開いた木窓の外に、村の少年少女が雪合戦をしたり雪兎を作って遊んでいるのを見た。
  無心に遊ぶ子供たちに、彼はブリジットやほかの友だちや、自分自身を重ね合わせた。飛び出していって一緒に遊びたいという衝動にすら駆られた。しかし彼は、傷痕が痛々しく残ってしまった右肩の膏薬を張り替え、弓矢を背負うと、山へと向かった。
「なんとかしなければ」と焦る気持と「いまのままでもなんとかやっていける」という諦めが秒刻みに主導権を争っていて、心の平安は得られなかった。
  それが消えるのは、獲物を見つけ、狙い、仕留める瞬間だけだった。仕留め、売り払い、小金を貯めても、シーザーやオクタビアヌス、キーファー、それにルーははるかに遠い存在になってしまっていた。
  きょうはノロ鹿をはじめ、ことの他大物が手に入った。
  時を経ずして彼は、その村に必要欠くべからざる男になった。冬至の祭りのための珍獣や珍鳥の肉や、贈り物用の毛皮の注文をひっきりなしに舞い込んで、気がついた時には、勢子や犬を雇わなければ捌ききれないぐらいの注文を受けてしまっていた。そしてなおもそれは日々増え続けていた。
  一度断り損じると、来年の春、夏の注文も受けざるを得なかった。果ては彼のことを知ってか知らずか、ローマの田舎駐屯軍の司令官から「一ヵ月金貨三十枚で弓術の教官として招きたい」という話まできた。これは、地方駐屯軍の百人隊長よりずっといい給料だった。 …無論危険なので丁重に断ったが…
  冬至の祭りを控えたある吹雪の晩、ロウソクの光でローマの絵地図と「旅行者用の帝国語」の本をぼんやりと眺めていたキアンは、ドアをコンコンとノックする音を聞いた。
 ローマ人たちの言葉…ラテン語…は、前から話すことは出来たが、必死で勉強していまでは読み書きもできるようになっていた。
『もしや、心づけを渡した商人が、ブリジットの情報を持ってきてくれたのでは!』
  そう思ってドアを開くと、そこには中からワインの瓶が覗いているバスケットを持った、彼がいつも買物をする近くの日用品店の末娘が立っていた。
「あの…」  娘は恥ずかしさのあまり何も言えない様子だった。
「まぁ、入って、暖まってから帰れよ」
  照れて寡黙だった二人も、料理を食べ、酒を飲んでいるうちに打ち解けてきた。
「キアンには、もう好きな人がいるの?」
  どうも持参した酒というのは、キアンへの差し入れというよりは、自分自身を勢いづけるためだったらしい。
「ああ…」
「その人はローマにいるのね?」
「ああ」
「じゃあいつかローマに行くのね?」
「うん」
「じゃあ、それまででもいい!」
  娘はかろうじて聞き取れるような声でそう言った。
「えっ?」
「うううん!  何でもない!」
  娘は持参したもう一つの布袋を開いた。そこには小さな竪琴が入っていた。
「わたし、これ、弾けるのよ!」
  娘は楽しそうに言ったが、一番思い出したくないことを思い出してしまったキアンは息を飲んだ。
  しかしすぐに立ち直って、微笑んだ。娘の演奏はブリジットとは比べ物にはならなかったけれど、愛嬌のあるものだった。
  一曲弾き終えると、彼は彼女を促して、家まで送っていった。
  いつの間にか吹雪はやみ、澄んだ冬空にオリオンの三つ星がまたたいている…
  いまになってやっと、彼は故郷の村を焼け出されてから初めて、遠い空を見ている自分に気づいた。



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