弓と竪琴

   第二章

                  3

  朝日が地平線に昇った。
  直立不動の旗手の持つアクイラ…馬印、ちなみに「ガリア」とはラテン語で雄鳥のこと。かれらと初めて出会ったローマ人は、雄鶏を馬印に奉じる部族であったために、彼等らを「ガリア人」と呼んだ…が黎明にキラキラと輝く。
  キアンの村の戦士たちは、思い思いの形をしたまっ平な盾…ローマ軍は標準化された反りのある日本の機動隊員が持つような長方形の盾…と長剣や槍を構えて、ローマ軍お得意の密集隊形(ファランクス)の重装歩兵が進撃してくるのをいまかいまかと待ち構えている。
  太陽がさらに少し上がった。
  族長クラスの指導者たちや、身分のある戦士たちはそれぞれの従卒に鎧の着付けを受けた。ケルトでは身分のある者しか鎧を着れず、武器の他には盾と鎧と兜だけの、裸体に近い服装で戦った。かたやローマ軍は奴隷兵士も鎧を着ていた。だが、キアンの実の父親はもはやその中にはいなかった。夜のとばりがおりているうちに、最精鋭を率いて、最後の決戦場であるアレシアに向かったからだ。くれぐれもキアンのことを頼む、と、親友である養父に頼んでからのことだった。
  こっそりと忍び込んだ納屋の中で、目が醒めたキアンとブリジットが、村を囲む土塁の上から、昨夜のローマ軍陣地のほうを見渡すと、かれらは別に急いで攻めてくる気配もなく、矢倉の上ではケシ粒のような兵士が背伸びしてあくびしていた。
「倉と村に火を放つ準備を!」
  鋭い声が飛び交った。収穫をすませたばかりの満杯の倉の周囲には油が撒かれ、十分明るくなったにも関わらず、篝火の数が増やされた。
「なにをボーッとしているんだ、間抜け!」
  昨夜合流したらしい、他部族の敗残兵が、キアンの矢筒が空なのを見て、矢を満たんに投げ込みつつ叫び走り去った。
「キアン、わたし牛たちが心配だわ…」
  ブリジットの言葉に促されて、二人は養父母たちの家…かれらの家に戻った。そこでもちょうど油が撒かれ、薪が置かれ、乳牛たちが外に出されて屠られるところだった。
  乳牛たちはすでに自分たちの運命を悟っているのか、悲しそうな目でブリジットのほうを振り返った。いつもと変わらずにリンリンと鳴るカウベルの音も今朝は哀れを誘った。「やめてッ!」
  ブリジットは両手を広げて、大きな棍棒を振り上げた戦士の前に飛び出した。
「ブリジットお嬢さま!  まだ村にいらっしゃったのですか!」
  戦士たちは目を剥いて呆れた。
「もうてっきり山のほうに落ち延びられた、と思っていました」
「さぁ、ここは危険です。だれかに案内させますので…」
「嫌だッ!  離せッ!  乳牛たちと一緒でなければッ!」
  彼女は可愛がっていた一頭の首にしがみついた。
「聞き分けのないことを申されますな!  牛は豚と違って山へは連れていけません。このままでは穀物同様、ローマ軍の物となり、奴らの腹を膨らませるだけです。それよりも、われらの戦の食事として供されたほうが、牛たちにとってもどんなに幸せか知れません」「………」
  彼女が泣きじゃくりながら牛を納屋に戻そうとするのを、キアンが押し留めた。
「キアン坊ちゃん!  あなたまで!」
「お父上のご命令はお聞きになったでしょう?」
  戦士たちは目を吊り上げてキアンを非難した。
「あなたさまのお役目はブリジットお嬢さまを守って落ち延びることのはず…」
「ほかの者はみな、あなたがた二人をはじめ未来のある子供たちの盾となって死ぬ覚悟なのですぞ!」
「ぼくだってもう大人だッ!  弓だってこんなに大きなものが引けるんだ!」
  ブリジットは乳牛を守り、キアンはその彼女と戦士たちのあいだに割って入った。
  戦士たちは困り果てた。ちょうどそこへ、きらびやかな鎖かたびらに身を包んだキアンの養父と、ブリジットの養父が戻ってきた。 戦士たちが説明する前に状況を察知した彼は、まだ牛たちをかばっている彼女の前にツカツカと歩み出ると、パァーンと頬も裂けよとばかりに彼女をぶった。
  ブリジットはふっ飛んで、納屋の壁にしたたか打ちつけられた。
「これから大勢の人が死ぬ。牛はその前に死ぬ。そんな当然の理屈がなぜわからぬ?」
  ブリジットは何も言わずに、涙で濡れた目で養父を見つめた。
「わしは父上にあわせる顔がない。おまえをちゃんとした姫として育てると、固く約束したというのに…  凛々しく育ったのは外見だけだったとは…」
「そんなんじゃあないやい!」
  今度はキアンが飛び出して、彼女と、彼女の養父のあいだに割って入った。
「ぼくが昨日、ローマの斥候(偵察要員の古い言い方)をかれらの陣地の近くまで深追いして、逆に危なくなった時、ブリジットが助けてくれたんだ!」
  相手は『やれやれ…』と肩を落とした。
「いまさら言っても遅いのだろうが、キアンよ。自然の法則というのは弱肉強食なのだ。人間もその例外ではない」
  今度はキアンの養父が進み出て、無表情につぶやいた。
「でもぼくらも孕んだ獣や、まだ小さい獣は狩らないじゃないか!」
「それはとどのつまり、そうしたほうが得だからにすぎない。いまは損でも、長い目で見ると、という意味だ。父上もおっしゃったように、われわれはローマには勝てない。口では『力をあわせて』とか、『歯を食いしばって』とか、なんとでも言える。局地的な勝利も夢ではないだろう。しかしどう頑張ってみたところで趨勢は変わらぬ。だからと言って投げやりにもなれぬ…」
「ブリジットよ、よくお聞き」  彼女の養父は乳牛の頭をなぜてやりながら続けた。「わしはおまえ以上にこいつらを殺されたくない。せっかく貯えた穀物だって焼きたくない。だが、おまえたち幼い者が殺されるのは、自分が八つ裂きにされるよりも辛い…」
「たぶん、われわれが頑張れば頑張るほど、おまえたちが幸運にも命長らえて、捕虜に
なった時、ローマ軍はこう考えるだろう。
『あれだけ頑強に抵抗した連中の子弟だ。たとえ奴隷にしても、また暴れて鎮圧のための軍隊を出すのが関の山だ。それよりは、いっそ見せしめのために全員の首をはねたほうが得だ。…それとも、ある程度の自由と自治を認めてやるか』」
  キアンの養父が結んだ。「反対に、皆が皆ルーのように、ニヤニヤと作り笑いを浮かべてアッサリ帰順したら、かれらはきっとこう思うだろう。『なんと自尊心のない連中だ。よし、こいつらには生まれつき奴隷根性があるから、子々孫々まで奴隷にしてやれ』」
「わかりましたお養父さま。ブリジットはどんなことがあっても、心の中までローマの物にはなりません!」
  ブリジットはしゃくりあげながら謝ると、ダッと駆け出して去った。
「ブリジット!」
  キアンはすぐにそのあとを追いかけた。
  村を囲む土塁の上に立ったブリジットは、手にした竪琴を取ってつま弾き、静かに故郷の山河を愛でる歌を歌った。歌声は澄んだ秋の風に乗り殺気立つ味方の戦士たちをなごませ、山に逃げようとする女子供や老人たちに、早くも懐郷の念を起こさしめた。さらにそれは、かなり離れたローマ軍陣地のシーザーの天幕まで届いた。
  彼女の曲を聞くと、敵の将軍や兵卒、さらにはかれらに従軍している武装商人…戦闘で手に入れた戦利品や捕虜や奴隷をすぐさま換金してくれる、略奪者にとってはとても便利な存在…ですら、みんなピタリと立ち止まって聞き耳を立て、話しかけようとする僚友を制し、矢倉に登って聞こえてくる方角を眺めた。
「美しい竪琴だな…」
  ローマ軍の総司令官であるジュリアス・シーザーは、略奪品である黄金のグラスになみなみとつがれたラインラントの赤ワインをすすりながらつぶやいた。
「ケルト人どもが言うように、輪廻転生できるものならば、今度生まれ変わる時には、政治や戦略といった野暮ったいものではなく、美しい詩と楽の音がわかる人間に生まれ変わりたいものだ」
  彼は押し黙る幕僚たちを従えて、望桜の上に登った。
「歌声もまた、素晴らしい。わたしの前で演奏する楽士たちの音曲の裏には、みな野心が満ち満ちている。勇ましい軍歌や行進曲はそれでよいのだろうが、かように悲しい歌は、心底悲しい思いをした者にしか歌えぬことであろう」
  幕僚たちは「御意」と言いたげに、一斉に小さく黙礼した。
「あの村だな。あの村から聞こえてくる…」
  シーザーはなおも耳をそばだてた。
「あの村はいつ誰がどのように攻める手筈になっておるか?」
「ケルト人のキーファー将軍が、あの村から寝返った戦士たちとともに、明日…」
  側近の一人が低い声で答えた。
「われわれはなにもしなくてもよいのか」
  シーザーはつぶやいた。「哀れなものよのう。それでかような切ない歌を歌っておるのか…」
  幕僚たちは聞き惚れた。中にはこっそりと鎧の袖で涙を拭う者すらいた。地上に目をやると、百人隊長(センチュリアン)や兵士たちもみな泣いていた。
「そのキーファーとかに伝えろ!」シーザーはキッパリと命令した。「あの竪琴弾きは絶対に傷つけることなく生け捕るのだ。失敗は許さん、と…」
「かしこまりました。密偵の報告によりますと、ヤツらはすでに建物に油を撒き、覚悟を固めた様子。なんとかするように申し伝えましょう」

「ブリジット!  そんなところで!  敵の矢に当ったらどうするのだ?」
  涙に濡れながら土塁の上で竪琴を奏でていたブリジットは、彼女の養父とその部下に引きずり降ろされた。
「何度言えばわかるのだ?  キアンと一緒に山へと逃げ、再起のチャンスに賭けるのだ」「わかっています。ブリジットはこの美しい村に最後のお別れをしていたのです」
「『最後のお別れ』だなんて、そんなのイヤだッ!」
  なおもだだをこねるキアンを促して、ブリジットは歩きはじめた。
「行きましょうキアン、勇ましいケルトの中においても養父さまたちの武勇はまた格別。そうやすやすと負けるはずがないわ…」
「そうかな…」
  渋るキアンの手を引っ張るようにしてブリジットは険しい山のほうに面した北の入口を出た。

  その日の昼近くになってもローマ軍は攻めては来ず、息をひそめて待ち構えていた、キアンとブリジットの養父らに率いられたケルト軍を拍子抜けさせた。時おりかれらの陣地から中隊や大隊がザックザックと繰り出して「すわッ!」と思わせるのだが、その軍隊はみな街道へ出るコースを取り、村へはやってこなかった。
「おそらく連中もアレシアへ、キアンの父上が向かわれた砦に向かうのだろう…」
  キアンの養父はブリジットの養父に言った。

  山奥の、女子供や老人が避難した洞窟とキャンプにたどり着いたキアンとブリジットが見たのは、不安と焦りに苛立つ人々の姿だった。キアンは早速鳥を取って喝采を浴び、ブリジットはここでも竪琴の演奏をして人々の心を和ませた。
「どうして、どうして一緒に戦わせてくれないのだろう?」
  弓を握りしめた拳を小刻みに震わせるキアンに対して、昔は一流の戦士だったという老人がポツリと言った。
「強い者弱い者、全員が村に留まれば、玉砕戦になる。勝算が五分五分かそれに近い時はそうすべきじゃろうが、今回のようにまったく勝目のない戦では、おまえの養父さんたちの取った作戦が正しい」
「なぜだ?」
「一度に皆殺しになることがないからじゃよ。…おぬし死ぬということがどういうことか、判っているんじゃろうな?」
「決まってるさ!  生まれ変わるんだ!」
  キアンは胸を張って答えた。
「その通り、ここにいる赤ん坊は皆、年老いて死んだ者や、今度の長い戦で死んだ者の生まれ変わりじゃ。…しかし、その赤ん坊までが殺されたらどうなる?  赤ん坊を生むことのできる若い母親が殺されたらどうなる?」
  老戦士とキアンが見つめていることに気づくと、赤ん坊に乳を含ませていた母親は恥ずかしそうに顔を赤らめた。
「また別のところで生まれ変わるんだ!」
「別のところ、と言うと、エジプト人にか?ユダヤ人にか?  それともローマ人にか?」「バカ言うなよ、爺ちゃん、ぼくらと同じケルト人に決まってるじゃないか!」
「しかし奴らはローマ人は、いま至るところでわれらの同胞を殺し、われらの土地や宝を奪い取っておるのじゃぞ!」
「だからたとえ一矢でも報いたいんだ!」
「その気持は判る。わしら年寄はもうこんなふうに、おまえたち若い者を諌めることくらいしか出来ぬが、キアンよ、われらの転生を保証してくれる、ブリジットをはじめとする若い娘や子供たちを守ることも、また立派な戦士の勤めとは思わぬか?」
「………」
  その時、別の一人の母親が取り乱して走って来た。
「大変ッ、坊やたちの姿がみつからないの!狼の出る沢のほうへ行ってたら…」
  キアンはそれを聞くなり走り出した。
「キアン待って、わたしも!」
  ブリジットは竪琴の他に、再びキアンのお古の弓矢を手にして続いた。
「おまえは残っていろ!」  というキアンの命令も聞かずに。
「羨ましいのぅ…  若い頃のわしと、死んだ婆さんにそっくりじゃ…」
  駆け出していく二人を見て、老戦士は思わず目を細めた。

  行方不明になった子供の名を呼びつつ山野を走り回っていたキアンとブリジットは、知らないうちに自分たちがずいぶんと遠くへ来てしまったことに気づいた。そこは、二人がかつて一度も来たことのない土地で、植物の葉の形も花の色も、キアンたちの集落の近くのものとは少しずつ違っていた。葉は鋭角的で花は毒々しく、茎は刺を持ったものが多かった。吹いている風さえもよそよそしく、北の異境を感じさせた。
「ぼくらも道に迷っちゃったのかな?」
  キアンは不安そうに言った。
「そんなはずはないわ。少し走っただけじゃない!」
  ブリジットはあたりを見渡して目印の一本杉やドルメンを捜そうとしたが見あたらなかった。ようやく捜し当てたドルメンの一つは、ローマ軍によって粉々に破壊されていた。
  うろうろしているうちに、どこからかかすかに子供の泣声が聞こえてきた。
「すわッ」と思った二人が駆けつけると、案の定行方不明になった子供たちが数頭の狼に取り囲まれ、身を寄せあって震えていた。キアンはすかさず弓矢を構えた。
「待って、いま何頭か倒しても、残りがあの子らに襲いかかったらおしまいよッ!」  ブリジットは身を挺してキアンの前に立ちふさがった。「わたしにまかせてッ!」
  ブリジットは大急ぎで背にした竪琴を手に取ると、動物をなだめる時の曲をつま弾いた。「ブリジットお姉ちゃんだ!」
「キアンお兄ちゃんも!」
  抱き合って諦めていた子供たちの顔にパッと輝きが戻った。
「ジッとしていろッ!  必ず助けるッ!」
  キアンが叫んだので狼たちも振り返った。すると、それらは皆キアンたちの村の近くでは見たこともない感じの狼だった。種類がどうとかと言うのではなく、どれもが残忍で冷酷な顔をしていた。ブリジットは懸命に竪琴を演奏した。しかし狼たちはその美しい音色を嘲笑うかのように子供たちを取り囲んだ輪を縮める。
「ダメだわ!」  ブリジットはまっ青な顔をしてキアンにすがった。「あの狼たちは、いつものと違うわ。まるで別の世界から来たみたい…」
  ブリジットは竪琴を背中に戻すと、腰に差した守り刀をスラリと抜いて、大声で叫びながら突進した。
「わたしのほうがおいしいわよッ!」
  狼は二手に分かれ、一手はブリジットを迎え撃つために踵を返し、もう一手は予定通り子供たちに飛びかかった。
「わ!ッ!」
  目をつむって抱き合った子供たちのわずか手前で、首筋を射抜かれた狼がドサリと倒れた。キアンは一度に三本の矢を射た。目にも止まらぬ速さで引き絞った矢を離すと、それぞれの矢はまるで目をを持っているかのように、飛びかかろうとする三頭の狼の命を奪った。彼は駆け出しながら二の矢、三の矢を放った。ようやくのことで子供たちに向かっていた狼を全部やっつけたと思ったら、子供たちが叫んだ。
「お姉ちゃんが!」
  振り返るとブリジットが多数の狼に追い詰められて岩壁を背にしていた。
「ブリジット!」
  彼が叫びながら次の矢を射、その次を構えかけた時、狼たちはいっせいに彼女に飛びかかった。子供たちは一瞬目を閉じた。
  が、キアンは見た。絶体絶命のブリジットの前に立ちはだかって狼たちを手づかみで蹴散らす壁のような大きな生き物を。それは森の王だった。
「よかった…」
  キアンが助け出すと、彼女は彼の腕の中で気を失った。森の王のぶ厚い手をかいくぐって襲い続けてくる狼を、背中で子供たちをかばい、片手にブリジットを抱きながら、彼は腰の狩猟ナイフを抜いて切り殺した。
「くっそう、ここは一体どこだ?  どうなっちまったんだ?」
  応戦しながらキアンが尋ねると、森の王がやりきれない様子で答えた。
「ここはローマ軍の通った道。おまえたちはローマ軍の占領地の内懐に回り込んでしまったのだ。ローマは美しいガラスを作ったり、武器を作ったり、冶金をしたり、染色をしたりするのに計り知れないほどの薪や石炭を使う。その量は、とてもおまえたちケルト人の比ではない」
  強い味方である森の王が加わったことで、狼たちは諦めて逃げ散った。ブリジットもようやく目を醒ました。
「ありがとう、キアン」
「礼なら森の王に言ってくれ。森の王が加勢に駆けつけてくれなかったら、みんな狼たちの餌になっていたよ」
「ありがとう、森の王」
  四人は口々に礼を述べた。
「死んだ狼たちの毛皮を集めよう」
「寒い冬を前にして、こうなったら何でも貴重ですものね」
  ひどい目にあったにもかかわらず、子供たちは狼を集めて束ね出した。
「そうしてやってくれ。そうしてくれたほうがヤツらも浮かばれる」
  森の王は断腸の思いで言った。
「それはどういう意味なのか教えて!」
  ブリジットが尋ねた。
「ローマ人は自分たちの贅沢のために森を刈り、動物を殺し、着物の新しい新しい色を作り出すためや、身を飾る金属を得るために山を崩し、川には毒を流す。そこにはもう、われわれの安住の地はない…  だから、太古以来、人間と約束し、お互いにしてはいけない一線を設けて仲良く暮らしてきた動物たちが人間を襲い出しても、われわれには止めることができない」
  キアンはうなだれた。
「もっともだ。しかしローマ人の代わりに、ぼくらケルト人が力を持っていても、遠からずかれらと同じような贅沢に憧れ、同じことをしていたかもしれない…」
「ケルト人は山野の一木一草にも神を見いだす敬虔な人々だ。他を圧することによって大きくなった、すなわち無限の欲望を活動の原動力としている連中なんかと、同じ人間ではないと考えたい」
「だといいんだけれど…」
  ブリジットは悲しそうにうつむいた。
「キャンプまで送ろう。疲れただろう。わたしの背に乗りなさい」
  森の王はそう言って、四人をその大きな背中に乗せて運んだ。
「ローマ軍に見つかってはいけないから、遠回りをするよ」
  途中出会った小さな動物たちは、自分たちの王の姿に立ち止まって最敬礼した。人間が滅多に通らない獣道に実っている野生のリンゴや黒スグリをはじめとする果物は舌がとろけそうなくらい甘酢っぱく、泉の水は命が甦りそうなくらいおいしかった。
  太陽が西に傾き、森の空気がいつしか和んできた気がしたかと思うと、遠くにキャンプの天幕が見えた。
「わぁーい!」
  子供たちは森の王の背中から飛び降りて、一目散に帰っていった。
「お母さんたちにちゃんと謝るのよ!」
  ブリジットもそう言いながら、森の王の背から降りた。ふと王の腹を見て驚いた。ふくよかだった腹はだぶたぶに弛み、毛は艶がなく、触れると骨と筋が浮き上がっていた。
「森の王、これは?」
  彼女は心配そうに尋ねた。
「じつはわしも、ローマ軍に追われてからというもの、満足に餌を食べていないのだ」
  森の王は実際のひもじさよりも、そのことを人間に告げなければならないことが辛そうだった。
「わたし、キャンプに戻ってあなたの食べられそうな物…蜂蜜があったらもらってくるわ!」
  ブリジットが行こうとするのを、森の王は両手を広げて制した。
「そんなことをしてはいけない。他の者に恵んでなどいたら、おまえたちもじきに飢えなくてはならないようになるぞ!」
「だって…」
「キアンにも言っておく。次に出会った時には、ひもじさのあまりわしは正気を失って、おまえやおまえの仲間を襲うかもしれない。そんな時は躊躇せずにこのわしを殺すのだ。殺して、毛皮や残った肉を生かすのだ。分かったな?」
「そんなの嫌だッ!」
  キアンはそっぽを向いた。
「わたしも嫌よ!  けさ可愛がっていた乳牛たちを失ったばかりなのよ。この上、森のお友だちまで失ったら…」
  ブリジットはまたその瞳に、涙をいっぱいにためた。
「何を言う。キアンにはブリジットが、ブリジットにはキアンがいるではないか。われら獣は、元をただせば、神々より(ケルトの神話もローマの神話も多神教)人に仕えるように命ぜられた存在。人は神々より、この地上も神々の世界…すなわち天上の世界と同じくするように命じられた存在。そのことをよく理解しているおまえたちの手にかかることは、ローマ人たちのような虚飾の都の建設者、ただただ己のことしか考えない欲深者に殺されるよりは、よほど幸せと思う」
  森の王はそう言い残すと、静かに樹海へと消えようとした。
「待って、お礼に一曲!」
  ブリジットは竪琴を手に取ると、別れの曲を弾いた。悲しげな旋律が、オレンジ色の夕焼けと、そこここに星をちりばめた夜との濃淡を、闇の帳(とばり)に覆い変えた。
「分かったな。わしがおまえたちを襲ったら必ず殺すのだぞ。『貧すれば窮する』と言うが、戦争だろうが、飢饉だろうが、たとえどんな時にも無法を正法としてはならぬ」
  曲が終わるのと同時に、たくさんの枯葉が舞い落ちた。寒さが襲ってきた。秋の日暮のそれと、心の中のそれが…

  キャンプに戻った二人は、すぐさま夕食の支度に追われた。
  キアンはいつものように「おかわりッ!」と元気な声で空の皿をブリジットに差しだしかけて、ピタリと止まった。今宵はだれも「おかわり」などしているものはいない。
  鍋の番をしているブリジットを見ると、かすかに首を横に振っている。
「どうぞ。わたくし、今夜はどうも緊張のあまり食べられませんから」
  助けた子供たちの母親が、手のつけていない皿を手渡した。
「本当に?」
「ええ」
  彼女はそう言って、膝の上に抱いた子供たちの髪をなぜた。
「じゃあ遠慮なく…」
「きょうも奴らはやってこなかったのぅ」
  老戦士はため息をついた。「なにか、思惑があるのかのぅ…」
「ああ、このまま季節が一夜にして進んで、明日の朝起きたら、一面銀世界の雪野原に なっていたら、と思いますわ。そうしたら几帳面なローマ軍は、何もかも打ち切ってもよりの城砦まで帰って冬営するでしょうに…」 暖かい南イタリア出身のローマ軍は、中央や北部ヨーロッパの寒さと雪や氷の中での軍事行動が苦手で、厳冬期はあまり戦争をしなかった。これを「冬営」と言う。
  母親はいつしか自分の膝の上で眠りについた子供たちに、毛布を着せた。
  泉に鍋皿を洗いに行っていたブリジットはそれを見ると、洞窟や岩穴や天幕の中で眠っている子供や老人たちに余った毛布を配って回った。
「爺ちゃん寝てくれ。ぼく、眠らないで見張ってるよ!」
「すまんのう、キアン。では少し眠らせてもらうことにするかの」
  キアンは狼除けの焚火に、新しい薪を投げ入れた。ローマ軍が今日やってこなかったのは幸いだった。夜の闇に紛れて村へと戻り、おそらく明日こそあるであろう戦に、なんとしてでも加わりたかった。
「眠っているあいだ、剣を借りてもいい?」「いいとも。もはや振り回すことはもちろん、持ち歩くことすら難儀になってしまった剣じゃ。それはおまえにやるよ。今日の手柄のご褒美じゃ。わしは獣を取るための細い槍の一本でもあればよい」
「本当にいいの?」
  恐る恐る剣を受け取ったキアンは、その重さを確かめるように捧げ持った。
「いいとも。あまたの戦の中でも、折れることも欠けることもなかった業物じゃ。大事にしてやってくれ」
「ありがとう、爺ちゃん!」
  キアンは早速剣を佩き、刀身を抜いて月光に照らして見た。その月が高く登り、虫の音に混じってそここでイビキや寝息が聞こえるようになったころ、彼はあたりに気を配りながら、村への道を歩きだした。…それも道を避けて、いつも狩りの時歩いている獣道を…
  村まであと半分くらいのところにある、いまは朽ち果てて使われていない番小屋の近くにさしかかった時、小屋の中からかすかに女のうめく声がした。そっと近づいて覗いて見ると、干し草の上で村の若いカップルが裸で抱き合っていた。穴のあいた屋根から差し込む月の光ではほとんど何も見えないが、娘は自分の髪の毛を口にくわえ、戦士で村に残ったはずの若者は、娘の首筋に顔を埋めて意識して堅く目を閉じている様子だった。
  キアンは喉がカラカラになった。こんな光景を見るのは初めてではなかったが、いつもはそそくさと立ち去るのが常だった。それが今夜はそんな気になれなかった。体は金縛りにあったように動かなかった。
  ある瞬間、パッと目を見開いた若者は娘を助け起こすように抱き起こし、いたわるようなキスをした。肌が白くてほっそりした娘の背中には、汗で藁くずがひっついている。キアンはブリジットのことを思い出した。娘の目には涙が光っている。
「すぐに後を追うわ」
  恥じらいを取り戻し、膝をピタリと合わせて座り直した娘は、声を震わせて言った。
「逃げてくれ」
  娘の膝のあたりに視線を落とした若者の顔色は緊張と興奮とで火照っていた。娘は首を横に振り、いつもそうするのが習慣であるかのように、乱れた髪の仮結いを始めた。
  金縛りの呪縛がようやく解けたことを感じたキアンはゆっくりと後じさった。そこまで用心することはないだろうに、と思うくらい遠くまで後じさって、とうとう石につまづいて転ぶと、そこからは脱兎のように駆け出した。…決戦場である村のほうへではなく、キャンプのほうに向かって。

  キャンプに戻ったキアンがブリジットを捜すと、彼女は彼の代わりに歩哨に立っていた。「キアン、どこにいってたの?」
「ト、トイレだよ」
「あまり長く持場を離れる時は断ってね」
  キアンはブリジットの顔をしげしげと眺めた。長い金髪を頭巾でまとめ。頬に少しだけ紅をさし、男もののズボンを着て、背中には矢筒と竪琴を背負い、お下がりの弓を持っていた。
「ブリジット、キスを…」
「ありがとう」
  彼女は細く白い指を心持ち曲げながら右手の甲を差し出した。
「そうじゃなくって…」
  キアンはモジモジした。
「えっ?」
  少し考えていた彼女は、頬を染めながら、目を閉じて右頬を差し出した。
「でもなくって…」
  ブリジットは目を開いてパチクリさせた。「お別れのキスを…」
「キアン…」  彼女は自分を抱きしめようとした彼に、逆にすがりついた。「わたしと同じことを考えていたのね!」
「『わたしと同じこと』?」
  キアンの口元が思わずほころんだ。
「さぁ早く!  みんなに気づかれないうちに…」
  彼女はキアンの手を強く引いて誘った。
「この辺りでいいんじゃないか?」
  あの若い男女がいた番小屋の近くまで来ると、彼は刈り取ってそのままの干し草の山を指さした。そこは、キアンが野良仕事を抜け出してよく昼寝にくる場所だった。
「そうね、燃え上がりやすくていいかもね」
  彼女のその一言に、キアンは天にも舞い上がりそうになった。
「ほかにもいい場所を知ってるよ!」
「案内して!」
  彼は森のはずれの大きな沼の近くにある枯木林の中の薪の切り出し場に連れて行った。 その沼は二人が罠を捨てた所に似た底無し沼で、樵のほかはあまり近づかなかった。沼には枯葉が降り積もって、一見地面のように見える。
「いいわ、ここで。ここにしましょう!」
「本当にいいのかい?」
  キアンはブリジットの肩を抱いて、ドキドキしながら胸のボタンをはずしかけた。
(昔のボタンは一部木の実を使った以外、本当の貝殻でできていたので、山や森の民族にはそれだけでもオシャレだった)
「なにすんのよッ!  キアンのエッチ!」
  ブリジットは彼を張り飛ばした。
「だってブリジットが『もっと燃え上がりやすいところで』なんて言うから…」
「やだッ!  わたしはローマ軍に対して仕掛ける罠のことを言ってたのよ!」
「でも…」
「あなたもわたしも死にはしない、そうでしょ、キアン?」
  それから二人は黙々と薪を配置し、油を撒いた。と、梟の鳴き声が止まった。
「だれだッ!」
  キアンは矢を射た。暗闇からスッと伸びた手がハッシと矢骨をつかんだ。
「ルー!」
  木立の影から現れた男を見て、キアンはスラリと老戦士からもらった剣を抜き、ブリジットは弓矢を構えた。
「一体なんの用だ?  降伏ならお断りだぞ!」
「ブリジットに用があって来た」  ルーはつかんだ矢骨を片手でポキリと折って近づいてきた。「ブリジット、じつはさる御方がおまえの竪琴を耳にされ、大層気にいられてな。その御方の専属の吟遊詩人になるのなら、この村全部助けて取らせる、とのお言葉だ」
  ブリジットはハッとした。
「罠だッ!  それこそ罠だよ!」
  キアンは彼女にすがりついた。
「嘘じゃない。ローマ軍にとって、こんな
ちっぽけな村など焼き滅ぼしたところで、おいしくもなんともない。おとなしく帰順してくれれば、おまえらは死なずにすみ、われわれは大勢の首をはねるという、面倒な手間が省けるのだ」
  ルーはそう言いながらジリッジリッと二人に歩み寄った。
「ほれみろ、結局『降参しろ』ということじゃないか!」
「キアン、おまえの弓の腕前は素晴らしい」
  相手は猫撫で声を出した。
「そ、そうかな?」
「きっとローマ軍の中でも出世できる。われわれ外国人の傭兵には賞与…ボーナスこそ出ないが、金はそこそこ儲かるし、女はよりどり見取りだ」
「『そこそこ』だって!  ローマ人の正規兵の三分の一の給料しか貰えないのに。ちゃんと聞いて知ってるんだぞ」
  キアンは剣を正眼に構え、ブリジットをかばいながらジリッと下がった。
「だから、われわれケルトでは、一の手柄に対して一しか出世できない。ローマでは一の手柄に対して三、出世ができるんだ。なぜなら、ローマは他国を侵略、従えることによって急成長してきた国家だからだ。オレもこんなやり方が正しいとは思わんが、『寄らば大樹』だぞ、キアン!」
  ルーは鞘ごと剣を構えた。
「正しいと思わない人々になぜおもねるの」
  ブリジットは問い詰めた。
「かれらの論理や思考が優れているからさ。人は誰でも他人よりよい暮らしがしたい、金持になりたい、誉められたいという欲望がある。ローマ方につけば、かなえられやすい!  なにしろかれらはそのために軍団を作っているんだからな!」
「自分さえよければ、あとはどうなってもいいという、そんな人たちの前で弾くなんて、まっぴら御免だわ」
  ブリジットはキッパリと言った。
「世の中だいたいそういうものさ!  おまえらがお人好しなんだよ」  ルーはサッと鞘を抜き放った。「キアン、そこをどけッ!」
「いやだ!」
「警告する。オレとおまえは、剣では勝負にならない。くたばりたいのか!」  ルーはゆっくりと二人に歩み寄る。「構えが全然なってないぞ、キアンッ!」
  大上段から振り降ろす。ガシャーンという濁った音とともにルーの剣はキアンが老戦士からもらった剣に、まるで柔らかな蛇のように巻きつき、絡み取って、空高く巻き上げた。 ルーは相手から目をそらすことなく落ちてきた剣を左手で受け止めると、二刀のきっ先をキアンに突きつけた。
  キアンは近くにあった丸太を拾って振り回した。ルーの二本の剣が目にも止まらない速さで閃いたかと思うと、丸太は一○数枚の薄い瓶敷きとなって地面に落ちた。
「無駄だな。おまえが弓矢で狩りをして遊び呆けていたあいだ、オレはずっと、ひたすら剣の稽古をしていたんだ」
  ルーはそう言いながら、片方の剣を地面に突き刺し置いて、片手で服を裂いた。そこにはローマ兵との稽古で打たれたと思われる、ま新しいみみず腫れが地図のように走っている。
「備えあれば憂いなし、というヤツだよ、キアン!」
  キアンは狩猟ナイフを、ブリジットは守り刀をすばやく抜いて逆手に構えた。
「おまえたちはローマ軍の恐ろしさも、死の恐さも、何もわかっていない。人間、死んじまったらお終いなんだ。ティルナノーグ(ケルト人の天国。常世国)なんかないんだ!」
  ルーはやみくもに剣を振り降ろしてきた。キアンはブリジットをかばいながら後退する。カキーンと鋭い音を立てて、ナイフは剣筋を受け止めた。ルーは先ほどと同じように、ねじって巻き上げようとしたが、うまくいかない…
「クソッ!」
  彼は右手の拮抗はそのままに、左手にある奪い上げた剣で切りつけようとした。が、その時、ブリジットが走り寄って取り押さえた。
「おのれッ!」
  ルーはいったん引いた。キアンはすかさず弓矢を持って射た。ルーは次々と放たれた矢を叩き落とした。キアンは二の矢を構えた。ルーは間合いを計りながら油断なく距離を詰めた。キアンの矢尻はルーの眉間を狙っている。
  ルーは何度も踏み込もうとして果たせな
かった。そのうちに東の地平線が淡く輝きはじめた。
「オレだってな、オレだってローマのやり方がいい、なんて思っていない。しかし、あと五○年続くか、一○○年続くか知らないが、オレたちが生きているあいだのローマの天下は、まず疑いなかろう。この朝日がおまえたちの見る最後の夜明けでないことを祈っているよ…」
  ルーはそう言い捨てると、奪い取ったほうの剣を投げつけた。剣はカーンと澄んだ音を残してキアンのすぐそばの立木に深く突き刺さった。それから彼は自らの剣を鞘に納めながら、ゆっくりと後じさって樹海の中に消えた。
  キアンはホッとして弓を下げた。
「やったじゃない!」
  ブリジットが顔を輝かせてはしゃぐ。しかしキアンは昨日からの疲れと、ホッとした途端に急に眠気が襲ってきたのとで、その場にへたり込んだ。
「せっかく罠を仕掛けたのに、ルーに見られた。苦労が水の泡だ…」
  不眠不休の疲れがドッとかぶさってきた。「いや、ルーは報告するかどうかわからないわ」
  ブリジットはポツリと言った。
「どうして?  報告するとすごい手柄になるんだよ!」
「なぜだかわからないけど、そんな気がするの…」  彼女はポーチからハッカの葉を取り出すと、キアンの手足にこすりつけて腫れを取った。「いまのうちに少し眠っておいたほうがいいわ。戦いが起きそうになったら起こしてあげる」
  ブリジットは子守歌を口づさんだ。キアンは生まれて初めて、女の子と肩を寄せあって眠った。

                4

  ケルト人でありながら、ローマに寝返り、いまは走り使いながら大隊長にまで出世したキーファー将軍は、戦そのものよりも、シーザーから命令のあった竪琴弾き・ブリジットを手にいれることのほうを心配していた。
  それだけに、信頼していたルーが手ぶらで戻ってくると、拳を握りしめてカンカンに
なって怒った。
「だから部下をつけてやろうと言ったではないか、たわけッ!」
  キーファーはルーを張り飛ばした。
「ま、まさかあれほど強情だとは思ってもみなかったのです。剣の前には弓や竪琴は簡単にひれ伏すだろうと…」
  床に倒れたルーは切れた唇を拭った。
「簡単にひれ伏さないから、こうやって戦争をしているのだ!」
  キーファーは土足でルーの頭を踏みにじった。
  そこへ幕僚たちを従えたシーザーが、真紅のマントを翻らせてやってきた。キーファーも身を縮めて膝まずいた。
「投石機と弩弓の使用は許可できない。従軍画家に描かせた、そのブリジットとかいう竪琴弾きの似顔絵を突撃部隊の兵士全員に回覧させろ」
「かしこまりました」
「久しぶりの白兵戦だ。期待しているぞ、キーファー!」
 シーザーが得意だった戦術は、陸戦では包囲戦、攻城戦、オーソドックスな集団歩兵戦などで、普段は、自軍の消耗の激しい白兵戦を極力嫌っていた。
  そのシーザーが自ら「白兵戦」と言う言葉を口に出し、彼の肩をポンポンとたたいて、そそくさと去った。それだけでキーファーの心は天にも舞い上がりそうになった。他でもない、シーザーがついに自分の名前を口にして呼びかけてくれたからだ。おまけに旗下の錚々たる将軍たちにも滅多に指示しない白兵戦をやれ、との命令だ。うまくするともっとしっかりと印象づけられるかもしれない。そのブリジットとかいう小娘を捕らえれば…
  角笛の音も高らかに、キーファーの外人部隊は出撃した。騎兵、弓兵、軽歩兵を中心としたおよそ三○○○人ほどの機動部隊だ。
「よろしいのですか。せっかくわが軍門に下ったケルト兵を多く失うことになりますが?」
  楼台の上、幕僚の一人がシーザーにささやいた。
「いつものように、投石機や弩弓で敵を十分痛めつけてから、盾で囲んだ重歩兵で押していけば被害は最少ですむものを」
「フフ、どうせ寝返った野蛮人…  餌代も高くつく。適当に数を減らしあってくれればありがたい」  シーザーは冷たくうそぶいた。「ここらで一つフルイにかけて、生き残った者を厚遇しようぞ…」
「さすがは閣下、『ブリジットを捜せ』というのはそのための方便なのですな?」
  側近の一人がはたと膝をたたいた。
「方便ではない。あの竪琴の音色をもう一度聞きたいというのは偽らざる気持だ」
  戦況を見つめるシーザーの目が細く鋭く光る…

  ローマ軍の進撃を見たキアンたちの村では、かねてよりの手筈の通り、倉庫や家屋にいっせいに火が放たれた。
  キアンたちは遠目に、自分たちが生まれ育った村がものすごい炎と煙を上げて焼け落ちるのを見た。たくさん貯えた穀物が燃える匂いは香ばしく、まるで神々への供物としての巨大なパンを焼いているかのようだった。
  主だった働き手がいない中で、自分たちが子供らしく遊ぶ時間も、勉強する時間も削って、苦労に苦労して育てた作物だ。
  キアンは矢も盾もたまらず主戦場のほうに走り始めた。と、いつのまにかブリジットが並んで走っていることに気がついて、あわてて立ち止まる。
「ダメじゃないか、ブリジット!」
「わたしも戦うわ、キアン」
「そんな、ダメだよ。すぐに殺されるか、つかまっちゃうよ!」
「昨夜のルーの言葉…ローマ軍の偉い人が竪琴弾きを捜している…というのが本当だったら、キャンプのみんなに迷惑がかかるわ。勇ましく戦って、華々しく討ち死にしようと思う」
「そんなのダメだよ。養父さんたちやぼくが万一不覚を取るようなことがあったら、最期まで勇敢だったとその竪琴で伝えて欲しいし、残されたみんなを慰めて欲しいんだ」
「そんなの勝手よ!」
「だってぼくは竪琴弾けないだろ?」
「わたしは負け戦なんか、伝え語りたくない。養父さんたちやキアンの最期を繰り返し歌わされるのに比べたら、いっそひと思いに死ぬほうがはるかに幸せだわ」
「じゃあ勝手にしろ!」
  キアンは彼女を引き離すべく、全速力で走ったが、ブリジットは遅れずにピタッと後をつけてくる。
  ゴウゴウと炎を上げて焼け落ちる村を背に、キアンとブリジットの養父に率いられた軍勢は勝鬨の声を上げた。門が開かれ、迎撃部隊の騎兵が砂煙を上げて出ていった。
  砂煙が収まると、彼らに続いて、部族に伝わる立派な鎧を着た馬上豊かな養父に率いられた本隊が静かに歩み出た。
「たわけ者ッ!  あれだけ理を尽くして諭したのにまだわからぬのか?」
  養父はキアンたちの姿を見つけて罵った。「でも養父さん…」
「黙れッ!  おまえたちはわれわれを犬死させたいのか?」
「ぼくはだれにも死んで欲しくない!」
  押し問答をしているあいだに、キーファーの先鋒部隊が、ケルトの騎兵を一騎、また一騎、斬り伏せながら進撃してきた。
「舞い戻ってしまったからには仕方がない。ひとつみんなの思い出に、キアン、おまえの弓の腕前を見せてもらおうか?」
  ブリジットの養父は自分がまたがっていた馬から降りて、代わりに乗るように勧めた。「ありがとうございます」
  その名馬は、戦いの興奮と、主人以外の乗り手に驚いて、いななき逆立った。ブリジットがすばやく駆け寄って手綱を取り、馬を静める。
「シッ、じっとしていてね!」
  馬上のキアンが弓を引き絞るのと心を同じくして、最前列に横一線に並んだ味方の弓手がいっせいに各々の弓を引き絞った。
「黒マントの騎兵だ。ぼくは一番前のヤツをやる!」
  キアンは叫んだ。みんなは驚いた。
「黒マントの騎兵?  そんなヤツ、どこにいます?」
  すると、はるか彼方に、黒いゴマ粒のような騎兵の集団が姿を現した。

「行けッ!  行けッ!」  敵将キーファーは声の限り部下を叱咤激励していた。「手柄を立てれば恩賞は思いのままぞ!」
「こんな楽な戦いはありませんな」
  キーファーと駒を並べていた副官はにこやかに言った。
「そうかな、わしは何か嫌な予感がする」
  キーファーは手綱を引いて、心持ち速度を落とした。副官は半馬身まえへ出た。
「閣下も心配症ですな!  敵は二○○とはいないのですぞ。一五対一でどうやったら負けるのです?  わたしは裏山に逃げた女どもをいたぶるのが今から楽しみで…」
  副官は最後まで言い終わらずに、キーファーの目前で胸を射抜かれて地面にたたきつけられた。
「!」
  改めて前方を見ると、自軍の先鋒が次々と矢の雨を受けて落馬している。乗り手を失い、腹に矢を受け、狂ったように軍馬がいななく。「歩兵は盾をかざして進めッ!」
  キーファーが命令するまでもなく、部下はみなそうしていた。敵を攫乱するための腕のよい騎兵のかなりの数を失い、歩兵は盾をかざしたせいで進撃のスピードは弱まった。

  ケルトの陣営では、みんながキアンの腕前に度肝を抜かれていた。
「キアン、少し早いようだが、この弓もおまえにやろう」  養父はそう言って、自分の弓を押しつけた。「わが部族の宝、その弓と、ブリジットの竪琴、敵に奪われるなよ!」
「はい、養父さん!」  キアンはキッパリと言った。「ブリジット、行ってくるよ。必ず生きて戻ってくる…」  彼はブリジットに小さいほうの弓を預けた。「援護を頼むよ。小さな女神さま!」
  ブリジットはコクリとうなづく 。
  キアンは馬に鞭を当てた。養父たちもいっせいに駒を進めた。すぐ横の馬上には、昨夜干し草置場で娘を抱いていた若者の姿もあった。雲霞のような敵の大群に顔色はすっかり青ざめ、目は焦点が定まらないくらいだ。
「死ぬなよ!」
  キアンは彼の背中を思いきりたたいた。
  みんなの出陣を見送ったブリジットは、竪琴を袋にしまって背中に背負うと、騎手がいなくなった馬を拾ってヒラリとまたがり、まるで競べ馬のように軽ろやかな手綱捌きで矢が飛び交い、敵味方が打ち合う戦場をくぐり抜け、キアンの駒に追いついた。



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